Avant 2-2-3

2) ’60年代西欧の「新(反)芸術」

─ 『ヌーヴォー・レアリスム』の場合 ─


Part 3



 詩は万人のものであるといったのは、19世紀のアヴァンギャルディスト、イジドール・デュカス(ロートレアモン)であった。

 デュカスが、『詩学断想』(1870年)でそれをかたったのは、「詩は万人によってつくられねばならない。一人によってではない。哀れなるユーゴ! 哀れなるラシーヌ! 哀れなるコペー! 哀れなるコルネーユ! 哀れなるボワロー! 哀れなるスキャロン! 奇癖、奇癖、奇癖」という文脈のなかであった。

 デュカスはここで詩を、既成の記述法の問題として語っている。当時の高等学校(リセ)で、詩の模範、詩文の規範とあがめられるラシーヌやコルネーユ、ユーゴーの作品などは、たんなる個人的な奇癖、チック(顔面不随筋収縮運動)の羅列にすぎないといっているのだ。「チック」とは、詩人のもつ表現の才、個人的な音調、つまり、その特殊性や主観的な感情を示している。彼は、それまでの、これらによって成り立ついかなる作品もダメだと云っているのだ。ほんとうの詩は、個人的感情を表すためではなく、普遍的規範による、良きものの到来のために、すべての人によってなされるものだということである。

 シュルレアリストにもおおきな影響をあたえたこの主張は、レスタニーの宣言の起源にあり、それを発展させたもののようにさえみえる。

  レスタニーは、「われわれは今、既成表現法の疲弊と硬直化の一般現象に立ち会っている」といい、イゼーゼル絵画の幻想が消えたと書いている。イーゼル絵画とは、ルノワール、セザンヌ・・・の絵画技法のことであろう。そして、「幸いなことに、(ヌーヴォー・レアリスムの運動は)この古典手法の活力減退に立ちむかい、その程度と規模はどうであれ、新しい表現の規範的基礎を定めようとしている」という。思想的には、もしデュカスが1960年のパリで、詩ではなく絵画についてはなしたら、おなじように語ったかともおもえるほどである。だが、あきらかにデュカスは、「詩は万人によってつくられねばならない」ということによって、作家主義の立場にたっている。そして、レスタニーはといえば、ヌーヴォー・レアリスムが問題にしているのは、「人間活動の共有財産」といっている。作家主義芸術論としても、「万人のもの」から「共有財産」への、約一世紀間の時代推移に即した展開を、示しているようにおもえる。産業資本主義社会の進展である。

 だが、この芸術論の見地からなされた第二宣言では、ヌヴォー・レアリスム(新現実主義)のこうした19世紀にさかのぼるアヴァンギャルドの系譜についてはふれることなく、木に竹を接ぐような議論を展開する。それは、これまたデュカスの美の箴言、シュルレアリストが好んだ「手術台のうえでミシンと雨傘が出会ったように美しい」を援用すれば、論理的整合を欠くからこそ考察すべきものがあるということである。思想的議論においては、あえてなされる非合理な主張は、それそうおうの確信があるからこそ発せられた先例が多々あるからである。


 第二宣言は、タイトル「ダダより四十度(も熱く)」がしめしているように、「ヌヴォー・レアリスム(新現実主義)」は、アヴァンギャルド芸術の系譜で、ダダの正統の継承者であることをあらためて主張するものである。しかも、ダダは「反芸術」であると先験的に定義したうえでの主張である。そして、それは、すでにみてきたように、第一宣言から第二宣言の「作品主義」への軸足移行と同時になされる主張である。

 反芸術の導入と「作品主義」移行は、いかにしても平行線上の議論である。

 あえてなされるこのような展開は、あるいは「作品主義」へ移行する芸術論の必要不可欠な補完のためかもしれない。なぜなら、「作品主義」芸術論展開のためなら、第一宣言で主張された、「新現実主義」芸術は、社会学的に説明できるものであり、社会学的に新しい一切の現実の芸術であることを作品論的に検証すれば、きわめて論理的な芸術論となるからである。かれはそうしなかったのであるから、やはりその「作品主義」芸術論はみきわめておかねばならない。

 表面的に主張している言い分はこうである。ダダは「反芸術」の絶対的否定の美学であった。それを0(ゼロ)度のダダとすれば、両大戦間をへて、ダダ温度注1が上昇したダダ芸術である「タシスム」があらわれ、いまやダダ温度40度の芸術が出現した。40度は、「首までつかる」注2 にはかなり熱い風呂の湯の温度である。それが「ヌヴォー・レアリスム(新現実主義)」である。

(注1. 温度表記で摂氏(Celsius)、華氏(Fahrenheit)にあたるところがダダと表記されているから、ダダ温度系であつかわれている. 注2. 第一宣言参照.)


  理論上は、絶対否定の美学を白紙状態(table rase)のものとし、さらに白紙状態を0(ゼロ)度におきかえて、そこから上昇40度をみちびくのである。なるほど、絶対否定から白紙状態へは、「白紙還元」でなんとなく説明がつく。そして、この白紙還元状態を0(ゼロ)とするのだが、この0(ゼロ)の設定は、さきに述べた磯崎新の廃墟のゼロ、基準記号としての0(ゼロ)であろう。磯崎ではマイナスとプラスの接点となるゼロであったが、レスタニーでは程度をあらわす0(ゼロ)である。0度ダダがあるから、9度をこえて、10度、40度のダダがあり、あるいは、100度ダダも1000度ダダも、無限大度のダダもありうるのである。つまり、ダダ芸術体系を内在する設定である。体系を内包している白紙である。

 だが、作品主義芸術論からみるといささかわかりにくいところがある。「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」芸術の基準点になる「反芸術」とは、この作品主義芸術論ではどのようなものであろうか。この「反芸術」は、芸術に反対するというよりもむしろ、反対を表現する芸術(アート[技術])としてつかわれているようにみえる。だが、反対を表現する芸術とは、なににどのように反対するのかがわからない。第一宣言いらい反対するのは、「油彩、エナメルのイーゼル絵画」であり、「観念的で想像的なゆがんだプリズム」を通過させた芸術だとはいっているのだが、それだけでは、「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」の独自性を説明するダダの反芸術の証明にはならない。既成芸術技法を否定したはずのシュルレアリスムの、「反芸術」は不発だったと断定するのだから、既成芸術を非難したすべてのアヴァンギャルド、すなわち、イタリア未来派(1909)も、シュプレマティスム(1915)、デ・スティル(1917)、ロシア構成主義(1919)なども、さしずめ「不発弾」だったのだろうから、「反芸術」とは、論理的にはなにに反対する「芸術」作品を想定しているのか、よくわからない。

 そうした曖昧さは、ひとえに起源を「反芸術」におくことと作品主義の平行線を交差させることから生じているようにおもわれる。その克服のための論理展開が、第二宣言の終末にとつぜんあらわれるマルセル・デュシャンの導入である。「ヌヴォー・レアリスム(新現実主義)」の三つの宣言のうちでも、もっとも首尾一貫した議論と展望のある展開であり、また、おそらくは、レスタニー自身が知らずしてした予言的な芸術論であったとおもわれるから、再引用して解釈してみよう。

 

 新現実主義者(ヌーヴォー・レアリスト)たちは、世界を一作品、本質的な大作品であると見なし、かれらはその普遍的意味を付与された断片を自分の作品としているのである。かれらはわれわれに、その全体表現のさまざまな局面にある、この現実的なものを見せてくれるのである。そして、そのそれぞれのイメージをとおして、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、人間活動の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流の偉大な共和体制である。 

 現在の状況では、マルセル・デュシャンのレディー・メイドは、・・・・ 新たな意義をもつことになった。それらには、現代活動の一切の領域の直接表現をしているのだという権利がある。都市の、街の、工場の、大量生産の領域の直接表現である。日常品のこのような芸術洗礼は、今では《ダダ行為》 とされている。ダダ神話は、否定(non) そしてゼロ(zero)の段階をへて、第三段階に到達しているのだ。マルセル・デュシャンの反芸術(anti-art)的態度には、建設的な意味があるとされているのだ。ダダの精神は、現代社会の外的現実の適用形態(un mode d’appropriation)と同義語になっている。レディー・メイドはもはや、否定や論戦がはびこるところではなく、新しい表現総覧大系(l’élément de base base d’un nouveau répertoire expressif)の基本要素となっている。

(青文字は第一宣言と同文、赤文字は強調のため。原文挿入はこれからする解釈を補足するためである。)


 レスタニーは、かれの「作品主義の『反芸術』」を、デュシャンのレディーメイド に託して説明しようとしている。

(注.デュシャンは readymades と一語の名詞として使っている)


 レデイーメイドという芸術用語、および、作品は、デュシャンの創造による。 デュシャンは、1913年パリで、最初のレディーメイドの作品、自転車の車輪を組み立てたが、当時彼はそれを単なる「遊び」だといい、レディーメイドの呼称は、1915年になって ニューヨーク ではじめたものである。

 しばしば現代芸術で引用されるデュシャンのおもなレデイーメイド作品には、≪自転車の車輪≫(1913年)(図版11)、 ≪瓶乾燥器≫(「ヤマアラシ」)(1914年) 、≪雪掻きシャベル≫(「折れた腕より前に」)(1915年)、≪男性用便器≫(「泉」)(1917年)(図版12)などがあるが、現物はほとんど紛失し、現在あるものはデュシャン自身の複製である。(注.《   》は使用された日常器材であり、「   」はタイトルである。)

 かれはそれいがいにも、1910~20年代に、レディーメイドの制作をおこなったが、マンネリを避けるため、また、過去の評判にまどわされたり、合理的精神に支配された「意識」が介入することをおそれて、「たえず行うものではない」と自戒してしている。つまり、意図的芸術作品である。そして、そのほかにも、つぎのような数十点のレディーメイドがのこされている。

  《櫛》(1916年)、《旅行用折りたたみセット》」(1916年)、《紐の束を鉄板二枚で挟んだオブジェ》(「秘めたる音に」)(1916年)、《帽子掛け》(1917)、《密封されたガラスびん》(「パリの空気50cc」)(1919年)(図版13)、《ダビンチの『モナリザ』に口髭を加筆した作品》(「L.H.O.O.Q.」)(1919年)(図版14)、《ガラスの代わりに黒革を張ったフレンチ・ウインドーの模型》(ローズ・セラヴィーの署名)(「Fresh Widow」[←french window])(1920) などがある。


図版11: 「自転車の車輪」



図版12: 「泉」



図版13: 「パリの空気50cc」



図版14: 「L.H.O.O.Q」




 だが、これらを作品としてながめたかぎりにおいては、レスタニーのいう 「それらには、現代活動の一切の領域の直接表現をしているのだという権利がある。都市の、街の、工場の、大量生産の領域の直接表現である」という根拠は理解できない。

 かれのいうところでは、「社会学的にみた時代交代の一切の現実」を問題するところに「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」の特徴があるというのだが(「第一宣言」)、レディーメイドとしてここに提示されているオブジェは、「自転車の車輪」にせよ、「瓶乾燥器」、「雪掻きシャベル」、「櫛」、「帽子掛け」などはいずれも、社会学的に見た、20世紀の時代交代のシンボルでもないし、「都市の、街の、工場の、大量生産の領域の直接表現」でもない。すべては、19世紀以来のヨーロッパ日常生活の表現である。

 ヌーヴォー・レアリスムや、レスタニーが推奨するプレ現実主義の当時の先駆的作品としてなら、ベルリン・ダダのラウル・ハウスマンの「われらの時代精神」(1919年)(図版15)、ハノーヴァー・ダダのクルト・シュビッタース(図版16)のメルツ作品、あるいは、さきのピカビアの、「聖処女」だけでなく「母なしで生まれた娘」(1916−17年)、「裸のアメリカ娘」(1915年)(図版17~18)などを、社会学的に時代交代をあらわすものとして、まだしもあげるべきだっただろう。それらは消費社会、情報化社会、機械化社会の先駆的芸術作品といえるものである。そして、念のために云っておけば、ハウスマンとシュヴィッタースの作品はアサンブラージュのオブジェであるが、ピカビアの「母なしで生まれた娘」と「裸のアメリカ娘」はインク、水溶顔料、グワッシュで描かれている。しかしこれらは、町工場の設計図のようなものではあるが、イーゼル絵画であるにはかわりない。(図版参照)


図版15: ラウル・ハウスマン(時代精神)



図版16: クルト・シュヴィッタース(メルツ)



図版17: フランシス・ピカビア(母なしで生まれた娘)



図版18: ピカビア(裸のアメリカ娘)




  また、そのほかにも、この時代には、ダダ系のアヴァンギャルディストだけでなく、ロシア構成主義のタトリンの作品などは、社会学的に20世紀を予告する芸術活動を積極的ににおこなっている。たとえば、20世紀の機械文明下の建築をあらわす、建築設計とも芸術作品ともいえる作品、「第三インターナショナル記念塔」(1919−20年)(図版19)のデザイン制作である。これはアンビルド建築として現在でも評価されている。


図版19:タトリン(第三インターナショナル記念塔)(unbuilt)



 とするならば、レディーメイドのどの作品が「新現実主義(ヌヴォー・レアリスム)」の先駆作品、あるいは、潜在作品であるかということよりも、重要なのは、これらをデュシャンがレディーメイドと命名し作品化したことにその潜在性があるとすべきなのであろう。

 そうしたレディーメイドが、「否定(non) そしてゼロ(zero)の段階をへて、第三段階に到達しているのだ」とレスタニーがいう論理の道筋をすすめてみよう。

 レディーメイドについて、デュシャン自身は、1961年のニューヨークの現代ミュージアムでの講演で、つぎのような発言をしている。


  1913年に、自転車の車輪を台所の椅子に取り付けて、回転するのを眺めるというおもしろいアイデアを思いついた。

  数ヵ月後、冬の夕方の景色を描いた安物の複製画を購入し、その水平線に赤と黄色の二つの点を描きいれて、それを「薬局」と名づけた。(図版20) 1915年のニューヨークの金物屋で雪かきシャベルを1挺購入し、それに「折れた腕の前に」と書きいれた。

  このような表現の形式をあらわすのに「レディーメイド」ということばを思いついたのは、だいたいこの頃のことである。

  私がきちんと決めておきたいとつよく思ったのは、これらの「レディーメイド」の選択がけっして、美的な快楽 (an aesthetic delectation) に指図されていないということである。

 ひとつの大切な特徴は、「レディーメイド」に、私が時々書きこむ短い文章である。(下線は筆者)(Duchamp: Passim ─A Marcel Duchamp anthology)

(注.フランスの薬局はふつう、ショーウィンドーに色つきの水(多くの場合は赤と緑)のはいった広口の瓶を並べている。)


 ここに示されているのは、日常生活にある既製品(レディー・メイド)は芸術作品と区別がつかないということである。ただし、自転車の車輪を台所の椅子に取り付けて、回転するのを眺めるのがおもしろいということだけなら、現代のわたしたちでも、子供達でも、だれでもがやることであり、感じることであって、ことさらに云うべきことではない。問題なのはそれを芸術行為と比較したことである。そして、芸術をそこからみようとしたこと ━ このような表現の形式をあらわすのに「レディーメイド」ということばを思いついたこと ━である。


図版20:デュシャン(薬局)



  そのようにレディーメイドを思いついたかれは、1917年、当時在住していたニューヨークで、新鋭の芸術家集団のグループ展である「アンデパンダン展」に、最新の商品であった白いホウロウびき男性用便器を、リチャード・マット名で、「泉」とタイトルをつけて出品した。そして、その展示が拒絶されると、小雑誌『ブラインド・マン』に「リチャード・マット事件」と題した小文を掲載した。レディーメイドに、かれが託したものがよくわかる一文である。


  6ドル払えば誰でも出品できるとのことでした。

 リチャード・マット氏は泉を応募しました。なんの相談もなく、この作品は姿を消し、一度も展示されませんでした。

 マット氏の泉を拒む理由は何なのか。

 1.ふしだらで、卑しいと主張したひとたちがいます。

 2.剽窃、ただの排水設備、とするひとも。

 さて、マット氏の泉はふしだらではありません、そんなのは馬鹿げている、風呂桶がふしだらでないのと同じこと。排水業者のショー・ウインドで毎日目にする備品にすぎません。

 マット氏がみずからの手で泉を作ったか否かはどうでもよいこと。かれはそれを選んだのです。毎日の暮らしで使う平凡な道具をとりあげ、新しい題名と見方を示し、役にたつものという意味あいが消えるようにしむけて、このオブジェについての新しい考えかたを創りあげたのです。排水設備だからいけないというのも、馬鹿げたはなし話し。アメリカが世にあたえた芸術作品といったら、もともと排水設備しかないではありませんか。(カルヴィン・トムキンズ(木下哲夫訳)『マルセル・デュシャン』)


 デュシャンがみずからも運営委員をつとめるアンデパンダン・グループ展に、匿名で便器を出品したことの直接的動機は、アンデパンダンと称する芸術グループへの挑戦であったのであろう。これは、あきらかに既成芸術うんぬんをこえた芸術そのものを挑発する行為であった。そしてこれは、かれがパリのアヴァンギャルド・グループに加わっていたときの「階段を降りる裸体(ヌード)」事件(1912年)以来の同根の抗議であって、けっしてたんなる冗談ではなく、確信的芸術行為であった。

(注. アヴァンギャルディスといえども、奇妙なしきたりや、先入観、党派性などにたがいに拘束しあっているということ。「階段を降りる裸体」事件については、拙著『現代芸術は難しくない』を参照)


 ただし、確信的であったのは、当時の芸術家たち、保守も革新も、おおかたの芸術家たちは、まちがっているということであって、かならずしも、かくあるべき芸術像があったわけではない。しかし、かれらのどこがまちがっているかを証明するために、ことさらにその反対の芸術行為を実践し、強弁したようにもみえる。

 したがって、デュシャンのレディーメイドは、芸術そのものに反対するのではなかったけれど、やはり否定(non)の芸術行為であったとはいえるであろう。

 しかし、同時代の芸術家・詩人を否定(non)したのは、たがいに否定しあったこともふくめて、20世紀のほとんどのアヴァンギャルディストたちがそうである。

 デュシャンにおいて注目すべきは、かれがその反対の芸術行為をどのようにどこにむかってしたかである。既成芸術に対抗してかかげたレディーメイドについて、かれはさきに引用した講演のつづきでつぎのように語っている。


 (私がきちんと決めておきたいと強く思ったのは、これらの『レディーメイド』の選択がけっして、美的な快楽 (an aesthetic delectation) に指図されていないということである。

  ひとつの大切な特徴は、「レディーメイド」に、私が時々書きこむ短い文章である。)

 その文は、タイトルのように、オブジェを説明するのではなく、見る人のこころを、もっとひろいことばの領域に導いていくような意味をもつものである。

ときどき私は、頭韻法(alliteration)への私の趣味を満足させるために、「手が加えられたレディーメイド」 (Readymade aided)と呼んでもよいような記号記述を書き加えた。(注.「Fresh Widow」などのことか.)

 べつな機会には、芸術とレディーメイドのあいだの根本的矛盾を際立たせるために、「相互的レディーメイド」(Reciprocal readymade) を考えたこともある。それは、アイロン台にしたレンブランドの作品である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「レディーメイド」のいまひとつの特徴は、オリジナリティの欠如である・・・・・「レディーメイド」のレプリカでも、まったく同じ思想をつたえることができるのだ。実際のところ、今日存在する、どのひとつの「レディーメイド」をとってみても、それは、伝統的な意味でのオリジナルな作品ではない。

 この自分勝手な話しの最後の締めくくりとしていわせていただくなら、芸術家が使用する絵具は工業製品であり、レディーメイドの製品であるのだから、世界中のあらゆる絵画は、「手が加えられたレディーメイド」であり、アサンブラージュの作品でもあるのだと、結論させていただきましょう。


 表面的にいわれていることは、「『レディーメイド』は美的な快楽に指図されていない」ということであり、「『レディーメイド』にはオリジナリティが欠如している」ということである。つまり、レディーメイドは、だれしもがおもう美学的な伝統芸術の反対側にある芸術だということである。そして、それならば、どのような芸術を対抗させているかといえば、そのてがかりになるのは、さいごの冗談であろう。かれは、「芸術家が使用する絵具は工業製品であり、だから、世界のあらゆる絵画は『手が加えられたレディーメイド』」であるなどといって、なかば笑いをさそうための強弁をする。しかし、この結論は、半世紀前のレディーメイドをはじめた頃のあの「泉」事件で、はやくももっと直裁に、このことにふれているのだ。かれのレディーメイドについての発言は、さきにも述べたように、確信的であるから、いつの時代に、どこで語られたものでも、そこには一貫性がある。

 「リチャード・マット事件」の結論をもう一度みてみよう。

  

 マット氏がみずからの手で泉を作ったか否かはどうでもよいことかれはそれを選んだのです毎日の暮らしで使う平凡な道具をとりあげ、新しい題名と見方を示し、役にたつものという意味あいが消えるようにしむけて、このオブジェについての新しい考えかたを創りあげたのです。排水設備だからいけないというのも、馬鹿げたはなし話し。アメリカが世にあたえた芸術作品といったら、もともと排水設備しかないではありませんか。


 ここでいわれていることと講演で語られたことを融合し、拡大すれば、レディーメイドとは、芸術と生活の境界線を無効にする芸術であり、また、芸術が個人的なものであることをやめた芸術である。

 そのようなデュシャンのレディーメイドについて、シュルレアリストのポール・エリュアールは 「すべてのものが他のあらゆるものと比較しうるし、すべてのものが至るところに自己の反響を見出し、至るところに自己の正当な理由を、自己との類似を、自己に対立するものを、また自己の変転のさまを見出しうる」ことを示してくれた芸術であると、早い時期に語っている。レディーメイドはみごとな芸術作品であるということである。

 とするならば、さきに再度引用した第二宣言におけるレスタニーのことばはちがった輝きをおびたものとなる。レスタニーのいう、《ダダ行為》が日常品のこのような芸術洗礼をしていることは、デュシャン自身が「新しい題名と見方を示し、役にたつものという意味あいが消えるようにしむけて、このオブジェについての新しい考えかたを創りあげたのです」とのべていることにじゅうぶんあらわれている。そうした、芸術洗礼をうけたレディーメイドがひろい意味をもつりっぱな芸術作品であることは、デュシャンの「見る人のこころを、もっとひろいことばの領域に導いていくような意味をもつものである」という確信だけでなく、エリュアールの指摘からもじゅうぶん納得できるものがある。

 しかし、レスタニーはこれにとどまることなく言をつづけている。「マルセル・デュシャンの反芸術(anti-art)的態度には、建設的な意味があるとされているのだ。ダダの精神は、現代社会の外的現実の適用形態(un mode d’appropriation)と同義語になっている」と。

 これもまた、わかりにくい表現である。この場合のわかりにくいというのは、さきにも述べたように、かれのうちにある直感的思想がまとまっていないということであろうが、それでもなおそとにあらわしたいものがあるということであろう。わかりにくいのは、ダダの精神現代社会の外的現実の適用形態と同義語になっている、ところである。

 外的現実の「適用形態(un mode d’appropriation)」とは、外的現実を自分のものにする形態である。とするならば、ここにいたるコンテクストからすると、外的現実(都市、街、工場、大量生産、情報社会、消費社会)の「断片を自分の作品とする」(自分の作品に適用する)ことであろう。

 だが、ここにある〈appropriation〉という語に注目しなければならない。アプロプリエーションとは、’80年代の芸術論でつかわれた用語である。これは、〈appropriation〉を「盗用」とか「援用」とするものである。芸術評論家ダグラス・クリンプが、1979年、ニューヨークの「ピクチャーズ」展で提唱した、既存作品イメージ活用の芸術論である。代表例としては、金色の便器をつくり、また、ウォホールの「マリリン・モンロー」の顔に自分の顔をいれたシェリー・レヴィーンや、既存写真や漫画キャラにデザイン文字を配置するバーバラ・クルーガーなどの作品があげられる。しかし、アプロプリエーションは、たんに広義の本歌取りのような芸術論としてだけでなく、シミュラークル(simulacre)理論やシミュレーショニスムに関連した現代芸術論となった。とはいえ、このような芸術としては、’80年代をまつまでもなく、すでに ’60年代でも、イヴ・サンローランのファション・デザイン「黒い線のあるリズム」などは、モンドリアン作品のアプロプリエーションともいえるものである。(図版21、22) 1961年というこの時代における、このようなレスタニーの「新現実主義(ヌヴォーレアリスム)」芸術論の「適用形態」の指摘は、時代を先取りする芸術論であり、かつ、それがダダの反芸術に起源があるというのは先見性のある芸術作品論であったといえるであろう。


図版21:  ピエト・モンドリアン



図版22:  イヴ・サンローラン



 しかしながら、あくまでこれは作品的芸術論である。そして、おそらくは、第二宣言において、作品主義に傾斜していくレスタニーの意識部分にあったのは、これにちかいものであったのであろう。

 とはいうものの、かれの「現代社会の外的現実の適用形態(un mode d’appropriation)」には、意識の底にひそむ、ことなる想いもまた、こめられられていたのではないか、とおもわれる。事実、レスタニーは、〈appropriation〉を、’80年代のポストモダニズムのアプロプリエーション、すなわち、「横領」「援用」より「適応」の意味で使っている。かれは 「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、・・・・・すべての人間活動の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流(commerce)の偉大な共和体制である」と、当初の第一宣言から断言しているのだが、「交換」とは、適応によって価値をうみだす行為だからである。したがって、「社会的相互交換と社会交流」をするということは、「現代社会の外的現実(すべての人間活動)を転用する」ことである。

  「すべての人間活動」にはとうぜん芸術活動もはいるから、転用の主張は、芸術的には、ジャンルの越境による芸術ジャンルの無効性を主張するものとなる。そして、その結果、既成ジャンルの廃絶した芸術としてあらわれたのが、デザインであり、ファション、インテリア、建築、そして、都市計画であった。また、映画であり、マンガであり、ゲームであった。たとえば、’60年代以降、新しい現実からあらわれたマンガといわれるものは、それまでの芸術ジャンルでいえば、絵画、小説、イラスト、戯曲、詩・・・の領分を越境し侵すものであった。そのことについて思想的には、すでにデュシャンも、「リチャード・マット事件」で、美術品と「排水設備」や「橋」は等号関係にあるといっていたのだが。

 こうしたレディーメイドの反芸術は、ジャンルの無効性の主張であったこと、そして、その結果おこったこれらは、レスタニーの無意識的予言が実現したものである。だが、「ヌヴォー・レアリスム(新現実主義)」がいまひとつ問題にしていたことは実現しなかった。というよりもむしろ、かんたんに放棄されてしまった。それは、「ヌーヴォー・レアリスム[新現実主義]が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、すべての人間活動の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流の偉大な共和体制である」ということ自体の目的達成である。    

 なるほど、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にした、社会学的な一切の現実に即した人間活動の、社会的相互交換と社会交流による共有財産化は、旧来の既成芸術のジャンルを撤廃させ、産業芸術構築に貢献するものであったが、はたしてその「偉大な共和国」が設立されたのかどうか。あるいは、その「偉大な共和国」に、「ヌーヴォー・レアリストたち」、つまり、芸術家たちが、大手を振ってはいることができたのかどうか。芸術家たちが、それによって芸術家としてゆたかに暮らすことができるようになったのか、ということである。

 ジャンルのない、つまり、身分階層のない芸術家として生活することができたのか、ということである。たとえば、出版芸術もふくめる産業芸術の出現と確立によって、既成ジャンルは無効化された。だが、あたらしいジャンルがあらわれ、芸術家たちは、建築家、都市計画デザイナー、インテリア・ファション・デザイナー、あるいは、イラストレイター、写真家、さらには、出版人(パブリッシャー)、プリンティングディレクター、ブックディレクター、写真評論家、ギャラリスト、キュレーター・・・・ジャンル廃絶以前よりはるかに多くの職業、身分に分類され、みずからそれを名乗った。いわばそうした烙印をおされた芸術家として、「偉大な共和国」のなかで、家畜のように酷使され、また、たがいにいがみあってくらしているのではないだろうか。

 レスタニーが第一宣言で、「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」の目標を記したとき、「社会学的な一切の現実に即した人間活動の、社会的相互交換と社会交流の偉大な共和国」の意味するものは、芸術作品だけでなく、芸術家の共和国も、ダブルイメージとして、その念頭にあったようにおもわれる。芸術家が主体性をもって精神的にも物質的にも、芸術的にも経済的にも、安楽にくらしていける生活環境がその前提にあったようにおもわれる。ことにここで用いられている「共有財産」や社会的交流(商業)という語には、すべての人の物質的利益が保証されるという大前提がある。

 そうしたことについては、さきに引用した第一宣言にある原文(14ページ、または31ページ)を参照していただければわかりやすいかとおもう。

 また、さらにそのことは、ひとつの傍証にすぎないかもしれないが、第一宣言がかかれる以前に、有力なメンバーであったイヴ・クラーンが、彼が創出した「パール・サファイア・ブルー」をインターナショナル・クラーン・ブルー(IKB)で特許を取得していることになんらかの関係があるかもしれない。芸術家がおこなう社会的相互交換と社会交流(commerce)のひとつ萌芽を、レスタニーはこのようなもので見ていたのかもしれない。それは、論理化されない、直感的な思想表現であったのかもしれない。1961年のこの時代では、いまでこそ問題になっている芸術著作権のことなど芸術論で語るものはほとんどいなかった。産業芸術では、著作権より特許のほうがじつは芸術家にとって、展望ある視点であるのは、現代もまたそうなのかもしれない。これらのことは、現代の作家主義芸術論では不可避のテーマであるが、作品主義芸術論では、不可触的なプラスチック爆弾である。

 レスタニーの芸術論でも、「反芸術」を語りながらも、作品的芸術論に傾斜していくにつれて、そのことは、例外ではなく、歪曲されていく。ヌーヴォー・レアリストたちは、2年後の1963年2月、ミュンヘンで第二回ヌーヴォー・レアリスム・フェステバルを開催した。このときレスタニーが書いたのが第三宣言 「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)はどのようなものと考えるべきか?」である。

 第一、第二宣言からつづくこの第三宣言で、第一宣言からあった作品主義的傾向がいっそう鮮明となる。というよりもむしろ、作家主義の立場が希薄化し、消し去られてしまう。

 第一、第二宣言にあった、いままで議論をかさねてきた作家的芸術論とも解することのできる文面が、どのようになっているかをみてみよう。


 新現実主義者(ヌーヴォー・レアリスト)たちは、世界をひとつの作品、本質的な大作品であると見なし、かれらはその普遍的意味を付与された断片を自分の作品としているのである。彼らは我々に、その全体表現のさまざまな局面にある、この現実的なものをみせてくれるのである。そして、客観的イメージという表現手段をとおして、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、一切の現実であり、人間活動の共有財産であり、科学技術化され、産業化され、宣伝広告化され、都市化された20世紀の自然(原文イタリック)である。(赤文字は、第二宣言から変更された文言である。下線は筆者。)


 第二宣言の「社会的相互交換と社会交流(commerce)の偉大な共和体制」が 「科学技術化され、産業化され、宣伝広告化され、都市化された20世紀の自然(イタリック)」に置換されてしまっている。

 参考のため第二宣言を再引用しておく。


 新現実主義者(ヌーヴォー・レアリスト)たちは、世界を一作品、本質的な大作品であると見なし、かれらはその普遍的意味を付与された断片を自分の作品としているのである。かれらはわれわれに、その全体表現のさまざまな局面にある、この現実的なものを見せてくれるのである。そして、そのそれぞれのイメージをとおして、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、人間活動の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流(commerce)の偉大な共和体制である。(注.第一宣言では、「すべての人間活動」となっている。)


 いかに読んでみても、置き換えは同一思想の深化、発展、あるいは、言いかえとはおもえない。イタリックで強調された「20世紀の自然」と「偉大な共和国」は、ことなる思想基盤からでてきたことばである。共和体制は芸術家の社会制度であり、20世紀の自然は、19世紀の印象主義芸術いらい、既成芸術家らの表現する作品対象である、社会そのものである。

 このような芸術思想をレスタニーがもっていたことはたしかであり、また、それはおそらく、第二宣言でもなんらかの痕跡をのこしているのかもしれない。あるいは、第一、第二宣言では、異なる思想の陰にかくれていたのかもしれない。

 事実、さきに紹介した1962年に日本で発表した、ヌーヴォー・レアリスムの解説論文では、つぎのようにかかれている。

 

 われわれは、今日、新しい言語の誕生にたちあっているのだが、この新しい言語とは、自然に対する新しい解釈から生まれたものである。自然とは、今日の若い世代にとって、ヴィルギリュースの自然でも、ジャン・ジャック・ルソーの自然、あるいは湖畔詩人の自然でもない。要するに、感傷的なものでも、牧歌的なものでもなく、工業生産化され、商品の氾濫している社会の、都会の自然だからである。若い芸術家たちは、次第にこの社会的現実に対する認識(日常生活の文脈)を自分のものとした。彼らは、クラシックな転写の方法によることなく、直接、社会的現実にたちむかう必要を深く感じたのだ。(下線は筆者)(「パリとニューヨークのアヴァンギャルド  自然の新しい解釈」(日向あき子訳)(『美術手帖』1962年12月号)


 ここにあるのは、あきらかに「われわれの作品」説明であり、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)の作品が、なにをどのように表現しているかの芸術作品論である。

 工業生産化され、商品が氾濫し、都市化された自然という、あたらしい自然を、あたらしい表現形態で表現する作品ということである。

 こうした芸術作品論は、『美術手帖』という日本の美術雑誌掲載の紹介論文であるからには、それなりの意味(宣伝と愛好家獲得)をもつのであろうが、この作品的芸術論の傾向は、一年後のこの第三宣言で、すでに第一宣言と第二宣言で比較した方向が、いっそう明確になる。

 第三宣言では、ヌーヴォー・レアリスムが問題にしていることだけでなく、「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)とは何か。現実への新しい知覚アプローチである」があらためて記されている。

 これは、レスタニーをふくむ9名の芸術家が集まってだしたヌーヴォー・レアリスムの創設声明の引用である。1960年4月、ミラノで開催した「ヌーヴォー・レアリスト(新現実主義者)たち」展の半年の後、10月27日にイヴ・クラーン のアパルトマンに、アルマン、デュフレーヌ、アンス、マルシャル・レエース、ダニエル・スペーリー、ティンゲリー、ヴィルグレらが集会し、議論をかさねたすえに合意した内容を、94.5×63.5cmの大型用紙一枚に記入し、九名全員が署名した。ヌーヴォー・レアリストたちから、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が誕生したのである。大型青色用紙(IKB)に白とピンク色のパステルで手書きされた内容はわずか三節、日付と、本文2行、「ヌーヴォー・レアリスト(新現実主義者)たちは、自分たちの集合的特異性に気づいた。 ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)=現実への新しい知覚アプローチである」のみのそっけないものである。

 かれら8人プラス1名の合意事項はこれだけだったということであろう。Les nouveaux réalistes(新現実主義者たち)を展覧会案内ですでに世に紹介し、また、この声明の執筆者といわれるレスタニー自身は、このヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)の定義について、その第一宣言、第二宣言では、ほとんどふれていない。ただ、第二宣言で、微妙に関連するかとおもわれる表現があるだけである。「・・・・・ゼロ度のダダは、抽象的情熱の現象学的基準を構築した。それは伝統的継続の断絶であり、そこから、アンフォルメルからニュアジスムの、様式(スタイル)やテクニックの泥水(でいすい)の大波が発生した」で言及されている「現象学」なるものである。この現象学は、’60年代という時代風俗からみると、フッサールの現象学ではなく、芸術界でも評判になった『知覚の現象学』(1945年)を刊行したモーリス・メルロー=ポンティの現象学の基準であろう。知覚、身体、行動を一体化し、主体と客体の未分化の視点から表現の再構築をはかるというのなら、ヌーヴォー・レアリストたちの作品説明としては、あるていどまで一貫性のある議論である。だが、第二宣言では、この新しい知覚アプローチはアンフォルメルの様式やテクニックの傍証として示されているだけで、文脈上では、イーゼル絵画、伝統的表現法の衰退をもたらした理論ということである。

 ところが、第三宣言では、現実(20世紀の自然)へのあたらしい知覚アプローチというヌーヴォー・レアリスムの作品芸術論の基本説明となっている。

 このような経緯は、第一、第二、第三の宣言は、ヌーヴォー・レアリストたちの主張というより、レスタニー自身の思想表現であることをしめすものであろう。とすると、レスタニーの思想基盤が変動したとみるべきであろうか。そうであるならば、ヌヴォー・レアリストの基本了解と、第一宣言から第三宣言への作品主義へのあきらかな傾斜はどこにはじまり、どのようなものであろうか。

 第二宣言で、「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)」の芸術系譜はダダに発すると、あれほどまでに主張されたダダについて、第一宣言では、「ダダよりも四十度もあつい風呂、直截表現の風呂に首までつかっているのだ」に、たった一語あげられているだけである。あれほどまで親密なかかわりがあると説明された、マルセル・デュシャンについても、レディーメイドについてもその片鱗さえ、第一宣言にはみいだすことができない。「第一宣言」執筆中のレスタニーの思考論理は、レディーメイドのみならず、デュシャンも「反芸術」も無関係の領域で機能していたとしかおもいようがない。つまり、「新しいリアリストたち」や「新しいリアリズム」は、ダダはデモデ(流行おくれ)のアクセサリーであり、デュシャンやレディーメイドは視野外にあるものであった。 

 ところが、それが、おそらく盛況であった一年後のパリのJ.画廊展(1961.5)では、タイトルが「ダダより四十度(も熱く)」となり、視点が一転して過去へむかって逆転する。

 こうした急変は、1960年4月のミラノ展からこの第二宣言までのあいだにおこった、レスタニーだけでなく、ヌーヴォー・レアリストと分類された作家たちの芸術環境の変化がおおきく作用したのではないかとおもわれる。


第二章 2) Part 4 につづく


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