モンタペルティ現象6-2


第二章 現代中国におけるモンタペルティ現象発生の経緯 その二 転換とその後



 前章で見た通り、文化大革命という運動は毛沢東の存在に全面的に依存した運動だったために、彼の死去とともに終わらざるを得なかった。ただしそれは今日の時点から、多くの人々の記録を通して振り返ることで初めて分かることであって、その時点では、大半の中国人はまったく五里霧中の状態に取り残されたと感じていたはずである。しかし文化大革命が作り上げた毛沢東絶対主義的体制は意外に早く崩壊して、短い過渡期の後に転換期がやってきた。文化大革命を自分の二大偉業の一つと見なしていた 毛沢東は、自分の死が目前にせまっていることに気付いた時、その積極的な評価が覆えされないための対策をも講じておいたのだが、その対策はどうやら毛沢東が期待した通りには機能しなかったようである。希代の戦略家といえども、自分の死後の中国までを思うとおりに支配することはできなかったのである。しかしモンタペルティ現象を認める立場に立てば、毛沢東が残した膨大な負の遺産こそ、その後の転換を通して奇跡の経済発展を可能にしているものであり、今日の長期にわたる経済発展は、まことに逆説的な表現ではあるが、「毛沢東の贈り物」なのである。

① マ・シ共著、前掲書、下、244ページ。


 毛沢東の死に対する中国民衆の反応は、かなり微妙なものであったようだ。マ・シ共著前掲書は、「泣いている人はたくさんいた。だが周恩来のときのような、手放しの悲しみではなかった」とか、「心から動揺している人はほとんど見られなかった」などという外国人の証言をはじめ、文革で家族が散々いためつけられた人々の代表である『ワイルド・スワン』の著者チアンの「あまりの多幸感に襲われ、一瞬、手足がまひしたように感じた。(中略、周囲の人々が大泣きしており、前に学生幹部がいたので)私はすばやく顔をこの人の肩にうずめ、正しく泣きじゃくった」という嘘泣きの証言とか、おそらくでっち上げだと思われる5・16陰謀事件で監獄に入れられていた文革派内の極左分子王力の「私は泣きだした。秦城監獄は人々の泣く声であふれた」という証言など、様々な反応を記録している が、おそらく大半の国民はこの日が来ることを早くから予期していて、本当に驚いた人はほとんどいなかったのではないだろうか。そして国民の悲しみは、毛沢東が期待していたものとは程遠かった、と言わざるをえない。チアンのごとく「多幸感で手足がまひ」した人は稀だとしても、嘘泣きした中国人は結構多かったはずである。その代わり外国人の中に、泣いた人が案外多かったかも知れない。

② 同上、281ページ以下。

③ たとえば、同上、266~267ぺージに記された、汪東興が鄧小平夫妻を保護した行為などは、毛沢東の先が短いからこそ行われたこととしか考えられない。


 文化大革命の積極的評価を後代にも維持したいと望んでいた毛沢東には、文革が創出した毛沢東絶対主義体制を支える二本の柱の内、文革推進派ではなくて官僚・軍人グループの誰か、中でも抜群に有能な鄧小平に休制を継がせようとした形跡が認められる。一時期鄧小平を中傷する文革推進派を叱責したり、その自己批判を求めるなどして、両派を、調停する動きを示しており、彼を要職につけて自由に活動させたこともあった。同時に自分に対して忠実ではあるものの、自分とは異なった発想を持ち、国民の信頼も人気も大き過ぎる周恩来の存在感を希薄にする効果をも、鄧小平の活動に期待していたふしがある。しかし鄧小平は、求められている自己批判を避けたばかりか、文革推進派の周恩来批判が強まる中、1975年1月に農業・工業・国防・科学技術の「四つの現代化」を打ち出した周恩来に仕えてその代役を忠実にこなした後、翌年1月の周恩来の死去に際してはその弔辞を読むなど、文華推進派に妥協・協調する意志が認められなかったために、毛沢東は彼を見捨てた。彼は1976年2月3日、文革の途中で自分の郷里湖南省の党第一書記から中央に引き上げておいた華国鋒を周恩来の後任の総理代行第一副主席に指名し、さらに同年4月7日に同人を党第一副主席・国務院総理に正式に任命、同時に4月4~5日に発生した天安門広場の流血事件の責任者として、すでに公開の場には姿を見せなくなっていた鄧小平の一切の職務を取り消した。その決定には、文革の途中で自分が抜擢した華国鋒であれば、文化大革命の受益者の一人として、文革推進派と協力してその肯定的評価の維持にも配慮を払うだろうという毛沢東の期待が混じっていたのかも知れない。

④ 前章の注(119) および、マ・シ共著、前掲書、下、「22 鄧小平、登板」および「23 『四人組』登場」の章、200~243ぺージ。

⑤ キッシンジャーとの交渉などで世界的な注目を浴びている周恩来の存在は、毛沢東絶対主義にとって、決して好ましいものではなかった。毛沢東の意向を忖度して四人組はしきりに批林批孔運動で攻撃したが、その総合的な政治力には太刀打ちできなかったらしい。

⑥ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」16ぺージ。

⑦ 同上、17ぺージ。


 もしも毛沢東がそのようなことを期待していたとしたら、彼の死去から1ヶ月も経たない10月6日に実行された、江青、王洪文、張春橋、姚文元ら「四人組」の逮捕によって、その期待は完全に裏切られることになる。すでに見たとおり、毛沢東の死去で彼が死ぬ瞬問まで維持した毛沢東権力の絶対主義的体制はすでに崩壊してしまっていたのだが、文化大革命を椎進した中心人物の内、この時点まで党の中央に生き残って居た最も重要な四人が逮捕されたために、この運動を推進していた精神的原動力までが消滅したのであった。前章に記した文化大革命に関する代表的概説書のどれにも彼らの逮捕の様子が記されているが、三人の男性は政治局の会議に出席したところを、江青だけは自宅で逮捕された。長年毛沢東の警衛長を務めた、いわば公安のプロの汪東興が立案・実行しただけあって、この四人組逮捕は見事に成功した。他の著書よりも人脈や派閥関係にくわしい中島嶺雄著前掲書下巻には、汪東興が毛沢東と親密な関係にあり、劉少奇のソ連訪問に監視役として同行するなど、文化大革命にも深く関与していた事実が記されていて、これは彼にとっても重大な決断であったことが窺えるが、上海グループに属していなかったことがその決断を容易にしたらしい。

⑧ マ・シ共著、前掲書、下、「25 毛沢東 最後の日々」所収、「『四入組』逮捕」284~291ページ、の節。

⑨ 中嶋著、前掲書、下、「カギを握った汪東興」169~172ぺージ、の節。


 勿論この逮捕は汪の独断で行われたわけではなく、華国鋒総理および解放軍の長老葉剣英らの指示の下、実務派財務官僚の高官、李先念、北京市革命委負会主任の呉徳などの同意を得て行われており、王と張の逮捕には華国鋒自らが立ち会い、「党と社会主義に対する罪」で逮捕するという決議を読み上げている。華国鋒はこの逮捕に関して最初から首謀者の一人であり、他人の示唆によって実行したわけではない。マ・シ共著前掲書では、華国鋒が「この決断を下すのに呻吟していたようだ」と記しているが、それは勿論「自分と同じく文革の果実を手にした指導部の唯一の生き残りメンバーたちをクーデターで倒そうとしていた」⑪ ために他ならない。

⑩ マ・シ共著、前掲書、下、284~289ページ。

⑪ 同上、287ぺージ。


 逮捕された時、王洪文は「こんなに早く起こるとは思わなかった」とつぶやいた そうだが、華国鋒が早々に四人組逮捕を決断した契機となったのは、新設された王洪文直属の事務所(値班室)から総理の華に無断で多くの省党委員会に当てて変則的な命令が出され、奪権の動きがあることを湖南省の元同僚・張平化から知らされたことだった、とされている。それと同時に、文革推進派は『人民日報』などを通し、華国鋒とは無関係に毛沢東の遺志と称する「既定方針通りにやれ」というキャンペーンを繰り返して、毛沢東死去の影響を最小限に止め、自分たちの既得権を守ろうとしていたことも確かである。これらの事実によっても、四人組の側には文化大革命受益者の一人である華国鋒を仲間に引き入れ、彼と協調して既得権を維持しようとする方針はなかったことが分かる。たとえ毛沢東が華国鋒を後継者に選ぶことで文化大革命の評価と四人組を守ろうと配慮しておいたとしても、肝腎の四人組の側に、そうした遺志を活用するつもりはなかったのである。地方の党官僚や公安関係者として経験を積んで来た華国鋒⑮ と、革命闘争の指導者として文化大革命を推進してきた四人組とでは、肌合いが違い過ぎて協調することは不可能だったのだろう。

⑫ 同上、288~289ページ。

⑬ 同上、284ページ。

⑭ 厳・高共著、前掲書、下、366ページ以下の、「既定方針通りにやれ」の節。

⑮ 中嶋、前掲書、下、「5 華国鋒の戦い」173ページ以下、の章。その経歴は、華国鋒の奪権、173~177ページ、の節。


 また文革初期に「二月逆流」などで多数の軍人が失脚し、林彪の死後に彼らが相次いで復権していた解放軍では、四人組は極度に憎まれていた。そのため華国鋒が四人組逮捕を決意した途端、軍の一部は全面的に協力したし、事後に首謀者の葉剣英らから説明を受けた時、残りの高級幹部たちはその事実を異存なしに受け入れた。党や政府機関の高級幹部その他の主要団体の反応も同様であった。一般大衆の反応はそれに輪をかけたもので、党中央政治局が北京で「連絡会」を何度も開催して四人組逮捕の経過を説明すると、そのニュースはたちまち巷に伝わり、北京の市場では3匹のオス蟹と1匹のメス蟹を一緒に縛って店先にぶら下げ、人々はそれらを肴に祝杯を上げたという

⑯ マ・シ共著、前掲書、下、289ページ。

⑰ 同上、291ページ。


 既製事実の成果を確実なものにするために、華国鋒は四人組逮捕の翌日に当たる10月7日、中央政治局によって、中共中央委員会主席(=党主席、中央軍事委員会主席に任命され、国務院総理のポストと併せて一挙に三権のトップに立った。首都北京の状況はどうであれ、一時期全国であれほど猛威をふるった運動の指導者たちの逮捕に反対する勢力が皆無だとはいいきれない。とりわけ四人組の出身地であると同時に今でも彼らの同志が実権を握っていて、文化大革命を始めるために江青が最初に同志を募った、いわば文化大革命発祥の地でもある上海の反応には警戒を要した。

⑱ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」17ページ。天児著、前掲書、「華国鋒による権力独占」236~238ぺージ、の項。


 以下マ・シ共著前掲書の記述によると、華国鋒らは10月7日の早朝、上海最高幹部の馬天水を事情の説明なしに特別機で呼び出し、彼を通して上海に工作する方針を採った。10月8日、北京との連絡が途絶えたために、異変が発生しているのに気付いた上海市革命委員会は、労働者民兵3万余りに緊急事態に備えよという警報を出し、2500の民兵に待機させた。その翌日には華国鋒が前述の二つのポストにに任命されたというニュースが伝わり、四人組についての問い合わせに対して電話に出た馬天水が「みんな元気にしている」と嘘をついたので、上海の革命委員会は安心して、労働者民兵(なぜか数字は増大しているが)11万人動員の警戒態勢を解除したため、内戦の危機は去った、とされている。厳・高共著の記述では経緯はさらに複雑で、上海革命委員会は一時期過激な反応を示し、パリ・コミューンのように徹底抗戦して後世に革命の夢を託そうという意見さえ出たらしいが、一般に四人組逮捕のニュースが流れると、上海の三つの大学の教職員や学生が街頭デモに繰り出して新しい事態を歓迎し、全上海は四人組失脚を喜ぶ奔流に飲みこまれてしまい、その後上海市の四人組関係者は一斉に排除された、と記されている。

⑲ マ・シ共著、前掲書、下、289~291ぺージ。

⑳ 厳・高共著、前掲書、下、第三篇、第10章「『四人組』の滅亡」中の、「残党始末」376~383ぺージ。パリ・コミューンについては、381ページ。


 こうして毛沢東によって周恩来の後任に任命された華国鋒は、毛沢東の死後1月も経たない内に行った四人組逮捕によって、毛沢東にさえ与えられたことがなかった、党と軍と政府のトップという、中国共産党政権が成立して以来前例のない高い地位についた。しかし彼の立場はジレンマに満ちていて、はなはだ不安定なものであった。彼が今日の地位についている最大の根拠は毛沢東の指名であり、極端にいえば「あなたがやれば、私は安心だ」㉑ の一言に支えられている、と言っても過言ではない。しかし彼を頂点に押し上げた四人組逮捕という行為は、彼の権力の基盤である毛沢東の権威を著しく傷付けるものであった。彼らは毛沢東が自分の二大偉業の一つに位置付けていた文化大革命の推進者であり、その中には毛沢東の未亡人が混じっていたからで、これ以上に毛沢東の威信を傷付ける行為は考えられないであろう。華国鋒は自らのよって立つ基盤を、自分の手で掘り崩してしまったのである。しかし相手が相手であり、彼の決断が中国人民に恩恵をもたらしたことは、その後の経過から見て明らかだと思われる。過渡期の権力者としては、早期に四人組逮捕を決断したというこの一事だけで、歴史上の積極的評価に値するだろう。

㉑ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」17ページの1976年4月30日の項に記された、華国鋒の情況報告に対する、毛沢東の3つの指示の一つ。


 しかし権力者たるものは、自分の支持者に対する義理からも、自らの権力を守る衝動を押え難くなるもののようである。とりわけ華国鋒のように、たとえ名目的にせよ党、軍、政府のトップという未曾有の栄誉に包まれ、メディアによって絶賛の声を浴びた場合、自らの権力を一日でも長く維持したいと望むのは当然である。華国鋒は自らの権力基盤である毛沢東の権威を高めるため、その著作集の刊行や毛沢東記念堂の建設を推進し、また毛沢東の個人崇拝政策を引き継いで、天安門広場の毛沢東の肖像の隣に自分の肖像を飾らせた。さらに自分の指示で執行された四人組逮捕が、中国の社会に歓迎されていることを確信できた1976年10月26日には、「当面のところ『四人組』批判と鄧小平批判とを結びつけて推進する」「『四人組』路線は極右路線である」などと発言した。これは自分こそ毛沢東思想の正統な継承者であり、異端者であった四入組を排除しても毛沢東の権威は傷付いておらず、毛沢東のお墨付きは有効であるという意味に取れる。

㉒ 同上、17~18ぺージ。肖像については、中嶋著、前掲書、下、212ページその他。

㉓ 厳・高共著、前掲書、下、391ページ。


 その経歴、功績、人脈など、あらゆる意味で自分よりはるかに偉大な鄧小平の復帰を抑えておくためには、彼が毛沢東によって排除されたという事実に頼るしかないために、さらに華国鋒は、その翌1977年の2月に『人民日報』その他3紙誌において共同社説を発表させた。それは、「毛主席の下した決定であれば、すべて断固として守り、毛主席の指示であれば、すべて変わることなく順守する」という指針の宣言で、後に「二つのすべて」論とよばれているが、毛沢東と長らく行動を共にしていた四人組の逮捕自体この指針と矛盾していて、これを厳密に実践することは不可能であった。またあらゆる而で文化大革命体制からの解放と毛沢東離れが求められている当時の中国の状況とは、真っ向から対立する指針でもあった。せっかく四人組逮捕を断行しておきながら、文化大革命の再現を招きかねないこのような指針を打ち出したことで、一般市民の華国鋒への期待は冷め、鄧小平の復帰を望む声が一層高まったはずである。鄧小平自身は、自分よりも17歳も若い後輩と正面から争うつもりはなく、すでに四人組逮捕の直後と1977年4月の二度にわたって華国鋒や党中央あてに、四人組逮捕の功績を賞賛し、自分の党籍が剥奪されていないことに感謝の意を示すなどの内容を含む友好的な書簡を送り、一応自己批判らしきものをも行っている。ただし早くも二度目の書簡では、「二つのすべて」論に問題があることを指摘しているという。元来それほど強烈な権力欲の持主ではなかったらしい華国鋒は、鄧小平の4月の書簡を好意的に受け入れて、その復帰を認めることにした。

㉔ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」18ぺージ。

㉕ 同上。天児著、前掲書、238~239ページ。


 華国鋒はまことに過渡期にふさわしい人物で、四人組逮捕の際だけは果断な態度を示したが、その他の行動は全く過渡期的曖昧さに包まれていたような印象を受ける。何しろ、死ぬ数ヶ月前に急遽彼を周恩来の後任に任命した後、毛沢東が与えた指示自体が、「ゆっくりやれ、あわてるな」「過去の方針に照らして行え」だったのだから、それも無理はないのかもしれない。すでに見たとおり、彼が打ち出した「二つのすべて」論という指針自体実践不可能であり、あるいはそこまで無理をして阻止しようとしていたはずの鄧小平の復帰をあっさりと認めたことも、一貫性を欠いていると言わざるを得ない。実は四人組逮捕という快挙自体、彼のそうした行き当たりばったりの行動の一つだったのだろう。王洪文が驚いたとおり、普通の人ならばあれほど早い時期に決断できるはずがないからである。彼の時代の経済は、プロジェクトが濫立して輸入過多に陥ったために、後に「洋躍進」という名で批判されているが、この事実自体も彼の行き当たりばったりな性格の現れだと考えれば辻棲が合う。まさにこのような一貫性のない人間がトップにいたからこそ、中国はスムーズに過渡期を経て、転換期を迎えることができたのである。有能で辣腕な鄧小平にとって、こうした人物の実権を奪い取り、彼が占めていた三つの頂点を子分たちと分かち合うことがそれほど困難ではなかったからである。相手がもっと思慮深かったり、権力への執着心が強い人間であれば、こうはいかなかったであろう。第一、2通の殊勝な内容の書簡ぐらいで、あれほど早く鄧小平の復帰を許したとは到底考えられない。

㉖ 本章の注㉑ の残り2つの指示。

㉗ 天児著、前掲書、238ぺージ。


 1977年7月、第10期中央委員会第3回全体会議が開かれ、華国鋒の党・軍の主席就任を追認、四人組の断罪と党からの永久追放などと併せて、鄧小平の全職務への復帰が決定され、彼は党副主席、中央軍事委員会副主席兼参謀総長、国務院副総理に復帰、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位を確保した。鄧小平はこの会議で、毛沢東が若い時に唱えた「実事求是」ということばを引いて、「二つのすべて」論を批判した。続く8月の第11回党代表大会で、華国鋒は毛沢東の継続革命論を称賛しながらも、文化大革命の終了を宣言し、四つの近代化建設を提唱した。その翌年1978年は、鄧小平の「実事求是」をめぐる論争が激化する中で、毛沢東体制への見直しが大幅に進んだ年で、右派分子のレッテルをはがす決定が行われ、文化大革命の悲惨な現実を描いた「傷痕文学」が続々と発表されている。そしてこの年の11月に始まり中央から省や大軍区の主要機関の主な責任者たち212名により、36日にわたって続いた中央工作会議は、その後の中国の路線を決定するための「関ヶ原の合戦」だったとされている。この席で軍の長老や党の指導者が次々と発言し、彭徳懐と文革の失脚者たち、そして第一次天安門事件の犠牲者の名誉回復が決定され、また華国鋒の指導の下で進められている「洋躍進」に対する批判も行われて、汪東興と華国鋒が「二つのすべて」論をめぐって自己批判を行った。こうした論議の後に開かれた党第11期中央委員会第3回全体会議は、「文革路線から近代化路線へ」の歴史的転換を図るに至る

㉘ 同上、239ぺージ。

㉙ 同上、239~240ページ。

㉚ 同上、240ページ。

㉛ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」18ページ、1977.8.11。

㉜ 天児著、前掲書、245ぺージ。

㉝ 同上、246ページ。

㉞ 同上、245~246ページ。


 鄧小平が進めた奪権の動きはその後も進行し、1980年2月には汪東興ら華国鋒の取り巻きのグループが失脚し、劉少奇の名誉が回復され、同年8月には華国鋒が首相を辞任して趙紫陽と交代した。翌1981年6月の中共第11期中央委員会第6回全体会議における「党の歴史問題に関する決議」で文化大革命は全面的に否定され、華国鋒は党主席と党中央軍事委員会主席を辞任し、胡耀邦が党主席に、鄧小平が軍事委主席に就任して奪権は完成した。しかし失脚が即労働キャンプ入りを意味した文革時代とは異なり、華国鋒らはその後も中共元老として、一定の待遇を受けていたらしい

㉟ 厳・高共著、前掲書、上 所収の「文化大革命関係年表」20ページ。

㊱ 同上。

㊲ 天児著、前掲書、250ぺージ。鄧小平は華国鋒を党副主席のポストに止めた。


 他方文化大革命後の中国では、1978~9年に発表された巍京生の「5番目の現代化」のように、民主化を求める声が出始めるが、鄧小平はそうした動きを認めようとはせず、毛沢東の誤りは取るにたらぬものだとして、その功績を否定したり、中国共産党の一党独裁体制を改めようとする動きには同調しようとしなかったばかりか、これを弾圧した。さらに1989年6月4日の第二次天安門事件では、民主化要求デモに対して解放軍に発砲させ、多くの死傷者を出しており、その後も中国は4つの現代化によって大きく発展しながら、2010年には劉暁波のノーベル賞受賞を妨害するなど、民主化に関しては進展が認められない。

㊳ 厳・高共著、前掲書、上所収の「文化大革命関係年表」19~20ページ。

㊴ 同上、19ページ、1979.3.16「鄧小平、毛沢東を弁護」。19~20ぺージ、3.29「巍京生逮捕」。

㊵ 天児著、前掲書、「第七章 改革開放・近代化への邁進」中の「第二次天安門事件」282~292ぺージ、の節。

㊶ 中国政府は、劉暁波の2010年度のノーベル平和賞受賞を妨害した。


 中央の権力の動きばかりを先走って追い過ぎたが、毛沢東が死去した後、地方でも中央に劣らない変革の動きが進行した。それは、「大躍進政策」から生まれ、毛沢東の共産主義が中国にもたらした最大の成果の一つとして礼讃されながら、実は農民の労働意欲を低下させ、中国の農業生産の発展を阻む最人要因となっていた人民公社にメスを入れる試みであった。共産主義諸国に見られた集団農業の試みを眺める時、私たちは人力飛行機のコンテストを眺めているような感慨に耽らざるを得ない。原理的に人力では空を飛べない人類が、さまざまな工夫によって人力だけで飛翔する姿には敬服しないではいられないものの、空を自在に飛び回ることは不可能なのである。

㊷ 王曙光著『現代中国の経済』現代中国叢書 3、東京(明石書店・2004)29ページ。


 資本主義的モチヴェーションを欠いた集団農場では、スローガンや勲章で一時的に労働意欲を高めることはできても、それを長期に亙って保つことは極めて困難であった。王曙光著『現代中国の経済』によると、毛沢東が死去した年の翌年の1977年から、安徽省と四川省の一部で、人民公社の集団農作業方式を小規模グループ化することで、自発的に農業生産請負制を導入した。この下からの改革は、地元党組織と行政機関からの支持、さらに中央政府の実質的黙認を得て勢いづいて周辺に拡大した。さらに「包干倒戸(戸別請負制)」に進んで、農業生産の組織は一気に農家を基礎単位にするに至った、とされている。

㊸ 同上、30ページ。


 この問題に関して、その記述に若干の違いが見られる天児著前掲書では、著者自身が安徽省鳳陽県を訪ねて聞き出した、農民たちが幹部の逮捕まで覚悟して最初の一歩を踏み出した様子が記されているが、ともかく1978年以降に鄧小平らが進めた毛沢東体制からの転換の決議がこうした変化に対する追い風になっていたことは言うまでもない。当時の安徽省党書記は鄧小平に近い万里で、3年間の期限付きで「包干倒戸」を容認してその成果に注視したところ、食糧生産は従来の3倍近くに上り、1980年春には同県内の他の村に、翌年には安徽省全体に、そして1982年には全国に拡がった。毛沢東の故郷湖南省を含む8つの省で、「“単干風”を断固防ごう」との呼びかけがなされるなど、抵抗も少なくなかったらしいが、何度かの会議や鄧小平の評価を経た後、1982年1月、党中央は全国農村で戸別請負制を積極的に普及することを決定した。同年11月から12月にかけて開かれた全人代会議で、大幅に改訂された新憲法が採択され、その内の最も重要な事項の一つが「人民公社」の解体宣言であった。こうして人民公社が解体され、戸別請負責任制の実施が進められ、野菜や果樹の栽培に特化する専業農家も出現して、「万元戸」と呼ばれる豊かな農民も出現し、解体宣言からわずか3年足らずの85年6月に解体の完了が宣言され、わずかな例外を除くと「大躍進政策」が生んだ毛沢東的共産主義の遺産はこの時消滅した

㊹ 天児著、前掲書、263ぺージ。

㊺ 厳・高共著、前掲書、上、所収の「文化大革命関係年表」18ページに記された、1978年6月に鄧小平が行った「実事求是」に基づく「二つのすべて」論批判や、同、19ぺージに記された、1978年12月18目の階級闘争から現代化実現への路線転換決議など。

㊻ 天児著、前掲書、263~264ページ。

㊼ 同上、264ページ。

㊽ 王著、前掲書、31ぺージ。

㊾ 天児著、前掲書、264ぺージ。

㊿ 同上、「万元戸」の出現、264~266ぺージ、の項。


 今なお人口の6割が農業に従事していて、改革・開放政策が採用された1970年代後半には、農民人口が全人口の7割を越えていた(51) 中国のことなので、農業以外の職業に従事していた3割に満たない人々を除くと、ほぼ何らかの形で人民公社に関与していたはずであり、その組織が解体されて個々の家族が生産の責任を負い、その結果得た成果を自由に消費するという、個人と家庭のレベルでの資本主義の復活は、中国人民に強い衝撃を与えずにはおかなかったはずである。ただし人民公社の生産活動は農業に限られず、土木事業や食品加工、さまざまな工業なども行われていたのだが、それらの活動も郷鎮企業として独立した(52)。いわば大人の7割以上が毎日通っていた会社が突然消滅して、その資産を貸与してやる代わりに各戸別、あるいは組織別に独立して経営せよ、と命じられたようなものだから、国民の意識改革のためには絶大な効果があったに違いない。まさにこの国民の7割以上を巻き込んだ独立採算制の私的経営、いわば資本主義的制度の復活というショック療法こそ、現代中国にモンタペルティ現象を発生させた最大の要因だったのではないだろうか。

(51) 川島博之著『農民国家 中国の限界 システム分析で読み解く未来』東京(東洋経済新報社・2010)153ぺージのグラフによる。中国の人口は資料が欠落しているらしい。

(52) 郷鎮とは地方自治体のことだが、郷鎮企業とはそうした地方に存在する民間の中小企業という意味で、公営企業というわけではない。


 幸い人民公社の主要な業務が成員の大半が精通している農業であり、革命以前には各戸が個別に農業に従事してきたという事実があったからこそ、これほど大胆な決定が行なえたものと思われるが、おそらく中共中央の100の決議や通達よりも、人民公社の解体という一事の方が、中国人民の頭に体制が転換したことを叩きこむために、はるかに効果的だったはずである。勿論これほど膨大な数の人間が、一挙に社会主義体制から資本主義体制(53) への転換を体験した例は世界史上初めてであり、ヨーロッパで何世紀もかけて進行した封建体制から資本主義体制への転換などと比較すると、その規模と言い、速度と言い、まさに世界史上未曾有の出来事であった。周知のごとく、中国の農民は戸籍制度によって都市部の住民と差別されていて、不利な立場におかれている(54) のだが、人口の大半を占めていたこの底辺の農民たちが、真っ先に改革・開放の衝撃を体験したという事実の影響は、いかに強調してもしきれないであろう。さらにこの決定がもたらしたものが、単なる精神的衝撃にとどまらず、当時中国が世界に最も誇ることができた豊富な人的資源(55) を、様々な産業に供給するために不可欠な基本的措置であったことは、今更指摘するまでもあるまい。

(53) 請負制はまだ大きく共産主義的制度に依存していたため、完全に資本主義的な制度とは認め難いが、独立採算制を採用して独自に利潤を追及している点や、完全な自立が求められている点で、一応資本主義的な制度と見なし得る。

(54) 深尾光洋編『中国経済のマクロ分析 高成長は持続可能か』東京(日本経済新聞社・2006)第6章の論文、李天国著「中国における就業と労働市場」「2. 労働市場の消失と復活の回顧」「3. 戸籍制度の成立と改革」190~195ぺージ。

(55) 同上、「4. 農村労働力の移動政策の変遷と就業状況」202~211ページ、の節で、それ以後その人的資源を利用するために、いかなる改革が行われたかが概観されている。


 ところで中国に関連したあらゆる事柄についての一人の全く無知な門外漢として、ここで一つの疑問を提起することをお許しいただきたいと思う。それは南・牧野共著『中国経済入門 [第二版] 世界の工場から世界の市場へ』に見られる、以下のような記述に関する疑問である。

 「(鄧小平時代に行われた)社会主義から市場主義への移行は、いわゆるショック療法(ビッグバン)ではなく、新しい政策の成果を見極めながら漸進的に事をすすめてきた点に特徴があるといわれる。」(56) 

(56) 南亮進・牧野文夫編『中国経済入門 [第二版] 世界の工場から世界の市場へ』東京(日本評論社・2001)第1部 総論、第1章の論文、牧野文夫著「世界の工場か、世界の市場か? 中国経済の軌跡と展望」「Ⅱ 改革開放の成長と始動」13ページ。


 たしかに経済特区を設定してその成果を確かめながら慎重に政策を模索していくやり方などに関してはこの通りのことが言えるであろうし、わが国の代表的な入門書に記されたこの一文が、中国経済の改革の全般的な傾向に関する基本的な通説を表現したものであることは理解できるつもりであるが、その後のすべての改革の出発点となった人民公社制から戸別請負制や郷鎮企業請負制への転換に関しても同じことが言えるのだろうか、というのが私の疑問である。

 先に記した通り農民が国民の圧倒的多数を占めていた時代に、おそらくその農民の大半が所属していた組織に対して、鄧小平が実権を握ってからわずか数年の内に解体宣言が下されているのである。この経緯を見て私が感じる疑問の一つは、もしも最初に戸別請負制の実験が行われた安徽省の寒村小崗で、1979年に気候不順が発生し、実験が失敗していたらどうなっていただろうか、というものである。たまたま実験が成功したから良かったものの、失敗していたら人民公社は解体されなかったのであろうか。また寒村で行われた小さな実験の成果を梃子にして、数年の内に一挙に全国の人民公社を解体してしまうとは、これでも漸進的と言えるのであろうか。何しろ人民公社の存立は何億人もの人間の生活に関わる重大な問題である。それにもかかわらず、1979年から81年にかけて、ごく一部で行われた実験的な試みの好成績だけに基づいて、82年には人民公社解体宣言が行われ、85年にはそれが完了したとされているのである。おそらく中国の農民は、文化大革命が生み出した毛沢東絶対主義的体制にも、その毛沢東の遺産である人民公社にもすでに飽き飽きしていたということだったのであろう。勿論私は人民公社の廃止を惜しんでいるわけではない。要するに私が言いたいのは、この転換期には常に慎重な漸進策だけが用いられていたのではなく、むしろその出発点では、大胆なショック療法が、国民の大半を巻き込む仕方で用いられたのではないか、ということである。そうしたショックが出発点で与えられたからこそ、中国人は一気に走り出したのであり、一旦走り出した国民に対してはもはやショックは必要なく、慎重に試行錯誤を繰り返す漸進的な方法でも十分だったのではないだろうか。こうした私の見解が全くの誤解であれば、是非専門家からご教示いただきたいものである。

 このように毛沢東的社会主義体制からの離脱は農村部において先行し、1984年ごろまでは、万元戸の出現など、農村部の農業生産においてその成果が目立っていたようである(57)。しかしやがてその効果は都市部の第二次および第三次産業にも現れ始める。人民公社の場合のように解体などという極端な手段は取られなかったが、農村部において人民公社が占めていたのとほぼ同じ「生産・生活単位」および「行政・政治単位」という役割を都市部において果していて(58)、1979年の工業総生産の81.0%、都市部従業員数の78.3%を占めていた国有企業にも、70年代後半から改革のメスが入れられ、企業は自主権を拡大するとともに請負制を導入し、他の役割から脱して企業として独立する方向に進められた(59)

(57) 陳桂棣・春桃共著、納村公子・椙田雅美共訳『中国農民調査』東京(文芸春秋・2005)126ページに、1984年の12期3中全会で都市改革の決定がなされ、改革の重心が農村から都市に移った、とされている。同じぺージで、ほんの一部が豊かになっただけの農民に様々な負担が押し付けられたことが指摘されている。

(58) 上原一慶編著『躍動する中国と回復するロシア』京都(高菅出版・2005)第2章の論文、余勝祥著「中国における企業システムの転換」33ページ。

(59) 同上、国有企業の改革については、29~32ページ、数字は27ページの表による。


 人民公社の場合とは異なり、工場の機械を分割して貸与したり、生産単位毎に独立を認めたりするわけにはいかない。「鉄椀飯」と呼ばれたその体制の改革が困難だったことは、2001年に都市部従業員の51.7%によって、工業総生産のわずか18.1%を生産しているという数字からも明らかである(60)。これは1979年の小崗に竜巻が発生したために実験に失敗して、人民公社が解体されずに存続した場合の将来図を予測させる数字でもあり、少なくとも数字だけを見た場合、2001年に4.5%の従業員数で28.5%を生産する外資企業や9.0%で29.6%を生産する株式制企業と比較すると、国有企業の非効率ぶりは著しい(61)

(60) 日本で「親方日の丸」と称したのと同様の、食いはぐれることがない勤務先のこと。

(61) 以上の数字はすべて、本章の注(59) の表によるものである。


 この時期に行われたもう一つの重要な改革は、経済特区の設立である。その発足時の状況を王著前掲書の記述に基づいて眺めると、1979年末から翌年3月にかけて、党中央は広東省と福建省の党委員会から出された深圳、珠海、汕頭(以上広東省)と、福建省の厦門の4都市に「輸出特区」を設立するという報告を承認した。それは香港、台湾、東南アジアの華僑の資本と、西側諸国の資本とを導入して、対外輸出を中心とする地域経済の発展を推進するための試みで、製品の輸出と海外における販売網開発のために、中継基地となる国際経済センターからできるだけ近い地域を選ぶ必要があったため、香港に近い広東省の3つの都市と、台湾海峡に面した厦門とが真っ先に選ばれ、そこでは国際貿易を振興するために、中国国内の他の地域とは異なった法律に基づいて、特殊な課税制度、外貨管理制度、税関制度その他が設けられることになった。経済特区に選ばれた4都市は、いずれも人口30~60万人程度の中規模地方都市で、近代的産業が空白であることや、歴史的に海外との交通が盛んで、多くの華僑が海を渡って海外に進出しており、その送金に支えられて、地元住民の生活水準が他の地域より高いことも共通していた(62)

(62) 王著、前掲書、39ぺージ。


 主なものだけでも以上のような改革が試みられた初期段階では、特に人民公社の解体などを見る時、まさに五里霧中の状態で試行錯誤が行われていたという感が禁じ得ないのではないだろうか。人民公社の解体、国有企業の改革、そして経済特区の創設など、いずれも毛沢東が聞いたら、烈火のごとく怒りだしたに違いないはずの改革ばかりであり、文革推進派が鄧小平を攻撃するために用いた「走資派」ということばは、非難でも誹謗でもなくて、鄧小平がやりたがっていたことのまさしく正確な表現であったことを認めねばなるまい。

 ところがそれ以後の中国人民は、鄧小平の真意を悟って憤慨するどころか、彼とその部下たちが構想した改革・開放路線を走り続けた。それにともなって中国経済が今日に至るまで、ほぼ右肩上がりの発展を遂げたことは周知のとおりである。その発展ぶりに関してはすでに無数の著作が刊行されているが、本論の場合、二つだけ具体的な数字の表を示してその証拠を挙げておけば十分だと思われる。

 そこでまず最初に私が選んだのはミッチェルの『国際歴史統計 アフリカ・アジア・オセアニア 1750~2000 第4版』(63)  の20世紀における中国の輸入と輸出の総量を示した表から得られた、5年毎の数字の抜粋である。こうした統計の信櫃性に関して論議の余地があるとしても、本論の場合中国経済の驚異的な拡大ぶりを示すことができれば十分であると思われる。(単位は10億元)

(63) B.R.Mitchell, INTERNATIONAL HISTORICAL, STATISTICS AFRICA, ASIA & OCEANIA. 1750-2000, Fourth Edition, NewYork (Palgrave Macmillan) 2003.


年数    1950   1955   1960   1965   1970 

輸入    2.13    6.11    6.51    5.53    5.61 

輸出    2.02    4.87    6.33    6.31    5.68 


年数      1975   1980   1985   1990   1995

輸入    14.74  29.88    126    257     721

輸出    14.30   27.12  80.89  299      ... (64)


(64) Idem、p.544.


 ミッチェルの表は1995年の輸出の欄が空白であり、それ以後も欠けているので不備なものではあるが、50年代から70年代初めまで続いていた1桁の数字がわずか20年足らずで3桁になっていることから、1970年代以後の中国経済の急激な拡大の証拠としてはこれだけで十分ではないかと思われる。やや意外なことは、毛沢東が死去する以前の1970年代の前半にすでに顕著な伸びが見られることで、その変化は1972年の輸入6.40、輸出8.29から73年の輸入10.36、輸出11.69と2桁に突入したあたりを起点としている(65)

(65) Idem.


 1971年7月のキッシンジャー、72年2月のニクソンと9月の田中角栄の訪中などから発生した国際関係の新しい動きが、こうした変化とは無関係ではあり得ないであろう。まだ毛沢東が生存し、四人組の監視の目が光っていた時代から、早くも中国では資本主義的活動が目覚めつつあったのであり、おそらく上からの転換に先駆けて、現場レベルで産業や貿易が復活しつつあったことが推測される。私が示すもう一つの表は中国国民一人当たりの消費とGDPと伸び率を、改革が始まった1978年を100として示した、以下の表である。


年度   1978    1985    1990    1995    1996    1999

消費    100    181.3    237.2    394    491.5    521.3

GDP   100    175.5     221     327.7   393.1    423   (66)


(66) この表は、田暁利著『現代中国の経済発展と社会変動「《禁欲》的統制政策」から「《利益》誘導政策」への転換 1949-2003』東京(明石書店・2005)285ページの図8-1「国民1人当たり消費推移状況」に記入された数字を基にした。原典は『中国統計概要』2000年版。


 この表は折れ線グラフの数字の部分だけを引用したものであるが、わずか21年間で消費は5倍を超え、GDPも軽く4倍を超えるという驚異的な発展ぶりを示していて、元のグラフが右肩上がりを示していたことは言うまでもない。その後の中国の発展過程については、様々な仕方でまとめることが可能だと思われるが、参考のために中国人自身によって行われた総括を二つだけ紹介しておこう。

 その一つは上海の経済研究所長厲(り)教授の手になるもので、第一段階:初期段階(1978~84)、第二段階:開拓段階(1985~91)、第三段階:突破段階(1992~99)、第四段階:深化段階(2000~現在)の4段階に分けるという甚だ簡潔なものである。厲教授は各段階について敷延した後、改革の3つの道筋として、1) 非国有経済発展による経済活力の向上、2) 計画体制の突破と市場経済の樹立、3) 対外開放による国内改革の促進の3つを列挙している(67)

(67) 京都産業大学 ORC 中国経済プロジェクト編『中国経済の市場化・グローバル化』京都(晃洋書房・2006)第一章「中国の経済改革の回顧と展望(分担執筆 り(?)無畏)」1~13ぺージ。


 もう一つの総括は王前掲書によるもので、序章から6章までの7つの章が各々の時代を扱っている。その目次に示された各章の見出しは、この著者による時代区分を兼ねている。参考のために、各々の章の見出しに「期」という文字を加え、後はそのまま紹介しておく。

 解凍期:国家再建のための改革開放へ(1975~78)、始動期 :底辺からの出発(1978~83)、展開期:全面開放の時代へ(1984~88)、挫折期:経済社会諸問題の露呈(1989~91)、加速期:高度成長時代の幕開け(1992~95)、試練期:危機を乗り越えて(1996~98)、躍進期:新興経済大国を目指して(1999~2003)(68)。この時代区分に従うならば、常に順風満帆だったわけではなく、発展途上において少なくとも2度は危機にさらされていたことが推察できる。この著書は2004年に刊行されているが、その後も好調な発展が続き、北京オリンピック(2008年)と上海万博(2010年)が成功裡に終わったことは、周知のとおりである。

(68) 王著、前掲書、9~11ページ。


 すでに見たとおり鄧小平が試みた一連の改革は、確実に毛沢東を怒らせる試みであった。こうした改革が実行されて、その成果が長年にわたって現れ続けているという事実は、文化大革命が作り上げた毛沢東絶対主義の体制が完全に崩壊したことの最も明らかな証拠である。毛沢東が林彪および江青ら文革推進派の同志とともに、年少の紅衛兵までを動員して作り上げた体制は、多数の国民に塗炭の苦しみを味あわせたあげく、一時期は全国支配を確立したかに見えたが、所詮長年にわたって国民の多数の同意が得られるものではなかった。しかし毛沢東の存命中は、彼を公的に批判している人は強制収容所の中にしか存荘せず(69)、そのような体制がおよそ10年間存在していたことは否定できない。

(69) その一人、『ワイルド・スワン』の作者ユン・チアンの父親は、労働キャンプに収容されていた。彼は毛沢東を名指しで批判したために迫害されていたそうである。


 しかしその体制は、毛沢東が死去した途端、四人組逮捕という非常手段によって覆えされ、同時に改革・開放への動きが始動した。それは一滴の血も流さない措置ではあったが、すでに毛沢東という支柱を失っていた脆弱な構造を崩壊させるには十分な動きであった。したがって外国軍の侵略は全くなかったけれども、この時点で一つの特異なイデオロギー国家が敗北を喫して崩壊したと見なすことが可能なのである。

 したがって、一国の敗北によって発生するモンタペルティ現象が、この時点の中国で発生しても少しも意外ではない。事実この時の転換を契機として、中国経済は未曾有の発展を遂げ続け、その発展ぶりはその規模や速度から考えて、恐らくかつての第二次大戦後の日本経済の発展ぶりを凌駕するものである。こうした経緯に基づいて、筆者は文化大革命体制から転換して経済の改革・開放政策を採用した現代中国に、モンタペルティ現象が発生していると考えているのである。



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