Anant 2-5-5-1


’60年代日本の芸術アヴァンギャルド(8)        

実作芸術家アラゴンをめぐって

 「ハリコフ(ハリキウ)の作家会議」

           からアラゴン事件 

       田淵 晉也


『シュルレアリストの集い』(エルンスト)

ガラの姿は見えるが、エルザはいない





‘60年代日本の芸術アヴァンギャルド


これまでの目次


序章

  1) 風俗画のアレゴリーとしてみる芸術・文学

  2) ‘60年代日本社会の位置

       ① 世界の状況

       ② 世界状況のなかの日本

第1章   ‘60年代日本の風俗画

  1) ‘60年代三枚の風俗画

  2) 「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本

(以上 『百万遍』2号掲載)


第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

  1) ‘60年代日本の「反芸術」(その1)       

  2) ‘60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリ

                             スム』の場合)

  3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』 と 

             アンドレ・ブルトンの「反芸術」

(以上 『百万遍』4号掲載)


  4) ‘60年代日本の「反芸術」(その2) 

    ①  芸術評論家の「反芸術」 ─ 東野芳明の「反

                 芸術」とそれをめぐって

    ② 芸術作家の「反芸術」 

  (以上 『百万遍』5号掲載) 

                              

    ③  「読売アンデパンダン」展から「ハイレッド・セ

                      ンター」へ

      ③ ━ 1. 「読売アンデパンダン」展      

 (以上 『百万遍』6号掲載)

                                ③ ━ 2. 「ハイレッド・センター」

            (以上 『百万遍』7号掲載)


   番外篇 ─ 『風流夢譚』と『エキプメント・プラン』

          から見た─「ハイレッド・センター」と

                   「中央公論事件」

 (以上  『百万遍』8号掲載)


       a) 座談会「直接行動論の兆」

             b)  日本のレジスタンス翻訳文学

                                 c)   シュルレアリスムの「反体制」

                             d)   実作芸術家ダリをめぐって

(以上、『百万遍』10号掲載)


       e)   実作芸術家アラゴンをめぐって

         「ハリコフ(ハリキウ)の作家会議」から

                    アラゴン事件) 

(今号掲載)

                               



「ハリコフ(ハリキウ)の作家会議」から

アラゴン事件


Part 1

 

                                                 

はじめるにあたって

 本稿は厳密には『百万遍』10号誌に掲載すべきものだった。それが果たせなかったので、そのつづきである。だが、前回と無関係に、今回だけでもそれなりに完結しているつもりである。

 前回、仮の見出しとして①「戦後日本のレジスタンス文学」 ②「シュルレアリスムにおける政治と芸術」 ③「シュルレアリスムにおける芸術家の立場」を掲げ、「芸術家の立場」で、サルヴァドール・ダリの場合を書いた。今回追加するのは、シュルレアリストとしての経歴や表現媒体(絵画と文学[詩・小説])でダリと対称点にある、ルイ・アラゴンの場合である。

 アラゴンは、’60年代日本のアヴァンギャルド文学界では、シュルレアリスムの詩人、小説家として評価され、ことにその抵抗詩はひろく知られるものであった。そうした’60年代日本のアヴァンギャルドにかかわってくるアラゴンは、とうじ日本で知られていたアラゴンと、とうじフランスで評価されていたアラゴンについても、かなりの食い違いや誤解があった。そればかりでなく、1980年代後半のソ連邦のグラスノスチ以降公開された新資料によって、間接的とはいえ、アラゴン像にも若干の修正が必要になったようにおもう。筆者としては、むろんその修正に正面から立ちむかえるはずもないが、せめてそうした新資料にもとづくあたらしい成果をてがかりに考えてみることはできた。そして、それにより、いままでよくわからなかった1930~1935年のシュルレアリストの動向、ことにブルトンの行動に、筆者なりの説明ができるようになったとおもう。もちろん、それとて、説明の体裁をなさぬのは承知しているが、なんらかの手がかりにはなるのではなかろうか。  

 またそればかりでなく、第二次世界大戦終結までのシュルレアリスム史では、ブルトン━アラゴン━ダリを三頂点とするシュルレアリスム三角形は、その後、3点三様の方向を指向したという意味で、それはそれなりに興味深いものがある。そうしたことからも、ここではアラゴンについて加筆する必要があるとおもったのである。


 シュルレアリスム・グループが、機関誌『シュルレアリスム革命』誌を廃刊にし、新たな機関誌『革命に奉仕するシュルレアリスム』を刊行して、第二期シュルレアリスムがはじまったのは、前回『百万遍』10号で書いたとおりである。第二期では、創設期にはほとんどいなかった実作造形芸術家が参加したことによって、シュルレアリスム芸術活動が質的に拡大するのをみてきた。その代表例として、新規参加者、サルヴァドール・ダリを見たのである。ダリの「芸術」は、類型的な20世紀芸術の様態である。

 それにたいして、すでに前号でふれておいたように、シュルレアリスム創設期からの文学芸術家らの反作用ともいうべき現象が、おこっている。具体的にいえば、ダリとセットになる「アラゴン」である。誤解をおそれずあらかじめ言っておけば、本論の立場は、ダリもアラゴンもシュルレアリスムの、数学的なの例証である。こうしたから、はたしてどのようなのシュルルレアリスムがみえてくるかが、筆者の関心であると、本稿をはじめるにあたって一言だけことわっておく。

 そしてまた、本稿のダリとセットになるアラゴンは、「ダリ=ガラ」とセットになる「アラゴン=エルザ」の組合せでもある。この組合せは、1930年代ヨーロッパの「政治」と不可分の関係にあり、20世紀の「政治」と不可分であった。 

 『百万遍』10号誌からつづくそうした前置きはさておき、「アラゴン=エルザ」の組合せから本稿は着手しなければならない。


 アラゴンによってたえず詠われ、ダリといえばガラというように、アラゴンといえばエルザといわれるエルザとは、こんな女性だった。

 エルザは、シュルレアリスム関係資料ではほとんど論じられず、あっても矛盾が少なからずあるキャラクターである。本稿では、シュルレアリスム系の資料としては、Jean-Paul Clébert: Dictionnaire du Surréalisme(1996年)と Mark Polizzotti: Revolution of the Mind: The Life of André Breton(1995年)をもちい、外縁資料として、信憑性がたかい 小笠原豊樹著『マヤコフスキー事件』(2013年)を参考にした。それでも看過できない矛盾については、くどくはなるが、そのつど指摘し、あるいは、注記している。 

 エルザ(エーラ・ユーリエヴナ・ガガン)(1896~1970)は、1896年、モスクワで生まれた。ブルトンと同年齢で、アラゴンより一歳、ガラより二歳年長である。父は、ガラの父とおなじユダヤ系の弁護士で、母は音楽教師だった。ガラとおなじように出自はユダヤ系のインテリゲンチャである。共に、当時のヨーロッパ圏では暮らしにくい階層の出身者だった。


 彼女は1918年、ロシア革命にさいし、フランス人のアンドレ・トリオレとロシアを出国し、翌年パリで結婚している。そののち夫とともにタヒチ島に住んだり、ドイツ、イギリスに滞在したといわれるが詳細はわからない。そして、1921年には離婚している。しかし、こうした短期の結婚にもかかわらず、離婚後もエルザ・トリオレを、1939年にアラゴンと結婚するまで名乗っている。

 ジャン=ポール・クレベールによると、1925年からのちは、白系ロシア人として単身でパリに住んでいたという。その間の生活環境は断片的にしかわからない。垣間見られるのは、ロシア・アヴァンギャルドとなんらかの関係があったことだが、その関係のもち方には、不可解なものがあり、見きわめねばならぬところ多い。ここでは、1925年からパリに住むとあるが、小笠原の記述のなかのエルザは、1924年にパリに来たマヤコフスキーがエルザの通訳で、ピカソ、ドローネ、ツアラ、イヴァン・ゴールに会っているから、その頃にはすでにパリに定住していたのではなかろうか。

 しかし、とりあえずはこの『シュルレアリスム辞典(Dictionnaire du Surréalisme)』によると、1928年9月6日、芸術家や文学者がよく集まる、モンパルナスのカフエ「クーポル」で、彼女は偶然、アラゴンと出会っている。そしてエルザは、出会ったときのアラゴンの第一印象について、まず、称賛すべき作家であり、また、魅惑的な男性と回顧しているという。とうじのアラゴンは、ナンシー・キュナードに失恋し、ドイツ人のダンサーとつきあっていた時期のはずだが、クレベールは、エルザの独占しようとする並はずれた誘惑に抗することができなかったと書いている

(注.クレベールが参考にしたと思われるアンドレ・ティリオン『革命なき革命家たち』については、のちにふれる.)


 これが、1939年2月の結婚で確定されるアラゴンとエルザの永遠の関係のはじまりである。アラゴンにとって、エルザは、インスピレーションの源泉であり、アイデア提供者であり、道標となる、狂おしいまでに愛する女性として崇める、ダリとってのガラとおなじ有名な関係になる。  

 エルザが、どんな芸術嗜好をもっていたかは、これまた矛盾したものがあり、よくわからない。しかし、アンドレ・トリオレとタヒチ島滞在中にすでにロシア語の小説を書いたことがあり、また、のちの1938年には、フランス語で書いた小説を発表し、同年には『マヤコフスキー 詩と思い出』を刊行しているから、独自の文学観があったのはたしかだろう。

 こうしたエルザは、いごアラゴンにとって、狂気の愛を歌いつづけるアイドルとなる ・・・・・ (いまだに言われているアラゴンとエルザの関係は、こうしたものだから、とりあえずはこう記しておこう。)

 このように出会った彼らは、かなりはやい時期から同棲生活をはじめたようだが、エルザがシュルレアリスト・グループに参加することはけっしてなかったようにみえる。というのは、小笠原によると、マヤコフスキーはその後もパリに来ているが、アラゴンやごくかぎられたシュルレアリストをのぞき、ブルトンらが、エルザを介して大挙してマヤコフスキーに会った形跡はどこにもない。

 こうして、1930年夏になると、ブルトンとエリュアール、そしてダリが、『処女懐胎』の制作に従事し、また他のシュルレアリストたちも、ブニュエルとダリの映画、「黄金時代」事件に専念していたとき、エルザとアラゴンは、ともにモスクワへ旅立つことになる。

 このモスクワ行きの理由は、さまざまにいわれている。マーク・ポリッツォッティは『知の革命─アンドレ・ブルトンの生涯』のなかでつぎの三つの理由をあげている。第一は、かれらの経済的理由である。かれらの生活は、エルザが手製のネックレスを制作し、アラゴンが専門店へ訪問販売することでまかなわれたという。第二は、だれもがいう、この年の4月、モスクワで命を断つたマヤコフスキーの元愛人だったエルザの姉、リリー(リーリャ)を慰問するためである。そして、最後の理由に、エルザがアラゴンを家族、友人に紹介するためとしている。そこには、同年開催のいわゆる「ハリコフ(ハリキウ)の作家会議」のことは、掲げられていない。

 このポリッツォッティのさりげない、彼らの訪ソ理由の説明は、紹介された友人がだれかなど、かなりの付帯説明を必要とする指摘である。すべてが記されているとはおもえない。とはいえ、エルザ主導の旅行だったことだけは、まちがいないだろう。

 ジャン=ポール・クレベールは、このときのアラゴンとエルザについて、つぎのように記している。


 エルザと知りあった後の1930年代当初までのアラゴンは、まだりっぱなシュルレアリストであり、ブルトンとふかい友情で結ばれていた。そしてエルザは、なによりもこのブルトンの影響を好ましくないとおもっていた。エルザ自身は、シュルレアリスム革命などにはなんの期待もなく、また、それだからといって、社会主義革命を信じていたわけでもなかったと書いている。1929年のエルザが、とうじフランス共産党員だったアンドレ・ティリォンに、「共産主義者などになる人の気が知れない」と、公言していたことが特記されている。

(注.クレベールは、シュルレアリスムを対象にした’60年代アヴァンギャルドの評論家のひとりだが、エルザに関心を示した少数派のひとりである。クレベールの〈Dictionnaire du Surréalisme〉以外の手がかりとなるシュルレアリスム関係事典、〈Dictionnaire général du Surréalisme et de ses environs (sous la diréction d'Adam Birot et René Passeron)(Office du Livre 1982)〉や、 〈Dictionnaire d'André Breton (Classiques Garnier 2012)〉、〈Les Dictionnaires surréalistes (1924~1976)(Honoré Champion  2012)〉には、エルザ単独の項目はなく、関係記述もおざなりである。また、評論家や研究者にしても、浩瀚なブルトン伝を書いたアンリー・ベアールでも、エルザの名前は二度しか掲げていない。それは、シュルレアリスムにおけるたんなる価値評価の反映ではなく、意識的回避のようにさえおもえる。あるいは、それほどエルザについては曖昧な部分が多く、また、判定すべきじゅうぶんな資料がまだないからかもしれない。シュルレアリスム運動史では、アラゴンに関連して彼女は実質的なおおきな影響をおよぼしたのだから、もうすこし明確な記録が必要であり、また、今後あきらかになるかもしれない。というのは、グラスノスチ以降、公開された新資料が関連してくるからである。またそれは、ブルトン自身についても、ブルトンのマヤコフスキー評価やフランス共産党との関係について、関連するところがあるようにもおもう. )


 シュルレアリスム側の資料から瞥見できるのは、エルザは政治に無関心ということだが、彼女はロシア人であり、出自からいうと、世界変革をかたる当時のインテリゲンチャのひとりだったのは、まちがいない。ロシアのインテリゲンチャ(知識人)は、19世紀後半以来、旧来の農奴制封建制度に立脚するツアーリズムに批判的な階層であり、その後の社会改革運動の土壌であったのだ。

 そのごのアラゴンの動向は、そうした彼女との関係がおおきく関わり、ひいては、シュルレアリスムにも直接影響をあたえたとおもわれる。芸術領域のガラと文学領域のエルザは、シュルレアリスムにとって同じ位置にある女性である。

 そして、このエルザ主導のソヴィエト旅行は、期せずしてアラゴンと彼女の関係を決定するように作用した。というのは、10月に実現した旅行は、彼らだけではなく、ジョルジュ・サドゥールが同行するものとなり、シュルレアリスムの旅行となったからだ。

 サドゥールの同伴には、つぎのようなわけがあった。前年の1929年の秋、シュルレアリスト・グループのサドゥールとジャン・コーペンヌが、ふとしたことから、サン・シール陸軍士官学校に首席入学した新入生に、自主退学を強要する、冗談半分の脅迫状を発送した。当時のフランスで、この手紙の社会的効果は、第二次大戦中の日本で、陸軍幼年学校、首席入学生に脅迫状をおくるのに匹敵するスキャンダルだろう。少年は脅迫状を学校に提出し、警察沙汰になった。警察は、1930年の初旬、この差出人2名を出頭させ、公式の謝罪を要求した。コーペンヌはこれに応じ謝罪した。サドゥールは、警察に出頭にしなかったばかりか、半年後6月の判事召喚も無視した。そこで欠席裁判によって、禁固三ヶ月の刑をうけ、それ以降は収監をのがれて逃亡中だったのだ。

 かれらのこの行為は、酔っ払い行為とはいえ、ふたりとしては、シュルレアリスムの反軍国主義の行動だった。だから、臆することなく手紙に、氏名、住所を明記したのだ。他のシュルレアリストも、1930年になるとこれを支援した。かれらに召喚状がだされてからは、積極的支持を表明し、抗議活動をおこした。そしてコーペンヌが、公式謝罪に応じると、彼は即時、グループから除名された。コーペンヌは、第一次シュルレアリスム後期の活発な活動家であり、「おおいなる賭け(グランジュ)」グループとの論争や「シャトー街の集会」など、第一次シュルレアリスム後期の芸術・政治集会でひときわ目立つ発言をするメンバーだったが、それによってシュルレアリスム・グループから離脱した。これにたいして、どうようの中心的活動家だったサドゥールは、シュルレアリスムに参加する以前から、学生として政治活動や労働運動に従事した経験者だったのだが、そのちがいがあらわれたのかもしれない。しかし、それだからといって、サドゥールがブルトンのシュルレアリスムを体現していたわけではなく、この直後、政治をめぐって離反している。

 このふたりのエピソードは、日本の’60年度アヴァンギャルでも似たようなことが、しばしば見られたものであり、本論がのちに問題にする赤瀬川原平の「千円札事件」などにもこうしたことがあったから、まえもってすこしくわしく記した。

 そういうわけで、ここでのサドゥールの同行は、かれの逃避行であり、シュルレアリストの行為であり、費用4,000フランは、映画「黄金時代」の製作者にもなった、ノアイユ子爵が提供したという。

 偶発事件からおこったこのサドゥール同伴は、アラゴンとエルザのモスクワ訪問が、シュルレアリスムにもたらした出来事にふかく関係するものとなった。

 1930年11月6日から15日まで、ウクライナのハリコフ(ハリキウ)で開催された国際作家会議への出席にいたったのである

(注. 会期はポリッツォティでは、 5日~12日)


 この国際作家会議はつぎのようなものだった。ロシア革命の後、1920年に「プロレトクリート(新しい文化)国際ビューロー」が設立され、それが改組されて「革命文学国際ビューロー」になっていたが、1930年のこの国際会議を機に、改称して「国際革命作家同盟(モルプ)」になった。この作家会議は、モルプ主催の国際会議だった。余談となるが、この会議には、日本からも、日本プロレタリア作家同盟の代表として、勝本清一郎と藤森成吉が出席している。そして、日本プロレタリア作家同盟が、モルプに加盟したのは、フランスとおなじ1932年のことである。

 さらにまた、この「国際革命作家同盟(モルプ)」自体の背景はつぎのようなものだった。ロシア革命の後、1920年、革命に賛同しそれなりに参画した文学者や芸術家らが集まって「全ロシア・プロレタリア作家協会」(ワップ)が結成された。1920年といえば、レーニンは存命し、トロツキーも活動していた時である。ここには、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家が多数参加した。『百万遍』10号の図版で紹介した、レーニン依頼によるタトリンの「第三インターナショナル記念塔」の設計案などは、そうした芸術家と政治家の関係をあらわすものだろう。芸術家の理想と政治家の理想が一致していたのだ。この芸術家団体は、1925年になると、ロシア共産党中央委員会の「文芸分野における政策について」の文芸政策によって、「ロシア・プロレタリア作家同盟(協会)」(ラップ[RAPP])となり、理論的機関誌『ラップ』を刊行した。1925年は、前年、レーニンが死去し、トロツキーの権勢にかげりが見えはじめていたのだが、この政策決定には、台頭するスターリンとともにまだ彼の意見も反映されていたようだ。そこでは、のちのスターリン文化政策とはちがい、文学・芸術の独立性がまだいくぶんかは認められていたといわれる。

 こうした推移と並行して組織された国際版が先の「プロレトクリート国際ビューロー」であり、「革命文学国際ビューロー」だったわけだ。また、アラゴン出席が問題になる「モルプ」も、「ラップ」指導で運営された組織であり、会議の開催だった。

 だが、そうではあるけれど、これら上部団体がうえのようにして形成されたのだから、元来はロシア・アヴァンギャルドの系譜につながり、ブルトンらシュルレアリストがここで主張したがるのも、あながち場違いで荒唐無稽な空論ではなかったことを、あらかじめのべておく。また、さらにいえば、本稿でのちにふれる、ブルトンとトロツキーの直接接触についてもどうようである。          

 しかし、実情として、いかにしてアラゴンとサドゥールがこのような会議に、出席できるようになったのか。どのような資格で出席し、またかれらがなにを語り、どのような受容のされ方をしたかの真相は、いまだ解明されていないところがある。

 とはいえ、一方では、これが、のちのシュルレアリスムの政治的方向をさだめる重要な契機になったのは明白だ。ブルトンの後日談によれば、アラゴンが出発する直前に、かれらはこの会議のことを知ったとある。そして、アラゴンらが出席を許可された場合を想定して、会議に提案する、フランスの文化指導者、アンリ・バルビュスを弾劾する決議案を起草していたという。

 そして、実際のところ、アラゴンとサドゥールの出席が許可されるということがおこった。許可されたばかりか、会議では、彼らはフランス代表団として紹介されている。その事情について、ベアールは一言もふれていないが、ポリッツォティは、フランス人参加者の不足と、エルザの「ラップ」(ロシア・プロレタリア作家同盟)との縁故だと記している。クレベールも、さりげなく、エルザの尽力で出席できたと書いている。

 しかし、この出席にあたりエルザが実際にはたした役割は、今まで用いてきたシュルレアリスムの文献では皆目わからず、別途の資料から探索してみなければならない。

 まず、見きわめておかねばならないのは、この時点におけるエルザその人についてだ。クレベールの言うような、たんなる白系ロシアの亡命者で済みそうにないのは、すでに一端を示したとおりだ。エルザは、ロシア革命の最中(さなか)、1918年にロシアを離れていたが、その後、社会主義国家となったソ連邦と、彼女はどのような関係にあったのだろうか。姉、リーリャやマヤコフスキーをふくめたかつての芸術家グループとどのような関係にあったのだろうか。リーリャにマヤコフスキーを紹介したのはエリザだといわれているのだから、ロシア・アヴァンギャルドの高名な詩人だったマヤコフスキーと知己関係があったとすべきだろう。(注.小笠原豊樹によると、リーリャに横盗りされたとある.) だが、他方では、今まで見てきたシュルレアリスム系の資料に書かれた彼女の西欧での生活ぶりから察すると、帰国できたことさえ、驚くべきことになりうる。 そうしたことをあえて大目に見ても、エルザが「ラップ」と緊密な関係があったとはおもえない。さらにまた、彼女が弔問帰国した対象のマヤコフスキーのその頃の動静からみて、マヤコフスキーの縁から、アラゴンらの会議出席の道が開けたとはとうていおもえない。

 当時のマヤコフスキーは、非共産党員であり、ロシア・アヴァンギャルド未来派グループ、「レフ[LEF]」(芸術左翼戦線)の同人だった。死の直前1930年2月に「ラップ」へ加盟しているが、すでにこのころの「ラップ」は、スターリンの意向をうけてロシア・アヴァンギャルドを攻撃していたから、仲間からは裏切り者、「ラップ」では疑わしい新参者だった。死んだとはいえ、そうしたマヤコフスキーの縁故者だからといって、12年間の国外生活者のエルザに、アラゴンらの「会議」出席を斡旋し、しかもフランス代表団につかせるほどの影響力が発揮できたとは、なんとしてもおもえない。

 そのような推理をすると、そこにはあるのは、姉リーリャを経由するエルザの意向とせざるをえない。

 シュルレアリスム関係書では、マヤコフスキーの元愛人としてのみ知られているリリー(リーリャ・ブリーク)とは、どんな女性だったのだろうか。小笠原豊樹の『マヤコフスキー事件』(2013年刊)には、マヤコフスキーの死の前後におけるリーリャについて、かなり詳しい記述がある。また、同書の巻末には、「年譜ふうの(マヤコフスキー)略伝」があり、そこではエルザへの言及もあるから、これらを参照しながら考えてみる。

(注.同書は、マヤコフスキーの自殺を他殺と主張する労作で、その当否はべつにして、ロシア語文献を渉猟した周到な文献である。エルザについてはほとんど記されていないが、信憑性ある貴重な資料だから、以下おもにこれにもとづいて考えてみる.)


 小笠原は、リーリャ・ブリークについて、「この女性は、娘時代にバレーを習い、その後、彫刻も少しは学んだらしいが、どちらも素人の域を出るものではなく、以後、マヤコフスキーと無声映画を撮ったり、トーキーになってからは映画監督の真似事をしたりしたけれども、これもものにならなかった」と書いている。モスクワの芸術趣味の女性であり、革命前後からアヴァンギャルド芸術集団のなかにいたようだ。そして、彼女は、マヤコフスキーと愛人関係になる以前からオシップ・ブリークの妻であり、この関係は、1945年オシップが病死するまでつづいている。

 1930年とうじの彼女の生活環境は複雑である。マヤコフスキーとの愛人関係は解消され、マヤコフスキーと舞台女優ポロンスカヤの恋愛関係がはじまっていたが、彼女夫婦とマヤコフスキー三人の共同生活はつづいていた。マヤコフスキーは仕事部屋を別途所有していたが、ブリーク&マヤコフスキーの表札のある家に、オシップ、リーリヤ夫妻と三人で住んでいた。そして、この家は、レフの集会にも使用されていたのだ。

 シュルレアリスム側の資料では、マヤコフスキーの自殺は、ポロンスカヤとの恋愛からとされているが、ポロンスカヤをくわえた四人の関係も、複雑に入り組んでいる。マヤコフスキーとポロンスカヤの馴れそめからして不可解である。マヤコフスキーに姉のリリー(リーリャ)を紹介したのは、さきにのべたようにエルザだったが、関係解消後のマヤコフスキーにポロンスカヤを紹介したのはリーリャの夫、オシップである。そればかりでなくかれらは三角、四角関係にありながら、おなじ演劇関係の仕事をし、日常生活をたえずともにしている。

 他方、オシップ、リーリャ夫妻については、かれらはともに1920年代初頭から、OGPUの前身である非常委員会(チェーカー)に所属し、その後もOGPU(合同国家政治保安部)の秘密工作者&密告者だったという。そして、マヤコフスキーはこれを承知していたと小笠原は記している。マヤコフスキーの周囲には彼らだけでなく、OGPUに関係する者たちがなかば公然と存在していたようだ。

 政府関係者がたえず身辺にいる、そうした状況は、スターリン体制確立後ならいざ知らず、直前のこの時期でも通常的にありうることだったのかどうかはわからない。だが、オシップとリーリヤ夫妻は、その後の彼らの生活軌道からみて、国家権力とかなり密着した関係にあったと推測できる。

 リーリャその人についても、マヤコフスキーの死後、愛人としたプリマコフ(軍人)が、1937年の大粛清のさい処刑されたとき、彼女も処刑者名簿に掲載されていたが、スターリンの介入で停止された噂もあるという。そればかりでなく、夫オシップは第二次世界大戦終了の年、1945年に病死しているのだが、この時代のロシアで、秘密警察に近い生活環境にいての自然死は、変動する政治体制のなかでどちらの側にいたかを表示するものだろう。

 リーリャについてさらにいえば、マヤコフスキーの死後、その遺産の二分の一と遺族年金、および印税を受領していたが、それらは戦後になっても、スターリンの生存中は継続され、フルシチョフ体制になって停止されたという。

 さいごに、この後の彼女を附言しておけば、オシップ・ブリークの死ののち、年下のマヤコフスキー研究家のカタニセンと結婚していたが、1978年睡眠薬自殺をしている。エルザがそれなりの栄光のなかで、パリで死んだのは1970年だが、それまでのエルザとリーリャの交流関係については、どこにも書かれていない。だが、交流があったのが自然だろう。むしろ、エルザやアラゴンに関連してこれを示す資料が見あたらないのが、不自然にみえる。

 しかし、それはそれとして、アラゴンとサドゥールの「作家会議」の出席は、こうしたリーリヤか、あるいはオシップの、特別な働きかけがなければありえなかったのではないだろうか。

 さもなければ、以下おこる「作家会議」での出来事、その後の出来事の説明がスムースにできないようにおもわれる。

 こうして、現実的に、アラゴンとサドゥールは作家会議に出席した。

 会議とその後の経緯はおもにポリッツォティをよりどころにして記し、ベアールも参照しながら、検討してみよう。

(注 Mark Polizzotti は研究者ではないが、この領域の現代文学の翻訳もおおい。来歴はわからないが、フランス側とはことなる見地からシュルレアリスムをみている。)


 会議の当初、アラゴンはエルザの通訳で、出席者にむかって、みごとな弁舌を発揮した。かれの会議中のブルトンへの報告によると、急遽パリからとりよせた『革命に奉仕するシュルレアリスム』誌への好意的反応をひきだし、フランス共産党の文化政策の手ぬるさをさえ、納得させたという。そして、会議が「国際革命作家同盟」を創設させたとき、アラゴンは評議員になり、機関誌『世界革命文学』の編集人に任命されかけていた。

(注. 後に物議をかもした2号誌は会議直前の10月に刊行されているから、実物を見せたていどの紹介だろう.) 

  

 かれは望外にも、国際革命作家同盟(モルプ)の最高幹部会に、『モンド』誌とバルビュスを「ブルジョワジーの道具」と非難させさえしたといわれる。

 とは言いながら、ポリッツォティはつぎのように書いている。

 アラゴンは目に見える成功に昂揚して、ブルトンへの返電でほかの好ましくない細部を伝えるのを怠っていた。すなわち、自分とサドゥールが出席しているのは、シュルレアリストとしてではなく、共産主義者としてであることなどである。そればかりでなく、かれは、代議員たちのある者たちのおこなった論難、ことに「『スーパーレアリスム第二宣言(ママ)』にある最悪の過誤」の非難にたいして、シュルレアリストの擁護をじゅうぶん納得させるようにしたとはみえなかった。

 アラゴンは、会議が進展するにつれて、徐々に、この会議の事実上の方針立案者だった「ラップ(ロシア・プロレタリア作家同盟)」の立場に、方向転換をおこなっていく。ラップの方向、すなわち、ほかの文学主張を排除し労働者文学に専念する方向は、ブルトンの文学方針よりバルビュスの見解にちかいものだったのだ。そこでは、アラゴンの痛烈な蔑視が期待されるにもかかわらずである。

 ポリッツォティはさらに書いている。その年の10月中旬まで、アナキスト的『文体論』の著者だったかれは、奇妙な発展をとげていた。究極のダンディーから熱心なプロレタリアへの転換である。かれがフランスにのこしてきたいっさいのものとは違う、この新世界の景観に目を奪われ、そして、エルザに励まされ、はじめて訪れる旅行者がおちいる心境、すなわち、現地人(ネーティヴ)いじょうの現地人になりたいという誘惑に屈してしまった。エルザはといえば、彼女の愛するひとの未来は、孤高のシュルレアリストより、共産主義の主流派と共にあることを願っていたのだ。

 ところで、このハリコフの作家会議で、いかにもあったことのような記述について、ポリッツォティはなんの実証的根拠もあげていない。また、実際にアラゴンがなにを語ったかものべていない。いささか先走りした独断論のようにもみえる。本論はかれの立場に立つのではないことはいうまでものない。

 しかしポリッツォティは、さらにつぎのようなことも書いている。

 アラゴンはハリコフの会議で起こっていたことがよくわかっていなかった。シュルレアリストにたいして会議を反目させ、アラゴンが獲得したものを実質的に無効にさせる策謀が、強硬派によって舞台裏で、ぎりぎりところでおこなわれた。けっきょくのところ、会議は、国際的に敬意をはらわれているバルビュスと、ほとんど知名度のないこれら変わり者たちと、いったいどちらを選ぶかをつきつけられて、前者に信頼をよせた。

 そして、会議終了時においては、アラゴンにかわり、バルビュスが『世界革命文学』の編集人となり、アラゴンへの決議は無効になった。だが、そればかりでなく、最大のどんでんがえしが最後にやってきた。

 いか書かれていることの大筋は、ベアールも記していることである。

 モスクワを出立する直前、アラゴンとサドゥールは「国際革命作家同盟」から文書を手交され、サインを要請された。ポリッツォティによると、もしサインしなければ、シュルレアリストが苦労して入手した共産党文化組織につうじる道はとざされると、通告されたという。

 この文書では、アラゴンがソ連邦で得たはずの肯定的理解が逐一消し去られていた。ふたりがおこなったバルビュスとフランス共産党非難は、シュルレアリスムの一般的主張とどうように、正当ではないとされた。たとえば、シュルレアリスムのフロイト主義やブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』は間違っているとされた。ことに第二宣言では、「弁証法的唯物論について矛盾したことを語っている」のである。さらにまた、この文書が求めているのは、彼らふたりの以後の作品すべては、党の承認をえたものにしなければならぬということである。

 そして、サインをせかされて、サドゥールは、シュルレアリスムと共産主義のきずなを絶やさぬことや、帰国時にまっている陸軍士官学校事件追及にたいする、フランス共産党の庇護を期待して、文書に署名した。アラゴンについては、「1930年のロシアの知的、倫理的、そして政治的状況の幻覚効果」(ポリッツォティにある引用符)によって判断が錯乱し、また、サドゥールとエルザのすすめによって、追従してサインをした。ようするに最終的には、政治ゲームの熟練者フランス共産党は、問題ばかりをおこすシュルレアリストのあら探し屋に勝ったのである。(同上書 pp.358)

 ポリッツォティが、いかなる根拠や資料によってこれを記したのかは、やはりわからない。ポリッツォティについては、研究者というより作家として、想像力による整合性(つじつま合わせ)をもとめる傾向があるが、そればかりとは言えぬものがある。現実におこったことの核心をはずしているとはいえないだろう。しかし、ベアールをふくめて彼らの理解するこの会議の顛末には、わからないところが多すぎる。その後のアラゴンの動向からみて、さらにまたブルトンのとった態度からも、記されていること以外を憶測せざるをえないところもある。

 ベアールが記すところでは、いままで紹介してきたポリッツォティの書いた出来事の経緯はつぎのようなものである。ベアールはれっきとしたフランスのシュルレアリスム研究者であり、また、研究者として独自の主張もあるようだから、ことさら、そっけない、わかりにくいものになっているのかもしれない。ポリッツォティの該当部分を一読してみよう。

(注.アンリー・ベアールは、アカデミックな研究者で、ダダやシュルレアリスムをフランス文学のなかで位置づけている.ブルトンらの政治とのかかわりや、総合芸術の視点、たとえばシュルレアリスムの造形芸術などは、むしろ、意識的に排除しているようにみえる.)


・・・ モスクワの家族のもとを訪れるエルザ・トリオレに付き添って出発した彼(アラゴン)は、ジョルジュ・サドゥールともども、1930年11月6日から15日までハリコフで開かれた作家会議に参加した。二人は、(ロシア)プロレタリア作家同盟が決定権を掌握する中にあって、フランスの作家を代表する立場となり、バルビュスならびに彼の出している新聞『モンド』(ママ) ----- 二人はこれを「プロレタリアートに憎しみを抱くイデオロギーを助長するもの」として非難する ----- の主張を踏みつぶし、シュルレアリスムの諸概念を優先させた。それにもかかわらず『祝火』の著者(アラゴン)は、党の必要とする偉大な知識人とみなされ、国際革命作家同盟の最高会議のメンバーの一員に選ばれたのである。そのうえ、二人のシュルレアリストは、12月1日、モスクワから立ち去るに段になって、一種の自己批判書に署名しなければならなかった。彼らはその文学活動を党の指導下におくべきだったし、党の機関紙を批判するのはまちがいであり、ブルトンの『第二宣言』とは、それが「弁証法的唯物論に反対する立場をとっているだけに」、これと袂を分かつべきというわけである。最後に、シュルレアリスムにおいて活用されているフロイト理論およびトロツキー主義と闘うことも二人は約束した。(塚原史、谷昌親訳)(アンリー・ベアール 『アンドレ・ブルトン伝』  pp.282)


 ベアールのこの記述は、ポリッツォティの記述に埋めこむと、シュルレアリスム側の理解もふくめて、すこしちがったようにみえてくる。最終的には破棄された、「国際革命作家同盟」の機関誌『世界革命文学』編集人就任については一言もなく、最高幹部会メンバーについては記されている。会議では、シュルレアリストはあるていどまで認められたのである。この理解は、とうじのブルトンらシュルレアリストたちだけでなく、現代のシュルレアリスム研究家もまたおなじだろう。ベアールでは、この承認を、やや揶揄的にとらえている。かれが引き合いに出すアラゴンの詩集 『祝火(Feu de Joie』は、1920年に刊行されたかれのはじめての詩集である。シュルレアリスム発足以前の『リテラチュール』誌時代に書かれたもので、シュルレアリスム時代のアラゴンではない。むしろ、この引用は、ベアールのアラゴン評価基準を露呈する説明である。そしてまた、アラゴンにかぎらず、ブルトンらシュルレアリスト、たしかにとうじのすべてのシュルレアリストではなかったかもしれないが、かれらがいかにロシアでおこっていることに希望を見たかに、無関心だったかを示すだろう。言わずもがなのことではあるが、アメリカの独立戦争が「新世界」芸術を輩出し、フランス革命とナポレオン戦争が近代小説を誕生させたように、ロシア革命は新しい芸術を胎動させた。

 このような本論の見地からみると、ベアールは論外にしても、ポリッツォティにも無視できない隙間がある。煩瑣ではあるが、アラゴンとサドゥールが帰国するにあたり、モスクワで署名した自己批判書なる文書そのものを一瞥しておかねばならない。この文書自体については、作家会議が開催されたのがウクライナのハリコフ(ハリキウ)であり、署名させられたのが出国時のモスクワだったということ。また、文書の宛先は、会議で成立した「国際革命作家同盟」の事務局であること。さらに自己批判したアラゴンは、ポリッツォティでは、任命されながら就任できなかったのは、国際革命作家同盟の機関誌『世界革命文学』の編集人であり、評議員については不問であり、ベアールでも就任していたかもしれない身分にあったわけである。だから、この文書は、現代のわれわれが考えるような自己批判、「この文書は、アラゴンが作家会議で得たはずの理解を逐一消し去ってしまう」ようなものではなく、かつての共産党組織でおこなわれた、形式的な、身分保証の「禊(みそぎ)」のようなものだったとも考えられる。

 「自己批判」は、つぎのようなものだ。


 国際革命作家同盟に参加するにあたり、1930年11月にハリコフで開催された革命作家会議の第2回協議会で決定された同盟のイデオロギー的政治的基本方針にいかなる保留もなく全面的に同意し、われわれが文学活動においてかつて犯したある種の過誤を認めねばならない。その過誤については、これ以後、二度と犯さぬことを誓約するものである。


 党員として、われわれはつぎのことを承認する。われわれの文学活動について、党の実質的統制をあおぎ、統制にしたがうべきであった。これがあらわしている誤謬は、われわれが犯したいっさいの過誤や、関与していたとみなされる過誤の根幹にあるものである。


 諸々(もろもろ)の下部組織で一貫して闘うこと、政治面だけでなく文化面においても、共産党の指令を厳密に遵守することだけが、われわれが参画した出版物で生じている混乱を制御できるものである。国際革命作家同盟との連携と、この組織の指示にしたがうことで、以後われわれは、このようないっさいの混乱の回避をすることが可能である。


 われわれのうちのひとり(アラゴン)は、党外において、フランス共産党のメンバー(同志バルビュスとカビー)を誹謗する誤りを犯した。


 いまひとり(ジョルジュ・サドゥール)は、サン=シール陸軍士官学校の首席入学生に書簡を出すことによって、つぎのような間違いをしたことを認める。すなわち、そこにおいて自らのイデオロギーを明示することより、揶揄することに気をとられ、たんなるつまらぬ冗談におわった間違である (『・・・・ 戦争をせねばならぬのなら、少なくともわれわれは、栄光のドイツの尖った軍帽をかぶって闘うつもりだ・・・』などである.)。同じく、このような書簡を、いかなる説明もつけず公開した過誤を認める。同志サドゥールは、この書簡の連署人、ジャン・コォペェーヌが、サン=シールへおもむきフランス国旗へ謝罪したとき、彼と公的に絶縁したことを述べねばならならなかった。 一審および上級審で3ヶ月の禁固刑をうけた同志サドゥールは、ソ連邦にたいし準備されているフランス帝国主義、軍国主義の正体をあばくための最後の機会となる最終審にいまや備えているのである。


 さらにまたわれわれは、われわれが参加したメディア媒体で、フランス共産党出版物や中央部門の幾人かの関係者を批判する出版物を黙認する誤りを犯したことを認める。(ブリス・パランなどの権威を公的に喪失させる労働者文学(ラブコール)書簡や写真の刊行) おなじくわれわれは、これら機関刊行物で、アナーキー的イデオロギーにもとずくテキストを出版させた間違いを犯した。


 われわれは、シュルレアリスムのメンバーが公開する(文学的、あるいは、その他の)個人的な全作品とかならずしも志をおなじくしないことを、明示しなければならない。だが、これらの作品がシュルレアリスム、あるいは、シュルレアリストに関連するかぎりにおいて、われわれにも責任があることを明確にしなければならない。ことにアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』について、それが弁証法的唯物論に矛盾していることなどについてである。われわれは常に弁証法的唯物論の範疇にあること、いっさいの観念論的イデオロギー(ことにフロイト理論)を斥けねばならぬと考えている。われわれは、トロツキー理論の精神錯乱的イデオロギーことごとくと袂をわかつものである。われわれは、機会あるごとに、トロツキー主義と闘うことを誓う。


 われわれの唯一の願いは、党の行動方針にさらに効果的な方法で規律に努め服すると誓ったわれわれの文学活動において、一層の適性化につとめるものである。

(国際革命作家同盟事務局宛)(1930年12月1日)(出典:Tracts surréalistes et déclarations collectives 1922/1969 (tome 1 (1922/1932))


 この「アラゴン、サドゥールの自己批判書」は、「国際革命作家同盟に参加するにあたり、われわれは、1930年11月にハリコフで開催された革命作家会議の第2回協議会で決定された同盟のイデオロギー的政治的基本方針にいかなる保留もなく全面的に同意し・・・・」と書きはじめられ、宛先は、出典資料によると「国際革命作家同盟事務局宛」となっているが、実質的内容では、フランス共産党員として、フランス共産党に宛てたものである。したがって、ポリッツォティのいう、「サドゥールは ・・・・・ 帰国時にまっている陸軍士官学校事件追及にたいする、フランス共産党の庇護を期待して、文書に署名した」が、おおきな意味をもつものとなる。ようするに、アラゴンとサドゥールにとっては、ソ連邦では受け入れられたかれらが、フランスへ帰国するにあたりフランス共産党への提出させられた「自己批判書」と解すべきだろう。つまり、宛先は「国際革命作家同盟」であるが、厳密には、国際革命作家同盟の会議決定とは無関係となる。

 この自己批判書は、内容からみても、二人が書いたものではなく、フランス共産党の独自事項が散見できることから、フランス共産党の文案はまちがいない。だが、フランス共産党の目的はどこにあったのだろうか。

 すくなくとも、ベアール指摘のようなもの、シュルレアリスムを標的にし、その弁証法理解や、フロイト理論やトロツキー傾倒を否定するイデオロギー的なものではないだろう。また、ポリッツォティが言うように、作家会議でおこなわれた、シュルレアリストとフランス共産党の革命芸術をめぐる主導権争いで、単純にフランス共産党が勝ったというのでもないだろう。

 むしろ、この自己批判書は、「国際革命作家同盟に参加するにあたり・・・」と書きはじめられているように、作家会議で認められたアラゴンをフランス共産党が受け入れるにあたって、条件的に必要とされた「自己批判書」とするのが、実情だったのではなかろうか。

 ベアールが問題にする、ブルトンの『第二宣言』やフロイト理論やトロツキー主義否定にしても、共産主義革命への期待を語る「第二宣言」を否定したいのは、フランス共産党であって、とうじのソヴィエト・ロシアの「作家」たちではなかったろう。フロイト理論についても、シュルレアリストがシュルレアリスム創設時から評価したのは事実だが、それは文学理論としてだった。ソヴィエト・ロシアの作家が、殊更これを問題にしたとはとうていおもえない。パブロフ理論を政治・文化的にあつかったかれらから類推すると、むしろ、シュルレアリストらと同根の態度である。ブリス・パランを是としフロイトを非とする評価は、フランス共産党の政治的評価基準である。たしかにその頃のフロイトは、西欧ブルジョワ社会で名声のなかにあり、彼自身もそれを享受していた。しかし、2年後の1932年頃からナチス・ドイツのユダヤ人迫害がはじまり、精神分析は排斥され、著書は焚書に処された。そして、かれは、1938年、ロンドンに亡命し没している。1930年のフロイトは、ブルジョワ心理学者だった。そのかれとは逆評価されたバランについては、それまでのかれは、モスクワのフランス大使館の勤務経験があり、帰国後はガリマール社につとめ、前年1929年に共産党に入党している。そして、1933年には離党した。ある意味ではとうじのジッドのような、フランス共産党にとって新進の好ましい知識人である。その後のかれは、第二次大戦前後から実存主義作家のサルトルや、ブランショ、クロソウスキーの評論で注目された哲学者、評論家となる。ようするにここに掲げられているキャラクターは、イデオロギーではなく、とうじのフランス共産党の皮層的、ご都合主義からなされた人物評価にすぎないようにみえる。

 ただし、トロツキーの場合は、この範疇にはいらない。1930年は、スターリンのコミンテルン掌握の年といわれるが、ソ連邦で進行中の過酷な状況を反映しており、フランス共産党にとっても、あきらかに重要課題である。だが、それとて、「自己批判書」の主意としては、ここでは念押していどだったのではなかろうか。

 というのは、一方では、この「自己批判書」の細部からはことなるものが見えるからである。それは、アラゴンとサドゥールの扱いの相違である。アラゴンについては、バルビュス誹謗の誤りである。これについては、すでにのべたように、作家会議冒頭の協議会での発言のように、アラゴンにかぎらずシュルレアリストは、バルビュスを全面的に批判していた。そして、かれらの批判する根拠は、作家会議でも当初は賛同を得たものだった(注.以前掲載の本論ですでに述べたところである)。しかも、バルビュスとセットになっているカビーを勘案すれば、主要な難点ではなさそうだ。

(注.ロベール・カビー(Robert Caby)[1905~1992]は、作曲家であり著作家だが、1930年とうじは、芸術批評や政治的論考を発表していたようだ.(Wikipedia) フランス共産党とのかかわりはわからない.党員だったのかもしれず、シュルレアリストとトラブルがあったのかもしれない.) 


 それにまた、バルビュス批判は、作家会議の席上、「国際革命作家同盟」の機関誌『世界革命文学』の編集人がアラゴンからバルビュスに差し替えられたように、なかば了解済みの事項である。そればかりでなく、バルビュスそのひとは、すでに『百万遍』10号誌で扱ったように、フランス共産党の同伴者的文化人であって、文化部門の推進者でも責任者でもない。

 アラゴンの「過誤」をもちだすのなら、「耄碌婆モスクワ」をはじめ、フランス共産党の離反者、マルセル・フウリエとの共闘など、枚挙のいとまがない。それらについて一言もないのは、むしろ、フランス共産党のアラゴン容認をしめすようにもおもえる。

 それというのも、この後のアラゴンが、フランス共産党をふくめ、国際共産党系文化活動で優遇されているようにみえるからである。1932年に設立された、「国際革命作家同盟」のフランス支部である革命作家芸術家協会[AEAR]の機関誌『コミューヌ』では、編集委員はバルビュス、ヴァイアン=クウチュリエ、アンドレ・ジッド、ロマン・ロランだったが、編集事務局はポール・ニザンとアラゴンで構成されている。さらにまた、同年の「アラゴン事件」の発端となったアラゴンの詩篇「赤色戦線」が掲載されたのは、ほかならぬ『世界革命文学』誌上(1931年7月号)だった。

 

 このように、アラゴン・サドゥールの「自己批判書」を一読すると、ベアールをはじめ、ポリッツォティでさえ、かれらシュルレアリスム研究家、批評家が記すとうじのシュルレアリストの動向と、実際におこったことのあいだには、埋めねばならない空白がすくなからずある。しかし本論の立場は、「出来事」報告という意味では、ベアールらが間違っているというのではない。

 さらに言えば、「作家会議」が承認したアラゴンと、受け入れるにあたって「自己批判」を必要としたフランス共産党のみるアラゴンについても、それはいえることである。

 言い換えれば、ソ連邦からみる「共産主義革命」と西欧からみる「共産主義革命」の、見る角度からおこる必然的相異である。このちがいがあるうえに、とうじのソ連邦では、旧来の「共産主義革命」観が、スターリン対トロツキーという卑近な形で変質しつつあった。あえて概略的に言えば、一国社会主義(段階革命論)と永久革命論への分岐である。当事者たちから言えば、見る角度の相異にせよ、分岐にせよ、とにかく互いにずれたモノを見ていたことになる。

 フランス共産党は、西欧にありながら成立過程(「第三インターナショナル[コミンテルン]」加盟)から、ソ連邦の見方にややもすると忠実な政党だった。ブルトンらのシュルレアリストは、西欧の「共産主義革命」に共感して入党した者たちである。ブルトン、エリュアール 、そして、アラゴン、サドゥールもまた、入党時の動機はおなじだ。それに、シュルレアリスムやその周辺で共同活動をしたものたちで、党員、あるいは、入党経験のあるシュルレアリストは、ブルトンらに先行したピエール・ナヴィルらをはじめ、すでにのべてきたように無視できないものであり、それぞれが足跡をのこしている

(注.たがいに相関関係にあるシュルレアリストと共産党員の実数はわからない.そこからシュルレアリスムを見れば、従来のシュルレアリスム観とはちがったものが見えてくるかもしれない.また、戦後50年代、60年代の日本のアヴァンギャルド評論家と日本共産党との関係にも似たものがある.) 


 そのようなシュルレアリストとして、1930年のアラゴン、それにサドゥールは、はじめてソ連邦の「作家会議」に出席したのだ。そして、感銘をうけたのだった。アラゴンについては、その感銘は、視点の相違と、おそらくは、エルザやリーリャの尽力による外的理由から得た「待遇」から生じたものだろう。

 こうした落差をくぐってパリのシュルレアリストたちのもとに帰ってきたアラゴンとサドゥールについて、ベアールはつぎのように書いている。


 最初にパリにもどったサドゥールは、呆気にとられているブルトンを前に、ひどく気まずい思いをしながら、何が起こったかを語った。たとえ党の文化組織で仕事ができるようにするためだったとはいえ、どうしてあの二人は党の規制を受け入れたりすることができたのだろう、とブルトンは自問した。「革命的知識人へ」と題された宣言文で申し開きするよう求められ、旅行帰りの二人は、工場でのサボタージュにたいする裁判 ----- それはスターリンによる最も大規模な粛清のひとつだったのだが ----- と資本主義国家がソ連邦に介入してくることの脅威を旗印のごとくふりかざしつつ、フランスで革命的知識人の統合を実現するのにもっともふさわしいのはシュルレアリストたちであると指摘した。精神分析をブルジョワジーにたいする武器として投げ返し、ブルトンがトロツキーに肩入れするあまりに下した一連の決定による汚名もそそいだのである。

            (前掲書前掲頁)


 ベアールの『アンドレ・ブルトン伝』を通読すればわかるが、他の箇所に比して、この記述は、隙間だらけの素っ気ないものである。これらにたいするベアールの無関心だけでは説明できない。

 「たとえ党の文化組織で仕事ができるようにするためだったとはいえ、どうしてあの二人は党の規制を受け入れたりすることができたのだろう、・・・・」にしても、ベアールのそれまでの記述だけではわかったようで、わかりにくい。ポリッツォティの、自己批判書にサインしなければ「シュルレアリストが苦労して入手した共産党文化組織につうじる道がとざされる」に関連するのだろうが、それだけでは、ふたりの「自己批判」書とブルトンの直後の処置の説明がつかない。あまりにも寛容な処置だ。その後におこったことから察すると、それだけではなかったようにおもう。ただし、ベアールのいう、「自己批判」はその一角にすぎない「何が起こったか」の内容が、当事者アラゴンとそれを聞いたブルトンと、このように記しているベアールの知っているものは、かならずしも同一ではないという前提のうえのことだが。

 われわれにとっては、アラゴンとブルトンが理解していたものだけが問題になる。しかし、それを、ベアールやポリッツォティ、小笠原豊樹の記述から類推しょうというのだから、悩ましい作業となる。しかし、あえて試みてみる。

 その後のアラゴンの行動と、かれがフランス共産党内でうけた処遇から察すると、ある程度の推測はできる。「文化組織につうじる道・・・・」は、具体的文化活動担当と表裏関係にある提案ではなかったのか。ブルトンはそれを、推測にせよ、暗黙にせよ、了解していたのではなかろうか。

 とうじのフランス共産党の文化政策はきわめて脆弱だった。脆弱というよりもむしろ、18~19世紀の市民革命の思想や市民的ヒューマニズムの枠をこえるものではなかった。フランスにかぎらず、その頃の西欧の「共産党」の、それが文化政策の実態だった。

 それに、『百万遍』10号誌でのべたように、1920年にフランス社会党から分離しコミンテルンに加盟し、フランス共産党が結成されたときの党員は、13万人だったが、1930年の党員数は3万人を下まわっていた。こうした実情のうえに、フランス共産党としては、作家、文化人たちの「革命」政党への関心からいっても、文化活動の必要は無視できない課題だった。おそらく、そうした課題から、フランス共産党は、アラゴンを見ようとしていたとおもう。もちろん、フランス共産党にとってのこのアラゴンは、シュルレアリスト・アラゴンであると同時に「作家会議」で優遇された、お墨付きをもつアラゴンである。

 ところが、その文化政策なるものは、ソ連邦共産党でさえ不確かなものだった。本稿で問題にしている「作家会議」も、ソ連邦の文化政策確立と普及を目的に開催されたのだろう。また、それなりに成果をあげかけたのも事実である。

 しかし、その実体は、1930年の「作家会議」のロシア側の出席者の大半が、スターリンの大粛清(1936~37年)後には処刑または流刑に処されたというから、スターリン台頭期の当時において、統一ある文化方針を打ちだせていたとはおもえない。また、フランス共産党にたいして実効性のある影響力を発揮できたともおもえない。ましてや、ロシアとフランスでは、元来、逆の格差があった文化の問題である。コミンテルンとしても、フランス共産党としても、具体的な指示や提案のしようがなかった。  

 そうした状況下において、文化担当者としてのシュルレアリスト・アラゴンは、たしかにシュルレアリストとしての実績あるアラゴンである。モロッコ戦争に果敢に反対し、フランス共産党主催のデモに参加したシュルレアリストだった

(注.フランス共産党指導のモロッコ戦争反対や連携したシュルレアリスム運動については、拙著『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論』を参照.)


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