Avant 2-4-3


第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

4) ’60年代日本の「反芸術」(その2)

 

 Part 3


②  芸術作家の「反芸術」


 ’60年代日本のアヴァンギャルドの「反芸術」は、東野芳明の「ガラクタの反芸術」からはじまったのであったが、東野の主張した「反芸術」は、芸術論として発展することはなかった。しかし、実践論としては、’60年代日本のひとつのメルクマールであった「日本万国博覧会」で、’60年代アヴァンギャルディストたちによって、それなりの結実をみせたのであった。

 だが、それは、かならずしも、20世紀アヴァンギャルドの「反芸術」を継承するものではなかったのは、前項までにおいてみたとおりである。

 ここでは、’60年代はじめの「反芸術」にたいする、日本のアヴァンギャルド芸術家の立場を、もうすこし整理しておかねばならない。前項でのべた磯崎の立場は、’60年代がおわるときの作家のひとつの位置であって、’60年代当初のものでも、’60年代そのものでもない(注.磯崎は、『空間へ』の巻頭論文に、「都市破壊業KK」(雑誌『新建築』1962年4月号巻頭論文用に執筆)をあげている. 関心のあるかたはご一読ください.) ’60年代幕開きのとき、実践作家たちはなにを考え、どのような芸術行為をみせたかの問題がある。実作者としてのかれらの見方と立場は、評論家である東野や針生、瀧口、そして中原とも、かならずしもおなじではなく、また、極端にいえば、「生活者」の立場にちかいものである。そして、とうぜんのことながら、かれらのなかでもちがいがあり、またそれが、’60年代以後の、かれらの軌跡を分つものであった。


 ’60年代初頭に時代をもどすと、東野の反芸術が提起された一年後、『美術手帖』(1961年8月号)は、「座談会『若い冒険派』は語る」を掲載した。初源的で素朴なかたちの「反芸術」がかたられている。だが、そうであるだけに、実感のこもる現実的発言であった。

 出席者は、工藤哲巳、伊藤隆康、中西夏之、赤瀬川原平、荒川修作で、司会は現代芸術評論家江原順、そして、解説とまとめは中原佑介であった。「若い冒険派」とされたのは、いずれも芸大・油絵専攻の卒業生や中退者であったが、伝統油彩画から離反した作品を、個展やアヴァンギャルド展で発表中の28歳から24歳の芸術家たちである。座談会速記録の取捨選択は、中原がおこなっている。かれはとりとめなく語られた談話を、「[芸術]について」、「[既成の芸術]について」、「[個性と普遍性]について」、「[反芸術]について」の四項目に整理し*注(注.司会者からは「エロティスムの問題」、「モノクロームと具体色の問題」などが出されたが、中原は省略したと記している)、それぞれに関連する出席者の発言を掲載している。

 この解説つき座談会記録の最終項目、「[反芸術]について」は、つぎのようなものであった。(以下、下線はすべて筆者)

 

江原 ─ ここに集まった人をみな含めて、反芸術家とか、反芸術の芸術家というようないい方が一般にあるわけです。そういう見方は必ずしも正確じゃないと思うのですが。

工藤 ─ 非常に不正確ですね。

中西 ─ それを問題にしなければいけないですね。どうしても批評家の批評という形をとると、どこかで妥協しちゃってる点も感じられますね。たとえばこのあいだの現代美術の実験展でも、もっと痛烈に、あれはなんでもないのだということを強調したのです。


 東野からはじまった「反芸術」、あるいは「反芸術家」にたいするかれらの感情は複雑である。「反芸術」に同意するのでもなく、まちがっているといい切るのでもない。工藤は不正確といい、中西は「それを問題にしなければいけない」という。かれらのあいだにもまた、食いちがいがある。工藤の立場はあるていどまでわかるが、中西の真意のありどころは、これだけでは不明である。

 あげられているのは、この年開催の「現代美術の実験展」に出品され評判になった彼の作品「内触覚儀 ナタル」をさすものであろう。これは、溶接したくず鉄に無数のフォーク、スプーン、鉄片を棘状に埋めこんだオブジェである。その作品は、「あれはなんでもないのだということを、もっと痛烈に、強調した」のだという。(注. 『美術手帖』1961年6月号に作品図版ある)

 あれとは、東野のいう「ガラクタの反芸術」なのだろが、その主張の、ガラクタ素材を問題にしているのか、「芸術」自体にこだわっているのかよくわからない。

 これにつづく出席者らの発言にもうすこしふみこんでみよう。


伊藤 ━ 僕の作品の場合は、わりあい今までとの関連で見られている場合が多いので、僕は非常に不満に思っているのです。たしかにそういわれるのが、また結果としてよくないところかもしれないのですよ。そういう点をよく考えてみたいと思っているのですが。

江原 ─ ただ美学というのは、様式を入口にする形式の学問ですから、内容の断絶というふうに問題が出ていかないで、形式の断絶がいちおう問題になっていくのはやむを得ないと思いますがね

赤瀬川 ─ だけれども、内容だけのものというのは、絶対存在しないでしょう。

伊藤 ─ もちろんそうですよ。工藤君の場合は、素材としてタワシを使っている。タワシというものを僕がとった場合、完全に断絶しているかもしれないのです。

工藤 ─ 伊藤君のいいたいのは、内容としては断絶しているけれども、結果的に表面に出てきているものは、それほど問題ではないという・・・・(ママ)

伊藤 ─ そういうことをいいたいのだが、僕がつねにもっている一つの批評に対する不満があるわけです。個人的な話だが、僕の展覧会に工藤君が来て、おれと同じことをやっているといったことが前にある。それと別に、そのとき非常に感じたのだが、なにかいままでの人は僕のその作品にたいして、冒険がないとか、非常に逃げちゃっているとか、日本のいわゆる山水画に見えるとかいうようなことをいっていたのに僕はまったく意外に思ったのだ。じつに馬鹿げていると思ったのだ。とにかくそういう点なんだけれどもね。

赤瀬川 ─ 伊藤君の作品というのは、伊藤君だけのものではないと思うのだ。

伊藤 ─ もちろんそうだ。

赤瀬川 ─ みんなのものだと思うのだな。内容だけで、断絶しているのは伊藤君のなかだけで断絶していることになるのではないか。 

伊藤 ━ そういうふうに作品を判断されるのは構わないが・・・・・・(ママ)。 ただ僕自身の問題としてですね。なんというか、一見今までの絵画と似ているものであっても、ぜんぜん断絶された作品がありうるということなんです。

江原 ━ 作品の判断ではなく、工藤君などの場合、問題の提起が主観で断絶しているということの頼りなさから問題が出ているわけですよ。それからきょう、じつは素材の意味というようなことを、たいへん疑問に感じるものだから、その問題について少し話をうかがおうと思います。

 素材の意味が強調されてきたのは戦後でしょうね。それはどういうことかというと、主観とか主体の、ある意味の解体の意識に対応して、素材の意味が大きくなっていくわけでしょう。ですから、なんというか、素材の意味の評価の仕方によって、主観とか主体の信じ方が、ずいぶん違うと思うんだね。それは結果として同じことだというような問題ではなくて、その基礎になる自分というものの考え方について、やはり懐疑があるのではないかという気がするわけですよ。僕はね。話がややこしくなって悪いですけれども。

伊藤 ━ 僕の一つの方法論としてですね、絵画を制作する上にも、石膏を使ってああいう作品を作る場合にも、やはり素材によって確かめているということなんです。

江原 ━ 結果からいえばそうかもしれませんけれどもね。

伊藤 ━ 結果からじゃなくて、最初からなんですけれども、ただそれが一つの平面にああいう凸凹をもってくるということだけなんですね。それが1メートルの凸凹であっても、1センチの凸凹であっても、同じことなんです。

赤瀬川 ━ 僕の場合はこの前、僕自身の目標を引きだすために一冊だけの絵とき本を作ったのですけれども、それは僕だけの、僕だけにしかできないようなものですが、そこには僕のやる結果があるでしょう、結果となる目標が。

工藤 ━  はじめから確信があれば物に託す必要がないわけだ。ところが確信も自信もないから物に託すわけだ。

荒川 ━  ところが僕の場合は、箱や電気の装置や・・・・(ママ)、これは君のタワシみたいに、なんとなく存在しているというところがないのだよ。自信もなにもない。君のように確信がもてないわけだ。だけど答えは正確なんだすごく明確なんだよ

工藤 ━  ただね、僕なんか去年読売アンデパンダンでいわれたことは、いわゆるタワシとセクシー・ピンクのビニールチューブを使った、反芸術というようなレッテルを貼られて、またほんとうにみんなそう思ったらしいが、僕としては、あれがセクシーピンクのチューブであろうが、タワシがどうであろうが、黄金でも宝石でも、なんでもかまわないのです。 それをみなさんが誤解されてとっていたのではないかと思うのですけれどもね。ですからそれを透視して、僕の対応の仕方を見なければ、ボクサーが大きな強そうなポーズをして闘う様子だけをしているのを見て、あのボクサーは強いとか弱いとか、あれに賭けようとか、こっちに賭けようとかいうのと同じだと思うのです。ですからそういうものを透視して、その奥にあるものを見なくてならないのです。 もちろん個人と素材との関係、個人と社会との関係というものは見えないと思うのですが、だから僕の場合はタワシとビニール・チューブだけではなくて、僕の対応の方式があるだけです。

江原 ━ 対応というのは、なにに対する対応なの・・・・(ママ)。

工藤 ━ タワシとかビニール・チューブとか、そういうものを媒体として、僕の対応の仕方が出てくるわけです。自信満々たる発言で申しわけないが。(笑い)


 これらだけでは、東野の「ガラクタの反芸術」を前提とした、芸術表現における素材と媒体の「反芸術」をア・プリオリに問題にしているらしいが、発言するかれらの意図も、たがいの意思疎通も、よくわからない。かれらの関係をすこし説明しておくのがよいかもしれない。

 28~27歳の伊藤と工藤と中西は、東京藝術大学(絵画科・油絵専攻)同期の卒業生であり、赤瀬川(24歳)と荒川(25歳)は、名古屋の芸術系高等学校から武蔵野美術学校(油絵学科)[のちの武蔵野美術大学]中退まで同級生としてまったくおなじ経歴である。かれらは前年4月に創設されたネオ・ダダイズム・オルガナイザーズのメンバーであったが、荒川は、同年9月、黒い棺桶のような箱に綿布を敷き、白セメントの死体状の物体を設置したオブジェ(「砂の器」)を展示する個展を開き、グループから除名されていた。そして工藤は、このネオ・ダダ・グループの集会にたえず出席していたというから、かれら三人はたがいの芸術的立場を知悉していたといえるだろう。ただ、赤瀬川と中西はこの座談会がはじめての出会いであった。そして、この場における発言に共鳴し、二年後には「ハイレッド・センター」を結成することになる。つまり、かれらはすべて、既成の美術絵画教育をうけたものたちということである。


 このような、今となっては、てんでばらばらにきこえるかれらの発言を、逐語的な解釈をしながら読解してみよう(注.青文字表記は、すでに引用した部分の再引用である.)


伊藤 ━ 僕の作品の場合は、わりあい今までとの関連で見られている場合が多いので、僕は非常に不満に思っているのです。たしかにそういわれるのが、また結果としてよくないところかもしれないのですよ。そういう点をよく考えてみたいと思っているのですが。


 当時の伊藤の作品は、石膏のなかに荒縄、木の枝をなどを埋めこみアンフォルメル風に画面つくりをし、旧来の油彩画とはまったく異なるものであったのだが、伊藤は、そのような作品の表現内容からでなく、その素材や形式からのみ評価されるのが不満であるというのである。「反芸術」の話題からいえば、東野の表現媒体の形式からみる芸術論への異論である。したがって、つぎの司会者の指摘がなされるのであろう。


江原 ─ ただ美学というのは、様式を入口にする形式の学問ですから、内容の断絶というふうに問題が出ていかないで、形式の断絶がいちおう問題になっていくのはやむを得ないと思いますがね


  江原の視点は、東野とおなじ素材による物質感表現の視点である。ただ、それらは、芸術作品主義からの評論家の芸術論である。「反芸術」を問題にするのなら、また、アヴァンギャルド芸術評論家としては、当時はじまっていた、パブリック・アートやパフォーマンス、インスタレーションなどの戦後アヴァンギャルド芸術の視点が、江原には欠如している。したがって、つぎのような赤瀬川の絶対存在しないというようなつよい発言がなされるのであろう。当時すでにアクション・ペインティングは知られており日本でも具体グループの活動もあり、赤瀬川自身も、ネオ・ダダ展のパフォーマンス体験があったから、芸術を作品からだけでなく、芸術行為からみているとおもわれる。


赤瀬川 ─ だけれども、内容だけのものというのは、絶対存在しないでしょう。


 この赤瀬川の発言は、次の発言者伊藤には、芸術は内容と形式は不可分のもの、とのみ理解され、表現内容から作品をみる伊藤の共感をえたのであろう。


伊藤 ─ もちろんそうですよ。工藤君の場合は、素材としてタワシを使っている。タワシというものを僕がとった場合、完全に断絶しているかもしれないのです。

工藤 ─ 伊藤君のいいたいのは、内容としては断絶しているけれども、結果的に表面に出てきているものは、それほど問題ではないという・・・・(ママ)


 このふたりの発言は解説の必要な発言である。工藤の作品「増殖性連鎖反応」につかわれたタワシなどの素材は、東野の「反芸術」論を導いた素材形式である。工藤は、東野の(媒体)反芸術について、この座談会の最後でも発言しているが、この座談会掲載誌以前の同誌で、これらの素材や形式と作品について、わかりやすくのべている。


 使われれている素材というものは、すなわちタワシとかビニールというものは物質としての意味よりも反応促進剤としても意味を強く持つものである。だからタワシもビニールも黄金も宝石も絵具も完全に同格と見てよい。また、反応の舞台となる装置も、限定された平面であろうが、無限定なものであろうが、立体であろうが、それぞれが持つ特性は重要だが本質的には同格である。結論としては、確認反応の記録の集計が作品であり、装置や反応促進剤にこだわらずにそれを透視して初めて一つの解答を見出すことができる。(「刺激→反応→客体化」[『美術手帖』1961年6月号])


 主張は、座談会ののちの発言とおなじであるが、ガラクタも金も油画材もテンペラもパステルも、水墨も岩絵具も、表現媒体として同等であるということである。東野とおなじような、素材の芸術媒体論である。したがって、これらの作品と既成芸術にかれはなんの断絶もみていないし、断絶の意図もないということになる。この立場についてはすでにこの座談会でも、先行したテーマ「[既成の芸術]について」で語られ、ふたりのあいだでは、了解ずみであった。念のために引用すればつぎのようなものである。


工藤 ━ 個人とある時代との対応の仕方は、その時代の状況というか、背景、あるいは状況といってもいいが、そういうものを差引くと同格だと思うのですね。それを差引かないで、出てきたものだけを較べるから、なにかつながりがないみたいにもみえるのですが、僕は、そういうものではないと思うのです。・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

伊藤 ━ 僕はすこしちがうと思う。河原温なんかの世代は、ひとつのドキュメンタリーみたいなもので、そのドキュメンタリーの方法がちがっていると思うのですね。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

伊藤 ━ 僕は、一見、今までの絵画と非常に似ていても、全然断絶された作品があると思うのです。ですから、読売アンデパンダンにたいする一つの批判として、ああいう形でいろいろ出てきている。なにかいまの流行みたいなムードですね。そういうもので形の上で断絶しようとしている作家が非常に多いということです。そういうのがはたしてほんとうの作家であるかどうか、そういう点で一つの疑問をもっているのです。


 この伊藤の発言があったから、工藤の伊藤の真意への好意的なまとめがなされることになった。なお、念のため、読売アンデパンダンにかんする伊藤の発言をおぎなっておけば、元来このアンデパンダン展は、あらゆるひとのあらゆる形式作品の自由出品がたてまえであった。そこで、’50年代末期までは従来形式の作品が大勢をしめ、それにたいして、対抗的に工藤のような作品が出品されるようになった。そうした、趨勢からいわれた「反芸術」を、伊藤は批判しているのである。そういったわけから、つぎのような伊藤の発言は自然ななりゆきである。


伊藤 ─ そういうことをいいたいのだが、僕がつねにもっている一つの批評に対する不満があるわけです。個人的な話だが、僕の展覧会に工藤君が来て、おれと同じことをやっているといったことが前にある。それと別に、そのとき非常に感じたのだが、なにかいままでの人は僕のその作品にたいして、冒険がないとか、非常に逃げちゃっているとか、日本のいわゆる山水画に見えるとかいうようなことをいっていたのに僕はまったく意外に思ったのだ。じつに馬鹿げていると思ったのだ。とにかくそういう点なんだけれどもね。


 工藤が訪れたという展覧会は、二年前に村松画廊で開催された、伊藤の第一回個展であろう。かれはここに、さきに説明した、ならべた荒縄、木の枝のうえから石膏をながしこみ、モノクロームの画面つくりをした作品を発表した。1959年のシェル美術賞第一席を受賞した作品である。(注.「『若い冒険派』は語る」に映像あり)  ここでも、また、つづく発言でも、伊藤が執拗にいうのは、作品はあくまで作家独自のもので、いいかえれば、個性がいかに表現されているかに、作品の是非があるということであろう。だから、かれにとっては、かれの作品は、歴史的、同時代的に、あらゆる他の作品と断絶しているということになる。そこで、赤瀬川との相異があらわになりつぎの発言となる。


赤瀬川 ─ 伊藤君の作品というのは、伊藤君だけのものではないと思うのだ。

伊藤 ─ もちろんそうだ。

赤瀬川 ─ みんなのものだと思うのだな。内容だけで、断絶しているのは伊藤君のなかだけで断絶していることになるのではないか。 


 ここには、作品が、芸術作品になるのは、作者があり同時に鑑賞者があるからであるという、20世紀現代芸術の考え方が映しだされている。また、これからさらに、「詩は万人のもの」であるとか、「集合的無意識」の表出であるとかの、20世紀アヴァンギャルド芸術や文学の課題に発展するものがふくまれている。そして、すでに赤瀬川はさきの「[既成の芸術]について」でも、「僕は芸術の合理化みたいなものを目指している。その合理化の徹底の度合いでみたいわけですよ」と言いきっていたのだが、芸術作品を、19世紀的天才論につうじる主観性からみることを否定しているとおもわれるから、このような発言となったのであろう。だが、このようなかれの芸術思想は、この後のかれの活動によって明確になるのであって、ただここでは、かれは作品からでなくむしろ芸術家から芸術をみているということだけを指摘しておこう。


伊藤 ━  そういうふうに作品を判断されるのは構わないが・・・・・・。(ママ) ただ僕自身の問題としてですね。なんというか、一見今までの絵画と似ているものであっても、ぜんぜん断絶された作品がありうるということなんです。


 したがって、芸術は作家が作品にこめた意味、内容であるという伊藤との、はなしのゆきちがいは当然であろう。そこで、はなしをもとの反芸術にもどして、筋道を集約する司会者の介入がある。


江原 ━  作品の判断ではなく、工藤君などの場合、問題の提起が主観で断絶しているということの頼りなさから問題が出ているわけですよ。それからきょう、じつは素材の意味というようなことを、たいへん疑問に感じるものだから、その問題について少し話をうかがおうと思います。

 素材の意味が強調されてきたのは戦後でしょうね。それはどういうことかというと、主観とか主体の、ある意味の解体の意識に対応して、素材の意味が大きくなっていくわけでしょう。ですから、なんというか、素材の意味の評価の仕方によって、主観とか主体の信じ方が、ずいぶん違うと思うんだね。それは結果として同じことだというような問題ではなくて、その基礎になる自分というものの考え方について、やはり懐疑があるのではないかという気がするわけですよ。僕はね。話がややこしくなって悪いですけれども。


 江原の「反芸術」も、やはり、東野にキャッチされた感情にとらわれた「(素材)反芸術」に誘導されているようである。当時の日本で、はやくも戦前のダダ、シュルレアリスムの動向を知り、すでにそれらについて評論集や翻訳を出版している、20世紀アヴァンギャルドの紹介者であった江原の、「反芸術」の理解としては、やや意外とせざるをえない。だが、かれがここで提示しているのは、素材を、表現媒体にとどめるか、表現にふくめるかの視点があり、また、「既成芸術家との断絶」として、芸術を、作品からでなく、芸術家から見る視点を指摘するのは、座談会という、かぎられた若者たちとのかぎられた場における、ひとつの反芸術の整理としてはしかたなかったのかもしれない。

 素材への関心は、「主観とか主体の解体の意識に対応」しているという、江原の提起にたいする回答としては、核心をはずれた回答ではあるが、議論は集約されていく。


伊藤 ━  僕の一つの方法論としてですね、絵画を制作する上にも、石膏を使ってああいう作品を作る場合にも、やはり素材によって確かめているということなんです。

江原 ━  結果からいえばそうかもしれませんけれどもね。

伊藤 ━  結果からじゃなくて、最初からなんですけれども、ただそれが一つの平面にああいう凸凹をもってくるということだけなんですね。それが1メートルの凸凹であっても、1センチの凸凹であっても、同じことなんです。


 伊藤のいう「石膏を使ったああいう作品」とは、第1回個展に出品した、荒縄、小枝をぬりこめた石膏平面作品『作品』のことよりむしろ、1960年ごろから制作していた『無限空間』シリーズをさすものであろう。この画面構成は、微細な石膏半球を一面にならべていくもので、無限に反復可能な形体のならびの一部分を、任意に取り出して作品化したようなものである。だから、第二節めの発言となる。そして、第一節の「方法論として、・・・・・・素材によって確かめる」において、なにを確かめるのかが、素材と作品内容の関係をかれがどう理解しているかを知るうえで、必要となる。

 ここにひとつの資料がある。それは、5年後の1966年に開催された「現代美術の新世代展」に出品されたアルミニウム素材の作品について、かれがした発言である。(注.同名の展覧会は多く開催されている.1983年にも三重県立美術館で開催された.) 素材と作品の関係理解は、作家の基本であろうから、石膏であろうと、アルミニウムであろうと、おおきく変化していることはないであろう。

 アルミ製の、カビのような突起が無数にはえたコッペパンや書物、時計、ヘルメット、背広、掌(てのひら)・・・・ と、てあたりしだいの形の作品をそのころかれは制作し、それらを出展した。これにたいする質問にかれは答えている。(注.「特集 新世代の画家への7つの質問(国立近代美術館の「現代美術の新世代」展をみて)」[『美術手帖』1966年4月号]. 映像あり)


 「質問(関根弘[詩人]):鉄ではなくアルミを選んだ理由。鉄の持っている質量感とアルミのもっている質量感はあらかじめ計算されたものなのかどうか。たとえば、ヘルメットと釘を結合したイメージは建設飯場の労働生活を連想させ、・・・・・・・・・作者はそこになにか毒をしかけたつもりなのか」 


にたいして、かれはつぎのように返答している。


答え: 私のアルミの作品にはいろいろなものが登場する。コッペパン、卵、背広、時計、電球、フライパン、ヘルメット、本、手・・・・・・・・。これらに共通している点は形が本や時計やヘルメットでありながらすべてアルミ合金でできていることである。できているというより、紙やプラスチックや布やガラスや、はては人間の体の一部がアルミ合金に変質してしまっているのである。さらにこれらの物体には必ず無数のトゲが生えている。

 幼い時に読んだ童話の中に、魔法使いの杖が触れると子供たちが次々に石ころになってしまうのを憶えているが、私のアルミの作品もこの石ころのように昨日までの生命を、突然捨てて変質してしまうのである。これは死である。トゲは死の証である。屍に増殖する蛆のように屍を養分としてトゲは増殖を続ける。屍があればトゲの増殖が始まる。増殖は永遠に続く。これは生である。トゲは生命の象徴でもある。

 私の作品の部分をとらえて考えると形そのものが具体性をもっているせいか質問にあるように、建設、労働、生活といった現実を素直に受けとめているように考えられるが、私はそれほど素直でも楽天的でもない。現実は複雑で難解である。建設もあれば破壊もある。生と死は背中合わせになっている。この世に絶対値を信じられないということは、背中合わせの生と死を認めることである。

 金や銀はそれ自体絶対値をもっている。アルミにはそれがない。アルミの弱々しい銀色は死の色ではなかろうか

 ヘルメットにトゲが生える。背広に指が生える。コッペパンにトゲが増殖する。これはつくり話である。私はつくり話を形(かたち)にして並べて見せているのである。(下線は筆者)


 なぜアルミを選んだかの説明として、質問者が、あるいは、われわれが、納得するかどうかはべつとして、かれとしては、それなりの誠実な回答であろう。童話のなかには、触れたモノや食物、愛する娘が金に変わるような話もあったようにおもうが、そして、これもまた、かれの無意識的記憶のなかでこのように転化したかとおもうと、それはそれで、かれの説明のあつみがましてオモシロイ。

 だが、これらの説明はいずれにしても、既成芸術にもよくある鑑賞者の感想である。かれ自身のなかにいる、鑑賞者としての説明である。旧来の作品論である。ここには、アルミをなぜ選択し、どのように取得し、なにをおもいながら加工し、工夫し、なにを考えたかがまったく示されていない。かれにとって、この制作がなんであったかがまったくわからない。既成芸術の作品や作家であるなら、そのような説明はたずねておきたいものではない。だが、内容であるにせよ、新・芸術という断絶の道をえらんだ、新世代の画家であるのなら、なんらかの説明が必要であろう。 

 そして、これはまた、座談会のテーマとして、江原の提起した、「主観とか主体の、ある意味の解体の意識に対応した」、素材の意味にたいする発言としては、かならずしも筋道にしたがった回答とはいえないであろう。むしろそれは、つぎにつづく赤瀬川の発言が、ピントはずれにもみえるが、「反芸術」として的確であったのかもしれない。


赤瀬川 ━  僕の場合はこの前、僕自身の目標を引きだすために一冊だけの絵とき本を作ったのですけれども、それは僕だけの、僕だけにしかできないようなものですが、そこには僕のやる結果があるでしょう、結果となる目標が。


 「一冊だけの絵とき本」とは、本でもなければ、絵でもなく、彫刻でもない。素材・形式を、ジャンルをこえて、さらに拡大する視点である。これはまた、社会的な作者と鑑賞者がいる既成芸術作品からの完全離脱であり、既成芸術ジャンルへの挑戦であり、芸術家として既成芸術家に同意しないことでもある。これは、ここの議論の枠をこえた、「反芸術」にかかわる芸術論の芽生えがあるようにおもわれる。司会者は注目しないが、中原は、削除せず掲載しているのであるから、この言に、なんらの意義をみているとおもわれる。そして、ここで赤瀬川がいう 「僕だけにしかできないようなものですが、そこには僕のやる結果があるでしょう、結果となる目標が」は、うまく表現されていないが、かれなりの確信のある発言であったのだろう。なぜならば、そのごのかれの芸術活動をたどってみれば、この直後にはじまる「ハイレッド・センター」の活動があり、「千円札裁判」にまつわる芸術活動があり、「櫻画報」によるナンセンス・パロディ・マンガがあり、「超芸術トマソン」があり、それらはそれぞれ10年以上にわたる活動であったのだが、かれ独自の「反芸術」行為を実践したと、結果的にいうことができるからである。これについては、あとでふれることになる。

 つづいて語られた工藤と荒川の立場説明は、さきの伊藤発言の「一つの方法論として・・・・・素材によって確かめる」を受けつぐものである。


工藤 ━  はじめから確信があれば物に託す必要がないわけだ。ところが確信も自信もないから物に託すわけだ。

荒川 ━  ところが僕の場合は、箱や電気の装置や・・・・(ママ)、これは君のタワシみたいに、なんとなく存在しているというところがないのだよ。自信もなにもない。君のように確信がもてないわけだ。だけど答えは正確なんだすごく明確なんだよ


 荒川のいう「僕の」作品は、座談会前の時期に開催された「現代美術の実験展」に出品した「宇宙医学の先駆者」と題された作品をさすものであろう。『美術手帖』(1961年6月号)掲載の同展の紹介解説文によると、「黒い棺箱のなかで、セメントの屍体が生きている。殷周銅器の百乳文のような、たくさんの乳房、たくさんの膣、頂上の電燈がつきラジオの発信音が聞こえる」というものである。(注. 同誌には作品映像がある.) このころ、かれが、「ネオ・ダダ展」や個展で精力的に公開した、直方体の箱に不定形なセメントのかたまりを設置した一連の作品のひとつであろう。そして、その、正確な答えだ明確な答えだというのは、箱を使おうと、セメントを使おうと、これが芸術作品であることだろう。ただし、この確信がどこからくるのかは、このかれの言からだけではわからない。それについては、関連してこれからふれることになる。

 工藤については、素材の役割について、また、「素材に託する」ものについて、もうすこしわかりやすく説明している。


工藤 ━  ただね、僕なんか去年読売アンデパンダンでいわれたことは、いわゆるタワシとセクシー・ピンクのビニールチューブを使った、反芸術というようなレッテルを貼られて、またほんとうにみんなそう思ったらしいが、僕としては、あれがセクシーピンクのチューブであろうが、タワシがどうであろうが、黄金でも宝石でも、なんでもかまわないのです。 それをみなさんが誤解されてとっていたのではないかと思うのですけれどもね。ですからそれを透視して僕の対応の仕方を見なければ、ボクサーが大きな強そうなポーズをして闘う様子だけをしているのを見て、あのボクサーは強いとか弱いとか、あれに賭けようとか、こっちに賭けようとかいうのと同じだと思うのです。ですからそういうものを透視して、その奥にあるものを見なくてならないのです。もちろん個人と素材との関係、個人と社会との関係というものは見えないと思うのですが、だから僕の場合はタワシとビニール・チューブだけではなくて、僕の対応の方式があるだけです。

江原 ━  対応というのは、なにに対する対応なの・・・・(ママ)。

工藤 ━  タワシとかビニール・チューブとか、そういうものを媒体として、僕の対応の仕方が出てくるわけです。自信満々たる発言で申しわけないが。(笑い)

 

 工藤の素材は、すでにのべたように、反応促進剤であって絵具となんらかわるものでない表現媒体である。ただし、媒体に、絵具ではなくタワシやビニール紐をえらんだのが独自の観点だという。それらをどのように用いているか、それらにどのように対応しているか、つまり、どのような反応を促進したかが問題であり、それがかれのタワシの効用であり意味であるという。それならば、まえにも指摘したように、素材としては、既成芸術の素材である、絵具、墨、ブロンズ、石材、木材となんらかわるものでない。しかし、既成芸術の既成媒体では達成できないような、かれが達成したタワシ効果はどのようなものだったと、かれは自信満々におもっているのか、その対応の奥にあるものが、これではわからない。ついては、さきに引用した解説小論「刺激→反応→客体化」に、それにちかいものが説明されているからふたたび引用しよう。


 原子のエネルギーを考える時、原子爆弾として爆発させたのでは、エネルギーは拡散して具体化されない。そこで、原子炉を作り、その中で粒子を加速させて極大のエネルギーを生み出す。そして、電気とか、その他の実用的なものに転化される。私の仕事もそのようなものだと考えてもらえばよい。

 現代の巨大な社会の中で自分をしっかりつかむためには、手当たり次第にエネルギーを発散したのでは駄目で、ここに原子炉に相当するような装置が必要になってくる。いいかえれば、自分のすべてを集中的にぶつける壁のようなものの設定が必要なのだ。その装置に対して要求されることは、自己の反応ができるだけ明確に客体化され、刺激→反応→客体化が循環的に持続し得るものでなくてはならないということである。そういう要求から生まれたのが、私の設定したX型やH型、ドーナツ、球などの装置である。


 「自分をしっかりつかむ」とは、よくわからない表現であるが、おおむね、伊藤の作品論とおなじ主張である。芸術は感情を動かす装置であるという思想は近代的な美学であり、原子爆弾、原子炉は、現代の巨大な社会のアップ・ツー・デートな語彙であり、風俗画的表現であるが、美学思想としては、ひときわ戦後的でもアヴァンギャルド的でもない。ついでにいっておけば、「巨大」なのは、原爆のエネルギーであって、現代社会はかれの見るところでは、スカスカのインポだったのではなかったのか。(注.1962年 第14回読売アンデパンダン展に、一室を占拠して、天井から吊るしたガラクタ・オブジェ 「インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生」を出品している)

 また、ここでの主体は、制作作家の感情主体か、鑑賞者の感情主体かの区分は問題とされていない。そのような課題に、工藤や伊藤は、既成芸術の作家たちのように、ほとんど無関心であるようにおもえる。さきにも指摘したように、20世紀アヴァンギャルドは、さまざまな角度から、芸術はだれのものかを、問題にしたのであった。

 ただし、ここには、戦後世界の若い芸術家たちの心情、「激情」の美意識のヴァリアントがある。「エネルギー」礼賛である。エネルギーの爆発を、反応の目標においている。

 そして、工藤は、「素材を透視した、その奥にあるもの」、エネルギーをどのようにあらわしたかについて、つぎのように語っている。


 その中で一番わかりやすいのがドーナツ型「平面循環体に於ける融合反応」なので、それについて説明すると、これは二つの同心円にはさまれて循環する面の設定である。この場合循環面の外と内の縁は重要な役割を果たす、というのは、その内部に自分をぶち込んで反応を起こす場合、外と内の二つの縁は、反応をはね返し、回転させるという形で対応してくる。そういう加速加圧された状態の中で、自己をじっと見つめることが目的なのだ。具体的にいえば、ある装置の中で、タワシやビニール、手袋、釘などを媒体として、自分の反応を客体化し続けることである。(「刺激→反応→客体化」[『美術手帖』1961年6月号])(『あなたの肖像 ━ 工藤哲巳回顧展』カタログpp.67写真あり/or 「平面循環体に於ける融合反応」(1958〜59年)[『1960年代 現代美術の転換期』]pp.71)


 (インポ)エネルギー表現は、かれの晩年の作品であり’80年代「風俗画」でもあった、休火山に仮託した「天皇制の構造・ブラックホール」シリーズにいたるまで、工藤の一貫したテーマであった。また、この直後、1963年のパリでも、アヴァンギャルド・グループで上演したのは、股間に直立した、ホントウに巨大な男根を装着して踊り、横たわるパフォーマンスであった。これは、エネルギーのメタファーが原子炉から男根勃起にかわっただけだったのだろう。しかし、原義からいって、エネルギーは仕事能力をあらわし、可能性をしめすものであって、「爆発」そのものではない。可能性は、’60年代「デモ・ゲバ」風俗画の見落としてはならない、ひとつの見処である。

 そして、工藤の「反芸術」は、かれがそれを「反芸術」と認めるにせよ認めないにせよ、既成芸術に同意しない、作品の反芸術であった。またさらに、ここで語っている、「若い冒険派」の五名の芸術家と二名の評論家の「反芸術」にたいする立場は、既成芸術に同意しないということでは全員が一致しているようにおもわれる。ただ、語ることを読みほぐしてみると、かれらには異同がある。その異同の濃淡は、ある意味では、’60年代「デモ・ゲバ」風俗画にある濃淡でもあり、画面全体にかかわるものであるから、’60年代アヴァンギャルド「反芸術」のしめした様相を、いますこし見きわめておかなければならない。それは、今となっては、期待の様相であったのかもしれないが、なおそこには、未来につうじる可能性があったようにおもわれるからである。

 

 かれらの既成芸術に同意しないという態度は、まずふたつに分かれている。ひとつは作品主義の立場にあって、既成芸術作品に同意しないということである。既成作品とはちがった素材と形式によって作品をつくるところに、かれらの主張がある。そして、内容については、既成芸術との断絶について、伊藤と工藤の議論にもあったように、ニュアンスは異なるが、いずれも、芸大で教えられているような風景画、人物画、風俗画・・・とは異次元にある表現内容を、目的としている。これらは、作品主義による新・芸術ということができよう。

 そして、かれらの発言にあらわれた、もうひとつの既成芸術に同意しない態度は、既存の芸術家に同意しないということにある。これは、人間主義からの視点に新・芸術をおいて意見をのべている。まず、既成芸術家らのレゾン・デートル(存在理由)である、西洋画家とか日本画家、彫刻家の身分から離脱し、それら職域の特殊技法や技術を無視することからはじまるこの主張は、かれらにとってはそれなりに決断であった。なぜなら、さきにも記したように、ここにいるかれらは、いずれも芸大の油絵専攻の学生になるために努力し入学して、油絵修行をしたものたちだからである。つまり、ある時期の自分たちの存在理由の廃棄を、それなりに告知するものであった。かれらの内(うち)なるひとつの反芸術行為である。

 だが、既存芸術家から離反するこの姿勢には、さらにふたつの分岐がひそんでいるようにみえる。それは、芸術家として既存芸術家に同意しない態度と、芸術家の枠(わく)をこえてヒト(社会的人間)として、既存芸術家に同意しない態度である。

 芸術家として同意しないのは、既存芸術ジャンルのどれもが無効であるような芸術ジャンルを担う新しい芸術家の自負である。そして、さいごにくる、芸術家の身分を外へ越境してヒトとして同意しない立場とは、芸術ジャンルそのものの解体をおそれない態度である。

 1961年という’60年代のはやい時期に、日本アヴァンギャルドの、見かけだけにせよ、最大の課題であった「反芸術」について、五人の若い芸術家と二人の評論家がかたる言い分を整理してみればこのようになるであろう。

 だが、かれらそれぞれは、かならずしも明確に、これらのうちのひとつの立場にあったわけではない。この時点におけるかれらそれぞれの作品の写真映像を見るかぎりにおいて、その区別は識別できない。語ることからも、断定的語調でのべられているほど、はっきりした立場にあるわけではなさそうである。ということは、かれらひとりひとりが、ひとつだけの態度をとりつづけているということではなく、ちがった態度をみせることもあるということである。もっとも、ちがった態度とはいっても、いま段階的に区分した順序にしたがった態度であって、態度移動というべきものである。

 とはいえ、かれらすべてが、まず、既成芸術に同意せず、既成芸術作品に無縁な作品制作をおこなっていることではおなじ態度であるから、これまでつくられた作品を観賞者的にみるかぎりにおいては、おなじようにみえることもありうる。

 かれらの既成芸術作品に同意しない作品とは、すでに話題にした、工藤の「増殖性連鎖反応」(1960年)、伊藤の「シェル美術賞受賞作品」(1959年)をはじめ、中西の「内触覚儀 ナタル」(1961年)があり、荒川の「宇宙医学の先駆者」や赤瀬川の「ヴァギナのシーツ」(1961年)も、またそうであった。それは、芸大の学部・学科・専攻名があらわすような既成芸術ジャンル区分が無効となるような芸術作品であり、既成芸術ジャンルの隔壁を無視する芸術であった。じじつかれらの作品、壁面にかけるところでは絵画であり、立体としては彫刻であるような作品は、美術館で、展覧会の受けいれや展示の分類のさい、しばしば事務扱いで物議をかもしたという。絵画と彫刻を合体させたこれら作品は、既成芸術ジャンルの権威を失墜させるものであった。この芸術家として既存芸術ジャンルに同意しない態度は、すでに既存芸術家に同意しない態度とみえることもある。

 ただし、その同意しない態度の強弱はさまざまである。伊藤の場合は、工藤や赤瀬川とのあいだでかわした会話からでは、むしろ作品主義の立場からの発言に傾きがちである。工藤の態度は、作品主義でもありながら、軸足は、芸術家として既存芸術家に同意しないことにおかれているようにみえる。さらに、赤瀬川については、発言のほとんどが片言隻語であり、まとまったことはいわれていないが、既存芸術家否認をむしろ大前提とした言のように読むことができる。

 だが、作品としてであるにせよ、芸術家としてであるにせよ、既成芸術に同意せず、しかし、自分自身の「作品」を、精力的に発表しつづけているかれらは、当時のアヴァンギャルドに可能性の関心をよせていた中原の目からは、どのようにみえ、また、かれらになにを期待していたのだろうか。

 「『若い冒険派』は語る」の座談会記録は、つぎのような説明のあと、最後のふたりの発言をもって、だしぬけにおわる。だがこのとうとつなおわりかたは、このふたりの発言が、中原にとっては、聞いておくべきたいせつな、「現代アヴァンギャルド」についての締めくくりの発言だったのであろう。これを吟味しておこう。


 (・・・・・・・・・ 大きくみると、芸術を生活に優先させるという観念のないことが特徴であります。生活とすべてを芸術表現に集約するのではなく、人間のすべての活動の一単位とみなしているのが明白であるといえるでしょう。・・・・・(略)・・・・・ しかし、すくなくとも意識の面では、反芸術家というより非芸術的口吻をもらす出席者諸氏が、みずからの仕事を客観化した発言もほしいと思いました。

 そしたら、最後に聞いた発言が次の通りです。[中原])

中西 ─ 反絵画というレッテルを貼られるというわけですね。貼られるだけでなく、そういう意識もあるかもしれない。だから、こういうところで芸術論をやる。しかし、なんだか、けっきょく、大きな吸口のようなものに吸いとられていくということだな。けっきょく、芸術のカテゴリーに吸いとられていくという歯がゆさを感じますね

荒川 ─ 芸術を廃業することだね。

中西 ─ ぼくは可能性のひとつとして、廃業することもおもっていますね。

荒川 ─ ぼくは芸術家だからね。ぼくは偉大な芸術を出しますね。


 掲載された「座談会」記録は、それ以下は、「速記録が膨大なものになったので、解説者が重要と思われるぶぶんを抜粋、解説した」と注記があるのみで終了する。

 ここでは、「みずからの仕事を客観化した」発言のなかで、中西と荒川、ふたりの発言が、おそらくはなかでも代表的なものとして、紹介されたのであろう。まず、中原のテーマの前提として、このふたつの発言について整理しておこう。

 ふたりの基本的立場は、どちらも「既存芸術家の既成作品に同意しない」ということでは同一である。

 ただ、中西では、同意することなく、既存芸術家と異なる素材・形式の制作をしてみても、それだけでは既成芸術の枠を越えられないのではないかという。これは、座談会の「反芸術」の冒頭で、じぶんの作品「内部触覚儀 ナタル」について、「あれはなんでもないのだということを強調した」というかれの発言の真意をあきらかにするものでもある。つまり、あのような作品は、しょせんは芸術批判の「反芸術」にならないということである。そして、それらは「けっきょく、(既成)芸術的カテゴリーに吸いとられていく」のではないかの歯がゆさがあるという。

 ならば、どうするかについては、ここで語っていない。

 ところが、この発言にたいして、荒川は過剰なまでの反応をみせる。おそらく、既存芸術家の既成作品と異なる素材や形式の批判的作品を制作してもしょせんはかわりないに、反発したのであろう。だから、「芸術の廃業」が発言され、中西は、「歯がゆさ」を解消する道には、「廃業」がありうるというのである。これらの中西の言は、いがいなまでにじぶんに誠実な発言であったことがのちのかれの芸術行動にあらわれることになる。かれのおもう「廃業」が、どのようななものであったかについて、かれのその後の行動に照らしてみておこう。

 それは、荒川の強請からでてきたのであったが、既存芸術家に同意しないことをあらわすことで、荒川とはもう一歩踏みこんだ、ヒトとして同意しないにちかづくものである。既存芸術家にそのように同意しないのは、とうじの中西にとっては、やはり「廃業」であろう。ただし、この不同意が、いまのべた、芸術家として不同意なのか、ヒトとして不同意なのかを、意識的に区別したうえでの覚悟ある発言というわけではなかったであろう。

 中西のその後の芸術行為についていえば、1961年のこの時点までのアヴァンギャルド的芸術活動は、溶接したくず鉄にフォーク、スプーンを埋めた作品「内触覚儀 ナタル」や、大理石の粉をボンドで練ってつくった石膏状の画面に、コンプレッサーなどによってかたちを形成した作品「韻」(1960年)などの制作であり、アヴァンギャルドとしてとうじの評判たかいものではあったが、作品制作にとどまるものであった。ここまでのかれは「読売アンデパンダン展」にも、まだ参加していない。つまり、既成芸術作品に同意しない「作品主義」から、「人間主義」にもとづく、芸術家じたいを正面からみつめはじめたばかりだったのではないかとおもわれる。それが、いたるところにある説明不足の発言に露呈しているようにおもわれる。

 というのも、この「座談会」の直後あたりから、突然といってよいほど、ハプニングとパフォーマンス的要素が、中西の芸術活動にくわわるようになる。翌1962年に高松次郎や木下新らの芸術仲間と演じた「山手線事件」とか「山手線フェスティバル」、「山手線展覧会」と呼ばれるハプニングや、「読売アンデパンダン展」そのものが、そこでのスキャンダルによって、廃止される契機となった第15回展(1963年)への積極的参加がはじまる。そして、これらの芸術行為が、のちの「ハイレッド・センター」創設に直結するのである(注. これらについては次回で、その詳細を述べるつもりである.)

 中西のこのような「座談会」後の行動の経緯をみると、かれのいう「可能性のひとつとして、廃業することも」の廃業に仮託するものがみえてくるようである。「廃業」とは、芸術作品の制作そのものが、かれの存在理由において、解体することをおそれない態度ということであろう。これらの進展からみれば、’60年代における冒険派中西の「反芸術」は、既成芸術作品に同意しない態度から既成芸術家に同意しない方向に一途にむかっていくことだったのであろう。おそらくそうしたことが、初対面の中西と赤瀬川を接近させたのではないかとおもわれる。

 そして、これにたいして、この中西の回答と対照的に掲載されているのは、荒川の「ぼくは芸術家だからね。偉大な芸術を出しますね」である。

 かれがこれに託しているのは、既存芸術に同意することなく「偉大な芸術作品」をつくることへの自信の表明であろう。その偉大な芸術が、ツァラのいう「絶対性の芸術」か、一般的で、現実的な評価をうける芸術かはわからない。当時それらはダブルイメージが可能な時代であった。アメリカのジャスパー・ジョンズやラウシェンバーグらはすでにはなばなしく登場していた時代である。荒川のなかではたぶん、芸術作家的にこれらが一体となった「偉大な芸術」だったのであろう。

 それというのも、このときの荒川は、さきにもふれたことがあるが、数ヶ月後の渡米をひかえた時期にあった。’60年代前半の日本のアヴァンギャルディストたちは、その多くが海外渡航、ことにアメリカ合衆国へ活動の場を移している。この「座談会」出席の工藤も翌年、1962年5月にパリへ移住し、パリのアヴァンギャルディストたち、ジャン=ジャック・ルベルらとハプニング活動を展開した。

  また、ネオダダ・ジャパン周辺の芸術家たちだけでも、翌年の吉村益信(1962年8月末)のニューヨーク行をはじめ、平岡弘子(1962年8月)、升沢金平(1963年3月)、豊島壮六(1964年6月)、木下新(1964年11月)、田辺三太郎(1966年4月)、篠原有司男(1969年5月)らが、ニューヨークへ転居している。音楽芸術家の刀根康尚、小杉武久ものちに渡米した(注.『ネオ・ダダ JAPAN 1958-1998』カタログ])  当時、アメリカ合衆国は、戦後世界政治の二極構造のなりゆきとして、政治的に、また芸術的にも、あたらしい繁栄の中心になりつつあった。芸術がパリからニューヨークへ移り、抽象表現主義やポップアートをはじめ、戦後芸術が隆盛をきわめようとしていた(注. ヨーロッパ側の動向としては、さきのヌーヴォー・レアリストたちのニューヨークでの活動の項でのべたとろである。[第2章  「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」 2) ’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合(『百万遍』4号)] および、本誌掲載の『戦後政治体制と現代芸術 ━ 第二次世界大戦後の芸術界の動向 ━』(『百万遍』2号)を参照)

 アメリカへゆきさえすれば、これらあたらしい芸術は正当に評価され、それなりの「仕事」のあつかいが享受できるという期待が、こうしたアヴァンギャルド芸術家らにはあったとおもわれる。たとえば、吉村の渡米理由には、「日本ではあたらしい仕事はいくら創作に励んでも売れない、食えないという見通しがあったため」という証言もある(注.『吉村益信の実験展─応答と変容─』[大分市美術館](2000年)年譜) 

 また一方、日本のアヴァンギャルディストにとっては、そうした国への、このようなかれらのある意味での脱出は、かれらの芸術が反体制的、つまり、日本での「反芸術」であることを、かれらなりに前提としていたことになる。反体制とは、政治にせよ、芸術にせよ、いかなる領域であれ、既成の権威を過激に批判し拒絶することである。つまり、芸術家をいちどはこころざしたかれらが、芸術大学が教え、「日展」が推奨する造形芸術や、音楽を公然と批判し、拒絶する「反体制」行為である。

 そして、おそらくこのような計画をもっていた荒川の回答は、かれなりの「反芸術」を宣するものだったのであろう。というのも、かれのいう「偉大な芸術」には、日本の既成芸術の範疇にある作品のことや芸術家のことは、毛頭その念頭になかったにちがいないからである。「ぼくは芸術家だからね」は、ヒトとして、あらためて芸術家の仕事を選択するという、自負にみちた発言であるようにおもわれる。そして、既成芸術など歯牙にもかけない、「反芸術」の確信から出たもののようにきこえる。じじつその後のかれの軌跡をたどると、生涯にわたり既成芸術に正面から挑戦する「作品」、たとえば、最晩年の既成造園や建築に挑戦する、「養老天命反転地の公園」(岐阜県養老町養老公園[1995年])の建設や「三鷹天命反転住宅(ヘレンケラーの思い出)」(東京都三鷹市[2005年])の建築などのように、かれなりの主張にもとづく「反体制」的芸術行為を全(まっと)うしたからである。(注. これらはいずれも、地方公共団体をスポンサーとするものであり、「大阪万博」とおなじ性格をもつ「反芸術」であった.)

 とはいいながらも、これらはかれのその後の軌跡をみたうえでの見方であって、1961年のかれに、けっしてそのような確信があったわけではなかったであろう。むしろ、感情にかられた誇張表現としておくべきである。

 しかしながら他方、このように読みほぐしてみると、かれらふたりの、片(かた)や「廃業」と片や「偉大な芸術」は、まったく正反対の立場であるように聞こえるが、じつは、たがいに’60年代アヴァンギャルドの「反芸術」という場で示された、セットとなる態度であったようにみえる。

 荒川の 「ぼくは芸術家だからね。ぼくは偉大な芸術を出しますね」は、年長のエリートである中西の「廃業」に反発した感情をわり引くと、確信的とはいえぬまでもなんらかの広がる芸術的展望を見つめたものであった。

 それは、中西の場合も、荒川とは対照的ではあったが、芸術にかかわるやるべきことを、一途にみつめているにはかわりなかった。そして、それが’60年代初頭の日本のアヴァンギャルディストたちのいだいていた、変動を予感するみずからの未来への期待である。

 だが、これらのふたつの応え方が、中原の聞いておきたかった回答であったのかどうかのかはわからない。正面から応えたのではなく、また、まったく応えていないのでもない、奇妙な返事である。

 というよりも、むしろ、問題は、このような纏(まと)め方をした「中原の意図」であろう。

 なぜなら、はたして、「みずからの仕事を客観化した」回答としては、なお、途中にとどまっているものを、このようにならべて、わざわざ掲載しているからである。以下、かれの結論としての、そのコメントをいま一度読みなおしてみなければならない。

 中原の、出席した「若い冒険派」への総合評価は、「芸術を生活に優先させるという観念のないこと」であった。すなわち、生活から芸術をみていることを由(よし)とするものである。これは、中原の基本的芸術観であろう。しかし、それならば生活から、どのように芸術をみているか、かれらの生活のなかで芸術はどのような位置にあるか、つまり、芸術と生活の関係が問題となる。ましてや、「反芸術家というより非芸術的口吻をもらす」のであるから、やっていることの生活上の位置を、どう意識的にやっているのかである。というのは、この「非芸術」活動は、かれらにとってたんなるきまぐれな遊びとか気晴らしではなく、かれらの意志的生活活動としておこなっているのは、「座談会」のなかでじゅうぶん語られていたのだから、「仕事」としてどう位置づけているのかということである。

 これについての、荒川と中西のこたえは、それなりの意味をもつ。しかし、中原が関心をもつのは、むしろ中西の「廃業」であろう。(注. 中原は、荒川の「仕事」を、その頃もその後も評価していた. 荒川の晩年の「住宅」や「庭園」について、どう語っていたを筆者は知らない. ただ、晩年の中原は作品主義に立場を変更したようにみえるから、評価していたのではないかとおもわれる.)


②  芸術作家の「反芸術」Part 4 へつづく


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