Avant 2-4-2

第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

4) ’60年代日本の「反芸術」(その2)


① 評論家の「反芸術」

Part 2 



 東野は、「ガラクタの反芸術」への批判論にたいし、あらたまった再反論を叙述していない。ただ、そののちのかれの「芸術活動」が、それに応えるものになっているようにみえる。

 かれは、1960年の当時では、さきにことなる文脈で対象とした、「反論」ともいえぬ反論を書いている(『芸術新潮』1960年5月号)。

 かれは、そこで、反論の核心として 「それよりも、ひよっとあらわれた「反芸術」という言葉をきっかけにあらわれた、たとえば右の三氏(注.岡本、瀬木慎一、針生)の態度に、日本の批評家の典型的な取りすましの姿勢がみてとれたのは収穫である。つまり、批評家として手を汚すまい、との自衛本能が、案外に、ひよっとしたらそこから、本当に「ただしあった」新しい芽が、いますでに「起きている」かもしれないことを見逃してしまい、ただ否定さえしていれば自分は安全である、という心理だ。しかし、それを「季節の移り変わり」にとどめをさせずに根を下ろさせるのこそ、安全地帯から飛び出した批評家の活動ではなかろうか」 と、のべている。

 批評家の「保身」云々は、行き掛かり上の言辞として措いておくとし、「本当に『ただしあった』新しい芽を、『季節の移り変わり』にとどめさせずに根を下させるのことこそ、・・・批評家の活動ではなかろうか」は、のちの行動に照らし合わせると、かれの反論であり、確信であった。新しい芽とは、最初の「ガラクタの反芸術」で指摘された 「そんなガラクタにみちた戦後の廃墟から、ようやく、新しい素材を自然に大胆に使う作家が伸びてきたのだ」であり、それが「強烈な観念の世界」を構築しているということであろう。さきに紹介した「座談会」でも、また、この『芸術新潮』掲載の一文でも、「ぼくは、たとえば工藤哲巳という作家個人に、卑俗な物体と強烈な観念とを合体させた不思議なメタフィジックを発見したことを報告しているだけ」と、あたらしい媒体によるあたらしい芸術の発見をくりかし強調している。

 ガラクタというここでの「新しい芽」については、すでに本論で紹介したヌーヴォー・レアリスムのレスタニーが、ティンゲリーやアルマンにたくして思想的に明確にのべている「新しい芸術」である。 (注.「第2章  2) ’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合)」(『百万遍』No.4) そして東野は、それいじょう思想的には語らなかったが、かれは、この思想の延長上に、レスタニーがおこなわなかった、芸術行為を達成した。

 それは、’60年代日本の「パレード」風俗のひとつの到達点でもあった、大阪千里ヶ丘の約350ヘクタールの丘陵地で1970年3月に開催された日本国際博覧会(通称・大阪万国博覧会)への積極的参加でしめされるようなものであった。

 東野芳明は、1967~68年の「デモ・ゲバ」風俗後期の「学園紛争」絶頂期のころからはじまった大阪万博立案・計画のなかでも、この博覧会の中心にあった「お祭り広場イヴェント調査委員会」の委員となった。「お祭り広場」をはじめ、独立した各展示館では、コンピューター・プログラミングによって操作する照明装置、音響装置、映像装置を媒体として創造された芸術空間が実現した。かれが、エレクトロニクス音響、映像を駆使するアヴァンギャルド芸術家たちの活動を、立案・計画委員の立場から支持し、支援したのは、あたらしい媒体による芸術の推奨者として、かれなりの必然であった。

 1960年代末のこの時代におけるコンピューター・プログラミングが操作する音響、映像、照明の「あたらしさ」は、1960年における、廃棄物の「ガラクタ芸術」の比ではない。コンピューターは、芸術家をふくめてとうじの個人にはかかわりのない「媒体」であった。たとえば、パーソナル・コンピューターの普及についていえば、日本ではその約10年後の1976年に東芝から「TLCS-12A」が発売され、二年のちの1978年の日本での出荷台数は8万台であり、さらに五年後の1983年でも17万台で、一器の価格は17万円との記録がある(Wikipedia 〈パーソナル・コンピューター史〉参照. なお、日本社会の普及時のコンピュータ実体験記については、『百万遍』同人の福島勝彦氏による「わがデジタル創世記─ 世の中が急速にデジタル化したこの三十年の物語」があり、当時の日本社会ではいかなる新鮮さを発揮する媒体であったかがしるされている.)

 こうした最新・新奇な媒体を使える使いたい あらゆる分野のアヴァンギャルディストたちが、これぞ 「前衛(アヴァンギャルド)」! と、同調し、蝟集したのはとうぜんであり、また、’60年代アヴァンギャルドのひとつの実体をしめすものであった。

 そのころ記された東野の記述には、かれらのおもい、期待、そして、その高揚ぶりがよくあらわれている。

 

 磯崎新を中心に、秋山邦晴、中原佑介、松本俊夫、山口勝弘、佐藤陽紘、今井直次、坂本正治、吉村益信らと一緒に参加した、この「イヴェント調査委員会」では、「見えないモニュメント」という理念をめぐって、また広場とはなにか、祭りとなにか、という分析からはじまって、ずいぶん議論を重ねた(考えてみると、この数年、この種のいわゆるブレーンストーミングにしばしば参加したのは、ぼくにとっては全く新しい体験だった。書斎の密室で、たったひとりでうんうん考えつめる生活と、それはまさに正反対で、開放的な共同思考ともいうべきものだった)。(カッコは原文のママ)

 南北に約百三十メートル、東西に約八十メートルのひろがリを持つこの広場は、高さ三十メートルのところに六本の柱だけで支えられた、ハーフ・ミラーの屋根がかぶさり、日中は屋根をとおして青空が見える、という風に、ほとんど半野外的な性格を持つ広場である。催物プロデューサー渡辺武男の許では、この広場で行われる正規の催物プログラムが準備されはじめたが、移動観客席や浮動舞台のある、この解放された空間では、閉じられた古典的な劇場とはちがった演出が必要となってくる。

 われわれのグループが、観客と演者とが対話する正規の催物よりも、むしろ、何もあらたまっては上演されていない、インターバル(幕間━といっても、時間的にはこのほうがはるかに多いのである)の時間に興味をもったのは自然なことだったろう。そこでは、とくにあらたまって何かを享受しようと構えた聴衆ではなく、通りすぎるか、ぶらぶらしているか、退屈しているか、ともかく何となくそこにいる、無関心でそっけない群衆が相手である。

 その彼らを、劇場の中にいる構えた群衆に変えるのではなく、そのままそっくり、すべてをむき出しの状態にもってゆきたい。ちょうど、照明装置や音響装置をはじめとする、ほとんどすべての装置類がむき出しのままにあらわれているこの広場のように、群衆の意識も無意識もすべてが露わの状態になるような演出を考えたい━それがわれわれのひとつのプランだった。(「反論せよ!『万博参加』の芸術家たち」初出『潮』124号、1970年4月/東野芳明(松井茂+伊村靖子編)「虚像の時代  東野芳明美術批評選」 pp.273-275)(下線は筆者)

 

 この記述は、雑誌『潮』1970年4月号に発表されたものであることは注意しておかねばならない。「万博」開催は1970年3月14日から9月13日までであるから、開会式以前に書かれたものである。

 まずここで強調されているのは、’60年代日本のアヴァンギャルド芸術のおどろくべき多様なジャンルとメンバーが、なにかを期待し、求めて、たがいのいがみあいをわきにおき、集まっていたかである。

 じじつ、大阪万博には、’60年代日本のアヴァンギャルド系の芸術家や評論家たちがさまざまな形で参加している。本論にいままで登場したもの、これらから登場するものだけでも、東野をはじめ、参加し協力したものはおおい。現代芸術評論家の中原佑介、ネオダダ・ジャパンの吉村益信、ハイレッド・センターの高松次郎、読売アンデパンダンの三木富雄、実験工房の山口勝弘、現代音楽の小杉武久、一柳慧、武満徹、暗黒舞踏の土方巽らである。そのほかにも、すでにニューヨークやパリに転居していた荒川修作、篠原有司男、工藤哲巳らをのぞき、伊藤隆康らアヴァンギャルディスといわれる新進芸術家らが、積極的にくわわっている。大阪万博は、’60年代「高度経済成長社会の日本アヴァンギャルド」の、ひとつのメルクマールであった。

 そうしたかれらについて、読者の参考のために、東野のあげているアーティストについてのみ、その経歴をかんたんに要約しておこう。

 すでに紹介したことのある磯崎新は、ほとんど無名ではあったが、知る人ぞ知るといった26歳の新進のアヴァンギャルド建築デザイナーであった。とうじ26歳の松本俊夫は映画芸術家であったが、それまでには数本の短編の実験映画の制作だけあり、そのころ、かれにとって初の劇映画、「薔薇の葬列」を撮影中のアヴァンギャルド映画の映像作家であった。かれの制作したマルチプロジェクションやインターメディア、ヴィデオインスタレーションをもちいた実験映画の実績が、かれをそこに招いたのであろう。秋山邦晴は実験工房にも参加した詩人、音楽評論家である。そのほかにも「実験工房」体験者では、メディア・アートの先駆者山口勝弘や舞台照明芸術家の今井直次が参加している。ネオ・ダダ・ジャパンの創設者であった吉村益信については、1962年に渡米し、ニューヨークで活動をつづけていたが、1966年6月にビザのトラブルから余儀なく帰国している。そのかれが、いちはやくこの「万博」企画に参加しているのは、とうじのアヴァンギャルディストの期待と、その芸術思想のありどころをしめすものであろう。

 だが、ここで、今ひとつ注目すべきものがある。それは、東野のあげた構成メンバーの性別、年齢である。かれらはことごとく、30歳未満の男性である。女性不在は芸術アヴァンギャルドにしてなお、戦前体制が確固として維持されており、そのことがさきの「皇太子パレード」に熱狂する根元のひとつをあかすものであろう。いっぽう、このような国家事業における、旧来の知識・経験が通用しないテーマの選択、それにともなう中心委員の年齢と実績については、’60年代日本社会の過去との「断絶」の機運がなお機能していたことを、あかすものであろうか。それとも、それは、「お祭り広場」の名称がいみじくも露呈させているように、「無礼講」のガス抜きという、日本的体制の常套の手口が、期せずしてあらわれていたのだろうか。「パレード」風俗はそうした角度からみていくことを忘れてはいけない。

 とはいえ、この「万博」に蝟集したアヴァンギャルディストの数とジャンルの実態はおどろくべきものがある。データー的に羅列して提示するより、煩瑣ではあるが、ふたたび東野からの引用でしめしたほうが、かえって簡潔にわかるとおもわれる。かれのうえの記述内容にはまたもどってくるとして、ひとまずその列挙を引用しておこう。

 

 万国博には・・・・多くの芸術家たちがさまざまな形で参加している。ぼくが直接間接に関係したり、知っているだけでもその数は多く、ほとんどが三十代、四十代の中堅、新人作家たちだ。七曜サブ広場の彫刻は、高松次郎、三木富雄、伊原道夫、福島敬恭、井上武吉、榎本健規、山口勝弘、新宮晋の八人によってほとんど完成した。

 三井グループ館は、チーフ・プロデューサー山口勝弘のもとで、伊藤道夫、一柳慧、坂本正治らによる円形ドーム・スクリーンに映像と音響が交錯し、また、カメラマン小川隆行、デザイナー倉俣史朗、彫刻家関根伸夫、小林はくどう、高橋史郎の協力が見られる。せんい館では、横尾忠則がパヴィリオンを建築工事の途中のような形にデザインし、ほかの「完結」した建築にたいして、未完の廃墟のような観を呈している。内部にはシュルレアリスト、ルネ・マグリットの自画像をそのまま長身のマネキンにした四谷シモンの作品がずらりとならんで不気味であり、吉村益信らの展示に加えて、松本俊夫の映像と秋山邦晴の音響が炸裂する。鉄鋼館の音楽堂には、前川国夫の設計をもとに、武満徹と宇佐見圭司が組んで、音響空間の新しい実験がレザー光線の空間分割や空間溶解を通して大胆に展開するという。また、ペプシ・コーラ館は、半球の鏡面で、観客の位置によっては空中に物の虚像が出現するはずであり、この幻想的な投影のなかで、土方巽、粟津潔、月尾嘉男、小杉武久、筆者(東野芳明)などがアメリカ側の作家と平行して、いろいろなスペクタクルの演出を研究中である。(同上書)


 ここには、本論 「第2章 ’60年代日本の『反芸術』」で、さまざまな視点から問題にし、また、これからも問題にする芸術家らが名をつらねている。造形芸術家高松次郎、三木富雄や現代音楽家、一柳慧、小杉武久、現代舞踏家の土方巽らである。そのほか、25歳で、誕生したばかりの「もの派」の造形家関根伸夫、状況劇場にも、女形(おやま)役でかかわる、23歳の人形制作者四谷シモン、そして、グラフィックデザイナーの横尾忠則の名前もあげられている。そのほか、説明は省略するが、そうそうたるアヴァンギャルドのアーティストが流れこんでいる。百花繚乱これらのなかに、工藤や荒川、篠原有司男の名がみえないのは、かれらが日本にいないという理由からだけだろう。

 ただ、そうしたなかで留意しておかねばならぬのは瀧口修造と針生一郎が、いかなるかたちでも参加していないことであるが、’60年代アヴァンギャルドの視点からは、それをあまり一面的に評価しないほうがよいともおもわれる。

 かれらが、参加していないのは、それ相応の理由や主張があってのことであろうが、この前後の時期のかれらの発言や行動をみるかぎりでは、明確な批判や反対論をのべていない。それは、針生の岡本太郎へのあいまいな言辞にあらわれているように、正面から批判するまでもないという、換言すれば、相対的な容認であったようにさえおもわれものであった。

 また、そのほかにも、本論でこれからあつかうハイレッド・センターの中西夏之や赤瀬川原平も参加していないが、中西のばあいは、かれの関心が平面芸術にあり、赤瀬川は「千円札」事件の係争中であったことが、ちょくせつの理由であったとおもうが、はたしてどうだろうか。

 ようするに、そうした状況が、計画時から開会までの「万博芸術」であり、’60年代アヴァンギャルディストの、ていどの差はあるが、まぎれもない実情である。

 しかしながら、他方では、かれらアヴァンギャルディストたちの名前をこれほどまでに列挙している東野にとっては、すくなくともさきに引用したところでは、かつてかれが提示した「ガラクタの反芸術」批判への反論と再主張が、なかば意図的に語られているようにおもわれる。

 タイトル「反論せよ!『万博参加』の芸術家たち」にしても、芸術評論家の東野にとっては、「エレクトロニクス芸術」と「ガラクタの反芸術」も、ひとが芸術素材と認めない新奇な媒体を発見した 芸術化ということでは、まったくおなじものである。したがって、これら「あたらしい芸術」参加者は、自己批判の「反論」をせよ! になるのであろう。

 芸術論的視点からいっても、さきの引用文のつぎのところなどは、「ガラクタの反芸術」について、かつてかれののべたところと本質においては、ほとんどかわるところがない。


 われわれのグループが、観客と演者とが対話する正規の催物よりも、むしろ、何もあらたまっては上演されていない、インターバル(幕間━といっても、時間的にはこのほうがはるかに多いのである)の時間に興味をもったのは自然なことだったろう。そこでは、とくにあらたまって何かを享受しようと構えた聴衆ではなく、通りすぎるか、ぶらぶらしているか、退屈しているか、ともかく何となくそこにいる、無関心でそっけない群衆が相手である。

 その彼らを、劇場の中にいる構えた群衆に変えるのではなく、そのままそっくり、すべてをむき出しの状態にもってゆきたい。ちょうど、照明装置や音響装置をはじめとする、ほとんどすべての装置類がむき出しのままにあらわれているこの広場のように、群衆の意識も無意識もすべてが露わの状態になるような演出を考えたいそれがわれわれのひとつのプランだった


 ここに記されている、ことに下線部にしめされているのは、「ガラクタの反芸術」やその直後に語られたものと、基本的立場においてかわるところのない主張である。音響装置照明装置がむき出しのままあらわれているというのは、「ガラクタの反芸術」の、むき出しの状態でほうりだされている、カラッポの動物園焼けトタン焼け缶であろう。

 そして、それらの大音響を発し、旋回するまばゆい閃光をはなつ音響装置や照明器具から、「群衆の意識も無意識もすべてあらわな状態になるような演出を考えたいそれがわれわれのひとつのプランだった」というのは、これを書くときのかれの芸術的確信は、まさに、それら音響、照明効果の芸術性を見逃すことなく しっかりと、じぶんたちはとらえており、「『季節の移り変わり』にとどめさせずに根を下させる ことこそ、安全地帯から飛び出した批評家の活動ではなかろうか」とかつて言い放っときの確信と、なんらかわるものはなかったのではあるまいか。

 それに、「『季節の移り変わり』にとどめさせずに根を下させる」予感と確信とよろこびは、この叙述のいたるところにあらわれている。

 すでに引用した「ぼくにとっての全く新しい体験・・・・開放的な共同思考ともいうべきもの」は、既成芸術をしめつけていたジャンルを撤廃した共同制作のよろこび、そして、芸術が個人のものでなく共同のものになることからくる、「個人主義」の開放からうまれる芸術の自由の予感が、そこにあるようにおもえる。

 そして、その東野にとどまらず、メンバー共有のよろこびの予感は、さらに具体的には、これからはじまる’70年代の世界アヴァンギャルドの動向を、その最先端にあって予告することにある。とうじ造語されたばかりのインターメディア、そして、さらにその先のメディア・アートと呼ばれるようなものである。

 そのよろこびについては、芸術評論家であった東野より、芸術作家のよろこびは、さらに陶酔にちかいものであったようにみえる。アヴァンギャルドの芸術作家にとって、この「万博」がどのようにみえ、それに参加したかをしめす記述がある。

 さきの東野の記録にもあった、イヴェント調査委員会の委員であり、メイン会場のひとつ「せんい館」の映像責任作家であった実験映画の松本俊夫が、「EXPO’70=発想から完成まで 狂気とエロス的体験の場 ─ せんい館」と題して、『美術手帖』(1970年5月号)に発表した報告である。


 私がコーディネーターの協和広告から万博〈せんい館〉の仕事を依頼されたのは1967年の12月の冒頭であった。〈せんい館〉を映像中心のパピリオンにしたいので、ぜひ私にやってほしいのだという。私は熟考の末、二つの条件を提示した。一つは創作上の問題に干渉しないこと、いま一つはスタッフの編成を私にまかせること、この二つを約束すれば引受けましょうというわけである。

 協和広告が出展主催者の日本繊維館協力会と相談のうえ、私に示した回答は意外にもOKであった。意外というのは、むろん最初に私の構想が承認されればという前提ではあったが、金を出す側はえてしてそれ以上に、こまごま口を出さずにはおれないのが通例だからである。やりたいことができるなら、それはそうめったにない実験のチャンスにほかならない。私の脳裏には、1958年のブリュッセル博の〈フィリップス館〉の試みや、スタン・ヴァンダービークの〈ムービー・ドゥローム〉、ニキ・ド・サン・ファールの巨大な女のハリボテなど、いくつかの先駆的なエンバイラメンタル・アートがちらついた。私はかねがねそれらの仕事に刺激を感じており、私は私なりに映像を主体としながらも、他のメディアと渾然一体となったインターメディア・プロジェクトを、いつかはしてみたいという衝動があったのである。

 私は直ちにコンセプションを練り、その原案を図面にした、高さ20メートル近くもある男女六体の巨像に囲まれた吊鐘型のドームをつくり、映像、彫像、照明、音響をダイナミックに混淆させながら、そこにエロスとタナトスがソラリゼートするバロック的な時空間を受胎させるというのが基本のモチーフである。したがってこのドームは比喩的にいえば〈子宮〉であり、同時に複合メディアによる男女六体の巨像のコンジュゲーションの場という意味では、観客は一種の感覚的・精神的な乱行パーティにインヴォルヴされるのである。私はそんなイメージを背後にこめながら、それを依頼主に〈先端的な時代感覚を全身的に体験する場〉という表現で説明した。

 依頼主たちは半分狐につままれたような反応をしながらも、基本的には私の提案に興味をもってくれ、原則的にその線で事を進めることを了承してくれた。そこで私は早速年内(1967年)にコア・スタッフを編成したのである。その間わずか一ヶ月たらずという素早さであった。ただし組織構成と任務分担が最終的に決まったのは年が明けてからで、その時点でのメンバーと担当は次のとおりである。

 総合プロデューサーに工藤充、総合ディレクター兼ドームの創作ディレクターに松本俊夫、映像ディレクターに鈴木達夫、音響ディレクターに秋山邦晴、照明ディレクターに今井直次、造形ディレクターに横尾忠則(建築デザインとドームの彫像を担当)、展示ディレクターに植松国臣と福田繁雄。そのほか実際の創作段階に入って、作曲家に湯浅譲二、音響技師に塩谷宏、ドームのスライド映像担当に遠藤正が加わり、また途中事情があって福田繁雄がやめ、新たに吉村益信と四谷シモンが参加したことをつけ加えておかねばならない。(松本俊夫「EXPO’70=発想から完成まで 狂気とエロス的体験の場 ─ せんい館」[『美術手帖』1970年5月号])(下線は筆者)


 松本の全面的参加の理由は、「やりたいことができるなら、それはそうめったにない実験のチャンスにほかならない」にある。’60年代アヴァンギャルディストとしてやりたいのは、「エンバイラメンタル・アート」であり、そのために不可欠な「インターメディア・プロジェクト」の立ちあげである。かれのいう「環境芸術(environmental art)」というのは、「ハプニング」の提唱者であったアラン・カプローが、この計画提案の一年前の1966年に刊行した著書『アセンブリッジ、環境、ハプニング(Assemblage, Enivironments and Happenings』で発表した最新の芸術概念であったが、松本がどこまでこれに則してこれをかたっているのかわからない。ただ、かれが映画映像作家として、それまで関心をもち、かれなりのおよぶはんいで実現してきた「芸術(実験)」に共通するものを、このことばにたくしたのであろう。そして、その方向でのさらなる実現は、「インターメディア・プロジェクト」なくしては、達成できないということである。ここでかれのいう インターメディアは、「他のメディアと渾然一体となった・・・」がしめすように、映像、音響のとうじ最新機器をもちいたジャンル横断の総合芸術という理解であろう。

 このプロジェクトのためには、とうじの日本では無名で少数の専門家の協力が不可欠である。だから、かれの二大条件のひとつは「スタッフの編成」権であった。そのあらわれが、この報告の最後に列挙されているアーティストである。工藤充は、映画映像作家であり、植松国臣は、グラフィック・アーティスト、広告デザイナーであり、福田繁雄は、グラフィック・デザインの専門家であり、湯浅譲二は、実験工房にも参加した作曲家である。かれらは、’60年代以前では、芸術家の範疇にはいらなかったメンバーである。

 そうしたアーティストへの報酬をふくめた莫大な費用を要するそうした条件を問題としない「制作」など、「そうめったにない実験チャンス」である。そうしたことは、映画作家であったかれは、知りつくしていたはずで、このいっさいの承認は、夢物語のようにうけとったかもしれない。しかも、そこでこころみる内容についても制約のない自由な「実験」は、とうじの世界的アヴァンギャルドの動向において、最先端にいる、スタン・ヴァンダービークやニキ・ド・サン・ファールに比肩できる作品制作になるはずである。

 こうしてねりあげた作品コンセプト自体は、〈先端的な時代感覚を全身に体験する場〉というものであり、ここでは、「エロスとタナトス」とか、「子宮」とか、「受胎」、そして、「男女六体の巨像のコンジュゲーション(結合)の場」、「乱行パーティ」とか、一読すると、おもわせぶりな背徳的なセックス用語が羅列されているが、具体的イメージをむすばないものである。おそらく、これは、これが掲載された『美術手帖』が刊行されたのが、「万博」開会直後の時期、4月であるとおもうと、「美術手帖」読者の万博勧誘を想定した表現であって、あまりふかくうけとらぬほうがよいであろう(注. おもいつくままにとうじ刊行され、アヴァンギャルド愛好家の話題となっていた、関連する翻訳書をあげれば、ヴィルヘルム・ライヒの『性と文化の革命』や、マーシャル・マクルーハンの『人間拡張の原理 ─ メディアの理解』などがおもいだされる.) 

 おそらく、「万博」参加でかれの関心があり、また、この『EXPO’70=発想から完成まで』で主眼となっているのは、東野のあの読売新聞紙上に、「読売アンデパンダン展から①」としてかかれた『ガラクタの反芸術』とどうように、「あたらしい媒体によるあたらしい表現」にあったのではなかろうか。

 とはいえ、これを掲載した『美術手帖』の同号には、グラビア写真ページの万博紹介があり、それには無署名の体験説明がそえられている。つぎのようなものである。(図版8 「せんい館ドーム」. 図版9「Space Projection Ako」)


 〈スペース・プロジェクション・アコ〉は〈せんい館〉の中心的な催しである。ドームの内部は終始薄暗く、壁面には人体の断片的な彫像がいたるところについていて、どこともなく子宮とかコスモスというイメージを連想させられる。このドームの内壁に、合計18台のプロジェクターから映像が投影されるが、ここでは風景や風俗などの外的スペクタクルは一切現れない。映しだされるのはたった一人の少女だけであり、それも背景は全くなく、したがってノン・フレイムの人物だけが。光学的な加工と変形を受けて不思議な内的スペクタクルを紡ぎだす。しかも増殖と収縮をくりかえすそれらの映像群は、カラー照明に浮かびあがる彫像や、ドームの全周からサウンドされる激烈な移動立体音響と混然一体となって、かつて体験したことのない未知の世界に観客をインヴォルヴする。その体験は、いわば全身感覚と意識をはげしくフィードバックする暴力とエロスの世界にほかならない。(万博・せんい館:松本俊夫担当の「スペース・プロジェクション・アコ」[『美術手帖』1970年5月号)




図版8: 万博せんい館ドーム






図版9: 「Space Projection Ako」




 冒頭と結語は、松本論文の踏襲であるが、体験記そのものは、あたらしいテクノロジー・芸術媒体による、あたらしい印象体験がしめされている。

 ただし「かつて体験したことのない未知の世界」の創造が、どのような芸術体験にむすびつくのか、あるいは、映画芸術をこえて、さらに、どのようなあたらしい芸術に発展していったかは、いまとなってもよくわからない。あるいは、真のあたらしい芸術として、芸術の名をうしない、異なる「営為」になっているのだろうか。たとえば、観客と演者とが対峙する催物ではなく、とくにあらたまって何かを享受しようと構えた観衆ではなく、なんとなく、ぶらしているのが楽しいような場を、精密な「計算」のうえに造営しているテーマ・パークや、観客参加の、プロスポーツのサポーター席に発展した興行芸術に、その結実をみるべきなのだろうか。

 あるいは、これはまた、’60年代の視点からいえば、ひとつの「反芸術」であったことも、まぎれもない事実であろう。

 しかし、ここでは、そのようなそこにあらわれたあたらしい芸術媒体の総合によるあたらしい表現のコンセプトや内容よりも、まったく異なる、だが、芸術と社会の関係において、いっそう本質にかかわる課題がのべられている。

 それは、ダダのツァラも問題とした、すべての近代芸術家がかかえる問題、ことにアヴァンギャルド芸術では無視できない問題、制作、報酬の金銭的問題が「意外に」かんたんに解決したことについてである。(注. 本論「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』: 3)トリスタン・ツァラの『ダダ宣言1918』とアンドレ・ブルトンの『反芸術』[『百万遍』No4 掲載]を参照)

 これについては東野もまた、かれの評論家の位置から、それなりの説明をしているのだが、それは、この「大阪万博」が位置した状況にふかくかかわるものであり、ひいては、アメリカ、ヨーロッパをふくめて、20世紀後半の戦後アヴァンギャルドの実体にふれ、また、日本では’60年代日本の「デモ・ゲバ」風俗にかかわるものであろうから、ぜひ示しておきたい。


 さきに引用した一文のあとに東野はつぎのような記述をのこしている。


 たしかに、これだけ、いわゆるアヴァンギャルド的といわれる芸術家たちが積極的に正面に駆り出されてきたことはかつてなかったことだろう現代芸術といわれるものは、分からない、売れないと相場がきまっていた。それがこの万博に関する限り、多くの企業がこの種の作家たちを貪欲に起用しているのは驚くばかりである

 これには日本だけでなく、世界的な美術や音楽の世界の動向にも内在的な気運はあった作品がそれ自体で完結した閉じられたものであることをやめて、周囲の環境の動的な中心となり、解放された為になりつつあったことがそれである。また、デザイン、美術、産業、建築、写真といったジャンルの作家たちが、各々のジャンルをこわし、のりこえたところで巡り会い、共同で仕事をしはじめていた状況も背景に入れていい。

 一方、企業の側では、モントリオール博の日本館の失敗にこりて、もはや単なる商品の直接宣伝を目的とした博覧会ではなく、むしろ企業それ自体の「高級な」イメージを演出することを求めた。芸術作品の「環境化」と、企業の側の「イメージ・アップ」とが時宜を得たように一致し、かくして、企業が、かつてのメディチ家に代るような、前衛芸術の擁護者としての化粧をして芸術家たちの前にあらわれたのである。(同上書 pp.278-279)


 「現代芸術といわれるものは、分からない、売れないと相場がきまっていた。それがこの万博に関する限り、多くの企業がこの種の作家たちを貪欲に起用しているのは驚くばかりである」という驚きの解決の問題は、ツァラも未解決の問題とし、また、中原もさきの「マティス」で、これを陰画の問題としてかたり、また、そのほかのところでは芸術論の必須の課題としている。おそらくはそのことと、つぎにのべることが、かれを「万博」に参加させた理由であったかとおもわれる。

 東野はこれについて、このような芸術が、美術音楽という芸術ジャンルをたがいに乗りこえるばかりか、芸術と工芸、さらには工業のさかいをこわし、テクノロジー(アート)でひとくくりになり、それにみあうものとなることで、この問題が、解決されるという展望をしめすのである。それが、現代芸術の趨勢であるとかれはいうのである。こうした思想は、かってアポリネールがかれの「シュルレアリスム」で、〈art & métier〉の主張でのべたことの延長にあり、芸術のサロン的、趣味的位置を排除した、20世紀アヴァンギャルドのひとつの流れであったのは、たしかであろう。(注.第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」 3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』 と アンドレ・ブルトンの「反芸術」」・・・(『百万遍』4号掲載))

 じじつとうじのアメリカは、じゅうらいの芸術の枠をこえた多種の総合芸術グループが結成され、世界二極構造における一方の盟主アメリカ合衆国の立場から、これらアヴァンギャルドへ好意的であったことからも、世界のアヴァンギャルドの注目をあびていた(注.「戦後体制における現代芸術」[『百万遍』2号掲載])。造形家、ミュージシャン、ダンサー、建築家、デザイナーらがたがいのジャンルを、相互乗りいれで無視して、あつまった芸術活動である。総合芸術のメッカ、ブラック・マウンテン・カレッジの講師であったジョン・ケージやマース・カニンガム、そして、卒業生であったネオ・ダダのラウシェンバーグらの活動もそれらのひとつである。

 そうした、アヴァンギャルド・グループのなかに、エンジニアが中心になって、アーティストと協同で活動した非営利組織がある。ベル電話研究所の研究エンジニア、B.クルーヴァーを中心に、ラウシェンバーグや、ハプニングのロバート・ホイットマンらが結成したE.A.T.(Experiments in Art and Technology[アートとテクノロジーの実験])グループである。

 サイエンティストを中心に組織したこのグループの目的には、テクノロジーをもちいた芸術活動もあったが、既成サイエンス・テクノロジー・システムへの批判と、脱システム化をはかる目的もあった。さきに、東野の説明にあったペプシ・コーラ館のプロデュースは、かれは言及をさけているが、E.A.T.によるものであった。

 ’60年代アヴァンギャルドには、このように、17世紀ヨーロッパでは反宗教体制ということで同根であった芸術と科学の隔壁を、科学の側からこわそうとする動向があったことは記憶しておくべきである。日本では、「ソフト・アーキテクチャー」の磯崎新がそうであり、また、科学思考をつうじて芸術思想を検討し、批判し、芸術の活性をはかる、評論家の中原らがこの範疇にはいり、かれらの「万博」参加はそこからも説明できるであろう。建築家や現代芸術評論家として、「万博」で実現する芸術形態に関心をもったのである。

 そして、そうした20世紀後半のアヴァンギャルドの流れがあらわしたのが、環境芸術であり、インターメディアであり、メディア・アートであり、インスタレーションであったということができよう。表現内容からいえば、ポップ・アートもまたそうである。

 しかし、こうした芸術と科学の幸福な協調が実現したように、かれらにはみえたものについては、もっと見極めておかねばならないものがある。

 東野は、こうした趨勢は、世界的規模での時代の趨勢だという。「万博」芸術のスポンサーであった日本企業が、その動向を察知したことが、アヴァンギャルド芸術家とスポンサーの合意をもたらしたという。そして東野は、「企業が、かつてのメディチ家に代るような、前衛芸術の擁護者としての化粧をして芸術家たちの前にあらわれたのである」という。

 東野の表現では、企業と芸術家の連携の虚実をどう考えていたのか、その真意はわからない。メディチ家とイタリア・ルネサンス芸術の関係についても、それを是とするのか非とするのかもわからない。

 しかし、膨大な資金をつぎこまねばならないこのような総合芸術の「意外な」承認を直接もたらし、実現させたのは企業であった、という指摘は、まぎれもない事実であろう。

 であるなら、それは、’60年代日本の経済状態がかかわっていたであろうし、この角度からこの問題を検討しておきたい。

 ’60年代日本の経済状況をとりあえずあらわすものとして、実質、名目の「経済成長率」、「国民総生産(GNP)」、その他のあらましの推移を、とりあえず一覧表でしめしたらつぎのようになるだろう。


経済成長率    実質    名目    GNP*                  

景気名称

1950

特需景気起る

1955                  8兆3991億円 

下期 神武景気(~’57年上期)

1957      9.9%   15.1%           

なべ底不況 (’57年下期~’58年上期)

1959      10.4%   14.2%           

岩戸景気 (’58年下期~’61年下期)

1960            15.6%   21.3%    15兆9980億円

1961            13.3%   20.7%           

全都市消費者物価指数、7.7%上昇

1962             8.3%   13.4%    

1963             8.6%   14.4%

1964              12.5%  17.5%

1965             5.7%   11.3%    32兆7728億円 

消費者物価 7.4%上昇  (物価問題 深刻化)  

1966              11.4%  16.2%           

いざなぎ景気(’65年下期~’70年下期)   

消費者物価 5.1%上昇

1967           12.4%   17.2%     

国民総生産1140億ドルで資本主義国第3位となる

(ベトナム直接特需5億585万ドル[前年比7.9%増])

1968           14.2%   18.4%    1428億ドル

(国民総生産が米国に次ぎ世界第2位となる

1969           13.7%   17.5%      61兆066億円

(IMF,増資決定.日本の新出資額12億ドルで第5位)

1970           10.8%  17.9%      73兆1884億円 

いざなぎ景気オワル


(注. この表は、『近代日本総合年表』第4版[岩波書店]の記載から作成した. GNP[国民総生産]は、1993年からGDP[国内総生産]が一般に使用されているが、「国民総所得」[GNI]にちかい概念であり、本稿の議論では大差ないものである.)

 

 ‘60年代日本の経済成長は、国民総生産からみると、いちじるしいものがあった。1945年の敗戦によってなかば壊滅した国民経済は、1950年には、朝鮮戦争「特需」を契機に、1934~36年の水準の98.6%を回復していたが、おそらくは戦後はじめての「建国神話」復活の引用である神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気とよばれた経済好況によって、戦前旧体制の安定期をこえるまでになっていた。1936年とは、旧日本国家主義政府が、1930年から加盟していた「海軍軍縮会議」を1月に脱退し、また、2月には二.二六事件がおこった年である。(注. 本論「序章 ② 世界状況のなかの日本」[『百万遍』2号])

  そして、1960年には、15兆9980億円であったGNPは、東京オリンピックの翌年1965年には倍増の32兆7728億円となり、「学園紛争」頂点の1968年には、1428億ドルとなり、資本主義国では米国についで世界第2位となっている。そして、大阪万博が開催された1970年は、いざなぎ景気がおわる年であったが、実質経済成長率はなお10.8%あり、国民総生産は、1960年の5倍にちかい73兆1884億円にたっし、見かけのうえからは、世界屈指のゆたかな国であったようにみえる。

 しかし、国民総生産は人口が加味されない、国単位のものである。国民の生活上のゆたかさは、ひとり当たりの国内総生産や相対的物価価格が問題となる。この一覧表にもしめしたように、’60年代日本の消費者物価の上昇ははなはだしいものがあった。これが、授業料値上げに端を発する学園紛争の現実的要因であったことについては、すでにのべたところである(前掲注記参照)。さらにまた、1970年の国民ひとり当たりのGDP(国内総生産)では、日本は、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツにとうていおよぶものでなく、かろうじて、イタリアの水準にあった(注.斎藤潤「第一次世界大戦後の100年間:世界経済はどのように成長したか」[日本経済研究センター]を参照した.)

 さらにまた、日本の国民総生産の急速な成長にしても、かならずしもそれは日本独自のものではない。いずれの国、とくに資本主義国では、1945年の第二次世界大戦終結を境に、急激な上弦カーブをえがいて上昇している。ただし、アメリカ合衆国がずばぬけた成長をつづけ、格差拡大があることは顕著であり、これを見るかぎりにおいては、日本の戦後の経済成長が、ことさらな「奇跡」などではなかったようにおもわれる。

 しかしながら、戦後の日本企業にとっては、いささかこの経済成長の受けとりかたは、ちがっていたのではなかろうか。日本経済としては、さきにものべたように、1950年には、戦前水準のほとんどを回復していたのだから、’60年代日本の急速に上昇する経済事情は、ほとんど未経験の状態であり、その実情を把握していない、むしろ有頂天のゆらぎがあったのではなかろうか。

 とうじの日本社会の実態をしめすようなひとつのエピソードをしるしておこう。

 ある大学の外国文学科の最若年の教員数人が、出版社依頼によって、一冊の翻訳書を出版した。これは、苦労して勉学にはげみ研究者となり、初の女性ノーベル賞受賞を、しかも2度もなしとげた移民女性の伝記であって、自由と男女平等をかかげる戦後日本社会では、空前の超ベストセラーとなり、翻訳者たちは巨額の印税を手にすることになった。そこで、かれらのうちのひとりが、その印税で家を一軒購入しょうとおもいたったところ、師であり上司である主任教授から、「家などとんでもない、その金で留学してこい!」と、きびしい叱責をうけた。かれは、そのひとことではたと気づき、それを元手に、専門文学のメッカに留学し博士学位を取得し、帰国したのちやがてその大学の主任教授となったそうである。

 これは、いかにもバカバカしい話しであるが、とうじの日本企業の経営者にも、そうした家を買うような傾向があったのではなかろうか。

 もちろん、この話の家を買う計画について、どのような家をなぜ買うのか、あるいは、吉村益信が磯崎新にアトリエ建築を相談したような、さまざまな理由あってのことだろうが、すくなくとも一貫した展望のなかでたてられた企画ではなかっただろう。まず、それが可能となる資金を入手したことが、最大の動因だったのだろう。

 おなじようなことが、日本「企業」の万博「現代先端芸術」の承認にあったようにおもわれる。せいぜいのところ、あのアメリカの有名成長企業であるペプシコーラもやっていることだから、これぞ、戦後世界の経営方針だ、というていどの判断基準だったのかもしれない。だが、ここでは、こうした「宣伝広告」の是非を問題としているのではない。

 1970年の「大阪万博」の会場に投下された費用は、とうじの日本の経済力としても、きわめて過大なものであった。東野の1970年のあの記述では、投下した資金は1兆円をこえると記されているが、以下のような記録も、会場設営にかかわった企業によってのこされている。会場費用だけで2000億円、また、関連事業費は1兆5000億円以上、これにともなう消費需要の相乗的波及効果をあわせると、2兆円ないし3兆円にのぼるとされたとある(注. 『大林組80年史』) この数字は、1970年の日本の国民総生産が73兆1884億円であり、一般会計歳出は45兆円にわずかに欠けるものであったから、国民総生産の約2.0%、一般会計歳出の約3.3%に相当する金額が投下されたことになる。そして、その投入金額すべてを、日本企業が負担したのではなく、とうぜん国家予算もつかわれ、出展した外国企業の負担もあることだが、その大半を負担したのは、日本企業であったのはまちがいないところである。企業別負担額についての資料は入手できなかったが、「意外」なまでのぼうだいな数値がならんでいるにちがいない。

 しかし、ここにあったアヴァンギャルド芸術のあつかいを、スポンサーの「企業」側からみればそのようになるのだが、アバンギャルドからすると、むしろ、この「意外」性は、奇とするものではないであろう。

 まず、つぎのようなところから、考えてみなければならない。

 これら企業は、1945年の敗戦によって、企業体制になんらかの断絶がおこっている。というのは、1945年の敗戦によって、ひとまず旧支配層は排除され、1950年ごろからはじまる世界2極構造への勧誘とともに、じょじょに復活が容認されていたが、やはり、1868年の明治維新いらい、なんとか築きあげた近代国家主義体制とは、「断絶」があり、また、戦後文明の急激な変化もあって、まことに不確かな「体制」というのが、なおとうじの日本社会の実態であった。というのが、半世紀いじょうが経過し、その間、この日本で生活してきた筆者の実感である。’60年代日本は、なお「戦後断層」のなかに片足がのこる、不確かな状況にあった、ということである。

 ところで、あらたな文学・芸術、そして、科学がなんらかのかたちで社会に認知されるのは、いっぱんに社会の「体制」がかわるときである。東野もメディチ家とのかかわりでイタリア・ルネサンスを語っているが、14~16世紀の社会「体制」の大「断層」は、文芸、科学の「復興」と表現されるほどの一新したすがたを社会に認めさせた。フランス革命でしめされる中規模の社会「断層」もそのごの一世紀間に文芸・科学を近代化した。20世紀初頭の第一次世界大戦があらわす社会「断層」の規模は、それらに匹敵するのかどうかまだよくわからないが、この「断層」もまたそのようにみることができる。

 「体制」がかわるとき、あらたな文学・芸術、そして、科学が出現する。

 というのは、社会体制が、個人の身動きを許さぬほど確立しているときは、人間個人の想像力とむすびついている文芸や純粋科学は、「体制」にとっては、本来的に、役たたずの無駄なもの、よくして、気晴らし楽しみリクリエーション、社会の必要悪的余剰であるからだ。そして、ひとつの体制がゆらぎ、移行していく体制がまだゆらめいているとき、そのゆらぎやゆらめきから漏れでる余剰エネルギーのうごきが、人間の想像力に吸収されて、あらたな文学や芸術、そして、科学が形成されていく。

 話をもとにもどして、現象的にいえば、’50~’60年代のアバンギャルド芸術・文学についていえば、それは、「資本主義・『自由』主義」体制にぞくする西ヨーロッパ、イギリスにおいて、程度、種類の差こそあるもののどうようのうごきがあり、また、盟主アメリカ合衆国では、顕著なかたちで芸術にあらわれた。

 そして’60年代の日本におこったのは、戦前の国家(主義)体制から、(資本主義・共産主義)グローバリズム体制へ移行の「断層」で、国民総生産の急激な上昇をうみ、その余剰エネルギーを、芸術、科学が吸収し、活性化したということであろう

 なお、さらに一言つけくわえておけば、’60年代に活性化した科学は、そのごの半世紀間の日本のノーベル賞受賞に反映したのであろう。 (注.本論、第1章でしめしたように、日本経済再生の契機は、グローバル化した世界2局構造における「資本主義・『自由』主義」体制と「共産主義・『政治』主義」体制の対立からしょうじた「朝鮮戦争」の「特需」にあった。じゅうらいの国家(主義)体制の見方からすれば、他国間の「戦争」が、自国の経済に決定的影響をあたえることなど、予測も展望もなかったであろう。戦後の日本企業がその移行に無自覚であり、おくれて気づいたことが、この経済成長期の経営方針のゆらめきにあらわれているようにおもわれる。)

 そうしたゆらぎからもれでたエネルギーが、東野や松本が記した日本社会に先例のないような、おどろくべき新奇な芸術形態を実現させた資金の実態だったのであろう。

 だが、それは、結果として、かれらが願っていたようなものに結実したのかどうかは、やや疑問である。かれらの芸術を認知したのは、社会「体制」ではなく、「体制」の一部の、そのまた一部の企業だったからである。しかもその一部企業がたまたまそれを認知したにすぎなかったからである。

 しかもかれらが、そのようにおもったのは、かれらの記述の時期からしても、開会までの状況であり、展望であったのではなかろうか。

 大阪万国博覧会については、いっぱんにはつぎのように記録されている。

 1970年3月14日から9月13日までの6ヶ月間にわたり開催された日本万国博覧会は、総入場者数 6421万8770人 であったといわれる、もっとも成功した万国博覧会であった注 (注.『近代日本総合年表第四版』(岩波書店)]初版 1968年11月25日. 4版 2001年11月26日)。その入場者数は、外国人や複数回入場者もふくむ数であるが、(1970年日本の総人口は104,665千人であったから、)日本人の約60%が入場したことになる。この数値を世論調査とすれば、圧倒的多数の日本人が、この博覧会へのなんらかの支持をしめしていたことになる。

 この博覧会の主催は、財団法人日本万国博協会であったが、その名誉総裁は皇太子明仁親王(のちの平成天皇)で、名誉会長は内閣総理大臣佐藤栄作という、国家事業であった。

 そして、3月13日に施行された開会式には、天皇、皇后、皇太子、皇太子妃と、特別招待客、一般招待客をあわせた12000人が出席して、あの磯崎や東野らが関与したお祭り広場でおこなわれた。そこでおこなわれたのは、つぎのような開会式の行事であった。

 まず、博覧会国際事務局副議長オタカール・カウッキーから同年に制定されたBIE旗が日本万国博覧協会会長(元経団連会長)石坂泰三に手渡され、参加各国の入場行進があった。ついで、石坂泰三、内閣総理大臣佐藤栄作、衆院議長船田中、参院議長重宗雄三、大阪府知事左藤義詮らが挨拶のことばを述べた。さいごに天皇が開会宣言をし、皇太子が開幕のスイッチを押し、会場は紙吹雪に包まれた。そののち、世界各国の子供たちによるみこしで会場を沸かせた、という(注.Wikipediaを参考にした.)

 じつに巧妙につくられた組織図であり、それを公認させるような開会式である。

 戦前の旧来国家体制の枠組みを、まだ不確かな戦後体制に、むりやりはめこんで矯正するような組織図である。むりやりとは、接着剤としてつかわれたばかばかしいナンセンスが露呈しいるということである。すでにここで明確にしめされている国家事業が、アヴァンギャルド芸術のスポンサーとなるなど、効用からとはいえ、どちらにとっても、いかにもナンセンスな所業である。

 たとえば、さきの東野の説明にあった「お祭り広場」の、そこにいる者たちの意識も無意識も露わの状態にする広場のコンセプトや、松本の〈狂気とエロス的体験の場〉であるせんい館と、この開会式のかもす場の整合性はどこにあるのだろうか。現実的に言いかえれば、こに出席している名誉総裁や名誉会長、あるいは、協会会長である石坂らは、これらパビリオンのひとつでも訪問し、実体験のときをすごしたことがあるのか、そしてそのとき、かれらの案内者はどのような説明をしたのかということである。

 そうした「反芸術」からみた、大阪万博でなく、その双方のナンセンスぶりを確認するために、この組織図からみえてくる、国家事業としての日本万国博覧会について、もうすこし踏みこんでおこう。


 この組織図からみると、皇太子明仁が名誉総裁とされているが、戦後体制のみそぎをその結婚によってうけた皇太子を、そこにすえているのは、’60年代をおえる国家事業として、いかにも周到な工夫がみられる。

 この名誉総裁は、名誉会長(内閣総理大臣)佐藤栄作とはまったく異なるあつかいであることに注目しなければならない。名誉会長には、実質会長である元経団連の実力会長であった石坂泰三が就任しているから、佐藤は通常の名誉会長である。これにたいして、総裁の名のつくものは、皇太子いがいはいない。皇太子は名実ともに最高責任者である。それにあえて名誉をつけたのは、畏れおおくも、かつて神であった次期天皇をつぐ皇太子を、財団法人の博覧会協会の責任者など、とんでもないという戦前感覚であろう。そうした、旧国家体制と新国家体制のつじつまあわせのため、うまく名誉総裁などの肩書をつけたとしか考えようがない。現実として、9月13日に施行された閉会式には、天皇も名誉会長も、そのほかの衆参議長などお歴々が出席したようすはなく、ただ皇太子夫妻のみが出席し、皇太子が閉会の挨拶をしている。文字通り、国内外にむけた最高責任者の役割である。

 皇太子明仁は、正田美智子との「結婚パレード」によって、いっきょに戦後日本体制のアリバイとしての効果的な役割をはたすことになった。たとえば、本論ではいくどものべているが、年表によると、皇太子が結婚パレードをおこなったのは、1959年4月であったが、翌年2月には、 「2.23 皇太子妃、男子(浩宮徳仁)を出産」とある。ところが、その皇孫誕生をまつことなく、その一ヶ月前には、「1.20 岸首相、米大統領との会談で、大統領訪日(6.20頃)と皇太子夫妻の訪米(日米修好100年祭記念)とを決定」とある。日米が戦った太平洋戦争を素(す)っ飛(と)ばして、徳川幕府が調印した「日米修好通商条約」を思いだしたというわけである。しかも、100年前の1860年は、1858年にむすんだ通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣した年である。そのとき使節が乗船したアメリカ海軍のポーハタン号を護衛するという名目でサンフランシスコまで派遣されたのが、徳川幕府海軍の咸臨丸であった。という歴史背景をもつ「日米修好」であるが、この「日米修好100年祭記念」は、とうじの日米双方の政治体制にとって好都合であったのだろう。

 しかし、いくら都合がよいからといって、大統領に匹敵するのは、日本としては天皇であろうが、まさか、まじかにあったあの太平洋戦争で、大元帥陛下として、真珠湾先制攻撃による宣戦布告をした責任者が、日米修好記念祭に出席するわけにはいかなかったのであろう。とうじの合衆国の政治「体制」が、いかに説得してもアメリカ国民は承服しなかったであろう。そこで登場した、かつての国家体制からすると平民の娘と結婚した皇太子は、かっこうの新生日本のシンボルとなる。しかも、当人は、終戦時12歳のまだ教育中の未成年であって、戦争には責任がなかったばかりか、戦後いちはやくアメリカ人女性が家庭教師として、教育した人物である。

 戦後のふたしかな「日本体制」内で、いちはやくそれに気づいた者がいたようにおもわれる。皇太子妃安産の見通しがたつや、拙速なまでにそうそうに米国大統領との会談でとりきめていることからも、そのことはよくわかる。

 しかもこの相互訪問の決定は、1960年の安保反対の「デモ・ゲバ」風俗のなかで、つぎのような経過でとりやめとなった。

  

6.10  米大統領新聞係秘書ハガチー来日(合衆国大統領アイゼンハウワー訪日打合せのため)羽田空港で労働者・全学連学生(反主流派)のデモ隊に乗用車を包囲され、米軍ヘリコプターで脱出. 6.11 離日

6.15  安保改定阻止第2次実力行使(~6.16)、全国で111単産580万人参加. 安保阻止国民会議・全学連など国会デモ.

    右翼、全学連反主流派・新劇人などの国会デモになぐりこみ、60人負傷.

    全学連主流派、国会突入をはかり警官隊と衝突、東大生樺美智子死亡.学生約4000人、国会構内で抗議集会.警官隊、暴行のすえ未明までに学生など182人を逮捕(負傷者1000人を越す)

6.16  臨時閣議、アイゼンハワー訪日の延期要請を決定(マニラ滞在中のアイゼンハウワーも同意)


 これまで、いくども引用してきた「年表」による一週間の出来事である(注. 本論「第1章 2)「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本」[『百万遍』2号掲載]。 この国内状況では、6月20日に予定されていた米大統領訪日が実現されるはずはない。そして、先遣隊である米大統領報道官をデモ隊が追いかえしたことは、日米修好の破綻をしめすことであった。

  しかし、にもかかわらず、3ヶ月後の記載には、「9.22  皇太子夫妻、米大統領の招きで訪米に出発 10.7帰国」とある。この記載には「日米修好100年祭記念」の文字はない。

 とはいうものの、そのころの新聞報道や、その後の日米関係からみると、さきの事件などまるでなかったかのように、この皇太子夫妻の2週間の合衆国訪問はきわめてスムースにはこばれている。かれらは、アイゼンハウワー大統領にあたたかく迎えられたばかりか、かつての家庭教師のヴァイニング夫人の自宅を訪問し歓迎されている。

 こうしたことは、当時国の政権「体制」としては、なんらかの目的のためには、自国民の納得するかぎりにおいて、さほど問題とすべきことではないのだろう。のちにあった出来事でも、1979年、中国の国務院常務副総理、鄧小平が事実上の中国首脳として、日中平和友好条約の批准書交換のため来日したさい、中華人民共和国の指導者としてはじめて、かつての日中戦争責任者であった昭和天皇裕仁を皇居に訪問し、なごやかな会見をおこなっているように、さほどめずらしいことではない。

 だが、皇太子訪問先の合衆国の選挙民である国民感情としては、きわめて微妙なものがあったとおもわれる。真珠湾奇襲攻撃の犠牲者の慰霊施設である大規模なアリゾナ記念館が、ハワイ・オアフ島に建設されたのが、この2年後の1962年のことであり、21世紀になっても、合衆国大統領が真珠湾攻撃を口にする国民感情の国である。付言しておけば、一国の大統領や首相の放言は、おおくの場合、選挙民の感情を忖度しておこなわれるものである。

 このわれわれの年表表記にも、「大統領訪日(6.20頃)と皇太子夫妻の訪米(日米修好100年祭記念)を決定」とあり、「皇太子夫妻、米大統領の招きで訪米に出発」とある。いずれも、「日米修好」祭の日本側の代表者、あるいは、招待されるのは皇太子夫妻と記載されている。これは、異例である。

 というのは、皇太子夫妻は、この後、1970年までのあいだに7回、外国を「国際親善」の名目で訪問しているが、いずれも「名代として」である。天皇の名代であろう。さきにもふれたように、「日米修好100年祭記念」なら、とうぜん名目上の出席者は天皇であるから、「ご名代」がしかるべき肩書であろう注 (注.「天皇・皇族の外国ご訪問一覧表」[宮内庁]を参考にした.なお、皇太子夫妻の1970年までの訪問先はつぎの一覧である)


注.

1960年 9.22〜10.7: アメリカ合衆国

    11.12〜12.9: イラン、インド、ネパール(国際親善)ご名代 

            タイ(お立ち寄り)

1962年 1.22〜2.10:パキスタン、インドネシア (国際親善)ご名代

    11.5〜11.10: フィリッピン    (国際親善)ご名代

1964年 5.10〜5.17: メキシコ  (国際親善)ご名代

(アメリカ合衆国お立ち寄り)

    12.14〜12.21: タイ   (国際親善) ご名代

1967年 5.9〜5.31: ペルー、アルゼンチン、ブラジル

(国際親善) ご名代

1970年 2.19〜2.28: マレーシア、シンガポール    

(国際親善)(マレーシアはご名代


 しかし「日米修好100年祭」出席の日本側代表が昭和天皇ご本人では、退役軍人会のみならずアメリカ合衆国国民は、いかにしても承服しなかったであろう。そこで登場したのが新生日本の、普通のひとであることを身をもって証明した「皇太子」である。国王制度や皇帝制度の歴史不在で、ただ個人主義の国であるアメリカ合衆国では、個人からすべてを評価する傾向があるから、いかなる個人的問題もない、セットとしての夫妻は、ひかくてき容易に受容されたとおもわれる。

 それ以降、うえの別表でしめしたように、かれらは国際的な広告塔として過酷なまでの「親善訪問」をつとめることになる。これは、結婚以前の皇太子の外国訪問は、1953年の英国女王戴冠式に、「ご名代」として出席した一回かぎりであるから、極端な酷使である。これには注目しておかねばならぬところがいろいろあるが、ひとつだけ指摘しておこう。さすがに、中国、韓国の「親善訪問」はないが、おそるおそるの打診のような、アジア諸国訪問と、さながら日本健在を告知するような、日本人移民が多数居住する国、南米諸国訪問がおこなわれており、それいがいには一国も訪問していない。二極構造の世界国際関係において、とうじの国家「体制」には、合衆国いがいの国際交流はまったく考慮外にあることをしめすものであり、ひたすら旧国家体制が指向した植民大国と「大東亜共栄圏」のほころびをつくろうことしか視野になかったことをしめすものである。これもまた、’60年代の日本のひとつの実態である。(注.旧軍国主義体制が国家政策として推進した、「満洲」(現中国東北地方)移民政策は有名である.)

 ところで、このように、皇太子夫妻は、とうじの世界情勢、二極構造のいずれの側にも苦い味のする「天皇制」国家にとっては、じつに有効なシンボルになることを、国内人気回復を証明した「結婚パレード」にはじまるその結婚いらい、十二分にしめしてきた存在であった。そこで、二極構造の世界にむかって、いまだ評価のさだまらない戦後日本をしめすための、この現代的な博覧会の総裁は、国家「体制」としては、この皇太子とすることが、最適であった。ことに旧体制にちかい勢力においては、国家事業の頂点には、天皇制をおきたかったのであろう。

 つまり、限界ちかくまで硬直した安定期にある、たとえば21世紀の第一四半期の日本であったなら、ここに、かつてあれほど苦労した元首相、岸信介をおいてもさしつかえない。岸は、新安保条約・協定が、国会デモが国会を包囲するなかで「自然承認」された五日後の「批准書交換、発行」された日(1960.6.23)に退陣を表明し引退していたが、1970年には74歳で、なお政界では巨大な影響力をもつ実力者であったからである。それは、たとえば、2020年に計画された第2回目の東京オリンピックでは、オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に、最高責任者として83歳の元首相森喜朗が、公然と就任しているのだから、2019年の日本の見方からすると、国家「体制」の功労者の処遇として、とうぜんでありそうなことである。

 しかし、’60年代の日本政治「体制」の総決算である日本万国博覧協会では、そうならなかった。

 戦前国家主義体制の参与者であり、戦後、A級戦犯の嫌疑、取り調べをうけ、公職追放者であった岸信介ではなく、皇太子をすえる必要がとうじの国家「体制」にあったとすべきであろう。

 こうした見方は、博覧協会の実質会長であった元経団連会長の石坂泰三についてもいうことができる。かれはとうじ84歳であったが、1956年から1968年までの日本未曾有の経済成長期に、経団連会長を4期12年間にわたってつとめた幸運な経済人であり、企業参加勧誘には最適の実力者であった。しかも、終戦時58歳であったかれは、旧国家主義体制では、とうぜんあってもふしぎではない軍事産業や、一時解体された四大財閥のどれにもかかわらない第一生命保険株式会社の社長にすぎず、新生日本の代表経済人として最適の人選であった。しかし、そうしたことは、’60年代日本の立ち位置がいまだ定まっていないことをあかすものである。

 そして、また、このような組織図は、とうじの国家「体制」にとって、それなりの効果を意図してのことおもわれる。

 新生日本を世界にむけて宣伝し、第二次大戦の汚名を雪辱し、あたらしい国際的位置を獲得する絶好の機会であると、この大阪万博を位置づけた。そして、そのために、できるだけ多数の国の参加をえて充実した意義あるものとするため、政府・政権は外交ルートをつうじ、各国にたいして参加勧奨に努めるとともに、総理大臣や万博担当大臣の特使および万博日本政府代表のほか、博覧会協会幹部職員などを派遣して勧誘をおこなっている。その結果、国単位で参加したのは、世界77カ国にのぼった(Wikipedia:「日本万国博覧会」参照)。 なかでも、さきの皇太子夫妻が国際親善のため訪問したアジア・南米14カ国(アメリカ合衆国をふくむ)では、メキシコとエチオピアをのぞき、13カ国すべての国が参加している。

 ということは、いちおうのところ、戦後世界変動のなかにある20世紀後半の新生日本の世界へのお披露目(ひろめ)は、とりあえず受けいれられたということである。そして、このお披露目(ひろめ)にふさわしい化粧が、あたらしい電気・機械産業を象徴するテクノロジーを駆使したあのアヴァンギャルド芸術であったようにもみえる。

 しかし、あれほどまでおおく参加した、とうのアヴァンギャルディストたちにとって、結果としてこのようなすがたをみせた「万博」における、芸術活動はなんであったのだろうか。

 さきのイベント調査委員会の委員であり、「お祭り広場」の事実上の企画・実行者であった磯崎新の記述がのこされている。これは「万博」翌年、1971年2月に刊行された『空間へ』の巻末に書かれた「年代記的ノート」の一節である。この書籍『空間へ』は、1960年から1968年までに、かれが雑誌などに発表した論考、エッセーをあつめたものであり、それじたい’60年代日本のアヴァンギャルド建築の貴重な資料であるが、この「年代記的ノート」は、そのあとがきであり、自己批評的解説となっている。関係するところを引用してみよう。

                                                 

 日本万国博に関していえば、ほんとにしんどかったという他ない。こんな反語的表現しかできない程に、ぼくは五年間にわたって、渦中におかれた。まるまる五年間といえば、この本の半分の時期に亘っている。にもかかわらず、万国博協会が発行した文書に計画を説明するために匿名でかいたもの以外まったくない。あまりに深みにはまりこみ、批評が不能だったせいもある

 いま、戦争遂行者に加担したような、膨大な量の疲労感と、割り切れない、かみきることのできないにがさを味わっている。おそらくそれは当初から加担し、途中で心情的に脱落しながら、脱出の論理を捜しえずに、遂におもてむきの義理をはたすため、最後まで関係を保ちつづけたという事実によることはあきらかだ。脱落の端初は、万国博がテクノクラート支配で貫徹される見込みがついたときだまったくのところ、ぼくらは純情であったという他ない。現代のテクノロジーと正面きってむかいあえるはじめての場ではないかという幻想と期待をもっていたからだ。事実、結果として、いくつかのテクノロジー上の処理は達成できている。しかしその実現のうらには、膨大な予算を投入し、これを見事にのりきるまことに不思議な官僚機構が形成され、同時に国家的な規模でのプロパガンダがなされた。


 ここでの磯崎の述懐には、アヴァンギャルド芸術の視点からみると2点の注目すべきところがある。

 第一点は、「現代のテクノロジーと正面きってむかいあえるはじめての場ではないかという」万博への期待から参加したということであり、「結果として、いくつかのテクノロジー上の処理は達成できている」という、この参加目的のとりあえずの総括である。これは、「万博」参加のすべてのアヴァンギャルディストの期待であり、また近似する結論であろう。そして、そこで期待した「現代のテクノロジー」における、期待の重点は、「テクノロジー」よりむしろ、「現代の」にあったのであろう。つまり、最新の、個人では容易にあつかえない、媒体ということである。20世紀のあらゆるアヴァンギャルディストが主張した芸術は現実のものであるという命題を、具体化するひとつは、’60年代日本では、あきらかに「現代のテクノロジー」にあると考え、それを試みる機会に期待したのはとうぜんである。それはまた、松本や、「実験工房」以来の山口勝弘らの期待であった。

 そして、その期待の試みは、あるていどまで果たされたという実感も、参加した’60年代日本のアヴァンギャルディストに共通したものであろう。

 だが、そうした結論から、「万博」参加自体に満足したかどうかは、また、どこにどのように満足したかは、参加芸術家によってさまざまであり、また、それが、’60年代アヴァンギャルド芸術の性格に密接にかかわるものである。

 磯崎のばあいは、「ほんとにしんどかったという他ない」の冒頭の一句がすべてをあらわしているように、まんまと騙された利用されたという確信である。それは、裏切られたというのではないだけに、万感こもるやりきれない失望であろう。

 そして、これからでてくる第二点目の指摘は、なににどのように利用されたかについてであって、いか縷々とのべられることになる。

 かれは、その失望について、「脱落の端初は、万国博がテクノクラート支配で貫徹される見込みがついたときだ」としている。テクノクラートの支配とは、なにをさすのだろうか。

 かれの失意は、さきの「テクノロジーの処理の達成」の背後にあったもの、達成の結果あらわになり、おもい知らされたものにはじまる。それは、「その実現のうらには、膨大な予算を投入し、これを見事にのりきるまことに不思議な官僚機構が形成され、同時に国家的な規模でのプロパガンダがなされた」にあらわされているものである。それがテクノクラートの貫徹した支配によっておこったことである。

 この「テクノクラートの支配」については、引用文につづく記述で、自分のやったことについて、「具体的な施設の発案者として、あるいはエンジニアーとして、あるいはアーティストとしてそれだけの領域で仕事をしているとしても、いつのまにかその作業の進行も成否までもがテクノクラート的思考の枠にはめこまれていく」と、いわれているようなものである。

 「テクノクラート的思考」とは、テクノクラートは高度の専門的知識をもった行政官、官僚、技術官のことであるが、ようするに上級官僚や行政官の判断基準ということであろう。

 そして、かれはさらにつづく記述で、「お祭り広場の基本的性格が運営と演出のサイドからいちじるしく湾曲される見込みのついたときと、全装置が完成して、一応稼働することがわかって一段落したとき」、徒労感のあまり寝こんでしまったとかたっている。おそらくそれが、かれのいう、いつのまにかその「テクノクラート的思考の枠にはめこまれていった」結果なのであろう。

 お祭り広場の基本的性格については、すでに東野の説明によってわかっているが、それと、その実際の使用例、たとえばさきにも指摘した開会式の式次第は齟齬をきたすことはあきらかであろう。この開会式を演出したのは宝塚歌劇団演出家の内海重典であり、閉会式はおなじく宝塚歌劇の高木史朗であった。「観客と演者とが対話する正規の催物よりも、むしろ、何もあらたまっては上演されていない、インターバル」の時間に焦点をあわせた「お祭り広場」の基本的性格が、舞台をかざり、観客に演者をきわだたせる古典的劇場スタイルの演出の要請によって、抜本的修正をせざるをえなかったことは容易に推測できる。しかも、開会式出席者にあわせる運営サイドの要求もとうぜん演出側と一致するものである。そして、結果とし出現した「お祭り広場」は、磯崎が「具体的な施設の発案者として、あるいはエンジニアーとして、あるいはアーティストとしてそれだけの領域で仕事をしていた」としても、おもってもいなかった、まるですべてが徒労であったようなものということであろう。それは、「お祭り広場」の空間構成だけではない。すべてがおわり、「全装置が完成して、一応稼働することがわかったとき」、かれは、ふたたび寝こんだと記されている。(注.磯崎は、開会式の日、腰をいためて在宅し、テレビでそれを観たという.)

 つまり、仕事が、おもっていたものと、まるで異なるものになったのは、すべての「仕事」についてであって、そうなったのは、テクノクラート的思考によるものであり、テクノクラート支配 によってもたらされたというのである。

 だが、かれの「利用された」というのは、たんにこうした具体的仕事の内容についての、介入や喰いちがいだけではない。

  あたらしい時代のあたらしい芸術課題ともなる、芸術「利用された」という本質的課題をふくむものであった(蛇足的注. 芸術理念にかかわるものであるが、現実的にも映画の黒澤明、大島渚やテレビ界などあらわれた例は枚挙にいとまがない.) それは、アヴァンギャルドの課題であり、また、時代の「反芸術」の問題とかさなるものである。しかし、ここで語られる磯崎の表現は、あいまいというか総論的、あるいは、間接的であるから、誤解をさけるため全文を引用しておこう。「年代記的ノート」の日本万国博関連記述の結論部である。


 基本計画の初期に活躍した都市計画家、建築家、経済学者、人文学者、官僚、ジャーナリスト、デザイナーたちが、未来学会をつくり、横つなぎの組織をつくったとき、その学会が実は日本のテクノクラート支配のイデオロギー的バックアップをするためではないかという分析を自分なりにやりはじめたのも、万国博におけるビック・プロジェクトの進展の構造がおぼろげながら内側から理解できるようになったためだ。

 中央政府の発行する施策の学問的うらづけが、実は東京大学だけで充分であった時代がはるかに過ぎさって、いまあらたな再編成過程にはいっているのだ。そんな学会が未来学の名のもとにつくられていく情況のなかで、テクノジーの究極的な駆使がぼくらの環境を最良のものになし得るはずだという信念と、一歩その理論を現実に投下しはじめると、たちまちテクノクラートに喰いつぶされていく現実との矛盾を、いったいどこから解きほぐしていいか。未来学を拒否することでは充分でないことは分かりきっているのだが、ではいったいいかに切り込み、逆流を起こさせうるか、当面の問題はここからはじまるのである


 ここで、唐突にでてくる「未来学会」というのは、1968年に中山伊知郎を会長、大来佐武郎、丹下健三、今西錦司、浅田孝、平田敬一郎を発起人として設立された「日本未来学会」である。1970年4月にはこの学会の国際学会である第2回国際未来学会が日本で開催されている。「日本未来学会」は発起人からも推測できるように官僚出身者や、磯崎にふかいかかわりある建築家が参加する、とうじの日本でもっとも斬新な文化学会であり、磯崎のこの論考集が刊行される時期と国際学会開催が重複することなどが、こうしたやや不自然な記述となっているのであろう。だが、ここに記されているのは、芸術アヴァンギャルドの問題提起としても読むことができる。

 ここにのべられていることで、磯崎の「万博」の失意の由来をしめすのは、「その学会が実は日本のテクノクラート支配のイデオロギー的バックアップをするためではなかったか」ということと、「万博」の結果からえた確信である 「テクノロジーの究極的な駆使がぼくらの環境を最良のものになし得るはずだという信念と、一歩その理論を現実に投下しはじめると、たちまちテクノクラートに喰いつぶされていく現実との矛盾」である。

 「テクノロジーの究極的な駆使がぼくらの環境を最良のものになし得るはずだという信念と、一歩その理論を現実に投下しはじめると、たちまちテクノロジーに喰いつぶされて」、けっきょくは、「日本のテクノクラート支配のイデオロギー的バックアップ」をしたことになったというのは、東野が「イベント調査委員会」について記したあの場面からすでにはじまっていたものであろう。(読者の便のために再引用しておこう.)


 磯崎新を中心に、秋山邦晴、中原佑介、松本俊夫、山口勝弘、佐藤陽紘、今井直次、坂本正治、吉村益信らと一緒に、この「イヴェント調査委員会」では、「見えないモニュメント」という理念をめぐって、また広場とはなにか、祭りとなにか、という分析からはじまって、ずいぶん議論を重ねた(考えてみると、この数年、この種のいわゆるブレーンストーミングにしばしば参加したのは、ぼくにとっては全く新しい体験だった。書斎の密室で、たったひとりでうんうん考えつめる生活と、それはまさに正反対で、開放的な共同思考ともいうべきものだった)。


 インターメディアにのちに継承されるような集団制作の成果を集約し、企画的にあたらしいイデオロギーのもとで、あの「お祭り広場」にはじまる「せんい館」や「鉄鋼館」、「三井グループ館」などなどの展示館をつくりあげたのである。

 この博覧会の企画構成はイデオロギー的に「人類の進歩と調和」を総合テーマとして構成されていた。それに、磯崎のいう「テクノロジーの究極的な駆使が人間の生活環境に最良になし得る」ことの追求がむすびつき、あの「お祭り広場」のコンセプトとなる。つまり、さきの東野の説明にあったような、広場という生活のなかのインターバルの時間をすごす空間を現代のテクノロジーをもって構成するコンセプトである。

 そして、それらが、前回の国際博覧会、「モントリオール万国博覧会」(1967年4月28日〜10月27日)をしのぐ、文化イベントとしての現代的博覧会、「日本万国博覧会」を成立させたのである(注.モントリオール万国博覧会は、カナダ建国100周年を記念して開催されたもので、総合テーマを「人間と世界」とし、世界のなかのカナダを位置づけるため、世界各国の参加を指向し、62カ国の参加と総数5031万人の入場者を獲得した、成功した国際博とされていた。たいして日本万博は、77カ国の参加をえ、また、入場者数は目標数5000万人をこえて、6421万人であった。この入場者数は、2010年開催の「上海国際博覧会」まで、国際博覧会の入場者数のレコード記録であった.)

 だが、こうしたコンセプトのもとで現実的に出現したのは、あの開会式がしめしいてたように、「テクノジーの究極的な駆使がぼくらの環境を最良のものになし得る」ことを、芸術的規模であらわしたのでなく国家的規模での新生日本のプロパガンダになったのである。

 こうした結果をみちびいたのは、かれは、テクノクラートの機構だという。

 それは、さきに引用した冒頭部にある「その実現のうらには、膨大な予算を投入し、これを見事にのりきるまことに不思議な官僚機構が形成され、同時に国家的な規模でのプロパガンダがなされた」に、要約されていたものである。

 ならば、いま一度、もとに戻って、テクノクラート的思考について考えてみなければならない。なぜなら、’60年代以降のアヴァンギャルドにおいては、照明、音響、映像テクノロジーの使用は、膨大な費用を要するからである。

 テクノクラート(上級官僚や行政官)の役割は、みずからの属する国家機関の「意向」をひたすら実現することである。

 ここでいう「意向」とは、政策とか方針とか、国内、国際問題の解決とかすべてをふくむ、あいまいで曰くいい難いものである。だが、それは、思想、イデオロギーや理想といった概念にはまったく無縁なものであって、ひたすら「体制」維持・強化にかかわるものである。つまり、テクノクラートは、国家「体制」の実現をはかる高度の専門的知識をもった行政官のことである。極端な言いかたをすれば、完全無欠のテクノクラートとは、あたえられた問題を解くAI(人工頭脳)である。

 そうした、「体制(system, regime)」維持・実現をはかる AI的思考と、〈システム・制度〉を拒絶し、のりこえることを指向するアヴァンギャルド的思考は、双方にとって一致点の見いだしがたい「思考」である。そのことが、磯崎のあの結論、「テクノジーの究極的な駆使がぼくらの環境を最良のものになし得るはずだという信念と、一歩その理論を現実に投下しはじめると、たちまちテクノクラートに喰いつぶされていく現実との矛盾を、いったいどこから解きほぐしていいか。未来学を拒否することでは充分でないことは分かりきっているのだが、ではいったいいかに切り込み、逆流を起こさせうるか、当面の問題はここからはじまるのである」にあらわれているのであろう。

 このアヴァンギャルド問題としては、結論とはいえないような結論は、’60年代アヴァンンギャルド芸術作家としては、とうぜんの問題提起であろう。というのは、瀧口や針生のような芸術評論家の立場なら、両立しない立場には立たないことによって、結論を保留し、わるくいえば放置しておいても評論活動はできる課題である。

 だが、磯崎のような建築アヴァンギャルドを指向する芸術作家にとっては、そうではない。おそらくは、それにかかわる、奇妙な詠嘆の指摘を冒頭の引用部の一節、「しかしその実現のうらには、膨大な予算を投入し、これを見事にのりきるまことに不思議な官僚機構が形成され・・・」を、書かせたのではないかとおもわれる。

 芸術作家である磯崎は、「建築」から芸術をみる。「建築」構築物は、元来、作家個人をこえる資金を不可欠とする芸術である。ましてや、都市計画までほうかつして構想しなければならない現代建築では、ひとりふたりの人間単位のパトロンや「偉いヒト」の枠をこえる、膨大な資金獲得のため、「組織」や「体制」とかかわらざるをえない芸術である。

 そのことは、すでにわれわれもあのカルダーの「モビール」にみたように、程度のちがいこそあれ、すべての現代芸術にかかわる課題である。カルダーは、1932年に制作した素描画「モビール研究」を1958年にユネスコ本部の庭園の「ラ・スピラール(螺旋なるもの)」で実現するには、ユネスコとの交渉と資金獲得がなければ不可能であったであろう。

 組織や体制とのかかわりは、’60年代アヴァンギャルドの、「アルテ・ポーヴェラ」にせよ、「ランド・アート」、「ミニマリズム」、あるいは、ほとんどすべての「環境芸術」や「インスタレーション」、さらには「映画」やコンピュータ芸術でさえ、さまざまなレベルで回避することのできない課題である。(図版10-1、10-2. ニキ=ド=サン・ファル「タロット・ガーデン」)


図版10-1: ニキ=ド=サン・ファール「タロット・ガーデン」




図版10-2:「タロット・ガーデン」

 


 磯崎のさきの結論を、さらに拡大すると、「アヴァンギャルド芸術と現実とのこのような矛盾を、いったいどこから解きほぐしていいか。当面の問題はここからはじまる」という、’60年代アヴァンギャルド芸術作家として、かれは問題提起をしているとも、これは読むことができる。

 だが、かれの発言は、一般的なそれだけに集約できるものではない。むしろ、’60年代日本の「デモ・ゲバ」風俗の「反芸術」がおかれていた、まがうかたないひとつの時代的位置についてである。

 再度、磯崎の不満のありかを確認すれば、「正面きってむかいあえるはじめての場ではないかという幻想と期待をもっていたからだ。事実、結果として、いくつかのテクノロジー上の処理は達成できている。しかしその実現のうらには膨大な予算を投入し、これを見事にのりきるまことに不思議な官僚機構が形成され、同時に国家的な規模でのプロパガンダがなされた」と、なるであろう。

 かれの願った、「テクノジーの究極的な駆使がぼくらの環境を最良のものになし得るはずだという信念」は、あたらしい媒体によって表現される生活思想であり、とうじの建築思想としてアヴァンギャルド的思想ではあったが、どこからみても「反芸術」といえるような思想ではない。

 かれが、ここで表明している「失意」にしても、「いま、戦争遂行者に加担したような、膨大な量の疲労感と、割り切れない、かみきることのできないにがさを味わっている」といいながら、その責任の所在については、「おそらくそれは当初から加担し、途中で心情的に脱落しながら、脱出の論理を捜しえずに、遂におもてむきの義理をはたすため、最後まで関係を保ちつづけたという事実によることはあきらかだ」と、「反芸術」にいたることなく、奇妙な自己批判でおわらせている。これは、戦時中の国家体制を支えた大部分の良心派の知識人の実感と反省にかさなるものである。しかし、戦中良心派の述懐は敗戦後にのべられたのであって、成功裡におわった万博直後の磯崎の述懐の立場とはまるでことなるものである。なおアヴァンギャルディストであることの覚悟ある発言と理解すべきである。

 とするならば、かれのいう「テクノクラート」を「国家『体制』」と置換して、「膨大な予算を投入し、これを見事にのりきるまことに不思議な国家『体制』が形成され」を、「テクノジーの究極的な駆使がぼくらの環境を最良のものになし得るはずだという信念と、一歩その理論を現実に投下しはじめると、たちまち国家『体制』に喰いつぶされていく現実との矛盾」とくみあわせれば、アヴァンギャルド精神挫折の経緯がよくわかる。つまり、「膨大な予算」、すなわち、潤沢な金の力である。これはいうまでもなく、高度経済成長がもたらした「余剰金」の効果である。「余剰金」がアヴァンギャルド精神の解毒剤となったのである。

 東野の「ガラクタの反芸術」は、デュシャンのレディーメイド(既製品)があったのとはちがい、「ガラクタ」そのものにこだわることのない、あたらしい媒体によって表現されるあたらしい芸術ということであったが、芸術評論家としての「ガラクタを媒体(素材)」としたのを、芸術行為する作家は、電子工学技術を表現媒体としたとすれば、東野の「反芸術」と磯崎のアヴァンギャルド思想はアート(芸術)論として、おなじ主張とすることができる。それは、アート(ART)自体がふくむ意味でもある。

 とするならば、’60年代の急激な経済成長がもたらした潤沢な資金、つまり、「余剰金」は、東野の「芸術」では、解毒剤になったということである。

 高度経済成長の「余剰金」は、東野が口火をきった’60年代アヴァンギャルドの、反対する芸術、「反芸術」の麻酔薬や解毒剤となった。そのことは、後期「デモ・ゲバ」風俗の「体制」に反対する運動の主調音であった、「学園紛争」の解毒剤でもあったことは、すでに前章でのべたことである。念のためひとことだけ説明しておけば、大学臨時措置法(1969年8月公布)とセットとなった私学人件費助成100億円によって、授業料値上げ反対運動は鎮静化へむかったのである。

  この金額は、’70年度一般会計歳出決算8兆1877億円の約0.1%であるが、高度経済成長社会の税収増大の趨勢では、この助成額はさほど問題にならない金額であろう。大学経営にとって当面の最大支出は、急激な物価上昇による高騰する人件費であり、それが授業値上げを必要としたのだが、その保証がされたことになる。「授業料値上げ断固反対」という紛争テーマのひとつの鋭角が鈍磨したことになる。ここでも、思いつき程度の「大学臨時措置法」と人件費助成をセットとする政策決定は、予想をこえる経済成長あってのことであろう。(注. 第一章’60年代日本の風俗画[『百万遍』2号]参照)

 高度経済成長のなかの「余剰金」と政策方針実現のなかで、「大学紛争」がいつのまにか呑みこまれていったということになろう。

 「デモ・ゲバ」風俗は、’60年代日本において、このように「パレード」風俗とたがいに相関関係にある一面をもつことが、東野の「反芸術」のひとつの帰結のなかであきらかになる。

 だが、’60年代がはじまろうとする年、日本ではかれの「ガラクタの反芸術」を契機としてあらわれた「反芸術」的芸術活動は、東野の枠をはみでて、まったく異なる展開を’60年代アヴァンギャルドの文学・芸術でみせたとおもわれる。東野の「反芸術」は芸術評論家の見地からいわれたものである。芸術作家たちは、’60年代初頭においてそれをどのようにとらえていたかをみておこう。

  それは、ある意味では「万博」参加の芸術作家らの行動を説明するものであり、また、「万博」芸術を批判する行動をあきらかにするからである。


 第2章 4) ② 芸術作家の「反芸術」 につづく


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