Avant 2-4-1



’60年代日本の芸術アヴァンギャルド

(目次)

序章

1) 風俗画のアレゴリーとしてみる芸術・文学

2) ’60年代日本社会の位置

     ① 世界の状況

     ② 世界状況のなかの日本


第1章  ’60年代日本の風俗画 

1) ’60年代 三枚の風俗画

2) 「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本・・・・

(以上は『百万遍』2号に掲載)


第2章  「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

1) ’60年代日本の「反芸術」 (その1) 

2) ’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レア

リスム』の場合)

3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』とアンド

レ・ブルトンの「反芸術」

          ・・・・・(以上は『百万遍』4号掲載)



 第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

4) ’60年代日本の「反芸術」(その2)

    

①  評論家の「反芸術」 

 ─東野芳明の「反芸術」とそれをめぐって 


Part 1


 ’60年代日本は、日米安全保障条約改定反対の国会デモにあらわれる「デモ・ゲバ」風俗と、前年の「皇太子結婚パレード」にはじまり大阪万博にいたる、「パレード」風俗によって説明できる。それらふたつの風俗は、たがいに相容れないが、まじりあい奇妙な混合風俗をみせていた(注.’60年代三つの風俗については拙著「’60年代日本の文芸アヴァンギャルド─ (1)」[『百万遍』2号掲載]を参照)  奇妙なとは、よく確かめねばならないということである。

 ’60年代日本のアヴァンギャルドは、そうした混濁した「デモ・ゲバ」風俗のなかで、反芸術をかかげて展開した。

 「反芸術」があらわれた契機は、1960年、第12回読売アンデパンダン展にさいして、現代芸術評論家の東野芳明が、新聞批評のなかでもちいた用語にある。

 これについては、すでに『百万遍』4号に掲載した 「’60年代日本の『反芸術』(その1)」でのべたとろである(注. 関係するところを本稿の末尾に添付した.)

 この新聞批評で表明されたかれの主張そのものは、あらためて注目すべきものではない。同時代のヨーロッパで表明されたヌーヴォー・レアリスムや、20世紀アヴァンギャルド「反芸術」の最初の発言といえる、ツァラの『ダダ 宣言1918』と同列にあつかえるものではなかった。それらについては、すでにのべたところである。

 しかし、そこであらわれたかれの「反芸術」は、そのときのかれがおもってもいなかった展開を、’60年代日本のアヴァンギャルド芸術界でみせることになる。

 その展開には、おおきなふたつの流れがあり、それらはいずれも、’60年代日本アヴァンギャルドの方向をしめすものであった。

 東野のこの「反芸術」は、「デモ・ゲバ」風俗だけでなく、「パレード」風俗を内包するものであった。

 それは、’60年代日本アヴァンギャルドの問題でもあるから、以下この視点から東野の「反芸術」をみてみることから論をすすめたい。


 まず、「反芸術」の発端となった東野の批評『ガラクタの反芸術』をあらためて、いま一度、読みなおしてみよう。


 日展とか公募団体でいかめしい大家の「芸術」におじぎしながら、実はいささかうんざりぎみの気味のあなたに、ぼくは、いま上野で開かれている読売アンデパンダン展を見ることをおすすめする。そこには重々しい額縁入りの「名作」もなければサロン用のトルソーもない。それどころか、戸板の小屋のなかにワラにはったヌード写真がまつってあったり(糸井貫二)何百本というぼろ竹を威勢よく折り曲げてその間に便器やサンダルや罐(かん)や風船がぶちこんである「カミナリ彫刻」(篠原有司(ママ))が一室を占領していたりする。あなたはこれが「芸術」だろうか、と首をかしげるが、安心してよろしい。これは決して「芸術」ではなく、いってみれば反芸術なのだから。しかし博物館の硝子箱のなかにちんとおさまって、あなたの今日の生活とはなんの関係もない「芸術品」よりも、はるかに直接あなたの心を打つではないか。

 このような反絵画、反彫刻といった傾向が今年あたり、はっきりと若い世代の間に、全く自然な(原文傍点)形で根をおろしているのは面白い。戦争中小学生であったある詩人が、カラッポの動物園のオリとか焼けトタンが唯一の自分のオモチャだった、といったが、そんなガラクタにみちた戦後の廃墟から、ようやく、新しい素材を自然に大胆に使う作家が伸びてきたのだ。ほかに田中信太郎、金子鶴三、荒川修作らが目についたが、工藤哲巳をここではその代表的なホープとしてあげよう。赤や白や黄のビニールひもを次々に結びあわせて、タワシにからませてあるこの作品。もっとも卑俗な物体が、ここで、なんという明快な形而上学の世界に転化されていることだろう。ガラクタの廃墟から根生えた強烈な観念の世界 ━ これが最初の本当の戦後派というものだ。 (「ガラクタの反芸術」  読売アンデパンダン展から①  「増殖性連鎖反応(B)」 [読売新聞夕刊・東京版/1960年3月2日])(注. 下線は筆者.)

 

 のべられているのは、「反芸術」の「反~ 」に、なにをたくしているかは傍(わき)におくとして、「ヌーヴォー・レアリスム」でレスタニーが、あたらしい時代にはあたらしい芸術があるといったように、あたらしい環境にはあたらしい芸術があるということである。そして、戦後の「ガラクタの廃墟」がそのあたらしい環境であり、その焼け跡の廃墟にみつけた素材を自然に大胆に媒体とした あたらしい芸術が、「ガラクタの反芸術」ということになる。

 しかし、東野には、レスタニーや、「ふたたび廃墟になったヒロシマ」に建築原点をみた磯崎新のように、この素材をみいだしたあたらしい環境の廃墟に、「白紙還元」からみる視点がどこまであったのかはわからない(注.第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」 1) ’60年代日本の「反芸術」 (その1)、 2)’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合)[『百万遍』4号掲載]を参照)

 東野、磯崎をふくめて、ここに列挙された工藤哲巳、篠原有司男、糸井貫二、田中信太郎、金子鶴三、そして、荒川修作ら、 当時20歳から35歳までの世代のほとんどは、焼け跡の廃墟に楽園をみいだしたものたちであった。

 かれらはいずれも、1945年8月15日の敗戦の日は、10歳から20歳であって、焼け跡に秩序の廃墟と無力をみた「原体験」の日であった。彼らは、突如としてその日、それまで知らなかったような不安と解放を体験し、そこにあった禁断の「快感」をわすれがたいものとした。廃墟に楽園をみたのである。ガラクタ芸術、ボロ芸術にそうした原体験の反映をみいだしたかもしれないのは、東野だけではない。東野の一歳年下である磯崎新の高校同級生であり、赤瀬川原平の兄である赤瀬川隼は、つぎのような証言をのこしている。


 世界的に60年代前衛芸術にボロ芸術(ジャンク・アート)が発祥した動機には、そのころはじまった大量消費社会があるだけでなく、60年代の近過去の「思い出のなか」にある、第2次世界大戦で生じた戦火の廃墟がある。その廃墟は、当時小学生から中学生であった世代にとっては、ある意味では楽園であった。国家秩序も経済体制も破綻し、すべてのひとが、食べるもの着ること住むところにおいて貧しく、「貧しさ」の平等が実現していた。(赤瀬川隼『映画館を出ると焼跡だった』)

 

 親たちの支配はゆるく、街中どこも空爆の廃墟で、どの廃屋にでももぐりこむことができ、レンガの壁を壊しても、焼けただれた拳銃を拾っても、焼跡の銭湯のタイルをはがして盗んでも、叱られることはなかった。そうした楽園を体験した世代が60年代では30歳台になり、芸術の創造者や思想家となったのである。

 だが、東野は、「ガラクタにみちた戦後の廃墟」に、そのような楽園をみたのだろうか。その原体験が、意識下で、解放の廃墟に通底し、かれの「芸術」をいわせたとすることができるかもしれない。

 しかし、かならずしも、そうとはいえないものもある。焼け跡の廃墟にある焼けトタンとかカラッポの動物園のオリ、焼け缶などなどと、新品のタワシや赤や白や黄色のビニールひもは、おなじではない。それらは、焼け跡の楽園とは無縁のものである。たしかに、あたらしい環境にみいだされたあたらしい素材ではあるが、あたらしい環境はかならずしも「廃墟」であるひつようはない。

 じじつ、東野は、「’60年代日本の「反芸術」(その1)」でも引用した 針生、江原との「座談会」)では、つぎのように発言している。


戦後派は、あっけらかんとして、口笛を吹くだけだ。そういうカラッとしたところが大切だ。焼跡が遊び場だった世代ね。原爆が美しい花火で焼跡がおもちゃだったというような連中、たとえば僕なんか自身でも、焼けトタン、焼け缶などでけっこう遊んでいたんだ。画面にやたら何でもはりつけるのを、ハッタリズムなんていって茶化すけど、僕は、一方には、こういう世代の物質感がそこにあらわれているとも思う。( 「『反絵画・反彫刻・反批評』 ~ 二つのアンデパンダン展の問題点をめぐって ~」『みずえ』[1960年春号])


 東野の廃墟は、「廃墟」には廃墟の楽しみがあるということに集約される、たんにあたらしい環境にすぎないようにおもわれる。廃墟をもたらした原爆も美しい花火であるとし、焼け跡をおもちゃとみるような、見方である。

 東野は廃墟を、生活環境としてみるのではなく、芸術素材(媒体)としてみるのである。

 そして、いいかえれば、原爆焼け跡も、あたらしい芸術素材とするような芸術観である。「ガラクタの反芸術」であるということである。

  東野は、ダダの「反芸術」とはなんの関係もない、自分のいった「ガラクタの反芸術」を説明し、日本の「反芸術」について、先の『みずえ』の座談会の発言につづけて、『芸術新潮』(1960年5月号)で、つぎのように書いている。


 最近、「反芸術」という言葉がはやっているといわれる。へえー、といったら相手に、火付け役は君だぜといわれて驚いた。ある新聞に、ぼくが読売アンデパンダンの工藤哲巳の作品を「ガラクタの反芸術」と名付けたことがきっかけになっている、という。・・・・・・・・ ひとがどう受け取っているか、まあ、想像はつく。たとえば岡本謙次郎氏はぼくのその論文について、日展にタイクツしたからといって、読売アンパンのダダ的なものにうつつをぬかすのは、たいくつをまぎらわせて 次から次へ移るだけで本当に古いものと新しいものが、「ただしあう」ことがない、と説教して下さる。アンチ・タブローという言葉もただの流行にすぎない、とすこぶる正しい明察を下される。・・・・・・・ 針生一郎氏は、対象を見失ったわめき声にすぎないと断じ、これも季節の移り変わりだ、と慨嘆される。

 ぼくは、たとえば工藤哲巳という作家個人に、卑俗な物体と強烈な観念とを合体させた不思議なメタフィジックを発見したことを報告しているだけで、なにもかもひっくるめて、こんな流行がいい、などとは言っていない。ぼくには、個人しか興味がないのであって、それに必ず伴う流行は、勝手にしゃがれである。

 それよりも、ひよっとあらわれた「反芸術」という言葉をきっかけにあらわれた、たとえば右の三氏(注.岡本、瀬木慎一、針生)の態度に、日本の批評家の典型的な取りすましの姿勢がみてとれたのは収穫である。つまり、批評家として手を汚すまい、との自衛本能が、案外に、ひよっとしたらそこから、本当に「ただしあった」新しい芽が、いますでに「起きている」かもしれないことを見逃してしまい、ただ否定さえしていれば自分は安全である、という心理だ。しかし、それを「季節の移り変わり」にとどめをさせずに根を下ろさせるのこそ、安全地帯から飛び出した批評家の活動ではなかろうか。

 

 東野の「反芸術」発言の意図と、ある種の弁明は、〈ぼくは、たとえば工藤哲巳という作家個人に、卑俗な物体と強烈な観念とを合体させた不思議なメタフィジックを発見したことを報告しているだけで、なにもかもひっくるめて、こんな流行がいい、などとは言っていない。ぼくには、個人しか興味がないのであって、それに必ず伴う流行は、勝手にしゃがれである〉の三行に言いつくされているであろう。日常的に使用される既製品を素材、つまり、芸術媒体として、不思議なメタフィジックを発する芸術発見した報告にすぎない、ということであった。

 この主張自体は、理論的には、レスタニーでも、ヌーヴォー・レアリスム第二宣言でけっきょくそうなったように、デュシャンのレディーメイドに帰結する見方であって、当時としてもさほど注目すべきものではない。もっとも、デュシャンは、けっして原爆を美しい花火とはしなかったであろうし、なお、東野はデュシャンに関心があったらしく、のちに浩瀚なデュシャン論を書いていることは付言しておく。

 つまり、かれの言い分は、芸術論として書いたのではないのに、このようにあつかわれていることへの困惑である。

 しかし、「反芸術」にたいする批評家へむけられた反駁には、’60年代日本アヴァンギャルドの「反芸術」を検討するうえで、興味深い発言がある。

 当時の現代芸術批評家たちが、「反芸術」をどのようにみていたかである。

 ここにあげられている批評家の主張は、岡本謙次郎の「反芸術」を反既成芸術批判とみる「アンチ・タブロー」理解と、東野の推奨する「ガラクタの反芸術」などは、「対象を見失ったわめき声」で、たんなる過渡的なものにすぎないという、「針生一郎」だけが、やや具体的にだされているだけである。しかし、引用した東野の口ぶりによると、東野の「反芸術」はたちどころに、かなりの物議を芸術界にかもしたようだが、ここでは、評論家たちがどのようにこれら「反芸術」をみていたかを確認しておかねばならない。

 現代美術評論家ではなく、とくにアヴァンギャルド芸術に関心があったとはおもえない、岡本謙次郎はべつとして、東野とは正面から意見が対立する針生一郎、また、ダダ 、シュルレアリスムという20世紀アヴァンギャルドに、東野よりはるかに長いあいだかかわり、知識も豊富であり、これらの「反芸術」的性格に共感していた瀧口修造の、「東野・反芸術」への評価をまずみておかねばならない。

 針生一郎の「対象を見失ったわめき声にすぎない」というのは、これらの作品に、作家の制作の内的必然性がみえてこないこと、作家の「ゴキゲンぶり」が眼にあまることを、針生はいっているのであろう。

 かれは、その翌年であるが、「危機のなかにある前衛群」という評論を書き、東野的な「あたらしい芸術」ではなく、ダダ的、反抗をする芸術としてのアヴァンギャルド像にたくして、これら「ガラクタの反芸術」への危惧をしめしている。関係するところ引用する。


 昨年あたりから、《反絵画、反彫刻》 あるいは 《ネオ・ダダイズム》 の旗印のもとにめだってきた一連の傾向について、わたしは何ども懐疑的な意見をのべてきた。こういう運動がおこる必然と、そこにひそむ可能性を否定するわけではないが、作品としてわたしをなっとくさせるものは少ない。かれらはたぶん、作品としての「完成」など嘲笑して、激烈な破壊の衝動に身をゆだねようとするのだろうが、かれらじしんあまりにもご機嫌なのが、わたしにはつきあいかねるのだ。むろん、《ネオ・ダダイスト・グループ》には、芸術青年のあつまりである《具体》グループなどにくらべて、ひとつの社会現象、ひとつのスキャンダルであることに徹底する決意があって、そこにわたしは大きな興味をいだく。だが、社会現象である以上、かれらの運命は彼ら自身で結着するまでほっておけ、という気持がわたしにはつよい。(『美術手帖』1961年1月号) 

 

 ここで針生が言外に対照基準においている「反芸術」は、東野的な「あたらしい芸術」ではない。ダダ的な反抗をする芸術を暗黙の前提にした議論だとおもわれる。

 そこには、とうじ30歳、終戦時、15歳であった少年の東野と、20歳の青年で終戦を体験し、このとき35歳であった針生との、経歴のちがいが、「反芸術」ということばにたいする、受けとり方の相違にあるだろう。

 針生は戦後、東北大学文学部から東京大学大学院で美学をまなんだが、戦時中、軍国少年であったことへの反省から、日本共産党へ入党し、文化活動に従事したが、「六全教」後の「60年安保」にたいする党の方針を批判して、離反した現代芸術評論家である。

 したがって、現代芸術プロパーの評論家より、政治的、思想的傾向がつよい批評家といえよう。そのことは、ここでもかれが、これから指摘するように、「反絵画・反彫刻」とはいうが、けっして「反芸術」とはいわないことにあらわれているとおもわれる。しかしまた一方では、かれはけっして思想的うらづけのない発言はしないであろう。

 いかは、そのような見地から、かれのこの発言をよんでみる。

 かれは、《反絵画、反彫刻》や《ネオ・ダダイズム》の旗印をかかげた作品に「わたしはなっとくしない」 という。そして、なっとくしない根拠は、「かれらじしんあまりにもご機嫌なのが、わたしはつきあいかねる」からである。

 これは感情をあらわす会話的表現であって、針生自身でどこまで正確な内容を意識してのべているのかわからない。しかし、「なっとくしない」、つまり、あきらかな否定ではないが、信用しないという判断は、確信であろう。さらにいえば、東野やそのほか、ジャーナリズムをふくめての芸術界の肯定的評価に、同意しないということである。とすると、針生がその根拠をどこにおくかをよく見きわめることが、針生の、「反芸術」にたいする思想をしることになるだろう。

 それには、まず、かれらがゴキゲンなのは芸術家としゴキゲンなのか、人間としてゴキゲンなのかが問題となる。また、その人間も、あるべき人間か、生活者としての人間かで視点の相異がうまれる。また、ゴキゲンにたくする意味も、満足しているとするか楽しんでいるとするかの、微妙な焦点のズレがある。

 おそらくこれらは、針生のこれを記したときの意識では、たがいにかさなりあうところがあるのだろう。

 だが、これらの相異は、針生の思想としては、峻別されているものであって、あらためてかれにたずねたら、どちらでもよいとは云わないはずである。

 おそらく、針生の非難するのは、芸術家としてのゴキゲンぶりである。なぜなら、かれはさきにも指摘したように、《反絵画・反彫刻》とはいうが、「反芸術」とはいわず、また、「わたしをなっとくさせる作品」を問題としているからである。

 「反芸術」は芸術家自体と共存しない概念である。「反芸術」は芸術家が問題にできるのではなく、人間が提起する問題である。あるべき人間がかたる「反芸術」は、芸術を外からみているのであり、生活者がいうひとつの「反芸術」は、芸術家が廃業をいうとき問題になる。 

 とすると、「かれらじしん、(芸術家として、)あまりにもゴキゲン」で、針生がいいたいのは、なにをさすのだろうか。

 かれらが芸術家として、あのような作品、ひとつには、たとえば東野が「ガラクタの反芸術」で紹介したような作品で、満足している楽しんでいることへの不満である。極端にいえば、まるで高名な画家や彫刻家、あるいは名工が、作品を仕上げ、出展するように、あのような作品を、美術館に陳列し、観客をおどろかせ、新聞でセンセーショナルにあつかわれ、悦にいっているようにみえる、というようなことであろう。

 また、「作品としてわたしをなっとくさるものは少ない」からよういに推測できるように、かれらが、なぜ、このような作品を制作するにいたったかの必然性や、それへの執着、そしてむかう方向がわからないという不満もあろう。そしてその不満の根底には、おそらく、さきの東野が無意識か意識的か、デュシャンのレディーメイドを暗示して由しとしたように、なんらかの先例を推測できるものが多々あるということがあろう。

 「もっとも卑俗な物体が、ここで、なんという明快な形而上学の世界に転化されていることだろう。ガラクタの廃墟から根生えた強烈な観念の世界 ─ これが本当の戦後派の(芸術)というものだ」とはいうが、彫刻とも絵画ともいえぬ 工藤の「増殖性連鎖反応」をはじめとして東野があげたような作品、あるいは《反絵画・反彫刻》といわれる作品ひとつひとつに、どこまで必然的な独自性があるのかということである。

 当時すでに、20世紀第一次アヴァンギャルドのデュシャンのレディーメイドや、クルト・シュヴィッタースの、平面に日常的に使用される物品をはりつけた一連のメルツ作品は、ヨーロッパやアメリカのアヴァンギャルド芸術界ではひろく知られ、また、影響をあたえていた。

 おなじく、ピカソのキュビスム時代のオブジェ・コラージュは、前稿「ヌーヴォー・レアリスム」で紹介したセザールはこれを継承して、一群の廃棄物彫刻をさまざな形態で制作し、すでにパリの芸術界で注目されていた。そして、この延長上で制作された、かれのコンプレッサー彫刻は、1960年からである。

 また、アメリカのネオ・ダダでは、ラウンシェンバーグは、はやくも1954年ごろから、コンバイン・ペインティング(二次元の平面に日用品、廃品、写真、絵画の複製などを貼り付けたもの)を開始し、レオ・カステリー画廊で個展をひらき(1958年)、また、ドクメンタⅡやパリ・ビエンナーレ、ニューヨーク近代美術館の「16人のアメリカ人画家」展などに出品し(1959年)、知る人ぞ知るといった芸術的衝撃をあたえていた。ジャスパージョンズも、すでに「四つの顔のある標的」など、絵画とも彫刻ともつかぬ作品を制作(1954年)し、これらを出品した個展を1958年にはカステリ画廊で開催し、「標的」は『アート・ニューズ』誌の表紙となり、ニューヨーク近代美術館に買いあげられていた。カステリ画廊で個展がひらかれたということは、ひとまず画廊作品として承認されたということである(注.第2章 2節 「’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合)」[『百万遍』第4号]、および、拙著 「戦後政治体制と現代芸術」[『百万遍』第2号]を参照.)


 芸術・文学情報伝達の迅速さは驚くべきものがある。そのうえ、1950年代後半になると、日本とヨーロッパ、アメリカの直接的芸術交流も、わずかながらはじまっていた。1957年の、アンフォルメルの推奨者タピエの来日と、具体芸術グループの交流は有名である。(注.同上書参照)  それいがいにも、ジョルジュ・マチューやサム・フランシス、ついで、フォートリエが1959年に来日し、個展をひらいている。かれは、そのとき、『楢山節考』を刊行していた深沢七郎に会いにいき、深沢のギター演奏による「楢山節」弾き語りをきき、ことばをかわしたという。

 そして日本側からも、渡欧、渡米するものが出はじめた。今井俊満は50年代前半からパリに居をさだめて、みずからの制作にはげむとともに、日本への情報伝達役をつとめている。

 いっぽう当時の現代芸術評論家は、そうしたヨーロッパ、アメリカの現代芸術の動向に敏感に反応することによって、知識を強化し、芸術思想をやしない、批評の基礎をかため、視野を拡大していったとおもわれる。現代芸術批評のご三家といわれれた、かれら針生、中原、東野の三人はいずれも欧米語に堪能で、のちにはちょくせつ出向くことになるが、当時はもっぱらアンテナを張りめぐらせ、間接、直接に情報収集につとめていた。中原はシュルレアリスムやロシア・アヴァンギャルドに親しくせっし、東野はアメリカ芸術の動向に精通していた。

 そうしたなかで、針生がこれら「ガラクタの反芸術」の素性について、感づかぬはずはなく、日本のこれら作品をなんらかの先入観をもってながめていたとおもわれる。

 そうした目でみるとき、これらの作品は、あまりにもその場かぎりの単発的であり、一貫性を欠き、針生のおもう芸術家の作品としては、疑わしいものにみえたことだろう。

 だが、疑わしいということは、明確な確信まで構築できないことである。なぜなら、とうじの針生自身がもっているヨーロッパ、アメリカの作品情報は、あくまで情報であって、作品の直接体験ではないからである。そのころのかれは、すでにゆるぎない名声をきずいていたデュシャンのレディーメイドにせよ、シュヴィッタースのメルツにせよ、それら作品の一点さえ、じかに鑑賞したことはなかったであろう。ましてや、廃棄物彫刻やコンバイン・ペインティングなどなどについても、写真映像さえみたかどうかはあやしく、仄聞にたぐいするところにとどまっていたのではなかろうか。おそらく、そのことが、かれの判定に、ひそかな確信があっても、きみょうな歯ぎれのわるさがあらわれているところである。

 しかしながら、他方、おなじ情報のふたしかさが、実作者であるこれら芸術家らにとっては、ぎゃくに有利に作用する。うわさ話が、想像力によって吸収され、芸術的霊感(インスピレーション)のヒラメキとなる。かれらの制作衝動、作品の動機を、確信的なものとする。芸術創造においては、いかなる独創的創造も、無から有がうまれることはなく、なんらかの影響から、それを発展あるいは完成させたものだといわれる。20世紀初頭のモンマルトルやモンパルナスの若い画家たちのあいだでは、「ピカソをアトリエにいれるな」が合言葉だったという。ひとめ制作中の作品をかれに見られたら、翌日はもっと完成したものをピカソは仕上げている、ということである。

 そうした剽窃か、創造かの実例は、’60年代日本アヴァンギャルドのいたるところにあるが、それについてはのちにのべることになろう。

 ただ、ここで指摘しておきたいのは、そうしたインスピレーションに背中をおされて創造された作品は、見極めがたいことであり、芸術家のその後の作品との関連においてしか判断できないということである。

 それと関連したかどうかはわからないが、この直後、これら「反絵画・反彫刻」の芸術家たちは、アメリカやフランスへ移住していった。つぎのような、東野のいう「ガラクタの反芸術」のアヴァンギャルディストらである。

 「ガラクタの反芸術」の第一の当事者、工藤哲巳は翌年の1962年、パリに活動の拠点をうつし、ネオ・ダダ・ジャパンの吉村益信(1962年8月末)、荒川修作(1961年12月)、篠原有司男(1969年5月)らは、ニューヨークへ移住した。

 これは、1961年の段階における針生の、かれらの作品への不信感を保証するものか、そうでないかはわからない。

 しかし、いずれにしても、針生は、かれらの作品に、芸術家としてのやむにやまれぬ創造の必然性よりも、なんらかの「権威」介入のけはいを察知し、それに敏感に反応したのではないかとおもわれる。「反芸術」に逆行する傾向である。それが、「かれらじしんあまりにもご機嫌なのが、わたしにはつきあいかねる」という心情の根底によこたわっている、かれの思想であろう。

 とはいえ、針生は、彼らの作品については「なっとくさせるものは少ない」といいながら、「《ネオ・ダダイスト・グループ》には、ひとつの社会現象、ひとつのスキャンダルであることに徹底する決意があって、そこにわたしは大きな興味をいだく」と、見方によっては、「反芸術」的なものへの関心をしめしている。この《ネオ・ダダイスト・グループ》のスキャンダルというのは、1960年に結成された「ネオ・ダダ・ジャパン」のメンバーである吉村益信や篠原有司男、荒川修作、赤瀬川原平らの「殺打駄氏の応接室」とかボクシング・ペインティング、「1.2.3.4.・・・・どうしてかな」、「ヴァギナのシーツ」などの作品をさすのではないだろう。おそらく、かれらのネオ・ダダ展にさいしておこなわれた、パフォーマンスや街頭行進、あるいは、鎌倉の材木座海岸で演じたビーチ・ショーなどを念頭におく発言ときくべきであろう。

 かれらの第一回グループ展である、1960年4月に銀座画廊で開催された「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展」のオープニングの情景を、メンバーのひとり篠原有司男の記述から紹介してみよう。


 アンパン(注. 第12回読売アンデパンダン展 3月1日~3月16日)の余勢をかって、一ヶ月とたたない四月四日、銀座画廊に開花した毒茸、グループ「ネオダダイズム・オルガナイザー」第一回展は、各自アンパンに金をつかいはたしたのが、かえって幸いし、反芸術にふさわしく、まともに作品の形をしたのは一点もなかった。

 「ギャオー」

 狂人じみた石橋(別人)の悲鳴が会場に響く。とたんに、金だらい、やかん、ストーブが変形するまでメチャクチャにたたかれる。会場に流す音楽を録音中なのだ。徹夜で飾りつけの朝、早くもさし入れのウィスキーをあおった連中が控室に集まり、ありとあらゆる音を、片っぱしから吹き込んで行く。水を張ったバケツに顔を突込んでボコボコやっていた風倉(匠)が急に、

 「戦争だ戦争だ、第三次世界大戦だ!」

 とわめきだした。それにつれて打楽器がいっせいにはげしく鳴る。その中で赤瀬川(原平)が冷静にマニフェストの一部を読み上げる。

 ビールびんが割られ、椅子がけ倒される。吉村(益信)が唐手で、もぎ取られた椅子の脚を一発でたたき折る。

 「バキ!」

 小さん以来のつきあいである東京放送教養部の志賀史郎さんが、「現代の若者」という番組のため横からこれを録音している。

 「くせえ、おかしいぞ。」「しまったもう腐りやがる。」

 上田純が昨夜仕込んだ、とうふの上にもやしをのせプラスチックの箱に入れた作品がたまらない臭気を発しはじめた。ビニールに水を入れた荒川(修作)、三十個の割ったコップが壁から突出している赤瀬川の作品、三百個のゴム風船で構成した「ごきげんな四次元」と題するぼく(篠原)、朝の甲州街道で八分間、ケント紙を車にひかせたタイヤの跡だけの石橋、ちょうどそこへ日本衛生学校出身の三木富雄がバリカンを持って現れ、騒いでいる石橋のボサボサの汚い頭をきれいに坊主にしてしまった。(篠原有司男『前衛の道』[1968年])


 ここにあるのは、あきらかに針生のいう「社会現象、ひとつのスキャンダルに徹する決意」であろう。これらのオープニングの狂乱は、屋外にむけて拡声器で発信され、また、本文にも書かれているように、録音して会期中、会場でBGMとして使用したものである。

 そればかりか、これもまた書かれているように、開局して数年しかたっていない民間テレビ局が取材にきている。

 おなじようなことはほかの企画でもあった。鎌倉の安養院と材木座海岸でおこなった 「ビーチ・ショウ」は、吉村がTBSのディレクターと交渉して、取材費のなかから資金をえたという。

 そしてなされたのは、寺の境内で水着の岸本清子を大きな紙の前に立たせ、絵具を投げつけ、まわりで多りょうの花火を点火する。材木座海岸では、素っ裸の風倉匠をビニールでくるみ、海に投じる。風倉は溺れそうになりながら海草を巻いてあがってくる。あるいは寺の本堂で酒を飲み木魚を叩き踊りくるう、といったものであった。そしてこれは、TBSで番組としてくまれ放映さた。これらいがいにも、吉村のアトリエであり、グループの集会場であった通称「革命のホワイトハウス」で、土曜日ごとに開かれたワイルド・パーティには、週刊誌のカメラマンが集まり、「マスコミずれした(彼らは)、カメラの前でショッキングなラブシーンを次々と演じる」ことさえやってみせたという(注.同書 pp.60)

 うたがいもなくたしかにこれらには、社会現象としての芸術パフォーマンスの性格がある。そして、これらを社会現象のひとつとするからには、この’60年代「デモ・ゲバ」風俗を撹乱し、すこしでも望ましいものにしているのではないかという期待が、針生の言にはこめられているようにおもえる。これは、60年安保反対のあの国会デモにおいて、あの騒乱と喧噪のなかで、知らん顔して整然と行進していった日本共産党指導のデモ隊を対極においた視座からでたものかもしれない(注.第1章2)「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本」を参照[『百万遍』2号掲載])

 つまり、レスタニーや東野の「あたらしい時代(社会現象)にはあたらしい芸術を」、という観点からではなく、人間として、生活者として、にちかい(芸術)行為とみて、「大きな興味をいだいている」のだろう。だから、「かれらの運命は彼ら自身で結着するまでほっておけ」という結論になるのであろう。

 云いかえれば、このような行為は、生活者としての芸術に、はたしてなりうるかどうか、の問題でもある。針生の言の内包するものは、とうじはじまったばかりのパフォーマンスやイベント(芸術)への根幹的問いにもつうじるものがある。たしかに、パフォーマンスやイベントといわれる芸術行為は、’60年代のそれらがもっとも精彩をはなつものであった。’80年代、’90年代となると、かつての拡散するエネルギーが変質し、期日と場所をあらかじめ定め、閉ざされた環境内の音楽イベントやテレビのお笑い番組と化していったようにおもわれる。

 たしかに、「かれらの運命は彼ら自身で結着するまでほっておけ」であった。じじつ、ネオ・ダダイスト・グループで、このスキャンダルに徹する決意をみせて参加したメンバーは、吉村にせよ、篠原にせよ、荒川、赤瀬川にせよ、そのご、広義には芸術家を廃業することなく、なんらかのアーティストでありつづけたが、あの’60年代初頭に演じたパフォーマンスをわずかな期間でもつづけたのは、この直後にハイレッド・センターを結成した赤瀬川原平ただひとりに、わずかにその発展したものがみられるだけである。

 そのような見方からすると、言外にのべられた針生のみる「反芸術」は、ひとつの社会現象からうまれたものであって、それをどう受けとめていくかが芸術家各人それぞれの将来を決するというのは、評論家としてのひとつの見解である。


 ところで、こうしたややあいまいで、すこし強引な結論をみちびきざるをえない針生の「反芸術」にたいして、瀧口修造はどのようにこの「反芸術」をみていたのだろうか。

 かれは、1960年3月4日の読売新聞(東京版夕刊)に、第12回読売アンデパンダン展についての美術批評「反芸術の波 ─ 読売アンデパンダン展から③」を発表した。東野芳明の「『ガラクタの反芸術』 ─ 読売アンデパンダン展から①」がでてから、二日後である。

 それは、翌日刊行された大阪版夕刊では、「盛りあがる若い世代の力 ─ 読売アンデパンダンの会場から」と、タイトルを変更されていた。そのことは、書かれている内容からみても、また、のちにかれが、東京版のタイトルは不本意であったといっていることからも、第三者、たとえば新聞文化部の担当記者の意見がはいったことが想像できる。東野が「読売アンデパンダン展から①」ではじめてもちいた 「反芸術」が、いかに当時の時流にのり、ジャーナリストにとって、読者の目をひきつける好ましいものにみえたかをあかすものであろう。

 瀧口当人も、じぶんの原稿があらかた書かれた時点ででてきた東野のこの「ガラクタの反芸術」をどこまで読んでいたかわからない。これから紹介していくが、「反芸術」ということばは、形容的に二度つかわれ、論考のさいごに不自然なかたちで書かれているだけである。

 全文をつうじて語られているのは、「盛りあがる若い力」についての、疑義や懸念をふくみながらも肯定的評価である。

 疑義や疑問については、針生の懸念とおなじ方向をしめしているのは、注目しておかねばならないだろう。

 まず、その箇所を掲げてみよう。


 戦後の画壇はどれだけ変わったろうか。変わったといえば、私たちが目の前に見るアンデパンダンの存在そのもの、この不安定な巨船の上にうず巻く若いエネルギーである。表現の自由はどん欲に獲得されたように見える。いわゆる近代芸術はマス・コミによって普及した。「抽象」の形式は初歩言語のように普及したことも変わったといえるだろう。しかし一歩、場外に出れば画壇事情はそれほど変わっていない。つまり芸術家が個となって、場外の社会に立ったときである。

  私が危惧するのは会場芸術だけによる楽天性が支配的になることである。私たちはサロン芸術をいつも口癖のように警戒するが、このような会場のためのショーの効果が盛りあがることの反面に、やはり若い芸術家が展覧会という無償のスペクタクルだけにかけすぎているのではないかということを感じるのである。もちろん私は矛盾している。こんな開放感やエネルギーは、こんな展覧会にしてはじめて実現するのだから、それを否定するどころではない。そしてこの開放感やエネルギーこそ日本の新しい造形芸術をつくる中核の動力になるはずだと思う。それにもかかわらず私は個の凝縮力を最後にたのみとしたい。私はひとつの絵、ひとつの彫刻を見たい。おそらくこの種の展覧会は外国にも類がないだろう。現代の展覧会の大半はよくもあしくも商業的もしくは官製的な演出のもとに動いているといってよい。それだけこの特異な展覧会の特異な存在理由に意味深いものがあるというものだ(「反芸術の波 ─ 読売アンデパンダン展から③」)


 説明の便宜上、関係するところを色別でしめした。赤文字表記は、針生主張とおなじ方向の不安をみせているところである。青文字表記は、針生はふれていないが、とうじのアヴァンギャルドに同意するほとんどの平均的芸術評論家たちがもっていた、いまとなってはいささか楽観的すぎる批評である。そして、比較的に体制的動向には敏感に、そして、果敢に反応した瀧口の言としては、いささか異とすべきところがある。

 ことに、「表現の自由はどん欲に獲得されたように見える。いわゆる近代芸術はマス・コミによって普及した」という評価は、戦前の、かれが、シュルレアリム研究を理由に、憲兵隊に拘引され留置された時代を基準とすれば、そのようにいえるであろう。しかし、戦後社会では、表現の自由とマス・コミの関係は、3年後の読売アンデパンダン展で露呈するような、相殺する関係にあることがあらわになるのだが、かれはそのことをほとんど察知していないようにおもわれる。

 それは、「私たちはサロン芸術をいつも口癖のように警戒する」とのべながらも、読売アンデパンダン展については、「おそらくこの種の展覧会は外国にも類がないだろう」と評価し、「現代の展覧会の大半はよくもあしくも商業的もしくは官製的な演出のもとに動いているといってよい。それだけこの特異な展覧会の特異な存在理由に意味深いものがあるというものだ」と、手放しで礼賛し、むしろ、反芸術盛りあがる若い力を、「アンデパンダン展」との関係でみようとしていることにあらわれている。極論すれば、かれにとって好ましい反芸術的なものを、「アンデパンダン展」の好ましさにむすびつけようとしているようにみえる。

 そのことは、おそらく、瀧口修造が、読売新聞の文化事業部に所属しこの展覧会の責任者であった海藤日出男と親しく、当初からこの企画に関係していたことが、ふかくかかわっているのかもしれないし、また、「読売アンデパンダン展から」というこのシリーズ批評の性格が作用した発言かもしれない。

 だが、指摘しておきたいのは、瀧口が、「展覧会」宣伝をおもいはかってというのではない。おそらく、かれの意識の底にあるのは、アヴァンギャルドのうず巻く若いエネルギーの「盛りあがる若い力」(反芸術)とその「発表機関」の関係の問題であろう。芸術における、「制作」と「作品」と「発表」は不可分の三位一体の関係にある。それは、当時57歳であって、アヴァンギャルド評論家たちのなかでは突出して長年のあいだアヴァンギャルド芸術を体験してきた評論家ならではの視点である。言外的にいっているのは、「反芸術」というが、その三位一体の関係はどのようになっているのかという疑問である。「読売アンデパンダン展」会場で演じられるいじょうは、「反芸術」とはいえ、好むと好まざるにかかわらず、この三位一体をどう考えているのかということである。

 かれの言の核心にあるのは、直接言及しているわけではないが、すくなくともかれの発言のさきにある指摘は、読売アンデパンダン展という一般展覧会と「反芸術」の齟齬という、矛盾的関係であるのはたしかであろう。そして、そのことが、針生の「かれらじしんあまりにもご機嫌なのが、わたしにはつきあいかねる」と 重複する、赤文字表記した前半部の「しかし一歩、場外に出れば画壇事情はそれほど変わっていない。つまり芸術家が個となって、場外の社会に立ったときである。私が危惧するのは会場芸術だけによる楽天性が支配的になることである・・・・」になるのであろう。さらにまた、「それにもかかわらず私は個の凝縮力を最後にたのみとしたい私はひとつの絵、ひとつの彫刻を見たい」という願いは、針生では、「こういう運動がおこる必然と、そこにひそむ可能性を否定するわけではないが、作品としてわたしをなっとくさせるものは少ない」という、露骨な断定となるところであろう。

 しかし、そうした「読売アンデパンダン展」ときりはなした、戦後日本のアヴァンギャルド芸術自体への根幹的疑問のありかについて、この論説の最後にいっそう明確にのべられている。日本アヴァンギャルド芸術がしめす反芸術的傾向のもつ全体的懸念である。のべられているのは、二段にわけて考えるべきであるが、とりあえず結論すべてを掲載する。


 アンフォルメル芸術の影響についで、一種のダダ的ないしは反芸術的傾向が起こっていることは昨年指摘した通りであるが、ことしはいっそうそれがたかまっている。それはいわば抽象とか具象とかの限界を越えて、対象観ぐるみ、できあいの色彩や材質にたいする不信の表明である。━ たとえばアクション・ペインティングの手法はたちどころにアカデミズムになってしまう。書道的タシスムもしかり。四角や三角がたちまちABCの習字帳のようになってしまう。現代は無数の形やパターンや記号の乱造時代である。こうして造形芸術家はたえず物質の混とんのなかに投げこまれている。たしかに目新しい材質の、目新しい応用が私たちの注目をひく作品もかなり多い。しかしそれだけではアクション・ペインティングから四角や三角まで、すべて頭打ちのところへきている。 ・・・・・・・・・・・

 日本の前衛芸術といわれたものの歴史は変則のコースをたどったということは、しばしばいわれた。ダダイズムが自然主義的な告白に終わったとみられたのもその一例である。しかしダダはもっと深刻でしかも明快な運動であるべきはずであった。過去と手を切ることの思想の技術。実際、わが国で近代絵画があまりも絵らしさ(原文傍点)に恋々としてきたのは、近代絵画の系列がいかにマス・コミによって普及した今日でも、そのなかのダダのページが欠になっていたことに一因があるのではないかとさえ思われる。・・・・・・・・・・・・・・

 反芸術 ━ 反絵画、反彫刻などと呼ばれているが、私の実感としてはどこか主観的感情のたんなるはけぐちを求めている、かなり低い表現主義的ふんい気が支配しているように思われる。それも今日の若い世代にとって必然といえばいえないことはないが、私はもっと客観的な思想のうらづけがほしい。思想といえば深刻な表情を連想するが、そんなものではない。物質はもっともっと戦うべき相手である。造形言語はあくまでも既成のものではない。そこで諸君の手のうちを見せてもらいたいと他人事でなく思うのである。こう書いて、私は個人にでなく、集団に話かけているのに気づいている。(下線は筆者.)(「反芸術の波 ━ 読売アンデパンダン展から③」[『読売新聞』東京版夕刊 1960年3月4日]、「盛りあがる若い世代の力 ━ 読売アンデパンダンの会場から」[『読売新聞』大阪版夕刊 1960年3月5日]))


  前段でのべられているのは、解放された戦後日本のアヴァンギャルド芸術への瀧口のみた客観的意見の表明である。それらは、’50年代のアンフォルメルについで、おこっているようにみえる「ダダ的 ないし 反芸術的傾向」についてである。

 それらは、書道的タシスムから抽象表現主義にいたるまで、すべて「頭打ちのところにきている」。ということは、活力をうしない、マンネリズムにおちいり、ファションとなり、あたらしい権威、あたらしいアカデミー芸術になりかけているという懸念である。そして、また、「たしかに目新しい材質の、目新しい応用が私たちの注目をひく作品もかなり多い」が、それとてあきらかな期待がもてるとはいえないということでもある。「目新しい材質の、目新しい応用」がなにをさすものか、日本アヴァンギャルドの作品で具体的にはなにを指すのかわからない。しかし、かれの意図をこえてこれを読めば、たとえば日常物品や廃棄物という素材のあたらしい応用をした作品、たとえば、この時代では、ヌーヴォー・レアリスムのアルマンやティンゲリーの作品のようなものを意味すると考えても、さほど瀧口の文脈と離反しないだろう。とうぜんここには、東野のいう角度からみた「ガラクタの反芸術」もはいる芸術であるだろう。

 とすると、レスタニーがヌーヴォー・レアリスム第二宣言でのべた、ダダの 0(ゼロ)度の「反芸術」から、アンフォルメル、タシスムをへて、ダダより四十度も熱い芸術が、これら新しい芸術だという見方とは、芸術系譜はおなじでありながら、真っ向から対立する評価である(注. 第2章 2節 「’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合)」を参照)そしてこれは、これを書いたときの瀧口自身は、もうとう意識していなかったであろうが、東野の、あたらしい素材のあたらしい芸術という「ガラクタの反芸術」論自体に対立する意見である。

 そして、いかのべられる、それらの根幹にある、日本アヴァンギャルドの問題点の指摘は、針生とも異なる視点からいわれたもので、30年間以上にわたり、日本アヴァンギャルドにふかい関心をもちつづけた実体験をへた、評論家ならでの確信的発言である。その感慨は、「日本の前衛芸術といわれたものの歴史は変則のコースをたどったということは、しばしばいわれた。ダダイズムが自然主義的な告白に終わったとみられたのもその一例である。しかしダダはもっと深刻でしかも明快な運動であるべきはずであった」に凝縮してこめられている。戦前をふくめての日本アヴァンギャルドには、20世紀ダダイズムの真の理解が欠如しているということである。日本のダダイズムは、「自然主義的な告白」におわっているということでもある。

 ここで瀧口の念頭にある、自然主義的な告白におわっているダダイズム がどのような具体的イメージによってのべられているのかわからない。それが、柳瀬正夢や村山知義らMAVOグループらを祖とする 芸術系譜にかぎられるのか、辻潤や高橋新吉ら文学レベルを包括するのかもわからない。しかし、いずれにしても、日本ダダイズムが、自然主義的告白に終わっていたということは、いまとなっても納得できる指摘である。たとえば、田山花袋の『蒲団』が、1907年(明治40年)の日本社会でなされたあの性愛の告白を文学作品としたものであったのは、1960年のネオ・ダダイズムのメンバーが、反抗の告白で展覧会を構成しているのとどこか似かよったものがある。

 瀧口は、いかに社会的に衝撃的な告白であっても、「ダダはもっと深刻でしかも明快な運動であった」という。深刻で明快とは、思想的運動であったということであろう。文学、芸術のカテゴリーをこえた思想性にうらずけられていることであろう。

 かれのおもうダダ は、「過去と手を切ることの思想のアート(技術)」運動である。

 とすると、かれののべてきたことをつなぎあわせると、過去と手を切ることの告白のアート表現ではなく、どのような理由からなぜどのように過去と手を切るかの人間としての思想が凝縮した芸術作品であるべきだということになる。

 思想とは、芸術テクニック以前のものであり、テクニックをつくり、みちびくものである。

 瀧口がいいたいのは、芸術は造形言語をもちいた思想であり、思想表現であるべきだということであろう。そのことは、この引用した一連の言説のなかでも、「『抽象』の形式は初歩言語のように普及したことも変わったといえるだろう」とか、ネガティヴな指摘であるが、 「たとえばアクション・ペインティングの手法はたちどころにアカデミズムになってしまう。書道的タシスムもしかり。四角や三角がたちまちABCの習字帳のようになってしまう。現代は無数の形やパターンや記号の乱造時代である」などの言い方にもあらわれているように、個々の芸術ジャンルは表現媒体パターンであって、それらをもちいて表現する個人的思想表現が芸術作品であることになる。芸術作品は、個人的表現である。そのことは、詩は思想表現であるという「象徴詩」について、はやくから西脇順三郎に学び、また、みずから詩人をこころざし、また、詩人であった瀧口の基本的立場であろう。

 あるいは、このことは、芸術作家ではなく詩人でもなかった、東野や、さきの針生でさえ、「私はもっと客観的な思想のうらづけがほしい。思想といえば深刻な表情を連想するが、そんなものではない。物質はもっともっと戦うべき相手である。造形言語はあくまでも既成のものではない。そこで諸君の手のうちを見せてもらいたいと他人事でなく思うのである」とは、けっしていわなかったであろう。かれらは思想家と芸術家をおなじ方向にみることはなかった。

 そして、そうしたことは、瀧口の「反芸術」批判のひとつの核心をつく有効性を示すと同時に、この批判を限定化するものであり、一般性、あるいは発展的展開をさまたげるものとなるであろう。

 芸術作家たちは、反芸術的傾向をもつこれら芸術行為について、瀧口が問題視した視点とまじりあうが、いささかことなる視点からこれらを問題にし、また、その延長がハイレッド・センターの成立にかかわることになった。それについては次項で詳細にのべるつもりであるが、ひとことだけふれておこう。

 二年後の1962年、’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかで、「六全協」いらいの日本共産党の方針に反撥して離反していた、松田政男、山口健二、谷川雁、川仁宏らが、じぶんたち独自の主張の実現をはかるひとつの企画として、自立学校を設立した。その講師には、吉本隆明、埴谷雄高、黒田寛一らが賛同して就任している。

 その特別講師として参加した中西夏之や現代音楽の刀根泰尚、小杉武久らが、おこなった授業が自立学校内部で問題となった。たとえば、中西が開校授業ガイダンスで演じた、卵型オブジェをぶらさげ発煙筒をふりまわして歩くだけの説明会などである。そのときおこったのが、芸術は思想伝達の道具たりうるかという執行部内部の議論であった。

 これは、のちに中西、高松次郎、それに川仁宏、今泉省彦らが討議した、アヴァンギャルド芸術をテーマとする座談会、「直接行動論の兆」で俎上にあげられることになる。結論は、瀧口のように明快ではなく、あいまいで、かたちをなしていなかったが、問題を具体的行為としてさまざまに検討したものであり、そのさきにさまざまな果実をみのらせたものであった。

 この議論は、この「反芸術」自体にもふかくかかわるものであろう。評論家の「反芸術」と芸術作家の「反芸術」は、はたしておなじものをみているのかどうかわからない。これについては、芸術作家のみる「反芸術」の項であらためてのべることにする。

 いまはまだ、すこしだけ、瀧口の、第12回読売アンデパンダン展の作品についての見解をきいておこう。

 瀧口はこれを発表した直後、まだ会期中の時期に、この展覧会についてあらためて書いている(『芸術新潮』1960年4月号)。読売新聞紙上で書いた「反芸術の波」の加筆であり、また、こんかいはおそらく、東野の「ガラクタの反芸術」論を念頭において書かれたものである。あるいは、前回の読売掲載批評が不充分であったために書いた続編であろう。それは、読売紙上で書かれたアヴァンギャルド芸術論にたいして、「アンデパンダン展」に出品した個別の作品・作家論である。ここでは、毛利武志郎、山口勝弘、篠原有司男、三木富雄につづいて、東野とおなじく、工藤作品をとりあげ、好意的であるが、東野とはことなる見地から評価している。彼ら以外では、松沢宥や荒川修作が注目されている。東野とは相違する、瀧口独自のみかたをあきらかにするために、該当するところを読んでおこう。


  ・・・ 私がとりわけ興味をもったのは工藤哲巳の「平面循環体における融合反応」とか「増殖性連鎖反応」(注.「芸術新潮」版では、作品の部分拡大写真が掲載されている。)と題した一連のオブジェである。この三点の作品はそれぞれ鉄骨に支えられていて、「彫刻」のように床の上に置かれている。しかしカタログをのぞくと彫刻の部にはなく、絵画の部に入っているのである。そんな分類はともかくとして、工藤の作品は、タブローに発した連鎖反応的な動きが、ある局面を求めて空間に飛びだしてしまったというような気がすることだ。これらの鉄棒はいわばカンヴァスのようにひとつのサポートにすぎないともいえる。黒く染めたタワシにからみついた色ビニールの紐も色彩的だ。というよりも奇妙な宇宙虫とでもいったものの生態をみるようだ。これはもはや表現ではなく、純粋思考の変態現象(メタモルフォーズ)とでも名づけてよいものかもしれない。私はここで絵画とか彫刻のジャンルの混同という形式美学上の感想をいだいたわけではない。絵画するとか、彫刻するとかいった技術が、よかれあしかれ、人生途上の重要な営みになっているということだ、というのもいかにも逆説めいているくらいだ。ここではネオ・ダダとか「反芸術」とかいう最近の流行標語に結びつけて物をいうことを私はしばらく差し控えたいと思う。私もいずれは「反芸術」について一言なかるべからずかもしれないが、いまはこの出来合いの用語で定義するよりも、この世界独特のアンデパンダン展でこの一群の芸術家たちの思考と表現が激しいエネルギーを発散していることを率直に認めなければならないだろう ━ もっとも、つい昨夜、銀座のM画廊で数人の若いアンデパンダンの作家たちが集まってネオ・ダダ(ママ)の集会が催された。そのことを、あの青と赤のマーブル模様のような絵を描いて出品している吉村益信や篠原の諸君から聞いたので、実は大いそぎでよそから帰宅の途中だったが、画廊の階段まで立ち寄って事実を確認した。妙ないいかただが、私はガラスの外から事実を確認しただけで引返した。この私の気持ちはちょっと複雑なものである。やがてグループができるかもしれない。できないかも知れない(「一つの挿話」[『芸術新潮』1960年4月号(「アンデパンダン展にみる《アンチ・絵画》」 批評家三氏(瀧口修造、岡本謙次郎、江原順)の意見]となっている。)


 一読すると、工藤の作品が、さきの読売批評で批判した作品ではなく、そこで期待した、客観的な思想のうらづけのある、個の凝縮力をみせるひとつの絵、ひとつの彫刻であり、また、「造形言語はあくまでも既成のものではなく、そのために物質と戦った手のうちを見せている」作品そのものが実現しているかのように書き、さきの主張と矛盾しているようにおもえるかもしれない。そして、さきの発言の奇妙な弁明のようにさえみえるかもしれない。

 だが、けっしてそうではない。

 かれは作品論として工藤の作品に注目し、みるべきもののあるその作品から、さらにその先にあるこうした芸術と芸術家の問題に目をむけているのである。

 作品自体については、「工藤の作品は、タブローに発した連鎖反応的な動きが、ある局面を求めて空間に飛びだしてしまったというような気がすることだ。これらの鉄棒はいわばカンヴァスのようにひとつのサポートにすぎないともいえる。黒く染めたタワシにからみついた色ビニールの紐も色彩的だ。というよりも奇妙な宇宙虫とでもいったものの生態をみるようだ。これはもはや表現ではなく、純粋思考の変態現象(メタモルフォーズ)とでも名づけてもよいかもしれない」に、すべてがのべられているだろう。

 そして、作品評価の核心は、「純粋思考の変態(メタモルフォーズ)現象」にある。しかし、ここでいわれる「思考(パンセ)」は、読売批評でもとめられた「客観的思想(パンセ)」ではないであろう。理由と意図と確信の思想にたいして、「純粋思考」は、未分化の初源的思考であって、「感覚」とおきかえることができる「思考」であろう。「変態(メタモルフォーズ)現象」といわれるいじょう、そうとしかおもえない。「もはや表現ではなく、純粋思考の変態(メタモルフォーズ)現象」は、「これはもはや、絵画か彫刻という通常の芸術感覚の芸術表現ではなく、感覚の変態(メタモルフォーズ)現象のあらわれ」と読みかえることができるだろう。

 そしてその、「変態(メタモルフォーズ)現象」のよってたつ根源が、「タブローに発した連鎖反応的な動きが、ある局面を求めて空間に飛びだしてしまったというような気がすることだ。これらの鉄棒はいわばカンヴァスのようにひとつのサポートにすぎないともいえる」にあり、それが、「黒く染めたタワシにからみついた色彩的ビニールの紐」が、「奇妙な宇宙虫とでもいったものの生態」にみえる理由になる。

 この瀧口がみることができた驚異については、瀧口の記述に則して、すこし説明しなければならない。

 瀧口は、「工藤の作品は、タブローに発した連鎖反応的動き」といい、「これらの鉄棒はいわばカンヴァスのようにひとつのサポートにすぎない」といっている。タブロー(tableau)は絵画作品を指すことばであり、サポート(support)は、ここにもあげられているように、一般にはカンヴァスや板のように、西洋絵画がそこに描かれる支持体である。つまり、「絵画に発した連鎖反応的動きが、ある局面を求めて空間に飛びだしてしまった」ということである。「ある局面を求めて飛びだす」のは、彫刻である。とすれば、たしかに、鉄棒は絵画のサポートにはなれない、彫刻の支持体である。ここで、これは絵画であり、どうじに彫刻であるとか、絵画でも彫刻でもない、というのは言うはやさしいが、瀧口はそのようなことをいっているのではないだろう。

 すでに、かれは、「『彫刻』のように床の上に置かれている。しかしカタログをのぞくと彫刻の部にはなく、絵画の部に入っているのである。そんな分類はともかくとして・・・・」といい、「私はここで絵画とか彫刻のジャンルの混同という形式美学上の感想をいだいたわけではない」と断りをいれている。

 たしかに、芸術において絵画と彫刻はまったくことなる見地がある。絵画は、平面、視覚的であり、枠があり、内包する面空間を問題にする。絵画平面は、大小にかかわらず、キリスト教大聖堂のフレスコ画にせよ、シュヴィッタースのオブジェ・コラージュにせよ、仕切りの桟や額縁の枠内にある。彫刻は立体であって、物質感があり触覚的である。作品をとりかこむ空間の外への広がりを問題にする。絵画と彫刻は、まるでことなるものを問題にしているのだ。鑑賞者にとっては、絵画は、正面からみるいがい絵画ではないが、彫刻はぐるりとまわって観賞しても、彫刻であって、触れることができる。盲人は、絵画と彫刻はおなじ範疇からとらえることはできないだろう。とえることができても、別次元の触覚である。

 そして、瀧口は、そのことをおそらく、鑑賞者の作品視点からでなく、制作者の芸術家から問題にしているのであろう。瀧口のこの言説を理解するうえでのキーワードは「技術」である。技術(アート)からみた芸術(アート)である。かれは、かれの芸術論のかなり特殊なものをこのことばに託しているようにおもえる。

  芸術家として制作者の立場にたつとき、絵画技術と彫刻技術はまったくの異種である。それらの技術と詩の技術が異種であるように。それというのも、芸術家辞典に、彫刻家として、画家として、詩人としてどうじに掲載された芸術家はいない。

 そして技術は、修得しなければならないものである。 「ガガ ガガ ガガ、ググ ググ グ」という音響詩でさえ、社会的約束にしたがい、認可されなければ、詩ではない。技術は社会的なものである。社会的に通用させるためのものである。 

 さらにまた、そのように通用するにたるだけ、おもうようにあやつれるまでに、自分独自の技術であれ、技術を修得するには、人生的時間を要するものである。

 だから、瀧口は、さきの「私はここで絵画とか彫刻のジャンルの混同という形式美学上の感想をいだいたわけではない」につづけて、「絵画するとか、彫刻するとかいった技術が、よかれあしかれ、人生途上の重要な営みになっているということだ、というのもいかにも逆説めいているくらいだ」という、かれにとって、どうしてもいっておかねばならぬという決意をおもわせることばが発せられている。

 「人生途上の重要な営み」とは、当時57歳であった瀧口ならではの発言であろう。ここにおける人生途上は、生涯目標にむかう人生途上ではなく、日々暮らしていく生活といういみであろう。現実のいまの社会における、芸術家としての生活である。だからこそ、つぎにつづく 「ここではネオ・ダダとか「反芸術」とかいう最近の流行標語に結びつけて物をいうことを私はしばらく差し控えたいと思う私もいずれは「反芸術」について一言なかるべからずかもしれない」 がでてくるのであろう。

 つまり、うえにのべたかれのおもいを、「反芸術」のひとことで解決することはできないということである。

 かれはつづけて、「一群の芸術家たちの思考と表現が激しいエネルギーを発散していることを率直に認めなければならないだろう」といい、その補足として、


━ もっとも、つい昨夜、銀座のM画廊で数人の若いアンデパンダンの作家たちが集まってネオ・ダダ(ママ)の集会が催された。そのことを、あの青と赤のマーブル模様のような絵を描いて出品している吉村益信や篠原の諸君から聞いたので、実は大いそぎでよそから帰宅の途中だったが、画廊の階段まで立ち寄って事実を確認した。妙ないいかただが、私はガラスの外から事実を確認しただけで引返した。この私の気持ちはちょっと複雑なものである。やがてグループができるかもしれない。できないかも知れない


と、むすんでいる。

 これはおそらく、1960年3月1日、吉村のアトリエで、瀧口を囲んでネオ・ダダ・グループの結成を宣言したのち、村松画廊で「ネオ・ダダ」結成の会合がひらかれたことをさすのであろう。赤瀬川の後の回顧によると、このとき瀧口が階段をのぼってきてドアからのぞくが、入ることなく帰っていったことが記されている(注. 赤瀬川原平『いまやアクションあるのみ』&『ネオ・ダダの写真 ─ 激動する美術 Ⅲ』展 図録)また、村松画廊は、1942年創業の画廊だが、戦後、現代芸術の若手・新人の育成を目的に、絵画・彫刻の抽象作家をあつかった。新人時代にそこで個展を開催した芸術家には、彦坂尚嘉、狗巻賢二、堀内正和、李禹煥、堂本尚郎、菊畑茂久馬などがおり、ネオ・ダダ・ジャパンでも、篠原有司男、風倉匠、荒川修作らが個展を開いている。2009年閉廊している。(注「画廊データ・ファイル」 芸術新潮1988年2月号) 

 なお、このネオ・ダダの名称について、瀧口が承認しているわけではないのは、本文中の〈?〉マークにもあらわれているであろう。じじつ、1960年4月に開催された銀座画廊でひらかれた第1回展は「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」展であった。しかし、第2回展、第3回展は、「ネオ・ダダ」展となっている(注. 当時、ニューヨークではすでに先行した「ネオ・ダダ」があったから、本論では「ネオ・ダダ・ジャパン」をもちいている。なお、瀧口としても、思想上、あんいに「ダダ」とか「ネオ・ダダ」をつかうわけにはいかなかったであろう.)


 はなしを瀧口にもどすと、瀧口がここで直感的に感じたという 一群の芸術家たちの思考と表現の激しいエネルギーの発散 はかれのたんなるおもいこみでもなければ、時代に迎合した感想でもなく、’60年代のアヴァンギャルド芸術に顕在化するエネルギー(仕事の可能性)をはやくも察知した指摘であった。それは、本人の意図せぬ巫女的予言性をあらわすものであった。

 それは、この10年ちかくの後、’60年代をしめくくる時期に、世界的にあらわれたアヴァンギャルド芸術運動である。

 絵画と彫刻を区別できない芸術を体系的に主張する芸術グループが、’60年代末の世界的「学生紛争」のころから世界的にあらわれた。フランスの「シュポール/シュルファス」を名のるグループや、イタリアの「アルテ・ポーヴェラ」、そして、日本では「もの派」などのアヴァンギャルドである。(注. フランス語〈support〉は英語サポートである。〈surface(表面)〉は、絵画表面の絵肌を意味する. なお、「アルテ・ポーヴェラ」は〈poor art〉である.)

 そこでは、絵画のカンバスや板の支持体や絵具という絵画の物質性や、「アルテ・ポーヴェラ」の木材、ゴム、紙、セメントの物質性や日常品や工業製品を支持体として構成される、広がる空間が問題となった。

 それは、瀧口が、読売批評では、「物質はもっともっと戦うべき相手である」とか、工藤作品で、「タブローに発した連鎖反応的な動きが、ある局面を求めて空間に飛びだした」ような「純粋思考の変態(メタモルフォーズ)現象」と名づけて指摘した特性である。

  そのような意味では、瀧口は、’60年代アヴァンギャルドの趨勢を無意識のうちに察知していたことになる。だが、かれは、それについてはこれいじょう語らない。かれがそこに関心をもつのは、そこから発散する「若い芸術家」の激しいエネルギーだけである。

   とはいえ、瀧口がのべている「絵画するとか、彫刻するとかいった技術が、よかれあしかれ、人生途上の重要な営みになっている」 という、あの問題提起は、この「シュポール/シュルファス」、「アルテ・ポーヴェラ」、そして、「もの派」すべてをふくむものであり、それは、’60年代「デモ・ゲバ」風俗のアヴァンギャルドの問題、すなわち、「反芸術」の問題ともなるのである。

 「シュポール/シュルファス」は、「絵画・理論」誌を創刊し、理論を急進化させて政治・社会制度へまでおよぼそうとした者たちと、あくまで絵画表現にこだわった者たちが対立し、1972年には解散した。そして、「アルテ・ポーヴェラ」や日本の「もの派」のアーティストたちも、画廊や美術館のあつかう芸術作家となり、ひとまず’60年代、’70年代の美術史に名をとどめてはいるが、このときはじめたかれらのデビュー作品を発展させたアーティストになったものは、ひとりもいない。

 そのような見方からいうと、これは、読売批評で 「これはグループができるかもしれない、できないかも知れない」 と ネオ・ダダ・ジャパンについて結論し、また瀧口がこの作家批評で、これからあつかう篠原について語った願いの、以上でも、以下でもなかったのではないかとおもわれる。

 「グループができるかもしれない、できないかも知れない」 は、たしかに「シュポール/シュルファス」も、そして 「アルテ・ポーヴェラ」、「もの派」もりっぱにグループ・カテゴリーができたようにみえる。だが、アヴァンギャルド芸術グループというのは、時代的な徒花(あだばな)やたんなる芸術動向ではないだろう。ダダやシュルレアリスム芸術運動では、メンバーの若干の変動はあるにしても、ツァラにせよ、ブルトンにせよ、かれらはダダやシュレアリスムをまったく放棄することはなかった。メンバーの変動は、脱落とか除名で処理されるものであり、それによってダダ、シュルレアリスムはよりいっそう一般性をおびるものになった。アヴァンギャルド(前衛)芸術運動とはそのようなものである。前衛は本隊を誘導するものである。前衛が、いかに一時的に突出しても、やがてふたたび本隊に収容されるようでは前衛とはいえない。アヴァンギャルド・グループとはいえないであろう。

 そしてこうしたことには、はやくからダダ、シュルレアリスムを見まもりつづけ、それから影響をうけた瀧口の、出品されたすべてのアヴァンギャルド的作品への批評の、ひとつの規範背景にあるはずである。

 そして、それらすべてをふくめて、これは ’60年代アヴァンギャルドの「反芸術」の問題でもある。

 したがって、いますこしそれを念頭において。瀧口のいうところをみとどけよう。

 第12回読売アンデパンダン展に出品した篠原有司男について、山口勝弘や毛利武士郎の作品批評につづけて、瀧口はかなり長い記述をのこしている。 

 

 ところでそうした作品に対して、篠原の「カミナリ彫刻」はどうだろう。「アクション彫刻」から昨年の「こうなったらやけくそだ!」につぐもので、これはよほど洗練されたが、お世辞にも芸術的とはいえない代物である。私もまた多くの鑑賞者なみにヘキエキしながらも、昨年 「アンデパンダンはこれを避けて通ることはできないのだ」と書いた。かれのつくるものは、いわば「芸術作品」ではない。かれは自分の頭髪まで彫刻したことがある。かれのつくったものは、なるほど美醜の見境がない。にもかかわらずかれには天使の一面がある。もっともつまらぬものを拾ったり落としたりしながら、それが純粋な行為に還元されるのである。それにしても彫刻と「世界最大の自画像」にしてもまだ絵画とを区別しているのはちょっと妙な感じがしないでもない。かれはこのアンデパンダンという機構を利用して青春のひとつの行動を起こしているとでもいえるだろう。私はかれが将来、すぐれた芸術家か、さもなければもう一人の立派な社会人になるだろうことをいのるものである。


 ここで瀧口がいうことで、注目すべきはつぎの三行であろう。

 「かれのつくるものは、いわば『芸術作品』ではない」 と、「にもかかわらずかれには天使の一面がある」と 「かれはこのアンデパンダンという機構を利用して青春のひとつの行動を起こしている」である。作家論としてそれを読んでみよう。

 「芸術作品」 でないとは、つぎの、篠原が芸術行為におよぶときのトレードマークであったスキンヘッドをさす、「かれは自分の頭髪まで彫刻したことがある」は、たんなる形容修飾であって、かれのような「作品」は、いかにみても、美術館に展示され、不特定多数の鑑賞者に提供すべきものではないということである。ましてや、いかなる理屈をつけても、篠原の生活にかかわるものにはなりえないということでもある。

 ところが、にもかかわらず、「かれには天使の一面がある」という。このかれは、一般人のかれではなく、「アンデパンダン展」の出品者としてのかれについていわれたことである。いずれにせよ批評対象の芸術(家)としてのかれに「天使の一面がある」ということになる。

 おそらくこれは、かれの芸術に、天使が神意の伝達をおこなうときのように、ひたすらそのことのため、すなわち芸術行為のため、それいがいの他意がないことであろう。つまり、おどろかせたいとか、ひと目をひきたいとか、あわよくば、感服させたいとかの他意が感じられないということである。いいかえれば、まず制作行為(?)することをこころから楽しんでいると、芸術評論家として感じられることである。そして、このばあいのひと目とは、東京都立美術館で開催された読売アンデパンダン展をみにきたひとであるから、いずれもこの時代、「デモ・ゲバ」風俗の新しい芸術に、かなりつよい関心をもつ、一般人をふくむ芸術関係者たちといってよい。とすると、おどろかせたい、感服させたいとは、芸術的におどろかせたい、感服させたいということになる。

 そして、また、ここで瀧口が、わざわざ 「かれには天使の一面がある」 と強調するのは、ほかの出品者、出品作品と比較した相対的指摘である。

 つまり、この言の背後にあるのは、これが時代の「反芸術」の芸術だとことさらに主張しているとか、そのインスピレーションのありかに不純物がまじったようにみえる作品の拒絶が対称点にあるのであろう。たとえば、東野が「ガラクタの反芸術」のひとつにあげる、糸井貫二の 「戸板の小屋のなかにワラにはったヌード写真がまつってあったり」した作品などをさすのかもしれない。

 そして、ついで、瀧口がいいたいのは、そうした意味でみるべき作品は、「反芸術」などとみるのではなく、「青春のひとつの行動を起こしている」とみるべきだということである。そして、その青春のひとつの行動とは、激しいエネルギーを発散している、人生(生活)をはじめるひとつの行動である。このエネルギーとは、さきの工藤作品で指摘しておいた、仕事の可能性である。

 そして、また、このはじめられた生活(人生)が、芸術家としての生活(人生)かどうかはわからない。 とはいいながらも、じつはあたらしい芸術家への瀧口の善意の期待がこめられているようにおもわれる。(瀧口修造は、かれ自身の芸術共和国で生きているような評論家であって、かれの語ることすべては、オトーマティックに芸術発言である。)

 ここにおける瀧口の「『芸術作品』ではない」(反芸術)も、前節でのべた、磯崎新やレスタニーの「白紙還元」に類縁関係をもつものかもしれない。

 しかしかれは、けっしてそうはいっていない。だからこそ、さきの読売批評でも「ネオ・ダダとか『反芸術』とかいう最近の流行標語に結びつけて物をいうことを私はしばらく差し控えたいと思う。私もいずれは『反芸術』について一言なかるべからずかもしれない」と、「反芸術」について決着をつけたいというおもいをのべているのであろう。

 しかしながら、東野の「ガラクタの反芸術」(1960年3月)の主張にたいして、これら、ほとんど同時の読売批評と、直後の「一つの挿話」(『芸術新潮』1960年4月号)に書かれた瀧口の主張をセットで読むと、東野のあたらしい芸術としての「反芸術」に同意していないのは、あきらかであろう。しかし、かれが、東野の「反芸術」のどこなぜ反論するかについてはわからない。そのことについては、おなじ芸術評論家である、さきの針生批評でもおなじようなことがいえるであろう。

 そのほかの評論家の反芸術論では、それを批判する興味深い主張が宮川淳によってされているが、これは、ことなる時代のことなる状況下でいわれたものであるから、ここではあつかわないことにする。それは、東野の「反芸術」は、’60年代のはじまり、「反安保」デモにはじまる「デモ・ゲバ」風俗の台頭期に発意されたのにたいして、最初の東京オリンピックがひらかれ、「読売アンデパンダン展」が廃止された年、「学園紛争」後期デモ・ゲバ(1967〜68年)と万国博覧会(1970年)へ一気にむかう年、1964年に開催された「“反芸術〟是か否か」の討論会にさいして書かれた「反芸術 その日常性への下降」(『美術手帖』1964年4月号)である。参考資料としてタイトルのみかかげておく。


 そうした芸術評論家たちの「反芸術」に関連した発言のなかで、芸術思想的にもっとも焦点をさだめて論評したのは中原佑介であろう。かれのいうところは、さきの針生や瀧口の側にありながら、反論ということでは明確な態度表明であった。したがって、芸術評論家たちの「反芸術」をまとめるものとして、その最後に読んでおこう。

 中原佑介は、東野の「ガラクタの反芸術」批評が書かれた、第12回読売アンデパンダン展(1960年3月1日~16日)について、文字通りそのままのタイトル「第12回読売アンデパンダン展」を冠した芸術批評を、『美術手帖』(1960年5月号)に掲載した。

 東野とはことなる見地からガラクタ(廃棄物)芸術をかたり、東野の「反芸術」を批判しているのである。なお、1960~70年をつうじて、「商品化」できない芸術の推奨者であった中原は、10年後の1970年に開催された第10回日本国際美術展(通称 東京ビエンナーレ)のはじめてのコミッショナーとなっている。これは、世界的な「学生紛争」の影響をうけ、この年から形式をあらため、コミッショナーがテーマと作家を選定するという制度を採用した最初の日本国際美術展であった。中原がそのとき選んだタイトルは「人間と物質」展であり、選別した作家は、そのころはまだ世界的にもほとんど知られていなかった「アルテ・ポーヴェラ」や「もの派」、「ミニマリズム」の作家たちであり、のちの環境芸術のクリストやダニエル・ビューランらであった。そうした廃棄物をふくめた日常生活にあらわれる物質、または、自然、環境をふくめたすべての「物質」と人間との関係芸術に注目したのは、この「ガラクタの反芸術」批判からはじまったのかもしれない。そのような見地もふくめて、「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本アヴァンギャルドの「反芸術」の視点から、この論評は読まねばならないだろう。

 (注. 第10回日本国際美術展は1969年に開催される予定であったが、前年1968年の、さきの磯崎の「ふたたび廃墟となったヒロシマ」が出品されたヴェネチア・ビエンナーレが、ヨーロッパの「学生運動」の批判と抗議の対象となり中断されたことから、東京ビエンナーレも一年延期された。そしてその反省から、じゅうらいの、画商や国家介入の可能性のある国別参加や授賞形式が撤廃され、コッミッショナー制度が創設された.[中原祐介美術批評撰集 第五巻 加治屋健司の解題を参考.])


 関係するところをかかげる。


 「自然を絵画精神にしたがわせなければならない」と、アンリ・マティスはいった。・・・・・・

・・・・・マティス老のことばには、もうすこし不穏当な意味がこめられている。第一には、そこでは、われわれをとりまく環境から独立した、ある絶対的な絵画精神などというものがあるというのであり、第二に、その絵画精神は「色彩」によってくまなく語りつくせる、という妄想のあることである。とくに後者は、「色彩」は「ことば」と同質のものであって、単に外界の光景のみならず、内面のさまざまな要素も、このもうひとつの「ことば」である「色彩」体系によって、叙述することができるということを意味している。

 しかし、マティス老のいうような超時代的な絵画精神は、宗教的な信念でしかなく、すべての要素が「色彩」体系によって叙述しうるということが虚妄でしかないとすれば ━ われわれは、それらと対決しないわけにはゆかない。「第12回読売アンデパンダン展」にみられるひとつの特徴は、この断絶した現象が、きわだってはっきりとあらわれていることだろう。むろん、わたしは、鉄だとか、ぼろ布だとか、合成材料だとか、つまり絵具以外の材料をつかった作品を一括して、そういうのではない。材料のうえでの飛躍は、かならずしも、絵画精神の断絶を意味するものでないからである。たとえば、このことは他のところでも触れたことだが、さまざまな材質を混合した「厚ぬり」の作品がある。しかし「画はだ」の特異性は、とくになにものかを意味するわけではない。そして、多くの「厚ぬり」の作品をうらづける理念は、マチエールの厚味が、「ことば」としてある意味をもっているという精神であり、どうみても、マティス老の亜流をでない。たいへん奇妙なことだが、絵具の物質としての量感を誇示するかにみえる作品群が、逆に、マチエール信仰といった精神主義によってささえられていることが多いのである。

 ある対象をえらび、それを支配し、それから自由になるというのでなく、逆に、「かいこ」のように素材によって身をくるみ、みずからをいたわるというゆきかたが、そこにはある。

 工藤哲巳の 「増殖性連鎖反応」、金子鶴三の 「ある感傷」、菊畑茂久馬の「葬送曲」、篠原有司男の「地上最大の自画像」などにみられるのは、「色彩」体系を絶対的なものとみるのではなく、それによっては捉えることのできない世界を、それぞれのやりかたで具体化したということである。かれらは叙述するのでなく、提示する。工藤の鉄組の枠に、ビニールのチューブを複雑にまきつけたもの、金子のところどころ縫い合わされてひだをもった、広漠とした布の作品は、例えば、カルダーのモビールのように、それら虚構されたものによって、現実に対応する「心理的な空間」を捕捉してしまおうとしている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 マティス老の「絵画精神」などというものが、けっきょく「もの」をなかだちにした近代社会の人間関係を、そっくり肯定し、他者とのつながりを失ってしまった芸術家を、なんとかつじつまのあった存在にしようという意図からでたものであることはいうまでもない。芸術の課題として、わたしがそれからの断絶を主張するのは、現実が「絵画精神」にしたがわせられたりすることなどあり得ないことであり、事実はその逆であると思うからである。・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 なにによらず、表現されたものには、いくばくかの芸術的価値があるという、たいへん都合のいい怪理念が横行しているのが現状である。「色彩」が、芸術的な「ことば」であるという習慣化した理念が、これを支持している。もし、これを「芸術」というならば、それから断絶した「反芸術」こそ、現実的ということになるだろう。(中原佑介 「第12回読売アンデパンダン展」[『美術手帖』1960年5月号])


 中原の発言はようするにつぎのことであろう。

 いまあらわれている「反芸術」なるものは、喧伝されているような評価の見方からではなく、異なる評価をすべきである。(東野のような)そのような見方の「反芸術」は、しょせんはマティスのいうような芸術にほかならない。そんな「反芸術」は、けっきょく現代社会では、凋落した旧来芸術の復権に加担することになろう。というようなことを芸術論的にのべたものである。なお、付言しておけば、1960年当時の日本社会では、ピカソとマティスが現代芸術の典型であった。

 これは、「デモ・ゲバ」風俗と皇太子結婚パレードに象徴される「パレード」風俗がせめぎあう、1960年の日本社会の状況を透かし絵のように下絵にして指摘された、きわめて示唆的なアヴァンギャルド芸術論であった。

 この中原の言にあるのは、芸術はどのようであるべきかが、中原の見地からのべられている。そして、そのことが、この発言をさらに独自性のあるものにしている。

 当時29歳であった中原は、すでにふれたこともあるように、京都大学の湯川研究室で理論物理学を専攻する学生であったのだが、現代芸術に関心をもち大学院を中退し、とつぜん芸術評論家となった、アバンギャルド系プロパーの評論家であった。かれの履歴を書いたのは、戦前から詩人であり、現代芸術賛同者であった瀧口修造はむろん、大学で美学を学んだ針生や東野とはことなる分野の知識基盤と思考体験をもつ芸術評論家の独自の視点がそこにあるということである。つまり、芸術・文学的常識に拘束されない科学(なかでも物理学)的常識からみた、芸術論である。ことにそのことは、本文中では、物質や物体、素材、ものへのかれのこだわりかたには、理論物理学的見方の反映があらわれているようにおもわれる。(注.本章第3節[『百万遍』No.4掲載)

 そして、このような見方は、現代社会は科学の時代でもあるから、かれの見方は現代社会に則した見地となる。

 以下、逐語的に解釈してみよう。まず前提にいわれるのはつぎのことである。

 かれの見方からすると、かれが関心をもつ現代芸術は、マティスがいうものではない、もしそのようなものなら、芸術は妄想にすぎないということであろう。そして、科学的思考の規範からいえば、妄想は悪である、ということである。

 ここでひきあいに出されているマティスは、美術史的に現代の色彩画家であるマティスではなく、象徴的につかわれているマティスであって、その「色彩」も美術上の「色彩」ではない。色効果としての「色彩」ではなく、絵具という物質効果としての「色彩」である。

 したがって、このように理解すると、「自然を絵画精神にしたがわせなければならない」にしても、マティスがそれをどのような意味でいったかではなく、中原がそれにどのような意味をたくしたかが問題となる。

 自然絵画精神がなにを意味するかがまず了解の前提である。絵画精神における絵画は、芸術とおきかえてもさしつかえないだろう。そして「精神」は、一般的には「人間の心。非物質的・知的な働きをすると見た場合の心」(『岩波国語辞典』)とか、「物質に対し、人間を含む生命一般の原理とみなされた霊魂、たましい」(『デジタル大辞泉』)とある。仏和辞典(『ロワイヤル』)の〈esprit〉の語義は、「肉体・物質にたいする精神、心」とあり、「肉体のうちにあるのが精神ではない。精神こそが肉体を内包し、その全体を包み込んでいるのである」(ポール・クローデル)が引用されている。

 中原が関心をしめす「精神」は、物質と区分され、物質の上位にある「精神」であろう。とすると、「自然」は物質の集合体によって構成された生活環境としたほうが、わかりやすい。

 そしてまた、「その絵画精神は『色彩』によってくまなく語りつくせる、・・・・・・『色彩』は『ことば』と同質のものであって、単に外界の光景のみならず、内面のさまざまな要素も、・・・・・・・・・叙述することができる」とのべているところから察すると、「精神」は「思想」的なものをふくむ意味となる。

 そして「色彩」は「ことば」と同機能をもつとするからには、思想媒体であり芸術媒体である素材である。

 このような、精神至上主義の、古い(マティス)、妄想的な非現実的な芸術思想は虚偽であるから、反対すべきとなる。なお、ここで過誤の明明白白(めいめいはくはく)なたとえとして、「宗教的な信念」とか「超時代的な」をあげるのは、かれの思考としてはとうぜんであり、また、万世一系の天皇とか国家主義の宗教的信念によって痛めつけられた戦前のおもいでがのこる1960年の読者へは、それなりのニュアンスを放出する形容であろう。

 このように前文を理解すれば、これにつづく、この評論のタイトル『第12回読売アンデパンダン展』にふれる主張の核心 「『第12回読売アンデパンダン展』にみられるひとつの特徴は、この断絶した現象が、きわだってはっきりとあらわれていることだろう。むろん、わたしは、鉄だとか、ぼろ布だとか、合成材料だとか、つまり絵具以外の材料をつかった作品を一括して、そういうのではない。材料のうえでの飛躍は、かならずしも、絵画精神の断絶を意味するものでないからである」は、むしろ、いわずもがなの言辞となる。

 ここでいう「断絶した現象」は、東野が「(ガラクタの)反芸術」としたものであろう。そして、いかのべられる証明、 「材料のうえでの飛躍は、かならずしも、絵画精神の断絶を意味するものでないからである。たとえば、このことは他のところでも触れたことだが、さまざまな材質を混合した『厚ぬり』の作品がある。しかし『画はだ』の特異性は、とくになにものかを意味するわけではない。そして、多くの『厚ぬり』の作品をうらづける理念は、マチエールの厚味が、『ことば』としてある意味をもっているという精神であり、どうみても、マティス老の亜流をでない」は、マティス絵画とマティス思想を語るようにみえながら、あきらかに焦点は東野の反芸術理論に収斂されている。

 なお、念のため「マチエール」についてすこし説明しておこう。フランス語「マチエール(matière)」は、「物質、物体」あるいは「材料、素材」をあらわすことばだが、美術用語では絵画の絵肌(えはだ)、彫刻の質感など、作品における材質的効果、または、表現されたものの固有の材質感をあらわすことばである。そして、このマチエールは、東野の「反芸術」でも、おそらくは深い意図をもってのべられたものではないだろうが、「画面にやたら何でもはりつけるのを、・・・・ 僕は、一方には、こういう世代の物質感がそこにあらわれている」と、まるでりっぱな身元証明のようにつかわれている。そして、これは、21世紀のいまでも、芸大の美術教育で権威をもって語られているものである。「マチエール信仰」は、それ自体はけっして中原の誇張表現ではない。

 しかし、中原はそれをさらに、「素材(マチエール)が、『ことば』としてある意味をもっているという精神であり、どうみても、マティス老の亜流をでない」という。マティス老の亜流とは、「自然を絵画精神にしたがわせなければならない」の亜流ということである。

 とすると、われわれとしては、「内面のさまざま要素も、このもうひとつの『ことば』である『色彩』によって、叙述できる」という、中原解釈のマティス思想と、東野が「ガラクタの反芸術」を説明するにあたってのべた、「もっとも卑俗な物体が、ここで、なんという明快な形而上学の世界に転化されていることだろう」を、どうしても思いださずにはいられない。

 中原はこれを「マチエール信仰といった精神主義によってささえられている」思想だという。ここで指摘される「精神主義」とは、物質的なものより精神的なものに優位性を認める立場であり、精神力を集中的に駆使すれば、物質的事象を統御できるという考え方である。

 そして中原は、これがなぜ、どのようにまちがっているかをのべ、読売アンデパンダン展に出品された工藤たちの作品がそのようなものではないことを論証する。

 それは、さきの 「たいへん奇妙なことだが、絵具の物質としての量感を誇示するかにみえる作品群が、逆に、マチェール信仰といった精神主義によってささえられている」 の言い換えである、つづく一節、「ある対象をえらび、それを支配し、それから自由になるというのでなく、逆に、『かいこ』のように素材によって身をくるみ、みずからをいたわるというゆきかたが、そこにはある」という説明にはじまるものである。

 いうまでもなく、「『かいこ』のように素材によって身をくるみ、みずからをいたわる」のではなく、「ある対象をえらび、それを支配し、それから自由になる」営為が、「第12回読売アンデパンダン展」にみられる一つの特徴「この断絶した現象」として、工藤たちの作品に認められるということである。

 「ある対象をえらび、それを支配し、それから自由になる」という営為は、芸術家というより科学者の営為であろう。(物の落下(ニュートン力学)を対象にえらび、それを支配し、それ(物の落下とニュートン力学)から自由になったのがアインシュタインであった、としたら、中原先生にお叱りをうけるだろうか.)

 しかしこのような営為は、芸術にも有効であろう。中原の思考では、科学と芸術は区別されていない。むしろ、科学と芸術を相同関係においてとらえ、考察するのが、かれの芸術思想の現実的に有効な独創性となっている。

 芸術的にこれを説明するため、かれは工藤の 「増殖性連鎖反応」をはじめ、金子鶴三、菊畑茂久馬、篠原有司男の出品作品をとくにあげている。これら4名のうち、菊畑をのぞく3名は、東野の「ガラクタの反芸術」の実践者たちとされたものであることに留意しておかねばならないだろう。しかし、彼らの作品についての中原のこの「『色彩(素材)』体系を絶対的なものとみるのではなく、それによっては捉えることのできない世界を、それぞれのやりかたで具体化したということである。かれらは叙述するのでなく、提示する」という記述は、それがどのようなことをさすのか、いささかわかりにくい。そこで、かれのあげるもうひとつの手がかり、カルダーのモビールからそれを判断してみよう。

 1960年の中原のいうアレキサンダー・カルダーの一連の作品「モビール(Mobile)」が、具体的にどの作品をしめすのかはわからない。そして、この時点でかれ自身が、カルダーの作品をどこまで実体験していたうえでの発言かもわからない。

 カルダーはたしかにモビールと題する一連の作品をはやくから制作している。しかし、それまでの時期にそう名づけれたり、動き(mobile)に関係するおおくの作品より、1958年に制作されパリのユネスコ本部の設置された、ブリキ製で高さ7.6mの屋外作品、『La Spirale (螺旋状のもの)』から、推測していくほうが、中原のいう 「例えば、カルダーのモビールのように、それら虚構されたものによって、現実に対応する『心理的な空間』を捕捉してしまおうとしている」を理解しやすいであろう。

 これはうすい金属板が風に吹かれると、風車の羽根のように空中でゆっくり旋回するものある。(カルダー「螺旋なるもの」・図版1)黒色に着色された羽根は、晴天の日の空であれば、青空に黒い穴を穿ち、いずこかへいたるトンネルの入り口のようにみえるかもしれない。

 じじつかれは、この制作より20年いじょうまえから、この野外彫刻に結実していくアイデアを執拗に追求している。「動く(mobile)」彫刻のかずかずの小品(図版2.「モビール(動く彫刻)」ー1. 図版3.「モビール(動く彫刻)」ー2)と、「モビール研究(Study for Mobile) 」(1932年)(図版4)とか「空間トンネル(Space Tunnel) 」(1932年)(図版5)、「空間における動き(Movement in Space)」(1932年)(図版6)とタイトルをつけられた素描画であり、さまざまな機会にこれらを公開している。ゆれる金属片と、空間に穿たれるトンネルである。


 

図版1: カルダー 「螺旋なるもの」




図版2: 「モビール(動く彫刻)」-1





図版3: 「モビール(動く彫刻)」-2




図版4:「モビール研究(Study for Mobile)」(1932年)





図版5:「空間トンネル(Space Tunnel)」(1932年)




 図版6:「空間における動き (Movement in Space)」(1932年)

 


  金属素材のしなやかな動きに注目し、その視覚効果の顕現からはじめた「動き(mobile)」シリーズは、ゆれ動く金属棒線の形成する平面空間となり、やがて立体空間へ、そして、発想を飛躍、転換させ、空間そのものに穴をひらくことによって、ゆれ動く金属片は、無限大の空間を心理的に顕在化させることになる。しかし、そのようなイメージの推移は、カルダーにおいては、おそらく1932年ごろからおこり、そこから、30年の年月のなかで試行錯誤の作品制作があり、あの「ラ・スピラル(螺旋状なるもの)」になったのであろう。この空間は、中原のいう「現実に対応する『心理的空間』」にほかならないものであろう。

 カルダーは、「動く金属」を対象にえらびそれを支配しそれから自由になったということができるかもしれない。そして、中原のいう「現実に対応する『心理的空間』の捕捉」というのは、文脈上は工藤の「鉄組の枠に、ビニールのチューブを複雑にまきつけたもの」や、金子のひだのある広漠とした布の作品をしめしているようであるが、じつはこのカルダーのモビールをよりつよくイメージしてのべられているとすることができよう。

 しかし、一方では、このカルダー作品にたくしたとおもわれる中原の見方は、さきに検討した、あの同年4月号の『芸術新潮』掲載の「(「アンデパンダン展にみる《アンチ・絵画》)一つの挿話」に瀧口修造が書いた、工藤作品を評した「タブローに発した連鎖反応的な動きが、ある局面を求めて空間にとびだしてしまったような気がする。・・・・・・ これはもはや表現ではなく、純粋思考の変態(メタモルフォーズ)現象の提示である」をおもいださせるものである。一ヶ月おくれで『美術手帖』にこれを書いた中原が、それを読んでいたのかどうかわからないが、そんなことはどうでもよい。ただ、経歴も異なり、個性的なかれらが、工藤のおなじ作品について、おなじような方向をみているということは興味深いものがある。ふたりの評論家(あるいはここに針生を加えてもよいかもしれない)は、東野の「ガラクタの反芸術」への「反論」として、「想像力」を対抗支点においているようにみえる。中原の「想像力」は、そこから「妄想」を排除することによって厳密化し実証理論的なものとしているが、いわば、科学思想における想像力の効用をみとめる立場である。そしてその「想像力」は、ふたりとも、現実への不満に起因する「断絶」を誘導するため効力を発揮するものである。東野の「ガラクタの反芸術」でも、「焼け跡」に楽しさをみいだすのも想像力であろうし、またガラクタの素材には「断絶」がある。しかし、そこでいわれる「断絶」は、あたらしさをみつけたよろこび、「シュルプリーズ意外な贈りもの)」の断絶である。「想像力」、「断絶」、そして、不満あたらしさ、おなじもの(たとえば工藤の作品)を、おなじような見方でみているようだが、それは、正反対の方向へみているようにおもわれる。この「反芸術」の見方の相違はかれらののちの行動にあらわれるであろう。

 しかし、それは後の問題として、ここでは、中原の文脈をこえて、中原の主張を追認するような見方をのべておこう。現代芸術として、元来、彫刻は静止したものであるから、このような動く彫刻だけでじゅうぶんアヴァンギャルドとなったが(図版7「ちいさな蜘蛛」[1940年頃]?)、それはすでにイタリア未来派(1909〜1930)のテーマであり、あるいは、横たわるか佇立するはずの裸体(ヌード)が階段を降りていく姿態を描くこと(1912年)で物議をかもしたデュシャンが対象としたものである。

 したがって、べつの見地からいえば、カルダーはイタリア未来派とデュシャンを対象にえらび、イタリア未来派の動き、たとえばバッラの「犬のダイナミズム」(1912年)や「階段を降りる裸体(ヌード)」をのりこえ、未来派やデュシャンから自由になった、’60年代現役のアヴァンギャルディストといえるかもしれない。先人の理論に挑戦し、それを包括するあたらしい理論を実証的に提示するのは、科学研究者の営為である。その営為を中原はここで芸術的成果にむすびつけたということができる。

 



図版7:「ちいさな蜘蛛」(1940年?)



 芸術のみるべき角度をこのように語った中原であったが、その根拠となるべき、芸術のあり方、ひいては芸術とはなにをするものかを、どう考えていたかについては、この結論にちかいところで、いくらかの解釈を必要とする言い方でのべられている。

 再引用すればつぎの箇所である。


 マティス老の「絵画精神」などというものが、けっきょく「もの」をなかだちにした近代社会の人間関係を、そっくり肯定し、他者とのつながりを失ってしまった芸術家を、なんとかつじつまのあった存在にしようという意図からでたものであることはいうまでもない。芸術の課題として、わたしがそれからの断絶を主張するのは、現実が「絵画精神」にしたがわせられたりすることなどあり得ないことであり、事実はその逆であると思うからである。 

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 なにによらず、表現されたものには、いくばくかの芸術的価値があるという、たいへん都合のいい怪理念が横行しているのが現状である。「色彩」が、芸術的な「ことば」であるという習慣化した理念が、これを支持している。もし、これを「芸術」というならば、それから断絶した「反芸術」こそ、現実的ということになるだろう。


 前半赤文字表記したところが、その核心であろう。「芸術的思考(思想)」は、現実を課題にしなければならないということである。現実から遊離してはならないということである。とするとここでは、かれが「現実」をどのようなものとしているかが問題となる。

 「現実」とは、「いま目の前に事実として現れている状態」とか、事実とか実態といわれるものである。また、これは外来翻訳語であろうから、たとえば、フランス語の〈réalité(レアリテ)〉をしらべれば、「ひとつの概念などだけでまとめることができない〈漠然とした もの、こと(chose)〉とか〈実際に起こっている こと、事実(fait)〉」とされている。

 とすると、芸術思想はありのままの状態を問題にしなければならない、となるのだが、ここまでのかれの主張からみると、それが、芸術・文学史上の「リアリズム(realism)」や「自然主義」、ましてや「印象派」などへの回帰をいっているわけではないだろう。

 さらに、また、「なにによらず、表現されたものには、いくばくかの芸術的価値があるという、たいへん都合のいい怪理念が横行しているのが現状である」と、「原爆が美しい花火で焼け跡がおもちゃだった連中」の物質感を非難し、ガラクタの廃墟の現実を課題にした見方を認めていないのだから、芸術が「依拠すべき現実」のかれの主張は、単純に「ありのままの状態を問題にしなければならない」ではなさそうである。

 かれのいう「ありのままの現実」は、その前提として、「ひとのいうようなものではない」現実、かくれている現実、とらえがたいものである現実があるのであろう。さらにまた、その大前提には、実際のありさまは間違っているという不満の確信がある。それをいいかえれば、うえに紹介したフランス語の語義にちかく、また、科学者的態度ともいえるであろう。

 とすると、そのこと自体の主張は、やや無理のある論理の整合性をふくめて、ことさらに指摘してみせるにはおよばない。

 ここにおいて注目すべきは、そうした、あたりまえのことを、あらためていわねばならぬとする、理由と動機にある。

 それは、この「『芸術的思考(思想)』は、現実を課題にしなければならない」という核心にいたる引用文中の下線をほどこした部分、「マティス老の「絵画精神」などというものが、けっきょく「もの」をなかだちにした近代社会の人間関係を、そっくり肯定し、他者とのつながりを失ってしまった芸術家を、なんとかつじつまのあった存在にしようという意図からでたものであることはいうまでもない」 にある。下線部から赤文字表記部への表現の緊張感は、中原の主張は、むしろこの下線部にあるのではないかとおもわせる。

 「マティス老の「絵画精神」などというものが、けっきょく『もの』をなかだちにした近代社会の人間関係を、そっくり肯定」 とは、いささか視点をひろげた見方である。ここにある「もの」は、芸術素材と、もっと一般的にいわれる「もの」であろう。なかだち(仲立ち)は「他人(ひと)の商行為の媒介」を語意にふくむものであるから、「近代社会の人間関係」は、資本主義とはいわぬまでも商業主義社会の人間関係を、批判なくそっくり肯定し、それによって、そこで受けいれられたいとする意図がみえるのは、現実社会の営為としていかにしても認めがたいということである。

 したがって、そのようにみると、「なにによらず、表現されたものには、いくばくかの芸術的価値があるという、たいへん都合のいい怪理念」を非とするかれの見方は、「原爆が美しい花火・・・だったというような連中・・・・こういう世代の物質感!」の一見、現実主義は、1945年の敗戦の現実であって、1960年の社会現実ではないことになる。原爆を美しい花火とみるのは、圧政の国家主義体制滅亡を祝賀する美しい花火とすれば、1945年の現実の芸術的想像力の開陳と、できぬこともなかろう。

 だが、1960年の現実では、核爆発にしても、ヒロシマの原爆からそこにいたるまでに、1954年3月には、太平洋のビキニ環礁で操業中の遠洋マグロ漁船第五福竜丸が、アメリカの核実験による多量の放射線降下物(死の灰)をあび、乗組員に死者をふくむ社会的大事件をおこしている。

 1960年の社会的現実においては、核爆発を美しい花火と見ることによって、なにかから自由になることはないであろう。それどころか、核の平和を賛美する迎合のプロパガンダになりかねないものである。このような、1945年の現実とはことなる1960年の現実で、それらを無視し、それを美しい花火とするのは、やはり、その時点では、「19世紀デカダンス」をもちだすような、ある種の「精神主義」とみえるだろう。50~60年代日本の文学・芸術界では、ランボー、ボードレールは神話化したアヴァンギャルディストであった。

 さらにまた、この中原の1960年5月に書かれた「芸術論」は、1960年の日本社会と連動するとき、独自の輝きをはなつものであろう。

 とうじの皇太子明仁が民間人正田美智子と結婚し、その結婚パレードに、日本社会が熱狂したのが前年、1959年4月であった。そして、1960年2月には、皇孫、浩宮徳仁が誕生し、ふたたびマスコミや世論がわきたった。

 その熱狂は、’60年代「パレード」風俗を先導するものであり、飽和溶液に投じられた結晶媒体のように、そこから、’60年代日本の「パレード」風俗がはじまった(注. 「’60年代日本の芸術アヴァンギャルド 第1章 1)’60年代三枚の風俗画」(『百万遍』No.2)参照)

 旧華族ではなく平民である、民間人との結婚による新生天皇像は、天皇家の「断絶」ではなく、中原のいいかたに倣えば、日本人とのつながりを失いかけた天皇像を、なんとかつじつまがあったものにする試みにみえたとしても、さほど違和感のあるものではない。中原のこの芸術批評は、東野の「ガラクタ反芸術」論に、この時代のこの風潮に同調するものを察知し、それらを一元化した視点からの「1960年日本アヴァンギャルド芸術論」とすることができよう。

 中原の、1960年と不可分の関係にある、「ガラクタの反芸術」の 「絵画精神」批判の芸術論は、「1960年の日本社会」論でもある。かれのいう、芸術思想は「現実」を課題にしなければならないは、このような主張だとすれば納得できるものがある。だが、かれ自身がどこまでそれを意識して、これを書いたのかはわからない。とはいえさきにものべたように、この一節をしるすときの用語、表現とその緊張感は、かれのなかでもとくべつななにか、たとえば、飛躍する想像力の高揚が、作用していたように、この芸術論は解釈できる。表面的には、ただ、おそらく、かれのいっているのは、「ガラクタの反芸術」の東野の理屈は、顕現化しはじめた、いかにも好ましくない「パレード」風俗に加担しているということである。

 すると、さいごの一行「もし、これを『芸術』というならば、それから断絶した「反芸術」こそ、現実的ということになるだろう」における、『芸術』を、「現実を課題にしなければならない」営為 とおきかえれば、それはそれなりに整合性のある結論であり、また、かれの立場表明であろう。「デモ・ゲバ」風俗に軸足をおく「反芸術」ということである。

 このように中原の発言を読んでみると、たしかに、瀧口や針生とおなじ立ち位置にあって、東野の「ガラクタの反芸術」論への反駁論として叙述された一貫性のある芸術論である。

 そして、これはまた、「デモ・ゲバ」風俗をささえた ’60年代日本アヴァンギャルドの「反芸術」のひとつの立場表明である。

 しかしながら、この叙述された「反芸術」論は、これから育生される’60年代アヴァンギャルド芸術にたいして、どのような「反芸術」を提示しただろうか。

 かれが提示したとおもわれるのは、「芸術精神」は、「現実の生活(環境)」にしたがわせなければならないということである。ただそれも、どのようにしたがわせなければならないかについては、漠然としている。それは、「自然」や「現実」の、具体性にかけるあいまいさにもある。

 他方、’60年代アヴァンギャルドへの提示ということでは、「ガラクタの反芸術」にはじまる東野の発言は、結果的にひとつの’60年代アヴァンギャルドの「成果」をあらわすことになった。

 それは、’60年代がおわるときあらわれた、参加者規模において、内容において、’60年代日本のアヴァンギャルド芸術のひとつの帰結と後始末になるような芸術にむすびつくものであった。

 東野と中原の議論に則して、それをいえば、中原の皮肉となった 「なにによらず、表現されたものには、いくばくかの芸術的価値があるという、怪理念」に逆説的に関係してくるものである。東野のガラクタという現実の反芸術は、叙述ではなく提示であり、素材(媒体)の提示であったとする見方である。そして、東野のあたらしい素材の提示という芸術的主張は、10年後の大阪万国博覧会で発芽し、開花し、これもまた皮肉にも、中原自身も参加するのである。

 そして、これにたいして、異なる形態ではげしく挑む「反芸術」もあらわれるのであるが、ここでは「東野芳明の『反芸術』と、評論家の『反芸術』」をおわるにあたって、時代を先送りして、’60年代最後の年、1970年に、東野の到達した「成果」についてのべておこう。


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