Avant 2-3-4

第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」


3)トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』とアンドレ・ブルトンの「反芸術」


Part  4  



 ブルトンが、それをどのようなものとし、また、それが、ツァラの「宇宙の絶対の混沌」と相容れない根拠となることを知るためには、比較的はっきりとそれをのべようとした『文学』(新シリーズ)No.4 掲載の『はっきりと』にもどらねばならない。

 かれはそこで、自分にとって文学とか芸術はどのようなものかを、つぎのように記している。


・・・ もし、なぜあなたは書くのかという質問事項に、「私は書くならば、私が最善をつくせるのは、今なおこのことなのだから」と、わたしが確信をもって回答できるのであれば、わたしは書くであろうし、そのことしかなさないだろう。だが、そうした状況ではなく、わたしがここで考えているのはこういうことだ。かつて文学でわたしに微笑みかけてくれたすべてである詩(ポエジー)というものは、作家であろうとなかろうと、その人間の生活から、発現(émané)してくるものである。ひとがすでに書いたもの、あるいは、書くことができたとおもわれているものからよりも、ひとの生活から発現するものである。ここで私たちはたいへんな勘違いをおこしやすい。わたしがおもっているような生活(人生)とは、ひとが最終的に死刑台で果てるか人名辞典にのるかといった、ひとの個人的行為の総体ではなく、受けいれ難い人間の条件を、どのように受けいれたかというそのやり方である。それいじょうのものではない。それはまた、なぜかはわからないが、そのように考えられた生活が真の達成にむかうのは、文学とか芸術に隣接した領域のなかでなのだ。(注. 下線は筆者.) 

    

 またしても、あいまいで、つかまようとすれば、言ひ抜けのできそうな文章であるが、つぎのようにとらえてみよう。  

 かれは、「詩(ポエジー)というものは、その人間の生活から、発現してくるものである」と、断言している。「生活」は、原文は〈vie〉であるが、すでに指摘したように「生活」と訳した。また、「発現する」の原文用語は〈émaner〉である。名詞〈émanation〉は、「(魅力、熱、光の)放射、発散、(民意の)発現、(霊媒、魔術師の)霊気」をしめすことばである。かれが『マルセル・デュシャン』でのべていた、「霊体化(有形化)」と同義としてもよいだろう。

 そして、その発現は「生活」から発せられるもので、個々人の「生活」態度からだという。「生活」態度とは、受け入れがたい人間の条件をどのように受け入れたかという、そのやり方だという。そして「そのように考えられた生活が真の達成にむかうのは、文学とか芸術に隣接した領域のなかだ」とするのだが、詩(ポエジー)を、「文学とか芸術」とすると、これもまた同語反復であるが、「『反芸術』という芸術」とおなじように、あきらかにひとつの主張がある。つまり、芸術は真の人間生活を達成するものだということである。達成できるかもしれないということである。受け入れがたい人間条件である困難な現実生活の霊体化(有形化)としての芸術である。ただ、ここでは、ブルトンが芸術を、行為としてよりむしろ、行為の結果である作品としての考えにかたむいていることには留意しておかねばならない。

 しかし、いま問題とすべきは、かれのいう「受け入れがたい人間の条件」が、なにを念頭においているかである。

 それについては、『はっきりと』のどこにも、具体的にしめされていない。せめて、関係しそうなのは、「わたしがおもっているような生活(人生)とは、 ひとが最終的に死刑台で果てるか人名辞典にのるかといった、ひとの個人的行為の総体ではなく」と、否定しているが、「受けいれ難い人間の条件を、どのように受けいれたかというそのやり方である。それいじょうのものではない」 を、リードするところである。これは、〈vie〉が、「人生」ではなく「生活」である、としているようにもおもえるが、それはさて措き、「ひとが最終的に死刑台で果てるか人名辞典にのるかといった、ひとの個人的行為の総体ではなく」とは、いかにも、おおげさな喩え言である。

 「人名辞典」と訳したが原文は「辞書・辞典(dictionnaire)」である。「ひとの人生(生活)」とはされているが、その「ひと」は、作家であれそうでなかかろうと、詩を書くひと である。詩人や作家が、「最終的に死刑台で果てるか辞典にのるか」とは、なんとも不穏当な表現である。

 「辞典」にのるとは、有名になり、大衆に知られることである。大衆との関係のあり方である。死刑台で果てるのも、大衆との関係のあり方によっておこることである。とすると、そのあり方が、迎合、媚びへつらい、あるいは、不本意な行為、自滅的行為によって形成される、大衆との不自然な関係のあり方である。そして、このように、「わたしがおもっているような生活とは」、そうした大衆との不自然な関係ではなく、「(そのような)受け入れがたい人間の条件を、どのように受けいれたかというそのやり方」と読めば、いかにも場違いなともおもえた喩えも、すんなりわかるようにおもえる。もちろん、ブルトンのいう「受け入れがたい人間の条件」は、そのようにかぎられた大衆との関係からでなく、グループの、人文・社会の、そして、なによりも個人の、さまざまな困難な生存条件を包括するのであろうが、逆にここでは、これまでにもふれてきた、「芸術の生活化」の問題、芸術家がどのように「飯を食っていくか」の視点が、ここにも露呈しているようにおもわれる。 

 そうしたことを暗黙裡におさめて、つづく一文を読めば、既成芸術家を批判するかくれた視点がすこしあきらかになる。


 こうした苦しみを、好むと好まざるとにかかわらず、多かれ少なかれ分かち合っている人たちが、幾名かはいる。今日、彼らがいちばん懸念しているのは、そのことをなにも表さないようにすることである。つまり、彼らの言うことを信じるなら、彼らはつねに、芸術を一つの職業としてやってきたということである。 数日前にわたしは友人のある写真家の家で、アンリィ -- マチス氏(連結付つきだ)に出くわしたことがあった。どんな画家も、自然となんとか折り合いをつけたとは、おもわれたくないようだ。むかし描いた作品ですか? 彼からすると、それらの唯一の値打ちは、現在の作品完成(原文イタリック)に役立つ習作だった、ということである。いまではそういった連中がごまんといる。ヴァレリーとか、ドラン、マリネッティといったやからであって、自業自得、溝の際までいって落っこちているのだが、そのくせ、/きみたちの泣き言を嬉しそうにきいて、10年後にまた会おうと、もったいぶった約束をして、君たちをほおっておくのだ。(注. 下線 と「/」は筆者.)


 ここであけすけに批判される芸術家は、すべて一年足らず前まで『文学』誌やそのたの場所で、ブルトンが敬愛を表明し、評価した芸術家である。というよりもむしろ、アンケートでデュシャンと同程度の評価をされていたマチスのあつかいに目をむけざるをえず、また、マリネッティがあげられていることで、やはり、ブルトンも「未来派」を、ツァラがこだわったように、それなりに注目していたのかとおもわせたりする。

 そして、いまとなって、彼らを批判する根拠は、要約すればつぎのようになるだろう。彼らは、芸術の問題に立ち向かうことなく、職業としている。作品完成、つまり、作品を造ることに芸術の問題をすりかえているということである。ということは、具体的にいえば、精緻な、評判の良い作品をつくる技法(アート)、デュカスのいう「奇癖」の罠におちいり、「固定化の病癖」にとりつかれているということである。つまり彼らは職業芸術家になっている。芸術を売って生活しているということである。

 しかし、ブルトンが、意識的に主張している批判は、彼らのそのことではない。かれらが、若い芸術家たちに、芸術上の期待をもたせて、裏切っている。そして、裏切られたもののなかには、ブルトン自身もはいっているということである。

 というところから、はっきりとかれが公言しておきたかった、『はっきりと』の本論であり結論へむかって議論がすすめられる。

 

 ありがたいことに、私たちの時代は、ひとが思うほど堕落していない。ピカビアやデュシャン、ピカソが、私たちのそばにとどまっている。ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フイリップ・スーポー、それに永遠の友人たちよ、わたしは 君たちと握手する。君たちはギョーム・アポリネールやピエール・ルヴェルディのことをおぼえているかい? 私たちの力は、すこしばかり、彼らの恩恵をうけている。だが、すでにジャック・バロンやロベール・デスノス、マックス・モリーズ、ロジェ・ヴィトラック、ピエール・ド・マッソが、私たちをまっている。/ダダイスムというものは、私たちを、今あるような完全予備役の状態にすることいがいに役立ったなどとは言えず、いまや私たちは、そこから脱し、私たちをもとめるものにたいして、明晰な目的意識をもって向かっていくのだ。(注. 下線と赤文字表記、「/」 は筆者)


 あいかわらずの、第三者からみると歯切れの悪い言い分だが、仲間にたいしては、それなりの意味をもつ主張と断言と提案であろう。

 断言はふたつある。ひとつは、うちなるダダについてである。いまひとつは、ツァラのダダと袂を分かって、じぶんたちの道をすすむということである。

 まず、じぶんたちの道について解釈してみよう。それは、あたらしいグループの結成である。メンバーは、ブルトンにくわえて、「永遠の友である」ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フイリップ・スーポーであり、「ジャック・バロンやロベール・デスノス、マックス・モリーズ、ロジェ・ヴィトラック、ピエール・ド・マッソ」らを、期待の視野にいれたメンバーである。かれらはすべて、姓名、フルネームで表記されていることに留意しておこう。

 そして、この新芸術流派の理論的体裁についてもかなりの暗示がなされている。「君たちはギョーム・アポリネールやピエール・ルヴェルディのことをおぼえているかい?」と呼びかける。アポリネールは、シュルレアリスムということばの創造者である。アポリネールが造語したシュルレアリスム(surréalisme=sur +réalité/ーisme[現実を超える主義])は、「人間が歩行を模倣して車輪を造ったとき、かれは知らずしてシュルレアリスムを実践した」という文脈で、はじめてつかわれたように、人間の想像力にかかわる用語である。ブルトンが、『霊媒登場』や『シュルレアリスム宣言』でもちいたシュルレアリスムとは、後のかれの説明によると、異なるものであるが、1917年に上演された戯曲『チレジアスの乳房』の序文にあらわれた、アポリネールの造語であることはまちがいない。また、ブルトンのシュルレアリスムの根底にある、夢や自動記述によるイメージ論に先行して、ルヴェルディが、当時『シック』誌に書いているイメージ論があるのは、これもまた、ブルトン自身がのちの『シュルレアリスム宣言』で記しているとおりである。「明確な目的意識を持って向かう」だいたいの方向が、アポリネールとルヴェルディで、だいたい示されているわけである。

 ただ、それにつけても、この新グループにおけるダダのしめる位置についてだけは、それなりに言っておかなければならない。共同体内の新グループ結成で、必要不可欠と、ブルトンはしたのであろう。

 〈/〉以下の言い分である。「ダダイスムというものは、私たちを、今あるような完全予備役の状態にすることいがいに役立ったなどとは言えず、いまや私たちは、そこから脱し、・・・・」と、ブルトンは書いている。ダダは完全予備役の状態にするのに役立った、ということである。

 これは、レスタニーのダダ判定、「ダダは0(ゼロ)度の芸術である」とほぼ同じ判定であるようにみえる。ダダは0(ゼロ)度であり、ヌーヴォー・レアリスムはダダ40度である。しかし、このことは、レスタニーの判定が、1961年のことであり、ブルトンは1922年という、状況の相異からすると、けっして同一評価とはいえない。だが、これはとりあえず別途の後の問題として、ここではブルトンの真意を解釈しておこう。

 「完全予備役の状態(l’état de disponibilité parfaite)」にある、「予備役(disponibilité)」の訳語は、「自由に処分できること」から「〈行政〉待命、休職」の意があり、「待命状態」と訳したほうがわかりやすいが、ブルトンは、「〈軍事用語〉予備役」のニュアンスで使用しているとおもわれる。

 「予備役」とは、「常備兵役のひとつで、現役をおわった軍人が一定期間服する兵役。平常は市民生活を送り、非常時に召集され軍務に服する」予備軍役である。このころのブルトンは、数年前までの第一次世界大戦で軍医補として兵役に服したせいもあろうが、好んで戦闘表現と軍事用語をもちいる傾向がある。

 「明確な目的意思をもって向かった」さきにある、『シュルレアリスム宣言』(1924年)の最終節もまたそうである。関連する内容であるから全文を引用しよう。


 わたしが目指すかたちのシュルレアリスムは、現実世界を告発するにあたって、喚問することなど問題となりえないほど、きっぱりと絶対的「体制非順応主義」(イタリック)を宣言するものである。(これは逆にいえば、この現実世界でわれわれがそのようになりたいと願っている完璧な放心状態しか、シュルレアリスムは認めないということになろう。(注. 分離、抽出の意もある.) カントにおける女性の放心、パスツールにおける 「葡萄」の放心、キューリーにおける馬車の放心は、それについて深遠な徴候をしめしている。)/この世界は、ごく限られた尺度においてしか、思考と関連するものでないから、こうした種類の出来事は、わたしが光栄にも参加している独立戦争の、今までのところで、もっとも目につくエピソードであったとしてもよい。シュルレアリスムは、いつの日か敵にたいして勝利をおさめさせてくれる「眼に見えない光線」である。「骸骨よ、お前はもうふるえていない」

この夏、薔薇は青く、森はガラスでできている。緑の衣につつまれた大地は、幽霊いじょうにわたしの心をうごかさない。生きることも、生きることをやめることも、実に想像上の解決である。存在は他所にある

(訳文は、生田耕作訳『超現実主義宣言』[奢㶚都館]により、適宜修正した.下線と、/マーク、(     )は筆者.(    )は原文にあり、内容はここでの議論には関わらないが、シュルレアリスム芸術思想を示すから、いちおう残しておいた. なお「放心」は、Pléiade版 『ブルトン全集』の注記でもそうした解釈をしているが、「抽出」と重複するものではないかとおもわれる.)

 

 裁判用語と軍事用語が頻出する結論である。「シュルレアリスム」の行動目的は告発戦いであることを示すつもりであろう。なにを告発し、なんと戦うかといえば、ことばのうえからは、「現実世界」であり、「体制」である。そして、戦いは「独立戦争」だという。

 だが、この最終節にいたるまでの「シュルレアリスム宣言」でいわれているのは、想像力の問題である。想像力が密接にかかわる芸術界の問題である。つまり、現実世界・体制は、芸術からみた現実世界・体制であり、現実世界・体制からみた芸術界である。

 シュルレアリスムは、芸術にかかわる現実世界と体制を告発し、それらにむかって独立戦争をしかけるというのである。というわけで、『はっきりと』の最終節でいわれたことによると、ダダイスムは、この独立戦争の現場召集をひかえた常備兵役、その完全予備役の形成をなした、ということになる。

 ところで、この予備役が投入される独立戦争は、ブルトンによれば、過酷な戦いである。「シュルレアリスムは、いつの日か敵にたいして勝利をおさめさせてくれる「眼に見えない光線」である。『骸骨よ、お前はもうふるえていない』」。最終結論の直前におかれた引用符つきの、まがまがしいオーラを発する一句は、誕生したばかりのシュルレアリスト・グループでも、ブルトンにもっとも親しいメンバー以外は理解できなかったであろう。これは、17世紀フランスのチュレンヌ元帥が、戦場で自分を鼓舞するために 「痩せっぽちの骸骨よ、お前はふるえているではないか」と言ったという故事からであるとされている。この故事では、この後に、彼はさらに激しい戦闘に向いながら 「おれがお前をどこに連れて行こうとしているか知ったなら、もっと震えあがることになるのだが」とあるそうである

(注. Breton: Oeuvres complètes. Tome 1[Pléiade版] の注記による.)


   「予備役」などといっても、ひかえている独立戦争は生易しいものではない。指揮官たるブルトン自身が震えあがるものである。ダダイスムは、「私たち」をそのような戦闘の「完全予備役の状態」にするのに役立ったというのである。「役立ったにすぎない」などと一言でかたづけ、「いまや私たちは、そこから脱した」と言いきれるものであるかどうか?

 じじつ、いま一度、この独立戦争の内容を考えなおしてみよう。

 「わたしが目指すかたちのシュルレアリスムは、現実世界を告発するにあたって・・・」とか、「生きることも、生きることをやめることも、実に想像上の解決である。存在は他所にある」とかいうのをきけば、「現実世界」のすべてを否定し、すべてに反抗する宣言とおもわせるような語調である。しかし、グループ宣言であるいじょう、具体的計画を前提とする行動宣言である。したがって、行動として発露できる「体制非順応主義」や「独立戦争」は、既成芸術体制にたいする非順応主義と、既成芸術から独立して新芸術を樹立する独立戦争いがい、このときの現実的ブルトンができることはない。ましてや、かれが、このとき呼びかけているメンバーにとっては、そうである。ただ、このときのかれの結語では、理論的には、この芸術闘争のさきでは、芸術の枠をこえて、芸術をつつむ現実社会そのものへとむかう必然の可能性を眺望しているのは、たしかである。そして、そのことについての、ブルトンと集まったメンバーとの思想上の齟齬が、「シュルレアリスム第二宣言」(1929年)であきらかになってくる。ただし、「シュルレアリスム宣言」が宣言する、結成時のシュルレアリストの立場は、芸術上の「体制非順応主義」であり、既成芸術にたいして独立を挑む立場であった。

 とするならば、『ダダ宣言 1918』のツァラの立場と、ほとんど異同はない。順序と方向が逆さまになっているだけである。

 ツァラの「ダダ」で、まずあるのは現実世界を維持するいっさいのものへの嫌悪、そして、極限まで昂進した嫌悪である、無関心という「廃棄」があった。哲学の廃棄、科学の廃棄、論理の廃棄であり、未来の廃棄である。現実世界のすべての「体制」否定である。

 これは、ブルトンが、かれらの「独立戦争」のかなたに眺望しているとおもわれる、現実世界そのものへの挑戦である。

 そして、ツァラでは、「(生活がもし、目的もなく、初めの出産というものもない粗末な笑劇[ファルス]であるにしても、また、雨に濡れた菊のように爽やかに、厄介事から身を救いださねばならぬと信じるから、)了解のための唯一の基礎を宣言した。すなわち、芸術である。僕は、哲学思想の工場から産出される腐った太陽が垂れながす、あの淋疾膿漏にたいして、いっさいの宇宙的能力をあげて対抗することを宣言する。いっさいのダダイストの嫌悪をぶつけた容赦せぬ戦いを宣言する」という。「ダダイストのいっさいの嫌悪をぶつけた容赦せぬ戦いを宣言」し、了解のための唯一の基礎を芸術であると宣言した。そして、かれは、かれのいう「唯一の基礎である芸術」について、つぎのようにかたっている。


 この世界は、作品では、明示されないし、定義もされない。それは無数に変化して鑑賞者にゆだねられる。その創造者にとって、この世界は、根拠・立場もなければ、理論もない。秩序=無秩序、自我=非自我、肯定=否定、つまり絶対的芸術の至高の放射である。宇宙の混沌の純粋さのもつ絶対性、持続も、呼吸も、光も、制約もない第二の球体内の、秩序ある永遠の絶対性の芸術の放射である。


 それは、既成芸術否定の極限にあり、現実世界の第一球体には存在しない絶対芸術、すなわち、第二球体内の至高の「芸術」である。

 ツァラがこのようなことばをならべて描こうとしたイメージが、どのようなものかを知るてがかりは、「この世界は、作品では、明示されないし、定義もされない。それは無数に変化して鑑賞者にゆだねられる」にあるであろう。芸術はあるのである。そして、芸術は、鑑賞者であるにせよ創造者であるにせよ、想像力のなかにあるのである。作品はあってもなくてもかまわない。鑑賞者と創造者は同一人物であろうとなかろうと、区分されようとされまいと、かまわない。しかし、このような芸術は存在し、それを享受しなければならぬということ、このようにのべてもよいのかわからないが、そこにこそ救済があるということであろう。

 ただし、このような第二球体内の絶対芸術の出現は、ダダイストの嫌悪をぶつけた容赦せぬ戦い、つまり、第一球体内の過酷な「戦い」があってこそ得られるものである。

 ツァラのそのようにこの重りあう二つの宣言、「了解のための唯一の基礎である芸術」宣言と「容赦せぬ戦い宣言」は不可分のひとつの宣言である。

 とすると、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』の結語の到達点、

「シュルレアリスムは、いつの日か敵にたいして勝利をおさめさせてくれる「眼に見えない光線」である。『骸骨よ、お前はもうふるえていない』。(この夏、薔薇は青く、森はガラスでできている。緑の衣につつまれた大地は、幽霊いじょうにわたしの心をうごかさない。) 生きることも、生きることをやめることも、実に想像上の解決である。存在は他所にある。」((    )は筆者)

に、今一度もどらねばならない。

 ツァラが、ブルトンとさほど異なる地に、立っていたわけではないのがよくわかる。ブルトンがかたる、この結語は、挿入されているブルトン好みのロマン主義と象徴主義混交もどきのメタファーをのぞき、ほぼおなじ思想基盤にある。「この現実世界でわれわれがそのようになりたいと願っている完璧な放心状態」は、ツァラでは、「秩序ある永遠の絶対性の芸術の放射」がある第二球体内の様態であろう。いずれも、芸術的想像力の課題である。

 さらにまた、現実界と想像力の対立がどのようであるかの認識において、両者がおなじ見方にあることを注目しておくべきである。


 その対立は過酷なものである。ツァラでは、「いっさいのダダイストの嫌悪をぶつけた容赦せぬ戦い」といい、「いっさいの宇宙的能力をあげた対抗」を宣言する。「ダダイストの」とは、すべてを無意味とするほどの峻烈さということである。ダダの「無意味」は、ニヒリスムの虚無の対極にあるのはすでに述べたところであるが、戦場において意味を喪失することは、苛酷そのものの様態をしめす。ツァラは過酷な戦いについて、それいじょうはのべていない。

 むしろ、想像力が現実とたたかう戦場の無慈悲と苛酷さを語ったのはブルトンであった。「骸骨よ、お前はもうふるえていない」というのは、文脈において唐突であるだけに、むしろかれの実感を表現したものであろう。この実感は、たんなる子供っぽいヒロイズムの表現ではなく、かれの深層にかかわるものである。

 現代社会における現実世界と想像世界の相剋は苛酷である。ことにアヴァンギャルド芸術では不可避の関係にある。「反芸術」のひとつの問題点もそこからでている。ブルトンのこの一句には、初源的な指摘があるようにおもわれるから、いますこし考えておこう。

 「骸骨よ、お前はもうふるえていない」ではなく、「骸骨よ、お前はふるえている」と云った実例からはじめよう。

 本稿の本章最終節であつかう、’60年代日本の「反芸術」の芸術家であった赤瀬川原平は、想像力の探求の自由は 「ペスト菌の支配する街で生肉を喰らう自由」であるといった。この発言は、そのときのかれがおかれていた芸術上の生活環境と密接なかかわりをもつものであった。 

 赤瀬川原平は、とうじ発行されていた千円札を複写し活版印刷のシートを大量につくり、未裁断用紙で梱包作品、裁断用紙でコラージュ作品、あるいは、それらを燃やすパフォーマンスなどさまざまな芸術行為を遂行した。その結果、「通貨及証券模造取締法違反」で起訴され、有罪とされた。かれはそれを不服として、東京高裁、最高裁へ上告したが、その有罪はくつがえらなかった。この裁判は、’60年代日本の芸術裁判のひとつとして記憶すべきものであるが、芸術作品創造の想像力が現実社会で裁かれ、生活にはなはだしい支障をあたえたということでは、「戦場」における想像力の喩えがあてはまるものであろう。

 赤瀬川がこれを書いたのは、最初の東京地裁判決がくだされた直後で、雑誌『デザイン批評 4』(1967年9月刊)に掲載した『暗黒を探知する自由 ─ 千円札裁判第一審の記』である。

(注. 最高裁判決後に刊行された単行本『オブジェを持った無産者』(1970年)に収録され、そこでは『言葉の暗がりの中で』と改題されている。引用文の(  )は後者における修正文である .(    )修正は、タイトル改題にも関連する、芸術への論点の移行があらわれているようである。本論では、修正前の初出の視点を重視したい.)


 関係する箇所だけを引用しよう。


 そのペストの街にある(みつける)肉塊は、私達の生命を維持するエネルギー源であり(その街をいく私たちの生命の食品であり)、同時にそこで(その肉塊に)繁殖するペスト菌は、私達の生命を中断するエネルギー源である。自由であり危険であるもの、それがにとっては無秩序であるとすれば、そのペストの街に無秩序をもたらすものは、あたかも私達人類に対立するペスト菌のもつ秩序のようでもあるが、そこではそれはむしろ自由(平等)というにふさわしく(べきであり)、ペスト菌の自由が(、)私達を(たちをその街の)自由の中に引きずりこむ。  (『暗黒を探知する自由』[『デザイン批評 4』])


 ここでつかわれるは、この論考ではキーワードであり、「現実社会」をあらわすものであり、それにたいするペスト菌は、タイトルの探知される暗黒とおなじく、想像力をしめすものであろう。現実界にたいする芸術的想像力の位置と関係である。これは、ブルトンの「生きることも、生きることをやめることも、実に想像上の解決である。存在は他所にある」と同一方向を指針しながら、ブルトンのようには断言できない思想であろう。赤瀬川が言う、現実界において生命を中断させる とは、これもまた、ブルトンもそうであったように、「狂気」とすべきであろう。しかし、一方では、「生命を維持するエネルギー源」とか食品、あるいは肉塊というイメージの湧出は、これを記したときのかれの生活状況からいえば、物質的生活を暗黙裡にふくむとしても、かれの深層と無関係ではないだろう。赤瀬川は現実界の「千円札」を想像力によって処理することによって、刑事告発され、失職するというかたちで、現実界の「千円札」を失ったのである。想像界の自由を享受することが現実界では生活を中断させるのは、狂気だけではない、サドが極端なかたちで公言したエロチスムがあり、宮武外骨が獄中生活を余儀なくされた諧謔があり、ナンセンスがある。想像力の自由はペスト菌の自由である。

(注. 関係する項で詳述するが、かれは当時、サンドイッチマンや看板描き その他のアルバイトで生計をたてており、「千円札裁判」では、失職しさらに困窮生活をよぎなくされた.)


 ただし、そうしたことは、むしろこの一文で赤瀬川が表向きに表現したかったものでない。かれが言いたかったのは、芸術裁判の視点から、芸術的想像力が現実世界では生存しがたいということである。ただここには、「反芸術」問題にも通底する、「芸術の生活化」のひとつのこころみがあることを指摘しておきたい。それは、ブルトンにもまた、おなじようにかれ自身は意識せずして露呈した、「フロイトのいう言い間違い」がある。

 まず赤瀬川では、かれが選択した用語「ペスト菌」から、それがのぞき見られるものである。ペスト菌は伝説的伝染病である。’60年代日本でも患者皆無の「架空」の疫病である。それを芸術的想像力にむすびつけ、「千円札作品」に加担させることには、ある種の屈折したヒロイズムがあるようにおもわれる。「絶対的」死病にとりつかれたという擬似(pseudo-)名誉の誇示であり、そのような名誉へのパイプが開かれる「千円札裁判 ─ 一審判決」である。

 ヒロイズムの発揮には、真のおもいを隠蔽し粉飾する傾向がある。発揮される対象については関心がなく、隠蔽されたところに透明な関心があるものである。かつて「天皇陛下万歳!」といって死んでいった特攻隊の若者たちのヒロイズイムに、隠蔽された家族や愛するひとへの渇望のおもいやりがあったようなものである。

 赤瀬川の擬似ヒロイズムは、擬似であるだけに複雑である。というのは、このヒロイズムは、他人や社会へむけるのが第一目的ではなく、まず、じぶんにたいしてむけられる、じぶんを納得させるための悲壮なヒロイズムということである。悲壮なというのは、深層の恐怖と不安をまぎらわす、昂揚のようなヒロイズムである。ここで問題にするのは、現実社会の裁判で有罪とされた芸術作品弁明に仮託されたヒロイズムではなく、さらにその基底にあるものである。芸術でどのように飯を喰っていくかの問題である。芸術で飯が喰えるかどうかの、かれにとってもっとも切実な課題である。というよりもむしろ、ここでは、芸術によって飯が喰えるかどうかを最大課題にしたところに、アヴァンギャルド芸術家としてのかれに注目する理由があるようにおもわれる。当時のアヴァンギャルディストたちのなかで、だれしもが課題としながらも、かれほどこれを直視し、試行錯誤の実践をしたものはすくないからである。というのは、このばあいの「芸術」は、アヴァンギャルディストであるじぶんの「芸術」であるが、「芸術によって飯が喰えるかどうか」とは、その「芸術」と「飯を喰うこと」の、一般には相容れない方向へ強い力のベクトルをもつ双方を、右手と左手でにぎって生きていけるかの問題である。

 かれはまだ、それを明確に意識してはいない。だが、ここにおよんで、生き死ににかかわるほど、その願望に偏執的にとりつかれたようにみえる。アヴァンギャルド芸術が赤瀬川にとって、畢生の救済の課題となったのは、事件のおこる直前の時期であって、そこで出会い、発見した課題の最初の作品のひとつがこの一連の「千円札シリーズ」であった。その経緯については、関係する後の項目で詳述するが、かれの生活をこのようにまきこんだ、この「千円札事件」の解説・報告は、アヴァンギャルド芸術と芸術家の問題を考えるうえのてがかりの端緒となるものである。

 赤瀬川克彦は高等学校進学以来、画家になろうとこころざし、東京の美術専門学校(現在は大学)へ進学したが、物質的生活じょうの理由から断念し、一時帰郷していた。そのとき、かつての仲間である芸術グループからさそわれ再度上京し出会ったのが、アヴァンギャルド芸術であった。この出会いと「発見」は、かれにとって救済の「再生」であった。署名も克彦から原平にあらためた。そのなかで制作した「千円札」作品が摘発され、起訴されたのが、「再生」4年目の1964年のことである。

 したがって、それまでのかれは、同人誌ていどの雑誌に二度ばかり芸術論めいた著述をしただけで、制作し公開していたのは、すべて絵画やミックストメディアの造形作品であった。文学的文字媒体には無関心であった。

 ところが、千円札事件以来、かれは積極的に千円札事件について執筆することになる。自分の「千円札」作品について、はじめて書いた芸術論は、『日本読書新聞』(1964年2月24日号)に掲載された「〝資本主義リアリズム〟論」である。おそらく、これは、「千円札」事件の新聞報道が同年1月にあったたからされた依頼原稿であり、一般紙に掲載されたはじめての論文である。それからのち、革新系の中小雑誌、新聞への掲載は、「千円札」作品と裁判をテーマとするものではあるが、増大していくことになる。

 ここで注目すべきは、すでに「暗黒を探知する自由」の引用文からもわかるように、「画家」が書いた、とおり一遍の裁判報告と解説ではなく、それなりに推敲された文学的芸術論であり評論であることである。さきの「ペスト菌」の喩えも芸術表現とみるべきかもしれない。また、そのような原稿依頼がたえることなくつづき、増加していったということは、マンネリにおちいることなく、新鮮さを保ち、読者の需要に応えうる内容(作品)ということである。いちおうの生活収入をもたらす執筆行為、そして内容は、じぶんの芸術作品に関係するから、生活(収入)と一致する芸術行為である。じぶんの芸術を媒体とした大衆との関係がとりあえずは成立していたということになる。

 赤瀬川はまだそれを「芸術の生活化」の問題にまで整理しきれていない。だが、かれが、「千円札事件」を契機にはじめた行動は、「じぶんの芸術行為」と「飯を喰う」ということを一致させようとすることに、無意識的にやむをえずなされたものであろうが、意図的であったとおもわれる。意図的であったことをあらわす、そのささいな一例は、これらの論考にあらわれるきらびやかな文学表現である。

 そして、結果的には、このような文学的芸術行為は、1981年には芥川賞を受賞することになり、長編小説『贋金づかい』となり、かずかずのブラック・ユーモアの短編小説に結実することになる。そして、これと並行した芸術活動では、この千円札紙幣テーマは、雑誌『美術手帖』連載のパロディ作品「資本主義リアリズム講座」によって第二次千円札事件をおこし、また、「零円札」の発行・発売を実現する。そして、執拗に、直接、間接的に「千円札」に由来する、マンガ、評論を書き、作品を制作し、あるいは、「トマソン」芸術を提案し、そして、死の前年の最後の造形作品は、千円札作品をボカシ撮影した写真作品「ハグⅠ」(91.0×197.4cm)(2013年)であって、資生堂ギャラリー「椿会展」に出品された。かつてみつけ、社会にうけいれられなかったテーマのじぶんの芸術が、半世紀をこえて発展しつづけたことになる。そして、それらは、社会にうけいれられ、収入をともなう「仕事」であった。この「千円札事件」を契機に、じぶんの芸術と物質的生活を合体させ、かれの「芸術の生活化」を実現したようにみえる。ただし、これについての諸問題は別途考えることにする。

 赤瀬川原平の、「フロイトの言い間違え」のような、屈折したヒロイズムからみられたのはこのようなものである。

 ここでいう「フロイトの言い間違え」とは、表面的にかたられることから、その心理的深層を、表層で奇妙にきこえることばを手がかりに、ながめてみようというていどの意味で使用している。そのような見地からすると、赤瀬川より、ブルトンの言辞のほうが、さらに錯綜した芸術観があらわれているようにおもわれる。

 ここでもまた、てがかりになるのは、よりいっそう露骨で奇妙なヒロイズムである。ブルトンでメタファーとしてあらわれる独立戦争の戦場は、ヒロイズムの発露される戦場である。悲惨な生と、死が散乱する戦場ではない。ブルトン自身は、第一次大戦中、戦場後方とはいえ、陸軍病院のなかで、前線から後送された重篤な外傷神経症患者をつうじ、無残な戦争の現状を知悉していたはずである。そのブルトンが、「わたしが光栄にも参加している独立戦争」といい、その戦場において、「・・・は、今までのところで、もっとも目につくエピソーであったとしてもよい」と、シュルレアリスムの実験成果を、得々としてかたるだけでなく、破壊「光線」たる最新秘密兵器所持を手ばなしで自慢するしまつである。そして、そのあげくのはては、「骸骨よ、お前はもうふるえていない」と豪語する。

 現実世界に想像力を対抗させ、現実をしたがせるのは、なみたいていのことではない。不可能にちかい試みであろう。

 しかし、赤瀬川がかたった、現実世界に立ちむかう想像力のすがた、「そのペストの街にみつける肉塊は、私達の生命を維持するエネルギー源であり、同時にその肉塊に繁殖するペスト菌は、私達の生命を中断するエネルギー源である」にある、危機感としての恐怖は片鱗も察知できない。恐怖とは、敗北の恐怖である。

 ブルトンでも、「骸骨よ、お前はもうふるえていない」の挿入句によって、骸骨はのシンボルであるから、そこには歴然との蓋然性があるのだが、その死 恐怖は、もう克服したといいたいようにきこえる。

 この一句は、さきにも紹介したように、17世紀フランス、ブルボン王朝の猛将、大元帥チュレーヌ子爵の戦場語録からの借用である。チュレーヌ子爵、アンリー・ド・ラ・トウール・ドーヴェルニュは、30年戦争時代のヨーロッパで、プロテスタントとして信仰上の節操をたて、その結婚観も潔癖であり、戦場では勇猛果敢な名将であって、ついには栄耀栄華をきわめた軍人である。その死は戦死であったが、戦場視察中のアクシデントによるもので、敗北の死ではない。名将の栄誉の凱旋行進でむかえられるような死である。(注.Wikipedia参照)  

 この「骸骨」には、の恐怖はない。があったとしても、それはヒロイズムの死、名誉のための戦死である。そして、名誉は、ヨーロッパでも日本でも、近代社会では、アプリオリに物質的幸福へつうじるなんらかのパイプとなっている。

 ブルトンがこれを引用したとき、チュレーヌの行状やその生涯が、どこまで念頭にあったかはわからない。プレイアード版「ブルトン全集」の注記によると、ブルトンはチュレーヌのことばと承知していたとある。とすると、ブルトンのこころの深層、さらにその底深くでは、シュルレアリスムの「独立戦争」をしかける戦場での、暗黙の勝利を、この一句に、二重写しに夢見ていたといったら、言い過ぎであろうか。赤瀬川の「ペスト菌」と、ブルトンの「骸骨」をならべて読むと、そのようにみえてしまうのだが。

 とはいえ、すくなくともこの結論部についてつぎのことをいうことができるだろう。

 これらを、過酷な戦場の喩えにたくしてかたるときのブルトンの念頭からは、戦争の実態であるあの悲惨の情景も、それがおこる現実の不幸も、まったく欠落していたにちがいない。それを消去するほどの強力な磁気が、どこからか放射されていたにちがいない。ことば化されない、ことば化できない思念が、どこかに凝(しこ)っているようにみえる。それをかろうじて察知できるのは、「緑の衣につつまれた大地は、幽霊いじょうにわたしの心をうごかさない。生きることも、生きることをやめることも、実に想像上の解決である。存在は他所にある」という、『シュルレアリスム宣言』の最終結語である。

 あきらかにいっているのは、現実世界(レアリテ[réalité])」にたいする想像力の位置、想像力によって形成される想像力の世界、「超現実(シュルレアリテ[sur-réalité]) の位置である。「超現実(シュルレアリテ)」は、現実以上の現実である。「レアリテ(現実)」世界は「シュルレアリテ(超現実)」世界の反作用によって存在するにすぎないというのが シュルレアリスムの主張である。

(注. 〈sur-réalité〉は一般に「現実」と訳されるが、誤解されやすい訳語である. sur[英語の前置詞〈on〉]は、〈sur-tension〉(極度の緊張、過電圧)や〈sur-choix(英語のchoice)〉(極上、特選)のようにつかわれる接頭辞である. 〈sur-réalité〉は、「現実以上の現実/現実の極み」といったものであって、〈sur-réalisme〉は〈super-réalisme〉ではないから、「現実主義」と訳すのは適切でなく、「シュルレアリスム」としか言いようがない. しかし、やむをえず「超ー」をつかう場合もある. 現実的論理である古典力学的にいえば、「シュルレアリテ(sur-réalité)」は、「レアリテ(réalité)」の滑り台うえ(sur)に反作用の抵抗力によって位置しうるのだから、「シュルレアリテ(超現実)」世界が「レアリテ(現実)」世界の反作用によって存在することになり、ブルトンとちがい、アポリネールでは、そのように造語されていたとおもわれる.) 


 そうではあるけれども、シュルレアリテ(超現実)の優位をしめすのに、「生きること(vivre)も、生きることをやめることも・・・・」とは、いささか穏当を欠く表現であろう。このいかにも感情的逸脱の表現は、「生きること、生きることをやめること」に、文脈論理をはなれたこだわりがあることを示している。つまり、存在そこにはないといわれた、そこである「現実」でいとなまれる「生活(VIE)」へのこだわりである。

  現実社会における生活は、「精神」と「物質」の二極で構成され、適宜、双方の極の影響下にあることで成立している。一元論者のブルトンは、「生活」は問題の対象外だといっているのだが、問題の対象外であっても「生活」していることにはかわりない。 

 これにたいするブルトンの言い分を憶測すれば、生きること(vivre)と存在する(exister)は、同義的ことばであり、ただ、そこにある相違において、〈生きること(vivre)〉でなく〈存在する(exister)〉するのだと弁明するかもしれない。だが、そうとしても、「存在」と「生活」の同義部分をどのように理解しようとしているのであろうか。つまり、社会生活における精神的極、たとえば、ツァラも廃棄した「論理」にはじまり、道徳、宗教、科学、哲学・・・・「理性」にたいして、想像力の発露する「感情」を対抗させるとはするものの、物質的生活については、「シュルレアリテ的存在(existence)」ではどう解されているのだろうか。さきの『シュルレアリスム宣言』結論では、「緑の衣につつまれた大地は、幽霊いじょうにわたしの心をうごかさない」で、現実世界の「緑の大地」というような物質的なものには、もうわたしは関心をもたないと、消極的な否定言辞があるだけで、直接的発言はみとめられない。

 そうしたことの回路を、ブルトンは、かれがそれをどこまで意識していたのかはわからないが、デュシャンの「芸術」にみようとしたようにおもわれる。

 ふたたび、マルセル・デュシャン論にもどってみよう。「マルセル・デュシャン」(1922年)の結論部の直前の記述である。

 ここは、さきに解釈した、「私たちは近代精神を法典化するつもりはまったくない」によって、ブルトンらの芸術活動を弁明したのちに、デュシャンの「レディーメイド」 にみられる芸術行為への共感をのべたのちに書かれたところである。デュシャンとおなじような芸術行為を遂行するグループ結成について再度かたるものである。

(注.ブルトンはここでは、まだ、「レディーメイド」という用語は使用していない.)


 さいわいなことに、ことが決まるのは、あと一呼吸するだけだ。─ とうぜん、実践を要するのだが。 ─ で、すぐはじめるには、酸素がなくてはならない。(いうまでもなく、うえにのべたこと理解できるのは、ある者たちの特権だろう。ざんねんなかたちで、彼らをたいそう喜ばせることになるのだが、ある男の言葉を評価するのもまた、かれらの特権となるだろう。それというのは、とどのつまり、うえにのべたような考え方とはまさに無縁であった男、ギョーム・アポリネールのペンからうまれた、かれがあれほどまでに執着していた予言能力の大きさを示す言葉、 「芸術と大衆を和解させるのは、おそらくはマルセル・デュシャンのような、美学の固定観念(思いこみ)から解放されて、エネルギーにとりつかれた芸術家にゆだねられることになろう」という言葉のことである)。(注. 下線は筆者)


 「ことが決まるのは」とは、新芸術、シュルレアリスム・グループの発足である。そのために「あと一呼吸するだけの酸素」がありさえすればよい、ということである。だが、その一呼吸の「酸素」がなにを意味するのかわからない。以下、その説明になるのか、ならないのか、わからない、(    )つきの、一見、コンテキストからはなれた挿入句がはいる。

 おそらく、この挿入句は、かれとしては一貫性ある表現にはできなかったが、やはり、その「酸素」にかかわるものについてであろう。理解できたり無縁であったりする「うえにのべたこと」や「考え方」というのは、ブルトンのデュシャン芸術への考え方である。それは、デュシャンのやっていることは、量質ともに、とても芸術とはいえないものだが、それでもなお、「芸術」の根本軌範にあるというものであった。だが、ブルトンが、この(    )でいいたいのはそのことではないだろう。

 アポリネールの引用句、「芸術と大衆を和解させるのは、おそらくはマルセル・デュシャンのような、美学の固定観念(思いこみ)から解放されて、エネルギーにとりつかれた芸術家にゆだねられることになろう」が、(    )部分発想のもとにあったとおもわれる。なかでも、「マルセル・デュシャンのような芸術は、これからのちかならずや、芸術と大衆を和解させる」ということを、卓抜な預言者としてのアポリネールに仮託して言いたかったのだとおもわれる。

 そしてまた、さらに憶測の触手をのばせば、このアポリネールの予言能力評価には、「あと一呼吸するだけ」で、誕生する、かれらのあたらしい「芸術」がかかわってくるのであろう。かれらがおこなおうとしていることが「シュルレアリスム」であり、アポリネールは、「シュルレアリスム」の預言者でもあったこと、そして同一預言者から発せられた予言的造語であるから、「芸術と大衆を和解させるのは、おそらくはマルセル・デュシャンのような、美学の固定観念(思いこみ)から解放されて、エネルギーにとりつかれたシュルレアリストにゆだねられることになろう」と、暗黙のうちに読み替えたかったのかもしれない。

 とするならば、この「芸術と大衆との和解」をブルトンがどのように考えていたかが問題となる。その「和解」を、ツァラが『ダダ宣言 1918』で語っていたような、「新聞の賞賛を博する」芸術でしめされるものを、まさかおもっていたわけではあるまい。だが、「生きることも、生きることをやめることも、実に想像上の解決である。「存在は他所にある」と言いきった存在の芸術 以前の、いくぶん異なる側面からみられた芸術であるのはたしかであろう。「緑の衣」ともいえる、「一呼吸の酸素」があれば誕生するような芸術である。

 その当否をたしかめるために、いますこしまわり道して、議論をすすめよう。

 ブルトンはあきらかに、アポリネールのことばを、彼自身の思想におきかえて、やや恣意的に引用している。

 引用は、かれの『キュビスムの画家たち』(1912年)収録の「マルセル・デュシャン」からされたもので、つぎのようなものである。


・・・・ かつてチマブエの作品がひき廻されたように、人間性と数千年の努力と必要な技術(芸術)を満載したブレリオの飛行機が得意げにひき廻され、芸術(技術)と手工業[職業](熟練)[aux Arts et  Métiers]の領域に引きいれられるのを我々の世紀は見た。おそらく、芸術と大衆を和解させるのは、マルセル・デュシャンのように美学の偏見から解放されて、エネルギーと取組んでいる芸術家にゆだねられることになろう。(渡邊一民訳「キュービスムの画家たち」[『アポリネール全集』]. 若干の訳語を修正した. 下線は筆者.)

(注. ルイ・ブレリオは、1909年、みずから丹精、設計・製作した飛行機で、世界ではじめてドーバー海峡横断飛行に成功し、大評判となった。)

 

 アポリネールがここで述べていることも、一筋縄ではいかないものをあらわしている。〈les Arts et les Métiers〉 と、Arts と Métiers を個別ではなく 〈les Arts et Métiers〉と合体化した語として記されているから、サンタマリア・ノヴェラの礼拝堂に安置されているチマブエの「聖母マリア」 と、ブレリオの飛行機を同類としてあつかい、その範疇は「アート & メチエ」という総合ジャンルということになろう。つまり、「芸術(技術)& 職業(手作業)(熟練)」である。そして、チマブエの「聖母マリア」は大衆拝礼の対象であり、ブレリオの飛行機も大衆賞賛の対象であったから、その「アート & メチエ」と大衆との間には、いかなる乖離もない。

(注. チマブエをサンタマリア・ノヴェラの「聖母マリア」像を指すとするのは 『Apollinaire: Oeuvres en prose complèts 2』[Pléiade版]の注記による.)


   そのような、芸術と大衆の関係、ツァラの「誹謗しあいたがいに毒となる関係」ではなく、和解した関係を、「美学の偏見から解放されて、エネルギーと取組んでいる」 デュシャンに、期待できるというのである。

 アポリネールのこの主張には、前半と後半のあいだにややつながりが欠けるが、それなりにかれの思想的一貫性が認められる。

 さきにものべておいたように、歩行の模倣から「車輪」を創造する発想が、かれの造語した「シュルレアリスム(surréalisme)」であった。はじめて造られた「車輪」は、いうまでもなく、「アート & メチエ」の作品である。すなわち「芸術(技術)&  職業(手作業)(熟練)」 の作品である。1912年のこのマルセル・デュシャン論でのべられた、デュシャンにかかわるこの芸術思想が、5年後に『チレジアスの乳房』でのべられた、かれのシュルレアリスムに発展したとみることができる。しかも、それは、大衆の「礼拝」や「評判」の礼賛となることによって、うけいれられたことを前提とするものである。

 だが、デュシャンが「美学の偏見から解放されて」、このような意味における芸術と大衆の和解を可能にするエネルギーに取り組んでいるとは、なにをさしているのだろうか。あるいは、どのような作品を念頭においてかたられているのだろうか。

 ブルトンも、この引用において、アポリネールがデュシャンにみたこの「エネルギー」に同意したのだろうが、ブルトンは、エネルギーを「物事をなしとげる活力」といった意味でとらえ、デュシャンの社会的に無意味な(芸術)行為、たとえば、硬貨のエピソードにみられるような行為を遂行する「エネルギー」に限定して、思弁的に理解したとおもわれる。

(注. 硬貨のエピソードとは、空中に放った硬貨を掌にうけとめ、面が出ればニューヨークへ出立し、裏ならばパリに留まるとした、デュシャンの行為決定の態度。関心のある方は、原文邦訳をご参照ください. 巌谷國士訳「マルセル・デュシャン」[『失われた足跡』(『アンドレ・ブルトン集成』6)に収録]. 本稿でも訳文はこれをもちい、適宜、修正している.)


 だが、アポリーネルではそうではなく、なんらかの具体的作品にもとづいてのべたものであろう。アポリネールがこれを書いた1912年の時点では、デュシャンはまだ、「レディーメイド」をはじめていないし、「大ガラス」のアイデアなど夢想だにしていない、「デュシャン」以前の段階のデュシャンであった。これを書いたときのブルトンとは異なり、すでにデュシャンとは親しい関係にあったアポリネールであったが、じっさいに観た「キュビスムの画家」にふさわしい作品は、『チェス・プレーヤー』(1911)(図版10)や『急速な裸体たちに囲まれた王と女王』(1912)、『階段を降りる裸婦(ヌード)』(1912)(図版11)、あるいは『花嫁』(1912)(図版12)などの、ことに1912年に精力的に描いた油彩画作品にすぎなかったであろう。


図版10: デュシャン 「チェス・プレーヤー」




図版11: デュシャン 「階段を降りる裸婦」




図版12: デュシャン 「花嫁」




 だが、それらの作品で、「美学の偏見から解放されて、エネルギーと取組んでいる」のがみられる、というのはどのようなことだろうか。

 アポリネールは、『キュビスムの画家たち』の理論篇「美的省察」で、絵画上に表現されるエネルギーをどのように考えていたかを推測させる記述をのこしている。

 以下のようなものである。 


自然の未知の深い様相、突如として荘厳さをおびるその様相が感動的であるためには、わざわざ美として定着される必要などないのかもしれない。このことは、色の焔の型をした外見、N字型の構図、ときには穏やかで、ときにははっきりと抑揚をつけたどよめき、などによっても納得されよう。こうした構想はまったく美学によって決定されるものではなく、少数の線(形または色)のエネルギーによって決定されるものなのだ。)(訳文は同上書)


 自然の様相が感動的であるのをしめすのは、美学によって表現されるのではなく、「エネルギーによって決定される」という。そして、そのエネルギーは、「少数の線(形または色)」のもつエネルギーだという。このエネルギーを、さきのデュシャンがとりくんでいるエネルギーについておそらくブルトンが解したように、「物事をなしとげる活力」だとおもえば、感動をもたらす絵画すべてに該当することになる。だが、アポリネールのいうところは、そうではなく、もっと具体的であろう。エネルギーのいまひとつの定義は、「物体が物理的な仕事をすることのできる能力」である。動きをしめすもの、沸騰をしめす「形または色」である。ここに紹介するデュシャンの絵画は、まさにそうした「エネルギー」にとりくんでいる絵画である。ことに『階段を降りる裸体(ヌード)』は、横たわり静止しているべきヌードが、階段を降りるという「動き」が、未来派だとして、仲間のアヴァンギャルディストから非難され、みずから展示を取り下げた作品であった。『花嫁』もまた、沸騰するボイラーをおもわせないこともない。この『花嫁』は、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』に継続、発展するテーマとなる。

 ただ、デュシャンへの指摘をこのような絵画表現テーマにかぎるならば、いかにも通俗的なデュシャン評価にとどまるかもしれない。

 だが、それからのちのデュシャンの制作活動は、1918年に死んだアポリネールは、その結果を知るよしもないのだが、「美学の偏見から解放されて、エネルギーと取組んでいる芸術家」そのものであった。それにまた、かれの芸術観も、アポリネールとおなじ方向を指していたようにみえる。さきに紹介した、例の男性用便器にまつわるリチャード・マット事件にさいして、その反論に、「アメリカが世に与えた芸術作品は、排水設備しかない」と書いている。半分冗談のようにきこえるが、ブリオの飛行機に芸術をみたアポリネールとおなじ方向から芸術作品をみていることになる。そのようなチマブエの『聖母』とブリオの飛行機が同根にある芸術観が、その後のデュシャンの「美学の偏見から解放された」作品を、着実に制作させたということができよう。

 『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』(通称「大ガラス」)の長期わたる制作や、時間と手間と費用のかかる「着色回転盤」(図版13)シリーズの制作、さらには、最後のナゾの大作『落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ』などのことである。

 「大ガラス」は、すでに各所でふれたが、針金と金属板を複雑に組みあわせた、上下二段に分けられた作品である。下段の九体の独身者から上段の花嫁へいたるパイプ仕掛けは、そのいたるところに独創的技巧がこらされたものであり、それの各部分の試作模型も、「絵画」デッサンのように、独立した作品として公開されたようなものである

(注. くわしくは、東野芳明その他のさまざまな解説書がある。拙著では『現代芸術は難しくない』を参照.)


 まるで、油彩画『花嫁』を原案図として、ひとりで工夫してつくられたブレリオの飛行機のように、設計から製作までを単独でおこなった芸術史上はじめての「作品」である。その設計、制作の工夫は、工場機械の製作のように、仕様書ともいうべき制作メモが作成され、小型模型などとともに「グリーンボックス」におさめ、それも作品として発表していることからも、デュシャン自身の意図的行為であったことがわかる。形式としては「アート & メチエ」である。

 また、じっさいに動く作品には着色回転円盤がある。これは、彩色した半球体や平面円盤を回転させる装置であって、まじりあう色面、色帯を鑑賞する仕掛けである。この仕掛け自体がデュシャン独自の考案と工夫によるものであった。(図版13参照)



  図版13: デュシャン  「着色回転盤」




 これらは、紛う方ないエネルギーにとりくんでいる芸術家の、動きや循環を想定した作品であり、「アート & メチエ」(「芸術(技術)&  手作業(熟練)」)の作品であった。なお、「アート & メチエ」の新ジャンル提案は、アートの「技術」とメチエの「熟練」が同義であるところに、アポリネールの洞察力があらわれている。たとえば、各種(木彫、石彫、鋳造・・・)彫刻や機械仕掛けの完成は、適宜、技術と熟練を必要とし、技術と熟練の相乗効果のうえに成立するようなところへの炯眼である。

 しかしながら、他方、アポリネールの予言にいう「芸術と大衆の和解」が、チマブエの『聖母マリア』やブレリオの飛行機のような大衆の礼賛を意味するのであったなら、デュシャンにかぎっては、予言のその指摘はやや見当はずれといえるだろう。しかし、デュシャンをさらに素通りして、現代にもおよぶ予言として聴くなら、「アート & メチエ」(芸術[技術] & 職業[手作業][熟練])の「(車輪の)シュルレアリスム」の予言は、「美学の偏見から解放され、わざわざ美として定着される必要のない」 20世紀後半の、分野としてはデザインやイラストレーション、ジャンルとしては、マンガアニメ映画 として実現し、「芸術と大衆の和解」を達成し、チマブエの「聖母マリア」やブレリオの飛行機ていどのメチエ(職業)効果を獲得しているのかもしれない。そして、これもまた、ひとつの実践的、実質的「反芸術」として、アポリネールのした主張とすることができるかもしれない。だが、かれの主張は、「反芸術」の表明ではなく、大衆と和解する芸術であり、「アート & メチエ」に拡大する芸術である。そして、これは、半世紀後のレスタニーが「ヌヴォー・レアリスム」の第一宣言で、口ごもりながら言いかけ、言いきれなかったあの「産業芸術」についての、はるかに明確で展望のある指摘であり、また、アポリネールの「シュルレアリスム」は、このように解すべきかもしれない。じじつ、アポリネールの「自然」とレスタニーの「現実世界」は、ほとんどかわらぬことを指摘しておこう。レスタニーの「ヌヴォーレアリスム」第一宣言は、アポリネールの「新精神(エスプリ・ヌヴォー)」の延長で考えるべきであろう。


 閑話休題、アポリネールは、デュシャンの数点の油彩画作品からこのようなことを見ぬき、あのような予言をしたとおもわれるが、ブルトンはその予言を、意図的に、ちがったようにうけとっている。ブルトンはたえず、アポリネールのシュルレアリスムは、「文字だけであって、注目に値する理論的視野がない」と、じぶんたちのシュルレアリスムとの相違を執拗に、かつ断定的にかたっているからである。

(注.『シュルレアリスム宣言』における評価もまたそうである.)


 ブルトンは、デュシャンにたいするこの「予言」を、ことに 「芸術と大衆の和解」をどのように解したのだろうか。

 かれは、評論『マルセル・デュシャン』の最後で、つぎのようにのべ、デュシャンの位置を定めている。デュシャン評価であるが、間接的には、かれがこの時期には好ましいとしていた「芸術と大衆の和解」をどのようにみていたかを憶測させるものがある。


 これからありそうなことを考慮していえば、わたしたちはこの軽蔑に注意を向けておけばよいかと思われる。/それには、デュシャンが、もうすぐかれの人生の十年間を捧げることになるガラスの作品(タブロー)、これは知られざる傑作ではなく、完成するまえからすでに、最大級の伝説と化して大騒ぎになっている、あのガラスの作品の例を出してくるか、あるいは、特殊な検討を要する、ローズ・セラヴィーと署名されたあの奇妙な「ことば遊び」のなにがしかを思いだせば十分であろう。

衛生学上の内密の助言 ─ 

 剣の髄(la moelle de l’épée)を、愛する女(ひと)の毛(le poil de l’aimée)のなかにつぎこまねばならない。(Il faut mettre la moelle de l’épée dans le poil de l’aimée.)  

 マルセル・デュシャンにとって、芸術と生活(人生)の問題は、現在私たちを分裂させそうな他のすべての問題と同じく、問題とはならないものである


 デュシャン論の最後の結論は、「デュシャンにとって、芸術と生活(人生)の問題は、問題とはなっていない」ということである。

 「芸術と生活(人生)の問題」が、なにをさすものなのか、「問題にならない(問われていない)」は、どのような態度を意味するかは、よく見きわめねばならない。

 そのためにはまず、なぜ、「デュシャンにとって、芸術と生活(人生)の問題は、問題とはなっていない」の根拠となる、それにいたるまでを、解釈する必要があろう。


 前提となる、ブルトンが注目している、デュシャンの「軽蔑」とは、なんだろうか。それはこの直前に記されているのだが、ブルトンが想定する、デュシャンが体現する「命題への軽蔑(dédain de la thèse)」である。 命題とは、いかにも大げさな用語をもちだしたものであるが、たくされた意味は、かなりあいまいで伸縮自在である。しかし、デュシャンにはこの「命題への軽蔑」があるからこそ、「デュシャンは、芸術と生活(人生)の問題を、問題としていない」と、ブルトンは判断するのだから、あいまいであってもやはり問いつめておかねばならない。

 伸縮自在とはこのようなことだ。

 この語がはじめてつかわれている 「マルセル・デュシャンの強みとなっている力を生みだしているもの、つまりそのおかげで彼が一連の命取りの修羅場から生きて戻ることができたものは、何をおいても、彼の命題への軽蔑(dédain de la thèse)であって、(それは、才能に恵まれない連中にはつねに意外な思いをさせることになろう)」((   )は筆者) から判断すると、命題はつぎのようなものになる。まず、「命取りの修羅場」から憶測すると、流派(エコール)的芸術の「命題」である。というのは、デュシャンは芸術活動をはじめるにあたり、兄たちが設立していたキュビスム分離派の「セクション・ドール」グループに参加していたが、グループの芸術信条にしたがわず離脱し、レディーメイドに興じ、また、単身、ニューヨクへ移住したことは、すでに本稿でも記したところである。また、その後には、パリやニューヨークで、アヴァンギャルドのかなり限定された範囲ではあったが、「ダダ」が注目されるようになり、かれ自身がダダイストと評価されるようになっても、けっしてダダ集会などにくわわることなく超然としていたことなどをさすのであろう。それいがいにも、「動き」の芸術を主張したイタリア未来派などにもくみこまれかけたかもしれない。つまり、かれの芸術活動は、キュビスム的、ダダ的、あるいは最初期では、セザンヌ風でもありながら、賞賛されることがあっても、それらに拘束されることなく、突如としてまったくことなる芸術態度をとり、「レディーメイド」などの制作にはげむのであった。

 いっぽう、ブルトンのこの命題への軽蔑では、もっと本源的な、芸術それ自体への軽蔑があると、したかったのかもしれない。というのは、デュシャンの「命題への軽蔑」をかたる直前で、セミプロ的チェス・プレーヤーとしてのデュシャンに注目し、つぎのようにのべているからである。


私が知っているかぎりでは、デュシャンはもはやチェスをやる以外のことをほとんどしていないが、彼としては、このゲームにおいて、いつか達人のわざを示せばそれでいいのかもしれない。彼はしたがって、知的にはどっちつかずの立場をとっていることにもなろう。つまり、もしそう言ってよければ、彼はひとりの芸術家として、いや、まぁ、芸術家ということでは、そうする以外にしかたなかったから、ほとんど生産しなかったひとりの男としてみなされることに、いちおうは同意しているわけでもある。このようにして、彼は、われわれもまた立ちもどるかもしれないあの既成表現における恐喝的リリスム(lyrisme-chantage)から、われわれを解放して、大多数のものにとって、一つの象徴的位置にいることになろう。(下線は原文がイタリック.)


 ブルトンが、これらで言いたかったのは、デュシャンはひとがいう「芸術」なるものをバカにしているということである。しかし他方では、「そうする以外にしかたなかったから、ほとんど生産しなかったひとりの男(芸術家)」にある、強調のイタリック表現された文言や用語「生産(produire)」などから、ブルトンの「芸術」なるものには、(作品)の質とともにが、先験的にかれの想念にはふくまれていることに留意しておかねばならない。芸術家の作品への製品的視点である。製品は量がなければ成立しないからである。

 とすると、ここでいわれる「命題」とは、ブルトンのおもう芸術らしい芸術のことらしい。が、それでもなお、なぜ「thèse(主張、説、命題、学位論文、措定、定理)」なるご大層な用語をもちいたかは、まだわからない。読者、あるいは、仲間たちに、「察してちょうだい」といいたいのは、命題とは権威のことで、流派的や芸術的権威への軽蔑ということかもしれない。だが、それならば、流派や「芸術」は技法あっての流派、「芸術」であるのだから、技法への軽蔑になるのだろうか。ブルトンらがはじめようとするシュルレアリスムは、オートマティスム(自動記述)や夢遊状態の記録の実験をくりかえして確かめているのだから、やはりこれも、あきらかにひとつの技法である。いや、「これは芸術技法ではない」という弁明もあるかもしれないが、それならばそれで、もうすこし、そのあたりのことをあきらかにしてもらいたい。はたして、かれ自身それらを区分したうえで、「命題への軽蔑」としたのかどうかわからない。あるいは、これはデュシャンのことであって、シュルレアリスムのことではないのだろうか。

 しかし、とにかくも、そうした「命題」を軽蔑する芸術家であるデュシャンの、ブルトンにならって筆者もすこし派手なことばをつかえば、デュシャンの「生きざま」はこのようなものだというのが、さきに引用したブルトンの結論である。いわば、ブルトンの言には、軽蔑を強調する、自己陶酔がいくばくかあるということである。


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