Avant 2-1


’60年代日本の芸術アヴァンギャルド


第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

《Figutation Narrative》 (Aillaud, Arroy, Recalcati)

      「安らかに死なしめよ、あるいは、デュシャンの悲劇的最後!」

(注.左側の作品が、デュシャンの『階段を降りる裸婦』である)



1) ’60年代日本の「反芸術」

 (その1)


 「デモ・ゲバ」風俗画のなかで、’60年代日本のアヴァンギャルドは、反芸術をかかげて展開した。だが、それをどのように見て、どのようなものであったかを判断するのは、20世紀のアヴァンギャルドの問題であると同時に、20世紀芸術評価の課題になる。

 ’60年代日本のアヴァンギャルドが「反芸術」を掲げたのは、「反アンポ」が「反ゲイジュツ」になったというだけでは説明がつかない。日米安全保障条約改定の国会議決反対する と、芸術反対する とでは、それがあらわすものはまるでちがうからである。それに、安保反対! のレベルでいえば、芸術反対! の意味はまったくわからない。芸術のなにに反対するのか。そればかりか、反対するからには、元凶たる芸術のすがたがはっきりしているのであろうが、なにを芸術としているのかがわからない。あるいは、「反芸術」とは、なにかに反対するための芸術ということなのかもしれない。もしそうならば、そのなにかが何か、である。

 しかしながら、ほんらい、1910年代に誕生したアヴァンギャルドは、イタリア未来派にせよダダにせよ、それぞれのアヴァンギャルドの立場を示すために、似たような主張をしてアヴァンギャルドの作品を生みだしてきた。

 20世紀最初のアヴァンギャルドであるイタリア未来派の指導者 F. T. マリネッティは、1909年、はじめて発表した「未来主義宣言」の最終項目に、つぎのように書いている。


10. われわれは、美術館と図書館を破壊し、道徳主義と女性賛美主義と、すべての日和見的で功利的な卑屈さと戦いたい。

11. われわれは、労働、快楽、暴動に熱狂する大群衆をうたうだろう。現代的大都市における革命の、多色に染まり多音声がひびく潮流をうたうだろう。 (下線は筆者)

注. 『未来派━1909−1944』展図録、翻訳 井関昭 (1992年)。ただし、Giovanni Lista “Futuristie  manifestes・documents・proclamations ” によって若干の修正をおこなった.)


 すこしばかり語句修正をすれば、’60年代日本の「デモ・ゲバ」風俗画としてもさほど違和感のないものであろう。かれらの言分は、都市で沸きたっている活力と反抗の機運に希望をみいだし同調するというのである。そして、そのために、既成美術の殿堂と既成価値規範を破壊するというのである。

 この宣言がだされときの時代状況はつぎのようなものであった。

 当時のヨーロッパでは、農工業労働者らの待遇改善と政治的権利要求の運動がはじまり、それを弾圧する支配層との衝突がいたるところでおこっていた。

 ロシアで、軍隊が皇帝請願労働者らに発砲した「血の日曜日」(1905.1.22)がおこり、「戦艦ポチョムキンの水兵蜂起」(1905.6.27)があったのもこの頃である。ハンガリーでは、労働者の普通選挙要求運動を弾圧した「血の金曜日」(1905.9.15)や、賃金協定・待遇改善要求の大デモを弾圧した「血の木曜日」(1907.10.10)と呼ばれる事件がたてつづけにおこっている。そのほか、ダダのトリスタン・ツァラが生まれているルーマニア王国でも、農民の大暴動がはじまったのが1907.2.21 で、これも軍隊によって徹底的に鎮圧されている。このときツァラは11歳であった。

 さらには、普通選挙や労働条件改善を求めるゼネストだけでも、ベルギー(1902.4.14)、スウェーデン(1902.5.14)、フランス(1906.5.1)でおこり、イタリアのミラノでも労働総同盟結成大会が開かれている(1906.10.1)。これらは、すべて、世界史年表(歴史学研究会編『世界史年表』岩波書店 2001年刊)に記されているもので、それ相応に歴史的事件にふさわしかったであろう。この年表には、男子普通選挙法導入がオーストリア(1907.1.26)やスウェーデン(1907.5.14)ではじまったことが記されているし、ノールウェーの女性参政権実現(1907.6.14)が明記されている。

 また、そのほかの国際政治では、オーストリア=ハンガリーが、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアにたいして、ボスニアとヘルツゴヴィナの編入を通告している(1908.10.6)。

  つまり、こののち、第一次世界大戦(1914−18)とロシア革命(1917)に集約してあらわれる、社会的移行の混乱のマグマのなかに当時のヨーロッパはあったのであろう。そうしたなかで、この社会的混乱を好ましいチャンスとみなした芸術家らが、イタリア未来派を誕生させ、かれらの作品をつくりだしたのであろう。かれらの未来派宣言の文言のしめしたものは、そうしたかれらの破壊と社会革命待望の思いであろう。そして、芸術的領域では、美術館や図書館を破壊し、ルネッサンス以来の、偉人や美しい女性像を描き、パトロンにおもねる絵画を否定するとしたのである。

  ひとことで云えば、第一次大戦直前に誕生したイタリア未来派、大戦中のダダ、そして大戦後のシュルレアリスムなど、20世紀初頭のアヴァンギャルドはすべて、それぞれの立ち位置から、ロシア革命と第一次大戦に凝縮したこの混乱のエネルギーに、かれらの希望をみながら作品を築いたのであろう。ダダの「レディーメイド」や「メルツ」、シュルレアリスムのエクリチュール・オートマティック(自動記述)などは、それぞれの戦中、戦後の位置からなされた、混乱のマグマへの期待の表明であったのだろう。


 ’60年代社会の状況は、そうした20世紀初頭の状況と、そののちの経過においては、ことなる経緯をたどることになるが、類似した状況にあったといえる。しいて言えば、なかでも、第一次大戦とロシア革命後にうまれたシュルレアリスムの状況にちかかったとすることができる。

 「反芸術」について云えば、’60年代日本のアヴァンギャルドがそれにたくしたものは、こうした20世紀初頭のアヴァンギャルディストたちとおなじようなおもいからでたのかもしれない。だが、この「反芸術」というのは、20世紀アヴァンギャルドの核心にふれるが、しかし、未来派やダダ、シュルレアリスムのヨーロッパ・アヴァンギャルドは、当時、正面から主張したことがないものである。したがって、ありそうでなかった「反芸術」は、思想的には凝縮されていない思想であった。そして、凝縮されていないだけに、アヴァンギャルド芸術そのものに内在する危険な、あいまいな表現であった。言いかえれば、「反芸術」とは、アヴァンギャルドの良きにつけ悪しきにつけ本質にかかわるものである。そういう理由から、’60年代日本に登場した「反芸術」をすこしていねいに見てみなければならない。


 ’60年代日本の「反芸術」の用語使用は、現代芸術評論家の東野芳明(1930~2005)が、1960年3月開催の「第12回読売アンデパンダン展」の新聞時評で、「ガラクタの反芸術」と使用したのがはじまりとされている。 

(注. 暮沢剛巳編「現代美術を知る クリティカル・ワーズ」では、東野のこの記事がの起源であるとしている. )


 そして、これらの記事あたりから、当時の日本のポピュラーな美術雑誌である『美術手帖』や『芸術新潮』、『みずえ』では、「反芸術」とか「反絵画」「反彫刻」の記事や座談会が、頻繁にあらわれるようになる。そして、’60年代半ば、東京オリンピックの年である1964年の1月になって、戦後の新生日本の美術を、終戦直後から、15年間支援してきた「読売アンデパンダン展」が廃止されると、それに関連して、「〝反芸術〟是か非か」なる公開討論会などが東野司会で、盛況のもとで開かれたり、美術誌をふたたび賑わすことになった。1958〜9年以降の後期「読売アンデパンダン展」は、「反芸術」の側にあるように思われていたからである。そして、「反芸術」は’60年代日本のアヴァンギャルディストの身元保証であった。また、蛇足ではあるが、東野の「反芸術」があらわれた1960年は、6月に「安保反対」の騒乱の国会デモがあり、11月には、深沢七郎の『風流夢譚』(『中央公論』誌.12月号)が刊行された年であることを指摘しておこう。 

 (注. 第1章 2)「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本」を参照)


 まず東野の新聞批評を読んでおかねばならない。東野は、アンデパンダン展出品のジャンク・アートをこのように評価した。


 日展とか公募団体でいかめしい大家の「芸術」におじぎしながら、実はいささかうんざりぎみの気味のあなたに、ぼくは、いま上野で開かれている読売アンデパンダン展を見ることをおすすめする。そこには重々しい額縁入りの「名作」もなければサロン用のトルソーもない。それどころか、戸板の小屋のなかにワラにはったヌード写真がまつってあったり(糸井貫二)何百本というぼろ竹を威勢よく折り曲げてその間に便器やサンダルや罐(かん)や風船がぶちこんである「カミナリ彫刻」(篠原有司(ママ))が一室を占領していたりする。あなたはこれが「芸術」だろうか、と首をかしげるが、安心してよろしい。これは決して「芸術」ではなく、いってみれば反芸術なのだから。しかし博物館の硝子箱のなかにちんとおさまって、あなたの今日の生活とはなんの関係もない「芸術品」よりも、はるかに直接あなたの心を打つではないか

  このような反絵画反彫刻といった傾向が今年あたり、はっきりと若い世代の間に、全く自然な(原文傍点)形で根をおろしているのは面白い。戦争中小学生であったある詩人が、カラッポの動物園のオリとか焼けトタンが唯一の自分のオモチャだった、といったが、そんなガラクタにみちた戦後の廃墟から、ようやく、新しい素材を自然に大胆に使う作家が伸びてきたのだ。ほかに田中信太郎、金子鶴三、荒川修作らが目についたが、工藤哲巳をここではその代表的なホープとしてあげよう。赤や白や黄のビニールひもを次々に結びあわせて、タワシにからませてあるこの作品。もっとも卑俗な物体が、ここで、なんという明快な形而上学の世界に転化されていることだろう。ガラクタの廃墟から根生えた強烈な観念の世界 ━ これが最初の本当の戦後派というものだ。  (「ガラクタの反芸術」  読売アンデパンダン展から①  「増殖性連鎖反応(B)」 [読売新聞夕刊・東京版/1960年3月2日])(注. 下線は「全く自然な」をのぞき、筆者)


 当時のアヴァンギャルドの作品がどのようなものであるかはよくわかるが、「反芸術」としてはよくわからぬ批評である。東野のいう「反芸術」とは、「新しい卑俗な素材を大胆に使う作家」によってつくられた、 「『芸術品』よりも、はるかに直接こころを打つ・・・明快な形而学の世界」をあらわす展示物である。そのようにいうなら、もともと芸術の定義は、「特定の材料・様式によって美を追求・表現しようとする人間の活動、および、その所産」(『大辞泉』)とされているのだから、これらはりっぱな芸術作品であって、「反芸術」とは「新・芸術」ということになる。戦後派のつくった戦後版「現代芸術」ということになる。

  さらに、かれのこの戦後派の「新・芸術」とは、どのようなものかをもうすこしきいておこう。

 東野はこの読売新聞の批評いらい、さまざまな美術雑誌で「反芸術」について話したり、書いたりしている。『みずえ』(1960年春号)では、現代芸術評論家の針生一郎、江原順との三人の「座談会 『反絵画・反彫刻・反批評』 ━ 二つのアンデパンダン展の問題点をめぐって ━」で、つぎのようにかたっている。

 

  ・・・・・・・・・・・・・・ ここ(工藤らの作品)には、たしかに一つの芽生えがあるんだ。

 僕などもそうだが、戦争直後に小学生、中学生であった世代の独自な世界、それがようやく美術の世界にも反映しはじめた、とぼく(ママ)は見たいんだ。・・・・・・・・・・・ たとえば焼跡を思い出したとする。戦前派、戦中派、戦後派と、・・・・・・・・・ 徹底的なちがいというものは、やはり、あるね。焼跡を見たときに戦前派は、秩序の崩壊への怒りのようなもを感ずるし、戦中派は、一種の悲しみみたいなものを味わうだろう。それにたいして、戦後派は、あっけらかんとして、口笛を吹くだけだ。そういうカラッとしたところが大切だ。焼跡が遊び場だった世代ね。原爆が美しい花火で焼跡がおもちゃだったというような連中、たとえば僕なんか自身でも、焼けトタン、焼け缶などでけっこう遊んでいたんだ。画面にやたら何でもはりつけるのを、ハッタリズムなんていって茶化すけど、僕は、一方には、こういう世代の物質感がそこにあらわれているとも思う。(下線筆者)


  終戦時に13歳で、このとき30歳である東野らの、戦後世代の独自の世界観がうみだした戦後芸術だという。そして、この戦後芸術は、戦後の廃墟から芽生えた新しい芸術だという。そして、かれのこの新しい芸術は、廃墟にたいして、「怒り」も「悲しみ」もなく、「あけらかんとして、口笛を吹くだけの」戦後派の芸術である。「原爆が美しい花火で焼跡がおもちゃだったといういうような連中」の芸術である。ここにあるのは、すべての現実を肯定する徹底した現実主義の視点である。現実主義の「反~」をみちびくのは、反対や批判や、反抗や憎悪、あるいは、恐怖ではなく、「カラッとしたあっけらかんとした」もの、いうならば「新しさ」なのだろう。

 かといって、東野自身が非政治的というわけではない。この年の美術界を総括する「1960 美術界の展望」(『美術手帖━美術年鑑』1961年1月増刊号』)にそえられたグラビア写真「美術家の安保デモ」の参加者のなかには、東野も工藤も、その歩く姿が写っている。かれらは、6月15日の新劇人や芸術家らが参加した「安保反対」の国会デモに参加していたのであろう。肯定すべき現実生活のひとつとして、「安保改定反対」デモに参加したのであろう。

 このようにあらわれた東野の「反芸術」と「新しさ」についてはもうすこしのべておかねばならない。『ガラクタの反芸術』は、読売新聞主催で、上野の東京都立美術館で開催中の「読売アンデパンダン展」を紹介、批評する、会期中の連載シリーズ「読売アンデパンダン展から」の第1回目のタイトルであった。とすれば、この「反芸術」の定義も、それなりにみごとなものであり、また、納得できるものがある。「ぼくは、いま上野で開かれている読売アンデパンダン展を見ることをおすすめする」としたうえで、そこに展示されているガラクタを紹介して、「あなたはこれが「芸術」だろうか、と首をかしげるが、安心してよろしい。これは決して「芸術」ではなく、いってみれば反芸術なのだから。しかし博物館の硝子箱のなかにちんとおさまって、あなたの今日の生活とはなんの関係もない「芸術品」よりも、はるかに直接あなたの心を打つではないか」と、いっきに説得する。というよりも「反芸術」は、思想としてのべられたのではなく、アジテーターの目くばせレトリックからでてきたものである。それでいて、その由来をそれなりに説明している。芸術は、「博物館の硝子箱」に展示される「芸術品」ではなく、現代生活に直結した表現をしなければならないという「現実主義」的主張がなされている。また、博物館(museum, musée・・・)は、美術館とほんらい同義であるが、美術館のガラスごしの陳列品と書かないところなどには、開催場所と開催者への配慮が、けっこうあるようにもおもわれる。だが、ここで明確に意識して主張されているのは、芸術とは、従来の、国宝となったり、ありがたく鑑賞されるものではなく、現実生活がいかなるものかを表現するということである。いま美術館にある良い芸術とされているものは、そうではないという主張である。そして、これを「反芸術」としたのは、1960年という時代がかれに選択させた表現であろう。この時代については、『百万遍』第2号ですでに記したところであるが、この時代においては、「ガラクタの反芸術」を掲載した新聞社側もこれを推奨すべきタイトルとしたとおもわれせるところがある。

(注. 「第1章 2) 『デモ・ゲバ』風俗のなかの’60年代日本」)


  というのは、この掲載から二日後の「読売アンデパンダン展から③」(読売新聞夕刊・東京版.3月4日)の瀧口修造論文の副題は「反芸術の波」であった。しかし、この副題は、その翌日、3月5日の大阪版・夕刊の文化欄では 、「美術時評 『盛りあがる若い世代の力 ━ 読売アンデパンダンの会場から』」と変更されている。しかも、ほぼ同時期にかかれた瀧口の論考では、この標題「反芸術の波」が不本意であったと語られている。東野論評をよんだ担当記者の介入をうたがわせるものがある。そして、そのなかには、アンデパンダン展の出品作品について、つぎのように記されている。


 アンフォルメル芸術の影響についで、一種のダダ的ないしは反芸術的傾向が起こっていることは昨年指摘した通りであるが、ことしはいっそうそれがたかまっている。それはいわば抽象とか具象とかの限界を越えて、対象観ぐるみ、できあいの色彩や形や材質にたいする不信の表明である。━ たとえば アクション・ペインティングの手法はたちどころにアカデミズムになってしまう。書道的タシスムもしかり。四角や三角がたちまちABCの習字帳のようになってしまう。現代は無数の形やパターンや記号の乱造の時代である。こうして造形芸術家はたえず物質の混沌のなかに投げこまれている。たしかに目新しい材質の、目新しい応用が私たちの注目をひく作品もかなり多い。しかしそれだけではアクション・ペインティングから四角や三角まで、すべて頭打ちのところへきている。(「反芸術の波  第12回読売アンデパンダン展」[『コレクション 瀧口修造 7』])


 かかれている論調では、作品にあふれている若い芸術家らの常軌を逸した熱気は、芸術形成に必要なものであろうが、それがはたして真の芸術の創造に直結するかの危惧が、真摯にかたられている。しかも、昨年の第11回展にかかれた「破られる既成技法」では、若い芸術家らの作品の現状把握には、「反芸術」ということばはどこにもなかったけれど、東野の把握とほぼおなじであった。ただ、相異するところは、東野では「反芸術」的傾向を望ましい表現とし、瀧口ではそうでないということである。そしてまた、そのことが、’60年代日本のアヴァンギャルドで、東野を中心に「反芸術」の議論がおこなわれ、瀧口をそのようにあつかわなかった理由であろう。’60年代日本のアヴァンギャルドは、「反芸術」を検討すべきものとしたということであり、また、視点をかえれば、半世紀前のイタリア未来派の創設宣言の立場とあまりかわらなかったということでもあろう。

 ところで、東野の反芸術はそのようなものであったが、かれのおもう「新しい芸術」の「新しさ」とは、どのようなものであろか。

 それをかれのふたつの証言のなかに読み解くには、すこしちがった読み方をしなければならない。さいしょの証言はキャッチコピー的色合いがまじった新聞解説であり、あとのものは口頭表現が文章化されたものである。したがって、これらを解釈するには文学的に読むこと、かなり恣意的な読みかたがゆるされるだろう。つまり、これを語ったときの作者の意識の裏面にあるものを憶測することである。

 座談会の発言で、「たとえば僕なんか自身でも、焼けトタン、焼け缶などでけっこう遊んでいたんだ。画面にやたら何でもはりつけるのを、ハッタリズムなんていって茶化すけど、僕は、一方には、こういう世代の物質感がそこにあらわれているとも思う」と、かれは言いきっている。「反芸術」のオブジェは、空襲の焼跡のオブジェということであろう。『ガラクタの反芸術』でも、反絵画、反彫刻といった好ましく新しい芸術の「新しい素材」は、「戦後の廃墟」から「自然に」見出されたという。ということは、「強烈な観念」をあらわす新しい芸術廃墟の芸術である。そのこだわりが、「反芸術」を説明する第二の証言のきょくたんな言辞にあらわれる。あたらしい芸術の担い手は、「原爆が美しい花火で焼跡がおもちゃっだったという連中」である。ヒロシマの廃墟は原爆によるものである。そこで、原爆が美しい花火となるのだ。いやむしろ、美しいのは、「あっけらかんとして、口笛を吹くだけの、からっとした」廃墟、そしてその廃墟の芸術であろう。

 戦後派のかれらにとって、すくなくとも戦前のすべての体制、役所、警察、学校・・・という権力を象徴するいっさいの建物が、突如として崩壊し、一片の焼けトタン焼け缶カラッポの動物園と化した廃墟である。あっけらかんとなった廃墟である。白紙還元された世界である。

 廃墟に、このような意味での希望をみたアヴァンギャルディストは、第二次世界戦争後のかれらだけではなく、そのかずはおおい。焼跡だけでなく、城の廃墟にせよ、「大洪水のあと」(ランボー)にせよ、廃墟は19世紀来のアヴァンギャルドの芸術家たちをひきつけてきた。20世紀のシュルレアリストのアンドレ・ブルトンは、第一次世界大戦後の旧体制がゆらぐ社会で、『シュルレアリスム宣言』をだす直前の時期、「古い世界の廃墟のうえにわれわれの新しい地上楽園の基礎をうえつけるのはおそらくわれわれのちから一つにかかっている。」(下線筆者)(『現実僅少論序説』(1924年))と書いている。ブルトンは「廃墟」に、そののちもこだわりをもつが、この時期のこの発言は、かれがそのご展望することになる、シュルレアリスム世界構築を予告するものであるとともに、東野の「新しい芸術」をあるていどまで説明するものであろう。

 また、’60年代日本のアヴァンギャルドの芸術たちのなかでは、建築家の磯崎新がつぎのような見方から廃墟に関心をもった。

 磯崎新(1931~)は、東野より一歳年下の「戦後派」建築家である。かれは、ネオダダ・ジャパンの吉村益信のアトリエ、通称「革命芸術家のホワイトハウス」の設計をし、かれら芸術家らと親密な交流をもった。1960年には、丹下健三研究室に通うかたわら、夜は、ネオダダ・ジャパンの集会にも参加することがあったという。そして、他方、’60年代では、かれの初期の代表作となる、大分県立大分図書館の設計をし、1970年の大阪万博の「お祭り広場」の企画・設計には、丹下健三に協力し参加した。

(注. 「第一章 2)『デモ・ゲバ』風俗のなかの日本」参照. 磯崎は、吉村益信の旧制大分中学(現大分県立大分上野丘高等学校)の先輩である。また、赤瀬川原平の兄、直木賞作家、赤瀬川隼の同級生であり、原平の先輩である。)


 かれは、1968年開催の第14回ミラノ・トリエンナーレに、大型画面で表示するエレクトリック・ラビリンスのフォトコラージュ、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」を出品した。未来都市の設計原理は、廃墟にあるべきというものであった。この展示は、1968年の世界的学園紛争の時代の波のなかで、ミラノでは実現できなかったが、のちに公開されている。かれはこの「ふたたび廃墟になったヒロシマ」の意図について、当時の都市計画に関連づけて、つぎのようにかたっている。    

 

 (’50年代末からはじまる高度経済成長のもとで)およそ可視的な秩序など形成するいとまもないほど、かぎりなく増殖をつづけてきた東京という都市の、はいつくばり、かさなり合い、うごめきあっている混沌とした状況に、建築家や計画家の描いたプロジェクトははたして、正確に対応していたというべきだろうか。提案するいとまもなく、一瞬のうちに現実の都市の内部から膨張していく情念のようなものにのみこまれてしまっていたのではないか。都市の情念といってもいいし、情念が充満する空間といってもいい。その情念が、都市の内部で発生する地点をこそ掲示すべきではないか。それに比べて、建築家たちの描いた、一見明確のようにみえる未来都市と呼んだ像のなんとひよわなことか。ヴィジョネールな計画案は、まったくの無関係な地点から発生して、すべてをのみこむまでに成長する理解不能のどろどろしたものの波をかぶりつづけても、決して崩れるものではないはずだ。私たちは60年代の初頭の、あの世界的に影響をもったかにみえた空想的な都市計画案の続出した時期に、一つでも確固とした案をつくり出せていたのだろうか。若干の華々しさのなかで大部分の計画案はまったくの不毛であったといってもいい。一九六七年の暮ごろに、私はこんな想念につきまとわれていた。そして、ともかくこの展示は、私にとって、白紙還元された都市を設定して、そこから抽出された情念をこそ提示すべきだろうと考えはじめたのである。

 結果として、展示は二つの部分にわかれた。ひとつは湾曲した十六枚の回転するパネル群で、他は三台のプロジェクターから投影される巨大なパネルである。

 大パネルは、このページにあるように注 (注. 図版で写真がはいっている)、ヒロシマの焼土のうえに、これまた廃墟と化した未来都市をモンタージュしたものである。 ヒロシマは、いうならば、私にとっての都市の原形なのだ。というより、実体をもった都市が、瞬時に消滅してしまうという体験が、すくなくとも私にはとりはらうことのできない記憶として、心の奥底に焼きついている。現実に目の前にある構築物も、これから建設されるであろうさまざまな未来の都市構築物も、結局二十五年前の完全なまでに消滅しはてた日本の諸都市の、その土壌のうえに建てられているにすぎないのではないか。

 この光景が下地のスクリーンになって日本の建築家たちのプロジェクトがスライドで三台並列して重ねあわされていく。計画案をつくることは、それを実現するためではあるのだが、同時に、常に消滅を予定しているわけだ。計画が消滅と、建築が破壊と、同義語になる瞬間に、はじめて具体的な状況に介入できる意味をもった空間があらわれてくる

  (下線は筆者)(磯崎新 「占拠されたトリエンナーレ」[初出『建築文化』(1970年1月号)[『空間へ』所収]])


 ここでかたられている、不毛であった私たちの「都市計画案」というのは、現実的にすでにはじまっていた高度経済成長と人口増加の戦後社会のなかで、黒川紀章らの戦後の若い建築家・都市設計家グループがおこなっていたメタボリズム建築運動についてである。これは、未来都市を視野におく、当時世界的に注目をあびた建築実験であった。

 かれはその不毛性は、現実に立脚していないことにあるという。今の現実、つまり、「かぎりなく増殖をつづける東京という都市の、はいつくばり、かさなりあい、うごめきあって混沌とした状況」に対応していないというのである。これは、東野が、「博物館の硝子箱のなかにきちんとおさまって、あなたの今日の生活とはなんの関係もない」と非難した、「芸術品」批判と、思想の根底においては、おなじ土壌からでた視点である。「芸術品」も建築も今の生活、現実を問題にすべきということである。そして、東野は、「戦後の廃墟」に、「はるかに直接心を打つ」作品の現実的根拠をみいだし、磯崎は、「ヒロシマの廃墟」に、白紙還元された都市を設定して、「そこから抽出された情念」を原点にすべきだという。「ヒロシマは、いうならば、わたしにとって都市の原型である」と、かれは言うのである。

 さらにまた、磯崎は、「廃墟」にかさなる現実空間をこのようにみている。「計画が消滅と、建築が破壊と同義語になる瞬間に、はじめて具体的に現実の状況に介入できる意味をもつ空間」であると。「廃墟」は、計画と消滅、建築と破壊が同義語になるところである。つまり、消滅に計画を、破壊に建築を見なければならないか、計画に消滅を、建築に破壊を見なければならないかである。おそらくは、1924年のブルトンや、あるいは1960年の東野は、この前者の立場であろう。そして、1968年の磯崎の同義語では、後者に力点がおかれている。

 つまり、磯崎の提案は、東野が、廃墟の視点から廃墟を見ているのにたいして、廃墟が廃墟でなくなった視点から、その廃墟をおもうことである。そこには相異がある。東野では、もっぱら廃墟を白紙還元された新しさとしてうけとめるが、磯崎は、廃墟を白紙還元の場とする。東野の白紙還元は、還元された白紙にむしろ力点がおかれているが、磯崎では、還元に力点がある。磯崎では、この白紙還元を、むしろ、廃墟に0(ゼロ)をおいたとしたほうがよいかもしれない。0(ゼロ)はゼロであるが、プラスとマイナスの接点である。プラスのはじまりであり、マイナスのはじまりである。座標軸の原点である。

 磯崎の廃墟には、廃墟以前の過去がある。「現実に目の前にある構築物も、これから建設されるであろうさまざまな未来の都市構築物も、結局二十五年前の完全なまでに消滅しはてた日本の諸都市の、その土壌のうえに建てられているにすぎないのではないか」という角度から、廃墟を見ているのである。ヒロシマの廃墟や空爆後の日本の焼跡は、けっしてなにもない更地ではなかった。そこには、焼けただれた物産陳列館のドーム(原爆ドーム)があり、また、銀行や公会堂の鉄骨がのこり、なかばくずれた煙突がたっていた。溶け曲がり、切断された鉄道線路が、それでもなお痕跡をのこしていた。おそらく、磯崎の廃墟はそれらが視野にある廃墟であり、それらへの強い意識がある廃墟であろう。

 そして東野では、焼跡を見たとき戦前派は怒りを、戦中派は、悲しみを感じるのであるから、かれの見る廃墟も、過去のある廃墟であろう。だが、かれの「新しい芸術」では、それらに意識はとどまることなく、磯崎とはちがった形に消化されている。オモチャとなるガラクタのある廃墟である。新しい芸術の新しい素材となる廃墟である。やはり、白紙還元の廃墟である。

 それにたいして、磯崎の廃墟の 0(ゼロ)は、かれ自身はそこまでは、とくべつに意識していないかもしれないが、マイナスを内在しうる廃墟である。そのことが、さきの引用文の前半部にかかれているメタボリズム批判にあらわれていたようにもおもえる。      

 「廃墟」のもつ過去の残骸について、磯崎には、「怒り」も「悲し」もないことは、その文面にもあらわれているが、そのマイナスへの意識が、どれほどまでつよく、それがどのようなものであったかはわからない。

 廃墟やマネキン人形に、「人間の癒しがたい不安が常に描かれている」(『シュルレアリスム宣言』)1924年)といったのは、さきに引用した、廃墟に「新しい地上楽園」の希望を見た(1924年)アンドレ・ブルトンであったが、かれは1937年にはつぎのようにかたっている。「さまざまな廃墟は、ただそれが封建時代の崩壊を視覚的表現するかぎりにおいて、突如として意味にあふれた姿を現す。これらの廃墟にしげしげと出入りする避けようのない亡霊は、過去の権力が回復することにたいする恐れを独特のはげしさをもって示している」(『シュルレアリスムの非国境的境界』)、と。

 ブルトンは、人間の芸術的感受性を根底からゆさぶる象徴のひとつに廃墟をあげているのだが、かれは廃墟を、プラスとマイナスの無限を内包する 0(ゼロ) とし、ここではそのマイナス部をかたっているのであろう。かれがこれをかたっているのは、ヨーロッパを荒廃させた第一次大戦終結から約20年後、第二次大戦のはじまる2年前である。そして、もちろんここでいわれる「廃墟」は、第一次大戦後の廃墟でなく、ヨーロッパにのこる、サド侯爵の城跡でありオトランド城の廃墟である。だが、かれの指摘「さまざまな廃墟は、ただそれが封建時代の崩壊を視覚的表現するかぎりにおいて、突如として意味にあふれた姿を現す」は、1937年ヨーロッパという時期に直結した発言であったとかんがえられる。

 そして磯崎の発言があった、1970年は、戦後25年、1959年の皇太子結婚パレードにはじまる天皇再登場のきざしと、「1960年安保闘争」の顛末、1964年の東京オリンピック、そして、かれ自身がふかくかかわり、その結末の体たらくが、おそらくはすでにわかっていたあの「大阪万博」開会直前の時期である。かれのいう「ヒロシマの廃墟」には、過去の権力が回復することにたいする恐れをあらわす亡霊があししげく出入りしていたにちがいない。このことは、磯崎自身がそれを意識してそれを書いたというより、これを読むものにそうおもわせるものがあるということである。ただここでは、ひとつだけ年表的な事実を書きとめておこう。

 1965年には、原水爆禁止日本協議会から分離して、あらゆる国の核実験反対をとなえる、原水爆禁止国民会議が結成されている。蛇足的に説明しておけば、ソ連邦のおこなう原水爆実験を容認する協議会からの分離である。そして、これは、ヒロシマの廃墟に、第二次世界大戦前夜の「海軍軍縮会議」の亡霊がさまよい出たかのようにみえないことはない。また、「ふたたび廃墟となったヒロシマ」を企画したとき、磯崎の念頭にこのことがわずかでも影をおとしていたかどうかはわからない。筆者は、磯崎新が核実験について、あるいは原発についてどのように考え、またどのような行動があったかについては、まったく知らないが、かれがメタボリズム建築運動を批判するにあたり、ヒロシマの廃墟をあげたという独自性は注目しておくべきだとおもう。

 いずれにしても、磯崎は、1924年と1937年のブルトンにちかい視点から廃墟を見ているのはたしかであろう。そして、東野の廃墟は、すくなくともこのような亡霊がさまよう廃墟ではない。というよりも、亡霊に注目しないというほうが正確かもしれない。しかし、とにかくに、かれは廃墟を芸術行為の原点としている。彼らふたりにとって、廃墟は、プラスとマイナスを内包する 0(ゼロ)の視点から芸術的想像力を活性化する場であった。 

 そして、ことに東野においては、今日の生活にそくした芸術が廃墟という現実から芽生えたのであり、それは、「既成『芸術品』よりも、はるかに直接あなたの心を打つ」芸術であり、「明快な形而上学の世界に転化されうる」芸術であった。

 東野の「反芸術」を要約すれば、かれの「反芸術」は、廃墟の芸術ということができよう。廃墟を廃墟として見る、廃墟を新しい現実として見て、そこに原点をおく芸術である。現実の芸術である。そして、そのような新しい芸術が、戦後15年である1960年にあらわれたというのであった。

 ところが、この年1960年には、ヨーロッパでも、新しい現実の新しい芸術を主張する芸術グループが誕生している。しかも、かれらがはじめての『新現実主義(ヌーヴォー・レアリスム)』宣言を出したのは、東野の「ガラクタの反芸術」の新聞紙上(3月2日)掲載の一ヶ月半後という、ほとんど同時期の、ミラノにおいてであった。


第2章 2)’60年代西欧の「新(反)芸術」 Part 1へ


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