Avant 2-3-3

第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」


3)トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』とアンドレ・ブルトンの「反芸術」


Part  3 



 「反芸術」については、「論理の廃棄、創造不能者たちの舞踏:ダダ」とか、「宇宙の混沌のもつ・・・・・秩序ある永遠の絶対性の芸術の放射」とかを、牽強付会の俎上にのせれば、ないこともないが、むしろ正反対の芸術至上主義の立場であることはすでにのべたところである。

 しかし、「反哲学」らしきもの、ブルトンと意見をことにする反哲学は、あきらかにある。

 問題となるところを引用しよう。

 哲学批判はつぎのように書かれている。


 哲学は問いかけである。人生、神、観念、その他なんでもよい、どちらの側から最初に眺めるか。眺められるものはすべて誤謬である。相対的な結論などいうものは、夕食後、菓子にするか桜桃にするか迷うことより重要だとは思えない。ひとつの事柄の他面をすばやく一瞥して、間接的に意見を押し付けるやり方を、弁証法と呼ぶ。つまり、方法を周囲に飛び跳ねさせておきながら、ポテトフライの精神を値切るようなものだ。


 明確な哲学蔑視の批判である。22歳の若者の発言としては、元ブカレスト大学哲学専攻の学生であるだけあって確信的である。そして、つぎのようなところでは、独立した項目をたて、論争的となっている。


⁂ ひとは思考によって、書かれたことを合理的に説明できると信じているが、それとて非常に相対的なことである。思考は哲学にとって美しいものであろうが、やはり相対的である。精神分析(la psychanalyse)は危険な病だ。人間の反現実的(anti-réels)傾向を眠らせ、ブルジョア階級を組織化するものだ。究極の「真理」などはない。弁証法(la dialectique)というのはふざけたからくりで、僕らを導いていくものだ/陳腐なやり方で/いずれにせよ到達する意見の方へ。人びとは、論理の綿密な組み立てで、真理を論証し、みずからの意見の厳密さを確立したと思うのだろうか? 知覚によって固められた論理など、器質性疾患にほかならない。哲学者は好んでこうした要素に、観察力なるものを付加しようとする。けれども、まさしく精神のこのみごとな特性こそは、おのれの無力の証左であろう。人間は観察し、一ないし多数の視点から凝視する。また、無数に存在する視点のなかからそうした視点を選択する。経験といえどもまた、偶然と個人的な能力との結果である。


 次項目の非難対象が、20世紀初頭のとうじでは、人類救済の希望の星であった科学批判につづくのであって、「反哲学」、「反科学」・・・・と、それなりに一貫した哲学批判である。

 だが、ここでそれらしく語られる弁証法なるものが、アリストテレス、ソクラテスからカント、ヘーゲル、マルクス、エンゲルスにいたる弁証法哲学のどれをさしているのかはわからない。1918年という発言のときからいって、唯物論的弁証法ではないであろう。カント的、あるいは、ヘーゲル的なものであろう。

 しかし、ヘーゲル弁証法については、ブルトンはそのごのシュルレアリスムでは、その思想への信奉を公言し、おそらくはさきの一元論的概念もその影響のもとで自信をもってのべているとおもわれる。

(注.『通底器』(1932年)参照)


 だが1929年のブルトンにとって、ツァラのこの「反哲学」的言辞で、もっとも反論すべきところはここではない。引用の後段にある「思考は哲学にとって美しいものであろうが、やはり相対的である。精神分析(la psychanalyse)は危険な病だ。人間の反現実的(anti-réels)傾向を眠らせ、ブルジョア階級を組織化するものだ」であろう。

 6年後のブルトンの超現実主義(surréalisme)と真っ向から対立して、とつぜんのべられる精神分析批判である。

 「精神分析(psychanalyse)」は、フロイトの創設した精神病理学理論である。人間の精神的こころの抑圧とその解放についてのべたこの理論に、医学生であったブルトンははやくからつよい関心をもち、そこから「シュルレアリスム」を案出する契機をえた。フロイトとその精神分析的手法、ことに「夢判断」にたいする肯定的評価は、『シュルレアリスム宣言』(1924年)にあり、生涯もちつづけるものであった。

 しかしこのことば「精神分析」自体は、1896年にフロイトが医学誌『神経学』に書いた論文中で「Psycho-analyse」と書いたのがはじまりで、1910年ごろには、「精神分析国際協会(Association internatinale de psycholoanalyse)」のように、精神病治療法用語であった。この「精神分析」を、この時代(1918年)に、否定的評価とはいえ、哲学の範疇にいれて論じることは、ブルトンはまだしていないことであり、ツァラがおそらくは直感的に時代思想の先端的にあったことを示すものであろう。

 いっぽうブルトンはといえば、第一次大戦中の1916年に、サン=ディジェの陸軍病院の精神医学センターに配属された。かれはそこで、所長であり、精神病患者の診療経験ゆたかなラウル・ルロワ博士から昵懇の指導をうけていた。そして、フロイトの「精神分析」について知っていたといわれるが、どのようにどこまで、それを承知していたかはわからない。(注.『対談』参照. フロイトのフランス語訳著作は当時はまだ出版されていない.)

 ブルトンが、シュルレアリスム創設の三銃士のあとのふたり、アラゴンとスーポーに出会うのは翌1917年であり、かれらと創刊(1919年3月)する小冊子『文学(リテラチュール)』誌にも、その当初の文学論に「精神分析」の痕跡が認められないからである。また、そうした「精神分析」からアイデアをえたとおもわれる「エクリチュール・オートマティック」や催眠状態の実験をスーポーたちと開始し、この自動記述をシュルレアリスムと命名したのは1922年のことである。『文学』誌はシュルレアリスムを予告した同人誌であり、「エクリチュール・オートマティック」が、当初は、シュルレアリスムを象徴する文学技法であった。

 いっぽう、ブルトンは、「ダダ宣言」刊行直後の1919年1月から、ツァラと文通を開始している。『ダダ宣言 1918』そのものには感激したといわれるが、この精神分析批判を、どのようにおもい、理解したかはわからない。その一年後(1920年1月)、パリに来たツァラと密接な関係をもち、『文学』誌No.13(1920年5月号)には、アラゴンの「ダダ運動宣言」を掲載しているほどであるから、『ダダ宣言 1918』への連帯感には、異論をはさむ余地はないであろう。 

 しかし、ツァラとの文通直後に刊行された『文学』誌創刊号には、すこし注目しておかねばならない掲載がある。

 この創刊号の作品掲載は、巻頭がアンドレ・ジッドの『地の糧』の抜粋、それにポール・ヴァレリー、レオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン、マックス・ジャコブ、ピエール・ルヴェルディ、ブレーズ・サンドラール、それに、アラゴンとブルトンの詩篇であった。24ページの月刊文学小誌の編集構成である。

 そして、この巻末には、書評欄があった。アラゴン担当の新刊書批評には、ツァラの詩集『25詩篇』と、ピエール・ルヴェルディの『変装したジョッキーたちと別丁の時代』の2冊がえらばれていた。さらに、R.L. 署名の雑誌批評があり、「ダダ宣言」についていかのようにとりあげられていた。 


 理想だ、理想だ、理想だ、

 知識だ、知識だ、知識だ、

 ぶむぶむ、ぶむぶむ、ぶむぶむ、

と、ダダ宣言でツァラはさけぶ。ブールデルはかれのぶむぶむのために踊る ─ これについては、かれは正しい ─  しかし、かれは、私たちを、かれのぶむぶむのために踊らそうとおもっているが、それについては、かれはまちがっている。ダダは、自由、そして、定型公式からの解放、芸術家の独立、それに、哲学、精神分析、弁証法、論理、科学といった「脳みその抽斗」の廃棄、それらいがいの何ものをも意味しない。ダダは「強靭で、一直線で、永遠に理解されない作品」を要求する。ツァラの宣言は、「意地汚い大衆」の口にはあわないが、その精気によって生きのこる作品群のなかにとどまる価値がじゅうぶんにあるものである。 R.L. 

(注.  Littérature (Nos1 à 20, mars 1919 à août 1921 [Editions Jean-Michel Place.1978]) 


   批評ではあるが、引用符いがいにも下線部は引用であり、内容も、要点をとらえたかなり忠実な紹介である。ところが、この批評をブルトンがどううけとめたかについて、間接的資料がある。

 ダダ・シュルレアリスムの研究家であり、パリ第三大学教授アンリー・ベアールの『アンドレ・ブルトン伝』には、この記述についてつぎのように書かれている。 


アドリエンヌ・モニエ(彼女の書店は『文学』誌を委託販売することになる)の友人(amie)による雑誌評はずっとおとなしかった。ブルトンの趣味からすれば、おとなしすぎるぐらいだった。そこには「ダダ宣言」に関して慎重な一文があったので、かれはこの評者 R.L.を雑誌批評からはずした

(注. アンリ・べアール[塚原史、谷昌親訳]『アンドレ・ブルトン伝』による. 原文を参照し、適宜修正したところがある.)


 記されていることの詳細がよくわからない。『文学』誌創刊号には、この批評は、R.L.の署名いりで上記引用のように掲載されている。べアール指摘の「担当からはずした」の趣旨は、次号以降では雑誌批評がないことをさすのかどうか。これ以後の『文学』誌には、雑誌批評はたしかにないが、書評そのものについても欠落した号もある。書評は継続してあっても、L.A.(アラゴン)いがいの署名もある。演劇批評、絵画批評掲載の巻もある。 R.L.なる女性がだれかはわからないが、たしかに、これ以降の『文学』誌に、その名はみられない。

 べアールはなにかの根拠に基づいているのだろうが、アヴァンギャルド書籍専門のモニエの書店に並べるにふさわしいという、作品論であるのはたしかであるが、ことさらに誹謗、憤慨して排除するまでの内容ではない。

 ブルトンの意に沿わなかったのは、「・・・がただしい」とか「・・・・がまちがっている」とかの評価基準ではなく、宣言のまとめかた、着眼紹介のしかただったのではないだろうか。もし、その視点が、「ダダは、自由、そして、定型公式からの解放、芸術家の独立、それに、哲学、精神分析、弁証法、論理、科学といった『脳みその抽斗』の廃棄、それらいがいの何ものをも意味しない」ではなく、宣言の結論である 「自由よ、ダダ、ダダ、ダダ、ひきつったくるしみの叫び。逆さまなこと、いっさいの矛盾すること、醜悪なもの、その場限りのでたらめのからみあい、つまり 生活(人生)だ」 に集中してむけられ、論評されていたら、どうだったであろうか。ことに、「哲学、精神分析、弁証法、論理、科学といった「脳みその抽斗」の廃棄」は、たしかにツァラはそのように「ダダ宣言」でかたっているのだが、ブルトンの信奉するものを正面から揶揄するものであった。

 もしブルトンが、べアールが報告しているように、この論説によって、なんらかの排斥行動をおこしていたとすれば、それは、ある点では、ツァラの『ダダ宣言 1918』への反論であったことになる。そして、これもまた、芸術共同体ないでのひとつ「対話」のありかたかもしれないが、ブルトンがわとしては、しょうしょう口ごもりのある対話である。

 両者の「対話」が、かわされていたことをあきらかにする、もうすこしたしかな資料もある。

 ツァラがパリに活動の場をうつし、ブルトンと親密な芸術的交友関係をもち、ブルトンがダダに賛同して、『文学』誌No.13(1920.5)に彼らの「ダダ運動の23の宣言(Vingt-trois Manifeste du mouvement Dada)」を掲載した翌年、『文学』誌No.18(1921.3)に興味ふかいアンケートが掲載された。

 11名のダダイストと後のシュルレアリストにたいして実施したアンケートである。とうじかれらが、好悪いずれにせよつよい関心をもつ、詩人、文学者、芸術家、哲学者、評論家、政治家ら、それにかれら自身の相互評価もふくめる、191名を対象にする評価を、最高+20点から最低-25点の巾で採点するものであった。

 ツァラの判定では、ヘーゲルとカントは、最低点の-25点であったが、フロイトにたいしては 0点であった。ブルトン判定は、ヘーゲルは+15点、カント+4点、そして、フロイトは+16点である。

 ツァラでは、ほとんどの評点が-25点であったから、フロイトの0点は、『ダダ宣言 1918』の「精神分析」評価が3年後のパリですこし修正されたのかもしれない。

 ツァラの1918年の精神分析批判は、「精神分析は危険な病だ。人間の反現実的(anti-réels)傾向を眠らせ、ブルジョア階級を組織化するものだ」というものであった。それは、精神分析が、反現実的なものあらわれである夢を、精神病治療、すなわち、ブルジョア社会復帰への手段としているから、といったていどの理解からでていたのかもしれない。それが、パリでブルトンたちと出会うことによって、それなりにあらたな見方と理解に到達したのかもしれない。それは、「思想は、わたくしごとである」が、「芸術に愛着をもつことができる者たち」の「対話」の証であったかもしれない。

 このアンケートには、ツァラがこうむった思想的影響はこれいがいあまり認められないが、パリのこの芸術共同体内にかれがあること、しかも、「対話で満たすすばらしい機会や抱擁を享受していた」ことを推測させるほかのデータがある。ツァラ評価の最高点は+12点であるが、これを獲得した7名ちゅう5名は、すべてパリでツァラをむかえた芸術共同体のメンバーであり、パリのダダイストであり、のちのシュルレアリストたちであった(注.アラゴン、ブルトン、エリュアール、ピカビア、リブモン=デセェーニュ、アルプ、デュシャン)  チューリッヒからパリにきたツァラが、「生活を対話で満たすすばらしい機会や抱擁を享受」し、芸術と生活が一致した状況にあることをみずからあかした証(しるし)であろう。

 いっぽうブルトンについては、ツァラのように偏重したものではなく、配分均衡があったが、カント3点、ヘーゲール+15点、フロイト+16点であった。また、かれにおいても、アラゴン+16点、エリュアール+17点、ピカビア+15点、ツァラ+18点と高得点であったから、共同体構成員についてはツァラと違和感のないものであった。

 ただし、この評価表には、マルクスとエンゲルスは、191名の対象にはいっていない。ということは、このとき(1921年)、ブルトンもツァラも、まだ彼らについて知らなかったか、あるいは関心がなかったということであろう。評価リストでは、レーニンにたいしては、ブルトン+12点、ツァラ-2、トロツキーは、ブルトン+10、ツァラ+3点と掲載されているから、ロシア革命には関心があるわけで、未記載の理由は前者であろう。そのごのかれら、ことにブルトンの主張、『通底器』(1932年)や『シュルレアリスムは何か』(1934年)などにみられる、マルクス、エンゲルスを引用する確信的思想形成のスピードとてらすとき、この芸術共同体ないの思想・芸術のさまざまな他の「対話」の沸騰がじゅうぶん推測できるものが、そこにある。

 また、このアンケートにおけるふたりの評価には、芸術共同体における、「芸術は、私ごとである」というツァラの願いとともに、対話と抱擁のもつ熱っぽい意見のからみあいが、あらわれているようにおもわれる。それは、詩人、芸術家、芸術思想家への評価を発端とするからみあいである。

 ブルトンで最上位にあるのは、イジドール・デュカスとマルキ・ド・サドの、+20点と+19点であった。この評価にたいして、ツァラは、デュカス:+5点、サド:-25点である。さらに、相異がみられるのは、ランボーについて、ブルトン:+18点 で、ツァラ:-1点、ボードレールについて、ブルトン:18点、ツァラ:-25点であり、キリコでは、ブルトン:+14点、ツァラ:-25点であった。他方、マン・レイについては、ツァラ:+11点にたいして、ブルトン:+1点と、判定基準のきびしいツァラのほうがたかい評価をくだしている。このことは、デュシャンについてもどうようの注目すべき評価があらわれている。ツァラは、かれの最上層評価である+18点であったのにたいして、ブルトンは、ピカソ(+15点)以下、マティスなみの+10点である。ツァラのマン・レイやデュシャン評価は、ニューヨークでかれらとともにあったピカビアから、その芸術活動について、チューリッヒ時代からすでにつたえられていたことがあろう。ブルトンについては、まだこの時期(1921年)、デュシャンやマン・レイにほとんど関心がなかったことになろう。

 ここにおいて注目しておくのは、ふたりの相違ではなく、ツァラの芸術家・詩人文学者評価である。ことに詩人・文学者は、デュカスの +5点とランボーの  -1点を例外とし、その他ことごとくが  -25点である。ボードレール、シャトーブリアン、コルビエール、ダンテ、ドストエフスキー、ゲーテ、ホメロス、ユイスマンス、マラルメ、ネルヴァル、ニーチェ、パスカル、シェクスピア、ソフオクレス、スタンダール、スイフト、ストリンドベルグ、ヴァレリー、ヴィヨン、ワイルド、ホイットマン、ゾラ、それらことごとくの評価点は -25点である。

 それは、このような文学史的、網羅的評価方法への不満の表明かもしれない。だが、永遠に理解されない創造不能者たちの舞踏を唱え、「僕らの下僕が、価値づけからたてた全階層と社会方程式の廃棄」を主張するからには、この評価はツァラにとってはとうぜんであろう。

 そのようにおもうと、さきのデュシャン評価だけでなく、ブルトンやアラゴンといったパリでツァラを迎えた者たちの評価について見定めておかねばならないものがある。なお、パリのメンバーでは、このアンケートにピカビアは、妻ガブリエル・ビュッフェは参加しているが、回答していない。不参加の意思表明かもしれない。

 こうしたツァラの評価基準となる主張は、パリのメンバーも承知し、また、同意し、共鳴していたはずである。これは、「芸術は、わたくしごとである」では、すまされないことであろう。

 ツァラ到着後のパリでは、その直後から彼ら主催のダダ的集会がいくつも開催された。1920年5月刊行の『文学』誌No.15は、特集「ダダ運動の23の宣言集」となり、そうした集会で朗読されたパリのダダイストたちのマニフエストが掲載された。ブルトンの「ダダ・スケート」と「ダダ地理」、「ダダ壺」の三篇、エリュアールの、ブルトンに捧げた「ダダ哲学者」と、「ダダ展開」、「ダダ・ケーキ」、「ダダ不足 五つの方法、あるいは二語の説明」の四篇、スーポーの「ダダ・タイプライター」、リブモン=デエセーニュの「ダダの喜び」、アルプの「コロコロダリオーム・ダダ宣言」、ポール・デルメの「ダダ 神殺し」が掲載されている。そして、ツァラ自身は、書き下ろしの「トリスタン・ツァラ」と「反哲学者 Aa氏の宣言」にくわえて、チューリッヒで発表した「アンチピリン氏の宣言」を再掲載している。その巻頭にあったアラゴンの『ダダ運動宣言』を引用してみる。

 

 もう画家はいらない、文学者はいらない、音楽家はいらない、彫刻家はいらない、宗教はいらない、共和派はいらない、王党派はいらない、帝国主義者はいらない、無政府主義者はいらない、社会主義者はいらない、ボリシェビキはいらない、政治はいらない、プロレタリアートはいらない、民主主義者はいらない、ブルジョワはいらない、貴族主義者はいらない、軍隊はいらない、警察はいらない、祖国はいらない、もう、こうした馬鹿げたものにはうんざりだ、もうなんにもいらない、もうなんにもいらない、なんにも、なんにも、なんにも、なんにも。

 そういったわけで、僕たちが願っているのは、新しさは、僕たちがもう望んではいないものと、おんなじになるかもしれないけれど、新しさが、ともかくも腐っていないで、利己的にならず、おそろしくグロテスクになってほしくない、ということだ。

 阿呆な立体女(コンキュビィヌ)たち、阿呆な立体男たち(コンキュビスト)万歳。ダダ運動のメンバーはみんな大統領だ。

(注. 〈concubine〉は〈内縁の女性〉の意味があり、〈concubiste〉は造語であって〈阿呆なキュービスト〉といったところであろうが、セットとなったことば遊びであろう.)      


 「画家はいらない、文学者はいらない、音楽家はいらない、彫刻家はいらない・・・・もうなんにもいらない、・・・・・・ なんにも、なんにも、なんにも、なんにも」と宣言していたからには、アンケート回答にもすこしは、その関連がみられるはずである。ツァラのような評価もありえたはずである。ブルトンをはじめ、エリュアール、スーポーの評価は、そうした反映はみられない。

 ことにこの宣言の起草者アラゴンのアンケート回答は、そうである。以下に、文学史網羅的傾向をもつ、現存しない詩人・文学者への、エリュアールの評価点をならべてみる。(     )内は、ブルトンの評価である。

 ボードレール:17(18)、シャトーブリアン:12(9)、ダンテ:10(2)、ドストエフスキー:15(13)、ゲーテ:19(6)、ホメロス:10(5)、ユイスマンス:12(13)、マラルメ:8(-1)、ネルヴァル:10(8)、ニーチェ:12(5)、パスカル:17(14)、ホメロス:10(5)、シェクスピア:16(7)、ソフオクレス:0(-1)、スタンダール:15(14)、スイフト:14(17)、ストリンドベルグ:12(14)、ヴィヨン:18(5)、ワイルド:-24(11)

 ここにあるのは、彼らみずからが、アンケートのまえがきで、学生の成績表のように滑稽であるとしながら、尚おこなっているランクづけである。好みによるにせよ、りっぱな価値体系による階層化である。それは、 「画家はいらない、文学者はいらない・・・・もうなんにもいらない」とした運動宣言に反する行為である。それは当事者のアラゴンだけでなく、ブルトンにも問いただしたい問題である。かれらが、パリの集会で朗読し、『文学』誌No.13に掲載した23篇のダダ宣言はなんであったかということである。かれらふたりとスーポーは、この『文学』誌の連帯編集長であったのだから。

 一方では「ダダ運動の23の宣言」を掲載し、他方ではこうしたアンケート調査を企画し、その回答を掲載するとは、それなりの理由があるはずである。傘下の執筆陣を軸に両論併記の論文を掲載する、’60年代日本の革新文芸雑誌『中央公論』のような編集方針からでたものだろうか。おそらく、そうではあるまい。あるいはそうであったのかもしれない。(注. 『中央公論』については、後日のべねばならない、本論のテーマのひとつである.)

 そうであったとしても、以後の『文学』誌がたどった経緯は、『中央公論』とはややことなっていた。『文学』誌は、ダダを契機に、翌年1922年3月には『文学』誌新シリーズをブルトンとスーポーふたりだけの編集で刊行する。また、それも新シリーズNo.4号誌から、編集責任はブルトンひとりとなる。そして、2年後の1924年6月の新シリーズ『文学」誌No.13をもって『文学』誌を廃刊し、同年12月に『シュルレアリスム革命』誌を創刊するのである。

 そうしたことは、ツァラが加わったことによってはじまった、芸術共同体における「芸術に愛着をもつことができる者たち」の「国中を対話で満たすすばらしい機会や抱擁」の結果、おこったことであろう。

 とするならば、1920年5月の「ダダ運動の23の宣言」(『文学』誌No.13)と1921年3月の「アンケート」(『文学』誌No.18)の発言のズレは、この芸術共同体でおこっている「対話」をあらわすものとみることができよう。「対話」は、意見のことなる者が話しあうことである。

 ツァラのダダとブルトンのダダのあいだでかわされた「対話」としてこれらをよんでみよう。  

 ブルトンはかれのダダ運動について、『文学』誌No.13 に掲載されたかれの三つの宣言のなかで、さまざまにかたっているが、そのひとつ『ダダ・スケート』のさいごに、ダダをこのようにかたっている。

 

ダダは、君たち自身の論法をもちいて、君たちと戦う。美や愛や真理や正義というあらゆる宗教が教えることを信じないより信じるほうが、ずっとましだと、ぼくたちが、君たちに言わせているのなら、それは、ぼくたちが選択した懐疑の場でぼくたちと出会ったとき、ダダの意のままになりはじめることを君たちが恐れていないからだ

(注.  Littérature (Nos.1 à 20, mars 1919 à août 1921 [Editions Jean-Michel Place.1978])(下線は筆者)

 

 これは、ブルトンのかれなりに確信のある発言であるが、ややあいまいである。まるで「対話」において、インパクトのある相手の主張に賛同してしまうときのような、あいまいさである。この年、一月にはじめて出会ったツァラとのあいだではじまった「対話」である。ツァラのダダに、ふかく感動した。賛同した。しかし、そうであっても、全面的に、たとえば、ツァラの哲学観や精神分析について、気がかりでありながら、正面からは反論しないあいまいさである。思想化がまだされていない、思考ちゅうということであろうか。せめて論理の運びかた(論法)[raisonnement]とか懐疑の場に議論をおくことで、全面的な同意ではないことを、試行錯誤しているようなあいまいさがある。

 そのあいまいさは、「ぼくたち」、「きみたち」にあらわれているようにおもえる。ぼくたちきみたちといっているものの、じつは、ブルトン自身はぼくたちのひとりであり、君たちのひとりなのだ。ブルトンがブルトンにむかって語りかけているようにもおもえる。「ぼくたち」のなかにいるブルトンは、ダダ的ブルトンである。「君たち」のブルトンは、『文学』誌を創刊した芸術家のブルトンである。そして、このとき、かれ自身それを意識しているのかいないのか、わからないけれど、ダダのもつ、漠然とかんじられる「反芸術」について、アラゴンのようにではなく、口ごもっているようにみえる。それは、どうじに掲載されたもうひとつの宣言、「ダダ地理」でいわれることには、もっと明確にあらわれているようにおもえる。


 立体派(キュビスム)は絵画の一流派であり、フュチュリスム(未来派)はひとつの政治運動だった。たいして、ダダはひとつの精神状態である。それをたがいに対立させることは、無知か悪意を暴露している。

 自由思想は、宗教に関しているのだが、教会に似ているものではない。ダダ、それは芸術上の自由思想である(注.同上書)(下線は筆者)


 ダダは芸術にかかわる精神状態である、ということ。そして、ダダは、芸術的精神状態である、ということである。そして、ここでも、さきにものべたように、芸術を宗教にかさねてとらえている。

 そして、その精神状態を自由思想とするところに、かれの賛同がある。

 「自由思想(Libre pensée)」の辞書の定義は「自由思想家(libre penseur)の精神的態度」とあり、「容易に信じない、神を信じない(incrédulité)」を見よとある(注. le Grand Robert) 「自由思想」は「自由思想家」から派生したことばである。自由思想家は、信仰や宗教的事象について、理性が認めるものいがいを、真実とはみなさない基本権利をもつ、とある。

 「自由思想」は攻撃的思想であって、自由思想家は、神が讃えるものを貶し、神が退けるものを尊ぶのである。だが、それは神の全否定とはならないであろう。

 ブルトンの「ダダ、それは芸術上の自由思想である」は、そのような意味をふくむものであろう。ダダは攻撃的思想であって、ダダイストは、芸術が讃えるものを貶し、芸術が退けるものを尊ぶのである。

 アラゴンの『ダダ運動宣言』は「なんにも、なんにも、なんにもない」わけだから、そうではないが、ツァラの『ダダ宣言 1918』では、さきにも読んできたように、神に反抗した堕天使と二重写しにされた芸術家像が描かれていた。

 とすると、アンケートにあらわれたツァラと、すくなくともブルトンのあいだには、芸術家にかぎればそうともいえないが、さほどの差異はない。「芸術・教会」が讃えるものを貶し、「芸術・教会」が退けるものを尊ぶのである。ブルトンでは仲間たちのほかに、ボードレール、ランボー、デュカス、サドを尊んだが、ツァラでも、それなりにデュシャンをはじめチャリー・チャップリン、ジュール・ボノ、アインシュタインを讃えている。また、共同体の構成員評価は、ブルトン 12点、エリュアール 12点、アラゴン 12点、リブモン・デセーニュ 12点、マン・レイ 11点、ピカビア 12点、デュシャン 12点とつづき、全否定とはいえない芸術家評価である。

(注. ジョーレス 25点があるが、-25の誤植であろう.)


 さらにまた、ここのアンケート結果には、「自由思想家」の統一見解もあらわれている。「わたくしごと」評価でなく「共同体」評価がある。それは評価平均値においてである。平均値の最高点はブルトン(16.85点)であり、共同体メンバーは、スーポー(16.30点)、エリュアール(15.10点)、アラゴン(14.10点)、ツァラ(13.30点)が平均して高評価されている。そして、現存しない芸術家で、平均値上位の者は、ランボー(15.95点)とデュカス(14.27点)のみである。ところが、ブルトンについで第二位にあるのは、喜劇映画俳優のチャーリー・チャプリンの16.09点である。チャプリンへの評価は、ブルトン:17、エリュアール:17、アラゴン:16、フランケル:18、ペレ:17、リゴー:16、ツァラ:10と、安定した高評価である。それに、チャップリン以前の無声映画の喜劇俳優であり、監督、プロデューサであったマックス・ランダーがやはり最上位層の15.68点の評価をうけている。それは、ランボーのクラスであって、デュカスやデュシャンより上位、ツァラ、エリュアールより上に位置している。これは、ツァラをはじめブルトン、エリュアール、リブモン=デセーニュらが、アナキストの銀行強盗であったジュール・ボノ(1876−1912)を、比較的上位の平均値評価(10.86点)としたのとおなじ評価基準、風俗壊乱のアクチュアルな観点からされた結果ともみえるが、一世紀後のいまからみると、むしろ、ひとつの「反芸術」がすでに予兆されているようにおもえる。いうなれば、芸術自体の概念をかえるあたらしい芸術の出現を、巫女の神託のように、予言していたのかもしれない。神託をつげる巫女は、みずからのかたる意味を知らないのである。それは、20世紀後半から芸術化される映画、テレビ、CGのことかもしれない。

 そして、また、それは、神が讃えるものを貶め、神が退けるものを尊ぶ「堕天使」や「自由思想」の芸術観であったからこそ、その「対話」のなかに、ブルトン側の発言としてあらわれたものであろう。

 だが、「対話」する当事者は、そのことについて、双方とも語ろうとしない。むしろ、ちいさく合意することを拒み、あらたな「対話」へ議論をすすめようとする。

 ダダは芸術の精神状態で、「芸術ではない」のなら、それは自分としては 、どのような芸術にすべきかという、暗黙の前提と問いが、このふたつのブルトンの宣言にはひそんでいるようにおもわれる。

 それは、『ダダ地理』の 「立体派(キュビスム)は絵画の一流派であり、フュチュリスム(未来派)はひとつの政治運動だった。たいして、ダダはひとつの精神状態である。それをたがいに対立させることは、無知か悪意を暴露しているからでてくるものである。


 それは芸術の「自由思想」であり、芸術共和国のひとつの「対話」セットが、この「ダダ運動の23の宣言」とその一年後の『文学』誌No.18(1921年3月)に掲載されたアンケートである。

 ブルトンにとって、ツァラ参加によってはじまった「対話」からうまれた思想が、芸術の「自由思想」であった。それは、たんなる既成芸術批判から既成芸術非難へといたり、既成芸術否定を展望する、シュルレアリスムの原型となる思想である。

 この形成は、かれらの創刊した文芸誌『文学』の編集にあらわれている。さきにもふれたように、創刊号(1919.3)の作品掲載は、巻頭がジッドの『地の糧』の抜粋であり、つづく詩篇の冒頭がヴァレリー作品であった。第2号誌では冒頭がイジドール・デュカスの詩篇(1)であり、ついでアポリネール、ジュール・ロマンとつづいたが、三号誌の巻頭はマラルメの詩篇、ついで、デュカスとポール・モーランの作品であった。以下この編集方針は、ツァラがパリに来る1920年の2月号(第12号)まで一貫している。11号誌の巻頭は、ジッドの『贋金つくり』の抜粋「ラフカディオの日記」であり、12号誌の巻頭はヴァレリーの詩篇であった。そこには、ツァラの詩篇とともにレイモン・ラディゲの詩「ポールとヴルジニー」が掲載されていた。同人誌的性格のつよい文芸誌であったから、かれら自身の作品掲載を目的とするが、かれらが好ましいとする先達の詩人を掲げるという、既成芸術選別による間接的批判の表明であろう。そうした傾向は、とうじはほとんど無名であったデュカスの詩篇掲載にわずかに示されている。

 だが、こうした掲載内容は、おおきく変更する。創刊号以来、毎月刊行されていた同誌は、はじめて二ヶ月の中断があり、1920年5月発行の第13号誌は、さきに紹介した「ダダ運動の23の宣言」というダダ特集号となる。

 変更したというのは、以後、新シリーズに移行するまでの『文学』誌には、こうした既成文学者の作品はいちども掲載されず、旧シリーズの最終20号(1921.8)は、モーリス・バレスを俎上にあげた、かれらの芸術パフォーマンス「バレス裁判」の報告となっているからである。そして、さらにまた、第18号の「アンケート」では、ジッド、ヴァレリー、マラルメ評価はつぎのようになっている。平均値は、ジッド(-0.18点)、ヴァレリー(1.09点)、マラルメ(2.63点)である。個人別では、ブルトンが、ジッド(12)、ヴァレリー(15)、マラルメ(-1)とし、共同責任編集者であるアラゴンとスーポーの判定評価はジッド(6と6)、ヴァレリー(12、6)、マラルメ(8、3)である。すくなくとも、巻頭にかかげる価値は消滅している。評価基準に、人間の思想のもちかたとしては、衝撃的な変更があったとしかおもえない。ツァラとの「対話」からうまれた新しい芸術思想の形成である。

 ブルトンにあっては、こうした既成芸術非難、そして、否定への展望から、あたらしい芸術展望があらわれたとおもわれる。それは、デュシャンやマン・レイの発見である。1921年3月のアンケート回答では、対デュシャン評価は、マチスとおなじ10点であり、対マン・レイ評価は、ダ・ヴィンチ(10)、マネー(10)、ブラック(14)以下、ミケランジェロ(0)なみの、1点である。この1921年の評価は、一年後の『文学』誌新シリーズでは一変する。1922年3月から刊行された新シリーズ版『文学』誌No.1の表紙デザインはマン・レイ制作の「山高帽」である。そして、新シリーズ第5号誌(1922.10)には、ブルトン執筆のマルセル・デュシャン論が重要論文として掲載される。

 これは、共同体内であったツァラとの「対話」からはじまったブルトンのダダのあらわれである。ブルトンの到達したダダは芸術の自由思想であり、それは、既成芸術の否定をふくむかもしれない眺望をもつものであった。ツァラのダダは、すでに読んだように、堕天使の「既成芸術の否定」から出発したものである。だが、この堕天使は、天上界から追放されたわけではなく、神界にいたことのない堕天使である。ダダ命名者のフーゴ・バル、ヒュルゼンベック、そして、ツァラは、いずれもあるかなきかの作品をもつ詩人であり、文芸評論家であった。そこには、ハンス・アルプやゾフィー・トイバー、マルセル・ヤンコというヴィジュアル・アートの造形芸術家らもくわわっていたが、アヴァンギャルド・パフォーマーとはいえ、既成芸術界とはほとんど関係のない堕天使であった。そこで、既成芸術を否定する「芸術」といっても、実体のない「絶対芸術」を対抗させるだけであった。『ダダ宣言 1918』で提出した「絶対芸術」について、その後のパリのこの共同体のなかで、あらためて明確化し、具体化してのべたことも表現したこともない。チューリッヒの「ダダの夕べ」をくりかえし再現しただけだった。

 いっぽうのブルトンは、既成芸術を批判し非難する、芸術の自由思想にもとづく新たな芸術をとうぜん問題にする。ブルトンもまた、既成芸術社会では半人前の詩人であり思想家であったが、地理的優位もあり、とうじのパリの芸術界やアヴァンギャルドについて、アポリネールやヴァレリーをつうじ、また、ピカビアをとおして、ツァラより体感するものがおおくあった。初期の『文学』誌の購読者にはマルセル・プルーストも登録されていたという。

 そうしたあたらしい芸術の視点からみて、デュシャンやマン・レイが、おそらくそれまでの評価とは異なった基準からみるべき芸術家となったにちがいない。ただし、それもピカビアやツァラとの「対話」、それには、あのアンケートをもふくむような「対話」から、デュシャンやマン・レイ芸術の基礎データーはえられたものであろうから、ツァラとのあたらしい「対話」があってのことであろう。ブルトンはデュシャンについて、すでにアポリーネールなどを経由してあるていどまで知っていたとはおもえるが、アポリネールが生前(1918年死去)賞賛したデュシャンの作品をおなじような関心をもって観ていたとはおもえない。ダダ以前では、関心外の画家であったのであろう。

 このような視点を獲得したブルトンの、それ以後のツァラとの「対話」はかえって苛烈となり、反論的となり、シュルレアリスムが形成されることになる。

 さきにものべたように、1919年3月に創刊された『文学』誌は第20号で終刊し、1922年3月から、装幀をあらためた新シリーズに移行する。新シリーズ当初の1~3号誌までは、ブルトンとスーポーの共同編集であったが、第4号誌からブルトン単独の責任編集となり、表紙デザインもマン・レイからピカビアにかわる。そうした経緯について、本論では、外的出来事や事件からみるのではなく、「反芸術」の見地から、ブルトンの既成芸術批判の芸術思想をかれの記述から読みとってみよう。それは、前提としてツァラへの反論となっているからである。そして、その過程において、適宜、ダダとブルトンのことにもふれることになろう。さらにまた、それは、’60年代の「反芸術」が提示し、それでいて、有効な解答をみいだせなかった問題でもある。

 ブルトンは、単独編集となった新シリーズ第4号誌(1922年9月)と5号誌(1922年10月)に、ふたつの論文『はっきりと(Clairement)』と『マルセル・デュシャン』を掲載した。これはセットで読まれるべき論考である。というのは、共同体内部へむけられた文書、つまり、「対話」の性格がつよいもので、外部から聞くものにとっては、きわめてわかりにくいものがある。というよりむしろ、すなおにその言い分をきくだけではなく、その真意をよみとるには、さまざまな角度から検討してみなければならないということである。念のため付言しておけば、表面的には、ダダとの訣別と、シュルレアリスム設立のはっきりとした覚悟を読んでほしいというブルトンの願望があるが、おもいこみと、いいがかりと、言質をとられまいとする慎重さがみえるだけで、とてもそのようには納得できないものがある。

 ここでは、価値評価の急激な変更が示しているように、かなりの思い入れが感じられる二番目の論考『マルセル・デュシャン』を支点としてこれらを考察しておこう。

 第5号誌の目次冒頭には、「ローズ・セラヴィ」(デュシャンの自称別名)をかかげ、全誌にわたって6箇所、囲み記事的に、ローズ・セラヴィ署名の箴言めいた数行を挿入していた。そして、論文『マルセル・デュシャン』の次ページには、マン・レイの写真作品を掲載した。説明には「マン・レイ撮影の航空写真(1921)」とあり、「ここにマルセル・デュシャンの領分がある。 ─ いかに不毛で ─ いかに肥沃で ─ いかに楽しく ─ いかに悲しいところだろう」と記されている。マン・レイの記述かどうかはわからない。これは、デュシャンが制作中のオブジェ作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも(大ガラス)」の床におかれたガラス面に堆積した埃を、マン・レイが撮影したものであって、『埃の培養』とタイトルをつけ、1920年にすでに発表していた作品である。しかし、それについていっさいの説明はない。極秘裏に制作されていたこの作品について、論考「マルセル・デュシャン」では、暗示的、おもわせぶりなほのめかしがあるだけである。いずれにせよ、この号ぜんたいが謎めいたデュシャン紹介で、「デュシャン特集号」のような体裁をとっている。その他、「マルセル・デュシャン」の記述については、デュシャンやその作品について、1915年以前の作品が、すこし具体性をもってかたられているだけである。というのは、とうじのパリの芸術共同体ないでは、ピカビアやガブリエル・ビュッフェは、10年以上まえから、デュシャンと親密な交友関係にあり、デュシャンのパリやニューヨークでの芸術活動は周知されており、それほど神秘的な芸術家ではなかったからである。

 というように、「マルセル・デュシャン」を掲載した『文学』誌のこの号は、デュシャンに焦点をあわせているようにみせながら、デュシャンは、ツァラに反論する媒体であるようにおもわれる。

 「マルセル・デュシャン」の冒頭は、内容伝達を旨とする訳文としては、つぎのようにはじまる。


 われわれがたえず異議申し立てしているあのおそるべき固定化の病癖(manie de fixation)から、近代的意識(自覚)解放のための戦いを、とくに強烈にはじめることができるのは、なおそれを希求している者にとっての真のオアシスとなっている、この名前あたりからである。/半世紀にわたって象徴主義、印象主義、キュビスム、フュチュリスム(未来派)、ダダイスムという名の果実をみのらせた、あの名高い知の有毒樹は、いかにしても切り倒す必要がある。マルセル・デュシャンのケースは、今日の私たちにおいて、「近代精神」の核心において対立をたかめているふたつの精神間における、明確な境界線の提示である。それは、「近代精神」を、じぶんの鏡に身を投げて死ぬだけのために井戸からでてくるような、そうした理想の裸の女性として示されるような真理の、その所有を要求するか否かによって、区分される境界線である。

(注. 赤文字表記は原文イタリック. 下線は筆者. 「/」記号は、議論のうえから、筆者がつけたものである.)


 原文では、冒頭のかきはじめは、「C’est autour de ce nom, véritable oasis pour ceux qui cherchent encore・・・」 であるから、「真のオアシスとなっている、この名前の周囲からである」と、いちおう「マルセル・デュシャン」論となっているが、文意はそうではない。デュシャンは記号であって、いうべき主張は、「近代精神」(原文ギュイメ)と、それを追求している者にある。そして、「近代精神」を妨げているのは、「固定化の病癖」と「ダダイスム」だということが、論証すべき主張となっている。

 主張する相手は、さきから述べているように、芸術共同体メンバーにたいしてである。だから、これらの「固定化の病癖」とか「近代精神」は了解事項である。しかし、われわれは解釈しておかねばならない。

 「病癖」は、ブルトンの芸術・文学批判でかならずなされる欠陥の指摘である。前号掲載の『はっきりと』でも、『文学』誌の名称、文学について「なんにんかの友人やわたしが、よく知られているように軽蔑をこめてもちいている文学というものを、私たちは、病癖(maladie)として扱っているのではない」と、じぶんたちの文学を説明するためにつかっている。

 『マルセル・デュシャン』論の「固定化の病癖(manie)」をふくめて、「病気(maladie)」や「偏執症(manie)」は、デュカスの「奇癖(tics)」に由来することばであろう。本論でもすでに引用したが、当時のブルトンらはデュカスを再発見し、『文学』誌上でもその詩篇をいち度ならず、に度、さん度と掲載し紹介していた。本稿でもさきに引用し説明したように、デュカスのこのことばは、「詩は万人によってつくられねばならない。一人によってではない。哀れなるユーゴ! 哀れなるラシーヌ! 哀れなるコペー! 哀れなるコルネーユ! 哀れなるボワロー! 哀れなるスキャロン! 奇癖(チック)奇癖(チック)奇癖(チック)」にあらわれることばである。

 芸術規範の絶対視を揶揄するこの一句を、当時のアヴァンギャルドはさまざまに理解しうけとったが、いずれも了解していることばである。ツァラもまた、『ダダ宣言 1918』で、類似した発言をしている。わたしのメモで確認しておこう。


  理想だ、理想だ、理想だ、

  知識だ、知識だ、知識だ、

  ぶむぶむ、ぶむぶむ、ぶむぶむ、


僕はじゅうぶん正確に、進歩とか、法則とか、モラルとか、その他いろいろの優れた特質を、記録したことになる。さまざまな秀才が多くの書物でそれらを議論し、結局やはり、各人が自分の個人的なぶむぶむにあわせて踊り、みずからのぶむぶむにたいして正当であると表明することになったのである。つまりは病的な好奇心(curiosité maladive)の満足だ。不可解な欲求のための私的な鐘の音、入浴とか金銭上の障害とかだ。生活に影響する胃。動物アンモニアをベースとする媚薬を塗った、啞の楽弓の奏する幻のオーケストラの花束(ブーケ)により公式化された神秘な魔法の杖の権威だ。天使の青い鼻眼鏡をかけて、彼らは二十スーで満場一致の承認の内幕を穿った。


 旧シリーズ『文学』誌創刊号の雑誌評で引用された箇所である。ツァラでは、既成芸術そのものが病的好奇心であるということで、ブルトンとはことなる見地に立つが、芸術の欠陥を「奇癖(チック)」レベルでとらえていることにはかわりない。ブルトンでは、既成芸術の欠陥を「固定化の病癖」にあるといい、ツァラは、みずからの「ぶむぶむ」という「病的な好奇心の満足」の権威づけと、権力行使を非難する。ということは、両者のあるべき芸術の方位はほぼおなじ方向である。同一共同体内の議論である。

 だが、ブルトンは、 わずかではあってもその方向のズレを重視しているようにみえる。「固定化の病癖」の対抗概念として、「近代精神」の真理(vérité)を、「じぶんの鏡に身を投げて死ぬだけのために井戸からでてくるような、理想の裸の女性」として示そうとする。つまり、ここでいう「近代精神」とは、近代芸術ということだが、新しい芸術ということであって、芸術は時代によって変化するという前提でたてられた議論である。そして、変化しなければならないということである。変化したのはなにかといえば、「半世紀にわたって象徴主義、印象主義、キュビスム、フュチュリスム(未来派)、ダダイスムという名の果実をみのらせた」と、時系列的に芸術流派を列挙していることからみると、アート(技法)の変化のことらしい。

 ツァラでも、あの『ダダ宣言 1918』で、おなじように、セザンヌ、フュチュリスム(未来派)、キュビスムと列挙して、それらの描写視点の技法(モノの見方)を揶揄してみせたが、ツァラの場合は、技法(アート)そのものを非難するものであった。「ぶむぶむ」であるということである。もっとも、その批判の対象の焦点は定まっていない。かれが選んだ戦いの手段である「芸術(アート)」は多義的で、あいまいである。ここでツァラの意欲が傾注されているのは、非難の表現自体にあったようにもおもえる。

 ブルトンでも、そうした表現によって、多義性の隙間をうずめているところがある。自然の井戸という必然から生まれた理想の裸の女性が、大量生産という人工の鏡に身を投げて死ぬとは・・・・。理想とか真理とここでいわれているのは、技法であるアートではないだろうか。たしかに、デュシャンについて、このときのブルトンは知る由も無いが、まさにみずから知らずして予言する巫女の神託のように核心にふれる指摘であった。というのは、当時制作されたあのレディーメイド『泉』なる男性用便器は、本論でもすでに紹介したように、半世紀後のフランスでは、その複製に4億円の価格がつくことを裁判所で公認される美術作品となり、美術館に陳列されるようになったのであるから。裸の理想の女性として登場した「レディーメイド」という技法(アート)は、複製という「鏡」のなかでただのミイラと化したのである。

 ただ、ブルトンはいずれにしてもここでは技法からアートをみることを、このメタファーをつかって芸術観の微妙な変更をおこなうのである。

 そのことは、ダダにむけられた反論であり、また、ブルトンがいだくあたらしい芸術行動を説明する思想構築でもあった。

 すでに、かれは、「半世紀にわたって象徴主義、印象主義、キュビスム、フュチュリスム(未来派)、ダダイスムという名の果実をみのらせた、あの名高い知の有毒樹」として、ダダを整理している。

 二年前、旧『文学』誌No.15に掲載した『ダダ地理』で、「ダダはひとつの精神状態である」とし、芸術の「自由思想」だとしていたのだが、これを、象徴主義からフュチュリスム(未来派)にいたりる芸術流派のひとつ、ダダイスム(ダダ主義)に変更している。ツァラはダダを、いちどもダダイスム(ダダ主義)として語ったことはなかったはずである。芸術流派(エコール)における「─isme(主義)」は、技法からみるアート観である。

 だが、ブルトンの、列挙された芸術流派が「有毒樹」であるゆえんは、それが「ー主義」となっていることではないらしい。なぜならば、かれを中心にして直後に名のることになるグループは、「─イスム」 のついたものであるからだ。そして、かれはその生涯、「シュルレアリスム」を主張した。問題は「技法」のあつかい方にあるらしい。技法は技法であって、それ以上でも、それ以下でもないことであるらしい。そのことは、かれのないようで、あるような「反芸術」思想にかかわる、かれの既成芸術批判・非難に直結する思想であった。

 つづけて、かれの言い分をきいてみよう。

 さきの冒頭部で自明のこととしていわれている「近代精神」について、つぎのようにかたられている。


  間違ってほしくはないのだが、私たちは近代精神を法典化するつもりはまったくない。そして、私たちは謎そのものを楽しむのだから、謎を解いたようなしたり顔をしている者たちには、背をむけるのだ。謎を解かれたスフィンクスが、海に身投げする日が来てほしいものだ。しかし、いままでのところ、それは真似ごとにすぎなかった。私たちは最終実験に立ちあえるという希望で、結集したし、また、さらにあつまってくるだろう。このように言ってよければ、交霊術師のように、ばかばかしくはあるが、心をうつものになろうではないか。しかし、友よ、それがなんであろうと、霊の示現(有形化)には気をつけようではないか。キュビスムはダンボール製の有形化で、フュチュリスム(未来派)はゴム製の有形化で、ダダイスムは吸い取り紙製の有形化だ。ついでに云っておけば、いったいどんなものが、有形化いじょうに私たちを惑わせことがあろうか


 「私たちは近代精神法典化するつもりはまったくない」から「私たちは謎そのものを楽しむのだから、謎を解いたようなしたり顔をしている者たちには、背をむけるのだ」へは、またぞろ論理の飛躍があり、解釈がひつようである。

 冒頭から、「近代的意識(自覚)解放のためのわれわれの戦い」とか「『近代精神』の核心」として、問題とされている「近代精神」とは、その年、1922年1月にブルトンが中心になって企画された 「近代精神の綱領決定と擁護のための会議」(通称「パリ会議」)における、近代精神をさすものであって、あらためて思想的にいう近代精神ではなく、記号的特殊性をもつ「近代精神」であろう。この会議なるものは、とうじのアヴァンギャルド流派である「印象主義」、「象徴主義」、「一体主義(ユナミスム)」、「野獣派」、「同時記述派(シミュルタネイスム)」、「キュビスム」、「オルフェィスム」、「フュチュリスム(未来派)」、「表現主義」、「純粋主義(ピュリスム)」、それに「ダダ」について、「あまりに多様化し、それゆえに相互に理解することが疑わしくなった諸思想について、近代精神とは何かを規定するため注 (注.ブルトン執筆の企画書. 下線は筆者.) に対話することを目的に、各流派の代表者らによびかけた集会であった。そして、とうぜんのことながら、ブルトンの周辺の芸術家では、ツァラらは参加を拒絶した。その他についてもどうようで、この会議は挫折した

(注. ミッシェル・サヌイエ『パリのダダ』 & 拙著『「シュルレアリス運動体」系の成立と理論』参照.)


 いまとなっては荒唐無稽、「砂上の楼閣」のような行動であるが、1920年代の西欧芸術界ではありえた企画であり、また、’60年代日本でも、「〝反芸術〟是か非か」なる大公開討論会が実践され、アヴァンギャルド芸術家がこぞって参加したように、そのような集会が企画されてもとうぜんの状況であった。つまり、新旧決裂の状況である。

 また、ブルトンとしては、「ダダ地理」(1920年5月)でしめした思想の延長上にある思想と行動であろう。

 かれは、「キュビスム(立体派)は絵画の一流派であり、フュチュリスム(未来派)はひとつの政治運動だった。たいして、ダダはひとつの精神状態である。それをたがいに対立させることは、無知か悪意を暴露している」 と書き、ダダの「芸術上の自由思想」の精神状態に共感している。近代精神をになうアヴァンギャルドの芸術流派がたがいに対立することは無意味だといっているのだ。それが、この「近代精神とは何かを規定する」、いささか思いこみのつよすぎる、このような会議に発展したのであろう。

 だが、この会議におけるブルトン自身のいる位置がよくわからない。ダダの「芸術の自由思想」の精神状態である「ダダ」だったのだろうか。ブルトンの「ダダ」であったのだろうか。ツァラの「ダダ」との論点も、その「近代精神の規定」にあったのであろうか。

 そのあたりにある、うまく解明できないものが、飛躍してつぎに書かれた 「そして、私たちは謎そのものを楽しむのだから、謎を解いたようなしたり顔をしている者たちには、背をむけるのだ。謎を解かれたスフィンクスが、海に身投げする日が来てほしいものだ。しかし、いままでのところ、それは真似ごと(simulacre)にすぎなかった。私たちは最終実験に立ちあえるという希望で、結集したし、また、さらにあつまってくるだろう」にあらわされているようにおもえる。

 海に身投げするスフィンクスは、じぶんの鏡に投身して死ぬために井戸からでてくる裸女と同根の譬え話であるが、それは芸術流派か、その技法か、芸術そのものかよくわからない。おそらくそれは、「アート」であって区分されていないのだろう。あるいは、井戸からでてくる裸女は技法のアートで、スフィンクスは芸術のアートに重心が傾くのかもしれない。「謎を解いたようなしたり顔をしている」そのスフィンクスは、おそらく、「ダダイスム」をさすのだろう。それにしても、ブルトンのなかで「ダダ」がどのような位置にあるのかよくわからない。というのは、「私たちは最終実験に立ちあえるという希望で、結集したし、また、さらにあつまってくるだろう」 と確信的にのべられているのは、この頃、ブルトン、アラゴン、スーポー、それにエリュアール、デスノスらが集まり、ひんぱんにおこなっていた自動筆記や催眠状態の実験を指すとおもわれるからである。そして、「なんらかの一言からはじまり、おもいつくままの言葉をならべた」記録(エクリチュール・オートマティック)や、入眠時にあらわれることばやイメージ、催眠状態で発せられることばの記録を検討し、それをシュルレアリスムと命名し、はじめて発表したのが、この『文学』誌の次号(1922年11月刊)に掲載したブルトンの論文『霊媒登場』であった。かれらの創設した「シュルレアリスム」 の登場である。(注.「シュルレアリスム(surréalisme)」の造語はアポリネールによるものである.)

 つまり、「集結し、あつまってくるだろう」というのは、近く結成される「シュルレアリスム」を念頭においてのこととかんがえられる

(注. グループの機関誌『シュルレアリスム革命』を創刊し、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』を刊行したのは1924年12月である.)


 とすると、シュルレアリスムは、さきの冒頭にあった、「象徴主義、印象主義、キュビスム、フュチュリスム、ダダイスム」に継続するものとして、それらを切り倒して登場するあたらしいアート(流派)ということになる。

 したがって、それまでのアート(流派)との相異を示さねばならない。ことに「ダダイスム」とのちがいである。そうとすれば、つぎにつづく数行の意味はあきらかになる。


このように言ってよければ、交霊術師のように、ばかばかしくはあるが、心をうつものになろうではないか。しかし、友よ、それがなんであろうと、霊の示現(有形化)には気をつけようではないか。キュビスムはダンボール製の有形化で、フュチュリスム(未来派)はゴム製の有形化で、ダダイスムは吸い取り紙製の有形化だ。ついでに云っておけば、いったいどんなものが、有形化いじょうに私たちを惑わせことがあろうか


 ことばの連想からいえば、ここで〈交霊術師〉とか〈霊の示現(有形化)〉といわれているのは、『文学』誌次号の『霊媒登場』で説明される「シュルレアリス」にかかわるものであるのは、「友よ」の呼びかけからしてもあきらかであろうが、なにを意味するのであろうか。使用されていることば〈matérialisation〉は、〈物質化、具体化〉と〈[霊媒などによる霊の]具現、示現〉の意味をもつが、ここでは、霊媒が発生させるエクトプラスム(心霊体)を関連させてのべているとすべきであろう

(注.『André Breton: Oeuvres complètes.』Tome 1 [Pléiade版]の Notes によれば、霊媒が、虚偽ではあったが、心霊体を発生させた実験報告を記載した『心霊学概論』が、当時、出版され、これに拠るとある.)


 アートは心霊体であると、ここでは言おうとしている。「霊魂」の有形化の技法(アート)であるということである。「霊媒」が有形化してみせる(虚偽の)心霊体である。だから、キュビスムといわれる有形化は「ダンボール製」 つまり、立体形(キューブ)のつみかさねで具現する。動きを絵画や彫刻で物質化して表現したフュチュリスムは、ゴム製の有形化となる。そして、ダダイスムは、否定を示現する、インク消しである吸取り紙製ということになる。というのは、ツァラには「パリ会議」の拒絶ばかりか、1921年の「バレス裁判」での行為、そのほかかずかずの打ち毀し行為があるからである。そういうところから、「友よ、有形化には気をつけよう(警戒しよう、疑(うたが)おう」(défions-nous)となる。ブルトンらが企画、実演した、思想界のスター、モリース・バレスの思想検証と弾劾をテーマにしたパフォーマンス「バレス裁判」で、証人として出廷したツァラは、役柄逸脱の返答をくりかえし、シャンソン・ダダを唄うしまつだった。つまり、反対の技法(アート)となっているということである。だから、ここにおけるダダは、技法(アート)の一流派、ダダイスムとなっているわけである。

 したがって、ここでいわれているのは、第一の疑うべき有形化は、ダダイスムの有形化ということであろう。さきの引用文の末尾、「ついでに云っておけば、いったいどんなものが、有形化いじょうに私たちを惑わせことがあろうか」に、つづく文章は、⁂印で区切られ、文節をあらためて、つぎのように書かれている。⁂印は、論考『マルセル・デュシャン』の初出である『文学』誌版のみにあり、単行本『失われた足跡』をはじめ、Pléiade版全集においては、区分されていない。だが、初出が、ブルトンの思考のながれをよくあらわすものであろう。区分によって「有形化(matérialisation)」への視点の角度がすこしズレるからである。


  君たちがいくらそういっても、非有形化の信仰は有形化ではないのだ。私たちの友人のうちのある者たちをして、あの醜悪な同語反復(トートロジー)のなかでじたばたさせておこう。/そして私たちはマルセル・デュシャンにたちかえり、彼に目をむけよう。彼は、聖トマスの正反対の人物なのだ。(注. 下線と、(/)マークは筆者)


 「有形化には気をつけよう」といいながら、「非有形化の信仰は有形化ではない」という。ブルトンが照準をさだめているのは、あきらかにダダ、というよりもツァラの芸術観にむかってである。『ダダ宣言 1918』をおもいだそう。ツァラは、「この世界は、作品では、明示されないし、定義もされない」といい、かれの芸術は、「宇宙の混沌の純粋さ」と「秩序ある永遠の絶対性」をもつ芸術の放射だという。そして、それは鑑賞者にゆだねられるともいう。これが、かれの芸術的〈否定〉行為の根拠となる芸術観であろう。

 それをブルトンは、「非有形化の信仰」といい、「非有形化の信仰は有形化でない」という。そして、それは、「非有形化の信仰は有形化である」という前提となる言い分は、同語反復(トートロジー)であるから、「有形化ではない」ということらしい。この議論は、’60年代日本のアバンギャルドにもあった。「読売アンデパンダン展」にあつまったアヴァンギャルディスたちの主張であり、「『反芸術』という芸術」論をかざした「芸術裁判」注 もあった。(注. 赤瀬川原平が被告となった「千円札裁判」である. 本稿の本章最終節であつかうことになる.)  したがって、のちに日本のそのことを考えるためにも、いますこし、ブルトンの云うところを吟味してみよう。

 ブルトンでは、掏り替えがあるようにおもわれる。というよりも、むしろ、「君たちがいくらそういっても」とか、「私たちの友人たちのある者たちをして」と、断り書きをしているように、ここで言う「有形化(matérialisation)」や「非有形化(immatérialisation)」は、直前にのべられた、 「『霊魂』の有形化(示現)の技法(アート)」の「有形化」とはことなる次元のものである。「『霊魂』の示現(有形化)の技法(アート)」 から、「有形化の技法(アート)」だけを取り出した「有形化」であり、「非有形化」である。

 しかも、ブルトンのいう「『霊魂』の有形化(示現)の技法(アート)」は、ブルトンの見方でツァラをみても、ツァラの芸術思想と大差ないものである。なぜなら、ブルトンの「霊魂」をツァラの「宇宙の混沌」に置換すれば、ツァラの芸術行為は「『宇宙の混沌』の有形化(示現)の技法(アート)」であると見えなくもないからである。「霊魂」も「宇宙の混沌」も抽象概念である。

 とすると、「有形化」に気をつけねばならず、同語反復のなかでじたばたしているのは、君たちであり、私たちの友人たちのうちのある者たちである。ツァラもブルトンもふくめた、共同体メンバーすべてかもしれない。ブルトン自身についても、芸術を有形化の技法(アート)とするときもみえなくもない。だが、それはのちの問題である。

 というようなことから、ブルトンの『マルセル・デュシャン』論では、「私たちはマルセル・デュシャンにたちかえり、彼に目をむける」ことになる。それまで、かれ自身がさほど注目していなかったデュシャンである。いいかえれば、ツァラとの「対話」があってはじめて目をむけることになったデュシャンである。

  「聖トマスの正反対の人物」として、かれを援用する。「聖トマス」は、キリスト教の使徒トマスのことであろう。奇妙な人物がひき合いに出されたものである。譬えとはいえ、キリスト教の聖人が出てくるとは! ブルトンは社会悪の根源のひとつとして、生涯キリスト教を忌避した。このような使用例は稀有であろう。

 使徒トマスは、ヨハネ福音書によれば、このような人物である。ゴルゴダの丘で処刑されたキリストが復活し、弟子たちのもとにあらわれる。

  

ヨハネ福音書 20: (24)十二使徒のひとりで、デモスと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。  (25)ほかの弟子たちが彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った。「わたしは、その手にある釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、けっして信じない」。  (26)八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 (27)それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。(28)トマスはイエスに答えて言った。「わが主よ、わが神よ」。(29)イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである」。(新訳聖書[日本聖書協会 1954年改訳]による.下線は筆者.) 


 あらわれたキリストは、「閉ざされた扉を通りぬけて入ってこられた」のだから、エキトプラスム(心霊体)である。聖トマスは、キリストの復活(心霊体)を、口で伝えられただけでは承知しなかった。エクトプラスム(心霊体)を体験するまで、信じなかったのである。

 そのような「聖トマス」と正反対の人物であるとは、心霊体(エクトプラスム)のうわさを無条件に信じる人物ということになる。仲間うちの「芸術」を無条件に信じ、自分もしたがう人物である。エクトプラスム(心霊体)は芸術(アート)であるから、デュシャンは、芸術を信じる人、いついかなるものでもそこに芸術を見ている人ということなる。

 というような見方から、つづく文章ではデュシャンの芸術行為についてかたられることになる。

 しかし、そこで記されるデュシャンの芸術家としての実像は、「レディーメイド」以前のデュシャンがあるだけで、あとはブルトンの描く「デュシャン像」である。「レディーメイド」について、それらしいことが述べられているが、それはブルトンの「レディーメイド」である。「レディーメイド」については一点も具体的作品はのべられていない。1922年のブルトン執筆時、男性用便器の作品「泉」(1915年)や、『モナ・リザ』複製画に髭を加筆した作品「L.H.O.O.Q」(1919年)はすでに公開され、アヴァンギャルド界では、さんざんの物議を醸していたのだが、ひとことの言及もない。「レディーメイド」の、デュシャン自身による命名は、すでになされていた(1915年)のだが、「工業製品(objet manufacturé)への署名」としているだけだ。かたられているブルトンの「レディーメイド」論の根幹にかかわるものなのだが、デュシャンはすべての「レディーメイド」に署名したわけではない。「泉」の署名もリチャード・マットである。

 ブルトンはデュシャンと、前年1921年の冬、パリで出会っているし、また、この年にはニューヨークから、マン・レイがパリにきており、かれとエリュアールの推薦で個展を開いている。にもかからず、『マルセル・デュシャン』におけるこのような記述は、聖トマスと正反対の、「見ないで信じる」人物は、ブルトン自身ということになろう。さらに、もしかれが「レディーメイド」に関心があり、デュシャン自身やマン・レイに問い質していたら、「レディーメイド」の放射する、かれがのちにテーマとする「黒い諧謔」に気づきいたとおもわれるからである。というのは、ブルトンの「レディーメイド」論には、のちに開花する「客観的偶然」の萌芽が、すでにわずかに認められるからである。

 「聖トマス」に話をもどせば、芸術に関しては、ブルトンは「聖トマス」の正反対の人物、というよりむしろ、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである」と、「聖トマス」を対蹠点に位置づけたキリストの立場である。誕生まぎわのシュルレアリスムの、実験中の覚醒時の夢や「おもいつくままの言葉」の技法(アート)を「見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである」と、いかにもいいそうな位置にある。

 それにたいして、デュシャンは、「聖トマス」にちかい立場の芸術家である。あるいは、トマス以上にトマス的な芸術家である。徹底して、仲間のいうことを信じなかった。仲間のすることも信じない芸術家である。トマス的にいえば、キリスト再来を信じない、キリスト(芸術)に、ブルトン流に云えば、全身、全霊をささげることはなかった使徒(芸術家)である。かれは生涯に制作した作品は少数であり、さらに、それでいて、油彩画、オブジェ、コラージュ、グラフィティ、インスタレーション、アキュミュレーション・・・ことごとくにかかわり、また、大作、というのは、ぼうだいな時間を費やして制作した「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも」や「落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ・・・」のように、どのようなアヴァンギャルド芸術ジャンルにも入れぬものである。芸術か玩具かわからない、有名作品がある。キリスト再来を疑っていた使徒「聖トマス」の役割を生涯つづけていたことになる。

 わたしがここで、このように両者の比較をしたのは、ブルトンとデュシャンの芸術觀を区分しておくことによって、’60年代の「反芸術」を考えるうえでの歴史的データーを得ておくためである。そしてまた、この時代のブルトンの扱いについて、現在までの研究書、たとえばさきにも引用したアンリ・ベーアールやミッシェル・サヌイエなどの記述はいささか承服しがたいからでもある。これらはいずれも、芸術というよりフランス文学の領域から、ブルトン偏重の傾向があり、ツァラの影響や造形芸術家を軽視しがちである。ことにべアールの著書『アンドレ・ブルトン』(1990年)(邦訳では『アンドレ・ブルトン伝』)にはそれがつよくみられる。また、サヌイエについても、のちにデュシャンの著述文献にもとずく浩瀚な研究書(1975年)を出版しているが、’60年代に出版されたダダ研究『パリのダダ』ではブルトン資料に一方的に依拠しているようにみえる。

 というような視点からみれば、とうじのブルトンは、デュシャンの実像への関心はうすく、そのようなことはどうでもよかったのであろう。かれにとって重要であったのは、ダダ的とかれが恣意的におもうデュシャンを媒体にして、ダダを見定めることである。というのは、アヴァンギャルド芸術の先達であり、長期にわたりデュシャンと親密な交流があったピカビア、画家としてはかれもまたツァラ以上にダダ的な実績のあるピカビアや、のちにあらわれたマン・レイの言行などから、デュシャンについて聞かされていた耳学問からの判断であろう。ダダ的なというのは、既成芸術にたいして否定的ということである。

 ようするに、ブルトンにとって問題だったのは、ダダがかれ自身にとって、また、近い将来かれの同志として期待する者たちにとって、何であったのかということである。否、むしろ、いまだ何であるかということであろう。

 とすると、ツァラがアプリオリに希求する「宇宙の絶対の混沌」に対抗して、ブルトンのいう「霊体化」の元である「霊魂」なるものは、なにを想定しているのかということになる。まさか、死者との交感ではあるまい。自然との照応(コレスポンダンス)でもないだろう。


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