Avant 2-2-4

2) ’60年代西欧の「新(反)芸術」

─ 『ヌーヴォー・レアリスム』の場合 ─


Part 4



 1960年代までの、のちにヌーヴォー・レアリストに分類されるかれらの芸術活動は、その頃それぞれの軌道にのりはじめていた。拠点とするパリだけではなく、ミラノ、ケルン、ハノーヴァー、コペンハーゲン、アムステルダムのヨーロッパ諸都市の画廊で展覧会をひらき、錯綜しまとまってはいなかったのだが、たがいに交流する関係にあった。なかでも、セザール、アルマン、ティンゲリーは、戦後アヴァンギャルドのメッカ、ニューヨークで展覧会をもつことができた。とくにティンゲリーが、ニューヨーク近代ミュージアム(MoMA)で、自壊するオブジェ「ニューヨーク賛歌」のデモストレーションをおこない評判をえたのは、1960年3月のことである。

 だが、ミラノの「ヌーヴォー・レアリスト(新現実主義者)たち」展(1960年4月)まで、かれらの芸術活動を統括する名称はなかった。それいぜんにあった芸術名称で、類似したものでは、50年代半ば頃、「Salon des réalités nouvelles (新現実サロン)」があったが、クラーンのモノクローム作品を、「抽象芸術ではない」と拒絶するような芸術傾向をもつグループである。

 そうしたとき、ミラノのアポリネール画廊でおこなわれたのが「ヌーヴォー・レアリストたち」展であり、かかれた案内状が、のちに「第一宣言」といわれるものであった。芸術的意図というより、コマーシャル的キャッチフレーズにちかいものであったのだろうが、ヌヴォー・レアリスト、ましてやヌーヴォー・レアリスムの呼称の初使用であり、かれらやその周辺にいたアヴァンギャルドの作家らにとっては魅力的な名称であったのであろう。それが、芸術的に真剣な10月の作家集会を企画させ第一の理由とおもわれる。

 事実、これ以降、かれらはグループで行動することがおおくなる。1960年11月には、パリ・アヴァンギャルド・フェスティバルには、スペーリー、アンス、デュフレーヌ、ヴィルグレ、ロテェラ、アルマン、セザール、クラーン、ティンゲリーらがまとまって参加する。

 1961年2月になると、パリのサロン・コンパレゾン(le Salon comparaisons)は、ヌーヴォー・レアリストたちの作品をうけいれ、「ヌーヴォー・レアリスト(新現実主義者)」は、なかば公認のアヴァンギャルド芸術家となった。さらにこの年9月の第2回パリ・ビエンナーレでは、アルマン、レエース、デュフレーヌ、アンス、ヴィルグレらの作品が、さまざまな部門で入賞し評価された。

 そしてニューヨークでも、4月にはイヴ・クラーンの最初のアメリカ展「クラーンとモノクローム」展が、レオ・カステリ画廊で開催された。レオ・カステリは、当時すでに、ジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグを専属アーティストとしており、もっぱらアヴァンギャルドのアーティストを専属とすることによって成功者となった画商である(注.『百万遍』2号掲載、拙著「戦後政治体制と現代芸術」を参照) なお、このカステリ画廊で展示されたクラーンのモノクローム作品は、理解されず、あまり評判にならなかったようである。

 そのほか、ティンゲリー、アルマン、セザールも頻繁にニューヨークの画廊で展覧会を開き、抽象表現主義のラウシェンバーグらと交流をもった。そこには、当時ニューヨークとパリを往来し、アメリカ芸術界でつよい影響力のあったデュシャンの尽力や仲介が、クラーンのカステリ画廊展がそうであったように、おおきく作用したといわれている。デュシャンはいわばアメリカ合衆国の伝説的アヴァンギャルド芸術家であった。かれの代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」にせよ、レディーメイドにせよ、合衆国で制作され、合衆国で評価され、作品の大半が合衆国ミュージアムで管理されていたからである。

 このような状況のもとでかかれたのが第二宣言「ダダより四十度(も熱く)」である。これは、1961年5月の J.(Jenine Restany)画廊開店記念展の案内状である。そしてまた、この一ヶ月後の6月、レスタニーはみずから企画して「パリとニューヨークのヌーヴォー・レアリスム」展をパリのリーヴ・ゴーシュ(左岸)画廊でひらき、案内状「現実はフィクションを超える(La réalité dépasse la fiction)」を書いている。後者の展示作品は、アルマン、ボントコウ(Lee Bontecou)、セザール、チェンバレン(Chamberlain)、クリッサ(Varda Chryssa)、アンス、ジャスパー・ジョンズ、クラーン、ラウシェンバーグ、ニキ・ド・サン=ファール、スタンキーウィック(Richard Stankiewicz)、ティンゲリーといった、パリとニューヨーク在住のヌーヴォー・レアリスト、ネオ・ダダ、ポップ・アート混合の作家の作品である。

 こうしたアヴァンギャルディストの作品を網羅し、統合しようとする展覧会は、当時、パリでもニューヨークでもさまざまなかたちでひらかれていた。大規模なものでは、ニューヨーク近代ミュージアム(MoMA)で、同館のキューレータ、ウィリアム・サイツが同年10月に企画した「アサンブラージュ芸術」展がある。これは、都市と産業社会に由来する新しい美意識を表現する、キュービスムから1960年までの全作家総覧を謳う大展覧会であった。展示作家は、アルマン、ジョージ・ブレクト、アンス、キーンホルツ、ラウシェンバーグ、レエース、セザール、ロテェル、サン=ファール、スペーリー、ティンゲリー、ヴィルグレー・・・・・らその他多数、キュビスム以来の全20世紀アヴァンギャルディストにまじって、フランス、合衆国のヌーヴォー・レアリスト、ネオ・ダダの作家たちが勢揃いしていた。

 このような画廊、ミュージアム界の状況のなかでかかれたのが「ダダより四十度(も熱く)」であり、「現実はフィクションを超える」であった。したがって、この第二宣言は、第一宣言の後編とするよりむしろ、「パリとニューヨークのヌーヴォー・レアリスム」案内の「現実はフィクションを超える」と、セットで読むべきものであろう。

 当時パリやニューヨークにアヴァンギャルドとしてあらわれている作品を、ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)としてどのように統括するかの問題である。その理論編が「ダダより四十度(も熱く)」であり、応用編が「現実はフィクションを超える」であろう。

 と読むならば、第二宣言の抽象表現主義、ネオ・ダダを包括しようとするヌーヴォー・レアリスムの性急な位置づけと、やや強引なダダの「反芸術」と、デュシャンのレディーメイドを援用する意味が、それなりに理解できる。ここでは、それらヌーヴォー・レアリスムやネオ・ダダやアンフォルメルといわれるものは、すでに画廊やミュージアムに陳列されているのであるから、芸術作品として成立し存在しているのである。あとは、それがどのような意味でりっぱな作品であるかを証明するだけである。それが、「ダダ神話は、否定(non) そしてゼロ(zero)の段階をへて、第三段階に到達しているのだ」という、「反芸術」作品論となり、レディーメイドをもちだした作品論において、ダダより四十度も熱いヌーヴォー・レアリスムであるということであった。

 いわばそこでは、レスタニーの視線はヌーヴォー・レアリスムの内面にむかうより、あれもこれもヌーヴォー・レアリスムだという、外に向けられたものであった。

 だが、「ダダ」とデュシャン、ことにそのレディーメイドを祖とするという芸術論は、ニューヨークの芸術家らにはさほど問題にならないが、パリの芸術家にとっては承服できないものがあったのであろう。レスタニーとしても、第二宣言の冒頭においてかれらへの配慮をそれなりに示しているようにみえるが、 それではふじゅうぶんであったのであろう。

(注. 第二宣言冒頭には「ダダは笑劇(ファルス)であり、伝説であり、精神状態であり、神話である。ひそかな名残りや気まぐれな宣言がみんなを騒がせている、出来そこないの神話である。まずアンドレ・ブルトンが、それをシュルレアリスムにとりこみ、自分のものだと考えた。しかし、反芸術(anti-art)のプラスティック爆弾は爆発しなかった」とある。パリのクラーンを筆頭とするヌーヴォー・レアリストたちは、シュルレアリスムを「踏み絵」とし、ブルトンが評価したダダ、そして、たがいに親密な関係にあったデュシャンにたいしても、複雑な感情をもっていた。’60年代アヴァンギャルドでは、ダダやデュシャンを評価したのは、フランスよりむしろアメリカの芸術家たちであった。フランスでは、それらをすでに超克したという傾向にあった。その点、日本で彼らが評価されたというのは、日本のアヴァンギャルドとアメリカ・アヴァンギャルドの関係を暗示するものであろう.)


 「第二宣言」は、ヨーロッパのヌーヴォー・レアリストたちに不和をもたらした。そして、半年後には、クラーン、アンス、レエースが、モンパルナスのカフェ「クーポール」にあつまり、ヌーヴォー・レアリスムの解散声明に署名した。かれらクラーン、アンス、レエースの作品傾向からみれば、これはとうぜんのようにもみえる。クラーンの芸術活動には、アクション、ハプニング、コンセプチュアル・アートの傾向はあるが、作品主体は色彩・平面作品である。アンスやレエースの作品制作は、オブジェというより平面立体の視覚作品である。ティンゲリー、アルマン、スペーリー、セザール、それに当時のサン=ファールらが、デュシャンのレディーメードに近接した制作をおこなっていたのにたいして、クラーン、アンス、レエース、ヴィルグレ、デュフレーヌ、ロテーラ、デェシャンらの作品が、レディーメイドから影響をうけたとはおもえない。さらにかれらすべてものは、すでにのべたように、自分たちの制作行為は独自の完成にむかっていると、確信していたのであろう。

 そうしたパリのヌーヴォー・レアリストの芸術家たちにとって、いまさら破壊のダダを問題にする理由がなかったのであろう。

 しかしながら、レスタニーの「第二宣言」をかれらは承認することはなかったが、かれらのヌーヴォー・レアリストとしてのグループ活動は継続された。かれら、現役の作家たちにとって、ヌーヴォー・レアリスムは、芸術論ではなく、かれらの作品宣伝のキャッチ・コピーにちかいものであったのかもしれない。

 そして翌年1962年になると、ヌーヴォー・レアリストたちの活動は、さらに国際的に活発化する。個々の芸術家は、つぎのようなあたらしい試みを実践する。

 アルマンは集積物をポリエステルの匣に封じこんで作品化し、ブリュッセル、ロサンジェルス、スイスのグシュタードで展覧会をひらき、またそこでは、グランド・ピアノの解体を公開してみせた。その年、「ショパンのウォータールー」に結実する芸術行為である。セザールとクラーンは、パリの装飾ミュージアムの「対抗するオブジェ」展に、フォンタナ、マッタ、タキースらと共演出品し、アンスはバーゼル、ケルン、ミラノの画廊で展覧会を開催した。そして、クリストが、生身のモデルを透明プラスチックで梱包したり、また、ヴィスコンチ街の通路を石油缶240個で封鎖し、それを作品化したのもこの年1月と6月である。また、サン=ファールは、ティンゲリーの協力をえて、ミロのヴィーナスの射撃デモストレーションをおこなった。ティンゲリーは、昨年につづき2回目の「自壊するオブジェ ━ 世界終末のためのエチュード」を、NBCテレビの協力により、合衆国ネヴァタ州の砂漠でこころみ、フィルム映像化した。そのほかにも、ヌーヴォー・レアリストといわれた芸術家らの、芸術史にのこる、この年実現した作品はおおくある。

 さらにまたこの年は、かれら芸術家個人のエポックメーキングな年だけでなく、ヌーヴォー・レアリスムが作品芸術界の絶頂を刻印した年でもある。絶頂とは、年末に開催されたパリとニューヨークで開催されたふたつの展覧会と、6月にあったイヴ・クラーンの急死によって刻印されるようなものである。クラーンは、色彩から造形、そして、ハプニング、コンセプチュアルの先駆にいたる作品の複雑多様性と、明確にはされなかったが信仰的な確固とした思想性、そして、その行動力が、かれ独自のかたちで発揮され、ヌーヴォー・レアリスムといわれるものの事実上の中核であった。レスタニーの執筆活動も、芸術活動自体も、クラーンの鏡であったようにみえるところがある。(わたしがここでいいたいのは、第一、第二宣言で問題にした「ヌーヴォー・レアリスム(新現実主義)が問題にしているのは、社会学的な一切の現実であり、すべての人間活動の共有財産であり、社会的相互交換と社会交流の偉大な共和体制である」の注目すべき部分の第三宣言での消滅は、かれの死が間接的に、だか、決定的に関連しているのではないかということである。)

 ところが、かれの死によってヌーヴォーレアリスムは中核が消滅し、解体をつなぎとめ、あらためて引きよせる力をうしなった。あとは徐々にくる自然解体があったということである。

 しかし、このようなクラーンの死はわきにおくとして、この年には、ヌーヴォー・レアリスムについて、直接かかわるものと傍証的な、ふたつの展覧会がひらかれている。まず一瞥しておくべき展覧会は、10月24日ー12月17日の長期にわたって、パリのセルクル画廊で開催された「コラージュとオブジェ」展である。この展覧会は、前年ニューヨークで開催された「アサンブラージュ」展に対抗して、アラン・ジュフロワとロベール・ルベールが企画したものであった。ロベール・ルベールは、大戦時のアメリカ亡命中にブルトンに共感し、シュルレアリスム系の芸術評論家になった、詩人、画家であり、『マルセル・デュシャン論』をブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』に関連させて書いている。また、ジュフロワは、レスタニーや東野芳明より二歳年長の、活動的な新進の評論家、詩人、小説家であった。

 かれらはこの企画のために、45名のアーティストを選別し、そのなかに、「アメリカ空軍の防水シート・シリーズ」出品のデェシャンや、「現代の視覚 ━ メガネ・シリーズ」のスペーリーをはじめ、アルマン、デュフレーヌ、アンス、レエース、ロテーラ、ヴィルグレーら、8名のヌーヴォー・レアリストたちを選抜した。十三人中八名という、ヌーヴォー・レアリストたちの大半である。

 だがこれは、「ヌーヴォー・レアリスム」が、レスタニーのいうようなヌーヴォー・レアリスムとして、評価されたということではない。

 なぜなら、かれらを選んだアラン・ジュフロワは、つぎのような経歴をもつ芸術評論家であったからである。 

 第二次大戦直後、十八歳であったかれは偶然にブルトンと出会い感銘をうけ、以後、シュルレアリスム・グループとなんらかの関係をもちながら、実践的な文学・芸術活動をつづけた。その間、晩年のピカビアや、詩人のアンリ・ミショー、さらにはデュシャンらに出会い、彼らについての著作もある。’60年代にはいると、アヴァンギャルド芸術に関心をもち、アーティストのロベルト・マッタやダニエル・ポムルゥル、詩人、評論家、芸術活動家のジャン=ジャック・ルベールらと緊密な交流をふかめる。ことに、ロベール・ルベールの息子、ジャン=ジャックとは、1960年4月から 《Anti-Procès(反・訴訟)》の芸術デモストレーションを開始する。これは、アルジェリア戦争が泥沼化する時期にだされた、さきにもふれたシュルレアリストの「アルジェリア戦争における不服従の権利」声明とおなじような、アルジェリア戦争に反対する政治的背景からはじまった運動であったが、適用範囲はひろく、むしろ思想、芸術におよぶ反対運動であった。反対表明は、さまざまな形態、色彩、表現をふくむビラ、ポスターであらわされ、それらは巡回展覧会で公開された。いわば反対芸術の実践であった。1960年4月29日から5月9日まで、パリのカトルセゾン(四季)画廊展のポスターの一枚には、「自分が自分であることの人間の権利のための〈anti-procès〉」と大文字で記されている。「反・訴訟」とは、いっさいの(権威的)判定を認めないこと、反・裁判!判定無用!、といった意味であろう。また、「すべての創造行為は、なによりも、ひとつの『反・訴訟』行為であり、すべての創造者は、あたらしい秩序ができるまでは、不服従者であり反抗者である」とも書いている。そして、この自分が自分であることの人間の権利宣言「反・訴訟」には、J.-J.ルベル、ジュフロワいがいに十二名の芸術家、詩人、小説家らが署名していた。なかには、デュフレーヌや小説家のピエール・ド・マンディアルグらがくわわっている。

 ここでは、芸術・文学者は、アルジェリアをめぐる政治的判定も、芸術的判定も、いっさいの判定を求めないし、また、認めない。創造とは不服従の行為であるという、政治と芸術が一体化した芸術論が正面にかかげられている。

 アラン・ジュフロワは当時このような主張をする芸術デモを組織し、推進する芸術評論家であった。こうした、かれの芸術観は、6年後の1968年にはさらに伸展して、「芸術の廃棄」を主張することになる。これについては、本節のおわりで述べることになる。

 「コラージュとオブジェ」展を企画したジュフロワは、芸術を作品からではなく芸術家からみる評論家である。反抗者からみる評論家である、としてもよいであろう。ということはまた、そこに展示された作品は、目をみはるほどの斬新さはみられなかったいうことでもあった。

 そしてまた、共同企画者であるロベール・ルベルについては、ジュフロワがそのころ書いた『芸術作品の新しい解釈に向けて』(1955)のなかで、このような共感をこめて書いている。「ロベール・ルベールは芸術作品の伝統的概念を真っ向から攻撃する。この伝統的概念に従えば、芸術作品には美以外の目的はないということになるが、彼は、どんな点で、あらゆる表現は何らかの振舞いの提示であり、あらゆる問いかけが何らかの振舞いの追求であるかを示したのである」(下線は原文イタリック)と。 ロベールの主張とされているのは、美以外の目的のない伝統芸術を、レスタニーとおなじように攻撃するのだが、芸術表現は、芸術家の、なんらかの問いの行為でなければならないとするものである。これは、芸術作品はあたらしく把握された社会という「自然」の表現であるとする、レスタニーの芸術論とは軌を分かつものである。

 そうしたジュフロワと R.ロベールが選んだヌーヴォー・レアリストたちは、レスタニーの視点とはことなり、社会的不服従の芸術家であり、かれらの作品はその表明であるということであろう。

 ジュフロワは、そのころ書いた評論「視覚の革命のために」(1960.5−12)のなかで、 「その勇気、熱烈なユートピア主義、もしくは明晰さにどうしても敬意を表しておきたい」注あたらしい芸術家たちについて語っているが、そのなかに、ヌーヴォー・レアリスム自体にはひとことも言及することなく、アンス、ヴィルグレ、デュフレーヌ、ティンゲリーの名をあげている。また、このほかにも、マルシャル・レエースやイヴ・クラーンについては、あらためたモノグラフィーを書いている。(注. 引用はいずれも 『視覚の革命』[西永良成訳]より)

 また、ヌーヴォー・レアリストとされたものの側からも、「反・訴訟」宣言に署名したデュフレーヌのように、デュフロワの芸術観と芸術行為に共鳴した芸術家がいた。

 つまり、この「コラージュとオブジェ」展の開催は、「ヌーヴォー・レアリスム」と呼ばれたこの芸術を、レスタニーが定義した、社会学的にあたらしい社会の「あたらしい芸術」とは異なる角度、現実への不服従=反抗の「表明」と、位置づけることが、この時代にはできたということである。というよりもむしろ、半世紀をこえるいま、かれらの作品がレスタニーの「ヌーヴォー・レアリスム」として、芸術史に位置づけられていることが、’60年代アヴァンギャルドの問題であろう。

 そのことにかかわるかもしれない展覧会が、この年同時期(11−12月) に、ニューヨークで開催された。シドニー・ジャニス画廊がひらいた、「ニュー・リアリストたち(The New Realist)」展である。(注. 開催の月については、《Pierre Restany: Avec le Nouveau Réalisme sur l’autre face de l’art》では、〈octobre-novembre 1962〉となっているが、本論では、《Le Nouveaux Réalistes》(Editions du Regard)の Chronologie 1945−1970 による.)


 これは、レスタニーと出会ったシドニー・ジャニスが、ポップ・アーテストとヌーヴォーレアリストの初の合同展をひらいたものである。レスタニーは、同展の図録序文に 『自然の新しい意味』を掲載している。

 シドニー・ジャニスは、戦前から、ミロやマチス、ブランクーシーらのあたらしい20世紀絵画に関心をもつコレクターであり芸術評論家であったが、戦後、1948年に画廊をひらいた。はじめ、レジェ、モンドリアン、シュビッタースらの作品をあつかったが、やがて、抽象表現主義のポロックやデ・クーニング、フランツ・クライン、ゴーキー、マザーウェルらを専属アーティストにして育てあげ、成功をおさめた画商であった。従来かれは、デュシャンやニューヨーク亡命中のシュルレアリストたちとも親交があり、デュシャンについては、妻ハリエットと共著で、「反芸術家、マルセル・デュシャン」を、アヴァンギャルド芸術・文学の季刊誌『ヴュー』の「デュシャン特集号」(1945年3月号)に掲載している。

 「ニュー・リアリストたち」展に展示されたのは、ヌーヴォー・レアリスム系では、アルマン、クリスト、アンス、クラーン、ロテーラ、レエース、スペーリーの作品であり、ポップ・アート系では、ジム・ダイン、リキテンスタイン、オルデンバーグ、ローゼンクイスト、ジョージ・シーガル、ウォーホル、ウェセルマンであった。

 1962年末までのかれらの制作実績は、おもなものではつぎのようなものである。

 ティンゲリーは、自壊オブジェ「ニューヨーク賛歌」や「デュシャンの冷蔵庫」(1960)を公開し、セザールも、 圧縮自動車部品(1960)制作を開始し、アルマンは、集積作品「ショパンのウォータールー」(1961)などをすでに発表していた。これにたいして、ポップ・アート系では、オルデンバーグのホットドッグ(図版23)やスプーンの大型模型オブジェ、リキテンスタインの拡大マンガ、ローゼンクイストの口紅図(図版24)などのめぼしい作品はすでに発表されていたが、ウォーホルは、この頃まででは、画布アクリル表現の「キャンベル・スープ」(1962)や、シルクスクリーン表現の「マリリン・モンローの唇」(1962)作品だけであり、キャンベル・スープの缶詰やコカコーラ瓶をオブジェとして、作品化するのは1964年頃からであり、洗剤ブリロやヘンツ・トマト・ケチャップの箱の集積作品制作もはじめていなかった。(図版25、26) ウォーホルの集積作品には、アルマン作品のアプリプリエーションとも、あるいは、デュシャンのレディーメイドをくわえた芸術交流をみるべきかもしれない。


図版23:オルデンバーグ(ホットドッグ)




図版24:ローゼンクイスト(口紅)



図版25:ウォーホル(マリリン・モンロー)




図版26:ウォーホル(集積作品:キャンベルスープ & ブリロ)




 このような「ニュー・リアリストたち」展は、1962年の時点で、ヌーヴォー・レアリスムが、作品芸術界でどのように確立したかを示す展覧会であったということである。

 20世紀アヴァンギャルドを愛好するシドニー・ジャニスが、ヌーヴォー・レアリストポップ・アーティストをひとつにして、このような展覧会を開催したということは、「ヌーヴォー・レアリスム」と「ポップ・アート」が画壇公認美術(作品)になったということである。アヴァンギャルド絵画をあつかう画商といえども、画商の目的は作品の販売にある。作品主義の視点から芸術を評価するのである。

  展覧会名「ニュー・リアリストたち(The New Realists)」は、フランス語〈Les nouveaux réalistes〉の直訳のようにみえるが、それは、かならずしも固有名詞「Nouveau Réalisme」を意味するものではない。たんなる新しいリアリズムによる作家たちということである。つまり、ポップ・アートもヌヴォー・レアリスムの区別も問題にされない、あたらしいリアリストたちということである。じじつ、ジャニス自身の20年後の回顧談では、「ニュー・リアリスト」展について、かれが開催した最初のポップ展だと語っているが、そこでは、ヌーヴォー・レアリズムについて、ひとことの言及もない。 

(注. ローラ・ディ・コペット/アラン・ジョーンズ(木下哲夫訳)『アート・ディーラー 現代美術を動かす人々』[これは、第二次大戦後台頭した、おもにアメリカ合衆国の画商32名のインタヴューによって構成された著作である。ただし、インタヴューであるだけに、年号そのほかの思い違いがおおくあるとおもわれる. ここでも、この展覧会の開催年が1961年とされているが記憶間違いであろう。傍証としては、『志水楠男と南画廊』の年譜に次の記述がある。画商志水楠男が「はじめてのアメリカ旅行に出かける」のが、1962年10月であり、そのさい、「シドニー・ジャニス画廊で開かれた『ニュー・レアリスッ(ママ)』展を見る. これはポップ・アートの集約された最初の展観で、以後、ポップ・アート系の作家と親しくなる」とある。「The New Realists」 展については、フランス側資料とはかなりの相違がある。レスタニーの〈Un nouveau sens de la nature〉の見方なども重要であろう.) 


 ジャニスは、さらに、この展覧会について、「その(展覧会の)結果、若い芸術家の多数が画廊に加わった。ダイン、オルデンバーグ、シーガル、ウェセルマン等がそのなかにふくまれた」といい、そして、その後まもなく、かれらの作品に 「定まった評価が与えられるようになった」注 (下線は筆者)と語っている。ここで、定まった評価を与えたのは、購買者であり、これら若い芸術家らの作品が、画廊に損害をもたらすことなく売却できたということであろう。

  ヌーヴォー・レアリストたちのだれかが、「ジャニスの画廊に加わった多数」のなかにいたのかどうかはわからない。しかし、ニューヨークで開催されたこの展覧会ののち「レエースは、一年間アメリカに滞在した」という記録がある

(注. これまでに記したヌーヴォー・レアリスムの動向については、特別に注で指示していないものはすべて、おもに Catherine Francblin: Les Nouveaux Réaliste (Editions du Regard)/ Le Nouveau Réalisme (Centre Pompidou)/ Gérard Durozoi: Le Nouveau Réalisme (Hazan)を参考文献としてもちい、そこに提示されている年号、人名等のデータを利用した.)


 画廊に展示された彼、あるいは、彼らの作品が売れ、どのような収益をもたらしたかを知りうる資料を筆者はもちあわせていないが、それらは現代芸術を考察するためには考慮しておかねばならぬ視点だとおもわれる。ジャニスのうえの発言からかろうじて推測できるのは、画廊経営上なんらかの利益があったのだから、作家たちにとってもそうであったということである。事實そのころから、ヌーヴォー・レアリストと呼ばれたかれらに、特別な関心をもつ画商があらわれはじめる。

 シドニー・ジャニスと双璧であった戦後芸術の画商レオ・カステリ注の、協同経営者であり前夫人であったイレアナ・ソナーベントが、パリに来て画廊を開いたのは1962年であった。 彼女は、「『ヌーヴォー・レアリスム』には面白い若者たちが集まり・・・・イヴ・クラーンを先頭に、このグループに加わったアーティストにはアルマン、ニキ・ド・サン=ファール、ジェラール・ラカンは飛び抜けた才能の持主だった」と評価している。そして、彼女はアルマンと契約をむすぶことができ、かれの[堆積]と呼ぶ彫刻作品は、その後の美術界で、一陣の涼風ともいうべきものであった、と回顧している(注.レオ・カステリについては、拙著「戦後政治体制と現代芸術」[『百万遍』2号掲載]を参照. 引用は『アート・ディーラー』から.)   

 さきに注記した参考文献に掲載された年譜によると、1962年末から1963年に開催されたヌーヴォー・レアリストのグループ展、個人展は多種多様で、開催数もふえている。日本でも、1962年に東京画廊がイブ・クラーンの作品展をひらき、1963年3月にはティンゲリーが来日し、南画廊がティンゲリー展を開催している。このティンゲリー展カタログには、一柳慧が、テインゲリーの制作現場の騒音収録から構成・作曲した「ティンゲリー・サウンド」が付録につけられていた。

 1962年以降のこうしたことは、ヌーヴォー・レアリスムの、画商的見地からの知名度普及を示すものであろう。そして、作品主義芸術論にもとづく画廊展の開催は、経済的保証を予告するものであったから、そのことも、さきに述べたような、1963年にかかれた「ヌーヴォー・レアリスム第三宣言」にあらわれた、芸術家の生活環境改革を問題にする「芸術家共和国」への関心希薄化の理由になったのかもしれない。

 だが、第二次大戦前のはやくから、ミロやブランクーシーを愛好し、戦後、芸術論として「反芸術家、マルセル・デュシャン」を発表し、画廊をひらいてからも、クルト・シュビッタースやフェルナン・レジェをあつかったシドニー・ジャニスが、これらニュー・レアリストたちと、反芸術家・デュシャンがどのように関係すると考えたのかわからない。かれらをまた、反芸術家であると考えていたのか、それともデュシャンのアプロプリエーション作家とおもっていたのかわからない。ただ、かれらをあたらしい芸術家たちだとおもい、画商として、あたらしい芸術をつぎのように考えていたのはたしかであろう。

 かれは、さきに引用した回顧談のさいごで、あたらしい作家をあつかう画商の位置をこのように定めている。


 ある世代から、次の世代へと移るのを困難と感じる人は多い。キュビスムやフォーヴィスムの展覧会に熱中した年長の人々は、批評家もふくめ、ポロックの世代の展覧会に姿を見せることは稀だった。ポロックの世代を受け入れた人々も私たちがポップを取り上げた時には、画廊から離れていった。今日では、新しい作家の作品を展示するたびに、これまでも見たこともない人々が群れをなして画廊にやってくる。展覧会のつど、観客がすっかり入れ換わってしまうのだ。新しい世代の作家が今ではあまりに頻繁に生まれてくるので、その後を追うのも難しくなってきた。一人一人に新しいアイデアがあり、新しい観客を惹きつける。私はこれがあるべき姿だとおもう。何故ならそれぞれの世代は、作家であれ、見る側であれ、どこかで基となる美意識を共有するものだからだ。年長のコレクターは、しかしながらこうした新しい世代の考え方の変化に対応しない。もし対応できたなら、その人の人生にはより多くの美しいものが与えられることになるのだが。新たな作家の作品を入手するたびに、それが傑作であるか否かを問わず、視覚的な喜びをたっぷりと味わえるものなのだ。・・・・・

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 それぞれの世代には、良いもの悪いものもふくめて、特有の方向性があり、独特の偏見がある。今の美術界は、様々な傾向が同時に存在している状態で、次の世代の美術がどのような方向をとるのかを予言することは、まったく私のなし得るところではない。しかし、どちらに向かうにせよ、これまでもそうであったように、変化は予期しなかったところからやってくるだろう。(下線は筆者)(前掲書『アート・ディーラー』)


 ここで語られている指摘は、レスタニーの新しい芸術への期待と、ほとんどおなじ方向を指さしている。新しい時代には新しい美意識があるとジャニスはいい、レスタニーは、時代交代がしめす新しい表現の規範的基礎を定めねばならぬという。ジャニスでは、変化する現状の指摘、レスタニーでは、社会学的に交代する時代への期待という相違はあるが、いずれもそこに、なんらかの現実的で具体的な希望をたくしているにはかわりがない。たとえば、さまざまな意味をこめた「良い作品」であろう。

 そしてまた、かれらが「希望」をもつ根拠は、レスタニーでは、「マルセル・デュシャンの反芸術(アート)的態度には、建設的意味がある」にせよ、「反芸術は実用的機能をもつ」という発見であるにせよ、良い芸術(アート)は、反芸術的なものであるからであり、ジャニスでは、「変化は予期しないところからくる」という確信からである。つまり、すこし飛躍したいいかたをすれば、良い芸術(アート)とは、革命待望のような、なにか今よりはましなことがおこるかもしれないことを、予兆させる芸術(アート)である。レスタニーが「否定(non)からゼロ(zero)」をみた反芸術、ジャニスがデュシャンの芸術にみた反芸術は、革命の芸術である。芸術に革命をおこすような芸術である。

 レスタニーとジャニスは、このように、レディーメイドと「反芸術家、マルセル・デュシャン」をみていたのであろうが、当のデュシャンは、当時、これらの芸術をどのようにみていたのだろうか。

 1962年11月10日にハンス・リヒター宛にデュシャンが書いた書簡がある。ハンス・リヒター(1888 −1976)は、デュシャン(1887−1968)と同世代の、20世紀生え抜きのアヴァンギャルディストである。1910年代から、ドイツ表現主義のデア・ブラウエ・ライター(青騎士)やデア・シュトルム(嵐派)に参加し、キュービスムにも影響をうけた画家であったが、第一次大戦中の戦傷退役後、チューリッヒで誕生直後のダダ運動に参加した。その後、抽象画、グラフィック・アート、実験映画という20世紀アヴァンギャルド芸術の先端分野で活躍し、第二次大戦中、ニューヨークで映画制作をおこなった。なかには、ハンス・アルプ、デュシャン、ラウル・ハウスマン、リヒャルト・ヒュルゼンベック、クルト・シュビッタースらのダダイストらのオリジナル詩や散文の肉声録音をいれた短編映画「ダダ・スコープ」注を制作している。(注. 筆者は未見.)

 そして、1962年の当時、みずからの体験にもとづいた芸術論『ダダ ━ 芸術と反芸術』注を執筆中であったリヒター宛にだされたデシャンの書簡はつぎのようなものである。(注. 同書は針生一郎訳で美術出版社から刊行されている.)

                                                                                                                                            

  いまや、ヌーヴォー・レアリスムとかポップ・アート、アサンブラージュとか名乗っているあのネオ・ダダというのは、ダダのやったことを喰いものにしている安モノの気晴らしです。レディーメイドを見つけたとき、私は、美術主義(esthétisme )のお祭りさわぎに水をあびせかけたいとおもっていました。しかし、ネオ・ダダの連中は、レディー・メイドに美学的価値をみつけて、それを利用しています。私は挑発のためにやつらの面(つら)に、ビン乾燥機やションベン壺を投げつけてやったのですが、なんとやつらは、その美術的美しさをスゴイ、スゴイといってるしまつです。(下線は筆者)(ハンス・リヒター宛の1962年11月10日づけ書簡)(Bernard Marcadé: Marcel Duchamp[Flammarion]) (注. 〈esthétisme〉は「(ラファエル前派の)唯美主義」である.)


 デュシャンがいうのは、ネオ・ダダを名乗ってヌーヴォー・レアリスムやポップ・アート、アサンブラージュがやっていることは、ダダがわかっていないものの自己満足にすぎない。そして、かれのレディーメイドは、かれらがいうようなあたらしい芸術ではない、ということである。

 そしてさらにいっているのは、レディーメイドはダダ的行為であり、それは「美術主義(esthétisme)のお祭りさわぎに水をあびせかけること」だったということである。だが、ここでは、レディーメイドが水を浴びせ(décourager:意気阻喪させた)たかった「美術主義のお祭り騒ぎ(carnaval)」において、批判の力点が「美術主義(esthétisme)」にあるのか「お祭り騒ぎ」にあるのかはよくわからない。むろんそれはセットではあるが、やはり焦点は「お祭り騒ぎ」にあるようにおもえる。デュシャンの非難は、あたらしい芸術だといってさわぎたてる芸術界、つまり、評論家、キューレーター、画廊にむけられているようにおもえる。いうまでもなく、そこには作家もふくまれるが、かならずしもそれは、ヌーヴォー・レアリストやポップ・アーティストと世間でよばれる作家すべての芸術行為を意味するのではない。なぜなら、デュシャンは、ティンゲリーの作品、たとえば「ニューヨーク賛歌」の、ニューヨークでの制作・展示方法に助言を惜しまなかったというし、クラーンの作品は評価したし、アルマンは親密なチェス仲間であった。彼らの作品をヌーヴォー・レアリスムとしてではなく、しかし芸術としかいいようのないものとして、評価していたのだろう。なぜなら、ティンゲリーにせよ、クラーン、アルマンらとの交友関係は芸術家仲間としてはじめて成立していたからである。

 そのうえ、書簡にあるデュシャンの批判は、その耽美主義非難であって、芸術そのものの否定はどこにも記されていない。つまり、書簡にあらわれたデュシャンの主張には、反芸術はないということである。そのことは、レディーメイドの由来 、「挑発のためにやつらの面(つら)に、ビン乾燥機やションベン壺を投げつけてやった」においても、あてはまるところがある。かれがレディー・メイドをはじめた動機たる「階段を降りる裸体(ヌード)」事件は、キュビスムとイタリア未来派芸術をめぐる当時(1910年代)のパリ芸術界のお祭り騒ぎのなかでおこった。キュビスム別派をとなえる芸術仲間から、かれの作品がイタリア未来派だと非難されたことに発端がある。あたらしい芸術創造をともに主張する仲間の、美学ジャンルにこだわるこの仕打ちにたいしてである。「ビン乾燥機やションベン壺を投げつけて」挑発したやつらとは、キュビスムだ未来派だ ・・・・ これぞ新しい芸術だ、と現(うつつ)を抜かす新しい芸術家たちであり、それをもてはやすカーンワイラーらの画商、芸術界である。1960年代のレディー・メイドの「お祭り騒ぎ」の評価は、1910年代の「階段を降りる裸体(ヌード)」の場合とはまるで正反対の方向から扱われているわけだが、デュシャンにとってはおなじ誤解ということであろう。そしてここでも、レディーメイドが反芸術を主張するとはのべていない。

 デュシャンはその生涯、いつも芸術界、あるいは、その周縁で生活してきた。交流するひとはだれしもかれを芸術家として遇してきた。そしてかれ自身、じぶんは芸術家ではない、といったことはない。 

 それならば、かれは芸術をどのように考えていたのだろうか。かれにとって芸術はなんだったのだろうか。

 かれの作品といわれるものにまつわる ━ かれはそれらが芸術品として購入され、ミュージアムに展示されるのを認めたのであるから、やはり芸術作品であろうが ━ さまざまな経緯をあわせながらおもうと、デュシャンの芸術は、こっそりなされる気晴らしのような、あるいは、個人的思考のような作業にみえる。大作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(1915 −23)も、『落ちる水と照明用ガス灯があるにせよ』(1946−66)も、その制作は、ひとりの助手をつかうこともなく、だれに知られることもなく、前者は八年間、後者は十二年間つづけられた作業であった。とくに『落ちる水と・・・・』の時期は、アヴァンギャルドの寵児としてもてはやされ、老若男女さまざまな芸術家のただなかで生活しなければならなかった環境を考慮すると、信じがたい行為である。

 そして、その複雑怪奇なインスタレーションともアサンブラージュともつかぬものを、創りつづけた根気と気力をささえていたのは、芸術行為であるという確信だったのだろう。一方、こうした行動経緯を知ったものにとっては、ましてや、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(通称「大ガラス」)やレディーメイドが、パリで油彩画『階段を降りる裸体(ヌード)』が芸術仲間に芸術的に拒絶されたとき注、これに反発してはじめられたということを勘考すると、これは、「反芸術」的行為としかいいようがない。(注. 関心のある方は、『現代芸術は難しくない』をご参照ください.)

 が、他方、デュシャンにとってそうとも言いきれないものがある。「大ガラス」の裏面には、3ブロック、6行にわけて、フランス語でつぎのように記入されている。「彼女の独身者たちによって」「裸にされた花嫁、さえも」/「マルセル・デュシャン」「1915−1923」/「未完」「破損 1931」と。 題名と署名であり、芸術作品にある履歴記入である。これは、裏面にわざわざ記入されたことからも、かれはこれを芸術作品と位置づけていたとするほうが、すなおな見方であろう。かれは『大ガラス』や『落ちる水・・・』を反芸術と考えていなかったということである。さきの書簡の文面にかわることなくある態度である。

 ならばそれは、どのような芸術なのだろうか。それに似たものとして思いつくのは、先史時代の孤独な洞窟画である。洞窟画には、洞窟の奥深く、ひとりがやっととおれる細い迷路の果てで、場合によっては身をかがめ、あおむけやうつぶせになり、ぼうだいな時間をついやして描いたとしかおもえぬ絵がのこされているという注。そこには、場、素材、形態をつくるための技術(アート)的な楽しみがあったであろう。技術(アート)の楽しみは発見の楽しみである。洞窟画の制作者は、おそらく完成や、観客を前提として作業したのではなっかったであろう。洞窟画にも、『大ガラス』に公然と記入されているような、未完な絵がおおくあるという。(注. 港千尋著『洞窟へ ━ 心とイメージのアルケオロジー』を参照)

 デュシャンの作品のいたるところに、場、素材、形態を創造する技術(アート)上の工夫と発見がある。

 たとえば、『大ガラス』の下段にある「九つの雄の鋳型」の上部をつなぐ九本の「毛細管」の形が形成されるまでには、このような経緯がある。

 1メートルの長さの糸を、高さ1メートルから、3回、カンバスのうえに自然落下させ、落ちた三種類の糸の形をワニスで固定し、それらの糸の曲線にあわせて切断された三枚の木の定規をつくり、それらをガラスでおおったパネルを制作し、「三つの基準停止原基」(1913~14年)として作品化する。

 これは、偶然によってつくられた、曲線のメートル原基であって、このメートル原基が指示する形が、『大ガラス』の下段にある「九つの雄の鋳型」の上部をつなぐ九本の「毛細管」の形を形成している。通常の作家なら特別の意図をこめない「毛細管」の歪曲の形は、このようにしてつくられたものである。偶然の形を作品として固定する技術(アート)を発見したのである。かれは、この「三つの基準停止原基」を偶然の缶詰と呼んでいる。(図版27)


図版27:デュシャン(三つの基準停止原基)


 


 『大ガラス』は、そしてまた、『落ちる水・・・・』もまた、このような技術(アート)発見の集合体であって、美意識の複合体ではない。

 おそらくは、それらを制作するときのデュシャンの心をしめていたのは、 先史時代の洞窟画にみとめられるような、技術(アート)の楽しみであったのではないだろうか。そうともおもわないと、8年間、20年間という長きにわたり、ひそかに孤独な作業をつづけられる理由が説明できない。そして、そこに「反芸術」をみいだすコンテキストは、かなり限定されたものになる。

 そのひとつには、デュシャンの作品にはかならずあるものがある。パロディーであらわされる目くばせするような批判である。たとえば、レディーメイドの男性用便器は、「泉」となづけられ、配置位置は定まっていた。手を加えられたレディーメイドの「モナ・リザ」は、「L.H.O.O.Q」注と題されていた。(注. フランス語の発音では、Elle a chaud au cul [彼女はお尻が熱くなっている] と読める.)  目くばせは、同意する仲間があって、はじめて成立するものである。ここには、心情的動機に、なんらかの共同体があり、それが、一歩ゆずって、1915~1923年の美術界に対抗する反芸術であるとしても、やはりその反芸術性はあいまいである。

 さらに視点をかえて、レディーメイドをふくめてこれらを制作したかれの人生からは、その「反芸術」性はとらえどころがないものになる。

 たとえば、『大ガラス』制作過程で発見された技術(アート)作品、「三つの基準停止原基」についても、これは現在、ニューヨークの近代ミュージアム(MoMA)に所蔵されている。しかし、それまでの作品経歴によると、所有者は、コレクターであるジョゼフ・ステラにはじまり、パトリック・マッタ、ピエール・マチス、コルディエ&エクストロームらのコレクターや画商をへてメアリー・シスラー・コレクションにはいり、ウイリアム・シスラーがMoMAに寄贈したことになっている。1914年にこのようにして制作されたものは、華麗な芸術作品としてあつかわれつづけた。所有権移行の時期、その条件や価格についてはわからない。だが、所有者名から憶測すると、デュシャンはこれを承知していたであろうし、芸術品としての報酬を得ていたこともたしかであろう。これはりっぱな芸術作品である。

 これを見つけたとき 「私は、美術主義のお祭りさわぎに水をあびせかけたいとおもっていました」と、かれが語っているレディーメイドについても、おそらくこれを書いたと同時期に、かれはミラノの画商 アルトロー・シュヴァルツに、それらの複数のレプリカ制作の許可をしている。

 シュワルツ画廊は13種のレディーメイドを選び、各8コずつの複製をつくっているが、これら制作にデュシャンは立会い、みずから署名したといわれる。現在、世界のミュージアムに展示されているレディーメイドのほとんどは、このときつくられたものである。当時の販売価格はわかからないが、この3年後、デュシャンの死後一年目には、数百万円の価格になってなっていたという証言もある(注.瀧口修造の1967年8月16日の法廷証言) 


 また、レディーメイド「泉」は、40年後の2006年に、ある事件を契機として、フランスの裁判所に提出された評価価格は、280万ユーロ(約4億円)であった。 (注.2006年ポンピドゥー主催「ダダ展」における破損事件. パリ地裁に対するポンピドゥー側申告の評価価格)


 すると、いずれも「泉」というタイトルをもち、かつ、オリジナルの存在しないレプリカ作品は、少なくとも30点以上世界に存在する可能性があり、1点が4億円の価格であるとすれば、総額は容易に100億円を超える作品となる。すなわち、レディーメイド作品「泉」は、2006年には100億円をこえる作品であった。

 これは、デュシャンの意図とは無関係におこったことではあるが、レディーメイドは40年後には、価格的に社会公認のりっぱな「お祭り騒ぎ」の芸術作品になっているということである。しかも、その口火をきったのは、デュシャンの意思からはじまったことはまちがいない。とすると、やはり、レディーメイドは、作品主義の視点からみるかぎりでは、いかなる反芸術の立場にたいしても対極にあるものである。じじつさきの「泉」破損事件も、被告は、パフォーマンス・アーティストのピエール・ピノンセリであって、破壊行為は、かれの批判をあらわす、「反芸術」パフォーマンスであった。

 とすると、先のレスタニーの「宣言」で、作品主義の立場にたつかぎり、そうしたデュシャンのレディーメイドは、ダダと結びつけることによって、はじめて「反芸術」となるのであろう。そして、ヌーヴォー・レアリスムにかぎらず、 ’60年代芸術アヴァンギャルドが、ネオ・ダダを主張した理由がそこにあるのであろう。「反芸術」芸術の、ある種のアリバイ証明である。

 だが、当のデュシャンは、さきの書簡で、

 「ヌーヴォー・レアリスムとかポップ・アート、アサンブラージュとか名乗っているあのネオ・ダダというのは、ダダのやったことを喰いものにしている安モノの気晴らしです。レディーメイドを見つけたとき、私は、美術主義のお祭りさわぎに水をあびせかけたいとおもっていました」(下線筆者)


と語っている。’60年代のこれらアヴァンギャルディストは、ダダ精神を誤認しているということである。そして、文脈からいえば、いささかあいまいではあるが、自分のレディーメイドは、ダダ行為であるといっているのだ。

 そうであるのなら、レスタニーの言分に関連して、デュシャンがレディーメイドにたくした思想、あるいは、ダダ思想そのものに「反芸術」思想があるのかないのか、あるのなら、どのような反芸術かをみきわめておかねばならない。なぜなら、ダダと同義語的な「反芸術」は、日本にかぎらず、「資本主義・『自由』主義」体制側の’60年代アヴァンギャルド芸術の、やはり中心課題のひとつであったからである。しかし、20世紀初頭にダダが誕生したとき、それがどのような思想を掲げていたかについては、本論の見地から要約することは不可能であるし、また、あいまいである。事実、レスタニーもデュシャン自身も、レディーメイドダダだと躊躇なく語っているが、デュシャンがレディーメイドをはじめた第一次世界戦争ちょくぜんの時期には、まだ「ダダ」といわれるものは、どこにもなかった。芸術史的には、レディーメイドはダダ以前に、地理的、人的交流からもダダとはかかわりなく形成された芸術様式である。

 20世紀初頭のアヴァンギャルドで、ダダの形成は次のようなものであった。 

 チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールに集まったフーゴ・バル、トリスタン・ツァラ、リヒャルト・ヒュルゼンベックらのアヴァン・ギャルディストが、「ダダ」という意味のないことばによって、じぶんたちの芸術行動を表明したのは大戦のただなか1916年2月であった。そして、バルによって「ダダ宣言」が、キャバレー・ヴォルテールの「ダダの夕べ」で朗読されたのが1916年7月であり、印刷物としては、ツァラによる『ダダ1』、『ダダ2』が刊行されたのが1917年7月と12月であったから、デュシャンのレディーメイドとは時間系列上は無関係である。すでに紹介したように、デュシャンが、「自転車の車輪」(1913年)や「瓶乾燥機(ヤマアラシ)」(1914年)や「雪かきシャベル(折れた腕の前に)」(1915年)をはじめてつくり、それらをレディーメイドとして意識したとき、そして、『泉』によって、大戦中のニューヨークで「リチャード・マット事件」をおこしたとき(1917年)でさえ、かれはダダを知らなかったであろう。そのようなデュシャンが、当時の芸術界や芸術史で、ダダイストのひとりとされているのは、かれの作品や行動が、風俗化されたダダ精神を具現しているようにみえたからだろう。じじつ、同時代のアヴァンギャルディストであるピカビアやブルトンは、ダダの創設者のひとりであるトリスタン・ツァラと、デュシャンを同列において遇している。もっとも、ピカビア自身をダダイストとすることも、いまではしばしばある。

 それならば、まわり道にはなるが、時代をさかのぼって、ダダの主張と、それに関連したブルトンの発言を、別項目をたててみておかねばならない。それらは、日本にかぎらずヨーロッパ、アメリカの’60年代アヴァンギャルドの、指針にせよ、超克にせよ、さまざまな意味でのメルクマールにされた芸術運動であったのだから、テキストからあらためて見定めておくことは20世紀アヴァンギャルドを語るうえでは必須であるとおもわれる。


第2章 3)トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』とアンドレ・ブルトンの「反芸術」 Part1につづく


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