Avant 番外編4

[’60年代日本のアヴァンギャルド 番外篇]


Part 4



 出来事を事件にしたというのは、つぎのようなことをいうのである。まず直接の出来事では、ひとりの少年がある家に侵入し、住人を刃物で殺傷したのは、たしかに出来事ではなくひとつの事件である。だがこれは犯罪事件で、少年犯罪問題に集約できる事件である。なぜなら、少年は、『風流夢譚』とか『中央公論』の廃刊や社の解散などをのべて行為におよんだのでもなく、小説や雑誌掲載になんの関係もない、家庭女性ふたりに襲いかかっているのだ。こんな事件を、政治的右翼事件としたのだった。別な言い方をすれば、現代においても、そのような処置をされた出来事は無数にある。

 たとえば、中央公論事件とは逆ケースだが、政府財務局職員の赤木俊夫さんの自死は、今(2021.11.19)にいたるまで、過労、心労のうつ病に集約されかねない、公務災害の自殺事件にとどめられている。この事件は、せいぜいのところ、学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改竄事件には発展するかもしれないが、とうじの首相、安倍晋三の事件となり、国有財産も公務員も私物化する政権事件にはならないだろう。現代社会では、大事件にいたらず小事件にとどまるどころか、小事件にもならず、出来事でおわった「堕胎」事件はめずらしくない。

 ところが、この事件の遠因にある小説『風流夢譚』については、たとえそれが天皇登場のパロディー小説であろうとも、一篇の新作小説が雑誌掲載されるのはひとつの出来事である。この出来事が、右翼少年殺傷事件にいたるまでには、さまざまな人為的思惑が介入して形成された出来事が連鎖している。本稿ですでにふれたように、右翼少年が殺傷事件をおこすまでには、まず、田中彰治経営の夕刊紙『東京毎夕新聞』や野依秀市の『帝都日日新聞』の弾劾記事掲載があった。田中彰治は、とうじすでにマッチポンプで有名な、自由民主党の衆議院議員であった。のちには、汚職、恐喝、詐欺で告訴、起訴され、有罪判決をうけその控訴中に死亡しているキャラクターである。野依秀市も戦前からの右翼系政治ジャーナリストで自由民主党の衆議院議員だったが、第28回衆議院議員総選挙(1958年)で落選し、第29回選挙(1960年11月20日施行)でも立候補していたが落選している。そうした多忙なかれらが、「夢譚」掲載の『中央公論』12月号(1960年11月10日発売)の刊行から短期間のあいだに行動できたのは(『東京毎夕』新聞は11月16日号)、ルーチン・ワークだからだろう。2021年の日本なら、さしずめ、党派的立場が明確なテレビ・コメンテーターの過激発言や言葉じりをとらえるSNSの罵詈雑言というべきところだろうか。「中央公論」事件はおろか、「風流夢譚」事件以前の段階である。

 ところがこうしたゴシップ・スキャンダルのレベルとはちがった出来事がおこる。契機は、三大新聞が文芸欄などで作品『風流夢譚』の天皇一家描写にスポットライトをあて、さまざまな論調の記事を掲載したことにはじまる。とくに、朝日新聞「天声人語」(12月1日)の記述内容は、さきにもふれたように「人権侵害」、「名誉毀損」という視点だったが、記述自体は感情にうったえる表現だった。

 「読んでみるとなるほどひどいものだ。皇太子殿下や美智子妃殿下とハッキリ名前をあげて、マサカリ(ママ)が振り下ろされたとか、首がスッテンコロコロと金属製の音をたててころがったとか、天皇陛下や皇后陛下の〝首なし胴体〟などと書いている」とあり、「中央公論編集部の話によると、これは天皇制否定や革命待望の小説ではなく、残酷を描いて残酷を否定する革命恐怖の小説だという。が、そんなことが問題なのではない」と一蹴して、「楢山節考先生脱線の巻だった」(下線は筆者)と、結論している。

 一年前の「皇太子・正田美智子結婚パレード」で沸きたった新生皇室を巧妙に利用し、皇太子殿下美智子妃殿下を全面におし立てたアジテーション記事のようにおもえる。しかもこの記事は、「東京毎夕新聞」や「帝都日日新聞」のような、日頃から右翼的傾向やゴシップ専門の、発行部数もせいぜい千単位か、万単位の特殊新聞ではなく、五百万部にちかい全国紙、良識の『朝日新聞』の「天声人語」に掲載されたのである(注.『東京毎夕新聞』は国会図書館に保管されていない.)

 一パロディー小説をこのようにあつかうのは、朝日新聞編集部や「天声人語」執筆者が、いかなる意図によったかはわからない。確信的目的や方針によるものではなかったろう。

 しかし、こうした全面否定の評価が「朝日新聞」に掲載され、数百万人の読者に受けいれられたとみえたことは、なによりも大日本愛国党のような右翼団体の指導者を、よろこばせたにちがいない。かれらは、たった一ヶ月半前の10月に浅沼社会党委員長刺殺事件をおこし、いささか世論動向を懸念し、世評を見守っていただろうから、左翼排斥と自己宣伝の絶好のチャンスとみなしたのではあるまいか。

 12月1日のこの「天声人語」あたりをさかいに、彼らの批判活動は積極的になり、変質する。12月以前では、11月28日に大日本愛国党メンバー数名が中央公論社を訪問し抗議している。しかし、このときは、社長、編集長に面会を強要するのでもなく、在社した編集者に、「皇室侮辱」の謝罪要求をしただけである。だが、12月以降の抗議では、行為は過激化し、軽度の殴打や突き飛ばしの暴力行為もあり、警護警官が社内待機することもあったという。

 そして、要求も、たんなる謝罪ではなく、朝日、毎日、読売三大新聞への謝罪広告掲載となり、さらに、『中央公論』誌の廃刊と深沢七郎の国外追放までに要求は拡大し、具体化した。自信をもったもの巧妙なかけひきがみえる要求である。可能と不可能、軽重をつけて要求をならべ、とれるものをとろうという方策であろう。

 しかし、かれらの要求に、注目すべき点がある。かれらの抗議ターゲットが、小説『風流夢譚』から微妙にずれていくことである。ここには、たしかに「深沢の国外追放」要求がある。しかし、これは荒唐無稽な要求である。一介の出版社ができることではない。出版社に可能な要求、執筆停止や『楢山節考』の廃刊とかありそうだが、まったくふれられていない。

 それに、中央公論社にたいしては、深沢非難をしているが、深沢当人にたいしてはまとまった抗議活動は一度もされていない。かれ個人としては、警戒して行方不明とかの風聞もあったが、とうじ下宿住まいどうぜんの住居を、抗議集団が訪問したとか、街宣車が周囲を徘徊したという記録はみあたらなかった。

 かれ自身の身辺は、翌年2月1日の殺傷事件以降からは、不測の事態にそなえ、警官の護衛や予防措置はとられた。そして、かれも東京をはなれ、関西、信州、北海道の「放浪の旅」にでている。だが、その間も、かれを求めてなんらかの組織行動がむけられた記録もない。これは、むろん、個人的暴力行為の可能性を否定するのではない。当時も今も、どこででも、個人プレーはありうるものだ。ただ、右翼集団の組織的行動計画がなかったことをいうのだ。

 このことは、事件後の深沢の文学活動からもいうことができる。作家年表(相馬庸郎著『深沢七郎』掲載の「年表」)によれば、1961年はさすがに一遍の作品発表もない。しかし、翌1962年4月からは文芸雑誌『群像』に「流浪の記」を掲載しているし、のちに単行本にまとめられて、代表作のひとつとなる「庶民列伝」収録の短編を雑誌『新潮』に、精力的にとどこおりなく、掲載している。執筆活動は、『毎日新聞』、『読売新聞』、『サンデー毎日』におよび、「風雲旅日記」「流転の旅」「年の終わりに」など、事件がらみを回避しないエッセーを発表しつづけている。深沢の作家活動は、事件以前よりむしろ活発化している。依頼があったのか、事件にかかわる身辺雑記も多い。にもかかわらず、居処の探索や執筆妨害にせよ、なんらかの抗議が、これら出版社や新聞社にたいしておこなわれた形跡はない。筆者としては、とうじの出版社や新聞社が中央公論事件などを無視したように、深沢の作品やエッセーを公然と掲載しているのは、現代のジャーナリズムの忖度や怯懦ぶりに比して、おどろかざるをえない。

 しかし、そのことは、とうじのジャーナリズムが良質で、現代のジャーナリズムが劣化しているというのではない。それは、’60年代日本の実態のひとつを示しているとすべきだろう。こうした事件後のさまざまな様態については、本論第三章でのべるつもりだから、今回はこれまでにする。

 しかし、いずれにせよ、1960年12月以降、右翼集団の抗議活動は、『風流夢譚』からずれて、『中央公論』誌と中央公論社へ集中していくことになる。

 一月も中旬以降になると、準備、方針が定まったのか、右翼活動がいっそう大規模、計画的になった。1月28日には、日本最大の右翼団体連合体の全日本愛国者団体会議の佐郷屋嘉昭らの一団が中央公論社をおとずれ、社長嶋中鵬二と面談している。佐郷屋は、昭和初期の行動右翼で浜口雄幸首相の銃撃者だったし、訪問したかれらはいずれも、戦前からの高名な右翼活動家たちだった。かれらの態度は暴力的ではなかったが、それなりに迫力あるものだったという

(注.[京谷]に、嶋中の対応をふくめて、実見談が仔細に記されている.)


 右翼団体の社会的活動のピークは、さきにものべた1961年1月30日に開催された、野依秀市の「帝都日日新聞」主催の「赤色革命から国民を守る国民大会」だったろう。

 いうまでもなく、これらは出来事である。

 大会は、日比谷公会堂で大々的におこなわれた。

 日比谷公会堂は、1929年(昭和5年)に日比谷公園内に建設された、3000人収容可能の大公会堂で、音楽会や、政治演説会、国民大会に使用された大会場である。右翼少年による社会党委員長の刺殺事件も、第29回衆議院議員総選挙をまえにした合同立ち合い演説会の壇上で、自由民主党や民社党、共産党党首らの眼のまえでおこった事件である。

 「赤色革命から国民を守る国民大会」は、一ヶ月半前のこの事件と関連づけるように、同一場所で開催された政治集会だった。

 1960年のとうじとしては大規模な右翼集会である。しかし、三大新聞をはじめ一般新聞で、これを報じた新聞はない。’60年代の日本社会における、「右翼」の扱われ方をしめすものだろう。

 大会の開会の辞は浅沼美智雄がのべたという。浅沼は、戦後右翼であり、大日本愛国団体連合・時局対策協議会の最高顧問になる人物だが、そのころは防共新聞の主幹であり遊撃隊長だった。かれがのべた大会目的は、「逆賊不逞の〝中央公論社〟および深沢七郎の国民裁判」であって、検察官は講演者で、出席者は裁判長ということだった

(注.『帝都日日新聞』掲載による. [京谷]から再引用.)


 判決である大会決議はすでにのべたが、「赤色革命の温床に一役買っている月刊誌『中央公論』」の廃刊と中央公論社の解散であり、内閣総理大臣への、「中央公論社長 嶋中鵬二、編集長 竹森清、および『風流夢譚』の作者 深沢七郎の三名を相手取る、名誉毀損の告訴」要請だった。

 そして、中央公論社へは、赤尾敏や浅沼が主導する三十名ちかい集団がむかい、決議文を手交し要求をおこなった。集団のなかには、嶋中邸侵入の小森一孝もまじっていたと京谷は記している。

 そして、この大会の二日後の2月1日の夜、嶋中自宅の殺傷事件がおこっている。

 大会決議と右翼少年の行為は直接の関係はない。赤尾敏が直接示唆した行為ではなかったろう。大会決議やその後の動向と、この少年のやった行為はあまりにもかけ離れている。むしろ、逆賊不逞の「中央公論社」の社長夫人と嶋中家の家政婦とはいえ、中央公論社業務に無関係の婦人たちにむかって一方的に襲いかかったのは、一昨日の大会の趣意「〝中央公論社〟および深沢七郎の国民裁判」と齟齬するばかりか、大会決議の具体的要求を、所詮は暴力団のいやがらせていどかと疑わせ、無効にする行為である。

 この少年の行為は、つぎのようにも解釈できる。

 大日本愛国党の赤尾敏のもとに集まり、共同生活をおくる少年たちのなかに、ひとりの鬱屈した少年がいる。口下手なかれは、日頃から仲間や先輩に軽んじられ、悔しいおもいをしている。同年の仲間、山口二矢は、浅沼稲次郎社会党委員長を大衆の面前で刺殺し、いまや神格されて、仲間たちの崇拝の対象となっている。ボクダッテヤッテヤロウ、ソウシテ、ボクヲバカニスルカレラヲ見返シテヤロウということだ。

 そこには、模倣犯とさえいえない衝動性がある。山口二矢は凶行にあたって、紋切り型とはいえ、理由をしるした「斬奸状」を、ポケットに持参していた。自死にあたっても辞世の歌二首を壁に書きのこしている。17歳の少年なりの確信行為である。しかし、小森ではそうでなかった。

 当初は、夜間、在宅する嶋中を、ナイフで刺す計画だったかもしれない。しかしすでにそこにも、刺すこと、殺すことだけが念頭にあり、その意義は意識から欠落しているようにおもえる。嶋中は、浅沼のような影響力ある政治家でもなく、深沢七郎のような作家でもない、一介の出版社社長にすぎないのだ。

 そして、カギのかかっていなかった嶋中の家にはいりこんだ後は、自分に刺せるか刺せないか、刺すという妄執だけが行為させたとおもわれる。現代の用語でいう、心神耗弱とか心神喪失といわれる精神状態である。なぜなら、犠牲者だった嶋中夫人の証言は種々あるが、いずれも、暗い部屋でかれと出くわしたさい、嶋中に会わせろとも、嶋中はどこにいるとも問わず、かれは「おまえは誰れだ」としか言わず、「家内です」の返事だけで、襲いかかったとある。

 嶋中夫人のこの証言も、回復後の、すでにこの凶行が、『風流夢譚』掲載によっておこった行為ととらえている発言だから、はたして、その返事もふくめて正確なものかどうかはわからない。

 しかし、小森少年には、行為におよぶにあたり、「夢譚」やその雑誌掲載、あるいは、中央公論社の左翼「温床」傾向、それとも、山口二矢のように天皇崇拝について、なんの表明もなかったのはたしかだろう。

 ただ、屋内で出会った者に闇雲に襲いかかったのである。穿ち過ぎの推論をさらにかさねれば、もしそこで出会ったのが、そのご全国放浪をした深沢七郎が、つねに帯同していたクマさんのような、屈強な男性だったら、はたしてかれはおなじ行為におよんだろうか。そこに居たのは、ふつうの中年女性ふたりだけだった。

 それに、かれが携えていたのは、ナイフとか包丁といわれるが、山口のような、殺傷効果をふくめた周到な準備があったようにはみえない。

 これからいえるのは、この事件は、右翼集団に所属した一少年がおこなったとはいえ、一少年の個人プレー、あるいは、心神耗弱者の行為にも還元できる事件であろう。

 ところが、まずこれを「右翼集団」の意思表示とうけとり、さらに飛躍して、中央公論社の危機としたのは、中央公論社長、嶋中鵬二だった。京谷はさきに引用した訓示記述のあとに、「大要は以上のとおりだが、『もし飲み屋で飲んでいて、諸君が中央公論社員だということがわかれば、その場で刺されるかもしれない』といったことも語られていたように私は記憶している」(同書、pp.175)と記している。その発言があったのは、おそらく事実だろう。それが、中村の記す、訓示後の臨時組合大会の、「たたかうのはいいかもしれぬ。しかしそのことによって君たちが傷つくのならともかく、刺されるのが君でなかったらどうする」の意見表明に連動しているのだろう。

 嶋中邸で少年がおこした殺傷事件を、社会的心神問題や少年問題に集約するのではなく、政治的右翼事件にしたのは、嶋中だけでなく、ある意味では、とうじの日本社会がそうしたのだった。国会はこの事件をとりあげ、警視総監は引責辞職をした。そのことは、本稿で引用した、当事者の中村智子や京谷秀夫の回想記もまた、この事件を、右翼の一貫した事件のひとつとして記述をすすめている。かれらの視点は、これを右翼事件とし、それへの嶋中対応の批判であり、じぶんたちの反省だった。

 だが、右翼事件とするには、かならずしもそこにとどまらなかったことも指摘しておかねばならない。

 それは、国会における扱いにあらわれている。これは、五日後の2月6日に開催された衆議院地方行政委員会法務員会連合審査会の質疑の記録である

(注. [京谷]掲載の再引用.京谷によれば、7日の『朝日新聞』(朝刊)によるとある.)


 微妙なニュアンスを問題にするから関係箇所全文を引用する。


門司氏(民社党)  首相は言論、表現の自由には節度があるといわれたが、その節度とはどの程度のことか。

首相(池田勇人)  それは良識が必要というか、または放縦や行きすぎはいかんということだ。

門司氏   その言葉は世間を迷わせる。節度を守らなかったからこの事件が起きたという印象を与え、右翼の行動をある程度認め、言論の自由を抑制するおそれがあるからはっきりさせてもらいたい。

首相   あの問題(風流夢譚を指す)について批評したのではない。自由は絶対必要だが、社会不安を考えてお互いに行きすぎないようにしようということだ。

門司氏    何か立法措置を考えているか。

首相  法の改正については具体的にどうするかはまだいえない。とにかく私はこのような事件を絶滅するために何かやりたいと考えている。


坪野氏(社会党)  言論の自由に限界があるのは事実だが、右翼の不穏な言動もこれに触れるのではないか。嶋中事件の後「ああいう事件が起こるのもやむをえない」と語っているが、これも犯罪ではないか。

首相    国民と人権と治安とのかねあいの問題だからとくと検討したい。


林氏(自民党)   天皇などの名誉毀損の場合は首相が代わって告訴することになっているが、被害者に告訴する考えがないときは告訴しないか。

首相     首相の独自の考えで告訴するかどうかを決める。

林氏    風流夢譚は重大な名誉毀損だ。ところが 「これについて首相は告訴しない、世論は問題にしない、という事情から、それならおれが・・・・・」 という誤った考えをうんだのではないか。

首相   告訴については慎重に検討している。


 云われているのは、文言的には「言論の自由」についての議論であり、これを引用した京谷は、委員長を刺殺された社会党議員は、首相発言に批判的であり、政権党の自民党議員は、「風流夢譚」の名誉毀損告訴をいう、「言論の自由」拘束の立場にあるとこれを整理している。たしかに、ここでの質疑応答は、『風流夢譚』告訴にかかわる「言論の自由」が焦点になっている。自民党議員の林がいう 「被害者に告訴する考えのないとき」の発言は、すでに前年末、宮内庁長官が、中央公論の謝罪をうけいれ、告訴申請をしないとしていることである。これを、首相独自の方針で告訴せよと示唆しているのだ。

 だが、この引用をする京谷の引用文選択に、そのこと自体とともに、問題があるようにおもえる。

 社会党議員坪野のいう、「嶋中事件の後『ああいう事件が起こるのもやむをえない』と語っているが、これも犯罪ではないか」の語っている当人は、犯行少年の出身団体、大日本愛国党の党首、赤尾敏である。かれは嶋中事件の直後、各紙の新聞記者のインタビューにつぎのような答えかたをしている。


問い  山口に続いてまた愛国党から犯人が出たが、責任を感じるか。

答え  責任は感じない。すべて中央公論が悪いのだ。私たちが正しいことをいっても政府も言論機関も全くとりあげてくれないから、ほかに方法がないのだ

問い  このような意見に若い少年が刺激されてさらに次のテロ事件を起こすのではないか。

答え  起こるのも当然だし、結構なことだ。私は絶対に間違っていない。

(『朝日新聞』夕刊[2月2日]. [京谷]より再引用(pp.145))


 あるいは他のインタービューでも、おなじようなロジックである。


─ 山口少年につづいてまた党から実力行動に訴える者が出て世間は愛国党のやり方を批判しているがどうか?

 言論には言論をもって対抗するのがいいといっても、言論の場は与えられていないではないか。(急に威たけ高になる)中央公論があんなものを出したその底流には共産主義があるんだ。マスコミはそれに目をつぶっている。金がない我々は合法的にやれなければ力でやるより仕方がない。今の言論の自由は一方的だ。殺されたお手伝いさんも可哀そうだが、一生をなげうった少年を君たちはふびんに思わないのか。(どなる)

─ 山口や小森はどうしてこういう行動をとったと思うか。

 それは一種の正当防衛だ。共産党の暴力革命が起これば我々は首を切られるし、あの小説のようになる。自分たちも自衛のため日本の国をつぶさないというために敵を倒さなければならない。正当防衛のため仕方がないじゃないか

(『毎日新聞』2月2日夕刊)(下線はいずれも筆者)


 坪野のいうのは、このような発言をいい、「言論の自由」を問題にするのなら左翼的言辞だけでなく、右翼側にも問題があるというのだろうが、あまり説得性はない。

 そのうえ坪野の発言には、その意味内容ではなく、発言の表現形式に問題があるようにおもえる。かれは、「嶋中事件の後『ああいう事件が起こるのもやむをえない』と語っているが、これも犯罪ではないか」とのべている。なるほど、「これも犯罪ではないか」といっているのだから、なんのさしつかえもない表現である。だが、犯罪にいたる文脈の 「ああいう事件・・・・・やむをえない」の記述は、聞く者、読む者のなかでは、「風流夢譚」のような作品なら、「ああいう事件~やむをえない」になりかねない表現である。

 こういった表現形式、しかも話し形式とはいえ、国会でこうした発言をすること自体が、その意味と効果において重大である。国会発言は話し形式であっても、文章化され、議事録にとどめられ、場合によっては、大文字見出しつきで新聞に報道されることもある。そして、それなりに権威あるロジックとなる。

 くりかえしていえば、「嶋中事件の後(右翼団体の党首が)『ああいう事件が起こるのもやむをえない』と語った」というのは、発言の正確を強調するための引用とはいえ、嶋中邸侵入少年の殺傷行為を右翼団体の意思表示と承認する前提があり、しかも、やむをえないとする主張があることを認めていることになる。そればかりでなく、この国会討論掲載記事を読む新聞読者は、さきの赤尾インタビューも読んでいる読者であり、やむをえない理由については、たとえば、「私たちが正しいことをいっても政府も言論機関も全くとりあげてくれないから、ほかに方法がないのだ」を思い出し、この断片ロジックとむすびつくかもしれない。

 いや、すでに、このロジックはそれいじょうに社会的になっていたようにもおもわれる。さきに引用した民社党議員の「節度を守らなかったからこの事件が起きたという印象」も、印象を与えるとか与えないの問題ではなく、この議員当人でさえ、「風流夢譚」を一読し、頭のどこかでそう思っていたのではなかろうか。節度から逸脱することこそ、アヴァンギャルド芸術の証(あかし)であり、これぞ「夢譚」のリアルなアヴァンギャルド芸術性というものだったろう。そうした「作品」理解が、これら議員発言だけでなく、嶋中にも、あるいは、中村、京谷にさえあり、それが、「夢譚」事件をいまだ解明させていない真の理由なのだろうが、これは本論第三章の課題である。

 本章のここで問題にするのは、これら国会議論は、「嶋中邸殺傷事件」を、左翼に対立する右翼の、意志表示であることを規定事項として確定させたことである。それは、「中央公論」を左翼代表として攻撃対象とする、右翼集団の目論見が成功したことになる。

 だが、これはそこからさらに、とうじの政権党、自民党議員は、さらに発展できる事件にしているようにみえる。この中央公論事件は、一ヶ月後になってもなお国会議論の対象となっている。今回は、「右翼」行為と不可分の社会党委員長刺殺事件、嶋中邸殺傷事件ともはなれ、議論は中央公論社から展開している。第38回国会衆議院法務委員会議事録(1961年3月3日)を参照してみよう

(注. [京谷]前掲書 pp.121,122)


羽田委員(武嗣郎・自民党)  (前略)中央公論の内部の事情に通じる者の情報によりますと、中央公論の編集部には共産党の細胞がありまして、昭和22、3年(1947~48年)ごろには最もその数が多かったが、その後弱くなって昭和30年(1955年)の六全協後に共産党本部文化部長蔵原惟人君指導のもとに細胞を再建して、編集の予備会議を旅館やアジトで開き、細胞会議には日共党員が出席指導しておる。中央公論の細胞は社の実権を握っているのが特色で、細胞の目的は編集を通じて日共の政策を国民に浸透するにありというようなことが伝えられておりますが、これについて関公安調査庁次長の得ております情報を承りたいと思います。

関(之)政府委員    お答えいたします。情報上におきましては、中央公論社の編集部系統に数名の共産党員がいて、細胞がある、こういうことになっておるわけであります。さてそれを私どもの立場で確認できるかどうかという問題でありまするが、ただいまのところはその存在があるかないかということについて調査中でありまして、遺憾ながらまだ終局的にどうこうと申し上げる段階には至っていないので、ご了承いただきたいと思います。

羽田委員   今回の「風流夢譚」も深沢君が一人で作ったものでなくて、どうも共産党あるいは編集部員と一緒に共同謀議をしたというようなうわさがあるのでございます。ことに中公の細胞は、印刷工場に回す前に、原稿を日共文化部に持っていって検分してもらったということでございますが、これについて関次長のお知りになった情報を承りたいと思います。

関(之)政府委員    情報上はそういうことがあるとも私はきいておりますけれども、今のお話の点についていずれも私の方として確認するとかいうところまでには至っておらないのであります。


 質問の根拠となる情報うわさの発祥源はここで問題にしない(注.[京谷]では、右翼系ゴシップ誌『旬刊全貌』の掲載記事とされている.) 問題にするのは、中央公論事件の観点が、小説『風流夢譚』の表現でもなく、『中央公論』誌掲載でもなく、「中央公論」社自体の出版方針でもなく、共産党の謀略論へ移行していることである。

 共産党党略と細胞の有無については、GHQ勧告によるレッドパージ(1950年)からもわかるように、戦後直後の社会風潮では、針生一郎が大学卒業後入党し(1953年)、のち離党したように、青年層の共産党入党者はすくなくなく、中央公論社にもいく人かの入党者がいたのは事実だろう。

(注.1950年、朝鮮戦争勃発にさいし、GHQ勧告により、日本政府は、新聞、通信社、放送協会、および、公務員における共産党員とその同調者の追放を指令した.そのことは、当時は共産党に親近感をもつ者が相当数いたことを示すものである.)


 そしてかれらは、すでに本論でもいく度ものべたように、共産党の六全協以後、離反したものがおおかったのも、羽田の指摘どおりだろう。また蔵原惟人は、戦前の芸術アヴァンギャルディストでもあったから、文学・芸術を包括する総合出版社、中央公論出版編集部となんらかの関係をもつこともあったかとおもう。

 しかし、かれらが中央公論社内に「細胞」を形成し、中央公論社の編集に介入などというのは、なんの実態もない風聞だろう。ましてや、『風流夢譚』がそうした謀略作品などというのは暴言以外のなにものでもないのは、今となっては誰しもわかるところである。

 「今となって」というのは、’60年代当時の日本では、こうした見方がいたるところにあったのを、筆者は体験から知っているからである。これもまた、「六全協」断層の負の遺産とおもわれる。筆者は、某地方民間放送の取締役重役から、その放送局に潜伏する共産党秘密党員の管理職の存在を告げられたことがある。それは、その中都市財界の既定情報だったようである。だが、このばあいも、その後の経緯を承知しているが、事実無根の情報だった。

 しかし、別種の体験もあるから一言だけつけくわえておく。筆者は、第4次中東戦争(1973年)の開戦当時、たまたまパリに滞在していた。

 開戦とエジプト軍優勢を報じるル・モンドやフィガロ紙がパリ街角のキオスクに山積みされていた朝、カルチエ・ラタンの書籍店の店頭には、ジョゼフ・ジョッホ(Joseph Joffo) なる耳慣れぬ作家の小説本「ビー玉の袋(Un sac de billes)」がこれまた山積みされていた。この山積みは北駅(ギャール・ド・ノール)や東駅の売店もおなじだったようにおもう。この本の内容は、第二次大戦中のナチス・ドイツ軍侵攻のパリから、ヴィシー政権支配下の南仏へ脱出するふたりのユダヤ人兄弟のけなげでかわいそうな物語だった。ハラハラ、ドキドキさせる、みごとな筋書きだったかとおもう。この本はその週のベストセラーとなり数週間以上つづいたと記憶する。筆者は一週間後にはブリュッセルにいったが、この都市の本屋でもおなじような光景がくりひろげられていた。

 この第二次大戦中のユダヤ人迫害と受難を喚起させる物語は、イスラエル占領地奪回を目的とする第4次中東戦争への一般世論形成になんらかの影響をあたえるものだったろう。少なくとも、そのような意図のもとで急遽、出版されたという印象を、筆者は、その時も今ももっている。

 もっとも、それをその後あらためてしらべたわけではない。しかし、そのときはじめて知ったジョゼフ・ジョッホは、その後、すくなくとも一冊の小説を発表しており、一読はしている。だが、これは、おなじストーリー・テラーの作品とはとてもおもえない、前作と似ても似つかぬ作品だった。前作こそ、「ジョッホが一人で作ったものでなくて、どうもだれかと一緒に共同謀議をしたというような」作品としてもふしぎではなかった。

 こうしたことが、20世紀後半の、イデオロギーに立脚した二極構造世界でおこっていたのは知られているし、20世紀文化論のひとつの視点だろう。

 だが、この羽田発言にかぎっていうなら、作為ある事実無根の「陰謀論」だろう。「六全協」以後の共産党は、思想的弁明さえ満足にできない混乱状態にあり、文化政策をもち、それによる宣伝や策略を遂行できる政党ではなかった。

 そうした事情が、公安調査庁次長の回答にくりかえされる「確認できる段階に至っていない」に、おそらくあらわれているのだろう。国会質問では、当時も今も、発言者の問いをあからさまに否定することはしない。聞きようによっては、肯定にきこえるような否定の答弁をするのだ。

 だから、国会質問は可能性ある事実である。国会発言はひとつの事実となる。この羽田武嗣郎の発言は、中央公論社の刊行物には、共産党の策謀がはたらいている可能性を認めさせるものだった。おそらく、こうした動向が、のちの『思想の科学』誌「天皇制特集」号の閲覧を公安調査庁担当者に依頼(?)した、「中央公論社」経営陣の動機にあったのだろう。

 とはいえ、国会における「風流夢譚」、あるいは、「中央公論」事件といわれるものの扱いをみると。一篇の小説が、半年余りのあいだに、いかに異なる扱いをうけてきたかがわかる。

 当初は、センセーショナルな右翼系業界新聞、『東京毎夕新聞』や『帝都日日新聞』からはじまった。小説『風流夢譚』の一部表現をピンポイント強調した紹介だった。かれらが着眼したのは片言隻句だったが、知らずして、この小説の思想的ポイントを指摘していた。’60年代日本の天皇の位置の視点である。

 かれらは、それを戦前天皇と戦後天皇のギャップからみて、「天皇侮辱」と書きたてた。だが、こうしたことは、戦後誕生の週刊誌や現代のツィッターなどのコンピュータ情報の役割であって、とりたてていうべき出来事ではない。

 もっとも、これら新聞掲載論調を、中央公論事件の発端と重大視するみかたがあるが、それは、そう見る者の立ち位置、すなわち、戦前天皇の側からこれを見ているからだろう。

 だが、こうした出来事を、やはり戦前天皇の側からみたものであったが、もうすこし正確な角度から戦後天皇をみるものがあらわれた。さきに紹介した朝日新聞「天声人語」のような扱いである。

 戦後天皇は「人間宣言」をした天皇である。それを戦前天皇の視点からみるとどうなるか。普通人とはちがう「人間」、象徴天皇の位置付けから見るいがいしかたがない。この小説のひとつのエピソードに登場する’60年代天皇の描き方は、「人道に反し、ヒューマニティに反する」ものとするのだ。だから、「名誉毀損、人権侵害」で「法律上の検討」をすべきであるというような扱いだった。この「天声人語」のいう「名誉毀損、人権侵害の法律上の検討」は、作家にたいするものか、刊行者にたいするのかよくわからないが、図書出版にもおよんだ戦前の不敬罪のようなものが念頭にあったのではなかろうか。戦前の不敬罪を、戦後では、象徴人間の「名誉毀損」罪にするものだ。

 そして、また、「天声人語」の深沢七郎へのやや感情が露出しすぎた、たとえば、その結論である「楢山節考先生脱線の巻だった」などの揶揄的反感は、深沢の視点が、おなじ戦後象徴天皇にむけられながら、かれがギャップある戦後天皇を見る立場から象徴天皇をみていることへの焦燥のあらわれだったのではなかろうか。つまり、戦前天皇の側から見て、現代の象徴天皇を位置づけようとしてしても、深沢のようにうまく云えない苛立ちである。普通人とはちがう人間、特別人間の人間天皇を、ヒューマニティや人道に反する名誉毀損、人権侵害の範疇のなかでしか処理できないオソマツさである。

 だが、これは、小説「風流夢譚」の問題であり、この小説を象徴天皇から読む読み方、ある種の書評であることにはかわりない。

 そればかりでなく、「東京毎夕新聞」「帝都日日新聞」「朝日新聞」自体のこの段階の行為は、狐拳三角関係構造からいえば、芸術作品を大衆に媒介する「メディア」行為とみれば、作品「風流夢譚」を大衆に媒介する行為、「書評」の範疇とすることができよう

(注.芸術家━媒体(メディア)━大衆の三角関係構造については、本論「第2章 4)その2) ③-2.「ハイレッド・センター」 [『百万遍』7号掲載]を参照.)


 そして、こうした新聞メディアは、戦後右翼への媒介の役割をはたした。

 実体化しはじめていたかれらは、小説『風流夢譚』を出版メディア「中央公論」社の問題とした。狐拳三角関係構造からいえば、大衆の一部である「右翼」がメディアへ権力行使をしたとも、メディア間の出来事ともいえる。「芸術」をメディアを介して受容する「大衆」(この場合は右翼)が、メディアにたいして異議申し立ての権力行使をしたのである。メディア間の軋轢の出来事としては、造形芸術メディアでも、’60年代には、アヴァンギャルド芸術を扱うメディアと伝統芸術メディアでは、かずかずの軋轢が生じたようなものである。  

 本論であつかった出来事でいえば、アヴァンギャルド芸術画廊と伝統芸術「美術商」の軋轢や、東京都美術館が制定したあの「陳列作品規格基準要綱」規定で露出したようなものである(注.『百万遍』7号参照)

 だがそれは、狐拳構造からみた見方であって、ここには別の問題がある。

 ここで注目するのは、「右翼」が小説『風流夢譚』を出版社の問題、左翼思想出版社の問題に集中させ、さらにすすめて「共産主義革命」を抽出して「共産主義」へ主題を移行させたことである。

 小説『風流夢譚』から「共産主義革命」をへて「共産主義」へ移行した。『風流夢譚』は許しがたい作品としながら、おそらく、彼らのうちだれひとりとして『風流夢譚』を最初から最後まできちんと読んだ者はいなかったろう。かれらは、内容については、「天声人語」の評価だけでじゅうぶんとしたのだろう。

 そのことは、国会で扱われたのが、「風流夢譚」という文学作品などはどうでもよいこと、存在さえ否定する場合もあったこともにあらわれている。国会議論は、「天声人語」の片言隻句レベルからはじまっている。名誉毀損、人権侵害表現と「表現の自由」の関係を問題にしたのだが、その「表現の自由」論議も、おざなりだった。

 政権批判の社会党議員(坪野)でさえ、「言論の自由に限界があるのは事実だが・・・」と曖昧化する始末だ。かれの関心は「表現の自由」にはなく、右翼弾劾にある。政治的理由によって、右翼少年に委員長を殺害された政党の立場からの政治的発言である。右翼容認といわれる政権党に対立する政党からの、政治的発言となっている。小説「夢譚」については、既読か未読かわからないが、「天声人語」書評とさほどかわりない見方だったのではなかろうか。

 こうした発言は、政権党自民党議員にいたっては、深沢七郎そのものの作家存在を否定するものになる。問題にするのは、中央公論におよぶ共産党の謀略であり、言論界への共産党の策謀である。これもまた、大衆宣伝効果をねらった政党間レベルの議論である。

 雑誌『中央公論』に掲載された一篇の小説『風流夢譚』は、このように俯瞰すると、その問題点は、小説表現にせよ、「天皇」にせよ、表現の自由にせよ、共産党の陰謀にせよ、きちんと扱えばそれぞれが重要な意味を内蔵しているのだが、当事者たちが都合よく利用するためだけの、三様の示し方だった。

 そして、これらの推移のなかで、とりわけスポット・ライトをあびたのは、嶋中邸での殺傷事件なのだろう。この殺傷事件がなかったら、小説『風流夢譚』が何はともあれ国会でとりあげられることなどは、ありえなかったろう。そればかりか、小説『風流夢譚』が、現在のいかなる深沢七郎作品集にも収録されない事態はおこりえなかたったろう。

 だが、この殺傷事件は、すでにみたように問題点変遷のなかでは、たんなる偶発的出来事にすぎない。「風流夢譚事件」あるいは「中央公論事件」といわれるもののなかでは、虚像にすぎない。

 「実像」は、「中央公論」社であり、限定すれば、その経営者、嶋中鵬二やその周辺にいた者たちなのである。「中央公論」事件とすべき所以である。

 まず指摘しておくべきは、これら推移のなかで、三様に提示された問題点に、中央公論は真摯に対応していない。「風流夢譚」の文学性を「出版メディア」として、公式にも非公式にも、あきらかにすることはしなかった。パロディー小説の文学性を直接的に、あるいは間接的にさえ、評論家、思想家、芸術家らに語らせようとはしていない。これは、「天声人語」の書評レベルですべき対応であったろう。

 また、中央公論がみずから標榜するような、民主的で自由な言論の出版メディアなら、このような機会にこそ、右翼の視点でなく、共産党の視点でもない、思想的共産主義について、編集企画をくわだてるべきだった。スターリン死去後のあたらしい戦後共産主義がソ連邦でさえ模索されていた’60年代初頭のこの時期は、大局的にも絶好のチャンスであり、また、それにふさわしい執筆グループを傘下に擁していたはずである。

 そればかりではない、なによりもこころみるべきだったのは、宮内庁に謝罪などせず、「天声人語」も右翼集団も要求していた「告訴」を、中央公論社として望むべきだった。1961年の日本司法組織の「名誉毀損」や「人権侵害」、あるいは戦後の「不敬罪」の判断を、あおぐべきだった。被告として、無罪を主張し、理由をあきらかにすべきだった。おそらく、そのような事態、「人間天皇の名誉毀損・人権侵害」が訴訟理由となるのなら、かならずやそこでは、「象徴天皇」の意味をそれなりに明確にせざるをえなかったろう。

 戦前天皇と断層ある、戦後象徴天皇の意味、人間天皇の意味を法的に定めておく絶好の機会だった。最小限、活断層のありかを’60年代初頭の社会に指摘しておくべきだった。2021年の今においてさえ、戦前天皇の視点から戦後象徴天皇を見ようとする、奇妙な(地震)予兆を目の当たりにするにつけ、これは絶好の機会だったとおもわれる。想像をたくましくしていえば、宮内庁が「告訴」申請をしなかったのは、戦前天皇と断絶した象徴天皇をそのように限定することを慮ったためであり、内閣総理大臣が回避したのは、火中の栗を拾うのを避けたのであろう。火中の栗とは、パロディー小説のなかの人権侵害、名誉侵害罪不成立の可能性だけでなく、隠蔽した戦前天皇の責任問題の再露出、および、右翼勢力の暴走などを懸念したかとおもわれる。だが、たとえどのような事態がおころうとも、「デモ・ゲバ」風俗と「パレード」風俗が風靡する’60年代初頭の日本で、おこなっておくべき整理の機会だったとおもわれる。

 しかし、中央公論社はいっさいそのような対応をしようとはしなかった。そればかりか、時宜を失する一年後のことではあったが、すでにのべたように、おくればせながら思想の科学研究会が「天皇制特集」を出版しようとしたとき、その廃棄をおこなっている。思想の科学研究会の「言論の自由」侵害行為を、「思想の自由」を社の誇りとしてかかげる出版社が、あえておこなった契約違反の行為である。出版社理念の自己否定である。しかも、この理由を、「嶋中事件以後、いろいろ微妙な問題があり、わが社はむずかしい立場に置かれている。・・・・・・ 内容をどうこういうのではなく、時期的にまずいという一語につきる」としていたのである。

 嶋中事件以後、中央公論社が置かれているむずかしい立場というのはなんなのだろうか。あの嶋中邸殺傷事件の直後、顔面蒼白の嶋中がおこなった「社長訓示」でいわれた、「深く認識せよ」とか、「よく肝に命じろ」といわれた事態をそれとするのがやはり妥当だろう。この事態は、「この建物が吹っ飛び、殺人がおこなわれ、百三十人が路頭に迷うかもしれない」という事態であり、「このような問題(皇室の名誉毀損の問題)はテロなどより裁判で解決すべき問題だと言っているが、いまそんなのんきなことを言っていられない。その間に何人殺されるかわからない。万一、軽挙妄動する者があれば、そのためにこの建物がふっとんで、130人の社員とその家族が路頭に迷うことになるかもしれない」事態である。

 かれのいうむずかしい立場というのは、存続の危機ということらしい。出版社存立の基盤である出版理念存続の危機ではなく、企業体存続のことらしい。

 戦後15年、かりにも民主主義法治国家の、代表的出版社の社長たる者の社内訓示としては奇妙なものだ。しかし、この危機感は、嶋中だけではなく、それを聞いた中央公論社員たちにも共感をもたらしたと、その場にいた中村も京谷ものべているのだから、共通認識だったのだろう。

 だが、企業体存続のひっ迫した危機が、はたして彼がいうようにあったかについては、やはり、まず疑問とせざるをえない。

 嶋中邸事件といわれるものは、誰しもが予期せぬ出来事だった。警察の特別警戒対象に京橋の中央公論社はなっていたが、嶋中邸におよんではいなかった。そのうえ、夕刻すぎの時間帯とはいえ、嶋中邸の玄関口は施錠されておらず、かんたんに侵入できる無防備状態だったことからも、いかに予想外の事件だったかがわかる。それに、この殺傷事件以後は、警察警備は強化され、嶋中や深沢にも専任の警備官がつけられたという。中央公論ビルや嶋中邸警備にも重厚な配慮がされたのはいうまでもない。にもかかわらず、その嶋中邸殺傷事件の警備不備の責任をとって、一段落した後日、とうじの警視総監は引責辞職をしている。というのは、社長訓示のときは、中央公論はじゅうぶんな保護下にあったのである、

 そうした、現実のなかで、右翼集団襲撃により中央公論社の建物が爆破され、大量虐殺がおこなわれるとは、とうてい信じがたい。1961年の日本社会は、戦前の軍国主義国家体制社会でもなく、2010年代の中近東の国家社会でもなく、法治制度も保険制度もとりあえずは機能してる社会だった。とはいえ、SPつきでない社員が「飲み屋で飲んでいて、その場で刺されるかもしれない」については、嶋中邸殺傷事件のように、理論上はまったくありえないことではない。

 しかし、大日本愛国党の赤尾敏らとしても、夜の酒場にいる中央公論社員に、あえて殺傷行為におよぶようなことを奨励も示唆もしなかったろう。いま一度、かれらがそこまでやれば、かれらの存在自体が危うくなるのは、当時の社会では自明だったからである。国会デモ殴り込み(1960年6月15日、15人負傷)や、社会党委員長の公開演説会場での刺殺事件とはことなり、こんかいの夜盗物取りのような、嶋中邸の在宅女性ふたりの殺傷行為も、赤尾としては不本意な行為だったのではなかろうか。

 それに、右翼集団の暴力にしても、’60年代の戦後右翼は、たしかに殴り込みや殺傷行為をおこなう暴力装置だったとはいえ、戦前の、暴力装置だった特別高等警察、いわゆる特高の拷問のように、公然と殺傷行為におよんだわけでもなく、またできるはずもない非合法行為である。念のためつけくわえておけば、戦前の中央公論が受けたのは、特高警察の暴力であり弾圧であった。そして、先代嶋中雄作はよういに屈服しようとはしなかったのだ。

 現実的には、「この建物が吹っ飛び、殺人がおこなわれ、百三十人が路頭に迷う」ことなどありえないことだった。

 企業体の存続が現実的問題になっていない時に、あたかもおこっているようにそれを云い、課題にするのは、イデオロギー問題である。社の存続のイデオロギー、「オ家タイセツ」の思想である。「オ家タイセツ」とは、自己の所属する組織存続を至上価値におく思想である。

 嶋中の発言やそれを聞いた社員たちの共感も、「オ家タイセツ」の思想からみると、あながち奇妙でも妄想でもないことが、’60年代初頭の高度経済成長社会で、すでに顕在化していたとおもわれる。

 この観点から、さきの「この建物が吹っ飛び、殺人がおこなわれ、百三十人が路頭に迷う」は、「この建物が吹っ飛び、殺人がおこなわれる」ようなことがまたおこれば、経営破綻すると比喩的に読むことができる。右翼集団の業務妨害によって出版事業にとどこおりがおこれば、経営にとって直接的な最大難点である銀行融資をめぐって事業破綻をおこすのはありうることである。当時の中央公論は、売れることを見こして出版するという零細企業的出版事業特有の属性にくわえて、「週刊コウロン」発刊の創刊時期のたちおくれとその場当たり的企画内容の失敗によって、不安定な経営基盤のうえにあったとおもわれる

(注. 水口義朗『「週刊コウロン」波乱・短命顛末記』や「粕谷」などを参照した. また、おなじような出版経営と銀行の関係については、赤瀬川原平の「第2次千円札事件」にまつわる顛末で、美術手帖社がおちいったおなじような状況について、赤瀬川は詳細かつ具体的に記述している. 本論ではのちにあつかうつもりである.)


 老舗の若年インテリー経営者のおちいりがちな状況である。そのように読めば、顔面蒼白で異常ともされた嶋中の変貌ぶりが、なんらかの契機でそれに直面した経営者の言動と、解釈できないこともない。(注.その契機については、中村や京谷は、電通関係者の介入などの憶測を記している.) 嶋中の本質的様相の露呈である。

 だが、ここでいうのはその指摘だけではない。’60年代初頭の日本には、「デモ・ゲバ」風俗と「パレード」風俗の底流に戦前からながれていた水脈が、地表にあらわれてしばしば決定的な影響をあたえていたことを示唆しておくためである。のちの「大学紛争期」にもみられた現象である。

 とはいえ、訓示後の臨時組合大会でしめされた社員たちの反応は、これでは説明できない。もちろん彼らとて、倒産、失職は生活上の重大関心事である。しかし、その表層をおおっていた価値観はそれだけではなかろう。

 それを説明するために、ひとつの逆向きの例をあげておこう。

 もしこれが、中央公論社でなく、しがいない一出版社、たとえば、本論でもふれた、キワドイ写真雑誌『写真時代』を刊行する白夜書房の社長訓示だったなら、社員たちは動揺もせず、ちがった反応をみせただろう。発禁の警告、回収、倒産は折こみ済みである。ある意味では、それだけのものを企画し出版しているという、出版編集者の自負がある。

 中央公論出版社の社員たちには、ことに、先鋭な革新的企画に従事した編集者たちにさえ、そうした自覚や自負はまったくなかったとおもわれる。かれらは、自分たち中央公論が出版するものはだれしもが敬愛する書籍であることを、入社時から前提としていたようにおもえる。かれらは、保守に対抗する革新的出版社だから入社を希望し、社員になったのではない。有名出版社だから社員になったのである。’60年代初頭の日本社会でひかり輝く革新の伝統ある中央公論社だから、入社したのである。入社希望にあたり、どんな本や雑誌を刊行したいという明確なイメージをもつ者は少なかったのではあるまいか。そればかりか、入社以前に、中央公論社刊行の思想書など一冊も読んだことがなかったと公言する者さえいる(前掲、引用書参照)。にもかかわらず彼らは、中央公論の名刺をもって、とうじの日本社会で高名な評論家や作家たちと親しく接することができ、それを誇りにし、レゾン・デートルにしていた。

 そして、かれらは、社長訓示が示した可能性に直面したとき、愕然としたのだろう。江戸時代のお家断絶の危機に直面した封建藩士や、赤穂浪士の心境と大差ないものである。

 「オ家タイセツ」の大義である。この心情大義は、極東文化圏にある日本で、戦前からといわずそれ以前からさまざまに修正され独自に形成されてきた「思想」、生活思想である。その「思想」が、中央公論がかかげてきた近代理念と「思想」をおしのけて現れたのだろう。出版理念など背後に後退したのだろう。

 それは、今の日本の一般価値観に照合したら、それほど驚くことではないのかもしれない。その頃の、またその後の日本では、セクト主義、セクショナリズムは、企業でも政党でも、学生運動でも、左翼でも右翼でも一般的行動原理となり、21世紀の現代では、奇妙なことに肝心の家族関係軽視がある一方、それにかわる「オ家タイセツ」の思想が、中高校生、大学生のサークル活動においてさえ至上のキズナとなっている。その変化は、新生・家長制国家主義の危険な予兆かとおもわれてしかたがない。

 だが、’60年代初期では、これがいささかでも違和感ある言動だったのは、敗戦直後の実感から生まれた価値感が、まだなんらかの実効性をもっていたからではなかろうか。参考資料にあげた4人の著者のうち、中村と京谷はあきらかにそこから見ているようにおもえる。しかし彼らとて、「オ家タイセツ」の思想と完全に断絶していたというわけではない。

 ややはなしの筋道がそれた。1961年の中央公論にもどろう。

 「中央公論事件」といわれるものは、’60年代初頭の「忠臣蔵外伝」としてみればかなりの説明ができるのではなかろうか。それは、中央公論経営者や社員だけでなく、その周辺にいた鶴見俊輔や永井道雄などにもいえることである。鶴見によって結局は説得された竹内好や久野収、都留重人、丸山真男らの「思想の科学」研究会の面々も、この外伝の端役とみえぬこともない。かれらのそのときの行動は、現代思想家のそれというよりもやはり、「忠臣蔵外伝」ちゅうの登場人物の行為とすべきだろう。

 もし、かれらが、戦後のフレキシブルな真の革新思想家であるのなら、「バカな評論家」と中央公論社社長に言われようとも、「このような問題(皇室の名誉毀損の問題)は裁判で解決すべき問題」と、主張しつづけねばならなかった。とうじの彼らの立場なら、三大新聞であろうとも、また、『中央公論』とならぶ評論誌『世界』にでも、どこにでも、そのつもりさえあれば、直接的、間接的をとわず、これについて発言できたはずである。あるいは、あのように公然と「お詫び」を公開した中央公論社長、嶋中鵬二を、出版人としてあるまじき行為と論難すべきだった。さらには、「右翼による倒産」があろうと、「言論の自由」のために出版社として行動すべきと、革新的立場の思想評論家の義務と責任において、主張すべきであった。鶴見、永井をはじめ、竹内、久野、丸山でさえ、そのような義務と責任を行使した痕跡はどこにもない。「『風流夢譚』と皇室の名誉毀損」の問題と戦後右翼の問題についての彼らのふるまいは、中央公論社の社員たちとさほどかわらないものがある。

(注.鶴見と永井は、思想家としてより、嶋中の小学校以来の友人として行動した.)


 それに、たとえ「裁判」や右翼のイヤガラセがあろうとも、それが嶋中がいうように中央公論社倒産に直結するとはおもえない。それにいたるまでには、さまざまな分岐点が、’60年代の日本には、まだあったはずだ。さきにのべたような文学芸術の問題、共産主義の問題、象徴天皇の問題について、『風流夢譚』を刊行した出版媒体の立場から、出版企画をおこない遂行すれば、とうじの日本の社会状況なら、多大の読者が獲得でき、出版採算は成りたったはずである。場合によっては、そこから、’60年代後期「デモ・ゲバ」の非政治的思想家ではなく、ジャック・デリダやミッシェル・フーコーのような新しい日本型戦後思想家が、日本から誕生したかもしれない。’60年代日本には、現代芸術の分野では世界的に評価された芸術・文学アーティストが、まがりなりにも輩出したのだが、思想分野でも、そこから出てくる好機だったかとおもわれる。

 たとえば、吉本隆明や谷川雁のような実践的思想家が、中央公論編集部に鍛えられ、その販売網にのってより広い多種の読者と対面できていたなら、現在知られているような、秘教的な特殊な思想家におわることはなかったのではなかろうか。

 また、とうじの日本なら、嶋中のいうような右翼活動によって、経営がおびやかされるほど出版活動が阻害されたなら、かなりの数の知識人たちが批判行動をおこしたはずである。それとも、それは、とうじの知識人の試金石になったはずである。「安保反対闘争」や「ベトナム戦争」などより、かれらに直接関係する事態である。はるかに実体のある反対闘争になったはずである。あの失意の、1960年6月の安保反対運動がおこなわれたのは、前年だったのだから、その挫折感回復の契機となる事件となったかもしれない。


 だが、一介の小規模出版社である現代思潮社と、ぼうだいな発行部数の定期刊行雑誌や週刊誌を発行し、編集のゆきとどいた全集や単行本を刊行する大規模出版社、中央公論社を比較するのは見当違いといわれるかもしれない。群小企業と大企業の経営基盤の相違である。

 また、知識人活動の即効性など期待できないという見方があるかもしれない。

 しかし、たとえ効果がなく、それによって結果的に、嶋中がいうように倒産しても、「オ家タイセツ」の大義から離脱すれば、何の差し支えもないとおもわれる。出版社として、出版による役割をはたし、それによって倒産させられたのなら、その「倒産」に抵抗すればよいのである。その抵抗は、再度新しい出版社を設立するのである。

 これは、荒唐無稽の空論と言われるかもしれないが、そうではない。「嶋中鵬二の中央公論社」は、「右翼活動」に屈服し、それまでの出版理念をみずから蹂躙して、たしかにその時は、「嶋中の中央公論社」として存続した。しかし1990年代には、おなじ経営危機におちいり、嶋中は経営権を放棄した。読売新聞が経営する「中央公論新社」になったのである。「オ家タイセツ」の視点からしても、その1990年代におこったことが1961年にあったとしても大差ないことである。

 しかし、「大差ない」のは嶋中の中央公論にとってであって、’60年代日本にとっては、そうではない。もしこのとき、嶋中と中央公論社が「倒産」への道を果敢に踏破していたら、「皇太子・正田美智子の結婚」によって、戦後はじめてうやむやにされかけた「敗戦日本」の問題、なぜ日本はあのような不幸に陥ったかの問題のこの時代の整理を、この時代の知識人の総力をあげてしておくものとなり、’60年代日本とその後の日本は、現在とはすこしばかり異なるものになっていたかもしれない。’60年代日本の「デモ・ゲバ」風俗と「パレード」風俗のアウフヘーベン(止揚)に資したかもしれないということである。

 深沢七郎の「風流夢譚」が契機となった出来事は、このような戦前と戦後の放置されていた亀裂をあらわにするものだった。ことに、革新の仮面をかぶった保守勢力によって、戦前の立場の蘇生があきらかにされかけた「事件」だった。


 あの「天声人語」を掲載した朝日新聞もまた、1945年には、1961年の「中央公論」とおなじ「オ家タイセツ」の道を選んでいたのだった。

 1945年以前の朝日新聞は、万世一系の天皇中心の独裁形態、日本型独裁国家の代弁者だった。日中戦争の正当性を唱え、南京陥落を歓喜と礼賛で報道した。1941年12月には、アメリカ、イギリス、オランダへ開戦を宣言する天皇詔勅を支持し、大本営発表を真偽も確かめせず、誇大に報道した。そして、敗戦直前には、「天皇陛下万歳」を叫んでアメリカ軍艦へ激突して死んでいった特攻隊兵士を、軍神と崇める報道をおこなっている。

 にもかかわらず、1945年8月以降の朝日新聞は、アメリカ民主主義を奉じ、戦争を忌避し平和を愛好する新聞として、平然と1日も休まず刊行をつづけ、事業を拡大している。そして、中近東国家のことではあるが、爆弾をかかえて自爆する若者たちのことを、「特攻隊」とか軍神とはいわず、アメリカ評価に追従して、非人道的な「自爆テロ」に位置づける。

 この戦前、戦後の断層の整合性は、やはり「オ家タイセツ」の大義いがい、なんとしても説明がつかない。「オ家タイセツ」の大義に拠らないのなら、村山一族が大株主の朝日新聞社は、メディアであるかぎりにおいて、1945年8月に解散すべきだった。存在できなかったはずだ。そして、新聞社の経営社主と「新聞報道」の関係と、それぞれのもつ社会的責任を清算したうえで、できるものなら新しい新聞社の創設をこころみるべきだった。

 おなじようなことは、戦前・戦後をつうじて生きのこった唯一政治政党である日本共産党にも、いえることである。日本共産党は1955年の「六全協」において、解党すべきだったとおもう。武力革命を党方針とし、多数の党員や同調者を全国に配置し、組織的行動を遂行していたのに、これは間違っていたの一言でそれまでのすべてを否定して、方向転換をしたのだ。首脳部の交代ですむ問題ではない。

 現場において活動中の者たちの混乱はとうぜんである。日本共産党は、ソ連邦をはじめ、かつてのインターナショナル各国政党のように、執行部の方針決定については、社会主義政党の属性である上意下達の政党であり、最重要事項であっても一般討議はなく、とつぜん全党員に伝達され遵守される。「政治」主義政党の由来である。

(注.「『政治』主義政党」については、『百万遍』2号掲載の本論、序章「風俗画のアレゴリーとしてみる芸術・文学 2) ‘60年代日本社会の位置」を参照.)


 しかし、この場合では、活動中の現場はそれではすまなかった。党方針をつたえられた中間管理職ともいうべき現場「細胞」の責任者の党員は、実行者である下部党員やシンパたちにどのように伝え、どのような指示をしたらよかったのだろう。ここで命じられたのは、非合法の殺傷・破壊行為を辞さない直接「革命」方針から、国政選挙による合法的政権奪取という、たがいを排除する水と油の関係にある間接的方針への転換である。

 明日の直接行動を覚悟し準備中の下部党員たちは、中間管理職党員がいかにそれを説明しても納得できず、彼が自分たちをあざむき、裏切ったとうけとったのは当然だろう。それは「細胞」指導者自身にとっても、ほぼ同じである。もともと納得していなかった彼は、地域監督党員が中央委員に迎合し裏切ったとおもったかもしれない。非合法に生きるか、合法に生きるかは、個人の人生観にぞくするところであって、一朝一夕に転換できるものではない。

 極端にいえば、この方針転換は、政党の基本であるすべての構成党員の生活観、人生観に抵触するものだった。政治政党の観点からいえば、日本国民を裏切ったのである。それによってみずからの生活と人生を苦境においた党員や日本国民は多くある(注.そうした具体例はいくらでも掲げることができよう.) それに、元来、戦前に設立された日本共産党は、非合法を前提にして結成されたものである。だから、戦後になっても、共産党に入党することは、他の政党とはことなり、非合法的政党の党員になるようなところがあった。つまり、「六全協」決定は、従来の「日本共産党」を裏切ったのである。

 この「六全協」の断層は、さまざま理屈で説明されているようだが、苦難に耐えた輝かしい歴史ある政党を潰すなという「オ家タイセツ」の大義が、もっとも容認できる暗黙の理由になっているのだろう。

 ところで、あの「天声人語」を書いた朝日新聞については、中央公論社とおなじとさきに云ったが、それはこれだけではない。社員の体質についてもおなじことがいえる。

 朝日新聞社員も、新聞報道(報道媒体)がなんたるものかによって、朝日新聞をえらび、入社試験をうけたのではない。なんとなく正当な伝統をもつ有名新聞社だから入社を希望したのだろう。そして大学卒業以来そこで、書けといわれた原稿を書き、掲載されたら歓び、自分の知らぬことを他社の記者に書かれたら悲嘆にくれて暮らしていく。そして、やがては、世の中でおこっていることは、一般人よりはるかに、分かっているつもりになる。実体験としては、文章修行、それも報道用の限定された文章スタイルなのだが、そうした文章修行と、スクープ至上主義の仕事体験しかないのだが、なんでもできる気になる。やがては、一般人になにかを教えてやる立場にあるような気になる者がでてくる。

 あの「天声人語」で、高みからの目線で、「楢山節考先生脱線の巻」と断罪した記者も、どうせそうした記者あがりの担当者だったにちがいない。おそらく40歳代なかばから50歳代までのこの担当記者は、国外にせよ国内にせよ、軍隊経験をもつ者だったにちがいない。

 「天声人語」の執筆者は一般記事と異なり、かなり自由に書けるはずである。それならば、かれ自身の信じることを直截に書けばよいのに、なまじ’60年代日本の、アメリカから導入された、「信条」の包装紙にくるんで示すから、奇妙なものとなる。かつては大本営、戦後はアメリカの価値観が朝日新聞の報道基準になっていたのだ。

 この執筆者がどのような戦争体験をし、どのようなおもいを戦争や天皇にたいして抱いていたのか、わからない

(注.この執筆者を調べる方法はあるはずだが、筆者はつきとめていない.)


 だが、そのかれが、『風流夢譚』を読んで、もっとも強い印象をもったのは、わざわざ引用をしたところをみると、皇太子夫妻の首が斬られる一節だったのはまちがいなかろう。戦前、戦後にかかわりなく崇敬すべき天皇一家がこのように扱われるのは、いかにしても容認できなかったというのが、かれの執筆動機にあったのだろう。

 しかし、それならそれで、それを率直に問い質せばいいものを、「過去の歴史上の人物なら、たとえ皇室であっても、それほど問題にはなるまい.が、現にいま生きている実在の人物を、実名のまま、処刑の対象として、首を打ち落とされる描写までするのは、まったく人道に反するものというほかはない」などと、付け焼き刃の戦後的価値観によることを示し、「問題の中心点は人権である. 天皇であろうが皇太子であろうが、有名人であろうが、無名の人であろうが、実在の人物をこんな風に書くのは、ヒューマニティに反する.小説だからよい、夢物語だから許されるというものではなかろう」と、批判理由をわけ知り顔でのべたつもりになっている。一般化してのべたつもりになっている。

 生存中の人物を、芸術作品でこのように扱うのが、その人物の人権の侵害になり、ヒューマニティに反する行為とするのは、いささか「牛刀をもって鶏を割く」の場ちがいであり、黒田清輝の『朝妝』や田山花袋の『蒲団』のある芸術史を無視した、滑稽で幼稚な論理である。

 新聞掲載の政治漫画も「人権侵害」になるのだろうか。パロディー小説も、また大げさに言えば、ダンテの『神曲』も、そこに描かれている人物は、だれしもがわかるように描かれることによって作品の意義が発生するのだから、その論理じたいも通用しないことになる。しかし、政治漫画では、殺すなどいう光景はめったに描かないという言い分もあるかもしれない。だが、かつての朝日新聞は、たしか現職のイギリス首相のチャーチルやアメリカ大統領ルーズベルトを鬼畜米英の頭目として銃剣で刺し殺すマンガを平然と掲載していたように記憶する。それは、交戦中とはいえ、やはり人道とヒューマニティに反する行為だったのではなかろうか。そればかりではなく、この執筆者の論理からいえば、小説や夢物語であっても、リアルタイムに設定されたものでは、いかなる殺人も虐待も人道とヒューマニティに反する執筆行為になるのだが、かれはそこまでは思いいたっていないようだ。

 しかし、この奇妙な論理展開も「夢譚」理解も、本論ではすでにみたことのあるものだ。今泉の『エクイプメント・プラン』の論理展開が、まさにこうした「夢譚」理解からはじまり、今泉もまた、これをいかにしても容認できぬところに『エクイプメント・プラン』の結論があった。

 今泉も、『風流夢譚』を、「天声人語」が問題にしている首を斬るところからしか読んでいない。「夢譚」から発想された作品のタイトルにあるエクイプメント(装置)は、皇居前広場に設置されるギロチン・イメージだったのは、本論ですでに解釈したところである。

 しかも今泉も、天皇処刑への異議を直截に申し立てず、そのころ流行のアヴァンギャルド作家、カフカカミュをもっとらしく援用して説明していた。「天声人語」では、カフカやカミュにかわって援用されたのが「人権侵害」であり「ヒューマニティ違反」だったのだろう。今泉では、このカフカの『流刑地で』やカミュの『異邦人』がベールとしてかぶされていたから、主張の焦点がどこにむすばれているのかわからぬ、つじつま合わぬものになっていた。そして、「天声人語」でも、「読んでみるとなるほどひどいものだ」とか「許されものではない」の理由が、人権やヒューマニティを持ちだしてくるから、論理的に納得できないものになっている。

 さらにまた、今泉でカフカやカミュがもちいられたのは、かれがアヴァンギャルド芸術家であったからであり、「天声人語」の執筆者が戦後の、民主主義を報道規範にする『朝日新聞』の記者だったからだろう。

 だが、’60年代の日本では、結構そうした奇妙な理屈が、時代に即する指摘として通用するのだった。すでにのべたように、「天声人語」の、「実在の人物を、こんなふうに書くのは、ヒューマニティに反する.小説だからよい、夢物語だから許されるというものではない」などは、右翼の弾劾理由になり、嶋中の反省理由になっただけでなく、かなり一般的な「夢譚」の評価基準になった。そればかりか、良識的評論家たちのなかにも、これを検討対象にするものが結構いたのだ。

 そして、今泉の『エクイプメント・プラン』もまた、「ハイレッド・センター」の発足にあたる座談会の冒頭で、最初のテーマとして取りあげられているように、時代のアヴァンギャルド文学作品に位置づける者もあり、のちの「ハイレッド・センター」中心メンバー3名をふくめて、この作品を関係作品として正面から問題にしている。

 それらは、今から見ると、奇異であり不思議であるが、「デモ・ゲバ」風俗下にある’60年代の日本社会やアヴァンギャルド界の real facts、あるいは、true natureともいうべきひとつの実相とすべきかもしれない。これは今後の検討のなかで明確にしなければならぬことだろう。

 だが、今回の「’60年代日本のアヴァンギャルド 番外篇」をおえるためには、発端にあった深沢七郎の『風流夢譚』は、けっして「天声人語」が語り、『エクイプメント・プラン』が前提としたものとは、まったく無縁の作品だったことについて、ひとこと述べておかねば、この番外篇の意味を失うだろう。『風流夢譚』そのものついては、第三章であらためて述べるつもりだが、今回に関連するところだけをとりあえず一瞥しておこう。


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