Avant 2-3-2

第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」


3)トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』とアンドレ・ブルトンの「反芸術」


Part 2 



 T.S.F.(télégraphie sans fil [無線電信])は、第一次大戦で画期的に進歩発達した、話題の花形機器である。無線電話も音声音楽の遠距離実験が成功したのがわずか10年前、世界初のラジオ放送局の開局を直前にひかえる時期である。ツァラ自身が、無線電話送信による音楽をどこまで聴いていたのかは疑問である。ネオンサインについても、1912年のパリ万国博覧会で初公開され、そのご急速に実用化されていたが、はたして当時のチューリッヒの街でどれだけのネオン広告がみられたかはわからない。「T.S.F.(無線電信) 無線電話がバッハのフーガやネオン広告、淫売屋のためのポスターを伝える」は、ツァラの芸術的フィクションであろうが、それなりにとうじの聴衆、読者に意味をつたえたのであろう。現実社会は、このようなものだということである。

 荘重でいさましい国歌や古色蒼然たるガラクタが、軽快で速いポルカのテンポでふりまかれ、まきちらされているのも、どうようの表現であろう。大戦中のヨーロッパの街なのだから、さもありなんというところである。そして、教会では、聖歌隊の歌唱ではなく、とうじ性能をたかめたシンフォニック・パイプオルガンが、カーネーションをふりまいているという。ツァラが愛好したというバッハのフーガは、オルガン曲であったことを、ここで思いだしておかねばならない。そして、「カーネーション(oeillet)」は、〈oeil(目)〉の指小辞であり、〈oeil〉には「監視」の意味があり、派生語〈oeillade〉は「流し目、色目」の意味がある。教会のオルガンがふりまいているのは、バッハのフーガではなく、神にささげる「淫売屋」の媚態なのかもしれない。

 そして、「こうしたことすべてが、現実に、写真とか一方的な教理問答とかに代わりつつある」というのだ。「写真」は、無線電信・電話やネオンサインに先行し、とうじは定着していた文明の表現手段であり、人物や風景や生活の再現という美術目的をかなえる芸術媒体である。一方的教理問答とは当時の哲学であろう。とすると、それらが、美術や哲学にとってかわろうとしていることになる。じじつ、ここにには、あたらしい文字媒体として無線電信があり、音楽・音声媒体に無線電話とパイプオルガンがならべられ、絵画・彫刻の映像媒体にネオンサインという最新の芸術媒体が列挙されている。1918年のあたらしく、また、予言的な芸術文化社会の描出である。アヴァンギャルディストとしてのツアラの視点である。

 そしてこれは、このときのツァラ自身の念頭にあるはずもないことであるが、10年後の30年代になると、マン・レイやラウル・ユバックが、電光や磁場というフォルムとマチエールが分かちがたく融合した、絵画や彫刻とは異なる芸術媒体をもちいた、作品を制作した。(図版8:マン・レイ; 『電気』と題された「CPDEのための4コマ組写真のうち「世界」)  また、’60年代のレスタニーにいわせれば、「哲学(美学)にとってかわった」のが、生活と人間集団をあつかう社会学ということになろう。

 しかし、ツァラはこれが芸術生活だというのではない。かれが主張するのはそうしたことではない。ツァラの「無関心主義」は、行動する単純性によって、なんでもやってはみるのだが、それはしょせんは玉石混淆、擬似芸術であって、「薄闇を舐め、蜜と排泄物でみたされたおおきな口のなかを浮遊する」にすぎないことになる。



図版8: マン・レイ 「世界」




 いかつづくところでは、ダダ行為を現実にダダ芸術として行使することについてかたっているように思われる。

 かたられる、「『永遠』の尺度で測られたとき、いっさいの行為はむなしい」は、「━ (思考をおもむくままに走らせたら、その結果はとてつもなく醜悪になろう ━ 人間の無力を知るための重要な与件だ)」は、さきに示した三行の描写に実証させているようにもおもえるが、これがダダが誕生し、対応しなければならない社会の現実である。

 しかし、そうではあっても、「(現実)生活(人生、生)がもし、目的もなく、初めの出産というものもない粗末な笑劇(ファルス)であるにしても、また、雨に濡れた菊のように爽やかに、厄介事から身を救いださねばならぬと信じるから、了解のための唯一の基礎を宣言した。すなわち、芸術である」と、現実的で実行的な宣言をおこなう。

   だが、ここでいわれる「芸術」は、「持続も、呼吸も、光も、制約もない、宇宙の混沌の純粋さの絶対性をもつ」あの第2の球体内にある芸術ではなく、現実界の芸術、芸術作品であり芸術行為であろう。なぜなら、そこは「生活」のない世界であるからだ。ここで、唯一の基礎として選んだ芸術は、厄介事がまとわりついている生活のなかの芸術である。

 こうしたいっさいの行為がむなしい現実世界で、唯一の基礎として芸術をさだめたのは、「芸術によって悲しむものはだれもいない」し、また、「芸術に愛着をもつことができる者たちは、国中を対話で満たすすばらしい機会や抱擁を享受することになる」からだ。これらは、おそらくツァラ自身の、数年間のチューリッヒ・ダダの活動のなかで体験した実感であろう。そしてまた、この芸術共同体は、20世紀アヴァンギャルド、とくにこれより半世紀のちの戦後アヴァンギャルドのヒッピーやビート族と呼ばれた若者たちに狂信的にうけつがれる芸術思想である。これについて、さらにいえば、’60年代のヌーヴォー・レアリストやポップ・アーティストたちもあるていどはそうであったが、日本のネオダダ・ジャパンやハイレッド・センターの芸術家たちも、’60年代のある時期、一瞬は夢見た願いであった。ダダが先導した芸術論であり、また、後代のかれらがダダに惹かれた理由のひとつであり、さらにまた、まったく異なる20世紀の芸術共同体を暗示する方向であった。

 しかし、それいじょうに、ツァラが指摘する芸術論は、いまだ「未決箱」のなかにあるが、つぎにつづく数行は、注目しておかねばならない。それは、あいまいであり、凝縮されていず、複雑なおもいがいりまじったものでり、おそらくはかれ自身の感覚がとらえた実感を記述しただけものであろう。しかし、それは、今なおアヴァンギャルディストたちが本心では気にかけ、複雑なおもいでみつめる未開地の展望をふくむものとおもわれる。


芸術は、わたくしごとである芸術家はじぶんのためにそれをする。わかりやすい作品などジャーナリストのやることだ。それというのも今この瞬間、僕は好んでこの怪物を油絵具とまぜあわせるのだから。紙の管は金属を模倣して、圧縮され、憎悪や卑劣や吝嗇を自動的に吐き出しているのだから。芸術家、詩人は、こうした事業の売り場主任のなかに凝縮された大衆の毒をたのしむ彼は誹謗されるので幸福だ。そのことこそ彼の不易性を証するものだ。新聞の賞賛を博する作家、芸術家は自分の作品が理解されているのをたしかめる。彼の作品は、公益がまとうマントの惨めな裏地だ。凶暴性を蔽いかくす襤褸だ。卑しい本能を孵す獣の体温に協力する尿だ。脆弱で気の抜けた肉体は、活字の黴菌の助けをかりて増殖する。


 芸術家にとっての社会的な芸術作品の問題である。芸術家と大衆の関係である。

 「ダダイストの自発性」と「ダダイストの嫌悪」と「ダダはなにも意味しない」をかかげるダダの作品制作の帰結が、「芸術はわたくしごとであり、芸術家はじぶんのためにそれをする」となるのは、あらためていうまでもなく、とうぜんの帰結の芸術論である。

 ところで、すでに述べたように、マルセル・デュシャンは、すでにこの1918年には、ニューヨークで誰にも知られることなくひそかに、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(1915−1923)の制作に着手していた。デュシャンとツァラは、たがいに知らぬ制作であり主張ではあったが、レディーメイドもまたそうであったが、類似した芸術観によるものであろう。類似したというのは、まったく同じではないことで、そのびみょうな相違に目をとめておきたい。

 それというのも、この「芸術は、わたくしごとである。芸術家はじぶんのためにそれをする」は、その前後にある「芸術に愛着をもつことができる者たちは、国中を対話で満たすすばらしい機会や抱擁を享受することになるだろう」 と、「わかりやすい作品などジャーナリストのやることだ」の二句にはさまれているが、前の句を牽引し正確化するものか、よりつよくのちの句を導入するためのものかがわかりにくい。

 ツァラでは、一読すると、あとにはじまる現実社会の芸術批判への転換点のようにみえるが、かならずしもそれだけではなさそうである。芸術共同体の必要条件ともおもえる。チューリッヒ・ダダのなかでも各人の芸術観は微妙にことなり、つねに一致するものではなかった。キャバレー・ヴォルテールの設営者、フーゴ・バルは、キュビスムや未来派に親近感をもち、礼賛する評論を書いている。ヌーヴォー・レアリスムの設立時でも既成アヴァンギャルド評価や各人の芸術論では一致せず、結束は短期間しかつづかなかった。芸術共同体内では、「芸術は、わたくしごとである。芸術家はじぶんのためにそれをする」は、現実的にはきわめて過激な、だが確認しておかねばならない主張であった。そして、デュシャンが、じぶんのための制作をはじめたのは、パリ郊外ピュトーにあつまったキュビスム別派の芸術共同体から、排除されたのが直接の動機である。

 だが、デュシャンなら、「芸術家はじぶんのためにそれをする」は、つぎの句 「わかりやすい作品などジャーナリストのやることだ」には、つながらないとおもわれる。この相違が、デュシャンもまた「無関心主義」をいたるところでとなえたが、かれはそれを、つねに、〈indifférence〉でかたり、〈je m’en foutisme〉であらわしたツァラとのちがいに、じつは根底的にあらわれているのであろう。

 「芸術はわたくしごとである。芸術家はじぶんのためにそれをする」に直結する、ツァラの現実社会における芸術批判は、なまなましく対照的である。

 とはいえ表面的には、いまも当時もアバンギャルディストの批判としては、とりたてていうべき内容ではない。しかし、さきの「ダダはなにも意味しない」でみられた 「金をかせいだり、甘ったるいブルジョアの気を惹くために、芸術をつくるというのか・・・・」というような感情過多の一節と連動させて、これらを読むと、この文章の背後にあるかれのこだわりが、みえてくるようにおもわれる。

 それは、芸術作品と大衆との関係である。芸術家は、芸術作品によって大衆とつながることによって、芸術家の生活が成立するという関係である。このこだわりは、20世紀のアヴァンギャルド芸術家ほとんどがひそかにもち、それへの自分なりの回答をもとめて、芸術的態度を決定し、あるいは変更した、いまだ決定的回答のない課題である。

 いちおう、かれのこだわりをたどってみよう。

 「わかりやすい作品などジャーナリストのやることだ。それというのも今この瞬間、僕は好んでこの怪物を油絵具とまぜあわせるのだから」は、おそらく、『ダダ 3』という雑誌とはいえ刊行販売を前提にして、今この瞬間に書いているこの「宣言」が根底にあろう。あるいは、料金をとって成立している「ダダの夕べ」の朗読パフォーマンスかもしれない。この怪物(ダダ精神)を油絵具にまぜあわせるとは、内容は「憎悪や卑劣や吝嗇」を表現するもののなかにあろうと、とにかく作品化する、大衆と関係をもつということである。それは、ジャーナリストのやるわかりやすい作品ではない。わかりやすい作品は、評判のたかいよく売れる作品のことであろう。そして、ジャーナリストは、ダブルイメージであろう。ジャーナリストのように大衆うけする作品を乱造する作家と、記事や作品を指図し支配する編集者や画廊主、キューレータである。この直後に「この事業(産業)の売り場主任(chef de rayon de cette industrie)」がでてくるから、作品に指図して商品化する編集者や画廊主なのかもしれない。

 そして、あらためて、かれは記す、「芸術家、詩人は、こうした事業の売り場主任のなかに凝縮された大衆の毒をたのしむ。彼は誹謗されるので幸福だ。そのことこそ彼の不易性を証するものだ」と。こうした事業とは「利益をうるために経営される出版社や芸術企業」であり、売り場主任は、編集者や画廊運営者であろう。そして、かれら編集者や画廊経営者は、大衆の「好み」を基準にして、出版、展示をおこない販売するのである。「芸術家、詩人は、・・・・に凝縮された大衆の(venin)をたのしむ」とは、編集者、画廊経営者が、大衆の中傷(不評)を先取りして、出版、展示を拒絶するか縮小することを、たのしむというのである。「毒(venin)」は、芸術家や詩人の生活を破綻させ、殺す文字通りの「毒」かもしれない。しかも、かれは誹謗されるので幸福だという。なぜなら、それは、かれの不易性を証するからである。いちおう、19世紀ロマン主義いらいの「天才は理解されない」という通俗芸術論であって、それなりの言分であるようにみえる。また、この宣言においても、「ダダイストの嫌悪」でのべられた、あのダダ芸術の宣言 「論理の廃棄、創造不能者たちの舞踏:ダダ、 僕らの下僕が、価値づけからたてた全階層と社会方程式の廃棄:ダダ」のダダの、現実的言いかえのようにもきこえる。ツァラ自身も、それいじょうを示すものではない、というかもしれない。

 だが、これらを執拗に言いつのる、かれの意識の底にある想いはそれだけではないようにおもわれる。というのは、ここではことばが上滑りしている。心ここに有らずの気配がある。

 「かれは誹謗されるので幸福だ」というが、かれの作品が罵倒されると、かれはうれしくおもうのだろうか。それとも、かれ自身が侮辱されると、うれしいのであろうか。「かれの不易性を証する・・・」というが、ダダはまだ誕生したばかりなのだから、作品が一回くらい誹謗されたからといって、かれの作品や作家としての資質や人間性の「不易性」が証されることはあるまい。あるいは、大衆は芸術作品が理解できない、だから、大衆が軽蔑する作品は良い作品である、としてもよくわからない。むしろ、大衆は悪い作品を良い作品だとし、良い作品を悪い作品だとするような、大衆は試験体であるという前提があってはじめて、大衆が誹謗する作品は良い作品となる。しかしそれにしても、それによって「かれの不易性」が証されることになるとは・・・・? 

 そのうえ、ここでは、大衆が罵倒し中傷する作品だけが描かれている。ということは、意識の底には、大衆が感動して買ってくれる作品や大衆が礼賛する芸術家が、判断のバランスのうえから、対照点にかくされているはずである。ところで、ここで筆者がいいたいのは、買ってもらわなくてもかまわないということは、買って欲しいということだというような、へたな理屈だけではない。

 現代社会における、芸術家と大衆の、作品を介する関係には、ここにかかれているように未だ正解のない問題があり、そのことがツァラの、このような思いつくままに感情まかせにかたる表現形式の言説であるからこそ、可能となってあらわれており、これが、「反芸術」にかかわるたいせつな課題であるというのが、筆者のいいたいことである。

 芸術家とは、現実社会では、職業であって、芸術(作品)によって生活を成りたたせるものである。つまり、芸術の生活化が、現代芸術家の重大な課題のひとつである。そして、現代社会では、芸術家の作品は、大衆(マス)との関係によってしか、芸術作品にはなりえない。出版しかり、画廊・美術館しかりである。

 ところが、この芸術家と作品と大衆(マス)を三頂点とする三角形となるべく関係は、きわめてあいまいである。芸術家と作品の関係、大衆と作品の関係、それはそれなりに実体のあるものである。それらにたいして、芸術家と大衆(マス)の関係は、どのようにみても虚像である。

 その虚像性を、ツァラは意図することなく指摘しているのだが、その関係の虚像をあきらかにするために、かれとはまるで逆方向から、現代にもつづく芸術家と大衆の虚像性の例をあげておこう。

 村上春樹は、その小説が出版されると数十万部がたちどころに売りつくされる芸術家である。かれは、編集者に評価され、厚遇され、かれの作品は大衆に礼賛される。いっぽう、小説家としてのかれ自身は、現代文学作家のなかで、もっとも誠実な作家のひとりであろう。かれは、書き下ろしの長編小説を出版する、日本では稀有な小説家である。出版界や文壇、マス・コミによって、じぶんの芸術行為がみだされるのをさけて、国外に居住地をうつすような作家である。金をかせいだり、甘ったるいブルジョアの気を惹くために、小説を書いたり、講演やテレビ、映画出演、選挙というような「様々な彗星にのって騎行」し、「銀行の扉をあけて、クッションや美食に溺れる」芸術家の対極に位置する小説家である。

(注. ツァラのいう「様々な彗星」は、未来派、キュビスム、印象派といった芸術エコールを指すのであろう.)


 1987年に出版された小説『ノルウェイの森』は、2009年の時点で1000万部刊行された。2009年5月に発刊された三部作『1Q84』のブック1とブック2は、その年11月には223万部が売れたという。大衆との関係は、緊密そのものとおもわれる。(注. 発行部数については、Wikipedia参照)

 『1Q84』ブック3は翌年4月に刊行され、筆者もたまたま発売日当日にこれを購入した。書店に山積みされ、売りさばかれていくはやさに驚いたせいもあるが、その夜この作品名をコンピュータに入力してみた。たちどころに、書店開店前からならび、発売そうそうに入手したとか、すでに読みおわったという情報が、画面にあふれた。だが、そこには、作品内容や作者にふれるものは一点もなかったように記憶している。ストーリについてさえ、満足に報告したものはなかったとおもう。ただし、これは、わたし自身まだ読みはじめていなかったから、ふたしかな思い出である。

 さらにまた、この小説については、そのころ勤務していたある芸術大学で、小説好きの学生にたずねたことがある。彼女は、買って読んだが、春樹の小説はムズカシクてわからないといった。読んでも、ぜんぶ読んだものはすくないともいった。この小説のストーリをオーム真理教のテロリストとからめて、話しかけてみたが、まったく関心がないばかりか、なんのことやらわからなかったようだった。彼女は、とにかくブック3を買ったのだから、ブック1とブック2はいちおうは読んでいるはずある。にもかかわらず、そうだということは、ストーリにしても、映画パンフレットや出版広告にかかれる梗概ストーリーていどの理解なのだろう。彼女の小説好きは、ほんとうのことであって、わたしはほかの小説については、いろいろ意見交換をしたことがあるから、この反応は意外だった。

 ハルキストという新語があり、村上春樹のノーベル賞受賞を期待して、文学賞発表当日は徹夜するハルキストのグループが、多々あるという。だが、この自称、他称のハルキストたちは、はたして、せめてかれの小説すべてを読みおえているのだろうか。あるいは、その小説を読みそれについておもいをこらした時間は、村上の執筆時間と比較したとき、その量と質の比率はどのくらいになるのだろうか。おそらく、天文学的小数点以下の数字があらわれるにちがいない。

 そうしたことは、大衆・読者だけではない、編集者についても、自分の担当する大作家の作品でさえ、その全部を完読したものはすくない。また、担当し校正した一般作家の作品では、そのほとんどをおぼえていないという。(注. これについては深沢七郎がおもしろく書いているが、ここでは紹介しない.)


 『ノルウェーの森』は 1,000万部、そのたの小説についても数100万部以上の刊行があったのだから、村上春樹は、新聞に賞賛されるだけでなく、大衆の賞賛を博する作家である。だが、それによって、かれは、自分の作品が理解されていると、確信できるだろうか。ツァラは、作品や詩が大衆に理解されないから、誹謗され中傷されるとおもったわけだが、村上は、かれの作品は理解されていないから、刊行され賞賛されるとおもっているのではないだろうか。そうでなければ、「小説家としての村上の到達度を示す高い完成度をもつ小説」であるとか、「ほんとうにすごい恋物語だ、僕は泣けて泣けてしかたがなかった」などの視点から芸術的に共鳴するような者と、村上春樹というこの作者はいかにしても一致するところはないからである。もっとも、「理解されていないから」の理由節か、「理解されていないけれど」の譲歩節のどちらをかれが採るかは、わからないけれど。

  ただ、この芸術作品制作から創造者があびたとおなじ芸術放射を、購入した大衆(マス)がうけたとはおもえないのは、ツァラのいう「誹謗される」場合と村上の場合は、まったく同一である。大衆は、創造者が感得する秩序ある永遠の絶対性の芸術放射とはまったく異次元の芸術効果(価値)を、これら作品からえていたにちがいない。芸術の次元で創造者と購入者のあいだに交流はないのである。「芸術は、わたくしごとであり、芸術家は、じぶんのためにそれをする」のであるなら、それは当然である。

 ところが、にもかかわらず、芸術家は、作品を介して、大衆(マス)となんらかの関係、芸術的としかいいようのない関係をもたなければ、芸術家としての生活が成立しないのが現実である。

 そうした芸術家と作品と大衆の関係は、三角形ではなく、作品を頂点とするコンパスとしたらどうだろうか。作品と作家の関係は事実である。作品と大衆の関係にも実体がある。大衆は作品を芸術作品としてあつかうのである。出版し、画廊やミュージアムに展示し、対価を支払って鑑賞し購入するのは、芸術作品として認めているからである。

 ところで、このコンパスの両脚の先端である芸術家と大衆の関係は、そのような事実や実体のない虚像である。しかしコンパスは、両先端によって、虚像の円や距離をえがいたり、はかったりする。

 虚像は、拡大鏡がむすぶ像のように、現実世界では、実像と同等の意味をもち効力を発揮している。実像以上の効果をもつこともある。

 だが、ツァラでは、このような虚像性に関心をむけることなく、あくまで実体であるコンパスの二本の脚をいかにして一本にするかに、暗黙の関心があるようにおもわれる。しかも、作品と作家、作品と大衆の二本の脚のそのどちらかを、あえて折りとることがあろうと、一本にしてしてみせようということである。

 かれの視線は、コンパスの頂点、二本脚の結合部である作品ではなく、一方の脚の末端、作家からみた、芸術指示棒にある。これは、堕天使の視点であり、堕天使の所業として作品をみる芸術論である。堕天使は神の国から追放され、神の国に反抗するものである。堕天使のアイデンティティーは、誹謗され、中傷され追放されたということと、反抗することしかない。だから、「彼は(堕天使)は誹謗されるので幸福だ」となり、「そのことこそ彼(堕天使)の不易性を証するもの」となる。

 だからここに描かれていた作品は、大衆が罵倒し中傷する作品だけであった。さきのコンパスの例にもどれば、芸術家と作品の関係は、大衆と作品の関係と二重写しとなる。というよりもむしろ、大衆と作品の誹謗・中傷の関係のなかに、芸術家と作品のあるべき真の関係をみようとする。堕天使は神の国になお自分の国をみるのである。堕天使の国など存在しない。堕天使が堕天使であるのは、堕(おと)され、追放された神の国があるからである。

 かくして、コンパスの重ねられた二本の脚の一方、芸術家と作品の関係を、大衆と作品の関係に映しながら、反抗する堕天使の所業としてあきらかにする。


 僕らは自分のうちに空涙を流す性向を抹殺した。いっさいのこうした性質の浸透は、砂糖漬けにした下痢なのだ。このような芸術を励ますということはそれを消化することを意味する。僕らに必要なのは、強靭で、一直線の、的確で永久に理解されない作品だ。/ 論理は錯綜である。論理はいつでも贋である。それは概念や言葉の脈絡を、形骸化させ、断片の方へ、むなしい中心へ、牽引する。論理の鎖はひとを殺す。それはまるで、自立性を窒息させるおおきな百足のようだ。論理と婚姻した芸術は、近親相姦しながら生き、たえず自分の躰、自分の尾を貪り嚥下し、自分自身と姦淫するだろう。


 前半二行については、つぎのように読むべきであろう。一見すると、「このような芸術」は、そのまえに描かれた「新聞の賞賛を博する作家、芸術家」の芸術のことであり、「金をかせいだり、甘ったるいブルジョアの気を惹くために」つくられる否定すべき芸術のようにみえる。

 だが、そうではあるまい。これは、「戦いの手段として選んだ芸術」であり、〈ダダイストの自発性〉によるダダ芸術のことであろう。「僕らは(たとえばダヴィンチの絵画のような)自分のうちに空涙を流す性向を抹殺した」。そうした、性向は口当たりはよいが、とおりいっぺんの「不消化」の下痢みたいなものだ。こうした感情を芸術化するには、そのまま出すのではなく、この下痢をふたたび呑みこみ、強靭な胃袋でさらに消化しなければならない・・・・。 そうしたことは、すでに〈ダダイストの自発性〉による〈行動する単純性〉でかたられた、「ひかりの濃淡を識別することは不可能である。ということは、薄闇を舐め、蜜と排泄物でみたされたおおきな口のなかを浮遊することになる。『永遠』の尺度で測られたとき、いっさいの行為はむなしい」という発言を、別の角度から現実的芸術論として言いかえたようだ。また、これは、「みずからの卑小さのなかでみずからを完成し、完璧化して、自我の器を満たすこと」ではじまる〈ダダイストの自発性〉の芸術の目的説明でもある。そのようなものであるから、「僕らの作品は強靭で、一直線の、的確で永遠に理解されない作品」となるのだ。

 自発性の芸術は、自発性であるから、「永遠に理解されない作品」である。それが〈ダダイストの嫌悪〉では、「論理の廃棄、創造不能者たちの舞踏」となり、論理を廃棄するから、創造不能になり、永遠に理解されない作品となる。とすると、「砂糖漬けにした下痢」とは、世間で安易に通用する論理ということになろう。すると、安易に通用する論理、あるいは、安易に通用する論理のような作品が、「公益がまとうマントの惨めな裏地だ。凶暴性を蔽いかくす襤褸だ。卑しい本能を孵す獣の体温に協力する尿だ」の放言じみた表現も一貫性のある発言となる。

 そして、必要なのは「永遠に理解されない作品」ということと、「芸術はわたくしごとである。芸術家は自分のためにそれをする」だというさきのダダの主張は、レスタニーでは、ダダは0(ゼロ)度の芸術であるということになるのであろう。はたしてこれが、0(ゼロ)度の芸術であろうか。0(ゼロ)をふくめて数は順序の概念である。ましてや、ヌーヴォー・レアリスムの作品が、ダダを0(ゼロ)度として、40度の芸術なのであろうか。大衆との関係においては、そのようにみえるかもしれない。しかし、いますこし、これを見極めなければならない。

 大衆は作品から芸術をみる。ツァラは芸術家から芸術をみる。ツァラにとって芸術は行為である。「ダダイストの嫌悪」と「ダダイストの自発性」による行為である。

 レスタニーは、’60年代のはじまる年に、ダダを0(ゼロ)度としてこれを継承する芸術を主張したが、行為としての、「ダダイストの嫌悪」や「ダダイストの自発性(spontanéité)」に注目したわけではなかった。しかし、’60年代後半には、ツァラのいうような「嫌悪」や「自発性」は、芸術や政治の領域で意味をもつものとなった。

 ことに、「自発的な(spontané)」ということばは、1965年ごろから、「自然な、率直な、任意な」とか「自然発生的な、自然に生じた」とかの語意ではなく、「既成規範にとらわれない、なにものにも制御されない」という意味で、頻用されるようになった(注.『小学館ロベール仏和大辞典』の語意分類) それは、1969年には、自発主義(Spontanéisme)という新語となり、芸術的分野や政治的分野でひとつの傾向をあらわす用語となった。

 政治用語では、大衆の革命的自然発生抗議活動を肯定する者の態度、または、主義を意味することばである(注.Le Grand Robert de la langue française)  これは、世界的な学生紛争のなかで、パリの5月危機のころから使用されはじめたことばである。現在の仏和辞典では「自発性信奉主義」とか「大衆自発革命主義」と記されている。

 だがこれは、単なる用語の定義ではなく、学生たち、あるいは、自発主義者 (spontanéiste)たちの、どこの国にもみられた、その抗議活動にいたる経緯をみると、その「自発性信奉主義(Spontanéisme)」の内包するものは、ツァラがかたる〈自発性(sontanéité)〉の由来と同一の視点から成立していることがわかる。

 ’60年代後半の学生運動期の日本の状況もそうであった。学生紛争と密接なかかわりをもつ日本共産党は、すでに、紹介したように、つぎのような政治状況下にあった

(注. 拙著『’60年代日本の文芸アヴァンギャルド(余話)』(1) ━ 序章 (2)世界状況のなかの日本  [『百万遍』2号掲載]) 


 第5回全国協議会(五全協)(1951年)で決定した新綱領「民族解放と武闘闘争の方針」を、「第六回全国協議会」(六全協)(1955年)で放棄し、革命路線から「平和革命論」へと革命放棄の路線変更をしていた。この路線変更は党内外に混乱をもたらし、’60年代の大衆反戦デモと「学園紛争」の全期間をとおし、1960年6月の過激化した国会デモを批判し、学園紛争期には学生運動を非難し、「沖縄デー」や「反戦デー」という統一行動においてさえ、かれらと共闘しなかったことは、すでに紹介したとおりである。

 そこにおいてみられた、外的世界状況の変化、国際共産主義状況の変化によっておこった突然の路線変更は、突然の論理変更をもたらし、党活動を拘束した。それは、とうじ共産党に好意的であった者の目にさえ、まさに、ツァラのいうような「論理は錯綜である。論理はいつでも贋である。それは概念や言葉の脈絡を、形骸化させ、断片の方へ、むなしい中心へ、牽引する。論理の鎖はひとを殺す。それはまるで、自立性を窒息させるおおきな百足のよう」 にみえたにちがいない。そして、そこでかたられるような安易な「平和革命」論理は、共産党指導者の砂糖漬けにした下痢であり、「(人民のためという)公益がまとうマントの惨めな裏地だ。(権力闘争の)凶暴性を蔽いかくす襤褸だ。(指導権をとりたいという)卑しい本能を孵す獣の体温に協力する尿」そのものにみえたにちがいない。そうしたものをみたとおもった彼らが、「既成規範にとらわれない、統御されない」自発主義(Spontanéisme)をかかげたのは、むしろ当然である。そして、そうしたことは、日本の学生運動だけでなく、フランスの5月危機でも、フランス共産党や労働総同盟(C.G.T.)の指導方針と政治的抗議集団の学生や一般大衆とのあいだに、おなじようなことがおこり、またそれが彼らの行動にふかい関係をもった。 (注. パリの5月危機については、西川長夫『決定版パリ五月革命 私論 ━ 転換期としての1968年』を参照)  またそれは、日本やフランスだけでなく、アメリカ合衆国、イタリア、西ドイツ(当時)、スペインなどでおこったことである。

 こうした「自発主義」は、日本では、政治用語だけで知られているが、むしろ、フランス語では、1965年ごろからまず芸術領域でもちいられた。芸術用語としては、個人の創造的自発性にしたがい、これのみを尊重する態度または主義を意味することばであり、’50年代末から’60年代にかけてはじまったハプニング、パフォーマンスなどをさしてもちいられた。 (注. Grand Robert de la langue française)  これらは、いかなる既成芸術規範にも制御されない芸術行為であって、クレス・オルデンバーグの『シティーから』などは、「論理の廃棄、創造不能者の舞踏」そのものである。(図版9:オルデンバーグ「シティーから」) 


図版9:オルデンバーグ 「シティーから」




 こうしたハプニング、パフォーマンスにかぎらず、 R.ラウシェンバーグやJ.ジョーンズのコンバイン・ペインティング、ジム・ダインらのアサンブラージュやジャンクアート、さらには、ポップ・アートまでをふくめて、これらをネオ・ダダとハロルド・ローゼンバーグが命名したのが、レスタニーのヌーヴォ・レリスムの2年前である。ダダ精神は、ことに「自発性(spontanéité)」の精神は、自発主義(Spontanéisme)となって、文字通りここで、継承されているということができるのかもしれない。これらの芸術には、デュシャンの「ダダを食いものにしている」という見方も、シドニー・ジャニスなどの画商展やミュージアム展ではなりたつだろうが、こうしたダダの継承があることは、ヌーヴォー・レアリスムもふくめてネオ・ダダでは考慮しておかねばならない。

 しかしながら一方、ツァラが意図したダダ精神の「自発性(spontanéité)」が、’60年代に自発性信奉主義(Spontanéisme)に結実し独自のかがやきを放ちはじめたころ、当のツァラは、ネオ・ダダの活躍を見届けることなく、〈自発主義[スポンタネィスム]〉が若者の口から叫ばれるのを聞くこともなく、1963年12月に死去していた。かれがネオ・ダダ芸術について、デュシャンのように批判的であったか、それとも好意的であったかはわからない。しかし、政治的〈大衆自発革命主義(Spontanéisme)〉にたいして、反対の立場にあったであろうことは、よういに想像できる。かれは、さきににもふれたように、1960年にだされた「アルジェリア戦争における不服従の権利」の第2回目声明には署名している。しかし、第一次インドシナ戦争にさいしてシュルレアリストを中心にフランスの知識人たちがだした戦争反対の声明「自由とはヴェトナム語である」(1947年5月)には署名していない。これは、フランスとベトナム独立同盟(通称 ベトミン)が戦った、1946年からはじめられた植民地戦争である。かれは署名しないばかりか、公然とこれを非難した。とくに、この声明が、原則論にとどまり、反対するだけでなんの提案もないという理由からである。

 この批判には、すこし説明を要する。 第二次大戦中、シュルレアリストたち、とくにブルトンは、1941年から1946年までニューヨークへ亡命し、ツァラはフランスにとどまり、レジスタンスに参加したといわれている。フランス共産党員であった旧友アラゴンもレジスタンスにかかわっていたから、それが関係したのか、戦後の1947年に、かれもフランス共産党に入党した。

 この年1月、フランスでは、第四共和制下ではじめて大統領選挙が施行され、社会党のオリオールが当選した。そして、社会党主導で成立した連立内閣には、共産党も参加していた。勃発したばかりのインドシナ植民地戦争の当事者になっていたわけである。「自由とはヴェトナム語である」の声明は、このようなフランス共産党の政権参加批判をふくむものであった。

(注. 第二次大戦末期のレジスタンスについては、国際共産党と左翼組織間の確執があり、その評価はむずかしい.)


 こうした背景が、ツァラの言動にあらわれていたのであろう。ツァラの非難は、「(大戦中の)ほとんど7年間沈黙していた」くせに、いまさら文句をいうシュルレアリストたちの言分は、原則論にとどまり、反対するだけでなんの提案もない、という論理によるものである

(注. この経緯については、Sophie Leclercq: La rançon du colonialisme ━ Les surréalistes face aux mythes de la France coloniale を参照)


 フランス軍が戦っているベトナム独立同盟とは、フランス植民地からの独立をもとめて、ベトナム共産党が結成した独立運動組織である。その指導者ホー・チ・ミンは、1920年のフランス共産党結成にも参加した国際的共産主義者であった。そのベトミンとの戦争に加担するには、また、別の論理を必要としたのであろう。

 こうした、錯綜した理論を無視して、インドシナ植民地戦争反対の声明に署名することは、〝自発性(spontanéité)〟にうらうちされた〝行動する単純性〟の表出である。さきのツァラの「論理」は、どのように考えても、’60年代に成立した「スポンタネィスム(自発性信奉主義)」の対蹠点にある「(フランス共産党の)体制論理信奉主義」の主張である。

 さらにまた、ツァラの「原則論にとどまり、反対するだけでなんの提案もない」とういうこの批判の論理は、’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかで、「学園紛争」の全期間を通じ、日本共産党や学園紛争を批判する勢力が、「暴力学生」を非難し、「沖縄デー」や「反戦デー」という統一行動において、かれらと共闘しなかった論理であり、「デモ・ゲバ」学生へむけられた非難の常套句であったことは、本論第1章(『百万遍』2号掲載)ですでにのべたところである。

 こうした「論理」の共通性は、「スポンタネィスム(自発性信奉主義)」が、一般性をもつ対抗概念であることを証するものであろう。

 そして、ツァラ自身が’60年代後期のこうした「自発性信奉主義(スポンタネィスム)」によるデモ・ゲバに立ち会っていたら、「自発主義」を批判する論理の立場にあったであろうとさきほど述べたのは、これによるだけではない。かれは、戦後の世界情勢の変化のなか、「共産主義・『政治』主義」体制注1.では、スターリンの死によるフルシチョフの平和路線への急激な「論理」変更のなかでも、フランス共産党から離党することなく、独自の声明もださず、1963年の死に際してはフランス共産党機関紙『ユマニテ』が、「大詩人逝去」と惜しみ悼んだという注2。政治的には忠実な党員詩人だったということである。

注1.拙著『’60年代日本の文芸アヴァンギャルド(余話)』(1) ━ 序章 2)を参照.  

注2. 塚原史訳『ムッシュー・アンチピリンの宣言 ━ ダダ宣言集』に掲載されたゆきとどいた解説を参照) 


 このようなかれ自身の「自発主義(スポンタネィスム)」との乖離は、『ダダ宣言 1918』におけるかれの主張とその思想が、変化したと見るべきなのであろうか。おそらくそうではあるまい。 

 そうでないという見方は、ツァラのダダとこの『ダダ宣言 1918』にかかわるものであるから、関連して述べておくことにする。

 まずこの『ダダ宣言 1918』は、ツァラ自身の意図はどうであれ、芸術論であることをいっておかねばならない。それは、芸術から社会をみる20世紀のあたらしい芸術論である。芸術からみた人間関係の芸術論ということである。それがどのようなものかを説明するには、この宣言がかかれたときのツァラの状況にふれておかねばならない。

 第一次世界大戦がおこり、ルーマニア王国が現実的に戦火にまきこまれた年、1916年2月に、兵役をのがれて中立国スイスのチューリッヒに亡命留学をしたとき、かれは20歳であった。ルーマニア王国は中欧の小国であり、第一次大戦でも、地理的、歴史的には同盟国(独墺トルコ)側にありながら、結局は、連合国側についた国である。

 このような小国のパスポートをもちユダ系家庭出身のかれが、チューリッヒ到着後、同国出身のマルセル・ヤンコや、ドイツ帝国から逃れでたフーゴ・バルらおなじような境遇の若者たちと、「ダダ活動」をおこなったことはすでに記したことである。

 そして、第一次世界大戦は、1918年11月に同盟国側の降伏によっておわりをつげる。『ダダ宣言 1918』は、この終戦をはさんで、7月の「ダダの夕べ」で朗読され、12月刊行の『ダダ 3』誌に掲載されたものである。この宣言は、戦争がおわりチューリッヒでの亡命生活終結が予測される時期に書かれたものである。このときツァラは22歳である。とうぜん戦後の生活を考えねばならない年齢であり状況である。フーゴ・バルやヒュルゼンベックらはすでに帰国し、ベルリンへ去っていた。ツァラには、ルーマニア王国へ帰国する選択はほとんどなかったかとおもわれる。チューリッヒでの活動からえた展望では、芸術の道がかろうじて見えていたのかもしれない。『ダダ 3』誌のページには、バル、ヒュルゼンベック、ハンス・アルプ、マルセル・ヤンコ、ハンス・リヒターら、チューリッヒのダダ仲間たちの名はもちろんであるが、フランシス・ピカビアを先頭に、ピエール・ルベルディ、アルベール・ビロー、ポール・デルメ、フィリップ・スーポー、アルベルト・サヴィニオらの、フランスやスペイン、イタリアの、呉越同舟の感なきにしもあらずの、パリで活躍するアヴァンギャルディストの名前がやたらに列挙されている。彼らとは文通があり、同誌への作品掲載もあったが、まだ出会ったことはなかったはずである。これは、チューリッヒのつぎの行き先が、パリであることを暗示しているのかもしれない。かれらは、今後すすむ道にいる者たちである。それだけでなく、「ダダ宣言 1918」を巻頭に掲載した『ダダ 3』誌の表紙には、はじめて発行人としてトリスタン・ツァラの名前が印刷されていた。この編集方針にも、ひとつの選択があらわれているようにおもえる。

 そしてそれは、なによりもこの『ダダ宣言 1918』の性格を規定していたであろう。選択した芸術の道を表現する「芸術論」であり、それは芸術の生活化である。かれの生活が中心にある社会を、芸術からみることである。自分独自の芸術論である。

 そうしたかれの感情がもっとも端的にしめされているのは、すでに引用した ━ 「生活がもし、目的もなく、初めの出産というものもない粗末な笑劇(ファルス)であるにしても、また、雨に濡れた菊のように爽やかに、厄介事から身を救いださねばならぬと信じるから、了解のための唯一の基礎を宣言した。すなわち、芸術である。・・・・・・ 芸術によって悲しむものはだれもいない。そして、芸術に愛着をもつことができる者たちは、国中を対話で満たすすばらしい機会や抱擁を享受することになるだろう」 ━ にあらわれている芸術共同体期待の芸術論であろう。

 この宣言は、どの部分を切り取ってみても、いつもそのようによめる。さきに紹介した『ダダ宣言 1918』の結論部にある「ダダイストの嫌悪」の冒頭 「いっさいのダダイストの嫌悪をぶつけた容赦せぬ戦いを宣言する/すべて、家庭の否定をゆるす嫌悪から発したもの、それがダダである。破壊行為のなかに全存在をかけた拳の抗議:ダダ、 安易な妥協と上品さとで貞潔な性(セックス)が今日まで遺棄してきたいっさいの方法の承認:ダダ」も、ルーマニア王国への帰国断念を、みずからの心のどこかにむかって宣言しているようにもきこえる。帰国し、父の跡を継ぎ結婚して、安易な妥協と上品な家庭をもつことの廃棄である。そして、破壊的な芸術行為の生活の道を選ぶということである。だから、このつぎにくるのが、「論理の廃棄、創造不能者たちの舞踏:ダダ」にはじまるダダの芸術論であった。

 さきにした引用もまた、それを説明するかれの選んだ芸術である。

 

僕らに必要なのは、強靭で、一直線の、的確で永久に理解されない作品だ。 論理は錯綜である。論理はいつでも贋である。それは概念や言葉の脈絡を、形骸化させ、断片の方へ、むなしい中心へ、牽引する。論理の鎖はひとを殺す。それはまるで、自立性を窒息させるおおきな百足のようだ。論理と婚姻した芸術は、近親相姦しながら生き、たえず自分の躰、自分の尾を貪り嚥下し、自分自身と姦淫するだろう


 ここで、かたられるのも、社会的論理、社会に通用し生活を支配する論理の欺瞞と虚偽を暴きながら、それは芸術の論理のことである。したがって、これを書いたツァラには、政治的自発性などその念頭には、まったく欠落していたにちがいない。だから、1947年になんの矛盾もなくあのような発言ができたとおもわれる。

 本論のこの項の目的は、『ダダ宣言 1918』を「反芸術」の見地からみることであって、ツァラ自身の政治行動については、たとえばブルトンとの相異などについては、これいじょう述べないことにする。

 しかし、『ダダ宣言 1918』で示された、生活から芸術をみる芸術論は、’60年代アヴァンギャルドに影響をあたえたというよりむしろ、’60年代アヴァンギャルドが直面した困難な課題を予兆するものであった。そのような視点から、この項のさいごに 『ダダ宣言 1918』のひとつの解釈をのべておこう。

 ツァラの『ダダ宣言 1918』は、「反芸術」を語ったものでも、「完全否定(non)」を主張したものでもないことは、すでにした読解からあきらかであろう。しかし、この「宣言」は、一篇の詩のように複数の解釈が可能である。ひとつひとつのことばのもつ独立した意味とそのひろがりが重要である。そして、いままで読んできたところでも、ことばが、句や節としてつながっていくと同時に、その組合せをかえ、ちがった意味をあらわすことがある。そうした例をいくつか示してきた。それは、読者にとっては、さまざまな意味をくみとることができるということである。

 そのなかには「反芸術」らしいものもある。それは、レスタニーがいうような作品論的な「反芸術」ではありえないことはたしかだが、’60年代のアヴァンギャルディストのあるものたちが願った(反)芸術が、初源的なかたちで、かなり執拗に主張されているようにもみえる。

 ダダは20世紀アヴァンギャルドの鏡のようなもので、さまざまなアヴァンギャルディストたちが、それをのぞきこむと自分が写っているのをみてしまうのである。たとえば、レスタニーがデュシャンのレディーメイドをダダにみたような場合である。そして、そうしたことは、ツァラのこの宣言が、さまざまな読みかたができる、そのおおきな理由であろう。

 それならば、’60年代アヴァンギャルドがそこにみた共通点を整理しておこう。

 まず、『ダダ宣言 1918』の最初から最後まできこえてくるのは反抗の叫びであろう。堕天使の反抗のような反抗である。「堕天使」とはいったが、かならずしも確固たる神の国があって、そこから不当にも追放されたというのではない。ただ、漠然としたあるべき世界から裏切られ追放されたという、怒りと不安からくる反抗である。それは、この宣言を書いたツァラにかぎっていえば、戦争による祖国と家庭からの追放、さらにいえば、それまでのじぶんの生活からの追放に端を発した不満と不安からかもしれない。そして、それは、かれの過去と未来の生活を拘束する社会そのものへむかう。あるべき世界は、あるべき社会であり あるべき生活 であろう。この反抗は、「社会生活」への堕天使の反抗となる。

 そしてこの「社会生活」から追放された堕天使は、反抗の手段として芸術を選ぶと宣言した。

 堕天使のアイデンティティーは反抗にある。反抗はわたくしごとである。堕天使はじぶんのために反抗をする。だから、芸術もわたくしごとになり芸術家はじぶんのためにそれをすることになる。自発性の、じぶんにとってだけの絶対芸術である。ここにある芸術論は、芸術至上主義の芸術論である。

 この芸術論は、19世紀ロマン主義の「芸術のための芸術(l’art pour l’art)」を集約して継承する、反抗する芸術至上主義をとなえる攻撃的なものである。そしてこの芸術の反抗は、社会への反抗、すなわち、じぶんの生活をつつんでいる社会への反抗であった。だから、「生活がもし、目的もなく、初めの出産というものもない粗末な笑劇であるにしても、また、雨に濡れた菊のように爽やかに、厄介事から身を救いださねばならぬと信じるから、了解のための唯一の基礎を宣言した。すなわち、芸術である」 を再引用するまでもなく、生活至上主義の反抗でもあった。

 この芸術論は、生活至上主義のうえに立脚した芸術至上主義である。

 しかし、堕天使の、社会に反抗することにあるアイデンティティーは、社会から誹謗され、中傷され、追放されたということでもあったのだから、その芸術至上主義と生活至上主義は、困難な芸術困難な生活が前提とならざるをえない。

 だから、この宣言の結論は 「自由よ、ダダ、ダダ、ダダ、ひきつったくるしみの叫び。逆さまなこと、いっさいの矛盾すること、醜悪なもの、その場限りのでたらめのからみあい、つまり 生活(LA VIE) だ」で、突如としておわらざるをえない。

 というのは、ここで論調が一変しているからである。この三行は、それまでの思考の流れをいっきょに断ち切る。というよりもむしろ、これまでさまざまに述べてきたことにむけられた、独立した三行の語りとなっている。

 原文を引用する。

 Liberté: DADA  DADA  DADA, hulement des douleurs crispées, entrelacement des contraires, et de toutes  les contradictions, des grotesque, des inconséquences: LA VIE.


  『ダダ 3』誌に掲載された「ダダ宣言 1918」では、このさいごの十数行が印刷されたページの右側の余白に、縦組みで「crier! CRIER! (叫ぶ! 叫ぶ!)」と印刷されている。そして、本文では、宣言ちゅう、唯一下線をひかれた 「ダダ ダダ ダダ」と、「生活(LA VIE)」は、活字書体をかえて強調されている。初出の朗読では叫んだということなのか、それとも、叫ぶように読めという指示なのだろうか。活字書体からいえば、この三行はさいごの絶叫ということになる。

(注. 「Réimpression critique  Centre du XXe siècle   Université de Nice」 による.)


 強調する書体と構文中の「:(コロン)」からいうと、ここにあるのは、「自由」と「ダダ、ダダ、ダダ」と「生活 」の 3ワードだけである。

 そして、「ダダ  ダダ  ダダ」は、連呼するパフォーマンスのダダ芸術であろう。これまでのべてきた、ダダ芸術であろう。それが、下線をふされた意味であろう。たとえば、絶対芸術であり、「創造不能者たちの舞踏」であり、それでいて「戦いの手段」であるダダ芸術である。 

 さらにまた、冒頭の「自由(liberté)」については、無冠詞であるから、「自由よ!」という呼びかけであろう。  

 「自由(liberté)」の語意は 「外的な諸要因にたいする非従属、自立した状態、つまり、拘束の不在・排除・弱体の状態」とある(注.Le Grand Robert de la langue française)  ようするに、天真爛漫な晴れやかさを謳歌することばではなく、束縛、拘束、隷属を前提とする抑圧からの救済を切望する、逼迫したことばである。

 したがってこの「自由よ!」は、「ひきつったくるしみの叫び」でもあるから、連呼される「ダダ  ダダ  ダダ」、すなわち、ダダ芸術の呼びかけでもある。

 そして、このダダ芸術の「ひきつった苦しみの叫び、逆さまなこと、いっさいの矛盾すること、醜悪なもの、その場限りのでたらめのからみあい」は、「生活」の「ひきつったくるしみの叫び」であり、「生活」の「逆さまなこと、いっさいの矛盾すること、醜悪なもの、その場限りのでたらめのからみあい」の様態でもある。「自由よ」という呼びかけと、ダダ芸術と、渦巻く生活を同列においた叫びである。

 ここにあるのは、「自由」と(ダダ)芸術と「生活」を、能うかぎり接近させた表現である。ダダの芸術至上主義と生活至上主義の不可能な一体化の願望である。

  そしてまた、この結論の三行については、つぎのようなすこし異なる解釈もなりたつかもしれない。

 この三行は、本文でかたられたさまざまなダダ芸術、あの 「論理の廃棄、創造不能者たちの舞踏ダダ、 僕らの下僕が、価値づけからたてた全階層と社会方程式の(廃棄):ダダ、 ひとつひとつのオブジェ(対象)、いっさいのオブジェ(対象)、感情と不可解、平行線の出現とまさにその衝突、これらが戦いのための手段だ: ダダ」 という戦いの手段であるダダ芸術が実践され、しめされたダダ芸術そのものかもしれない。劇中劇演劇のような、ふくざつな入組み構造となった芸術論であり、芸術作品である。

 つまり、このような、いかなる文章論理もしりぞけ撹乱し、芸術論文とも評論とも散文詩とも演劇台本ともわからぬ、ジャンル無視の、それでも芸術をかたり、芸術である表現は、1918年という時代環境では、「創造不能者の舞踏」ともいえるし、これぞツァラがえらんだ、ツァラにできる実践的なダダ芸術ではなかっただろうか。

 なぜならば、このダダ芸術は、大衆には「理解されず、誹謗される」作品であり、出版「産業の売り場主任」や「新聞の賞賛を博する」作品ではなかっただろう。だが、そうであっても、「芸術に愛着をもつことができる者たち」に歓迎され、「抱擁」をもって迎えられるがあったのである。「ダダ宣言 1918」が提示していた芸術共同体に、受容されたのである。この作品がどのようにそこで受けいれられ、これをめぐって、どのような芸術的対話が満ちあふれたかを想像することはよういである。それはかならずしも、ツァラが夢見たパラダイスではなかったけれど、エネルギーが沸騰する芸術の国であった。

 ツァラを迎えいれ、また、それによって活性化され、シュルレアリスムというグループを形成させたパリの芸術共同体のようすをみておこう。それは、’60年代の日本にもありえたかもしれないからである。

 そのときこの芸術共同体の一員であったアンドレ・ブルトンは、これより約10年後に『シュルレアリスム第二宣言』(1929年)を書いた。その冒頭で、シュルレアリストの基本的態度として、「古くからある二律背反が内にひそめている作為的性格をあらゆる手段を用いて試練にかけ、万難を排して暴き立てることである」と、まるで、ツァラの「さかさまなこと、いっさいの矛盾することのからみあい」を、集約し目的化させたようなことを記している。ていねいに読んでみると、ツァラのダダとブルトンのシュルレアリスムは、たがいに相異するのはあきらかである。しかし、当時のパリの芸術共同体で、ツァラの「ダダ宣言 1918』は、理解され賞賛を博し、ことにこの「自由よ、ダダ、ダダ、ダダ、ひきつったくるしみの叫び。逆さまなこと、いっさいの矛盾すること、・・・・・ その場限りのでたらめのからみあい、つまり 生活だ」をめぐっては、ブルトンは共鳴し、かれらのあいだには、親密な対話がかわされたであろう。それが、『ダダ宣言 1918』(1918年)と『シュルレアリスム第二宣言』(1929年)注 の、時代をへてなお交わされている対話の継続として、このふたつの文章にあらわれているようにおもわれる。

(注. 『シュルレアリスム第二宣言』の成立は、『シュルレアリスム革命』誌に掲載された1929年12月とする.)


 そして、また、そこには、ツァラの願った「芸術に愛着をもつことができる者たちは、国中を対話で満たすすばらしい機会や抱擁を享受することになるだろう。芸術は、わたくしごとである。芸術家はじぶんのためにそれをする」の、あるていどまでの現実的実現、芸術至上主義と生活至上主義の困難な一致の過酷な現実の片鱗がみられるにちがいない。

 それをたしかめるために、対話の両者のもう一方である、シュルレアリスト、ブルトンの10年後の発言をもうすこしきいてみよう。なお、念のため付言しておけば、チューリッヒを去ったのちのツァラの生活基盤は、ピカビアをはじめとするこの芸術共同体にあり、またその後も、この芸術共和国から離れることはなかった

(注. パリのツァラについては、ミシェル・サヌイエ『パリのダダ』を参照. また、ツァラは生涯、ダダ・シュルレアリスムの芸術家とみなされてきた.)


『シュルレアリスム第二宣言』の関係箇所を引用する。

 

 知的見地からみてシュルレアリスムがかかわってきたことがら、いまもかかわっていることがらは、古くからある二律背反が内にひそめている作為的性格をあらゆる手段を用いて試練にかけ、万難を排して暴き立てることである。自分に成し遂げられることの乏しさをそれとなく人間に思い知らせるだけにせよ、また普遍的拘束から有効な範囲で逃れられるわけがないと頭から人間を見くびってかかるだけにせよ、このような二律背反の偽善的なねらいは人間の側からの不穏な動きをすべて未然に阻止することにあるのだ。死という名のこけおどしの案山子、来世という看板の楽しいミュージック・ホール、いちばん冴えた理性までが眠りの中で乗り上げるという暗礁、未来という重苦しい垂れ幕、幾つものバベルの塔、無節操な鏡、脳味噌のとばしりがはねかかった乗り越えがたい金銭の壁、これら人間の破局の真に迫りすぎたイメージももしかするとただのイメージにすぎないのではなかろうか。生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いもの、すべてがそこから見るともはや矛盾したものとは感じられなくなる精神の一点が存在するように思えてならないのである。ところで、この一点を突きとめたいという希望以外の動機をシュルレアリスムの活動にたいして求めても、それは無駄というものである。もっぱら破壊的な或は建設的な意味をシュルレアリスムの活動にたいして付与することがいかに誤りであるかは、このことからしても明らかであろう。ここで取り上げている一点とは、なににもまして(原文イタリック)、建設と破壊が、それを旗印として互いに振りまわし、いがみ合う口実とするのを中止する一点なのだから。シュルレアリスムは、芸術とか或は反芸術という口実、哲学や反哲学という名目のもとに、その周辺で生産されているもの、つまり、ひとことで云えば、きらびやかだが、内にだけ籠り、外が見えていない者のなかでおこる人間の破綻、それはもはや氷の魂でも火の魂でもなくなるのだから、そのような人間の破損を問題に掲げていないいっさいのことを重視するなどには、関心をはらわぬのもまた明らかである。(生田耕作訳 『超現実主義第二宣言』[奢㶚都館].『シュルレアリスム第二宣言』の引用については、すべて同書から. 若干の修正をくわえている.下線は筆者)


 この宣言は、1924年に発足したシュルレリスムのグループ内で、ブルトンを中心にしたメンバーとそのほかのある者たちのあいだで、「革命」と「共産主義」をめぐって、思想的対立がおこり、シュルレアリスト・グループの解体がはじまったとき書かれたものである。したがって、書かれた内容も、シュルレアリスムの思想を明確化しようとするとともに、離反者らへの反論が加味されている。さらにまた、この反論には、とうじブルトンが入党していたフランス共産党内部で許容されないシュルレアリスム芸術思想について、説明と論駁のおもいがあらわれている。ことにそれは、後半部にあらわれているようにおもわれる。

(注. 拙著『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論』に、その経緯をかいている.)


 ブルトンのいうところでは、シュルレアリスムは、二律背反(アンチノミー)という論理の虚偽性を問題にしており、「生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いもの、すべてがそこから見るともはや矛盾したものとは感じられなくなる精神の一点」がかならずあると信じているということである。一方、ツァラでは、「ダダ、ダダ、ダダ」は、「正反対のもの(les contraires)のからみあい(enlacement)」であり、「いっさいの矛盾のからみあい」の表明であった。

   ブルトンがここで対象とするのは、この一文の直前にしめされているように、「知的ならびに倫理的見地(au point de vue intellectuel et moral)」からみたものである。そして、ツァラでも、その「ダダ宣言」をすでにつぶさに読んだことからわかるように、どうようの宗教や哲学を包括する視点からの発言である。そして、「正反対なこと、いっさいの矛盾すること、醜悪なもの、首尾一貫しないことのからみあい」というのであるから、ツァラでは、かれ自身が宣言中でいくどもかたっているように、「論理の廃棄」であり、〈混沌〉の主張である。

 ブルトンの主張は、もっぱら倫理的見地から、二律背反を廃絶し、一元論を成立させる 願望である。つまり、この思想の根底にあるのは、二元論たる、倫理的視点の善と悪、哲学的視点による精神物質を、いかに無視するかということであろう。

 そして、ツァラとブルトンのそれぞれの言分を一読したかぎりでは、ツァラでは感情的、抽象的な言いっ放しであり、ブルトンでは具体的論証的であって、たがいに相容れず、対話は成立していないようにみえる。

 だが、よく読んでみると、これらはおなじ分野の、おなじことについてかたられているのがわかる。『ダダ宣言』のなかのツァラが、芸術を宗教と哲学のレベルでまずみたように、ブルトンも、みずから認めているように倫理的、哲学的なものとしてシュルレアリスムを考えている。

 そして、また、ブルトンの、「生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いもの、すべてがそこから見るともはや矛盾したものとは感じられなくなる精神の一点が存在するように思えてならない」といい、「この一点を突きとめる希望以外の動機はシュルレアリスムの活動にはない」という確信的断言にたいして、ツァラの「ダダ、ダダ、ダダ、・・・・・・・ 相反するもののからみあい、いっさいの矛盾するものからみあい、・・・・首尾一貫しないもののからみあい」は、気ばかりあせった、いかにもたよりない思いつきの結論であるようにみえる。

 しかし、ツァラのいう「相反するもののからみあい、いっさいの矛盾するものからみあい」の〈からみあい(enlacement)〉は、たんなる混乱ではない。絡み合うということは、抱擁のように、二体が一体化することであるが、それぞれがそれぞれである事には変わりない。そして、それでいながら、たがいが以前とはちがうじぶんを確かめる事である。ツァラはこうした〈からみあい〉について、べつな言い方では、うずまく「宇宙の混沌の純粋さのもつ絶対性」としているようにおもわれる。

 これにたいして、ブルトンは、「生と死、・・・・・すべてがそこから見るともはや矛盾したものとは感じられなくなる精神の一点が存在するように思えてならない」という。

 かれは、そのために、相反するものいっさいの矛盾するものの、具体例として「生と死、現実と想像、過去と未来・・・・・」をあげ、その相反する一方が 「死という名のこけおどしの案山子、来世という看板の楽しいミュージック・ホール・・・・未来という重苦しい垂れ幕・・・・・」としてイメージ化されていると、わざわざかかげてみせたうえで、「これら人間の破局の真に迫りすぎたイメージももしかするとただのイメージにすぎないのではなかろうか」と、「二律背反」の虚偽性とその狙いを実証的に示してみせたのは、ツァラの抽象的、総括的表現とはまったくことなる表現である。  

 しかし、かれらふたりの思想がたちむかい、さししめす方向は、ほとんど同一である。

 ツァラでは、相反するものの絡みあい、いっさいの矛盾するもの絡みあい、醜悪なもの、その場限りのでたらめの絡みあいは、ダダ芸術をあらわすものであった。そして、また、ブルトンでも、「人間の破局もただのイメージ」にすぎず、現実界の「二律背反」が「矛盾したものとは感じられなく精神の一点」をもとめる希望、その一点をあらわすことが、シュルレアリスム芸術だという。

 かれらはともに、二元論を排した一元論芸術として、ダダとシュルレアリスムを主張し、またそれらは、ダダでは「共同体への不信と独立」のための戦いの手段であり、シュルレアリストでは、レアリテ(現実)を挑発する手段であったのである。

 そこでは、1918年のダダと1929年のシュルレアリスムは、時期的にも状況的にも、それぞれのわたくしごとであり、ツァラとブルトンは、じぶんのためにそれをしたのであろうが、『ダダ宣言 1918』を契機とした対話が、みごとに成立していたということができよう。

 しかし対話は、絡み合う抱擁のように、賛同するだけではない。議論をぶつけあい、批判しあうことでもある。ブルトンの発言の後半はそうした対話であるようにおもわれる。

 後半冒頭の、「もっぱら破壊的な或は建設的な意味をシュルレアリスムの活動にたいして付与することがいかに誤りであるかは、このことからしても明らかであろう。ここで取り上げている一点とは、なににもまして(a fortiori)、建設と破壊が、それを旗印として互いに振りまわし、いがみ合う口実とするのを中止する一点なのだから」は、表面的には、とうじブルトンが直面していたシュルレアリスム分離派とフランス共産党内のシュルレアリスム批判勢力へむけられた発言であろう。

 しかし、いかのべられる反論の支点としてあげられる「反芸術」とか「反哲学」は、具体的な思想的根拠があってのこととおもわれる。そして、この執筆時にブルトンの意識にあった直接的批判対象がなんであったにせよ、この前半部にあったツァラの『ダダ宣言 1918』とのかかわりからみると、とうじのブルトンではすでに記憶のそこに沈んでいたかもしれないけれど、このツァラの「ダダ宣言」の無意識的記憶との対話がブルトンの思考のなかで、継続して活発におこなわれているようにみえる。

(注. 《André Breton: OEuvres complètes 1》(Pléiade版) の注記(pp.1595)によると、〈反芸術(anti-art)〉は、ブルトンでは、ダダ運動をさしている. ことにピカビアたちは、ダダを韜晦するために、安易にこのことばを用いたとある。〈反哲学(antiphilosophie)〉については、ここでブルトンは、『哲学(Philosophies)』誌一派の動向を考えていたとおもわれる、と記されている。これらは、いささか大雑把な注記であろう.)


 じじつ、シュルレアリスムが「万難を排して暴き立てる」目標を表示したのちに、おなじようなつよい調子で、「関心をはらわぬもの」を強調してみせるのは、説明としてはいささか不自然である。つまり、「シュルレアリスムは、芸術とか或は反芸術という口実、哲学や反哲学という名目のもとに、その周辺で現れているもの、つまり、ひとことで云えば、きらびやかだが、内にだけ籠り、外が見えていない者のなかでおこる人間の破綻、それはもはや氷の魂でも火の魂でもなくなるのだから、そのような人間の破損を問題に掲げていないいっさいのことを重視するなどには、関心をはらわぬのもまた明らかである(Il est clair, aussi, que・・・・ )」  は、シュルレアリスムとして、その目標のように、どうしても言っておかねばならないという表現である。なにかを批判しておかねばならないということである。しかも、シュルレアリスムの本質にかかわる、なにかである。差別化することによって、シュルレアリスムのアイデンティティがあきらかになると、おもっていることであろう。

 ここでいちおういわれているのは、「芸術とか反芸術、哲学とか反哲学」をかかげて、シュルレアリスムの周辺で制作されたり主張されたりしているものの不毛性を、二元論批判の例証としてのべているようにみえるが、議論の主題は「反芸術、反哲学」であるとおもわれる。それは、1929年の状況下における「反芸術」と「反哲学」ではなく、シュルレアリスムがもっている「反芸術・反哲学」的性格である。

 とすると、いまのシュルレアリスムが、どうしても批判しておかねばならないのは、それはダダのいう「反芸術」であり、「反哲学」である。なぜなら、時系列的には、いかに強弁しても、シュルレアリスムの誕生はダダによって、はじまったからである。したがって、1929年のこの時点では、いかにしてもダダの「反芸術・反哲学」を批判し、それと弁別しておかねばならなかったのであろう。

 それというのは、この時代、あるいは、第二次大戦以前では、「反芸術(anti-art)」や「反哲学(anti-philosophie)」という言葉、ことに「反芸術」は、つかわれていない言葉であった。ブルトンがここで「反芸術」をもちいているのは、稀有な用例で、初出にちかいものであろう

(注. Dictionnaire de la langue française du 19e et du 20e siècle (Tome 3) の〈anti-art〉は、このブルトンの引用で説明されている.)  


 「反哲学」については、啓蒙思想をさす表現として「反哲学的(anti-philosophyque)」が18世紀から使用されているから、一般的意味内容をもつことばである。であるから、ブルトンが造語までして表現したかったもの、しかもシュルレアリスムにかかわるものが「反芸術」にはあったはずである。ブルトンがこの「反芸術(anti-art)」というシニフィアン(記号表現)に、どのようなシニフィエ(記号内容)をこめようとしていたかは、本論としても、検討しておかねばならない。「反芸術」は、第二次世界大戦後では、ハンス・リヒターの回想記『Dada ─ Kunst und Antikunst』(1964年)(邦訳『ダダ ─ 芸術と反芸術』[針生一郎訳])のように、アヴァンギャルドにからめて、いたるところに使用例があり、’60年代日本の「反芸術」を考えるためにも、それは必要である。

 というわけで、ここでは、ブルトンがこだわったダダの「反芸術」と「反哲学」をさかのぼって検証しておこう。

 創設期のダダイストたちは、「反芸術」とか「反哲学」とかということばを、いま述べたような理由からも、どこにおいても正面から用いたことはないのだが、ツァラの『ダダ宣言 1918』においてもどうようである。しかし、いうまでもなく、そのように理解されてもとうぜんの言説はいたるところにある。

(注. プレイァド版全集の注記の指摘にもかかわらず、その具体的発言はない。ツァラでは、『ダダ 3』誌掲載のピカビア紹介で、「ニューヨークから来た、反画家(anti-peintre)フランシス・ピカビア」と書いているが、「反画家」と「反芸術」はことなる概念である。)


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