モンタペルティ現象7-1


『神曲』に残された     モンタペルティ現象の痕跡


米山  喜晟




はじめに



 かつて私は拙著『敗戦が中世フィレンツェを変えた』において、従来のフィレンツェ史の研究者が考えていたのとは異なり、1260年にフィレンツェ共和国が体験したモンタペルティの敗戦は、その後のフィレンツェの経済的・文化的発展のために大きな積極的影響を及ぼしたのではないかという仮説を提示した。またそれと同様に敗戦が一国の経済や文化の飛躍的発展をもたらす事例は、たとえば第二次世界大戦後の日・独・伊三国にも認められるので、そうした現象をモンタペルティ現象と呼ぶことを提案した

① 米山喜晟著『敗戦が中世フィレンツェを変えた ---- モンタペルティ・ベネヴェント仮説』東京(近代文芸社)2005。

2)拙稿「“モンタペルティ現象” 試論」『国際文化論集』第39号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2009。特に第一章の156ページ。「百万遍・第3号」所収。


 その後私は、敗戦の効果が必ずしも常に中世フィレンツェや戦後日本のように積極的な形で現れるわけではなく、たとえば朝鮮出兵以後、江戸時代の日本が長期にわたって対外戦争を行わなかったという事例に認められるように、敗戦の好ましい影響がもっと消極的な形で現れる可能性があることなどを考慮し、それらの場合をも含めた「敗戦が好ましい結果をもたらす現象」一般をモンタペルティ現象と呼び、その性質に応じて「開放・発展型」「抑制・和平型」あるいは独自な小世界の完成によって生ずる「帝国完成型」などと分類し、さもなくば発生の様態に応じて、「単発型」「同時多発型」「波状型」等に分類することなども考えた

③ 拙稿「敗戦の効果---世界史の中のモンタペルティ現象---」『国際文化論集」第42号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2010、特に「まとめ」の章。「百万遍・第6号」所収。


 さらに単純に、顕著な経済的・文化的発展をもたらした場合のみを狭義のモンタペルティ現象と呼び、それ以外のさまざまな場合をも含めて広義のモンタペルティ現象と呼ぶことも可能である。いずれにしても、敗戦がすでに述べたような多くの効果をもたらす場合が存在することはほぼ確実なので、そうした効果についての考察は、今後さまざまな分野の専門家によって検討が深められなければならないものと思われる。さらに私は、モンタペルティ現象の研究に従事する研究者の出現は当面期待し難いと考えたため、近現代史に関しては全くの門外漢であるにもかかわらず、自ら第二次世界大戦後の日・独・伊三国におけるモンタペルティ現象の経緯をたどり、三つの事例を比較・検討した。そしてそれら三つの国はその起源においては極めて性質を異にするにもかかわらず、モンタペルティ現象を引き起こすために必要な共通の条件を備えていたことを明らかにした。

④ 拙稿「潮流に乗って第二次世界大戦後のモンタペルティ現象」『国際文化論集』第41号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2009。「百万遍・第5号」所収。


 それに加えて私は、国際連合を初めとする様々な国際機関が存在し、一応建前としては人権思想も確立されている現代世界においては、冷戦の決着後にモンタペルティ現象が発生している可能性が高いと考えて、その有無を検討した。その結果、文化大革命という一種の内戦を通して強引に築き上げられた毛沢東絶対主義というイデオロギー体制が、毛沢東の死によって一挙に崩壊した中華人民共和国には、イデオロギー内戦の敗北によって生じた特異な形のモンタペルティ現象が発生していることを明らかにした

⑤ 拙稿「冷戦後世界のモンタペルティ現象」『国際文化論集』第43号、大阪.(桃山学院大学総合研究所)2010。「百万遍・第7号」所収。

⑥ 拙稿「現代中国でもモンタペルティ現象が発生していた」『国際文化論集』第45号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2012「百万遍・第8号」所収。


 このように私はモンタペルティ現象が存在し、世界の文明史に深い影響を及ぼし続けているという事実を論証してきたのだが、まだ大方の支持を得るには至っていないので、本論では再び原点に立ち戻り、フィレンッェで発生したモンタペルティ現象を当時の文献に基づいて検討し、自説を補強しておくことにしたい。こうした目的のために、本論で私が資料として取り上げるのは、ダンテの『神曲』である。すでに私は拙著において、『煉獄篇』の一節を自説を補強するための有力な証拠として引用 しており、またダンテがフィレンツェから追放される原因となった白黒闘争についても論じているのだが、それ以外にはダンテにも『神曲」にも触れたことがなかった。そこで私は、モンタペルティ現象が発生していたと推測している時代に誕生した最も重要な文学作品である『神曲』の中に、モンタペルティ現象の痕跡がどの程度残されているかを、本論でくわしく検証しておくことにした。

⑦ 注①の著書の101~102ページ。

⑧ 同上、235~240ページ。


 とは言っても、まさにフィレンツェのモンタペルティ現象の渦中に生きて、フィレンツェの文化的地位をイタリアのみならず、ヨーロッパでも一流の地位へと一挙に押し上げた文化的英雄であるダンテには、当時フィレンツェで現在進行中であったモンタペルティ現象を客観的に把握する余裕はなかったはずである。だから私は自説にとって決定的に有利な証言が、『神曲』の中にころがっているなどと期待しているわけではない。私が本論で探求するのは、もしも仮にフィレンツェでモンタペルティ現象が起こっていたと仮定した場合に、当然そこに残されていると思われる数々の痕跡に過ぎない。だがそれらを直接採り上げる前に、私たちはまずダンテが当時のフィレンツェとフィレンツェ人について、『神曲』の中でどのように記しているかを見ておく必要がある。そこで以下の各章では、『地獄篇』『煉獄篇』『天国篇』の順に、フィレンツェとフィレンツェ人およびそれらに関連のある人物や事柄について、ダンテがどのように記しているかを要約して列挙する。そして最後の第四章において、前三章で把握されたフィレンツェとフィレンツェ人に関する証言の中から把握された、モンタペルティ現象の痕跡と見なし得るものの内の主要なものを指摘しておきたい。

⑨ ヴィッラーニは、ダンテが祖国フィレンツェに対する反逆者として亡命中に死去したにもかかわらず、『年代記』のかなり長い一章(第9巻136章)を割いてその生涯を紹介している。なお本論において、ヴィッラーニの『年代記』は、1844年にフィレンツェのサンソーニ社で刊行された7巻本を底本として、ミラノの L’UFFICIO GENERALE DI COMMISSIONI ED ANNUNZI から、CRONICHE DI GIOVANNI, MATTEO E FILIPPO VILLANI  というタイトルで二巻本で刊行された(なぜか年代が記入されていない)版の第一巻に収められた、Cronica di Giovanni Villani を利用するが、通常『年代記』の後に巻と章の数字を記すに止める。なおその後もボッカッチョ以下多数のフィレンツェ人が、ダンテの伝記を執筆して、その功績を褒めたたえた。


 本論文には『神曲』の日本語訳が多数引用されているが、それらの訳文は詩文としてではなく、あくまで論証の根拠として翻訳・引用されているので、極めて稚拙な直訳の水準に止まっていることをお許しいただきたい。なお日本語訳の原文と注釈および索引は、主に以下の版に依拠している。

  Dante Alighieri, COMMEDIA, A cura di Emilio Pasquini e Antonio Quaglio, Milano (Garzanti) 1987.

 なお以上の版に加えて、以下の版の原文と注釈および索引をも参考にした。

  LA DIVINA COMMEDIA di DANTE ALIGHIERI,  A cura di Tommaso Di Salvo, Bologna(ZANICHELLI) 1991.

   LA DIVINA COMMEDIA di Dante Alighieri, A cura di Siro A. Chimenz, Torino (UTET) 1962.

  Dante Alighieri, La Divina Commedia, Inferno, Purgatorio, Paradiso, Commento a cura di Giuseppe Villaroel, Revisione del commento di Guido Davico Bonino e Carla Poma, Milano (Mondadori) 1985.

 他はすべて一巻本だが、この版のみは、OSCAR CLASSICI MONDADORI, 75, 76, 77 として、三分冊で刊行されている。

 また『神曲』の原文に加えて、ダンテのあらゆる著作の出典の確認に際しては、以下の版を参照した。この版には注釈はないが、索引が付いている。

  DANTE ALIGHIERI, TUTTE LE OPERE, A cura di Luigi Blasucci, Firenze (Sansoni) 1965.

 なお以下の注においては、簡単のために上記の各版をガルザンティ版、ザニケッリ版、ウテット版、モンダドーリ版、サンソーニ版全集と呼ぷことにする。




第一章 地獄とフィレンツェ



 すでに記したとおり、私は本章において『地獄篇』の中に見られるフィレンツェおよびフィレンツェ人に関連のある事柄を、簡単に要約して列挙する。またたとえそれ自体はフィレンツェおよびフィレンツェ人に直接関連しない場合でも、間接的に関連していると思われる場合には、できるだけその列挙に加えておきたい。


1. ダンテは『地獄篇』第1歌に3匹の動物を登場させるが、その内でも傲慢のアレゴリーである獅子および貪欲のアレゴリーである雌狼が重要で、とりわけ雌狼を進路を妨げる最大の脅威として描いている。 なお「煉獄篇』第11歌において、オデリージという細密画の職人が、フィレンツェはモンタペルティ敗戦で獅子が象徴する傲慢の狂気が打ち砕かれ、現在は雌狼が象徴する貪欲の狂気に取り愚かれていると証言している

① 好色のアレゴリー、lonza(豹の一種)は『地獄篇』第1歌の31行以下、傲慢のアレゴリー、leone(獅子)は同45行以下、貪欲のアレゴリー、lupa(雌狼)は49行以下に登場する。

② 『煉獄篇』第11歌、109~114行。


2. 語り手兼主人公のダンテは別にして、『神曲」で最初に言及されているフィレンツェ人はベアトリーチェである。その名前は、ヴィルジリオ[以下人名は『神曲』で用いられた形で記す]がダンテの道案内に現れた経緯を語る箇所で言及されている。 それはダンテが道に迷ってさまよっていることに気付いた聖母マリアが、ルチーアをベアトリーチェのもとに送り、ルチーアの示唆に従ったベアトリーチェがヴィルジリオの許を訪れて、ダンテの道案内を依頼した結果であった。(「私はベアトリーチェ、私はあなたに行っていただきます(70行)」を含む)第2歌58~74行では、彼女が自ら名乗りを挙げて語った言葉がそのまま繰りかえされている。なお彼女自らが『神曲』に登場するのは、『煉獄篇』も末近い第30歌55行以下においてである。

③ 『地獄篇』第2歌49行以下。なおガルザンティ版55ぺージの脚注によると、ベアトリーチェは1266年、フォルコ・ポルティナーリの娘として生まれ、シモーネ・バルディに嫁し、1290年代に死去した実在の女性だが、『神曲』の中では神学のアレゴリーと見なされている。彼女がヴィルジリオに案内役を依頼した理由は、中世において彼は単なる詩人ではなく、キリスト教の到来を予見してその実現に協力した功労者、さらに予言者、魔術師などとして神秘化され崇拝されていたことに加えて、『アエネイド』に記されたアエネアスの地獄巡りの記述によって、彼が特に地獄にくわしい人だと見なされていたためである。『地獄篇」第9歌22行以下で、彼はかつてテッサリアの女魔術師エリトンに呼び出されて地獄に来たことを認めている。ただしウテット版82ぺージの注によると、エリトンの指示は何らかの伝承に基づくものではなく、ダンテの発明だとされている。中世のヴィルジリオ崇拝に関しては、ドメニコ・コンパレッテイ著『中世のヴィルジリオ(Virgilio nel Medio Evo  l872)』という名著が存在する。


3. 『地獄篇』第5歌73行以下でダンテが指さし、88行以下で自分たちの運命を打ち明けるフランチェスカとその恋人のパオロは、いずれも実家を通してフィレンツェと関係が深い。二人の悲劇の舞台となったマラテスタ家は、ロマーニャ地方の要衝リミニを支配するグェルフィ党の一族で、1269年にはマラテスタ一世がカルロ・ダンジョー王のフィレンツェ代官を勤め、1307年にはフェルランティーノがポデスタを勤めるなど、フィレンツェとは縁が深く、パオロ自身も1282年にフィレンツェのカピターノ・デル・ポポロを勤めているので、ダンテは確実に彼を目撃しているはずである

④ 以上のマラテスタ家に関する記述は、前述の様々な版の注釈に加えて、下記の百科事典の記述に基づく。DIZIONARIO ENCICLOPEDICO ITALIANO, Roma (Istituto dell' Enciclopedia Italiana) 1970, VII、 p.290. 以後この百科事典はD.E.I.と記す。


 一方フランチェスカの実家ポレンタ家も、ロマーニャ地方の由緒ある古都ラヴェンナを支配するグェルフィ党の一族であり、ラヴェンナ支配を確立したグイド・ミノーレが1290年に、さらにベルナルディーノが1313年にポデスタを勤めるなどと、マラテスタ家に劣らずフィレンツェと深い関係がある。皇帝アッリーゴ(ハインリッヒ)七世がイタリアに侵入した際、この一族の一人でチェルヴィアを治めるベルナルディーノはグェルフィ党の一員として皇帝と戦い、フィレンツェが皇帝に包囲された時には、その防衛に参加している。その代償として包囲を解かれた後にフィレンツェのポデスタに就任し、その在任中にフィレンツェで死去している。ところがその同じ一族で1316年に叔父ランベルト(ポレンタ家をラヴェンナの支配者にしたグイド・ミノーレの息子でフランチェスカの兄弟の一人)からラヴェンナの支配権を受け継いだグイド・ノヴェッロは、叔母フランチェスカのスキャンダルを歌い、皇帝アッリーゴを支持したダンテをラヴェンナに迎え入れ、彼が死ぬまで庇護している。この領主は詩を愛し、自らも清清体派風の詩を残している。ダンテの死の翌年の1322年、グイド・ノヴェッロが弟リナルドにラヴェンナをまかせてボローニャのカピターノ・デル・ポポロを勤めている間に、弟は前述のベルナルディーノの息子で従兄弟にあたるオスタジオに暗殺され、ラヴェンナの支配権を奪われる。グイド・ノヴェッロは生涯ラヴェンナを奪回できず、結局オスタジオの子孫がラヴェンナを支配した。もしもこうした親フィレンツェ派によるクーデターがダンテの存命中に起きていたら、本人は勿論、『神曲』の草稿も無事ではなかったかも知れない

⑤ 以上のポレンタ家に関する記述は、様々な版の注釈と、D.E.I., IX, p.559に基づく。


4. ダンテが地獄で初めてかつての知人らしき人の霊と対面し、フィレンツェに関して語り合うのは、『地獄篇』第6歌37行以下においてである。その相手とは、突然彼に声をかけてきた、地獄の第3圏(チェルキオ)で貪食者の罪への罰を受けているチャッコ(52行)で、フィレンツェのことを「君の都市(49行)」と呼んでいるのでフィレンツェ人ではなく、ダンテが彼を思い出せないでいると「私を思い出せ(41行)」と言っているので、ダンテとは面識があったらしい。チャッコの本名はジャコモあるいはヤコポであり、道化師の一種、いわゆる「宮廷人」の一人だったと見なされている。おそらく当時未曾有の繁栄を続けているフィレンツェに流れ込んで住み着いた外国人の一人だったのだろう。その罪やなりわいの軽々しさにもかかわらず、ダンテはチャッコとの間で十分重い会話を交わしている。チャッコは、フィレンツェを「羨望に満ち、すでに袋から溢れている都市(49~50行)」だと語り、おそらく我が意を得たらしいダンテは、いきなりこの外国人に対して、「分裂した都市の市民たちはどこへ行くのか、正義の士はいるのか、なぜこれほどの不和がフィレンツェを襲ったのか(60~63)」という、いずれも劣らず重要な質問を三つ、立て続けに浴びせかける。それに対する返答としてチャッコは、まず白派が黒派を追放するが、やがて現在は中立の立場を装っている者(ボニファツィオ八世)の力で黒派が巻き返すこと、正しい者は二人、すなわちきわめて少数で人々に理解されないこと、そして傲慢と貪欲と羨望が人々の心を燃やして不和をもたらしていることなどを告げた(64~75行)。さらにダンテが、高名なフィレンツェ人たち、ファリナータ、テッギアイオ、イアコポ・ルスティクッチ、アッリーゴ、モスカの5人はどこにいるのかと質問すると、チャッコはいずれも地獄のもっと深いところでさまざまな罰を受けているので、下へ行けば会えると答えた(77~87行)。実際ダンテは地獄を下って5人の内4人には会っているが、アッリーゴには会っていない。注釈類によると、アッリーゴはフィファンティ家の一員で、モスカと共にブォンデルモンテ殺しに加わったために、ここで名前を挙げられているらしい。なおフィファンティ家は、1258年にウベルティ、ランベルティ両家とともにフィレンツェから追放されたギベッリーニ党の名門である。

⑥ モンダドーリ版『地獄篇』、52ぺージの脚注、ザニケッリ版、107ぺージの脚注など。


5. こうしてすでに6人のフィレンツェ人の名前が言及されているが、前節のチャッコも外国人なので、『地獄篇』の最初の7歌まで、ダンテ以外には一人もフィレンツェ人は登場しない。ようやく『地獄篇』第8歌31行以下で登場する最初のフィレンツェ人は、地獄の第5圏の沼の中に沈められて、憤怒の罪を罰せられているフィリッポ・アルジェンティである。彼はアディマーリ家から分かれたカヴィッチョーリ家に属し、ダンテらと敵対する黒派の富裕な騎士で、銀製の馬具一式を作らせたのでアルジェンティという仇名がつけられた。極めて怒りっぽい人物なので、ボッカッチョは『デカメロン』の中で、前出の食いしん坊のチャッコと怒り虫のこのフィリッポを組み合わせて笑い話を作っている。 地獄でも、ダンテに「お前が全身そんなに汚れていようとも、おれはお前を知っているぞ(39行)」と罵られたため、ダンテらの乗る小船に襲い掛かろうとしてヴィルジリオに突き放されている。続いて同じ圏の怒りっぽい罪人たちが「フィリッポ・アルジェンティにかかれ(61行)」と叫ぶと、フィリッポは怒りのはけ口を失って、「己が身に噛みついた(63)」とされている。ここで重要なことは、フィレンツェ人との対面と同時に、ダンテが霊たちと直接対決し始めたことである。ヴィルジリオはダンテのそのような変化を歓迎して、両腕で首を抱いて彼の顔に接吻したうえ、「怒れる魂よ、君を孕んだ女に祝福あれ(44~45行)」と賞賛している。フィレンツェという要素が介入したことで、ダンテと「神曲』の登場人物たちとの間にドラマが発生し始めたのである。おそらく白黒闘争が決着するのを待たずに、まだ白派が優勢な時期に死んだために、黒派のフィリッポの怒りは日毎に強まり続けていたのだろう。

⑦ ジョヴァンニ・ボッカッチョ、『デカメロン』、第9日第8話。


6. ダンテがエピクロス派と呼ぶ霊魂の不滅を信じない入々、むしろその、多くは無神論者と呼ばれるべき人々が石棺の中で焼かれている、地獄の第6圏を描いた『地獄篇』第10歌には二人のフィレンツェ人が登場して、そのいずれもがダンテ相手に、『神曲』ではこれまでに見られなかった複雑な関係を結んでいる。まず同歌第22行以降でダンテに声をかけたのは、ファリナータ・デッリ・ウベルティである。ヴィッラーニの『年代記』などが伝えている伝承 によると、ギベッリーニ党は1258年7月、マンフレーディ王の勧めに応じてプリーモ・ポポロ政権を倒そうと企て、その陰謀が露見して一部の者が処刑される。ファリナータはギベッリーニ党を率いてシエナに亡命し、さまざまな策を用いてマンフレーディ王のフィレンツェヘの怒りを掻き立て、王からその支配下のドイツ騎士800を借り受ける。続いて当時シエナを支配していたプロヴェンツァーノ・サルヴァーニに不満を持つ9人の有力者からの使者と称するミノーリ派修道士たちをフィレンツェに派遣し、市の城門を開いてフィレンツェ軍を迎え入れることを約束して、シエナヘの遠征をすすめた。フィレンツェでは、グェルフィ党の騎士たちが反対したにもかかわらず、使者の言葉を信じたプリーモ・ポポロ政権の首脳たちが、トスカーナのグェルフィ都市による大規模な連合軍を組織してシエナに進攻した。さらにファリナータは、フィレンツェの騎士たちの間にも裏切り者集団を組織して、遠征軍の中核に潜ませておく。こうして1260年9月4日、トスカーナのグェルフィ都市の連合軍がシエナに近付いた時、門を開けて迎えてくれるはずの城内からドイツ騎士800を中心とするシエナ側の軍隊が反撃して来たばかりか、開戦早々にトスカーナ・グェルフィ党の騎士団の一員ボッカ・デッリ・アバーティが自軍の旗手の腕に切り付けるという裏切りが発生して、グェルフィ党騎士団は一気に潰滅して逃走し始め、皮肉にもその裏切りのおかげで名ある騎士の犠牲者はわずか36入に止まった。しかし残された多数の歩兵はドイツ騎士団とシエナ軍に蹂躙され、多くは虐殺されるか捕虜となった。こうして潰滅したポポロの軍隊は祖国に戻って抵抗する気力すら失い、多くのグェルフィ党の騎士とポポロ政権の要人たちが市外に亡命した後、ファリナータらギベッリーニ党員は意気揚々と帰国して祖国を支配した。フィレンツェの再起を恐れるトスカーナのギベッリーニ党は、エンポリに集まってフィレンツェの完全な破壊を企画したが、勝利の立役者ファリナータが強硬に反対したために、結局フィレンツェは破壊を免れた。なお彼はカルロ(シャルル・ダンジュー)がベネヴェントで勝利する以前の1264年に死去しているので、その後のギベッリーニ党の逃走や敗北を知らなかった

⑧ ヴィッラーニ『年代記』第6巻65章、74章、75章、76章、77章、78章(フィレンツェの敗北を記す)、79章、81章。

⑨  D.E.I.、XII、p.475.


 近代のアカデミズムでは、ヴィッラーニが伝えるファリナータの謀略はほぼ全面的に否定されている。大体敵国フィレンツェからの一亡命者が、亡命先のシエナで外交や軍事にそれほどまでの主導権が握れるとは到底信じられないからである。しかしなぜかこうした荒唐無稽に近い謀略説が、14世紀のフィレンツェ市民の間ではほぼ全面的に信じられていて、後世でも常識であり続けたらしい。だから『地獄篇』におけるファリナータ像も、ほぼこうした伝承に基づいて展開されている。彼はダンテに「先祖はだれだったか(42行)」と尋ね、ダンテがそれに答えると、ファリナータは彼らとはげしく敵対して二度追放したと述べた。ダンテはそれに対して二度追放されたが二度とも帰国したと答えて、「あなた方の仲間は、その業をうまく習得できませんでした(51行)」とやりこめる。ここでカヴァルカンテ・カヴァルカンティが会話に割り込むが、ダンテの言葉に悲観してすぐに引っ込む。77行以下再び話し始めたファリナータは、地獄の火の石棺よりも、子孫が帰国できないでいることの方が自分を苦しめていると嘆いた後、フィレンツェ人らしいしっぺ返しとして、勝ち誇っているダンテ自身、50ヵ月もしない内に追放の憂き目を見て、帰国することがいかに困難かを悟るだろう、という不吉な予言を行う。それから、なぜフィレンツェ人はその法律で自分の子孫たちにだけつらく当たるのか、と尋ねている。それに対してダンテは、ファリナータがもたらしたモンタペルティの敗戦がそのような決議をさせたのだと答え、ファリナータは戦闘に加わったのは自分ひとりではなかったが、エンポリ会議でフィレンツェを地上から抹殺すべきだとする提案に公然と反対したのは自分一人だった(89~92行)、と反論する。するとダンテは、相手の一族の平安を祈った後、霊たちには未来は見えるが、現在のことは見えないのではないか、という全く別の質問を行い、ファリナータが彼の推測に同意して、自分達は将来のことは予見できるが、他人の助力なしでは現在の状況は分からなくなる、という事情を教える。そこでダンテは自分の言葉を誤解したカヴァルカンテヘの伝言を依頼し、さらに彼の口からフェデリーコ二世とオッタヴィアーノ・デッリ・ウバルディーニ枢機卿も同じ圏に落とされていることを聞いた後に、ヴィルジリオの許に戻る。ギベッリーニ党に転向したはずのダンテが、13世紀前半のイタリア語圏全体を牛耳っていた皇帝フェデリーコ二世を地獄に落とした上、このように軽く言及するに止まっていることは注目に値する。なおフェデリーコについては、第13歌の自殺者ピエル・デッラ・ヴィーニャに関連しても触れられるが、その際も深入りしていない。またフィレンツェ近郊ムジェッロからアペニン山脈一帯を支配する豪族の出身で、その出自からギベッリーニ党員と見なされていたウバルディーニ枢機卿は、実家がフィレンツェに近い上に、フィレンツェの破門解除に関係したために、フィレンツェと縁が深い枢機卿である。

⑩ 本論の「はじめに」の注① で記した私の著書(以下では拙著と記す)の第一章、第四節(70~87ページ)は、「モンタペルティの敗戦」というタイトル通り、フィレンツェ側の伝承と共に、聖母マリアの加護を強調するシエナ側の伝承、パオーリに代表される近代歴史学から生まれたさまざまな説と共に、1990年に120年ぶりに提起されたサルヴィーニの新説などを紹介して、比較・検討している。

⑪ この皇帝と積極的に戦ったのは、ミラノを盟主とするロンバルディア同盟の都市や、パルマ、ボローニャなどで、フィレンツェは周辺都市との争いに忙しく、この皇帝と直接対決することはほとんどなかった。そのためダンテにとっては、比較的印象が希薄だったのだろう。彼の十字軍に対する態度も、ダンテを満足させなかったはずである。

⑫ 1258年9月、フィレンツェはヴァッロンブローサ修道院長を斬首したために教皇アレッサンドロ四世によって破門されたが、8年後クレメンス四世の命を受けたウバルディーニ枢機卿の工作によって破門は赦免された。R. Davidsohn, STORIA DI FIRENZE, Firenze (SANSONI) 1972, Vol.II., p.625.  時代は初期のみに限られているが、今なお最高の権威を誇るダヴィトゾーンの『フィレンツェ史』のジョヴァンニ・バッティスタ・クライン訳、ロベルト・パルマロッキ監修のイタリア語訳は全8巻(最後の巻は索引)で、フィレンツェのサンソーニ社から1972年に刊行されている。


7. 同じフィレンツェから、同じ罪のために同じ圏に落とされて同じ罰を受けていながら、ダンテの先輩で高名な詩人であるグイド・カヴァルカンティの父カヴァルカンテはファリナータと対照的な存在である。ファリナータはヴィルジリオがダンテに指示した、「帯から上を全部さらして、突っ立っているファリナータを見よ(32~33行)」の言葉通り、地獄の業火などものともせずに堂々としているが、カヴァルカンテは棺の蓋をほんの少し上げてあごまでしか顔を出さず(53行)、ダンテを見ても黙ったままその周囲を見回し、他にだれもいないことを確かめた後に、「もしも才能の高さのせいで地獄を回っているのなら、私の息子はどうして君と同行していないのか(58~60行)」と泣きながら尋ねている。それに対してダンテは(この返事は様々な解釈が可能だが、最も代表的なものを記すと)、自分は自力で来たわけではなく、グイドが軽蔑していた人(ベアトリーチェ=神学)のおかげで、あそこにいるヴィルジリオに案内してもらっているのだ(61~63行)、と説明する⑬。 その言葉の中でダンテが遠過去形の ebbe(63行)を用いたために、カヴァルカンテは息子が死んだものと誤解し、ダンテが他のことを考えている間に仰向けに倒れて二度と姿をあらわさない。そこでダンテはファリナータとの別れぎわに、先輩のグイドはまだ生きているという伝言を頼んでいるのである。

⑬ これが最も一般的な解釈だが、グイドが軽蔑した対象は、理性のアレゴリーまたはローマの詩人としてのヴィルジリオだとする解釈もある。


8. 『地獄篇』第13歌は、自分自身と自分の財物に対して暴力をふるった乱暴者(自殺者と浪費家)を罰している地獄の第7圏第2環を扱い、55行以下でフェデリーコ二世に仕えて重用された後、讒言によって拷問を受けて自殺した能吏ピエル・デッラ・ヴィーニャの告白が歌われているが、讒言は宮廷に常につきまとう嫉妬によって生じたとされていて、それを信じた皇帝自身は特に非難されている訳ではない。同歌の終わり近く(130行以降)で、一人のフィレンツェ人の亡霊が閉じ込められている茂みが荒らされる。シエナの浪費家ラーノ・マコーニとともに猟犬に追われて逃げ回り、自分の枝を折ったパドヴァ人の浪費家ヤコポ・ダ・サンタンドレーアに対して、彼は自分に何の怨みがあるのかとぼやいた後、ヴィルジリオに折れた枝を根元にまとめておくことを頼み、生まれ故郷のフィレンツェは軍神マルスから洗礼者ヨハネに守護神を代えたために常に戦争に悩まされていて、もしもアルノ川のほとりにマルス像の一部が残っていなければ、アッティラ王の破壊からの再建事業はむだになっていただろうと述べた後、自分は自らの家で首を吊って自殺した(139~151行)と語るが、それ以外のことは一切話さない。その語り手として、貧苦のため買収されて不正な判決を下した判事など二人の名が挙げられているが、いずれも確証はない。


9. 『地獄篇』第15歌では、神の自然に対して暴力を振るった者、すなわち男色者が天から降って来る炎に焼かれて罰せられている地獄の第7圏第3環の様子が歌われている。ダンテはそこで尊敬する恩師ブルネット・ラティーニと出会っている。森から離れたダンテたちが一群の霊たちと擦れちがった時、ダンテはその一人に裾をつかまれ、相手は「何と驚いたことか(22~23行)」という。火傷しているにもかかわらず、相手を見分けることができたダンテは、「あなたはここにおられたのですか、ブルネット先生(30行)」と答え、二人は並んで語りながら進む。ラティーニがダンテに地獄にいるわけを尋ねると、ダンテはヴィルジリオが案内に現れた経緯を簡単に語る。するとラティーニは、ダンテが自分の星に従えば必ず栄光の港につくはずだと予言する一方、今後の苦難を予告して、採るべき方針を伝授する(55~78行)。フィエゾレ出身でまだ山の匂いが抜けない忘恩の徒どもがダンテを敵視するが、昔からの評判は彼らを盲目よばわりしており、貪欲で嫉妬深く傲慢な連中だからそれは当然のことで、彼らの習俗に汚染されてはならない。ダンテの運命は名誉をもたらすはずだから、対立する両派は争って彼を求めるが、食い物にされてはならない。フィエゾレ人の子孫たちには共食いさせておき、(ダンテのような)ローマ人の種が生き残っていたら、それを大事に育てるべきだ、などと語る。それに対してダンテは、ラティーニが自分の望んでいたよりも早く他界したことを嘆き、生前彼が折りに触れ、いかにして人は永遠に生きるかを自分に教えてくれた時の温顔が忘れられないことや、その教えを有り難く思っている分だけ、自分が生きている限り、自分の文学作品によってそのことを確証しなければならないという決意を伝え、また自分の進路についての彼の言葉は銘記しておき、もしベアトリーチェの許にたどり着けるのならば、他の予言とともに彼女に解説してもらうだろうと告げる。さらに自分がラティーニに知ってほしいこととは、自分の良心さえ咎めなければ、運命を受け入れる覚悟ができているということで、すでに自分の将来についての予言は聞き慣れているので、運命の輪は好きに回れば良い(79~96行)、と付け加えた。そこでヴィルジリオが振り返って言葉をはさみ、「君は聞いたことを良く覚えているね」と、ダンテの覚悟の決め方を褒めた。さらにダンテが同じ環で罰せられている入はだれかと尋ねると、ラティーニは全員名高い聖職者や学者たちだと答え、フィレンツェ関係者としては、フィレンツェ入の法学者アックルシオ・ダ・バニョーロの息子で、ボローニャに生まれてオックスフォードやボローニャで教えた法学者フランチェスコ・アッコルソと教皇ボニファチオ八世によってフィレンツェ司教からヴィチェンツァ司教に左遷されたアンドレーア・デ・モッツィの名を挙げる。そして後ろのグループに追い付かれそうだからと急ぎ、ダンテに自分の著書『テゾーロ』を読むように勧め、その中で自分は今も生きていて、それ以上を自分は望まない、と述べて去って行く。その様子はヴェローナで緑の小旗を争う走者の中でも、勝ち組の走り方であった(97~124行)。このラティーニがスペインヘの使節の途中、自分を派遣した政権がモンタペルティ敗戦で崩壊したため、パリに亡命してフランス語で百科事典『トレゾール』を執筆したことは余りにも有名である。ベネヴェント戦争後に帰国して、フィレンツェ文化の発展に尽くした功労者であった。これほど恩義を表明している相手である恩師を地獄に落として、降り注ぐ炎の下で走らせているダンテの厳しさには、率直に言って驚嘆せざるを得ない。

⑭ ヴィッラーニ『年代記」第8巻10章で 'sommo maestro in rettorica di Tullio' と記される。彼の死は、1294年の出来事である。


10. 続く『地獄篇』第16歌は、やはり男色者たちを扱い、その4行以降でフィレンツェ関係者の三人組が登場する。彼らはその服装からダンテが同国人だと察知して呼び止める(8~9行)。当時はコムーネ毎に異なった服装をしており、服装を見ただけで同国人だと見当が付いたらしい。その一例であるフィレンツェ人の喉当ては、サッケッティの『三百話』で繰り返し言及されている。 ダンテがヴィルジリオの勧めで立ち止まると、三人はぐるぐる回りながら話しかける。三人はいずれも外見からは想像できない程高貴な人々で、先頭はモンタペルティ敗戦以後亡命したフィレンツェの騎士団の首領で、1267年に帰国したグイド・グェッラ、後ろはモンタペルティ戦争に反対したことで名高いアディマーリ家のテッギアイオ・アルドブランディ、 そして真ん中から声をかけたのは、妻の気性が荒いために男色の罪を犯したグェルフィ党の騎士のヤコポ・ルスティクッチである(34~43行)。ダンテは求めに応じて自分の名前を告げ、彼らを軽蔑するどころか同情しており、三人の名前と業績は今でもフィレンツェで愛を込めて語られていることを伝えた。相手はダンテの幸いを祈った後、フィレンツェにはまだ礼節と勇気が残っているのか、それとも最近地獄に落ちて来たグリエルモ・ボルシエーレ[前出のチャッコ同様、『デカメロン』にも登場する(第1日第8話)宮廷人で、出身地は不明]が嘆いていたようにそんなものは消えたのか、と尋ねた。それに対してダンテは顔を天に向けて、「新入りの民と突然の稼ぎが、汝の中に傲慢と放縦を生み、フィオレンツァよ、汝はそのために泣いている(73~74行)」と叫ぶ。三人はそれを返事と見なして顔を見合わせた。そして三人とも、これからもそんなに手短かに他人を満足させることができるのなら、君は好きなように語れば良い。無事地獄を出て地上に戻り、地獄のことを語ることができたら、我々のことを生者に話しておくれ、と言うと輪をこわし翼のごとき早足で走り去った。


⑮ 当時は都市によって、市民の服装が異なっていた。フィレンツェ人の男性は、喉当てや腕当てを付ける習慣があった。サッケッティは、彼のノヴェッラ集『三百話』の第52話、第63話、第115話、第172話、第178話などで喉当てに触れ、とりわけ第178話は喉当てを主題にした作品である。ただし同作品は習俗の変わり易さをも指摘している。

⑯ ヴィッラーニ『年代記」第6巻77章。


11. 『地獄篇』第17歌では、さらに下に降りるために空飛ぶ怪獣ジェリオーネを待つ間にダンテが見た、地獄の第7圏第3環の一角で高利貸が罰せられている有り様が描かれていて、13世紀の後半に金融大国となったフィレンツェの人たちは、ここでも大きな部分を占めている。ダンテの父親も金貸しであったと伝えられているのだが、ダンテはそうした個人的事情とは無縁であるかのように、高利貸たちが罰せられる姿を淡々と描いていている。ジェリオーネの到着までと時間が制限されているために、罪人たちの持つ銭袋の紋章から彼らの属している家族を識別することに止まり、個人的なドラマには発展し得ない。説明役を務めるパドヴァのスクロヴェーニ家の一人(おそらくレジナルド)と、1307年にフィレンツェのポデスタだったヴィタリアーノというもう一人のパドヴァ人を除くと、そこに登場するのは、ジャンフィリアッツィ家の一人(おそらくメッセル・カテッロ・ディ・ロッソ)、エブリアーキ家の一人(おそらくチャーポまたはロッコ)などすべてフィレンツェ人で、説明役は彼らがブイアモンテ・デ・ベッキ家に属し、騎士に叙任されるほど成功したが、倒産して他人の金を持ち逃げした銀行家ジョヴァンニの到来を待ち望んで、しばしば「来れ、最高の騎士よ(72行)」と叫んでいると語った(58~73)。当時のフィレンツェで金融業が占めていた重要性を考慮すると、観察の時間を制限することで、ダンテが高利貸に関する記述を簡略に済ませたという印象は否定できない

J.M. Najemy, A History of Florence 1200-1575, Malden(USA)etc.(BLACK-WELL PUBLISHING)2006, p.96 に、13世紀前半には、フィレンツェは銀行業でシエナやルッカよりも遅れていたが、1300年までには、他の分野同様この分野でもヨーロッパのリーダーになっていた、と記されている。

⑱ 多くの文献にそのことが記されているが、一例を挙げるとラテルツァ社から刊行されたイタリア文学史講座、 LETTERATURA ITALIANA LATERZA の第5分冊、 Dante di Niccolò Mineo, Bari (Laterza) 1975, p.11.

⑲ ダンテ自身がそのことを意識していたかどうかは明らかでないが、その動機としては、やはり父親の職業が関連しているものと思われる。


12. 女衒の罪を罰した第18歌にはフィレンツェ人は登場せず、代わりにボローニャ人が登場する。続いてシモニア(聖職売買)を罰している第19歌にもフィレンツェ人は登場しないが、フィレンツェと関係が深い教皇が登場し、ダンテの生涯に決定的な影響を及ぼした教皇について言及することで、ダンテは復讐を果している。前者はオルシーニ家出身で、ネポチズム(身内贔屓)によって悪名が高い教皇ニッコロー(ニコラウス)三世で、1266年にベネヴェントで勝利を得て以来、ナポリ王国のみならず、イタリア各地、とりわけトスカーナで強力な影響力を発揮していたカルロ王に対抗して教皇の権威を誇示するために、1280年にラティーノ枢機卿をフィレンツェに派遣して、グェルフィ党とギベッリーニ党との調停を行わせている⑳。 その死後地獄の穴の中で逆さまに串刺しされて足をばたばたさせていた彼は、ダンテの足音を聞き、自分の次に来るはずのボニファツィオ(ボニファティウス)八世が到来したものと錯覚して、「ボニファツィオよ、お前はもうそこに立っているのか、お前はもうそこに立っているのか(52~53行」と同じ言葉を繰り返すことで、1300年には存命中のボニファツィオの地獄落ちがすでに確定していることを予言している。このボニファツィオとは、黒派の求めに応じてシャルル・ド・ヴァロアの率いる500騎をフィレンツェに派遣して白黒闘争を逆転させ、ダンテ個人にも後半生の亡命生活を余儀なくさせたあの教皇で、この後でも何度となく言及されることになる㉑。 後に『煉獄篇』第24歌でその末路が予言される、白黒闘争の逆転劇のフィレンツェ側の首謀者コルソ・ドナーティに対しても、ダンテはこれほど執拗な追及をしていない。ダンテは、白黒闘争の関係者の内でこのボニファツィオに対してだけ、ことある事に引き合いに出して攻撃を繰り返しているのである。すでに見たとおり、たしかに黒派のフィリッポ・アルジェンティは地獄に登場していたが、それはあくまで例外的な事例である。白黒闘争に決着が付くのはダンテの三界巡りの旅の後のこととされているので、その関連事項に触れるには予見や誤解や幻視などさまざまな工夫が必要だったが、ボニファツィオがダンテの『神曲』の旅の時期にちょうど教皇に在位していたため、同時代の教会の最高責任者として、さまざまな角度から特別きびしく追及されることになった。なおボニファツィオの権威は1300年にジュビレオを成功させたことで絶頂に達したが、周知の通りフランス王フィリップ四世と争ったため、1303年9月ギョーム・ド・ノガレたちの襲撃によるアナーニの屈辱事件が発生し、その直後に憤死している㉒。 当時白黒闘争に敗北してすでに亡命中だったダンテは、おそらくこの教皇が蒙った屈辱と悲惨な末路を、神の裁きだと確信したはずである。

Najemy, op.cit., pp.76~77、ヴィッラーニ『年代記』第7巻56章。

㉑ ガルザンティ版の索引によると、『神曲』にはボニファツィオ八世関連の事項が全部で11箇所ある。

㉒ ヴィッラーニ『年代記』第8巻62および63章。


13. 予言者を扱った第20歌、汚職者を扱った第21歌には、フィレンツェ関係者は登場しない。第21歌94~96行には、ダンテが1289年にカプローナヘの遠征に参加して目撃した、ピサの兵士たちが降伏して脅えながら城から出て来る様子が描かれている。続く第22歌の冒頭の9行でも、さまざまな行進や馬上槍試合を見たことを歌っている。ダンテは1289年6月11日のカンパルディーノ戦争にも参加しており、当時のフィレンツェ市民として標準的な軍事的体験を積んでいた。だがプリーモ・ポポロ時代に較べると、彼の時代のフィレンツェで戦闘の頻度が激減していたことは確実である

㉓  Najemy, op.cit., 66~72. 拙著、56~70ぺージ。


14. 偽善者を扱った第23歌100~148行には、1266年のベネヴェント戦争後にフィレンツェのグェルフィ・ギベッリーニ党争の調停役として二人でポデスタを務めた享楽派修道士カタラーノとロデリンゴが登場し、その調停に失敗したことを認めている。


15. 盗賊たちへの罰を歌った第24歌は、無数の蛇に埋め尽くされた第8圏第7嚢(のう)を舞台としており、ダンテは97行以下で、罪人の一人が蛇に刺されて燃え上がり灰に化した後にふたたび人に戻るところを目撃した。ヴィルジリオに問われて、その男はピストイア人のヴァンニ・フッチだと名乗り、祖国のドゥオモの聖具室を荒らしたためにこのような罰を受けていると語った後、白黒闘争について語り始め、目下ピストイアでは白派が優勢だが、フィレンツェに飛火してマルテの呪いのために戦いとなり、結局白派が敗れるだろうと予言した。続く第25歌の冒頭で、ヴァンニ・フッチは両手でいちじくを作って神を冒涜し、忽ち蛇たちに縛り上げられる。ダンテはどうして燃えてしまわないのかと、白黒闘争の火元のピストイアを罵り、ヴァンニ・フッチこそ地獄で最も不敬な奴だと断定する。


16. 第24歌に続いて、盗賊たちが罰せられている有り様を歌った第25歌には、フィレンツェ人が続々と登場する。まず35行以下で3人の霊が登場するが、「君たちは誰だ」と問われるまでダンテは彼らに気付かなかった。それに答える前に、一人が「チャンファはどこにいる」と言ったので、ダンテは指をあごから鼻に当ててヴィルジリオに合図する。その直後、すでに6本脚の蛇に変身していたチャンファが、アニェルにからみつき、両者はしだいに変容して一体化していき、完全に合体すると醜い姿でゆっくりと歩み去った。さらに残された内の一人ブオーゾ・ドナーティ(またはアバーティ)をめがけて一匹の蛇がとびかかり、臍を突き刺したのちに地面に落ちると、お互いに見つめ合いながら、ブオーゾは臍から、蛇は口から煙を発し始め、両者は同時進行的に変身する。ブオーゾは蛇となって這って行き、蛇はフランチェスコ・カヴァルカンティに戻って、「自分がそうしていたように、ブオーゾにこの小道を這わしてやりたい(140~141行)」と呟く。

 最初に現れた3人の内、プッチョ・シアンカートだけが元の姿のままだった。注釈類から拾い集めた情報によると、5人の盗賊はいずれもフィレンツェの貴族で、チャンファはグェルフィ党黒派の騎士でカピターノ・デル・ポポロの顧間を務めた家畜泥棒のチャンファ・ドナーティ。なおこのドナーティ家は、ダンテの妻ジェンマの実家であると同時に、『神曲』に最も頻繁に登場し、あるいは言及されている一族である。アニェルとは元はギベッリーニ党員だが、1300年にまずグェルフィ党白派、その後勝組の黒派に転向したとされるブルネッレスキ家のアニェッロ(またはアニョロ)で、若いころから貧民や老人に変装して盗みを働いたとされている。ブオーゾは、一説では1279~80年のラティーノ枢機卿の和平に名を連ねているブオーゾ・ドナーティ、別の説ではギベッリーニ党のブオーゾ・アバーティ。前説に従うと5人の盗賊中に2人もドナーティ家の人々が名を連ねていることになる。

 プッチョ・シアンカートはギベッリーニ党のガリガーイ家の一人で、1268年に追放され、1280年のラティーノ枢機卿の和平に署名している。脚が不自由だったために、あだ名もそのままシアンカート(びっこ)と呼ばれていた。最後にブオーゾを襲撃することによって蛇から人に戻ったフランチェスコ・カヴァルカンティは、斜視なのであだ名もそのままグェルチョ(すが目)と呼ばれ、フィレンツェ領域部の城塞ガヴィッレで悪事を働いたために殺害されたが、ガヴィッレの人々も有力な名門の復讐によって多数が殺され、そのために泣いたとされている。なおこれら5人をめぐる騒動には、この後に発生する自黒闘争の結果が反映しているようである。

 元はギベッリーニ党だったために逼塞していたブルッネレスキ家は、まず白派に加わり、白黒闘争の際に白派を裏切って黒派に味方したことで勢力を挽回したとされていて、ここでは黒派のドナーティ家のチャンファと合体して、醜い姿をさらして立ち去っている。フィレンツェの中心部の地主であるとともに、グェルフィ党白派のリーダーとして一時期勢威を誇っていたが、白黒闘争に敗れて没落したカヴァルカンティ家のグェルチョは、黒派の勝利によって一時的に隆盛を極めたものの間もなく失脚したドナーティ家の一人を襲って、地面を這わせている。おそらくダンテがこの部分を歌った時期には、すでにコルソ・ドナーティが殺され、ドナーティ家の権威もカヴァルカンティ家同様絶頂から転落していたものと推察されるので、ここでは両家の没落が予告されているのだろう。いずれにしても、ここで暗闘を繰り返している人々の内、チャンファ、ブォーゾ、プッチョの三人はモンタペルティ戦争を生き延びた世代で、グェルチョとアニェルはそれ以後の世代であると思われる

㉔ モンダドーリ版『地獄篇』222ぺージ、ガルザンティ版252ぺージ、253ぺージ、257ぺージの脚注その他、さまざまな版の情報を総合すると、5人の内、チャンファ・ドナーティは80年代に死んだ有力者であり、ブォーゾがドナーティ家の一人であれば、1280年のラティーノ枢機卿のグェルフィ・ギベッリーニ両党和平の証人団に加わったとされた人物で、アバーティ家の一人であれば、ギベッリーニ党の勢力が残っていた古い世代と考えられることから、いずれにしてもモンタペルティ敗戦に関係していたはずである。プッチョもギベッリーニ党のガリガーイ家の一人で、1268年にフィレンツェから追放されているので、脚が悪いために戦闘には参加していないかも知れないが、確実にモンタペルティ戦争の世代の人である。それに対して、アニェルのブルッネレスキ家が転向と裏切りで立ち直るのは、白黒闘争を通してであるため、アニェルは1300年には存命中の可能性があるほど若い世代で、グェルチョが殺されたガヴィッレにフィレンツェの勢力が及び、大規模なヴェンデッタが可能になるのは1289年のカンパルディーノ戦争以後のことなので、モンタペルティ敗戦以後の世代であると思われる。だから5人の内の3人は、モンタペルティ戦争の世代だと言えそうである。


17. このように堕落した人々の姿に触れたダンテは、第26歌の冒頭で、フィレンツェ弾劾の雄叫びを挙げている。それは直訳しておくと、「喜べ、フィオレンツァよ。何故ならお前はかくも偉大に、海にも陸にも翼を羽ばたき、地獄にまでお前の名が轟いているのだから。盗賊たちの仲間にかのような5人のフィレンツェ市民を発見して、私は慚愧に堪えず、お前とてそれで大した栄誉に輝くわけではあるまい。だが、もしも明け方近くには真実を夢見るのだとすれば、今からほんの僅かの後に、プラートが他の都市とともにお前の身に起こることを熱望していることを体験するはずだ。もしもそれがすでに起こっていても、早すぎはしない。もしもそうだとすれば、それこそまさにあるべき姿であり、遅くなればなるほど、その分私を苦しめるのだから(1~12行)」という部分である。

 ここで予言されている事柄として私たちが真っ先に想像するのは、アッリーゴ(ハインリッヒ)七世がフィレンツェを占領し、ギベッリーニ党の立場からフィレンツェを再建するという、ダンテが熱望していた(が結局実現しなかった)事態だが、この部分の切迫した調子がアッリーゴ到来までに要する10年余りの歳月と矛盾することは明らかなので、どの注釈書にも採用されておらず、1304年に白黒闘争の調停に失敗した(ニッコロ・ダ・)プラート枢機卿によって彼の故郷のプラートから発せられたフィレンツェの破門、あるいは1309年にプラートで発生した反フィレンツェ暴動を指しているか、さもなければ具体的事実ではなく、トスカーナ諸都市のフィレンツェに対する反感を表現しただけの言葉だと見なされている。 なお先に引用した12行にわたるフィレンツェ弾劾の言葉は、『地獄篇』第25歌10~12行のビストイア、『地獄篇』第33歌79~84行のピサ、同151~153行のジェノヴァヘの罵倒などと一見似た表現ではあるが、格調の高さや内容の点で実はかなり異なっている。何よりも重要なことは、フィレンツェ人が当時の世界全体に翼を拡げているという現実を高らかに宣言していることである。たしかに皮肉たっぷりな口調で歌われているけれども、この格調の高い調子を通して、ダンテの祖国への誇りが感じられることは否定できないだろう。もちろんダンテは、フィレンツェ人の経済活動を全面的に否定しているのだが、当時の世界の至るところに進出して稼ぎまくっているフィレンツェ人の活躍に対しては、彼自身も驚きと感嘆の念を押えることができなかったのではないだろうか。

㉕ ウテット版235ページの脚注は、1309年4月のプラート人の暴動と黒派の追放、または1304年にニッコロ・ダ・プラート枢機卿から発せられた破門宣告などを挙げ、具体的事実を伴わないプラート人のフィレンツェ人に対する悪意の表現ではなさそうだとしている。


18. 欺瞞的助言を行った罪人が罰せられている第8圏第8嚢を描いた第27歌では、主にロマーニャ地方の近況が語られていて、一見フィレンツェと直接的関係はない。だが61行以下でグイド・ダ・モンテフェルトロが自らの運命を語り、修道士となって静かに改悛の日々を送っていたのに、コロンナ家との戦争を始めたボニファツィオにだまされて彼と協力したために地獄に落ちた経緯を語り、ボニファツィオを通して彼とフィレンツェおよびダンテ自身との間には関連が生じている。さらに彼は、1289年ピサのポデスタ兼カピターノ・デル・ポポロとしてフィレンツェと戦っていたという事実によって、一層深くフィレンツェと関係している。この時の対ピサ戦争にダンテ自身が加わっていたことは、第21歌94~96行のカプローナに触れた箇所で歌われている。

㉖ D.E.I.、V、673ぺージ。


19. 第28歌は、マオメットら不和・分裂を引き起こした罪人を罰する第8圏第9嚢の様子を扱っているが、マオメットに続いてピエル・ダ・メディチーナから話を聞き、クーリオの悲惨な姿に絶句していたダンテの目の前で、切られた腕を振り回し、「ああ、その後のトスカーナ人の紛争の種子となる、“一旦やりかけたら、ことはとことんまで行くものだ”(107行)と言った、モスカのことも忘れるなよ」と叫んだあげく、ダンテから「そして、それはお前の一族の滅亡の種子でもあった(109行)」と言い返されて、懊悩をますます募らせ、狂った悪人のごとく去って行ったモスカ・デイ・ランベルティの姿が描かれている(103~111行)。1215年、ブォンデルモンテ・デイ・ブォンデルモンティがアミデーイ家の娘との婚約を破棄して、美しいドナーティ家の娘と結婚したために、アミデーイ家に親しい人々は一堂に集まり、ブォンデルモンテのこの侮辱に対していかに復讐を加えるかを話し合ったが、その席でモスカが述べた「カーポ・ア・コーサ・ファッタ(107行)」の一言が、ブォンデルモンテの死の宣告となると同時に、フィレンツェにおけるグェルフィ党対ギベッリーニ党の血みどろな戦闘開始の宣言ともなったとされていて、前述の9行の背景となっているのである。ダンテの指摘通り、フィレンツェではウベルティ家と並ぶ名門だったランベルティ家は、1268年にフィレンツェの反逆者と宣言され、フィレンツェ史からほぼ完全に消滅したとされている。


20. 第28歌の末尾では、首提灯を持ってさまようベルトラム・ダル・ボルニオの姿が歌われているが、第29歌の冒頭ではなおもその血腥い嚢に執着し続けるダンテに対して、彼が気にしている親戚は先ほど現れ、ジェーリ・デル・ベッロとささやく声も聞こえたが、ダンテが首提灯に見とれて気付かないため、指で強く脅かした後に消えていったことをヴィルジリオが教えた。それに対してダンテは、「おお、我が導師よ、非業の死を遂げたのに、縁者によってまだ復讐が行われていないので、彼は怒っているのです。私の思うところ、そのために私に一言も言わずに立ち去ったのでしょう。まさにそのために、私には彼が一層哀れに思われてなりません(31~36行)」と答えている。ジェーリはダンテの父の従兄弟で、第9嚢に落とされているという事実からも、生前暴力沙汰と関係が深かったようだが、サッケッティ家の者に殺害されたため、当時の通念ではダンテの親族に復讐の義務が生じていた㉗。 なお1342年にアテネ公の調停でアリギエーリ家とサッケッティ家は和解した、とされている㉘。 イタリア文学史上に輝く二人の文豪の親族が関係する刃傷沙汰とは、まさにフィレンツェならではの事件だと言わざるを得ない。ただしそれらの歴史的文豪たちは、いずれも13世紀後半以後に登場しているのである。それ以前のフィレンツェは、文豪の気配すら全くない平凡な一都市に過ぎなかった。

㉗ ヴィルジリオとの問答から、ダンテがこの親戚に対してかなり負い目を感じていたことが分かる。この習俗に関しては、ザニケッリ版、500~502ぺージに、G.Diurniの「フィレンツェにおける私的復讐」という解説文が、 Enciclopedia Dantesca, Vol.V から転載されている。

㉘ ガルザンティ版、287ぺージの脚注で、1342年の出来事とされている。


21. 地獄の第八圏第10嚢では偽造者たちが罰せられていて、第29歌以下でその様子が描かれている。そこでダンテらが出会った二人のイタリア人の一人はアレッツォ人の錬金術師だが、シエナ入の虚栄心と並外れた贅沢を、「放蕩団」のメンバーの名前を挙げて嘲笑したもう一人の男は、錬金術によって金属を偽造した罪で、1293年にシエナで火刑に処せられたカポッキオである(第29歌124行~第30歌30行)。彼自身の言葉とダンテがつけ加えたエピソードによって意外に多くの紙面を占めるこの男は、確実にダンテと面識があり、シエナ人説もあるがフィレンツェ入説も有力である

㉙ 『地獄篇』第29歌124~132行に歌われ、石鍋真澄著『聖母の都市シエナ・中世イタリアの都市国家と美術』東京(吉川弘文館)1988、で紹介されたシエナの銀行家の一族の若者のグループ。モンタペルティ戦争に勝利したシエナで、10人あまりの若者が20ヵ月の問に20万フィオリーニ(100億~200億円)を浪費したという。

㉚ ガルザンティ版はフィレンツェ人と断定しているが、モンダドーリ版『地獄篇』とウテット版は両説併記。ザニケッリ版はここに記された以上のζとは不明だとする。


22. 第30歌では前歌の続きで第10嚢が歌われ、二つの霊が互いに噛み合いながら猛烈な勢いで突進してきて、突然その一方のジャンニ・スキッキがカポッキオのえり首に噛みつき、うつぶせにしたまま引きずって、カポッキオの腹を砂利だらけの地面にこすりつけた(28~30行)。このジャンニ・スキッキは、カヴァルカンティ家の一人で、1260年に文書に記録され、1280年以前に死去しているので、まさにモンタペルティ敗戦とその後のフィレンツェを生き抜いた世代の一人である。彼は友人のシモーネ・ドナーティと共謀して、数時間前に遺言状なしに死んだシモーネの叔父のブオーゾ・ドナーティのベッドに横たわり、瀕死のブオーゾに扮して公証人相手に遺言状を偽造し、ブオーゾの遺産をシモーネに与え、そのおこぼれとして最高の馬(または騾馬)が自分の手に入るようにはからった、と伝えられている。カヴァルカンティ家とドナーティ家は、後に白派と黒派のリーダーとして真っ向から対立するが、ギベッリーニ党の脅威が消えていない60~70年代には、同じグェルフィ党員として仲良く協力していたことが分かる。地獄に登場するジャンニ・スキッキは使い走りのようなもので、実はこの犯罪でもドナーティ家のシモーネが首謀者であると同時に最大の受益者だったのである。


23. それに続く第30歌の49~90行で、ダンテは両脚を鼠径部から切断されてリュートのような姿で横たわる外国人(英国人か)マエストロ・アダモの霊に会ってその話を聞くが、彼はロメーナ城のグイド伯の三人兄弟の依頼に応じてフィオリーノ金貨を偽造したために火刑に処せられて、このように罰せられているのだと語り、少しでも身動きできたら復讐にでかけるのにと、全く身動きできないことを嘆く。これは、フィレンツェ周辺の封建領主がフィレンツェの金貨の偽造に関係していたことを暴露した告白である。


24. 第31歌で巨人たちに遭い、その一人アンテオの手を借りて、裏切り者が氷の中で罰せられている第9圏に入ったヴィルジリオとダンテは、続く第32歌40~69行でアルベルティ伯家のアルベルトの息子たち、アレッサンドロとナポレオーネが氷の中でからみあって争っているのを見る。この一族は、トスカーナの各地、特にフィレンツェ西部のビゼンツィオ谷にその領地を持ちフィレンツェの拡大を妨げて来たが、結局14世紀前半に断絶してその領土はフィレンツェに併合されている。二人は両親を同じくする実の兄弟でありながら、前者はグェルフィ党、後者はギベッリーニ党に加わって犬猿の仲になり、1286年に互いに殺し合って共倒れになったとされている

㉛ 二人の共倒れについては、前記の4つの版のいずれの注釈にも記載されている。14世紀初頭のアルベルティ家の断絶については、D.E.I., I, p.223.  なお万能の天才、レオン・バッティスタ・アルベルティを生んだ大富豪のアルベルティ家は別の一族である。


25. なお同第32歌54~69行で彼らについて語り、他のいかなる罪人たちよりも彼らこそ親族殺しを罰するカイナの氷地獄で罰を受けるのにふさわしいという評価を述べたのは、アルベルティ伯家の兄弟と同様フィレンツェ周辺に領地を持ち、親戚を殺したカミション・デ・パッツィで、彼は自分の裏切りの罪を軽く見せてくれるよう、白派でありながら、お金と自分の祖国復帰のために同志から委ねられた城塞を黒派に引き渡した、同じ一族のカルリンの到来を待っているという。この一族の二人の事例は、前項で示したアルベルティ家の場合と同様、フィレンツェ市内の派閥争いが周辺の封建貴族の運命にも直結していたことを示している

㉜ ガルザンティ版、317ページの脚注その他。この一族はヴァルダルノの封建領主なので、フィエゾレ出身でグェルフィ党の重鎮としてフィレンツェ市内に勢力を誇り、後にメディチ家に対する陰謀を企てたパッツィ家とは別の一族である。


26. 前項で示したカミションの言葉には、アーサー王の反逆児モルドレットら、世界中の裏切り者に混じって、ピストイア人フォッカッチャ(62行)の名前が出てくるが、これはピストイアのカンチェッリエーリ家の白派の一員で、黒派の従兄弟を殺した白黒闘争の火付け役である。その後カンチェッリエーリ家内の紛争は、ピストイアを二つに引き裂き、調停を試みたフィレンツェに飛火した。だからフォッカッチャの従兄弟殺しは、ダンテを始め多くのフィレンツェ人の運命に深刻な影響を与えているのである。


27. 同じカミションの言葉の中で、すぐ隣にいて彼の視野を遮っている者として、フィレンツェ人サッソル・マスケローニの名が挙げられているが、彼は伯父の財産を横領するために、自分が後見入を務める幼い従弟を殺した。その罪が発覚して、釘を一杯打った樽に詰められて坂を転げ落とされた後、斬首された

㉝ ガルザンティ版、317ぺージ。刑罰の方法は、モンダドーリ版『地獄篇』291~292ページの脚注。


28. 同じ第32歌の76行以下では、祖国を裏切った罪が罰せられているアンテノーラの獄が歌われている。ダンテは氷の上を歩いていて、一人の霊の顔を蹴飛ばし、相手から「何故蹴るのか、モンタペルティの復讐を強めるために来たのでないのなら、何故私をいじめるのか(79~81行)」と咎められたために、相手は何者かが気になり、ヴィルジリオの許しを得て相手の追及に取り掛かる(82~105行)。あんたは何者だ、もしも生きた身体で頬を蹴飛ばしたのなら、あんまりひどすぎるではないか、と相手が抗議すると、ダンテは自分が生きていることを認め、名声を求めるなら君の名前も他の記録に加えてやれるから君にとっては有り難いはずだ、と述べて相手の名を聞き出そうとする。すると相手は、自分はそれと正反対のことを望んでいる、とっとと立ち去っておれを悩ますな、ここでお世辞を言っても無駄だから、と名乗ることを拒否した。そこでダンテは相手のえり首をつかみ、「お前には絶対名乗らせてやる。さもなければ、髪の毛は一本も残らないぞ」と脅す。相手が、「なぜおれの毛を引っこ抜く。たとえおれの頭を千回掻き毟っても、名乗ったりするものか」と拒むので、ダンテは相手の髪の束を手に巻き付けて、何度となく引っこ抜くと、相手は痛さのあまり、目を伏せたまま泣きわめく。すると別の者が「どうした、ボッカ。お前は泣きわめいたりせずに、顎をガタガタ言わせているだけで十分だったのではないのか。どんな悪魔に取り憑かれたのだ(106~108行)」と叫んだため、ダンテは相手が何者かを悟る。

 それはモンタペルティ戦争の冒頭で、フィレンツェの騎士団の旗手イァコポ・ナッカ・デ・パッツィが軍旗を支えている腕に切り付けて混乱を引き起こし、フィレンツェの大敗を引き起こしたボッカ・デッリ・アバーティだった。こうしてダンテは、「性悪の裏切り者め、もう話さなくて良い。お前がどんな目にあっているか、真実のニュースを伝えて、お前に恥をかかしてやるから(109~111行)」と言って追及を切り上げる。

㉞ ヴィッラーニ『年代記』第6巻78章。


29. なお正体を暴露されたボッカは、その仕返しに自分の名をばらしたのは、1265年にカルロ・ダンジョー一世の金に買収されて彼の軍隊を許したクレモーナ領主のブオーゾ・ダ・ドゥエーラ(ドヴェーラ)だと語り、地上に戻ったら彼のことを言い触らすよう、ダンテに勧めている。さらにボッカは地獄の同じアンテノーラの罪人として、他のいくつか名前とともに、パヴィーアのギベッリーニ党の一族の出身だったため、1258年に追放されたギベッリーニ党員と内通した罪で斬首されたフィレンツェ東方のヴァッロンブローサの大修道院長テザウロ・ディ・ベッケリーアの名を挙げる。フィレンツェのプリーモ・ポポロ政権はこの暴挙によって、教皇アレキサンデル四世に破門され(119~120行)、フィレンツェは破門されたままモンタペルティで敗北したのである。

㉟ ヴィッラーニ『年代記』第6巻65章。


30. この時ボッカ・デッリ・アバーティが挙げた名前の中に、ジャンニ・デ・ソルダニエーリというフィレンツェ人の名前が混じっているが、これは1266年のマンフレード王の死後にフィレンツェで発生した人民の騒乱の際、自分が属しているギベッリーニ党を裏切ってグェルフィ党に転向し、市の支配権を握ろうと企てたソルダニエーリ家の一員だとされている。私の調べた限りでは、『地獄篇』に出て来るフィレンツェ人とフィレンツェに関連した事柄は、以上の通りである。

㊱ ザニケッリ版、548ぺージの脚注、ガルザンティ版、320ページの脚注など。



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