モンタペルティ現象5-1



冷戦後世界のモンタペルティ現象


米山  喜晟






はじめに


 筆者は前論文において、モンタペルティ現象の概念を歴史上ごく稀に発生する奇妙な現象から、敗戦に際して一般的に発生する現象へと拡張する作業を試みた。ただし、敗戦が「経済の奇跡」をもたらすほど積極的な成果を挙げた場合と、単に歴史的教訓を与えて安易な戦闘行為を抑制した場合とではあまりにもその性質が違いすぎるので、前者を「開放・発展型」、後者を「抑制・和平型」などといった形で区別すべきであるのかも知れないし、あるいはさらにもう一つ、前論文で指摘した、ほとんどの住民が敗北し服従した結果発生する「帝国完成型」というタイプをも加えるべきであるのかも知れない。ただし多くの場合、とりわけ前近代の戦争に関しては、敗戦が敗者にもたらす条件が苛酷すぎるために、そうした現象はほとんど発生に至らないか、カルタゴのように一応発生していても抹消されざるを得なかったという現実は、この現象を考察する際に常に銘記すべき事項である。おそらくこうした歴史的現実のために、特に開放・発展型のこの現象は、人々に注目されるほど頻繁には発生せず、その結果として今日まで完全に無視され続けたものと思われる。それとは逆に、幸運にも敗戦が本国から遠く離れた地点で生じたために、本国の潰滅をもたらさなかった場合に生じる「抑制・和平」型のモンタペルティ現象は、おそらく予想以上の頻度で発生していた可能性が高い。しかしその因果関係を客観的に証明することは、至難の技である。真に歴史にくわしい人々が、世界史全体に視野を拡大させて、さらにこれらの現象の新しい実例を一つでも多く指摘して下さることを期待したい。

❶ 拙稿『敗戦の効果・世界史の中のモンタペルティ現象』、国際文化論集・第42号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2010年、1~90ページ。(「百万遍第6号」所収)

❷ カルタゴの滅亡について、ローマ史の一部として記された書物は、塩野七生著『ローマ人の物語Ⅱ・ハンニバル戦記』、東京(新潮社)1993、その他。日米経済摩擦をめぐる危機感に基づいて、カルタゴ側から記されたのは、森本哲郎著『ある通商国家の興亡・カルタコの遺書』、京都(PHP研究所)1989、特に189~206ぺージの「奇跡の経済復興」。


 現在私たちに残されているのは、冷戦後の世界といわれる今日の世界にモンタペルティ現象が発生しているのかどうか、発生しているとすればどのような形で発生しているのか、という問題である。私たちの常識では、一応冷戦は東側陣営が崩壊したために終結したとされていて、モンタペルティ現象は敗戦の結果発生するものなので、もしもその原則通りにモンタペルティ現象が発生しているとすれば、ソ連や中国など東側諸国の間で発生しているはずである。ただしこの場合、単純に原則が当て嵌まらないことは、だれの目にも明らかである。なぜなら冷戦が終結する際に、他国と戦闘して敗北した国は存在していないからである。すなわち冷戦はあくまで東側陣営の体制の崩壊という形で終結したのであり、冷戦終結の最中に国家間、特にそれまで東側諸国が敵視してきた西側諸国との間では戦闘らしい戦闘が生じておらず、いずれかの国の勝利あるいは敗北という形では終わっていないからである。それどころか、かつて東側陣営に属した国々の中には、独裁体制そのものは崩壊していない国も結構多い。また東側諸国の体制の崩壊自体、ルーマニアで発生したクーデター騒ぎのようなごく稀な例外を除くと、ベルリンの壁が崩壊した時のような熱狂はあったとしても、ほとんど流血沙汰さえ伴うことなく、平和理に進行したもののように記憶されている。ただしソ連やユーゴスラヴィアのように、体制の崩壊が国家の解体を伴った場合、民族間や宗教間の戦闘が勃発して、今日も深刻な影響を残している。ともかく体制の崩壊は通常の敗戦とは認め難く、当然既成の概念に基づいて原則通りの形のモンタペルティ現象を探し求めることはできない。

❸ ソ連とモンゴル、東欧諸国やアフリカの国々では体制が転換したが、中国、ヴェトナム、北朝鮮、ラオス、キューバなどでは一党独裁体制がそのまま続いている。

❹ 塩川伸明著『《20世紀史》を考える』、東京(勁草書房)2004、第2篇、5.社会主義・その栄光と悲惨、の注(11)に、旧ユーゴスラヴィアや旧ソ連で発生した流血の紛争は民族紛争であり、「体制転換それ自体が大規模な衝突と流血を伴ったのは、ルーマニアだけといってよい」と記されている。

❺ まさにこうした事態を予言した著書が、サミュエル・ハンチントン著、鈴木主税訳『文明の衝突』、東京(集英社)1998であった。


 しかしだからといって、冷戦後世界にはモンタペルティ現象が全く発生していないのであろうか。アメリカとソ連を盟主とする東西両陣営の国々の間で、時には第三次世界大戦も懸念されるほどの対立が続いていたことや、中国大陸を皮切りに、朝鮮半島やヴェトナムなどでは本物の戦闘が行われたことも事実であった。このように、時には本物の戦闘を伴った緊張状態が半世紀近く続き、それが一方の陣営の崩壊で終わった以上、当然何らかの大きな影響が生じているはずであり、たとえ原則通りのものではなくても、いずれかの国にモンタペルティ現象に類した現象が発生していたとしても不思議ではない。すでに前論文で指摘したとおり、敗戦が一つの国家や民族に潰滅的な打撃を与えるに至らなかった場合には、むしろ様々な好ましい影響を与えることも稀ではなかった。だから冷戦の場合でも、従来の敗戦の概念からは大きく逸脱しているとはいえ、冷戦状態の終結が敗北したと見なされている東側陣営の国々に、きわめてユニークな形のモンタペルティ現象をもたらしている可能性は否定できないのである。

❻ アジアでは広い地域が植民地化もしくは半植民地化していたために、独立を達成するためにはまず外国の軍隊と戦うことが不可避であった。


 そこでもしもそうした現象が発生していると仮定した場合、いわばこのようにきわめて変則的なモンタペルティ現象を把握するためには、当然それにふさわしいアプローチの方法を構築しなければならない。そのためには、まず二つの側面から作業をすすめることが必要である。その一つは当然冷戦そのものの経緯について理解することである。冷戦と一口で言われているが、ソ連軍に占領された東欧諸国およびその周辺部で進行していたものと、しばしば実際の戦闘を伴ったアジア諸国やキューバなどで進行したものと、さらにアフリカや中東地域で進行したものとでは大いに性格が異なっていることも事実である。したがって各々の国がいかなる経緯で東側陣営に加わったかを知ることが、まず不可欠な作業である。もう一つは、敗戦後にモンタペルティ現象が発生するための条件を確認し直すとともに、冷戦後という状況に適用するためにその条件を修正することである。以上二つのアプローチを行うことによって始めて、冷戦終結後におけるモンタペルティ現象発生の有無を検討することが可能になるであろう。

❼ 東側陣営といってもその性格は様ざまであり、東欧とアジアとでは性格が大きく異なっていたことは、冷戦後の運命にも大きく影響している。


 ところで、かつて東側陣営に属していた国々の言語を全く知らない人間が、それらの国々について論じることがいかに無謀な試みであるかは、筆者も十分理解しているつもりである。それにもかかわらず、筆者が敢えてこの問題を論じるのには、以下のような理由がある。

 第一の理由は、冷戦終結後の世界について筆者のような視点から論じる意志のある人を、当面いかなる分野にも期待できないことである。すでに筆者の前論文でも記したとおり、少なくとも筆者が探した限りでは、敗戦がもたらす積極的な効果一般について、これまでまとまった形で論じた著書を一冊も見付けることができなかった。まして時として敗戦がもたらすことがある特異な効果、すなわち筆者が開放・発展型のモンタペルティ現象と呼んだ事例については、これまで筆者以外の誰かによって指摘されたことや、論じられたことは一度もなかった。だがすでに筆者が著書や論文にを通して何度も指摘してきたとおり、敗戦が敗北した国家ないし集団に対してプラスの効果を与える場合が存在することは明らかであり、他にそうした試みが全く行われていない以上、筆者自身がその考察を続けることは許されるのではないかと判断したのである。

 第二の理由は、すでに何度も行った論証からも明らかな通り、モンタペルティ現象の有無を検証するために必要な資料とは、決して一部の権威者だけが利用できる極秘の文献などといった性質のものではない、という事実である。むしろこの現象の有無を明らかにするためには、敗戦から復興にかけて発生した事実を記した概説書や年表、あるいはその後の貿易量の変化や国民総生産に関する統計などといったごく基本的な事実に関する資料の方が重要なのである。したがって資料を原著では読めないというきびしい語学上の制約があることは確かだとしても、かつての東側諸国の文献の多くが日本語あるいは英語に翻訳されている今日の状況を考慮すると、一応日本語と英語を読むことが可能な人間には、この作業に加わる資格があるものと見なし得るのではないだろうか。ただし、できればこれまで筆者が行ったさまざまな推測の場合と同様、そうした分野を専門としておられる研究者によって、専門家の立場から筆者が行った推測をきびしく検証していただくことを希望しておきたい。

 第三に、現代の世界を知るために、この現象がきわめて有効な独自の切り口を与えてくれるものと、筆者が信じているからである。すでに筆者は前論文において、帝国完成型のこの現象が、いくつかの世界文明の成立のために貢献している可能性があることを指摘したが、現代におけるこの現象の影響について全く触れなかったとしたら、まさに絵空事を描いただけに終わってしまうであろう。さらにかつて筆者は、人権という観念が確立されておらず、場合によっては勝者が敗者の生殺与奪の権を握り得た近代以前の時代に比して、一応人権や国際法上の様々な概念が定着しつつある近代以降の方が、モンタペルティ現象は発生しやすいのではないかという推測を記したが、冷戦後の時代とは、国際連合も国際司法裁判所も曲がりなりに機能している現代のことだから、モンタペルティ現象はさらに顕著に発現していることが予想されるのであり、もしも冷戦後の世界にモンタペルティ現象が全く認められないとしたら、筆者の推測は完全に外れたと認めざるを得ないであろう。だから過去の推測を確認するためにも、むしろ筆者には、冷戦後世界のモンタペルティ現象を検証しておく義務があるとさえ言えるのではないだろうか。

❽ このことについて私はすでにこれまで何度も指摘してきたが、その一例は、拙稿『「モンタペルティ現象」試論』、国際文化論集・第39号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2009、178~9ページに見られる。(「百万遍第3号」所収)


 以上のような次第で、筆者が本論において取り組むのは、冷戦後の世界におけるモンタペルティ現象である。すでに見たとおり、冷戦は明らかに普通の同盟戦争とは異なっていた。たしかに本物の戦争も伴ってはいたが、多くの場合大国同士の睨み合いであり、実際の戦闘抜きで進行するのが普通であったために、「冷たい戦争(The Cold War)」と呼ばれていたのである。

❾ 「冷戦」という言葉は、1988年版の平凡社『世界大百科事典』、第30巻、86ページによると、国際連合原子力委員会アメリカ代表B.M.バルークが1947年の講演で用いた時から、あるいは同年の後半にW.リップマンがアメリカ外交を批判した書物の標題に用いた時から一般化したとされている。


 そこでまず第一章では、冷戦の実態を明らかにするために、いわゆる東側陣営の形成とその後の展開および崩壊までの過程を概観し、それぞれの国の特性を把握する。

 続く第二章の前半の部分で、通常の国家間の戦争の敗戦の場合に、開放・発展型のモンタペルティ現象が発生するために必要な条件と考えられるものを整理する。続いてそれらの条件を冷戦の終結に適用するためにはいかなる修正が必要であるかを考察し、冷戦後世界に適用することが可能な条件を設定する。

 さらに第二章の後半において、第一章で行った東側陣営の形成過程の経緯の概観に基づき、約20カ国のそれぞれに関して、冷戦後のために修正された条件に合致するかどうかを吟味し、合致する国々を選抜する。

 そして第三章では、第二章で選抜された国々について、実際にモンタペルティ現象が発生しているかどうかを個別に検証し、もしも実際に発生している国々が判明した場合には、その発生状況がいかなるものであるかを明らかにしておきたい。


* この論文は、桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第43号』(2010年12月24日発行)より転載したものです。(編集部・記)




第一章 東側陣営はいかに形成されたか


 冷戦は明らかに普通の戦争とは違う。したがって普通の戦争の場合に通用する論理が、そのまま通用するわけではない。だから冷戦後のモンタペルティ現象について論じる前に、まず冷戦とは何であったか、また崩壊した東側陣営がどのように形成されたか、そして各々の国がその中でいかなる役割を演じていたか、を知ることが不可欠である。本章はそうした問題を扱う。

 当然のことながら、冷戦は普通の同盟国同士が対峙し合う状態ではなかった。周知の通り第一次大戦の前には三国同盟と三国協商とが睨み合っており、第二次大戦では、日・独・伊の三国およびそれに追随したいくつかの国家に対して、それ以外の国々が戦ったが、冷戦の場合に東側陣営を形成した国々の集団は、それらの国家群のいずれとも異なっていた。その最大の違いは、東側諸国の異常に高い均質性にあった。第二次大戦の場合には、一応ファシズム国家群に対して、世界の他の国々が戦ったとされているが、ファシズム国家と呼ばれた日・独・伊の三国同士を比較すると、たまたま戦時中という時点では総動員体制の軍国主義国家という類似性は認められたものの、元首ひとつ取っても天皇、総統、国王とその性格はばらばらであり、これら三つの国々は支配体制から統治の仕組みその他、多くの点で異なっていた。肝腎のファシズムに関してですら、イタリアのファシズム研究の第一人者デ・フェリーチェは、イタリアやドイツのそれとの大きな差異のために、日本やアルゼンチンなどの支配体制を、ファシズム体制とは認めていない

❶ レンツォ・デ・フェリーチェ著、藤沢・本川訳『ファシズム論』、東京(平凡社)1973、30ぺージ、注23、でデ・フェリーチェは「私見によれば、両国とも正確な意味でのファシズムがあったとは考えられない」と記している。もちろんそのまま受容すべきだというわけではないが、戦後の一時期のように保守勢力を安易にファシストと見なすことは許されないであろう。


 こうした日・独・伊三国同盟の国々の異質性に較べると、第二次大戦後の冷戦において東側陣営に加わったか、あるいは加わらせられた国々は、何と明瞭な均質性を備えていたことであろうか。それらは共通してマルクス・レーニン主義を信奉する独裁政権によって統治され、少なくともある時期までは一枚岩をほこり、建前としてソ連の指導の下で行動を共にするという方針を堅持していたからである。それに対して、西側諸国と総称される国家群は、立憲民主主義国家から様々な君主国、そしてクーデターで成立した独裁国家まで、多種多様な国々で成り立っていた。冷戦が発生した理由は、このように均質的な国家から成る東側陣営が一時期急激な膨張を示したために、その他の国々の警戒心を引き起こしたためであった。もちろんそのような事態が自然に発生するはずはなく、人為的な工作の結果である。すなわち東側陣営が種々雑多な西側諸国のいずれかをマルクス・レーニン主義を信奉する独裁国家に改めようと工作していたのに対し、西側陣営が東側陣営の拡大をくい止め、東側諸国の内の一つでも西側陣営に引き戻そうと工作していたことが、1940年代に始まった冷戦の基本的な構図であった

❷ そのための機関として、1947年に設立され56年まで存続したコミンフォルムが存在し、日本共産党の党内論争に介入したこともあった。『世界百科事典』第10巻、497ページ、「コミンフォルム」の項。

❸ たとえばM.L.ドックリル・M.F.ホプキンス共著、伊藤裕子訳『冷戦1945~1991』の「はじめに」および参考文献には、冷戦に対する様ざまな見方が簡潔に紹介されている。

 

 冷戦は東側陣営の崩壊で終わったが、冷戦の構図が明らかになった当初は、マルクス・レーニン主義体制の批判者にとって、展望は決して明るいものではなかった。そうした当時の精神風景を証言しているのが、1948年に完成されたイギリス人作家ジョージ・オーウェルの『1984年』である。インドで生まれビルマで警官を勤めて英国植民地主義の弊害を身をもって体験し、社会主義者としてスペインの内乱に人民戦線側から参加したという経歴の持主が行ったソ連型の全体主義体制批判であるだけに、この作品の影響は大きかった。J.L.ガディスは、その著書『冷戦その歴史と問題点』 の序章をオーウェルの著書が書かれた状況から書き始めているが、冷戦が始まった当時の世界の精神風景の証言として、最も適当なものだと判断したために違いない

❹ 1949年に刊行された、ビッグ・ブラザーという神格化された独裁者の支配が貫徹している、全体主義国家の悪夢のような状態を描いた逆ユートピア小説。なおオーウェルに関する記述は、1988年版の平凡社『世界大百科事典』第4巻、16ページの「オーウェル」の項による。以下の『世界大百科事典』からの引用は、同じ版のものである。

❺ J.L.ガディス著、河合・鈴木共訳『冷戦その歴史と問題点』、東京(彩流社)2007。

❻ 同上9~11ページ。


 一時期は世界を二分するほどの勢いを誇った東側陣営ではあるが、その起源は決して古くはなく、その中心となったソ連ですら、1917年、第一次大戦の敗戦をめぐる混乱の中で誕生したものに過ぎない。日露戦争に敗北して重傷を負っていたロシア帝国は、それでも汎スラブ主義の盟主として汎ゲルマン主義のドイツ帝国に対抗し、三国協商に加わってドイツを牽制していたが、第一次世界大戦が始まると、近代化されていたドイツ軍の猛攻に耐えられず国家が破綻、1917年の二月革命において皇帝ニコライ二世が退位、ケレンスキーを首班とする政権が発足したものの、ドイツ相手の敗戦を決断できないでいる内に、レーニンらボリシェヴィキによる十月革命が勃発し、レーニンをリーダーとする独裁政権が発足した

❼ 以下のレーニンに関する記述は、主にH・カレール=ダンコース著、石崎・東松訳『レーニンとはなんだったか』、東京(藤原書店)2006、に負うている。


 レーニンはマルクスの共産主義革命の思想を受け継ぎ、マルクスが唱えたプロレタリアート独裁という方針に基づいて、当初から前衛党による一党独裁の方針を堅持しており、憲法制定会議のために行われた選挙の結果を無視して握りつぶしてしまった。また暴力の行使に関してもマルクスに忠実で、断固としてこれを支持しており、たとえばニコライ二世らロマノフ王朝の一族の処遇に関してトロツキーが裁判を希望したのに対し、「ロマノフ王朝の人間を一人残らず、つまり優に百人あまりを皆殺しにする」という方針を支持し、その提案は1918年7月16日に実行されて誰一人として死を免れなかった。レーニンが主張するような一党独裁体制を採用した場合、当然その党派に反対する党派が発生し、また同じ党派内にも必ず批判勢力が発生するが、これに対してもレーニンは早くも1917年12月の時点でジェルジンスキーに「反革命、破壊活動、投機と戦うための全ロシア臨時委員会」を組織させ、チェカーと呼ばれるこの秘密警察の組織は後に悪名高いGPUに改組され、その後も何度か名前や組織を改めながら、ソ連が崩壊するまでの年月を通して、多数の人々を処刑したり、強制収容所に閉じ込めたりして、ソ連の恐怖政治のシンボル的存在であり続けた

❽ 同上、359~373ページ。1917年11月26日の憲法制定会議の議員を決める選挙では、社会革命党が1700万票で全体の40%獲得したのに対し、ボリシェヴィキは1000万票そこそこ、24%しか獲得できず、全702議席中、社会革命党が419議席、60%を占めたのに対し、ボリシェヴィキは168議席、それに社会革命党左派の40議席を加えても208議席に過ぎず、全議席の3分の1以下の少数派に過ぎなかったが、レーニンはこうした国民の意志を無視して、第三回労働者・兵士ソヴィエト大会を真の人民議会だと見なした。

❾ 同上、434ページ。レーニンがマルクスの暴力革命思想に心酔していたことを証言している箇所は他にも多い。

❿ 同上、390ページ以下。さらにサイモン・セバーク・モンテフィオーリ著、染谷徹訳『スターリン・赤い皇帝と廷臣たち』、上・下、東京(白水社)2010、や亀山郁夫著『大審問官スターリン』、東京(小学館)2006など、あるいはソルジェニツィンや米原万里の小説は、秘密警察の恐怖の証言である。


 こうした強引な政策に対して、当然国の内外から反革命の動きが発生し、ロシア帝国の軍人らに指揮された白軍が蜂起し、さらに英・仏・日・米軍など外国の軍隊が攻め込んだが、これに対抗するため強力な赤軍を組織して戦うと同時に、1918年の半ばから21年初頭にかけて戦時共産主義体制を採用、工業の大半を国有化し、農業集団化をすすめ、食糧割当徴発制と配給制、全般的労働義務制などを強行して危機を乗り切り、ソヴィエト連邦を確立した⓫。内外の敵が消えて国家が安定すると同時に生産力が著しく低下し、国民の不満は農民の蜂起や水兵の反乱として爆発した。革命政府はやむなく1921年3月にネップという略称で知られる「新経済政策」を採用して、戦時共産主義を修正し、食糧徴発制を現物税にあらため、現物税支払い後農民の手元に残る穀物の自由処分を認めた。また工業に関しても一部小企業の国有化を解除し、国有の大・中企業でも独立採算性の原則が採用されて、資本主義的性格をおびた市場経済の復活が許された。こうした修正と1924年の通貨改革によって、ソ連の経済は1925~26年までにようやく大戦前の水準を回復するに至る⓭。

⓫ カレール=ダンコース、前掲書、424ページ以下、および『世界大百科事典』第16巻、79ページの「戦時共産主義」の項参照。

⓬ カレール=ダンコース、前掲書、548ページ以下、および『世界大百科事典』第22巻、72ページの「ネップ」の項参照。

⓭ 同上の「ネップ」の項による。


 こうしてネップの成果が現れ始めていた1922年の5月、レーニンは最初の脳卒中で倒れ、10月には職務に復帰したものの、12月に二度目の発作に襲われる。二度目のそれは4月以来共産党書記長の座にあったスターリンとの間に、グルジア問題に関する摩擦が生じた直後のことで、1923年1月、ふたたび回復したレーニンはスターリンの排除を要求する覚え書を記すが、それを実行するにはすでに衰弱し過ぎていた。そして同年3月10日、三度目の発作に襲われ再起不能の病人となり、その10ヵ月後の24年1月21日に死去した。スターリンはレーニンの遺体に永久保存の処置を施し、彼を神格化して自らその司祭長となり、個人崇拝という将来の東側諸国のための強力な武器の一つを発明した。神学校で学んだことのあるスターリンにとって、こうした民衆の信仰心を利用するやり方は、他のいかなるライバルよりも得意な分野だったに違いない。 こうしてレーニンは最晩年におけるスターリンとの確執や、ネップによってソ連経済が蘇生しつつあった時期に死去したことなどのおかげで、フルシチョフが浴びせ掛けたスターリン批判の泥水をまともにかぶることはなかったようである

⓮ カレール=ダンコース、前掲書、599ページで示されたレーニンの覚え書参照。

⓯ 亀山郁夫、前掲書、第1章、22ページ以下の「レーニン葬」の節参照。

⓰ ウィキペディアの「スターリン批判」の項によると、1987年11月、在任中のゴルバチョフが、ロシア革命70周年記念式典の際にスターリンを批判し、スターリン主義の元凶としてレーニンをも批判したとされているので、ソ連ではこの頃までレーニンは公式には批判されていなかったもののようである。カレール=ダンコースは、前掲書の434~435ページにおいて、レーニンがロマノフ一家の皆殺しを隠そうとしたこととともに、赤色テロルを何度も指示しておきながら、彼の指示の大部分は隠密裡に行われるという陰険な態度を取り続けた結果、「善良なレーニン」の神話が形成され始めたことをも指摘している。


 しかしH・カレール=ダンコースの『レーニンとは何だったか』という著書は、すでに見てきた通り、暴力革命の推進、容赦なき大量処刑、前衛党による一党独裁、その際における選挙結果等の国民の意向の無視、独裁政権に対する批判者の粛清または強制収容所送り、それを実行するための秘密警察の設立、そして外国の共産党を一致団結させ世界革命を進めるための組織であるコミンテルンの設立等々、後にフルシチョフが批判したスターリンの統治に駆使された手法の大半は、実はレーニンによって企画され、彼が最大の権力者であった時代から実行されていたという事実を詳細に論証しており、ほとんどそのまま受け入れざるを得ないように思われる

⓱ ただしレーニンの時代には革命戦争が行われていて、赤色テロルもそうした戦いの一部であったという事実は無視できない。レーニン自身も銃撃を受け、暗殺寸前の目にあっていた。またレーニンの時代には党内で議論が可能だつたが、スターリンの時代が進むと自由な議論は不可能になった。なおコミンテルンは、1919年3月に、第1インターナショナル(1869~76)、第2インターナショナル(1889~1914)に続く第3インターナショナルとして創設を決議されたが、ロシア革命がヨーロッパ革命に発展する期待が消えたとき、レーニンらが、ロシアを支柱として、鉄の規律を持つ中央集権的な、一枚岩的国際革命組織の結成を決意した結果誕生した。1943年5月解散。『世界大百科事典』第10巻、495~97ページ、「コミンテルン」の項参照。


 すでに見たとおり、強運と陰険かつ着実な実行力によって生き延びたスターリンは、まず党内の右派、穏健派と組んでネップを推進しつつ、トロツキーという恐るべきライバルとその仲間を党内で孤立させて追放、あるいは粛清する。続いて20年代の末から30年代にかけて、共産主義化における重大な後退だという理由でネップからの転換を試み、現実路線を求める右派と決別、革命以来の同志の多くを粛清するか、さもなければ強制収容所に追いやっている。共産主義という理念は、権力者が政敵を倒すためのまことに便利な武器であった。こうして、マルクス・レーニン主義の一党独裁体制下においては、必然的にその中心人物にのみ権力が集中することになる。さらに普通選挙を採用していないこの体制では、権力者による独裁政治は彼が死ぬまで継続することになる。それはまさに恐怖政治そのものである。同様の事態は、東側陣営の多数の国家において出現した。さらにスターリンは、まだネップを支持していた1924年、亡きレーニンに由来する理論だとして、「一国社会主義」を提唱する。これは世界革命を待たなくても、ソ連一国のみで社会主義を実現することが可能だとする説であり、この時期革命運動の潮流が世界的に低調になり、マルクスの予言に基づいて期待されていたドイツ革命が遠のいたという現実に対応するための理論であった

⓲ 1956年2月、第20回党大会でソ連共産党第一書記のフルシチョフが行った秘密報告の中で、1934年第17回党大会で選出された中央委員、同候補139人の内、70%にあたる98名が主に大粛清の際に処刑され、また同大会の全代議員1966名の内1108名が同様の運命をたどったことと、彼らに科せられた「反革命」の罪状は、その大半が濡れ衣だったことが暴露されている。

⓳ フランソワ・フュレ著、楠瀬正浩訳『幻想の過去・20世紀の全体主義』、東京(バジリコ)2007、212ページ以下。

⓴ 同上、200~207ページおよび213ぺージ。


 すでに戦時共産主義の試みで見たとおり、資本主義を脱却する試みには大きな困難が伴ったが、スターリンは1920年代の末から30年代にかけて、農業の集団化や5カ年計画に基づく重工業の推進などを断行、社会主義化に向けて前進した。ソ連にとって幸運だったのは、資本主義克服のため苦闘し始めたまさにこの時期に、世界大恐慌が発生したことである。1929年10月24日、それまでひとり繁栄を謳歌していたアメリカのニューヨークの株式市場が大暴落し、およそ1万行の銀行が閉鎖され、1933年には失業率が4人に1人にまで高まった。恐慌はアメリカ一国に止まらず、1931年にはオーストリア最大の銀行を倒産させるなど、ソ連を除く世界全体に波及し、資本主義に対する信頼を失わせて、早晩資本主義は行き詰まるとしたマルクスの予言を信じる人々の数を増やした。それと同時に、大恐慌への対策として世界経済のブロック化が進行した結果、植民地に恵まれないドイツ、イタリア、日本などの危機感を高めて、それらの国々のファシズム化を助長、とりわけ深刻なインフレ体験の後に、アメリカの協力によって辛うじて小康状態を保っていたドイツのワイマール共和国は、アメリカ経済の崩壊とともに命脈を断ち切られ、怒れるドイツ人たちによって、1933年ヒトラーが率いるナチス・ドイツ体制が選択された


㉑ 同上、231ページ以下。『世界大百科事典」第16巻、576~577ページ、の「大恐慌」の項。

㉒ 同上、576ページ。および木村靖二編『ドイツ史』、東京(山川出版社)2001、303ページ以下に大恐慌時代のドイツが描かれる。 


 他方イタリアでは、第一次大戦後の左翼勢力の台頭に対する危機感から、1922年という早い時期に元社会党員ムッソリーニが率いるファシズム政権が誕生していて、次第に独裁の度を強めながら、ヒトラーたちドイツのファシストを支援し続けており、ヒトラー政権が成立すると両者は枢軸を結成し、周辺国のファシスト党員を指揮して、ファシズムの拡大を推進した

㉓ ムッソリーニとヒトラーの関係は、アンドレ・フランソワ=ポンセ著、大久保昭男訳『ヒトラー=ムッソリーニ秘密往復書簡』、東京(草思社)1996、におけるポンセの解説で紹介されている。


 フランソワ・フュレ著『幻想の過去・20世紀の全体主義』は、フランス革命史研究の権威が、ソ連を発祥の地とするマルクス・レーニン主義と、イタリアやドイツで信奉されたファシズムとを、20世紀の二大全体主義として比較しながら、その運命を追及した著書である


㉔ フランソワ・フュレ著、大津真作訳『フランス革命を考える』、東京(岩波書店)2000、およびその訳者あとがきで、フュレのフランス革命研究が紹介されている。なお本論では以後この著作を引用しないので、フュレの前掲書とは 注⓳ の著書を指している。


 フュレは、前者は(1)フランス革命の伝統を継いでいると一般に見なされていたことと、(2)19世紀の大思想家マルクスの権威に裏付けられていたことという二点によって、後者よりも有利な立場にあったと見なしている。さらにフュレは、いずれも劣らぬ全体主義的イデオロギーであり一種の幻想に過ぎなかったにもかかわらず、マルクス・レーニン主義という幻想に対しては、世界の人々、特に知識人は好意的であり、スターリン時代のソ連の現実を知っている人々がいくらその実態を語っても、世間から重大視されることはなかったという状況を明らかにしている

㉕ フュレ、前掲書、48~49ページ。

㉖ そうした一例として、フュレ、前掲書、217~220ページに、パナイト・イストラーティ、ヴィクトル・セルジュ、ボリス・スヴァーリンらが1929年にパリで出版したソ連告発の三部構成の書物が、読者として期待されていた左翼の大衆から完全に無視されたことが記されている。


 世界大恐慌の到来と、強力なファシズム国家ドイツの出現によって、ヨーロッパの情勢は一挙に緊迫した。ナチス・ドイツの攻勢を警戒したスターリンは、それまでの一国社会主義路線から人民戦線路線に転換し、コミンテルンを通して各国に働きかけたために、ヨーロッパにおけるソ連への期待は一挙に高まり、たまたま1936年に発生したスペインの内乱では、人民戦線とファシストとが正面から戦ったが、ファシストが支持したフランコが勝利している。英国などによるヒトラー宥和政策はすべて裏目に出て、ヒトラーはオーストリアを併合し、チェコを解体した。スターリンはソ連が単独でドイツの標的になることを恐れ、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結した。ドイツは同年9月1日、ポーランドに攻め込み、これにはさすがの英国も放置し得ず、フランス、オーストラリア、ニュージーランドとともに同月5日、ドイツに対して宣戦布告を行い、第二次大戦が始まった。この時ソ連は独ソ・ポーランド分割協定に基づき、ポーランドに攻め込んでその領土をドイツと分けあった。さらにソ連は同年11月にフィンランドを侵攻、翌年の8月にはバルト三国を併合するなど、領土拡大のために積極的な動きを見せている。ドイツは大戦の開始後半年あまり過ぎた1940年の4月から突然活動を活発化し、電撃作戦によって英・仏軍を分断、ダンケルクから連合軍を英国本土に追い払うと、6月にフランスは降伏し、ドイツはベネルックス三国とフランスを4年間以上占領したが、同年7~8月、英国はチャーチル首相の戦時挙国一致内閣の下でドイツ軍の侵入を撃退し、英・独両国間の戦争は長期戦に移行した

㉗ フュレ、前掲書の369~393ページ(第7章、IV節)は、スペイン市民戦争を扱う。

㉘ 以下の特に年月に関する記述は、主に『世界大百科事典』第17巻、46~56ページの「第二次世界大戦」の項に負うている。

㉙ 同上、52~53ぺージ。

㉚ この時のソ連は独ソ不可侵条約の秘密議定書によって行動しており、ドイツの共犯者に近かった。

㉛ 注㉘、54ページ。


 大戦開幕直後に中立宣言を行ったはずのイタリアは、ドイツ軍の快進撃に釣られて同年6月、英・仏両国に宣戦布告し、バルカン半島とギリシャ、北アフリカに手をひろげたが、いずれも英国や侵入した相手国の抵抗のために思わしい結果が出せず、ドイツ軍の支援を受けねばならなかった。しかしその結果バルカン半島をほぼ制圧してヨーロッパの大半を支配下においたドイツは、1941年6月、ソ連との不可侵条約を破ってバルバロッサ作戦を展開、電撃戦によりソ連を一気に席巻しようと試みた。当初スターリンの油断が災いしてソ連軍は退却を重ね、ドイツ軍はバルト三国やソ連の領土の奥深くまで侵攻し、10月上旬には首都モスクワの近郊40キロにまで迫り、レニングラード(サンクトペテルブルグ)を完全包囲したが、ソ連にはナポレオンをも倒した冬将軍という強力な味方がいたため、ヒトラーも厳冬の到来とともにモスクワ攻撃を中止せざるを得なかった

㉜ 同。およびシモーナ・コラリーツィ著、村上信一郎監訳、橋本勝雄訳『イタリア20世紀史・熱狂と恐怖と希望の100年』、名古屋(名古屋大学出版会)2010、第6章、207ページ以下。

㉝ 注㉘、54ページ。

㉞ 同上。この作戦については、アンドリュー・ナゴルスキ著、津守滋監訳、津守京子訳『モスクワ攻防戦・20世紀を決した史上最大の戦闘』、東京(作品社)2010、がくわしく、なぜヒトラーの二正面作戦にドイツの軍部が反対できなかったのか、についても言及されている。またリデル・ハート著、岡本訳『ナチス・ドイツ軍の内幕』を出典とする、ドイツ軍の有力な敗因の一つをロシアの道路事情の極端な悪さに求めた説などが興味深く、かつ参考になるものと思われる。なおフルシチョフのスターリン批判の秘密報告の一項目に、スターリンが油断していて戦争の準備を怠ったことと優秀な軍人を多数粛清したために、大祖国戦争の緒戦でソ連が苦境に立ったことが挙げられている。


 1940年9月に日独伊三国同盟を結んでいた日本は、すでに膠着状態に陥っていた対中戦争の打開を目指して、1941年12月米英両国に対して宣戦布告、同時に奇襲攻撃を開始した。こうして大戦に加わる機会をうかがっていたアメリカは、自動的に参戦することになった。しかし長年にわたる対中戦争で消耗していて資源も乏しい日本は、最初の半年あまりはアメリカの油断に乗じて目覚ましい戦いぶりを示し、太平洋上とその周辺部を幅広く占領したものの、資源にも工業技術にも恵まれたアメリカ軍の敵ではなく、1942年6月のミッドウェーの敗戦を境に太平洋正面の制海権と制空権を失い、さらに同年8月から翌43年2月まで続いたソロモン諸島をめぐる消耗作戦(ガダルカナル作戦)に敗れて致命的な打撃を受け、その後は米軍の物量作戦の前に敗北を重ね続けた

㉟ 注㉘、54ぺージ以下。

㊱ この奇襲攻撃がアメリカの世論をまとめるのに絶大な効果があったことは確かである。そのためルーズヴェルトは日本軍の奇襲を知りながら放置したとする陰謀説が根強く語られているが、アメリカにとってはドイツの同盟国である日本からの挑戦だけで、アメリカ自体が参戦せざるを得ないはずだから、ハワイにいるアメリカ海軍を犠牲にしてまで、それ以上の効果を求める必要はなかったのではないだろうか。

㊲ 宮地正人編『日本史』、東京(山川出版社)2008、480~482ページ。


 1942年春、ドイツは再び攻勢に乗り出し、カフカスの油田地帯に侵攻、スターリングラード(ヴォルゴブルグ)をめぐって同年9月から翌年2月まで続いた攻防戦が始まった。このころからアメリカの援助物資が届き始めた上に、間もなく二度目の冬将軍が到来、11月には攻めていたはずのドイツ軍33万が、各方面から集結したソ連軍によって包囲され、1943年1月末にパウルス将軍は残兵約9万とともに降伏、2月2日に戦闘が終結した時点でドイツ兵の死体約15万が放置された。この戦いが独ソ戦争の天王山だったと見なされていて、以後ソ連軍は7月のクルクス大戦車戦に勝利するなど、次第にドイツ軍を掃討して西進を続けた

㊳ 『世界大百科事典』の第15巻、58ページの「スターリングラード攻防戦」の項。


 連合軍が1943年7月、比較的脆弱なシチリアから侵攻すると、イタリアのファシスト大評議会はムッソリーニを解任、続くバドリオ内閣が連合軍と休戦してファシスト党は解散したものの、イタリア駐留中のドイツ軍はローマを占領して抵抗、抑留されていたムッソリーニを救出して北伊のサローに彼を首班とする傀儡国家イタリア共和国を建国するなど頑強に抵抗、連合軍の北上を1945年4月というドイツが降伏する直前まで食い止め続けた。イタリアに侵入した連合軍は、このように南欧の一部の解放に貢献しただけで、ソ連が待望していた西側からの第二戦線が結成されるには、ノルマンディー作戦が戦われた1944年6月まで待たねばならなかった。もちろんその間にも英国とドイツの間では激しい空襲や海戦が続いていたが、ソ連は1941年6月以来2年あまりドイツ軍の猛攻を単独で耐え続け、1942年の英・カ連合軍によるフランスのディエップ襲撃も失敗に終わっており、1943年にイタリア半島に現れた連合軍もほとんどイタリアとその周辺で食い止められていたために、1944年半ばになってようやくまともな援軍が現れたという印象は否めない。

㊴ コラリーツィ、前掲書、第6章「ファシズムの崩壊」225ページ以下。

㊵ 『世界大百科事典』の第22巻、272ぺージの「ノルマンディー上陸作戦」の項。


 こうしてヨーロッパの戦争は、1945年4月30日、ソ連軍のベルリン入城を聞いたヒトラーの自殺と5月8日のデーニッツ提督による無条件降伏とで終わる。以上の経緯を見ると、たとえいかにノルマンディー作戦の成功が重要だったとしても、ソ連軍こそがヨーロッパにおける対独戦争の主役であったことを疑う人はいないだろう。その後に残された日本は、主にアメリカ相手に単独で戦い続け、沖縄の占領、2発の原爆をふくむ大空襲、ソ連による満州への侵攻などの後、ヨーロッパに3ヵ月以上遅れて降伏した

㊶ 山上正太郎著『冷たい戦争歴史・人間・運命』、東京(文元社)2003、によると、1942年8月、イギリス・カナダ連合軍が北フランスのディエップを襲撃して失敗、多数の犠牲者を出した事件は、大陸反攻には周到、甚大な準備を要することをイギリスに認識させた。そのためノルマンディー上陸作戦は一年前から準備されていたという。こうして東部戦線が敗れ、西部に第二戦線が結成されると、ドイツにはもはや勝利の可能性は完全に失われ、敗北は時間の問題になったのである。『世界大百科事典」第23巻、558~9ページの「ヒトラー」の項と同、第19巻、182ページの「デーニッツ」の項。

㊷ 日本の場合も敗北は完全に時間の問題となっていたので、降伏が遅れた分損害が大きくなった。


 ガディスはその著書の中で、「ソ連は唯一つの戦争、独ソ戦を戦っただけであったが、それは人類の歴史を通じてもっとも悲惨な戦争であった。(中略)軍と民間を合わせた人的被害の推定は、もともと不正確なものであるが、それでもおそらく約2700万人のソ連市民が戦争の直接的な結果として死亡しており、それはアメリカ人の死亡者数のおよそ90倍に達していた」と記している。こうした事実に、「スターリンが信じるところでは、戦時における人的被害の大きさが、戦後誰が何を得るべきかを主に決定すべきであった」 という信念が加わると、当然ソ連から膨大な要求が出てこざるを得ない。連合軍の第二戦線の出現が遅れたために、ソ連は自国の領土からベルリンに至るまでの地域とバルカン半島の大半を勢力下におくことになった。すなわちソ連軍は1944年3月にはルーマニアに侵入、同年8月にルーマニアでクーデターが起こり対独宣戦布告し、ソ連軍がブカレスト入城、同年9月ブルガリア領侵攻、ブルガリア「祖国戦線」がクーデターを起こして対独宣戦布告、同月ソ連軍ハンガリー領侵攻、同年10月チトーらユーゴの人民戦線がベオグラードを解放、同年12月ハンガリー国民委員会が対独宣戦布告、1945年4月ソ連軍はハンガリー全土をドイツ軍から解放した。ヒトラーがすでに自殺していた同年5月にプラハで蜂起があり、同月ソ連軍がプラハを解放してチェコスロヴァキア国民戦線が結成されている。それまではヒトラーのナチス・ドイツがそれらの国々を支配しており、ゲルマン民族の優越性に対する彼らの信条に基づいて東欧諸国の人々を差別していたために、ソ連は彼らに対してファシズムと人種差別からの解放者という有利な役割を演じることができた。しかしソ連には占領下の国々に自国のマルクス・レーニン主義体制を拡げるという使命があり、スターリンには自国の安全のために、体制を同じくする友好国、すなわち衛星国を国境に配置するという地政学的動機もあって、この使命を徹底的に追及した。東側陣営の形成はこのようにして始まったのである。

㊸ ガディス、前掲書、18ページ。

㊹ 同上、21ページ。

㊺ 以上の記述のために、山川出版社の「世界現代史」の第24巻、第26巻、第27巻として刊行された、木戸翁著『バルカン現代史』、東京1977、矢田俊隆著『ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史』、東京1978、および伊東孝之著『ポーランド現代史』、東京1988、の巻末年表を利用した。

㊻ ヒトラーとナチス・ドイツは、アーリア人種の優越性を説いたアルフレート・ローゼンベルクの著書『20世紀の神話』(1930)に影響されていたとされている。そしてナチズムはドイツ人のためだけの党派であった。だからもし世界大戦に勝てたとしても、その後に覇権争いが待っていることは明らかだった。日本人やイタリア人がナチズムと同盟できたということは、日本もイタリアも、当面の状況を打開することしか頭になかったことを意味している。

㊼ ヴォイチェフ・マストニー著、秋野・広瀬訳『戦後政治史とスターリン冷戦とは何だったのか』、東京(柏書房)2000、はその終章の冒頭(282ページ)で、「安全保障が脅かされているというスターリンの認識こそ、冷戦を生み出した原因であった」と断言している。


 ソ連は早い時期から衛星国形成に好都合な行動をとっていたようである。たとえば1940年初夏にドイツとの協定で攻め込んだポーランドでは、捕虜にしたポーランド軍将校数千をおそらく将来反対勢力になると見てカティンの森で虐殺しており、あるいは1944年1月にポーランド領内に侵攻していたにもかかわらず、同年8月ソ連軍が目前に迫ったワルシャワで市民が蜂起した際、自らの手で首都を解放したポーランド人に迎えられることは政治的に不利だと判断したソ連軍は進撃を止め、市民の蜂起には申し訳程度の支援しか与えなかった。そのため10月2日ドイツ軍が蜂起を鎮圧、死者は20万人に上り、生き残った80万人の市民は強制移住させられて、全市が徹底的に破壊された。ソ連軍は1945年1月にワルシャワを解放し、3月には非共産勢力の指導者を逮捕してモスクワに拉致するなどの工作で強引に親ソ勢力を支援、人気が高かったポーランド農民党、社会党、あるいは独自の主張を行う指導者などを順次排除し、48~9年の間に多元的な政治社会体制を一掃した。こうして反ソ感情の強いポーランドでさえソ連型の共産党一党独裁制を確立したのである

㊽ 伊東、前掲書、「V 生き残りのための戦い」170~171ページ、の「カティン事件」の節では責任者は不明のままとされているが、伊東・井内・中井編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』、東京(山川出版社)1998、269~270ページおよび401ページに、ソ連はドイツ軍の仕業だとしていたが、ヤルゼルスキがゴルバチョフにソ連の責任だと認めさせたことが記されている。すなわち1989年、ソ連の学者がスターリンの虐殺命令の存在を明らかにし、1990年にゴルバチョフがソ連軍の仕業であることを認め、2010年4月ロシア連邦首相のプーチンが慰霊塔の前にひざまずいた。なお虐殺されたポーランド軍人の数は数千に止まらず約2万5千だとされている。

㊽ 伊東、前掲書、V、173ぺージ以下による。

㊿ 伊東、前掲書、VI、178~206ページ。


 さらにソ・米・英・仏が共同で占領し、分割統治していたドイツでは、ドイツ全土への影響力を保持しようとするソ連からの工作にもかかわらず、西側諸国が占領する地域における1948年の通貨改革などで分断の動きが進み、ソ連のベルリン封鎖で東西分断は決定的なものとなり、1949年9月ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の建国に対抗して、10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国された。この国は一応複数政党制の建前を取り続けたが、実質はドイツ社会主義統一党による一党独裁制であり、秘密警察シュタージのきびしい監視の下にあった(51)

(51) ガディス、前掲書、第3章、127~128ページ、134~137ぺージ。マストニー、前掲書、第3章「大失策」72-95ページ。


 個々の経緯は省くが、このようにソ連の占領下にあった国々は、ソ連軍を背景にした強引な干渉の下で、一党独裁制のソ連の衛星国に変貌した。一国社会主義とはいっても、ソ連にはすでに24年以来モンゴル人民共和国という衛星国が存在していたのだが(52)、こうしてマルクス・レーニン主義を信奉するソ連の衛星国は、モンゴル、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、東ドイツ、ユーゴスラヴイア、アルバニアと一挙に増大した。ただしソ連軍や英米軍の支援をも受けながらも、主に自力でドイツ軍の支配を脱したユーゴスラヴィアやその影響下にあったアルバニアの動きは複雑で、1945年に訪ソして友好条約を結んでいたチトーとソ連の仲が、ブルガリアなどと話し合われていたバルカン連邦構想などを契機に決裂、ユーゴスラヴィアは西側諸国の支援を受けながらチトーの下で団結し、きびしい経済制裁に耐えて非同盟諸国の一つとなった(53)。アルバニアはこの時はユーゴスラヴィアと断交、ソ連側についてソ連の衛星国の仲間であり続けたが、1960年の中ソ論争の前後に中国側についてソ連と対立し、1968年にワルシャワ条約機構から離脱した(54)

(52) 『世界大百科事典』第28巻、315~316ページによると、1911年の辛亥革命を機に清の領土だった外蒙古に独立運動が起こり、ロシア帝国の支援を得て自治権を得たが、ロシア帝国の崩壊後ソ連の内戦に巻き込まれ、さらに中国側が自治権を撤回したため、1921年にソ連の支援を受けて活仏を元首として独立、活仏の死後体制を社会主義国に改めた。

(53) 木戸、前掲書、330~335ページ、342~344ぺージ、348~353ページ参照。

(54) 同上、335~336ページ、355~357ページ、358~361ぺージ。同書の巻末年表22ぺージによると、1944年5月にホジャが率いる反ファシズムの臨時政府を樹立していたこの国は、ユーゴにもソ連にも従属することを望まなかった。


 すでに見たとおり、ドイツの敗勢が明らかになった1944年ごろから、ソ連の勢力圏が拡大する動きが見られ、1945年にはその可能性が現実化しつつあったが、チャーチルとルーズヴェルトの間にはスターリンの評価に温度差があり、日本の軍事力を過大評価して米兵の犠牲が増えることを恐れていたルーズヴェルトは、1945年2月のヤルタ会談において、スターリンに対日参戦を要請し、スターリンはこれに同意した(55)。同年4月にルーズヴェルトが死去、アメリカ大統領の地位を引き継いだトルーマンは、チャーチルに同調してソ連が率いる東側陣営の拡大を憂慮していたが、すでに結ばれていたヤルタ協定はそのまま実行され、1945年8月8日、ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して対日宣戦布告を行い、ヨーロッパ戦線から移動させていた大軍で満州国に侵攻した。日本が8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏したため、ソ連軍はほとんど本格的な戦闘を体験することなく、ロシア帝国が日露戦争で失った大連、旅順その他の都市や鉄道に関する旧権益や、南カラフトの領土を回復した上、日本固有の領土である千島列島までを不法に占領してしまった(56)

(55) 下斗米伸夫著、アジア冷戦史、東京(中央公論社)2004、17~18ぺージ。

(56) 同上、21~22ぺージ。ガディス、前掲書、34ぺージ。


 ソ連の動向をくわしく知ることを望んだ国務省に対して、1946年2月、モスクワのアメリカ大使館に勤務する外交官ジョージ・ケナンは8000語におよぶ「長文の電報」を送り、ソ連の事情と採るべき対策とを説明し、トルーマンらに強い影響を与えた(57)。英国の総選挙に敗れて下野していたチャーチルは、同年3月トルーマンとともにミズーリ州フルトン市のカレッジを訪れて講演を行い、「鉄のカーテン」ということばで、現在進行中の脅威を訴えた。こうしてアメリカを中心として「封じ込め」政策が実行されるに至る(58)。さらに47年6月、アメリカの国務長官マーシャルは、ヨーロッパ諸国の自立と復興を助けるための資金援助計画を発表した(59)。西側諸国の多くはその資金を利用し、日本その他ヨーロッパ以外の国々も、アメリカによる同種の資金援助計画に頼った(60)。東側諸国の内、ポーランドとチェコスロヴァキアはマーシャル・プランを利用しようとしたが、ソ連からの圧力で断念した(61)。東側に属さぬヨーロッパ諸国は、1949年集団安全保障機構NATOを結成し、アメリカとカナダとに加盟を求めて、ソ連軍の侵攻に備えた(62)。東側諸国はこれに対抗して1955年ワルシャワ条約機構を結成しだ(63)

(57) ガディス、前掲書、41~43ぺージ。

(58) 同上、115ページ、118ぺージ。

(59) 同上、42~44ページ。

(60) アメリカは日本と韓国のためにも、1947年度から50年度にかけて、政府の予算で資金を供給し、それはガリオア・エロア資金と呼ばれた。日本あての分は当初は贈与とされたが、後に債務とされ返済交渉は1961年に妥結した。

(61) 伊東、前掲書、および矢田、前掲書の各年表の1947年の部分参照。

(62) ガディス、前掲書、46~47ぺージ。および『世界大百科事典』第21巻、134~135ページ、の「ナトー NATO」の項。

(63)『世界大百科事典」第30巻、618ページ、「ワルシャワ条約機構」の項。


 こうしてヨーロッパでは一応冷戦状態が定着していたころ、アジアでは日本軍が引き上げた後に、国家の独立ブームが起きていた。この時ヨーロッパ諸国の植民地だった地域の多くが独立し(64)、その中には東側陣営に属した国もあった。中でもヴェトナムでは、ホー・チミンが日本軍が建国した傀儡国家ヴェトナム帝国のバオダイ皇帝に代わって、1945年9月ヴェトナム民主共和国を建国し、植民地復活を目指すフランスと戦い始めた(65)。さらに世界に強力な衝撃を与えたのは、日本軍が降伏したおかげで一度は覇権を握ったはずの蒋介石率いる国民党軍が、毛沢東率いる中国共産党軍に敗れ、1949年4月には首都南京を失い、本土から台湾に追い落とされ、当時世界最大の5億4千万の入口を擁した中国が共産化したことである(66)。ソ連は長い間日本と戦う蒋介石を支援し続けており、しかも毛沢東がソ連留学組を排除して共産党内に権力を確立していたため、ソ連と毛沢東との関係は必ずしも良いとは思われなかったが、1946年6月蒋介石の命令で国共内戦が始まると、ソ連は毛沢東を支援した(67)。国民党軍の軍紀のたるみや国民党政府の腐敗に加えて、地主の土地を貧農に分配する「土地革命」が圧倒的多数を占める貧しい農民の支持を得たために、共産党の勢力は一挙に拡大して、1949年10月の毛沢東の宣言とともに中国の共産主義革命は完成した(68)

(64) W・H.マクニール著、増田・佐々木訳『世界史』、東京(中央公論新社)2001、622~633ページの「1945年以後に独立した国」の地図参照。フィリピン1946、インド1947、パキスタン1947、スリランカ1947、ミャンマー1948、インドネシア1949、ラオス1954、カンボジア1954など。この地図には南北ヴェトナムと韓国と北朝鮮の独立は記されていない。

(65) 『世界大百科事典」第25巻、521ページ以下の「ベトナム」の項、特に523ぺージ。

(66) 下斗米伸夫、前掲書、第二章中国革命と中ソ同盟(1949~60)、35~61ページ。

(67) 同上、36~46ぺージ。ソ連は中国東北部を除いては、実質大した支援をしていない。

(68) フィリップ・ショート著、山形浩生・守岡桜訳『毛沢東・ある人生・下』、東京(白水社)2010、88ページ。


 当然アメリカは内戦の動向を憂慮していたが、当時日本を占領していた米軍には、この内戦に干渉するための大義名分も余力も欠けていて、台湾に逃げ込んだ国民党軍を支援できただけだった(69)。中国の北方に展開されていたソ連軍の存在が、外国の軍隊の干渉に対する無言の圧力となっていたことは言うまでもない。しかし1948年のスターリンとチトーとの決裂を見たばかりなので、チトーに劣らずソ連に依存することが少なかった毛沢東が、スターリンの言いなりにはならないと予想できたことが、西側諸国にとってはせめてもの慰めだった(70)。この予想は長期的には的中したが、短期的には外れた。毛沢東は1949年12月にモスクワを訪問し、マルクス・レーニン主義の忠実な使徒としてスターリンに従う態度を見せ、50年2月には中ソ同盟が結成された(71)

(69) 下斗米、前掲書、54ぺージ以下の記述に従うと、中国共産党が直ちに台湾に進攻しなかった最大の原因は、アメリカとの全面対決から第三次世界大戦が起こることを心配したスターリンの同意とソ連の軍事援助の約束が得られなかったためだという印象を受ける。『世界大百科事典』第18巻、239~241ぺージの「中国国民党」の項、特に241ページ。その後間もなく朝鮮戦争が始まった。

(70) ガディス、前掲書、49~50ページ。

(71) ショート、前掲書、下、91~95ぺージ。


 中国の共産化は当然周辺諸国にも影響を及ぼした。かつて日本に併合されていた朝鮮半島は、終戦当時南下したソ連軍とその全面支配を抑制しようとした米軍との力関係により、北緯38度を境に、1948年相次いで建国を宣言した大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とに二分された(72)。下斗米伸夫著『アジア冷戦史』によると、抗日ゲリラからソ連軍将校の経歴を経て北朝鮮の指導者に選ばれた金日成は(73)、50年1月に国務長官アチソンが発表したアメリカの「防衛圏」に朝鮮半島が入っていないことや、韓国の軍備が手薄であることを理由に、スターリンに対して繰り返し南進の許可を求め、ためらうスターリンから、毛沢東の同意を得るという条件付きで南進の許可を得た。さらに毛沢東の承認も得たので、1950年6月25日北朝鮮軍は38度線を越えた(74)。戦備が整わず兵員の数もはるかに少なかった韓国軍は、北朝鮮軍に対抗できず一気に釜山周辺の一角まで追いつめられたが(75)、ただちに国連安全保障理事会が開催され、7月7日には国連軍創設が決議された。アメリカは日本に進駐していたマッカーサー元帥を国連軍司令官に任命した。たまたまこの時期にソ連が国連をボイコットしていたために、伝家の宝刀の拒否権が使えなかったのである(76)。同年9月米軍を中心とする国連軍が仁川に上陸して補給線が伸び過ぎた北朝鮮軍をたたくと形勢は逆転、国連軍は首都平壌をふくむ北朝鮮の大半を占領し、中国の国境に迫った。そこで同年10月に将軍たちや多くの同志の反対を押し切って毛沢東が派遣した100万人の中国人民志願軍が朝鮮に侵入し、いわゆる人海作戦によって国連軍を押し戻し、翌年1月にはふたたび京城を占領した(77)。翌年の1951年半ばに戦いは膠着状態に入り、7月から休戦会談が始まるが、スターリンは死ぬまで休戦を認めず、実際に休戦が決まったのは、1953年3月にスターリンが死去した後のことであった(78)。いずれにせよ、両軍の軍人と民間人を併せて400万人前後とされる犠牲者を出しながら、北朝鮮は寸土も増やせなかった(79)。ソ連は主に軍需物資の補給や空軍による支援などを行い、アメリカとの全面対決を警戒して、陸上部隊の支援は大部分中国に委ねていた。元々スターリンは、アジアの個々の問題はなるべく中国に分担させるという方針を採っていたのである(80)。

(72) ガディス、前掲書、53ページ以下。

(73) 下斗米、前掲書、73~74ぺージ。

(74) 同上、77~79ぺージ。

(75) ガディス、前掲書、54~57ぺージ。ただし57ページは朝鮮戦争(1950~1953)の地図。

(76) 同上、56ページ。

(77) 同上、56ぺージ以下。下斗米、前掲書、81ぺージ以下。ショート、前掲書、97ページ以下。100ページに、「十月四日に政治局が一堂に会したが、大半は毛の意見に反対だった」とある。

(78) 下斗米、前掲書、82~83ページ。

(79) 同上、82ページに「ロシア史料では北朝鮮、中国の死傷者の被害は200~400万人、韓国40万人、米国14万人といわれる」とある。他にもアメリカの専門家オーバードーファーが推定した数字なども紹介されているが省略する。ともかく民間人の犠牲者の正確な数字を把握することは不可能であるらしい。三野・田岡・深川著『20世紀の戦争』、東京(朝日ソノラマ)1995、の「朝鮮戦争」(239~257ページ)にも軍人の犠牲者の数字は細かく出ている。その数字を加えると、300~400万人程度となる。

(80) 同上、48ページ以下、「ソ連と中国によるパワー・シェアリング」、「アジアの革命運動の中心は北京」などの節。朝鮮戦争勃発前にもスターリンは金日成に対し毛沢東の同意を得ることを命じていた、とされている。


 1953年3月5日、ソ連人としては高齢で、猜疑心の塊と化していたスターリンが重臣たちや娘に取り巻かれて死に(81)、後継者の地位をめぐる争いの後、秘密警察の主ベリヤは処刑されて、フルシチョフが権力を握った(82)。フルシチョフはスターリンの恐怖政治を改めるという強い決意を抱いていて、その死後3年足らずの56年2月、第20回党大会の秘密報告でスターリン批判を行い、個人崇拝の弊害を説いた(83)。スターリン自身と彼の個人崇拝の手法を評価していた毛沢東は、フルシチョフのスターリン批判に憤慨し、東欧諸国の指導者や金日成らの反応も同様だったはずである(84)

(81) 亀山、前掲書、293~299ページ、モンテフィオーリ、前掲書、491~511ページ。

(82) 『世界大百科事典」第25巻、587ページによると、ベリヤはスターリンの死後フルシチョフ、モロトフらと集団指導に加わっていたが、1953年6月、スターリンヘの〈個人崇拝〉の責任を問われて突然逮捕され、その年の末裁判、銃殺が行われた。

(83) ガディス、前掲書、129ページ以下。ガディスはフルシチョフを「誠実」だとする。

(84) 同上、132ページ以下。毛沢東の個人的な感情についてぽ、李志綏著、アン・サートン協力、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活・上』、東京(文芸春秋)の10章、187ページ以下にくわしい。ショート、前掲書、下、!25ページ以下。なおハンガリー事件におけるソ連軍の武力干渉も毛沢東の主張に基づいていた、とされている。北朝鮮の個人崇拝は、現在も続いている。


 キューバのフィデル・カストロのグループは、一時期メキシコに逃れたりしながら、1956年末に祖国に上陸してゲリラ活動を展開し、バティスタ独裁政権とアメリカ資本に不満を持つ民衆に支持されて1958年末に独裁者バティスタを放逐した(85)。彼らは当初から杜会主義革命を目指したわけではなかったようだが、アメリカ資本を守ろうとするアイゼンハワー大統領がその政権を認めず、キューバが1960年8月土地改革法によってアメリカ資本が所有する土地や資産を国有化したために通商停止を決定し(86)、翌61年4月には新大統領ケネディの下でキューバの亡命者たちが組織した軍隊が反攻に失敗する(ビッグス湾事件)など、歴代のアメリカ政府によって敵視されたために(87)、フルシチョフが率いるソ連にたよらざるを得なくなり、同年5月社会主義宣言を行い、正式に東側諸国の仲間に加わった(88)。カストロのキューバ政権はソ連に軍事的支援を要請し、ソ連が1962年10月キューバに核ミサイル基地を建設しようとしたため、ケネディ政府は海上封鎖を行ってミサイルの持ち込みを禁止し、ソ連との交渉で基地計画を撤去させた。この時核戦争は一触即発の状態となり、その後の話し合いで核戦争の危機は回避されたものの、冷戦はこの13日間に危機のピークを迎えたとされている(89)


(85) ガディス、前掲書、92ペーシ以下。ドックリル・ホプキンス、前掲書、106ページ以下。『世界大百科事典』第7巻、230~231ページの「キューバ革命」の項。

(86) 『世界大百科事典』、同上。

(87) 同上、およびガディス、前掲書、92ページ、ドックリル・ホプキンス、前掲書、110~111ページ。

(88) (85) の「キューバ革命」の項。

(89) 同上。およびガディス、前掲書、94ページ以下。ドックリル・ホプキンス、前掲書、117~121ページの「キューバ・ミサイル危機」の節。


 スターリンの死去やフルシチョフの秘密報告などを契機として、ヨーロッパでも変化が生じ始めた。1955年5月にはソ連と東欧8カ国の間でワルシャワ条約が結ばれ、翌56年にコミンフォルムが解散された(90)。スターリンの死と、1956年2月のソ連の第20回共産党大会でのスターリン批判などで変化を期待した東欧の国々は、さまざまな新しい動きを見せ、ポーランドでは「ポーランドの道」を主張して解任、逮捕されていたゴムウカが第一書記に返り咲くなどの改革が進んだが(91)、ハンガリーでは1956年10月から市民のデモが暴動化したためソ連軍が二度も介入し、11月ナジ首相がハンガリーのワルシャワ条約からの脱退と中立化を宣言してソ連軍に連行されるに至るハンガリー事件が勃発した(92)。こうした東欧国民の反発と並んで、ソ連と中国との関係もさらに悪化した。スターリン批判で個人的感情を害していた毛沢東とフルシチョフの距離は、1959年10月北京で行われた会談によってさらに広がり、1960年以降中ソ論争が始まった。ソ連は毛沢東が核戦争を是認していることを危惧して、1960年には中国に派遣している核兵器その他の技術者を全員引き上げたために、中国では進行中の核開発を含む数々のプロジェクトが中断されたが、中国は1964年独自に原子爆弾を開発した(93)。この中ソ対立は1969年3月の珍宝(ダマンスキー)島の国境紛争をめぐる武力対決にまで進み(94)、中国側の危機感はその後米中関係の修復、1972年2月のニクソンの訪中、そしてその数年後のアメリカや西側諸国との国交回復をもたらすことになった(95)、さらに毛沢東の危機感は、自分の影響力を妨げていると見なした実権派の劉少奇らを排撃するための猛烈な運動を引き起こし、1965年ごろから文化大革命が始まった(96)

(90) 『世界大百科事典』第30巻、618ページの「ワルシャワ条約機構」の項。

(91) 伊東、前掲書、227ページ以下。この改革は「十月の春」と呼ばれた。

(92) 矢田、前掲書、231ページ以下。ソ連に連行後ナジは1958年に反逆罪で処刑された。

(93) 下斗米、前掲書、100ページ以下。中国の原爆実験成功については、114ページ。

(94) 同上、115ページ。

(95) ガディス、前掲書、174ページ以下。

(96) 劉少奇に付けられた「中国のフルシチョフ」という仇名は、そうした毛沢東の警戒心を代弁していた。『世界大百科事典』第29巻、647ページの「劉少奇」の項。


 こうした東側陣営の分裂にもかかわらず、この陣営が掲げている植民地支配からの独立というスローガンはまだまだ有効で、アジアとアフリカでは説得力を発揮し続けた。その典型的な実例が、1960年から15年も続いたヴェトナム戦争である。1954年のジュネーヴ合意で停戦し、国土の4分の3を支配していたのに、17度線に抑えられたことを不満とする北ヴェトナムでは、自分たちの抑圧者と見た中国から離れてソ連に接近する動きが生じる(97)。1960年末の南ヴェトナム解放民族戦線の結成に対して、翌61年1月、アメリカ大統領に就任したケネディは南ヴェトナムを積極的に支援し、1965年からは北爆や海兵隊の派遣などで北ヴェトナムと直接対決し始め、韓国軍なども加わって解放民族戦線の掃討に努めたが、北による攻勢は止まらず、さすがの軍事大国アメリカもついに1973年のパリ協定で撤退を約束、1975年4月サイゴンが陥落して南北ヴェトナムが統一された。ソ連は中国以上に北ヴェトナムに好意的だったが、実際の支援は大したものではなく、結局北ヴェトナムはほとんど独力で統一を実現した(98)

(97) 下斗米、前掲書、133ページ以下。中国への不満は134ページ。

(98) 同上、135~137ページ。


 なお超大国アメリカの敗北と米軍のインドシナ半島からの撤退は、世界に強い衝撃を与え、その影響は直ちに隣国ラオスにあらわれた。元来フランスの植民地で、仏領インドシナ連邦の一部だったこの国は、日本軍に占領された後に独立を志向、1953年10月にラオス王国として完全独立したものの、右派、中立派、左派(パテート・ラーオ軍)による長期の内戦が続いていた。1973年の米軍のヴェトナム撤退の影響で、1975年ラオス民族連合政府が成立、サイゴン陥落に続いて連合政府は王政を廃止し、ラオス人民民主共和国樹立を宣言した。その後一時中国との関係が断絶したこともあったが後に修復され、1991年には憲法が制定され、今日もマルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による一党支配が続いている(99)

(99) ドックリル・ホプキンス、前掲書、111~113ページ、および170ページ。『世界大百科事典』第29巻、317~320ページの「ラオス」の項、特に319ページ。


 同じころさらに世界の注目を集める出来事がカンボジアで発生した。1970年アメリカに支持されたロン・ノル将軍がクーデターを起こしてシアヌーク国王を追放、アメリカの支援によって統治していたが、米軍の南ヴェトナムからの撤退で、1975年4月フランス留学生上がりのポル・ポトが率いるクメール・ルージュがプノンペンを占領した。クメール・ルージュは翌年国名を民主カンボジアと改め、プノンペンなど大都市の住民や、資本家、技術者、知識人などの知識階級から一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させて農業に従事させた。さらに集団農場に集められた知識人階級は、反乱を起こす可能性があるとして、100~170万人が虐殺された。原始共産社会を理想とするこの改革の推進者ポル・ポトは、ソ連やヴェトナムと断交したので正式の東側陣営のメンバーではなかったが、高度な専門知識、工業、貨幣制度などを否定した(100)。しかしその統治は1979年1月ヴェトナム軍とカンボジア救国民族統一戦線がプノンペンを占領した時に崩壊した。すでに悪化していた中越関係がこの時のヴェトナム軍のカンボジア侵攻によって決裂し、同年2~3月の中越戦争を誘発したが、中国軍は一時はヴェトナム北部を占領したものの、多大の犠牲を出して撤退している(101)。 以後カンボジアは様々な推移を経て、現在は亡命先の中国から帰国したシアヌークの王位を継承したシアモニを国王とする立憲君主国に戻っている(102)

(100) ガディス、前掲書、304ページ。ガディスの概説書は最後にクメール・ルージュのエピソードを語る。そしてこのような事件も起こっていたけれども、冷戦は人類にもっとひどい結果をもたらさずに済んだ、とし「フランス革命の間、あなたははなにをしていたのですかと尋ねられた時のアベ・シェイエスの答えをかりて言えば、われわれの多くは生き残ったのである」で終わっている。

(101) 下斗米、前掲書、137ページ。三野・田岡・深川、前掲書、551~554ページの「中越戦争」の項。

(102) 共同通信社編『世界年鑑2010』、東京(共同通信社)2010、によると、ポル・ポトが率いた民主カンプチア政権は、ヴェトナム軍に支援されたヘン・サムリン軍によって攻め込まれ1979年に崩壊したが、その後も内戦が続いた。1990年パリ平和交渉が成立し、1991年11月シアヌークが帰国、国連の監視の下で1993年5月に選挙があり、王制が選ばれ、1993年6月シアヌークが王位に戻る。その後2004年にシアヌークは息子のシアモニに王位を譲った。


 もちろんインドシナ半島以外でも、東側陣営に接近する動きは古くから認められた。その最たるものが、1960~70年代のアフリカで相次いで人民共和国や民主共和国が誕生したことである。大体植民地が独立する場合、社会主義体制を選び、こうした国名を名乗ることが一つの範例になっていたとさえ言えそうである。しかし中にはタンザニア連合共和国のように、社会主義を信奉していても、1960年代にソ連と不和になっていた中国に接近して、最初から非同盟中立の第三世界を目指した例もあり(103)、もちろんこうした国は東側陣営のメンバーとは認められない。あるいは1950年代に勇名高いアルジェーの戦いによって独立し、1962年以降その名を名乗ったアルジェリア民主人民共和国は、その国名や社会主義政策や1989年まで続いた一党独裁体制などによって一見東側陣営に近かったようだが、国民の大半が信仰するイスラム教は唯物論のマルクス・レーニン主義と全く相入れないため、非同盟中立とアラブ連帯を志向して、東側陣営には加わらなかった(104)。いずれにせよ部族紛争が多く、政体が変化しやすいアフリカの状況を正確に把握して東側陣営のメンバーを正確に指摘することはきわめて困難であり、私の能力を越えていることを断っておきたい。

(103) 『世界大百科事典』第17巻、475~477ページの「タンザニア」の項、特に477ページ。

(104) 同上、第1巻、599~601ページの「アルジェリア」の項、外交では積極的非同盟主義を定めた、とされている。


 サハラ以南で最も早く誕生した人民共和国は、1960年にフランスの植民地から独立して、当初は自由主義国だったが、1960年代に社会主義化し、1970年に名前を改めたコンゴ人民共和国だとされている。マルクス・レーニン主義政党である労働党によって一党独裁体制を採り、ソ連および東側諸国の一部と緊密な関係を結んだが、1991年主権国民会議によって複数政党制に戻っている(105)

(105) 共同通信社、前掲書、370ページ。宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』、東京(講談社)1997、512~514ページの「アフリカにおける民主化の動き」の表でも一党制から転換して選挙が行われたとされている。


 1958年に独立したギニア共和国も、フランスに妨害されて東側陣営に接近し、1978~84年にはギニア人民革命共和国と名乗り、社会主義体制によって政敵を抑圧したが、1984年の無血クーデターで自由主義体制に戻っている(106)

(105) 共同通信社、前掲書、371ページ。なお、宮本・松田、前掲書の表では、ギニアは一党制ではなく軍政となっている。しかし後に大統領選挙や議員選挙を実施した。


 1960年にイタリアと英国から独立して南北が統一されて誕生したソマリア共和国では、1969年クーデターを起こして実権を握ったバーレ少将がソマリア共和国をソマリア民主共和国と変え、翌年社会主義国家を宣言、ソマリ社会主義革命党の一党独裁体制に移行したが、エチオピアとの戦争や内戦が勃発し、91年ソマリ国民運動が首都モガディシュを制圧してバーレを追放した。その後も紛争が続き統一政府が存在しない(107)

(107) 共同通信社、前掲書、339ページ。宮本・松田、前掲書の表では、その後軍事クーデターが起こり内戦中となっている。


 1960年フランス領の自治共和国からダホメー共和国として独立していたベナンは、1972年にケレル政権が誕生し、1975年11月にはベナン人民共和国と改称して中国に接近したが、1990年ベナン共和国と改め、複数政党制、三権分立、市場経済体制に改めてしまった(108)

(108) 共同通信社、前掲書、359ページ。宮本・松田、前掲書の表でも一党制から複数政党制に転換して、選挙が行われたことになっている。


 第二次イタリア戦争に敗れてイタリアの植民地になった(1936~41年)後、独立して帝政に戻ったエチオピアは、ソマリ人の抵抗や旱魃による10万人餓死などで陸軍の反乱を招き、1974年9月、最後の皇帝ハイレ・セラシェが廃位され、12月に社会主義国家建設を宣言してソ連の半衛星国となり、1977年2月にメンギスツが臨時軍事行政評議会議長に就任、数十万人を粛清するという恐怖政治を行い、1987年の国民投票で評議会を廃止する。メンギスツは大統領に就任してエチオピア入民民主共和国を樹立し、エチオピア労働者党による一党独裁を行ったが、早くも1991年に各地の反政府勢力との戦闘に敗れて大統領は亡命した。その後エチオピア人民革命民主戦線が実権を握ると、国名をエチオピア連邦共和国に変え、複数政党による議員内閣制に改めて今日に至っている(109)

(109) 共同通信社、前掲書、341ページ。宮本・松田、前掲書の表でも、クーデターの後に複数政党制となり、議員選挙や大統領選挙が行われている。


 早くも1950年代からポルトガルに対して独立運動を進めてきたギニアビサウでは、1973年領土の4分の3を解放して独立を宣言し、翌74年に宗主国ポルトガルで無血カーネーション革命が勃発して左派政権が誕生したおかげで独立が承認され、ソ連やキューバよりの政権が誕生したが、1980年にクーデターが起こって親米路線に転換した(110)

(110) 共同通信社、前掲書、351ページ。宮本・松田、前掲書の表でも、複数政党制に転換して、議員選挙も大統領選挙も行われている。


 さらに1975年、やはり前年ポルトガルで起きたカーネーション革命の余波で、1960年代前半から独立運動を進めていた植民地アンゴラとモザンピークが独立を承認され、いずれも人民共和国を名乗ってソ連やキューバとの友好関係を維持していたが、モザンビークは1990年、アンゴラは1992年複数政党制に戻った(111)。両国とも長期にわたる内戦に悩まされていて、モザンビークでは77年から92年にかけて、アンゴラでは75年から2002年にかけてそれが続いた。ただ両国は豊かな資源に恵まれているので、内戦が終わった後は順調な発展を遂げている(112)

(111) 共同通信社、前掲書、アンゴラは373ページ、モザンビークは377ページ。宮本・松田、前掲書の表でも、両国は内戦に悩まされながらも、複数政党制に転換し、議員選挙も大統領選挙も行われている。

(112) 同上。


 さらに70年代から独立運動が展開されていたエリトリアでは、1991年エチオピアのメンギスツ政府打倒に協力して1993年に独立を認められ、民主正義人民戦線が率いる暫定政府が、以前なら当然東側陣営に加わったと思われる一党独裁制の統治を行っている(113)

(113) 共同通信社、前掲書、342ページ。宮本・松田、前掲書の表では、一党制で独立と記されている。


 アフリカ以外では、まずアメリカ大陸のニカラグァで1978年、1961年から反政府運動を始めたサンディニスタが勢力を伸ばし、1979年7月には革命が成立してソ連やキューバに接近したが一党独裁には至らず、反対勢力コントラとの内戦が11年続いた後、90年の選挙に敗北して下野、国民野党連合のチャモロが当選して内戦は終了し、アメリカとの関係も修復して全方位外交に転換した(114)

(114) 共同通信社、前掲書、457ページ。


 あるいはアラビア半島の南端にある英領南イエメンが67年南イエメン人民共和国として独立、後にイエメン人民共和国と名乗っていたが、後に北イエメンと合併して、イエメン共和国となった。国民のほとんどがイスラム教徒であるこの国では、アルジェリアの場合と同様、外交上東側諸国と接近して類似した国名を名乗ることはあっても、同化することは不可能だった(115)

(115) 共同通信社、前掲書、305ページ、および 注(104)


 同じことはイラク共和国、アラブ連合共和国などについても言えるであろう。要するにこれらの国々はパレスティナ問題で反欧米の立場を取ったために、欧米諸国に敵対する東側陣営に接近したが、彼らの信仰は唯物論のマルクス・レーニン主義とは対極にあったのである(116)

(116) ソ連とユーゴスラヴィアでは冷戦終結時に国家が分裂したが、イスラム教をめぐって激しい文明の衝突が発生した。


 例外は原則を強化するという諺があるが、1978年に勃発したアフガニスタンの親ソ派の軍事クーデター、四月革命は、まさにその諺通りの経過を見せた。人民民主党のクーデターによる社会主義政権が誕生して、一時期マルクス・レーニン主義を信奉するアフガニスタン民主共和国を樹立したが、たちまち全土で反政府勢力ムジャーヒディーンが蜂起して、ソ連軍の派兵を依頼せねばならなかった(117)。すでにやせ細っていたソ連の屋台骨は、1979年のアフガニスタン派兵によって一段と削り取られ、世界中の抗議の声を巻き起こした。さらに1980年のモスクワ・オリンピックは多くの西側諸国のボイコットに遭い、ソ連の威信は回復不可能なまでに傷付けられた(118)。1987年に就任したアフガニスタン大統領ナジーブッラーが国名を元のアフガニスタン共和国に戻し、1989年10万のソ連兵が撤退したが、その後も内戦は続き、1996年にはイスラム原理主義のタリバンによる実効支配が確立されてイスラム教権国家が誕生した。2001年の同時多発テロの後にアメリカ軍の介入を招いてタリバン政権は崩壊したが、その後も安定した国家が確立されるには程遠い有り様である(119)

(117) 共同通信社、前掲書、228~229ページ。

(118) 共同通信社編『世界年鑑1981』683ページ、のソ連のスポーツの項の末尾に、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカのカーター大統領が1980年のモスクワ・オリンピックのボイコットを呼びかけたため、アメリカ、西ドイツ、日本、中国等が参加せず、参加国は81カ国、7000人に止まったことが記されている。なお『世界年鑑』からの引用は以後も続くが、特に断りがない場合は、2010年度版からの引用である。

(119) 注(117) と同じ。


 こうして私たちは、東側陣営の国々がどのような経緯でその陣営に加わったかを概観した。門外漢が行った手探りの作業であるために、重大な見落としや誤りがあるものと思われるし、変動の甚だしいチリその他南米諸国の経緯は省略せざるを得なかった。しかし本論の目的にとって必要な東側陣営に加わった主要国に関しては、ほぼ概観し得たつもりである。以上で見た東側陣営への参加の経緯こそ、その国のその後の運命を予測するための最も重要な手掛かりを与えてくれるものであり、特にモンタペルティ現象発生の可能性の有無を知るためには不可欠なものなので、大半は周知の事実の確認を行った次第である。


第二章 冷戦後世界でモンタペルティ現象が発生する

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