Anant 2-5-3


60年代日本の芸術アヴァンギャルド(7)         「’60年代日本のアヴァンギャルドと、’30年代フランスのシュルレアリスム」


3.  シュルレアリスムにおける政治と芸術



 それを述べておくのは、’60年代日本のシュルレアリスム理解だけでなく、現在の日本に定着している、シュルレアリスム像をすこしでも修正しなければならないからである

(注.表面的には、フランスのシュルレアリスム理解、たとえばシュルレアリスムのアカデミック研究家のアンリ・ベアールの評伝『アンドレ・ブルトン』や、’60年代アヴァンギャルド芸術家たちの評価、本論でもすでにのべた、ヌウヴォーレアリストたちやフィギュラシヨン・ナラティヴのエローたち、あるいは、アンテルナショナル・シチュアシオニストたちのシュルレアリスム評価は、肯定と否定の判定は逆さまだが、日本のシュルレアリスム理解、政治を批判する芸術集団の評価とさほど相違しないようにみえる。

 しかし、フランスのかれらの見方はすべて、シュルレアリストたち、ことにブルトンがとっていた、シュルレアリスムと社会主義と共産党の関係把握を承知したうえでの判断である。ベアールの『アンドレ・ブルトン』も、ベアールは、ブルトンをフランスの詩人アンドレ・ブルトンと、フランス文学史のなかで位置付けているのであって、政治的芸術思想をもつアヴァンギャルド芸術家として評価するものではない。しかし、そうであっても、かれの『アンドレ・ブルトン』では、そうしたことすべてが織り込みずみのうえであるのは、強調されない書き方だが、包括しているのがわかる記述である。それが察知できないのは、出来事の基礎知識がないと気づかない書き方だからだろうか.)


 シュルレアリスムが、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』や、シュルレアリスム研究所の設置、機関紙『シュルレアリスム革命』誌発刊によってグループ宣言をしたのが1924年であり、フランス共産党が、社会主義インターナショナルのフランス支部として結成されたのが1920年だった。芸術グループと政治政党という異質なものの創設だが、第一次世界大戦とロシア革命による社会主義国家樹立という時代状況のなかの形態化という同時性の関係がある。

 発足とうじの両者はいずれも組織形態にあいまいな部分をかかえていた。ことにシュルレアリスムは、『シュルレアリスム宣言』では、シュルレアリスムの芸術技法(アート)を示し、芸術グループであることを宣言していたが、たんなる芸術グループでないことはあきらかにしていた。

 『シュルレアリスム革命』誌創刊号の扉表紙には、「新しい人権宣言に到達せねばならない」と書かれ、表紙裏面には「われわれはひとつのシュルレアリスム革命の前夜にある.諸君はこれに参加できる」と書かれていた。そして、裏面には、「シュルレアリスムはひとつの主義の開陳として出現したものではない。現在、シュルレアリスムの支点として役立っている諸概念も、シュルレアリスムののちの発展をいかなる面においても予測させるものではない(・・・・・)」とある。さらに、第一頁の序文は、「認識の訴訟がもはやするに値せず、知性はもはやもののかずにはいらぬものだから、夢だけが、自由を求める人間のすべての権利として、人間にとどまっている」と書きはじめられ、「・・・革命・・・革命・・・レアリスム、それは樹木を剪定すること、シュルレアリスム、それは生を刈りこむことだ.  J.・A.ボワファール、P.エリュアール、R.ヴィトラック」と結論されていた。

 このように説明されたシュルレアリスム革命だが、ここに記されている革命は、1789年のフランス革命ではなく、ロシアの革命からの着想をおもわせるものがある。ブルトンの『シュルレアリスム宣言』にしても、ツアラの『ダダ宣言1918』だけでなく、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』を連想させていた。『革命』誌の表紙デザインは、文芸誌というより、政治思想誌、科学雑誌の体裁をとっていた。

 だが、これらはかれらの芸術営為を、ロシア革命になぞらえただけで、なんら具体的関連をしめすものではない。

 しかし、かれらは、自分たちの立場をたがいにさらに確認する必要があるとおもったのか、創刊誌刊行一ヶ月後の1925年1月23日、ブルトンの提案で集会をひらき、確認の合意文書をまとめた。出席者は少数を欠くとはいえ、ブルトン、アラゴン、エリュアール、アルトー、ペレをはじめとする、総数19名の発足時の主要メンバーたちである。そこで承認された合意事項は『シュルレアリスム革命』誌No.2に掲載されている。ブルトン執筆の合意書は、つぎのようにはじまるものだった。


 今や、われわれが文学的に表明しているシュルレアリスムの命題を、明証することが問題ではない。シュルレアリスムは、存在するためには、われわれがまず予測もしていない特殊な展開を前提としており、それによって生じるいかなる帰結も、まず身に引き受ける覚悟ができていなければならぬことを想起しておこう。 ─ それは、倫理的帰結、これまでの我々の行動とはきわだって異なる行動、つまり、政治的社会的宗教的非宗教的、その他どのような行動にでも、場合によっては参加することである。(下線は筆者)

 

 ここでいわれる「文学的に表明しているシュルレアリスムの命題」は、『シュルレアリスム宣言』で強調されたオートマティスム(自動筆記)に集約される芸術論である。彼らが問題にしているのはその芸術的帰結ではなく、「これまでの我々(彼ら)の行動とはきわだって異なる」倫理的帰結をもたらす「行動」だという。そして、暗示されている具体的行動の先頭に、「政治的」がおかれているのに注目しなければならない。言われていること自体は、’60年代日本でも流行した、サルトルが戦後主張したアンガジュマン思想の先駆的表現のようにも見えるが、けっしてそれにとどまるものではなかった。眼前の問題に対応した現実的行動をしめすものだった。

 というのは、『シュルレアリスム革命』誌創刊に先立ち、シュルレアリスム研究所設立とブルトンの『シュルレアリスム宣言』刊行とほぼ同時期の1924年10月、ブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポーらは「ひとつの死骸」と名づけたパンフレットを配布していた。これは、国民的作家、アナトール・フランスの国葬にあわせて刊行された罵詈讒謗の小冊子である。フランス政府はむろん、各国大使館、国内外の新聞、雑誌、著名文学者、芸術家、さらに、左翼陣営でも、ソヴィエト共産党の機関紙『プラウダ』、フランス共産党の『ユマニテ』紙らことごとくが称賛と哀悼を示すなかで配布されたのである。各人が署名する項目タイトルは、ブルトンの「埋葬拒否」をはじめ、アラゴンの「君たちはもう死者の頬を張り飛ばしたか」、エリュアールの「どこにでもいる老人」などであり、内容はつぎのようなものだった。「アナトール・フランスと共にいくばくかの人間の卑屈さが消えていくのだ。悪知恵、伝統主義、愛国心、日和見主義、懐疑主義、レアリスム、心情の欠如が葬り去られ日を、おおいに祝おう! 当代のもっと卑劣な偽善者どもがアナトール・フランスを代父と仰いできたことを思い出し、彼がそのにこやかな無気力を『大革命』の旗によって飾りたてたことを、だんじて容赦すまい」(ブルトン)であり、また、「わたしは、アナトール・フランスのどんな賛美者も堕落した者とみなす。獏のモーラス、耄碌婆(もうろくばばあ)のモスクワ、それに信じがたい欺瞞から、ポール・パンルヴェ自らが、おなじような敬意をあらわすこの文学者が、まったく卑劣な本能から小遣い稼ぎをするために、サドの作品にこのうえなく恥知らずな序文を書いたのが気にいっている・・・・」(アラゴン)というものだった。(下線は筆者)

 この小冊子があたえた社会的衝撃は小さくなかった。悪評ふんぷんたる反響のなかで、共産党系と目されていた『クラルテ』誌だけが、彼らの主張に賛同した。

 『クラルテ』自身もはやくからアナトール・フランスへのコミュニスト評価を批判していたから、フランス逝去でも、フランス非難論文を掲載した特集号を発行(11月)し、フランスを痛烈に批判した。

 そして、この特集号の巻末「覚書」で、編集者のひとりジャン・ベルニェは、「ひとつの死骸」の声明を論評した。論調は好意にあふれたものであり、「何千人のフランス人のなかで、これら6名の若きフランスの作家だけが、フランス罵倒を恐れなかった」と称賛し、ブルトン、エリュアールの誹謗文を引用している。だが、アラゴンについては、「しかし、以上のことを述べたうえで、アラゴンが『ひとつの死骸』で、『・・・・耄碌婆のモスクワ・・・・』と記すことによって示した、醜悪というより全く滑稽な軽はずみを黙認するわけにはいかない」といい、「自分の知らないことを、知ってもらいたいと頼みもしないことへの口出しを慎んでほしい」と、揶揄的に論難した。

 これにたいしてアラゴンは、『クラルテ』誌投稿論文で反論し、「クラルテ」側も再再反論し、「クラルテ」とシュルレアリストのあいだの論争がおこった。

 『クラルテ』誌というは、アンリ・バルビュスが主催する、反戦・平和の「クラルテ運動」の機関誌として発足した雑誌だった。バルビュスは、その後、1923年に、フランス共産党に入党し、党の機関紙『ユマニテ』文芸欄の編集長をつとめる、ジャーナリストであり小説家である。とうじかれは、代表的共産党系知識人だった。『クラルテ』誌も、そのころは「プロレタリア文化誌」の副題をもつ雑誌となっていた。

 こうした「クラルテ」と、アラゴンの論争は深まっていく。

 アラゴンの反論は、元来かれの声明の主張が、不倶戴天の敵同士でなければならないはずの、文化的国粋主義者、シャルル・モーラスも、国際主義左翼の「モスクワ」も、「フランス政府」も、文化的悪の元凶アナトール・フランスを共に賛美しているのは、彼らが皆おなじ「堕落した」存在だからという、アラゴンとしてはあながち「共産党」だけに目標を定めたものではなかった。だから、不意を衝かれたかれとしては、「ロシア革命ですか? 肩をすくめざるをえないことをおっしゃる。思想の段階では、それはせいぜいのところ、はっきりしない政変です。精神的事象のために生活を犠牲にした者をもうすこし蔑ろにしないで扱っていただきたい」と、若干ダダ的な言いわけにならざるをえない。生活を犠牲にした者とは、それなりに実感あることばであり、19世紀ロマン主義から20世紀ボヘミアンにいたる生活芸術家の主張でもあるが、かれのことばには、政治革命を見落としていた狼狽ぶりがうかがえる。

(注.定職も財産もない彼らの生活スタイルだけでなく、この「ひとつの死骸」配布によって、アラゴンとブルトンは、ファッション・デザイナーであり芸術コレクターだったジャック・ドウセの不興をかい、芸術顧問の職をうしなっている.)


 こうしたアラゴン反論への、「クラルテ」側の再々反論は、アラゴンの弱点へ議論を集中させる。こんかいの反論には、ベルニェだけでなく、マルセル・フウリエも参加している。かれらの反論は「続『ひとつの死骸』」として、一ヶ月後の12月25日刊行の『クラルテ』誌上にアラゴン反論とならべて掲載された。

 ベルニェの主張は、「アラゴンは非行動の理想主義者である」と、それなりにアラゴンらが掲げる旗印を挑発するものだった。しかし、フウリエの批判は、アラゴンだけでなく、「ひとつの死骸」執筆のシュルレアリストらすべてを視野内にいれた、つぎのようなものだった。


アラゴンはアナキストだから、わざと文化面に固執して、内部のブルジョワ文化と闘うだけでことたれりとして、外の敵とまみえるより、自分の陣営にひっこんでいるほうがいいのだ。(・・・・・・・)アラゴンは『ロシア革命』を前にして、彼の階級の穏健思想の持主どうよう、聖なる恐怖を味わっているのだ。(・・・・・)かなり神秘主義的なアナキスムゆえに、彼をわれわれの敵対者に分類し、彼とわれわれの間には(・・・・・・・)階級の問題と力の問題があるだけだ。


 執筆は、『シュルレアリスム革命』誌創刊号発売(1924年12月)の前だったのだろうが、読みようによっては、「ひとつの死骸」だけでなく、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』批判をふくむものである。神秘主義的傾向とは、のちのブルトンのシュルレアリスムの一面を予見しているようにさえおもえる。もっとも、それは、フウリエ自身はその後、’30年代までのシュルレアリスム活動の親密な同伴者となったのだから、シュルレアリスム批判ではなく、アナキスムを強調するための形容表現だったのだろうが.....

 しかし「聖なる恐怖」とか、神秘主義的アナキスムは、アラゴンだけでなく、これを読んだ、発足したばかりのシュルレアリストにとって、聞き捨てならない指摘にきこえたにちがいない。もっとも敏感に反応したのがブルトンだったかとおもわれる。

 それが、かれの提案の緊急集会であり、合意文書による確認だろう。

 合意文書冒頭にある、文学的命題の明証が問題でなく、政治的、社会的、・・・・・行動参加の覚悟は、まさに「クラルテ」の批判への回答である。それも、シュルレアリスム合意文書によるシュルレアリスムの立場からされた回答である。この文書掲載があったのは『シュルレアリスム革命』誌2号だったが、これはやはり、たんなる回答にとどまらず、発足したシュルレアリスム・グループの立場表明でもある。

 これによって、論争は進展せず数ヶ月が経過した。一方、シュルレアリストは、その間、外部社会と軋轢をおこす実力行使をおこなった。それらは「クラルテ」に認められるような、文化的倫理性にかかわる事件だった。

(注.「駐日フランス大使、ポール・クローデル氏への公開状」の配布であり、サン=ポル=ルウの夜会の騒動である。このあたりの状況やこうした事件については、拙著『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論』に詳細をしるしている.)


 「クラルテ」のヴィクトール・クラストルは「シュルレアリスムの爆発」という論考を掲載して、シュルレアリストらについて、「われわれは、文学の地平線を見わたしても、反抗の印の下に結集している作家集団をほかに求めても無駄である。彼らは革命運動をしない、と反論されるかもしれない。だが、今日、だれがそれをしているのか。だれがそれをなしうるのか。われわれは、事実を前にして示す人々の反発によってしか、彼らの精神に判断をくださない」と、好意的な論評をする。

 そして、こうしたシュルレアリストは、この年、5月、さらに踏みこんだ政治行動が問われる事態に直面する。

 通称「モロッコ戦争」(1921-27)へのフランス参戦である。

 スペイン領モロッコではじまっていたリーフ族の独立運動が、アブド=エル・クリムが指導する武力闘争によって成功し、民族共和国樹立を宣言するまでになった。

 スペイン領と隣接するフランス領モロッコへもその勢力はおよび、フランスは、1925年5月、独立運動弾圧・阻止のため出兵を開始した。

 一方、コミンテルン(国際社会主義「第三インターナショナル」)は、ドイツ革命、ハンガリー革命、イタリア革命の不完全燃焼によって、ヨーロッパにおける革命機運の衰退を目のあたりにして、1920年には、「植民地・隷属国の民族解放」運動支持、支援の方針を決定していた。リーフ族の共和国樹立にさいしても、ソ連邦はいちはやくこれを承認していた。

 フランス共産党も、当初からモロッコ解放運動の支持を表明していたが、フランス参戦にあたり、「モロッコ戦争に反対する行動委員会」を組織した。この委員会には『クラルテ』誌のメンバーも参加している。委員会が主催する5月7日の抗議集会には15,000人、24日には60,000人が集まる大集会となっている。シュルレアリストらもこれに参加した。

 また、『ユマニテ』紙は、バルビュスの提唱による、「知識人労働者へのアピール ─ 戦争を非とすや否や ─」の見出のもと、「モロッコ戦争に反対して、プロレタリアートの側に立つ知識人労働者」の署名つきの声明を掲載した。この署名者57名ちゅう17名が、ブルトン、アラゴン、エリュアールら、シュルレアリストだった。

 これに対抗して、ただちに、『アクション・フランセーズ』紙や、「文芸家協会」、「在郷軍人作家協会」に属する文学者、哲学者、詩人たちが行動をおこす。7月6日付けの『アクション・フランセーズ』紙は、「インターナショナリスム支持者 ─ お先っ走りのドイツ野郎 ─ の本音は、モロッコはモロッコ人に、チュニジアはチュニジア人に、インドネシアはインドネシア人に、中国は中国人に、ドイツはドイツ人に・・・・・(ママ) そして、皆んなでフランスに反対することだ。無気力で、お洒落なわれらの若きシュルレアリスト諸君と、かれらの横着なお先棒担ぎどもは、誰かさんが得をする仕事に精をだす」と、まず反応する。

(注.シュルレアリストのこと.「サン=ポル=ルウの夜会」騒動に由来する. 前掲書参照)


 翌7月7日には、「知識人労働者へのアピール」に直接対抗するかたちで、賛同する知識人の署名をあつめ、「祖国の側に立つ知識人 ─ モロッコで戦うフランス軍への奉文」が、「フィガロ」紙と「エクレール」紙に同時掲載され、また、ほとんどすべての新聞、雑誌に転載された。文面から、7月2日の『ユマニテ』紙の「アピール」後に準備して公表されたものだから、この対応は迅速といわねばならない。

 これらの出来事をみると、フランスの作家、芸術家、哲学者らの文化社会は二分され、シュルレアリストは、国際社会主義の側に位置づけられたのがわかる。

 だが、これは、すでに1月の合意文書で確認された方向の延長上にある位置だろう。

 ブルトンはさらにこの位置を確実にするためか、『シュルレアリスム革命』誌の責任編集を、創刊号いらいのピエール・ナヴィルとバンジャマン・ペレにかわり、4号誌(1925年7月15日刊)からひきうける。かれはその巻頭に、「なぜ『シュルレアリスム革命』誌の責任編集をひきうけるか」を、あらためて掲載し、その書き出しをつぎのようにはじめていた。


 今、1925年である。平和が忍びこんできて、多くの政府が倒れもせず持ちこたえているのを目の前にしている人々のために、また、彼らが提案した口に出すのがはばかられる目的が遠ざかり、ある男たちが、そして女たちも、意気消沈するのを目にした人々のために、私は語る。


 記されているのは、政治的書き方ではないが、あきらかに先に示したコミンテルンのヨーロッパ情勢の判断、革命機運衰退の状況認識と一致するものである。そして、「意気消沈するのを目にした人々のために」かれは語るという。

 これは、たんなる修辞的な決意表明のようにみえるが、けっしてそれにとどまるものではなかった。具体的行動を前提にする発言だった。それは、この一ヶ月後の8月に公開された、「まず最初に、そして常に革命を!」の声明パンフレットを予告するものだった。

 この公開文書の差出人は、『シュルレアリスム革命』誌のメンバーだけでなく、他のグループの賛同者との連合構成だった。署名者は、『シュルレアリスム革命』誌(28名)をはじめ、「クラルテ」グループ(8名)、『哲学』誌グループ(10名)、それに、ベルギーの『コレスポンダンス』誌グループ(2名)であり、その他「ダダ」のリブモン=デセーニュら5名が加わっていた。

 そして、4千部印刷された声明文は、各グループ機関誌の購読者や新聞・雑誌の報道機関、それに国会議員にも配布され、また、『シュルレアリスム革命』誌5号と『クラルテ』誌77号に同時掲載された。9月21日付けの『ユマニテ』紙も、「対『フランス思想』戦争! 対『西洋文明』戦争! ─ 革命に味方する若き知識人の宣言」の見出しで、全文を掲載した。

 内容はひとことで言えば、作家、哲学者、芸術家、出版人たるかれら文化人の社会参加声明である。

 「声明」の第一節は、「世界は、すこしばかりの、ものの分かっている者のどんな目にも、たんなる政治的、社会的論争の枠を越えている衝突の交錯するところだ。われわれの時代には、見者(ヴォワイアン)が欠けている。だが、ものを見る眼を奪われていない者にとっては、まったく驚くべき事態の、人間にかかわる結末を算定する気にならずにいるのは、不可能なことだ」と書きはじめ、状況判断と参加の必然性と目的をつぎのように記す。


 長期にわたって隷属させられ、独立を取り戻すこと以外を望んでいないように見える人々の自尊心の覚醒のかなたに、あるいは、ヨーロッパになお根を下ろしている諸身分のただなかにあって、労働者の社会的権利要求の抑えがたい紛争のかなたに、われわれは、全的解放の宿命を信じる。人間に加えられ過酷になる打撃の下で、人間は、人間関係をついに変更せねばならないだろう


 あきらかにモロッコでおこっていることとかれらヨーロッパの現状を、おなじ極座標でとらえる状況判断であり、「人間関係」の抜本的変更を目的とするというのだ。コミンテルン方針と大きくちがうものではない。というより、現実のコミンテルンではなく、かれらが思っている、あるべきコミンテルンである。

 そして、かれらの立場とかれらのやるべきことについて、「声明」末尾の最終宣言でこのようにのべている。

 「われわれは精神の反乱(レヴォルト)である。つまり、われわれは、血塗られた『革命』を君らの仕業で貶められた精神の不可避の復讐とみなす。われわれは、空想家(ユートピスト)[非行動の理想主義者]ではないこの『革命』を、われわれは、革命の社会的形態の下でしか考えていない(下線は筆者)と、かれらの加担する「革命」をあきらかにする。ここでのべられた「社会形態」とは、「持たざる者が持てる者によって隷属させられるのが、すでに不正であり、奇怪である」という前提のうえに構築される社会形態である。そして、それだけではなく、「この抑圧がたんなる支払われる給料の枠を越えて、高度の国際金融界が、人民に課する奴隷状態をたとえばとる時、いかなる大殺戮をもってしても、償いきれない不正の行為である」と、あきらかにとうじの一般的「マルクス主義」理解に依拠し、作家、芸術家、哲学者、評論家として彼らは、被抑圧者の側に立つという表明である。したがって、まず最初に、そして常に 彼らが求める「革命」とは、社会主義的革命である。

 シュルレアリストが中心になったこの声明内容は、このように引用してのべると、それ自体は、今となれば、紋切り型な言辞のようにみえる。しかし、この声明が、とうじの社会で、どのような意味をもってうけとられたかはすこし説明しておかねばならない。

 フランス共産党の機関紙『ユマニテ』は、ここでは無条件に、この声明を歓迎している。また、「ひとつの死骸」では、いくらかの批判的態度を示した「クラルテ」のメンバーが、「声明」の共同提案者になっている。コミンテルンにも歓迎されそうにみえたかしれない。

 だが、1925年当時のコミンテルンの状況や、フランス共産党の歓迎の意味は、そうしたものではまったくなかった。まず、フランス共産党が歓迎したのは、これを若く行動的な知識人が出したことである。というのは、この時期では、プロレタリア文化問題について、さまざまな議論があったが、かつて一度も統一見解がだされ、行動にうつされたこともなければ、持続的見解がもちつづけられたこともなかった。ちがった云いかたをすれば、プロレタリア革命を「政治」「経済」「文化」の三分野から見れば、「政治」はレーニンをはじめ、ロシア革命の実現者たちから、「経済」はマルクスから、そして、「文化」については、規範の模索中というのが実情だった。「文化」を看過せず、統制を積極的におこなおうとしたのがスターリンであり、それが本稿のブルトンのシュルレアリスムと、アラゴンの断絶が深くかかわってくる。

 「クラルテ」にかんしていえば、すでに追放されていたがなお多大な政治力をもち、文化的知識も豊富なトロツキーの系列につらなるボリス・スヴァリンの影響があったともいわれている。だから、シュルレアリストたちとの関係やこの声明についても単純に受けとれるものではない。

 だが、この段階では、そうしたことはまだ表面化しておらず、彼らは、「まず最初に、そして常に革命を!」でしめした方向へさらに具体的一歩を踏みだそうとする。

 それは、『クラルテ』誌と『シュルレアリスム革命』誌グループの合体計画となってあらわれる。しかし、この計画が具現化するにつれて、かれらの目的と、フランス共産党やコミンテルンのあいだで微妙な軋轢が生じはじめるのである。それは、「プロレタリア文化」問題だけでなく、コミンテルン自体の方針がたえずゆらぎ、一定しなかったからである。ひとことで言えば、ソヴィエト政権内の激烈な権力闘争のはじまりというか、激化の前兆である。

 そうした予兆を、「クラルテ」やシュルレアリストらは察知できるはずもなかったが、かれらの主張にはこの権力闘争の争点に抵触する危うさがあった。また、フランス共産党は、かれらよりコミンテルン情勢が感知できる立場にあったが、やはり方針が一定せず、そればかりか、フランス共産党にはフランス共産党の事情もあった。1920年、旧社会党の党大会からフランス共産党が誕生したときの党員数は、13万人だったが、その後減少する一方で、1930年には3万人を下まわったというから、1925年の状況も推して知るべしである。「クラルテ」と執筆・編集を担うかれらのほとんどは党員であり、いままた、「共産党」にあきらかに好感をもつ、大胆で行動的な知識人らが結集しようとしている。そのこと自体は、歓迎せざるをえない出来事である。

 さらにまた、『クラルテ』を創刊したバルビュスは、たしかにとうじ、共産党機関紙『ユマニテ』の文芸欄の編集長を託されていたが、元来かれは、第一次世界大戦を体験した反戦、平和の小説家であり、フランス共産党設立以前から「クラルテ」運動をおこし、その機関誌として『クラルテ』を創刊していた。だから、かれの主張の根幹にはあくまで自身の反戦、平和思想がある。  

 モロッコ戦争にさいしかれが『ユマニテ』に掲載した、「知識人労働者へのアピール ─ 戦争を非とすや否や ─モロッコ戦争に反対して、プロレタリアートの側に立つ知識人労働者」の声明文も、創設五年目の「国際連盟」への提訴提案など、政治行動的には穏便なものであり、コミンテルンの意向に完全に合致するものではなかった。バルビュスは、1929年には『ユマニテ』文芸欄編集長を退任しているのだから、若い「クラルテ」編集者たちにとってはフランス共産党代弁者のようにみえたかもしれないが、党を代表する文化人ではなかったといえる。

 そうしたところすべてに、「クラルテ」と「シュルレアリスム革命」の合体計画が発生したひとつの理由がある。

 端的に云えば、作家、芸術家、思想家として彼らが結束し、新しい文化創造を担うことである。そして、その新しい文化は、1918年のロシアでおこった政治革命に重なるものだった。古い文化社会の抜本的改革である。それを、フランスでおこなうこと、ヨーロッパでの「ロシア革命」を、じぶんたちの活動分野、文化面からおこすことである。

 その文化人としての決意表明が、「クラルテ」「シュルレアリスム革命」「哲学」「コレスポンダンス」誌連名で出された『まず最初に、そして常に革命を!』の声明の冒頭、「われわれは、全的解放の宿命を信じる。人間に加えられ過酷になる打撃の下で、人間は、人間関係をついに変更せねばならないだろう」にあらわれている。文化人たるかれらの基本的立場をこのように表明したのだ。

 だが、これ自体は、シュルレアリストにせよ、「クラルテ」にせよ、かれらが各自の機関誌で個別に表明できることであって、あらためて宣言するまでもない、彼らの従来の主張のわずかな進展にすぎない。問題になるのは、かれらが合同でこれを宣言したことである。文化人グループが結集する動きを見せたことである。行動をおもわせる結束と積極性を示したことである。その政治活動への文化参加が、どのような参加であるかについては、シュルレアリスムについては、すでにブルトンが、「なぜ責任編集をひきうけるか」で記した、「今1925年である。・・・・・・・・彼らが提案した口に出すのがはばかられる目的が遠ざかり、・・・・・ 意気消沈するのを目にした人々のために私は語る」に、すでに仄めかされている。

 「資本主義が一時的相対的安定にたっし、ヨーロッパでの革命の機運が遠かった」現状にたいする対応である。しかし、この対応は、この現状を前提にしたうえで、できることをやるのではなく、この現状を覆すのが、あきらかにブルトンがここでいう対応である。

 かれが言いたいのは、ドイツ、ハンガリー、イタリア革命の挫折で、政治的革命機運が遠ざかったのであって、シュルレアリスム革命をなおあえてをおこなうことだろう。だから、あの「まず最初に、そして常に革命を!」の声明になり、合体計画にむかうのだ。もっともこのシュルレアリスムは、『シュルレアリスム宣言』のシュルレアリスムよりむしろ、「クラルテ」と遭遇した『シュルレアリスム革命』誌のシュルレアリスムだったのだが・・・・・

 計画された新しい雑誌の名称は『内乱(la guerre civile)』が予定されていた。これは、レーニンの「帝国主義戦争を内乱に変える」から採用され、とうじのモロッコ戦争に関連させる意図があったのはあきらかだろう。だが、〈la guerre civile〉は〈市民戦争〉であること、市民文化戦争であることを思いだしておかねばなるまい

(注.〈civil〉は〈civiliser〉の派生語であり、〈civiliser〉は〈開化する〉の意がある.これは、ブルトンらは直接意図してはいなかったろうが、17世紀末のフランス革命の民主主義(ブルジョワ主義)思想が、〈civilisation〉〈culture〉なる言葉を創造したように、とうじの社会主義思想には、「教化、育成」が不可分となる大転換(revolution)だった.社会主義は教育(文化)を要する思想である.そのことは、『ユマニテ』がこれを紹介するにあたり、「対『フランス思想』戦争! 対『西洋文明』戦争! ─ 革命に味方する若き知識人の宣言」の見出しをつけたのは、適格にこの声明の核心をとらえている.なお、20世紀初頭までのヨーロッパでは、文明(civilisation)と文化(culture)は同義語であり、フランスなど先進国では文明をつかい、後進国であるドイツで文化をつかう傾向がある.)


 ところで、ブルトンが、『まず最初に、そして常に革命を!』の合同声明以前に、「なぜ・・・・責任編集をひきうけるか」で述べた展望と目的は、合同声明の後、『内乱』誌計画が具体化してから、こんどはクラルテのマルセル・フウリェが、まったくおなじ状況認識を、いっそう生々しく直截にのべている。

 合体計画は、1925年の秋から冬にかけて、実現にむけて進展していった。そして、1926年1月の『クラルテ』79号誌は、『クラルテ』廃刊とシュルレアリストらの合同の『内乱』誌予告を掲載する。

 同誌には、フウリェの「『クラルテ』から『内乱』へ」と題する論文が載り、その冒頭はつぎのようにはじまっていた。半年前のブルトンとおなじ基調の状況判断である。


 いま1926年である。革命はヨーロッパの地から長きにわたって、遠ざかってしまった。ブルジョウワジーは今一度、一時凌ぎでことを済ませている。しかしながらソヴィエトの各共和国は耐えている。...... これに対して、中国、インドのアジアと、植民地のアフリカでは、共産主義が地歩を固めている。反乱は拡大し、強化されている。帝国主義の建物はいたるところで軋んでいる。そしてこれを確認することは、われわれに希望をあふれさせるが、また、これはわれわれの無力を思い知らせるものであるというのも、ヨーロッパの共産主義者に課せられている任務は、本来的な政治活動か、ささやかで実りの少ない、いっそう特殊な知的活動であることがはっきりしているからだ。(下線は筆者)


 フウリェが生々しく語っているのは、ブルトンが暗示していた、ヨーロッパの抜本的改革を願う者の失意である。直截にいえば、『クラルテ』の創刊者、バルビュスと同一視されるフランス共産党への不満である。

 ただし、今となればいささか事実誤認のこの主張を解釈する前に、フウリェやブルトンのいうヨーロッパを説明しておかねばならい。彼らのいう〈ヨーロッパ〉は〈西洋(Occident)〉であって、ロシア革命は〈東方(Orient)〉でおこった革命で、ヨーロッパの革命ではない。さらにまた、フウリェのいう、ヨーロッパの共産主義者に課せられている任務とは、フランス共産党が、フランス共産党の党員に課している現実的な任務である。穏便な、おそらくのちの人民戦線内閣という青い果実に結実した合法闘争、選挙活動のようなものだろう。

 こうした方針に飽きたらぬ者たちが集まり、『内乱』誌を立ちあげるというのが、フウリェの説明だった。それは、「革命」を達成した新しい東洋(Orient)文明の側に立っておこなう、あの「対『西洋文明』戦争!」の共同声明を出す半年以前に、ブルトンがすでに、「目的が遠ざかり、・・・・・ 意気消沈するのを目にした人々のために、私は語る」と、婉曲にのべていたことだった。

 ブルトンのいう意気消沈したのは、フランス共産党でありバルビュスのような者であり、「それを目にした人々」とは、これに不満をもつ人たちのことだろう。とはいえ、一方では、そこでブルトンが、「われわれは語る」としていないのは、やはり留意しておかねばならない。それは、飽きたらぬ者を、どこまでふくめて言っているかである。ましてや、この記述は、『シュルレアリスム革命』誌の責任編集を自分がひきうける理由として書かれたものだから、グループ誌的性格をもつ同誌のばあい、外部者にむけると同時に、グループ内への発言だったかもしれない。

 じっさいのところ、『シュルレアリスム革命』誌が、『内乱』誌について語ったのは、『クラルテ』の解体・移行の宣言から2ヶ月後の第6号誌がはじめてだった。もっともこの遅延は、『シュルレアリスム革命』誌では、第5号誌刊行から半年遅れの6号誌なのだから、『クラルテ』に比して、乏しい資金事情などが影響したかもしれず、一概に意味をもたせることはできないが・・・・。

 とは云え、この掲載は、『クラルテ』のときのような廃刊と創刊の宣言ではなく、『内乱』誌予告にとどまってはいるが、他方、この予告には、『内乱』誌の発起人が列挙されていた。

 掲載順にメンバーをあげると、─ アラゴン、ベルニェ、ブルトン、クラストル、デスノスエリュアール、フウリェ、ポール・ギィタール、レェリスアンドレ・マソンペレスーポー、ヴィクトール・セルジュ ─ であった。下線をほどこした者がシュルレアリストであり、その他が「クラルテ」系メンバーである。総数13名のうち8名がシュルレアリストである。アルトーやナヴィルは欠けているが、文学派のスーポーをふくめ、創設以来の主力メンバー全員の参加である。

 そして、ここに、元アナキストであったが、1919年以来、ボリシェビキに加わり、コミンテルンの文学作家として活動したセルジュの名が記載されているのは指摘しておかねばなるまい。かれはのちにトロツキーの傍にあった作家であり、ブルトンがかれへの関心を示したのは、1935年の「作家会議」(後出)頃からというのは、ベアールをはじめ研究家は指摘するが、『内乱』誌との関連で語ったものはない。ブルトンの後のトロツキーへの傾倒は、すでにシュルレアリスム初頭のこの時期からあったのではなかろうか?。こうした、検討を要するメンバーの顔ぶれを見ると、この『内乱』誌の企画自体は、ソ連邦の権力闘争開始時のとうじとしては、後の第4インターナショナルに象徴されるインターナショナル(国際)性への明確な指向性があったようにみえる。

(注.トロツキー評価は、はやくからナヴィルにあり、それがブルトンの態度表明をおくらせたとも考えられる.)


 しかし、にもかかわらず、この6号誌の報告だけでは、『シュルレアリスム革命』誌と『内乱』誌の関係は、いっさいわからない。ただたんに、『クラルテ』誌が移行した『内乱』誌へ、シュルレアリストは、『シュルレアリスム革命』誌でみずからの活動をつづけながら、参加するだけというのだろうか? これについて、「クラルテ」の時のように、だれかシュルレアリスト側の論考が掲載されているわけでもなく、また、編集責任者であるブルトンの説明もない

(注.『シュルレアリスム第二宣言』などのブルトンののちの発言などから、現在の「シュルレアリスム史」では、『革命』誌をつづけながらの参加が通説である.)


 これは、奇妙なことである。なぜなら、ブルトンはすでに、フウリェが「『クラルテ』から『内乱』へ」を掲載した『クラルテ』79号誌に、署名入りの論考「待機する力」を掲載し、シュルレアリスム革命とヨーロッパの社会主義「革命」との密接な関係を表明しているからだ。

 そして、従来の彼らなら、「まず最初に、そして常に革命を!」の声明が両誌に同時掲載されたように、このブルトンの立場表明も、『シュルレアリスム革命』誌に掲載して、なんらさしつかえはなかったろう。ましてや、それによって、列挙された『内乱』誌発起人のなかに、シュルレアリストの名がつらなっている意味とその必然性がはっきりするからである。

 「待機する力」はそうした内容をもつ論考だった。

 書かれていたのは、ブルジョワ社会転覆の「革命」のため、『シュルレアリスム革命』誌のシュルレアリストに何ができるかであったが、シュルレアリストには、それをする必然的理由がある説明だった。

 シュルレアリスムは、『シュルレアリスム革命』誌の創刊号が掲げていたように、ヨーロッパのブルジョワ社会によって閉塞させられている精神の解放をおこない、新しい人権宣言を求める「革命」運動だった。その意味において、「シュルレアリスム革命」とヨーロッパの「社会主義革命」は同族関係にある。「社会条件」の根本改革を目的とする「社会主義革命」の願いは、シュルレアリストの願いでもある。なぜなら、「全社会の生活条件の現実的改良の願望によって裏付けられていないような精神の仕事はひとつもない」からである。

 ところがいま、彼らの願いはともに、フウリェのいうように遠ざかり、失意と待機に直面する事態におちいっている。

 それというのは、彼らいずれもの、「大衆からの孤立、双方にとっておなじように有害であった孤立は、(それによって)すべてを失わねばならぬと感じた連中の策謀」によるからだ。このようなときこそ、彼らが共に求める「現実的改良」の「革命」の思想を大衆に伝達するため、シュルレアリストがそれまで「用いてきた詩の専門用語は(彼らに)有利になるだろう。(・・・・)この感動の直接伝達に役立つ用語は、他のあらゆる次元の低い意見交換を目的にする用語よりも、はるかに複雑な法則に必然的にしたがっているから」、政治的、経済的用語によるものとは異なる次元で有効性を発揮するというものだった。

 そして、シュルレアリストが、社会的条件改良の「革命」のためにやっていることは、詩人として、思想家として、芸術家として、大衆に接近することであると、シュルレアリストの役割を説明している

(注.「待機する力」には記されていないが、ブルトンらは当初から、すでに、ロートレアモンの「詩は万人のものである」を彼らのスローガンにかかげていた.「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかのの『反芸術』」[『百万遍』No4.]参照.


 ここに述べられているのは、彼らの「革命」のための「情報・伝達」の役割を芸術・文学的次元でいっそう強力におこなうことだった。

 6号誌には掲載されなくとも、すでにこうした主張がのべられていたわけだし、また、これまでの経緯からみても、6号誌までのような『シュルレアリスム革命』誌をつづけながら『内乱』誌に参加するのは矛盾があり、事実上、不可能だろう。その説明がないところに、シュルレアリスム側の事情が漏出しているようにおもえる。すくなくとも、ブルトン、アラゴンらシュルレアリスム創設メンバーには、合体へのなんらかの意向があったのが推測できる。そして、それに納得しない集団があったのではなかろうか。つまり、『クラルテ』には「バルビュス」がいて、シュルレアリスムにも、無視できない思想傾向をもちながら同調しない集団がいたことの想像も困難でない。いずれにも彼らの活動をスムースに運ばせない要因があったということだ。

 しかし、それらを整合し、具体化しないうちに、異なる方向からの批判の外力がくわえられ、計画は停滞し、新しい対応を余儀なくされる。

 態度表明をした「クラルテ」メンバーに、フランス共産党から異議がつたえられる。政治局の一部の委員らが、「クラルテ」の党員メンバーを召喚し査問する。非党員集団のシュルレアリスムとの協力関係の是非と、シュルレアリストらの時宜を顧みない無謀な革命思想への疑念だ。アナキスト呼ばわりをする者もいたという。出席のクラルテ・メンバーは、「革命的文化知識人」であるシュルレアリストたちとの共同作業がいかに有益かを、シュルレアリストの創設以来の活動の経緯をしめして説明するが、政治局員らは納得しない。しかし、政治局員らの意見がどれほどまで党方針だったかについては、「ロシア革命」から10年足らず、フランス共産党創設から5年あまり後の当時を勘考すると、党の統一見解性や拘束力をふくめ、この査問自体に疑わしいものがある。

 だが、それでも、おそらくそうしたことから、「クラルテ」が予告した『内乱』誌の刊行は停滞し、シュルレアリスト側は独自の積極的な行動をはじめる。

 ブルトンは、「正当防衛」と題する声明文を発表し、『内乱』誌停滞とかれらの革命的立場をあらためて説明する。その冒頭には、つぎのような数行があった。


 われわれ双方が遭遇したのは「共産主義インターナショナル」の真の構想に逆らいはしないかという不安と、「フランスの党」から与えられる少なくとも当惑させるような「指令だけを知っておけ」ということが不可能なことだった。それが『内乱』が生まれなかった根本的理由である。


 記されているのは、あきらかにあのフウリェの『内乱』への移行と同一理由のうえに組み立てられている。フランス共産党の「指令だけを知っておけ」という方針にしたがうことができないこと、フウリェでは、「本来的な政治活動か、ささやかで実りの少ない特殊な知的活動」にしたがうことができないことである。

 さらにここでは、いずれにも示されている他のものにも注目しなければならない。それは、ブルトンで「共産主義インターナショナル」の真の構想に逆らう懸念といわれ、フウリェでは、「ソヴィエトの各共和国は耐えている・・・・」に内包されている想いだ。コミンテルンへの信頼と親近感である。彼らの不信はフランス共産党にむけられているだけで、「ロシア革命」をおこした思想からうまれたコミンテルンへの信頼は、ゆらぐことなく彼らの希望を支えているようにみえる。

 「正当防衛」で記されていたのは、彼らが目指すのは、社会文化の「革命」であって、フランス共産党がいうような、無謀な絶対否定の行為ではないことだった。彼らの非順応主義は、絶対的非順応主義ではなく、相対的非順応主義ということだった。「正当防衛」とは、フランス共産党の不当な扱いへの防衛という意味もこめられていた。

 つまり、ブルトンやフウリェたちのなかには、かならずやインターナショナルは、彼らの行為を理解する期待があったとおもわれる。

 「正当防衛」が執筆されたのは、1926年夏であり、配布されたのが10月だった。そして、その主張を実証するように、シュルレアリストらのフランス共産党への入党申請がはじまり、党とのあいだに融和機運がうまれた。

 彼らの入党は、エリュアールが、「正当防衛」配布直後であり、ついでアラゴンが1926年末から1927年初頭、つづいてブルトンとペレ、ユニックがつづき、いずれも受理されている

(注. その他、シュルレアリスムに参加したばかりのルイス・ブニュエルやマキシム・アレクサンドル、ジョルジュ・サドゥール、ジャック・バロンらも入党し、やや後にはなるが、1932年にはベルギーのシュルレアリストの画家、ルネ・マグリットも入党している.マグリットの初期デビュー作品は、このシュルレアリスム的政治思想抜きには考えられない。日本のマグリット論では、かれの長期にわたる党員歴を無視する傾向がある.)


 こうしたシュルレアリストらの入党だけでなく、ペレは『ユマニテ』紙の寄稿者となり、痛烈な「反聖職」記事を連載しているし、とうじのフランス共産党中央委員のジャック・ドリオは、シュルレアリストの攻撃スタイルに関心をしめしたという。

 こうしたフランス共産党内部の対応をみると、1926~1927年のとうじ、すでに党内ではのちに熾烈をきわめたスターリンの内部闘争の萌芽があり、それが『内乱』誌を葬ったようにもおもわれる。

 いっぽう、その後のシュルレアリスムの活動は、それまで外部にむけていたエネルギーを内部に傾注することになった。それは、スターリン台頭とそれによって一変する「共産党」を予知した、シュルレアリスムの立場整備のはじまりだったのかもしれない。

 入党したシュルレアリスト、ブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレ、ユニックの5名は、連名で、「非共産党員たるシュルレアリスト」宛をはじめ、ベルギーのシュルレアリスム賛同者たちや、さらには、グループ内で政治的に彼らより先行していたピエール・ナヴィル宛、また、共産党員たちに宛てた五通の書簡形式の声明パンフレットを配布し、彼らのシュルレアリストとしての立場表明をおこなう。

 また、特別集会をいくども開催し、その都度(つど)討議録を公開し、有機的に進捗する状況のなかのシュルレアリスムの方向を定めようとする

(注. それら配布パンフレットや討議録は、そのつど公開されている.内容詳細については拙著『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論』を参照.


 その間の『シュルレアリスム革命』誌の刊行についていえば、1927年には9、10合併号の一冊のみ、1928年では第11号一冊だけ、そして、1929年12月に、「なぜ『シュルレアリスム革命』誌は刊行を停止したか」の添書をもつ、ブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』を巻頭に掲げた第12号誌、最終号が刊行された。

 これだけでは、シュルレアリスム活動が衰退し、解体しているようだが、実態はそうでない。

 1927年には、デスノスは小説的散文『自由かしからずんば愛』を、クルヴェルも『バビロンヌ』を刊行しているし、1928年にはアラゴンが『文体論』を、ブルトンは『ナジャ』と『シュルレアリスムと絵画』を刊行した。1929年にはエリュアールが詩集『自由、詩』を発表した。『シュルレアリスム革命』11号誌では、『文体論』と『ナジャ』の抜粋と、ブルトン・アラゴン共著の、シュルレアリスムの見地からの「ヒステリー50周年」、および、座談会「性欲の探究」を掲載する充実の一冊だった。

 シュルレアリスム運動体内部で共産主義革命をめぐって議論が沸騰するなかで、シュルレアリストたち各人の内部でも、相関して、積極的な創作活動が展開されたことになる。

 こうしたかれらの創作活動を見ると、本稿の冒頭のハイレッド・センターの『座談会』で語られていた、隠されたものを暴く真の芸術活動は、目的意識的創作ではないことを思いだす。

 ことに、ブルトンにおいてもっとも特徴的におこなわれていたようにみえる。アラゴンやデスノス、クルヴェルの作品も、彼らのそうした制作の延長線上にあるものだったが、ブルトンの2作品は従来とはまったく異なる次元の作品でありながら、1925年以来いちじるしく進展したシュルレアリスムの政治的動向を理路整然と反映させたものではなかった。ブルトンは作品によって、かれの主張を実証したようにおもえる。

 ブルトンがそれまで出版したのは、新しい詩論と読めなくもない『シュルレアリスム宣言』をふくめ、ことごとくが詩作品だったが、このときかれははじめて、散文作品『ナジャ』と、造形芸術論ともいえる絵画・画家論を刊行した。これらはいずれも、かれが「待機する力」や「正当防衛」で主張した社会主義「革命」と同族関係にある「シュルレアリスム革命」を指向作品のようにみえる。

 かれが両論文で主張してきたのは、かれらが社会的条件改良の「革命」のためにやっているのは、「プロレタリア独裁」実現のために、シュルレアリスムの作家、芸術家として大衆に接近することであった。小説のほうが詩より大衆に身近であるのは、発行部数からいってもあきらかだ。新刊小説が数十万読者を得るのは珍しくないが、ベストセラーの詩集などきいたことがない。それに、フランスでも日本でも、書店の文学棚が小説や評論であふれることはあっても、詩集で埋まることはない。

 また、芸術考察を造形芸術にまで拡大したのは、あきらかに、不特定多数の「大衆」を視野にいれた行為である。直接的なその意図には、当時のシュルレアリスムに、創設期メンバーにはいなかったエルンストをはじめマソンやダリなどの活動的画家や、サドゥール、ブニュエル、マキシム・アレキサンドルなどの映画人の参加し、また、かれ自身も、シュルレアリスムの「画廊」創設に着手していたが、そこには、「プロレタリア独裁」に通じる「大衆」の視点がなんらのかたちで混入しているようにもおもえる。

 それは、ノンフィクション小説『ナジャ』ではもっとはっきりしている。主人公、ナジャはストリート・ガールである。ブルトンの意識にどこまでそれがあったかはわからないが、20世紀初頭フランスのプロレタリア・ドキュメント小説である。これは、日本では通用しない分類だが、当時のフランスの読者なら、それに似たとらえかたをしても不思議ではない(注.1928年のとうじ、用語的にプロレタリア小説はまだ存在していない.)

 日本ではプロレタリアートといえば、無産階級の、とくに労働者階級をあらわす言葉であり、プロレタリア小説や絵画といえば、炭鉱夫や工場労働者を描く小説であり絵画のことだ。

 だが、西欧人の母国語にあるプロレタリアは、かならずしもそうではないだろう。むしろ、労働者階級より無産者階級に焦点をあわせ、日本のマルキストがもちいる用語でいえばルンペン・プロレタリアのイメージである。マルクスも〈Proletariat〉の使用にあたり出典にしたとおもわれる、プロレタリア(Proletarier, 

 prolétaire, proletarian)の語源〈proletarius〉(ラ語)は、古代ローマ共和制の「兵役義務のない、子孫を生むことによってのみ国家に奉仕する最下層市民を意味する言葉である。ローマ市民の保全に腐心した古代ローマ政治制度の市民ランク最下層にあたる第6階級にぞくする市民階層をさす用語である。(注.古代ローマでは、兵役は武具、装備は自己負担だから、それができない無産階級となる.) だから、マルクスのいうプロレタリアートは、財産の有無を基準とする社会制度の分類であって、有産階級に対比させた無産階級である。

 このプロレタリアを財産階級社会ではなく身分(職業)社会にあてはめれば、娼婦、常習犯罪者、浮浪者、あるいは日本なら、ヤクザもまた、まぎれもなくプロレタリアートである。『ナジャ』をプロレタリア小説というのは、そうした見地からである。

 主人公のナジャは統合失調症を病むとおぼしきストリート・ガールであって、ブルトンの記述は彼女との面談を記すことで展開する。「狂気」を、フロイト由来の心理学観点から「シュルレアリスム」に隣接してあつかうのは、ブルトン、アラゴンの創設にいたる一方のシュルレアリスムの立場である。そうした視点からみる『ナジャ』は、シュルレアリスムの「作品」である。ブルトン自身もそう意識していたにちがいない。

 だが、それにもかかわらず、『ナジャ』はシュルレアリスムの「作品」であるとどうじにプロレタリア小説であることにかわりはない。ブルトンは、作品中のナジャをストリート・ガールとして描出している。いくたびも会い食事を共にしひたすら対話するナジャを自宅に招くことも、シュルレアリストのカフェ集会にともなうことはない。まるで、娼婦のもとにかよう蕩児のように、ひとりで逢うプロット・シチュエーションである。おそらく、会うたびに支払いをしたのだろう。

 作品『ナジャ』は、小説という文学形式にブルトンがいかに否定的であっても、アレキサンドル・デュマ・フィスの『椿姫』が19世紀の高級娼婦小説だったように、読者にとって、『ナジャ』は20世紀のストリート・ガール小説である。そして、高級娼婦もストリート・ガールも、さきの古代ローマの範疇からいえばおなじ第6階級である。しかし、マルクス規定からいえば『椿姫』は、ブルジョワ小説であってプロレタリア小説ではない。なぜなら、「椿姫」は、娼婦の純愛という、ブルジョワをブルジョワであるがゆえに感動させたところに文学価値、小説価値がある作品だからだ。「ナジャ」の物語は、すくなくともそうではあるまい。

 マルクスのプロレタリアートは、ブルジョワの対立概念だったから、ブルジョワ小説『椿姫』に対立する作品であるがゆえに、『ナジャ』はプロレタリア小説となることができる。

 ならばブルトンが、片鱗でもそれが念頭にあったかといえば、それは疑わしい。しかし、はたして無意識にもなかったかといえば、これも疑わしい。謹厳そのもの、ホモセクシュアリティやけじめのない性的人間関係を嫌悪し、現代の見地からいえば旧弊ともいえそうな生活信条を公言してはばからなかったブルトンが、このようなシチュエーションをあえて選択したのには、そこに生活信条を投げうつにたる倫理的確信があったからではなかろうか。

(注.「第2宣言」では、あるひとりのシュルレアリストを、性的放埒者と名ざし非難をしているし、とうじジャン・コクトーをペデラストと公然と侮蔑していた.)


 この確信を、かれの公式証言から証明するのは困難だ。しかし、手がかりとなる主張は、『ナジャ』の書かれた時期に書かれた、注目すべき立場表明となる発言のなかにあるようにおもう。

 それは、『シュルレアリスム革命』誌掲載の初出「シュルレアリスム第二宣言」にはなく、単行本版に収録された補足的一節である。アンケート回答なのだが、その回答自体より関連してのべられているところにあり、示唆的内容をふくむものだ。

 アンケートは、おそらくコミンテルンの芸術・文学関係部門がブルトン宛に出したもので、その問いは、「労働者階級の願望を表現する文学や芸術が存在しますか? その代表的なものは、なんでしょうか?」だった。

 かれの回答はつぎのようなものである。


 労働者階級の願望を表現する文学や芸術が現在、存在するとは、わたしには信じられない。そう信じられないのは、革命以前の時期では、作家・芸術家はどうしてもブルジョワ的に形成されているから、本来それらを表現することができないからだ。しかし、作家・芸術家はそれを想像できるし、また例外的に充足した精神的条件のなかでは、あらゆる立場の相対的性格はプロレタリア的立場の見地から把握することが可能である。わたしはそれを、作家・芸術家の感性と誠実さの問題として言っているのだ しかし、それだけで作家・芸術家は、あのとくべつな懐疑から逃れられるわけではなかろう。その懐疑とは、作家・芸術家自身の表現手段と不可分のものであり、完成をめざす作品を、彼ら自身のなかで、自分だけのために、きわめて特別な角度から考察することを彼らに強いるものである。その作品が、生命をもつためには、すでに存在している他(ほか)の作品との比較において位置づけられることが必要であり、ついで自分自身で、道を切り開かねばならないのだ。むろん違いのあるのは承知のうえのことだが、たとえば、まだ公認されていない詩の決定論を主張することはけっして不可能でなく、それに異議をとなえるのは、弁証法的唯物論の主張に異議を唱えるのと同様に、無意味と言えるだろう。わたしとしては、この二つの発展様式は緊密に類似しており、しかも、どちらも容赦しないという共通点をもっていると確信している。マルクスの予見が、かれの死後今日までにおこったほとんどすべての外的出来事にかんして、正しかったことが判明したのと同様に、精神だけにかかわる事象については、ロートレアモンの言葉の価値を貶めるものが、ただのひとつでもありうるとはわたしにはおもえない。それとは逆に、プロレタリアート的社会体制のなかにおいてさえ、プロレタリアート的な文化がまだ実現できていないという確固とした理由から、だれひとりプロレタリアート文化を標榜できないような時期にあっては、いわゆる「プロレタリアート的」文化・芸術を擁護したり説明しようとする試みすべては、マルクス以外のすべての社会解釈の試みと同様に、わたしには虚偽のようにおもわれる(下線は原文がイタリック体. 「」は筆者の区分. 青文字は筆者による強調.)


 シュルレアリスムの芸術家としての、「共産主義」文化部門への回答である。説明の都合上、四節に分けスラッシュ()で区分した。

 冒頭から、「労働者階級の願望を表現する文学や芸術が現在、存在するとは、わたしには信じられない」と、一見すると、挑発的にはじめられているが、1930年のフランスというとうじの状況を勘案すると、のちにプロレタリア文学や芸術と喧伝される分野について、リアルな実効性のある回答である。

 冒頭につづく「革命以前の時期では、作家・芸術家はどうしてもブルジョワ的に形成されているから、本来それらを表現することができないからだ」も、あたりまえのようだが、すでに当時のフランスの知識人だけでなく、戦後日本の良心的革新文学者・芸術家もこれを直視し、この前提から出発した者は、だれひとりとしていなかったのではなかろうか。

 そしてブルトンは、さらに、作家・芸術家は、そうであってもそれなりのことができるという。なぜなら、現代のあらゆる芸術の立場は、相対的には大衆の見地から見ることができるからだ。ことにシュルレアリスムの芸術は、芸術特性から、プロレタリアの立場からみても正当であり、その理由がおもに第二節を中心に第三節にかけて記されている。

 ここでいわれている芸術特性とは、芸術(アート)は技法(アート)表現であり、芸術表現は独自技法の追求と完成であり、それが生命をもつ技法になるには、「すでに存在している他(ほか)の作品との比較において位置づけられること」ができ、そのうえで、個人的独自技法を切り開いていくことだ。低次元の芸術技法で言い換えれば、ひとつのリンゴを絵画表現するときでも、油彩、水彩、水墨、パステル、エッチング・・・・ の画材表現があり、それ以前にも、人物、風景・・・ではなくリンゴの選択自体から、あるいは、「絵画」アートを選択したときから、芸術(アート)ははじまっている。そうしたこと一切が、ブルトンのいう「作家・芸術家の感性と誠実さの問題」に、かれの発言趣旨とは離れ、見当外れは承知のうえだが、低俗レベルではふくまれるだろう。

 かれのいうのは、そうした技法表現が命をもつ(意味をもつ)には、つまり、すでに表現しつくされているもの、間違ったことを表現していたものとは、比較において異なっていることをまず位置づけ(示し)、そこからはじめなければならないというのだ。

 ここでのべられているのは、質問と回答のテーマが、個々の作品表現ではなく一般論であり、ことにシュルレアリスムの芸術(アート)表現についてだから、もちろんさきの『ナジャ』の説明にはなっていない。

 しかし、それまでかれが試みたことのなかったあの「作品」を、ここでいわれていることから解釈することは、じゅうぶん可能かとおもう。ここでのすでに存在している他の作品とは、プロレタリアート的社会体制と対照するブルジョワ的社会体制の「作品」であるのは、回答のつづくコンテキストからもあきらかである。

 とすると、『ナジャ』について、すでにのべたようにそれを『椿姫』との比較において位置づけていたとしてもさしつかえないのではないか。しかしそうすると、ブルトンがこの「作品」を読んでいたかの懸念がのこるが、これはありうることである。かれがどこまでそれに意識的であったかは、やはりなお問題としてのこるが、いずれにしてもこのブルジョワ小説が対照点として作用しているのはありうる。

 とはいうものの、元来ブルトンは、小説について語ったこともなければ、ましてや『椿姫』や『マノン・レスコー』を読んだことなど、素振りにもみせたことはない。しかしながら、かれの潜在意識には、そうした19世紀ロマンの残渣沈殿があるのを推測させるエピソードはある。ある夜、寝入りばなのかれに聞こえた声の記述だ。それは、“べチューヌ、べチューヌ”と聞こえたとある。そして、それがなにをいみするか、なぜ聞こえたのか、目覚めてからのかれはわからなかったと記している。だが、今となっては、それは、アレクサンドル・デュマ(父)のロマン小説、『ダルタニアン物語』のキャラクター、妖婦ミレディーに由来する地名と解されている。

 ミレディーは、ルイ13世治下のブルボン王朝で、貴婦人として王侯、貴族を相手に、密告、暗殺、毒殺、裏切りをくりかえした悪役であるが、その素性は流れ者の娘である。才覚と美貌によって枢機卿宰相、リシュリューの腹心にまでのぼりつめるのだが、ついにダルタニアンら三銃士たちにとらえられ、貴婦人の身分を詐取した地、べチューヌでかれらの私的裁判のすえ斬首される。この地べチューヌは、物語ののちでも、復讐鬼と化したミレディーの遺児がらみで、怨念の地として登場する地名である。

 ミレディーはまぎれもなくプロレタリア階級の出身者だ。しかし、そうしたこととは関わりなく、少年期のブルトンが『ダルタニアン物語』を愛読し、そのとき、ミレディーにオプセション的な関心をもったのはありうることだ。ブルトンは、17世紀フランスの高名な将軍の武勇談にまつわる故事を、『シュルレアリスム宣言』の結論部でも表現にからみつかせたほどだから、パッション小説として、「三銃士物語」も読んでいたにちがいない。そうした記憶の残滓が、「宣言」でも、また、寝入るときでも噴出し、そのときのかれの思考の刺激剤になったとするのは、自動筆記や睡眠実験にあらわれる、かれの主張する「シュルレアリスム」理論に照らして、ありうることだ。

(注.「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』 3)ツアラの『ダダ 宣言1918』とブルトンの『反芸術』」[『百万遍』4号]を参照.


 そのように考えると、『ナジャ』構想にあたっても、文学少年だったブルトンが耽読したにちがいない『椿姫』か『マノン・レスコー』の、強烈な記憶の痕跡が、とつぜん「プロレタリアート」のあたらしい意味をおびて作用したとしても、なんらさしつかえない。これぞ、アンケート回答にいう、「作家・芸術家は・・・・・・ 例外的にじゅうぶん充たされた精神的条件のなかでは、あらゆる立場の相対的性格はプロレタリア的立場の見地から把握することは可能である」を実証するものであり、かれのいう「作家・芸術家の感性と誠実の問題」の直接的意味はそこにあるだろう。

 むろん、ブルトンがここでいうあらゆる立場は、シュルレアリスムの立場であるが、プロレタリア的立場から把握できるその相対的性格がシュルレアリスムとコミンテルン共産主義の関係であり、以下それが問題になり、3節から4節にわたってのべられているとはいえ、この関係把握はたんにそれだけでなく、のちのコミンテルン文化政策批判、たとえば、かれの「社会主義リアリズム」批判などに関係してくるし、戦後日本のあの状況にもふかく関わるとおもうから、ブルトンのいうシュルレアリスムの立場の要点をのべておかねばならない。

 ブルトンのいう「まだ公認されていない詩の決定論

(déterminisme)」とは、シュルレアリスムの表現技法(アート)であり、弁証法的唯物論は、マルクスの『共産党宣言』と『資本論』にあらわれた外的出来事の理解である。そしてブルトンは、その 「二つの発展様式は緊密に類似している」という。

(注.『共産党宣言』は、いうまでもなくエンゲルスとの共著である. にもかかわらず、ブルトンがマルクスだけをあげているのは、コミンテルンのマルクス偏重を反映しているかもしれない。かれ自身はエンゲルスをたかく評価し、『通底器』などでも、しばしば引用している.)


 ブルトンは、ここでロートレアモンの言葉を、マルクスとの対比基準にあげているが、これはシュルレアリスムの思想を示すとともに、このアンケートに「(労働者階級の願望を表現する)代表的な文学はなんでしょうか?」があるから、論旨とははすこし撞着するが、それに答えることもあったのだろう。

 しかし、ブルトンとしては、真摯に語っているから、比較するかれの意図をさらに忖度してみよう。

 ブルトンが、ここにかぎらずしばしば援用するロートレアモンの言葉は、「手術台(解剖台)のうえで、ミシンとコウモリ傘が偶然出会ったように美しい」と「詩は万人によってつくられねばならない」のふたつである。

(注. 原文は「解剖台」だが、ブルトンはこれを説明して生と死が共存するベッドとしているから、あえて手術台とした.19世紀のロートレアモンの時代、麻酔術は開発されたばかりで、手術は死と隣あわせだった.)


 「手術台のうえで、ミシンとコウモリ傘が偶然出会ったように美しい」は、シュルレアリスムの「美」として、『ナジャ』を終えるにあたり用いた「美は痙攣的なものである、さもなければ存在しないだろう」の〈痙攣する美〉や、〈人をことなった生活環境におくこと、違和感〉を意味するデペイズマン(dépaysement)の技法とならぶシュルレアリスムの美の定義で、それらはみな近似する定義だろうが、注目するのはそれではない。

 「手術台のうえで、ミシンとコウモリ傘が偶然出会ったように美しい」は、「火のように美しい」とか、「月のように美しい」とか、「ダイヤモンドのように、・・・・ クレオパトラのように美しい」とはまったく異なる、機能に存在価値があるモノの組合せ、機能の組合せが顕現する美しさである。

 ロートレアモンがこれを記したのは『マルドロールの歌』(1868年)であり、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』は1848年に刊行され、『資本論』1~3部は1867年から1894年に刊行されている。18世紀までの唯物論から、物質と精神を加味した階級闘争の理論へ移行した弁証法的唯物論は、製品革命でもあった産業革命とフランス革命からうまれた社会という「ロートレアモン」とおなじ社会の、文学理論と経済・政治理論である。

 いまひとつのロートレアモンの言葉、「詩は万人によってつくらねばならない」は、かれの死の年、1870年に出版された『詩篇(ポエジー)』のなかの言葉である。これは、コンテクスストからいっても、「詩は万人によって読まれねばならない」ではなく、「万人によってつくられねばならない」としていることからも、「万人」を「プロレタリアート」に連結させるのは、ブルトンならずとも、直感的には無謀ではなかろう。

(注.「詩は万人によってつくられねばならない。一人によってではない。哀れなるユーゴ! 哀れなるラシーヌ! 哀れなるコペー! 哀れなるコルネーユ! 哀れなるボワロー! 哀れなるスキャロン! 奇癖、奇癖、奇癖」という文脈のなかであった.「プロレタリアート」を財産区分から階級区分に昇華したのとおなじ思考がある.)


 だが、こうしてのべてきた「類似」は、ブルトンがここでのべていることの前提である。

 ブルトンがいう、「緊密に類似している」というのは、「二つの発展様式(les deux ordres d'évolution)」であり、正確にはうえのようなことではないが、それでもなおこうしたことを前提としていたにちがい。シュルレアリスムも「共産主義」も、進化(évolution)の必然的成果である。ともに、「すでに存在している他(ほか)の芸術や政治・経済社会制度との比較において位置づけられ」、そこからさらに道を切り開いている(進化している)のだ。そのうえそれらは共に、まだ1929年のフランスの現実社会で公認されていないというのだ。

 しかし、ブルトンが言いたい「緊密に類似している」のは、現実のそれらの境遇ではなく、むしろ、イタリック体で強調された「どちらも容赦しないという共通点」のほうだろう。

 ブルトンはすでに、シュルレアリスムの想像力はなにものも容赦しないと、『シュルレアリスム宣言』をはじめいたるところで、文字通りそう記したり、また、独立戦争などにたくしてあらわしている。そしてブルトンが、どちらもそうだと確信しているというのは、おそらく、『共産党宣言』に書かれた「共産主義者は、これまでのすべての社会秩序の暴力的転覆によってのみ自分の目的が達成されることを公然と宣言する」などを念頭にした発言だろう。しかも、この宣言を、1918年のロシアは実現したのだ。マルクスの予見が、容赦しないものであったのはいうまでもないことになる。

 だがブルトンが、ロシア革命遂行の当事者だった、レーニンでなくマルクスだけをあげているのには留意しておかねばならない。マルクスの「共産党宣言」は、予見(思想)としてのべられたもので、レーニンの革命は現実化した行為である。マルクスの革命は過去、現在、未来すべての革命をなお指向するものである。

 ブルトンがここでレーニンをあげていないのは、マルクスの予見とマルクス主義思想を区分しているからではなかろうか。説明があいまいでわかりにくいのも、精神事象をあつかうシュルレアリスムを、外的出来事をあつかうレーニンらの「マルクス主義」と区別しながら、同等視しているからかとおもう。ブルトンの真意は、マルクス主義は政治・経済体制の革命的改革をおこない、シュルレアリスムは文化体制の革命をおこない、両革命の相互作用によってはじめて社会体制の革命的改革が実現するというものだろう。

 こんな主張は子供じみたばかげた空論のようにきこえるかもしれない。ブルトンが、とうじとはいえ、『共産党宣言』や『資本論』をどこまで読み、どのような理解をしていたか、回答文やその頃書かれたものではわからない。かれは、それらを『マルドロールの歌』とおなじ、文学的おもしろさで読んでいたともおもえる。つごうのよいところだけ読み、解釈していたのではなかろうか。あるいは、だれかからきいた耳学問の理解である。

(注. フロイトの著作さえ、とうじの翻訳状況から、読んでいないという説もある.大部の『資本論』を全文精読したとはとてもおもえない.)


 とはいえ、ここでそのようにいうのは、けっしてブルトンを軽んじるためではなく、むしろかれの直感的把握を評価するためである。

 ブルトンがおもう、「マルクス主義」は外的出来事をあつかい、精神事象のあつかいは、文化体制転覆をはかっている分野にまかすべきは、直感的言い分である。直感とはいえ、それは事実に即している。もしマルクスが『資本論』で、アレクサンドル・デュマの小説やドラクロワの絵画を論じたり、「芸術論」や「文学論」を書いたりしたら滑稽そのものだし、また、執筆時のマルクスもエンゲルスも、そんなことは毛頭おもわなかったろう。

 ところが、ロシア革命達成後になると、しょうしょう状況が変わってくる。レーニンはかれの見地から文学や芸術論を書き、コミンテルンなどは、かれの政治論文と同列にあつかうようになる。レーニンのこの分野の素養はわからない。しかし、すくなくともダダやシュルレアリスムなどのアヴァンギャルディストらが転覆を願うブルジョワ芸術・文学への問題意識などとはまったく無縁の文学・芸術理解だったにちがいない。

 レーニンには、時代の客観的偶然といえなくもない、幻の逸話がある。ツアラたち、ダダイストたちがチューリッヒでキャバレー・ヴォルテールを運営し、「ダダの夕べ」を開催していたころ、レーニンもまたおなじ都市(まち)に亡命していた。かれの仮住まいは、ダダらのカフェ・シアターに近かった。レーニンのチューリッヒ滞在は、1916年2月から1917年4月の二月革命直後までだったから、無聊を日をすごすレーニンが、最盛期の「ダダの夕べ」を一度ぐらいのぞいていたとしてもふしぎではない(注.その可能性を誇張した研究書(?)もある.)

 だが、そんなことはけっしてなかったろう。18世紀半ばのマルクスに、ロマン主義やバルザックやディケンズの小説が、思想対象にならなかったように、1916年のレーニンには、ダダの芸術運動など、異次元のできごとである。

 とはいえ、こうしたありうべからざる、もしあったら滑稽と紙一重の文学・芸術観が、ロシア革命10年後になると、すこし本気でいわれるようになる。すでにブルトンが回答しているこのアンケート「労働者階級の願望を表現する文学や芸術が存在しますか? その代表的なものは、なんでしょうか?」にも、その気配がある。

 「マルクス主義」の立場からの芸術家への質問である。表面的にはさほど問題もない無邪気な質問のようにきこえる。しかし、この質問自体がすでに先験的であり、「存在しますか?」とたずねながら、「その代表的なものは、なんでしょうか?」とたたみかけて問う、小学校の先生がよくやる、回答を誘導する手口である。もしこれが奸策でなければ、うえからの目線の査問のようだ。

 ただこのていどではひかえめであり、多少とも意見聴取の体裁をとっているだけに、看過しそうになる。

 だが、ブルトンはいちはやく反応して、実質的な反論をしている。

 かれは、「労働者階級」を一回つかうだけだ。あとことごとくは、プロレタリアプロレタリアートで回答している。芸術・文学について語るときはそれしかありえないからだ。しかも、かれは暗黙に、そのことを説明しているのだ。文学・芸術は「作家の作品」という個人の具体的モノによる表現という指摘だ。

 この説明によると、このようなアンケートの問い、「労働者階級の願望を表現する文学や芸術」といわれても、その労働者がなにを指すか、具体的に示されなければ答えようがない。工場労働者か農業労働者か、建設労働者かサービス業労働者か、肉体労働者か知的労働者か、セールスマン、ダンサー・・・・までいれるのか。俸給をもらっている者なのか? 俸給でも、日給、時間給、出来高払い、月給、年俸と、さまざまである。文学・芸術作家が「作品」制作をしようとしても、制作の契機となる具体的イメージが結実しようがない。いまにいたるまで、労働者小説とか労働者芸術なるものが定着していなことからもわかる。あったとしても、労働者が制作した作品である。

 プロレタリアなら、さきにものべたように、日本とはちがい西欧社会では、古代ローマの第6階級由来の貧民層をあらわす言葉だったから、「プロレタリア階級の願望を表現する文学や芸術が存在しますか?」は、なにがしかの身近な経験から類推できるから、芸術・文学「作家」への問いとして成立する(注.ラテン語習得は、日本の「漢文」のように、中等教育以上の基礎教育である.)

 そのような理由から、プロレタリア小説とか絵画は、社会主義がらみの用語として一応成立することができたのだ。しかし、そうした「作品」は、いちども大衆に注目されたことがなく、’60年代「デモ・ゲバ」社会でも、プロレタリア文学・芸術は隆盛になるどころかかえって衰退し、事実上消滅した。ブルトンのいう、「(社会)革命以前の時期では、作家・芸術家は・・・・本来それを表現できない」は、アンケートの問うような「プロレタリア小説」であっても、不毛におわることを直感的にとらえた発言でもあろう。

 そして、ブルトンのこの指摘はそれいじょうのことを示していた。

 それは、不毛どころか、プロレタリアートが有産階級(ブルジョワ)に対比された無産階級をさすだけなら、皮肉なことに、本来の意味でのプロレタリア文学・芸術にふさわしい「作品」は、ちがった分類やちがったあつかいであらわれている。ブルジョワ芸術に反抗したダダ にはじまる20世紀アヴァンギャルド「芸術」は、いささかこじつければ、イタリア未来派にせよ、それらすべては、当時の旧来ブルジョワ美意識に反発する「プロレタリア芸術」といえぬことはない。

 ‘60年代日本でもとくにこの傾向は顕著にあった。その頃、日本で人気になったヤクザ映画はまぎれもなくプロレタリア映画である。大島渚の「愛のコリーダ」もそうなるかもしれない。このような視点をもてば、「デモ・ゲバ」風俗の’60年代日本はプロレタリア芸術・文学の全盛時代だった。本論ですでにのべたように、大衆(プロレタリア)に媚び、懐柔しようとした「読売アンデパンダン展」は、過激なアヴァンギャルド芸術に追いつめられて廃止においやられた。ブルジョワ新聞の正体が暴露されたのである(注. 本論「第2章 4) ③-1.『読売アンデパンダン』展」[『百万遍』6号]参照.


 小説についても、本論が当初から問題にしている『風流夢譚』は、ブルジョワ小説作法を無視し、大衆の目線、すなわち、大衆はこのようにみていると書いて、ブルジョワ出版社を困惑させたことでは、まぎれもなくこの範疇にはいる小説であり、深沢七郎はプロレタリア作家である。「庶民だなァ」を口癖にした深沢の作品は、『楢山節考』にしても、とうじ書かれた『数の年齢』をはじめ、プロレタリア小説の括り方で分類するのがふさわしい作品群かとおもう。そうしたことは、漫画が小説や、まれには、詩と合体したプロット・漫画の劇画では、もっとはっきりしている。白土三平の『カムイ伝』からはじまり、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』、ジョージ秋山の『銭ゲバ』などは、『鉄腕アトム』の手塚マンガは埒外にあるが、新規プロレタリア芸術と言えるだろう。ところが、さきの映画にせよ『風流夢譚』にせよ、劇画、造形芸術、音楽にせよ、それらすべては、任侠映画とかエロ映画、キワモノ小説、妖怪漫画や残酷漫画、あるいは、やたらむずかしいアヴァンギャルド芸術に分類し、整理されてしまった。つまり、ブルトンのいう、ブルジョワ的に形成されている作家・芸術家でも、充実した感性と誠実さがあれば、あらゆる立場はプロレタリア的立場からそれを想像できるし把握することができることを、’60年代のこれら芸術家たちは、屈折したかたちで表明していたのかもしれない。それにたいして、こうしたレッテルをつけたのがとうじのハイブローの知識人だったということは、とうじの知識人たちが、充足した精神状態にあったわけでなく、真の感性も誠実さもじつは欠如していたからかもしれない。

 ところがそればかりではなく、とうじの「共産党」は、あの社会主義リアリズム芸術という公認芸術にこだわりつづけ、文化政策上、このような芸術に目もくれなかった

(注. ソ連邦をはじめ第三インターナショナル傘下の各国共産党の文化方針である.日本でも、良心的作家であり日本共産党中央委員だった中野重治が、『風流夢譚』について、とうじどうのような評価をしたかについては、後日、詳細にのべるつもりである.)

 

 第二次世界大戦後も遵守されていたこの芸術・文学観のもとで、こうした「作品」を無視するどころか敵視する文化政策が制定されたのは、「社会主義リアリズム」が公式化されたときからだが、その気配ははやくもこのアンケートの土壌で蠢いている。それが、「労働者」へのブルトンのこだわりだが、これは、すでに見られたように、社会主義文化すべてにかかわってくるようなものだ。そこにブルトンのこだわる理由があるのだろう。

 したがって、ブルトンのこだわりの背景と、かれの期待の在処を見きわめておかねばならない。それは、のちのアラゴンやエリュアールが、シュルレアリストでなくなる発端を説明するからである。

 戦後の日本共産党でさえ、まだ、その呪縛からのがれられなかった「社会主義リアリズム」の美意識はこのように形成されたものである。(注. 戦後の日本共産党の選挙ポスターが一例となる美意識である.)


 ソヴィエト社会主義共和国連邦やコミンテルンの各国共産党で、かれらが金科玉条とした社会主義リアリズムというのは、労働者に関連した題材を労働者がわかるように写実的に表現し、党の宣伝をはたす芸術・文学のことである。社会主義リアリズムがこの名称で公式化されたのは、スターリンの独裁政権が確定する’30年代後半からだが、ブルトンはいちはやくそれに反応したとおもわれる。

 1929年にだされたこのアンケート自体に、質問文で「労働者階級」が用いられていたのも、そうした芸術思想のはじまりだろう。

 ロシア革命によって成立したソヴィエト社会主義連邦共和国は、労働者、農民、兵士の評議会(ソヴィエト)によって運営される「国家」というのが建前であり、国旗は赤地に労働者と農民を象徴する槌と鎌のデザインだった。プロレタリア共和国ではないのだ。

 この国家組織は、労働者、農民、兵士の各単位評議会の決定を上部評議会で集約し、最終的には各共和国議会で評議し、必要なものを連邦会議で決定し、連邦運営をおこなうのである。

 そこで、国家文化政策の最大の関心事は、各単位評議会を構成する労働者、農民、兵士に国家運営方針をいかに周知徹底させ、上部決定が施行されたとき、献身的に遂行させるかにある。このとき、兵士というのは古来、組織行動と同義だから、帝政軍隊を解散して、地方コサックを統合し、赤軍を成立させれば、意思統一はさほど困難ではないだろう。農民については、識字率が低く、基礎教養が欠如していたから、とりあえずは別途の文化政策をもうけるとし、芸術家に望まれる対象は労働者になる。

 したがって、さきの 「労働者階級の願望を表現する文学や芸術が存在しますか? その代表的なものは、なんでしょうか?」も、芸術家にとっては答えようのないアンケートだが、質問者には、いかなるあいまいさもない、模範回答のある問いである。

 「労働者階級の願望を表現する文学や芸術が存在しますか?」のフランス語原文では、「願望」は〈désir〉ではなく

〈aspiration〉で記されている。〈désir〉なら〈欲望〉をふくむ「願望」だが、〈aspiration〉は、〈神への憧れ〉のような「熱望」である。これいがいにも、〈良い年を願う〉というような、空漠とした「望み、期待」をあらわす〈souhait〉もあるが、その語でもない。

 ここで、文学や芸術が表現すべき「労働者階級の願望

(aspiration)」のイメージがあきらかになる。

 「労働者階級」は、評議会構成員になり共和国や連邦の運営に参画できるような、たんなるプロレタリアではない労働者階級である。そして、かれらの願望とは、意志的で一途な願望である。芸術題材なら、宗教画や宗教音楽でしめされている真摯な「熱望」である。

 ならば、労働者階級がそのように「熱望」する題材はどうなるのか。給料をあげてほしいとか、贅沢な暮らしがしたいという個人的日常生活の「願望」表現では、いささか場違いになる。とするなら、どうしても労働者国家の確立と繁栄とか、指導者崇敬とか、やはり宗教画の天国、極楽図や神像に似たものになる。ならば、「その代表的なものは、なんでしょうか?」についても、かなり具体的なイメージが思いうかぶことになるが、どうだろうか。

 弁証法的唯物論にもとづき、「宗教はアヘン」だと大衆を諫めたイデオロギー政党のアンケートが、まさかそんなものまで想定した質問でなかったのはたしかだ。

 しかし、すでにここには、文学・芸術を、宗教画のような宣伝・教育に関連させているのも、またたしかである。

  そしてまた、ブルトンの主張にも、現実の社会行動としては、それとは決定的に異なるとはいえ、「宣伝・教育」については、微妙にかさなる部分があるのもたしかだ。文学・芸術の役割を「宣伝・教育」とするのが「共産主義」政党の立場なら、「宣伝・教育」を文学・芸術はおこなう、と解することができるのがブルトンの主張だった。しかし、ブルトンでは、この「文学・芸術」は、一般的文学・芸術ではなく、「詩の思想」を核心におく「シュルレアリスム」である。そして、「シュルレアリスム」は人間文化にインパクトをあたえるという確信がある。

 このようにいうと、アンケートの立場とシュルレアリスムはまったく異なり、ブルトンとしては答えるに価せずとしてもよさそうだが、かれは回答をしたばかりか、『シュルレアリスム第二宣言』決定版にアンケート回答を組みいれている。ということは、「共産主義」政党思想を本質的には肯定しているとは言わぬまでも、社会行動をおこなううえでは、共に行動することを期待しているからだろう。

 この期待には、重複するところもあるが、二つの目的が托されている。ひとつは、すでにさまざまところで表明されているような、「社会主義」的世界観の共有である。ただし、この「社会主義」はきわめて広義にとらえられ、「シュルレアリスム」をふくむものであり、また、「シュルレアリスム」と同義にもなる「社会主義」である。というのは、社会主義は、階級差や貧富の差のない平等な社会を実現しようとする主義だが、自動筆記(écriture

automatique)が象徴するシュルレアリスムもまた、フロイトのいう超自我とかイドの無意識とか、ユングの集合的無意識の思想を課題にする主義(-isme)である。さきにも述べたロートレアモンの「詩は万人によってつくられねばならぬ」は、まさに、詩の社会主義である。過去の有名詩人について、「哀れなるユーゴ! 哀れなるラシーヌ! 哀れなるコペー! 哀れなるコルネーユ! 哀れなるボワロー! 哀れなるスキャロン! 奇癖、奇癖、奇癖」は、芸術における「階級や貧富の差のない」ことを表明したともいえる。だから、シュルレアリスムの創設であった『シュルレアリスム革命』誌(創刊号)の巻頭に、「新しい人権宣言に到達せねばならない・・・・ われわれはシュルレアリスム革命の前夜にある.諸君はこれに参加できる」が掲げられていたのだ。現実の「社会主義」が革命によって、旧制度の転覆をおこなうように、シュルレアリスムも革命をはかるということだ。

 ブルトンが、「共産主義」政党思想に共感し期待するひとつの理由はこのようなものだから、この期待は、シュルレアリスムの根源にふかくかかわるものだろう。

 その期待に憶測できるいまひとつは、うえの期待は創成期に参集したほとんどすべてのシュルレアリストの期待だろうが、こちらの期待はかならずしも共有されていない。これは、1928~9年当時のブルトンを中心にしたシュルレアリストの期待であって、創成期いらいのすべてのシュルレアリスト、たとえばアルトーやピエール・ナヴィルらのものではなかった。それは、ロシアで成立している政党や政権への期待である。

 19世紀第一四半期からすでに、社会主義はマルクス・エンゲルスだけでなくプルードンやバクーニンの社会主義思想としてあらわれていた。こうした社会主義思想は、実践され発展して、20世紀初頭では、それぞれ政治実績をもっていた。アナキズム(無政府主義)がそのひとつである。アナキズム思想にもおおくの共鳴者がいた。本稿でさきにのべた、アラゴンのベルニェへの反論、「ロシア革命ですか? 肩をすくめざるをえないことをおっしゃる。思想の段階では、それはせいぜいのところ、はっきりしない政変です」には、マルクス・レーニンの国家社会主義にたいする、こうしたアナキズム思想の反映があったのだろう。

 アラゴンはたちどころにこれを撤回し、ブルトンと共同歩調をとったが、ロシア革命の成果は明白とはいえ、すべての「社会主義」賛同者の支持をえていたわけではない。

 そうしたなかで、ブルトンは行動的には、「ロシア革命」を達成したマルクス主義政権へ一貫した関心を示しつづけ、アナキズムを援用したことはない。これは元来ブルトンが、政治少年だったことが一度もなく、政治活動に興味がなかったのをあらわすのかもしれないが、けっしてそれだけではないだろう。

 ブルトンは、アンケートの回答で、「作家・芸術家は自身の表現手段と不可分のものであり、完成をめざす作品を、彼ら自身のなかで、自分だけのために、考察することを彼らに強いるものである」とのべているように、芸術を「作品」表現と考えている。「作品」あっての芸術家であり、芸術家の思想表現は「作品」によらずしてはありえないとしているのだ。

 芸術革命を実現するには、政治・経済(物質)の革命との相互関係なしには達成できないというかれの主張も、こうした思想と密接に連動している。かれのなかでは、『シュルレアリスム革命」誌自体も「作品」であり、その刊行、出版は低レベルの芸術革命の遂行となろう。一冊の『シュルレアリスム革命』誌が成立するには、表現媒体、発表媒体という、経済的、政治的領域が相互的にふかくかかわってくる。

 ブルトンは、そうしたことを「今日の芸術の政治的位置」のなかで間接的にのべている。(注.「シュルレアリスム国際展」[1935年]のさいプラハでおこなった講演.[『シュルレアリスムの政治的位置』収録])


 さきにふれたソヴィエト社会主義共和国連邦の国旗のデザインについてである。この槌と鎌をくみあわせたデザインは、ピカソも絶賛した画期的国旗であり、ソ連邦ならでこそ実現した、シュルレアリスム芸術をおもわせる国旗だと語った。

 たしかに、1922年という制作された時代を考慮すると、あのデザインは国旗デザインとして、画期的「作品」である。とうじなら、本・雑誌のイラストとしてもなおアヴァンギャルドにとどまるだろうが、ましてや国家を象徴する国旗デザインである。本・雑誌とは比較にならぬ存在感と伝達力を発揮する国旗である。こんなことは、旧体制転覆をかかげる社会主義国家のみで実現しえた、芸術作品だろう。現代ロシアの国旗が、フランス国旗の旧来の範疇になおとどまっているように、「すでに存在している他(ほか)の作品との比較において位置づける」ならば、この国旗デザインは今なおアヴァンギャルド芸術性をたもっている。いかに画期的だったかをあかすものである。

 この国旗が制定された1922年はレーニン存命中であり、かれはなんらかの関与をしたかもしれないが、政治部門からの具体的指示はなく、タトリンではないまでも、だれかロシア・アヴァンギャルディストの作品だったのではなかろうか

(注. 槌と鎌使用の経緯は、ブルトンのいう「手術台、ミシン、コウモリ傘」的想像力の産物だったのか、それとも、さきに記したような政治的指示があったのかわからない。国旗制定の経緯を筆者は調べていない.労働者、農民、兵士団結を象徴するものというていどの依頼だったのではなかろうか.ウラジミール・タトリンは、レーニンの依頼により、「第三インターナショナル記念塔」の設計をおこなった。これは予算的に実現しなかったが、ロシア・構成主義の

「Unbuit Monumentの作品」として存在している.(図版1))


図版1: タトリン 『第三インターナショナル記念塔』


 ブルトンがアナキズム社会主義ではなくマルクス思想の社会主義に関心をもち、コミンテルンやそのフランス支部であるフランス共産党へ接近したのには、こうした期待がふくまれていたようにおもわれる。ブルトンは思想家であるとともに、行動者である。かれの「シュルレアリスム革命」は目的であるが、その実現を一挙にはかるのでなく、また、できるはずもないのをじゅうぶんに理解しているリアリストである。そして、段階的に発展する「シュルレアリスム革命」の途上でシュルレアリスム自体も変態し発展することを前提としているのは、創設からこの5、6年間実施した運動の経緯からでもじゅうぶん推測できる。かれのレアリスム(réalisme)はシュルレアリスム(sur-réalisme[on-realism])なのだろう。

 ただし、こうした段階的革命行動には、すでに、このアンケートにもしのびこんでいたように、シュルレアリスム革命そのものと対立し、その遂行を妨げ、シュルレアリスム自体を劣化、形骸化させる性質がある。

 かれは、そのことを知っており、これにたいして敏感に反応している。このアンケート回答でも、回答すること自体が政治・経済革命との相互性を前提とし、言うべきことについては、まさに予言とおもわれるほど、核心的な指摘をしている。

 それは、冷厳なリアリストの視点からのべられたこの冒頭部と結論部にこめられている。

 冒頭において、かれは、「労働者階級の願望を表現する文学や芸術が現在、存在するとは、私には信じられない」とまず述べた。

 コンテキストのなかでこの意味することは、いままで詳述してきたが、かれが信じられない理由はそればかりではないだろう。このようなアンケートをおこなったコミンテルンにむかって、かれが真に言いたかったのは、政治・経済革命と芸術革命は不可分の関係にあるが、現行のひとつの組織だけがそれらを同時に指導したり担当したりできるものではないことだ。なぜなら、政治・経済は制度的であり、芸術はまず個人が根幹にあるからだ。かれはそのことを、さきに解釈した「作家・芸術家は自身の表現手段と不可分のものであり、完成をめざす作品を、彼ら自身のなかで、自分だけのために、きわめて特別な角度から考察することを彼らに強いるものである。その作品が、生命をもつためには、すでに存在している他(ほか)の作品との比較において位置づけられることが必要であり、ついで自分自身で、道を切り開かねばならない」のなかで、芸術革命の特殊性を婉曲に言っていたのだ。

 そして、結論部では、「プロレタリアート的社会体制のなかにおいてさえ、そのような文化がまだ実現されえていないという確固とした理由から、だれひとりプロレタリアート文化を標榜できないような時期にあっては、いわゆる『プロレタリアート的』文化・芸術を擁護したり説明しようとする試みすべては、マルクス以外のすべての社会解釈の試みと同様に、わたしには虚偽であるようにおもわれる」と、のべている。

 ロシア革命がロシアで達成したのは政治・経済的社会体制の「革命」であって、文化的社会体制の革命はまだなされていないという状況判断である。この判断はたんなる事実の指摘ではなく、この判断に立っていないがために、その政治・経済体制そのものさえあやふくする事態がおこるという予見がふくまれている。かれが、「虚偽」というのは、やがては「社会主義リアリズム」の強制となり、プロレタリア文化を成立させるどころか、プロレタリア社会体制自体を逆に虚弱化させるということだ。

 このブルトンの関係把握は、のちのアラゴンやエリュアールにせよ、また、’60年代日本の良心的左翼芸術家や文学者、知識人らにできなかった理解である。

 そしてまた、ここでさりげなく挿入している「マルクス以外のすべての・・・・」とのべているところにも注目しておかねばならない。ブルトンが直接いっているのは、共産党宣言でいわれた「これまでのすべての社会秩序暴力的転覆によってのみ目的が達成される」という社会解釈にあるのだが、かれが察知しているのは、マルクスのこの解釈いがいの解釈がおこなわれていること、あるいはこのマルクスを否定する気配にたいしてではなかろうか。1929年の当時、フランス共産党員になったかならずのかれが、モスクワで、スターリンが獲得しつつある権勢とその動向という内部事情を知っていたはずはない。しかし、当時のフランスの左翼知識人たちで、国外追放されてもなお多大な影響力を発揮しているトロツキーへの賛同をする傾向が多くみられたなかで、その素振りをまだ見せることなく、ロシア共産党への部分否定を根幹にふれておこなったものはすくない。行動者としては、こうした非行動の支持表明より部分否定のほうが、現実的な行為に直結するものである。

 この困難な状況判断による現実行為として、『シュルレアリスム第二宣言』を巻頭に掲げた『シュルレアリスム革命』誌の終刊号と、新しい機関誌『革命に奉仕するシュルレアリスム』の刊行がおこなわれることになる。「シュルレアリスム革命」誌グループを「革命に奉仕するシュルレアリスム」誌グループへ移行する展開である。

 機関誌名変更がしめすこの再編の意味は、いままで述べてきたことからもあきらかである。両機関誌に用いられている「革命」に託しているものである。ブルトンは、なんら変わることのないおなじ「革命」だと言うかもしれないが、微妙な相違がある。それとも、漠然としていた「シュルレアリスム革命」が「革命に奉仕するシュルレアリスム」になって、「シュルレアリスムの革命」の立場が明確になったとしたほうがよいのかもしれない。『革命に奉仕するシュルレアリスム』では、シュルレアリスムが奉仕する「革命」は、芸術革命と政治・経済革命である。それは、不可分だから、あらためていうまでもないようだが、そうではない。『シュルレアリスム革命』誌成立以後でも、かれらの課題として、それらの「革命」は同時に問題にされたのではなく、個別の問題として対応がもとめられてきた。シュルレアリスムはその両革命に奉仕するのである。ただしここでは、ブルトンやアラゴン、エリューアールらの芸術グループが奉仕するのではなくシュルレアリスムが奉仕するのだ。シュルレアリスムは、すでに『シュルレアリスム宣言』や『シュルレアリスム革命』誌であきらかにされてきたように、元来芸術家の芸術集団ではなく、現実批判と現実解釈の「文化」運動である。

 だから、シュルレアリスムが奉仕するのは、政治・経済革命であると共に芸術・文化革命なのだが、そこにはトートロジーがある。しかし、この同語反復は、シュルレアリスムの自律性の主張であり、創設期の『シュルレアリスム革命』誌の立場はなんら変更されず、ただ、個々の「革命」を明確に位置づけたようにもみえる。   

 しかし、理論的にはそうなるのだが、これを現実に反映するのはきわめてむずかしい。彼らが立ち至っているこの困難な状況を具体的に説明したのが、「なぜ『シュルレアリスム革命』誌は刊行を停止したか」の添書をもつ『シュルレアリスム第二宣言』だった。そして、ブルトンはそのときのシュルレアリスムの位置をのべるにあたり、まず、刊行停止理由ともなる、『シュルレアリスム革命』誌の不本意なメンバーを列挙することからはじめる。

 ブルトンは、まず、芸術革命の至上主義者を指摘する。創設時のシュルレアリスムで、シュルレアリスムの歴史にのこる活躍をしたスーポーやアルトー、デスノスを筆頭にマソン、ジョルジュ・ランブール、ルネ・カリーブ、ジョルジュ・デルタィ、ロジェ・ヴィトラックらであり、彼らの政治的にあいまいで、迎合的な社会行動を根拠に、名指しの非難をする。(注. 彼らの名を列挙したのは、別途検索できる芸術家、思想家だからである.)

 また、他方では、初期『シュルレアリスム革命』誌の編集責任者のひとりであり、「マルクス・レーニン主義政治」支持をいちはやく主張していた思想家ナヴィルをはじめ、「まず最初に、そして常に革命を!」の声明パンフレットの共同提案者だった、ポリツェルとかモランジュ、そして『クラルテ』のルフェーブルさえ弾劾した。表面的にはかれらの言行不一致の欺瞞性の指摘だが、ある意味では、自身の「待機する力」からの脱却であり、あれほどまで確信的に企画された『内乱』誌が、フランス共産党の介入によって無に帰したことの自己批判だったのだろうか。

(注.「待機する力」は、ブルトンの『シュルレアリスムの政治的位置』(1935年)に収録されていない.また、ブルトンがこれについてのちに語ったことはない.さらに、『クラルテ』誌は何事もなかったように再刊された.)

 

 そして、ブルトンは、そうした今あるシュルレアリスムの状況について、宣言中でつぎのような悲痛な説明をしている。


 このようなあらゆる種類の、逸脱、豹変、背信が、わたしが身を置いたばかりの場所においてさえおこなわれるとは、まさによほどみごとな愚弄の花壇でなくてはならず、一時に数名以上の無私無欲な活動は期待できそうにない。かりに革命の任務が、その完遂に必要な厳しさをもってしても、一気に悪人と善人を、また偽物と本物をより分ける性質をもつものでなければ、あったところで、被害ばかりが大きくなるのだろうが、ある者の仮面を剥ぎ、他の者にはその素顔を不死の輝きで飾る仕事を外的な一連の事件が引きうけてくれるまで待たねばならないとすれば、厳密な意味でその任務でないもの、またたとえば第二の任務が完全に第一の任務と溶け合わない領域にあるシュルレアリスムの任務の場合は、いっそう惨めなことにならないとどうして言い切れようか。たえずその根本的基盤の再検討を、言いかえれば心が「燃えて」は冷めることを願う賭博的明日への問いかけと結びつくものとなるが、その活動の発源的原則への復帰を求める、心萎えるおもいと、千鳥足と、離脱の絶え間ない連続のなかで、そしておそらくはそれと引きかえに、シュルレアリスムがみずからを表明するのは当然である。(下線青文字は原文がイタリック)(スラッシュは筆者)


 一読すると、ことに文頭の 「~ 一時に数名以上の無私無欲な活動は期待できそうにない」までの一節などは、独善的な一方的発言のようにきこえる。しかし、これを語るかれの心象風景には、それなりの悲痛な緊迫感がある。キリスト教伝説などをもちだせば、かれの顰蹙と怒りをかうのは承知のうえで、あえて喩えれば、かれが身をおく風景は、キリストが最後の晩餐をおこなった食卓風景だろう。そこには、あらゆる種類の、逸脱、豹変、背信があった。さらにまた、荊棘の冠をかぶり十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼるキリストが歩んだ道の両側には、愚弄と侮蔑と嘲笑をなげかける者たちが待ちかまえていた。ここに記されている「花壇(un beau parterre)」には、〈芝居小屋の平土間後方席〉の意もあるから、無責任な野次り専門のアマチュアたちというところかもしれない。

 こうした孤高の使命感は、ダビンチの「最後の晩餐」にこめられた情念であり、キリスト自身がなにをおもっていたかではない。しかし、あれを描いたダビンチの情感であり、あれを観た者が感得した情感だろう。あんがい、ルネッサンス期を生きたダビンチは、ブルトンのこの一節のおもいを共有していたのかもしれない。

 このようなことを言うのは、ブルトンにこの一節を書かせた感情は、’60年代日本のアヴァンギャルディストたちのなかにも、このようなおもいを抱いたことが者がいたかもしれないということである。集団運動だった20世紀アヴァンギャルドの指標である。

 ただ、ブルトンのばあい、’60年代アヴァンギャルディストの大半とちがい、この孤立の道を遠くまで歩きつづけた。本論の関心もそこにあるから、さらにブルトンの言うことをおってみよう。


 このような事態にたちいたった、ブルトンのいう理由は、以下のスラッシュまでに記されている。ひとことで言えば、政治・経済体制の「革命」は、即(そく)、文化的社会体制の「革命」でないからであり、そして、ブルトンのなかでは、政治・経済的革命がおこるまで、それを担当しないシュルレアリスムは、それにそなえながらシュルレアリスムをおこなうとのことである。

 ただここでは、かれのいう第一の任務第二の任務のどちらを強調するための発言なのかあいまいだ。あいまいなのはそればかりでなく、うえにした要約でも、「外的な一連の事件が引きうけてくれるまで待たねばならないと」としているから、「政治・経済的革命がおこるまで」としたのだ。これもまた、さきのアンケート回答で、マルクスの予見に関連させて、ロシア革命を「外的出来事」としていることによっている。

 それらのブルトンの記述は、とらえ難(にく)いが、意図的な韜晦ではなく、かれの思想の流れをそのまま記そうとしているからだろう。つまり、伝達のためでなく、みずからの思想表現のためである。

 だから、なんらかの主張とか、説明とか弁明と読むと、あいまいにみえることがある。このような見当外れの解釈が必要になるのだ。

 ここにもそうしたことがおこっている。あえて解釈すればつぎのようになろう。

 「第一の任務」と「第二の任務」は、「シュルレアリスムの任務」と「革命行為の任務」である。「第二宣言」のコンテキストでは、この引用部分までの記述すべては背反のシュルレアリストたちについてだったから、第一の任務は「シュルレアリストの任務」で、第二が「革命の任務」となる。

 しかし、「無私無欲な活動」が期待されるのはシュルレアリストたちであるにしても、つづく、スラッシュ部分の「・・・・ まで待たねばならないとすれば、厳密な意味でその任務でないもの、また、たとえば第二の任務が完全に第一の任務と溶け合わない領域にあるシュルレアリスムの任務の場合は、いっそう惨めなことにならないとどうして言い切れようか」は、革命担当を念頭においた記述のようにも読める。

 ことに、「革命の任務が、・・・・一気に悪人と善人を、また偽物と本物をより分ける性質をもつものでなければ、・・・・・・ ある者の仮面を剥ぎ、他の者にはその素顔を不死の輝きで飾る仕事を外的な一連の事件が引きうけてくれるまで待たねばならないとすれば、厳密な意味でその任務でないもの、またたとえば第二の任務が完全に第一の任務と溶け合わない領域にあるシュルレアリスムの任務の場合は、いっそう惨めなことにならないとどうして言い切れようか」と待つものを明記するとは、あきらかに「革命」の視点からの記述である。そして、思想論理の一貫性からいうと、「シュルレアリスム」自体の「革命」性がうすれ、シュルレアリスムは、政治・経済革命と、それに連動した芸術革命を期待している関連運動となるだろう。シュルレアリスムの革命性の希薄化であり、『シュルレアリスム革命』の発展的解消である。

 そうした、説明的には矛盾撞着する「革命」観がブルトンの思想で渦巻き、その思想エネルギーが、この記述を眩しく見つめ難くしているのかもしれない。

 そして、引用部の結論へつづく、「たえずその根本的基盤の再検討を、言いかえれば心が『燃えて』は冷めることを願う賭博的明日への問いかけ」などという、かれのなかの渦巻く思想そのもののような記述になるのだろう。この一連のことばは、人間だれしもがもつときの「希望」に還元できるものかもしれない。だが、その希望はシュルレアリスムに託したのか、それとも政治・経済的、そして、芸術的「革命」に託したのかわからない。

 だが、それにつづく、「その活動の発源的原則への復帰を求める、心萎えるおもいと、千鳥足と、離脱の絶え間ない連続のなかで、そしておそらくはそれと引きかえに、シュルレアリスムがみずからを表明するのは当然である」は、『シュルレアリスム革命』誌の終刊をおこなうブルトンの実感を表明しているのは疑いもなくたしかである。

 ここに記されている、「その活動の発源的原則への復帰を求める、心萎えるおもい」、それに至るまでの、紆余曲折の活動、そしてさまざまな離脱者の連続、それらひとつひとつについて、具体的な例証をあげるのは容易だが、ここではおこなわない。しかし、最後に書かれている「そしておそらくはそれと引きかえに、シュルレアリスムがみずからを表現するのは当然である」は、うえのすべての悲観的色調をいっきょに拭い去る断乎とした決意表明になるだろう。

 その決意がいかなる思想形成によるかは、なお不文の境にある。しかし、これまで分かち難く混同されていた、シュルレアリスムと「革命」の関係を明確にし、整合する視点が、ブルトンのなかに導入されたのはたしかだ。そして、この整合した関係把握をかれは持続してもちつづけ、けっして一方を手放すことはなかった。これは、直後のアラゴンや戦後のエリュアールはその一方を手放したのだが、20世紀の日本をふくめたアヴァンギャルドでも、その一方どころか双方を手放す者が多かったなかで、稀有なことである。

 ただブルトンにおいても、すでにここでも、「その活動の発源的原則への復帰を求める・・・・・連続のなかで、それとの引きかえに、シュルレアリスムはみずからを表現する」と明言しているように、シュルレアリスムの第一の任務に軸足をおきつづけていたのもたしかである。

 『シュルレアリスム第二宣言』においては、「活動の発源的原則への復帰」について、たんにこの苦悩の決意表明ですませることなく、それによりなすべきことを、うえにつづけて、口調を一変させてのべている。

 あきらかにこれは、「革命に奉仕するシュルレアリスム」の説明になっている。

  このようなものである。


 われわれのものときめられた方法の極限までの利用によるにすぎないにせよ、われわれが専念する運動のはじめにあたって奨励された探究方法をふかく極めることによるだけにせよ、正直に言って、この企てを成功させるために、すべてが試みられたわけでない社会活動の問題は、またそこへ引き返し、強調しておくが、シュルレアリスムが提起することに努めた、シュルレアリスムの、あらゆる形態のもとでの人間表現の問題という、より普遍的な問題の一形態にほかならないのだ。表現を語るものは、はじめに、言語を語る。したがってシュルレアリスムがまず最初にほとんどもっぱら言語の面に位置を占めるのを見ても、またいかなるかたちにせよ、専門外のことをすることから引き返して、そこでわがもの顔にふるまうことを喜びとするのを見ても、やはり驚くにはあたらないわけだ。そういえば、もはやなにものも、そこが、あらかた征服されるのをさまたげる力はない。ダダとシュルレアリスムが扉を開いてやることを望んだ、文学的に鎖から解きはなたれた言葉の叛徒の群れは、いずれにせよ、それほどむなしく退散するものではない。今も教えられている文学の愚かしい、けちな都市(まち)のなかへ、それらは急がず、確実に浸透し、そこで、下町とお屋敷町を苦もなくごちゃまぜにし、ゆうゆうと小塔を喰いつくすだろう。(青文字表記は原文イタリック. 下線は筆者.)


 記されているのは、いままでかれがのべていたことの自負にあふれた再確認である。ことに、あらためてかれが確認しておきたかったのは、「社会活動の問題は・・・・・・・シュルレアリスムの、あらゆる形態のもとでの人間表現の問題というより普遍的な問題の一形態にほかならない」に尽きるだろう。

 かれのいう「人間表現の問題」がどこにあるかについては、かれらがシュルレアリスム運動をはじめるにあたって刊行した『シュルレアリスム宣言』で、すでにその根幹がのべられていたことであり、アンケート回答にあった、作家・芸術家と不可分の「表現手段」にかかわってくる。

 旧来の人間表現、ことに論理的文章構成は、社会生活を活性化する人間感情を呼びおこすどころか、人間感情を形式化させ、麻痺させ硬直化させている。それにたいして、シュルレアリスムの方法、シュルレアリスムが探究している方法は、そのように剥製化されそうな人間感情をゆさぶり、動転させ、転覆させて、再生させるようなものだ。そして、シュルレアリスムが書物や絵画や映画のかたちで提供しているのは、旧来築きあげられてきた、教条的な理屈、教えこまれた「理屈」とか分別、幸福の幻想 を瓦解させ新しい文化社会構築にかならずや寄与するということだ。

 その自負と成果については、引用後半の「ダダとシュルレアリスムが扉を開いてやることを望んだ、文学的に鎖から解きはなたれた言葉の叛徒の群れは、・・・・・・ 今も教えられている文学の愚かしい、けちな都市(まち)のなかへ、それらは急がず、確実に浸透し、そこで、下町とお屋敷町を苦もなくごちゃまぜにしゆうゆうと小塔を喰いつくすだろう」にあますとこなくあらわれている。

 しかし、それだけでなくこの引用部には、20世紀アヴァンギャルドの視点からも注目しておくべきものがある。それについて一言だけふれておこう。

 それは、「あらゆる形態のもとでの人間表現」といいながら、表現を語るものは、はじめに、言語を語る、と、ことばに中心をおいていることだ。これは、20世紀アヴァンギャルドでは、デュシャンやシュビッタースらにはじまるオブジェ、映像媒体分野や音響分野とは一線をおく見方である。

 この一線は、20世紀アヴァンギャルドにひかれた一線であって、ことに第二次世界大戦後の20世紀後半のアヴァンギャルドでは、言語表現外にあるアヴァンギャルドの側からは、逆ベクトルの見方から一線をひいていたものだ。かれらには、言語表現へ不信感があり、じっさいにかれらがそう言ったわけではないが、「表現を語るものは、まず、言語を使わずに語る」とし、そればかりか、表現そのものを軽視し、芸術を異なる視点からみようとするものもいた。「反芸術」という芸術論もそのひとつである。

 それは、20世紀後半のアヴァンギャルドは、まず、文学表現からはじまった第一期アヴァンギャルドのダダ、シュルレアリスムの超越を公言するところから、デビューしたことにあらわれている。そして、いまでは、アヴァンギャルド(前衛)ということばさえ、時代遅れとして、芸術家が用いることはない。そして、それでいながら、21世紀の今、コンテンポラリー芸術として斬新性を主張するあらゆるジャンルの芸術、それだけでなく、テレビ番組や広告界、あるいは、コンピューター界に充満している「表現」は、20世紀アヴァンギャルドの形骸化した抜け殻に彩色をほどこしたにすぎないものが多い。

(注. ダダ評価にしても、ツアラのダダではなく、オブジェやコラージュのデュシャンやシュビッタースのダダを重視した.また、ヌーヴォー・レアリスムの創設第二宣言のタイトルは「ダダより40度[も熱く]」であったのはすでに説明した.[「第2章 2)’60年代西欧の『新(反)芸術(ヌーヴォー・レアリスムの場合)』](『百万遍』4号掲載)


 このような20世紀アヴァンギャルドの生命力の衰退と形骸化がおこったのは、この対言語観がおおきくかかわっていたのではなかろうか。

 それは、言語表現を最上位におき、ついで、音楽、映像、・・・

・・ 建築と序列化したブルトンのように、どちらが上位にあるかではなく、言語に一線を課し蔑視する視点である。もし、20世紀後半のアヴァンギャルドが言語表現におなじような関心をもちつづけ、時代に即した効果的成果をあげ、正当に評価されていたなら、20世紀アヴァンギャルドは現代においてもう少しましな遺産をのこしえたかもしれない。

 実際にも、20世紀アヴァンギャルドには、そうした芸術表現の模索はあったのだ。ひとつの典型はデュシャンの芸術表現にみられる。というと、さきにのべたオブジェのデュシャンとは矛盾するが、デュシャンをオブジェなど「造形」だけに結びつけて評価し、デュシャンを造形芸術の枠に囲いこんだのは、20世紀後半のアヴァンギャルドの芸術家や評論家たちであって、デュシャン自身はけっしてそうでなかった。

 かれの作品、レディーメイドの男性用便器『泉(Fontaine)』や造形オブジェ『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(La mariée mise à nu par ses célibataires, même)』、そして遺作『落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ(Etant donnés: 1 La chute d'eau 2 Le gaz d'éclairage)』など、かれの代表作すべては言語と一体化した関係にあり、言語なくしては存在しない作品である。(図版2図版3図版4) 別な言い方をすれば、言語を無視するこの作品評価は、現行評価のように、偏った、作品本来の正統性を欠く評価にしかなっていないのではなかろうか。正統性を欠くとは、いまではこれらの作品は「生命」力を持続できず、「美術史」のなかの剥製標本になってしまっている。因みに、便器『泉』は、美術教科書や20世紀芸術の参考書では、レディーメイドとしてしか紹介されていない。


図版2: デュシャン 「泉」






図版3: デュシャン『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも

(La mariée mise à nu par ses célibataires, même)』





図版4: デュシャン 『落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ

(Etant donnés: 1 La chute d'eau 2 Le gaz d'éclairage)』



 もしこれらの作品が、作品に刷りこまれていることばからも作品が評価をされていたら、奇を衒った挑発的作品ではなく、いまでも語ることをやめない予言作品になっていたかもしれない。

 ことばをふくめたひとつの解釈は、『泉』(1917年)、『彼女の独身者たち・・・・』(1915-23年)、『落ちる水・・・・』(1944-66年)らはいずれも、制作された時代と生活環境に緊密な関係をもつ風俗のアレゴリー作品である。たとえば、とうじ文明の先端にあったニューヨーク生活から着想された男性用便器『泉』は、最新の生活備品であり、ニューヨーク商店街のショーウインドーに麗々しく陳列され、紳士、淑女がながめて通っていたものだった。あの作品が、アンデパンダン展に、あの設置角度で展示され、『泉(fontaine)』と名づけられていたのは、いずれも作品表現だったのだ。〈fontaine〉(仏語)は〈泉〉とか〈噴水〉、〈水飲み場〉を意味することばである。ボードレールの短編「悪いガラス屋」がそうだったように、痛烈な文明批判の作品とすることができたろう。

(注. 展示された実物を見た者の記録はない.しかし、デュシャンがかかわったすべての展示は図のようになっている.)


 また、遺作「落ちる水と照明用ガス燈があるとせよ」にしても、半世紀後の現代日本でもしばしば見られる、自然回帰のフィールド・ライフ趣向の先駆的表現である。しかも、この趣好の身勝手ないかがわしさをまるごと暗示するように、ふるい田舎家の木製扉に穿かれたふたつの穴から覗き見するように仕立てられている。それが、いまなお生きている「作品」というのは、この趣好がもっているすべてを、現代のわれわれはまだじゅうぶんに知っていないとおもわれるからである。現代のわれわれは田舎暮らしのあこがれのみを無邪気に語り、それが、われわれの文明の身勝手な見方、文明が仕掛けた奸策かもしれぬことにまだ気付いていない。そうしたことを、この作品も、「オモシロウテ、やがて考えさせる」作品として観せているのではあるまいか

(注. 『泉』、『独身者』それぞれについては、拙著『現代芸術は難しくない』で記したからあらためて述べない.)


 しかしながら、この作品がそうした痛烈な批判を秘めた作品であるのは、このことば「落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ」あってのことである。この言語表現には、かれの先行作品がある。「全館 ガス、水道(Eau & Gaz à tous les étages)」(1958年)と名づけられたレディーメイドの作品である。(図版5)あきらかにこれは、制作とうじ’50年代のパリやニューヨークの街で見られた最新式マンションの広告だった。


図版5:「全館 ガス、水道」



 60年代初頭の日本にも「水道完備ガス見込み、明るい町です、われらの町は・・・・」を主題歌とする、放送開始されたばかりのテレビの人気ドラマがあった。物語は新興住宅地のホーム・ドラマで、上下水道の整備はすんだが、都市ガスは「開通見込み」であり、まだ都市ガスが通ってない状況にある住宅地のローン暮らしの住民の、あの「心が『燃えて』は冷めることを願う賭博的明日への問いかけ」と、云い換えてもよさそうな楽天的「希望」にあふれた、人間模様をえがくコメディーだった。

 「落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ(Etant donnés: 1 La chute d'eau 2 Le gaz d'éclairage)」は、こうした状況をさまざまにおもわせる可能性を内在した作品である。この表現、「・・・・・があるとせよEtant donnés: ~)」は、幾何学問題文の「三角形ABCがあるとせよ.・・・・」でつかわれる慣用表現である。きれいな水の落ちる滝がのぞめる草地に裸婦とおぼしきオブジェが横たわり、横にのばした彼女の腕と掌はガス燈をにぎっている。そして、「落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ」の、試験問題のような強制的な問いかけである。この問いも、また、答えも、生易しいものでない可能性があるだろう ・・・・・・・・・

 などという解釈がこの作品で通用しなかったのは、このような見方をアヴァンギャルド芸術評論家や作家がしなかったからである。むしろ、文学的屁理屈として忌避したのである。そしてまた、文学側でも、アヴァンギャルド文学評論家らは、こうした作品は対象外として、目もくれなかった。

 そうした、どこからも解釈されず、したがって、その角度からは認められず、評判にもならない作品は、たんなる造形作品にすぎず、ことばのある正統作品としては存在していないことになる。そのことは、かの有名な「印象派」にしても、だれか評論家があのようにさわぎたて、評判にしたからこそ、「印象派」などがあらわれ、画家たちも追従し、おおげさにいえば、その系譜からアンフォルメルなどが出現して、現在の美術史が形成されたのかもしれない。ただし、このようにいうのは、芸術史の不確かさを指摘するためではなく、「芸術」の受容の問題をいっているのだ。

アヴァンギャルド芸術において、言語があのような一線によって劃されていなかったら、’60年代アヴァンギャルドは、いまとはちがった「受容」をされ、その結果、いまとはまるでちがったおとなしくない荒々しい後継芸術がのこっていたかもしれない。

 表現媒体としてのことばには、たとえ翻訳されたことばであっても、映像や音響にない強烈なインパクトがある。視覚表現や聴覚表現にもそれぞれ固有の効力があるが、自己主張や批判に通底する怒りや憎しみや悔いの感情表現は、芸術においても、文学にもっとも適性がある。人間感情には、視覚芸術、音響芸術だけでは充たされ方がちがう領域がある。たとえば、怒りや憎しみを表現するだけなら、視覚でも音響表現でもそれなりにでき、それによって解消することができるのは、すでによく知られているところだ。しかし、音響表現や視覚表現は、怒りや憎しみを昇華し発散させることはできても、怒りを昇華し、行動に転化することはできない。怒りや不満や悔いの感情を行動に解消させるのはことばが最適である。

(注. ブルトンはあらゆることばは翻訳できるといっている.かれは意味からことばをみている.)



 むろんここでいう「芸術」とは、本論でこれまでいくども問題にしてきた、制作(芸術家)と媒体(公開・発表、批評[出版社、美術館、音楽会、新聞、雑誌])と受容(大衆)の三角形(狐拳)構造体としての「芸術」である。

 そうした「芸術」で、人間感情に十全にゆきとどかせ、行動に資するには、きらわれ者の鬼っ子になっているが、ことばからの受容が必要かとおもう。ブルトンのいう「表現を語るものは、はじめに、言語を語る」は、かれの意図とは逸脱した、こうしたことをふくみうることを指摘しておきたい。だが、ブルトンのいう言語を核心におくシュルレアリスム表現の政治的必要性自体も、政治活動でしばしばあらわれる「心にもないこと」のように聞かれることばばかりが今なお教えられている状況があるだけに、あながち、無関係な逸脱とはならないだろう。

 とはいえ、1929年のブルトンは、政治的立場に対するシュルレアリスムの立場をもっと広い原則的表現芸術家の位置から、一歩踏みこんで語っている。

  かれは、「またいかなるかたちにせよ、専門外のことをすることから引き返して、そこで(言語的芸術活動)わがもの顔にふるまうことを喜びとするのを見ても、やはり驚くにはあたらないわけだ」と、突き放した言い方をしている。かれらがわがもの顔にふるまえるそことは、いうまでもなくシュルレアリスムの活動であるが、引き返してきた専門外のことは、ややあいまいに記されている。だが、それをあきらかにし、またこの記述を説明するものが、決定版「第二宣言」では、アンケート回答文にならべて補筆されている。


 政治的分野におけるシュルレアリスムの発展がどのようなものであったにせよ、精神の解放にとって第1条件である、人間の解放のためには、プロレタリア「革命」以外をあてにしてはならぬという命令が政治的分野からどれほどきびしくわれわれのもとに寄せられたせよ、われわれに独自な、また使ってみて自分たちに立派に役立つことが確かめられた表現手段を変更すべき有効な理由を、われわれはなにひとつ見出せなかったと言ってよいだろう。(下線は原文イタリック)


 ここで記されているのはさきの引用と同主旨でありそれ自体明瞭である。すると、さきの「専門外のこと」は、「政治・経済体制変革の革命」となるのだろうが、これらを記したときのブルトンの念頭に、はたして、「革命」がふくまれていたのかわからない。むしろ「専門外」と言いきるところからみると、「革命」の欠落した専門外なのではあるまいか。

 そして、「もはやなにものも、そこが、あらかた征服されるのをさまたげる力はない。ダダとシュルレアリスムが扉を開いてやることを望んだ、文学的に鎖から解きはなたれた言葉の叛徒の群れは、いずれにせよ、それほどむなしく退散するものではない。今も教えられている文学の愚かしい、けちな都市(まち)のなかへ、それらは急がず、確実に浸透し、そこで、下町とお屋敷町を苦もなくごちゃまぜにし、ゆうゆうと小塔を喰いつくすだろう」と、述べているところから察すると、シュルレアリスムの精神の解放のための独自の「革命」はすでにはじまっており、その成果を確信しているようにみえる。

 だが、ここでいわれているのは、その確信についてではなく、「精神の解放のための」シュルレアリスム活動の独自の位置についてだ。精神の解放は人間の解放と相関関係にあるのはいうまでもないが、だからといって、人間の解放を掲げるプロレタリア革命のために、精神の解放のシュルレアリスムの活動を歪曲させる理由にはならない。

 しかも、さきの引用でのべられた、「もはやなにものも、そこが、あらかた征服されるのをさまたげる力はない」をおもいだすと、さまたげるのは、旧来の芸術・文学制度や習慣だけでなく、「さまたげる力はない」とあることからも、「プロレタリア革命」には、シュルレアリスムのおこなう精神の解放さまたげる力はないのである。

 このようにみると、「プロレタリア『革命』以外をあてにしてはならぬという命令」をたえずしていたフランス共産党への訣別のようにも読めるが、シュルレアリスムの位置は、けっして共産主義への離別でもなければ、コミンテルンへの訣別でもなかった。

 シュルレアリスムのあたらしい位置の表明となる、7ヶ月後に刊行された『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌創刊号には、「モスクワ宛の電文」と明記された「革命文学インターナショナル・ビューロー」への電文が、シュルレアリスムの立場表明として巻頭に掲載されていた。

 それは、ブルトンとアラゴンが起草したとされている電報文で、「同志のみなさん/帝国主義がもしソ連邦に宣戦を布告すれば我々の立場は第三インターナショナルの方針に従うものとなろう/フランス共産党の立場である」(スラッシュは原文が改行)と記されていた。

 フランス共産党党員の立場である。

 思想的には、『シュルレアリスム革命』誌創刊号の扉表紙にあった、「われわれはひとつのシュルルレアリスム革命の前夜にある。新しい人権宣言に到達しなければならない」と連動し、継承誌である『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌にふさわしい、一貫性と整合性のあるものである。『シュルレアリスム革命』誌では、「シュルレアリスム革命の前夜」とされていたのが、『シュルレアリスム第二宣言』では、「文学的に鎖から解きはなされた言葉の叛徒の群れは、いずれにせよ、それほどむなしく退散するものではない。今も教えられている文学の愚かしい、けちな都市(まち)のなかへ、それらは急がず、確実に浸透し、そこで、下町と屋敷町を苦もなくごちゃまぜにし、ゆうゆうと小塔を喰いつくすだろう」と、確実に革命途上にあることが示されていた。

 そして、到達しなければならない「新しい人権宣言」への道も、具体的で現実的な道にあることをこの電文は示すものだろう。精神の解放にとって第一条件である人間解放を目的とする第三インターナショナルへの参加確認の表明である。

 しめされているのは、「帝国主義がもしソ連邦に宣戦を布告すれば我々の立場は第三インターナショナルの方針に従うもの」であり、帝国主義が敵対視する共産主義側にあることの表明である。

 1929年のヨーロッパの政治状況では、現実的に戦争の危機があったわけではないから、ほとんど象徴的表現にすぎないが、それでも、「宣戦を布告すれば我々の立場は第三インターナショナルの方針に従う」とは、具体的行動の約束である。行動をともなう「ソ連邦」支持、共産主義政治・経済体制への支持である。

 このようにみると、この支持表明は、プロレタリア革命の側から出された命令への不信感、あるいは、不服従宣言となんら矛盾するものではない。それが矛盾しないのは、それが思想の視点からでなく、行動の視点からのべられているからだ。旧来文化のフランス社会でそれに盾突くシュルレアリスムの活動をおこなうことと、帝国主義(フランス)がソ連邦を攻撃したとき、ソ連邦の側につくということは、なんら矛盾するもののない、シュルレアリスムの行為の困難な立場である。

 このような困難な行動のシュルレアリスムの立場表明は、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌では、現実的シュルレアリスム運動についても、その構成者にあらわれている。

 1930年7月に刊行された『革命に奉仕するシュルレアリスム』創刊号には、挿入文書があり、声明として再録されている。電文と併立して読むべきものである。

 掲載された署名者つき声明は、つぎのようなものであった。


 記述および他の表現法の意識的体系的実践がもたらす影響力を、あらゆる機会に行使し、また濫用することを決意し、いっさいの点においてアンドレ・ブルトンと連帯し、『シュルレアリスム第二宣言』の読解から導かれる諸結論を実践にうつす覚悟である以下に署名する者は、「文芸」誌の影響力についていかなる幻想をもっものではないが、この刊行に協力することを決意した。すなわち、『革命に奉仕するシュルレアリスム』のタイトルのもとでの刊行は、思想を職業とする悪党どもにたいして、現代的に応えることを可能にするだけでなく、革命の宿命のために、今日生存する知識人の力の決定的方向転換を準備するだろう。(署名者21名)


 冒頭の彼らの決意は、ブルトンの「第二宣言」にあった「われわれのものときめられた方法の極限までの利用によるにすぎないにせよ、われわれが専念する運動のはじめにあたって奨励された探究方法をふかく極めることによるだけにせよ・・・・・」という本来のシュルレアリスムの表現体系追求を確認するものであり、シュルレアリスムへの同意であり、このさいに、とりたてて言うべきものではない。

 しかし、以下いうところは、「第二宣言」のブルトンへの同意であり、その証(あかし)としての『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌への参加の表明である。この声明が、新グループ誌創刊号の序文的声明とすればいささか異様だが、挿入文書なら、それなりの意味がある。

 異様とは、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌が、ブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』の一部とされており、創設時にかれらが刊行したあの『シュルレアリスム革命』誌は、ブルトンと同一視されない独立のグループ誌だったからだ。

 『シュルレアリスム革命』誌とブルトンの『シュルレアリスム宣言』との関係は、理論的にはタイトルにあるようにセットではあったが、創刊時の「革命」誌の編集責任者は、ナヴィルとペレであって、ブルトンは一構成メンバーにすぎなかった。また、『シュルレアリスム宣言』のシュルレアリスムにしても、ブルトンひとりのものではなかった。

 ところがこの声明では、『革命に奉仕するシュルレアリスム』参加自体が、ブルトン支持表明になっている。

 しかも、その支持表明そのものが、思想を職業とする悪党どもにたいしてとか、「革命の宿命のために、今日存在する知識人の力の決定的方向転換を準備する」とかの、一般的でなく背後関係がありそうなものとなっている。

 この背後関係のいきさつは本稿とはかかわりがないから、委細や経緯にはふれず最小限のべればつぎのようになる。 

 1929年12月に、『シュルレアリスム第二宣言』が掲載された『シュルレアリスム革命』最終号が刊行された。そして、これにたいして、『シュルレアリスム第二宣言』で痛烈な批判をされたシュルレアリストらが、一ヶ月後の1930年1月に「ある死骸(un cadavre)」と題するブルトンを誹謗中傷するパンフレットを刊行した。発案者は、シュルレアリスム創設時からの中心人物のひとりである、ロベール・デスノスだったといわれ、執筆者は12名であった。

 『ある死骸(un cadavre)』というのは、すでに本稿でもその出来事の顛末は記したが、1924年のグループ結成時にかれらが頒布した、アナトール・フランス誹謗のデビュー・パンフレット『ひとつの死骸(un cadavre)』 のタイトルであり、それを意図的に踏襲したものである。

 執筆者は、ジョルジュ・リブモン=デセェニュ、ジャック・プレベール、レーモン・クノー、ロジェ・ヴィトラック、ミッシェル・レェリス、ジョルジュ・ランブール、J.-A.ボワファール、デスノス、マックス・モリーズ、ジョルジュ・バタイユ、ジャック・バロン、アレジォ・カルパンティエだった。

 かれら12名は、バタイユとカルパンティエをのぞき、発起人デスノスをはじめ、創設時からのシュルレアリスム・グループで積極活動をおこなった主力メンバーである。リブモン=デセェニュは、グループ内では最年長のダダ以来の精力的アヴァンギャルド芸術家だった。ボワファールやヴィトラックは、『シュルレアリスム革命』誌創刊号序文で、「夢だけが、自由を求める人間のすべての権利として、人間にとどまっている」と書き、「・・・革命・・・革命・・・レアリスム、それは樹木を剪定すること、シュルレアリスム、それは生を刈りこむことだ」という、あの第一頁掲載の序文を、エリュアールと三人で書いた者たちである。クノー、ランブールらも、「1925年1月23日の声明」の署名者であり、『シュルレアリスム革命』誌に常時執筆した作家志望の意欲的なメンバーだった。大衆文学指向のプレベールは、1924年頃から、ブルトン、アラゴン、スーポー、クノー、レェリスらと親密に交流する身近な仲間だった。そうした芸術派だけでなく、デスノやレェリスはあの『内乱』誌の発起人にも名をつらねていたし、バロンは、ブルトン、アラゴン、エリュアールらがフランス共産党に入党したときは、むしろ先導して入党していた。新旧をとわず、また、芸術、政治の傾向をとえない有力メンバーであり、シュルレアリスム活動体の分解をおもわせるような、ブルトン否定の宣言だった。ましてや、そこには、シュルレアリストではないが、彼らの周辺にいてブルトンに比肩する理論家であり、みずからも『ドキュマン』誌を主宰するジョルジュ・バタイユが参加しているのは、グループ分裂を示唆する声明パンフレットである。もっとも、それも一方的行為ではなく、ブルトン自身が「第二宣言」でおこなった、かれらへの弾劾への回答という意味があったのである。

 そして、解体といえば、シュルレアリスム創設者のひとりだったスーポーやナヴィル、それに、過激な言辞を操るのを得意とした活動家アルトーらをすでに事実上除名していたのだから、分解とみえるかもしれない。

 そうしたことが、半年後に創刊の『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌の挿入文書となった、ブルトン支持のあの「声明」文になったのだろう。

 ブルトン支持の21名の署名者はつぎの者たちである。

 マキシム・アレクサンドル、アラゴン、ジョー・ブウスケ、ルイス・ブニュエル、ルネ・シャール、ルネ・クルヴェル、サルバドール・ダリ、エリュアール、マックス・エルンスト、マルセル・フウリエ、カミィユ・ゲーマン、ジョルジュ・マルキーヌ、バンジャマン・ペレ、フランシス・ポンジュ、ジョルジュ・サドゥール、イブ・タンギー、アンドレ・ティリオン、トリスタン・ツアラ、マルコ・リスティチ、ポール・ヌウジェ、アルベール・ヴァランタンである。

 この支持者を一覧すると、新生シュルレアリスムの実体が俯瞰できるが、基本的には、シュルレアリスム・グループの本質にはそれほどの変化はないとおもわれる。

 なるほど、個々人については、創設時からのメンバーは、創設時の『シュルレアリスム宣言』で、シュルレアリスムの実践者としてブルトンに告知された19名のうち、署名者は、アラゴン、クルヴェル、エリュアール、エルンスト、マルキーヌ、ペレの6名にすぎない。しかし、発足直後の重要な方向づけとなった「1925年1月23日の声明」の署名者であり、『シュルレアリスム革命』誌の執筆者であり、熱心な活動家であったクルヴェルをはじめ、「デア・シュトルム」や「ブラウエ・ライター」、そしてドイツ・ダダをくぐり抜けた筋金入りのアヴァンギャルド芸術家だったエルンストがかわることなく署名しているのは、シュルレアリスムの根幹に変化がないのを示しているだろう。

 それにまた、シュルレアリスム誕生のひとつの契機になった「ダダ」のツアラが、創設時のシュルレアリスムのイベント(「バレス裁判」)でブルトンと意見を異にし、運動グループから距離をおいていたが、このようなブルトン支持の「声明」にみずから署名し、新生シュルレアリスムへの参加を表明しているのだ。大局的にそのことは、ブルトンのこの方向づけが創設時のシュルレアリスムの延長線上にあるのを保証するようにみえる。ことに、ユーゴ(現セルビア共和国)から来たリスティチやベルギーのゲーマンやヌウジェ、ヴァランタンが署名し、チューリッヒからパリへ来たダダイストのツアラにせよ、国際的アヴァンギャルディストの支持者らに変更がないのは注目すべきである。(注. とうじ彼らがパリにいたかは不明である.パリで画廊経営をしていたゲーマンはパリ在住の可能性がある.) 分裂とか解体でなく、独自性の明確化とみることができる。

 そればかりでなく、そのほかにもここでみるべきは、新規加盟者というべき者たちの署名である。ブニュエルとダリ、それに詩人指向のルネ・シャールやフランシス・ポンジュの署名である。

 スペインの若いアヴァンギャルディストだったダリは、1927年、パリのシュルレアリスト・グループに迎えられ、ゲーマンが1929年パリでひらいた「ゲーマン画廊」で個展を開催していた。この画廊は、ダダのジャン・アルプやシュルレアリスム系の画家、マグリットやタンギー、エルンスト、マン・レイ、ミロらの、シュルレアリストたちに評価される作品をあつかっていた。この個展はパリではじめてのダリの作品展だった。また、ダリはそのころ、スペイン時代からの芸術仲間、映画指向のブニュエルとの共同脚本・制作の映画「アンダルシアの犬」をパリで上映し、シュルレアリストたちは熱狂的に称賛し、かれらふたりをともにシュルレアリスムの芸術家に承認していたのだ。

 しかしかれらが、シュルレアリスムの公式メンバーとして登場するのは、『シュルレアリスム革命』誌最終号に掲載されたメンバー・ポートレートのなかと、みずからおこなったこの署名が最初である。また、詩人のシャールとポンジュについては、この署名以外、いかなるシュルレアリスム活動にも参加した記録はない。しかしながらかれらが、無関係だったのではなく、エリュアールやアラゴン、ブルトンらの詩人たちと芸術的交流があってのこと、シュルレアリスムの渦中にあってのこととすべきだろう。かれらのなかには、タンギーもくわえるべきかもしれない。タンギーは1929年3月に開催された、芸術家の生活信条を俎上にあげたシュルレアリストの芸術集会、いわゆる「シャトー街の集会」の声明文書から登場するが、それまでのいかなる宣言や声明にもその名が記載されたことはない。しかし、どのような芸術素養も芸術経験もなかったかれがとつじょキリコ絵画に感銘をうけ、かれ独自のあのような絵画を描きはじめ、それがシュルレアリスム系の「画廊」で公開されていたのは、早期からかれらと緊密な交流があったからとしか考えられない。(図版6



図版: タンギー



 ポンジュのばあいも、これがはじめての立場表明だったのだが、それまでにアラゴン、エリュアール、ブルトン、ペレらとは親密な関係にあったといわれている。その関係はその後も継続し数年後の「見出されたオブジェ」(ブルトン『狂気の愛』などを参照)などのシュルレアリストの芸術論は、ポンジュの作品、『物の味方(Le parti pris des choses)』におおきな影響を与えたとおもわれる。『物の味方』は、’60年代のアンチ・ロマン、アラン・ロブ=グリエの小説に直結したのは言うまでもない。   

 このような、周辺にいた芸術家たちが、シュルレアリスムに位置づけられ、実質的構成者だったのである。そうした関係は、ここには署名のない画家、ミロについてもどうようである。

 画家のタンギーやミロ、詩人のポンジュにせよ、のちのかれらの「作品」からみると、もしかれらがシュルレアリスムに参加していなかったら、あのような作品をのこしていたかどうか、あるいは、画家や詩人になっていたかどうかさえ、あやぶませるものがある。つまり、シュルレアリストたちが、かれらの初期の作品、たとえば、ブニュエル・ダリの映画「アンダルシアの犬」や、タンギーやミロの初期「作品」に、あのようなアイデンティティをあたえていなかったら、かれらがはたしてあのような芸術家であったかどうかわからない。いいかえれば、かれらの独自作品だけでなく、とにかく「制作─媒体(公開、批評[画廊、雑誌、])受容(大衆)」の芸術の足掛かりを、かれらはシュルレアリスム・グループのなかで得ることができたのはたしかである。

 そして、そのことは、原意を離れひろく言えば、ブルトンのいう「われらのものと決められた方法」や、挿入文の「記述および他の表現法の意識的体系的実践」がもたらしたのはいうまでもないが、なによりもシュルレアリスムの基本的態度、つまり、この挿入文書でいう「革命の宿命のために、今日生存する知識人の力の決定的方向転換を準備するだろう」を逆説的に実証したのだろう。

 つまり、1920年代末から1930年代初頭の芸術界で、あの「アンダルシアの犬」を公然と評価し、エルンストの「フロッタージュ」にせよ、ダリの「偏執狂的批判的方法による具象的非合理の作品」にせよ、それらの意識的体系的実践を奨励するのは(芸術)革命行為いがいのなにものでもなく、ブニュエル、ダリ、エルンスト、あるいは、タンギー・・・のような「今日生存する知識人の決定的方向転換を準備」したシュルレアリスムの結果だったと、21世紀のいまとなってはつくづくおもえてくる。

 というのは、1960年の日本に「シュルレアリスムのような芸術運動」があったら、深沢七郎の『風流夢譚』があのような扱いをうけるのを、かれらならけっして容認しなかったとするのは、たんなる仮定的想像ではすまされないからである。

 深沢の『風流夢譚』が刊行され評判になるやならないとき、あの「アンダルシアの犬」のパリの小劇場上映につめかけたシュルレアリストたちのように、日本の文学アヴァンギャルドの知識人たちが「意識的体系的に」評価し、これを画期的アヴァンギャルド小説に位置づけて、ひろく称揚していたら、そのごのあの右翼集団が問題にしたときにも、それは『風流夢譚』と右翼思想の問題、あるいは、『中央公論』と右翼集団の問題になるのではなく、アヴァンギャルド芸術思想と右翼思想の問題となり、知識人たちがあのような周章狼狽したブザマな醜態をさらすこともなく、もう少しましな決着がついていただろう、ということである。

 シュルレアリスムのブルトンらと、『仮面の告白』の三島由紀夫、『太陽の季節』の石原慎太郎、「サークル村」の作家たちの相違であり、「思想の科学」や「自立学校」の知識人たちとの相違である。つまり、とうじの日本にもいた良心的知識人たちは、すでに本論でも個別にのべてきたように、現実行動においては、しょせんは線香花火のような行動であって、なんらかの芸術思想にうらづけられた意識的体系的行動ではなかったということだ。というのも、『風流夢譚』が刊行されたとき日本のアヴァンギャルド作家や評論家は「文芸時評」などでいちはやく注目した。しかし、右翼集団がさわぎだすとそれに対抗するだけの「思想」も「確信」もなく、うやむやに沈黙したままだった。また、鶴見俊輔や「思想の科学」の知識人たちも右翼問題になる以前にこれを読んでいたかどうか、また、読んだとしても、どのような評価をしていたかわからない。右翼事件がおこったのちに、知識人のあいまいな態度を批判した吉本隆明にしても、「夢譚」自体の文学評価をした形跡はない。かれらの行為は出来事がおこったときの個人レベルの感想や「ご神託」にすぎず、組織的体系的思想にもとづく行動ではなかった。つまり、「(革命の宿命のために)今日生存する知識人の決定的方向展開を準備する」にはほど遠かったのである。

 ところで、シュルレアリスムでは、このような「今日生存する知識人の決定的方向転換を準備」することは、『革命に奉仕するシュルレアリスム』にはじまったことでなく、『シュルレアリスム革命』誌以来の運動容態に内包されていた。

 逆説的で極端な言い方をすれば、ブルトン、アラゴンやエリュアールでさえ、もしかれらが、このようなシュルレアリスム運動に身を投じていなかったら、あのような「作品」をのこした芸術作家になっていたかは疑問である。そうしたシュルレアリスムの特徴の初源的な構成形態は、『シュルレアリスム革命』誌にあらわれていた。

 そこには、たとえば、ランブールとかジョゼフ・デルタイユという、ブルトン、アラゴン、エリュアールと同レベルのアヴァンギャルド文学の実践経験と交友関係をもつメンバーがいた。

 かれらは、『シュルレアリスム革命』誌の前史といえる『文学』誌から参加し、アナトール・フランス誹謗の「ひとつの死骸」にも執筆し、シュルレアリスムの実践者として『シュルレアリスム宣言』に告示され、『シュルレアリスム革命』誌創刊号掲載の女性アナーキスト、ジェルメーヌ・ベルトンの正面顔写真を取り囲む28名のシュルレアリストのなかにはいっていた。ベルトンは、とうじの右翼新聞『アクション・フランセーズ』の宣伝部長を狙撃暗殺したテロリストである。

 そうしたかれらの『シュルレアリスム革命』誌への参加は、ブルトン、アラゴンらと彼ら双方にとって、影響をあたえ合ったのは、いうまでもなかろう。

 ランブールは、さきにも書いたように、ブルトン否定の『ある死骸』までの同伴者だったが、デルタイユは、「これまでの行動とはきわだって異なる行動、つまり、政治的、社会的、宗教的、非宗教的、その他どのような行動にでも、・・・・参加する」とシュルレアリスムが誓った、あの「1925年1月23日の声明」以降は同調していない。かれははやくもこの政治的初期段階でシュルレアリストから離別している。しかし、そこまでに感得したシュルレアリスムの「(権威への)挑戦[provocation]」の属性は、その後のかれの創作活動に反映しているとおもわれる。というのも、デルタイユやランブールのその後の「作品」、小説や短編、詩篇などは、シュルレアリスム活動とはまったくの無縁だったのだが、それら彼らの作品をいま評価するときでも、シュルレアリスム抜きには語れないからである。

 そうしたことは、ことに『シュルレアリスム革命』誌のメンバーについて特に指摘できる。たとえば、さきのプレベールやクノーいがいにも、マン・レイのばあいなどがある。アメリカでは一介の写真家だったマン・レイが、20世紀アヴァンギャルドの素養を修得したのはアメリカ滞在中のデュシャンとの芸術交流をつうじ、デュシャン中心のいわゆる「ニューヨーク・ダダ」のなかだったが、1921年にパリに活動拠点をうつしたのちは、シュルレアリスムの誕生に立ち会い、そのなかで、マン・レイ芸術を開花させた。かれは『文学』誌には写真作品を掲載し、『シュルレアリスム革命』誌創刊号掲載のベルトンを囲む28名のシュルレアリストのひとりとして顔写真が掲載された。そして、1929年のあのシュルレアリストの粛清集会、「シャトー街の集会」でも、異例の特例あつかいをされたメンバーだった。かれは、ブルトンからも、シュルレアリスム特別メンバーとみなされていたのだろう。

(注.「埃の培養」の素材はデュシャンの「大ガラス」だが、その写真を掲載作品に選別にしたのはブルトンたちである.)


 そして、その間のマン・レイの活動はめざましいものだった。レイヨグラフ、ソラリゼーションなどの新技法写真だけでなく、「イジドール・デュカスの謎」となづけたオブジェや「破壊さるべきオブジェ」のようなオブジェ作品を多数制作し、シュルレアリスム絵画ともポップ・アートの先駆作品ともいえそうな油彩作品を制作している。(図版710


図版7: マン・レイ「イジドール・デュカスの謎」




図版8: マン・レイ「破壊さるべきオブジェ」




図版9: マン・レイ 油彩「リー・ミラー」の唇





図版10: ワッセルマン



 かれのシュルレアリスムとの親密な関係はその後も継続し、ブルトンのアフォリズム的美の定義、「美は痙攣的なものである。さもなければ、存在しないだろう」を象徴する写真作品を制作している。(図版1112



図版11:マン・レイ 「美は痙攣的なものだろう・・・・」




図版12:マン・レイ 「美は痙攣的なものだろう・・・・」



 また、それにとどまらず、映画制作にもおよび、実験映画「理性への回帰」や、デスノスの詩の映画化、「ひとで(Etoile de la mer)」を制作し、シュルレアリスムの映画とされた。また、監督・演出ブニュエル、脚本ダリの映画「黄金時代」のパトロンだったド・ノアイユ子爵夫妻の支援をうけ、「サイコロ城の秘密

(Mystère du Château du Dé)」を制作した。こうしたかれの活動は、「シュルレアリスム革命」の構成者だったからこそ可能であり、20世紀芸術におけるかれの芸術位置は、そこにあったとしてさしつかえなかろう

(注. にもかかわらず、初期シュルレアリスムの範疇にマン・レイをいれないのは、晩年かれが書いた回想記に明記されていないからかとおもわれる.回想記や個人的証言は資料であって、扱いに注意しなければならない. )


 かれらは、いずれも、期せずして、「革命」の対象や、度合の差こそあれ、「革命の宿命のために、今日生存する知識人の力の決定的方向転換を」実現する制作活動をつづけることができたといえよう。

 そして、『シュルレアリスム宣言』に触発され、賛同して組織された『シュルレアリスム革命』誌のメンバーは、『シュルレアリスム第二宣言』が結成した『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌のメンバーと本質的になんらかわることのない、メンバーだった。『シュルレアリスム革命』誌と『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌のいずれのシュルレアリスムも、ていどの差こそあれ社会革命を視野にいれた、芸術革命を願う芸術家の坩堝(るつぼ)だった。

 このような芸術家の坩堝は、どちらも芸術革命運動を触発させたが、それでもあえて言えば、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌のメンバーには、先行誌メンバーの自然分別(ぶんべつ)というべきか、変態というべきか、色調の変化がみられる。

 さきからのべているように、『シュルレアリスム革命』誌にも、造形芸術の色調が基本色に混在していたのだが、前面にあったのは詩を中心にする文学色だった。映像芸術家エルンスト、マソン、マン・レイが、創刊号掲載のジェルメーヌ・ベルトンを囲むシュルレアリストにはいたのだが、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』であげた絶対的シュルレアリスト19名のなかには、画家のジョルジュ・マルキーヌをのぞき、映像芸術家はいなかった。ところが、『革命に奉仕するシュルレアリスム』の挿入文書に署名した21名中、映像造形作家は8名だった。詩人、小説家は10名だが、このうちアラゴン、エリュアール、ペレ、ツアラ、ルネ・クルヴェル、ジョー・ブウスケ、マキシム・アレクサンドルの7名は『シュルレアリスム革命』誌いらいの創設メンバーである。新規メンバーは、ポンジュとシャール、それに、ベルギーのシュルレアリスト、ポール・ヌウジェの3名のみだったのはすでに述べている。

 これにたいして、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に署名した映像造形芸術家のなかで、創設期からシュルレアリスムに参加していた芸術家は、マルキーヌとエルンストだけで、あと6名は発足後の殊にそのころ新規に参加したメンバーである。しかもその新規参加者のうち画家は、ダリとタンギーだった。ベルギーのシュルレアリストのゲーマンは詩人、作家だが、シュルレアリスムの画廊をブリュッセルやパリで開設し、シュルレアリスム絵画や画家の育成につとめたからこの範疇にいれてもよい。

 まず注目すべきは、あと3名の映画関係者である。スペイン出身のブニュエルは、パリで「アンダルシアの犬」や「黄金時代」のシュルレアリスム映画の制作から映画芸術家の手がかりを得て、後年’60年代以降では、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」や「皆殺しの天使」や「昼顔」で、アカデミー賞、カンヌ国際映画祭やヴェネチア国際映画祭で受賞する監督、脚本家となっている。戦後の受賞歴はいささか問題になるが、30年間にわたる一貫した映画「芸術」の道程や、脚本内容からいえば、それなりの芸術革命の実践者だったといえる。

(注. 戦後のシュルレアリスム・グループでは、とうじグループ内にいたエルンストやペレの「受賞」が問題になり、かれらは除名されている.ブルトンは沈黙の容認だった.)


 そのほかのアルベール・ヴァランタンは、ベルギーの映画監督、脚本家であり、ジョルジュ・サドゥールは映画評論をおこない、浩瀚な『世界映画史』をのこしている。

 むろん、かれらのこうした映画関係の成果が、ブニュエルをのぞき、このとき1930年にはまだなかったから、このときのかれらを映画芸術家とするのは正確さを欠くが、それでも、とうじはまだ娯楽にとどまる、新しいジャンルの映画に芸術的関心をもつ者たちが、シュルレアリスムのメンバーになっているのは、やはり注目すべきである。

 こうしたかれらにせよ、エルンスト、ダリ、タンギーの画家をはじめ、映像造形芸術家がおおきな構成要素になっているのは、『シュルレアリスム革命』誌にはみられなかった傾向である。

 この傾向は、『革命に奉仕するシュルレアリスム』のあらたな動向を期せずして反映し、その実践を顕現しているだろう。

 芸術表現からみれば、絵画とか映画は、具体的主張や思想を伝達するには、精度や直接効果のインパクトでは、文学におとるが、ひろい伝播性とふかい浸透性をもつ芸術形態である。

 シュルレアリスムが、芸術革命と政治革命の相同性を模索し、たがいの革命のために、たがいを必要としていると主張しているとき、こうした芸術表現の担い手が集まってくるのはとうぜんのなりゆきとおもわれる。

 もっとも、だからと言って、それがブルトンの意図というのではない。ブルトンは、造形芸術については、『シュルレアリスムと絵画』に集約されるシュルレアリスムの絵画・芸術家論や晩年に監修者の立場で書いた『魔術的芸術(L'Art magique)』の芸術論があるが、「シュルレアリスム芸術論」を正面からのべてはいない。かれの芸術思想はつねに、狭義の「詩」に還元される芸術論にとどまり、そこから脱却していない。

 映画についても、かれは映画を好んで観たといわれるが、映画について語っているのは、アド・キルーが刊行した『映画時代』誌に掲載した後年のエッセー「森のなかのように」(1951年)(『野をひらく鍵』所収)いがいの映画論を筆者は知らない。それとて、低次元の「場の芸術」としての「映画」論であり、さほどたいしたものではない。

 そうしたブルトンが、この『革命に奉仕するシュルレアリスム』のメンバー構成になんらかの意図をもって関係したとはおもえない。たしかに、ダリをパリのシュルレアリスム・グループに熱心に紹介したのはエリュアールであり、ピカソやデュシャン、ミロやタンギーに関心をもち個人的関係をもったブルトンだが、この挿入文書署名者の構成は、ブルトンとかエリュアール、アラゴンらの意図というより、そのときのシュルレアリスム運動体自体にあった意図せざる意図が創出したというべきだ。そして結果的に、この構成メンバーの変化が、ブルトンが大衆にむかって「シュルレアリスムの政治的位置」を伝えるとき有効だったのは、この芸術特性だったのかとおもう。強制的でなくそれとなく浸透する造形芸術の特性である。

 『革命に奉仕するシュルレアリスム』のメンバーが、ドイツ、ベルギー、スペイン、チェコ、セルビアと国際色ゆたかだったことがあらわすように、このころから、各国の政治的左翼の立場に立つアヴァンギャルド芸術家がシュルレアリスムに関心をもち、シュルレアリストたちと直接連絡をとるようになった。そして、各国でシュルレアリスムに関連する展覧会が開催された。1936年には、ロンドンでハーバード・リードが企画する「国際シュルレアリスム展」が開催され、パリでもこれに逆刺激をうけたように、1938年に大規模な「国際シュルレアリスム展」が開催され、関連してブルトン、エリュアール共編著のカタログ『シュルレアリスム簡易辞典』が刊行された。この展覧会は、アムステルダムとデン・ハーグで縮小展が開かれている。

 パリいがいのヨーロッパ諸都市で開催される展覧会の場合、ロンドン大会のときのように、かれらは招かれ講演会をおこない、大衆にむかってシュルレアリスムを説明した。展覧会といういじょう、造形芸術の作品が中心だったのはいうまでもない。また、もっぱらブルトンが担当した講演でも、造形芸術から語られることがおおかった。ブルトンの初期の芸術観がわかりやすい「シュルレアリスムのオブジェの状況」も、1935年、プラハのシュルレアリスト主催でひらかれた「第一回シュルレアリスム展」のさいおこなった講演、「今日の芸術の政治的位置」とセットでされた講演である。

(注.「オブジェのシュルレアリスムの状況」として『シュルレアリスムの政治的位置』に収録されている.)


 そこで語られたのは、とうぜんのことながら、シュルレアリスムがいかに革命的な芸術であり、シュルレアリスムの芸術革命がいかに政治革命と相関関係にあるかだった。こうした講演も、ブルトンが語る作品が目のまえにあったのだから、ことばの隔壁が多少ともある大衆にも、かなり微妙な主張を伝達することができたとおもわれる。造形芸術の有効性が発揮されたのである。

  1934年、ベルギーのシュルレアリスム・グループがブリュッセルで開催した「ミノトール展」のさいは、ブルトンの講演「シュルレアリスムとは何か?」が準備されていて、周到な講演がおこなわれた。(注.このミノトールは、のちにブルトンらが刊行した雑誌『ミノトール』とは関係ない.)

 「シュルレアリスムとは何か?」は、ふたつの「シュルレアリスム宣言」やかれの著書を引用し説得的に語られたものであり、別途小冊子で刊行された(注.これらは『シュルレアリスムの政治的位置』に収録されている.)

 こうしたかれらのあたらしい活動は、政治・経済革命の推進者たちにたいしては、さほど効果もなかったが、シュルレアリスムの政治的位置をアヴァンギャルド芸術家らに伝達するには有効であり、西欧の革新芸術家の共感をえた。

 『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌の構成メンバーの変化は、このような結果をもたらしたものであり、そうであるからこそ、創設期の『シュルレアリスム革命』誌からの発展であったといえる。すでに紹介したリスティチは、第二次大戦後では、ユーゴの非同盟主義の共産主義者、チトーの側近として活躍し、また、チェコのシュルレアリスム芸術家らが、その後、スターリン体制へ執拗な抵抗運動をおこなったのは、こうしたシュルレアリスム体験の影響といえよう。

 しかし、ここにおけるメンバーの変化はそれだけでなく、さらにおおきな意味をもつ変化がある。それは、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌が、『シュルレアリスム第二宣言』の指す方向にむかっていることをしめす、『シュルレアリスム革命』誌との決定的なメンバーのちがいだ。創成時の『シュルレアリスム革命』誌には、まったく見られなかったメンバーの存在である。シュルレアリスムの「芸術革命」が、芸術革命から芸術革命へ軸足をうつしかけたとき、媒介の役割をはたした、マルセル・フウリェとアンドレ・ティリオンの署名がある。かれらふたりは、文学・芸術には関心のうすい、政治指向の知識人だった。ことにフウリェは、すでにのべたように、『クラルテ』の編集者であり、「モロッコ戦争に反対してプロレタリアートの側に立つ知識人労働者」の署名、「まず最初に、そして常に革命を!」の合同声明に署名し、そしてシュルレアリストとの連合による『内乱』誌の積極的な企画者だった。しかし、かれは、政治活動では、早期からフランス共産党に入党し、すでにこのときはトロツキストとして除名されていたし、シュルレアリストとの関係にしても、『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌に離反したナヴィルと親密な交流関係があったというから、そのかれが、ブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』に無条件で賛同するメンバーに名をつらねたのは、あきらかにひとつの出来事である。かれは、シュルレアリスムの芸術運動に参加する意義をみいだしたとおもわれる。かれは、ブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』に、かつて『内乱』誌に期待したとおなじ可能性、すなわち、(フランス共産党機関誌)『ユマニテ』的教条主義や通俗的人道主義の枠組みから逃れられぬ『クラルテ』にない可能性を、『革命に奉仕するシュルレアリスム』に見ていたのかもしれない。

 そして、いまひとりのアンドレ・ティリオンは、学生時代から、政治活動や組合活動をおこない、共産党にもはやくから入党した革新的知識人だった。かれは、アラゴンやサドゥールとの交流をつうじて、1928年からシュルレアリスム・グループに参加し、かれらの集会に出席していた。しかし、かれの「シャトー街の集会」での発言などから推察すると、行動的政治活動家というより、倫理感のつよい理論家だった。(注.関心のある方は拙著『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論』を参照.)

 こうしたふたりの参加は、創設時のシュルレアリスム・グループからみると場違いなメンバーだった。また、たった二名ということからも、シュレレアリスム運動体にはほとんど無意味のようにみえるかもしれないが、これもまた、『革命に奉仕するシュルレアリスム』にとっては、必然的、不可欠な構成だったようにおもわれる。

 いわば大樽にいれられた蒸し米や牛乳に投入された一片の酵母菌や乳酸菌の役割である。腐敗を防ぎ、酒やヨーグルトに醸成させるには必要不可欠の要素である。腐敗防止には強力な防腐剤もある。しかし、防腐剤では、素材は腐らないかもしないが、形骸化し、素材以下のものとなり、食べも飲めもしない、飯でもミルクでもない、得体(えたい)の知れない代物になるだけである。後年のソ連邦や戦後の日本で、良心的知識人が堕した共産党員の姿である。

 こうした役割が必然的に必要というのは、具体的には「革命に奉仕するシュルレアリスム」の存立基盤である目標、芸術革命イコール社会革命のあいまいさの是正である。

 というのは、かれらのいう芸術革命と社会革命がおなじというのは、かれらにおいてはなんら矛盾するものでないのだが、現実的にはあやうい均衡のうえに立っているのだ。バランスをとらねねばならない、必然性があったのだ。

 その後のシュルレアリスムにおこったことから、逆さメガネで見るように眺めると、この『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌から参加し、5、6年間は果敢なシュルレアリスム絵画の創造者であり、シュルレアリスムによってみずからの絵画を完成させたといえるサルヴァドール・ダリをはじめ代表的シュルレアリスムの芸術家たちに、そのあやうさがすでに本質的にあらわれている。政治社会問題と相関関係にあるシュルレアリスムの位置を重視していないこうした参加者、それでいて、活動的なシュルレアリスムの推進者であった、ダリやブニュエル、ルネ・シャール、フランシス・ポンジュ、そして、エルンストらにみられたあやうさだ。

 ブルトンとの交流が長かったエルンストや、詩人のシャールやポンジュらはちがったかもしれないが、スペインからパリへ来てグループに参加したばかりのダリやブニュエルが、政治へのシュルレアリスムの態度表明だった『シュルレアリスム第二宣言』に賛同署名をしたからといっても、かれらの同意がどんなものだったかはまったくわからない。この宣言を読んでいたかもわからない。本稿でもすでに解釈してきたような、それまでシュルレアリストだったある者たちを批判する、幾重にもとれる難解なブルトンの表現が理解でき、納得していたとはおもえない。


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