Avant 2-2-2

2) ’60年代西欧の「新(反)芸術」

─ 『ヌーヴォー・レアリスム』の場合 ─


Part 2



 ポップ・アート(pop art)がひろく知られる契機となったアンディ・ウォーホルの「キャンベル・スープ」とロイ・リキテンスタインの巨大マンガがニューヨークに登場したのが、この宣言のでた翌年の1961年であった。これとの関連でいえば、商業デザインをさして、ローレンス・アロウェイがポピュラー・アート(大文字表現はしていない)と呼んで、知らずしてポップ・アートの名付け親となり、リチャード・ハミルトンが、広告写真切り抜きコラージュ作品に、「いったい何が今日の家庭生活をこれほどまでに変え 魅力あるものにしているのか」のタイトルをつけて発表し、評判となったのは4年前の1956年のロンドンであった。(図版7、8、9)


図版7: ウォーホル(キャンベル・スープ)



図版8: リキテンシュタイン(巨大マンガ)



図版9: ハミルトン(いったいなにが.....)



 その直前には、イーゼル絵画から脱却して、床上でアクション・ペインティングのポアーリングやドロッピングの大作を制作したジャクソン・ポロックや、絵画ともオブジェともつかぬ大作を精力的に制作するネオ・ダダのローバト・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョンズなど、20世紀後半の前衛芸術家たちが誕生していた。

 半世紀後のいまふりかえると、かれらアヴァンギャルディストが20世紀芸術に導入したのは、産業芸術であったかとおもうと、レスタニーが1960年というこの時点で、このように語ったのは、みずからは知らずして、芸術史的に’60年代の時代芸術を的確に展望していたのではないかともおもわれる。

 ここでいう産業芸術とは、19世紀にすでに萌芽のあったデザインとか建築、都市計画をはじめ、第7芸術といわれた映画、第8芸術のテレビ、第9芸術の劇画・アニメなど、20世紀後半に芸術の範疇にはいった新しい芸術のことである。  

 これらの産業芸術は、レスタニーとはちがった意味でかれのことばを借用すれば、「製作者各自の個性表現ではない、いっそう緊急をようする感情表現レベル」の芸術である。そして、これらのジャンルの芸術行為は、複数の供給体と複数の受容体を仲介する芸術である。つまり、商業的役割をもつ芸術である。国語辞典によると、商業とは、「生産者と需要者の間に立って商品を売買し利益をうることを目的とする事業」(『デジタル大辞典』)とある。とするならば、レスタニーが宣言で使用する経済用語も、それなりの意味を保ちつづけているであろう。

 ただし、レスタニーのいう、産業芸術に集約される芸術は、その新しさということをふくめて、様態の事実をあらわしているだけである。その「新しい芸術」が、社会の望ましい道標であるかどうか、その役割を語っていない。(たとえば、商業は古来、「利益をうることを目的」としているのだが、創造価値からでなく交換価値からみられた産業芸術において、その利益はどのように追求するのかはわからない。まさか、大きければ大きいほど交換価値も増大するというような単純なものではないだろうが、現代社会ではこれは重大な問題を示唆するのである。ある意味では、芸術の存続にかかわるものである。)

 レスタニー自身、そうしたかれの芸術的主張の延長線上にある問題を、どこまで考えていたかはわからない。おそらく、つよく意識していなかったのであろう。だが、かれはなんとなく、なにかを感じていたのかもしれない。それが、この「第一宣言」をとじるにあたっての数行に、とうとつにあらわれているようにおもわれる。

 「新現実主義者」のわれわれは、まだ社会に受容されていないけれど、ともにすすむ同志の数はおおいとのべたうえで、


 われわれは、攻撃するだけの、ゆがんだ強迫観念に脅かされることなく、もんきり型の議論をふっかけることもせず、ダダよりも四十度もあつい風呂、直截表現の風呂に首までつかっているのだ。そうすればひとりでにうまくいくのだ。現実にすなおに立ちもどれば、人間は現実を、自分のひろびろとした心に同化させることができる。つまり、感動し、しみじみと感じる心、ようするに、詩の、いやそれいじょうの心に、現実界は同化するものになるのだ。


と、語る。

 ここに、文脈的にはまさに突然、「ダダ」がでてくる。しかも、「ダダよりも四十度もあつい風呂」などという、仲間内の目くばせのようなメタファーがつかわれたあげく、「そうすればひとりでにうまくいく」と、断言するのである。

 とはいえ、さきにも指摘したが、この宣言は芸術論ではなく展覧会の案内状である。だから読者は、ある程度までの仲間意識、20世紀アヴァンギャルド芸術についてのある種の共通了解がある人たちである。目くばせ、メタファーは、それなりのコミュニケーション機能をはたしているのであろう。

 とするならば、こうした読者にむかってとくべつに伝達したいのは、この表現の前段にある 「われわれは、攻撃するだけの、ゆがんだ強迫観念に脅かされることなく、もんきり型の議論をふっかけることもせず」ではないだろうか。

 20世紀のアヴァンギャルドで、ダダに関連してでてきたのはシュルレアリスムである。シュルレアリストたちは、芸術の社会的役割について語った。第一次大戦後の創設期から、第二次大戦後のシュルレリスムにいたるシュルレアリストたちはすべて、はやい時期から、第二次大戦後登場したサルトルとは異なる見地から、社会参加の芸術を推奨した。ことにアンドレ・ブルトンは、『シュルレアリスム宣言』(1924年)で芸術改革をかたり、『シュルレアリスム第二宣言』(1929年)で、政治色のつよい芸術革命をかたった。さらに、『シュルレアリスムとは何か』(1935年)や『シュルレアリスムの政治的位置』(1935年)を書いて、想像界の現実界への侵犯という視点から、詩の役割をかたった。シュルレアリスムは、意識より無意識を重用した。夢や狂気に関心をもった。「具象的=非合理  妄想症的=批判的方法」などという絵画理論を主張した。

 なるほど、シュルレアリスムは、強迫観念に脅かされて、攻撃を好み、おなじような理屈をくりかえしのべたアヴァンギャルドという一面がないこともない。レスタニーがここで明言するのは、「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」は、シュルレアリスムのように、ダダがはじめた道を踏襲するのだが、シュルレアリストたちがやったことに反対し、「シュルレアリスム(超現実主義)」と反対の立場にたつということである。そして、「そうすればひとりでにうまくいくのだ」ということである。

 レスタニーには、シュルレアリスムへのこだわりがあり、「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」提唱には、なんらかの対抗意識があったのは、じゅうぶんに想定できることである。かれは1962年10月、第3回東京国際版画ビエンナーレ展審査員として来日した。そのさい、『美術手帖』(12月号)に、はじめたばかりのヌヴォー・レアリスムを紹介する評論「パリとニューヨークのアヴァンギャルド ━ 自然の新しい解釈」を寄稿している。そのなかで、このように書いている。「個人的な抗議の残滓は、ヌヴォー・レアリスム(新現実主義)のヨーロッパ精神の中にはもはや全くみられない。ヨーロッパのヌーヴォー・レアリスムは。1960年以来、一つのグループをなしつつあり、そのマニフェストは、わたしが編集しているのだが、これは中心人物がおり、階級があるような、ほかのグループとはおもむきがちがう」と。

(注記. 日向あき子訳。筆者はフランス語原文と照合していない。原文は、フランスで刊行されたレスタニー関係文献には見当たらない。”La réalité dépasse la fiction, juin 1961, Paris”(Le nouveau réalisme à Paris et à New York) と “Un nouveau sens de la nature, New York octobre-novembre 1962.”(Texte intégral de la préface de Pierre Restany à l’exposition The New Realists, Sidney Janis Gallery.)を合体させて、おそらく日本で書きおろしたものであろう。訳文はかなりの意訳があるとおもわれるが、それでもこの時期(1962年)の「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」の紹介は、日本ではじめてのものとおもわれる。)


 「個人的な抗議の残滓は、ヌヴォー・レアリスム(新現実主義)のヨーロッパ精神の中にはもはや全くみられない」は、「われわれは、攻撃するだけの、ゆがんだ強迫観念に脅かされることなく(sans complexe d’agressivité)」の、ほぼ言換えであろう。そして、「そのマニフェストは、わたしが編集しているのだが、これは中心人物がおり、階級がある」、ほかのグループとは、戦前・戦後のアヴァンギャルドで、シュルレアリスト・グループいがいにはおもいつけない。シュルレアリスムのマニフェストを個人名で出版したのはブルトンであり、かれはシュルレアリスム・グループの指導者であった。また、1924年から1962年にいたるシュルレアリスムを外部からみてかかれた「歴史」(たとえば、モーリス・ナドー著『シュルレアリスムの歴史』[1845年]など)では、創世記の三銃士、ブルトン、アラゴン、スーポーがおり、初期シュルレアリスムはブルトン、アラゴン、エリュアールやナヴィルを中心に活動し、その後も同心円的なさまざまなグループが結成されまた解散している。その経緯は、とうじブルトンはまだグループ活動中であったにもかかわらず、ひろく知られ、また、さまざまにとりざたされていた。

 だがレスタニーがこれほどまでにシュルレアリスムにこだわるのは、レスタニー自身、みずからの理論構築になんらかの不安があったのではなかろうか。その不安が、ことさらに声高な罵詈雑言(バリゾウゴン)と天真爛漫(テンシンランマン)な結論にあらわれているようにおもわれる。その不安とは「社会参加」への位置どりである。

 そして、おそらくは、そのことが、一年後の1961年5月にだされた、新現実主義 第二宣言といわれるもの注の内容となったのであろう。タイトルは、第一宣言の末尾にとつぜんあらわれたことば 「ダダより四十度(も熱く)」である。

(注. Pierre Restany: Avec le Nouveau Réalisme sur l’autre face de l’art )    

    

 これもまた、パリの J 画廊で開催されたグループ展の案内状としてかかれたのである。パリ展には、すくなくとも一名の新しい参加者があった。すでに戦後のアヴァンギャルド彫刻で活躍していたでセザール(1921-1998)である。

 今回の案内状は、前回の「新現実主義者たち」にはみられなかったような、アヴァンギャルド芸術の系譜にあるヌヴォー・レアリスム(新現実主義)を強調するものとなっている。しかも、それは、タイトル「ダダよりも四十度(熱く)」がしめしているように、ダダからはじまり、ダダをこえるという芸術論にことさらに集中して、かかれている。

 しかし、それならば、芸術論としてみると、第一宣言に継続する第二宣言としては、いささかきみょうな印象をあたえる宣言である。

 すでにのべたところであるが、第一宣言についていえば、 レスタニーに倣っていうなら、ほかのアヴァンギャルド・グループとおもむきがちがう芸術的特徴は、ヌーヴォーレアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、ヌーヴォーレアリスト(新現実主義者)たちのすべての作品は、社会学的に説明できる というのが、第一宣言の主張であった。他のいかなる芸術ともことなる立場に立つということである。ところが、あらためて語られるこの芸術論では、この主要観点がふかめられる議論はまったくされていない。芸術論的な「新現実主義」の位置づけであるのなら、それはありえないことである。にもかかわらず、断絶があるように見えるということは、こちらが、まちがった見方をしているということであろう。レスタニーのうちでは、断絶がないのなら、このダダとの関連性の議論が、実は、さきの第一宣言の「社会学的に説明できる」ことの延長上にあるものであり、その観点を補足するためにこの議論は展開しているのかもしれない。あるいは、その「補足」議論は、レスタニーの意識的、意図的になされた補足ではなく、むしろ無意識的弁明であるのかもしれない。

 というのは、さきに問題にし、指摘した、芸術(行為)と利益(行為)の整合性をどのようにとるかは、レスタニーがどのように考え、あるいは、意識していようがなかろうが、現代のアヴァンギャルド芸術家の最大の問題であり、つまりおおきな芸術問題であるからである。つまり、これもある意味では、産業芸術の問題、つまり、生活に必要な物的財貨および用役を生産する活動注である産業芸術の問題であるからである。

(注. 「産業」の説明.「デジタル大辞泉」)


 そのことは、以下に引用する「ダダより四十度(も熱く)」の構成にもかいま見られるものである。ヌーヴォー・レアリスムが問題にしている社会学的な一切の現実についても、また、ヌーヴォー・レアリストのすべての作品が、社会学的に説明できることについても、第一宣言いじょうの説明はされていない。この第二宣言全文の四分の一は第一宣言のコピー・コラージュであるが、そこにとどめられているだけである。

 この芸術論を読むにあたって、社会学的芸術の見地がどのようにダダ的芸術に関連しているのをみきわめるために、新現実主義・第二宣言の全文をながめてみよう。青文字表記は第一宣言と同文の箇所である。 


 ダダは笑劇(ファルス)であり、伝説であり、精神状態であり、神話である。ひそかな名残りや気まぐれな宣言がみんなを騒がせている、出来そこないの神話である。まずアンドレ・ブルトンが、それをシュルレアリスムにとりこみ、自分のものだと考えた。しかし、反芸術(anti-art)のプラスティック爆弾は爆発しなかった。その完全否定(non)の神話は、両大戦間の時代をこっそり生きのびて、1945年から後、ミッシェル・タピエとともに、別種の芸術(un art autre)の身元保証人となった。その絶対否定の美学は、筋のとおった懐疑論となり、それによってついに新しい兆しが芽生えそうになった。必要にして十分な白紙還元(table rase タブラ・ラサ)であるゼロ度のダダ(le zero dada)は、抽象的情熱(lyrisme abstrait)の現象学的基準を構築した。それは伝統的継続の断絶であり、そこから、アンフォルメルからニュアジスムの、様式(スタイル)やテクニックの泥水(でいすい)の大波が発生した。おおかたの予想に反して、ダダ神話はタシスムの暴挙のなかにみごとに生きのこっていたのだ。まずは、うけた衝撃が隠せなかったのはイーゼル絵画であって、絵画や彫刻の伝統的表現方法の独占体制にたいするさいごにのこる幻想が消え失せてしまったのである。

 われわれはいま、既成表現法の疲弊と硬直化の一般現象に立ち会っている。意味なく反復、継承される様式や致命的欠陥のある形式主義の既成用法のことであるが、それには若干の認めるべき例外もあるのだが、それとてだんだん少なくなってきている。幸いなことに、いくらかの個別的運動があって、この古典手法の活力衰退に立ちむかい、その程度と規模はどうであれ、新しい表現の規範的基礎を定めようとしている。それらがわれわれに提案しているのは、観念的で想像的なゆがんだプリズムをとおすことなく、ありのままに知覚した現実世界を表現する、心おどろかせる冒険である。その特徴はどこにあるのか? コミュニケーションの本質的レベルにおける、社会学的にみた時代交代の導入である。(セザールのような[図版10])圧縮した廃棄鉄材であるにせよ、ポスターの選択やその破りかたにせよ、オブジェの形や家庭ゴミ、サロンのガラクタ類の扱い方であるにせよ、機械的情動の爆発であるにせよ、知覚の論理的制約をこえた色彩学的感覚の拡散であるにせよ、それらがなされた意図や偶然性は、社会学的に説明できるものである。


図版10(セザール(圧縮作品))



 

 新現実主義者(ヌーヴォー・レアリスト)たちは、世界を一作品、本質的な大作品であると見なし、かれらはその普遍的意味を付与された断片を自分の作品としているのである。かれらはわれわれに、その全体表現のさまざまな局面にある、この現実的なものを見せてくれるのである。そして、そのそれぞれのイメージをとおして、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、人間活動の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流の偉大な共和体制である(注.第一宣言では、「すべての人間活動」となっている。) 

  現在の状況では、マルセル・デュシャンのレディー・メイドは、(カミーユ・ブライアンの動くオブジェもまた)新たな意義をもつことになった。それらには、現代活動の一切の領域の直接表現をしているのだという権利がある。都市の、街の、工場の、大量生産の領域の直接表現である。日常品のこのような芸術洗礼は、今では《ダダ行為》とされている。ダダ神話は、否定(non) そしてゼロ(zero)の段階をへて、第三段階に到達しているのだ。マルセル・デュシャンの反芸術(anti-art)的態度には、建設的な意味があるとされているのだ。ダダの精神は、現代社会の外的現実の適用形態(un mode d’appropriation)と同義語になっている。レディー・メイドはもはや、否定や論戦がはびこるところではなく、新しい表現総覧大系(l’élément de base base d’un nouveau répertoire expressif)の基本要素となっている。

 新現実主義(ヌーヴォー・レアリスム)とは、このようなものである。すなわち、地に両足をつける積極的方法であるが、ダダの零(ゼロ)度より40度も熱いところにあって、まさにこのような水準にあるのだ。現実にすなおに立ちもどれば、人間は現実を、自分のひろびろとした心に同化させることができる。つまり、感動し、しみじみと感じる心、ようするに、詩の、いやそれいじょうの心に、現実界は同化する、そのような水準である。([第二宣言]「ダダより四十度(も熱く)」1961年5月) (Pierre Restany: Avec le Nouveau Réalisme sur l’autre face de l’art. pp.39-40) (注. 赤文字と下線は筆者)


 「新現実主義」のアヴァンギャルド芸術のなかの位置を説明するにあたり、冒頭から、刺激的なことばがならべられているが、けっきょくは、「新現実主義」の原点は、ダダにあるということである。それならば、ダダを原点におくレスタニーの芸術論はどのようなものなのだろうか。

 その「反芸術(anti-art)のプラスティック爆弾は爆発しなかった。その完全否定(non)の神話は、両大戦間の時代をひそかに生きのび、1945年から後、・・・・・・・ ・・ その絶対的否定の美学は、筋のとおった懐疑論となり、それによってついに新しい兆しが芽生えそうになった」 と説明する。ここにある「笑劇(ファルス)であり、伝説であり、精神状態であり、神話である」 ダダは、チューリッヒのダダや、ベルリン、ハノーヴァーのダダでなく、むしろシュルレアリストをとおして紹介されたパリのダダであり、レスタニーのおもいこみによるデュシャンのダダなのであろう。のちに検証するように、そこには、ツァラのダダさえふくまれているのかどうかわからない。なぜなら、ダダがダダであったとき、一度も「反芸術(anti-art)」などということばを発した者はいなかったからである。しかしそれが、戦中を生きのび戦後に復活したという。

 なにに復活したかといえば、「タシスムの暴挙」に生きのこり、「伝統的継続を断絶させる」芸術に復活したというのである。そして、数行にわたる、その伝統断絶の新芸術の説明は選択的であり、混合・錯綜がある。しかし、かえってその恣意性から、かれの真意が読みとれるかもしれない。

 したがって、ここにあげられている、アンフォルメルからニュアジスム、タシスムにいたると極言されている、第二次大戦のちの戦後体制のもとであらわれたアヴァンギャルド芸術について、レスタニーの文脈をはなれて説明しておかねばならない。

 まずは、アンフォルメルについてである。これは、ことに日本の’60年代アヴァンギャルドでは、まるでアンフォルメルにあらずばアヴァンギャルドにあらずという風潮をひきおこした芸術用語である。それは、この用語の命名者といわれたミシェル・タピエが、1957年9月に来日し、「具体」美術グループの作品を絶賛し、また、かれがアンフォルメル作家として賞賛するジョルジュ・マチューの作品展を東京で開催し、パフォーマンス制作を見せたことなどによるものであろう。

 ミッシェル・タピエは、1951年に、パリで、アメリカのジャクソン・ポロックや デ・クーニンの作品をくわえた、ヴォルス、デュビュッフエ、フォートリエの作品展「不定形なもののシニィフィアン(Signifiants de l’informel)」展と「対決する激情(Véhémences confrontées)」展を開催した。そして、翌年の1952年、小冊子『別種の芸術(un art autre)』を刊行して、彼らのそうした作品、絵具の厚みや塗りの凹凸、混合物の質感だけを表現する、形のない作品を、「un art informel (不定形芸術)」として説明した。そうした積極的活動によって、なんとなくこうした作品群を一括して「アンフォルメル」とよぶことが定着した。ことにそれは、芸術評論家であり、キューレーター、コレクター、そして画商でもあったタピエの意欲的で意図的な活動があって、実体いじょうに喧伝された傾向がある。アール・アンフォルメルとは、「art brut[アール・ブリュット](生[なま]の芸術)」のように、普通名詞であったものが、のちに形容詞だけが固有名詞化したのである。(注. 「Signifiants de l’informel」を直訳すれば、「不定形的なものの記号表現(言語学用語)」となるであろう.) そういうわけで、レスタニーの本文中でつかわれている「別種の芸術(un art autre)」は、タピエの、コンテンポラリー・アート解説の書名である。

  ニュアジスム(nuagisme)は、nuage(雲)から派生したことばで、芸術評論家のジュリアン・アルヴァールが、絵具をパットなどで叩きこむように塗る技法をつかう画家、ルネ・デュヴィリエ(René Duvillier)、ルネ・ランビィ(René Lambies)、ジャン・メサジェ(Jean Messagier)らをさす表現として使ったことばである。この名称は、かつて19世紀のロマン派のノールウエーの風景画家ヨハン=クリスチャン・ダールらにたいして、ボードレールの詩に由来し、風景画技法につかわれたことがある表現である。したがって、第二宣言ちゅうの「アンフォルメルからニュアジスムの、様式(スタイル)やテクニックの泥水(でいすい)の大波が発生した」は、芸術史的事実としては、ほとんど意味をなさない説明である。そして、「そこから、おおかたの予想に反して、ダダ神話はタシスムの暴挙(やり過ぎ、過剰性)のなかにみごとに生きのこっていたのだ」と、引きあいに出されるタシスムとはどのようなものだろうか。

 ここでは、ダダとの関連でタシスムを特別にあげているが、その意図はよくわからない。タシスムは、フランス語の tache(染み、斑点) に由来することばである。

 関連するアヴァンギャルド芸術で、「染み」をつかった最初の作品は、おそらくフランシス・ピカビアの1920年の作品「聖処女マリア」であろう。これは、32×23cmの白紙にインクの染みをつけ、紙面上方に「LA SAINTE VIERGE」と手書きし、右下にフランシス・ピカビアと署名したものである。かれはそれを雑誌『391』の第12号(1920年3月刊)に掲載した。雑誌『391』は、当時はパリで刊行していたアヴァンギャルド誌である。第12号の執筆者は、ブルトン、アラゴン、スーポー、エリュアール、デュシャン、ツァラ、リブモン=デセーニュ、デルメェ、アルノォー、ピカビアの妻、ビュッフェ、それに、ピカビアである。ピカビアはこれいがいに、詩、評論、アフォリズムなどを掲載している。執筆者からみるとこの雑誌はプレ・シュルレアリム系、あるいはパリのダダ系雑誌ということができよう。そして、このダダ・シュルレアリスム系のインクの染みからなる作品注は、「処女懐胎」というキリスト教神話を揶揄すると同時に、このインクの染みに、フランシス・ピカビアと署名したことに意味があると、アラゴンは語った(Louis Aragon 《Peinture au défi》. 1930年)。また、戦後になっては、「絵画技法そのものを愚弄する」反絵画(anti-peinture) として評価がたかまった。(Gabrielle Buffet 《Picabia et l’anti-peinture》[『Prisme des arts』No4.1956.6])。(注. この作品は類似した作品『LA SAINTE VIERGE Ⅱ』が制作され現存している.)

 たしかに、当時41歳であったピカビアは、すでに20歳代の後半から印象画系の画家として、画壇にも画商集団にも歓迎される画家であったのだが、そのかれがインクの染みに署名したのである。やはり反絵画行為といえよう。巷(ちまた)にある絵画を嘲笑しただけでなく、自分のもつ絵画技術を批判したのである。画家の自己否認である。

 その後も、このピカビアの「SAINTE VIERGE」は、染みなのか、エクリチュール(文字表記)なのか、形象(フィギュラシオン)なのかが、問題となったような話題作である。(Jean Gérard Lapacherie《Tache? écriture? figuration? à proros de La Sainte Vierge de Francis Picabia》[Melisine No.12]1991年) 

 しかしながら、戦前アヴァンギャルドの、このインクの染み(tache)作品は、反絵画表現であったのであろうが、これを一般技法として、タシスムとよんだものはいない。とはいえ、レスタニーの「ダダの暴挙」がもしこれを指すのなら、それなりの意味をもつが、これは戦前のことであり、そうではなさそうである。かれはピカビアの名はどこにもあげていない。

 そして、そうした戦前アヴァンギャルド芸術にかかわりをもったことばを、戦後、タシスムとして、だれがどこでつかいはじめたかは、今となってもよくわからない。現代美術解説書は、タシスム自体について、ほとんどふれていない。《Dictionary of Art Terms》(Thames & Haudson  world of art)や Jean-Perre Delarge著《Dictionnaire des Arts plastiques modernes et contenporains》(Gründ)などは、シャルル・エティエンヌが ’50年代初期、あるいは、1953年につかいはじめたとしているが、原典はあきらかでない。英語版「ウィキペディア(the free encyclopedia)」には、1951年にシャルル・エティエンヌとピエール・ゲガンがもちいはじめたとある。

 そのひとつでは、芸術評論家のエティエンヌが、アンフォルメル的な作家たちのなかから、アルナール(François Arnal)、デュフール(Bernard Dufour)、デュヴィリエ(René Duvillier)、ジレ( Roger-Edgar Gillet)、ルブシャンスキー(Marcelle Loubchansky)、メサジェ(Jean Messagier)、ピシェット(James Pichette)をとくに選んで定義するため、1953年、タシスムという用語を定めたと記されている。(《Dictionnaire de l’art moderene et contemporain》(Hazan))

 (注. これまで、作家名をフルネームであげたり原文表記したのは、かれらの日本での知名度におうじて、インターネット検索の便宜を考慮したからである。) 

 

 限定した作家名をこのように列挙するいじょう、なんらかの根拠がある記述であろうが詳細はわからない。

 とはいえ、エティアンヌは、戦後はやくから抽象芸術に関心をもつ芸術評論家であって、すでに、「抽象芸術は、アカデミズムなのか?」(1950年)という宣言をだしている。これは、幾何学的抽象画を冷たい抽象画だとして、それらが体系化され教義化されていく傾向を非難し、その支持者らを批判するものであった。そして、こうした立場から、1954年頃より、情熱的抽象(abstraction lyrique) 作品を推奨する論説を、元レジスタンス系の新聞『戦闘ー芸術(CombatArt)』に数多く発表し、評判となった。

(注. abstraction lyriquelyrisme abstraitを「叙情的抽象」とか「抽象的叙情主義」と訳すことがおおいが、「情熱(的)」とするほうがてきとうである.)


 この主張に、当初、シュルレアリストのブルトンは同意しなかったが、やがて、エティアンヌが推奨する、情熱的抽象画家らをシュルレアリストに近いものとして認め、その作品をパリのシュルレリスムの画廊「封印された星」で展示した。なかでも、ドゴテックス(Jean Degottex)、デュヴィリエ、ルブシャンスキーらについては、小論を書いている。かれらいがいにも、エティエンヌが1953年にタシスムとして分類した作家のなかでも、アルナールやデュフールは、シュルレアリストと親密な交流をもつ作家たちであった。

 また、エティアンヌは、シュルレアリストらが中心になって公開した1960年の宣言文、「アルジェリア戦争における不服従の権利」声明の署名者に最初からくわわっている。これは、アルジェリア問題が激化する直前の時期にあたり、アルジェリア派兵の徴兵制に反対する政治行動であるが、どのような新聞、雑誌も掲載しないような過激なものであった。しかし、結果的には、作家や芸術家、大学研究者らが賛同し、1960年9月1日発行の第一回目には121人、10月27日の第二回目には246人の賛同する署名者があつまった。戦前からのシュルレアリストでは、ブルトンを筆頭に、ミッシェル・レイリス、アンドレ・マッソン、ジョルジュ・ランブール、ピエール・マッソ、テォドール・フランケルらがおり、戦後シュルレアリストでは、ジャン・シュステールを世話役に、ベドウアン、ベナユウン、ジョゼ・ピエールら十数名が参加している。ダダイストでは3年後に67歳で死去するトリスタン・ツァラも、第二回目から参加した。そのほかの作家、文学者、芸術家らをあげれば、ジャン=フランソワ・ルベール、サルトル、シモンヌ・ド・ボーヴヮール、モーリス・ブランショ、マルグリエット・デュラス、マンディアルグ、アラン・ロブグリエ、ナタリー・サロート、クロード・シモンらであるが、ヌヴォー・レアリスムの作家はひとりも参加していない。

 つまり、エティアンヌは、戦後のシュルレアリスムに近い立場、シュルレアリスムの社会参加の芸術思想家であった。アヴァンギャルド思想においても、「抽象芸術は、アカデミズムなのか?」の主張にあらわれているように、かれは、体制に組みこまれていく、デ・スティルのモンドリアンやマレーヴィッチのシュプレマティスムの抽象を冷たい抽象であるとし、現行芸術界のありかたにてらして批判し、情熱的抽象を推進すべく活動していたのである。

 これは、「ダダ神話はタシスムの暴挙のなかにみごとに生きのこっていたのだ。まずは、うけた衝撃が隠せなかったのはイーゼル絵画であって、絵画や彫刻の伝統的表現方法の独占体制にたいするさいごにのこる幻想が消え失せてしまったのである。われわれは今、既成表現法の疲弊と硬直化の一般現象に立ち会っている」と、豪語するレスタニーのタシスム称揚とはまるで相反する、現実批判の超現実主義的態度である。

 さらにまた、すでにのべたように、ブルトンをはじめ戦後のシュルレアリストは、レスタニーが言うように戦前の不発爆弾ではなく、戦後のアヴァンギャルドでなお活動中であった。終戦後からこの頃まで開催した国際シュルレアリスム展だけでも、「E.R.O.S.」展(1959.12-1960.1)(パリ)をはじめ、「魔術師の領土へのシュルレアリスムの侵犯」展(1960)(ニューヨーク)やその他数多くある。また、さきの「・・・・不服従の権利」声明のような政治・社会問題や、芸術・文学思想問題への発言を、ブルトンがニューヨークから帰国した1946年以来、ほぼ毎年公開している。そうしたシュルレアリスムの活動を、パリを拠点としている「新現実主義」のレスタニーや作家たちが知らなかったとは考えにくい。それらを承知のうえでこれらの宣言がかかれていたとすれば、その文言の背景にあるものを考慮しておかねばならない。ことにアルマン、ティンゲリー、ヴィルグレーら作家たちの意見が、どのようにこの宣言に反映しているかである。すでに紹介したかれらの集積作品、デコラージュ作品、そして、第二宣言から参加するセザールの、自動車から金属椅子、卓、あらゆるものをおしつぶした圧縮作品、クリストの梱包作品などは、観ただけではシュルレアリスム展の展示作品であるとしてもよい作品である。あるいは、1920年代にブルトンが、デュシャンに出会ったときのように、かれらの作品に出会っていたら、どのように語ったか聞いてみたいような作品である。つまり、かれらの作品は見かけ上、シュルレアリスムと近親性があるということである。にもかかわらずかれらがそれを語らないのは、それなりの意味があるのであろう。つまり、かれらの宣言には、シュルレアリスムに反作用するベクトルが、大きく作用していたのではないかということである。

 アンドレ・ブルトンは、詩や芸術を社会とのかかわりにおいて語った。それにたいしてレスタニーは芸術を社会学に対置させた。芸術論において、ブルトンは、作品から詩や芸術を語ったことはなかった。かれはつねに、詩や芸術を作家から語ろうとした。社会的役割をもつ人間としての作家から語った。そして、レスタニーは作家からでなく作品から芸術を語ろうとしているのではないだろうか。レスタニーの芸術論は作品主義的芸術論である。

 と、そのように読むならば、第二宣言冒頭の、選択的であり、混合・錯綜があるようにみえた戦後の新芸術の説明も、いちおうの一貫性あるものになる。

 ’50~’60年代アヴァンギャルド芸術において、アンフォルメルやタシスム、情熱的抽象(絵画)、ジェスチャー(アクション)・ペインティング抽象(絵画)が、作品主義的見地からすればどのようなものかといえば、すでに紹介したような作家たち、たとえばデュヴィリェやメサジェが重複してあげられているように、まじりあい、混同され、厳密な区分はない。ひとつの作品をそ形態と様式からみただけでは、アンフォルメルかタシスムか、ジェスチャー(アクション)ペインティングか情熱的抽象かなどの識別はできないからである。

 そればかりか、アンフォルメルやタシスムは、アメリカ合衆国で抽象表現主義とよぶような作品様式の、ヨーロッパ名称であるとする解説書もある。(cf. 《Dictionary of Art Terms》) 事実、当時も今も、ヨーロッパではタシスム、日本ではアンフォルメル、アメリカ合衆国では抽象表現主義が、それらを一括して表現するときつかわれることが多い。レスタニーの「タシスム」は、エティエンヌのタシスムではなく、このヨーロッパ的見方による総称的タシスムとすればいくぶんか納得できるものがある。

 そして、そのような作品主義的芸術論は、戦後芸術も、世界2極構造のもとにあるということであり、「資本主義・『自由』主義」の側にある見方からあつかわれ、「モノ」としてあつかわれているということであろう。

(注. 戦後世界2極構造については、本論 1-2) を参照.)


 このような角度から、「新現実主義」のアヴァンギャルド芸術のなかの位置を説明する第二宣言のレスタニーの記述をよむと、まことに当然のことながら、作品主義的立場からなされた位置づけであるようにおもわれる。ただし、レスタニーの芸術論は、画商の立場のような、硬直化した作品主義ではなく、新鮮な展望が垣間見えた作品主義の立場であったことを、ひとまず予告したうえで議論をすすめてみよう。


 第二宣言では、この「新現実主義」の、アヴァンギャルド芸術系譜のなかの位置づけをしたのち、第一宣言で示した作家たちに、セザール(César Baldaccini)をくわえて、まったく同文の紹介をする。にもかかわらず、それら作品の芸術上の説明をするにあたり、第一宣言からの微妙な、しかし重要な修正をおこなう。赤文字表記が修正、黒文字は下線部以外は無修正箇所である。


(第二宣言)

 「新現実主義者(ヌーヴォー・レアリスト)たちは、世界を一作品、本質的な大作品であると見なし、かれらはその普遍的意味を付与された断片を自分の作品としているのである。かれらはわれわれに、その全体表現のさまざまな局面にある、この現実的なものを見せてくれるのである。そして、そのそれぞれのイメージをとおして、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、人間活動 の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流の偉大な共和体制である。」

(注.第一宣言では、「すべての人間活動」となっている。)

参考.(第一宣言). 赤文字は第二宣言では削除、入れ替え箇所

 「こうした いっさいの(今おこなわれ、将来もまたある)冒険は、類型的な思いこみによってつくられる過度の隔たり、つまり、個人的なやむにやまれぬ表現と一般的客観的な偶発事象との度をこした隔たりを、解消する。ヌーヴォー・レアリスム[新現実主義]が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、すべての人間活動の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流の偉大な共和体制である。高級と称するジャンル、ことに絵画の、永遠の内在性があるなどと信じるものがまだそれほど多くないならば、ヌーヴォー・レアリスムの使命を疑うべきではないであろう。」


 第二宣言全文で、追加され、はじめて方向づけられた表明は、おそらくこの赤文字部分がもっとも重要であろう。新現実主義者(ヌーヴォー・レアリスト)たちは、「世界を本質的な作品だとみなし、その普遍的意味を付与された断片を抽出して自分の作品とする」というのである。これは、自然主義と象徴主義を折衷させた芸術論だが、いずれにしても作品主義にかたむく芸術論であり、その宣言である。

 とはいえ、第二宣言でのべられているのは、かならずしも明確な作品主義宣言ではない。

 「新現実主義」が問題にしているのは、現代社会学が問題にしている、「社会的相互交換と社会交流の偉大な人間活動」の共有財産である。「社会的相互交換と社会交流」をする人間活動 とは、芸術活動において、芸術行為をいうのか芸術作品をいうのかはあいまいだが、すでにした、交流〈commerce〉等の字句解釈からみたように、ここには行為する芸術家の視点があるのはまちがいないであろう。作家主義的芸術論の導入である。ただし、この作家主義的視点は、第一宣言と比較すると希薄化する傾向がある。第一宣言と第二宣言の赤文字記述の相違がそれを示している。

 第二宣言で、かれらの作品説明がされている箇所は、第一宣言では、 「こうした いっさいの冒険は、類型的な思いこみによってつくられる過度の隔たり、つまり、個人的なやむにやまれぬ表現一般的客観的な偶発事象との度をこした隔たりを、解消する」とある。とうぜんここでも、作品が視野内にあることはたしかだが、作家主義的視点がつよい発言である。新現実主義は、「個人的なやむにやまれぬ表現(l'urgence expressive individuelle)」 と 「一般的客観的な偶発事象 (la contingence objective générale)」の矛盾を解消できる芸術であると、レスタニーは主張する。個人的な表現の緊急性は、作品よりもむしろ芸術家のもつ緊急性であろう。そうであるからこそ、芸術家となったのであろう。そのやむにやまれぬ逼迫性と矛盾するのが、「一般的客観的な偶発事象 (la contingence objective générale)」であるという。〈contingence〉は、「偶然性」、あるいは、「副次的事項」という辞書的意味をもつが、「世の中」とか「自然法則」の、不可解なままならぬ様態の説明につかわれる用例がおおくあることばである。(参照:le Grand Robert & Dictionnaire de la langue française du 19e et du 20e siècle.)  したがって、「個人的な表現の緊急性」と隔たりがあるのは「一般的に厳然とある不可解なもの」、芸術(家)にとっては、受け容れられ、受け容れなければならない世の中、つまり、社会である。

 また、これを、作品主義芸術論に書き換えれば、第二宣言の文言となるのであろうが、第一、第二宣言のこれらにつづく、芸術の共有財産論は人間主義的芸術論にちかい主張である。ただし、第一宣言では、「すべての人間活動の共有財産」を問題にしている、としているのにたいして、第二宣言では「人間活動の共有財産」と、「すべての」を削除していることには注目しておかねばならない。ヌーヴォー・レアリスムが問題にしているのが「すべての人間活動の共有財産」なら、芸術(行為)に傾くであろうが、「人間活動」なら芸術(作品)でもありうるからである。なぜなら、いかなる形式のいかなる芸術作品も、すべての人間の共有財産とはなりえないからである。それにたいして、芸術(行為)はすべての人間が認め、みずからおこなうことができる行為であるからだ。


第二章 2) Part 3 につづく


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