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60年代日本の芸術アヴァンギャルド(7)         「’60年代日本のアヴァンギャルドと、’30年代フランスのシュルレアリスム」



2.  戦後日本のレジスタンス文学



 戦後の日本では、日本に明確なレジスタンス運動は、戦前も戦後もなかったから、自前のレジスタンス文学はでてこなかった。戦前検閲で一部を削除された、批判的従軍小説、石川達三の『麦と兵隊』や、戦後になって軍隊体験を描いた野間宏の『真空地帯』、戦前体制と戦後の落差を描く大仏次郎の『帰郷』などが、抵抗(レジスタンス)らしきものを書いた小説としてベストセラーになり、なんとなく批評免罪のアンタッチャブルな作品になっていた。

 戦後のレジスタンスなら、占領軍にたいする戦前右翼や旧特攻隊員の組織的抵抗運動があってもおかしくはなかったが、そんなことはおこらなかった。また、GHQによって検閲、削除された文学作品が、ひそかに注目された記録もない。戦後日本にはレジスタンスらしいレジスタンスはなかった。

 そして、アヴァンギャルド芸術(文学)では、戦前日本の抵抗芸術は、さきの社会主義リアリズムに重なるところがあったせいか、あまり問題にされなかった。文学においては、むしろ、翻訳のレジスタンス文学が、アヴァンギャルド文学として持てはやされたようにおもう。ことに、シュルレアリストだったアラゴンやエリュアールの作品である。

 アラゴンの小説『レ・コミュニスト』(「現実世界」シリーズ)の翻訳が出版されたのは1957年であり、エリュアールの自選詩集『万人のための詩』が安東次男の翻訳で青木書店から刊行されたのが1954年である。青木書店は終戦の年、1945年にいちはやく設立された、戦前禁断の「マルクス・エンゲルス著作集」など、マルクス主義関連のものをもっぱら刊行する人文科学系の出版社だった。

 また、1959年には、『世界名詩集大成』(平凡社刊)の「フランスⅣ」が刊行され、ダダ・シュルレアリスムの詩を中心に編成された同書には、ブルトン、アルトー、デスノス、ツァラの詩とならび、さきの安東訳によるエリュアールやアラゴンの詩作品がおおきくあつかわれていた。そこには、橋本一明訳によるアラゴンの詩集『エルザの瞳』(1942年刊)の全編翻訳が収録されていた。

 詩集『エルザの瞳』の冒頭にある「エルザの瞳」と、エリュアールの『詩と真実』の冒頭詩である「自由」は、輝かしいレジスタンス詩としてフランスでも評判高いものだった。これらは、新しい(アヴァンギャルド)文学の聖域にあり、批評無用の前衛価値があるとされた。とうじ、高校生活から大学生活をおくっていた筆者なども、『万人のための詩』をアリガタク読み、シャンソンにもなっていた「エルザの瞳」の原文の冒頭数行を暗記していたものである。

 「エルザの瞳」というのはつぎのようなものだった。


1)

君の瞳は  こんなにも奥深く  飲もうとて  身をかたむけて

ぼくはみた  太陽という太陽ことごとく  ここに来て姿をうつし

のぞみをうしなった者ことごとく  死のうとて身を投げるのを

君の瞳は  こんなにも奥深く  その深さゆえ  ぼくの記憶の糸もとだえる


2)

鳥たちのはばたくかげで  それはかきみだされた大洋だ

ついで  一天にわかにほがらかに晴れ  君の瞳はかわる

夏が  天使のエプロンのかたちに  雲をきり出す  青い空

小麦畑の上ほどに  その青の深まることはない


3)

風がふき  青空の苦悩のかげを追おうとて  それもむなしい

一つぶの涙のかがやくときに  空にもましてすみきった  君の瞳は

雨晴れたのちの空にさえ  悩ましい気持ちを誘う

われ口にさえる青ほどに  ガラス器の青のふかまることはない


4)

七つの苦しみの母  おお  ぬれた光よ

七つの剣が 七彩にこのプリズムをつらぬいた

太陽は  涙のうちにあらわれて  いやさらに心をえぐり

黒々とうがたれた虹  喪にふして  さらに青い


5)

君の瞳が  不幸の中にひらく  ふたえのさけ目

その深みから  よみがえる  三人の博士の奇蹟

まぐさ桶にかけられた  マリアのマントを

うちそろい  胸ときめかし  見まもった  博士の奇蹟


6)

くさぐさの言葉の五月の月に  いかなる歌を

いかなる嘆きをうたうにも  一つの口で充分だった

数百万の星のためには  一つ空は  あまりにもわずかであった

君の瞳が  君の瞳にひめられた青いふたごが必要だった


7)

美しい絵にとらわれた子の  みひらく瞳も

君の瞳のつぶらさに  はるかにおとる

あざむいているのかどうか  おお  君が  つぶらな瞳をみはるとき

ひとは言うだろう  驟雨来て  野の花々をひらかせるようだ  と


8)

君の眼は  このラヴェンダに  稲妻をかくしているのか

昆虫たちが  荒々しい彼らの愛をかきくずす このラヴェンダの花のなか

ぼくは  おお  流れとぶ流星の網にとらわれている

八月のさなか  海に死ぬ  水夫のように


9)

ぼくはウラン鉱から  このラジウムをひき出した

ぼくは  この禁断の火に  指をこがした

おお  百たび見出され  百たび見失われた  楽園よ

君の瞳こそ  ぼくのペルー  ぼくのゴルゴンド  インドの島々


10)

ある宵のこと  世界は  暗礁にのり上げて  くだけて散った

難破者どもは  暗礁にほのおをはなった

だが  ぼくは見ていた  海にうえはるかに高く  かがやく星を

エルザの  エルザの  エルザの瞳を 


(橋本一明訳[『世界名詩集大成「フランスⅣ」』)(括弧つきの数字は、説明の便宜上、筆者がつけたものである.)


 一読すると、エルザへの愛の歌のようにきこえる。日本語に翻訳された愛慕の詩としては、それほど特別なものとは読めない。愛の詩としては、ジャック・プレベールの「枯れ葉」もあった。ましてやこれが、ナチスドイツ占領下にあるフランスのレジスタンスの詩であるとは、素直には承服しがたい。

 しかも、いく度(たび)か1聯から10聯を読みくだしてみると、通常のアヴァンギャルド詩なら、耳障りになる詞(ことば)にきづく。

 第5聯のマリアのマント、だ。つづく三人の博士の奇蹟、しかも、胸ときめかして、見まもる博士の奇蹟である。おやっ? とならざるをえない。こうまで書かれていると、キリスト教の祝祭日、「公現節(エピファニー)」を想起する。

 「公現節」とは、キリスト誕生(クリスマス・イヴ)の日から12日めに、神の子の出現を祝う東方の三博士が、新生児キリストとマリアのいる馬小屋へ来訪した記念の祝日である。この題材は西洋絵画伝統のテーマであり、いろいろな有名画家の名画がのこされている。西欧人ならだれしもが知悉している情景だ。20世紀のアヴァンギャルディストが、キリスト教神話をこのように援用するのは、なんとしても違和感がある。それも、かつてあれほどまでに過激に、たえずキリスト教を揶揄したシュルレアリストのひとり、アラゴンの詩である。

 とはいえ、そのように読むと、この「エルザの瞳」では、エルザはやはり聖母マリアなのだ。橋本の訳注に目をやると、マリアに仮託されたエルザは、ここだけではない。第4聯の「七つの苦しみ」も「七つの剣」も、シメオンの予言詩にある、マリアに課された七大苦難のこととある。

 さらにまた、わかるようでわからない冒頭第1聯のなかの、「のぞみをうしなった者ことごく 死のうとて身を投げるのを」にも、「自殺の意味ではない。希望の光の深さゆえに身を投じ、死ぬほどまでその青さにおぼれるの意か。ヨハネ伝第5章、ペデスタの池の情景を参照」と、橋本は注記している。あえて直訳すれば、「君の瞳は、こんなにも奥深いので、飲もうとして身をかがめると、ぼくにはこんなものが見えた。すべての太陽がここに来て自分のすがたを写しているのを、また、望みを失ったすべての者たちが、ここに死のうとて身を投じるのがみえた」というところに、付された注釈だ。橋本一明は、その頃の新進ランボー研究者で現代フランス文学の専門家だった。かれの「自殺の意味ではない」の断定には、なんらかのフランス版文献の根拠があるのだろう。

 ここでいわれるヨハネ伝第5章の冒頭にあるペデスタの池の情景とは、このようなものだ。


・・・ぺデスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが大ぜいからだを横たえていた。彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされるからである。さて、ここに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間患っていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。その病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを水に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りていくのです」。イエスはかれに言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされて、床をとりあげて歩いて行った。(『聖書』(日本聖書協会)[1965年])  


 記されているところにもよくわからぬところがある。「長い間患っていた」人が、イエスのことばによって、起きあがってペデスタの池にはいって癒されたのか、そうではなく、池にはいらなくても癒されたかである。おそらく、後者なのだろう。それなら、池の水を動かす「主の御使い」と「神(主)の子」イエスとの関係はどうなるのだろう。微妙な対立関係にあるのだろうか。

 だが、橋本の訳注がいう「ペデスタの池の情景」は、それではあるまい。おそらく、注記がふれていない、ヨハネ伝5章の後半の、これに絡めていわれるイエスのことば、「よくよくあなた方に言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされた方を信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の声を聞く時がくる。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」が該当するのだろう。

 だが、君の瞳を見ていると、いかなる絶望の淵にある者もなにかを信じる気持ちになって救済されるのだと訳注から忖度するにしても、死のうと身を投げるのを見たの文言とのあいだには、わずかながら隙間風が吹いているようにおもう。

 それに、信じる者は救われるであったとしても、この節をおえる、君の瞳の深さゆえ、ぼくは記憶を喪失するは、その関連では理解しがたい。なんの記憶なのだろう。絶望の記憶なのだろうか。しかし、うえの絶望者は複数形である。失われた記憶への気がかりは、解消するわけではない。

 そうしたかずかずの懸念があるが、この冒頭の「君の瞳」は、キリスト教モラルを活性剤にしているのはたしかだ。そうだとすると、最終節もまた、ここにはなんの注記もないが、にわかに彩度をます。

 「ある宵のこと  世界は  暗礁にのり上げて  くだけて散った / 難破者どもは  暗礁にほのおをはなった」は、それだけでもひとつのイメージはうかぶ。難破者(les naufrageurs)は、「(偽信号をもちいて船を難破させ積荷を奪う)難船の略奪者」(『クラウン仏和辞典』)だから、ファシストたちによって、「世界」が破綻させられたことである。そうした(不幸の)とき、ぼくは、海上たかくエルザの瞳が輝いているのを見たのであり、とりあえずの愛の歌としては成立するだろう。しかし、とうじのフランスの読者は、けっしてそこに留まってはいないだろう。

 聖母マリアは、地中海沿岸地方をふくむガリア民族を、3、4世紀ごろキリスト教に併合したとき、かれらの大母神を同化して創造されたといわれる

(注.古代ローマ人は他民族を政治的、経済的に統合しても、社会風俗・習慣や宗教には干渉しなかった.)


 地中海沿岸の船乗りたちにとって、大母神は、夜の大海を航海する指針となる星座、ことに定点の北極星に擬せられていた。そこで聖母マリアは、船乗りならずすべての人の導き手となり、幼児キリストを育てたように、万人を養育する初、中等教育のシンボルとなった。だから、いまの日本でも、キリスト教系の学校名、とくに女子教育の学校名には、ノートルダム女子大学、聖母女学院があり、幼児教育にはマリア園などが伝統的名称になっている。一般中等教育でも、海星とか洛星のように星のつく中学、高校がすくなからずある。これはイエズス会がキリスト教世界で学校教育を担当し、ザビエルがそうだったように、世界布教を担当した名残だろう。また、われわれがよく知っている学校制服の濃紺は、ルネッサンス絵画にあらわれた聖母マリアの衣の色なのはいうまでもない

(注.もっとも日本の場合、服装については、宗教と無関係で、むしろ明治期のヨーロッパ視察団がもちかえった学校制服情報に基づくとすべきだろう.)


 だから、第10聯の難破船の喩えは、まさにこのマリア神話に合致するものである。とすると、君の瞳からはじまる「エルザの瞳」はマリアづくしの愛の詩なのか。否(いな)、このように読むと、たんなる愛慕はいささか色褪せる。三たび繰りかえされる文末の「エルザの、エルザの、エルザの瞳」も、妻エルザ・トリオレへのたんなる愛の絶唱とはきこえなくなる。

 だが、だからといって、はたしてこれがレジスタンス詩かというと、やはり納得できない。『世界名詩集大成』の詩集「エルザの瞳」を担当した橋本一明は、解説のなかでそのあたりのことを言いたかったのかもしれない。

 橋本は、「エルザが語ること」を出典根拠に、アラゴンは、詠う内容が弾圧者にわかっては困るから、難解を望んだとし、「一種の判じものになった。そして詩の技術が高度であればあるほど、それは弾圧者の眼に無目的的な芸術作品に映じたことだろう。『エルザの瞳』の技巧は精妙の限りをつくしている」と、書いている。精妙な技巧の末、あらわれたのが、第1聯などのあいまいさであり、また、聖母マリアは、検閲の目をくらますベールなのだろうか。

 しかし、だとしても、この詩はいったいなにを言いたかったのか? わからないのは、アラゴンの精妙のかぎりをつくした技巧が、わたしに理解できないからなのだろうか。

 そうでもなさそうだ。橋本もまた、「そうして生まれたものが芸術作品としてすぐれたものであれば実に完全だが、元来巧みに話すことと詩とは別個のものである」と、さきにつづけて記しているからである。

 しかし、橋本もそれによって、なにが書かれているかを述べているのではなく、ただ詩の作品価値を語っているだけだ。それがレジスタンス詩の評価なのかはわからない。かれが、はたしてこれをレジスタンス詩と位置づけていたのかもあいまいだ。

 だが、この『名詩集大成─フランスⅣ』のアラゴン詩篇のほとんどを翻訳した小島輝正は、作家アラゴンの解説も担当している。小島はそのなかで、『断腸』詩集とこの『エルザの瞳』詩集を、フランス占領期間中の抵抗詩のなかで、すぐれた代表的詩集としている。詩集『エルザの瞳』の巻頭におかれたこの「エルザの瞳」も、とうぜんすぐれた抵抗(レジスタンス)詩になるのだろう。

 小島輝正は戦後日本を代表する現代フランス文学者の翻訳家、評論家のひとりであり、アラゴンの専門家であり、シュルレアリスムやサルトルの実存主義の紹介者だった。かれには著書『アラゴン・シュルレアリスト』(1974年)がある。そのかれがすぐれた抵抗詩としているのだ。

 しかし、この詩篇はいかに読んでも圧政者への抵抗詩、ナチスドイツへのレジスタンス詩にはとうてい読めない。せいぜいのところ信仰告白としか読めない。その信仰対象は、けっしてひとりの女性ではない。宗教的マリア信仰のような思想への信仰告白と、信仰礼賛である。信仰告白に託したプロパガンダ詩のようにも読める。おそらく、そうしたことが、これを精読し翻訳した橋本にはみえたのかもしれない。かれはさきの『エルザの瞳』の解説の「巧みに話すことと詩とは別個のもの」につづいて、「エルザの瞳」が、「自分のためだけに作られた『断腸』と、情念を歌い上げることがそのまま語りかけになった『フランスのディヤーヌ(起床ラッパ)』との、二つの峯の鞍部に位置している」と、小島とはちがう、微妙な価値評価をしている。

 にもかかわらず、かれがそれいじょうはっきり言わなかったのは、’60年代初期の日本のアヴァンギャルドの常識に反したからかもしれない。そうした一般論に反論するには、論証しなければならなかったのだろう。それにたいして、小島の「すぐれた抵抗詩」は、アヴァンギャルド界も読者も出版社も認める、論証の必要ない評価だったのだろう。

 なんといっても、アラゴンのこの詩は、戦後のフランスでレジスタンス詩としてシャンソンにもなり、日本でも聞かれたものである。そして、アラゴンは、ブルトン、フィリップ・スーポーとならんだ、創設期のシュルレアリスムの三銃士にひとりであり、ことに、’20年代の初期シュルレアリスムでは、つねにブルトン、エリュアールと行動をともにしたシュルレアリストだった。

 とうじの日本では、ダダやシュルレアリスムは、反抗のアヴァンギャルドという戦前からの評価範疇にひと括りになったままだった。アラゴンにしても’20年代シュルレアリスムで活躍したアラゴンと、通称ハリコフの作家会議に出席し帰国後、シュルレアリスムと離別し、フランス共産党の忠実な作家でありつづけた、アラゴンを区別していない。

 アラゴンは、マヤコフスキーの愛人だった姉を訪れるエルザ・トリオレに同行してモスクワへ行ったのを機会に、「ハリコフの作家会議」に出席した。(注.とうじのハリコフはソ連邦内ウクライナ共和国の中心都市である.)

 コミンテルンと関係をもつこの作家会議への出席それ自体は、とうじのブルトンらのシュルレアリスムに照らすと、異存のおこらない行為だったろう。しかし、帰国後のかれの言動、ことにそのとき発表した、革命詩「赤色戦線」が、問題になるものだった。

 「赤色戦線」は、この問題とは別に、社会的物議をかもし、名誉毀損の訴訟事件になりかけた。この成りゆきに対しては、ブルトンらシュルレアリストはアラゴン擁護のキャンペーンを展開した。ということは、ブルトンらはまだこの時点では、アラゴンと断絶していたわけではなかった。ただ、アラゴンの書いた詩そのものが、とくにこの時期では、容認できなかったのだ。  

 シュルレアリスムは、芸術革命と政治革命を一体化する革命の立場にあったのだが、一体化とはいえ、制作行為であれ現実の行動では、おのずから芸術の側から一体化するのか、政治からするかは、選択しなければならない。シュルレアリスムの立場は、芸術の側からであるのはいうまでもない。

 ことに1931年のシュルレアリスムは、『シュルレアリスム革命』誌から『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌へ機関誌を変更したときだったから、この立場維持は重要な課題だった。ブルトンらにとっては特にそうだった。

 ところが帰国したかれが発表した「赤色戦線」は大がかりな長編詩であったにもかかわらず、政治に軸足をおいた作品だった。しかも。本来のシュルレアリスムを誤解させるような、あるいは、歪めるような作品だった。

 ブルトンは、詩の革命の見地から、詩論「詩の貧困」を発表して、「赤色戦線」を批判した。

 アラゴンは、かれもまた当初からのシュルレアリストであり、ブルトンと共同でシュルレアリスムを構築してきたのだから、なんらかの反論があってしかるべきである。そして、その対話のなかからシュルレアリスムの発展をおこなうべきだった。ところが、かれは、いっさいそのような反論をこころみなかった。むしろ、エリュアールなどが、この論戦に参加し、シュルレアリスムの方向づけにくわわった。

 アラゴンは、反論せぬばかりか、これ以降、シュルレアリスムを標榜したり、彼らと行動をともにすることはなかった。おそらくかれにとって、’20年代アヴァンギャルドが終わり、アラゴンのアヴァンギャルドがはじまったのだろう。なぜなら、のちに引用する「赤色戦線」の冒頭二節は、アラゴンが第二次大戦後に書いた小説『レ・コミュニスト』におどくほど似ている。そして、その線上にあるのがレジスタンス詩といわれる「エルザの瞳」だった。

 わたしがここで、このようなことを言うのは、このときアラゴンがかれの立場から反論していたら、10年さきがけて、のちに社会主義リアリズムといわれたものへのシュルレアリスム的手がかりが得られたかもしれないとおもうからである。それは、ブルトンとの議論から出てくるもので、スターリン政権下で社会主義リアリズムとはまったく異なる社会主義シュルレアリスムである。そして、この展望は、のちのブルトンとトロツキーの遅すぎた接触だけでなく、本稿でものちに述べる、この頃すでに行われていた、ヴィクトール・セルジュやボリス・スウヴァリィヌとのかかわりや、またアナトール・ルナチャルスキーらのシュルレアリスムへの関心を思い合わせると、たんなる夢想とはおもえず、ひと言だけ付言しておく。


 こうしたことすべてを照らし合わせると、この「エルザの瞳」の’60年代日本の評価、ことに批評をおこなう’50年代日本の文学評論家や研究者は、アヴァンギャルド(前衛)文学や芸術を、’20年代前半のフランス知識人のレベルでとらえていたようにみえる。文学・芸術は政治と無関係としたり、革命的アヴァンギャルドと共産党を未分化でとらえていたのだ。

 芸術家、文学者の一部が、アヴァンギャルドと共産党は異なるものであり、共産党をアヴァンギャルドに対立するものに位置づけはじめたのは、さきに谷川雁でもみたように、1960年6月の国会デモを頂点とする安保闘争あたりからである。それまでに、日本共産党には「六全協」の大転換はあったが、方針転換の混乱は党内運営と政治部門にとどまり、文化面にはおよんでいなかった。

 それが露呈するのが、「安保反対」運動にたいする共産党の対応だった。すでに本論でいくども述べているように、それを目のあたりにした現代芸術評論家の針生一郎など多数の知識人が離党し、共産党を批判するようになった。

 しかし、彼らとて、党員やシンパ(同伴者)だったのだから、やはり共産党内部の現象にとどまっていたのかもしれない。一般の知識人、たとえば本稿に登場する安東次男や小島輝正らは、なおなんとなくアヴァンギャルドと共産党は不可分なものとして、その弁別が重要な意味をもつことを意識していなかったようにおもう。

 それは、シュルレアリスムのとらえ方にしてもどうようだった。かれらは、知ってか知らずか、現実のシュルレアリストと共産党との関係を直視していなかった。「赤色戦線」とブルトンの「詩の貧困」を問題にしたシュルレアリスム論もエッセーもなかった。そればかりか、「詩の貧困」の翻訳も、「赤色戦線」の翻訳も、’60年代末になるまでなかった。シュルレアリスムは、ア・プリオリに現実政治を拒絶する芸術として、そこにシュルレアリスムの意義があると一足飛びに思いこんでいたようにおもう。

 『世界名詩集大成─フランスⅣ』(1959年刊)の代表翻訳者となり、おそらく詩の選別にもかかわった安東次男は、巻末の総合解説を担当し、「ダダ、シュルレアリスムの流れの中で」を執筆している。掲載されている全詩は、ダダ、シュルレアリスムの範疇に整理されているのだ。解説では、ダダとシュルレアリスムの代表的散文作品や思想について仔細に語られているが、ブルトンについては、シュルレアリスムと社会主義や共産党との関係をまとめた、彼の『シュルレアリスムの政治的位置』の書名さえあげられていない。アラゴン詩でも、訴訟事件をおこした「赤色戦線」は選択からはずれているが、『エルザの瞳』はレジスタンス詩として掲げられている。安東の論旨からいうと、シュルレアリスムのレジスタンス詩になるのだろう。

 アラゴンの専門家である小島輝正が『アラゴン・シュルレアリスト』なる著書を、’70年代になってもなお出版していることからもそれはよくわかる。アラゴンは、さきにもふれたように、1930年頃までは代表的シュルレアリストだったが、その後、1982年に死ぬまでの50年間、ブルトンらが批判したフランス共産党寵児の文学作家アラゴンだし、また、党の中央委員にも就任している。小島が書くべきは、まず『アラゴン・コミュニスト』であり、「アラゴン・シュルレアリスト」はその一章にするか、現代の日本で通用している、シュルレアリスムの画家をダリとする説と併記して、論証すべきだったろう。

 しかし、このアラゴンによる「エルザの瞳」が、フランス占領期間中のすぐれた抵抗(レジスタンス)詩とされているこの理由は、日本の理解であって、フランスでは、アラゴンがシュルレアリストだったからではなく、かれが共産党の詩人だったことにあったからなのはまちがいない。

 これを説明するには、その発祥時から、戦前、戦中、戦後とうじのまでのフランス共産党と、シュルレリストとの関係をのべておかねばならない。


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