モンタペルティ現象7-2


第二章 煉獄とフィレンッェ



 前章に続き本章では、ダンテが『煉獄篇』の中で歌っている、フィレンッェとフィレンツェ人に関連した事柄を要約して列挙しておく。


1. ヴィルジリオに導かれて煉獄に入ったダンテが最初に出会ったフィレンツェ関係者は、第2歌で天使が煉獄の前域へ船に乗せて連れて来た100人以上の霊の一人カセッラである。ダンテが彼と親しかったことは、76行以下で彼が群の中から前に出てダンテを抱こうとし、ダンテもそれにならって三度も空を抱いたという動作からも明らかで、91行で「カセッラよ」とダンテが名前を呼んでいるので誤解の余地がない。ダンテはカセッラに歌を歌うことを求めたので、相手はダンテのカンツォーネの一つを歌い始め、一同はそれに聞き惚れるが、煉獄の番人カトーネがそれに気付いて(119行)、「これは何だ。ぐずな霊どもよ、何たる怠慢だ、直ちに山に向かって走れ(120~123行)」と叱ったため、鳩の群が突然何かの恐怖に襲われて飛び立つように霊たちは岸に向かって駆け去り、第2歌が終わる。このカセッラについては、確かなことはほとんど分かっていない。ある古い注釈者がピストイア人だとする以外、ほとんどすべての注釈者はフィレンツェ人だとしている①。 彼がダンテの作品に節を付けて歌い、ダンテが好んでそれを聞いたと伝えられているので、彼が1300年以前にフィレンツェで活躍した作曲家兼歌手であったことは確実である。なお番人のカトーネ(カトー)とはカエサルとの戦いに敗れて自殺した小カトーで、煉獄に入って来たヴィルジリオらを第1歌で取り調べており、ヴィルジリオはカトーネが自由のために自殺したことを賞賛している(煉・1・31行以下)。

① モンダドーリ版『煉獄篇』15ページの脚注。


2. 『煉獄篇』第3歌では煉獄の前域で、煉獄の門を通る時期を待っている人々の姿が歌われているが、たまたまヴィルジリオが道を尋ねた一群の霊の中に、「かつて私を見たことがあるかどうか、考えてくれ(105行)」と述べた霊があり、眉に傷痕があるその金髪の美男子にダンテが見覚えがないと答えると、彼は胸の傷を示して「私は皇后コスタンツァの孫のマンフレーディだ(112~113行)」と名乗り、アラゴン王家に嫁いだ自分の娘コスタンツァに自分のことを伝えるよう依頼した。マンフレーディ王はその理由として、教会から破門されたままで戦死したために教会に反抗した期間の30倍煉獄の前域で待たねばならないことと、生者の祈りによってその期間は短縮されることとを語った。

 このマンフレーディこそ、ジョルダーノ伯が率いる800騎のドイツ騎士団をシエナに派遣してモンタペルティの敗戦をフィレンツェにもたらした、まさにその王に他ならない。しかし教会から破門されていた上に、「私の罪は恐ろしいものだった(121行)」ことを自らも認めているマンフレーディの場合②、 地獄に落とされずに煉獄の前域にいることを意味するこの出会い自体が、ダンテのこの王自身とその娘コスタンツァに対する破格の好意の表現である。ダンテはフィレンツェの政治家だった時期グェルフィ党の白派に属していたが、それはたまたま当時のフィレンツェの主流派の下でプリオーレ等の役職に起用されていたというだけの関係に過ぎなかった。白黒闘争によってフィレンツェから追放され、しばらく白派の仲間に加わって失地回復を試みて失敗した後に、ダンテは従来の立場から決別して、自分の政治的立場を構築し直している。そして混乱し堕落したイタリアの秩序回復のためには強力な皇帝権の調停に期待する他はないという、それまでのグェルフィ主義とは180度反対のギベッリーニ主義に転向した。1310年10月に皇帝アッリーゴ(ハインリッヒ)七世がイタリアに到来したことが、ダンテにそうした自らの決断を表明する機会を与え、ダンテはいくつかの書簡と『帝政論』を書き残すことになった

S. Runciman, The Sicilian Vespers, Cambridge 1958, を底本とするペリカン文庫本の50ページにマンフレーディ王の性格が記され、けっして無能ではなく陽気で親しみ易かったが、無頓着で不誠実で残酷な而があったとされていて、その無頓着さが油断を招いて王権を失う原因となったらしい。特に女性関係でだらしがなく、ヴィッラーニの『年代記」第7巻5章には、王に妻を犯されたカゼルタ伯が復讐のため、要衝の防御の際に王を裏切ってフランス軍を攻撃しなかったたために、カルロの軍勢の進攻が容易になったことが記されている。教会と敵対していた上に、この王の配下には回教徒の軍隊も混じっていたので、実際以上に悪く伝えられた可能性が高いが、この王が地獄に落とされていても少しも意外ではない。

③ D.E.I., III, p.590 によると、コスタンツァ(1247~1302)は夫のアラゴン王ピエトロ三世と1285年に死別するが、息子たちをアラゴン王とシチリア王に育て上げている。

④ サンソーニ版全集の23~25ページに収録された、M. Barbi の作品解説による。


3. 続く『煉獄篇』第4歌でも煉獄の前域の様子が歌われているが、地獄の底とは異なり、そこには太陽や月や星が現れるために、彼らの進行時間と天体との関連を考慮する必要が生じ、そのための談義が続く。この方面でもダンテは驚異的な集中力を発揮して、「神曲」全体を整合性のある宇宙像の下に統合している。ヴィルジリオとの間でこうした談義が行われていた時、ダンテは突然「多分、まず座って休む必要があるだろう(98~99行)」という、およそ煉獄らしからぬ言葉を耳にする。岩陰に一群の霊が隠れているのに気付いたダンテは、まるで怠惰が妹でもあるかのように、だれよりも無気力な男に気がつき、「お前は偉い奴だから、もっと上へ行け(114行)」と冷かされて、相手がだれだったかを思い出す。そこに座りこんでいたのは、生前からフィレンツェで怠惰で知られていたリュート作りの職人のベラックァだった。煉獄の前域で過ごしたわずかな時間の間に、ダンテがフィレンツェ関連の音楽関係者と二人も出会っていることは興味深い。また怠惰が目立った特性とされていること自体、フィレンツェでは封建的ヨーロッパ世界に先駆けて、合理的経済活動が展開され始めていたことと関係しているのかも知れない

⑤ そう言えば、『天国篇』第10歌139~144行に、目覚まし時計が歌われている。


4. 続く第5歌では非業の死を遂げた霊たちが、ダンテが生きていると知って集まってきたが、一人もダンテと面識がある者はいなかった。だが現世に伝えたいことを言うように勧められて、まずイアコポ・デル・カッセロ、ボンコンテ・ダ・モンテフェルトロ、ピーア・デイ・トロメーイという三人の霊が語るが、その中でフィレンツェと関係があるのは、二人目の霊、ボンコンテ(『地獄篇』第27歌に登場するグイドの息子)である。彼はフィレンツェとアレッツォとの間で1289年に戦われ、ダンテ自身も参加したカンパルディーノの戦いで戦死したこと、自分が死んだ状況と、天使が彼の霊魂を取り、悪魔が肉体を奪ったことなどを語り、自分が妻や親族に忘れられていると訴えている。ここでもダンテは、かつて敵対したギベッリーニ党の武将に対して、好意的かつ同情的である。


5. それに続く『煉獄篇』第6歌でも、非業の死を遂げた霊たちが、ダンテの前に次々と現れる。その6人の内、前歌のボンコンテと同様カンパルーディーノ戦争の敗走中に死去したとされるグッチョ・デイ・タルラーティ、久しくトスカーナのギベッリーニ党の騎士団長としてモンタペルティ戦争にも関与したグイド・ノヴェッロ伯の息子のフェデリーゴ、その領地をフィレンツェに吸収されることになるアルベルティ伯家のオルゾなどはフィレンツェと関係がある。第5歌の三人をも含めて、当時のイタリアの封建領主や貴族たちが、いかに危機的な状況にあったかが伺える点で興味深い。なおこの後ダンテがヴィルジリオに対して、祈りの効果について質問し始めると、ヴィルジリオはあまりにも高度な疑問は、上で出会うベアトリーチェ(46行)に尋ねるように勧めて返答を打ち切っている。ここで言及されているベアトリーチェは、もはやフィレンツェ生まれの女性の域を越えていて、神学そのものと見なさざるを得ない。

⑥ オルソは『地獄篇』第32歌41~57行で歌われたナポレオーネの息子で、1286年に従兄弟のアルベルトに殺された。ガルザンティ版、440ページの脚注。


6. 同じく第6歌58行で、ヴィルジリオと同じマントヴァ出身の孤高、超然たる詩人ソルデッロが現れ、二人は互いに相手が誰かを知り、同郷であると知って喜んで抱き合う。この動作に触発されたダンテは、争いの絶えないイタリアを罵倒し始め、まず皇帝の支配に協力しない教会人たちを非難、さらに皇帝の地位にありながらイタリアを放置している1300年当時の皇帝アルベルト・ダスブルゴ(=ハプスブルグ家の)を罵りつつイタリアの現状を嘆き、すべてのイタリアの都市は専制君主に充ちているという現状認識を歌った後、127行以下で「我がフィレンツェよ」以下第6歌の末尾(151行)まで、25行にわたってフィレンツェの現状分析と批判とを展開する⑦。 

⑦ おそらくこの部分は、『神曲』における唯一のフィレンツェ政治の現状分析である。


 しかし非難や罵倒の言葉のみが繰り返されているわけではない。まずフィレンツェでは合議制が行われているので、専制君主という逸脱から免れていることを指摘し、「汝はたしかに満足できる(127行)」と記している。この記述から真っ先に我々の念頭に浮かぶ事柄は、一時期フィレンツェの独裁者の地位に最も近付いていたコルソ・ドナーティが、1308年に市政府に反逆して非業の死を遂げたことである。1303年のボニファツィオ八世のアナーニの屈辱事件とそれに伴う憤死に続いて、白黒闘争のフィレンツェ側の立役者が横死したことは、ダンテにとってまさに摂理の現れと見えたはずであり、この独裁者の卵を排除し得たフィレンツェの政治に対しても、ダンテは他の都市と比較して、一応の肯定的評価をせざるを得なかったのではないだろうか。フィレンツェ人は正義を唇に載せているとか、多くの都市の市民は公職を避けたがるのにフィレンツェ人は進んで引き受けるなどという指摘は、アイロニーをまじえてはいるが決して非難ではなく、その言葉自体はむしろ賞賛である。さらにダンテは続けて、「さあ、喜べ。お前にはそのための十分な根拠がある。お前は富裕で、平和で、知恵がある。私が真実を語っているかどうか、結果はそのことを隠さない。アテネもスパルタも、古い法を制定し、それらはまことにりっぱなものであったが、とても繊細な配慮を行うお前に較べると、良き生活のために大した成果を挙げていない(136~143行)」などという表現は、アイロニーを伴っているとはいえ、むしろ絶賛と見なし得るものではないだろうか。

 しかし皮肉の苦味が耐え難いまでに強まるのは、それに続く部分である。「その細やかさたるや、10月に決めたことは、11月の半ばまで持たないほどだ(143~144行)」として、1301年の白黒闘争の際に10月15日に選出された白派のプリオーレたちが、11月7日のカルロ(シャルル・ド・ヴァロア)の入城によって発生したクーデターのために罷免された事実が取り上げられ、これまで見て来た一連の賛辞は、「思い出せる限りの期間で、お前は何度法律と貨幣と役職と慣例を変え、そして住民をも更新したことか。もしもお前が良く思い出し、真実の明かりを直視するならば、自分が羽根布団の中で安らぎが得られず、寝返りを打つことで自分の痛みを鎮めようとする、病気の女に自分が似ていることに気付くだろう(145~151行)」という痛烈な批判に転化してしまうのである。すでに記したとおり、この部分はフィレンツェに対する単純な非難などでは決してない。なおフィレンツェに関する言及が始まる以前に、まずは教会人、続いて皇帝、さらにはキリストに対して呼びかけが行われ、そうした前置きに続くいわば全世界に対時する都市として、フィレンツェが呼び出されているのである。しかもそこで歌われているのは単なる否定ではなく、アイロニーが絡んでいることは確かだとしても、多くの部分は肯定的評価なのである。ダンテが白黒闘争の勝利によって一時期絶大な権威を獲得したかに見えたコルソ・ドナーティの権力を排除して、その独裁を予防できたフィレンツェの統治機構に対して肯定的な評価を下していたことは、以上の記述から推察し得るはずである。

 だがその一方で、これまでに見て来た彼のフィレンツェに対するきびしい批判は、この都市が神が予定している世界秩序に対して協調的ではなく、むしろ堕落した教皇庁やフランス王権とその分家にあたるナポリの王権に追従して、皇帝権に基づく秩序の撹乱者となっているという道徳的な視点からなされていて、それは市政府の市民生活への緻密な配慮などによって相殺し得るような問題ではなかった。『地獄篇』第26歌の冒頭でフィレンツェを全世界、あるいは全宇宙に対時させていたあの高揚感、そして祖国に対する愛憎感情の共存は、矛盾した表現によって、ここでも明白に感じられる。


7. 続く第7歌の冒頭で、ソルデッロは同郷人がヴィルジリオと知って感激し、煉獄の事情を教え、山の側面の低地で賛美歌を歌う霊たちを俯瞰できる場所に二人を案内して、現世では争っていたが、今はペアになっている君主の霊たちを紹介する(91~136行)。前歌で設定された全ヨーロッパ的視野は、ここでも維持されている。その君主たちとは、ハプスブルグ家のロドルフォと彼と皇帝位を争って戦死したボヘミア王オッタッケーロ(オットカール)、アラゴンのピエトロの領土に攻め込んだが、反撃されて退却する途中で死去したフランス王フィリッポ三世とナヴァーラ王エンリコ一世、シチリア晩祷事件の後シチリア島民に招かれてシチリア領主となったアラゴン王ピエトロ三世と、ベネヴェント戦争に勝利して南イタリア一帯の王となったが、きびしい税と統治のためにシチリア島民を怒らせ、シチリア晩祷事件の暴動でシチリアを失ったカルロ一世たちのペアで、ピエトロの後ろには、父に劣らぬ資質を持ちながら夭折したその息子アルフォンソ三世が控えている。

 ダンテはここで、通常子は父よりも資質が劣っていると述べ、カルロ一世にもこの規則が当て嵌まるとして、その息子カルロ二世が父のカルロ一世よりも劣っている程度は、同じカルロ一世が、ピエトロ三世に劣っているのと同じだとする。これらの王たちから孤立してアッリーゴ(ヘンリー三世)の姿が見られるが、彼は自分より優れたエドアルド一世という息子に恵まれた例外的存在である。さらに一段低いところに、北イタリアのギベッリーニ党の傭兵隊長で暴動鎮圧に失敗して捕えられたモンフェルラート侯グリエルモの霊がいる。

 以上の君主たちの内、フィレンツェと関係が最も深いのは、ベネヴェント戦争に勝ってフィレンツェをギベッリーニ党のくびきから解放したカルロ一世である。フィレンツェが友好国として南イタリアに新たに出現したこのナポリ王国の市場を貪欲に開拓して、経済的飛躍を遂げたことは周知の事実である⑧。 さらにフィレンツェは軍事的にも彼の軍隊を大いに利用し、シエナに対するコッレ戦争でもカルロの配下の指揮官と騎士団に全面的に依存し、その後ことある毎にナポリ王国とその本家に当たるフランス王国の軍隊に頼り続け、何か危機的状況が発生するたびに、この王権の関係者にのみ領主権を委ねていたのである⑨。 

⑧ ジーン・A・ブラツカー著、森田・松本訳『ルネサンス都市フィレンツェ』東京(岩波書店)2011、55~56ぺージは、13世紀フィレンツェの急成長の二大原因として、アンジュー(=アンジョー)家との関係成立と毛織物工業の勃興とを挙げている。

⑨ 私がフィレンツェのモンタペルティ現象の一例として力説するのは、独立自尊を重んじて尚武の気風が強かったプリーモ・ポポロ時代とは大いに異なり、グェルフィ党支配が復活した後のフィレンツェが、ナポリ王国を征服したばかりのアンジョー王家に、ことあるごとに軍事的に依存し続けたことである。拙著第三章第一節のグェルフィ党支配の時代に関する節の141ページ以下、特にコッレ戦争に関する部分や、第四章第三節のセコンド・ポポロ体制が成立した後の外交、特にカンパルディーノ戦争に関する215ぺージ以下の部分などを参照していただきたい。フィレンツェには危機に際して領主権をアンジョー王家に委ねる慣例があり、277ぺージで記した通り、1266年以後の60年間の内の23年間も領主権を委ねたが、これも軍事的な庇護を確保するためであった。アンジョー家自体が意外に早く弱体化したため、フィレンツェのこの政策は変更を余儀なくされた。


 ところがダンテはこの祖国の恩人に対して全然好意的ではなく、シチリアを巡って争ったピエトロ三世と比較すると、カルロ一世は息子のカルロ二世が彼自身に対して劣っているのと同じ程度に劣っているという判定を下している。カルロ二世が海上でアラゴン王家の捕虜になり、シチリア島をアラゴン王家に譲り渡した君主であることを考えると、自力で南イタリアに王権を樹立したその父とは比較にならない程劣っていることは明らかである。ところがシチリアをめぐる争いではピエトロ三世に敗れたとはいえ、一時期ヨーロッパ随一の広大な版図を構えていたその器量自体に関しては、カルロがピエトロに劣っていたとは到底判定し難い⑩。 ダンテが下したこの一方的な判定は、カルロ一世に対する明らかな侮辱である。しかしフランス王国~教皇庁~ナポリ王国という枢軸の力が白黒闘争を左右して、自分をフィレンツェから追放した原因であることを鋭く見抜いていたダンテは、この枢軸形成の原動力となったカルロ一世に対して、まさしく侮辱的な評価を下さずにはいられなかったのである。

⑩ Runciman, op.cit, p.222 において、1282年の初頭、シチリア晩祷事件勃発直前の時期のカルロ王は、疑い無くヨーロッパ最大の領地を有する君主だった、と記されている。彼は王子として生まれたが、王権とは無縁な一介の伯爵の地位から、ベネヴェント戦争に勝利して一国の王となり、その後も領地を拡大して、その地位を築き上げたのである。



8. 続く第8歌46~84行で、ダンテはかつてフィレンツェで出会ったことがある、ピサのギベッリーニ党のリーダーで当時祖国から追放されていたニーノ・ヴィスコンティの霊に会い、娘への伝言を依頼されている。さらにクッラード・マラスピーナ(118行)に呼び止められたダンテが、相手の家門の名声が高く、富においても武名においても健在であると賞賛すると、クッラードは7年も経たぬ内に自分でその真価を確かめるだろうと予言して、ダンテが追放後の一時期、この一族の世話になることを予言している(109~139行)。これはダンテが亡命後にマラスピーナ家の世話になったことへの感謝の言葉だと見なすことができるだろう。クッラードはフェデリーコ二世の娘と結婚し、彼と共にグェルフィ党と激しく戦ったギベッリーニ党の武将として知られている。マラスピーナ家は、マーグラ川を境にして北側はギベッリーニ党、南側はグェルフィ党と二分されていて、南側の一族はフィレンツェ黒派に協力してピストイアの自派弾圧に協力したが、ダンテはギベッリーニ党に転向して北側に保護を求めたのである

⑪ マラスピーナ家については、D.E.I., VII, p.269.


9. 「煉獄篇』第9歌で、明け方睡眠中にルチーアに運ばれて煉獄の門にたどり着いたダンテは、無事に煉獄の門を通り抜け、その額には7つの大罪を意味する7個のPの字が刻まれる。続く第10歌で傲慢の罪を浄めるための第一の岩棚に刻まれた浮き彫りが紹介され、その末尾で傲慢だった人々が、課せられた重荷に押し潰されながらそれに耐えている姿が歌われている。第11歌では、オンベルト・アルドブランデスコという、トスカーナのグロッセートを根城とするギベッリーニ党の貴族が悔い改めているのに続いて、もう一人全く質を異にする傲慢の罪入が現れて、フィレンツェの変化を知る上で決定的だと思われる貴重な証言を残している。

 その罪人とはグッビオ出身の写本細密画家、オデリージという職人で、その証言は当時の芸術の世界に関するもの(73~108行)と、モンタペルティ戦争においてシエナ軍を指揮したとされているプロヴェンツァーノ・サルヴァーニに関するもの(109~142行)とに分かれ、その後半の部分でモンタペルティ敗戦後のフィレンツェの変化についての重大な証言がなされている。ダンテの「あなたはアゴッビオ(グッビオ)の誇りであり、パリで細密装飾術(アッルミナーレ=ミニアチュール)と呼ばれているあの技術の誇りでもあるオデリージさんではありませんか(79~81行)」という問いかけに対して、彼は「兄弟よ、フランコ・ボロニェーゼの描いた画面の方が冴えていて、今や彼が名誉を独り占めしており、私にはかけらしか残っていない(82~84行)」という謙虚な言葉で答える。続いてオデリージは、生前には他人に勝ちたい思いが強すぎたために、こんなに公平にはなれなかったことを率直に認め、今はその傲慢さのため罰を受けているが、もしも末期に神の救いを求めていなければ、(煉獄の)ここまでは到達できなかっただろうと言い、続いて人間の栄光の空しさを歌う有名な詩句が続く。それはどのジャンルでも、その後に堕落の時代が来るのでなければ、栄光に輝く期間は短いとし、絵画の分野ではチマブーエが制覇したかに見えたが、ジョットが名声を奪い、チマブーエはすでに影が薄い。同様に詩作を巡る競争でも、グイド(・グイニツェッリ)の栄光をもう一人のグイド(・カヴァルカンティ)が奪ったが、おそらく二人を栄光の座から追い払う人が、生まれている。この世の評判は一陣の風に過ぎず、それは四方八方から吹いていて、風向きを変えると名前も変える。老人で死のうが子供の時死のうが、千年もすれば違いはなく、その千年とで恒星天の動きに較べると、瞬き一回分に過ぎない(85~108行)、と語る。

 以上のオデリージの証言において、絵画と文学という二大分野における当時の第一人者として挙げられているのは、絵画ではフィレンツェ人チマブーエとフィレンツェ郊外の出身のその弟子ジョットであり、詩作においては、最初のグイドはボローニャ人のグイド・グィニツェッリだが、それを凌駕した二人目のグイドとはグイド・カヴァルカンティで、さらに彼ら二人を凌駕するはずの人物は、ここでは明記されていないが、すでに「新生』等の作品によって名声が高く、現在さらに優れた作品を執筆中の人物、すなわちダンテ自身に他ならない⑬。 オデリージというグッビオ出身の国際的職人の口から語られた証言によって、絵画と文学という二大分野におけるフィレンツェ人の活躍が当時いかに際立っていたかが分かるはずである。ここで忘れてはならないことは、フィレンツェ関連の第一人者たちは、いずれの分野でも、ダンテの同時代人と呼んでも良い人々だという事実である。ヴァザーリによるとチマブーエは1240年生まれとされていて、1272年以降に活躍の記録があり⑭、 ジョツトは1266年生まれとされており、カヴァルカンティは1255年生まれで、ダンテはその10歳年下なので、いずれの分野でもモンタペルティ敗戦後に活躍し始めた世代が先頭に立っており、彼らの世代がその後に滑々と続くフィレンツェの伝統を樹立したという事実は否定できない。

⑫ ヴァザーリ等が記しているとおり、二人が共通してアッシジの聖フランチェスコ大聖堂に傑作を発表していることが、こうした評価の根拠だと思われる。

⑬ 絵画の場合のような客観的根拠は乏しいが、グイドに関してはフィレンツェのグループの共通認識があったものと思われる。ダンテ自身に関しては、『饗宴』第1巻3章などに、すでにその名声が高かったことを伺わせる記述がある。ハンガリー王カルロ・マルテッロとの交友も、そうした名声なしでは到底考えられない。

⑭ 他の三人の生年は確実だが、チマブーエに関しては、ヴァザーリは1240年生まれとするものの、13世紀後半説もあるらしい。G.E.I., III, p.212.


10. オデリージの証言はそれだけに止まらず、もう一点フィレンツェ人の変化について、重大な証言を残している。それは「ほんの少し私の前で歩いているこの男は、その名がトスカーナ中に鳴り響いていたものだが、今ではシエナでもやっとささやかれている程度だ、現在フィレンツェ人がちょうど貪欲の狂気に取り憑かれているように、当時彼らが取り憑かれていた傲慢の狂気が打ち砕かれた時、かのシエナの首領だったというのに(109~114行)」という一節である。注意すべきことは、オデリージがモンタペルティ敗戦によってフィレンツェ人の狂気が、傲慢から貪欲へと一挙に変化したとは言っていないことである。オデリージは単に、その時当時フィレンツェ人に取り憑いていた傲慢の狂気がモンタペルティの敗戦によって打ち砕かれたとだけ言っていて、さらに時を隔てた現在のフィレンツェ人は貪欲の狂気に取り憑かれているとしているのである。すでに『地獄篇』第1歌以来見てきた通り、貪欲は人間にとって傲慢以上に恐るべき悪徳とされているので、ダンテが1300年ごろのフィレンツェの状況が、モンタペルティ敗戦当時よりもさらに悪化していると考えていることについては、疑問の余地はないであろう。

 この「傲慢の狂気」とは、プリーモ・ポポロ政権末期のフィレンツェ人の好戦的な精神状態と見なすことが妥当だと思われる。ただしダンテはプリーモ・ポポロ政権に関して、これ以外になんの見解をも明らかにしていないので、この政権を全面的に否定しているとは断定できない。むしろこの政権は、本来はグェルフィ、ギベッリーニのいずれの党派からも独立したポポロの政権として発足し、それなりの成果を挙げていたのだが、フェデリーコ二世の死後に生じた巨大な権力の空白という罠に落ち、周辺の小コムーネ相手に連戦連勝を繰り返している内に怖いもの知らずとなり、戦闘意欲が過熱して「傲慢の狂気」と呼ばれる状態に陥ったと考えた方が妥当だと思われる。いずれにせよダンテは、ある時期からフィレンツェは「傲慢の狂気」に取り愚かれており、モンタペルティ敗戦によって一旦はその狂気から解放されたが、その後さらに悪質な「貪欲の狂気」に取り憑かれて今日に至ったものと考えている。もし仮に「傲慢の狂気」に取り憑かれたままだったら「貪欲の狂気」に取り憑かれる余地はなく、その意味でダンテはモンタペルティ敗戦こそフィレンツェ人が「貪欲の狂気」に取り憑かれるための重要な契機だったと考えていたことが分かる。したがってダンテは、オデリージの口を通して、モンタペルティ敗戦こそフィレンツェ市民を軍国主義から解放して、貪欲の虜(とりこ)にした契機だったと証言しているのである。

 さらに注目すべきことは、こうした見解がフィレンツェともシエナとも全く関係のない、当時国際的に高く評価されて世界を股にかけて活躍していた職人の口から、個人的見解というよりもむしろ客観的事実として語られているということである。さらにオデリージは、以上の6行の後に、生前傲慢で知られたプロヴェンツァーノ・サルヴァーニが、カルロ一世に捕えられた友人の身代金を集めるため市民に加わって募金したために、早くも煉獄に入っているというエピソードを語っている。このようにダンテは、煉獄で後ろ姿しか見ておらず、一言も言葉を交わしていない、祖国の仇敵ともいうべき人物に関して異例に長い紹介を行っているのである。この事実からも、ダンテがモンタペルティ敗戦の影響を重視していたことは明らかである。


11. 前節の証言によって、ダンテは自分が生きていた時代のフィレンツェが「貪欲の狂気」に取り憑かれており、モンタペルティ敗戦当時には「傲慢の狂気」に取り憑かれていたと考えていたことが分かるのだが、それでは彼はいつごろまでフィレンツェが正気だったと考えていたのであろうか。実はオデリージの証言が行われた第11歌に続く『煉獄篇』第12歌の後半で、その点に関する重要な証言が行われている。同歌の前半にはルチーフェロを初めとする傲慢の罪を改悛させるための様々な浮き彫りの描写が延々と続き、それらを見ながら岩棚をほぽ一巡したころ、ヴィルジリオが天使の到来を告げる。天使は上の階への階段を示し、その翼でダンテの顔を打ち、Pの字を一つ消して羨望者が改悛している上の階に上ることを許す。ダンテはこの第二の岩棚に上るための階段の様子を説明するために、突然何の関係も無いはずのフィレンツェの景観に言及し、ついでにフィレンツェについて貴重な証言を残している。それは、「ちょうどその右手に、ルバコンテ橋の上から良く治められた町を見下ろす教会がある山に上るために、まだ書類も桝量(はか)りも確かだったころ、険しい坂を緩めるために階段が造られたのだが(100~105行)」という6行である。

 ルバコンテとは、現在はデッレ・グラツィエと呼ばれる橋が造営された時代のフィレンツェでポデスタを勤めた人物で、人気が高くてサッケッティのノヴェッラにも登場するミラノ人である。ここでは、彼がポデスタだった1237~8年ごろと、ニッコロ・アッチャイウオーリがプリオーレの一人で裁判書類を改竄した1299年、あるいはキアラモンテージという役人が塩の桝量りを偽造して死刑に処せられた13世紀末とが対比されているのである。この対比に従うならば、13世紀の30年代の末頃まではフィレンツェはまだ健全だった、とダンテは考えているわけであり、その後プリーモ・ポポロ政権の下で「傲慢の狂気」に取り憑かれ、モンタペルティ敗戦でその狂気が取り除かれた後に、さらに悪質な「貪欲の狂気」に取り憑かれたと見なしているのである。

⑮ サッケッティの『三百話』の第196話は、ルバコンテの裁判に関する4つの逸話から成り立っている。ヴィッラーニ、『年代記』第6巻26章によると、このポデスタの下で新しい橋が作られ、市内のすべての道路が舗装されて、街はより清潔で健全になった。


12. 続く第13歌で、ダンテは嫉妬深い人々が罰せられている第二の岩棚に上る。イタリア出身者を探して、シエナの女性サピーア・デイ・サルヴァーニの霊に会い、1269年6月のコッレ・ディ・ヴァル・デルサ戦争当時の回想を聞いている。この戦争はしばしばモンタペルティ戦争の報復戦争として位置付けられ、フィレンツェの騎士団が加わっていたことは事実であるが、実際にコッレを包囲していたシエナやピサのギベッリーニ軍団と戦ったのは、主にカルロ・ダンジョー一世が派遣したジャン・ブリトー率いるフランスの騎士団と、戦闘の途中で一気に敵の陣中に駆け降りたコッレの市民軍およびコッレに集結中のシエナ領域部の亡命者たちだったのである。肝腎のフィレンツェ軍は、わずか200騎の騎士団と一部の志願兵のみが参戦し、主力となるはずのポポロの軍隊が到着するずっと前に決着がついていたので彼らは途中から引き返したと伝えられ、まさに意外性の塊のような戦闘であった⑯。

⑯ この戦争に関しては、バスティオーニの論文、 C. Bastioni, La battaglia di Colle. Colle di Val'd'Elsa 1970, (戦勝700年を記念して、コッレ・ディ・ヴァル・デルサ市が著者に執筆を依頼して刊行した小冊子)、およびその内容を紹介した拙著の144ぺージ以下を参照。


 そしてサピーアなる女性の回想たるや、意外性はそれに輪を掛けたもので、何と彼女は、「我が都市の市民たちがコッレのそばで敵軍と対時したとき、私は神様にお好きなように彼らを罰し給え、と祈りました(115~117行」と告白している。そして味方が敗北して逃げ惑うのを見るとこの上ない歓喜を覚え、神に向かって「もはや私はあなたを恐れません(122行)」と叫んだという。彼女がこのように激しく味方の敗北を祈った理由は、自分の甥のプロヴェンツァーノ・サルヴァーニが、モンタペルティ戦争の時と同様この戦争を指揮していたからで、再び彼が勝利してさらにその権力と名声が高まることに我慢できなかったためである。ダンテはここでもモンタペルティ戦争の影響に関する情報を追加しているのである。マンフレーディ王との出会いといい、この部分といい、フィレンツェの歴史的事件の内、『神曲』の中でこの敗戦ほどさまざまな角度から豊富な情報が提供されている事件は他には見られないことを、ここで改めて確認しておきたい。


13. 続く第14歌の前半で、ダンテはグイド・デル・ドゥーカとリニエーリ・ダ・カルボリという二人のロマーニャ地方の貴族の会話に加わる。その一人グイドは、アルノ川の流域では徳が敵視されていることを指摘し、カゼンティーノ地方の住民を豚、アレッツォ人をボートリ犬(よく吠える小型犬)、フィレンツェ人を狼(50行)、ピサ人を狐にたとえる(28~54行)。『地獄篇』第1歌に現れた獅子や豹よりも危険な悪徳「貪欲」は雌狼で表されていることや、『デカメロン』などでも当時のイタリアの民衆の間で狼がどれほど恐れられていたかが記されているので、この評価が単なる非難に止まらないことは明らかである。ここでもダンテはラヴェンナの法律家グイドの口を借りて祖国を罵りながらも、そのたくましい生命力を認めて、それを誇示しているのである。続けてグイドはリニエーリに対し、「私には君の孫(または甥、フルチェーリ・ダ・カルボリ)がこの荒々しい川の岸辺にいる狼どもの狩人になって、全員の度肝を抜くのが見える。まだ生きているのにその肉を売り、その後で昔の野獣のように彼らを殺す。彼は多くの人々の生命とともに自分自身から名誉を奪う(55~62行)」と語り、1303年にフィレンツェの黒派によってポデスタとして招かれたフルチェーリが、雇い主の期待に応えて容赦なく白派を弾圧した様子が暴露され、白黒闘争におけるダンテの怨みが晴らされている。第14歌の後半ではロマーニャ地方の支配者たちの堕落ぶりが歌われ、同地方の優れた領主たちの死や名家の断絶が惜しまれていて、アルノ川の畔に劣らぬ変化がイタリア全土で進行していたことが分かる。

⑰ ボッカッチョの『デカメロン』第5日第3話に、自分の馬が20匹の狼に襲われてたちまち食い尽くされるのを、木の上から目撃する青年の話が出てくる。


14. 『煉獄篇』第15歌の前半で天使の許しを得たダンテは、ヴィルジリオと共に嫉妬者が悔い改めている第二の岩棚から、憤怒者たちが悔い改めている第三の岩棚に上り、84行以下で三つの幻覚に襲われた後、真っ黒な煙に包まれたまま第16歌へと移り、その黒煙を抜けると、憤怒者たちの霊が祈りの言葉を唱えていて、その一人に声をかけられる。そこでダンテが出会ったのはマルコ・ロンバルド(46行)という宮廷人で、彼はヴィッラーニの『年代記』で運命の絶頂期を祝っていたピサのウゴリーノ伯に神の怒りがあることを告げた恐ろしい予言者として伝えられているので、その名声はフィレンツェにも伝わっていたようである。彼はダンテ相手に聖トマスの自由意志論を語ったのち、ポー川とアディジェ川の流域すなわち今日のロンバルディーア地方とヴェネト地方の堕落ぶりを嘆くとともに、今なお古き良き時代から生き残って新しい時代を叱っている人々として、クルラード・ダ・パラッツォ、善良なゲラルド、グイド・ダ・カステルという三人の貴族の名前を挙げている(124~125行)。

⑱ ヴィッラーニ『年代記』第7巻121章。『ノヴェッリーノ』第44話、第55話。


 これら三人の内、ブレッシャの貴族であるクルラートは1276年にカルロ・タンジョー一世のクェルフィ党の代官、1277年にはフィレンツェのグェルフィ党のカピターノなどを務めているので、確実にフィレンツェと関係があった。ゲラルドはトレヴィーゾの領主で、コルソ・ドナーティの盟友であったが、ダンテは『饗宴』(第4巻14章)でも道徳的資質が優れているという理由で彼を賞賛している。ダンテがゲラルドについて質問すると、マルコはガイアという娘がいること以外何も知らない、と答えている。残るレッジョ・エミリアの人グイドはギベッリーニ党の闘士で、ヴェローナ亡命中にダンテと個人的に知り合い、その古風な人柄がダンテに気に入られたらしい。前の二人が北イタリアにおけるグェルフィ党の重鎮であることを考えると、ダンテのギベッリーニ主義は彼自身の人物評価を変えるほど熱烈なものではなかったようである。またコルソの盟友に対する「善良なゲラルド(buon Gherardo(124行)」という呼び方や、わざわざここでマルコに言及させているという事実から、ボニファツィオ相手の場合とは異なり、ダンテが政敵コルソに対して抱いていた感情は、憎悪一色ではなかったらしい、という印象を受ける

⑲ 以上の3人に関する知識は、主にガルザンティ版557ぺージの脚注によっている。


15. 続く『煉獄篇」第17歌で、三つの幻覚によって怒りの害を学んだダンテは天使に会い、怠け者たちが悔い改めている第四の岩棚へと登る。ダンテはヴィルジリオと愛についての質疑を繰り返しながら歩み続け、次の第18歌でもその問答は続く。その途中で猛烈な勢いで自分の怠惰を悔い改めるために叫びながら走っている怠け者の霊たちに擦れ違うが、そこにはフィレンツェ人はおろか、フィレンツェの関係者もいない。といってもすでにベラックァの霊に会っているので、フィレンツェに怠け者がいないなどとは言えない。続く第!9歌で、ダンテは魔女セレーナ(サイレン)の夢を見るが、もちろんフィレンツェとは何の関係もない。夢から覚めると、ダンテはヴィルジリオにせかされて、貪欲者と浪費者がまとめて悔い改めている第五の岩棚に上り、教皇アドリアーノ(ハドリアヌス)五世の霊が、生前の貪欲の罪で手足を縛られて罰せられているのを見る。アドリアーノは頼りになる唯一の縁者として、モロエッロ・マラスピーナに嫁いだフィエスキ家の姪アラージャ(142行)の名を挙げている。すでに『煉獄篇』第8歌に関して記した通り、マラスピーナ家はダンテを手厚くもてなしたトスカーナ北部の名門であり、アラージャも夫とともにダンテを支援した入々だったと見なし得るだろう。


16. 続く第20歌で、ダンテはすべての他の獣よりも貪食な雌狼を呪いつつ進むと、地べたに腹ばいになって清貧の三つの例を大声で叫んでいる霊に会い、その言葉が気に入ったダンテは相手が何者かと尋ねる。その霊は(40行以下で)、自分は現在キリスト教世界を暗く覆っているフランスのカペー王家の祖先だと述べ、カペー家はやがて罰を受けるだろうと、間もなくフランドルで起こる敗北(1302年のクルトレーの敗戦)を予言した後、自分は現世ではウーゴ・チャッペッタ(ユーグ・カペー)と呼ばれていた(49行)ことを打ち明ける。自分はパリの肉屋の息子だったが、徐々に実力を蓄えて友人を増やしている内に、それまでの君主の一族が次々と死に、最後の一人は修道院入りしたために、息子を王位につけることができたと語る(53~60行)。

 今日の通説では、987年に王に選ばれたウーゴ(ユーグ・カペー)の父のウーゴは、ロベール家という名門の出で、フランス公兼パリ伯というれっきとした封建貴族であり、肉屋の出身ではあり得ない⑳。 しかしヴィッラーニの『年代記」などにも、ウーゴを肉屋または家畜商人上がりの大富豪の息子で、その富によって断絶したオルレアン公の娘と結婚してその地位を継いだとする説が記されているので、こうした説は、古来根強く伝えられてきたカペー王朝にまつわる伝説の一つだったものと思われる。ただしウーゴ自らの口からそうした伝説を語らせていることで、ダンテが当時のフランスの王家に悪意を抱き、意図的に不都合な事実を暴露していることは明らかである。

⑳ 平凡社『世界大百科事典』東京1988、第29巻15ページの「ユーグ・カペー」の項および、同上第5巻600ぺージ、「カペー朝」の項。いずれも執筆者は井上春男。

㉑ ヴィッラーニ『年代記」第4巻4章。


 ウーゴの言葉(61~96行)によると、1245年に王子たちの一人カルロがライモンド・ベルリンギエーリの娘ベアトリーチェと結婚し、その持参金として莫大なプロヴァンス領を得るまでは、この王朝は非力なため大した悪事も働いていなかったが、カルロが各地に進出して領土を増やし始め、さらにイタリアに来てコッラッディーノ(コンラディン)やトンマーゾ(聖トマス)を殺し㉒、 さらに近い将来にはもう一人のカルロ(シャルル・ド・ヴァロワ)がイタリアに来て、裏切りの剣でフィレンツェの腹を引き裂き(75行)、領地ではなく汚名を得るだろう。もう一人のカルロ(カルロ・ダンジョー二世)は海上で捕虜になり、海賊が奴隷女をそうするように、お金目当てに自分の娘のベアトリーチェを売る(エステ家に嫁がせる)。さらに百合の花(カペー家の紋章=フィリッポ四世の徒党)はアラーニャ(アナーニ)に押し入り、教皇(ボニファツィオ八世)を捕えてあざ笑い、泥棒たちの中で殺させるだろうと、ここでも白黒闘争の首謀者の一人ボニファツィオ八世が言及され、その末路が予言される(85~90行)。ヴィッラーニが『年代記』で記したとおり㉓、 教皇は救出された後に、屈辱のあまり憤死したというのが真相だが、おそらくダンテはわざと曖昧な形で教皇が直接殺害されるか、のように取れる予言を語らせて、宿敵の末路を一層惨めな形で表現したのだろう。さらにこの新しいピラト(フィリッポ四世)は、聖堂(テンプル騎士団)をも侵略するはずだが、神よ、いつそれに対する復讐を見て満足できるのでしょうか、とウーゴは神に問いかけ、子孫が早急に厳しい裁きを受けることを祈る。この後ウーゴは子孫から貪欲を罰するためのこの岩棚へと話題を転じているが、以上に挙げた事柄の多くがフィレンツェと密接に関係している。ダンテは聖トマスがカルロ一世の指示で毒殺されたとする噂を事実だと見なすなど、カルロ王を悪意の目で見ており、先祖ウーゴの口から彼をカペー王朝の諸悪の根源のごとく非難させている。こうしたダンテの敵意の直接の原因は、もう一人のカルロが、ボニファツィオに勧められて黒派によるクーデターに協力したことに他ならない。カペー王朝とフィレンッェとの間にはすでに三世代に及ぶしがらみがあり、それこそが黒派のクーデターを成功させた原因であり、ダンテが最も敵視した事柄でもあった。

㉒ Runciman, op. cit., 81ぺージには、グレゴリオ十世が提案したリヨン公会議に出席する予定の聖トマスが、カルロ(・ダンジョー)王の命令で毒殺されたという噂が広く伝わっていたことが記されている。ただし、ランシマンはその噂を信じていない。ダンテはこの噂を信じていたようだが、それならなぜカルロ王が地獄に落とされていないのか、という新たな疑問が生じる。

㉓ ヴィッラーニ『年代記』第8巻63章。


17. 第20歌の終わり近く(127~132行)で大地震が発生し、続いて賛歌が沸き起こる(133~141行)。つづく第21歌で先程の地震で第五の岩棚から解放されたスタツィオ(スタティウス)が登場し、これ以後ヴィルジリオらと同行して地震の原因や自分が時代に先駆けてキリスト教徒になった経緯などを語り、目の前に恩人のヴィルジリオがいることをダンテに知らされてその足元に膝まずく。続く第21歌の冒頭で貪食者が悔い改めている岩棚に上った三人は、リンボの様子などを語りつつその岩棚を進み、下すぼみの木などを見る。こうして煉獄は一時期フィレンツェと疎遠になっていたのだが、続く第23歌(16行以下)で、ダンテと極めて親しいフィレンツェ人が登場する。がりがりに痩せて霊たちと出会うと、その中から「私にとって、これは何という恩寵だ(42行)」と叫ぶ声が上がり、ダンテはすっかり面変わりした相手が(政敵コルソの弟であるにもかかわらず)かつての親友で、喧嘩詩を交換したフォレーゼ・ドナーティだと気付いて、二人の会話が始まる。

㉔ この訳語は、山口秀樹氏が『イタリア学会誌」第21号に発表された論文のタイトルに由来している。山口秀樹「ダンテとフォレーゼの喧嘩詩(テンツォーネ)」『イタリア学会誌』第21号、京都(イタリア学会)1973。


 相手はダンテが煉獄に現れた経緯や、二人の同行者について尋ねるが、ダンテはそれに答えるより先に、なぜそんなに痩せたのかと問い、果物の匂いと水の音とで痩せていく仕組みを教えられる。さらにフォレーゼが死んでからまだ5年も経たたないのに、早くも煉獄の第六の岩棚に到達している理由をダンテが尋ねると、フォレーゼは妻のネッラが祈ってくれたお陰だと語り、フィレンツェの堕落した女たちの中で彼女は一人善行を積んでいるので、神様に気に入られていて、その祈りは効果があるのだと説明した。さらに彼は言葉を続け、フィレンツェの女は、サルデーニャのバルバージャ地方の女以上に堕落しているが、間もなく説教壇から胸や乳を出すことが禁止されるだろう、また現在子守唄を聞いている幼児に髭が生える前に女たちは恐怖の叫びを挙げるだろうと、フィレンツェの不幸を予言する。フォレーゼに問い詰められたダンテは、ヴィルジリオに導かれて地獄からベアトリーチェに遭いに行く自分の旅と、地震によって解放されたスタツィオについて語る。続く第24歌で、ダンテは信仰心が篤いフォレーゼの妹のピッカルダの行方を尋ね、彼女がすでに天国に昇っていることを知る。

㉕ 時期的にこの予言に該当するフィレンツェの危機といえば、白黒闘争では早すぎるので、1310年にイタリア入りし、1312年6月末にローマで戴冠した後、同年9月よりフィレンツェを包囲したものの、戦力不足のために10月31日の夜間、陣を畳んで退散したアッリーゴ(ハインリッヒ)七世との戦争が想定される。この時フィレンツェは優に二倍以上の兵力を抱えながら、防衛に徹して危機を凌ぎった。W.M. Bowsky, Henry VII in Italy, The Confliction of Empire and City-State 1310-1313, Lincoln(UNIVERSITY OF NEBRASCA PRESS)1960. および拙著、第五章第二節「フィレンツェの戦い方---ハインリッヒ七世の場合」240~252ページ。以上はあくまで私の見解であって、注釈書の内、モンダドーリ版とザニケッリ版は一般的な脅し文句と見なし、ガルザンティ版は「モンテカティーニの敗戦よりも、一般的な不幸の予言か、さもなくばフィレンツェに降りかかるアッリーゴ七世の脅威」(620ページの脚注)と記し、ウテット版は「十分な根拠はない」としながらも、アッリーゴ七世の襲来だけを挙げている(520ぺージの脚注)。


18. ダンテはさらに同じ岩棚にだれがいるのかを尋ね、それらの人々の内でダンテと最も話したがっているボナジュンタ・ダ・ルッカとの対話が始まる(40~63行)。彼は将来ダンテが訪れるルッカで歓待してくれる女性ジェントゥッカに触れた後、ダンテが「愛について知る淑女たちよ」で始まるカンツォーネの作者であることを確かめ、ダンテから「自分は愛が私の心に吹き込む時にそのまま記す者(の一人)だという創作法を聞いて、「おお、友よ、公証人(イァコポ・ダ・レンティーニ)とグィットーネと私とを、私が耳にする清新体派の甘美な調べから隔てている縛りが、私は今やっと分かったぞ(55~57行)」と、納得の叫びを上げる。旧世代の詩人が新しい世代の優越性を認めたこの問答は、『煉獄篇』第11歌のオデリージの言葉をも裏付けるもので、一世代前とは異なり13世紀末にはグイドやダンテのフィレンツェが、詩作の分野におけるイタリアの中心となっていたことを証言している。こうした問答におけるダンテは、フィレンツェを代表する詩人として、ヴィルジリオやベアトリーチェの指導に従う小心なダンテとは別人のように自信に充ちている

㉖ ボナジュンタをフォレーゼと共に登場させたのも、おそらくこの問答を、かつて詩を作った仲間やその後のフィレンツェの詩人たちに読ませたかったためだろう。


19. ボナジュンタとの対話が終わると、霊たちはナイル川のツルのように群れをなして駆けけ去り、フォレーゼだけが駆けるのに疲れた人のようにダンテのそばに残っていて、「今度はいつ会えるだろう(75行)」と尋ねる。それに対して、いつかは分からぬが、そんなに早くはないだろう、フィレンツェは日毎に悪化していて、私はなかなか死ぬ気になれないから、とダンテが答えると、フォレーゼが、「では行け、それについて最も罪の重い男が、絶対に罪が消えない谷間に向かって、馬の尾に引きずられているのが私には見える。馬は一歩毎に脚を早めてどんどん速度を上げ、ついに彼をぶっつけて、無残にもその身体をばらばらにしてしまう。大して年月が経たない内に起こることだ(82~87行)」と予言する。勿論この言葉は、1308年に起こるはずの彼の兄のコルソ・ドナーティの悲惨な最後に関する予言である。

 白黒闘争については、私はすでに拙著(233ページ以下)でこの紛争がこれまで考えられていた単なる党派争いから逸脱して、フィレンツェの将来を選択する路線闘争に転化していたことを指摘したが、その争いの異常な昂進ぶりはモンタペルティ現象によるフィレンツェの繁栄を抜きにしては考えられないことである。コルソはこの時に勝利して一時は権勢を誇ったものの、当時アレッツォ(後にピサとルッカ)を支配していた有力な傭兵隊長ウグッチョーネ・ダ・ファッジョーラの娘と婚約したことから市民の嫌疑を招いて騒乱が発生し、市外への逃走中にカタローニャ人の傭兵に捕えられ市内に連行される途中で、馬から身を投げて横死したとされている㉘。 ダンテは、この箇所で名前を出さずに、コルソの弟の口からその滅亡を予言させているのと、やはり名前を出さずに天国で彼の妹ピッカルダと会う場面でその行動に触れている以外は、この野心的な陰謀家について全く沈黙していて、機会のある度に非難し続けたボニファツィオ八世の場合と、その扱い方は対照的である。

㉗ 拙著233ぺージ以下、特に236ぺージ。Najemy, op. cit., 91~92ぺージで記された、カルロ(シャルル・ド・ヴァロア)とその軍隊を受け入れるか否かの問い合わせを72のアルテ全部に行ったところ、パン屋のアルテ以外はすべて受け入れに賛成したという事実も、私の見方を裏付けている。党派争いを路線闘争に転化させたのが、黒派の勝因であった。

㉘ ヴィッラーニ『年代記」第8巻96章。


20. 『煉獄篇』も末近くになるとフィレンツェ離れが進み、ごく断片的にしか触れられなくなる。第24歌の末尾で、愛欲者たち(ルッスリオーシ)が罰せられている最後の岩棚に上ったダンテは、第26歌で清新体派の祖とされているグイド・グィニツェッリの霊(92行)と語り合い、彼を「自分と最高の友人たちの父(97~98行)」と呼んで感謝している。この最高の友人たちとは、言うまでもなくグイド・カヴァルカンティをリーダーとするフィレンツェの清新体派の仲間である。こうしたグループが、フィレンツェの文学活動を、一挙にヨーロッパー流の地位に引き挙げたのである。


21. 以後ヴィルジリオの導きで無事に岩棚めぐりを終えたダンテは、第27歌でヴィルジリオから励ましの言葉とともに、以後は自分の意志で進むように告げられる。第28歌で三人は地上天国のエデンの森に入り、マテルダという謎の美女に出会う。マテルダについてはさまざまな説があり、それがマテルダ女伯だとすれば、グレゴリウス七世の教会改革の協力者であると同時にフィレンツェを愛してその発展に寄与したことで知られている著名な女領主ということになるが、残念ながら確証はない。


22. 『煉獄篇』第30歌でいよいよベアトリーチェが現れ、その気配だけで失神しそうなダンテは、心細さの余り振り返ると、すでにヴィルジリオは消えていて、二度と現れることはなかった(40~53行)。ベアトリーチェはヴィルジリオとの別れを惜しむダンテに対して、「汝はもっと他の剣(罪への責苦)で泣かねばならない(57行)」と叱りはじめ、堂々とした態度で叱り続けた後に沈黙すると(55~82行)、天使たちがすかさず歌い始めて彼女をなだめる。ベアトリーチェは天使たちに対して、ダンテがどんなに天分に恵まれていたかを語り、彼女の生前には善に導いておいたのに、彼女が死ぬと堕落して悪に走ったことを嘆き、万策尽きてヴィルジリオに頼った経緯を語る(102~145行)。

 実際『神曲』を読む人々は、その作者がどれ程天分に恵まれていたかを容易に想像できるはずで、すでにフィレンツェにいる頃から、若き日のダンテは只者ではないと見られていたはずである㉙。 続く第31歌で、ベアトリーチェはダンテにこれが真実かどうか、自分の口から告白せよと命じ、さらに自分が最高の善への愛に導いておいたのに、いかなる便宜に釣られて道を誤ったかを告げよと命じ、ダンテが「あなたのお顔が見えなくなった途端、身近にあるものが偽りの喜びで私の進路を歪めました(34~36行)」と泣きながら告白すると、ベアトリーチェはその浅はかさを嘆き、「ひげを上げよ(68行)」と罵る。このようにきびしく叱られたダンテの前で、壮大なパレードが始まる。ここで見る限り、ベアトリーチェは単なる「神学」のアレゴリーでは収まらない。無限の天分に恵まれた青年ダンテの才能を育んだ導き手の一人として、故郷のフィレンツェとは切っても切れない関係があることは否定できない。

㉙ そのように意識して読むと、すでに『新生』のあちこちに、ダンテが抜群の人と見なされていた痕跡が認められるはずである。


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