Avant 番外編2

[’60年代日本のアヴァンギャルド 番外篇]


Part 2



 ここでの田中英光は、カフカのときのように、かれの作品を問題としているのではないだろう。太宰の墓のまえで殉死した田中ということだろう。

 太宰治は戦前から作家だったが、ことに戦後、衆目をあつめたデカダンス系の作家である。かれは、はやくから被虐的道化精神にみちた風刺作品で知られていたが、戦後ではこの傾向を正面に掲げ、私生活でも破滅型といわれ、その体験から書いた、『斜陽』にはじまる『人間失格』や『グッド・バイ』の作品を発表して、戦後第一期の文学寵児になった。「斜陽」は流行語にもなった。かれはこの生活の延長上で、1948年6月に玉川上水で二度目の情死という入水自殺をした。その自殺は、とうじの全国新聞の一面で報じられたほどである。

 四歳年下の田中英光は、太宰に見出されて作家となり、すでに多数の作品を刊行していた。かれは、太宰の死の翌年、とうじの作家ではそれほどめずらしくもない睡眠薬中毒だったのだが、太宰の墓前で大量の睡眠薬と焼酎をあおり、昏睡状態におちいり死去したのだった。かれなりの自殺行為である。

 それによって、かれもまた太宰の弟子として’50年代日本では文学青少年の人気作家のひとりとなっている。

 だが、こうした被虐的反体制主義の範疇にはいる無頼派の作家たち、『堕落論』の坂口安吾や織田作之助、石川淳らの作家がその後の日本の芸術家・文学作家の動向にあたえた影響は無視できないものがあろう。「反体制」と収入のともなう人気併存のパターンである。

 かれらの祖といえる太宰のもとには、作家以前の三島由紀夫もかよったという。本論における今泉の「田中英光」も太宰治とダブルイメージの田中かもしれない。それについては、のちにふれることにする。

 というようにのべてきたのだが、「オルガナイザーへの手紙の断片」なる、『エクイプメント・プラン』の書き出しからの流れが、なにやら方向を変えそうなこの項目は、正面から立ち向かっても、やはりとらえどころがあやふやになる。

 しかし、著者たる長良が、表面的に見せたがっているのは、この装置であり、なんのために、何のためにある装置かということらしい。つづく次項目を「設計プラン」に設定したことにもつうじるだろう。

 この「設計プラン」なるものは、きわめて精緻をきわめた描写である。カフカの「流刑地にて」のせいかもしれないが、むやみに詳しいギロチンらしきものの機構説明をしている。しかし、やはりこの装置は流刑地の拷問処刑のベッドではなく、ギロチンにちかいものである。

 ただし、馬鍬ではなくスコップや鶴嘴をつかい、ラチェット(爪車)機能や貨物車の車輪をささえる鉄のかさねばねの使用とか、カフカとはちがい、大カガリだがわかりにくい機構説明である。筆者には、その仕掛が残酷仕様であることはわかるが、それいじょうの関心をひくものではない。しかし、この説明に、さりげない挿入されている、今泉論特有の一二の片言隻語にはこだわってみたい。

 とはいえ、とりあえずは、この片言隻語がはめこまれている、全文をしめさねが埒が明かないから、全文を引用をする。


設計プラン

 いずれにしてもこの装置は私の生計費を完全に喰いつくしてしまう、装置し得てもみすみす没収されたりとりこわされたりしてしまうのは実に口惜しい、とりはらわれる寸前にふたたび飛来したヘリコプターによってあの男の住居の前に持ち込み、またしてもとりあげて点在するあいつの別荘に展示し、西の砂丘または北アルプスの山嶺の登坂不可能なる高所にでも捨てようか。

 ここにおいてあのもの(傍点)はまずたやすく吊り降ろし、吊り昇げられるように頂部にかぎがついていなければならない。カミュの記述によるところのものは二米の高さがある。しかしながらあの広場において、そのスペースに圧縮されることを考えるならば、それは少なくとも五米の高さが必要であろう。イミテーションは不幸にして誇大でなければならぬ運命である、実用物ならばその機能性を誇り得るが故に小さくてもよいのだが、モニュメントはその無辜の故に耳目を欹だたしめねばなるまい。五米高から落下するものは古いスコップの歯がいい、これを三枚ないし四枚乱杭に並べる、この奥にはもう一列噛み合う牙の列がある、これは人間の歯のように上顎が少しく前に出た形で噛み合された上下十本の鶴嘴がいい。救いをもとめるエナの腕が鶴嘴の歯列に肩先を噛まれ、手首はスコップの歯列に落とされる、奥にはエナの絶望の闇黒がある。第一列の歯はカーブして落下するように二本の軌道が前面に縦に並んでいる、このカーブは前面から凹面にみえる。第一列の歯の下には手前が細くすぼむ桶が取り付けてあり、切断されたものはここをころがり、あるいはすべり落ち、あるいはしたたり落ちる。桶の付根と第二列の下顎のセンターの接する処に軸がとりつけられ、ここに大きなる車輪を差し込み、後部には舵取り可能な左右に動く小車輪を使う。勿論かなりの加重であるから貨物車に使用する鉄のかさねばねが前輪のためになくてはならぬ。全長は二米、後部にピストンがある。

 そのメカニズムはこうである。要するにホッヂキスを考えればよい。このものが始動するや、ピストンが台座を前に押しだし、ラチェットが一歩廻転して後列の牙が上下から噛み合い、エナをさしつらぬき固着する。すると前列の切断刃支持バネがはねてレールにそって刃はカーブをえがいて落下する。前列の切断刃の衝突によって後列の牙は口を開き、牙のアームの動作によって切断刃支持バネは切断歯の上昇にそなえ、切断刃はピストンの動力によって上昇し、支持バネはこれをつかむ。ピストンは後牙の解放によってラチェットをすべり、つぎの爪まで台座を押す、そしてラチェットが後牙を噛み合わせ、前述の動作をくりかえしエナを寸断するのである。(赤文字は注目語句)


 設計されるあのものは、あきらかにギロチンである。しかし、同時にここでは、現実的パフォーマンス計画であることをあらためて表明している。イミテーションとか、高さ5米のモニュメントを引き合いにだしてくるのは、やはり皇居前広場での観客への芸術効果をかんがえているのであろうし、また、経費思案までしてみせるのは、本気度表明のつもりかもしれない。しかし、装置制作費算定はべつにしても、ヘリコプター使用や当初案にあった映画撮影クルー編成などは、1962年の日本社会の現状を知っていたものから言えば、一介の雑誌編集者やアルバイト芸術家が算段できるものではない。1964年の東京オリンピックの開会式でさえ、ヘリコプターをとばして撮影した報道機関はなかったはずだ。

 およそ、現実をよそおった奇妙な文学作品だ。奇妙とは、書いている本人は、そうおもってはいず、あんがいリアリスティックな提言のつもりかもしれないということである。そうでなければ、カフカの短編『流刑地にて』と比較すればわかることだが、この「エクイプメント・プラン」は、これだけでは自立していないからだ。だれがいつ読んでも、それなりにわかる完結性がないからだ。仲間内の議論や提言のように、かぎられた者たちにしか通用しないコトバがけっこう重要な役割をはたしているのは、すでに確認したことだ。

 けっしてこれは、川仁が『座談会』で発言しているような、精緻な文学的になった作品ではない。

 ならば長良棟は、漢字辞典を参照しなければわからないような用語もつかいながら、一体だれに、なにを伝えようとしているのだろうか。

 さきほど、仲間うちとはしたが、どのような仲間うちであっても、これらの思考のつらなりが、すんなり通じるような仲間があるのか、ないのか。

 むしろ、仲間向けといっても、わざとわかりにくくする語句が混入されている。にもかかわらず、さきの座談会『直接行動論の兆━ひとつの実験例』の冒頭で、あれほどまでに問題視された「エクイプメント・プラン」なのだから、なにか、のちのハイレッド・センターの高松、赤瀬川、中西らとは、反対命題とはいえ、コミュニケーションが成立する、なにか伝達すべき実体があったのだろう。それをしるためにも、いますこし、長良の記述につき合ってみなければなるまい。

 いままでも見てきた、今泉論に特有の、とつぜん出現する意外な意味をもつことばは、この項目にも、またでてくる。

 これまで、あのものとかこのもの、あるいは、被処刑者といわれたもの、あの男の居住とかあいつの別荘とかで自明のものとされていた者が、とつぜんここでは、エナといういささか意味不明なものにいれかわる。そして、自明のごとく、たたみかけてつかわれるエナとは、この文脈でも理解するのがむずかしいが、のちの使用ではさらに不可解となるキーワードである。とりあえずおもいつくのは、胎児を包んでいた膜や胎盤などをさし、後産として体外に放出される胞衣のことだけだ。あのものこのものをパフォーマンス・イベントで象徴するマヌカンを、さらに胎児の抜け殻をあらわすエナに云い換えたとすることが、ここまででは、かろうじて可能である。だが、それにしても、ギロチンにかけられる天皇像をひそかに想定して読んでいた読者も、そろそろ根負けしてきそうなトリックスターの手口にもみえる。

 現実の胞衣(えな)が、肩口や手首が識別でき、鶴嘴で突きさしたり、スコップで切断ができるのだろうか。雑巾のように先っぽにくっつくだけだろう。胞衣はフィクションのメタファーのつもりなのだろうか。

 なぜここであのものの肩や手、貴様あいつの肩口や手首を切断すると書くことができないのか。あいつを闇黒に突き落とすと、云えないのか。なにやら、いわくありげな秘語をもちこみ、読み手の惑乱と誘導をこころみているとも、あるいは、読み手ではなく、「エクイプメント」を書きはじめてしまった本人の動揺の進行であり、錯乱と見たほうがよいのかともおもえる。

 それを本人の論理的混乱、錯乱と推測できる、一句がここにある。さりげなく記された、「カミュの記述によるとこのものは・・・・」である。

 文脈では、たんにギロチンの規模、その高さのためのようだが、はたしてそれだけだろうか。カミュの記述によるギロチン、ギロチンにかかわるカミュの記述を問題にしているのかもしれない。なぜなら、客観的なギロチンの寸法なら、百科事典にせよ、もっとたしかな資料がある。それをわざわざ1962年の当時、サルトルとならぶ不条理の注目作家、アルベール・カミュをひきあいに出してくるのである。

 そのころのカミュは、ノーベル賞作家であり、おなじノーベル賞を辞退したサルトルとの、『反抗的人間』をめぐる論戦などで、知識人の人気作家だった。その頃出版されていた翻訳書には、小説『異邦人』、エッセー『シーシュポスの神話』をはじめ、戦後書かれた小説『ペスト』や『反抗的人間』があったと記憶するが、今泉のいうカミュの記述は『異邦人』あたりではなかろうか

(注. かれのその他の言説には、カミュ思想に傾倒した形跡はなく、作品自体の知名度からである.また、『今泉省彦遺稿集』の照井康夫も同書を指摘している.)


 『異邦人』におけるギロチン該当箇所は、主人公が死刑判決をうけたのちの、小説の最終節にある。ギロチンにかかわる記載もあるが、「エクイプメント・プラン」のこの後の展開に関係してくるから、前後をふくめて引用しよう。


・・・死刑執行ぐらい重要なものはなく、結局のところ、これが人間にとって真に興味のある唯一のことなのを! 万が一この牢を出ることがあったら、僕はすべての死刑執行を見に行こう。たぶんこういう可能性を考えるのは間違っているだろう。ある日の早朝、非常線のうしろ、いわば反対側で自由の身である僕を想像し、見にきたあとで吐いたりすることのできる見物人になることを想像すると、毒のような歓喜の波が胸にわき上がってくるからだ。しかしそれは理性的ではない。・・・・・(略)・・・・

 しかし、むろん、われわれはいつも理性的でいられない。たとえば、ときどき僕は法律の案をたててみた。刑罰の改革もした。肝心なのは死刑囚にある機会をあたえることだということに僕は気づいた。千にひとつでもいい、それでいろいろなことがうまくゆくだろう。そのために、執行を受ける者が(僕は、執行を受ける者というふうに思った)体内で吸収すると、十のうち九までは死ぬような化学的薬品を発見することが可能なのではないかと、僕には思われた。死刑囚はそれを知らされる。それが条件なのだ。なぜなら、熟考のあげく、斬首刃のよくない点は、そこに何らの機会もないこと、絶対に何もないことに存するのを、僕は確認した。結局、死刑囚の死は、一編にとりかえしがつかぬ形できめれてしまう。それは処理ずみの事件、確定した計画、成立した取りきめであり、再検討は問題にならない。もし、何らの拍子で、斬首がうまくゆかなくても、やり直すだけのことだ。したがって、これがよくない点なのだが、死刑囚は断頭台がよく動くのを希望しなければならない。ここに欠陥があると、僕は主張する。これはある意味で真実である。しかし別の意味では、すべてよい組織の秘訣はここにあることを僕はみとめないわけにゆかない。結局、死刑囚は精神的に協力しなければならない。すべてが円満に進行するのが、彼の利益なのだ

 僕はまた、これらの問題について、正しくない観念を持っていたことをみとめないわけにはゆかなかった。僕ながいあいだ(ママ) ─ なぜかわからないが ─ 断頭台にかかるには、台の上へ、階段を登って行かねばならないと信じていた。たぶんそれは1789年の大革命のせいだろうと思う。つまりこれらの問題について教えられたり、見せられたりしたもののせいなのだ。しかしある朝、僕は世評の高い処刑が行われたとき、新聞にでた写真を思い出した。実際はあの機械は、しごく簡単に、地面の上にじかにおかれていた。それは僕が考えていたよりずっと幅が狭かった。それにもっと早く気づかなかったのは、よほどおかしいことだった。写真にうつった機械は、完成したきらきらひかる精密な製品のような外見で、僕をおどろかした。ひとは知らないものについてはいつも誇張した考えを持つ。反対にすべてが単純であることを僕は認めねばならなかった。機械はそれにむかって歩いて行く人間と同じ高さにある。彼は誰か人に会いに行くように、そこに達する。ある意味で、それもまた厭うべきことである。台に登るのは、昇天するようで、想像力がそれにたよることができる。ところが、あそこではまたも機械がすべてをおしつぶしている。ひとびとは、つつましやかに、少しはにかみながら、きわめて正確に、殺されてゆく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そして僕もまたすべてを生きなおす気持ちになっているのを感じる。あたかも、この大きな怒りが、僕から悪を排出し、希望を追放してしまったように、この星としるし(傍点)にみたされた夜を前にして、僕は初めて世界のやさしい無関心に、自分を開いた。世界を自分と非常に似た、いわば兄弟のようなものと悟ると、僕は自分が幸福であったし、今でもそうだと感じた。すべてが完了し、僕の孤独をやわらげるために、僕はただ処刑される日に大勢の見物人がいて、僕を憎悪の叫びで迎えてくれることを望めばよい。(アルベール・カミュ『異邦人』[中村光夫訳])(下線は指示以外は筆者)


 ここでは、ギロチンの高さではなく、それが置かれている高さが問題となっているのだが、ようするに、特別のものではないということだ。このギロチンの位置については、フランスの現実のギロチン処刑制度でも問題となった。地面に直接おかれるようになったのは、1870年になってからで、その制定には「地面に這いつくばって死ぬことを拒否する」とか、「人間としての誇りを取り戻せ」とかの抗議運動があったという。カミュの記述は、そうした処刑される者の心情に視点があるのだろう。

 それよりむしろ、ここでカミュが描いているギロチンは、執行を受ける者にとってギロチンだ。さらにまた、それが人間にとって真に興味ある唯一のこととしている。死刑執行を人間問題に置換していることだ。

 カミュからいえば、刑罰としてのギロチンの機能は、かならずしもよいものではない。刑罰において、肝心なのは死刑囚にある機会をあたえることだからだ。ある機会としてここであげられているのは、体内で吸収すると、十のうち九までは死ぬような薬品を死刑囚にあたえ、それをかれに告知することによって、死刑囚が得るような機会である。おそらくそのとき死刑囚が知る境地こそ、人間の人生が圧縮されてのしかかってくる境地であり、かれはそれに耐えねばならないというのだろう。

 ところが、ギロチンの場合はそうではないとカミュはいう。「斬首刃のよくない点は、そこに何らの機会もないこと、絶対に何もないこと」、「死刑囚の死は、一編にとりかえしがつかぬ形で」決せられてしまうという。そこでは、死刑囚が死刑囚である余地が皆無なのだ。人間が人間であることを知らねばならぬように、人間である死刑囚は、人間である死刑囚であることを純粋に実感しなければならない。

 カミュの記述によるとあのものは、このようなものである。今泉がこれをどう解したかわからない。ことに、『異邦人』の最後の数行、「この大きな怒りが、僕から悪を排出し、希望を追放してしまったように、この星としるし(傍点)にみたされた夜を前にして、僕は初めて世界のやさしい無関心に、自分を開いた。世界を自分と非常に似た、いわば兄弟のようなものと悟ると、僕は自分が幸福であったし、今でもそうだと感じた」を、どのようにかれが読んだのかわからない。しかし、これにつづく、「すべてが完了し、僕の孤独をやわらげるために、僕はただ処刑される日に大勢の見物人がいて、僕を憎悪の叫びで迎えてくれること」を、ギロチン・パフォーマンスにむすびつけ、ひとつの確信をえ、かれの「エクイプメント・プラン」執筆の契機にしたのではなかろうか。

 死刑執行を「執行を受ける者」からみることを思いついたのはこのあたりの記述が契機となったかとおもう。いや、すでに話題となっていたギロチン・パフォーマンスについて、対抗的な『エクイプメント・プラン』執筆をおもいたった契機自体が、カフカとカミュのこれら作品、とくにこの作品にあったかとさえおもわれる。そのあらわれが、この「設計プラン」にさきだつ「手紙の断片」にあった、はじめてここで述べるという、「ギロチンが立てば被処刑者がいなければならぬ」の思想の開陳である。ここでは、カフカの「流刑地にて」にとどめているが、「設計プラン」で、カミュを登場させ、それがあのものこのものではなくエナとし、「救いをもとめるエナの腕が鶴嘴の歯列に肩先を噛まれ、手首はスコップの歯列に落とされる、奥にはエナの絶望の闇黒がある」と書かせた理由かもしれない。エナは抽象化された、現実の苦悩する人間である

 『エクイプメント・プラン』の中段にしるされた「手紙の断片」と「設計プラン」は、長良理論展開の根拠をしめしたものであろう。というのは、ここから一気に書かれた項目「碑銘差換案」、「エクイプメント批判」、「設計プラン修正案」、「失墜したオルガナイザーの疑念」、「失墜したオルガナイザーへの反論」の5項目すべては、差し換え修正批判失墜が示すように、エクイプメント・プランの変更であり、最終的破綻へむかう論拠をならべたものだからである。

 まず、「碑銘差換案」は、文頭部でしめされた「中世武将騎馬像」と、四体の「フアブリアゲノーレの蒼ざめた人物」群像の礎にきざまれたふたつの碑文を、このように修正するというのであった。

 「論理の死ぬに貴様が安眠をほしいままにする以上、私は一日として安らかに眠るときはない、明けても暮れても安眠のさかなを泳がせている貴様の眠りが深ければ深いほど、私は眠りをにくむ」に書き換えるとある。

 肝心の「碑」自体がどうなるのかは記されていない。さきのエナが寸断される「設計プラン」でしめしたギロチン像になるのだろうか。かれの関心はオブジェにはなく、碑文にあるのだろう。修正ではなく、集約的説明のようにもよめる。

 「論理の死ぬに貴様が安眠をほしいままにする以上・・・」は、騎馬像の礎に刻まれていた「ここに眠れぬ夜がある。道義に照らしてさえ不正な、まして論理を成立せしめない、奇怪な、魚やその他の海の生物しか知ろうとしないものが、むくむくと肥えふとって眠りこけている夜であればこそ・・・・」の要約であり、眠れぬ夜をおくるのは「私」もふくまれる説明になる。「論理の死ぬ鼎」とは、「鼎」は、古代中国の三本脚の金属製器であり、祭器や礼器に使用されたことから帝位の表象であろう

(注. 照井康夫『今泉省彦遺稿集』のテキストでは「期」となっているが、誤記である。この照井版テキストでは参照した『形象』誌の印刷文字劣化のためか、誤記が多い.)


 だから、論理の死ぬ帝位とは、「象徴」という実態のない天皇の位置であり、そこで、趣味にふけってのうのうと暮らしている者ということだろう。

 しかし、修正碑文で「私がにくむ」のは、「貴様」そのものではなく、「眠り」なのである。貴様が眠っていることだ。さらにいえば、フアブリアゲノーレの礎に刻まれる第2の碑文にあった 「水族や植物や、いずれ人間の耳に達せぬ声々とのつきあいが深ければ、その微細な震えに共鳴する神経繊維も、さらに耳をすましたまえ、君の耳にわれら二足獣の怒りがとどかぬにしても、水族、植物よりはさらに冷たく動かぬ鉱物共の開いた口の群の波長はとどかぬものでもあるまい」は、無視されている。間接的とはいえ、ギロチンの刃にかかるはずの、「放心のあの日に自分が二足獣であることを確認した」おまえを暗示するものさえ、現実的「エクイプメント・プラン」からは抹殺されている。

 それならば、だいたい前の「設計プラン」で仰々しく設計してみせたギロチンなるものは、いったいなんのためにあることになるのだろう。不眠症の者がながめるために、あの広場に設置するというのだろうか。もともとこの「碑文差換案」なるものは、設置など念頭になく思いつかれたものなのだろうか。

 それを証すように、この項目につづく項目は「エクイプメント批判」である。これまで、最初から慎重に、はぐらかしながら書き進めてきた、プラン論理の筋道などなかったかのように、それらは確固たる論理的帰結のように「批判」は記されている。 

 

エクイプメント批判

 前段にエナの絶望の闇黒というイメージがある、ここでは絶望の闇黒からエナが切断されつつ白昼へ救い出される、しかしながら絶望の闇黒は文学に接近しすぎていて設計不能である、裏に廻ればシートで覆われているのでは盛場の見せ物に等しい、ここにおいてプランの対面する困難は上記案を一切破産せしめる、エナに従うならば移動性を持つべきではない、手軽な携行的なメカニックはフアルスである、逆にしてはどうか、投入口に差し入れられるエナはまず上下五本の牙にかまれ固着せしめられた上で切断刃が切断していく、エナは闇黒にのまれていく、エナの闇黒は悪魔の消える穴である。大地に向けられてラッパ状に密着した導管。


 記されているのは、このプランは困難ゆえに廃棄するの通告である。述べられいる困難のゆえんは、これだけでは、ほとんど自立性をもたぬ理由である。前段がなにを指すのかわからないが、エナの絶望の闇黒白昼への救済も、読者としては、さきに示した「流刑地にて」における、みずから処刑具に身を投じる将校の絶望救済や、カミュのギロチン処刑を、「エクイプメン・プラン」とは無関係におもいだすとき、かろうじて連想の火花が飛ぶだけである。それにしても、「文学に接近しすぎていて設計不能」とは、今泉のなかだけのことではないのか。そこまでいうのなら長良は、「流刑地にて」について、カミュについて、のべなければならない。数学の公理や定義のようにカフカ、カミュ、田中英光という文学者の名前だけをもちだしてもしかたがあるまい。とはいえ、ここにみられる理屈の展開は、’60年代アヴァンギャルドではめずらしくないものだった。かれは、それを、不器用に使用しただけである。不器用にとは、かれ自身が理屈論理を信じていないということでもあろう。かれが確信を込めて、ここで語っている批判は、「エクイプメント・プラン」は破棄すべきということだけだろう。

 そのような意味で、この「エクイプメント・プラン」は’60年代日本のアヴァンギャルドのひとつの実態を知るうえで絶好のサンプルとなる。サンプルは誇張されたもののほうが分析しやすいものである。「エクイプメント・プラン」へのハイレッド・センターの真のこだわりの在り処がどこにあったかを知るためにも、あと少しこれを読んでみることにする。

 というものの、これにつづく三項目は「失墜したオルガナイザーの疑念」「失墜したオルガナイザーへの反論」からも察しられるように、自己撞着のつじつま合わせで、正面から扱うことができず、推測をまじえながら側面からみなければならぬ内容である。

 したがって、とりあえずは、文字通りの全文を参考のため供するが、仔細にはたちいらない。

 「失墜したオルガナイザーの疑念」と、結論となった「失墜したオルガナイザーへの反論」のふたつをならべて提示しよう。


失墜したオルガナイザーの疑念

 プランを読みなおした。「エピローグ」がいい。小生への手紙のK氏のマゾヒズムが問題です。つまり「あのもの」をサディストと認められぬ以上ここに加虐=被虐関係は成立せず、加害者の立場をとることが叶わない。君のいうタブローの限界内にひき戻されるのではないか。まこと「エピローグ」にいう理由で英光の救済は自済を果たしているのだからこのたびは顕彰を目睹すべきではないか。ふたたび引導を渡して英光を頌すれば「あのもの」を貶めることになるのか。


失墜したオルガナイザーへの反論

 さて、まず「あのもの」とはなにかを定めぬかぎり反批判にならぬのはたしかなのであって、この場合の「あのもの」とは「このもの」であり、共に装置そのものを示す。従って装置は加虐装置なのであって、いうまでもなく、Kも英光も加虐=被虐の同時体現者なのです。そこで加虐装置も又、自害装置でなければならず、修正案A、Bが呼び出されてくるわけです。また、文中「無数のこのもの即ちあのものによってこのものであるところのこのもの(傍点)」とある「あのもの」は差換碑銘中の「貴様」、設計プラン中の「あの男」「あいつ」による加虐装置なのであって、君のいう「あのもの」は「この男」「あいつ」のことであると思われます。そこで、この「あのもの」を貶めることになるか否かということですが、「あのもの」は「われら二足獣の声」を聞く耳もたず、めくらで、おしであって、「水族、植物よりはさらに冷たく動かぬ鉱物共の開いた口の群れの波長はとどかぬでもあるまいから」「四つ一組みで一様にあの方向にむかって立っている」ファブリ・アゲノーレの蒼ざめた人物、そろって開かれた口の群れ」によってしか「あのもの」に達する声として「あのもの」をおとしめることは出来ない。そこでもう一度エピローグに帰っていただかねばならぬわけだが、「最大の責苦は処断をあたえぬこと」だと書いた、そのような処断を受けたものとは誰か、君のようなヴィジョネールならこれはくどく書く迄もないことであって、それは他ならぬ君であり、私であるのだ。君がエピローグはいいというのはだからこそであって、いわば無重力空間に宙吊りになっているということのラヂカルな意味はすでにタブロー限界接線でタブロー否定をいうこととは範疇の違う次元にいるのだということを腹にいれておいて欲しいのです。タブローは自己批判しないとは中村の正しい命題ですが、タブローが自己批判したらどうなるか、それは二足獣という道具をつかってみずから色褪せ、例えばルオーという古めかしい道具をつかってみずから焼亡し果てることになり、又はタブローはみずから全否定の海にのり入れ、自裁をはたすことになります。そこで皮肉なことに、タブローの全否定のメカニックを内在した二足獣のなかにだけタブローの全否定のメカニックとしてタブローは生きつづけるのではありますまいか、だから誰某のなかには自立するタブローが存在せず、君のうちにはイリュージョンに似たタブローの城がそびえたつのです。雨の夜、私が批判ではなく自己批判になりそうだなといい、君が勿論そうだといったとき、わけがたく癒着した批判=自己批判、自己批判=批判のいずれにせよ、その間にはしかもなを(ママ)絶望的な時空のへだたりがあることに気付いていたはずなのです。いうまでもなく、その間に宙づりになるとは、双方の索引力(ママ)の頡頏した処で動きもならず、次第に球体となりはてることでなければなりません。


 失墜したオルガナイザーからの言い分と、失墜したオルガナイザーへの反論という、立場の異なるふたつの言い分のようだが、誰から誰への発言かあいまいだ。さきの断片の手紙の宛先のオルガナイザーとどう関係するのか。「小生への手紙のK氏のマゾヒズム」とあるからには、あそこで仮定したもうひとりのオルガナイザーである、中西かとおもったが、ここで「『エピローグ』がいい」といったオルガナイザーは、第2の「反論」文書では「君がエピローグはいいというのは・・・」とあるところから察すると、やはりこれは同一の中西になる。とすれば、「失墜したオルガナイザーの疑念」の疑念の発言者は中西で、「失墜したオルガナイザーへの反論」の発言は今泉となる。しかし、第1、第2の疑念反論の文書内容は、あきらかに今泉の言い分である。このわかりにくさが示すのは、元来あったかもしれない、あの場所へギロチンらしきモノを設置する計画のオルガナイザーが今泉ではない、ということかもしれないし、また、どちらも自分の分身ということかもしれない。だが、ここでは、それはどうでもよいとして、「から」も「へ」も無視して、今泉の立場を推測してみよう。

 これらふたつの言い分でいずれも問題とされた「エピローグ」に、まず注目しよう。

 これは、論考『エクイプメント・プラン』のタイトル下のプロローグの位置にある、「テロリストへのエピローグ」とされたものだ。

 「死は生体の自己矛盾解決の最終かつ最良の形態であり、のみならず、自己救済の最良の方式だと考えるものにとって、処刑は刑罰の良策ではない、最大の責苦は処断を与えないことにあるのであり、自己矛盾と対面せしめてそこにしばりつけておくことなのだ」(下線は筆者)と、それだけを読めば立派な文章だが、よく考えれば、アジテーターの名言のようで、はてなと云わざるをえない。

 プロローグとせず、エピローグとしているのも問題だ。元来、エピローグは、他からの引用もあるから、これも「テロリストへのエピローグ」という他からの転用かともおもうが、エピローグが良いというからには、『エクイプメント・プラン』の結論のつもりなのだろうか。しかし、テロリストへの結論とは? 芸術パフォーマンスのどこにテロリストが関係していたのか。

 それに、1962年の当時の日本で、現実的なテロリストといえば、1960年10月に社会党委員長を公衆の面前で刺殺した大日本愛国党の右翼少年と、1961年2月に中央公論社社長夫人と家政婦を殺傷した、同党右翼少年いがいはおもいあたらない。しかし、この『エクイプメント・プラン』執筆の契機となった芸術パフォーマンス自体が、中央公論事件の原因となった小説、『風流夢譚』を発想源とするのは、すでに見てきたようにあきらかだ。『風流夢譚』と中央公論事件がなかったら、『エクイプメント・プラン』など書かれもしなかったろうし、書かれても何のことかわからないだろう。このテロリストは右翼少年のことではあるまい。

 つまり、このテロリストには、おそらく無意識とはいえ、今泉の思考の奥底にひそむなにものかが、暗示されているかもしれない。今泉のなかに潜在的にある、反体制的過激思想への共感者、皇居前広場でギロチン・パフォーマンスを思いつくようなアヴァンギャルド芸術家や、天皇の首が斬られてコロコロカラカラ転がりだす小説を書く芸術家らのことかもしれない。なお、付言しておけば、とうじ1962年の日本では、ボリス・サヴィンコフの『テロリスト群像』もプーシキンの『蒼ざめた馬』もまだ出版されていなかった。

 問題となっているパフォーマンス考案や『風流夢譚』の作家を、テロリスト呼ばわりしそうなのは、「六全協」以降の日本共産党とその信奉者ぐらいだとおもわれるが、とうじの今泉の立場には、日本共産党との関係もふくめて、そのようなわからないものがのこる。

 じじつこの『エクイプメント・プラン』では、共産党主導だったとされる、1952年の皇居前広場のメーデー事件らしきものは記されているが、直前にあったあの1960年6月の「国会デモ」、そして、深沢もこだわった、皇室大事件である、「皇太子・正田美智子結婚」への言及が片鱗もないのは奇とせざるをえない。日本共産党は1960年6月の「国会デモ」に冷淡だったし、皇太子結婚に好意的だった。しかし、ここではそれも脇において、かれが意識的に書き、かなりの自信もみえる、結論たる「エピローグ」をみてみよう。

 主張は前段と後段にある。前段は、は自己矛盾解決の最良の形態であるから、自己矛盾をかかえるものの救済というものである。そこから、後段の主張がでて来る。つまり、刑罰としての死は、受刑者を救済するものだから「目的」を達することはできない。今泉にとっては、刑罰とは責苦であって、受刑者を苦悶させる加虐性にあるらしい。真の刑罰は、受刑者を「自己矛盾と対面させて」、放置するにかぎるという。

 これを論証するために、『流刑地にて』の将校やカミュのギロチン処刑者のエピソード暗示や田中英光を、かれのやり方で出してきたのだろう。田中については、すでにのべたように、田中でなくて太宰でもさしつかえないはずである。太宰がいくども自殺をこころみ、一回目の情死体験から苦悩の『人間失格』を書いたとされたのは、周知である。そして、かれの自死を、「自己矛盾解決のため」とするのは、いまの文学常識からするといささか異論があるが、この自死の命題は、すでに戦前からの流通通貨だった。

 それは近代日本の黎明期、明治時代の旧制第一高等学校の生徒、藤村操の入水自殺あたりを嚆矢とする。かれが栃木県日光の華厳滝に投身したとき、かたわらの樹に刻んだ「巌頭之感」なる遺書は、日本の知識人を魅惑し、知識人風俗ともなった。筆者も新制中学生(1948~9年)のころ、大学哲学科出身の若い英語教師に教えられた記憶がある。つぎのようなものだった。


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て

此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の

オーソリチィーを價するものぞ. 萬有の

眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」

我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る

既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の

不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は

大なる樂觀に一致するを

(Wikipediaによる. 筆者の記憶とは少し異なるところもある.)


 なにやら『異邦人』の、先行してされていた通俗解釈にもきこえるが、ここにこれを記すのは、今泉がこれを知っていたか否かではなく、かれのいうエピローグの根拠が、カミュとかカフカをもち出すまでもなく、戦前からの知識人通常の常識レベルにあることを云いたかったからである。

 だが、それにしても、ここに記されているものには、意外に周到な伏線やたくらみが仕掛けられているにはおどろかされる。

 これまでのかれの言い分では、「貴様」は、人間(二足獣)であり、かつ、人間(二足獣)ではない、「道義に照らしてさえ不正な、まして論理を成立せしめない」、「論理の死んだ」象徴の座に坐す「自己矛盾」のモノである。だから、結論でいうもっとらしい「赦免」対象に該当するようにみえる。しかし、それだけでは納得できない読者がいる。自己矛盾とは、あくまでも当人の問題であって、当人が気づかなければ成立しないという議論である。当該の「貴様」は眠り呆けているのだし、カフカもカミュも、田中も、太宰でさえ、自己矛盾の責苦にさいなまれていたのかわからない。そうした疑義を呈する相手にたいしては、二重底の返答が用意されている。今泉の主張は、このプランの無効化であり、そこにかれの目的があるようだから、おこなわないことを相手に納得させさえすれば、それでよいのだろう。そして、このおこなわないことにもダブルイメージがある。「失墜したオルガナイザーの疑念」がいうのがひとつのイメージで、「失墜したオルガナイザーへの反論」がもうひとつのイメージを提出している。

 ただここでは、両タイトル「失墜したオルガナイザー」についていえば、いつのまにやらこの計画(プラン)失敗していることに注意しておかねばならない。現実レベルでは、中西をふめて仲間内では立ち消えになっていたのだろうか。

 まず、「失墜したオルガナイザーの疑念」がいうところをみてみよう。

 言わんとするのは、「エピローグ」の主張と「小生への手紙のK氏のマゾヒズム」の関係であり、そこから論理的結論がおのずから出てくるというのだ。手紙に書かれていたのは「ギロチン設立者がまず小間切れになってギロチンの歯の間からこぼれだす」ということだった。それをK氏のマゾヒズムとするのは、ギロチン設立者にとって、あの装置はサディストとして機能するのではなく、マゾヒズムとして機能したというのだろう。あの装置は、加害者の立場はとりえないというのである。カフカの『流刑地にて』に書かれていたのは、そんなことではなかったのは、すでに示したとおりだが、カフカ(K氏)ではなく、『流刑地にて』の将校に、マゾヒズムをみるのはカフカの意図にはまったくないのだが、そんな読み方をする者があってもやむをえないところもある。

 ただし、ここでわからないのは、加虐=被虐の関係とか、マゾヒズムにせよサディズムにせよ、これまでどこにも示されたことのない概念とタームの使用である。

 これもまた、かつて流刑地のK氏やカミュ、田中英光がそうだったように、またしてもあらわれたアヴァンギャルド(社会)の隠語的合言葉なのだろうか。流行語に便乗した主張である。

 ’50年代末から、澁澤龍彦は翻訳『マルキ・ド・サド選集』や『サド復活』などの評論を出版し、シュルレアリストたちがもった関心もふくめて、ひろく思想的なサド紹介につとめていた。しかし、1961年になると、翻訳『悪徳の栄え』が猥褻書として摘発され、「サド裁判」がはじまっていた。この訴訟には、言論の自由侵害として、知識人のあいだで抗議・反対運動が大規模にくりひろげられた。新聞、雑誌はとりあげ、サドの著作はアヴァンギャルドのベストセラーとなり、サド思想はファッションとなった。このようなサド・マゾ思想の反映だろうが、今泉には、澁澤にはあった、反社会体制思想の視点はないだろう。

 かれのいうのは、「流刑地にて」の将校は、みずから作った装置によってみずから処刑されたのだから、装置は、責苦を課すサディストたる加害者ではなく、マゾヒストとしたいのだろう。すでにここには、制作者の将校と制作された装置のすり替え、混同があるが、書いた当人の意図的なものかはわからない。しかし、「君のいうタブローの限界内にひき戻される」というからには、制作者将校よりむしろ、装置(エクイプメント)じたいに視点移動をさせているのはまちがいない。「君のいうタブローの限界内にひき戻される」では、ふたたび、「君」とは中西かだれかが問題となるが、実作芸術家のだれかであろう。この「タブローの限界」とは、中村宏の「タブローは自己批判しない」にあったような、芸術作品は鑑賞者の判断にゆだねられるものであって、芸術家の意思表出ではないという、作品主義の芸術観が根底にあるものだろう。

(注.「4)‘60年代日本の『反芸術』(その2) ② 芸術作家の『反芸術』」[『百万遍』5号]を参照.)


 芸術作品は主体的に芸術体験者(鑑賞者)に働きかけねばならぬというのは、シュルレアリストを最先端とする、20世紀アヴァンギャルド当初からの最重要命題であって、その模索がハイレッド・センターの課題だったのは事実である。

 ただ、ハイレッド・センターは、それを攪拌行動とかミキサー計画で表現し、今泉の周辺には、これいがいに、「芸術家は犯罪者である」などを標榜した「犯罪者同盟」などもいたが、かれらも、加虐=被虐の文脈のなかの作品主義ではなかった。

 しかし、問題となるのは、論証にあたり、「あのもの」のなかに巧妙に「タブロー」を組みこんだことである。すでに「あのもの」は、貴様あいつと呼ばれる対象、すなわち、最初はあきらかに、「二ツ橋」が見える「広場」の奥深く皇居と呼ばれる処に住う「天皇」を暗示させようとしていたのだが、いつの間にかそれが装置(ギロチン)にかわり、それがまた、芸術家と芸術作品に変態しようとしている。

 これは、場ちがいでむやみに堅苦しい用語連発の後段への導入のためである。

 「まこと『エピローグ』にいう理由で英光の救済は自済を果たしているのだ」は、田中英光は自殺によって自己矛盾を解消しているということだろう。「自済」とは、聞きなれぬ用語だが、みずから済ませているという意味にしか理解できない。しかし、それだからといって、こんどは、「顕彰を目睹すべきではないか」は、言葉通りにとれば、田中についてでも、簡単にそうだ、とはいえない。「顕彰」とは、「隠れた功績をひろく知らせること」である。田中がじぶんの自己矛盾を解消し自己救済をしたからといって、なぜそれを「目睹」、すなわち、じっさいに見なければならないのか? かれの自己救済を、華厳滝にとびこんだ哲学徒のときの、戦前の明治期のように、(作品)鑑賞せよという、タブロー論議の延長なのだろうか。これだけでも、いいかげんに読むものは混乱するのだが、つぎにくる、おそらく至上の心情的結論とおもわれる、「ふたたび引導を渡して英光を頌すれば『あのもの』を貶めることになるのか」にいたっては、迎合的にもうなずくことはできない。

 引導を渡すとは、「相手の命がなくなることをわからせる」ことであり、頌するとは「褒め称える」ことだから、自殺した田中栄光をもう一度処刑して、『異邦人』の主人公のように救済の誉によくさせることになるが、なにをいわんとしているのか、芸術論としても、それだけでは許容範囲を逸脱している。ましてや、憤慨の極地、「『あのもの』を軽蔑すること(貶める)になるのか」における、「あのもの」とはいったい何ものか、理屈もなにも通用しない化物である。

 しかし、それでもここで、今泉が思いえがいていたものを、あえて、忖度すれば、「タブローは自己批判しない」へのかれの理解にちかいものらしい

(注. 中村宏の「タブローは自己批判しない」の主張からはじまった芸術界での議論で、今泉は、かれの理解する範囲から賛意をしめした. かれの理解は、中村の主張とはちがうようにおもう.それについては『百万遍』5号誌でのべた.)


 たとえば、藤田嗣治や宮本三郎の戦争絵画である。「作品」はオブジェ(物体、対象)だから、オブジェ自体が自己批判する、しないの問題は成り立ち得ないのである。ただし、油彩画の場合でいえば、「作品」は、画家の筆捌き、色彩配列、配合によって形成されるモノだから、画家自身もふくまれることになる。描いた画家がいなければその作品は存在しない。だから、画家自身も「作品」の重要な一部となる。「タブローは自己批判しない」は、芸術家は自己批判しないへも歪曲できる主張となる。しかし、この「タブローは自己批判しない」の今泉の議論でさえ、一度死んだ田中英光をもう一度、墓から掘りだして処刑する、古来人間がやってきたような刑罰の無効性の思想はどこにも主張されていなかった。

 今泉がここで云いたいのは、藤田や宮本の「戦争画」は、敗戦時に一度清算されたのだから、このたびはこの作品を「作品」として見るのがふさわしい行為である。ふたたび「処刑」してあの作品に注目をあつめても、あのオブジェ(物体にして、対象になりうるモノ)自体を軽蔑することにならない、ということだろう。「作品」は昔もいまも「作品」であり、対象となりうるモノは対象となり、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」の絵が発散する迫力を貶めることになるのか、というていどの議論だろう。

 だが、ここで述べたいのは、かれが喩えでだしたタブロー論から見せようとしたもうひとつの「あのもの」である。『エクイプメント・プラン』でことさらに形式ばった用語で表現されている「あのもの」は、これにとどまるモノではあるまい。

 すでに、今泉がこれを記すにあたって用いてる文体の形式ばったかまえに、注意しなければなるまい。「自済」、「顕彰」、「目睹」をはじめ、「頌する」にせよ、「貶めることになるのか」にしても、元来うえからの目線で威圧的表現を好む今泉だが、この場合は、それだけではないだろう。かれのなかでは、英光を置換したことばについて主張しているのだ。「英光」は天皇「裕仁」に置換可能である。「まこと『エピローグ』にいう理由で裕仁の救済は自済を果たしているのだからこのたびは顕彰を目睹すべきではないか。ふたたび引導を渡して裕仁を頌すれば『皇位』を貶めることになるのか」が、かれの隠された真意かと推測するのは、これまで書かれたことからも容易である。むしろ、このように読んでみると、これまで支離滅裂にきこえた説明も、いがいな整合性をもつ伏線だったことがわかる。かれのいう「裕仁」は、戦後、「象徴」となった裕仁である。戦後の裕仁は、「人間宣言」によって救済の自済を果たし、「象徴」という二足獣であり、二足獣でもないモノたる装置(オブジェ)になっている。自済なる造語も、「人間宣言」という自裁による、カフカ、カミュの「自死」のような、救済のためとするなら、なかなかの造語力である。

 また、ギロチンと受刑者の関係をあれほどまでに執拗にのべていたのもこの理屈のためである。つまり、今泉は、いかにしても天皇ギロチン・パフォーマンを、容認することができないのだ。それは、深沢七郎の『風流夢譚』へのかれの評価にも通じるだろうし、のちにその詳細をのべるつもりだが、1960年暮れからはじまった日本の評論家や文学者の不可解な批評行為の説明になるかもしれない。『エクイプメント・プラン』のかれの錯綜した執筆動機も、そこにあったのだろう。それは、あの座談会で中西が語っていたように、たんに作品『風流夢譚』だけでなく、「皇太子の問題」とか「嶋中事件」とかの事件にたいする今泉の反応とみたほうがよいのかもしれない

(注. 中西は、「あのエキプメント・プラン当時はさ、皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで嶋中事件とかが事件性としてあった訳でしょう。それに対する俺なら俺のまったくなにも持っていない人間の反応の仕方があったし、人間のひとつの発言方法としてもあり得る訳だよね」と語っていた.)

  

 しかし、『エクイプメント・プラン』の主張は、「美術をめぐる思想と評論」の『形象』誌掲載論文だから、とうぜん最後の記述は、とうじのアヴァンギャルド芸術界の流行の課題「反芸術」に関係させて、みずからの立場表明をしなければなるまい。

 さきに引用しておいた結論項目「失墜したオルガナイザーへの反論」そのものについては、これまでのべてきたところからだけでも、あらためて説明するまでもなかろうが、芸術論の立場からの要点だけをのべておく。

 かれは、「天皇」にせよ「芸術」にせよ、装置(エクイプメント)からみようとする。天皇については、戦前から天皇機関説があり、アヴァンギャルド芸術では、デュシャンのレディーメイドにはじまるオブジェ芸術論があるから、それらの通俗解釈として、それにはとりたて言うべきこともない。この天皇は、皇位と個人、ここでは裕仁が、分かち難く一体化しており、芸術も、作品と芸術家の融合概念としているのはいうまでもない。

 そして、今泉にとっては、この同一視された天皇・芸術装置(エクイプメント)は、いずれも加虐装置なのだが、その存立は、加虐=被虐、批判=自己批判の関係のうえに成立している。これは、芸術については、制作時の芸術家や芸術受容時の鑑賞者の(心理)説明としては、誇張されているが、日本のアヴァンギャルド芸術界では通用しない論議でもなかったろう。

 芸術は対象を加虐的に眺め、被虐的に受けとめるとか、芸術は批判と自己批判の永久運動であるなどは、どこかで聞いたことばのようにおもえる。

 そしてかれ自身にとっては、この関係にあるのは、「いわば無重力空間に宙吊りになっている」ことであって、その「ラヂカルな意味はすでにタブロー限界接線でタブロー否定をいうこととは範疇の違う次元にいる」ことだと強調するのだが、芸術的には、とうじいわれはじめた「反芸術」論議への参画である。「タブロー否定」が、既成芸術のキャンパス・絵画をいうのか、既成芸術ジャンル一切を指すのかわからない。しかし、「タブローは自己批判しないとは中村の正しい命題ですが、タブローが自己批判したらどうなるか、それは二足獣という道具をつかってみずから色褪せ、例えばルオーという古めかしい道具をつかってみずから焼亡し果てることになり、又はタブローはみずから全否定の海にのり入れ、自裁をはたすことになります」とあるからには、厚塗り絵画の創始者、ジョルジュ・ルオーを指すのなら、タシスム(アンフォルメル)絵画のことであって、ピカソ・マティスまでの既成芸術を否定するが、タブローであることにはかわりない。ここでは、「自分で自分の命を断つ」という自裁がつかわれているから、今泉はやはりさきにつかわれていた「自済」は、使い分けていたのだろう。裕仁を殺せなかったのだろう。また、そればかりでなく、ここでは、「タブローが自己批判したら、二足獣という道具」などという、芸術論から逸脱する、「天皇神性論」への流し目が気にかかるが、いまはとりあえず無視しておこう。

 アヴァンギャルド芸術にかんしていえば、さいごの10行余りの記述が、かれの外的立場と思想的立場をあますとこなく示している。


タブローの全否定のメカニックを内在した二足獣のなかにだけタブローの全否定のメカニックとしてタブローは生きつづけるのではありますまいか、だから誰某のなかには自立するタブローが存在せず、君のうちにはイリュージョンに似たタブローの城がそびえたつのです。雨の夜、私が批判ではなく自己批判になりそうだなといい、君が勿論そうだといったとき、わけがたく癒着した批判=自己批判、自己批判=批判のいずれにせよ、その間にはしかもなを(ママ)絶望的な時空のへだたりがあることに気付いていたはずなのです。いうまでもなく、その間に宙づりになるとは、双方の索引力(ママ)の頡頏した処で動きもならず、次第に球体となりはてることでなければなりません。

 

というのが、「エクイプメント・プラン」の最後の記述だった。

 かれの外的立場とは、すでにこの結論の直前で、「そのような処断を受けたものとは誰か、君のようなヴィジョネールならこれはくどく書く迄もないことであって、それは他ならぬ君であり、私であるのだ」と記しているように、アヴァンギャルディストの立場であり、’60年代の体制改革の芸術家たちの仲間ということである。この立場は、’60年代初頭の芸術・文学界では、むしろそれがひとつの体制だった。この外的立場への複雑な帰属意識に似た、ある種のおもねりが、この数行の、ですます調への口調変化と、抱きつくような表現にあらわれているようにおもえる。

 しかし、ここで語られていたのは、かれだけのものではなく、ときどきとしていわれているのは、具体的イメージのある人物だったのではなかろうか。「オルガナイザーへの手紙の断片」にあった「実務家のヴィジョン」、それをN発想としていることから中西夏之としたこともあるが、中西がかかわっていたというのは、それだけの根拠ではない。

 一年後の1963年5月、発足したハイレッド・センターの創設展「第5次ミキサー計画」に出品した中西の作品は、「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」のヴァリアントだったのだが、その見物人参加企画に、「洗濯バサミ」製作が付加されていた。その「洗濯バサミ」製作は、観客が製作器を一回操作して洗濯バサミをつくると、天井から生卵が落下し、床に設置されたタマゴ型コンパクト・オブジェのてっぺんに命中し、生卵のなかみが、生首と見えなくもないこのコンパクト・オブジェの天辺(てっぺん)から、だらりと流れる仕掛けになっていた。この仕掛には、「エクイプメント・プラン」のため、実務家たる中西が考案した、なんらかのギロチン仕掛を想像させるものがある。

 また、15年後になるが、中西は奇妙な構想の装置を発表している。雑誌『ユリイカ』(1979年3月)の特集「臨時増刊ダダイズム」号に掲載した、「緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」と名づけられた装置の設計プランである。これは、25メートルの高さまでのびるイーゼルと座席の椅子の設計図とその説明である。画家が、地上25メートルの空中に座し、巨大なイーゼルにかけられた画布にむかって、棒の先端に装着した絵筆で油彩画を描く構想だった。鉛筆描きの略図面と椅子、梯子、脚立、テーブル、25メートルいじょうある縦長の画布の詳細が記されたものだ。これは、あきらかに、空想のギロチン処刑台に立つ受刑者に芸術家を擬したものだ。ギロチン台をとりまく見物人のような、見物人と制作者たるじぶんが見つめる「作品」、この孤独でにぎやかな不思議な空間での制作、それが芸術家というのだろう。カミュの『異邦人』の結末をおもいださせるような光景である。「緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」とは、そんな芸術家の装置であろう。

 だが、それは、今泉が「エクイプメント・プラン」でのべた、被処刑者のいるギロチン装置とは、いかなる関係ももたない装置である。「エクイプメント・プラン」とうじの中西は、「N発想が尋問されているのは殺意についてだ」と書かれているところをみると、このギロチン計画は共同企画だったのかもしれない。「エクイプメント・プラン」への中西の執着が15年後に、このような変化としてあらわれたのかもしれない。

 つまり、「エクイプメント・プラン」を記さざるをえなかった今泉の外的立場のコミュニケーションは、中西やアヴァンギャルド界で、成立していたとすべきであろう。

 そのコミュニケーションが、座談会「直接行動論の兆─ひとつの実験例」の開催や、ハイレッド・センター発足の創設展、「第6次ミキサー計画」での、今泉、川仁への「物品贈呈式」だったとすることができよう。

 とはいうものの、この「エクイプメントプラン」の、すでに読んできたような、狷介で掴みどころのむずかしい今泉の主張を、彼らが理解したうえというつもりはない。おそらく中西をはじめ、今泉の周辺にいた若いアヴァンギャルド実作芸術家たちのだれひとりとして、この論考の真意を読み切った者はなかったのではあるまいか。意図せずして、きちんと読まれないような難解で得体の知れない文体になったのかとさえおもえる。

 にもかかわらず、中西的なものではなく、この「エクイプメント・プラン」の直接的反響とおもわれる事件もある。

 4年後の東京オリンピックもおわり、’60年代日本が、’70年代にむかってうごめきはじめた1966年秋、早稲田大学大学祭で、中村宏の企画によって、「白い絞首刑台」を大隈重信像のまえに設置し、銅像の首の前に絞首刑の綱を垂らすパフォーマンス・イベントがおこなわれた。これは、大学側に摘発され、実践した学生たちは処罰されたのだが、「エクイプメント・プラン」に、直接関連性がある企画だったのではあるまいか。

 実行した学生たちについては、’60年代「デモ・ゲバ」風俗後期の「学園紛争」ピーク直前の時期であり、その風潮であろうが、彼ら自身は、終戦の1945年は幼児期か、誕生以前の者たちだったから、大戦中の天皇戦争責任を実体験したものたちではなかった。ここでいう戦争責任とは、大戦中の天皇の大義名分のもとで、国民生活が破綻し、悲惨のどん底に堕ちた責任である。だから、かれらについては、天皇想定に依拠した「エクイプメント・プラン」と、直接関連ある行為だったかはとうぜん疑問になる。

 しかし、企画者中村宏はそうではあるまい。なるほどこの企画は、想定された被処刑者は早稲田大学創設の大隈重信であり、「裕仁」ではない。また、設置場所も皇居前広場ではなく、早稲田大学のシンボルたる大隈記念会館正面広場である。

 そして、設置されたのはギロチンではなく絞首刑台である。とうじの日本人には、絞首刑台とは、ギロチンよりいっそうの生々しさを感じざせるものだった。第二次世界大戦の戦犯、東條英機ら7名が東京裁判で死刑判決をうけ、処刑されたのは、ギロチン刑ではなく絞首刑だった。そのころ絞首刑といえば、戦犯処刑をおもわす刑罰だった。たとえ明治の大隈重信であっても、自分のやったことこんな大学をつくった責任をとれという意味にとれる。その言外にあるのは、戦犯は処刑されたのに、天皇が処刑されないのはなぜかがある。

 この企画者、中村宏は今泉省彦の日大芸術学部在学中からの盟友であり、「タブローは自己批判しない」の提唱者だった。中村が、じぶんの主張が転用された「エクイプメント・プラン」を読んでいないはずはない。そのかれが、これを企画し、実践に手を貸したのである。ここに実現されたモノに、中村の、今泉への不同意の回答をみるのはむずかしくはないだろう。

 これは、今泉の真意には叛くとはいえ、「エクイプメント・プラン」の時代への反響とすることができよう。

 そうしたかれの時代的立場だけでなく、この結論には芸術的立場もまたしめされている。

 かれの芸術の根幹的立場は、最後の一行、「双方の牽引力の頡頏した処で動きもならず、次第に球体となりはてることでなければなりません」に表現されているだろう。ことに「球体」に注目しなければならない。

(注. 原文は「索引力」であるが、これは単なる誤植であろう.)

 

 かれのいう「球体」は、さきにのべられた、「タブローの全否定のメカニックを内在した芸術家(二足獣)のなかに」生きつづける、「タブローの全否定のメカニックとしてのタブロー」とおなじ次元にある。そして、この「タブローの全否定のメカニック」とは、これまで、カフカ、カミュまで仄かしたり暗示して、さまざまに語ってきた、わけがたく癒着した「批判=自己批判、自己批判=批判」とか「加虐=被虐、被虐=加虐」の牽引力の、頡頏したメカニックのことである。そうしたメカニック機構のなかで、「無重力空間に宙吊りになって」形成される球体とされているのだ。

 その頡頏する牽引力は、絶望的な時空のへだたりのもとにあるとか、極限の身動きならぬ状態とかされているのだが、思弁的表現ならいざ知らず、それを、芸術にあてはめると、どんな芸術論になるのだろうか。

 芸術とは、制作にせよ行為にせよ、芸術家のおこなう、客観化できる具体的なものである。作品行為のない芸術(アート)は存在しない。それが、「双方の牽引力の頡頏した処で動きもならず、次第に球体となりはてる」とは、いかなる具体的芸術(アート)なのだろうか。

 主観的芸術のことなら、まだ、理解できるものがある。たとえば、19世紀の小説家バルザックの『知られざる傑作』や象徴派の詩人マラルメの「素白の悩み」などがあてはまるだろう。『知られざる傑作』では、薄絹をまとった裸婦を描く天才画家が、かれの感得する美の実態を描出するため、絵具のうえに絵具をかさね、ついには画面全域が油彩絵具の堆積物と化する物語だった。「素白の悩み」とは、一文字もまだしるしていない白紙をまえにした、詩人の詩情だった。そのときの詩情こそ至高の詩篇ということである。

 芸術(アート)を芸術家を中心点にして形成される形体概念とすれば、球体は、唯一の中心点から等距離のもとで形成される立体である。球体の中心点は、「動きもならぬ」不動の一点、充足の点、形体と一体化する点である。ここでいうは、芸術家であり、形体は芸術作品としてもらいたい。

 つまり、芸術論として、宙吊りの球体は、自己充足の芸術観である。社会にむかって閉ざされた芸術観である。

 これは、すくなくともシュルレアリストにせよ、ダダやイタリア&ロシア未来派にせよ、発足時の20世紀アヴァンギャルディストたちが、当初魅惑されながら超克しようとした19世紀アヴァンギャルドの範疇にとどまる芸術観である。彼らは、それを乗りこえることをスタートラインにした。それは、19世紀の天才論がそうであったような、芸術を閉ざされたものとすることに満足せず、社会にむかって開かれたものにすることから出発した。

 しかし、今泉がここでこれを結論としたのは、自身の覚悟とか、「自分にとっての芸術」表明だったかは別問題にして、’60年代日本の芸術・文学アヴァンギャルディストには、なお有効性をもち、適応できる結論だったであろう。東野芳明が口火をきった「反芸術」論さえ、自己充足の芸術観とかさなるところがある。それが、’60年代日本のアヴァンギャルド界のひとつの実情だったといえるかもしれない。

(注. 「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2)① 芸術評論家の『反芸術』 ─ 東野芳明の『反芸術』とそれをめぐって」[『百万遍』5号掲載])


 そして、そのまま、19世紀的「自己充足の芸術」にとどまるか、それをいかに超克するか、社会にむかってどのように開かれた芸術にしたかが、’60年代日本のアヴァンギャルドをみきわめるひとつの指標になるだろう。今泉の芸術論的結論にはそのような意義をいまさらながら確認させるものがある。

 今泉のこの「エクイプメント・プラン」には、このように記述された内容だけでなく、’60年代日本アヴァンギャルドの実態が露骨にあらわれている。それは、すでに各所でふれたことでもあるが、’60年代日本のアヴァンギャルドのまぎれもない容態として整理しておこう。

 『エクイプメント・プラン』は、ことば、ことば、ことばのオン・パレードである。〈?〉というような語句は、タイトルの《エクイプメント・プラン》にはじまり、頡頏闇黒自裁・・・・、ホッジキスラチェット・・・と、難解、場ちがいなことばが、手あたりしだいにならべられ、二足獣、歩行官、中世部将、エナ、差換案・・・・、造語かなにかわからぬものまで入り混じり、充満している。考えればわかるというのか、わからぬ者には読んでもらわなくてもいい、というだけでもなさそうである。ことばをならべて、“さあ、どうだ?!”という気配もただよっている。それらには、今泉の衒いや、思惑もありそうだが、ここではこだわらない。

 しかし、すでに読解したように、ブルーデル、ファブリアゲノーレ・・・らの虚虚実々の芸術家にまぎれこんで、おおきな役割をもつ作家らもまた一片のことばで刻印されているのには留意しなければなるまい。1962年のとうじは、まだ先端にあった作家のカフカは、「流刑地でKのみたもの」としか示されていない。アルベール・カミュはカミュとあるが、ギロチン寸法の論拠にあげられているにすぎない。だが、かれらの作品『流刑地にて』や『異邦人』が、今泉の主張では重要な論拠としていたのは、解釈のとおりである。

 だが、このような読解を期待してこの論考は書かれてはいないともおもわれる。ここでは、「流刑地でKのみた」や「カミュの記述によると・・・・・」いじょうを読者に期待していないのではなかろうか。むしろ、本稿でおこなったような解釈は、今泉には想定外かもしれない。そのことは、かれの思想的記述についてもおなじで、紆余曲折する言辞を解きほぐされるのは迷惑かもしれない。思想は必要でなく、ことばだけである。カフカの「流刑地」があって、カミュがいて、田中英光がいる。ブルーデルと、ファブリアゲノーレなる奇怪な彫刻家が同列にならんでいる。ファッション芸術家のオン・パレードである。このオン・パレードには、名前を出さずに作品を暗示することで行列参加させる手口も披露している。とうじ最先端のアヴァンギャルディスト、ジャン・ティンゲリーの場合である。ヌーヴォー・レアリスムのティンゲリーは、二年前の1960年のニューヨークで、自壊する機械仕掛け「ニューヨーク讃歌」を公開し、評判になっていた。今泉はちゃっかりこれを借用し「設計プラン修正案」に組み込んでいる。


設計プラン修正案

 A、崩潰のイメージ、切断刃が落下するやこのものは粉みじんとなる、全装置は強化ガラスで作られる、陽光がきらめくクリスタルパレス、初動で崩潰し微粒となって四散するだけである。

 B、全装置をささえる機構を一本のピアノ線に集中し、切断刃の真下に結節する、切断刃が落下するや全装置はくずれ落ち後に瓦礫の山が残る。

                                                                 

というものである。ティンゲリーは翌年、南画廊の招待で来日しているぐらいだから、すでに一部のアヴァンギャルディストには知られていたはずで、まずこれは、「ニューヨーク讃歌」の不正確ながらなんらかの転用としか考えられない。そうした最新情報に、1855年、ロンドンで開催された第一回万国博覧会の「クリスタルパレス」や20世記初頭のブルノー・タウトの「ガラスの宮殿」など、戦後日本の建築デザインではまだファション性を失っていない建造物を加算したアイデアである。

 「エクイプメント」本文中ではすでに碑銘は修正され、オルガナイザーは失墜し、現実的には、計画は破棄され、芸術家の頭のなかにしか存在しないはずだったから、この「設計修正案」自体は無意味である。にもかかわらず、これほど詳細な機構説明を二種類までしてみせるのは、ティンゲリーだって関係することを見せびらかすためのようにおもえる。

 アヴァンギャルド用語見せびらかしのファッション・パレードである。ファッション用語のパレードだ。とうじの「サド裁判」をひきこむようなことばが、キー・ワードになっていたのも勘考しなければならない。ファッション用語とは、そのことばをつかうことで、読む者に、なんとなくわかったような気持ちにさせる言葉つかいである。

 ひとつの社会に流通するファッションは、衣服・アクセサリーにせよ、それを身につける人物の、その社会でのステータス保証になるものである。アヴァンギャルド界は、旧来を排除し新規追求を至上原理とするから、ファッションと同義化される側面がある。

 このファッション用語の濫用は、『エクイプメント・プラン』では過度で、異常になっているいるだけで、’60年代日本のアヴァンギャルドでは、通常みられたものである。戦後の日本アヴァンギャルドがファション・パレードの表情をしばしばみせたのは、その頂点となった「読売アンデパンダン展」で、すでに目撃したところである。

 『エクイプメント・プラン』は、これを極端化することで、’60年代日本アヴァンギャルドが、’60年代日本で、「デモ・ゲバ」風俗からうまれながら、「パレード」風俗の担い手であることを露呈している。『エクイプメント・プラン』があらわしているのは、その事実だけでなく、’60年代「パレード」風俗の背後にある素顔もまた垣間見せている。

 『エクイプメント・プラン』が書かれたのは、とうじのアヴァンギャルド・ファッションパレードのなかで、『風流夢譚』に便乗したものである。『風流夢譚』と中央公論事件があったから、うまれたアイデアである。『風流夢譚』が存在せず、まったくおなじ『エクイプメント・プラン』が書かれても、同人誌どうぜんの『形象』誌の読者でも、首を傾げるか、もっとはっきり言えという苦情が輩出したろう。編集者今泉自身が、ボツ原稿にしたかもしれない。


Part 3  へ


目次へ



©  百万遍 2019