Avant 番外編1

[’60年代日本のアヴァンギャルド 番外篇]


─ 『風流夢譚』と『エクイプメント・プラン』から見た─

「ハイレッド・センター」と「中央公論事件」

                         田淵晉也


       「エロ「Oldscape」」(昔噺)


Part 1


 すでにさまざまなところで述べてきたように、『ハイレッド・センター』を語るうえでは、創設直前に開催された座談会「直接行動論の兆」を避けて通ることはできない。そこで話されたのは、あのような行動をした「ハイレッド・センター」成立の、かれらの必然性をおもわせるものだった。

  かれらが、なぜ、なんのためにあのような活動をしたかということであり、また、なぜ、短期間のうちにそれをおえたかが、おのずからわかるようなものだった。

 そして、そうした「ハイレッド・センター」の反対命題のように最初にあげられたのが、かれらの傍にいた今泉省彦の発表していた『エクイプメント・プラン』だった。

 この座談会の出席者は、中西夏之、高松次郎、赤瀬川原平という「ハイレッド・センター」創設メンバーのほか、座談会企画者の川仁宏と、『エクイプメント・プラン』の執筆者でもあった今泉省彦だった。今泉と川仁は、すでに本論で、いくどもふれてきたように、これまでかれらの周辺にあってかれらの芸術行為に関心をもち、かかわりをもった’60年代のアヴァンギャルディストである。ことに川仁は、この座談会の中心話題だったイベントに、オブザーバーとして参加し、存在感をしめしていたのだ。実質的企画者はかれだったのかもしれない。

 この座談会は、結果的には、今泉や川仁が編集にたずさわっていた「美術をめぐる思想と評論」の小雑誌、『形象』7号と8号に掲載された。そのさいのタイトルは、7号誌では「直接行動論の兆 ─ ひとつの実験例─」とあり、8号誌では「座談会 直接行動論の兆・Ⅱ」となっている。しかし、このタイトルは、座談会のときには想定されておらず、だれもそれを念頭に語ってはいない。

 かれらが集まったのは、かれらが個別におこなった、芸術イベントとしかいえない芸術行為について、たがいに報告し意見をのべあうためだった。当該のイベントは、まず、中西と高松が中心になった、のちに「山手線フェスティバル」(1962年10月18日)とか「山手線事件」といわれるイベントと、赤瀬川が参加していたアヴァンギャルド・グループ、「ネオダダイズム・オルガナイザー」の一部メンバーがおこなった「敗戦記念晩餐会」(1962年8月15日)と称したものである。

 そうした話しあいのなかで、すでに聞きおよんでいたこれら行為に共感をもち、たがいの考え方に共鳴し、やがては自分たちでなにかをやろうという暗黙の了解がうまれ、それが一年後の「ハイレッド・センター」に結実したのである。「ハイレッド・センター」の生成過程については、すでに本論ではいくらかのべたところである

(注. 「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』  4)’60年代日本の『反芸術』(その2) ③ 『読売アンデパンダン』展から『ハイレッド・センター』へ [『百万遍』6号掲載]」を参照.)


 雑誌掲載の「座談会」とはとても云えないようなその座談会は、趣旨説明もあいさつもなく、唐突にはじまっている。


中西  まあとにかくこういうことをやった訳ですよ。それでね、これがひとつの集団ではないんだよね。集団の考え方という風にとると不味い訳でさ。色々な考え方があってさ、それで俺には俺の考え方、高松には高松の考え方、他の人には他の人の考え方があってね、それぞれが大体去年ぐらいからね、まあお互い個別的に意見を交換し合っていた訳ですよ。その間に長良の話があって、エキプメント・プラン(ママ)ですか、あれは失敗なんですよ。何故なら実現しなかった為にさ、その脱殻みたいなものものを後で文章化したっていうか・・・・。

札(川仁)  文学的になった。

中西   そうね、文学的になった。

札(川仁)  文学的には非常に精緻なものがある訳だ。

中西  計画表が実現する為の計画表じゃなくてさ、なんか失敗に終わっちゃった後のね、整理表になってしまった。そんなことになってしまって、でまあ、やらなきゃどうしょうもないという。要するに実現しなきゃさあ、一寸も意味を持たないことをね。それをいくら文学的に立派だってもね、やっぱりいみねえと思うんだ。どういう事かっていうと、エキプメント・プランは実現の為の計画文書であって行動論理が組立てられねばならず、告白めいたことを述べてはならないんだ。行動に向かって自己を賭けていく論理よりも、これからやろうとすることに対する自問自答に終始してしまっているんだな。現実空間の中の事件としてなんの日付もなく、あるのは1962年の何月何日か知らないけどさ、その心境の日付でしかないわけよ。行動の形骸が抽象的な空間の中で文学的に期せずしてなってしまったわけでさ、こう云うことじゃリビドーの昇華が芸術行為だと云うフロイドの言葉はいまだに通用してしまうわけよ。そういうことでね。その行為の為の論理をつくろうというんでこういうひとつの実験を考えた訳ですよ。ところがね。あのエキプメント・プラン当時はさ、皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで島中(ママ)事件とかが事件性としてあった訳でしょう。それに対する俺なら俺のまったくなにも持っていない人間の反応の仕方があったし、人間のひとつの発言方法としてもあり得る訳だよね。現在となるとそういうね、なんか典型的な事件がまったくないんだよね。だから行動の場合でも事件に対するなんて云うか俺達の意志とか、そういうものではなくてさ、まったくなにもない中でのひとつさ、なんて云ったらいいかな、なにもないと云うのはおかしいんだよね。例えば新聞みるでしょう、事件はうじゃうじゃあるんだ。事件が蔓延するとその箇々の事情や内容があるにもかかわらずさ、総体的には意識に混沌として映じてくるんだ。無論総体としての現象=混沌になる為には莫大な種類と数の事件がなければならない訳だよね。ブラウン運動によって生じる拡散という現象が分子箇々の運動がさ、勝手気侭な運動をしているにもかかわらず総体的には上から下への運動方向をとったかに映ずるに似ている訳よ。又、分子の数も莫大なものでなければ総体として現象が生じないこともな、これは何もないんじゃなくモノクロームなんだ。色名表をターンテーブルで廻転させると色差はなくなり個別性がなくなりモノクロームになってしまうだろう。ここに俺達を運んでいる時間の速度とそれを追いかける認識との問題があるんじゃないか。物凄い事件があってもさ、幾つも重なり合うことによってまったく事件、箇々事情は同化し合いモノクロームにみえてくるという、そういう処に置かれた俺達がね、重ねる操作としてさ、事件を作って・・・(ママ)、そう、俺達の作った事件は日付が残らなくてもいいんだ。忘れられていく、モノクロームにしていく為のひとつの行為よね。俺はこう考えるんだ、つまり俺達が棲息している器の構造の無理して作られた部分から湧いてくる吹出物といったものがあるだろう、俺がさっきから云っているのはこの事件のことなんだが、一般に事件に対する反応と云うと、この器の欠陥に戻ってきてその時代を解釈し、ひとつの立場をとろうとするよな。俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早めると、まあそんな意図があるんだ。それも攪拌作用のひとつなんだが、エキプメント・プランと関連のありそうな発想をとりながら状況が全く違う。いや状況の解釈が違う、一方は事件に対応するが、こちらは対応する事件がない、というより事件に対応させないで事件、つまり行為をしたわけだ

赤瀬川  むしろ行為する側にはね、事件のないときの方がはっきりするんじゃないかなと思って、なにかのときに皆で話したんだがな。

中西  ああ、事件がない方がねえ。

赤瀬川  うん、あの頃安保とか、あったわけでしょう。そうするとあんまり理路整然となっちゃうんだな、それで系列からはずれたものはやつぱり隠されちまうと思うんだ。

高松  隠されちゃうってのはなにが隠されちゃうの?

赤瀬川  意識がさ、たとえば安保のときなにかしてそれがどうにかなったにしてもさ、安保ってのは生物学的にみればたまたま出てきたものでしょう。それ以外のものものは常にある訳だからさ、そういうものが安保とかそういう象徴的な事件にあんまりはつきり出すぎちゃうんじゃなくて整理されすぎちゃうんだ。でむしろ今みたいななにもないなまくらなときの方がはっきり、皮をめくってみることが出来ると思うんだよ。政治上のものじゃなくて政治下のものがな

高松  ただ赤瀬川が云ったように、なにか沈んでしまうのはマスコミの弊害だと思うけどね。安保があろうがなかろうがやっぱり、山中湖事件みたいなものがあったりなかったりしていると思うんだよ。同じようにね。処がマスコミが或るひとつのものを引張り出して、わあっと拡げちまうが為にさ、売れるようにするんだけれど、実際にはそうじゃないと思うな。(下線は筆者)


 この冒頭部の発言者で、中西、高松、赤瀬川 以外の 札 なる人物は川仁宏である。『エクイプメント・プラン』の執筆者である今泉の発言がここにないのは、かれがこの座談会を『形象』誌の企画対象にしていたためか、それとも他の理由があるかよくわからない。

 中西が最初にいっている 「まあとにかくそういうこと」とは、中西、高松らがおこなった「山手線フェスティバル」といわれるものである。ただし、この名称は、「ハイレッド・センター」の活動がひろく知られるようになった後に、かれらの複数の活動を区別するためか、当人たちもふくめていわれだしたもので、当時はまだだれももちいていない。

 また、念のため付言しておけば、これは、事前に案内状と趣意書を配った計画性をもった「芸術ハプニング」である。

(注. その頃は、ハプニングやイベント、パフォーマンスは、まだ芸術用語になっていない.)


 これは、中西夏之、高松次郎などが、1962年10月18日の午後2時ごろ、山手線の車中や品川、有楽町駅のプラットフォームで、めいめいが勝手なパフォーマンスを実践したものだった。このイベントは、すでに説明したことがあるが、ハイレッド・センターの「ミキサー計画」活動歴では、幻の「第2次ミキサー計画」に組みこみができるような重要なイベントである。

(注. 「③ ━ 2. 『ハイレッド・センター』」[『百万遍』7号掲載] )


 このエポックメーキングなイベントが、中西の発言によると、「エキプメント・プラン」をふくめたさまざまな議論と試行錯誤のなかで、ことに「エクイプメント・プラン」の挫折のなかから、それを克服し、対抗して出現したというのではないだろうか。

 だが、それにしても、まがりなりにも「美術をめぐる思想と評論」をかかげる雑誌の一般読者には、わかりにくいはじまりである。中西発言にある、仲間内の話しのつづきのような座談会だ。

 ここでは、かれらのやったことの由来と意味、そして目的が、中西の立場から語られている。また、中西以外の者の発言には、かれらのなかの同意と異論の摺り合せのやり方がよくあらわれている。

 かれらの行為は、「エクイプメント・プラン」の書かれた状況とはちがう状況の行為だという。だが、いま「ハイレッド・センター」の成立をみている視点からいえば、そのどちらも、1959年4月の「皇太子結婚パレード」と1960年6月の「国会デモ」をピークとする、’60年代「パレード」風俗と「デモ・ゲバ」風俗前期の時代環境のなかでなされた(芸術)行為だったようにみえる。

 「国会デモ」が終焉し、「風流夢譚」が「中央公論」事件で圧殺された時代状況のなかで、かれらは、自立学校を計画した谷川雁、山口健二、吉本隆明たちがそうだったように、何かをしようと、「お互い個別的に意見を交換し合っていた」というのである。意見交換をした仲間には、今泉や川仁たちもいたのだろう。そうしたなかで、今泉は、長良棟のペンネームで『形象』5号(1962年3月)に『エクイプメント・プラン』を発表した。「エクイプメント・プラン」というのは、皇居前広場をおもわせる場所に、(ギロチンをおもわせる)オブジェを設置するアイデアを冒頭にかかげた、芸術計画とも小説ともエッセーともいえるものである。

(注. タイトルの「エクイプメント・プラン」は、《equipment plan》のつもりだろう.)

 

 中西がそれが失敗だというのは、一義的には、プラン実行しなかったことにある。アイデアには、なんらかの共感があった口ぶりである。それに、中西はすでに、(じぶんの)芸術アイデアの制作化について、この前年のあの「若い冒険派は語る」(『美術手帖』1961年8月号)の座談会で、制作と制作プランについて語っている。じぶんの芸術行為は計画をたてその道筋にしたがって実行していくことにあるとしている。その結果、「成功するかどうかということはわからない、結果というものは、鑑賞者というか、外界というか、それに与えるものがどういうものかは自分では解らない、そんな効果はどうでもいい」 とのべているように、当時のかれの基本的芸術観である

(注. 「芸術作家の『反芸術』」[『百万遍』5号]を参照.)


 ところが、この「エクイプメント・プラン」は行動化しないことを文章化し、その感慨を文学作品にして、自己充足の芸術にしてしまったというのが、「座談会」でいわれた難点の主張のようにきこえる。

 ここで中西が反対するのは、このアイデアではなくこの芸術行為である。かれはそれを批判して、「行動の形骸が抽象的な空間の中で文学的に期せずしてなってしまったわけでさ、こう云うことじゃリビドーの昇華が芸術行為だと云うフロイドの言葉はいまだに通用してしまうわけよ」とのべている。

 リビドーとは、フロイトによれば、いわゆる本能を発現させるエネルギーで、これが抑圧されると神経症的症状になってあらわれるし、対象へ向かわず自己へ向かうとナルシシズムに陥るとしているのだが、かれのいうリビドーの昇華とは、こうした性エネルギー発散の代償行為であろう。自己充足の芸術ということだろう。

 中西の指摘は、ここでも川仁が今泉に共感しているように、今泉自身やかれらの芸術観を抉出するものがある。それは、かれらだけでなく、今泉がつよく賛同した、あの「タブローは自己批判をしない」の主張をした、かれの芸術的盟友、中村宏もおなじで、後のことだが、今泉や川仁が設立に参画した美学校の授業担当にあたり、中村は、じぶんの教育目的を、つぎのように記している。「絵画をして『表現』の桎梏から解放し、そこに絵画とは『鑑賞』の問題であることを見究め、そのメカニズムを追求しようとする。それは、主である作家みずからを、客であるタブロオ(作品)の側から見ようとする逆遠近法のなかで、主・客の転倒をはかる望遠鏡的視覚でなければならず、また、それは、(未来派の始原性における物質への目覚めと、超現実主義の前状況における意識への目覚めを追体験しつつ、)それを自己のリビドオに照応させ深化させることを意味する」(美学校1971年度募集要綱より)((   )と下線は筆者)と、リビドー芸術論を展開している。ここにあるのは、「タブローは自己批判しない」の議論もそうだったが、中村の作品主義の芸術的立場からの主張だろう。

 とはいえ、中西が反対するのは、作品主義云々ではなく、現実を顧みず、自己充足にあまんじる、良心的既成芸術家の牙城とも、隠れ処ともなるその芸術態度にあったのではなかろうか。そのことは、疑いもなく、とうじのアヴァンギャルディストのひとりであり、今泉をつうじてハイレッド・センターに近いところにいながら、中村宏は、「千円札事件」においてさえ、いちどもハイレッド・センターと接点をもたなかったのに関係するのかもしれない。

 しかしながら、中西が、実現しなかったことの脱穀みたいなものの文章化というほどつよいことばで「エクイプメント・プラン」を批判するのは、芸術行為として発表された「エクイプメント・プラン」へのほんとうの不満はここにはなく、また、かれ自身にも、断言できない錯綜した感情があったのではなかろうか。

 それが、1962年の状況においてすべきことが念頭にあり、つぎにのべられているかれらのやったことの目的説明になったのだろう。

 その目的については、この座談会の直後に制作された、中西の第15回読売アンデパンダン展出品のあの「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」やハイレッド・センターの「ミキサー計画」にあらわれている「攪拌作用」に集約して、すでに、前回「『読売アンデパンダン』展から 『ハイレッド・センター』へ」(『百万遍』7号)でのべたところだが、ここでは、云われているかれらの状況把握についてふれておきたい。

 「あのエキプメント・プラン当時はさ、皇太子の問題とかね、風流夢譚のことで島中(ママ)事件とかが事件性としてあった訳でしょう。それに対する俺なら俺のまったくなにも持っていない人間の反応の仕方があったし、人間のひとつの発言方法としてもあり得る訳だよね。現在となるとそういうね、なんか典型的な事件がまったくないんだよね」と語っているのだが、これは文言どおりに受けとることはできない。いわれているエキプメント・プラン当時の「エキプメント・プラン」は、長良の発表した作品ではないだろう。長良の書いた『エクイプメント・プラン』は、中西が「1962年の何月何日か知らないけどさ、その心境の日付でしかないわけよ」というように、『形象5号』(1962年3月1日)に掲載されたものである。そして、「山手線フェスティバル」が実施されたのは、わずか半年後の1962年10月18日である。このふたつの芸術行為がおこなわれた状況は、ほとんどおなじである。「風流夢譚」(1960年11月)によっておこった「中央公論事件」(1961年1月)は、『中央公論』誌編集長は退職させられ、中央公論社は改心して、「天皇制特集」を組んだ委託雑誌『思想の科学』を企画者たちに無断で廃版にし、深沢七郎当人は流浪の旅にでて、居所不明となっている、1962年の状況である。

 したがって、中西のいう「エキプメント・プランと関連のありそうな発想をとりながら状況が全く違う。いや状況の解釈が違う、一方は事件に対応するが、こちらは対応する事件がない、というより事件に対応させないで事件、つまり行為をしたわけだ」が、きわめて複雑な意味をふくむ発言となるのである。ここでいわれる「一方は事件に対応する」が、こちらは、「事件に対応させないで事件」、かれの言うところでは、事件をモノクローム化するような行為をしたというのである。

 というのは、ここに云うかれの発言の真意、おそらく、出席者たちにしかわからない真意は、「エクイプメント・プラン」は、状況をわきまえず、事件に対応しようとしたから、あのような失敗になったというのであろう。この指摘は、中西の発言の意図をこえて、深いところで、’60年代「デモ・ゲバ」風俗後期の「学園紛争」の失敗にもつうじる含蓄ある指摘にもなるものである。それには、「あのような失敗」が、どのような失敗かを、よく見きわめなければならない。

 これを説明するには、長良の「エクイプメント・プラン」なるものが、いかなるものかを示さねばならない。番外篇を挿入する理由である。




[長良棟「エクイプメント・プラン」とは、

このような作品だった]


 長良の発表した「エクイプメント・プラン」は、こんな書き出しからはじまっていた。


 係官の発見がおそければおそいほどよい。最上のスペースはあの広場をおいて他にない。運搬の方途如何。これが最大の難点だ。即ち広場が要求する大きさと、運搬方法の限界とは、本来折り合うはずがないとしても妥協の余地があるか。その点で解決が得られるならばこの問題は見通しがつく。

 運搬上の困難をもっともたやすく始末する方法はこのもの(原文傍点)が自走力を持つことだ。市内電車の架線工事カーがドライブを始める。あの広場に迷い込んでエンコしてしまう。困った工夫と運転者はどこかへ行ってしまつた。櫓にかけてあつたシートが風に煽られてずり落ちる、すると櫓とみえたのはあのもの(傍点)である。又は、突然ヘリコプターがビルのかげから現れる。激しい爆音に広場の人々が一斉にみあげるとなにかを吊るしている。ヘリコプターは橋に入る前のボックスが二つある道の真中に垂下物を降ろしたとみるやたちまち飛び去つてしまう、その垂下物はそのもの(傍点)であった。又は、ガス、水道、下水、電話等の工事人がマンホールの廻りに工事標識を立て、ひとしきりハンマーや溶接器やスパナーを使つている。それから高声でしゃべりちらしながらのろのろと帰っていく、工事用具が散乱しているなかにあのもの(ママ)がすっくと立っている。又は、映画のロケの一隊がにぎやかに入りこんできて、ライトやらなにやら山のように積みあげ、二、三度ぱちぱちライトを点滅させ、一寸としたシーンを撮り終るとさつさと引き上げてしまう。黒山のひとだかりが四方に散りはじめるとその真中にロケ隊の忘れ物がある、それがこのもの(傍点)である。以上の方法によるならば、あの橋のたもと、道の真中に白昼設置することが可能である。

 実地検証の結果、二つ橋のみえる、四つのボックスのある砂利道を予定するかぎり、夜間であることはとりわけ仕事を有利にさせないのみでなく、係官に無用な警戒をさせることになり得策ではない。見たもののないあのもの(傍点)はすでにしてなにものでもない。人目に触れずに片付けられてはならぬ。又、二つの銃声によってボックスを空にすることは不可能である。大きなる門の前に二つ、道の入口に二つのボックスがあり、一つのボックスには二人の係官がいる。そしてボックスには内線連絡電話がある。仮に銃声が八つであっても、係官の一人は電話をかけ、増員を要求するために残留するであろう。


 まるで非合法結社の課題が了解事項であるような、それとも、おもわせぶりな小説のような、書き出しである。

 設置されるのは、このものあのものとのべられているが、「係官の発見がおそければおそいほどよい」とされ、運搬の方法が「最大の難点」とするからには、あやしげな代物の設置であるのは、あきらかだ。作者はそうおもわせるように書いている。そして、設置される場所は、現代の読者ならいざ知らず、1960年代初期の読者には自明の処である。

 「二つ橋がみえ、内線連絡電話がある四つのボックスのある砂利道」があるのは、二重橋と宮内庁警察官詰所がある皇居前広場いがいは考えられない。

 この「エクイプメント計画」は、あの皇居前広場になにものかを設置する計画案なのかと、冒頭部を読んだ読者はおもうであろう。しかもそうならば、あの「風流夢譚」の小説舞台は皇居だったし、また、戦後はじめての騒擾デモによって、「血のメーデー」事件がおこったのは皇居前広場だったことと、それを関連させるのはのはよういである。


  そうした読者の先入観に彩色された「事件」期待に応えるように、この書き出しはつぎのように本論にはいっていく。


 以上に従って、この場合要求されるものは、多角的な、統制のとれた、小群行動でなければならない。個人プレイによる装着は絶対に不可能である。/上記以外に対策はないか。/以下のものはあのもの(傍点)をヴィジョンとするかぎり譲歩し得る下限である。(/ は改行をあらわす.)


 いかにも具体性あるような前提のうえで、以下の記述へとすすむ。


 あのスペースから左に折れ、部厚い土手にそって廻り込んで行き、舗路を横切ると右斜めに芝生の中を入っていく砂利道があり、そこに約二米高の土台の上に中世武将の騎馬しておどりあがる青黒い根付様のかざりがある。誰みるものもない夜明けの陽光の中で、全長四米余りのこれは、あのもの(ママ.傍点なし)に変貌している、中世武将を頭上にいただく華麗なあのもの(ママ)である。この周辺にはボックス係官はいない、歩行官がいるかどうかはあきらかでない、これは事前に調査さるべきである。

 昼間装着の場合は中世武将管理員がむらがる物見高い人々にかこまれながら仕事をすべきであろう。工事車が走り去った後、眼だたぬ様子の男が除幕式をする、むらがる物見高い人々の注意があのもの(ママ)にそそがれているその瞬間に眼だたぬ様子の男はそっと足ばやに消えるか、みずからも物見高い人々となる。

 夜間装着の場合は乗用車だけが利用し得る。抱きあって芝生に伏す人々がいなくなる寸前の刻限以外に装着してはならぬ、早ければ証人を無数に持つことになり、遅ければ不審の念の前に計画は瓦解する。//

 真にあらゆる途が封ぜられ、群行動でなしに個別行動によらざるを得ぬと判断せられたとき、無数のこのもの(傍点)によって即ちあのもの(傍点)によってこのもの(傍点)であるところのこのもの(傍点)が、処きらわずあの広大なスペースに散らばること。あのスペースに、係官の一斉射撃の前におびえて死んだ無数の青春の記念に、松の低く這う芝生のなかにうずもれている被告たちの青春の悲しみをこめて。いつになく大量の腕くみ歩るくもの達がいなくなったあと、水銀灯にてらされて蒼白く光る無数のブルーデルの手首。これはめぐりくるその日のあくる朝、又は裁かれる被害者達の処刑の日のあくる朝発見される。

(注. 断末魔のように手指を曲げた「手首」の鋳造彫刻作品の写真が掲載されている.)

 中世部将は壮大なペナントである、礎にこう記される、《ここに眠れぬ夜がある。道義に照らしてさえ不正な、まして論理を成立せしめない、奇怪な、魚やその他の海の生物しか知ろうとしないものが、むくむくと肥えふとって眠りこけている夜であればこそ、この五百二十四本の手達は未明の草生のなかでじっと待っている。取返しがつかぬとしても、それが浪費ではなかったとむかしなつかしむのではなく、再びあの孤独にうずめられた青春が息を吹き返す日がくるのを。》 あるいはエイプリル末のあの日、朝あけの気配のなかに、四つ一組で一様にあの方向にむいて立っているフアブリアゲノーレの蒼ざめた人物、そうしてひらかれた口の群、そして礎にはこう書かねばならぬ。《水族や植物や、いずれ人間の耳に達せぬ声々とのつきあいが深ければ、その微細な震えに共鳴する神経繊維も、さらに耳をすましたまえ、君の耳にわれら二足獣の怒りがとどかぬにしても、水族、植物よりはさらに冷たく動かぬ鉱物共の開いた口の群の波長はとどかぬものでもあるまいから。吾々のシャーレのなかに飼い殺される不幸なおまえのたとえばあずかり知らぬことならば、あずかり知らぬといまはいうべきときなのだ。放心のあの日におまえは自分が二足獣であることを確認した、それともこゝでもういちどなにもいわぬことで、やっぱりおれは二足獣なんかではなくて、なんだか変なものなのだということになってしまう方がいゝのか。しかしこれは思えば無駄なことだ。シャーレのなかでシャーレのなかをのぞき込むことしか知らぬ標本の一家には舌禍の恐ろしさはわかっていても、いうべきときにいわぬことの禍など判らぬはずなのだ、なにしろおまえは育ちがいゝからね、やっぱりむかし通りうんこは誰かに拭いてもらうのかい。》 

(注.フアブリアゲノーレはのちの〈失墜したオルガナイザーへの反論〉では、サブリ・アゲノーレとなっている. 現代彫刻家か? 照井康夫「エクイプメント・プラン」[今泉省彦遺稿集]の補注では、ギリシャ神話の王名か?とされている.『形象』誌掲載文では、四体のジャンクアート的鋳造彫刻の写真図版が掲載されている.これらの作品写真は「照井康夫『美術工作者軌跡(今泉省彦遺稿集)』には掲載されていないが、論文上重要な意味をもつものである.)


 不要にみえるほど冗長な引用になったが、問題があるからである。ここには、微妙な論理移行がある。

 引用文前半三分の一に記されているのは、あのものの独自の設置が困難なときの、代替え物としての既成騎馬像の活用方法で、書き出しからの記述の延長のように読めるが、突如として、「//」以降の、「真にあらゆる途が封ぜられ・・・・」にはじまる、長文の、意味不明とおもわれるほどの飛躍した論理の筋道に移行する。感覚的には、前文のおわり「・・・計画は挫折する」からつながるであろうが、論理上は、無関係である。意識せずしてなされた飛躍とすべきなのだろうか。

 それを前提として解釈をすすめよう。

 「無数のこのもの(傍点)によって即ちあのもの(傍点)によってこのもの(傍点)であるところのこのもの(傍点)が、処きらわずあの広大なスペースに散らばること」における、このものあのものは、さきの独立したあやしげな装置だった このものあのものとは、いささか意味がズレるモノらしい。このものあのものとは異なる概念が盛りつけられているようにおもえる。冒頭部に記させれていたこのものあのものは、運搬法や設置方法・場所の詳細記述からみて、単体で同一のモノ(エクイプメント)だが、このあのものこのものは、複数で、「水銀灯にてらされて蒼白く光る無数のブルーデルの手首」のようにもきこえる。掲載された写真をみると、現代彫刻家のアントワーヌ・ブルーデルの、なんらかの作品コピーかとおもう。

 その林立する芸術幻想ともいえるものの由来は、「あのスペースに、係官の一斉射撃の前におびえて死んだ無数の青春の記念に、松の低く這う芝生のなかにうずもれている被告たちの青春の悲しみ」の表出というのだから、論理的理解には苦しまざるをえない。

 あのスペースでおこった、該当する事件の推測は困難だが、直後に記された「未明の草生のなかでじっと待っている五百二十四の手達」をてがかりにいえば、1952年5月1日に皇居前広場でおこった「血のメーデー」事件がおもいだされる。

  このメーデー・デモは、サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日締結)発効(’52年4月28日)後、独立国となった日本ではじめて公然とおこなわれた労働者と学生のデモだった。かれらは、「再軍備反対」と「皇居前広場の人民広場への開放」を掲げて、戦後はじめての過激なデモを展開した。警備側は鎮圧に催涙弾をもちい、拳銃発射をおこなった。デモ隊には死者(2名)と多数の重軽傷者がでた。警察側にも負傷者、重傷者が多かった。いかにも、ロシア革命勃発の「血の日曜日」には比肩できずとも、戦後日本で、「血のメーデー」とよばれるはじめてのデモ事件だった。(注. デモ隊6000人、警備隊5000人. デモ隊の死者1~2名、重軽傷者200~638名であり、警察側の負傷者は638名(内17名の重傷)だったという. 「~」は、主催者、警察側発表の相違による.[Wikipedia])


 だがこれは、白髪三千丈式の文学表現とするのでなければ、「係官の一斉射撃の前におびえて死んだ無数の青春」とはとてもいえないものだ。しかしながら、明治以来の日本史をかえりみて、皇居前広場でおこったのは、この事件いがいをおもいだせない。

 この事件の逮捕者は1232名であり、起訴されたものは261名だった。そして、1962年のとうじ、まだ判決のくだされていない裁判中の被告たちを「五百二十四の手達」というのなら、あながち該当しないこともなかろう。

 だが、そうだとしても、芸術作品効果である「水銀灯にてらされて青白く光るブルーデルの手首」と、ふたたびでてくる「中世武将」の関係はあいまいである

(注.皇居前広場周辺の騎馬像の実在を、筆者は確認していない.)


 「中世武将を頭上にいただく華麗なあのもの」とあり、昼間装着とか夜間装着にこだわるところから類推すると、騎馬像を設置した約二米高の台座にあのものを仕掛けるのだろうか。だが、写真入りで説明されている鋳造彫刻作品、四体のフアブリアゲノーレの蒼ざめた人物の置かれる位置がわからない。「ブルーデルの手首」どうよう、芸術作品が鑑賞者にいだかせる芸術幻想のあつかいなのだろうか。そのあたりについて今泉はどこにも記していない。

 かれの関心は、中世武将蒼ざめた人物像の台座に記すべき、意味ありげなふたつの碑文に移っているのだろう。

 これらふたつはセットで読むべきものである。

 第一の礎にしるされた、眠れぬものに対比された眠りこけているもの、第二の礎で、とかおまえとか呼ばれているものは、なかば自明だが、いちおう解釈しておこう。

 道義に照らして不正なもの、論理を成立させないもの、魚やその他の海の生物しか知ろうとしないものと、と呼ばれ、おまえといわれているのは、とうじの読者には、このように思わせぶりに言い繕うまでもなく、象徴天皇であるのはあきらかである。

 昭和天皇裕仁の戦前からの趣味は、海洋生物や植物研究で、粘菌類、ヒドロ虫類の研究でひろく知られていた。とうじの皇太子、平成天皇明仁の趣味は魚のハゼだが、1962年のこの時代ではほとんど知られていなかったから、この範疇にはいないだろう。それらの研究には実験器具、シャーレが用いられる。文中のシャーレの比喩表現は、それに関連させたシャレ(洒落)のつもりだろう。「シャーレのなかに飼い殺される不幸なおまえ」とは、趣味だけに生きる、象徴天皇の非実在的位置であろう。

 ただし、こうした不要な婉曲表現は、そんな無邪気なものばかりではない。「君の耳にわれら二足獣の怒りがとどかぬにしても、水族、植物よりはさらに冷たく動かぬ鉱物共の開いた口の群の波長はとどかぬものでもあるまい」における、「鉱物共の開いた口の群」には、ひそかな意図的なダブルイメージが期待されている。君の耳にとどくかもしれぬ波長を発する「冷たく動かぬ鉱物共の開いた口」は、語意解釈では、ファブリアゲノーレの金属鋳造彫刻やブルーデルの「手首」の芸術作品なのだが、文頭からあのもの、このものと紆余曲折、誘導された読者感覚から読むと、あのあやしげな代物のように受けとってしまう。ましてや、一躍有名となったあの『風流夢譚』の、マサキリによって天皇一家の首が斬られ「スッテンコロコロカラカラカラと金属製の音がして転がっていった」先例が、一年半前の小説に描かれていたのだから、なおさらのことである。

 だが、だがありうるこうした読者の錯覚を今泉がどう利用しようとしたかは別問題として、かれの天皇へのこだわりはそこにはない。


 「吾々のシャーレのなかに飼い殺される不幸なおまえのたとえばあずかり知らぬことならば、あずかり知らぬといまはいうべきときなのだ。放心のあの日におまえは自分が二足獣であることを確認した、それともこゝでもういちどなにもいわぬことで、やっぱりおれは二足獣なんかではなくて、なんだか変なものなのだということになってしまう方がいゝのか。 しかしこれは思えば無駄なことだ。」 


 これまた、揶揄嘲笑の衣(ころも)のしたから、憐憫の皮をかぶったきみょうな感情が見え隠れする。「いまはいうべき、あずかり知らぬ」とは、いったい何をあずかり知らないのか? 「鉱物供の開いた口の群れ」から発せられる「われら二足獣」の怒りのなのか? 皇居前広場の開放要求などあずかり知らぬと言えというのか?  それではあまりにも拍子ヌケである。かれのいわんとするのは、天皇がみずからの意を表明しないのではなく、再引用の後段だろう。「二足獣であることを確認した放心のあの日」とは、敗戦の四ヶ月半後の翌年1946年1月元旦、「新日本建設に関する詔勅」としてだされた、天皇の「神格化否定」の人間宣言の日をさすのは明白である。かれはそれを「放心の日」と云い、「おれは人間なんかではなくて、神(なんだか変なもの)になってしまう方がいゝのか?」と問いかけながら、逆説的に人間宣言への違和感を表明している。なぜなら、神は、道義も論理も超越し、「舌禍の恐ろしさ」も「いうべきときにいわぬ禍」など無縁で、うんこを誰かに拭いてもらっても平気の、恥も外聞もしらない「育ちのいゝ」ものだからだ。今泉は、戦後天皇の批判をするが、戦前天皇の所業にひとこともふれないのに、注目しておかねばならない。

 ここでやや投げやり気味に語られているこの思想は、深いところで、4年後に三島由紀夫が『英霊の声』で開陳した思想に通じている。三島は、天皇が「もっとも神であらせられるべき時に、人間にましました」と批判し、第二次大戦までに天皇のために死んだ「英霊」たちが、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と、怨嗟の声をあげながら皇居にむかって海原を渡り来る情景を描き、評判となった。ここに今泉が感性的に問題にしている、すくなくともこの課題は、60年代日本の、「皇太子・正田美智子結婚パレード」の延長線上にある、天皇〈神格化〉復活の風俗画としては、先駆的であったかもしれない。

 だが、かれは、さきの引用の締め括りを「しかしこれは思えば無駄なことだ」と締めくくり、この課題を回避する。そして、ふたたび別途の論理移行がはじまる。

 ここでは、あの座談会で中西がふれなかった「エクイプメント・プラン」の別の側面があらわれてくる。

 「オルガナイザーへの手紙の断片」と題された次項目である。


 それぞれの資質に応じて一つの課題に従って繰り拡げられる計画案の微妙な喰い違いは何度体験しても新鮮な感銘の源泉であるようだが、待ちに待った実務家のヴィジョンにはいまだ茫然としている。思い起こすと、おれはおのれとあまりにも異質なものと出逢ったときは、いつも途方にくれて言葉を失った。方法としてコンビネーションでいくかどうかは効果の問題として論じ得るが、しかしこゝでN発想が訊問されているのは殺意についてだ。ギロチンが立てば被処刑者がいなければならぬ。初源の君との話のとき、マヌカンの話をしながらしきりと思い描いていた情景はギロチン設立者がまず小間切れになってギロチンの歯の間からこぼれだすさまだったのさ、流刑地でKのみたものだ。なぜそれを君に云わなかったのかおれには判らぬ。精巧な機械を組み立てたあの役人の心情は痛ましい、巧妙なメカニズムであればあるほど、ある種の親和感に身震いしつゝその処女性に身を捧げずにはいられまい。ましてや恥を知らぬうすばか、魚族や植物の声しか聞かぬでぶでぶこえふとった奴をおのれの牙の下でみたいとは思わぬ。あの血は汚れすぎている。耽ることを知るものの血は清いと思うのは迷信に過ぎぬが、しかし、例えばまず、田中英光をあの広場で処刑したいと君は思わぬか。(下線は筆者)


 一読するともっともらしい言分にきこえるが、トリックスターの耳ざわりのよいことばのように、めくばせして同意をもとめられても、よく考えてみなければならない。

  用心ぶかい解釈を、憶測をまじえながらしてみよう。

 まず、手紙の宛先、オルガナイザーの措定である。このオルガナイザー(組織者、工作者)とはだれのことか。

 これは、だれかひとりをさすのではなく、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーのようなものだろう。現代芸術において、ネオ・ダダをこころみるメンバーの集まりだった。ここでは、エクイプメント・オルガナイザーということになろう。エクイプメント計画メンバーのだれかに宛てた、別メンバーからの手紙という体裁を装ったものである。

 しかし、ことさらわかりにくい文面からあえていえば、これまで述べられていた計画は、実際に話されていたものだが、作業にいたっていなかったのである。そして、そのときの仲間、 N にむかって、今あらためて今泉が、長良として話をむしかえしているのである。 N は、実務家といわれていることから、中西夏之としてさしつかえあるまい。この中西の提案する具体案に、いまだ呆然とし、疑義ありということなのだ。じつはこれも、この解釈もひとつの解釈にすぎないのだが、もっとも納得できるものだ。

 この解釈のもとで、「こゝでN発想が訊問されているのは殺意についてだ。ギロチンが立てば被処刑者がいなければならぬ」と、場違いなことばや、はじめて出されたギロチンや、一回かぎりのマヌカンから、さらに憶測すると、これまで、あいまいに伝えられていたのは、皇居前広場にギロチンを設置しマネキン人形の首切断のパフォーマンス案、インスタレーション案であり、それが中西案だったのではなかろうか。つまり、この中西計画のパフォーマンス案を換骨奪胎して「エクイプメント・プラン」というオブジェ計画へ主題をずらせたのである。このように考えると、あの「座談会」の冒頭で、中西があのように「エクイプメント・プラン」を反対命題において、執拗なこだわりをみせた理由がよくわかる。

 それならば、今泉が異議申し立てするかれの真意はどこにあるのだろうか。かれの「エクイプメント・プラン」で表明すべき思想は、ここまでではまだ、ひとことも云われていない。あるのは、中西案への反対理由が、これまたおもわせぶりに述べられているだけだ。

 かれは、ギロチン(エクイプメント)の想定する対象を天皇とすることに反対する。中西案では、マネキン人形を昭和天皇に仕立てあげ、斬首するものだったのだろうか。それを聞いたとき黙っていた意見を、いまここであらためてのべるという。

 かれが、表立って根拠にするのはギロチンの来歴である。

 もっともらしくいわれるギロチンの由来は、彼自身が、どこまで承知していたのかわからないが、虚虚実々の虚飾にかざられたものだから、すこし付け加えておく。

 18世紀末のフランスで国王の首を斬ったギロチンを、ここでいくらかでも関連させているのなら、この処刑器具にはつぎのような伝説がつきまとっていた。

 ギロチン考案者のギヨタン(Guillotin)なる人物は、ルイ16世やマリー・アントワネットのみならず、かれらをギロチンで処刑したロベスピエールやダントンのように、みずからもまたギロチンによって刑死したというものである。

 これは当時からすでに事実ではなかった。革命期の憲法制定国民会議の議員でありパリ大学解剖学教授であったジョゼフ・ギヨタン(Joseph Guillotin)は、博愛主義、平等主義の見地にもとづき、ギロチン制度化の提唱者だった。従来の死刑方法、庶民階級は絞首刑、上流階級は斬首刑という処刑は、どちらも失敗がおおく、苦痛をながびかせるものだった。そこでかれは、一瞬で刑を完遂するこの器具の使用を、すべての階級の死刑囚に適用することを、議会に提案し決議させた。そして、この提案にふさわしい器具の設計者は、かれの助手、アントワーヌ・ルイ(Antoine Louis )であり、実際の製作実務者は別人だった。だから、当初この処刑具は「正義の柱( Bois de Justice)」とか、ルイゾン、ルイゼット(Louison, Louisette )と呼ばれていたが、いつしか、制度提案者の名前からギヨチンヌ(Guillotin の女性形 Guillotinne→Guillotine/ギロチンはイギリス人の英語読み)と呼ばれるようになった。

 そしてとうのジョゼフ・ギヨタンは、1814年に病死し、パリのペール・ラシェーズの墓地に埋葬されている。しかし、さきのような伝説がのちにいわれるのは、その後、リヨン在住のギヨタンなる同名の医師がギロチンによって刑死しているからである

(注. 英、仏、日のウイキペディア&ブリタニカ国際百科事典)


 ここまで詳細な事実が当時からわかっていたのだから、「オルガナイザーへの手紙」に書かれた、手紙の筆者が、しきりに思い描いていた「ギロチン設立者がまず小間切れになってギロチンの歯の間からこぼれだす」情景を保証するなんらかの根拠ある資料がフランスのギロチンにあろうはずはない。にもかかわらず、筆者は、「精巧な機械を組み立てたあの役人の心情は痛ましい、巧妙なメカニズムであればあるほど、ある種の親和感に身震いしつゝその処女性に身を捧げずにはいられまい」と、思い入れのこもったとばを、ならべてみせる。

 ならばかれは、虚偽としりながら、フィクションまじりの言辞をろうしたのだろうか? かならずしもそうではない。

 そのつもりで読めば、ここでは、フランス革命で国王の首を切断したギロチンとはひとこともいわれていない。巧妙なレトリックである。

 「しきりに思い描いていた情景」は、「流刑地で K のみたもの」とことわったうえで、先に引用したあの感動的な言辞がならべられている。ところが、それにもかかわらず、肝心の「流刑地で K のみたもの」については、全文のどこにも、説明をしないばかりか、既知事項としてのちに援用さえする。まるで、探偵小説の悪辣な犯人がたくらんだアリバイみたいな一言(ひとこと)である。

 これは、フランツ・カフカ(Kafka)の短編『流刑地にて』のことだろう。カフカのこの短編小説は、原田義人訳の『流刑地で』として、出版されていた(たとえば、『世界文学体系58』[1960年4月刊、筑摩書房]におさめられている)が、1962年とうじの日本ではそれほど知られていた作品ではない。プルースト、ジョイスの作品とならんで、アヴァンギャルド文学の古典だった。文学青年でもあった川仁と交流があった今泉はいざ知らず、「美術をめぐる思想と評論」誌『形象』の一般読者や、手紙の宛先とおぼしき中西が、この「流刑地でKのみたものだ」の一言で、なにかを納得したとはおもえない。それを、このように援用してみせる意図を疑わざるをえない。

 それに、カフカの『流刑地にて』の処刑具にしても、それはギロチンとは正反対の性格をもつ中世ヨーロッパの「鉄の処女」のような、拷問処刑具である。「精巧な機械を組み立てたあの役人の心情」に合致する描写は、なるほどこの小説にはあるが、あの広場に設置されすっくと立っている櫓状のあのものとは、似ても似つかぬ形態の処刑具である。

 少々煩瑣になるが、小説『流刑地で』の内容説明をしなければ、今泉の真意がわかりにくくなる

(注. 筆者はカフカについて基本知識もなく、原文照会もしていない.原田訳の訳本に頼るだけである.だが、当時の今泉もこの訳本に拠った似たようなものとおもわれるから、さしつかえあるまい.)


 この処刑具は、直方体二層がサンドイッチ状に、2米の高さに上下にかさねられ、あいだに人体をはさみこむ装置である。下段がベッド、上段が「図面作成器」とされている。上段の底面、人体にふれる側からは、「馬鍬」と称すガラスでくるんだ針状突起物がたれさがり垂直、水平方向に動く仕掛けになっている。機能は下層のベッドに裸体でうつぶせに固着された処刑者の背中に、中世ヨーロッパの犯罪者に科した入墨のように、ベッドと針先の動きによって切り傷の文字を刻むことができる。

 この処刑は12時間にわたっておこなわれる。最初の6時間は背中の文字彫刻である。それは処刑者の罪状に関係するものだ。つづく6時間は、はじめはうつ伏せのまま粥などが与えられ体力の回復がはかられ、その後の時間は、背中の痛みによって、書かれた罪状をしみじみと感じとる時間である。そして、この6時間ののち、針はふたたび運動を開始する。こんどの動きは、死刑囚の背中に針をくりかえし送りこみ、死にいたらせるためである。そして、死体となった受刑者は、ベッドが傾斜し下に掘られた穴に落下する仕掛けになっている。

 この処刑をつうじて流れでる血液は、突起部から適切に噴出する水流と、ベッド形成の特殊綿布によって、きれいにぬぐいさられ、とりまき見学する大人もこどもも、男も女もすべての者がはっきりと、受刑者の背中の文字を読み取り、顔にうかぶ表情を知ることができる。

 そうした死刑囚にあわせて設定する仕掛すべては、上段の「図面作成」体のなかに設置されている。「図面作成」体はまるでコンピューター装置であり、その都度プログラミングができるように考案された器械である。

 この短編小説が書かれたのは、20世紀の第1次アヴァンギャルド期、1914年だから、中世社会と、そのときより一世紀後のコンピュータ社会を連結する文学作品といえるものだろう。ある意味では、アポリネールがシュルレアリスムということばを造語した戯曲「ティレシアスの乳房」や講演「新精神(エスプリ・ヌーヴォー)と詩人たち」(共に1917年)で開陳した思想と裏表にあるアヴァンギャルドの作品である。

 だが、今泉が問題にするのはそんなことではない。この装置が作動するつぎのような物語の筋である。

 この装置が設置された流刑の島に、ひとりの調査旅行者がおとずれる。かれは、島の独裁者、司令官の要請で、この処刑具による刑執行に立ちあうことになる。ところが、処刑を指揮する将校は、この処刑具を発明した前司令官の腹心の副官で、かれもまたこの器械の発明には有能な助手として参加した者だという。そして、この将校の言分では、現司令官はこの処刑方法に反対で、島外の有力者である旅行者にこの処刑を見せ、かれの批判的意見によって廃止をたくらんでいるという。

 今回処刑される受刑者は、上官宿舎の歩哨に夜間あたっていたのだが、そのとちゅう居眠りをし、叱責した上官に反抗し、暴行をくわえた兵士だった。かれは、上官の申告により捕縛され、裁判担当のこの将校の決定で、刑をうけるのである。受刑者当人は、じぶんに何がおこるか知らされることなく、この場に連れてこられこの処置をうけるのである。

 それが、前司令官が制定した流刑地の裁判であり判決であった。ここでの裁判制度は、罪状調べも、検事論告も本人弁明も弁護もなく、罪の宣告もなかった。あるのは、この処置だけである。本人がじぶんの犯した罪の罪状と判決を知るのは、執行開始6時間後にはじまる背中の痛みによって感じ読みとることばだけによる。そして、そうなっても、判決、すなわち、じぶんが死ぬことになるのを知るのは、死んでから後のことだ。

 今回、旅行者の見るまえで、複雑に書かれた文書片手に「図面作成」体に登って、かれがプログラミングしたことばは「汝の上官をうやまえ」であると、将校は旅行者に説明した。

 そして、器械は稼働し任務をはたすはずだったが、ささいな手違い、それも現司令官の悪意ある怠慢のせいでおこった不始末のせいで、しばしのあいだ作業を中断せざるをなくなった。

 それを利用して将校は旅行者に、「ちょっとばかり内密にあなたとお話ししたいのですが」といい、かつてあった、前司令官の栄光のこの処刑と処刑場の光景をかたり、依頼めいたものをした。かつて、この谷の処刑には全島のものが身分によらず全員が、前司令官の意向で集まり、これを見物した。そこでは感動的な情景がくりひろげられたと、将校はそのありさまを子細に語った。その説明によると、最後をむかえた受刑者の顔からは、かならず解脱の後光が射していたという。そして達成された正義の光が、谷間をうずめるすべての人の頬を輝かしく染めていたという。

 ところが、前司令官が死去し、現司令官になると、この司令官は取りまきのご婦人がたの意見をいれて、なしくずしにこの制度を無効化していっている。だから、今日のこの処刑にしても、見るものは旅行者ただひとりである。

 この旅行者に、かれが期待するのは、翌日開催される全体会議で、現司令官から、外来者が見たこの処刑について意見をもとめられても、事実いがいは何もいわないでほしいといういうことだけである。あとは、おなじくそこに出席している将校自身が発言し、現司令官を失墜させ、すくなくとも前司令官のよき後継者になると、かならずや誓わせるというのである。

 旅行者は、そんな会議には出ない、しかし、司令官にはじぶんの考えをのべると、きっぱりと将校につげる。それをきくや将校は、ただ頷いただけで、ただちに装置に固定させていた受刑者を釈放させる。そして自身は、「正しくあれ」ということばがインプットできるプログラム文書を旅行者に示したうえで、それを携え、「図面作成」体にのぼり、なにごとかを操作しおりてくる。そしてかれは・・・・・・・


軍服の上衣のボタンをはずし始めた。そのとき、襟のうしろへ押しこんでおいた二枚の婦人もちハンカチがまず落ちてきた。

 「さあ、ここにお前のハンカチがあるぞ」と、将校はいって、二枚を受刑者に投げてやった。そして旅行者に向かって、説明しながらいった。

 「ご婦人がたの贈り物です」

 彼は軍服の上着を脱ぎ、それから完全に裸になるまでは、急いでいたらしかったにもかかわらず、一つ一つの衣料をひどく念入りに扱い、軍服についている銀モールは指で特別になで、ふさを振ってなおすのだった。こうした入念さにはほとんどそぐわなかったのだが、何か一つを扱い終わると、ただちに気に入らなそうに穴のなかへ投げ捨ててしまうのだった。彼に残された最後のものは、吊り帯のついた短剣だった。将校は剣のさやを払うと、剣を折ってしまい、折れた剣もさやも革ひもみんないっしょにつかんで、それらをひどく激しく投げ捨てたので、死体が落ちるはずの穴の下のほうでたがいにぶつかり合う音が聞こえたほどだった。

 今や将校は裸で立っていた。旅行者は唇をかみ、何もいわなかった。これからどういうことになるのか、彼にはわかったが、将校が何かやることを妨げる権利は彼にはなかった。将校がすがりついていた裁判手続きが、ほんとうに今にも廃止されようとしているのであれば ━ おそらくは旅行者の介入のためだ。旅行者のほうでは介入する義務があると感じているのだった ━ 将校は今や完全に正しくふるまっているわけだ。旅行者も、彼の立場にあったならば、それとちがった行動をとらなかったことだろう。


 こうしてはじまった装置の動きは、将校が以前した説明とは、いささかちがうものになった。今回の装置の稼働は、馬鍬がひとつの動きをすると、


「図面作成」体の上蓋があがり、歯車をひとつずつ外に吐き出すのだった。つまり、装置はみずから崩壊しながら作動するのだった。将校を救おうと、装置にかけよった旅行者がほとんど意に反して見た死体の顔は、「まだ生きていたときとそっくりそのままだった。あのかならず表れるといういっていた解脱の表情の徴候は発見されなかった。ほかのすべて者がこの機械に寝かされて見出したものを、将校は見出さなかったのだった。唇は固くつぐまれていた。眼は開いたままで、生きているような表情を浮かべ、まなざしはおだやかで、確信にみちていた。額には大きな鉄ののみ(傍点)の尖端が突きささっていた」。


 というようなところが、オルガナイザーへの手紙の断片でいう、「流刑地で K のみたもの」になるのだろう。要約は、すでにそれは要約者の解釈であろうから、今泉にはちがった解釈があり、ちがった引用をしたかもしれない。

 しかし、しいてかれの見方にちかづけたつもりの引用が、上の引用部である。これを読んだとき筆者が思いだしたのは、三島由紀夫の『英霊の声』の先駆作、『憂国』に描かれていた、若い近衛将校が割腹自殺をする情景だった。ことに、「彼は軍服の上着を脱ぎ、完全に裸になるまでは、急いでいたらしかったにもかかわらず」いかの描写である。「一つ一つの衣料をひどく念入りに扱い、軍服についている銀モールは指で特別になで、ふさを振ってなおすのだった。こうした入念さにはほとんどそぐわなかったのだが、何か一つを扱い終わると、ただちに気に入らなそうに穴のなかへ投げ捨ててしまうのだった。彼に残された最後のものは、吊り帯のついた短剣だった。将校は剣のさやを払うと、剣を折ってしまい、折れた剣もさやも革ひもみんないっしょにつかんで、それらをひどく激しく投げ捨てたので、穴の下のほうでたがいにぶつかり合う音が聞こえたほどだった」などは、おなじような物語のシチュエーションなら、三島もまた書きそうなことである。それに、将校がこれにおよぶまでの旅行者とのやりとりの情景は、のちの1970年11月に自衛隊の市ヶ谷駐屯地本部でかれが演じたものだった。三島は、総監室のバルコニーから自衛隊員らにむかって、天皇のための蹶起を呼びかけ、肯されぬのを知ると部屋にしりぞき、黙って、同伴者の介錯をうけて作法どおりの割腹自殺をした事件である。

 だが、『流刑地にて』は、三島好みのストーリーとはいささかようすが異なる。さきの引用にある将校が受刑者にあたえる婦人もちハンカチでも、三島なら、将校がひそかに想いをよせる婦人がらみのいわれのある品で、それを死を前にして下賤のものに呉れてやることによってしめされる、現世への蔑視、現世の投擲である。カフカではそうではない。この処刑に眉をひそめる現司令官とりまきの婦人たちは、処刑者たちに彼女たちのやり方の同情をし、執行前のかれらに砂糖菓子やハンカチを与えるのである。そうしたハンカチを将校は受刑者の手に戻してやったのである。ここには、なんとなく、かつてのフランス革命前夜、マリー・アントワネットが、パンがないという大衆要求に「それならブリオッシュがある」といったエピソードが透いてみえるような気もするが、カフカでは、将校の党派闘争の意味であり、断念の表象であろう。

 「流刑地にて」では、その被処刑者は、無知ではあるがしたたかなレアリストであり、それなりの復讐心をもつキャクターである。そこに描かれていた受刑者や兵士像は、カフカが、畏怖する大衆像かもしれない。すくなくとも、「魚族や植物の声しか聞かぬでぶでぶこえふとった奴」というニュートラルな者たちではなかった。

 「流刑地にて」にあるのもので、今泉のいう、「親和感にみぶるいしつつその処女性にまずわが身を捧げずにいられぬ痛ましい心情」のもち主は、Kではなく「流刑地にて」のキャラクターの将校である。今泉がキーワードとする、「流刑地で K のみたもの」は、「Kの作品『流刑地にて』の将校のみたもの」とすべきだろう。

 だが、’60年代日本で、今泉の読み方ではなくとも、とにかくアヴァンギャルドの文学知識人に評価された文学作品だったのだから、本論としてもその一面にふれておかねばならない。

 この短編、『流刑地にて』が書かれた1914年は、第一次世界大戦がはじまった年であり、ロシア革命を仕上げた2月革命と7月革命のおこった1917年直前の時期だった。とうじ31歳のカフカが生活していたのは現在ではチェコの首都プラハだが、そのころはまだオーストリア=ハンガリー帝国の一都市だった。チェコの首都となったのは、1918年、オーストリア=ハンガリー帝国が、第一次世界大戦で敗戦国となり、チェコスロバキア共和国が成立してからである。産業革命以来、機械工業力によって急速に力をもつことになったチェコ民族運動の動向や、1905年の「血の日曜日」からはじまった第一次ロシア革命が第二次革命へむかう情勢は、この小説に間接的に反映しているようにみえる。

 ボエミヤガラスや、プラハの天文時計が象徴するチェコ民族の機械文化へのカフカの思い入れは、この奇妙な「拷問処刑具」のことさら強調される器械仕掛けの説明にあらわれているかもしれない。作品中に表明されたかれの政治的立場は、穏健的改革派にも急進改革派にも、そのどちらにも与することができぬことだったのだが、裁判制度、処刑制度を問題にしているいじょう、社会問題をあつかっていることにはかわりない。

 そのような角度からこの小説を読むと、長良がおもわせようとしているのとは、まったくちがったものを「Kは流刑地に見ている」ことになろう。すくなくとも自己陶酔はそこにはない。

 カフカは冷厳な観察者である。かれ自身の立場をみつめたかれの結論は、将校の立場を否認し、されど、現司令官にふたたび会うこともなく、また、追いすがる兵士と受刑者をふりきって、沖合にまつ汽船へむかって、ボートで急ぎ立ち去る旅行者にあらわれているのだろう。確信いまだならずの未完の立場である。

 ただ、1914年のカフカには、直後のチェコ共和国の独立や、7月革命によるヴォルシェヴィッキーの権力奪取も、ましてやのちの共産主義政権の世界的展開など、完全に思考の外にある。とうじのかれの心情を、しいて忖度すれば、いかなる現実的姿をまだみせていなかった、過激なとうじの超革新勢力へ感情的傾斜と、なんらかの期待があったのではなかろうか。それが、将校がみずからに刻む罪状「正しくあれ」と、引用した、「旅行者も、彼の立場にあったならば、それとちがった行動をとらなかったことだろう」にあらわれているであろう。だが、一方ではかれは将校のしめすファナティシズムを嫌悪していた。

 これは、かれの想像力の圏外にあったことだが、そうした正義とファナティシズムが制度と結託したしたときの悲惨、のちのスターリン政権下でおこった秘密裁判を予知するものであった。そればかりでなく、コンピューター社会におけるファナティシズムの真の悲劇を、21世紀の四半世紀がおわろうとするわれわれは、まだ知らないだけかもしれない。

 このように、「エクイプメント・プラン」の著者が推奨するこの「流刑地で」を読むと、今泉がいうものよりむしろ、ハイレッド・センターの立場だった「寂しげで冷ややかな浸透力」にちかいものが感じられる。

(注. 『東京ミキサー計画 ━ ハイレッド・センター 直接行動の記録 ━』の巻末にある、高松、赤瀬川、中西の回顧座談会の表題である.)

 だが、ここで今泉が何を云おうとしたかは、このように「流刑地」にかかずらい、あげ足をとるだけでは充分ではない。この「オルガナイザーへの手紙の断片」には、Kとおなじような、Kよりは今となってはさらにわかりにくいキーワードがある。手紙の断片の最後にいわれる「例えばまず、田中英光をあの広場で処刑したいと君は思わぬか」の、あいもかわらず同意のめくばせを要請される田中英光である。

 田中英光は、すでに終戦直後の1949年に、太宰治の墓前で自決した無頼派の作家である。死んだ作家をどうやってふたたび処刑するのだろう。しかも、皇居前広場で!


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