Avant 番外編3

[’60年代日本のアヴァンギャルド 番外篇]


Part 3




 だが、それにしても、なぜ、これほどまでに、まぎらわしい「エクイプメント・プラン」になったのか。あのものこのものといい、あの広場という。二つ橋とは二重橋であり、四つのボックスが警察官詰所だというのは、皇居舞台の『風流夢譚』を知っている読者には容易にわかるが、ボックス係官はまだしも、歩行官にいたっては異様な表現である。なぜ、二重橋であり、警官詰所であり、巡回警官と書けないのか。なぞめいたフアブリアゲノーラや、エナをならべて、なぜ惑わせるようにしか書けなかったのか。

 それは、かれのうちにひそんでいる、ふたつの理由からかとおもわれる。ひとつの理由は、ことに冒頭部の皇居にまつわる一連のまぎらわしい表現は、とうじ台頭した右翼集団の目を危惧してとすべきだろう。『風流夢譚』からおこった「中央公論事件」では、右翼団体は中央公論社へ集団で過激な抗議活動を大規模におこなったばかりか、大日本愛国党の右翼少年が社長宅に侵入し、家政婦と社長夫人を殺傷している。それからの2年間では、中央公論社は、委託雑誌『思想の科学』の「特集 天皇制」号(1962年1月号)を一方的に廃棄し、また、文藝春秋新社では、雑誌『文学界』(1961年1、2月号)に掲載した大江健三郎の『セブンティーン』が大日本愛国党総裁、赤尾敏によって告訴されたことでは、『文学界』誌上に全面的詫び状を掲載していた。そうした事態を怖れてのことだろうか。

 だが、今から見ると、これらの事件と「エクイプメント・プラン」を関連づけるのは、まったくの見当違いのようにみえる。定価100円で二百部ていどしか発行部数のない同人誌的『形象』誌とはいえ、雑誌の奥つきには、「完行所(ママ)形象社/東京都杉並区上高井戸1-234/編集発行人 形象社編集部/印刷所 近代印書館」と、表示されてはいる。所在地は、今泉の居住する住所かもしれない。しかし、もし「エクイプメント・プラン」の記述がもっと直裁だったとしても、これを大日本愛国党のだれかが見つけ、「形象社」所在地にくるとはとうていおもえない。『風流夢譚』のばあいでも、中央公論社に右翼集団があらわれるまでには、自由民主党党員田中彰治経営のゴシップ夕刊紙「東京毎夕新聞」や右翼系業界新聞「帝都日日新聞」に野依秀市が執拗に書きたてたのちのことだった。しかも、かれらが組織的運動をおこしたのは、『朝日新聞』の「天声人語」がとりあげたのちである。そのうえ、かれらのターゲットは、作品「風流夢譚」よりむしろ、それを掲載した左翼系代表誌『中央公論』と中央公論社にあったのはあきらかだから、あの深沢作品さえきちんと読んだ形跡のないかれらが、『エクイプメント・プラン』に憤慨して、編集刊行者である今泉省彦や作者長良棟を探しまわることはありえない。’60年代初頭の右翼には、現代右翼ほどの実力はなかった。

 大江健三郎の『セブンティーン』の場合は、1960年10月、立会演説会の会場演壇で社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢が、大日本愛国党元党員であり、そのかれをモデルにして書かれた小説だったからである。山口が、拘置所で天皇崇拝の遺書をのこし自殺したことがあって、とうじかれを神格化する運動を大日本愛国党は展開中だったから、これに抵触する小説として、モデル問題にかこつけて告訴したのだった。しかも、著者大江健三郎は、3年前の1958年の芥川賞を、史上最年少でえた新進スター作家である。そのころから大江は、思想的には右翼に望ましくない傾向を示していたから、ターゲット効果がじゅうぶんある作家だった。だがなによりも、刊行した「文藝春秋新社」が、文学寄りとはいえ戦後の出版界で一大勢力をもつ出版社だったことが、告訴の最大理由だろう。

 こういった今となってはみえてくる状況と照らして、今泉の文章を読むと、滑稽な、取りこし苦労としかおもえない。

 だが、かれの場合は、表現の粗雑さや未熟さゆえに、いっそうそのようにみえるのだが、似たような行為は、これら出版社にもおなじにみえるものがある。

 まず、中央公論のとった処置と、それにかかわるとうじの革新的知識人の行為にあらわれているものである。

 『思想の科学』誌とは、「思想の科学研究会」によって企画・編集され、中央公論社から刊行されていた月刊誌である。同人は、鶴見俊輔、鶴見和子、都留重人、丸山真男、竹内好、久野収、いいだももらの、’60~’70年代日本の代表的革新知識人たちだった。同人の鶴見俊輔が、中央公論社長の嶋中鵬二と東京高等師範学校附属小学校の同級生であり、この縁故関係による出版とされている。

 しかし、契約上は、「思想の科学」同人誌の委託編集販売を、中央公論社に委嘱していたわけである。

 思想の科学研究会は、時節柄適切な課題を論じた「天皇制特集」掲載の『思想の科学』(1962年1月号)刊行を準備し、慣例どおり中央公論に依頼し、編集割付、印刷をすませ1961年12月21日の刊行をまつばかりになっていた。一説によれば、『風流夢譚』にかかわる事件で、醜態をさらした中央公論の後方支援をかねた企画だったといわれる

(注. 粕谷一希『中央公論社と私』pp189-193)


 ところが、中央公論社上層部はこれを知ると、「思想の科学」側になんらの了解をとることなく、版元としてこれを破棄した。しかもそのさい、公安調査庁保安係の係官に閲覧させたり、右翼団体に一部原稿を提供したりしたという。

 かれらからいかなる反応があったのかはわからない。しかし、発売中止にともなう公式談話では、それらに一切ふれることなく、「嶋中事件以後、いろいろ微妙な問題があり、わが社はむずかしい立場に置かれている。ささいなことで一部の感情を刺激し、世間に再び迷惑をおかけしたくない一心で、こんどの措置をとった。内容をどうこういうのではなく時期的にまずいという一語につきる」というものであり、あくまで自主的判断によるとされていた。

(注.毎日新聞報道(1961年12月28日)記事中の「中央公論の話」[中村智子『「風流夢譚』事件以後』pp.126]、なお、これいがいの経緯については同書および、京谷秀夫『1961年冬「風流夢譚」』による.)


 嶋中事件の契機となった掲載小説『風流夢譚』と、都留重人や丸山真男、久野収らの掲載論文を同列にあつかう処置自体、今泉の逡巡いじょうに滑稽なものである。しかも一介の素人出版社「形象」社ではなく、’60年代日本の代表的出版社中央公論社がおこなった行為とすれば、滑稽さをとおりこして、唖然とするばかりである。

 さらにいえば、談話にもあるように、「(『思想の科学』掲載論文の)内容をどうこうというのでなく、時期的にまずい」とみずから認めているのだから、論文内容ではなく、「天皇」をテーマとしたから廃棄したというのである。それは「天皇」については、時節によっては、いっさい議論の対象にしないという宣言でもある。これは、第二次世界大戦中に、天皇論や軍事体制批判をおこなわなかったときの出版社の方針である。しかも、戦時体制時の国家体制による法的規制下にあるときの出版社の方針である。中央公論社の先代社長は、その後中央公論がみずからが公言するとおり、その時節のなかで、それなりに抵抗したことによって戦後注目され、中央公論社はその遺産のうえに信用と地位を築いているのを誇りとしていたのだから、今泉のやったことのほうが、みずからの態度をとりつくろい、口を濁しているだけに、よほど稚さなくカワイラシクさえみえる。

 とはいえ、中央公論社の処置については、とりあえずはこのように言い切ることができるが、その直接当事者であった知識人には、これいじょうのいかがわしさが漂っているようにおもえる。’60年代日本を検討するうえでは、このほうがはるかに大きな問題になるだろう。

 この廃棄をうけた「思想の科学」同人たちの対応である。

 かれらは、とうぜんのことながら、抗議することになった。廃棄取消と再刊行をどこまで要求したのかわからない。この間の事情は、これほどまでの論客がそろっているにもかかわらず、だれも、どこにも、まとまった経緯説明をのこしている者がないのは奇妙である。

 しかしとにかく、『思想の科学』刊行委託を解消し、有限会社「思想の科学」社を、どこかのビルの一室を拠点に設立し、『思想の科学』誌刊行を続行した

(注.嶋中から、別の出版社紹介などの提案があったいう話もある.)


 「天皇制特集」号については、なんらの説明論文も付加せず、1962年4月にそのままのかたちで復刊した。これらについては、「デモ・ゲバ」風俗のいまひとつの時節柄のせいか、『思想の科学』誌じたいの売れ行きは好調だったから、ほとんど順調にすすんだとおもわれる。また、この特集号にたいして、右翼集団から反応があった記録はない。

 また、研究会の知識人、竹内好、丸山真男、久野収、鶴見俊輔らは、『思想の科学』誌の継続刊行いがいに、中央公論社刊行の出版物への執筆をいっさい拒否することにした。

 これだけを記すと、知識人たちはそれなりに筋を通したようにみえるが、いささか腑に落ちない行動である。

 第一にかれらは、『思想の科学』廃棄の背景にあるのは、あきらかに『風流夢譚』にはじまる、天皇と右翼のセット問題、それにくわえて、小説における表現問題があり、それらにたいする言論機関たる中央公論の処置問題があるのに、それらにはいっさい言及することはなかった。

 そればかりか、かれらは言論機関中央公論事件を俎上にのせ批判する言論活動をどこにもおこなっていない。戦後の思想界で注目されたプラグマティズムの思想家が中心にいる研究会の会報なら、独立刊行した『思想の科学』1号誌のテーマを「言論機関《中央公論》の場合」とでもして、「天皇制特集」とセットで刊行し、かれらの公的態度表明を社会に向けてすべきであった。むしろかれらは、「思想の科学」事件を、「風流夢譚」事件と切り離そうとする意図さえみえる。右翼暴力問題にはふれたくないのである。

 これが、たんなる憶測でないのは、鶴見、丸山、久野、竹内らが、そのご天皇制と右翼テロ問題についてまとめて論じているのを読んだことがないからである。むしろ、その問題をあつかったのは、まったく逆の見地ではあったが、三島由紀夫だった。

 元来日本の思想家と称する知識人にある芸術(文学)蔑視が、根底でかれらの行為に翳をおとしていたのかもしれないが、戦前軍国主義独裁体制と表面的には密接な関係をもつ戦後右翼の動向、ことに戦後はじめて脚光をあびた1960年代以降の右翼の動向と関連させた論考がないのは、「デモ・ゲバ」風俗の時代であるだけにいっそう奇とせざるをえない。

(注. 1960年6月15日の国会デモへの右翼集団の組織的なぐりこみ、7月の岸信介への右翼傷害事件、10月の社会党委員長刺殺テロ、それにつづく中央公論事件である.戦後右翼の政治と結びついた台頭は1960年からである. 本論「第1章  ‘60年代日本の風俗画  2) 「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本」[『百万遍』2号]を参照.)


 三島の見地であった、右翼テロと、陸軍将校決起の二二六事件、さらには特攻隊との関連視点はいうまでもなく、現代のイスラム諸国でおこっている、「特攻隊」たる自爆テロも、神の使者たるムハンマドの後継者、カリフあってのことである。天皇、ことに太平洋戦争中の天皇は、聖戦を唱えるカリフだったのだから、「天皇」と右翼テロの実例をまえにして、社会思想的にも論究すべき絶好の機会だったにもかかわらず、かれらの誰ひとりとして正面から論じたものはいない。そのことは、とうじの中国では、毛沢東と紅衛兵の関係にもかかわり、カリフや天皇ほどではないにしても、歴史的に無視できない類似した出来事が、毛沢東の名によっておこりかけていたのだから、かれらが天皇と右翼問題を無視したのはやはり奇とせざるをえない。

 かれらが思想家としてそれをおこなわなかった結果は、その後の日本で「天皇」と「右翼」をアンタッチャブルにすることになり、’60年代のかれらのその責任はおおきかったとおもわれる。あるいは、また、1961年の時点でかれらが思想的にこの問題を掘り下げていたら、’60年代後期の学園紛争期の顛末もちがった様相をしめしていたかもしれない。’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかの、かれら知識人のひとつの実態のあらわれがここに見られるかもしれない。

 そうしたいかがわしさは『文学界』誌や大江健三郎にもあるが、「中央公論」の笑い話には後日談があるから、一言つけくわえておこう。

 中央公論社のこのような行動は、思想誌、思想書籍を標榜する出版社の経営自体に、その後の’60年代中期、後期では、影響をおよぼさざるをえなかった。ましてや、1968年1月の東大医学部学生自治会の無期限ストにはじまる学生紛争は、卒業式を停止させたばかりか、一気に激化の様相をしめし、国際反戦デーでは、全国600カ所で集会・デモがおこなわれ、全学連学生らが、国会・防衛庁に侵入したり、新宿駅を占拠・放火し、国電が運転不能になるような時節になっていた。こうした時代のなかで、中央公論社のとった処置や、収益的利用価値ある知識人の執筆拒否は、多大のマイナスとなり刊行物販売数に反映する問題となっていた。そうした事態をまえにして、社内でも、編集者らを中心とする組合は、1961年2月には会社方針批判をせず、追従するばかりだったのだが、この期におよんでは、急遽、言論の自由にたいする経営陣の姿勢とこのなりゆきを非難し、ストライキを施行するまでに発展した。

 そうした社内外の情勢をみきわめたすえの行動か、中央公論社は『中央公論』(1968年7月号)誌上につぎのような社告を掲載した。   

    

「言論の自由」について

 明治十三年に刊行された小池洋次郎編『鴻碩金語玉言鈔』民権自由門の頭書きに「西諺」を掲げていう。「若シ自由社会ニ言論ノ自由ヲ禁スルヲ得バ太陽ヲ宇宙ニ隠蔽スルモ亦容易ナルベシ(索古刺底)」と。

 明治十九年の創業以来、中央公論社は過去八十余年にわたって「言論の自由」を社業存立の基礎条件とし、刊行物を通じて「言論の自由」の伸張と確立に努力してきた

 それにもかかわらず、近年、言論の自由と中央公論に関してしばしば論議が重ねられねばならなかったのは、昭和三十六年八月に思想の科学研究会によって企画され、発行所である小社も諒承していた『思想の科学』天皇制特集号を同年十二月の配本直前に至って発売停止とし、さらに発表の権限を有しなくなった同誌を第三者、ことに公安調査庁に所属する人に閲覧を許したという社内運営の不備と原理的過失からである。このことから、一部の著作者たちが中央公論の刊行物に対し不執筆を決意されるという事態を招き、特に公安調査庁問題に関して、中央公論は「言論の自由」をその存立の基盤としながら、国家権力からの自由についてあまりに無神経ではないかという厳しい批判が行われた。

 この問題が長期にわたり解決を見ず、関係各位に御迷惑をかけたことについては、心から遺憾の意を表しなければならない。また当時の錯綜した事態と混乱のうちに行われたこととはいえ、過誤は過誤として卒直に認め、あわせて明確な責任体制という点において欠如する所があったことを深く反省する。

 「言論の自由」が国民によって貴重な権利であり、中央公論存立の基礎条件である以上、われわれは絶えず国家権力の動向に留意するとともに、「言論の自由」を確保してゆくために、権力への批判精神を常に保持することは言うまでもない。もとよりこの権利の行使にあたっては、プラバシーなど別種の諸権利に対する配慮から慎重な態度が望まれるのは当然である。しかしその種の配慮が過ぎて徒らな自主規制に陥ることのないよう、十分の戒心も必要であると考える。

 昭和十年、嶋中雄作は『回顧五十年』において、「此の膝王侯にも屈す可からずの気節を持して、飽くまでも言論の自由と神聖を護り通し」て来た中央公論の歴史を述べ、将来を展望して次のごとく結んだ。

 「真摯にして誠実なる文化的開墾地が吾等の前に茫漠として横たわってゐるように思へるのである。さうして、それが吾等の手をこそ待ってゐるもののやうに信ぜらるるは、果たして吾等の己惚れであり邪見であろうか、否か。」

 われわれは、ここにあらためて「社業をとおして言論の自由確立のため献身する」という昭和三十六年二月五日の社告の言葉を確認し、激動する国際国内情勢の中で、より多くの優れた言論の参加により、中央公論社創業以来の社会的文化的使命を達成し得るよう、大方の一層の御支援と御鞭撻をお願いする次第である。 

昭和四十三年六月一日  中央公論社

(『中央公論』1968年7月号)(下線は筆者.)


 一読すると、きわめてもっともな反省のように読めるが、1962年の事件と密接に連携させ、真意を推測すると、意外なほど、『エクイプメント・プラン』にそっくりであるのにおどろかされる。議論のすりかえ(掏り替え)と、馬脚のあらわれかたである。

 『エクイプメント・プラン』では、「魚やその他の海の生物しか知ろうとしない奇怪なもの」、「人間(二足獣)か人間(二足獣)でないかわからぬ者」にたいし、「処断を与えず自己矛盾に対面させて、そこにしばりつけておくのが」最大の責苦であり処罰であると主張した。自己矛盾に苦しむのは、人間として悩み苦しむからである。二足獣か二足獣でないかわからぬ者奇怪なものが自己矛盾に苦しむとはおもえない。ここに議論のすりかえがあるが、書いた当人はそう思っていない。根深い先験的な思いこみがあるからだ。

  中央公論社のおかした過誤は、『風流夢譚』によっておこった「天皇と右翼」問題が発端にあり、それへの対応の一端で、「天皇制特集」を掲載した「思想の科学」問題があったにもかかわらず、その根幹問題にはまったくふれることなく、あたかも「思想の科学」問題だけがあるように主張している。論理のすりかえがあるが、「社告」はそう思っていない。

 両者共々、すりかえに厚化粧をほどこしているから、鏡にうつしても見えていないのだ。『エクイプメント・プラン』では、やたらに難解でなじみのうすい表現、たとえば、「わけがたく癒着した批判=自己批判、自己批判=批判(加虐=被虐、被虐=加虐)の絶望的な時空のへだたりの双方の牽引力の頡頏した処」などを乱発し、「社告」ではその冒頭から、「明治十三年刊行の小池洋次郎編『鴻碩金語玉言鈔』民権自由門」を掲げて、ヨーロッパの革新思想の系譜をついでいるそぶりをみせる。『エクイプメント・プラン』がカフカやカミュのアヴァンギャルド・ファッションをほのめかしたのとほとんどかわりない、民主主義ファッションみせびらかしの厚化粧である。

 そして、かれらがともに、その議論のすりかえに気づかないこと、厚化粧をじぶんの素顔とおもいこむほどの強い想いというのは、『エクイプメント・プラン』では、「天皇」パフォーマンスを禁忌とする深層意識なのだが、民主主義ファッションをまとった「社告」の下にはなにがあるのだろうか。

 それを見きわめるには、記された事実を、二次資料や三次資料をつかって、たしかめてみるのが最良の方法だろう。

 この社告では、結論において、「ここにあらためて『社業をとおして言論の自由確立のため献身する』という昭和三十六年二月五日の社告の言葉を確認し」と記している。

 1961年2月5日の「社告」との継続性をのべているのである。この「社告」と社告が出された状況を確認してみなければならない。

 この「社告」と称するものは、いささか混乱した社告である。これは、当初発表されたのは「社告」ではなく、1961年2月5日の朝日新聞をのぞく朝刊各紙の広告欄に掲載した「ご挨拶」である。

(注.朝日新聞は、この文面には社の主張があるという理由から、広告紙面への掲載を拒否したという。[京谷秀夫『1961年冬「風流夢譚」』])

  

 その「ご挨拶」は、つぎのようなものであった。


          ご挨拶                                          

                       中央公論社

 昭和三十六年二月一日、弊社社長嶋中鵬二宅における殺傷事件に際し、各位から寄せられた懇篤なお見舞に対し、衷心より感謝申し上げます。

 この度、問題となった「風流夢譚」については、実名を用いた小説を扱うにあたっての十分な配慮を欠いていたことを深く反省し、このことについて出版人として遺憾の意を表明いたします。

 しかし、このような編集・出版の事務に何ら責任のない一人の女性を殺し、一人の女性に重傷を負わせた二月一日の事件は、言論にたいする正当な反撃の範囲をはるかに逸脱したものであります。私たちが心からねがうのは、今回の犠牲の上に、国民的総力によって暴力が絶滅され、政治、経済、文化をめぐる諸問題をあくまで言論の場において解決する事態が招来されることであります。私たちは、社業をとおして言論の自由確立のために献身することをあらためて誓い、あわせて読者各位および各方面の御声援と御助力をおねがいする次第であります。

 私たちは、不幸凶刃にたおれられた丸山加禰さんの霊をお悼みするにあたっては、まことに心痛んでこれをあらわすすべを知らないありさまであります。御遺族に対し深甚の弔意を表します。あわせて二月四日、護国寺において営まれた丸山加禰さんの社葬に寄せられました各位の御弔意に対し厚く御礼申し上げます。(下線は筆者)


 たしかに「社業をとおして言論の自由確立のために献身すること」を、あらためて誓っているのは事実である。「実名を用いた小説」掲載を非とし謝罪するいっぽう、こんかいの殺傷事件を問題にし、「言論にたいする正当な反撃の範囲をはるかに逸脱したもの」として、「(このような)暴力が絶滅され、政治、経済、文化をめぐる諸問題をあくまで言論の場において解決する」ことを願う、すなわち、絶滅の立場にたつと明言するものである。

 「ご挨拶」としては、遺憾の意の表明と、犠牲者を追悼する社葬参列への感謝表明とすれば、何を遺憾とするかが明確であり、加害者の(「政治、経済、文化をめぐる諸問題」から示唆される)措定とその行為への憤りも、新聞紙上での「ご挨拶」としてなら、それなりに示された、妥当なものであろう。

 この2月5日付の「ご挨拶」は、まったく同文のものが、「社告」として、『中央公論』誌3月号に、たしかに掲載されている。しかし、いやしくも思想系総合雑誌の「社告」なら、別途の書き方があるだろうし、巻頭に掲載されるべきである。ところがこの掲載は、同誌213頁に、一般記事、「《本誌独占》赤い中国からの報告 エドガー・スノー」と「私のプロ野球経営論 三原脩(大洋ホエールズ監督兼常務)」の間の一頁に挿入されていた。しかも、3月号誌の巻頭には、「中央公論社社長 嶋中鵬二」による、つぎのような「お詫び」が掲げられていた。日付は2月6日である。


           お詫び

 『中央公論』昭和三十五年十二月号に発表された深沢七郎作「風流夢譚」は掲載に不適当な作品であったにもかかわらず、私の監督不行届きのため公刊され、皇室ならびに一般読者に多大の御迷惑をおかけしたことを深くお詫び致します。

 またこの件を端緒として殺傷事件まで惹き起こし世間をお騒がせしたことを更に深くお詫び申しあげます。

       昭和三十六年二月六日                                           

            中央公論社社長    嶋中鵬二

                   (下線は筆者)


 「社告」と称するものとこの「お詫び」は、まったくかみ合わぬ立場からされたのは、一読しただけであきらかである。

 どちらが中央公論の立場なのだろう。対外的公的立場として示したがっているのは、巻頭にあることから、「お詫び」であろう。

 だが、掲載位置を無視すれば、社告とされているのだから、とりあえずは、1968年の「社告」がいうように、1961年1月5日の「ご挨拶」を中央公論の立場表明としてみよう。

 しかし、この立場表明でさえ、1968年の社告が掲げる「言論の自由」の立場ではない。

 1968年の「社告」の「言論の自由」は、あきらかに国家権力にたいする言論の自由の主張である。

 冒頭から、もったいぶった「西諺(西洋デモクラシー)」の定義を掲げ、「創業以来・・・・・・『言論の自由』を社業存立の基礎条件とし、刊行物を通じて『言論の自由』の伸張と確立に努力してきた」とのべ、先代社長嶋中雄作の 「此の膝王侯にも屈す可からずの気節を持して、飽くまでも言論の自由と神聖を護り通し」てきた実績をふりかざす。たしかに嶋中雄作のやったことは、太平洋戦争末期の軍国主義政権のなかで、石川達三の反軍国的作品、「生きている兵隊」をあえて刊行し、国家に対峙する「言論の自由」を貫徹するものであった。

 こうした「言論の自由」を主張するこの1968年の「社告」は、1961年の「お詫び」のように、ある種のお詫びなのだが、詫びるのは、1961年12月の中央公論は運営上の不備と原理的過誤をおかしたことである。つまり、第三者、ことに公安調査庁に所属する人々(国家機関)に閲覧させたのが悪かったというのである。「第三者、ことに公安調査庁に所属する人々」とは、巧妙な表現だが、「嶋中雄作」が誘導することによって、国家権力に卑屈であったことを詫びているのである。

 しかし、1961年の「社告」、ご挨拶の「言論の自由」は、「今回の犠牲の上に、国民的総力によって暴力が絶滅され、政治、経済、文化をめぐる諸問題をあくまで言論の場において解決する」 ことであって、もっぱら右翼暴力に屈することない「言論の自由」である。右翼暴力からの「言論の自由」であって、国家権力からの「言論の自由」ではない。

 そこに、「エクイプメント・プラン」にあったのとおなじ種類のすり替えがある。「エクイプメント・プラン」では、すり替えの遠因に「ギロチン・パフォーマンス」忌避がひそんでいたのだが、中央公論のすり替えにはなにがあるのだろうか。

 とりあえずは、1968年の「社告」を「お詫び」とするのなら、その詫びる相手はあきらかである。「社告」がだされた国内情勢、社内事情から推測したように、「思想の科学」事件によって執筆拒否をした知識人たちへの訴えである。

 それは、結論部からもあきらかである。「われわれは、ここにあらためて『社業をとおして言論の自由確立のため献身する』という昭和三十六年二月五日の社告の言葉を確認し、激動する国際国内情勢の中で、より多くの優れた言論の参加により、中央公論社創業以来の社会的文化的使命を達成し得るよう、大方の一層の御支援と御鞭撻をお願いする次第である」と結ばれている。

 不執筆を決意した大方の著作者たちは、この社告を原則的に了解して、執筆を開始したという。しかし、1960~61年の、さらにその後の中央公論の出来事と状況を知悉しているはずの周辺にいた知識人たち、1961年2月5日の「ご挨拶」作成にも参加した知識人が、この1968年のすり替え「社告」で、ほんとうに納得したとはおもえない。下世話のことばをつかえば、八百長レースといいたくもなるが、現実にはそうでなかったろう。ただ、とうじの知識人と中央公論経営者に何か共通土壌があり、そのなかでおこったことかとおもわれる。

 その土壌を確認するのが’60年代の日本の真の実体を知るうえで不可欠となろう。

 そのためには、1961年2月6日の「お詫び」の掲載された経緯と前後の状況についても見てみなければならない。それは、1968年の「社告」では無関係だが、社告で無関係にされているだけに、詮索しておかねばならぬところがある。

 2月5日新聞掲載の「ご挨拶」と、あきらかに矛盾するこの「お詫び」もまた、「ご挨拶」掲載の二日後、2月7日の三大新聞広告欄に掲載されたのである。

 そして、この新聞掲載の前日、「お詫び」の日付である2月6日には、中央公論社では一枚の掲示がはり出された。それには、竹森清『中央公論』誌編集長の退社と嶋中社長の編集局長兼務解任、山本英吉総務部長の編集局長就任の公示、さらに、翌日開催される社長訓示が告示されていた。竹森編集長は、『風流夢譚』を契機とする右翼抗議活動が収拾しない前年末に、解任されていたが、そのかれが退社したというのである。この退社は自発的ではなく、重役が関与した強要という複数の証言がある

(注 中村智子は、当日、竹森と電話で話した内容を記している.そこには「辞めさせられたんです」という竹森の発言がある.「中村」 pp33.参照)


 「お詫び」が新聞掲載された当日は、その夕方、嶋中鵬二の社長訓示がおこなわれた日であり、この演説内容本稿でも照会するが、この「お詫び」に一致する内容だった。

 というわけで、『中央公論』(1961年3月号)に掲載された「社告」も「お詫び」も、すでに新聞紙上に既発表のものであり、ことに「社告」の位置はあいまいである。すくなくとも1961年2月6日の時点では、これは「社業をとおして言論の自由確立のために献身する」社の立場表明などではなかったであろう。むしろ、巻頭にある社長、嶋中鵬二の「お詫び」が、現実の中央公論の立場だった。

 「ご挨拶(社告)」では、右翼の殺傷行為を「言論にたいする正当な反撃の範囲をはるかに逸脱した」ものとし、婉曲表現ではあるが、あきらかに右翼勢力弾劾の表明だったが、「お詫び」ではひたすら謝罪表現に一変している。

 しかも、謝罪対象が、小説「風流夢譚」の実名をもちいた一部表現だったのが、小説それ自体が不適切と断定し、その掲載を謝罪しているのである。

 そればかりではない。「皇室ならびに一般読者に多大の御迷惑をおかけした」ということは、皇室は別として、迷惑をかけられた一般読者とは、右翼構成員であり、迷惑とは、大々的な反対運動の労をとらせ、さらに、殺傷事件までおこさせたことである。それら一切の責任が中央公論社長たるじぶんにあるとひたすら詫びている。

 新聞紙上で公開された、このたった二日間の相違は、どのように説明したらよいのだろうか。

 まず確認しておくべきは、「ご挨拶(社告)」と社長嶋中鵬二の関係である。

 新聞紙上掲載の「ご挨拶」に、社長たる嶋中が無関係とするのは困難である。文案は、鶴見俊輔とおなじ小学校以来の友人、永井道雄がまず作成し、それに鶴見ら「思想の科学研究会」のメンバーが協力したといわれている

(注.「ご挨拶」を知らなかったという証言[粕谷一希]もあるが、不確定要素がある.〈中村〉、〈京谷〉共にそうある.〈中村〉では、執筆者は永井である.他に、鶴見は精神的病で不在との説もある.それらについては第三章であつかう.)


 しかし、だれが文案を作成しようが、「ご挨拶」にせよ「社告」にせよ、中央公論社を名乗るからには、社長嶋中の承認のもとでだされたのであり、作成者らとの関係からいっても、知らなかったとはいえない。

 それに、この二ヶ月前にも、もうひとつ社告が出ている。1960年12月10日発売の『中央公論』(1961年1月号)に掲載された編集長竹森清名義の、つぎのような「社告」である。


 先号に深沢七郎氏の「風流夢譚」を掲載しましたが、この作品の文学上の評価は別として、実名を用いた小説の取扱いに十分の配慮を欠いた結果、本誌の読者のなかには編集部の意図とは異なる受けとり方をされた方々もあり、いたずらに世間をお騒がせいたしましたことについて、編集責任者としてここに関係方面並びに読者諸賢に深く遺憾の意を表すものであります。 中央公論編集長 竹森清」(下線は筆者)(中村智子「『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史」]より引用)


 この「社告」は、京谷秀夫によると、社長の執筆という。編集局長兼務だったのだからありうることである。のちの「お詫び」や「ご挨拶」と重なる表現がこの文面にはある。

 まず、嶋中ののちの訓示演説と照合すると、嶋中自身の執筆とおもわれる「お詫び」とおなじ論理の組立が、すでに〈竹森社告〉にみられる。竹森の結びのことば、「本誌の読者のなかには編集部の意図とは異なる受けとり方をされた方々もあり、いたずらに世間をお騒がせいたしましたことについて、編集責任者としてここに関係方面並びに読者諸賢に深く遺憾の意を表すものであります」は、「お詫び」では「殺傷事件まで惹き起こし、世間をお騒がせしたことを更に深くお詫び申しあげます」の表現にあらわれている。表現だけでなく、「関係方面並びに読者諸賢」は、「お詫び」の「皇室ならびに一般読者」に一致し、読者諸賢は、「本誌の読者のなかには編集部の意図とは異なる受けとり方をされた方々」と説明されているから、「お詫び」の対象者「多大のご迷惑をおかけした一般読者(右翼各位)」とおなじになる。

 さらに、また、「ご挨拶」にしても、文案作成が嶋中でないといわれるが、「問題となった『風流夢譚』については、実名を用いた小説を扱うにあたっての十分な配慮を欠いていたことを深く反省し・・・・」は、〈竹森社告〉の「この作品の文学上の評価は別として、実名を用いた小説の取扱いに十分の配慮欠いた結果」の踏襲である。

 しかもこの「実名を用いた小説の取扱い」は、われわれが問題にしている1968年の「言論の自由の社告」でも、「もとよりこの権利の行使にあたっては、プラバシーなど別種の諸権利に対する配慮から慎重な態度が望まれるのは当然である」と慎重にパラフレーズされているが、「竹森社告」、「ご挨拶」、そして、1968年の「社告」、すべてで認める中央公論の過失である。

 この「実名を用いた・・・・」とか「プライバシー」を問題視する視点は、小説『風流夢譚』が社会的問題化される契機となった朝日新聞の「天声人語」が言いはじめた論拠だった。これについては、本論の第3章で詳細に述べるつもりだから、ここでは述べないが、通り一遍の論拠だったことを指摘しておく。

 しかしながら、これほどまでに同じ筋道にある「ご挨拶」の立場と、「お詫び」のいうことの相違はいったい何なのだろうか。いずれも嶋中が関与しているのは明白だから、それは中央公論社社長嶋中鵬二の二日間の相違である。

 「ご挨拶」にある「竹森社告」と、後の「1968年の社告」に同一の流れがなお継続していたのだから、この相違は二日間のあいだに社長嶋中におこった変化から見るだけではなく、中央公論社長嶋中に、二種類の社長がいるとして、そこからも考えるべきとおもう。この二日間のあいだにおこったことを詮索し、そこからこの変化を考察したのは、前掲の中村智子や京谷英夫の見地である。これらにも興味深い推論があるが、それについては、本論では第三章で扱うとして、今回は二種類の社長から見えるものを見届けておきたい。

 1961年2月5日に「ご挨拶」をした中央公論社長嶋中と、2月6日に「お詫び」をした中央公論社長嶋中鵬二は、同一人物の二つの顔とみるべである。問題はどちらが素顔にちかいかである。

 こうした矛盾したようにみえるふたつの表情は、嶋中ほど露骨ではなかったが、『エクイプメント・プラン』を描く今泉省彦にも見られたものである。

 今泉では、嶋中の「お詫び」に匹敵する表情は、帽子のかげの伏し目の表情に、ちらりと見えるあいまいな顔つきだったが、かえってそのほうが素顔にちかかったかともおもわる。かれの深層にある、とうじの今泉の拠って立つ、「デモ・ゲバ」風俗のアヴァンギャルド界では、けっして言語化できないものとの葛藤がそのような目つきの表情をさせたのかもしれない。それが、『エクイプメント・プラン』のまぎらわしい表現多用のいまひとつの理由だったのだろう。

 しかし、だからといって、今泉省彦、あるいは長良棟に、社長嶋中のように明確に比較できる資料があるわけでない。憶測にちかい手がかりがあるだけだ。それを参照して見ておこう。

 照井康夫の『美術工作者の軌跡(今泉省彦遺稿集)』の巻末に、今泉省彦年譜が掲載されている。

 この年譜を一覧すると、類書にある年譜といちじるしく異なる特徴におどろかされる。

 1931(昭和6)年11月の出生時から、終戦の年、1945年の、かれが14歳になるまでで、父親関係の記述が圧倒的に多いことである。

 出生の年の記述は、「十一月埼玉県入間郡所沢町に生まれる。父一郎、母静子の次男。兄は一歳年上の秀安で二人兄弟。父は福島県二本松出身で、このとき27歳、所沢にある陸軍飛行学校の教官をしていた(以下をふくめ下線は筆者)とある。

 前段は、通常の年譜となんらかわらないが、父親を継承した政治家の年譜ならいざしらず、父の出身地や年齢、職業までの記載はめずらしい。

 そして二年後、父親は陸軍士官学校へ入学し、東京の父の実家へ転居する。そして四歳になると、「士官学校を卒業した父が二月、少尉に任官して満洲奉天(現瀋陽)に赴任、夏になって母子三人も奉天に移住」するとある。

 つまり、父は、とうじの職業軍人のエリート養成コース、陸軍幼年学校、陸軍士官学校コースに途中乗車の、それでも大日本帝国のエリート軍人だった。

 以下、1940年(九歳)まで、父の部隊移駐や転属による、旧満洲国の牡丹江や日本の軍隊所在地へ移転する地名が詳細に記載されている。「満洲新京(現長春)の800部隊兵器部へ転勤となり、新京へ移住。白菊在満尋常小学校へ転入学する」とある。日本陸軍官舎住まいの特権階級であり、それを意識した記述であろう。

 そして翌年、1941年(十歳)の12月、「朝のラジオでアメリカ、イギリスとの開戦の報を聞く」。さらにその翌年の記載は、「この年(あるいは翌年か)、巡回してきた大東亜戦争美術展を見て、リアルな油絵とその壮大さに衝撃を受ける」と記されているだけだ。この特記は、さきの「タブローは自己批判しない」のやや検討はずれの共感にむすびつくと、納得できるいわれとなり、また、その共感がいかに根深かったかがわかる。

 そして、敗戦の前年、1944年、新京第一中学校へ入学するが、そのさい、陸軍幼年学校を希望して拒絶されたとある。この年の暮れ、父がマニラ航空廠分廠長を命じられフィリッピンへ転任したのにともない、一家は帰国するとある。

(注.とうじの陸軍幼年学校入学は、特定小学校の校長推薦による最優秀者のみだった.)


 翌年1月、軍人の子弟を集めた第一山水中学(東京国立在.現桐朋学園)に転校するが、住居が強制疎開にあい福島に転居し、「県立田村中学校に転入、父が完全武装で斬り込みに行く絵を描く」と、年譜には記される。

 さらにこの年8月、「敗戦の詔勅があって後、父の部下だった人が訪ねてきて、父が七月半ばフィリッピン、ルソン島の山中で戦病死したことを知る。行年四十一」と記されている。

 そして、二年後の中学4年生になったかれは、F3号のキャンパスに初めての油彩画を描くのだが、それは父の肖像であり、「美術教師に激賞される」とあった。

 これら客観的年譜らしからぬ年譜記述は、作成者、照井康夫のものではないだろう。年譜作成の主要参考文献には、『機關』11号[1980年1月21日刊](今泉省彦特集号)掲載の「今泉省彦自筆年譜」が掲げられている。このように詳細な私事と細部におよぶ内容は、この「自筆年譜」の丸写しとしかおもえない。つまり、今泉自身が書いた自己形成の記録である。しかも、その記録もまた、1940年、九歳のかれの項目、「満洲新京(現長春)の800部隊兵器部へ転勤となり、新京へ移住。白菊在満尋常小学校へ転入学する」などを読むと、主観的記憶によるとおもわれる。小学校三年生(当時、尋常小学校、太平洋戦争以後は国民学校)のかれが体験した異国の都市名や学校名を、49歳のかれが記憶していることはありうるが、父親の赴任部隊名や部署をこれほどまで正確に記述していること自体に注目せずにいられない。

 兵器部(おそらくは兵站?)などの粗雑さもあるが、あえて部隊ナンバー名まで年譜に記載する執念である。オプセッションと化した幼少年期の記憶である。自己形成を今泉自身がそのようにとらえていたことになる。大日本帝国軍人たる父を崇敬しているのだ。

 かれは、幼少年期において、天皇陛下万歳の声につつまれて幸福に暮らしたにちがいにない。おそらくは父も、かれの想像力のなかでは、そう叫んで死んだにちがいない。年譜に描かれた父はそうした父の姿である。

 この年譜の記された1980年は、敗戦直前のフィリッピン戦線の状況はすでに知られていた。たとえ上級将校とはいえ、敗走中のルソン島山中の病死の悲惨さは容易に想像できたはずだ。かれの記述には、そうした惨状のなかの死をつたえるものがない。死につづく記述は、「父の死が判ってから、学校でいじめられなくなった」という、わがことのみのかかわる、むしろ名誉の戦死あつかいだ。むろんここでそういうのは、虚偽というのではなく、とうじあったそうした風潮のみを鮮明に記憶していたことである。父の死さえかれの幸福にむすびつくのだ。

 さらにまた、こうしたことは、年譜から推測すると、もし父の転勤がおくれ、敗戦時に新京に一家がなお滞在していたら、父はシベリア送りになっていただろうし、かれら母子三人も、無事に帰国できていたかわからぬところだったのだ。

 そうした状況などではまるでなかったように、「完全武装で斬り込みに行く」栄光の父とそれなりの一家と、父に比して不甲斐ないじぶんの姿が描かれているだけだ。

 だが、これらでさえ、これが書かれたのが1980年だったからこそできたとおもわれる。’60年代初頭の「デモ・ゲバ」風俗のなかにいた今泉は、そのようなオプセッションにとりつかれていながら、意識さえ圧縮に圧縮をかさね表現できなかったのではあるまいか。  

 それが、『エクイプメント・プラン』の難解な用語と論理でカムフラージュされた今泉の「天皇観」の由来かもしれない。

 『エクイプメント・プラン』に描かれた天皇は、戦後の天皇である。「神格化否定」の人間宣言をした天皇である。「放心のあの日におまえは自分が二足獣であることを確認した、それともこゝでもういちどなにもいわぬことで、やっぱりおれは二足獣なんかではなくて、なんだか変なものなのだということになってしまう方がいゝのか」の詠嘆は、戦前天皇の勇姿が対極にある。

 三島由紀夫がこれより4年後の1966年に書いた「英霊の声」と同根にあるのは、本稿ですでに記したところである。しかし、今泉では、その後もふくめて、三島とは異なりこれに、それなりにでも対峙する行動にむかっていない。むしろ、「しかしこれは思えば無駄なことだ。シャーレのなかでシャーレのなかをのぞき込むことしか知らぬ標本の一家には舌禍の恐ろしさはわかっていても、いうべきときにいわぬことの禍など判らぬはずなのだ、なにしろおまえは育ちがいゝからね、やっぱりむかし通りうんこは誰かに拭いてもらうのかい」と、諦観を装った巧妙なごまかしをしている。

 戦前の天皇は、(自筆)年譜が示していたように、幼・少年期のかれの幸福を保障するものだった。戦前・戦後をとわず、そうした天皇をギロチンにかけることなど、かれの無意識は拒絶する。それが、『エクイプメント・プラン』の論理の流れを転換させた、あの「オルガナイザーへの手紙の断片」の、誇張と飛躍と思い込みの充満した、狼狽と錯乱の表現になっていたのだろう。確認のため再度の引用をしておく。

 

 それぞれの資質に応じて一つの課題に従って繰り拡げられる計画案の微妙な喰い違いは何度体験しても新鮮な感銘の源泉であるようだが、待ちに待った実務家のヴィジョンにはいまだ茫然としている。思い起こすと、おれはおのれとあまりにも異質なものと出逢ったときは、いつも途方にくれて言葉を失った。方法としてコンビネーションでいくかどうかは効果の問題として論じ得るが、しかしこゝでN発想が訊問されているのは殺意についてだ。ギロチンが立てば被処刑者がいなければならぬ。初源の君との話のとき、マヌカンの話をしながらしきりと思い描いていた情景はギロチン設立者がまず小間切れになってギロチンの歯の間からこぼれだすさまだったのさ、流刑地でKのみたものだなぜそれを君に云わなかったのかおれには判らぬ//精巧な機械を組み立てたあの役人の心情は痛ましい、巧妙なメカニズムであればあるほど、ある種の親和感に身震いしつゝその処女性に身を捧げずにはいられまい。ましてや恥を知らぬうすばか、魚族や植物の声しか聞かぬでぶでぶこえふとった奴をおのれの牙の下でみたいとは思わぬ。あの血は汚れすぎている。耽ることを知るものの血は清いと思うのは迷信に過ぎぬが、しかし、例えばまず、田中英光をあの広場で処刑したいと君は思わぬか。(下線は筆者)


 「//」までの前半部は、深層無意識が露呈する混乱の論理である。後半部は、苦し紛れの論理のすり替えである。それらについては、すでに説明したから、ここでは指摘だけにとどめておく。

 しかし、今泉のばあい、かれの栄光の生活体験のシンボルであった父と「天皇」は不可分の関係にあり、それ以上でも以下でもない、「ギロチン・パフォーマンス」の忌避だけである。「ギロチン・パフォーマンス」を皇居前広場で演じるかれの姿を、父が見たら、どのようにみえるかである。父の基準から見てしまったパフォーマンスである。そうした葛藤にたえながら、それでも「デモ・ゲバ」風俗のなかのアヴァンギャルディストとして、せいいっぱいがんばった結論が、「処刑は刑罰の良策ではない、最大の責苦は処断を与えないことにあるのであり、自己矛盾と対面せしめてそこにしばりつけておくことなのだ」であったのだろう。

 それでも、’60年代の反芸術『エクイプメント・プラン』としては、戦後体制に対立する戦前体制の規範、「天皇」がこのようなかかわりをもつことを、その奇妙で、ぶざまな論理のすり替えが示しているのだった。

 こうした、無邪気などうでもよいような『エクイプメント・プラン』とちがい、’60年代日本の思想・芸術界の実体をしめした中央公論社の「論理のすり替え」、あるいは、二つの表情は、どのように解釈できるのだろうか。

 中央公論のばあいは、二次資料ではあるが、同時代のエビデンスがある。

 それは、一方の顔つき、「お詫び」とおなじ表情をみせた2月7日におこなわれた「社長訓示」である。

 この訓示は、これを聞いた全社員に、衝撃的効果をもたらしたようである。内容については、聞いた者の、記憶やメモによるものがあるだけだ。

 ひとつは編集部員であり、『思想の科学』誌原稿編集にもかかわった中村智子が、回想記(中村智子『「風流夢譚」事件以後 編集者の自分史』](1976年)(pp37))に記しているものと、もうひとつは、おなじ編集部員であった京谷秀夫が『1961年冬「風流夢譚」事件』(1996年)(pp.175)に記しているものだ。


(中村)

 「これから話すことは一言一句ききのがさないようにしてほしい! 今まで竹森編集長をかばって本当のことを言えなかったが、彼が退社したのできょうは自由に言う。自分はあのような作品を載せるような考えの持主ではないッ。バカな評論家があの作品を評価し、皇室にたいする名誉毀損か否か裁判にもちこめなどといっているが、そんなことをしたら裁判中に右翼に攻撃されるだろう。いまは一触即発の危機にあることを、すこしの掛値なしに、文字どおり認識してほしいッ! 万一、たった一人でも言論の自由のタテマエをふりまわして軽挙妄動する者があれば、その者によってこの建物が吹っ飛び、殺人がおこなわれ、百三十人が路頭に迷うかもしれない。そういう事態であることを深く認識し、社業に専心してこの危機をのりきってほしい!」


 「京谷」でも、若干の異同はあるが、大意はかわりない。


 私(社長)は、あんな小説が掲載できると思うほどバカではない。あるバカな政治評論家は、このような問題(皇室の名誉毀損の問題)はテロなどより裁判で解決すべき問題だと言っているが、いまそんなのんきなことを言っていられない。その間に何人殺されるかわからない。万一、軽挙妄動する者があれば、そのためにこの建物がふっとんで130人の社員とその家族が路頭に迷うことになるかもしれない。このことをよく肝に命じて、慎重に行動するように。


 とうじは携帯小型録音器などなかったから、現場でとったメモか、直後に記したメモによるものだろう。

 思想系綜合出版社社長の訓示としては、感情的演説だったようにきこえる。ましてや、事件発生から一週間が経過し、犠牲者の社葬もおわったのちのことだから、奇っ怪な発言のようにおもえる。それとも、聞き手側の偏向した報告かと邪推したくもなる記録だ。

 とはいえ、この二つの記録の大意はおなじだから、嶋中の真意にちかいともいえそうだ。

 発言主旨は大別して3項目ある。しかし、この二人には微妙な差異もあるから、比較して慎重に検討してみよう。

 まず、作品評価にかかわるところである。作品自体を否定したのか、掲載がまちがっていたとしたのかである。

 中村では「自分はあのような作品を載せるような考えの持主ではないッ」とあり、京谷では「あんな小説が掲載できると思うほどバカではない」とある。単純にいえば、悪い作品だから掲載したのが間違いとなるが、これらをそれだけですますわけにはいかない。ここで問題にするのは、嶋中が作家深沢七郎を、出版(メディア)人としてどう評価しているかである。

 深沢は中央公論社の第1回「新人文学賞」を受賞してデビューした作家である。中央公論社は、作家と大衆の媒介機関として、深沢を大衆へ伝達する役割をはたした

(注. 芸術家━媒体(メディア)━大衆の三角関係構造については、本論「第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」 4) ‘60年代日本の「反芸術」(その2) ③-2.「ハイレッド・センター」 [『百万遍』7号掲載]を参照.)


 作家として評価していたのである。そのことは、中央公論と深沢の関係において、この事件後も、それなりに継続している。たとえば、深沢の『みちのくの人形たち』は、『中央公論』(1979年6月号)に掲載され、中央公論社主催の「谷崎潤一郎賞」(1981年)を受賞している。深沢もまた、同作品を対象とした「川端康成文学賞」は辞退したが、これは受諾しているのだ。

 谷崎潤一郎は、戦前から中央公論が評価し積極的に支援した小説家だった。『細雪』(上巻)は、『中央公論』(1943年)1月号、3月号に掲載され、6月号の掲載が、戦時体制にそぐわぬ作品だと、特高警察に中止させられた作品である。『細雪』(上巻)は翌年7月、私家版として刊行されている。そして、戦後になると、1946年6月、『細雪』(上巻)が刊行され、翌年2月、中巻の刊行と同時に、下巻分が『婦人公論』誌に掲載されはじめた。

 谷崎の晩年の大作『瘋癲老人日記』も、『中央公論』(1961年11月~1962年5月)に掲載されたものである。『細雪』、『瘋癲老人日記』のいずれも、その時代の体制風俗に抵触する芸術作品である。『細雪』は、石川達三の『生きている兵隊』と共に、のちの中央公論社の解散命令にかかわる刊行作品だった。

 そうした中央公論の看板文学者の名を冠した賞を深沢に授与している。中央公論にとって、深沢はそのような文学作家であった。

 だから、ここにある二人の記録では、中村よりむしろ、京谷の「あんな小説が掲載できると思うほどバカではない」のほうが、嶋中の心情ニュアンスにちかいかとおもわれる。「あのような小説を『中央公論』誌に掲載したのが間違いだった」というのである。出版メディアとして、「作品」それ自体ではなく、媒介方法が誤っていたというのだろう。

 ならば、作品価値として、かれはどう感じていたのだろうか。

 ここに、のちのことだが、興味ある資料がある。

 嶋中鵬二死去(1997年)のさい、『婦人公論』の編集長であった水口義朗は、通夜の席で鶴見俊輔と同席した。そのときのことをつぎのように回顧している。


 お通夜の席(1997年4月3日)で鶴見俊輔と並んだ。ベ平連の生みの親だから、小田実を通して鶴見とは会っていた。ただし『思想の科学』「天皇制特集号」の社内自主規制による裁断、一部残してあった破棄号を公安調査庁係官に閲覧させたことなどで、『思想の科学』の執筆者の多くは執筆を拒否していた。その時期、鶴見は安保闘争後で大学もやめ、疲労困憊ヒゲぼうぼうで、事件の処理に直接関わっていない。

 「鶴見さん、あなたは小学1年からの竹馬の友です。深沢七郎さんの作品がまき起こした事件で、社とは絶縁状態でした。でも、追悼文を書いていただくのはあなたしかいないと覚悟して、今夜ここにおります」

 会長の私邸を訪れたのは、入社以来初めて。お別れとお礼、そして鶴見さんが目あてだ。

 「きみは、悪い人だな、彼の遺体の前でそういう注文をされたら、断るわけにはいかんじゃないか」

 特徴のある大きな目玉で、何とも言えない表情をした。「お願いしましたよ。永井道雄さんも小学校からの同級ですが、誰よりも頼りにし、仲が良かったのは俊輔さんですから」

 それから久しぶりに雑談した。「『風流夢譚』をどう発表するかをずっと考えていたんだ。嶋中もきみたち編集者も、二枚腰じゃないんだな。わたしも反省しているけれども、ああいう作品を発表するのには、今になってこう言う私も二枚腰じゃなかった嶋中は永井荷風の担当者だった。荷風は『四畳半襖の下張り』を匿名、金阜山人で一度私家版で出して、原作者であることにはしらを切り通した

 「すると『風流夢譚』も、一拍おいて、最初私家版にすべきだったんでしょうか」

 「風流夢譚」をめぐっては、「社告」と「お詫び」の内容が言論機関として矛盾し、及び腰であったという批判が現在も続いている。

(『「週刊コウロン」波乱・短命顛末記』(2016年刊)pp.192-193)


 水口は、1961年当時は、中央公論入社2年目の新人社員だったから、「風流夢譚」がらみの一連の事件の内部事情については、正確さを欠く個人的印象にとどまるだろう。しかし、かれの語る鶴見の発言は、事件当事者の発言に位置することができる。

 文末の鶴見の発言は、『風流夢譚』についての鶴見のとらえかただけでなく、嶋中の把握でもあろう。嶋中をはじめ周辺にいた者に共通する考え方にちかいとおもう。

 鶴見は「ああいう作品を発表するには」と云っている。永井荷風の『四畳半襖の下張り』と同列にあつかっている。同列とは、猥褻作品ということではない。鶴見個人としてはその作品に、おそらく関心がないこと、文学から見ていないことだ。小説家、詩人、芸術家、あるいは評論家の、外にいるのだ。そのことは、嶋中鵬二もまたそうだったのではなかろうか。飛躍した、だが、わかりやすく云えば、嶋中は『瘋癲老人日記』をよろこんで刊行し、鶴見も一読したかもしれないが、瘋癲老人日記に感銘したからでなく、別個の関心によるということである。

 ここでの鶴見は、「ああいう作品を発表するには」と云っている。嶋中の「雑誌掲載」とおなじ問題意識である。ある意味では、大衆伝達の媒介価値はアプリオリに認めているのである。もっとも、嶋中の作品価値は、購入する読者が多いことであり、鶴見の作品価値は、大衆判断の資料という異なる価値観ではあろうが。

 ただ鶴見については、その媒介方法を私家版にとどめているところに問題がある。『四畳半襖の下張り』が私家版発行されたのは戦前であり、また、戦後、これが雑誌『面白半分』に掲載された時(1972年)には、猥褻文書販売の罪で摘発、起訴され有罪となっている。

 その際、著者と目される金阜山人こと永井荷風は死去していた(1959年)から、作者詮議もなく、雑誌編集長の野坂昭如と出版社社長が裁判の被告になった。

 1997年の鶴見は、『四畳半襖の下張り』にかかわるこうした経緯をすべて承知のうえで、これに言及することなく、『四畳半襖の下張り』の私家版処理を語っている。

 ここには看過できないものがある。まず問題になるのは、戦時体制下の「私家版」発行と1960年の「私家版」を同一視していることである。治安維持法が制定され、軍国主義国家体制の監視下にある社会で、あえて出された『細雪』や『四畳半襖の下張り』の「私家版」対応を、1960年の自由を公には標榜する民主主義社会で、なぜ選択せねばならないかである。しかもここでの鶴見は、荷風が「原作者であることにしらを切り通した」こと、隠しおおせたことを二枚腰なる良策としているのである。右翼勢力のターゲットにならぬことが、至上目的であるらしい。

 それにまた、鶴見の発言には、『面白半分』版の裁判が視野にはいっていない。最高裁にまで上告され、結局は罰金刑確定だったのだが、はからずも「夢譚」事件と同時期の1961年に開始されたサド翻訳裁判の時のように、文学界や言論界の意見が法廷でのべられ、世論を喚起した。文学表現の自由について関心をよびおこしたのである。

 戦前の『四畳半襖の下張り』私家版にまつわるその後の視点が、鶴見の発言にはまったく欠落している。しかも、1960年刊行の『風流夢譚』においても、嶋中訓示で言及されているように、すでに「裁判」が現実的に問題にされていたのである。

 京谷では、「あるバカな政治評論家は、このような問題(皇室の名誉毀損の問題)はテロなどより裁判で解決すべき問題だと言っているが、いまそんなのんきなことを言っていられない」と、嶋中がのべたことになっている。これでは、告訴の主体があいまいだが、「皇室の名誉毀損」が夢譚の罪状焦点となっていたのは、中村の記録にも明記されていることからもよくわかる。中村では、「バカな評論家があの作品を評価し、皇室にたいする名誉毀損か否か裁判にもちこめなどといっているが、そんなことをしたら裁判中に右翼に攻撃されるだろう」とある。「バカな評論家」が云っていたのは、右翼テロにからめて、こうした文学作品が「皇室名誉毀損」を成立させるかどうかを、中央公論は提起すべきということなのだろう。

 これにはその背景とそのときの状況を説明しておかねばならない。

 『風流夢譚』を右翼が糾弾しはじめたとき、一般的に注目されたこの小説の問題点は、先にも紹介した朝日新聞の「天声人語」が口火をきった、「現にいま生きている実在の人物を、実名のまま、処刑の対象として、首を打ち落とされる描写までするのは、まったく人道に反する」ことであり、それはヒューマニティに反する人権侵害の行為だった。

 罪状的には名誉毀損だった。むしろ、それしか法的に罪を問う根拠がなかったのだ。

 というのは、1946年にみずから「神格」を否定し、日本国憲法によって、象徴となった天皇は、ひとりの国民である。戦前の「天皇・皇后および皇族に対する不敬罪」は消滅していたから、サド翻訳書訴訟の「猥褻物陳列・販売」法違反のように、犯罪適用できる法律がなく、名誉毀損、人権侵害を根拠とするいがいの罪状はなかった。

 ところが、刑法によれば、名誉毀損や人権侵害は親告罪であり、告訴がなければ公訴できない。いっぽう、告訴をすることができる者が天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣であるときは内閣総理大臣が、外国の君主又は大統領であるときはその国の代表者がそれぞれ代わって告訴を行う」とある。

 そこで、右翼は抗議活動をするかたわら、宮内庁にたいして内閣総理大臣へ告訴要請をするよう働きかけていたが、1960年の年末には、宮内庁は中央公論社の謝罪をうけいれ行動をおこさなかった。だから、1961年1月に開催された右翼集団の「赤色革命から国民を守る国民大会」(帝都日日新聞主催、実業之世界社後援)の決議には、皇室及び日本国民の名誉のため、「『中央公論』の廃刊と其社の解散」と共に、刑法上の告訴にかかわる池田総理大臣にたいする要請「中央公論社長 嶋中鵬二、編集長 竹森清、およ『風流夢譚』の作者 深沢七郎の三名を相手取り、名誉毀損の告訴をなすべきこと」があり、中央公論社と内閣府にむかって、二組の代表団が派遣された。

 こうした右翼集団の行動も、『風流夢譚』を弾劾する根拠を名誉毀損におき、その裁判をもとめていたのだから、この問題は、嶋中が訓示でいうようなものではなく、ちがった対応があるのが当然だったようにおもわれる。

 しかし、現実には、宮内庁も内閣総理大臣も告訴に動くことはなかった。単純に、文学作品におけるこのような名誉毀損の成立が困難と考えたのか、象徴としての天皇の位置を論じるのを回避したのか、それはわからない。たしかに、「神格化を否定」した「象徴としての天皇」は、今泉のいうように、二足獣か、二足獣でないのかわからない、「なんだか変なもの」であるのは、刑法ひとつからみても事実である。そうしたことを整理するためにも、また、芸術作品における「名誉毀損」を論じるためにも、’60年代右翼の立ち位置を確認するためにも、’60年代の日本のこのとき、この裁判はおこなっておくべきだったのではなかろうか。

 鶴見が、こうした裁判について言及しないのは、やはり問題にしなければならない。裁判を方策の視野にいれていないのは、嶋中の「いまそんなことを言っていられない」とおなじ視点からかもしれない。とにかく鶴見の私家版案は、中央公論を矢面に立てぬことに眼目があったようにおもえる。

 それにまた、「サド裁判」と並行してこの時、「風流夢譚裁判」がおこされていたら、それらは相乗作用をおこし、その後の日本のために、なんらかの効果をもたらし、象徴天皇の意味のその時点での整理が、それなりにおこなわれていたとおもわれる。この「名誉毀損」の切り口から「象徴天皇」を俎上にあげ、その位置を明確にする絶好の機会であったにもかかわらず、嶋中もふくめこれら知識人が、これをしなかったのには、いたずらにそれを残念がるだけでなく、よく見きわめねばならぬ別のものがその根底にはひそんでいる。

 なお、一言付言しておけば、これを契機に「象徴天皇」の問題提起をしたのは、知識人ではなく、神社本庁だった。かれらはこれより4ヶ月のちに、神であった時代の天皇の身分保障である不敬罪の、制定請願運動を開始している(1961.3.10)(『近代日本総合年表』第4版)。これは成就しなかったが、この流れは2022年の現代でもなお継続し、おそらく、現今問題視されている、1946年制定の日本国憲法改正では、なんらかの姿で再現するだろう。これについては、’60年代の鶴見ら知識人の態度はやはり残念であることにかわりがない。

 しかし、ここで見きわめねばならぬのは、嶋中が、間接的には鶴見が、「裁判」を回避、黙殺した背後にあるものである。

 嶋中の発言はつよい裁判拒否反応をみせたことになっている。京谷の記録では、「裁判で解決すべき問題だ」とバカな政治評論家は主張するが、「いまそんなのんきなことを言ってはいられない」とされ、中村でも、「いまは一触即発の危機」であり、「バカな評論家が名誉毀損か否か裁判にもちこめといっているが、そんなことしていたら裁判中に右翼に攻撃される」と語ったとされている。「裁判」を提案するものは、みんなバカなのだ。そんなことをしていたら、(ふたたび)右翼に攻撃されるのだ。しかも今度は、殺されるばかりか、この建物が吹っ飛んで130人の社員と家族が路頭に迷うことになるという。「この建物が吹っ飛ぶ」とか「130人の社員」という具体的、かつ、極端なことば使いは、二つの回顧録に同一用語で記載されているから、じっさいに云われたものだろう。そればかりか、社内とはいえ出版社社長の公開発言としてはよほど印象的だったのか、バカな評論家も、両者の記録に記載されている。政治家や一般企業社長の、党内や社内発言ならありうることだろうが、いやしくも原稿依頼の関係をもつ「評論家」を、依頼する当事者たる編集者たちの前で、公然とバカ呼ばわりをするのは、やはり衝撃的印象をあたえる発言だったにちがいない。

 このように、いかに考えても常軌を逸した発言を誘発したのは、「そんなのんきなこと言ってはいられない」とか、「そんなことしたら」の裏面にある、右翼に攻撃される、一触即発の危機感だろう。

 嶋中は、右翼に攻撃されれば、、130人の全社員が路頭に迷うという。「この建物が吹っ飛び」は、中村、京谷ふたりが書きとめている共通表現だが、これには具体的意味がある。

 嶋中鵬二が26歳で、父雄作の跡をつぎ社長に就任したのは1949年だが、7年後の1956年には、東京、京橋に自社ビルを建設した。優秀な社業後継者の証(あかし)である。

 社業シンボルのこの建物が吹っ飛び、130名の社員が路頭に迷うとは、会社崩壊のイメージだ。社員をおもうヒューマニスト経営者の声にも聞こえるが、ひとりひとりの社員など念頭になく、ただ社業破綻の形容表現にすぎない。現実的にかれがやっていることは、社員のひとり竹森清編集長を唐突に退職させ、「路頭に迷わせた」ことを、社長訓示を告げる告示板に、平然と同時告知していたのだった。

 さらにこの訓示でも、中村の記述によると、「今まで竹森編集長をかばって本当のことを言えなかったが、彼が退社したのできょうは自由に言う。自分はあのような作品を載せるような考えの持主ではないッ」と、明言している。竹森編集長が独断で掲載し、社長であり編集局長であるじぶんは知らなかったような言い分である。

 この言いわけは、この訓示だけでなく、とうじかれがのべていた言い分だった。かれの承認のもとの掲載は、さきの中村証言にもあるが、中村だけでは正統性を欠くという見方もあろうから、蛇足とはいえ、のちの嶋中自身の発言を引用しておこう。これは、かれの死の前年、1996年1月21日の『毎日新聞』に掲載された、「いま語る『風流夢譚事件』」の一節である。つぎのように語られている。


 ━ 掲載する決断は嶋中さんがされたわけですね。

嶋中氏 ある日、編集長が突然「載せたい」と言ってきた。もちろん、私が絶対にだめだといって掲載を止めることができないわけではなかった。しかし三島(由紀夫)さんが「なぜ載せないのか」と言っているとか、武田(泰淳)さんが「嶋中もおかしいぞ」と言っているとかといったことが編集者を通じて聞こえてくる。私のやり方が「独裁的」だという印象を持たれたのでしょうね。・・・・・・・・・・・・・・・・

 ━ そういう状況でしぶしぶ掲載した、と。

嶋中氏  要するに掲載を許したのは私です。しかし、センブリを飲むような気持ちで許可した。ゲラになった後も、家でそれを見ているときに家内に「それは何ですか」と聞かれ「いやなものだ」と言って家内の目から隠したのを覚えています。

 ━ 事件の後に嶋中さんが社長として個人名で出した「お詫び」が「言論の自由」をうたった中央公論社の「社告」と矛盾するという指摘がありましたが。

嶋中氏  私の「お詫び」は事件以前に右翼の抗議団に対して行なっていた約束への回答でした。事件が起きて事情が変わったのだから、あんな「お詫び」を出す必要がないという意見もありました。しかし、私は実名を使った、ああした小説はやはり重大な名誉毀損にかかわるものであって、作家としての深沢さんの立場はともかくとして掲載してしまった責任はあると考えていたのです。(下線は筆者)(『日々編集 嶋中鵬二遺文集』より)


 あきらかに、「自分はあのような作品を載せるような考えの持主ではないッ」は、一般常識からは虚偽となろう。それにまた、三島由紀夫や武田泰淳の名を出して、真偽をたしかめもせず、35年後になってもまだ口実にするのは、その責任のとりかたに、歯切れのわるさがある。(注.三島と「夢譚」については、第三章で問題にするつもりである.) 「社告」と「お詫び」の矛盾についても、「社告」を知らなかったとは言っていない。いずれの責任もやはり認めているのだ。

 だがそこに矛盾をみとめないのは、出版経営者としては、原則的に誤っていなかったという無意識的確信があるからだろう。また、ここには、さきの「バカな評論家」の放言にもみられた、三島武田という作家思想への軽視、というよりも、無関心がみられる。出版経営の立場を、作家、評論家の立場と分離し、対立する場合もあるとしているようにおもえる。「芸術家─メディア(出版社、画廊、雑誌・新聞、美術館)─大衆」の三角形構造の視点からいえば、さきのペギー・グッゲンハイムとは正反対のメディア姿勢である

(注. ペギー・グッゲンハイムについては、「 4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2) ③-2. ハイレッド・センター」[『百万遍』7号掲載]を参照.


 それは、掲載する『風流夢譚』を読み、「いやなものだ」と思いながら、「センブリを飲むような気持ちで許可した」があらわしているものだ。ぺギーは、じぶんが傾倒したアヴァンギャルド作家たちの作品だけを、他に先駆けて購入し展示することでグッゲンハイム・ギャラリーを歴史的成功にみちびいた。そこが、グッゲンハイム・コレクション(ミュージアム)のアヴァンギャルド・メディアたる由来だろう。これは、出版人としての嶋中鵬二が、とうじのアヴァンギャルド・メディアの週刊誌、『週刊コウロン』に手をひろげ、失敗したゆえんであり、さらに晩年に、中央公論社自体の経営権も放棄しなければならなかった遠因のひとつかもしれない。(注.水口義朗『「週刊コウロン」波乱・短命顛末記』参照) だがここでは、別問題である。

 そうした嶋中の姿勢にたいして、思想評論家である鶴見俊輔は、作家、芸術家の立場より、嶋中のメディアの立場に、ここでは意識せずして寄りそっていたのではなかろうか。それは、程度の差こそあれ、「思想の科学」同人、都留重人、丸山真男、竹内好、久野収らにもいえることである。

 彼らは、じぶんたちの雑誌『思想の科学』廃棄には、抗議したが、原因である『風流夢譚』と右翼については、そんな問題はなかったように行動した。それに、廃棄に抗議したとはいえ、全員が執筆拒否をしたのでもなく、また、批判キャンペーンもしない及び腰の執筆拒否だった。挙げ句の果ては、すでにのべたように、1968年のあの社告「言論の自由について」レベルの言いわけで、かんたんに執筆を再開している。実質的対抗の立場にたっていない。

 作品『風流夢譚』については、嶋中もそうだったが、出版意義を認めない同人が多く、また、右翼におびやかされる言論界と右翼の関係について、35年後の鶴見や嶋中がそうだったように、これを契機に議論提起をしたものはいない。かれらの生活感覚、生活モラルからいえば、深沢作品より、嶋中の「社告」に親近感があるようにおもいたくもなる。

 嶋中は、さきのインタビューで、「事件が起きて事情が変わったのだから、あんな『お詫び』を出す必要がないという意見もありました」と云いながら、右翼集団にした事件以前の約束遵守のモラルを誇示するのである。やはり、あのときの「言論の自由確立の誓い」は、かれの信奉するモラル外のものだった。訓示にあらわれたかれのおもいは、社業の危機感だけであり、訓示目的は、社業危機と社業専一の要請のみだった。

 かれの社業専一のモラルは一貫したものである。いま問題にしたご挨拶の「社告」で誓った 言論の自由確立のための献身も、「社業をとおして」と前提されていたのだから、かれのなかでは、ご挨拶の「社告」と「お詫び」のあいだに、なんらモラル的矛盾はなかったとおもわれる。

 そのモラルは、この事件によって、かれの生産者とメディアの意識的分離に、いっそう明確に働きかけたとおもわれる。

 中村報告の社長訓示では、訓示のさいごに、前日の掲示板に告知された、編集局長の社長兼務のとりやめと常務山本英吉就任の人事ととともに、『思想の科学』誌の編集部所属が出版部から編集局へ変更が通告されたとある。これは、「思想の科学」同人にとっては皮肉なことだが、無条件で出版されていた『思想の科学』誌に編集介入する宣言である。だから、十ヶ月後の廃棄事件も、事務手続き上の失態はべつとして、事前検閲は既定路線の処置であり、出版経営者嶋中としては、なんらの不都合もなかったのであろう。

 ところで、そうした社長訓示の危機感と要請を聞いた、中央公論社社員たちの反応はどうだったのだろうか。

 中村と京谷は、社長訓示の直後に開催された組合大会のありさまを、それぞれ記述している。この臨時組合大会は、社長訓示以前から、嶋中邸でおこった右翼傷害事件に対応する組合の見解統一と意見表明を目的に計画されていたものだった。編集部員だった中村と京谷は、中央公論社組合の三役メンバーだった。かれらは事前に協議し大会に諮る組合声明の原案を準備していた。原案作成については、かれらの著書に詳細が記載されているから、ここでは省略する。

 大会について、まず中村は記している。


 ひきつづいておなじ部屋でひらかれた組合大会は、「恐怖演説」がまきおこした恐怖状態の延長のなかでおこなわれた。重苦しい空気がみなぎり、執行委員会から「社告の線で言論の自由を守ろう」という発言がなされたが、次のような否定的意見のほうが大勢を占めた。

 「組合としてヘタに動いて、また事件が起こったら、その責任がとれるのか」

 「たたかうのはいいかもしれぬ。しかしそのことによって君たちが傷つくのならともかく、刺されるのが君でなかったらどうする」

 「デモだの集会だののありきたりのたたかい方ではなく、われわれジャーナリストはもっと賢い方法で対処すべきだ」

 「あんな小説を掲載した編集者の責任を問いたい」

(中村智子『「風流夢譚」事件以後 編集者の自分史』pp.38)


 15年後の回想記であるから、事実というより、記憶に刻まれた印象的記述だが、社員たちの雰囲気と主張がよくつたえられているとおもう。社長訓示に動揺し同調する実態の本質である。引用符でしるされた発言は、社長訓示のコピーどうぜんの意見である。あれほど常軌を逸したようにみえた訓示も、かれらはそう思うどころか、完全に同意したのだった。

 組合大会の雰囲気については、京谷もおなじ印象を記載している。


 私たち執行部は、その大会の雰囲気からして、とても声明原案を提出できる状態にないことを感じ取って、自らそれを取り下げてしまったのである。それほど社長の「訓示」の組合員に与えた衝撃は大きかった。私はその夜の組合員の発言について中村氏ほどよく記憶していない。組合きっての論客が執行部を批判し、このさい軽挙妄動すべきでないと激しい口調で語ったとき、「これではダメだ」と私は観念した。中村氏は「お通夜のような組合大会」と書いているが、大会自体は「お通夜」というにはあまりにも喧騒であったというのが私の記憶である(下線は筆者)

(京谷秀夫『1961年冬「風流夢譚」事件』183pp.)


 執行部提出予定の声明案は、社業をとおして言論の自由確立のために献身することをあらためて誓った「ご挨拶」を支持して、「当面の敵右翼の暴力に対して、言論機関で働く者であることを深く自覚し、各職場、各持ち場でフルにその機能を発揮することに努力しなければならない」とし、「みずから提起した言論・思想の自由の問題で、われわれの責任は一層重いことを、この際、より強く痛感する」というものだった。(注.京谷の回想記に原案の全文が掲載されている.) この出版メディアの労働者組合として、言論の自由擁護の責任を声明する原案などは提出不能の、喧騒の雰囲気というのだろう。議論するまでもなく、反対主張が大勢だったのだ。

 ここでうずまく「主張」を整理すれば、つぎのようになる。京谷では、「組合きっての論客が執行部を批判しこのさい軽挙妄動すべきでないと激しい口調で語ったとき、『これではダメだ』と私は観念した」とある。組合執行部批判は、中村でも、「組合としてヘタに動いて」とか、「デモだの集会だののありきたりのたたかい方ではなく」とか、「あんな小説を掲載した編集者の責任を問いたい」とか、反対論のターゲットが組合であることが示されている。そして、その根拠は、責任にある。提出されなかった執行部案にも「責任を痛感する」とあったが、執行部案のいう「責任」の在り処とはことなる責任であるらしい。「また事件が起こったら、その責任がとれるのか」の責任であり、「あんな小説を掲載した編集者の責任」である。

 これらの責任は、事件がおこることへの責任なのはあきらかだが、なんのために事件の責任をとらねばならぬのかは明確でない。社長訓示のあとのこの場の雰囲気のなかでは、いうまでもない既定事項のためかもしれない。この中村、京谷報告ではだれもがひとことも述べてはいないこのとるべき責任の対象を語っているひとつの証言がある。

 粕谷一希が、さきに鶴見で引用した回想記『中央公論社と私』(1997年初出)で、とうじの状況について語っているものだ。入社6年目の粕谷は、『中央公論』誌の編集部員であったが、この頃、特別に秘書・補佐役として嶋中のかたわらにあった。そして、事件直後の刷新人事で、1961年2月15日に編集局次長になっている。嶋中を好意的に理解した社員といえよう。この回想記も、67歳になったかれが、嶋中の死の直後に執筆し、雑誌『アステリオン』と『諸君!』に掲載されたものだ。これは、「出版人の矜持とは? 言論といういとなみ。内紛、修羅、そして自らの進退。愛惜をこめて描きつくす名門出版社の悲劇。感動の人間ドラマ」という帯側つきの単行本で出版されたものである。

 事件当時の状況について、かれは最大の懸念を、


 もし裁判にでもなったら大変なことになる。内閣対中央公論では、中央公論社の脆弱性は明白である。賛成、反対の世論の渦のなかで中央公論は倒産してしまう

 私は、チャタレー裁判に勝って伊藤整氏は有名になったが、小山書店が潰れてしまった事例を思い浮かべていた。嶋中社長からもチャタレー裁判の事例は雑談のなかで聞かされていたような気がする。(下線は筆者)(「粕谷」pp118)

 

と、のべている。

 かれの最大の懸念は、「裁判になったら大変なことになる。賛成、反対の世論の渦のなかで中央公論は倒産してしまう」であり、嶋中訓示にあった「この建物が吹っ飛ぶ」懸念と同一路線にある懸念だ。嶋中では、「吹っ飛ぶ」のは裁判によってではなく、軽挙妄動する者によってだが、いずれも社業崩壊、倒産が窮極の「悪徳」である。

 ただ、粕谷では、事例としてチャタレー裁判によって小山書店が倒産したことを規定事実のように掲げているが、1961年の時点ならいざ知らず、かれがこれを記しているのは1997年だから、それまでには「サド裁判」もあった。すでに記したように、サドの『悪徳の栄え』の翻訳刊行によって、訳者、澁澤龍彦と現代思潮社社長、石井恭二は起訴され、D.H.ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』の翻訳書裁判、「チャタレー裁判」のように敗訴し、罰金刑をうけた。だが、この裁判では澁澤が有名になったばかりか、現代思想社も裁判を批判する論考を掲載した雑誌刊行を盛大につづけ、倒産どころかむしろ出版企業隆盛の契機になっている。粕谷の指摘はいささか客観的公正さを欠くものである。

 しかしながら、ここで述べられている粕谷の問題意識は、おそらく組合大会の出席社員たちのいう、責任の背景にある暗黙の了解事項にあったかとおもわれる。こんなことをしていたら中央公論は倒産してしまうという嶋中訓示によってよび醒まされた生活モラルが、かれらの深層で活性化し、噴出したのではなかろうか。日頃沈黙していたモラルが叫びだした異常自体が、中村のいう「恐怖状態の延長の重苦しい空気」であり、京谷のいう、「あまりにも喧騒の組合大会」となっていたのだろう。「たたかうのはいいかもしれぬ。しかしそのことによって君たちが傷つくのならともかく、刺されるのが君でなかったらどうする」などの発言は、ひめられていた恥部露出の本音としかきこえない。

 粕谷の記述は、とうじの中央公論社社員たちの「真情」をあらわすものだったかもしれない。

 かれは、この記述につづいて、自身の見解をかたっている。


 私には「風流夢譚」が掲載に適当な作品であったかどうかに疑問があり、家人を殺傷された嶋中さんにはそれに対する責任もあり、この問題の処理にあたって最も発言権のあるのは嶋中さんだろうと考えていた。だから右翼の行為は不当であるが、同時に『中央公論』編集部と中央公論社自体に責任がないのかどうか。その点を抜きにした〝言論の自由〟論にはどこか白々しさが残るような気がしていた

 二月六日、竹森清さんが退社された。企画調査部長という社の辞令が一度出ていたのであるから、自らの行為から死傷者の出たことに責任を感じられてのことだろう。


 ここでは、三つの「責任」がかたられている。厳密にはおなじ責任ではないが、究極では、ひとつをめぐる「責任」だろう。嶋中さんの責任は、「家人を殺傷させるような」作品を掲載させた責任だが、殺傷された家人にたいして負うべき責任か掲載の責任なのかが、よくわからない。「右翼の行為は不当」としているのだから、右翼にたいする責任ではないだろうが、「最も発言権のあるのは嶋中さん」とのべていることからすると、訓示や「お詫び」がいう責任のことかもしれない。

 つぎにくる第二の責任は、『中央公論』編集部と中央公論社自体の「責任」である。この責任は第三の竹森清さんの責任とおなじだが、竹森さんについては、すでに中村が『「風流夢譚」事件以後 編集者の自分史』(1976年刊)において、竹森の退社は、中央公論社重役の訪問による強要の退社という直接証言をあげて記載しているのだから、これは粕谷の個人的解釈となる。

 とはいえ、『中央公論』編集部と中央公論社自体の「責任」も、文脈上は、かれがなんの責任を指摘しているのかあいまいである。「だから 右翼行為は不当であるが、同時に・・・・」における、だから と 同時に・・・ にこめられたニュアンスがよくわからない。

 粕谷は、36年前のあの嶋中の社長訓示と「お詫び」にあらわれたとおなじ見解を、あの事件にたいしてもっているのだろうか。

 おそらく、核心では同一の見解かとおもわれる。

 「この建物が吹っ飛び、130人の社員とその家族が路頭に迷う」一触即発の危機であり、それを回避するためには、いかなる犠牲も屈辱もいとうべきでないということだ。嶋中は、「皇室ならびに一般読者に多大の御迷惑をかけたことを深くお詫びし、また、この件を端緒として殺傷事件まで惹き起こし、世間をお騒がせしたことを更に深くお詫び」すると、ひたすらお詫びに徹するのである。なんという大袈裟なことばの羅列だろう。平身低頭、股くぐりも辞せぬ態度である。粕谷が「この問題の処理にあたって最も発言権のあるのは嶋中さんだろうと考えていた」というのは、この態度への共鳴を語っているのだろうか。

 こうした「韓信の股くぐり」は大義のためである。「中央公論社の倒産」の回避、社業のためである。嶋中の大義は、父に選ばれ、父から受継いだ中央公論社業にあった。粕谷はそうした嶋中の真意を理解し共感し、そこからこの事件をながめ、「その点を抜きにした〝言論の自由〟論にはどこか白々しさが残るような気がしていた」とのべているのだろう。

 粕谷とおなじように、否、粕谷いじょうに直截に、「あんな小説を掲載した編集者の責任を問いたい」といい、「デモだの集会だののありきたりのたたかい方ではなく、われわれジャーナリストはもっと賢い方法で対処すべきだ」と批判した社員たちの大義、あるいは、出版者モラルではなく生活モラルは、どこにあるのだろうか。 「たたかうのはいいかもしれぬ。しかしそのことによって君たちが傷つくのならともかく、刺されるのが君でなかったらどうする」 を聞くと、やはり、個人被害を問題にしているように聞こえ、「恐怖演説」の恐怖の由来は、刺されたり、殺されたりであり、現実的にありうるのは、倒産であり、失業だろう。

 だが、かれらのこの「倒産危機」は、かならずしも個人的生活危機に直結してはいない。なぜなら、かれらの非難はひたすら「組合活動」にむけられている。執行部批判とはいえ、異なる活動方針の主張でもなく、ただ組合行動の停止をもとめているのだ。

 企業組合は、被雇用者の労働条件を経営者と協議するためにある。賃金交渉であり地位保全であり、労働環境整備である。中央公論労働組合もそうした活動をおこなってきた。中村の回想録でも、竹森編集長の強要退職を聞いたとき、竹森が職階上、非組合員であるのを残念がっている。もしそうなら、組合交渉を要求すべき事項としているのだ。

 ところが、臨時組合大会での社員たちの発言は、かれらの生活条件に直結する組合活動から距離をおくこと、むしろ組合活動そのものを否定している。かれらの倒産回避のモラルには、生活視点は希薄のようにみえる。倒産のイメージは、退職金とか失業、職探しのイメージとつながっていない。

 かれらの危機感は、かれらの勤務する中央公論社崩壊にある。そこでは、思想・報道メディアの役割が完全に剥落した社業優先が選択されている。思想・報道メディア企業の存在否定となる自己矛盾のこの選択の、錯乱ともいえる混乱が、組合大会の「お通夜」であり喧騒の動因だったようにみえる。

 だが、この混乱は、すでにわれわれは、今泉の『エクイプメント・プラン』でみた混乱であった。『エクイプメント・プラン』では、論理の混乱であり、ファッション思想の喧騒であった。

 今泉では、大元帥陛下が統べる大日本帝国の高級陸軍将校だった父の庇護のもとで、かれなりに幸福に暮らした幼少年期が、かれの理想の生活、生活指針だったのだろうが、かれのアヴァンギャルド芸術生活では、その規範モラルは深層ふかくうずめられ、かれ自身容認できぬものになっていた。この生活モラルに背反し、モラル破壊のシンボルになるアヴァンギャルド芸術オブジェ「ギロチン制作」行動をつきつけられたとき、かれは茫然とし、逆上せざるをえなかった。いっぽうでは、あれも悪いこれも間違っているというアヴァンギャルディストたることに存在理由をおいて、電電公社社員との二重生活をしていたのだから、「逆上」は作品内にとどめ、現実生活では非行動の芸術家になるより仕方なかった。それが、非行動の芸術を唱える『エクイプメント・プラン』執筆であり、「皇居前広場のギロチン・オブジェ」の挫折プランであった。

 ところで、中央公論事件にあらわれた混乱、中央公論社長嶋中の「社告」「お詫び」「訓示」の混乱、組合大会の混乱、鶴見たち周辺評論家たちの混乱をもたらしたのは、いかなる生活モラルなのだろうか。

 嶋中のモラル、社員たちのモラル、思想系出版をとりまく評論家たちのモラル、文壇のモラル、それらの生活モラルには当然ながら差異がある。しかし、その在り処と行為は、ほぼおなじ方向にある。

 現実行為については、かれらは思想系出版メディアの構成者、社長、社員、執筆者でありながら、かれらの社会的存在意義たるこの役割と無関係の生活モラルにしたがっていた。

 そうした行為をとらせる古くて新しいモラルが、’60年代日本に顕在化しはじめていた。それは、古くて新しい「忠臣蔵」風俗画のモラルだった。経済成長の到来とともに、倒産は悪徳というモラルが再生した。’60年代の再生天皇家にはじまり、高度経済成長下のお家安泰と繁栄の時代で、没落はめずらしく、感情的には悪徳だった。

 すべては存続のためという中央公論社の処置は、「忠臣蔵」がえがく「オ家タイセツ」のしきたり通の対応だった。嶋中社長は、切腹しなかった浅野内匠頭だった。臨時組合大会出席の社員たちは、さしずめ、江戸城事件を伝えられ赤穂城大広間に参集した家臣団というところだろうか。

 そして、周辺にいた評論家、作家、研究者ら執筆者は、忠臣蔵風俗画で類似した役割をさがせば、お城をとりまく城下町の剣術道場の剣の達人か儒教を教授し理想社会を論じる学塾の先生となるのだろうか。お城あっての道場と学塾の主人(あるじ)である。かれらは、お城がなくなれば、また別の城下町で道場や塾をひらけばよさそうだが、当時の日本では、中央公論藩ほど弟子があつまる藩はなかった。この藩で技(アート)と「思想」を開陳すれば効果はおおきい。こうした技や教授内容を二次的にみずから格下げする価値観が、あのような行為をさせたのではなかろうか。

 もっとも、この場合は、嶋中内匠頭は、オイエタイセツの切腹をしなかったのだから、話がちがうとされるかもしれない。

 しかし、「中央公論事件」でも赤穂事件でも、焦点にあったのは、オイエタイセツのモラルである。赤穂浪士たちは、内匠頭の弟、浅野大学への継承の道が断たれ、お家断絶が確定してはじめて復讐行動をおこしている。ここでは、内匠頭切腹とお家断絶は同義である。浅野長矩個人への崇敬や愛情からでなく、赤穂藩城主ならだれであってもおなじ行動だったろう。

 そして、その行動は、社会体制としては常軌を逸していた。いかに常軌はずれだったかは、徳川体制の処置変転からもあきらかである。長矩の刃傷沙汰直後は、内匠頭切腹と赤穂藩お取り潰しの処罰だけで、もう一方の当事者、高家旗本吉良上野介はお構いなし、お見舞いさえされたという。しかし、浪士討ち入り後になると、松之廊下事件にさかのぼって、吉良家断絶の処分がおこなわれた。それにまた、吉良家家臣団のほうでも、討ち入り直後も、お家断絶後も、復讐に動いた気配はない。四十七士の行為が、いかに通常規範を脱した行為だったかがわかる。

 かれらにとってお家断絶は、それほどの行為をうながす絶対モラルだった。

 しかし、これで指摘したいのはそのことではなく、この異常行為がとうじ社会でどのように受容されたかにある。赤穂事件がおこったのは、元禄14年3月14日(1701年4月21日)~元禄15年12月14日(1703年1月30日)であった。この事件は元禄時代の社会につよい印象をあたえた。そこから、人形浄瑠璃の近松門左衛門作「碁盤太平記」がうまれ、その集大成の「仮名手本忠臣蔵」(1748年)は、「古今の大入り」といわれるほどの人気をえることになった。元禄社会の生活モラルに共振したのである。そしてこの忠臣蔵は、そのご現代にいたるまで伝承され、好まれ、歌舞伎、講談、小説、映画、テレビで作品化されている。

 元禄期がうんだ、徳川元禄の風俗画といえよう。

 徳川元禄時代は、農業生産力が増大し、貨幣経済発展の時代であり、それによって安定社会が出現した時代である。経済成長で安泰をえた社会は、それを維持しようとする。経済活動を維持し発展させるには、得たものを安定させ、膨張させるのである。

 そして、これを維持するイデオロギーに、極東文化圏に絶好の保守思想体系があった。儒教思想である。これは安定社会形成のために、五倫を基本とすることを提唱した。父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の人間関係である。「オ家タイセツ」に還元できるモラルである。

 ときの5代将軍徳川綱吉は、徳川家安泰のため若年から儒教を教えこまれ、期せずして将軍になってからは、この思想体型にしたがい、徳川体制安定のための施政を遂行した。そのひとつに、それまでないがしろにされていた天皇家重用の方針があった。松之廊下の刃傷事件も、勅使饗応役の任務遂行中の出来事であり、たんなるご乱心ではすまなかったのだ。

 赤穂事件から「忠臣蔵」風俗をつくりだした、人形浄瑠璃や歌舞伎の担い手は、江戸、大坂、京の元禄経済成長の受益社会だった。安定をもとめるこの社会が、「オイエタイセツ」の幹に咲く芸術の徒花、「忠臣蔵」を歓迎し、徳川支配体制の動向と相乗作用をおこし、元禄「忠臣蔵」風俗となったのは、とうぜんの流れだろう。臣君だけでなく、父子、夫婦、長幼、朋友関係にポイントをおくところに儒教採用の特徴がある。それは、臣君以外の関係に着眼しただけでなく、忠義一点張りの臣君関係を拡大し、「オ家タイセツ」の大家族関係に象徴される、集団関係におきかえたことであろう。

 このオイエタイセツの「忠臣蔵」は、徳川政権後の明治期、大正期、昭和期と微妙な解釈のちがいをみせながら継承されてきた。オイエタイセツの五倫のモラル法則は、時々に、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の重心の置きかたをかえながらも、モラル性をもちつづけていた。戦前昭和期でも、仇討ち、復讐譚として、「曾我兄弟の仇討ち」とならんで、格好の芝居、映画、小説、紙芝居の主題となっていたようにおもう。

 この傾向は、戦後になってもかわることなく、’60年代になると、第1回東京オリンピックが開催された1964年の第2回目NHK大河ドラマのタイトルは「赤穂浪士」であった。急速に普及するテレビを媒体にしたこのドラマは、経済成長と皇太子・正田美智子結婚による再生天皇という、忠臣蔵発祥の元禄期再現のような時代に共鳴し、大成功をおさめた。最終回の視聴率は53.0%(関東地区)であり、今にいたるまでのテレビ・ドラマ史上最高の高視聴率だった。

  ところで、このドラマの原作は、大仏次郎の戦前(1929年)の新聞小説である。官僚性を批判する儒教モラル思想の変形(ヴァリアント)、「武士道」の視点から書かれたもので、直後におこった二.二六事件の統制派に反抗した皇道派の図式を予告するものであり、昭和初期の時代の好みを反映していた。二.二六事件がその後の軍事政権の道をひらき太平洋戦争にいたったのは周知のところである。

 そうした原作にもとづくテレビ・ドラマが歓迎されたのは、’60年代の大衆レベルが、「安保改定阻止第1次実力行使」で、「全国で総評・中立労組76単産460万人、学生・民主団体・中小企業者100万人、合計560万人が参加」(1960年6月4日)し、つづく「安保阻止統一行動」では、「33万人が国会デモをして徹夜で国会を包囲」(6月18日)する戦後の「デモ・ゲバ」風俗の様相を示すいっぽう、戦前体制を支えたモラルを躊躇なくかかえつづけていたのである。

(注.『近代日本総合年表』第4版. くわしくは、本論「第1章  ‘60年代日本の風俗画  2) 「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本」[『百万遍』2号]を参照.)

 

 そうした’60年代の日本社会におこった「中央公論」事件の顛末は、出来事を事件にしたという意味では、’60年代「忠臣蔵外伝」ともいうべきものであった。

(注. ここでいう出来事は 〈événement〉、事件は 〈affaire, accident〉ていど(フランス語)の意味でもちいている.)


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