モンタペルティ現象5-2


冷戦後世界のモンタペルティ現象

米山  喜晟



第二章 冷戦後世界でモンタペルティ現象が

発生するための条件とその該当国


 「はじめに」において記した通り、本章ではまず敗戦後にモンタペルティ現象が発生するために必要な基本的条件について考察する。なおモンタペルティ現象の概念をさらに拡張して敗戦がもたらす効果全般にまで普遍化するため、この機会に敗戦が国民にもたらす可能性があるあらゆるプラスの効果を、思い付く限り列挙しておくことにしたい。この作業を含めたさまざまな考察を通して、敗戦後にモンタペルティ現象が発生するために必要と思われる基本的条件が明らかにされるであろう。

 続いて前章でその経緯をたどった冷戦の特性を考慮して、冷戦後と言う状況に適用するためには、先に明らかにした基本的条件をどのように修正すべきかを検討する。このような検討の結果、冷戦後の世界でモンタペルティ現象が発生するために必要な基本的条件が確定される。その後東側陣営に属したとされる約20の国々に、どれだけこれらの基本的条件が合致しているかを個別に吟味する。こうした作業を通して、冷戦後の世界でモンタペルティ現象が発生する可能性が高い、いくつかの国が選抜されるはずである。第二次世界大戦後には、敗北した日、独、伊の三国に「経済の奇跡」が発生した。だから冷戦後の世界においても、モンタペルティ現象が発生するのは一国だけとは限らない。なお今さらことわるまでもないことだが、私たちが今論じているモンタペルティ現象は、先に挙げた三つの型の内の開放・発展型のそれである。なぜなら抑制・和平型のモンタペルティ現象の効果を知るためには、おそらく数百年後の世界から振り返ることと、深く歴史を洞察する英知が必要だからであり、また帝国完成型のモンタペルティ現象に関しては、冷戦後の世界ではいかなる帝国も完成していないことは明らかだからである。それに反して開放・発展型のモンタペルティ現象は、冷戦終了後数十年の間に明白な効果を発揮している可能性が高いからである。

 そこでまず私たちは、敗戦の後に普通のモンタペルティ現象が発生するために必要な基本的条件を明らかにする作業から着手する。この現象は、敗戦国民という集団に発生する心理的変化と密接に関係しているはずなので、本来ならば集団心理学などの分野で何らかの効果的な説明が見出されるのではないかと思われるが、そうした分野の成果について筆者は全く知らないため、有名な古典であるル・ボンの『群集心理』 あたりに当たって見る他はない。おそらく専門の分野では、その後元の姿とは似ても似つかぬほどの修正が加えられていると思われる古典であるが、いくつかの貴重な示唆を筆者に与えてくれる。その内で最も重要だと思われるものは、「群衆を構成する集団の内には、各分子の総和や平均のようなものは少しも存在せず、種々の新たな性質の発生とその配合があるのである。これは、ちょうど化学の場合と同様である。例えば、塩基と酸のような元素と元素とが接触させられると、化合して新たな物質をつくり、この新たな物質は、これを構成するのに用いられた元素とは異なる特性を具えている」 という指摘である。ル・ボンはこの現象を、群衆の中にいることで不可抗的な力を感じること、精神的感染、被暗示性などで説明しているが、このように群衆に加わることで個人が質的に変化するという指摘は、モンタペルティ現象の発生を考える場合に貴重な示唆を与えてくれる。ル・ボンは本来広場に集まって暴動を起こすような文字通りの群衆について論じているのだが、後の部分で選挙民や陪審員にまで考察を拡大している点を考慮すると、勿論程度の差はあるものの、それに準じた現象はあらゆる集団において発生し得ると考えていたもののようである。敗戦国の国民は、たとえ広場に集合していなくても、共通して受けている衝撃と心理的圧迫のために、広場に集まった群衆にも劣らぬほど共通性の高い集団と化していると言えるのではないだろうか。その結果こうした集団の中では個人が質的に変化し、時にはそのために奇跡とよばれるほどの成果をもたらすことがあり得るのではないだろうか。

❶ ギュスターヴ・ル・ボン著、桜井成夫訳『群衆心理』、東京(講談社)1993。

❷ 同上、30ページ。

❸ 同上、32~35ページ。

❹「陪審員」は第三章、216ページ以下。「選挙上の群衆」は第四章、228ページ以下。

 

 残念ながら筆者には集団心理学の素養が全く欠けている上に、あるいは筆者の探し方が悪いのかも知れないが、敗戦の効果を積極的に評価している著書が見当たらないという現状をも鑑み、モンタペルティ現象が発生する基本的条件を独力で数え上げる他はなさそうである。筆者はすでに第一論文 において、中世フィレンツェと戦後日本に共通して見られる条件を三つばかり指摘した。それは

(1)両国は敗戦を体験する以前に、少なくとも近隣諸国の中では際立って好戦的な軍事大国であり、長年にわたって近隣諸国との間で戦争を繰り返していたこと。

(2)両国はきびしい敗戦体験の結果として、戦争に対して消極的になると同時に、敗戦以前とは異なり、自らを取り巻く近隣諸国や当時の覇権国家に対して協調的にならざるを得なかったのだが、こうした方針転換を当時の支配的な国際社会は好意的に受け入れて、結果的に両国の経済的・文化的活動の発展を助長したこと。

(3)両国国民は、敗戦の試練を通して普通には起こらない仕方で鍛えられたこと。

の3条件である。なお第三の条件を論じた際、いずれの場合にも特別きびしい試練によって鍛えられた集団が存在したが、彼らはその後の両国の経済的・文化的発展のために、顕著な形で貢献し続けたことをも併せて指摘した

❺ 拙稿『「モンタペルティ現象」試論』、「国際文化論集第39号」、大阪(桃山学院大学総合研究所)2009。(「百万遍第3号所収)

❻ 同上、第二章、156~177ページ。

❼ 同上、175~177ページ。


 以上の三条件に関して、あれほど大規模な戦争を起こしておきながら、戦後はアメリカ人たちが作った草案を基にした平和憲法を受け入れて、戦後60年以上にわたっていかなる国とも戦うことがなかった日本の場合は、大方の同意を得ることが可能だと思われるが、中世フィレンツェについては、従来日本(のみならずおそらく世界中)の知識人が抱いていた平和的なイメージと乖離していたために、違和感を感じた人が少なくなかったかも知れない。しかし筆者に言わせると、市民の自治による共和制国家が当然平和を志向するものと決め付けることは、あまりにも認識不足であり、その証拠としてローマの共和制は、地中海全体を取り囲むまでにその領土を拡大したという事実があることを忘れてはなるまい。フィレンツェが戦争に消極的な経済的・文化的国家に変身したのは、モンタペルティ敗戦後に生じた経済的・文化的飛躍の結果であり、それ以前のフィレンツェは日常的に周辺の都市国家と戦争を繰り返していた。とりわけプリーモ・ポポロが支配した10年間は、当時のイタリアでは目立って好戦的で、軍事を優先する都市国家だったのである。そのような大転換をもたらしたモンタペルティの敗戦が、これまでの中世イタリア史においてあまりにも無視されてきたことは、筆者にとって容認し難い事柄である。モンタペルティ敗戦当時のフィレンツェ市民の共和制政権、すなわちプリーモ・ポポロがいかに好戦的で、積極的に戦争を繰り返し、勢力圏の拡大に努めていたかに関して疑問を抱かれた方は、筆者の著書 にぜひ目を通していただきたい。

❽ たとえば、ジョン・ダワー著、三浦・高杉・田代訳『敗戦を抱きしめて(増補版)上・下』、東京(岩波書店)2004、などにそうした変化が記されている。

❾ 今のところ、この説に関する公的なコメントは一度も見たことがない。

❿ ジャンバッティスタ・ヴィーコ著、清水・米山訳『新しい学』481ページは、国家は貴族制から民主制に移行すると、領土を拡大していくよう性格付けられているとする。

⓫ 米山喜晟著『敗戦が中世フィレンツェを変えた』、東京(近代文芸社)2005。


 先に挙げたのは、具体的な二つの事例から導き出されたモンタペルティ現象発生のための基本的な条件であったが、前論文においてモンタペルティ現象の概念を敗戦がもたらす効果全般に拡張して普遍化した以上、この際一旦は具体的な歴史的事例から離れて、敗戦がもたらすプラスの効果と考え得る項目を、なるべく網羅的に列挙しておく必要があるものと思われる。可能な限り網羅的であるために、特定の時代に限定することなく、また必然的に発生すると思われる項目だけでなく、単なる可能性に過ぎず、実現は困難だと思われる項目をも、区別することなく列挙しておきたい。当然両立不可能な項目も挙げられているし、意味する内容が重複している場合が有るかもしれない。まさにメルヘンの世界であり、敗戦は良いことずくめのような印象を与えるかも知れないが、従来敗戦のプラスの効果が余りにも無視されてきたことに対する補償としての思考実験なので、荒唐無稽な項目があっても大目に見ていただきたいと思う。なお筆者は前論文において考察の範囲を世界史全体に拡大したため、その対象とした集団も国家に限らず、部族や教団などといったあらゆる集団にまで及んでいたが、本論は冷戦後の世界を論じているので、原則として国家を対象として考えている。ただし冷戦後の世界でも、ソ連やユーゴスラヴィアのように国家自体が解体する事例が見られたことは否定できない。また一部の項目は、前論文で行った考察の影響が残っているため、個人や国家以外の集団にも関連している

⓬ ソ連は15の共和国に分裂し、ユーゴスラヴィア連邦入民共和国は7(コソヴォの独立を認めると8)個の共和国に分裂した。

⓭ 拙稿『敗戦の効果・世界史の中のモンタペルティ現象』、前掲。(「百万遍第6号」所収)


1)敗戦は国民に衝撃をあたえる。

2)その衝撃は敗戦以外では起こり得ない国民の変化や運動を引き起こす。

3)敗戦は少なくとも当該の戦争に関して、国民に平和をもたらす。

4)敗戦は少なくとも当該の戦争に関して、国民を戦時体制から、開戦以前の平時体制へと回帰させる。

5)敗戦による平時体制への回帰は、より多数の国民が戦争以外の活動に専念することを可能にする。

6)敗戦は衣食住のすべてに欠乏をもたらして国民の生存を危なくするために、忍耐心や勤勉などの美徳を発揮させる。

7)敗戦は国民に生存のために、平常ではあり得ない犠牲的行為を実践させる。

8)敗戦の衝撃は、国民に新しい視野と精神的覚醒をもたらす。

9)敗戦は国民に、平常では得られない新しい経験を与える。

10)敗戦は国家に戦争をもたらした体制の変革を引き起こす。

11)敗戦によって引き起こされた体制の変革は、従来伝統的に行われて来たさまざまな抑圧から国民を解放する。

12)敗戦は国民に敗戦以前とは異なった新しい仕方の結束をもたらす。

13)敗戦は敗戦国の国際関係を変化させる。

14)新しい国際関係によって、敗戦国にはそれまでに存在しなかった新しい展望が開ける。

15)新しい国際関係によって、敗戦国はそれまでに存在しなかった国際的経済環境が与えられる。

16)敗戦は敗戦国の個人に新しい人間関係をもたらす。

17)敗戦が個人にもたらした新しい人間関係は、個人の発展の可能性を従来より大きくする。

18)敗戦の体験は、国民全体に戦争の苦しさに関する教訓を与える。

19)その教訓によって国家の性格は変化する。

20)敗戦は敗戦国の個人に試練を与え、その試練が敗戦国民を鍛練する。

21)敗戦は敗戦国民の一部に特別苛酷な試練を与え、それを耐え抜くことができた個人に、特別な資質をもたらす。

22)敗戦国民は戦勝国から援助を受ける。

23)敗戦国民は戦勝国民の文化を学習する。

24)敗戦国民は戦勝国民から学習した文化において、新しい能力を発揮する。

25)通常、敗戦国は戦勝国に比してより大きな損害を受けているので、戦災によって生産財にもたらされた莫大な損害が、必然的に生産財の更新を促進し、技術革新を引き起こし、生産力と国際競争力を向上させる。

26)前項と同様のことは、敗戦国の都市や住宅や道路や環境に関しても発生し、戦災による破壊によって都市計画が実現され、住宅環境や道路事情や環境を改善する。

27)敗戦国は戦勝国に協力することによって、その戦勝国が将来得るはずの利益の分け前にあずかる。

28)敗者が勝者に較べてはるかに多数な場合は、時間の経過とともに敗者は勝者を吸収してしまう。


 おそらく重大な項目が多数欠落しているものと思われるので、気付かれた方はご教示いただきたい。特に帝国完成型に関連した敗戦の効果に関しては、ほとんど白紙に近い状態である。もちろん上記の多くの項目は、実現不可能な、はかない可能性に過ぎない。実際の敗戦は、前近代のみならず第一次および第二次世界大戦後においてすら、多数の敗者の死や奴隷化をもたらし、勝者による好き勝手な暴行略奪を引き起こし、敗戦国を極貧もしくは隷属状態に変え、数々の屈辱によって敗戦国民の憤怒と怨恨を生起させた。しかしあくまで思考実験上の可能性として、一応上記のような項目を列挙することができるし、さらに多くの重要な項目を追加することも可能である。モンタペルティ現象を引き起こした前述の二つの敗戦の場合、時代も環境も経緯も著しく異なっていたけれども、いずれも上記の可能性の多くが好ましい形で実現していたことが分かる。先に挙げた二つのモンタペルティ現象の間に共通して見られる三つの条件と、上記の思考実験の結果とを擦り合わせると、モンタペルティ現象が発生するための基本的条件を抽出することが可能になるはずである。そうした擦り合わせの結果として抽出された、普通の敗戦においてモンタペルティ現象を引き起こすと考えられる条件とは、以下の通りのものである。

 まず第一の条件は、敗戦以前には周辺の国家に比して好戦的であり、軍事を優先する国家であること。敗戦以前の中世フィレンツェも日本も、好戦的な軍事優先主義を採り、フィレンツェは国民皆兵制、日本は徴兵制の下で、日常的に周辺の国々と戦争を繰り返していた。

 第二の条件は、敗戦によってこのような軍事優先的好戦性からの転換を行い、他国への軍事的侵略を止め、国際社会に対して協調的になったということである。日本の場合は新憲法による180度の転換があった。フィレンツェの場合、モンタペルティ敗戦前後の変化に関して、ダンテは『神曲』の中で、フィレンツェ人がかつては「傲慢」の狂気に取り悪かれていたのに対し、今は「貧欲」の狂気に取り愚かれているという、日本人に起こったのとそっくりな変化についての証言を書き残している。まさに敗戦国民という集団全体に発生する、この転換の極端さと急激さの内にこそ、「経済の奇跡」を引き起こしたモンタペルティ現象の原動力が潜んでいるものと思われる。しかしもちろんそれだけではモンタペルティ現象は起こらない。

⓮ ダンテ・アリギエーリ『神曲』、煉獄篇、第11歌、109~114行。


 第三の条件として、国際杜会がそうした転換を好意的に受け入れてくれなければ、敗戦国はもとの好戦的な体制に戻らざるを得ないであろう。

 第四にそうした転換が個人の解放や行動の自由度の増大と結びつき、第五に敗戦前後の体験が国民を鍛えることで、モンタペルティ現象はさらに大きく開花することであろう。

 上述の5条件は、あくまで普通の戦争の敗戦に関する条件であるが、今さら言うまでもなく、冷戦は普通の戦争ではない。それでは上の5条件をどのように修正すれば、冷戦後の世界に適用できるのであろうか。

 普通の戦争においてモンタペルティ現象を発生させた、最も基本的な第一条件とは、敗戦以前は好戦的な軍事優先主義の国家で、絶えず周辺の国々と交戦していたということである。こうした条件がなければ、敗戦における転換は起こらず、転換がなければモンタペルティ現象は起こらなかった可能性が高い。この論理を冷戦の場合に適用しようとするならば、まず普通の戦争の場合の軍事優先主義的好戦性に相当する事柄が冷戦の場合には何であったか、を明らかにしなければならない。

 すでに見たとおり東側諸国を結びつけていたのは、マルクス・レーニン主義というイデオロギーである。レーニンがマルクスの思想を実践するために一党独裁の道を選んでソ連という国家を創建したことと、その国家が核となって東側陣営が拡大した経緯は、前章でたどった通りである。マルクスはその主著が未完の『資本論』であり、『共産主義宣言』によって資本主義から共産主義への革命を訴えたことは周知の事実である。レーニンはロシア革命が始まる直前、『資本主義の最高の段階としての帝国主義』 によって先進資本主義国家が植民地再分割をめぐって争っている現実を明らかにして、マルクス主義を20世紀の状況に適合させたが、そのタイトルからも明らかな通り、批判の対象はあくまで資本主義であった。すなわち東側陣営とは、プロレタリアートを搾取して奴隷化していることを理由にマルクスが告発した、資本主義と戦うためのイデオロギー集団だったのである。

⓯ 周知のごとく『資本論」の第2巻、第3巻はエンゲルスが整理、編纂したものである。

⓰ 1847年11月、「共産主義者同盟」がマルクスとエンゲルスに党の綱領の作成を依頼したために『宣言」ができあがり、最初ドイツ語で発表された。

⓱ カレール=ダンコース、前掲書、232ページ以下。

⓲ 『資本論」は、あくまで学究的な資本主義の追及であるが、結果的に資本主義においては搾取が必然的に発生し、労働者が奴隷状態に置かれることを告発している。


 こうした事情を考慮すると、普通の敗戦の場合にモンタペルティ現象が発生するための第一条件として挙げられている、軍事優先主義的好戦性に相当する条件とは、資本主義との戦いにおける積極性、ということになるであろう。ただしそうした意志の表明だけなら、東側諸国のあらゆる国で日常的に行われていたはずだから、言説だけでその積極性の強弱を測定することは不可能である。結局その強さを測定するためには、それらの国々がどれほど熱心に資本主義と戦ったかという、歴史に記録されたその戦いの実践ぶりを比較しなければならない。この場合、資本主義との戦いが激しければ激しいほど、その後に転換が生じた場合には極端かつ急激になるはずだから、モンタペルティ現象が発生するために有利だということになる。そこで冷戦の場合には、モンタペルティ現象が発生するための第一条件として、「軍事優先主義的好戦性」の項目に、「資本主義との戦いの積極性」を代入しなければならない。

 しかしもちろんそれだけではモンタペルティ現象は起こり得ない。そうした戦いの後、ある時点で資本主義との戦いを打ち切り、これまで資本主義と戦ってきた体制を、資本主義を受容する体制に180度転換しなければならない。モンタペルティ現象が起こるためには、前の状況から転換することが必要だという条件は、冷戦終結後に関しても、普通の敗戦後に関しても、全く等しいのである。そこで冷戦終結後に際し、それぞれの国で実際にそうした体制の転換が行われたかどうかを吟味しなければならない。せっかく粛清や飢饉で国民の多数を失うほどの苦難を重ねながら資本主義と戦い続けてきたとしても、その後にこうした転換が行われなければ、冷戦後にモンタペルティ現象が発生する余地は全くないのである。したがって個々の事例に即し、実際に資本主義との戦いが終わっているかどうか、そして現在は資本主義社会と協調しているかどうかを確かめなければならない。これは決してそれほど困難な作業ではなさそうである。というのは、資本主義との戦いの記録が残されてさえいれば、多くの場合その後の経緯をたどることが可能だからである。また資本主義との戦いの記録が曖昧で、その後の転換も明確ではない場合には、当然その転換の衝撃も微弱なはずであり、モンタペルティ現象が発生する可能牲も低いので、それ以上の検討を打ち切ることが許されるであろう。

 モンタペルティ現象発生の条件としてもう一つ忘れてはならないことは、こうした転換が行われるためには国際社会の協力が欠かせない、という事実である。この点も普通の敗戦の場合の条件がそのまま通用する。せっかく資本主義との戦いからの転換を行っても、国際社会の反応が冷たければ、モンタペルティ現象が発生することは不可能である。第一次世界大戦後のドイツは、敗戦後理想主義的で国際協調的なワイマール憲法を掲げて軍備を縮小するなど、少なくとも憲法などから見る限り、戦前のドイツ帝国からの大きな転換を試みたが、フランス等が莫大な賠償金や領土の割譲を求めて、ドイツに天文学的なインフレを引き起こし、戦後の生活を著しく困難にした。恨み骨髄に徹したドイツ人たちは、ワイマール共和国が破綻すると、戦前以上に好戦的なナチス体制を選択して第二次世界大戦を引き起こした。このようにせっかく転換を決意しても、国際社会が受け入れてくれなければ、重大なトラウマを残したまま、転換は中止されざるを得ない。したがって個々の国の体制転換に対する国際社会の反応を確かめておかない限り、モンタペルティ現象が発生する可能性の有無は予測出来ないのである。なお先に普通の敗戦の場合の第四、第五の条件として示した個人の解放や鍛練に関連する項目は、いずれもモンタペルティ現象の勢いを増進させるために重要なものではあるが、程度の差はあれ、転換が行われたいかなる国でも認められるものであり、客観的に測定することが困難なので、本章における吟味のための基本的条件からは外すことにする。

⓳ H・A・ヴィンクラー著、後藤・奥田・中谷・野田訳『自由と統一への長い道Ⅰ・ドイツ近現代史 1789~1933』406~414ページ、「第Ⅶ章、6 カップ・リュトヴィッツ一揆とルール蜂起」の節参照。木村、前掲書、296ページに、「ワイマール共和国は数十万人の軍隊を縮小しようとしてクーデターを引き起こした」とある。この時は労働者のゼネストなどで鎮圧することができ、なんとか「10万人軍隊」にまで押え込んだ。

⓴ 同上、303ページ以下。およびヴィンクラー、前掲書、379~542ページ、「第Ⅶ章・事前に重荷を負った共和国1918~1933年」の節がその経緯を語っている。


以上の考察によって、冷戦の終結に際してモンタペルティ現象が起こる可能性を吟味するためには、普通の敗戦の場合の第一条件に当たる「軍事優先的好戦性」の項目を、「資本主義との戦いの積極性」に改めるだけで、それ以下の項目はほぼそのまま通用することが明らかになった。個人に関連する最後の二項目を省略すると、

1)資本主義との戦いの積極性

2)その後の転換と資本主義的活動の展開

3)その転換に対する国際社会の好意的な反応

の3点にまとめることができる。以下、若干の異同はあるかもしれないが、東側陣営の国々について、同陣営に参加した順番に、三つの条件の有無を個別に吟味していくことにする。

 まず最初に吟味すべき対象は、マルクス・レーニン主義の本家本元であるソ連である。この国が生まれなければ、その後に東側陣営は形成されず、冷戦も発生しなかったはずであり、アメリカ合衆国とともに、20世紀の歴史に最も大きな影響を及ぼした国であることを何人も否定し得ないであろう。革命の苦闘の中で、早くも1918年の半ばから戦時共産主義体制を採用して、多くの餓死者を出しながらも、資本主義との戦いを進めたこと、しかし生産力の低下と国民の不満による暴動は無視し得ず、レーニンがまだ生きていた1921年から20年代の末ごろまでの時期に、ネップを採用して市場経済の部分的復活を許さざるを得なかったことはすでに見た。

㉑ 圧倒的に農業国であったロシアでの共産主義革命の成功は、資本主義が発達した国で共産主義革命が起こるとしたマルクスの予言にも反していて、必然とは認め難かった。マルクスのロシア観については、的場明弘編『マルクスから見たロシア、ロシアから見たマルクス・レーニンの革命論、オリエンタリズム、国家イデオロギー装置をめぐって』、東京(五月書房)2007など。


 しかしその後スターリンは1920年代の末頃から、一度は緩和した社会主義化政策を再度強化し、アメリカ発の世界大恐慌が世界で猛威を振るっていたまさにその時期に、農業の集団化と五ヶ年計画を着々と強行した。広大な土地と豊富な資源に恵まれたソ連は、ネップ時代の蓄積を基礎にして巨大な工業国に変貌した。多数の反対者を粛清しつつ国営の重工業の建設を強引に進めたことは、第二次大戦を支えるために役立ったが、国民の衣食住にきびしいしわよせが来たことは否定できない。とりわけ農民たちの不満を無視して建設された集団農場では、上から押し付けられた計画が創意工夫や労働意欲を減退させ、生産性を著しく低下させた。以上の事実によって、ソ連ではある時期、資本主義との激しい戦いが見られたことは確実である。さらにソ連という国自体が、1991年ゴルバチョフ政権がクーデターをめぐる紛争で実権を失った後に解体し、その本体の部分はエリツィンが主導する、複数政党制で普通選挙による二院制議会を持つロシア連邦共和国として独立し、残りの部分は14の共和国として独立した。こうした冷戦終結の過程で、大きな転換が見られたことも確かである。またその変化に対して、アメリカを始めとする西側諸国やその他の国々は、ほぼ好意的に反応した。したがってソ連の後身に当たる現在のロシア連邦共和国と残りの14の共和国は、一応モンタペルティ現象が発生するための三条件に合致していると判定できるかも知れない。

㉒ 上島武著『ソ連崩壊史』、東京(窓社)1996、15ページなど。

㉓ 上島、前掲書。中村平八著『ソ連邦からロシアヘ・ロシアはどこに行くのか』、東京(白桃書房)2006、の第二章以下、その他。

㉔ G・ジョン・アイケンベリー著、鈴木康雄訳『アフター・ヴィクトリー・戦後構築の論理と行動』、東京(NTT出版)2004、「第七章・冷戦が終わって」。


 しかしロシア連邦以外の小さな14の共和国の場合、それらはかつてロシア帝国の支配または勢力下にあったために、ロシア本体の共産化に巻き込まれて共産化しただけなので、資本主義との積極的な戦いという第一条件に関して、弱い点があると判断せざるを得ないのではあるまいか。ソ連崩壊を契機に逸速く独立したという事実そのものが、これらの国々のかつてのソ連に対する国民感情を証明していると言えるであろう。その上これらの国々では、国民の大半によって、冷戦の終結は敗北どころか支配者からの解放として受け取られている可能性が高い。その場合、本来敗北の衝撃がもたらすはずのモンタペルティ現象が発生することは困難である。したがって旧ソ連の後身の国々に関しては、その本体を引き継いだロシア連邦だけが三条件に合致していると判定することが妥当だと思われる

㉕ 筆者はロシア連邦以外の国が三条件に合致しないと断定しているわけではなく、比較的合致する可能性が低いので、検証の対象から外すということである。他の東側諸国の場合も同様である。


 続いて1924年からソ連の衛星国となったモンゴル人民共和国の場合、1990年に人民革命党の一党独裁体制が崩壊し、複数政党制のモンゴル国に変化したため、転換が行われたことは確実だが、何よりもまずこの国の共産主義体制が、先に見たソ連から分裂して独立した国々の場合と同様、外から持ちこまれたものであることを忘れてはならない。ということは、この国も第一条件に合致し得ないと判定できるだろう

㉖ この国の場合も、当初ロシア帝国の支持を得て独立を目指した後、ロシアで革命が起こったためソ連の衛星国となったのだから、巻き込まれ型の共産化だと見なし得る。


 まさにそれと同じことは、1940年代に誕生した東欧諸国の国々に関しても言える。ソ連軍によって次々と占領され、さまざまな経緯によってマルクス・レーニン主義に基づく一党独裁体制を採用させられ、その衛星国となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア、東ドイツなどの国々は、程度の差はあれ、いずれも資本主義に対する戦いにあまり積極的ではなく、1953年の東ドイツの暴動、1956年のハンガリー事件、1968年のプラハの春、1980年ポーランドの「連帯」結成など、ソ連に抵抗する運動が次々と発生して東側陣営を震憾させ続けた。元々これらの国々では、ソ連の代弁者であった指導者階層を除く一般市民の間では、社会主義体制はソ連によって押し付けられたものだという意識が濃厚で、とても資本主義と戦う意志などは育たなかったようである。東ドイツ国民の多数がベルリンの壁を歓喜の声とともに崩壊させたことでも明らかなように、一般的には東側陣営の敗北と見られている冷戦の終結も、彼らはむしろソ連に対する勝利として受け止めていたのであり、当然敗戦国民の悲痛な危機感よりも、戦勝国民に近い解放感をもってこれを迎えたはずである。だから唯一流血の惨事とともに体制の転換を行ったルーマニアをも含めて、国民の大半は敗戦がもたらすはずの絶望的な衝撃を受けておらず、そうした衝撃が与えるはずのさまざまな効果や教訓とも無縁であり、結果的に敗戦国民にのみ与えられるはずのモンタペルティ現象という贈り物にあずかることはできなかったものと思われる。その後東ドイツは西ドイツと一体化し、チェコスロヴァキアはチェコとスロヴァキアに分裂するなどさまざまな変動が見られたが、後にどの地域もEUに加盟することによって、一応の安全保障と他の加盟国並の権利を確保することになった

㉗ 個々の事件については、第一章の注㊺ で列挙した参考文献を参照していただきたい。

㉘ むしろ東欧諸国の場合、第二次世界大戦以降敗戦状態が続いていて、これ以上負けようが無かった、と言うのが実情だったのではないだろうか。

㉙ 2004年にはバルト三国やチェコ、ハンガリー、ポーランド、スロヴァキア、スロヴェニア、2007年にはルーマニアとブルガリアがEUに参加した。それらの国々はNATOにも参加している。


 さらに悲惨な例がユーゴスラヴィアとアルバニアに見られる。いずれもソ連軍と全く無関係とまでは言えないが、主にパルチザンの力でドイツ軍から自国を解放したという名誉ある過去を持ち、兄弟のような関係にあった。だがそのためにユーゴは早くも1948年からソ連との関係がこじれ、アルバニアはユーゴの圧力から逃れるためにソ連に接近した。ユーゴはチトーの下で一致団結して、非同盟国の一員として苦難を乗り越えたものの、冷戦の終結とともに四分五裂し、おまけに内戦が勃発してかつての住民の多くが犠牲になったことは周知のとおりである。一方アルバニアも61年の中ソ論争では中国側についてソ連に楯つき、ソ連軍の制裁を恐れて国中を小要塞化し国民の多くに銃を持たせるなどという危機を経験し、その後の発展も決して順調とは言えない。要するに両国ともモンタペルティ現象どころではない、というのが苦しい現状である。

㉚ ユーゴ内戦については、共同通信社、前掲書、588ページ。

㉛ 同上、598ページ。


 続いてアジアで最も早く共産主義国家を樹立したヴェトナムの場合は、自ら進んで社会主義体制を選んだ国であり、その後1965~75年のアメリカその他を相手にした南ヴェトナム解放戦争をも戦い抜いて勝利し、南北ヴェトナムの統一に成功した。しかしこうした過去の栄光に縛られることなく、1986年にドイモイ計画によって、混合経済による資本主義的市場の一部導入、国際分業への参加などの方針を決議して大胆な転換を試み、その後この試みを着実に拡大した。この転換計画が国際的に受け入れられて、効果を発揮し始めていることは確かである。冷戦終了後も、一党独裁制の社会主義体制を堅持しているが、経済的には資本主義と和解している点で、モンタペルティ現象の発生条件を三つとも備えた国の一つと見なすことが可能である

㉜ 下斗米、前掲書、166ページ、「全方位外交」は169ページ。

㉝ 同上、は改革の遅れを強調しているが、現在は経済活動が活発化しつつある。


 今さら言うまでもないが、中国はヴェトナムに劣らず、それどころかむしろはるかにそれを超えて、三つの基本的条件に合致している国である。まず第一に中国はほとんど自力で共産主義革命を達成し、さらに毛沢東の存命中は、朝鮮戦争への支援、技術的・経済的条件を無視して強行したために多数の餓死者を出した「大躍進」、そして紅衛兵を動員して一時期走資派を圧倒した文化大革命などを通して、資本主義と勇猛果敢に戦ったことは周知の通りであり、第一条件に見事に合致していることに疑問の余地はあるまい。しかしその同じ中国で1976年9月に毛沢東が死去すると、それからまだ2ヵ月も経たない内に文化大革命を推進した江青ら四人組が逮捕され、翌年の5月「資本主義を歩む連中」の首領の一人として名指しで非難され続けた鄧小平が復位し、毛沢東没後わずか2年目の1978年12月に、中央委員会全体会議で提起された「改革開放」路線によって、資本主義の否定からその受容へと状況は劇的に転換された。中国のこうした転換に対する国際杜会の反応もきわめて好意的であり、東側陣営の亀裂を深めるために1972年2月ニクソン大統領が訪中して数年後の国交回復への道を開き、日本の田中角栄首相が同年9月に訪中して「台湾とパンダを交換」するなど、すでに中国自身の転換以前から、西側諸国では中国と国交を回復してその市場化を受け入れる動きが進んでいた。したがって中国こそ、冷戦後世界においてモンタペルティ現象の恩恵に与かる可能性が最も高い国の一つに数えることができるであろう。

㉞ 中嶋嶺雄著『北京烈烈・文化大革命とは何であったか』、東京(講談社)2002。厳家祺・高皋著、辻康吾監訳『文化大革命十年史、上・中・下』、東京(岩波書店)2002、加々美光行著『歴史のなかの中国文化大革命』、東京(岩波書店)2001、その他。

㉟ 中嶋、前掲書、361ページ以下。厳・高、前掲書・下、367ページ以下。

㊱ 下斗米、前掲書、141~143ページ。


 こうした中国と対照的な国家が北朝鮮である。国家統一のための朝鮮戦争を引き起こして多数の犠牲者を出した北朝鮮は、金日成なき後、金正日による独裁体制が今日も堅持されている冷戦の博物館のごとき国家である。この国はソ連軍の占領によって建国されたという経緯を補うために、独特の主体思想を構築して自らの体制を正当化している。したがって今日も西側陣営との戦いは続いていて、その後の転換が行われておらず、当面モンタペルティ現象が起きる可能性は全くない。ただし一度転換さえ行えば、低賃金で良質の労働力に恵まれているために、奇跡的に発展する可能性があるだろう。中国は北朝鮮に対して支援を続けているが、アメリカ軍の勢力範囲との緩衝地域を維持するという地政学的理由や、体制が崩壊して多数の難民が自国になだれ込むのを避けたいという配慮と共に、筆者には、自らがかつての東側陣営の理念を真っ先に裏切り、資本主義との和解に踏み切ったことに対する、中国側の後ろめたさが感じられるように思われてならない

㊲ 同上、188ページ以下。ただし必至とされている変化の兆しはまだ見えない。

㊳ 共産主義の基本理念が資本主義否定である以上、共産党の一党独裁を続けるためには、資本主義を否定している体制には甘くならざるを得ない、という事情があるものと思われる。


 続いて東側諸国に加わったキューバは、状況に追い詰められたとはいえ、自ら東側陣営に加わり、アメリカ人の資産の国有化を推進してアメリカ資本主義の重圧と戦い続けた点で、第一条件には合致している。冷戦終結後ソ連の経済的支援を失い、苦難の時を迎えたが、なんとか社会主義体制を維持して今日に至っている。そして土地所有や信仰の自由を認めるなど、近年かなりの自由化が進んでいるようだが、老齢に達した指導者の下で、大胆な転換やそれに対する国際社会による暖かい対応などはまだ認められない、というのが現状のようである

㊴ 1927年生まれのフィデルが病気で、現在は弟が暫定的に代理をしているが、いずれにしても高齢である。


 ヴェトナム戦争の終了後、アメリカその他の軍隊の撤退を契機として建国されたラオス人民革命党のラオス人民民主共和国や、クメール・ルージュの民主カンボジアは、ユーゴスラヴィアやアルバニアなどと同様、一応自国民の手で確立されたとは言え、当時の周囲の状況の圧倒的な影響の下で生まれたという共通性が認められる。ラオスは一党独裁制を堅持しつつも、1986年に市場原理を導入して早々と転換をはかっていて、西側諸国との関係も好転している。したがってラオスは一応三条件をクリアしていると言えるだろう。一方民主カンボジアは、資本主義に対してほとんど宗教的と言えるほど過激な戦いを展開した後に敗北した。ヴェトナム軍の侵入や内戦の後に、国連監視の下で選挙を行い、立憲君主制(両院制)を採択して、今日では復興の兆しが著しいようである。しかしポル・ポト政権が多数の市民を殺害したことや、その後の内戦や外国の軍隊の進攻による傷痕のために、仮にかつて東側陣営の一員だったと認めても、当面モンタペルティ現象が発生する可能性はそれほど高くないものと思われる。それに人口の1割前後にも及ぶ知識人や技術者や医師などの専門家階層がまとめて虐殺された場合、当然その国の将来に対する悪影響が危惧されるのではないだろうか

㊵ 下斗米、前掲書、169~170ページ。

㊶ 共同通信社、前掲書、210ページ。

㊷ ポル・ポト派の裁判については、同上、211ページ。


 すでに記したとおり、アフリカで植民地から独立した国々は、過去資本主義の最悪の形態である植民地主義によって深く傷付けられていて、独立を守り近代化を推進するためには、社会主義的な一党独裁制度を採用せざるを得なかったという事情があった。旧フランス領コンゴから独立したコンゴ共和国が、革命によって生まれ変わったコンゴ人民共和国もその一例であったが、1991年にあっさりと国名もコンゴ共和国に戻し、一党独裁制を複数政党制に変更している。その後に内戦が起きて収拾に苦しんだという事実そのものが、この国が一時期共産主義的独裁体制を採用した理由を示唆している。異なる習俗と言語を持ったいくつかの部族からなるこれらの国々にとって、共産主義的独裁は資本主義との戦い以前に、国家そのものを存立させて近代化を進めるためにほとんど不可欠な手段だったようである。しかしその体制を転換した後に内戦に悩まされたのでは、モンタペルティ現象が起こる可能性は低い。なおその隣の旧ベルギー領コンゴは独立してコンゴ共和国と名乗るが、旧フランス領とは反対の方向に進み、独裁者のモブツがザイール共和国と国名を改め、「アフリカの反共の砦」と称して一時期西側諸国の援助を一手に集めていた。こうした独裁者の存在自体が、アフリカに一党独裁体制が多数出現した理由を裏付けていると言えよう。

㊸ 同上、310ページ。

㊹ 同上、368ページ。モブツについては、伊谷他編『アフリカを知る事典』、東京(平凡社)1989、410ページなどに記載があり、その170ページでは、地下資源が豊富なため、フランス、ベルギー、アメリカ、イギリスなど西側諸国の援助を受けていたとされている。


 ギニア共和国の場合は東側への仲間入りがわずか足掛け7年のことなので吟味する必要はあるまい。ソマリアも、現在は貧困のあまり海賊の跋扈する地域になり果ててしまっている。ベナンの場合も、社会主義化した時期が1975年と遅く、やはり部族同士の争いなどを押え込むために選ばれた体制のようである。しかも接近した相手はソ連ではなく、文化大革命終了前後の転換期の中国だったから、東側陣営の正式メンバーとは認め難い。エチオピアに関しても、皇帝の退位と社会主義国家建設宣言が1974年の後半で、その体制の崩壊が1991年と、一党独裁体制は短い期間の出来事であり、その間に行われた皇帝親子を含む数十万人の粛清などは、あくまでメンギスツとその党派の権力確立のための手段であって、資本主義との戦いの結果だとは考えられない。だからこれらの国々が第一条件に合致しているとは到底認め難い。

㊺ 共同通信社、前掲書、339ページ、現在は暫定政権だとされている。

㊻ 同上、341ページ。


 元はポルトガルの植民地で、1974年に宗主国で起きたカーネーション革命を契機として独立を認められたギニア・ビサウでは親東側政権は短期間で終わっているので、吟味する必要はなさそうである。それに対して1975年にやはりポルトガルから独立したアンゴラとモザンビークは、いずれも人民共和国と名乗り、東側陣営の一翼に加わったが、陣営の崩壊と前後して、モザンビークは90年、アンゴラは92年にただの共和国と名前を改め、複数政党制に転換した。これらの国々は資源に恵まれ、ともに復興しつつあるようだが、長期にわたる内戦のために、現在モンタペルティ現象が起こる可能性はきびしく制約されていると見なすべきであろう。東側陣営に加わるのには遅すぎる時期に建国されたエリトリアの場合は、冷戦ともその終結とも無関係である。

㊼ 同上、アンゴラは373ページ、モザンビークは377ページ。


 アメリカ大陸の一部ニカラグァの場合も、一応79年にサンディニスタ革命が実現されたようだが、結局反対勢力コントラを排除して一党独裁制を確立するには至らず、一国あげて資本主義と戦う体制には至らなかったようである。したがってアフリカ勢力の場合と同様、第一条件に合致しているとは認められない。さらにイエメン人民共和国のようにイスラム教徒が国民の大半を占めている国家の場合、西欧諸国の敵だという理由で東側陣営に接近していただけで、マルクス・レーニン主義を信奉して資本主義と戦うなどという意志は本来それほど強くはなかったものと考えて良さそうである。アフガニスタンに誕生した民主共和国の場合は、極めて例外的にそうした意志が感じられ、そのためにソ連が派兵したものと考えられるが、それに対する一般国民の反応はきわめてきびしく、タリバン政権という対極にまで突っ走っている。したがって以上の二つの国に関しては、改めて三条件に関する吟味を行うことなど必要なさそうである。

㊽ 同上、457ページ。

㊾ 同上、305ページ。

㊿ 同上、228ページ。


 以上、かつて東側陣営に属していたり、接近した国の各々について、モンタペルティ現象が発生するために必要だと見なされている三つの基本的条件に合致し得るかどうかを吟味した。その結果、正式名によると、旧ソヴィエト社会主義共和国連邦の後身にあたるロシア連邦共和国、ヴェトナム社会主義共和国、中華人民共和国、ラオス人民民主共和国が残った。次章では、それら4カ国の内、実際にはどの国でモンタペルティ現象が発生しているか、それはいかなる事情と経緯によるものであるかを、くわしく吟味、検証していくことにする。


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