モンタペルティ現象6-1


現代中国でもモンタペルティ現象が発生していた

米山  喜晟




はじめに


 筆者は前論文において、冷戦後の世界におけるモンタペルティ現象について論じた。その結果、まずそれが発生している可能性が高い国は、ロシア、中国、ヴェトナム、ラオスの4カ国に絞られ、各国が有している事情を勘案して、中国においてそれが実際に発生しているのではないか、という推論を行った。今日の中国の繁栄ぶりを考慮すると、この推論は全くでたらめなものではないように思われる。

① 拙稿「冷戦後世界のモンタペルティ現象」(『国際文化論集」第43号、大阪桃山学院大学総合研究所・2010)143~229ページ。(「百万遍第7号所収)


 しかし私自身、その論証には不十分な点があること感じていた。私が自らの論証に関して不十分だと感じたのは、主に以下の2点である。その一つは、冷戦を普通の戦争と同様に考えて、東側陣営に属した国々を敗戦国と見なしたことである。一言弁解するならばアイケンベリーという国際政治学の専門家も、国際的評価の高いその著書において、冷戦における西側陣営の勝利をナポレオン相手の戦争や第一次および第二次世界大戦における勝利とほぼ同様に扱っているという事実 があり、筆者もその事実に依拠して、あたかも冷戦における東側陣営の敗北を、普通の戦争における敗北であるかのように論じた。

② G・ジョン・アイケンベリー著、鈴木康雄訳『アフター・ヴィクトリー 戦後構築の論理と行動』東京(NTT出版・2004)、第七章・冷戦が終わって。


 しかし東側陣営の国々の中で、西側諸国との実際の戦争によって滅亡した国家が一つも存在しなかったことは厳然たる事実である。むしろヴェトナムやキューバなど西側諸国に対して勝利や独立を勝ち取った国は存在していても、西側諸国との戦争に敗れて消滅した国は存在していない。東側陣営のいかなる国といえども、イデオロギー闘争の敗者であることは認めても、自らを敗戦国とは見なしていないはずである。とくに私がモンタペルティ現象が発生しているのではないかと指摘した中国などは、今日も共産党による一党独裁体制を継続しつつ、世界の超大国としての地位を着々と築きつつあり、自国の敗戦などという事実は金輪際認めようとはしないであろう。

③ 塩川仲明著『《20世紀史》を考える』東京(勁草書房・2004)「第Ⅱ篇、5 社会主義その栄光と悲惨、の注(11)に、旧ユーゴスラヴィアや旧ソ連で発生した流血の紛争は民族紛争であり、「体制転換それ自体が大規模な衝突と流血を伴ったのは、ルーマニアだけといってよい」と記されているが、そのルーマニアも、外国の侵略を受けたわけではなく、現在も立派に存続していて、EUに加盟している。


 だがそれと同時に中国では、文化大革命と呼ばれる恐らく世界史上最も大規模なイデオロギー闘争の後に、一転して従来とは正反対の政策に転換し、今日の繁栄を築いていることも否定し得ない事実である。ここには普通の戦争における敗戦はなくとも、資本主義との闘争というイデオロギーを廃棄したこと、すなわち毛沢東が推進したイデオロギー闘争が挫折して政策を180度転換したことは何人も否定し得ない事実である。

 そこで問題は、イデオロギー闘争の敗北が、モンタペルティ現象を発生させ得るかということになるが、一般的にはイデオロギー闘争の敗北と普通の戦争における敗戦とは決して同一とは見なし難いことは確かである。しかしその状況次第では、ほとんど同等の意味をもち得る場合があることを認めなければならないのではないだろうか。私は現代中国には、そのような状況が存在していたと考えているのだが、前論文においては、アイケンベリーの著書に依拠する余り、その点の記述が不十分であったことを認めざるを得ない。そこで本論においてその不備を補う必要があるだろう。

 全く未知の分野を門外漢が論じている以上、有識者が見れば前論文には不十分な点や誤まりは恐らく多数あるはずだが、わたし自身の目から見てそのうちの最も重要なものをさらに一つだけ挙げるとすれば、前論文の論証があくまで国際的な比較にとどまっていたという事実である。

 すなわち諸般の事情から勘案して、中国には東側陣営に属していた他のいかなる国よりもモンタペルティ現象が発生し易い条件が備わっていたことを指摘し、そのことと今日の中国の状況とを照合することによって事足れりとしていたわけである。いわば現代中国を外から検討しただけで、内側からモンタペルティ現象の発生を追及するという作業を怠っていた。これではモンタペルティ現象が発生するために必要な条件を示して、現代中国が相対的にそうした条件にもっとも恵まれていたことを示しただけであり、実際にそれが進行した経緯には全く触れる事なく、その存在を強弁しているに過ぎない。

 そこで本論では、紙数が許すかぎり、現代中国でモンタペルティ現象が発生し進行した経緯を辿ることにしたい。そうした経緯を辿ることによって、おそらく中国においてのみ、イデオロギー闘争がほとんど戦争と同様の影響を中国全土にもたらした事情をも明らかにし得るはずであり、先にあげた欠点をもある程度補填し得るのではないかと考える。

 冷戦に関してと同様、中国に関しても、おそらく普通の成人にも劣るほど無知な人間であり、第一中国語も知らない私が、不遜にも中国に関して論じる理由については、すでに前論文の「はじめに」の部分で弁明したので再度記さない。いずれにせよ私は、モンタペルティ現象という、これまで世界中の誰にも指摘されたことのない現象の存在を裏付けるためには、中国の近年の変化がきわめてふさわしい事例の一つだと信じるものである。目の前に発生しているこのように顕著な事例を無視して、比較的知識や話学力に恵まれた分野にのみ視野を限定することの方が、知的怠慢と見なされるべきではないだろうか。

④ 注①の146~147ページ。


 そこで私が本論において行う論証は主に2点からなっている。まず現代中国において戦争に匹敵するほどの重要性を有するイデオロギー闘争がいかにして発生したのかを、中国現代史の展開過程を辿ることによって明らかにしなければならない。こうしてこの闘争を強引に推し進めた毛沢東の権力の特異性が把握し得るはずである。その結果、中国における資本主義との闘争がいくつかの東側陣営の国々のように凝固した状態に安定することなく、毛沢東の死去によって一挙に転換した事情が明らかにできるであろう。そうした転換が全国に敗戦の場合と同様の速度と圧力で伝わり、その後に旺盛な市場活動を展開した経緯を辿ることによって、中国の現状を解明するためのヒントが得られるはずである。

 それに続く二つ目の論証として、いかに重大であったにせよ、国内で発生したイデオロギー闘争の終焉が、なぜ敗戦に勝るとも劣らぬ結果をもたらしたのかを論証する必要がある。さらにそうした闘争が終焉したために生じた転換の結果が、これまでに見て来た中世フィレンツェや現代日本で発生したモンタペルティ現象に酷似していることが、転換後の経過を辿ることによって明らかになるはずである。ただしすでに見たとおり、イデオロギー闘争はあくまで普通の戦争とは異なっているということも、否定し得ない事実である。したがってその相違が齎すものをも明らかにせねばならない。なお国際的な比較と国内に発生した現象の経緯の追及という異なった視角から論じているとはいえ、同じ対象を論じている以上、本論には前論文と重複した記述が現れざるを得ないことを予めことわっておきたい。

 いずれにしても、過去も現在もモンタペルティ現象は世界史において重大な影響を及ぼし続けているのであり、決して無視し得ない歴史の動因の一つであることを、認めざるを得ないのではないだろうか。




第一章 現代中国におけるモンタペルティ現象発生の経緯 その一 転換前


 私たち門外漢にとって、現代中国の歴史は驚異の連続に他ならないが、もっとも驚くべき事柄の一つは、あの広大な領土の大半が、短期間の内に中国共産党の支配下に入ったという事実である。大日本帝国が敗北して中華民国が勝利したのが1945年8月の半ば、その時勝利したはずの蒋介石の政府が共産党勢力に次第に圧倒されて、一部での地域でまだ内戦が続いていたとはいえ、毛沢東が北京で中華人民共和国の建国を宣言したのが1949年10月1日と、わずか約4年の間に中国共産党はあの広大な領土のほとんどを席巻することができたのである。もちろんそれ以前に抗日戦争と平行して、長征などを含む国共両軍の戦闘が続いていたことは周知の事実だとしても、一応抗日戦争勝利の立役者として国際的に評価されたはずの蒋介石勢力のあっけない凋落ぶりは、私たちに勝利が当事者たちにもたらすものについての考察をうながすとともに、世界史に及ぼした現実的影響も大きかった。80万対60万と兵員数に劣りながら勝利した、国共対戦の「関ヶ原の合戦」とも言われる准海戦役をはじめ、いずれも中共の解放軍が勝利した三大戦役の勝利を含めた毛沢東が率いる解放軍の地滑り的勝利は、私たち門外漢にとって、唯々奇跡そのものと呼んでも過言ではない出来事のように思われる。

① 私のモンタペルティ現象に関する一連の考察は、敗戦がもたらす結果を客観的に評価し直す試みであるが、蒋介石と国民党の運命などを見ると、勝利がもたらす結果についても客観的に評価し直す必要があるのではないか、という感想が生じる。実は敗戦および勝利の結果の客観化と相対化は、歴史家に求められている重大な任務の一つではないだろうか。

② このあたりの記述は、天児慧著『巨龍の胎動 毛沢東vs鄧小平』東京(講談社・2004)「第二章 エリート革命から人民戦争へ」(87~95ぺージ)、に収められた、毛沢東の逆転戦略、特に「三大戦役の勝利」の部分の記述に負うている。兵力の数字は93ページ。


 門外漢の驚異をもう一つ記させてもらうならば、中国現代史において毛沢東の影響がけた外れに大きいことである。もしも毛沢東が存在しなければ、中共軍の地滑り的勝利はなく、「大躍進政策」にまつわる大飢饉も発生せず、当然文化大革命も起こり得ず、その結果筆者がモンタペルティ現象だと見なしている、改革・開放後の中国の驚異的な経済発展も見られなかったのではないだろうか。天児慧著『巨龍の胎動  毛沢東vs鄧小平』には、現代中国史の一傍観者にとって見逃す訳にいかない以下のような一文が記されている。


 (筆者注=彼が民族主義者であったという特徴に加えて)もう一つの毛沢東の突出した特徴を探すなら、ためらうことなく軍事戦略家としての彼の卓越した能力・実力を挙げておきたい。私は「毛は多くのものが信じているような軍事的天才ではない」(B・ヤン)という見方に賛同しない。正確な論証はできないが、客観的に見て二〇世紀最高の軍事戦略家ではないかと考える。私からしてみればこれでも控え目な言い方で、ナポレオンやシーザー、チンギス・カンといった軍事戦略家にも負けないほど傑出していると思う

③ 天児著、前掲書、40~41ぺージ。



 この評価は、文化大革命の最中に林彪らによって唱えられた、政治的意図に基づく毛沢東天才説 などとは異なり、あくまで毛沢東の実像を伝えようとして日本人の一般的読者のために書かれた概説書に記された、現代中国史の専門家の「客観的に見」た評価であるところが重要である。勿論こうした評価には異論があり、文中に記されたB・ヤン の見解と異なるばかりではなく、評伝『マオ』 の評価などとは真っ向から対立する見方である。そして常日頃矮小化史観を信奉している本来の私の精神的傾向とは明らかに矛盾しているが、諸般の事情を考慮すると、私個人としては天児慧氏の毛沢東評価を受け入れざるを得ないように思われる。ただし天児慧氏の見解に追加して強調すべきことは、毛沢東の戦略家としての才能が発揮されたのが、国民党軍や日本軍相手の軍事活動にとどまらなかったことで、それは中国共産党主席の地位を確立するまでの権力闘争においても、その晩年の政治活動においても、容赦なく発押され続けたという事実ではないだろうか。

④ 同上、209ぺージその他。

⑤ ベンジャミン・ヤン著、加藤千洋・優子訳『鄧小平政治的伝記』東京(朝日新聞社・1999)129ぺージ。

⑥ ユン・チアンおよびジョン・ハリデイ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東』東京(講談社・2005)。


 しかも一人の政治家または人間として特に優れた識見を備えていたわけではなく、その言行はしばしば矛盾に満ち、教養や常識の点でも著しく偏りがあり、そのために信じ難いほど大きな過ちを何度も犯したにもかかわらず、戦闘においても政争においても希代の戦略眼を発揮し続け、自らの権力と自らが率いる集団を守るための闘争には抜群に強かったという、同一人物とは到底思えないほどの能力のアンバランスが、この人物の活動をあれほど特異なものにしたのではあるまいか。実生活と無関係な芸術的天才の場合でさえ、抜群に突出していた場合には同時代のみならず後代にも影響を及ぼし続けることが有り得る 以上、希代の戦略眼などという物騒な才能は、同時代の国民に深刻な災厄をもたらす可能性があり、毛沢東の場合はまさにその典型的な事例だったのではないだろうか。

⑦ 晩年の文化大革命当時に、彼の言行の矛盾は数多く露呈している。当時の中国人としては学生時代が比較的長かったが、その教養は元来人文科学、特に歴史や古典文学に偏っていて、社会科学は比較的弱かったのではないだろうか。勿論後に政治に関わってからは、社会科学を究めないわけにはいかず、当然猛烈に勉強している。そしてしばしば彼の著述の中国的独自性が強調されるようになる。ただし基本的には、陳伯達その他を通して学んだスターリン時代のソ連の社会科学の影響を強く受けていたと見るべきではないだろうか。また自然科学の素養が欠落していたため、一時期その方面の書物を読み耽ったとはされているが、基本的知識を欠いていたため、「大躍進政策」時代には科学的根拠の乏しい様ざまな提案に飛び付いて国家に損害を与えたらしい。最大の問題点は自らの教養の欠落を恥じるどころかむしろ誇りにしていたことで、大飢饉や文化財の破壊を引き起こしただけではなく、専門的知識に対する軽蔑を国民の間に広めることになった。

⑧ そうした存在の一例として、ミケランジェロが考えられる


 ついでにもう少し、毛沢東の戦略的才能をショートの伝記に基づいて具体的に眺めることにすると、まず彼は1927年に「当時の中国に存在したどんな軍隊ともちがう、軍の基盤となる方針を二つ発表した。まず、それが総志願軍であること。辞めたければ好きに辞めていいし、路銀も与えられる。残ったら、もう勝手に将校に殴られることはないし、それぞれの部隊に士兵委員会が組織されて不満のはけ口となり、民主的な運営が行われるようにする。第二に、兵たちは民間人をきちんと扱わなければならない。ていねいな口をきき、買ったものには正当な値段を払わなければならない」 と記されている。勿論これはあくまで方針であって、この通り実行されたかどうかは保証の限りではないし、事実伝記の「第8章 富田 無垢の喪失」で記されたAB団の粛清などの記述 によって、解放軍が一時期神話化されていたように理想的な集団ではなかったことは明らかである。

⑨ フィリップ・ショート著、山形浩生・守岡桜訳『毛沢東 ある生涯』束京(白水社・2010)上、264ページ。

⑩ 同上、328~352ページ。


 それでも略奪や暴行が日常茶飯事であった当時の軍隊において、毛沢東が「兵たちは農民の家に泊めてもらったら、わら布団や寝台の木の囲いを返すこと、借りたものはすべて返すこと、壊したものは弁償すること、礼儀正しくすること、商取引は公平に行うこと、囚人は人道的に扱うこと」という六大注意を発表し、さらに林彪が注意を二つ加え、同時に三大規律をも発表したこと は、一般大衆、とりわけ当時の中国人の大半を占めていた農民たちの解放軍への信頼を高めたことは疑いの余地がない。この一事だけでも毛沢東の非凡な独創性は明らかである。もしもこうした基盤がなければ、いくら革命が土地改革をもたらすことを訴えても、農民たちは聞く耳を持たなかったに違いない

⑪ 同上、275ページ。

⑫ 同上、249ページあたりから毛沢東が中国共産党の指導者として活躍し始める。当時の中国人の圧倒的多数を占めていた貧農層の支持を得て、後に国民党を駆逐する要因となったのは、土地革命を前面に打ち出したことだとされているが、その方針を提起したのは毛沢東自身であった、とされている(252ページ)。


 なお毛沢東には、生涯を通して好んで採用したと思われる戦術があった。それは井崗山に立て篭もった際に農民たちから聞いた、「戦争について知るべき唯一のことはぐるぐる回ることだ」という、山賊の頭目、老聾の朱の戦術である。毛沢東はそれを自分流に解釈して、敵の主力軍からは逃げるという戦術を編み出し、兵士たちに「ぐるぐると引きずり回せ。そして敵が混乱してわけがわからなくなったところで、一番弱いところを衝け」 と教えた。どうやら毛沢東はこの老聾の山賊が編み出したと伝えられる、相手が手強い時には正面からぶつからず、一度はとことん引いておいて、調子に乗って追撃した相手の隙を見て、一気に反撃するという津波のような戦術を、戦争のみならず権力闘争においても、生涯用い続けたという印象を受ける。

⑬ 同上。274ページ


 今更断るまでもなく、私がこれまで中国に関して記した事柄も、今後に記す事柄も悉く一般人向けの概説書や伝記類の受け売りであり、常識人にとっては周知の事実の羅列に他ならず、杜撰な上に退屈以外の何物でもないであろう。しかしそれらの事柄は、私がモンタペルティ現象と見なしている事態が発生するためには不可欠な前提条件であるがために、延々と記述せざるを得ないことをまず断っておかねばならない。

 先に記したとおり毛沢東が建国宣言を行い、続いて中共軍が国民党軍を台湾に追い落とした後も、中国は再建に専念することを許されなかった。すなわち、その翌年の1950年には朝鮮戦争が勃発したため、毛沢東は中国共産党の有力幹部たちの反対を抑えて、大量の義勇軍を派遣して北朝鮮を支援しなければならなかったからである。スターリンは大量の犠牲者を出した自国民の第二次世界大戦の傷痕を癒すため、アジアの問題はなるべく中国に委ねる方針 をとっていたために、韓国に攻め入った北朝鮮軍が国連軍に対して敗勢に陥った後は、中国共産党の解放軍が、義勇軍という体裁を取りながら、自ら正面に立って国連軍を迎え撃たねばならなかった。この戦争自体は1年あまりで激戦が収まり、1951年6月以後は38度線をめぐる膠着状態に陥っていたが、スターリンが休戦を認めず、その後も約2年間戦闘状態が続いたため、中国が国連軍との戦闘状態から解放されるには、スターリンの死後数ヶ月を経た1953年7月を待たねばならなかった

⑭ 下斗米伸夫著『アジア冷戦史』東京(中央公論社・2004)81ページ以下。ショート著、前掲書、97ページ以下。100ページに「大半は毛の意見に反対だった」とある。

⑮ 下斗米著、前掲書、48ぺージ以下。

⑯ 同上、82~83ぺージ。


 しかし当時すでに6億の人口を抱えていた中華人民共和国は、朝鮮戦争への義勇軍派遣と平行して、新国家建設を進めることが可能であった。とりわけ当時圧倒的多数を占めていた農民は、革命と平行して最大関心事である土地改革を急ピッチで推進し、予定をはるかに上回る1年10ヶ月後の1952年春に「土地改革はすでに全国的範囲にわたって基本的に完成した」と宣言され、天児慧著の前掲書によると、基本的に農民が自分の所有地を耕すと言う中国近代史の指導者の夢が実現された。当然農民の生産意欲は高まり、1952年の生産高は大幅な増加を記録することとなった。なお同書によれば、工業生産においてもそれを上回る生産高の増加が認められ、特に農民たちは自分たちを解放した共産党と毛沢東を褒めたたえた、とされている

⑰ 天児著、前掲書、111~112ぺージ。


 どうやらこの時点までは、一党独裁のソ連型とは異なった社会主義国家の建設を目指す選択肢も、中国には残されていたのかも知れない。そして毛沢東自身、建国当初は国民党以外の様々な党派の存続を認め、新しい形態の新民主主義社会形成を模索する路線を約束していた。しかし朝鮮戦争への参戦や、台湾に生き残った国民党勢力の存在、それを庇護するアメリカの脅威、そして特に北部に広がるソ連との関係など、様々な条件が、そのような曖昧な路線の継続を許さなかった。それと同時に毛沢東自身も、レーニンやスターリンの個人的権威の下で国民に一致団結を求める当時のソ連型共産主義体制の利点に気づいたらしい。毛沢東は早くも1952年9月、ゆっくりとすすめるという従来の方針を止めて、社会主義への移行を促進する方針を打ち出した。これに対して農民の立場に立った慎重論も少なくはなかったらしいが、誰一人毛沢東の新しい方針に逆らうことができず、農民たちは分配してもらったばかりの私有地を、農業集団化のために「農業合作社」に返納し、早くも1956年12月には98パーセントが集団化されてしまった。同時に産業の公有化に関しても、同様の社会主義的政策が急激にすすめられた

⑱ 中国共産党に夢を託して裏切られた党派や集団については、諸星清佳著『中国革命の夢が潰えた時 毛沢東に裏切られた人々』東京(中央公論社・2000)参照。毛沢東はこれらの人々を騙しただけでなく、反右派闘争の標的として弾圧した。

⑲ まさにこの時期、冷戦がたけなわとなり、東欧諸国でも一党独裁体制が強化され、ソ連自体も収容所群島と化していた。

⑳ 天児著、前掲書、112ぺージ以下、「ソ連型社会主義の建設」の節。

㉑ )同上、113ぺージ。劉少奇も周恩来も消極的な意見であったらしい。

㉒ 同上、121ぺージにこの数字が出て来る。


 毛沢東とソ連との関係は、長征の前後に体験したモスクワからの指示やモスクワ帰りの中国人留学生たちとの権力闘争、さらにスターリンが久しく堅持した蒋介石への好意的な外交政策などのために、決して良好だったとは言えない。しかし毛沢東は終始慎重に対処して公然とソ連と対立することを避け、1945年夏の日本の敗戦以降ソ連軍による満州占領を存分に利用して、中国革命の進行を促進させた。そして1949年の建国宣言後間もなく、内戦の継続中にもかかわらず毛沢東はソ連を訪問し、その後は朝鮮戦争を共に戦いながらソ連型の社会主義を促進するなど、一時期はソ連一辺倒の時代を迎え、東側陣営におけるソ連の最大の盟友という地位を獲得した

㉓ ショート著、前掲書、上、11ぺージ以下の「プロローグ」で記されている、1935年1月の遵義会議で、毛沢東が解放軍の指導者の地位を奪った相手はモスクワ留学生あがりで、コミンテルンの支持を得ていた博古である。さらに同書、下、17ぺージ以下によると、(かつて上海で共産党の指導者だった)王明は、1937年にモスクワから延安に送りこまれ、毛沢東と軍の指導権を争った。彼は一時期スターリンの代理人と見なされていたらしい。同書、下、414ページ以下によると、ドイツ等のファシズムの台頭に脅威を感じたスターリンが、1935年コミンテルン大会で人民戦線路線を打ち出し、国共合作による抗日戦線を構築した様子が記されるが、解放軍がまだ弱体であるため、スターリンの期待はもっぱら蒋介石に寄せられていて、日本敗戦までそれは続いた。

㉔ ジョナサン・スペンス著、小泉朝子訳『毛沢東』東京(岩波書店・2002)122ページ以下に、解放軍がいかにソ連軍の満州進攻を利用したかが具体的に記されている。特に123ページには、ライフル74万丁、航空機800機、大砲4000基など、国民党軍が大陸で降伏した日本軍から奪った武器に匹敵するほど大量の武器を、ソ連が中国共産党の解放軍に提供した、と記されている。

㉕ 注⑳ でも示した通り、1960年まではソ連型社会主義を目標としていた。


 こうして建国以来続いていた「一枚岩」の関係に深い亀裂を生じさせたのは、スターリンの死後3年を経た1956年2月に第20回ソ連共産党大会において、フルシチョフによって行われた「スターリン批判」の秘密報告であった。

 それは当時ソ連と盟友関係にあった東側諸国のリーダーのだれにも相談することなく行われ、大粛清をともなったスターリン独裁の実態を暴露して、ソ連共産党がそれまで信奉してきた「個人崇拝」の政策を否定するものであった。毛沢東は2ヵ月かけてその内容を検討し、4月5日の論文でスターリンの功績の7分を評価、3分を否定するという中国独自の立場を示したが、ソ連の集団指導と自己批判に対して賛同しており、公然と対立するには至らなかった。それどころか毛沢東は、同じ月の25日に一見ソ連の変化に同調するかのごとき「百花斉放・百家争鳴」という方針を打ち出して、自由な言論活動を奨励するかのような態度を示し、その方針を繰り返し表明することで知識人の反応を探ろうとした。この時の彼の提案は、早くもその翌年の春に反右派闘争に転じたという事実でも明らかな通り、自分と対立する知識人を「ぐるぐる引きずり回して、一番弱いところを衝」くための戦術的後退だと見なさざるを得ない。いかに表面を取り繕っても、丸山昇著『文化大革命に至る道 思想政策と知識人群像』に記された胡風逮捕や丁玲批判のほとぼりが冷めないこの時期に、知識人たちがその政策に同調する気になれなかったのは当然である。なお丸山著前掲書の第10章「百花斉放・百家争鳴」には、毛沢東が人口問題の権威馬寅初と会って、当初は産児制限に賛成していた事実 や、この時期毛の講話に感激して激賞したフランス文学の翻訳家傳雷が、文化大革命当時紅衛兵の執拗きわまる吊し上げに遭い、夫婦ともに縊死したという悲劇 など、中国の知識人と毛沢東との関係が具体的に記されている。

㉖ この時期の状況については、ショート著、前掲書、下、125~126ページ。スペンス著、前掲書、149~150ページ。後者には、「彼の非難の矛先は自分にも向いている、と毛沢東の目にはうつった」と記されている。

㉗ 天児著、前掲書、123~124ぺージ。

㉘ 同上。

㉙ 丸山昇著『文化大革命に到る道・思想政策と知識人群像』東京(岩波書店・2001)85ぺージ以下の 6 胡風批判と「胡風意見書」~「異端文学者集団」の足跡~、121ページ以下の 7 胡風事件と毛沢東 ~「小集団」から「反革命集団」へ~、173ぺージ以ドの 8 丁玲批判~不条理と抵抗~、などを参照。

㉚ 同上、271ページ以下の10「百花斉放・百家争鳴」~天折した可能性~ の章所収、309ぺージ以下の、当初は育児制限を支持、の節。

㉛ 同上、322ページ以下の、主席の呼びかけに感激~蕭乾と傳雷、の節中の、323~327ぺージ。


 さらにその年の9月、毛沢東が11年ぶりに開催された党大会の運営を、劉少奇と鄧小平に一任したことも、彼が行った「ぐるぐる引きずり回す」戦術的後退の一環だと見なすことが可能だろう。そしておそらく彼が予測した通り、二人は毛沢東離れの方針を明らかにした。劉少奇はソ連との友好協力関係を強調し、鄧小平は党規約改正報告で、ソ連の「個人崇拝」批判に配慮して、「毛沢東思想をもって国家のイデオロギー的指針とする」という一節を削除した上、「党内民主主義」と「集団指導」に力を入れるべきことを力説した。毛沢東の身辺にいて親しく仕えた侍医李志綏は、それら二つの演説を聞きながら、「これは毛沢東を怒らせるだろうなと思った」と記し、また「毛がそれ以後に仕掛ける政治的イニシアチブのすべては-----党内の整風も、大躍進も、社会主義教育運動も、はたまた文化大革命も-----第八回党大会の定めた総路線を骨抜きにしようとする努力であった」とした上、1968年の10月に劉と鄧の両名を正式に追放し、中央委員の大多数を放逐して、「毛沢東思想を国の指導原理として特記することにより、毛沢東の復讐は完結するのである」と記しているが、中国の現代史の大筋は、李志綏ならずともほぼこの通りに進んだことを認めざるを得ないのではないだろうか

㉜ 天児著、前掲書、125~126ページ。

㉝ 2つの引用は、李志綏著、アン・サーストン協力、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活』東京(文褻春秋・1996)上、303~304ぺージおよび303ぺージ。

㉞ 毛沢東の侍医の記録に関しては、批判的な著書が出ているので一応目を通した。あるいは侍医の記録にも嘘や誤りが含まれているのかもしれないが、少なくともそこに描かれた毛沢東には文化大革命を引き起こす可能性が認められる。批判の書で弁護され賛美されている善良な毛沢東では、文化大革命を引き起こす可能性は感じられないようである。勿論それだけの理由で、批判の書の資料的価値を否定するつもりはないが。


 フルシチョフの秘密報告は、東欧諸国に強い衝撃をもたらした。早くも1956年の秋には秘密報告の影響による紛争が相次いで勃発し、ソ連はポーランドに対しては政権の交替を認めた が、ハンガリーでは二度にわたる武力干渉を通して、さらに過激な改革を試み、東側陣営からの離脱を企てたナジ首相を逮捕してカーダールの傀儡政権を押し付け、ナジを反逆罪で逮捕して連行し、1958年に処刑している。丸山昇著前掲書によると、この際中国はポーランドに関しては、毛沢東がパジャマ姿で行った会議の結果に基づきソ連の武力千渉に反対した が、ハンガリーに関しては、一旦はハンガリー駐留ソ連軍の撤退を決定していたソ連に対して、当時モスクワに派遣していた劉少奇と鄧小平らの代表団を通し、ソ連共産党の決定はハンガリー人民に対する裏切りだと伝えさせ、ソ連軍による武力干渉を積極的に支持するという正反対の反応を示したと記されている

㉟ 伊東孝之著『ポーランド現代史』束京(山川出版社・1988)227ぺージ以下。ショート著、前掲書、下、127ぺージ。

㊱ 矢田俊隆著『ハンガリー・チェコスロヴァキア現代史』東京(山川出版社・1978)231ぺージ以下。ショート、前掲書、12~8ぺージ。

㊲ 丸山著、前掲書、「9 スターリン批判と中国~ポーランド・ハンガリー事件の衝撃~」の章の248ぺージ以下「ポーランドヘのソ連の武力行使に反対」の節。

㊳ 同上、253ページ以下「ハンガリー事件ではソ連を支持」の節、特に257ぺージ。


 ハンガリー事件は、約20万人とされる亡命者が共産主義の悲惨さをヨーロッパ全域に伝えると共に、当時共産主義世界に共感を示していた西側世界の言論界の代表的な論客、サルトルと共産党との関係を冷却させるなど、フルシチョフの秘密報告に優るとも劣らぬ影響を全世界に及ぼした。

㊴ 平凡社『世界大百科事典』第23巻、208ページの「ハンガリー事件」の項。

㊵ 同上、第11巻、398ぺージの「サルトル」の項。


 どうやらこの事件は、毛沢東に対して二つの追い風をもたらしたものと思われる。第一の追い風は紛争の直接的な原因がフルシチョフの秘密報告だったために、フルシチョフ自身とソ連の威信が大きく揺らぎ、その結果東側陣営内における中国と毛沢東の権威が一気に上昇したことであり、おかげで「個人崇拝」批判という、毛沢東にとっては不愉快な運動も尻すぼみになった。後にサルトルがヨーロッパで毛沢東派なるグループに肩入れしたり、ポル・ポト派のような毛沢東思想を信奉する党派が一国を支配して多数の知識人を虐殺することになる 素地は、早くもこの時期に生じたのである。

㊶ 同上。

㊷ ポル・ポトの虐殺そのものに関しては、山田寛著『ポル・ポト〈革命〉史』東京(講談社・2004)「第三章 ポル・ポト政権」「第四章 革命の正体」63~160ページ、が分かり易く論じている。訳者のあとがきで、ポル・ポトの擁護ではないかと物議をかもしたとされる、フィリップ・ショート著、山形浩生訳『ポル・ポト ある悪夢の歴史』東京(白水社・2008)では、「第八章 黒服の男たち」「第九章 未来完了」「第十章 世界のお手本」「第十一章 スターリンの病原菌」の各章、393~608ページ、で彼らの非情冷酷で無責任な統治ぶりが具体的に紹介されている。その第九章の455ぺージ以下で、秘密裏に北京を訪れたポル・ポトが、1975年6月21日に毛沢東と面会した様子が記されている。


 もう一つの追い風は、国内で右派・修正主義批判を進めることが容易になったことである。ハンガリー事件は西側世界では共産主義体制の悲惨さを宣伝することに貢献したが、それとは逆に東側世界、とりわけ中国では、体制側が反動勢力の根強さとそうした勢力を根絶する必要とを宣伝することに貢献した。毛沢東はその数は3000万人に及ぶと語っていた そうだが、丸山前掲書によると55万ないし100万あまりの人々が右派のレッテルを貼られて迫害され、先に見た傳雷のように文革の際にはさらに追い討ちをかけられた。その大部分が「名誉回復」したのはようやく文革終了後の1978年のことである。なおこの時の反右派闘争を指揮したのは鄧小平であった。鄧小平が走資派の代表の一人として攻撃され、何度も失脚しながらも、毛沢東の庇護の下で結局生き延びることができたのも、抜群の有能さや国共内戦時における目覚ましい功績に加えて、この時の右派に対する闘争ぶりが、毛沢東の記憶に残っていたためではないだろうか

㊸ 李著、前掲書、上、355ぺージ以下。長年学生生活を送ることができた毛沢東自身、出身に関しては明らかに富農だから、右派分子に属していたことになる。

㊹ 厳家祺・高皋共著『文化大革命十年史』東京(岩波書店・2002)上 所収の「文化大革命関係年表」18ページによると、1978年4月5日に中共中央が、「すべての右派分子のレッテルをはがす請訓に関する報告」を批准したとある。9月7日にその決定に関する実施法案が公布された。なお厳・高共著、前掲書の上巻の付録として付けられた、安藤正士・辻康吾作成による「文化大革命関係年表」は、必ずしも本文とは直接関係のない事項をも丹念に収集した良心的で便利な年表である。

㊺ 毛沢東は劉少奇と異なり、最後まで鄧小平を完全には敵視していなかったようである。その判断の根拠の一つとなったのは、この時の闘争ぶりではないだろうか。


 1957年11月、毛沢東はロシア革命40周年の祝典に参加するために、8年ぶりにモスクワを訪問した。この時彼は外国から加わった来賓の筆頭として扱われ、フルシチョフも丁重に気を遣い、最高級の待遇を受けたが、本人もそれを当然と考えていたはずである。なぜならスターリン亡き後のロシアと、東欧その他いかなる東側陣営の国々にも、もはや毛沢東に匹敵するような偉大な革命家は一人も存在しなかったからである。ロシア革命当時全くの一兵卒として加わった1歳年下のフルシチョフと、中国革命の指導者としてレーニンとスターリンという二人の主役の役割を一身で演じている毛沢東とでは格が違い過ぎた。唯一スターリンの片腕として活躍した3歳年上のモロトフだけは、ロシア革命時代から要職についていたその経歴と、火炎瓶にもその名前が付くほどの世界的な知名度とで、おそらく毛沢東と対抗できた唯一のロシア人だが、すでにこの年の6月にカガノーヴィチらと反党事件を企てたかどでモンゴル大使に左遷させられていたらしい。フルシチョフ追放を目的とするモスクワの反党事件に関する情報が毛沢東の耳に入っていなかったとは考えられず、そのことは毛沢東の自信をますます強めていたはずである。とはいえ、この時毛沢東はまだソ連に反旗を翻すには至らず、それどころか祝賀式ではソ連への最大級の賛辞を惜しまず、ソ連との揺るぎなき友好関係を強調した。ちなみにこの年の10月4日、ソ連は世界で最初の人工衛星スプートニクを打ち上げて、自国の科学技術の高さを全世界に見せつけ、とりわけアメリカをあわてさせていた。それでもフルシチョフらが提唱している「平利共存路線」をそのまま認める気にはなれなかったのか、「東風が西風を圧倒している」とか、「すべての反動勢力は張り子の虎である」などという、束側陣営に忠実な宣伝とも取れるが、同時に西側陣営への挑発とも取れる発言を通して、「平和共存路線」に波紋を投じることを忘れなかった

㊻ 李著、前掲書、上、338ページ以下、「24 クレムリンの毛沢東」の章。

㊼ 『世界大百科事典』第28巻、305ぺージの「モロトフ」の項参照。長くソ連の外交部門を指揮したため、左翼団体が愛用した火炎瓶は「モロトフのカクテル」と呼ばれた。さらに同上第5巻、76ぺージの「カガノビチ」の項。

㊽ 天児著、前掲書、132ぺージ。

㊾ 『世界大百科事典』第15巻、125ぺージ、「スプートニク」の項。

㊿ 天児著、前掲書、133ぺージ。


 帰国した毛沢東は、自分の権威に対して不都合な動きを示したフルシチョフのために、モスクワで最大限のリップ・サービスをしたことへの欝憤を晴らすかのごとく、翌1958年の春には、「大躍進政策」なるものを打ち出した(51)。こうした誇大妄想的な政策を打ち出した背景には、個人としてはともかく(52)、最高権力者としての毛沢東が、解放戦争以来幸運すぎたという事実を無視できない。解放戦争の成功は、元来軍閥の軍隊の寄せ集めだった国民党軍が自壊したという要因が大きく作用していることは否定し難いし、すでに盤石の地位を築いている毛沢東に対して、挑戦者と見なされて処刑された高崗らは余りにも非力であり、後に現れた劉少奇や林彪の場合も同様である(53)。すでに見たとおり、スターリンの死をめぐる一連の事件ですら、追い風として作用した。こうした幸運が続いたことと、国際的舞台で特別高い地位に祭り上げられたために、毛沢東は自信過剰になってしまったのではないだろうか。

(51) 同上、134ぺージ以下。

(52) 毛沢東が家庭的に恵まれていなかったことは、ショート著、前掲書、上、361ぺージの家族のリストや、李著、前掲書、上、223ページ以下の「13 傷つく江青夫人」の章などから推測できる。この事実は毛沢東の私的所有に対する反感を強めたはずだし、彼よりも家庭的に恵まれていた劉少奇や林彪への容赦なき追及にも影響しているはずだ。

(53) 高崗による東北独立の動きは、一種の逃亡計画に過ぎないし、軍人の息子が杜撰な暗殺事件を企てたとされる林彪以外の人々は、ほとんど無抵抗で攻撃にさらされ、その林彪も逃亡に失敗して事故死している


 さらにもう一つ見逃せないことは、内心フルシチョフとソ連に反発しながらも、15年でアメリカを追い越すという彼の法螺や、40年祝典で誇大に宣伝された革命の実績などによって、毛沢東が案外まともに洗脳されてしまったふしがあることである(54)。すでに延安時代の1937年に、モスクワ帰りの秀才陳伯達を自らの秘書兼ゴーストライターに採用してその知識を活川してきた(55) 毛沢東の場合、モスクワこそ最大の知識の源であり、その彼が最近世界で初めて人工衛星を飛ばしたソ連が流す社会主義に関する誇大宣伝に強く影響されても、全く、意外ではないからである。

(54) 地球儀の大きな部分が赤く染められたばかりなので、この前後はマルクス・レーニン主義が唱える歴史の必然性なるものが、世界的に最も影響力を発揮した時代であった。

(55) スペンス著、前掲書、110ページ以下。スペンスは、ロシア語が自在にあやつれ、イデオロギー方面に強い陳伯達を秘書に採用したメリットを大いに重視している。陳伯達は後に林彪に接近して失脚するが、それ以前には文化大革命の要所で鋭い活動ぶりを示しており、その有能さは疑う余地がない。それだけに彼が林彪に同調した時に、毛沢東が過敏に反応したという印象が否定し得ない。

 

 こうしておそらくソ連で改めて確認された社会主義信仰によって、「大躍進政策」は1958年初頭から開始された。それがもたらした最大の改革は、従来集団農業の拠点であった200~300戸から成る合作杜を統合して、より大規模で行政権を有する人民公社に改編したことで、早くも1958年12月末までに、平均農家数4600戸の人民公社がほぼ全農村に設立された(56)。中国のこの新しい集団農場は、公共食堂を設置して無料で住民の食を保証しながら、婦人の家事を軽減している点が魅力の一つであった(57)。さらに毛沢東の「二本足で歩く」方針に基づいて、この集団が農業のみならず土木事業や工業にまで利川された(58) 点が重要で、各地で大規模な水利工事を進めただけでなく、全国の人民公社が1958年10月から「土法炉」と呼ばれる原始的な熔鉱炉を用いて鉄鋼の大生産に取り組み、この年の鉄鋼生産量は目標をはるかに上回る1070万トンに達した。だがその6割は使い物にならない粗悪品で、しかも炉の建設資材や燃料確保のための歴史的建造物の破壊や森林伐採など、大きな傷痕を残した(59)

(56) 天児著、前掲書、137ページ以下。数字は『世界大百科事典』の第14巻、471ページによる。

(57) 天児著、前掲書、138~141ページ、ショート著、前掲書、下、167ぺージ。こうした女性の立場からの肯定的なコメントは、1971年に中国を訪問した、クローディ・ブロイエル著、天木・武井訳『天の半分』東京(新泉社・1976)96~97ぺージの共同食堂に関するものである。これはフランス人女性の旅行記で、タイトルは毛沢東の「女性が天の半分を担っている」という有名な言葉に基づいている。

(58) 天児著、前掲書、135ぺージ以下。

(59) 同上。数字は135ページ。


 また1958年2月からハエ、カ、ネズミ、スズメの「四害駆除運動」が展開されたが、スズメの駆除はイナゴやウンカの大発生につながったため、後にナンキンムシの駆除に変更された(60)。さらに農業に関しても「密植・深耕運動」などソ連から伝わった新しい手法を推進して損害を一層大きくしたらしい(61)。このように「大躍進運動」は好ましい成果を残さなかったばかりか、新農法の失敗や土法炉に熱中していたために収穫に人手が回らなかったこと、あるいは配分の際の不手際などで大規模な飢饉が発生し、せっかく設けられた共同食堂でも出すものがなくなり、1500万~4000万人という大量の餓死者を出した(62)

(60) ショート著、前掲書、下、158~159ぺージ。

(61) 同上、170~171ぺージ。これらの事実を記した章に、ショートは「魔法使いの弟子」というタイトルを付けている。

(62) 天児著、前掲書、150~151ページ。


 早くも「大躍進政策」の破壊的結果が明らかになりつつあった1959年の春節から4月にかけて、食糧騒動が各地で発生し、すでに広東省からは飢餓状態や餓死の報告が届き始めた(63)。同年の初頭に各地に赴いて実状を調査し、その結果を携えて同年7月に盧山で開かれた中央政治局拡大会議に出席した国防部長(=大臣)兼副総理の彭徳懐元帥は、グループ討議で自らの危惧を表明すると共に、毛沢東の立場に配慮して、彼に私信の形で状況を報告した。ところが賛辞を交えた慎重な仕方ではあっても、自らが提唱して現在推進中の「大躍進政策」に対して批判的な内容を含む彭徳懐の書簡を読んだ毛沢東は激怒し、彭徳懐の配慮を無視して、その私信のコピーを会議の出席者に配布して討議を求めた。個々の討議の場では彭の書簡を評価したり弁護する者もいたようだが、毛沢東が自分と彭徳懐とのいずれを支持するかを選択するように迫った時、公然と彭徳懐を支持する人は一人もおらず、彭徳懐が私信を公開されたことに抗議して退場した後、彼とその仲間は右派分子として失脚し、さらに彭徳懐にはソ連との内通者という汚名が着せられた(64)

(63) 同上、147ぺージ。

(64) 同上、148ぺージ以下。


 しかしいかなる政治的決議によっても、「大躍進政策」がもたらした悲惨な現実が消えるわけではなく、大飢饉は到来した。悲惨な結果が明らかになり始めた1959年の8月末、毛沢東は演説で入民公社が崩壊していないという事実を確認してその永続を宣言した後、国家主席の座を劉少奇に譲り渡した(65)。しかし共産党主席の座にはとどまって党務に専念するとしており、時間的余裕が生じたこと以外、その暮らしぶりに大きな変化は生じていなかったらしい(66)。李志綏の手記によると、毛沢東は1962年1月30日の演説で、党中央のすべての誤りに自分は責任を負っていることを、建国以来初めて認めたが、具体的に自分の誤りが何だったかについては全く触れていないという(67)

(65) スペンス著、前掲書、170~171ページ。

(66) ショート著、前掲書、210ページ。李著、前掲書、上、485ページ。相変わらず党主席だったため、後者に記された毛沢東の私生活には、その後も大きな変化は見られない。

(67) 李著、前掲書、下、108ページ。なおこれに触れた章のタイトルは「50 第二線の深慮遠謀」とあり、1962年1月の、毛沢東がついに自己批判を行ったいわゆる7000人大会について記述している。


 後年の動きから考えると、結局この時も毛沢東は敵を「ぐるぐる引きずりまわす」得意の戦術的後退を行った、と言わざるを得ない。しかも相手方が彼にそれほど敵視されているとは気付いていないだけに、一層効果的な戦術的後退だった。さらに毛沢東には全国に広がる信奉者だけでなく、盧山会議に途中から出席して彭徳懐を厳しく批判した後、国防部長の地位を引き継いだ(68) 林彪および解放軍の林彪派の人々という強力な味方がいた。彭徳懐自身には毛沢東に歯向かうなど意図などなかったはずだが、毛沢東は彼を更迭して自分に最も忠実な同志である(69) 林彪をトップに据えることで、解放軍を改めて掌握し直した。1927年に「政権は銃剣によって獲得される」という文章を書いた(70) 毛沢東は、国家主席の肩書こそ劉少奇に譲っていても軍隊を動かす権限は譲っていなかったのだ。さらにソ連との関係悪化も毛沢東の権力にとっては、有利に働いたはずである。水泳が得意ではないフルシチョフがプールで泳がされたことで有名な1958年の夏、そして10周年目の国慶節に参列した1959年秋(71) と、フルシチョフはこまめに毛沢東を訪れて良好な関係の維持に努めたが、そうした努力は裏目に出て1960年に中ソ論争が始まり、同年中国に派遣されていたソ連の科学技術者が一斉に帰国してしまい、さまざまなプロジェクトが中断された(72)。そしてソ連でフルシチョフが失脚した1964年、その失脚をあざ笑うかのごとく、中国は独力で原子爆弾の開発に成功した(73)

(68) 天児著、前掲書、149ぺージ。ショート著、前掲書、下、183ページ。

(69) 同上。

(70) スペンス著、前掲書、211ページの注に、毛沢東が1927年に書いたこのことばの出典が記されている。初出はまだ政権からほど遠い時期の文章だったらしい。

(71) 1958年の会談は、プールのそばで行われ、水泳の苦手なフルシチョフが泳がされたことでよく知られている。李著、前掲書、上、431ページ、ではフルシチョフが毛沢東のすすめに応じて、救命具を持ったままプールに飛び込んだ、とある。

(72) 下斗米、前掲書、100ページ以下。

(73) 同上、114ぺージ。


 こうした一連の動きに対処するためには、中国では毛沢東の存在が不可欠だった。しかし劉少奇と鄧小平が主な政策を決定し、周恩来が総理として行政を統活するという体制を、毛沢東は修正主義的であり資本主義的に偏向しつつあると見なして、強い不満を抱いていた。特に飢餓に瀕した農村の生産性を高める必要から、劉少奇らは毛沢東が推進した人民公社の経営方針を後退させ、自留地という家族単位に基づく資本主義的経営を認めようとしていた(74)

(74) 天児著、前掲書、155ページ以下。


 こうした毛沢東の現体制に対する不満に応じる動きが、二つの方面で現れた。その一つは国防部長林彪によるもので、1964年の初頭『解放軍報』の社説で毛沢東思想学習運動を呼びかけた後、同年5月に『毛主席語録』を刊行する(75) という、もっぱら毛沢東に対する自らの心酔ぶりを示す行為であり、必ずしも毛沢東の不満に正面から応えたものではなかった。笠井孝之著『毛沢東と林彪 文革の謎 林彪事件に迫る』(76) は、これ以後林彪が文革に巻き込まれ、一度は毛沢東の後継者にまで祭り上げられながら、逃亡して飛行機事故で死去するまでの経緯をめぐって、さまざまな謎の解明を試みた著書であり、その記述に従うならば、林彪はこの時期以後、それ相応の覚悟もないまま自分を引き上げてくれた恩人の求めに応じて行動したために、文化大草命という重大事件に巻き込まれてしまった被害者、という印象を受ける。しかし厳家祺・高皋共著『文化大革命十年史』(77) に描かれた林彪は自発的かつ積極的に活動していて、解放軍内部の派閥争いで、賀龍、羅瑞卿らの年長者を抑えて軍内の実権を握っている。林彪自身の意図はともかく、この時期、毛沢東の忠臣である林彪とその部下が解放軍を統制していたという事実自体が、毛沢東の支持を受けて出現した紅衛兵たちの破壊的な活動を容易にしたことは確実である。だから林彪が文化大革命という騒乱の重大な責任者の一人であったことは、誰も否定できない。

(75) 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」3ページ。

(76) 笠井孝之著『毛沢東と林彪 文革の謎 林彪事件に迫る』東京(日中出版・2002)。

(77) 厳・高共著、前掲書、中、は「第二篇 毛沢東と林彪」というタイトルで、主に二人の関係を論じている。


 これに対して毛沢東の妻の江青は、もっと直接的に夫の不満に応えるために、仲間を組織した。後にみる通りその試みは見事に決まり、国家主席劉少奇の失脚と当時の政府の権力構造の崩壊をもたらし、江青の狙い通り毛沢東の権威は回復した。こうした試みとそこから派生した一連の動きは文化大革命と呼ばれ、江青たちのグループが国家権力の中枢に加わっていた10年あまりに及ぶ時代は、文化大革命の時代と呼ばれている。

 毛沢東の死後1ヶ月も経たないうちに、当時「四人組」と呼ばれていた江青たちのグループは逮捕されて、文化大革命が終結する。そしてその後に徐々に行われた毛沢東体制からの転換こそ、現代中国におけるモンタペルティ現象発生の契機であったと私は考えている。すなわち現代中国のモンタペルティ現象は、これまでに見てきた中世フィレンツェや現代日本のそれとは異なり、実際の戦争における敗戦を契機として発生しているわけではなくて、毛沢東体制の終焉とそれからの転換によって発生しているのである。しかし冷戦の終結を一種の敗戦と見なす立場(78) がある以上、国を挙げて推進された毛沢東体制からの転換も、一種の敗戦と見なすことが可能であり、そうした転換が敗戦同様の影響をもたらしても決して意外ではないと、私は考えている。こうした状況を明らかにするためには、やはり毛沢東主義の権威が極大値に達した文化大革命時代の中国を知らなければならない。そこでまず厳・高共著前掲書の記述に基づいて、文化大革命の発端から紅衛兵が蜂起して全国で破壊活動を展開するまでの過程を眺めておくことにしよう。

(78) 本論の「はじめに」の注②参照。


 江青は毛沢東が敏感に反応することを期待して、彭徳懐追放への批判とも取れる呉唅の戯曲『海端免官』を攻撃の対象に選んだ(79)。首都北京ではこの作品が批判できないことを悟った江青は、自分の古巣上海に戻って論客張春橋と接触、その推薦で姚文元に批判の執筆を依頼した。姚は何度も書き直した原稿を北京に送り、毛沢東自らが原稿を審査したあげく、ついに1965年11月、その第10稿が『文匯報』に掲載され、毛沢東はそれを全国の新聞雑誌に転載するよう命じた。当初は北京市長彭真らの妨害で容易に転載されなかったが、周恩来の督促などで『人民日報』等での掲載が始まり、論争が開始された。陳伯達や諜報・公安関係の権威康生、張春橋らが支援する中、関鋒、戚本禹など若き論客が姚文元支持を打ち出し、文化大革命を促進する急進派のグループが形成された(80)。北京市長彭真らは論争を純学術論争に止めようと、直接毛沢東と会うなどして奔走し、『二月提綱』という方針を発表したが、これに対し毛沢東は1966年3月の政治局の会議で、学術界と教育界は知識分子が実権を握っているが、彼らは反共であり、国民党だと断罪した。4月から5月にかけての会議で彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らの反党分子や呉唅、鄧拓、廖抹沙などの知識人を一掃する必要が認められ、彭真率いる北京市委員会や文化革命五人小組は解体されて、新しい組織と交代した。こうして陳伯達を組長、江青を第一副組長、康生を顧問とする中央文化革命小組が指揮する文化大革命が始まった(81)

(79) ロデリック・マクファーカーおよびマイケル・シェーンハルス共著、朝倉和子訳『毛沢東最後の革命』東京(青灯社・2010)上 38ページ以下。

(80) 厳・高共著、前掲書、上、24ページ以下。

(81) マ・シ共著、前掲書、上、74~84ぺージ、「負け組」および「勝ち組」の節。特に79ぺージ以下の「勝者中の勝者」とされている「中央文化革命小組」の人々。


 北京大学ではすでに前年から社会主義教育運動に関連して、学長の陸平と哲学科書記の聶元梓との間で対立が生じていたが、学長を支持してきた彭真が失脚したことで勢いづいた聶のグループが、壁新聞で陸平を批判した。しかし学内の圧倒的多数の壁新聞がそれに反論した。康生は聶らの壁新聞を毛沢東に送り、毛は6月1日ラジオでこれを放送させた。陳伯達は『人民日報』の実権を握り、その社説で文化大革命を宣伝し、6月2日の第一面に聶らの壁新聞全文を掲載、さらに社説で陸平らを反党集団として糾弾した。全国から数万通の激励の手紙が寄せられ、北京大学は全国の文化大革命のメッカとなった。北京市内の大学と中学(=日本の中学・高校)で党委員会に対する告発が行われ、学生や生徒の糾弾を受けたため学校では授業ができなくなったが、毛沢東はそうした状態を肯定した(82)

(82) 厳・高共著、前掲書、上、43ぺージ以下。北京大学の盛況ぶりは47ぺージ。


 北京市の党委員会は混乱に陥った学校を正常に運営するため、北京大学以下の各学校に工作組を派遣して事態を沈静しようとした。この時期劉少奇と鄧小平は杭州に飛んで毛沢東に会い、毛自らこの事態を指揮することを求めたが、毛は二人に処理をまかせると答えた。劉少奇らは6月中に北京の大半の学校に工作組を派遣し、壁新聞の禁止など幹部が制定した「中央八条」に基づいて学校を正常化しようと試みた。工作組は『入民日報』などに扇動されている学生たちと真っ向から対立することとなり、郵電学院では工作組を追い出すなど、反工作組運動のうねりが高まり、北京大学で「6・18事件」が発生した。

 多くの人々が陸平その他「黒い分子」約60人に三角帽子をかぶらせて殴る蹴るの暴行を加えた後、市街地を引き回してさらし者にした事件で、間もなく登場する紅衛兵たちの暴力行為のモデルとなる事件であった。北京大学では工作組が「黒い分子」に対する「行き過ぎた行動」に反対し、討論を通じて教訓を学ぶよう指導し、劉少奇はこの処置を評価して全国に伝えた(83)。しかし騒ぎは清華大学にも飛火し、夫のために実情を探ろうとした劉少奇の妻王光美までが反工作組の運動と衝突することになった(84)

(83) 同上、「工作組」は上、48ぺージ以下。「6・18事件」は上 54~56ぺージ。

(84) 同上、上、57ぺージ以下。


 毛沢東は7月18日に突然北京に戻り、その翌日劉少奇らと会見して、工作組派遣は間違いだと宣告。7月25日夜、北京大学で江青主催の一万人討論大会が工作組をブルジョワ反動路線だと批判、翌26日に毛沢東が文革小組のメンバー全員と会見、工作組の大半が誤りを犯したとしてその撤収を命じた。

 文革小組は、その夜再び北京大学で一万人大会を開き、陳伯達が工作組の解散を提案して決着をつけた。こうした動きは北京市内の全学校に伝わり、7月29日の「文化革命積極分子大会」で北京市党委員会の工作組撤収決定が読み上げられ、終了間際に参加した毛沢東はいつまでも続く拍手と万歳の声で迎えられだ(85)

(85) 同上、上、59~66ぺージ。


 工作組をめぐる紛争に平行して、聶元梓らの壁新聞が発表された直後の1966年5月26日、清華大学付属中学の数名の生徒が、「毛沢東思想の絶対的権威」を打ちたてるための「紅衛兵」組織を秘密裏に創設し、6月24H造反精神を賛美する壁新聞を貼り出した。こうした組織は北京市内のいくつかの中学でも生まれて、「混乱すればするほど良い」という主張は中学紅衛兵組織の行動指針となった。工作組によって「反革命集団」として解散させられたものもあったが、清華大付属中の紅衛兵は7月4日再び造反を呼びかけた。中学の文革運動はもっぱら教職員の審査として進められていたため、生徒対策はおろそかにされていたが、「不法組織」である紅衛兵組織への攻撃に重点をおかざるを得なくなった。これに対し7月27日清華大付属中の紅衛兵は、造反精神万歳を三度論じた。

 毛沢東は8月1日彼らに手紙を送り、熱烈な支持を表明、紅衛兵はただちに毛沢東の手紙を公表し、ここでも毛沢東と劉少奇の対立が明らかになると同時に、北京市内の学校や役所で紅衛兵組織が続々と誕生した。そして毛沢東は8月5日、中南海の中庭に「司令部を砲撃しよう」という壁新聞を貼り出して、自分の攻撃の目標が現政権の中枢、劉少奇であることを明らかにするとともに、8月8日には八期十一中全会において「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命に関する決定」、いわゆる「十六条」を通過させた(86)

(86) 同上、上、73ぺージ以下。


 こうしてこの年の8月は、「十六条」制定をめぐる祝祭の期間となった。林彪が解放軍の兵士のために刊行した『毛主席語録』が一般にも発売され、「語録を手から離さず、口からも離さない」ことが、革命と指導者への忠実さをはかる試金石となり、人々は争ってこの本を手に入れようとした。林彪が2年前に刊行した小冊子は、文化大革命のシンボルとなった。

 1966年8月18日の早朝午前1時から開始された「文化大革命祝賀大会」では、100万にのぼる全国各地の代表が、天安門広場に集まって革命の開始を祝い、主催者の陳伯達と続いて発言した林彪とが毛沢東を礼讃した。全国の紅衛兵の代表も参加していて、毛沢東はその内の一人が自分の腕に紅衛兵の腕章を巻き、「紅司令」と呼ぶことを喜んで黙認し、この活動の支持者であることを公衆の前に示した。紅衛兵たちは直ちに旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の四旧打破運動に取り糾み、四旧と判断したものを破壊し始めた。紅衛兵の破壊活動は全国で展開され、多くの文化財が破壊された。「大躍進政策」の四害駆除で大失敗した毛沢東は、今度は紅衛兵を動員した文化大革命の「四旧打破運動」によって、祖国の多くの貴重な人と物とに損害を加えた(87)。

(87) 同上、上、67~72ぺージ。


 以後死ぬまでの約10年間、毛沢東は老いと病いに苦しみ (88)、状況も時によって異なりはしたものの、常に勝者及び裁定者であり続け、一貫性からはほど遠いとはいえ、その都度自らの意志に従って決着を付け続けている。文化大革命というこの不思議な出来事は、いくつかの概説書によって私たち門外漢でもほぼその概略を知ることができる。たとえば本論ですでに何度も引用している、厳・高共著『文化大革命十年史』を始め、マクファーカー・シェーンハルス共著『毛沢東 最後の革命』(89)、日本人研究者が同時代に観察・記録した中嶋嶺雄著『北京烈烈 上 激動する中国』および『北京烈烈 下  転換する中国』(90)、または天児慧著前掲書などによってその大体の経過を知ることができる。

(88) スペンス著、前掲書、201ぺージによると、毛沢東は晩年、ルー・ゲーリック病、すなわち筋萎縮性側索硬化症におかされていた。ショート著、前掲書、下、328ぺージによると、その他に褥瘡、肺感染症、心疾患、酸素欠乏症が加わる。主治医だった李志綏が挙げた性病は、歴史家には認められていないらしい。なお心臓発作で死去した。

(89) 本章の注㊹ 参照。

(90) 中嶋嶺雄著『北京烈烈 上 激動する中国』および、同『北京烈烈 下 転換する中国』東京(筑摩書房・1981)。


 先に挙げた著書の内で、最も大胆かつユニークな構成を取っているのは、厳・高共著である。ごく短い前文に続き、「第一篇 毛沢東と劉少奇」「第二篇 毛沢東と林彪」「第三篇 毛沢東と江青」「第四篇 文化大革命の終結」の四篇から成り立っていて、年代順を全く無視しているわけではないが、時には大胆に時代を前後することによって、毛沢東とその時期の主要な後継者候補との関係との叙述を中心に書き進めている(91)。第一篇は劉少奇、第二篇は林彪の死で終わり、第三篇の江青の場合はやや微妙であるが、二人の著者たちが、文化大革命を毛沢東の後継者と見なされたライバルに対するもぐら叩きと見なしていたことが窺えて興味深い(92)。たしかに劉少奇の場合に限らず、毛沢東の権威と権力を脅かすと感じた相手に対する、毛本人とその支持者たちによる過敏な反応が、文化大革命を推進した最大の動因であったことは否定し難いのではないだろうか。

(91) 第二篇が最も短く、第三篇が最も長い。第三篇は毛沢東のナンバー2が決まらないため、一応江青の名を挙げながらも、ナンバー2候補は、江青、鄧小平、王洪文、華国鋒らの間を漂流している感が強い。

(92) たしかに文化大革命をこのように解釈すると、一見矛盾した動きが説明できる。


 私は本論において、基本的にはこうした厳・高史観に従うことにしたい。すなわち毛沢東は、必ずしも第一義的にプロレタリア文化革命そのものの実現を目指していたわけではなく、それとは比較にならぬ程強く、文化大革命によって自らの絶対的な権威と権力を確立しそれを維持することを望んでいたと見なすべきである。それゆえ毛沢東は、おそらく江青ら文革推進派から見ると理解不可能な行動を取り続けた。とりわけ周恩来を温存し続け、彼が進めるアメリカとの国交回復路線にまで協力した上に、あろうことか一時期とはいえ、「黒猫・白猫論」(93) という大失言の主で走資派ナンバー2の鄧小平までを復権させている。これは江青たちには許すべからざる文化大革命からの逸脱だったはずだが、文化大革命を推進する江青らのグループと実務官僚や軍人からなる周恩来らのグループという二つの支柱に支えられて自らの権力の絶対化を実現し、それを維持し続けている毛沢東にとっては、不可欠な選択であった。あたかも封建勢力と新興ブルジョワジーの二大勢力がヨーロッパの絶対王権(94) を支えたように、林彪亡き後の中国では、拮抗する二つのグループが自らの絶大な権力を支えていることを、毛沢東はだれよりも明敏に察知していたのである。

(93) 四川省の農民の諺に基づいて、鄧小平は白猫ではなく、黄色の猫といったそうであるが、生産性を高めることを重視する彼の立場を端的に表している。

(94) むしろ西欧の絶対主義王朝の場合以上に、文化大革命時代の毛沢東の権力にあてはまるのではないだろうか。


 このように、厳・高共著前掲書などの構成から推察される文化大革命の基本方針が毛沢東権力の絶対化である以上、約10年にわたる文化大革命の時代を通してその方針が一貰することなどあり得なかった。その方針が最も単純明快な形で現れたのは、1966年の奪権闘争で劉少奇を権力の頂点からひきずり落とすまでの間であった。この時期の毛沢東は、文芸批判という奇妙な切り口から北京の教育機関という特異な分野に突入することで、紅衛兵という新勢力を動員することに成功した。その前に林彪派にてこ入れして解放軍を抑えておいたおかげで、毛沢東の「造反有理」という呪文に縛られて、官僚機構の一部である警察も身動きできず、中学から始まってあらゆる集団に拡がった集団的暴力犯罪に対処し得る暴力装置は、国内のどこにも存在しなかったのである。しかし解放軍には林彪派に属さない軍入たちも少なくなく、それらの人々が疑問を唱え始めたのが、1967年の「二月逆流」(95) であった。だが各界に文化大革命への期待が残り、紅衛兵運動の勢いが盛んなこの時期には時期尚早で、多くの将軍が失脚した。

(95) マ・シ共著、前掲書、上、「11 老将たちの最後のふんばり」264~284ページ。


 少年少女の暴力は早晩大人の武闘に転化せざるを得ない。江青らの扇動もあって各地で武闘が開始され、殺人騒ぎが発生した。上海では「一月風暴」(96) によって文革小組の張春橋につながる勢力が覇権を握り、その闘争で活躍した王洪文は後に中央に引き上げられて、一時期は毛沢東の後継者とさえ見なされた。中央の意向がそのまま貫徹し得ない地方では激しい武闘が展開されて多くの死者を出した。武漢では、当時軍の支持を得ていた「百万雄師」(97) と名乗る集団が、中央の方針と対立して7月20日の武漢事件を引き起こした。中央から派遣された文革小組の代表は危険にさらされ、その地に来あわせた毛沢東は早々に飛行機で出発した(98)。後に軍の支持を失った「百万雄師」は解体され、メンバーは厳しく弾圧された。

(96) 同上「9 上海『一月暴風』」、227~245ぺージ。

(97) 同上「12 武漢事件」中の「百万雄師」289~298ページ、の節。

(98) 同上、300ぺージ。


 当初「造反有理」で一直線に進んでいたはずの文化大革命は、さまざまな逆流を示し始める。その一つ「5.16陰謀」(99) は謎に包まれた事件だが、その契機となっているのは、紅衛兵による一連の外国代表部へのデモと1967年8月のイギリス代表部焼き討ち事件(100) である。文化大革命が外交の部門にも飛び火し、文革派の主張が極端な形で実行され、周恩来を激怒させたこの事件は、文革派の一部に高い代償を払わせることになった。文革推進派の中でも特に過激分子であった関鋒、王力などが、他の各界の左派とともに、陰謀に加わったとして逮捕され、告発されて失脚した(101)。マクファーカーとシェーンハルスは、ほぼ確実にでっち上げによって過激分子が粛清されたものと推測している(102)。1966~7年にあれほど猛威をふるった紅衛兵たちの運命も似たようなもので、1968年8月25日に姚文元が『人民日報』で、「労働者階級がすべてを指導しなければならない」と発表したのに応えて、同月末に北京の59大学に労働者たちから成る毛沢東宣伝隊が進駐した途端、紅衛兵運動は消滅した(103)。さらに同年12月22日、毛沢東が同紙に「『知識青年の上山下郷』に関する指示」を発表して、知識青年が農村で貧農たちから再教育を受けるべきことを強調した結果、紅衛兵たちの多くは農村に消えた(104)

(99) 同上「13 五・一六陰謀」312~336ぺージ。

(100) 同上「イギリス代表部焼き討ち事件」316~324ぺージ、の節。

(101) 本章注(99)。特に「王力、失脚」324~325ぺージ、の節など。

(102) 同上、13章全体がその論調で書かれているが、特に329ページには、「だが『五・一六陰謀』のとりわけ『陰険な』性質を何より物語るのは、その中心人物とされた人々すらもが陰謀の存在自体を知らなかったことだ」と指摘されている。

(103) 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」、9ぺージ。

(104) 同上10ぺージ。


 こうした逆流の最大のものは、林彪一家の飛行機による逃亡とモンゴルにおける墜死事件(105) である。1969年4月1日に毛沢東の後継者と党規約に明記された林彪が、1年半も経たない1971年9月8日になぜ逃亡したのか。一見毛沢東と林彪との間にはっきりとした対立はなく、1970年4月に林彪と陳伯達が毛沢東の国家主席就任を求めたことが、毛沢東の逆鱗に触れたためだとされている(106)。毛沢東の怒りは半端ではなく、8月に林彪と陳伯達とを併せて批判した。長年毛沢東のブレインを務め、文化大革命の旗振り役でもあった陳が、一足先に文革の仲間から排除されて失脚(107) したために、林彪も先が見えたと観念したらしい。

(105) 同上、12ページ。本章、注(76) の著書が、その謎をくわしく論じている。

(106) マ・シ共著、前掲書、下、「19 林彪の逃亡と死」、中の「国家主席問題」122~127ページ、の節。

(107) 同上、盧山の対決、127~133ページ、および、石を投げ…、133~134ぺージ、の節。


 再び国家主席に就任することを求められたことぐらいで、毛沢東がなぜこれほど激怒したのか。一見謎のようだが、先に記した毛沢東権力絶対主義の観点に立って文化大革命の展開ぶりを考慮すると、意外どころかむしろ当然であった。紅衛兵の暴力は大人たちの武闘を誘発し、結局その決着をつけるのは各地の解放軍の軍事力であった。そのため大半の地域では、実権を握った革命委貝会のメンバーの多数は軍人であったが、毛沢東はそうした傾向をボナパルティズムと呼んで警戒した(108)。毛沢東はこうして多数派を占めることになった軍人たちが、林彪の下で結束して白分の実権を奮うことを恐れたのだ。恐らく毛沢東は、自分のブレインだった陳伯達が同じ魂胆で逸速く林彪に接近したものと見なし、警戒すると同時に憎悪して、二人の共同作業の実現を断固拒否するとともに、権力基盤の脆弱な陳伯達を容赦なく失脚させた。林彪の息子林立果の毛沢東暗殺計画(109) は、杜撰で実現性の乏しいもので、失敗するのは必然であったが、あれほど賞賛された林彪の逃亡は、文化大革命と毛沢東自身の権威を大きく失墜させた。

(108) ショート著、前掲書、下、278ぺージに、文化大革命の結果として、1968年後半には、いかに軍人が国内で大きな勢力を占めていたかが記されている。さらに本章注(106) の章中の138ぺージに、林彪の死去の結果として「とりあえず毛は軍事クーデターの恐れをとり除き、ボナパルティズムの亡霊を鎮めて、安心することができた」とある。

(109) この計画とその破綻について、厳・高共著、前掲書、の中巻は、8、9、10の3章、212~262ぺージ、を割いて詳しく叙述しているが、信憑性には疑問の余地がある。マ・シ共著、前掲書、下、は、「林彪のクーデター未遂?」、134~138ページ、とクエスチョン・マーク付きの節で扱っている通り、計画自体はなはだ曖昧なものであり、林彪自身の役割もはっきりしない。


 マクファーカーらの共著はこの時の毛沢東の失意を強調して、そのために文革初期に追放した中堅幹部を復帰させたと見なしている(110)。中ソ関係は悪化して1969年3月に珍宝島で戦火を交えるに至り(111)、中国は米国からの工作に応じて、1971年7月周恩来が訪中したキッシンジャーと対談、その翌72年2月には毛沢東自身がニクソン大統領と会談して世界を驚かせ(112)、同年9月には田中角栄首相が訪中(113) するなど、中国の西側との関係は激変した。

(110) マ・シ共著、前掲書、下、「20 毛沢東、静まりかえる」145~172ぺージ、の章、特に中堅幹部の復権、150~151ページ、の節など。

(111) 天児著、前掲書、204ぺージ。

(112) 同上、215ページ以下。

(113) 同上、218~219ぺージ。


 1973年3月、毛沢東は走資派として失脚していた鄧小平を副総理に復帰(114) させ、5月に上海文革派の王洪文と郷里湖南省の指導者華国鋒とを中央に引き上げた(115)。この年から翌年にかけて、文革推進派は孔子批判に名を借りて周恩来批判を強めた(116)が、毛沢東はこれを許したばかりか、1975年9月に自ら『人民日報』で『水滸伝』を論じて「投降派」を批判(117) するなど、周恩来への風当たりが強まった。病身の周恩来に代わって、第一副総理の鄧小平が執務を代行し始め、文革で混乱した政府諸機関と軍隊の整頓に着手、自ら参謀総長を兼務する解放華に大鉈を振るって縮小するなど、リスクを犯して各組織の再建に邁進した(118)。文革推進派はこれに反発し、王洪文や甥の毛遠新らは鄧小平を中傷したが、毛沢東は彼らの派閥行動を批判・叱責した(119)

(114) 同上、221ページ以下。

(115) 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」13ぺージ。

(116) 同上、13~14ぺージ。マ・シ共著、前掲書、下、184ページ以下。

(117) 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」16ページ。

(118) マ・シ共著、前掲書、下、211ぺージ以下、「解放軍を『整頓』する」の節。

(119) たとえば厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」14~15ページに毛沢東の王洪文ら四人組への叱責や批判が繰り返し記されている。


 ついに運命の年の1976年1月8日、周恩来総理が死去。同年4月、その遺徳を偲んで天安門広場に多数の花輪が捧げられ、それらが撤去されたため、群衆と治安当届が衝突して流血事件が発生した(120)。4月7日、毛沢東の提起により、華国鋒を党第一副主席・国務院総理に任命、天安門事件の責任を取らされた鄧小平は、党籍は保留されたものの一切の職務を取り消されて失脚した(121)。この年は3月8日に吉林省に巨大隕石が落下したり、7月28日に唐山大地震が発生するなどの異変も相次ぎ、7月6日には、解放軍の元老、朱徳将軍が死去した(122)。そして9月9日、毛沢東主席が82歳で死去した(123)。すでに論じたとおり文化大革命そのものの実質は、本来の意味での革命というよりも、むしろ毛沢東が絶対的権力を奪回し、かつそれを維持するための運動であった。したがってその運動は、当然彼の死去とともに消滅する運命にあった。またそれと同時に、この運動によってもたらされた毛沢東中心の体制は、彼の死と共に必然的に転換されるべき運命にあった。したがって毛沢東の死去と同時に、転換への動力が作用し始めたのである(124)

(120) 天児著、前掲書、232~234ページ。マ・シ共著、前掲書、下、「24 1976年の天安門事件」244~267ページ。

(121) 天児著、前掲書、232~234ページ。

(122) 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」16~17ページ。

(123) 同上、17ページ。

(124) 権力が余りにも強大になると、自己保存力が発生して、自らを傷付ける可能性がある存在をすべて排除し始めるのではないだろうか。毛沢東という存在は、左翼の一革命家としてと同時に、巨大な独裁権力としても研究されるべきではないか。


第二章 現代中国におけるモンタペルティ現象発生の経緯 その二 転換とその後」へ


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