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60年代日本の芸術アヴァンギャルド(7)                「’60年代日本のアヴァンギャルドと、

’30年代フランスのシュルレアリスム」                 田淵 晉也



これまでの目次


序章

  1) 風俗画のアレゴリーとしてみる芸術・文学

  2) ‘60年代日本社会の位置

       ① 世界の状況

       ② 世界状況のなかの日本

第1章   ‘60年代日本の風俗画

  1) ‘60年代三枚の風俗画

  2) 「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本

(以上 『百万遍』2号掲載)


第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

  1) ‘60年代日本の「反芸術」(その1)      

  2) ‘60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリ

       スム』の場合)

  3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』と

    アンドレ・ブルトンの「反芸術」

(以上 『百万遍』4号掲載)


  4) ‘60年代日本の「反芸術」(その2) 

    ①  芸術評論家の「反芸術」─ 東野芳明の「反芸

       術」とそれをめぐって

    ② 芸術作家の「反芸術」 

  (以上 『百万遍』5号掲載) 

                              

    ③  「読売アンデパンダン」展から「ハイレッド・セ

      ンター」へ

      ③ ━ 1. 「読売アンデパンダン」展      

 (以上 『百万遍』6号掲載)


               ③ ━ 2. 「ハイレッド・センター」

            (以上 『百万遍』7号掲載)


番外篇 ─ 『風流夢譚』と『エキプメント・プラン』から見た─「ハイレッド・センター」と「中央公論事件」

 (以上  『百万遍』8号掲載)


 

5) ’60年代日本のアヴァンギャルドと、

’30年代フランスのシュルレアリスム

 

 1.  座談会「直接行動論の兆」



 ハイレッド・センターは、前項「③ ━ 2」(『百万遍』7号誌掲載)でのべたが、’60年代の他のアヴァンギャルド・グループのように、あたらしい芸術を主張するグループではなかった。

 ハイレッド・センターは、’60年代日本の「デモ・ゲバ」風俗のなかで、「反芸術」を基点にして、芸術とはなにか、じぶんたちにとって芸術はなにかを問題にして、実践活動をしたグループだった。

 かれらのいうそれらの活動は、かれらがハイレッド・センターを標榜する以前の「山手線フェスティバル(山手線事件)」(1962年10月)や「敗戦記念晩餐会」(1962年8月)に遡及するものであり、ハイレッド・センター創設展をすでに、「第5次ミキサー計画」・「第6次ミキサー計画」としたのだった。そのことについてはすでにのべたところである。

 これを証するために、また、ハイレッド・センターを発足させた(芸術)思想を類推し、判定するために、「第5次・6次ミキサー計画」直前の時期に、今泉省彦らが責任編集をしていた、美術をめぐる思想と評論の小雑誌『形象』に掲載された座談会の、読解をしよう。それによって、かれらの行動がたんなる衝動的なおもいつきではなかったことが、わかるからである。

 ハイレッド・センターの芸術活動そのものについては、赤瀬川原平の『東京ミキサー計画』をはじめ、さまざまな証言がのこされ、かれらがなにをしたかは、神話化したエピソードになっている。しかし、’60年代当時のかれらが、なにを考え、なぜこのような行為をしたかについては、ほとんど知られていない。ハイレッド・センターの行動は、つねに問題提起だった。そうしたことから、ハイレッド・センターをはじめたかれらがなにを思想し、あのような芸術行為になにをたくそうとしたかを推測すること、ハイレッド・センターの問題提起が何だったかを知るためには、この「座談会」記録は希少な資料となっている。

 その座談会自体は、1962年11月に川仁宏の自宅でおこなわれたものである。参加したのは中西夏之、高松次郎、赤瀬川原平、木下新、それに、川仁宏、今泉省彦だった。

(注.とうじ川仁が住んでいた大井町のアパートだったといわれている.[照井康夫『美術工作者軌跡(今泉省彦遺稿集)』])


 この座談会の全記録はふたつに分割して掲載された。前編は「直接行動論の兆 ━ ひとつの実験例」として、『形象』7号(1963年2月刊)に掲載され、後編「直接行動論の兆・Ⅱ」は、特集「直接行動者の報告」号(『形象』8号[1963年6月発行])に掲載された。

(注.実際の発売日は、1963年12月説[『ハイレッド・センター:直接行動の軌跡』展図録]など種々ある. なお、この「座談会」記録は、これ以外どこにもない. )


 しかし、この座談会が、ハイレッド・センターの事実上の契機となっているのは、つぎのことからもあきらかであろう。

 成立したハイレッド・センターでは、まず議論することが不可欠の行為であった。彼らの議論は、結論を出すためではなく、合意するためでもなかった。たがいのおもいを述べ、思考し、ふたたびまじわる行為である。議論における非決定性未解決性こそ、彼らを強い生命的緊張感で充たし、つぎのステップへ向かわせたのである。この座談会は、すでにそのような行為の特徴をあらわしている。

(注. ハイレッド・センターがどのようなものかについて、誕生の後に、『美術手帖』(1963年10月増刊号)誌上で「あなたへの通牒」として、つぎのように宣言している.「もしあなたが、不可解な出来事や奇怪な事件に出会ったら、あなたにとってハイレッド・センターは無関係ではありません。少なくとも、あなたの認知や計算を越えた因果関係について何も判断できないのなら、そのような事件が、当センターの隙間風的な事業の一環として播いたある種のタネが、あなたの前で成長したのでないことも否定できないでしょう/我々は、二十数年間の経験と、幾多の実験結果から、我々を惹きつけ、駆り立て、生命的な強い緊張で充たしてくれるのは決して完結した事物そのものの中にはなく、常に非決定性未解決性にこそあるのではないかという推論を引き出しました」とある.


 そして、この座談会の直後に開催された、仮定の「第4次ミキサー計画」だった、あの第15回読売アンデパンダン展に、中西夏之が、キャンパス作品であり、また、キャンパス作品をはみ出す作品「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」をたずさえてはじめて参加するのは、この座談会の結果である

(注. 第15回展の彼ら三人の作品については「4)‘60年代日本の『反芸術』(その2)③ ━ 1.『読売アンデパンダン』展」(『百万遍』6号掲載)を参照.)


 第1次から第3次と目される「ミキサー計画」はそうではなかったが、ここではじめて高松、中西、赤瀬川の三人がそろったのである。これは、その「座談会」での話し合いの結果としか考えられない。

 しかもそこでかれらは、のちのハイレッド・センター活動でみられる、開かれたイベント形式のミニチュア・レストランを興行している。それは、かれら三人だけでおこなったのではなく、風倉匠や谷川晃一、それにグループ音楽の刀根泰尚や小杉武久ら、かれらの周辺にいたアヴァンギャルディストたちが参加して開催した、アトラクション的イベントだった。そして、ここに参加した芸術家たちは全員、のちのハイレッド・センターの活動になんらかのかたちで協力している。このイベントも、事実上のハイレッド・センターの始動だった。

 この「座談会」が示しているのはそれだけではない。「直接行動論の兆・Ⅱ」が掲載された『形象』8号、特集「直接行動者の報告」号の全編集は、中西、高松、赤瀬川の三人に編集権が托されたという。そして、その相談会を1963年の4月ごろ新宿の喫茶店でおこない、そのさい、ハイレッド・センターのグループ名称とシンボル・マークの決定がおこなわれたという

(注.『ハイレッド・センター:直接行動の軌跡』展図録)

 

 同号の表紙は、赤瀬川が描く「戦闘機にのったのらくろ」のマンガだった。さらに、雑誌編成においても、「座談会」以外の構成は、長良棟(今泉省彦)の「直接行動の兆・Ⅰ」をはじめ、高松次郎の「〝不在体〟のために」があり、赤瀬川原平の「スパイ規約」があり、刀根康尚の「CRAPPING PIECE」、小杉武久「ANIMA 1~2、その他」であった。さらにまた、同号の付録には、まだ裁判沙汰になっていない、赤瀬川の「模型千圓札」がつけられていた。長良論文は、東京都美術館の「陳列作品規格基準要綱」がだされる契機のひとつとなった、第14回読売アンデパンダン展における風倉匠と小杉武久の演奏事件について述べたものだった。高松と赤瀬川の論考は、まがりなりにも一般雑誌に発表した、かれらのデビュー論文であり、すでに本論の前項までで問題としたように、かれらがたがいの共感をふかめる内容をもつものである。中西も執筆を予定していたが間に合わなかったようだ。ここには、現代音楽の刀根と小杉の論考が掲載されているが、ハイレッド・センター発足時の中西、高松、赤瀬川らのなかでは、音楽家のふたりに同志的共感がもたれていたのかもしれない。こうしたジャンルを無視した親近感の表明は、とうじの他の実作芸術家では、’50年代の「実験工房」をのぞき、あまり見られぬ特性である。

 ハイレッド・センターの成立だけでなく、ハイレッド・センターの活動理解をするためにもこの「座談会」記録は重要なものなのだが、これを掲載した雑誌『形象』は、200部ていどの不定期刊行物であり(注.「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ━今泉省彦」)、編集は不十分で、誤植、誤記もおおい。録音テープの文章化も今泉、川仁、あるいは、中西たちがやったのかもしれない。発言がそのまま活字化されたとは信じがたい部分も少なからずある。

 座談会の目的も、川仁や今泉にとっては、『形象』掲載が念頭にあったともおもえるが、中西、高松、そして、赤瀬川らは、雑誌掲載など想定外で、じぶんたちのやったことをふりかえること、やったことを再検討する絶好の機会とし、ひたすら考え、発言したにちがいない。したがって、文学研究のように原文を引用しその解釈をおこなう方法をここでもとることにする。

 この座談会は、のちの’60年代日本のアヴァンギャルド芸術史で、「山手線フェスティバル(事件)」、「敗戦記念晩餐会」と、一般に呼ばれているイベントをテーマにしているのだが、「座談会」のなかではひと言もそれらの名称が口に出されることはない。「まあとにかくこういうことをやったわけですよ」とか、「君たちが国立(くにたち)でやったこと」のように、暗示的にいわれるだけである。イベント内容については、「山手線フェスティバル」で配布された案内状・趣意書と路線図が注記に示されているだけである。つまり、この四万語をこえる大座談会は回顧的でなく、ただ、そこでおこなわれた行為について、なぜしたか、なにが問題であったのかについてたがいの思念をぶつけあい、まるでつぎの計画のための討議のようにみえるものである。

 座談会で語られるこのふたつのイベントについては、本論ではすでにいく度か問題にして、部分的には検討している。また、内容について予備知識がなくても、座談会だけでも、それなりにわかるから、蛇足であり、不必要ともおもうが、概略だけ再度、しめしておこう。

 前編「直接行動論の兆 ━ 一つの実験例」で対象となる、山手線におけるハプニング、「山手線フェスティバル(山手線事件)」とは、事前に案内状、趣意書を配った計画性をもった「芸術ハプニング」と呼んでもよいようなイベントである。案内状の差出人は、「ウロボンK・J 高松・N 中西・K 村田」と書かれていた。

(注. 赤瀬川の『東京ミキサー計画  ハイレッド・センター直接行動の記録』(1984年)では、「山手線事件」と云い、中西は「千円札裁判」の法廷証言(1966年)で、「山手線フェスティバル」と呼んでいる. イベント当時のかれらは名称をつけていない.) 


 これは、中西夏之、高松次郎などが、1962年10月18日の午後2時ごろ、山手線の走行車両内や品川、有楽町駅のプラットフォームで、各自勝手なパフォーマンスを実践したものである。中西は卵形コンパクト・オブジェを、高松は紐状オブジェをもちこみ、だき抱えてなめたり、見つめたり、ひきずって歩いたり、身体に巻きつけたり、車内で顔にドーラン化粧をやったり、生卵を割って卵オブジェのてっぺんから注いだりした。当初の計画では、渋谷駅到着までつづけるはずだったが、上野駅で中断したパフォーマンス・イベントだった。このイベント予告の趣意書と案内状には、イヴ・クラーンの「焔の絵画」(1958~60年ごろ)を想起させるような、こげ穴つきの路線図と時刻表がそえられていた。かれらはクラーンについて、『百万遍』4号掲載の「ヌーヴォー・レアリスム」の項で記しておいたように、すでにあるていど承知していたとおもわれる。アヴァンギャルド芸術の意識的意図が見えかくれするイベントだった。

 当日は、川仁宏をはじめ芸術仲間や、芸術ジャーナリズムの記者、カメラマンが集まり、プラットフォームや車両内のハプニング撮影をしたり、川仁のようにパフォーマーとなって参加するものもいた。またこのイベントには、第15回読売アンデパンダン展の「ミニチュア・レストラン」のように、グループ音楽の刀根康尚と小杉武久が別グループとして参加し、同時間帯の山手線電車の走行車中で、音を出すパフォーマンスをおこなったという証言記録もあるが、これについては、この座談会ではだれひとり言及していない。座談会で語られるのはかれらの行為だけである。

 後編座談会『直接行動論の兆Ⅱ』のなかで語られる、国立(くにたち)の晩餐会とか「敗戦記念晩餐会」と一般によばれているイベントは、1962年8月15日に国立(当時)公民館で開催されたものである。参加者は、招集者のヨシダ・ヨシエやネオ・ダダイズム・オルガナイザーの、吉村益信、赤瀬川原平、木下新、風倉匠や吉野辰海、グループ音楽の刀根泰尚や小杉武久、暗黒舞踏の土方巽、それに広川晴史らであった。ネオ・ダダイズム・オルガナイザーの篠原有司男や、周辺にいた工藤哲巳や三木富雄らは参加していない。荒川修作はすでに渡米している。

 この企画は、まえもって200円の「晩餐整理券」を発売し、これを持参した観客の前で、出演者がテーブルにつき、鳥の丸焼きなどの食事をするイベントだった。百名ほど集まったという観客は、見るだけで食事に参加することは許されない。食事と平行し、また、食事がおわった会場では、各人が同時多発的に、転倒したピアノや紐による演奏をやり(刀根泰尚、小杉武久)、歯を磨き(吉村益信)、全裸ダンス(土方巽)をし、椅子から転落し、裸体に焼ゴテをおしあてるパフォーマンス(風倉匠、赤瀬川原平)を、無秩序に演じるものだった。あらかじめ販売した「晩餐整理券」には、「芸術マイナス芸術」とあり反芸術的企画であることが記載されていた。このイベントでは、山手線イベントとは異なり、写真撮影はまったく意図されていない

(注.『肉体のアナーキズム』に、わずかに残っている貴重な一枚が掲載されている. [fig34. pp.175])


 座談会では、赤瀬川をのぞく全員が山手線イベントの参加者、目撃者だったのにたいして、国立の晩餐会に関係したのは赤瀬川と木下だけだったから、両「座談会」では、話題は山手線にかたよっているが、イベントの詳細内容をだれも問題とすることなく、ふたつのイベントに共通する〈芸術行為〉に集中して、議論は展開している。

 これらの座談会の発言者で、川仁は札、今泉は長良と、ペンネームをもちいている。なお、前編の座談会「直接行動論の兆 ━ ひとつの実験例」には、中松なる発言者がいるが、これは、中西と高松の合成架空人物だろう。なお、今泉によると、出席していた木下は、〝くそっ〟という以外の発言をしなかったという

(注.今泉省彦『絵描き共の変てこりんなあれこれの前説3』、今泉省彦「高松次郎」[2001年執筆、雑誌『あいだ』、「赤瀬川原平」[『機關』No.14])


 『形象』7号掲載の座談会記録は、「直接行動論の兆 ─ ひとつの実験例─」と二行書きのタイトルがあるだけで、とつぜん会話がはじまるものである。そして、以下掲載されているものでは、中西夏之、高松次郎、赤瀬川原平、それに中松なる者がおもに発言している。山手線イベントに途中参加した川仁宏(札)はわずかに発言するが、今泉省彦(長良)はほとんど語っていない。編集者の立場から発言を自制したのか、編集上カットしたのかわからない。

 『形象』8号では、出席者に「札二刀・中西夏之・高松次郎・赤瀬川原平・K.ウロボン・長良棟」が記載されている。K.ウロボンは実在人物だが、川仁宅でおこなわれた「座談会」には出席していないはずである。この特集号の編集を一任された中西、高松、赤瀬川らの意図をあらわすのだろう。

(注.K.ウロボンは「山手線フェスティバル」の趣意書・案内状に名をつらねる実在人物であり、今泉によると久保田登なる人物だそうだが、経歴はわからない.)

 

 ここでの発言者は、出席者表示どおりで、中西夏之、高松次郎、赤瀬川原平、札二刀(川仁宏)、長良棟(今泉省彦)、それに、K.ウロボンもまた、積極的に語っている。そればかりか、この「座談会」には、最後に「のらくろ」さえ登場するのだから、編集者(中西、高松、赤瀬川)たちの意向がつよく反映した編集かとおもわれる。極端にいえば、かれらのハイレッド・センターにも通底する芸術主張である。それは、かれらのひとり、赤瀬川原平が、その年、1963年の1月に開催したあの個展「あいまいな海」の複製千円札の裏面に印刷した案内状に書いていた芸術目的の一節、「肉体と、肉体に附随した意識を含む私有財産制度の破壊/貨幣制度破壊に関する当 CO.,  の方法と技術の精巧さは衆知のとおりです。偽人間の方は非常に難しく、技術的にもまだ不可能であり、現在発行中の人間を偽人間に似せて偽造することが当面の方法であります」などがおもいだされるものである

(注.「4) ‘60年代日本の「反芸術」(その2) ③  『読売アンデパンダン』展から 『ハイレッド・センター』へ」[『百万遍』6号掲載]参照)


 というようなところから、この座談会後編「直接行動論の兆・Ⅱ」は、各々の発言者の主張というよりむしろ、発足するハイレッド・センターの主張として読むべきべきであろう。ハイレッド・センターが、何を、どのように問題にしたかである。

 そうした座談会について、前編「直接行動論の兆 ─ ひとつの実験例─」から、読解していこう。

 座談会は、なんのあいさつも説明もなく、だしぬけ発言のようにはじまっている。


中西   まあとにかくこういうことをやった訳ですよ(原文ニハ「注1」ガアル)。それでね、これがひとつの集団ではないんだよね。集団の考え方という風にとると不味い訳でさ。色々な考え方があってさ、それで俺には俺の考え方、高松には高松の考え方、他の人には他の人の考え方があってね、それぞれが大体去年ぐらいからね、まあお互い個別的に意見を交換し合っていた訳ですよ。その間に長良の話があって、エキプメント・プランですか、あれは失敗なんですよ。何故なら実現しなかった為にさ、その脱殻みたいなものものを後で文章化したっていうか・・・・(ママ)

札(川仁)   文学的になった。

中西      そうね、文学的になった。

札(川仁)   文学的には非常に精緻なものがある訳だ。

中西      計画表が実現する為の計画表じゃなくてさ、なんか失敗に終わっちゃった後のね、整理表になってしまった。そんなことになってしまって、でまあ、やらなきゃどうしょうもないという。要するに実現しなきゃさあ、一寸も意味を持たないことをね。それをいくら文学的に立派だってもね、やっぱりいみねえと思うんだ。どういう事かっていうと、エキプメント・プランは実現の為の計画文書であって行動論理が組立てられねばならず、告白めいたことを述べてはならないんだ。行動に向かって自己を賭けていく論理よりも、これからやろうとすることに対する自問自答に終始してしまっているんだな。現実空間の中の事件としてなんの日付もなく、あるのは1962年の何月何日か知らないけどさ、その心境の日付でしかないわけよ。行動の形骸が抽象的な空間の中で文学的に期せずしてなってしまったわけでさ、こう云うことじゃリビドーの昇華が芸術行為だと云うフロイドの言葉はいまだに通用してしまうわけよ。そういうことでね。その行為の為の論理をつくろうというんでこういうひとつの実験を考えた訳ですよ。ところがね。あのエキプメント・プラン当時はさ、皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで島中(ママ)事件とかが事件性としてあった訳でしょう。それに対する俺なら俺のまったくなにも持っていない人間の反応の仕方があったし、人間のひとつの発言方法としてもあり得る訳だよね。現在となるとそういうね、なんか典型的な事件がまったくないんだよね。だから行動の場合でも事件に対するなんて云うか俺達の意志とか、そういうものではなくてさ、まったくなにもない中でのひとつさ、なんて云ったらいいかな、なにもないと云うのはおかしいんだよね。例えば新聞みるでしょう、事件はうじゃうじゃあるんだ。事件が蔓延するとその箇々の事情や内容があるにもかかわらずさ、総体的には意識に混沌として映じてくるんだ。無論総体としての現象=混沌になる為には莫大な種類と数の事件がなければならない訳だよね。ブラウン運動によって生じる拡散という現象が分子箇々の運動がさ、勝手気侭な運動をしているにもかかわらず総体的には上から下への運動方向をとったかに映ずるに似ている訳よ。又、分子の数も莫大なものでなければ総体として現象が生じないこともな、これは何もないんじゃなくモノクロームなんだ。色名表をターンテーブルで廻転させると色差はなくなり個別性がなくなりモノクロームになってしまうだろう。ここに俺達を運んでいる時間の速度とそれを追いかける認識との問題があるんじゃないか。物凄い事件があってもさ、幾つも重なり合うことによってまったく事件、箇々事情は同化し合いモノクロームにみえてくるという、そういう処に置かれた俺達がね、重ねる操作としてさ、事件を作って・・・(ママ)そう、俺達の作った事件は日付が残らなくてもいいんだ。忘れられていく、モノクロームにしていく為のひとつの行為よね。俺はこう考えるんだ、つまり俺達が棲息している器の構造の無理して作られた部分から湧いてくる吹出物といったものがあるだろう、俺がさっきから云っているのはこの事件のことなんだが、一般に事件に対する反応と云うと、この器の欠陥に戻ってきてその時代を解釈し、ひとつの立場をとろうとするよな。俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早めると、まあそんな意図があるんだ。それも攪拌作用のひとつなんだが、エキプメント・プランと関連のありそうな発想をとりながら状況が全く違う。いや状況の解釈が違う、一方は事件に対応するが、こちらは対応する事件がない、というより事件に対応させないで事件、つまり行為をしたわけだ

赤瀬川   むしろ行為する側にはね、事件のないときの方がはっきりするんじゃないかなと思って、なにかのときに皆で話したんだがな。

中西      ああ、事件がない方がねえ。

赤瀬川   うん、あの頃安保とか、あったわけでしょう。そうするとあんまり理路整然となっちゃうんだな、それで系列からはずれたものはやつぱり隠されちまうと思うんだ。

高松     隠されちゃうってのはなにが隠されちゃうの?

赤瀬川    意識がさ、たとえば安保のときなにかしてそれがどうにかなったにしてもさ、安保ってのは生物学的にみればたまたま出てきたものでしょう。それ以外のものは常にある訳だからさ、そういうものが安保とかそういう象徴的な事件にあんまりはつきり出すぎちゃうんじゃなくて整理されすぎちゃうんだ。でむしろ今みたいななにもないなまくらなときの方がはっきり、皮をめくってみることが出来ると思うんだよ。政治上のものじゃなくて政治下のものがな

高松     ただ赤瀬川が云ったように、なにか沈んでしまうのはマスコミの弊害だと思うけどね。安保があろうがなかろうがやっぱり、山中湖事件みたいなものがあったりなかったりしていると思うんだよ。同じようにね。処がマスコミが或るひとつのものを引張り出して、わあっと拡げちまうが為にさ、売れるようにするんだけれど、実際にはそうじゃないと思うな。

中西      しかし安保の問題ってのはね、これは意識的に、目的意識的に作られた事件なんだよ。海流の層に例えれば深い層にある流れが上層の各段階に運動を伝播させるという仕方じゃなくてね、底流そのものが人為的に一気に海面に出された波だった訳よ。(下線は筆者)


 「座談会」の出席者全員が関係するか、発言する冒頭部である。なにについて語っているのかが、注記はあるが、まがりなりにも「美術をめぐる思想と評論」をかかげる雑誌の、一般読者にはわかりにくいはじまりである。仲間内の話しのつづきのような座談会だ。

 引用した冒頭部は、まず中西にとっての、やったことの由来と意味が語られ、それにたいして、赤瀬川と高松が口をはさんでいるのだが、雑誌掲載の「座談会」としては、話がかみ合っていない。発言者校正がなかったのだろうか。しかし、それでも、かれらひとりひとりの発言をモザイク絵画のタイルや木板の一枚とすれば、かれらの同意と異論の摺り合せがよく読みとれる。

 まず最初に明らかにしているのは、彼らの行為集団は、「特定の利害や目的の達成を追求するために形成した集団」ではなく、状況のなかで形成されるゲマインシャフト(共同社会)にちかいことだ。これは、’60年代アヴァンギャルドのなかでは、党派性の問題として、まず、相違を明確にしておかねばならないことであった。ある意味では、シュルレアリスト的集団ではなくダダイスト的集団である。

 そして、かれらのやった芸術行為の、中西の意味が語られるのだが、それはまず、長良(今泉)の「エクイプメント・プラン」を対照点において語られる。

(注.今泉の「エクイプメント・プラン」については、『百万遍』8号に掲載した本論「番外篇」でのべたところである.)


 中西は、『エクイプメント・プラン』は、「行動の形骸が抽象的な空間の中で文学的に期せずしてなってしまったわけでさ、こう云うことじゃリビドーの昇華が芸術行為だと云うフロイドの言葉はいまだに通用してしまうわけよ」と云っているが、リビドーとは、いわゆる本能を発現させるエネルギーで、かれのいうリビドーの昇華とは、こうしたエネルギー発散の代償行為ということだろう。つまり、自己充足の芸術ということである。かれの芸術は、自己満足、自己充足の対極にある芸術行為である。

 ここでかれは、じぶんの芸術は「行動に向かって自己を賭けていく論理」だという。ややわかりにくい言い方である。しかし、その前後の文脈からみて、論理を「計画(プラン)」に置換すれば、すこしわかりやすくなる。

 中西は、この年(1962年)におこなわれたある「座談会」(「若い冒険派は語る」[『美術手帖』1961年8月号掲載])の席上で、「計画」というものが自分の芸術行為の原理だと語っている(注.『百万遍』No.5掲載)。かれは、自分の制作について、

 ━ ・・・・・・ たとえばどういうのかな。たとえば銀行襲撃というのがありますね。まずプランをたてるわけです。その計画というのはよく調べて、何時に銀行に躍り込むかという道筋を細かに書いていくわけです。しかしその襲撃が成功するかどうかということはわからない。ですから、結果というものは、鑑賞者というか、外界というか、それに与えるものがどういうものかは自分では解らないわけです。ただ道筋ですね。そのなかに自分の思想を打ちこんでいくわけです(下線は筆者)


と、語っている。

 銀行襲撃の喩えといい、「その道筋に自分の思想を打ちこんでいく」とは、まさに、「行動に向かって自己を賭けていく論理」である。しかも、「成功するかどうかということはわからない」、「結果というものは、鑑賞者というか、外界というか、それに与えるものがどういうものかは自分では解らない」、そんなことはどうでもいいというのは、半年後のここでの発言では、「俺達の作った事件は日付が残らなくてもいいんだ」に変形しているようにさえおもえる。逆にいえば、冒頭発言における、心境の日付とか事件の日付などにたくした、彼の意味するところを知る手がかりとなる。自己満足の作品であり、自己顕示の作品である、作品主義芸術が、これらのイメージにひそんでいるのではあるまいか。

 だからかれは、「エキプメント・プランですか、あれは失敗なんですよ。何故なら実現しなかった為にさ、その脱殻みたいなものものを後で文章化したっていうか・・・・」と、断定するのである。プラン(計画)、すなわち、道筋に、こだわっているのだ。「エキプメント・プラン」として、今泉のああいう作品はどうしても容認できなかったのだろう。

 だが、それにしても、座談会冒頭において、これほどまでに感情的なことば、失敗だ、脱殻(ぬけがら)だと強調し、また、「計画表が実現する為の計画表じゃなくてさ」と、かれ自身の芸術観から論難する理由は、それだけではわからない。

 ここでいわれる「エキプメント・プラン」と中西の関係は複雑である。

 「エキプメント・プラン」がとつぜん出てくる「座談会」冒頭の文言は、「俺には俺の考え方、高松には高松の考え方、他の人には他の人の考え方があってね、それぞれが大体去年ぐらいからね、まあお互い個別的に意見を交換し合っていた訳ですよ。その間に長良の話があってエキプメント・プランですか、あれは失敗なんです」とある。

 かれらの(芸術)グループの者それぞれが、去年(1961年)ぐらいから、それぞれ具体的になにかを考え、出会えば話し合うという状況があり、そのなかのひとつに「エキプメント・プラン」に似た話があったというのではあるまいか。その当事者は、と、他の人にふくまれる今泉、それに、当時の今泉との関係とその後の経緯からみて、川仁だったのではなかろうか。そして、そこで話されていたのが、「あのエキプメント・プランの当時」にあった、「皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで島中(ママ)事件とかが事件性としてあった」当時であって、「それに対する俺なら俺のまったくなにも持っていない人間の反応の仕方があったし、人間のひとつの発言方法としてもあり得る訳」となる。

 これについて、さらに恣意的解釈をひろげれば、つぎのようになる。

 深沢七郎の、皇太子結婚から着想(inspired)をえた芸術作品『風流夢譚』からおこった「島中事件」は、かれらに芸術の問題を考させるところがあり、対応する芸術行為について話し合うことがあった。しかし、そこには、赤瀬川はいうまでもなく高松も参加していない。なぜなら、「座談会」において、このふたりは「エキプメント・プラン」になんの反応も示さないからである。

 これは中西だけの問題だろう。おそらく、今泉らとの意見交換で、今泉の『エクイプメント・プラン』に記されていた何らかの事項、たとえば、ギロチン設置に関連したオブジェなどについて、アイデアらしきものを語ったことがあったのではなかろうか。そればかりではない。「エキプメント・プラン(設置計画)」自体の名称アイデアを語っていたのではないだろうか。なぜなら、発足したハイレッド・センターのイベント名は、「第5次、第6次ミキサー計画」であり、「(帝国ホテル)シェルタープラン」であり、赤瀬川の後の回顧録のタイトルも『東京ミキサー計画─ハイレッド・センター直接行動の記録』だった。ハイレッド・センターの活動には、「首都圏清掃整理促進運動」や、高松が先導したと推測できる「ドロッピング・イベント」、「めくらゲーム(ロプロジー)」などもあるが、中西が主導的役割をはたしたとおもわれるこれらの「計画(プラン)」には、かれが「若い冒険派は語る」でのべた芸術観が色濃く反映していた形跡がある。いずれも、招待状や案内状にせよ、趣意書にせよ、それらがこの芸術行為の重要な一部分となっている。

 そういった前提から読むと、ここでの「エクイプメント・プラン」への中西のこだわりがすこし理解できる。われわれは、ここで云われる「エクイプメント・プラン」には、中西、今泉らのなかで話されたかもしれない「設置・計画(equipment plan)」と長良棟の『エクイプメント・プラン』が混在しているとして、読まねばならぬのではなかろうか。しかし、それならば、なぜこのようなわかりにくい、二重にも三重にも読めるような発言になっているかについては、『形象』誌の編集にもその責任があるようにおもわれる。さきにも述べたように、この座談会のテープおこしと編集は個人にゆだねられ、7号誌では、今泉か川仁がおこなったのではないだろうか。8号誌掲載「座談会」と7号誌では、おなじ座談会の分割掲載とはおもえぬほどの相違がある。だから、中西発言の聞き取り編集には、記録者の主観がおおきく介入しているのを危ぶむのである。

 とはいえ、今泉や川仁との関係はその後もつづいているから、その齟齬は決定的ではなかったかもしれない。あるいは、それが、『形象』8号誌の全編集権の中西、高松、赤瀬川への委託理由のひとつだったのかもしれない。今となっては確かめようのないことである。

 だが、それらは、些細なことだ。中西発言で汲みとらねばならぬのは、長良の『エクイプメント・プラン』が、将来発足する「ハイレッド・センター」の芸術行為の対極にあることでだ。『エクイプメント・プラン』が、’60年代日本のアヴァンギャルド芸術界において、どんな作品だったかについては、中西のこの時の認識をこえて、さきの本論、「番外篇」(『百万遍』8号掲載)で述べたところである。

 ところで、中西にとってのこの話し合いが、どこまで進展していたかはわからない。しかし、中西のなかでなんら具体的イメージが描かれぬうちに、長良の『エクイプメント・プラン』が、『形象』5号(1962年3月)に発表されてしまったのではなかろうか。それが、中西発言、「計画表が実現する為の計画表じゃなくてさ、なんか失敗に終わっちゃった後のね、整理表になってしまった。そんなことになってしまってでまあ、やらなきゃどうしょうもない」に、あらわれているようにおもわれる。

 とすれば、失敗の連帯責任は、中西にもあることになる。ここでの失敗は、今泉だけの所為ではない。しかし、冒頭に云われる「エキプメント・プランですか、あれは失敗なんですよ」の失敗は、それだけではない。

 中西は、そうした今泉の『エクイプメント・プラン』を読んだとき、あの話し合いのなかにあったかれのおもい、芸術的思考をなんらかの形で清算せねばならぬとおもったのだろう。

 それが、時代もちがうなかでの行為の説明となる。しかもそれは、じぶんの「エキプメント・プラン」の失敗をも、対象化することである。「エキプメント・プラン」の反対命題的性格には、こうした自己超克の側面が、中西にはあったのではないだろうか。


 『形象』7号誌に掲載された「座談会」の冒頭、「まあとにかくこういうことをやった訳ですよ」に付けられた、「こういうこと」を説明するための注1はつぎのようなものだった。


注1. ウロボンK・J 高松・N 中西・K 村田の連名による案内状が円環に閉じる山手線の降車時間・乗車時間を示す略図を貼付して発送された、冒頭のカットがそれである。縮尺されているので読解困難であるので以下に原文を示す。

 《解釈と定義のつまった整理戸棚、群衆の表情、無差別に作られた実用物、笑いのタイプ、実用人間、皇太子、毀れた玩具、歯車、ゼンマイ、卵殻、骨、毛髪、うんざりするような女の様々なび態、食器、書物、全く人為的な内部と外部、文字・・・・(書き続けたら世界中のペーパーを必要とする)が融解し、流動物となってただよいはじめている。そこから元の型をすくい出して 『・・・・・の為に』 供することも、都合のいい鋳型に流し込んで再生することも(どんな鋳型があるというのか!)無意味になってしまった現在、おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる。

 この空白から純粋な対話を生み出す作業が執拗に試みられねばならない。

 構築物の中に胡座をかくことを拒否し、流動物で充満した空白内の一点となろうとするものの集合体がある

 この集合体は収縮、分散の運動を繰り展げながら右記のサークル上を移動する。あなたが右の時間にサークル上又はサークル上の定められた点で、この集合体に出くわすなら、空白内のカクハンされた一分子と化し個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不能のルツボの中に落ち入るだろう又もしあなたが帽子を愛用する人ならば、この集合体の収縮、拡散運動を促進するための媒体となることが出来るだろう。》

 その時間表は10月18日木曜日、山手線内廻り、品川午后2時4分、有楽町2時14分着、19分発、東京21分着、27分発、上野36分着、40分発、池袋56分着、3時2分発、新宿12分着、17分発、渋谷24分着である。(下線は筆者.「冒頭のカットがそれである」は、「座談会」掲載ページの文頭に、実際に配布された、焦げ穴のついた案内状のカット写真がつけられていたからである.) 


 イベントに先立ち、おもに芸術仲間宛てに発送された案内状である。一読すると、通常の芸術展案内状とはかなり異なるとはいえ、それ自体で完結したイベント案内状である。この(芸術)行為の目的が表明され、また、会場となる乗車する山手線電車の時刻表をしめしてあり、周到な案内状の役割をはたしている。

 だが、「座談会」での中西発言と照らし合わせながら、憶測をまじえて読むならば、ちがうものが透かし見えてくる案内状である。中西発言にあった芸術の「攪拌作用」の意図と目的が要約できる趣旨説明である。この原案の作成者は、J高松やK村田ではなく、N中西かとおもわせる文面である。

 まず冒頭の、アト・ランダムで、自動筆記のような名詞の羅列には、すこし気がかりなコトバがならんでいる。

 既成(美術)体制の連想も可能な、最初のひとこと「解釈と定義のつまった整理戸棚」にはじまる一連の流れは、「実用人間」/「皇太子」/「毀れた玩具」、「歯車」、「ゼンマイ」/「卵殻」/「骨」、「毛髪」にいたっては、追随がむずかしくなる。ことにスラッシュ(/)をいれた連係などは不可解にひとしい。だいたい、ここにならぶすべての単語のなかで、「皇太子」は唯一固有名詞にちかい単語であって、特に違和感をいだかせる。

 違和感あるこのコトバの出現は、さきの「座談会」発言にもあった。「あのエキプメント・プラン当時はさ、皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで島中(ママ)事件とか・・・・・」である。この場合は、「皇太子の問題」とは、二年前の「皇太子・正田美智子結婚」であり、それがもたらした『風流夢譚』の執筆であり、嶋中事件へと連結していくから、発言のコンテキストからは、なんとか許容できる流れだった。

 とすると、この違和感も、「座談会」コンテキストを援用すれば、道筋がみつかるのだろうか。それは、中西の意識外にあった無意識的道筋かもしれない。その憶測によれば、このようになる。

 『風流夢譚』で、嶋中事件の火元となったのは、皇太子や美智子妃の首が斬られて、「コロコロカラカラ転がっていった」描写だった。「毀れた玩具(人形=卵殻)」の首のようにコロコロカラカラ音を出して転がった光景である。そして、それが「歯車」「ゼンマイ」に連結していくのなら、ナルホド、ソウダッタノカ! と思わせるものがある。それは、この所謂山手線フェスティバルで、中西が車中に持ち込んだ携帯オブジェ、ポリエステル製のコンパクト・オブジェである。中西によると、このイベントのために制作し、このオブジェが完成したから、イベントを具体的に考えられるようになったと、この座談会の後半で語っている。

 このコンパクト・オブジェについては、本論ではすでに幾度も説明しているが、卵形の鋳型にポリエステルを流しこみ、なかに分解した時計の歯車やゼンマイ、釘、歯ブラシなどを密封した、人間の頭部大のオブジェである。

 山手線のイベントでは、このコンパクト・オブジェを携帯して乗車し、乗客環視のなかで、抱きかかえたり、さすったり、舐めたりしたのだった。そして、そればかりでなく、車中やプラットホームで、持参した生卵をわり、オブジェの天辺(てっぺん)からだらりとかけるパフォーマンスをやったりもした。

 そして、「卵殻」のつぎにくる「骨」「毛髪」は、すでに本論「番外篇」でのべたように、『夢譚』の件(くだん)の情景で、このように書かれていたのだ。「私が変だと思うのは、首というものは骨と皮と肉と毛で出来ているのに、スッテンコロコロと金属製の音がして転がるのを私は変だとも思わないで眺めているのはどうしたことだろう」と。

 羅列するコトバの流れにこのような憶測を混入させると、「皇太子」にいたるまでの「笑いのタイプ」とやらも、『風流夢譚』にかかわっているように勘ぐることもできる。

 このイベントのために制作されたというコンパクト・オブジェのアイデアの原点は、「エキプメント・プラン」当時の中西に遡るものなのだろうか。繰り返していえば、たしかに、「(あのエキプメント・プラン当時はさ、皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで島中事件とかが事件性としてあった訳でしょう。)それに対する俺なら俺のまったくなにも持っていない人間の反応の仕方があったし、人間のひとつの発言方法としてもあり得る訳だよね」とある。文学派である川仁もいたかもしれない、文学好きの今泉らとの話し合いでは、とうぜん『風流夢譚』の作品が話題になったはずだ。中西はこれを読んだにちがいない。『夢譚』についていえば、高松、赤瀬川がこの作品を読んでいたかは疑わしい。のちにパロディー表現を好んでおこなった赤瀬川は、深沢七郎と親密な関係をもつことになるのだが、この1962年の時点では、さほど関心はなかったようにおもわれる。

(注.すでに「番外篇」で見たように、今泉の『エクイプメント・プラン』には、とうじの日本のアヴァンギャルド小説だったカフカやカミュの作品が要(かなめ)で援用されていた.また、生卵かけパフォーマンスをおこなったのは、オブザーバー参加の川仁だったのは、偶然の行為とはとてもおもえない.)


 だから、案内状に記されたこの記述を、赤瀬川はむろん、当事者だった高松も、「夢譚」や「嶋中事件」との関連で受けとってはいなかったろう。

 しかし中西では、自分だけの意味があったのではなかろうか。かれは、そうした『風流夢譚』も、「夢譚」がらみのアイデアも、「・・・・融解し、流動物となってただよいはじめている。そこから元の型をすくい出して 『・・・・・の為に』 供することも、都合のいい鋳型に流し込んで再生することも(どんな鋳型があるというのか!)無意味になってしまった現在、おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる」と、ここで断言しているのだ。中西はここで、彼の「エキプメント・プラン」を清算し、カクハンし空白化するとしているようにもおもえる。「座談会」では、それが、「そう、俺達の作った事件は日付が残らなくてもいいんだ。忘れられていく、モノクロームにしていく為のひとつの行為」に該当するのかもしれない。『風流夢譚』は、皇太子結婚という日付が付着した「笑いの」一作品という処理済みの整理が、かれのなかでおこなわれていたかもしれない。

 そして、このつづきに、「座談会」でも案内状でも、かれの芸術、かれらの芸術行為の説明がはじまる。

 芸術論としては、19世紀のボードレールあたりからはじまり、ダダ、シュルレアリスムを通過するアヴァンギャルド芸術の、「驚きの美学」の系譜上にある「攪拌作用の芸術」論であって、改めてその角度から扱う必要はないだろう。だがそれを、芸術家としての自分たちの実践規範として、自分たちのものにしようとする行為には、注目すべきものがある。

 ここではかれらの、聞き齧り用語もまじるとおもわれる使用用語にとらわれず、かれらの意図をみとどけたい。

 すでに見てきたように、ここにおける中西発言とイベント案内状は、たがいに補いあう同根の思想を表現している。

 案内状で「おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる」といわれている、かれらの行為目的、「空白化」は、座談会では、色名表をターンテーブルで廻転させて出現する「モノクローム」となる。

 そして、モノクローム化される色名表の基本色、赤、青、緑・・・・が指しているものについては、「俺はこう考えるんだ、つまり俺達が棲息している器の構造の無理して作られた部分から湧いてくる吹出物といったものがあるだろう、俺がさっきから云っているのはこの事件のことなんだが」と云われ、さらに、ターンテーブルの効果を、「俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早める」ことと云う。そして、「まあそんな意図があるんだ。それも攪拌作用のひとつなんだが・・・・ ・・」と、とりあえずの説明をしている。

 だが、ここでいわれる「事件」が、かれらにどのように切実にかかわってくるかについては、「座談会」発言では、中西自身にとっても、いまひとつあいまいである。「皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで島中(ママ)事件とか」の事件であり、「それに対する俺なら俺のまったくなにも持っていない人間の反応の仕方」があるとか、いわれているが、そうした(社会的)事件性だけでは、あまりにも通り一遍の説明になるだろう。

 むしろ、これについては、当のイベント案内状のほうが、かれらの直接的関心にちかいとおもわれる。

 案内状は、攪拌する効用ではなく、「流動物で充満した空白内の一点となろうとするものの集合体がある」と、攪拌される立場から述べられている。案内状でいわれるところでは、攪拌作用は、まず、「構築物の中に胡座をかくことを拒否する」作用にあらわれる。なぜなら、攪拌作用によって、「空白内のカクハンされた一分子と化し、個性を消されあなたとおれおれ達と物質の識別不能のルツボの中に落ち入る」ことになるからだ。

 それらの真の意味に迫るには、この案内状が、もっぱら芸術仲間に宛てられたことを思い出さねばならない。あなたが、「空白内のカクハンされた一分子と化す」のは、「構築物の中に胡座をかくことを拒否し、流動物で充満した空白内の一点となろうとするものの集団」と、出くわすからである。

 この「構築物」は、「座談会」発言では、「俺達が棲息している器」になるだろう。「器」といわれているのは、座談会のコンテキストでは、ひろく社会構造を思わせるものだったが、案内状と合わせて読むと、その社会構造は、まず彼らが棲息している芸術社会の社会構造が眼前の問題であるようにみえてくる。

 「個性を消されあなたとおれおれ達と物質の識別不能のルツボ」は、芸術社会で絶対価値とされている、作家と作品の独自性を問題視しているようにみえる。しかし、これは芸術大学で教えるような単なる技術上の問題、優劣のレベルではなく、「おれ達と物質の識別不能のルツボ」とまで云うからには、西洋画、日本画・・・の絵画、彫刻・・・の芸術ジャンルにも触覚をのばそうとしているのだろうか。それとも、すべての芸術(アート)の根元に視線をむけているのか、それはわからない。おそらく、そのすべてであり、あるいは、そのどれかに焦点をあてた発言ではなかったかともおもう。

 ここで提案され、確信的に主張されているのは、案内状では「この空白から純粋な対話を生み出す作業が執拗に試みられねばならない」であり、発言で該当するのは、「俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早めると、まあそんな意図があるんだ」といわれているものだろう。「対話を生み出す作業」を「執拗に試みる」のも、「器の構造性に関連のない行為」を「しつこく繰返す」のも、明確な決意表明である。

 これら案内状に記されていること、また、座談会の発言からも、芸大出身のかれらがあえてこのような(芸術)行為をおこなったのは、かれらが、かれらをとりまく芸術環境に満足していないからだ。その不満は、かれらをとりまく社会環境におよぶものである。あえていえば、体制という言葉が〈その組織を運営する基本方針、指導方針〉を意味するのなら、芸術体制、生活体制、政治体制、社会体制にたいする、反体制の姿勢であり、’60年代の日本では、類型的姿勢である。ただ、ここでいわれている「行為」とか「対話」は、「器の構造性に関連のない」行為であり、「空白化から生み出す」純粋な対話である。

 そのような行為対話を、かれらが実践的におこなうとは、いかなることなのだろうか。ここで彼らができるのは芸術行為であり、芸術対話である。というよりもむしろ、「案内状」にせよ、「座談会」にせよ、芸術家から芸術家への案内状であり芸術家の座談会だった。

 ただ芸術家の対話発言や案内状とはいえ、「発言」の俺達や案内状のおれ達にたいして、案内状のあなたや「発言」の対象がどのような芸術家であるかは、わかったようでわからない。 

 じっさいに案内状のあなたにしても、「あなたが右の時間にサークル上又はサークル上の定められた点で、この集合体に出くわすなら、空白内のカクハンされた一分子と化し、個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不能のルツボの中に落ち入るだろう。又もしあなたが帽子を愛用する人ならば、この集合体の収縮、拡散運動を促進するための媒体となることが出来るだろう」と、一種類ではないあなたが想定されてる。「空白内のカクハンされた一分子」となるあなたは、先にも検討したように、中西や高松がそうであり、また、実作芸術家であろう。

 だが、あきらかにそれとは異なる役割を分担させられている、「帽子を愛用する人」であるあなたも、ここには記されている。

 この「帽子を愛用する」あなたも、「純粋な対話」の一方の担い手であろう。芸術における、作家 ─ 作品 ─ 鑑賞者の三角関係の、「作家」でも「作品」でもないあなたである。帽子をかぶっているからには、評論家や、通常なら画廊、美術館の関係者や芸術愛好家たちの「鑑賞者」を指すとすべきかもしれない。

 だが、彼らの場合はそうではないだろう。「敗戦記念晩餐会」には、アヴァンギャルド評論家の中原佑介が姿を見せたという証言はあるが、「山手線フェスティバル」では、評論家がいたという記録はない。ほとんど無名の芸術家だった彼らが、走行中電車のなかで、一回限りおこなうことだったのだから、それは当然だろう。主催者たる彼らも、期待していなかったろう。

 しかし、現在のこされているイベント記録から判断すると、この「帽子を愛用する人」には、あきらかに具体的対象者があり、また、案内状の効果があったとおもわれる。というのは、赤瀬川の『東京ミキサー計画』をはじめ、「ハイレッド・センター」の回顧録や研究書には、イベントのさまざまな情景を写した写真が大量に掲載されている。それら写真は、カメラアングルといい、鮮明度といい、走行中の車両や短時間停車のプラットホームの撮影としては、アマチュア写真とはいえない画像である。潤沢な資金にめぐまれたとはおもえぬ彼らが、セミプロにせよ写真家を雇用したとは考えられない。それに、この写真が一般人の目にふれたのは、20年後の雑誌『写真時代』に赤瀬川原平が、「発掘写真」シリーズで「それでも芸術はある!」のタイトルで掲載した文中がはじめてだった。赤瀬川に記述では、それら写真は高松と中西が所持していたとある。

 おそらく、撮影者はこの案内状の宛名人のなかにいた人たちだろう。このときの無償で無目的の、関心だけの撮影写真が、純粋な対話ということだろう。また、「帽子を愛用する人」には、写真家だけでなく、好奇心の旺盛な芸術ジャーナリストもいたのではなかろうか。

 そのようにおもうと、案内状の文面、「あなたが帽子を愛用する人ならば、この集合体の収縮、拡散運動を促進するための媒体となることが出来るだろう」が、空疎な壮語ではなく、現実的意味をもったことがわかる。つまり、この行為におよぶ前に、中西が座談会で話しているいじょうに、彼らの周辺には似たような関心をもつ芸術サークルめいた集団があったのではなかろうか。それは、中西のいう「流動物」化した芸術グループである。かれの云う、「おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる」も、彼ら、あるいは、かれの周辺にいるこれら芸術グループへの呼びかけとみなすならば、具体的提案としてかなりわかりやすくなる。

 こうしたことをみると、かれらの行為は、つねに芸術的であったことをふくめて、現実的対象に焦点を合わせた実践行為だったのがよくわかる。ならば、案内状にあった「この空白から純粋な対話を生み出す作業が執拗に試みられねばならない」は、「座談会」ではどのように語られているのだろうか。

 中西発言には、のちの「ハイレッド・センター」の「(帝国ホテル)シェルター計画」や「首都圏清掃整理促進運動」にあらわれた基本態度の原型をおもわせる主張、「つまり俺達が棲息している器の構造の無理して作られた部分から湧いてくる吹出物といったものがあるだろう、俺がさっきから云っているのはこの事件のことなんだが、一般に事件に対する反応と云うと、この器の欠陥に戻ってきてその時代を解釈し、ひとつの立場をとろうとするよな。俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早めると、まあそんな意図があるんだ」とか、「それも攪拌作用のひとつなんだが、エキプメント・プランと関連のありそうな発想をとりながら状況が全く違う。いや状況の解釈が違う、一方は事件に対応するが、こちらは対応する事件がない、というより事件に対応させないで事件、つまり行為をしたわけだ」とか、その意図が、ブラウン運動やターンテーブル上の色名表に託した、かれの実感として語られている。だが、「この空白から純粋な対話を生み出す作業」からみれば、それは対話の一方の発言である。この発言を、「こういうことをやった」当人たちのひとり高松は、また、かれらの芸術サークルのまぎれもない一員だった赤瀬川は、この発言にどのように対応し「対話」するのだろうか。

 現に中西自身が、発言の冒頭で、「集団の考え方という風にとると不味い訳でさ。色々な考え方があってさ、それで俺には俺の考え方、高松には高松の考え方、他の人には他の人の考え方」があると述べているのである。

 それが、中西のことばをさえぎるような、いや、おぎなうような、有機化するような、彼らに特徴的な、赤瀬川や高松の発言となるのである。

 さきに、引用した中西発言に継続する赤瀬川と高松の発言、それにつづく箇所を、まず、再引用をふくめて引用しておく。


中西    ・・・・・・・・・それも攪拌作用のひとつなんだが、エキプメント・プランと関連のありそうな発想をとりながら状況が全く違う。いや状況の解釈が違う、一方は事件に対応するが、こちらは対応する事件がない、というより事件に対応させないで事件、つまり行為をしたわけだ。

赤瀬川    むしろ行為する側にはね、事件のないときの方がはっきりするんじゃないかなと思って、なにかのときに皆で話したんだがな。

中西      ああ、事件がない方がねえ。

赤瀬川    うん、あの頃安保とか、あったわけでしょう。そうするとあんまり理路整然となっちゃうんだな、それで系列からはずれたものはやつぱり隠されちまうと思うんだ。

高松      隠されちゃうってのはなにが隠されちゃうの?

赤瀬川    意識がさ、たとえば安保のときなにかしてそれがどうにかなったにしてもさ、安保ってのは生物学的にみればたまたま出てきたものでしょう。それ以外のものは常にある訳だからさ、そういうものが安保とかそういう象徴的な事件にあんまりはつきり出すぎちゃうんじゃなくて整理されすぎちゃうんだ。でむしろ今みたいななにもないなまくらなときの方がはっきり、皮をめくってみることが出来ると思うんだよ。政治上のものじゃなくて政治下のものがな

高松     ただ赤瀬川が云ったように、なにか沈んでしまうのはマスコミの弊害だと思うけどね。安保があろうがなかろうがやっぱり、山中湖事件みたいなものがあったりなかったりしていると思うんだよ。同じようにね。処がマスコミが或るひとつのものを引張り出して、わあっと拡げちまうが為にさ、売れるようにするんだけれど、実際にはそうじゃないと思うな。

中西      しかし安保の問題ってのはね、これは意識的に、目的意識的に作られた事件なんだよ。海流の層に例えれば深い層にある流れが上層の各段階に運動を伝播させるという仕方じゃなくてね、底流そのものが人為的に一気に海面に出された波だった訳よ。

  ところが山中湖事件は海水の無数の分子の熱運動から生じる事件だよ、その点同列にね・・・・。

高松    いや同列にはしないんだよ。流れは違うとおもうけどね、だけど、又山中湖なら山中湖なりのね、別の次元のなんか凄い重要性があるかも知れないしね、むしろその辺が問題だと思うんだな。やっぱりね、いつでも同じみたいな気がしているんだ、いつも同じなんだよ、安保があろうが、山中湖があろうがなかろうがね、むしろその辺の方が俺なんかの状況としては問題なんじゃないかな。安保があってね、救われたり救われなかったりする人はおめでたいとおもうんだ。

赤瀬川    そうするともっと人間の根底にあるもの?

高松     うん。

赤瀬川   それでその電車の話だとすれば例えば、具体的に・・・(ママ)


 まず、中西の話をさえぎって、わりこんできたようにみえる赤瀬川の発言は、はじめて読むと、いささか思いこみの強い発言のようにきこえる。中西発言は、「風流夢譚」からでた嶋中事件に連動した「エキプメント・プラン」とはちがう行為、それ自体がブラウン運動をする無数の分子のひとつとなって、いわば事件の種子となるような行為のことを云っているのだが、赤瀬川はその片言隻句に反応しているようにきこえる。

 それが、中西の「ああ、事件がない方がねぇ」の気のない返事になり、それをとらえた赤瀬川の、「うん、あの頃安保とか、あったわけでしょう。そうするとあんまり理路整然となっちゃうんだな、それで系列からはずれたものはやつぱり隠されちまうと思うんだ」と、中西の「夢譚ー嶋中事件」を「安保」へ置換して、中西はけっして結びつけることをしなかった、政治の問題をひき出してくる。

 しかし、『風流夢譚』が「安保」時代の「デモ・ゲバ」風俗の産物であり、それにたいするリアクションが嶋中事件でもあったのだから、「安保」を事件とすれば、それでまた、それなりに中西との対話は形成されている。

 ところが、これにたいして、「山手線フェスティバル」の当事者のひとりだった高松は、中西発言ではなく、赤瀬川の発言にこだわりをみせる。しかも、赤瀬川の片言とみえなくもない、「隠される」にたいしてである。

 そして、赤瀬川はこれに正面からこたえる。正面からとは、中西発言にかこつけて、かれが日頃考えていたことのようにみえる。

 『風流夢譚』が「安保」時代の産物であり、それにたいするリアクションが嶋中事件であるという以外には、「安保ってのは生物学的にみればたまたま出てきたものでしょう。それ以外のものは常にある訳だからさ、そういうものが安保とかそういう象徴的な事件にあんまりはつきり出すぎちゃうんじゃなくて整理されすぎちゃうんだ。でむしろ今みたいななにもないなまくらなときの方がはっきり、皮をめくってみることが出来ると思うんだよ」を読むと、「エキプメント・プラン」を「安保」にし、中西発言をなぞっているだけにきこるかもしれない。ささいな点では、中西の「俺達が棲息している器の構造の無理して作られた部分から湧いてくる吹出物」が、「皮をめくってみることができる」生物学的なニキビか潰瘍に喩えを言い換えただけにもみえる。

 だが、ここまでの数年間のかれの行為を照合すると、この発言はそれだけではなさそうである。

 中西や高松が50~60年台の政治デモに参加した記録はないが、赤瀬川は、すでにかれの「朝日ジャーナル事件」でみたように、その後の活動をふくめて、政治的な社会問題に関心をもちつづけた芸術家だった(注.「③─2.『ハイレッド・センター』[『百万遍』7号掲載]。 かれは、この時点までにも、1957年の米軍基地拡大反対闘争だった砂川事件では、学生支援者として現場に泊まり込んでいる。また、1960年6月の安保反対国会デモには、自身はなんらかの都合でいなかったが、かれの芸術仲間、ネオダダイズム・オルガナイザーの吉村益信、篠原有司男、荒川修作らは集団で参加し国会突入をはかっている。その直後開かれた定例集会、「革命芸術家のホワイトハウス」と呼ばれた吉村のアトリエの集会光景は、挫折感をかかえた彼らの「狂乱のネオ・ダダ」の記録として書かれるようなものだった。そこには、ガブ飲みして感情をあらわにする赤瀬川が描かれている。

(注.ヨシダ・ヨシエ「狂乱のネオ・ダダ」[詳細は『百万遍』2号誌に掲載]


 そうしたかれが云う、高松への応えは、体験に裏づけられた発言だろう。かれ自身の政治的直接行動が、かれの芸術と結びつかなかった体験が背後にあるのかも知れない。かれが、独自の芸術らしいものを見つけるのは、1959年に心身も、物質的にも疲弊して名古屋に帰郷し、翌年、吉村の、ネオダダイズム・オルガナイザー結成の呼びかけに応えて再度上京、そこで活路を見いだした以降のことである。そうした実体験が、意識が「理路整然となっちゃうんだな」とか、「そういうものが安保とかそういう象徴的な事件にあんまりはつきり出すぎちゃうんじゃなくて整理されすぎちゃうんだ」と、確信的にかれに云わせるのだろう。また、「(安保)事件」では、「系列からはずれたものはやつぱり隠されちまうと思う」や「でむしろ今みたいななにもないなまくらなときの方がはっきり、皮をめくってみることが出来ると思うんだよ。政治上のものではなく政治下のものがな」と、中西発言へのかれなりの賛意を呈するのである。

 ただしこれは、そうしたものは芸術とは無関係だとか、政治は芸術と無関係といっているように聞こえるが、かれの場合はけっしてそうではない。

 高松の、「なにが隠されちゃうの?」の問いへの、答えは、「意識がさ・・・」ではじまっていた。ここでいう意識は、無意識にたいする意識ではなく、人間が生活するとき、なんとなく思っていること、感じているという生活思想ていどの意味だろう。概念的・論理的思想の立場ではなく生活思想の立場である。芸術の直接土壌である生活思想であって、シュルレアリスト的にいえば、「意識」に対する「無意識」にちかいものだろう。

 赤瀬川はそうしたシュルレアリスム的芸術論を、「暗黒を探知する自由」と題してのちに書いている。これは、この発言から5年後で、ハイレッド・センターが結成され、「千円札」事件がおこり、その裁判法廷でハイレッド・センターの最終イベントがおこなわれた一年後の、一審判決直後に書かれたものだ

(注.「暗黒を探知する自由━千円札裁判第一審の記」[『デザイン批評』4号)(1967)]、若干修正して、「言葉の暗がりの中で」と改題し、『オブジェを持った無産者』(1972)に収録されている.同論はいずれ扱うつもりである.)


 ここでは、芸術において重要なのは、光に照らされたものを察知する意識ではなく、暗黒を察知するいわば「無意識」であり、その無意識を発露するのがいかに困難であり危険であるかを語っている。言われているのは、芸術の自由は、光の世界にある通常社会法規を犯す危険があるというのだが、芸術は暗闇を探知する危険を冒すというのは、初期シュルレアリスムの睡眠実験や際限のない「自動筆記」の実験をおもわせるものがある。シュルレアリストはそこで狂気に直面したのだが、かれは「犯罪」に直面したのだった。

 だが、シュルレアリストでは、社会的抑圧によって隠されたもの、赤瀬川では、社会的暗闇にあって隠されたものに、芸術の源泉をみているのは、似たような芸術観によっていたのだろう。

 だから、座談会でかれが言外にいうのは、芸術は暗黒を探知することであり、「政治」は光の世界を整理するのであって、おなじ世界での役割分担がちがうということなのだろう。

 だが、この座談会では、高松がいちはやく、この隠されたものに、「隠されちゃうってのはなにが隠されちゃうの?」と反応しているのは、のちのハイレッド・センターの「シェルター計画」を解釈するうえで、留意しておかねばならない。ただ、高松は、ここでは、「隠された」に、感情的なこだわりをもちながら、赤瀬川の関心とはちがう、むしろ中西の方向から目をむけている。

 高松の云う、「なにか沈んでしまうのはマスコミの弊害だと思うけどね。安保があろうとなかろうがやっぱり、山中湖事件みたいなものがあったりなかったりしていると思うんだよ。同じようにね、本当は。処がマスコミがあるひとつのものを・・・・」については、すこし説明しておかねばならない。

 この座談会があったのは1962年11月だが、この年の9月、山梨県の山中湖畔のある「山荘」が全焼し、焼跡から、男女10人の焼死体が発見された。取調べの結果、遺体は山荘所有者の金融会社役員をはじめとする男女各5人で、その日の未明に、富士吉田市内のバーからこの山荘に泊まりに来ていた。亡くなったメンバーは複雑な事情があったため、当初は殺人放火とか心中などの憶測や噂があったが、警察の捜査で、不審人物や薬物使用の痕跡がないことから、一酸化炭素中毒による事故死となった事件である(注.事件については、コンピュータ情報「山中湖山荘不審死事件」による.)

 高松が、どの調査レベルの山中湖事件を問題にしたかはわからない。事件がおきたのが9月半ばで、座談会があったのが11月だから、事故死が確定した後の「事件」か、殺人放火事件、あるいは、心中事件の「事件」の可能性がまだあった頃のことか、よくわからない。

 しかし、中西へのことばに 「だけど、又山中湖なら山中湖なりのね、別の次元のなんか凄い重要性があるかも知れないしね、むしろその辺が問題だと思うんだな。やっぱりね、・・・・」と、語っているところからすると、たんなる事故でなく、なにかの意図による人為的な出来事(事件)と受けとっているのではなかろうか。

 なぜなら、これは、ハイレッド・センター発足後の翌年10月に、本稿でさきにものべた、『美術手帖』(1963年10月増刊号)掲載の「あなたへの通牒」で、ハイレッド・センターの宣言として、つぎのように語っているものがあるからである。

 「もしあなたが、不可解な出来事奇怪な事件に出会ったら、あなたにとってハイレッド・センターは無関係ではありません」と、まず宣言する。そして、「少なくとも、あなたの認知や計算を越えた因果関係について何も判断できないのなら、そのような事件が、当センターの隙間風的な事業の一環として播いたある種のタネ(原文は傍点)が、あなたの前で成長したのでないことも否定できないでしょう」と、中西よりむしろ、赤瀬川の、理路整然とされていない整理されすぎていない出来事に焦点をあわせ、ハイレッド・センターの行為目的があると説明している。

 そして、さらに、「最近、事物の種子として」共鳴しているものに、「『ニセ千円札』『草加次郎の爆発オブジェ』『ホーム突き落とし事件』などがあげられます」、とのべている。

 これらはどれも、反社会的行為である。「草加次郎の爆発オブジェ」は、1962年11月~1963年9月までにおこった、十数件の爆発、狙撃、脅迫事件である。その事件すべてになんらかのかたちで、草加次郎や草加などの犯行者の名前らしいものがサインされていた。この「通牒」が出される直前の1963年9月5日には、地下鉄銀座線の走行車両に爆発物がしかけられ、乗客10名が重軽傷をおっている。ハイレッド・センターのメンバーたちが、「山手線フェスティバル」との関連から、いっそうの親近感をもったのはありうることである。また、蛇足だが、これらすべての草加次郎事件は、1978年時効となっている。 

 あらに、ここで云われている「ニセ千圓札」は、「日本の偽札史上、最高の芸術品」とのちに喧伝された(Wikipedia)「チ─37号」ニセ千円札事件だろう。赤瀬川の千圓札は、1963年2月には制作され公開されていたが、1963年10月のこの時期では、警察の捜査対象にまだなっていなかった。だから、ここで共鳴されている「ニセ千圓札」は、赤瀬川の「模型千円札」ではない。ほんものの「チ━37号」の「ニセ千圓札」である。なお、この事件も1973年に時効となっている。これらは、さきの中西のモノクローム化するブラウン運動の主張と、かれらが共鳴している事件が、偶然とはいえ、いたるところで合致しているようにみえるのは、シュルレアリストの「客観的偶然」を想起させ、なんとなく興味深いものがある。

 しかし、それとは別に、ここで問題視されている「山中湖事件」は、反社会的とされる事件へ至る文脈もあるから、やはり、人為的にうけとられた「事件」だろう。

 高松のいうのは、山中湖事件も、当事者たちにとっては、やむにやまれぬ行為であり、「その辺の方が俺なんかの状況としては問題」になるというのだ。つまり、「安保」より、自分にとって身近にあるというのだろう。

 しかし、高松は、ここではそれを掘りさげることなく、「安保」がおおきく問題視されて、「山中湖事件」が「なにか沈んでしまう」のは、マスコミの所為だという。

 このこと自体の指摘は、半世紀いじょう経過したいまとなっては、どこかしら核心を衝くものである。’60年代「デモ・ゲバ」風俗の震源は、いうまでもなく、「日米障条約」の改定・延長に反対することだった(注.「安保条約」については本論序章[『百万遍』2号]でのべている.)

 この「安保反対」運動が、一軍事条約の改訂・延長をこえて、半世紀後の現在でも「安保」、「安保」といわれるような、「反体制」運動の代名詞になったのは、マスコミのはたした役割がおおきく、高松のいうように、「ひとつのものを引張り出して、わあっと広げちまうマスコミの弊害だったのだろう。「安保」が「安全保障条約改定・延長反対」運動としては、なんの実態性も有効性もなかったのは、当時の問題点がほとんど改善されず現在の沖縄問題になっていることからもよくわかる。

 しかし、ここでは、高松発言にもどれば、かれのいうマスコミの弊害は、かならずしもそうしたことを云っているのではないのかもしれない。かれのいうマスコミは、マス・コミュニケーション(大衆伝達)するマスコミで、政治問題、社会問題だけでなく、芸術問題を媒介するマスコミもふくまれていたのではなかろうか。あるいは、むしろ、ここでは、「安保があってね、救われたり救われなかったりする人はおめでたい」を導くために直観的に口に出されたのかもしれない。というのは、のちのハイレッド・センターの企画には、独自のコミュニケーションの配慮がつねに用意されていたからである。

 このあたりの議論のあいまいさから、高松発言にたいして、中西が、赤瀬川のもちいた用語「意識」にからめた反応をし、話題がすれ違い、拡散する方向にむきかける。

 そこで、ふたりの発言を聞くだけだった赤瀬川が介入をする。

 高松発言の、「別の次元のなんか凄い重要性があるかも知れないしね、むしろその辺が問題だと思うんだな。やっぱりね、いつでも同じみたいな気がしているんだ、いつも同じなんだよ、安保があろうが、山中湖があろうがなかろうがね、むしろその辺の方が俺なんかの状況としては問題なんじゃないかな。(安保があってね、救われたり救われなかったりする人はおめでたいとおもうんだ。)」にたいして、赤瀬川は、「そうするともっと人間の根底にあるもの?」とたずね、高松は、「うん」と応える。

 この「うん」は、ハイレッド・センターの、つねに最大公約数をもとめる議論のあり方を示すものである。この「うん」を云わせた赤瀬川は、「それなら、それで、電車の話だとすれば例えば具体的に・・・」と、イベントの意味をたずねる。そして、座談会はつぎのレベルへすすんでいく。

 だが、本稿では、そこへすすむまえに、一言だけここで、赤瀬川、高松、中西が語りあったことについて、戦後日本のアヴァンギャルド芸術、ことにアヴァンギャルド文学に関連することで、述べておかねばならないことがある。


 赤瀬川、高松、中西が語ったことについて、それなりの解釈をしてきたが、それだけでは、あまりにも閉鎖的にハイレッド・センターに限定し、’60年代アヴァンギャルドを語るうえでは、枝葉末節で、やや強引な理屈にきこえたかもしれない。

 しかし、赤瀬川の、「あの頃安保とか、あったわけでしょう。そうするとあんまり理路整然となっちゃうんだな、それで系列からはずれたものはやっぱり隠されちまうと思うんだ」にはじまる「安保」の(芸術)談義を、彼らの直接的発言意図をはなれることで、かならずしもハイレッド・センターだけに適用されないことがわかる。

 赤瀬川の、突然わりこんできた思いこみのつよい発言は、おそらくかれの体験から、思わず出てきたのかもしれない。具体的には、日本美術会主催の「日本アンデパンダン展」の作品からはじまるものである。同展は社会主義リアリズム系の戦後作品が大勢をしめていた(注.日本美術会と日本アンデパンダン展については、本論「2章4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2) ③ー1. 『読売アンデパンダン』展」(『百万遍』6号掲載)を参照)

 赤瀬川は画学生だったとき、かれの砂川闘争参加の体験を「作品」化し、無監査、自由出品だった同展への出品制作を考えたことがあったのではあるまいか。たとえば、フィギュール化したゲバ棒とヘルメットである。かれの「読売アンデパンダン展」の回想記(『反芸術アンパン』)にはそれをおもわせる記述がある。

 かれの発言は、このあったかなかった分からぬ創作体験や、「読売アンデパンダン」展に出品するまで、毎年熱心に観に行っていたにちがいない、「日本アンデパンダン展」の展示作品などから得た確信にもとずく発言だったかもしれない。

 もしそうとすれば、ここでかれが言いだし、かれらが語ったものは、20世紀アヴァンギャルドの歴史において、ブルトンたちが非難した、世界の革新的芸術界をひととき風靡した社会主義リアリズムだけでなく、とうじのテーマにもかかわってくる。

 それは、ここでいわれる「安保」を、戦後文学の聖域テーマだった「レジスタンス」文学に置換してみることである。’60年代文芸知識人のレベルを判定するには、「レジスタンス」文学への対応が格好の基準になるから、関連させて述べておくことにする。

 赤瀬川のさきの発言を、「うん、あの頃レジスタンスとか、あったわけでしょう。そうするとあんまり理路整然となっちゃうんだな、それで系列からはずれたものはやつぱり隠されちまうと思うんだ。たとえばレジスタンスのときなにかしてそれがどうにかなったにしてもさ、レジスタンスってのはたまたま出てきたものでしょう。それ以外のものは常にある訳だからさ、そういうものがレジスタンスとかそういう象徴的な事件にあんまりはつきり出すぎちゃうんじゃなくて整理されすぎちゃうんだ。でむしろ今みたいななにもないなまくらなときの方がはっきり、皮をめくってみることが出来ると思うんだよ。政治上のものじゃなくて政治下のものがな」というような読み替えである。

(注.「座談会」が川仁宅でおこなわれた1962年11月は、1960年の国会デモで頂点に逹した「安保」問題が終結し、’60年代「デモ・ゲバ」風俗期では、つぎの「学園紛争」問題にうつる空白期であった.)


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