Avant 2-4-3-1


’60年代日本の芸術アヴァンギャルド   (第2章ー4ー③ー1) 

「読売アンデパンダン」展 

        田淵 晉也

Part 1


これまでの目次


序章

   1) 風俗画のアレゴリーとしてみる芸術・文学

   2) ’60年代日本社会の位置

        ① 世界の状況

        ② 世界状況のなかの日本

第1章   ’60年代日本の風俗画

   1) ‘60年代三枚の風俗画

     2)「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本

(以上『百万遍』2号掲載)


第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

   1)‘60年代日本の「反芸術」(その1)       

   2)’60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌヴォー・レアリスム』

の場合)

   3)トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』 と アンドレ・

ブルトンの「反芸術」                                                               (以上『百万遍』4号掲載)

  

  4) ’60年代日本の「反芸術」(その2) 

   ① 芸術評論家の「反芸術」 ─ 東野芳明の「反芸術」と

それをめぐって

   ② 芸術作家の「反芸術」 

                    (以上『百万遍』5号掲載)                                


(今号掲載は)   

③  「読売アンデパンダン」展から「ハイレッド・センター」へ  の前半部にあたる

「③-1 「読売アンデパンダン」展」

 

 前項〈② 芸術作家の「反芸術」〉のおわりでのべたように、’60年代日本の「反芸術」をかたるうえでは、〈芸術評論家の「反芸術」〉からだけでなく、「反芸術」行為が具体的にあらわれた「読売アンデパンダン」展からハイレッド・センター活動への展開の流れをみとどけておかねばならない。③-1「読売アンデパンダン」展と ③-2「ハイレッド・センター」 に項目分けする理由である。ある程度は、単独で読めるように書いたつもりであるが、あくまでも全体を構成する一部分である。


③ー1 「読売アンデパンダン」展


 「読売アンデパンダン展」は、読売新聞社によって1949年に創設され、毎年、2~3月に、東京・上野の都立美術館で開催された。

 敗戦後四年目、朝鮮戦争直前のこの時期、読売新聞は、戦後民主主義の時代にふさわしい民主的自由な美術展を、社会に提供するという戦後の大義をかかげて設立したのだった。この展覧会は、だれでも、どのような作品でも、手数料百円を納入すれば、無審査で出品できるというものであり、けっしてアヴァンギャルドに特化していたわけではなかった。

 第2回展は、「日本アンデパンダン展」として開催された。だが、二年前すでに、おなじような自由参加をかかげる、無審査、無授賞の「日本アンデパンダン展」がひらかれていた。それは、敗戦の翌年1946年に結成された日本美術会が主催する美術展である。


 敗戦となりいちはやく開催された、とうじの美術展覧会の状況はつぎのようであった。戦前に官展として創設された過去をもつ「日展」や「院展」「文展」はもちろんだが、それに対抗して設立されていた二科会の二科展、独立美術協会の「独立展」や新制作協会の「新制作展」、そして、あたらしい美術をめざして、終戦直後に設立された行動美術協会の行動展もすでにあったが、それらはあいかわらず一般人の出品が困難な会員展であった。会員外のものの出展は、会員たちの厳しい、ということは、独自の美術基準による、審査をパスして認められるというものである。

 そうした美術界の旧来の風潮に反発して、あたらしい革新的美術グループをめざし、日本美術会は結成された。そして、翌年1947年には、機関誌『美術運動』を刊行し、第1回日本アンデパンダン展を開催していたのである。元来「アンデパンダン展」とは、19世紀後半のフランスで、官展落選のアヴァンギャルド芸術家らが、これを不満として対抗的に結成した美術展の、アヴァンギャルド性を強調する名称である。 (注. indépendant[独立した] 〉 in-dépendre[依存ーしない]) 名前だけからいえば、「独立美術協会」がすでに存在していたから、戦後時代にそくした真の革新的、民主的美術家集団の美術展を主宰するということであろう。

 日本美術会は、敗戦直後の革新といえば共産主義という政治風俗のとおり、共産党に好意的立場にたつものであった。とうじの共産党といえば、幹部たちが、「愛される共産党」を主張したり、アメリカ占領軍を「解放軍」と讃えたりする党であり、レッドパージ(1950年)いぜん、もちろん、「六全協」(1955年)いぜんの政党であった注 (注.『第1章 ‘60年代日本の風俗画 2)「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本』[『百万遍』2号]参照)

 したがって、日本美術会の会員には、戦前のプロレタリア美術運動の体験者がおおく加わり、初代書記長の内田巌は戦後、日本共産党に入党していたが、かならずしも日本共産党の方針に完全同調する組織ではなかった。内田自身も、読売アンデパンダン展にも初年度から出品している。

 この傾向はその後もつづいているのはつぎのことからもあきらかであろう。

 前号(『百万遍』5号)であつかった、中村宏の「不審の『自己批判』」や、これに反論した中原佑介「タブローの自己批判 ━ 生活と芸術の断絶」の論考が掲載されたのは、日本美術会の機関誌『美術運動』(1957年)であった。これは、いずれも「六全協」いごの日本共産党の「自己批判」風潮への批難を前提としたものであったから、共産党が容認するはずもないものである。そのほかにも、針生一郎など「六全協」を契機に離党した評論家たちで同誌に執筆したものはおおい。また、のちに読売アンデパンダン展にもっぱら出展する、ネオダダ・ジャパンの吉村益信や篠原有司男、赤瀬川原平もこちらのアンデパンダン展にも出展した。それに、さきの内田だけでなく、中村や池田龍雄、谷内六郎など、「読売アンデパンダン」と同時併行して出展した、とうじはわかく、だがのちに、独自の芸術を達成したアーティストはおおい。

 既成画壇から排斥される若い芸術家らは、自由な展覧会としてこのふたつの美術展に注目していたのだが、やがて先鋭な芸術意識をもつものたちは、読売アンデパンダン展にあつまることになる。

 展覧会の同一名称にかんしては、日本美術会と読売新聞のあいだで話合いがもたれ、けっきょく1957年に、「日本アンデパンダン展」と「読売アンデパンダン展」に正式に落着したのだったが、なぜ読売新聞があえておなじ名称を選び、この時期に断念したのか、やはりいろいろな疑問がのこる。

 また、工藤哲巳、あるいは荒川修作、赤瀬川原平などわかい無名の芸術家らの、読売アンデパンダン展への傾斜について、納得できる理由を見つけることはできなかった(注.読売アンデパンダン展についての貴重な資料である赤瀬川原平の『いまやアクションあるのみ!━ 〈読売アンデパンダン〉という現象)』[のちに『反芸術アンパン』に改題]でも、このことについては、一方的な見方にかたより、あいまいである)。しかし、とうじのかれらの語るところから憶測するとつぎのようなことがいえるだろう。

 表立っていえるのは、日本美術会主催の「日本アンデパンダン展」は、いくら自由で民主的を建てまえとし、だれでも参加できるとはいえ、れっきとした芸術家集団が経営する展覧会であり、出展者も戦前のプロレタリア絵画の画家をふくむ、たんなる新人とはいえない画家が、当初はおおくをしめていた。

 それにたいして、読売アンデパンダンはといえば、主催者は読売新聞とはいえ、芸術にかかわりをもたぬ運営体であって、出展される作品にまったくの無関心であった。そこでは、ほんとうになにを出品してもかまわないとおもわせる雰囲気をかもしだしていた。

 つまり、日本美術会は、敗戦直後の状況がうみだした画家、彫刻家の同業組合、あるいは、とうじの民主的職能組合的性格をもつ集団であり、「日本アンデパンダン」展はその事業のひとつであった。「読売アンデパンダン」に比して、日本美術会の「日本アンデパンダン」は、やはり、すこしきゅうくつにみえたのであろう。なお、付言しておけば、「日本アンデパンダン展」は、21世紀の今日になってもなお継続して開催されている。

 この読売展について、実見聞者のひとつの証言がある。今泉省彦は、「読売新聞社主催の日本アンデパンダン展は、(子供の描いた絵が並んでいるばかりか)、著名な抽象画の大家の大きな絵の隣に、三橋美智也とか正田美智子を、写真を見ながら描いたような鉛筆画が並んでいたりして、無闇に楽しかった」と回顧している。(下線は筆者)

(注.今泉省彦「絵描き共の変てこりんなあれこれの前説6-11 (読売アンパンは子供の描いた絵まで並んでお祭りのようだった)[仁王立ち倶楽部@CHRIS007(1985年12月発売)]」) 

 子供の描いた絵や三橋美智也(注.とうじ人気絶頂の演歌歌手)や正田美智子の似顔絵についてはほかにも証言があるが、これは日本美術会主催の会場では見られぬ光景であったろう。そして、そのような意味において、読売アンデパンダンにあった「無闇な楽しさ」、すなわち、このような無謀な自由さが、無謀なわかものたちを誘引していったにちがいない。

 だが、読売アンデパンダンにあったそうした自由さだけが、わかい芸術家らをひきつけた理由ではなかったとおもわれるところもある。

 主催する読売新聞は全国的大新聞社であり、展示会場は日本の芸術聖地、東京・上野の大美術館での長期開催である。展覧会の宣伝は破格で、会期中二週間は、すくなくとも東京版読売新聞150万部で、連日、関連記事が掲載され、出展作家は、うまくいくと写真つきで作品紹介をしてもらえることがあった。その宣伝力の質と量の大差が、読売アンデパンダンに、当初から子供の絵や社会アイドルの似顔絵を出品させた、日本美術会展にはなかった光景の真因だったのかもしれない。

 そして、このことが、読売アンデパンダンへ芸術家たち、ことにアヴァンギャルドのわかい芸術家らをひきよせた、かくれた誘因だったとしてもけっして言いすぎではないであろう。また、それが、とうじの日本の「アンデパンダン」の実態でもある。

 じじつ、初期出品者たちをながめてみると、戦後の岡本太郎や朝倉摂、北代省三、山口勝弘、池田龍雄らとともに、戦前からの東郷青児、福沢一郎、三岸節子、片岡珠子ばかりか、杉山寧、向井潤吉、林武、児島善三郎、田淵安一らの名がならんでいる。岡本太郎は1回展から8回展まで、林武と三岸節子は2回展から7回展と6回展まで毎年出品している。既成画壇で歓迎される、かならずしも不遇なアヴァンギャルドの、アンデパンダンを唱えねばならぬ芸術家とは、とてもいえない作家たちである。戦後のわかいアヴァンギャルディストといえるのは、池田龍雄(第2回)や、3、4回展から参加する今井俊満、河原温、松沢宥であり、5、6回展からの真鍋博や中村宏、靉嘔である。ただし、おもしろいのは、第3回展に、パフォーマンスの糸井貫二の名前がみえることである。

(注. 出展者については、赤瀬川原平の『反芸術アンパン(いまやアクションあるのみ ━ 〈読売アンデパンダン〉という現象)』の巻末掲載のリストを参照した.)

 そして、こうしたことは、読売新聞主催「日本アンデパンダン」展とはいうものの、新旧プロ・アマ混合という目新しい組合せの作品紹介という、民主的よそおいで耳目をあつめるフェスティバル・ショーの展覧会であったのであろう。そのことは、第3回展に、「海外の作品」の枠があり、ヴィクトール・ブロネール、ジャン・デュビュフェ、マックス・エルンスト、ルネ・マグリット、ヴィフレット・ラム、クルト・セリグマン、アメデ・オーザンファン、イヴ・タンギー、ジャクソン・ポロックなどの名がならべられていることからも推測することはよういである。

 これらの作品が、どのような経緯で出展されたのかはわからない。だが、1951年の日本の美術界で、マチス、ピカソ、ブラックならいざしらず、これらの現代作家について馴染んでいた愛好家はすくなかったのではなかろうか。かれらの作品は、ニュース価値をねらう美術雑誌の垂涎の対象であったろう。しかも、ポロックら少数をのぞいて、めぼしい作家の大半は、アンドレ・ブルトンが評価したシュルレアリスム系の作家である。

 おそらくここには、パリのシュルレアリストと戦前から交流のパイプをもっていた瀧口修造の仲介があってのこととおもわれる。

 「読売アンデパンダン」展の担当部署である読売新聞文化部の次長、海藤日出男は、瀧口と親交があった。第3回展だけにあった「海外作品」という梃(てこ)入れリストをみると、海藤をつうじて、瀧口は、かなりはやくからこの企画に、かれなりのおもいいれのある「参加」をしていたのかともおもわれる。そして、そのことが、読売アンデパンダン展の性格に結果的におおきな影響をあたえたとおもわれる。また、若い芸術家らを、結果的に、日本美術会から「読売アンデパンダン」展へひきよせたかくされたもうひとつの力だったのではなかろうか。 

 瀧口の期待がどのようなものであり、またそれが、海藤とどこまでこころざしをおなじくしていたか、また、読売新聞の意向との関係はわからない。

 だが、この「アンデパンダン」展の当初から協力をおしまず、しかし、その実現後のこのような実態に、かならずしも満足していなかったのはたしかであろう。

 なぜなら、かれは、設立5年後の第5回展を直前にした1953年1月31日の読売新聞紙上に、つぎのような一文を掲載している。タイトルは 「アンデパンダン展の可能性」である。


 アンデパンダンは戦後の民主的雰囲気に応じて企てられたもので、審査のないということは既成画壇から拒否された新人のためには一つの理想である。志のある作家はここで誰にはばかることなく作品を発表することができるはずだ。主催者側にすれば、もっと自由にふるまってほしいところではなかろうか。・・・・・ 要するにこれを盛上げる力のある有能な作家たちがアンデパンダン展をどう活用するかにかかっている。・・・・・・出品者の決意次第で芸術運動の白熱の場とすることもできるはずなのである。(傍点筆者)(『コレクション 瀧口修造』第7巻)


 一読してたしかなのは、現状のアンデパンダン展におけるわかい作家たちへの激励である。わかい作家とは、既成芸術界ではうけいれられないアヴァンギャルドの無名の作家たちである。もっとも、この時期のアヴァンギャルディストとはいっても、ネオダダ・ジャパンはむろん、具体美術協会でさえ、関西で結成される一年前で、まだあらわれていない。出品者のなかで、瀧口の念頭にある好ましい戦後登場の芸術家とは、「実験工房」グループの山口勝弘や北代省三たちであろう。さらにまた、かれらいがいのあたらしい芸術家たちへのあたらしい作品への呼びかけがここにある。しかも、瀧口の念頭にある「志あるあたらしい作家」のアプリオリなイメージには、20世紀初頭のあの過激なシュルレアリストたちの姿が無意識にでもあったはずである。そしてかれは、主催社側の希望であるとさえ言い切っている。

 だが、じつは、瀧口にこの時期このようなことを書かせたのは、それとは別のさしせまったことなる理由からか、ともおもわせるものもある。

 というのは、この「アンデパンダン展の可能性」が掲載されたのは、第5回展開催の4日前である。おそらく、執筆時には、第5回展出品作品のおおかたはわかっていたにちがいない。そして、その出展者の顔ぶれが、この「期待」をかれに書かせたのではないだろうか。そこに海藤がかかわっていたのかどうか、それはわからない。しかし、「主催者側にすれば、もっと自由にふるまってほしいところではなかろうか」を読むと、海藤からの情報にもとづいて、これを書いたかとおもいたくもなる。

 じじつこの一文をみちびく冒頭の書き出しはつぎのようにはじめられている。


 読売新聞主催の日本アンデパンダン展も第五回を迎えることになる。たいていの展覧会は五年もすれば曲がりなりにも目鼻がつくものであるが、正直なところまだはっきりとした目鼻だちとはいえない。考えてみるとアンデパンダン展に変な顔立ちができてしまうよりは、どこか未完成のようなところに脈があるといえるのかもしれない。  


 これをひとことでいえば、「変な顔立ちができてしまうより」まえに、志のある作家は、せっかくのこの機会を活かして、はやくなんとかしろという激励であろう。 

 四日後に開催された出展者のリストをみると、第1、2回展から連続出品している佐伯米子、三岸節子、高畠達四郎、鈴木信太郎らにならんで、梅原龍三郎がはじめて出品している。かれらは、戦前からの、その頃はむしろ大家である。真鍋博や中村宏という新進作家らの初出品もあるが、「日本アンデパンダン」を名のるにしては、「変な顔立ち」がならびそうな気配がある。

 というのも、いまだ「日本美術会」と交渉ちゅうとはいえ、あえて「日本アンデパンダン展」を強調しているところにも、日本のアンデパンダン展にこだわりがあるようにおもえるからである。つまり、戦前から、帝国美術院(戦後、日本芸術院)会員であり、東京美術学校(東京芸大)教授でもあり、戦前戦後のかくかくたる画業実績をもつ梅原龍三郎は、いかにみても「日本アンデパンダン」を変な顔立ちにしてしまうものである。

 戦前はやくからシュルレアリスムに傾倒し、それによって特高警察(戦前の治安警察)の取り調べをうけたことがある瀧口は、アンデパンダンを社会的前衛とする視点があり、この展覧会を若い無名のアヴァンギャルディストの実力発揮の「場」としたいという、積極的意図があったとおもわれる。そのことは、展覧会開催中、いく度もかれは会場にすがたをみせ、出展者のわかい芸術家らに語りかけ、感想を親しくつたえ、激励し、わかいかれらを感激させたことからもいうことができる。

 瀧口のこうした呼びかけや尽力に応えるように、2年後の第7回展(1955年)あたりから出展者の顔ぶれがかわりはじめる。「具体」の嶋本昭三や、のちのネオダダ・ジャパン(1960年結成)の吉村益信、篠原牛男(有司男)、ほかにも久里洋二らの、確信的に先鋭なあたらしい芸術をこころざすアヴァンギャルディストたちが参加しはじめる。嶋本や久里は、正統の美術教育をうけることなく独自の芸術をめざすものたちだった。

 9回展では、めぼしい新規参加者は池田満寿夫や荒川修作だけだったが、やがて第10回展(1958年)には、多数の自覚的なアヴァンギャルディストの参加があった。工藤哲巳(23歳)をはじめ、耳の鋳造造形で評判となったアマチュア彫刻家三木富雄(21歳)、結成直後の九州派の菊畑茂久馬(23歳)やオチ・オサム(22歳)、のちのハイレッド・センターの高松次郎(22歳)、赤瀬川克彦(原平)(21歳)ら、じぶんのアートの手がかりを模索するわかい芸術家たちが、既成芸術からみると破壊的ともいえる大胆な作品をかかげて集まってきた。

 そして、これに並行して、常連であった林武、三岸節子、片岡珠子らの名前がみあたらなくなる。岡本太郎の出品も第8回展(1956年)までである。

 ただし、こうしたアヴァンギャルディストの動向も、芸術衝動だけにあったとは、いえないのかもしれない。

 すでにその概略をのべた’60年代初頭の政治運動、1960年6月を頂点とする「デモ・ゲバ」風俗画の予兆が、そのころから日本社会をゆさぶりはじめていた。(「第1章 2)「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代の日本」[『百万遍』2号]参照)

  アメリカ軍の砂川基地拡張にともなう土地接収に反対する住民運動が、労働組合や学生も参加する、全国規模の基地反対闘争に拡大しはじめたのが、1956年である。

  そして、翌年1957年には、日米安保条約の憲法違反を問う裁判に発展する砂川事件がおこっている。これは、その後の安保闘争、全共闘運動のさきがけとなった学生運動の原点となる事件である。この砂川反対運動には、赤瀬川原平は、芸術グループとは無関係に参加し、吉村益信も個人的に熱心な支援をおこなったという証言がある。

 また、1958年には警職法改悪反対の国民的運動がおこり、のちにのべるように、アヴァンギャルド芸術界にもおよびはじめていた。

 そうした社会的状況が読売アンデパンダン展になんらかの反映をみせていたと、第10回展あたりからはじまる参加者の変動と作品の変質を、いまとなっては説明できるであろう。そして、またこれは、すでにわれわれもくわしく検討した「ガラクタの反芸術」が発表された第12回展(1960年)あたりから実体化する「デモ・ゲバ」風俗・芸術のはじまりともみなすことができる。

 しかし、他方、ある意味では、瀧口の期待にこたえたようなこうした「アンデパンダン展」の動向にたいし、かれ自身は、敏感に反応し、第5回展でみせた危惧とはいささか矛盾するふくざつなおもいをのべることになる。

 第11回展会期中の1959年3月5日の読売新聞に掲載された展覧会批評「破られる既成技法─ 若い意欲が“未知”にいどむ ━ 第11回読売アンデパンダン展」である。 

 ここに書かれているのは、「アヴァンギャルド」論としては、歯切れのわるいあいまいな指摘のようにみえるが、じつはそこに瀧口の透徹した視線がむけられており、’60年代日本の「反芸術」の実態を考えるうえで示唆的な発言となっている。透徹というのは、1959年のこの時点にこれが書かれているということである。「破られる既成技法」がその後、1960年を経て、1963年(最後のアンデパンダン展とハイレッド・センターの成立)をくぐり抜け、1970年(「万博」芸術)を通り抜ける以前の萌芽期り、また、それらのその後を予兆させるものがあったことである。


 十一回目を迎えた読売主催アンデパンダン展は搬入点数がやや減少したそうである。これについて既成の公募展が審査を相当寛大にして一般出品者を吸収することにつとめたことが一因だろうという見方がある。そのまた一原因が美術館の拡張にある、などと推測されるかも知れない。それにこの数年来、大きな団体所属の作家がしだいに出品しなくなったことも見逃せぬ現象であろう。/ しかしこうしたことはアンデパンダンの本質と関係のないことで、むしろ正味の姿に還元されつつあるともいえる。だがそれよりも昨年あたりからアンデパンダン生え抜きの世代とその作品傾向に一つの転換が現れはじめたことはとうじこの紙上で指摘した通りで、ことしはそれが一層はっきりしてきたように思われる。

 たとえば会場の印象を抽象画が圧倒的だ・・・・(ママ)といったとしたら、そうした評語はもはや古典的でほとんど意味をなさないような作品が多くなっている。抽象形態というよりも、多くの作品は流れるようなもの、撥ねとばしたようなもの、沈殿したようなもの、引っかいたようなもの等々、材質とも形ともつかぬ表現要素が画面を占めている。技法もよく見ると既成の絵具も筆も使っていないものが意外に多い。これをいわゆる「アンフォルメル」の影響という風に見ることもできようが、それだけでは解決のつかないものがあるだろう。二、三の若い作家に制作動機をきくと、絵画の既成の形式や技法ではどうしても処理しきれない、何かもやもやとした不安と欲望、未知の何ものかに賭けずにいられない表現欲、平たくいえばそうしたものが彼らを駆りたてているしかし身を投げだすと同時にかれらをとらえるのが造形という苛責のない現象だろう。いまはそうした意識のあらゆる錯綜が壁面をおおっている。すでに純粋に美的な現象として観念している作家もいるだろう。そこに現実の矛盾とかエネルギーを表現しようとする作家もあろう。(表象と対象の一致がまだほとんど確認されていないにしても)またすべてを突き離して単に一つの「物」と化そうとしている作家もいるだろう。そこに表象があっても、それは一見ダダのように無関心で、時には嘲笑的だ(オチ・オサム、石橋泰章、吉村益信ほか)。

 /一つ極端な例をあげよう。彫刻室の篠原有司男の廃棄物を積み重ねたような出品物には「こうなったら、やけくそだ!」と題してある。この作家は三年前に壁面に異物をつりさげていて立体的だといっていた。筆者はその前で「ちっとも立体的でなく平面にすぎない」と評したら、つぎに「アクション彫刻」を出品し、こんどの「やけくそ」になった。オブジェはよいが朽ちかけた物質そのものがみじめにも露呈して、さすがの筆者もヘキヘキした。これはたしかに類いのない「わるい彫刻」の一つとして記録に値しようが、だれもこの作家の未来を予言するものはいないだろう。私はひやかしているのではない。アンデパンダンはこれをさけて通ることができないことをいいたいのだ。(「破られる既成技法─ 若い意欲が“未知”にいどむ━第11回読売アンデパンダン展」(初出[読売新聞1959年3月5日])(「/」マークは筆者)


 第五回展で不満をのべた出品者や作品が、「アンデパンダン展」に似つかわしくなったようにみえるとはいえ、そこにある実態はなにかということである。

 瀧口がみるのは、この一年後のイタリアで、ピエール・レスタニーが「ヌーヴォー・レアリスム」宣言で書いたのとほとんどおなじ現象をみている。ダダの無関心(0[ゼロ]度のダダ)の洗礼をうけて、アンフォルメルをこえ、すべてを「物」と化そうとしている芸術家である。レスタニーはこれをあたらしい芸術、ヌーヴォー・レアリスムとして称揚した。しかし、瀧口は、レスタニーとはちがい、そこにその実態のあやふさをみている。 (注.ヌーヴォー・レアリスについては、「第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」─ 2) ‘60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌヴォー・レアリスム』の場合)」[『百万遍』4号掲載]を参照)

 瀧口は、「(二、三の若い作家に制作動機をきくと、) 絵画の既成の形式や技法ではどうしても処理しきれない、何かもやもやとした不安と欲望、未知の何ものかに賭けずにいられない表現欲、平たくいえばそうしたものが彼らを駆りたてている」という。現代社会の若い芸術家を駆りたてているのは、「何かもやもやとした不安と欲望、未知の何ものかに賭けずにいられない」激しい情念だという。

 ちょうどそのころ、パリでもアラン・デュフロワが、タシスムの情熱的抽象画を描くジョルジュ・マチューらの若い画家らについておなじようなことをいっている。かれらを駆りたてているのは、ある種の激情であり、そうした激情は、かれらの自己憎悪と自由への嫌悪によってはぐくまれ増殖しているのだと。 (注.アラン・ジュフロワ 「パリの若い絵画の状況」(1958年)[『視覚の革命』所収])

 そして、瀧口もまた、かれらをゆり動かしているものが、えたいのしれない不安と欲望の情念の沸騰であると認める。しかし、瀧口は、それいじょう、デュフロワのように、かれらの情念のありかをさぐろうとはしない。かれは、むしろ、外から、その情念がむけられ表現しているものを正確に、だが、あたたかく見まもろうとする。

 瀧口は、不安と欲望にかられてむかう未知の対象が、やはり「造形」という芸術の枠内にとどまることを見ぬいている。かれらが反抗し、否定するのは、芸術そのものではなく、既成芸術の技法と形態であることを見定めている。それは、会場で「二、三の若い作家に・・・・きくと・・・」に凝縮された、作品を運びこみ陳列し、みずから作品についてかたるかれらの実像から判断した結論であろう。

 そうして、その結果として、まぎれもなく沸騰しているかれらの情念がそこにあらわしているのは、つぎのふたしかな三種にとどまっているとかれはいう。それは、まず、モノとしての絵具と「跳ねとばし、沈殿し、ひっかいた」形とを、純粋な美的現象として観念して、観賞用に仕立てあげた作品や、「そこに現実や矛盾とかエネルギーを表現」したつもりでいる作品である。さらにまた、既成芸術の素材をすて、芸術を「物」と化すオブジェの作品もある。「それは一見ダダのように無関心で、時には嘲笑的」に見えるにしても、これらは、いずれも、素材とかたちによる表現形式と、表現内容の乖離があり、「表象と対象の一致がまだほとんど確認」されていないレベルだという。

 しかし、瀧口が見ぬいているのは、かれの文言をある側面から読めばこのようにおもえるのだが、おなじ文言の別の面、正面から真剣にかたっているのは、この見ぬいているもののなかに、かれはおおきな未知の期待をもっているということであろう。若い意欲がいどむ“未知”への、この時点におけるかれの期待である。

 それが引用文最終段落の篠原有司男批評にあらわれている。「さすがの筆者もヘキヘキした。これはたしかに類いのない『わるい彫刻』の一つとして記録に値する」とは、この段階では、いかなる「芸術」としても、なにものとしても、けっして承認することはできない。しかし、「だれもこの作家の未来を予言するものはいない。そして、アンデパンダンはこれをさけて通ることができない」という理由から、(「第11回読売アンデパンダン展」 出品作品として、)じぶんは評価すると読みとれるところに、瀧口の勇気ある、熱い期待が見えるのである。

 

 そして、「読売アンデパンダン」展は、瀧口の期待をさらに試練にかけるような方向に、時代と社会の状況のなかで、つき進んでいくことになる。

 それが、翌年開催の第12回展からはじまる動向であり、その顛末である。

 この年、1960年は、「デモ・ゲバ」風俗の幕開けの年であることは、すでに本論でいくどものべたところである。

  1960年の政治的出来事に本論に関係するアヴァンギャルド事項をくわえた年表はつぎのようになる

(注. 政治事項については、「第1章 2) 「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本」を参照)(年表の骨子は『近代日本総合年表』[岩波書店]による)


1960年

1.19 日米相互協力および安全保障条約[新安保条約]、施設・区域・米軍の地位に関する協定(行政協定に代わる新協定)、事前協議に関する交換公文など、ワシントンで調印.

2.15 第13回日本アンデパンダン展(風倉匠、吉村益信、篠原有司男出品)

3.01 「第12回読売アンデパンダン」展開催(3.16マデ)(東野芳明「(ガラクタの)反芸術」を提唱)

3.01 「ネオ・ダダ」結成宣言(瀧口修造を囲んで)(吉村アトリエ)

4.04 「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」展(銀座画廊)(4.9マデ)

4.16 (第1回ヌーヴォー・レアリスト展/ヌーヴォー・レアリスム第1宣言[ミラノ])

5.14 安保阻止国民会議、10万人が第2回国民請願デモ.誓願署名4.26以来1350万と社会党発表.

5.19 衆議院安保特別委員会、自民党の採決強行で混乱.衆議院議長清瀬一郎、警官500人を導入して社会党の座り込みを排除、本会議を開会、野党・与党反主流派欠席のまま会期50日延長を議決.ついで5.20未明、新安保条約・協定を強行採決(以後国会空白状態、連日国会周辺にデモ).

5.20 全学連主流派、首相官邸に乱入、警官隊と衝突.

5.26 安保阻止国民会議、第16次統一行動、17万人のデモが国会を包む.

6.04 安保改定阻止第1次実力行使、国鉄労組など交通部門で早朝スト.全国で総評・中立労組76単産460万人、学生・民主団体・中小企業者100万人、合計560万人(総評発表)が参加.

6.10 米大統領新聞係秘書ハガチー来日(合衆国大統領アイゼンハウワー訪日打合せのため) 羽田空港で労働者・全学連学生(反主流派)のデモ隊に乗用車を包囲され、米軍ヘリコプターで脱出. 6.11 離日

6.15 安保改定阻止第2次実力行使(~6.16)、全国で111単産580万人参加.安保阻止国民会議・全学連など国会デモ.(ネオダダ・ジャパンの吉村益信、篠原有司男、荒川修作、田辺三太郎、吉野辰海ら参加

 右翼、全学連反主流派・新劇人などの国会デモになぐりこみ、6人負傷.

 全学連主流派、国会突入をはかり警官隊と衝突、東大生樺美智子死亡.学生約4000人、国会構内で抗議集会. 警官隊、暴行のすえ未明までに学生など182人を逮捕(負傷者1000人を越す)

6.16 臨時閣議、アイゼンハワー訪日の延期要請を決定(マニラ滞在中のアイゼンハウワーも同意)

6.18 安保阻止統一行動、33万人が国会デモ、徹夜で国会を包囲. 6.19 午前0時、新安保条約・協定、自然承認

6.23 新安保条約批准書交換、発行. 岸首相、閣議で退陣の意志発表

7.01 第2回ネオ・ダダ展(7.10マデ)(吉村アトリエ「革命芸術家のホワイト・ハウス)

7.20  ビーチ・ショウ(鎌倉)(7.22マデ)

7.   暗黒舞踏派(第一生命ホール)

7.02 安保阻止国民会議、東京三宅坂で新安保不承認大会開催、10万人参加

7.14 自民党大会開催.池田勇人、決選投票で石井光二郎を破り総裁に就任。祝賀レセプションで岸首相、右翼に刺され負傷

9.01 第3回ネオ・ダダ展(日比谷画廊)(9.03マデ) 

9.05  自民党、高度成長・所得倍増などの新政策を発表

9.30  ビザールの会に参加(銀座ガス・ホール)

10.12 浅沼社会党委員長、日比谷の3党首立会演説会で、右翼少年山口二矢に刺殺される. (同時中継でテレビ放送された)

11.01 経済審議会、国民所得倍増計画を答申(経済成長率平均7.9%、70年度のGNP26兆円を目標.計画的な公共投資配分と民間経済の誘導を強調)

11.10 「風流夢譚」掲載の『中央公論』12月号発売.

11.20 第29回総選挙(自民296・社会145・民社17・共産3)

12.19 池田首相、参議院で中国との貿易は政府間協定によらず進めたいと言明

12.27 閣議、国民所得倍増計画を決定(11.1の経済審議会の答申に基づく. ‘57.12.17の新長期経済計画に代る経済基本計画.〈高度成長政策〉

この年、名古屋で、パフォーマンス集団「ゼロ次元」結成. かれらがパフォーマンスへ移行するのは、1962年以降である.


 この年、1960年は、「アンポ反対」に集約された反体制運動がひとつの頂点にたっした。6月15日には、「全学連主流派が国会突入をはかり警官隊と衝突し、東大生樺美智子が殺害され.学生約4000人が、国会構内で抗議集会」をひらいている。全学連主流派とは、どんな政治集団にも所属せず、影響をうけない一般学生ということである。ひろくは、このなかにネオダダ・ジャパンの吉村益信、篠原有司男、荒川修作などのわかい芸術家らもカウントされている。

 この年表があらわしているのは、いまとなっては、社会党委員長の刺殺とか、6月15日の騒乱国会にもかかわらず、総選挙における自民党の圧勝、そして「閣議、国民所得倍増計画を決定」などの「体制」蘇生の兆しがあるのだが、とにかくも反体制の色彩が濃厚である。

 こうした「デモ・ゲバ」風俗と’60年代日本のアヴァンギャルドは、なんらかの関係があったことはたしかである。ネオダダ・ジャパンだけでなく、いまとなっては異彩をはなつアヴァンギャルドであった「暗黒舞踏派」もパフォーマンスの「ゼロ次元」、そしてまた本論執筆動機である『風流夢譚』も、1960年の、ことに6月15日の騒乱の国会以降に出現していることに注目しておかねばならない。

 もっとも、ここでいう「なんらかの関係」とは、それぞれの、その関係のもちかたを識別し、見きわめ、評価せねばならず、そこにこそ、’60年代日本アヴァンギャルドの実体があるということである。

 第12回読売アンデパンダン展は、すでにその詳細をみてきたように、芸術評論家の東野芳明が、工藤哲巳の作品『増殖性連鎖反応(B)』を「ガラクタの反芸術」と命名して称賛したことによって、〈反芸術〉が日本芸術界の流行語となった展覧会である(注.「第2章 1) ‘60年代日本の『反芸術』(その1)」&「4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2)」[『百万遍』2号&4号]) 工藤の「反芸術」作品は、拡散型に組みたてた鉄骨に市販のタワシをふさなりに固着し、セクシーピンクのビニール紐を巻きつけた集積オブジェの作品であった。

 前回のべたように、東野の「反芸術」は、1970年の万博アヴァンギャルド芸術では、それなりの成果をしめしたのであったが、「反芸術」として理論的に考察したうえでの発言ではなかった。とうじのかれ自身は、「ひよっとあらわれた『反芸術』という言葉をきっかけにあらわれた」評論家らの過剰な反応に当惑するといっている。「デモ・ゲバ」風俗のなかの一芸術批評だったのである。

(注.『芸術新潮』[1960年5月号])

 そのことは、東野の芸術批評だけでなく、「読売アンデパンダン」展そのものの動向だったのかもしれない。開催を報道する読売新聞の記事自体にも、「読売アンデパンダン展 搬入がはじまる  めだつ意欲作」という見出しのもとに、「といた2枚を小屋のように組みあわせ、その奥にはムシロを垂らし、ヌード写真をはりつけた〝阿字歓〟(注.糸井貫二の作品か?) 木のワクにボロキレをはり、そのすみに打ちつけた古カバンの中にはヤセさらばえた男が鎮座しているという〝ネハン逹陀〟(注.小島信明か?)など自由奔放な作品が目立った」と、このような作品が「意欲作」だと奨励するような記述をしている。また、「専門家の意見では抽象画などレベルの高いものが多いとのことで、27日の締め切りまでには例年千点ほどになる」注 (注.読売新聞1960年2月26日朝刊11面)とその盛況ぶりを説明している。この「レベルの高い抽象画」とは、さきの瀧口が、「抽象形態というよりも・・・・材質とも形ともつかぬ表現要素が画面を占め、技法もよく見ると既成の絵具も筆も使っていないものが意外に多く」といい、「これをいわゆる『アンフォルメル』の影響という風に見ることもできようが、それだけでは解決のつかないもの」と、懐疑的な評価をしたようなものであろう。あたかも既成芸術破壊を奨励し、「アンポ反対」運動がピークにたっする社会情勢に反応して、過激な作品をことさら強調してみせる、東野の〈反芸術〉を先取りするような紹介記事である。

 おそらく、このような記事はわかい芸術家らへ奇妙な「催淫効果」を発揮したにちがいない。必要としない者にあたえる催淫剤である。その顛末が、第15回展を最後に、16回展直前のとうとつな「読売アンデパンダン展」廃止に露呈することになる。マスコミとアンデパンダンとの関係は、つねにこのようなものであった。『風流夢譚』事件といわれるものも、雑誌『中央公論』の時代便乗の編集方針と朝日新聞「天声人語」に凝縮体現されたマスコミとの関係によっておこったものである。そればかりか、’60年代後期の「デモ・ゲバ」風俗に密接にかかわり、赤瀬川の連載マンガ『桜画報』が関係した「朝日ジャーナル」回収事件(1971年)もまたそうである。『風流夢譚』については、本論で後日くわしくのべるつもりであるが、「朝日ジャーナル」事件については、関心あるむきは赤瀬川の『桜画報大全』や「集団赤色エレジー」(『追放された野次馬』所収)を参照されるとよい。

 他方、この12回展(1960年)に出展した作家については、吉村益信、篠原有司男をはじめ、赤瀬川原平(この展覧会までは本名の赤瀬川克彦で出品)、風倉匠(風倉省作で出品)、荒川修作、豊島壮六、三木富雄らが、大挙して出品している。吉村、篠原らは、瀧口修造をかこんで「ネオ・ダダ」結成宣言をおこなったところであり、その他もこの直後、これにくわわったものたちである。

 かれらはこの直後、第1回ネオ・ダダ展である「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」展を銀座画廊でひらき、7月には、第2回ネオ・ダダ展(吉村のアトリエ)やビーチ・ショウ(鎌倉の安養院と材木海岸)をおこない、9月には日比谷画廊の第3回ネオ・ダダ展を開催し、さらに、銀座ガスホールのビザールの会に参加している。これらは、すでにその光景の一端をのべたように、過激なパフォーマンスをともなう展覧会、というよりもむしろ、パフォーマンスであった。 (注.第2章 4節 ‘60年代日本の「反芸術」 ①②[『百万遍』5号]掲載)

 その情景を説明するために、前回は参加者篠原有司男の目をとおした、銀座画廊の「第1回ネオ・ダダ展」を紹介したが、ここでは、おなじ会場風景について、評論家針生一郎の記述を、読者の便宜のために紹介しておこう。「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」展オープニングの日の情景である。


 そこでは、「真摯な芸術作品をふみつぶしていく20.6世紀の真赤にのぼせあがった地球に登場して、我々が虐殺を免れる唯一の手段は虐殺者に廻ることだ」といった物騒な暴力宣言を赤瀬川がぼそぼそと朗読し、横倒しの椅子の脚を吉村が空手で叩きわり、金だらい、トタン板、ストーヴがひしゃげるほど金槌で叩かれ、ジャズやセクシーなささやきのテープが流れる中で、石橋別人が獣のように咆哮して走りまわり、バケツの水から顔をあげた風倉が「戦争だ、戦争だ、第三次大戦だ」と絶叫する光景がみられた。それは奇怪な儀式のように人々をひきよせるとともに不安にするショウで、ただ画廊側が二度と貸したくないと思うことはまちがいないだろう(下線は筆者)(針生一郎「戦後美術におけるネオ・ダダの位相」[『ネオ・ダダJAPAN』展図録])


 まさに、芸術展というよりも、既成芸術を侵犯するパフォーマンスであって、針生がいうように美術画廊側が二度と貸したくなくなるようなショーであった。こうした傾向は、1960年6月以降では、鎌倉材木海岸で演じられたビーチ・ショーにおける水着姿の岸本清子に絵具を投擲し、真っ裸の風倉匠を簀巻きにして海に投げこむなど、自己満足的パフォーマンスの過激化がすすむ。このようにレベル・アップされた作品展であったのか、この年9月に、日比谷画廊で開催された第3回ネオ・ダダ展は、会期途中で画廊側から使用停止を申しわたされている。かれらは、この日比谷画廊出品の作品をもって、9月30日に銀座ガス・ホールでひらかれたビザールの会に参加した。ビザールの会とは、マンガ家の富田英三や湯川れい子らによって主催されたビート族文化の会である。かれらはそこで、持参した作品をホールのロビーに展示し、また、篠原有司男、升沢金平、吉村益信らは、舞台でパフォーマンスを演じた。吉村と篠原は裸で舞台で暴れ、吉村はブリキに硫酸をかけ、斧で破壊するパフォーマンスを演じている。

 しかし、これらを、ネオダダ・ジャパンの活動として一括してみることから離れると、すこしちがったものがみえてくる。

 現存資料記載の年表などにもとずいても、「瀧口修造を囲んで『ネオ・ダダ』結成宣言」(下線は筆者)とあり、ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展とあり、第2回、第3回ネオ・ダダ展とある。こうした名称に、瀧口をはじめ参加者にどこまで、合意や了解があったのかわからない。たとえば、瀧口修造がどこまで賛意をもってかかわっていたのかななはだ疑問である。かれの著述から理解するかぎりでは、瀧口は、銀座画廊をはじめ、吉村のアトリエ展、日比谷画廊展、ましてや、ビーチ・ショーや「ビザールの会」のパフォーマンスをどこまで好意的に見ていたのか、わからない。実見聞したのかもわからない。名称についても、「ネオ・ダダ」がすでにニューヨークの芸術ジャンルであることは承知していたはずであり、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」については、戦前からヨーロッパのダダに通暁していたはずの瀧口が、これを了解したとはとてもおもえない。

 これら一連のアヴァンギャルド展をとりまくパフォーマンスは、のちの「ゼロ次元」のような意図的パフォーマンスではなく、1960年の「デモ・ゲバ」風俗のなかの、マスコミ用の突発的イベントとすべきかともおもわれる。というのは、これらイベントは、とうじ新規参入したばかりのマスコミであるテレビやグラビヤ雑誌が好んで選択した取材対象であったばかりか、取材費から資金提供があったという証言もあるからである。

 そして、主催し、参加したかれらの芸術的関心がこれではなかったことは、これらイベントは(激情発作の)くりかえしであり、なんらの継続的発展も認められないばかりか、かれらがそこに出品したかれらの作品には、異なるものがあらわれるからである。

 たとえば、赤瀬川原平や風倉匠については、3月開催の「第12回読売アンデパンダン展」では、本名の赤瀬川克彦や風倉省作名で、内容は広義の抽象画としてもよい油彩画を出品している。オブジェでもなく、ましてや、パフォーマンスの対極にあるものである。

 かれらが、赤瀬川原平、風倉匠を名のるのは、4月開催の銀座画廊での「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」展からである。そして、赤瀬川は、このときはじめて油彩画やコラージュの二次元作品を離れて、オブジェを出品する。ふちのギザギザに割れたコップを壁面に直角にかさねて並べた作品である。タイトルは不詳である。喧騒のオープニングの状況のなかで遊離はしないが、連動し相乗効果をあげるものではない。

 ところが、このオブジェ制作は、7月開催の「第2回ネオ・ダダ」展から一貫性をもったこだわりの制作となる。自動車タイヤのなかの赤いゴムチューブを、切り裂いて縫製し、シーツ状にして吊り下げたり床設置を基調にし、これにラジオの真空管やトゲをうえたアルミホイールなどを装着した一聯のオブジェである。波うつひだ形に縫製された形態にはさまざまな趣向がこらされていた。

 第2回ネオ・ダダ展には、「早く着きすぎたプレゼント」〈1〉と〈2〉と命名された二作品、および、「ヴァギナのシーツ」と名づけた複数の作品を出展している。「早く着きすぎたプレゼント」は壁面掛け、「ヴァギナのシーツ」は床に設置されていた。9月開催の「第3回ネオ・ダダ」展には大型化した「ヴァギナのシーツ」 が出展されている。試行錯誤しながらさまざまな構成・構築をかさねたものであろう。廃物処理場からの素材収集と取得、制作処理にかける時間、ぼうだいな肉体的、精神的、そして、生活的作業の結果である。

 そこには、それまで励んでいた油彩絵画からオブジェへの移行があった。芸術家の移行は覚悟ある行為である。その動機には、まず「ネオ・ダダ」グループ結成と参加によるものがあったろう。そして、自由奔放を奨励する「読売アンデパンダン展」の動向があり、東野の「反芸術」が推進力となっていたかもしれない。さらになによりも、それらの背景でもある、かれの仲間たちも参加した6月15日に集約される「デモ・ゲバ」風俗を、孵化するいぜんのタマゴの芸術家として、正面からうけとめたことのあらわれとみるべきであろう。画家がキャンバスから飛びでることを選んだのである。飛びだすことには決断がいる。学生デモ隊が国会構内に侵入するときのような決断であろう。

 そしてこのオブジェは、翌年の第13回読売アンデパンダン展では、さらに進展させ凝縮させて、「ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)」と命名する壁面作品として出展された。

 シーツ状の赤いゴムシートを吊りさげ、これにアルミ・ホイールや大量のラジオ真空管を配置した182.0×92.0センチの集積オブジェであることは前作までの延長上にある。しかし、今回は中央のホィールに硝酸いりの小瓶を装着し、チューブをとおして、床面においたトースターにはさんだ五寸釘に硫酸液の点滴をたらす仕かけがあった。二週間の会期ちゅうに飛び散った赤錆が、床面を半円状にそめていったという。直接行為の破壊性のつよい作品となっている。

 吉村益信も、「モノ」を主題とする作品を出品していた。「殺打駄(サダダ)の塔」2点と「殺打駄(サダダ)氏の応接室」と命名された集積オブジェである。これは、ベニヤ板で組立てた壁面、床や卓上に、膨大な数のウィスキーの空瓶を垂直、水平に装着させたインスタレーションであった。

 この第13回展では、オブジェが会場を占有しはじめていた。会期中ほぼ連日作品批評を掲載する、読売新聞の連載批評シリーズ名は「新しい美の発見」であった。シリーズ3回目は、赤瀬川の作品「二番目のプレゼント」を江原順が、批評対象として選んだものだった。夕刊第1面7段組で写真入りの「生命ふきこむ儀式」のタイトルのもとで『読売アンデパンダン展』は形骸化した『美術』から自由になろうとする作家の供宴(ママ)の場である。年ごとに新たな約束の破壊者があらわれ、新たな約束をつくっては消える。昨年からこの宴を主導しはじめたのは『ネオ・ダダ』グループである」と紹介し、「この作品は、一種独特なエロチシズムが感じられる。垂直にさがるピペットから、したたりおちる液体は硫酸である」と指摘したうえで、「彼の『作品』は形骸化した『美術』に自由な生命をふきこむだろう」と結論している。全面的賛同の評価である。(注.1961年3月6日読売新聞夕刊) 

 さらに、連載批評第5回目でも、現代芸術評論家の瀬木慎一が、またもや工藤哲巳のミックッスト・オブジェ「H型基本体における増殖パンチ反応」を、「の異様な高貴さ」(下線筆者)と手ばなしの絶賛をしている(注.3月9日読売新聞夕刊一面) レスタニーのようにオブジェを物質社会の(下線筆者)としたのである。これらは前年、ひよっとあらわれた「反芸術」を、現代芸術の嫡子として認知する批評である。平面絵画、立体彫刻という既成芸術を淘汰する大勢である。

 こうした「反芸術」の趨勢は、翌年1962年の第14回展では、「アンデパンダン展」自体を試練にかける方向においやることになる。

 開催日当日の読売新聞は夕刊7面で、「力作800点ずらり 読売アンデパンダン展開く」と写真入り4段組で告知し、開催3日後の3月5日から、夕刊1面に7段組の、恒例の連載批評を開始した。今回のシリーズ名は「冒険と自由」となり、第一回批評は中原佑介による「色彩と虚無」と見出しをつけた木下新の作品を対象としたものであった。そえられた作品説明に、「交通戦争の残がいにあらず、この美しい女性をモデルにしたコズモ・プラスティック・アート、題して『裸婦』」とあるような、プレス機でおしつぶした廃棄自転車組合せのオブジェである。いか江原順の吉村益信作品『ヴォイド』まで第6回までつづく批評は、いずれもあたらしい芸術に焦点あわせたものであって、すくなくとも新聞紙面上では「デモ・ゲバ」路線の継続である。

 第12回展の東野の「反芸術」から強調されはじめたこうした傾向は、わかい芸術家らに影響力を発揮し、この14回展ではまずその参加者にあらわれることになる。

 なによりも目立つのはグループの集団参加である。1960年設立のネオダダ・ジャパンからは、吉村益信をはじめ、篠原有司男、木下新、赤瀬川原平、風倉匠、上田純、岸本清子、田中慎太郎、田辺三太郎、豊島壮六、平岡弘子、升沢近平、吉野辰海ら、ほとんど全メンバーの出展である。1957年創設の九州派からは、桜井孝身、オチオサム、菊畑茂久馬、大黒愛子、片江政俊、谷口利夫、田部光子、長頼子、米倉徳らが、はるばる九州から出展している(注.オチ、菊畑は60年にグループから脱退しているが、とうじは復帰している. もっとも、かれらは10回展ぐらいから出展しているから、こんかいもその継続であろう) そのほか、「宣言」をだす直前であった「時間派」の中沢潮や長野祥三、田中不二、土井樹男、さらには、翌年あたりから「派手」なパフォーマンスを開始する「ゼロ次元」の加藤好弘、岩田信市、K・Tらが、グループ参加している。グループ参加とは、主張共有者のデモストレーションであるとともに、相互刺激による過激化亢進の相乗現象がおこりやすことでもある。

 ほかにも、それまでも社会常識に挑戦する作品を出品していた 糸井貫二や松澤宥にくわえて、広川晴史や吉岡康弘らが独自の作品を提出した。また、グループ音楽の刀根康尚がまるめた白布にセットしたテープレコーダから、騒音がながれる作品を出展している。 (注.出品者については、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』の年表を参考にした.)

 数十人をこえる、既成芸術無視を標榜する芸術家たちの出品である。かれらは、だれしもが複数作品を出品し、そのほとんどが大型で、かつ、人目をひくものであったから、会場の大半はかれらの作品が占拠しているようにみえたかもしれない。

 しかし、各々の作家とその作品からみると、それなりの現代芸術の成果が、とうじの世界アヴァンギャルドの動向と照合しても、先駆的にあらわれていたとおもわれるものもある。

 たとえば、赤瀬川原平は、前年の「ヴァギナのシーツ(二番目のプレゼント)」から発展したミックスト・オブジェ3点、「患者の予言(ガラスの卵)」「凡例(机の復習的本位)」「秒読み開始」を出展している。これは、主要素材を、自動車タイヤのゴムチューブから、おなじく廃棄物集積場から収集してきた使用済み下着に変換し、中心部にタイヤ・ゴムや真空管付きホィールをアクセントとして装着し、規模・形態はヴァギナのシーツの踏襲であったが、タイトル、とくに「患者の予言」とあいまって、完成度のたかいきみょうな魅力をもつオブジェ作品になっている。ゴムの触覚から、他人の使用ずみ下着という嗅覚への感覚拡張がある。「魅力」とは、日常的過去をもつ素材のオブジェであるがために、それ特有のさまざまな感情的おもいを、喚起させるということである。この作品のつよい印象は筆者ひとりのものではなく、赤瀬川の生涯にわたる芸術行為をかたるとき、だれしもがかならず照会する作品であり、また、赤瀬川じしんも、ことなる角度からいくたびも回顧する作品であるのもその由来をあかすものであろう。

 こうした発展は、吉村益信の作品「ヴォイド」にもみられる。今回は、前年の、見るものを圧倒する量のウィスキーの空き瓶素材ではなく、石膏仕立ての巨大構築物である。レディーメイドからの脱却である。天井までのびるかとおもわれる石膏構築物の表面に、おなじく石膏製の半球体をランダムにびっしりと配置したオブジェである。抽象彫刻というべきかもしれない。吉村のこの作品はさらに発展して、素材を石膏から金属に変えながらも、工芸的完成度と規模を維持するため外部委託する「発注芸術」のジャンル開発に、10年後にはむかうことになる。

 また、東野の「ガラクタの反芸術」の当事者であった工藤哲巳は、ここでは作風を一新して床上設置のオブジェから、一室全空間をみたす画期的なオブジェを出展した。『インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生』というタイトルをもつ作品である。『増殖性連鎖反応』シリーズからの発展である。

 これは、展示室の天井に紐の格子を張り、そこから部屋全体に黒い紐を垂らして、さまざまなオブジェをむすびつけたものである。それには、男根状とも、コッペパン状とも、さまざまにみえる黒い布製オブジェを直接、あるいは、台所の透明ボゥールをくみあわせた球体にいれて、形態や配置に工夫をこらしたものであった。この同種の作品は、現在、ウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)にも所蔵されている。また、この作品は、制作年度を勘考すると、一室をもちいて天井からから垂らす作品形態は、のちのインスタレーション作家、アネット・メサジェ(Annette Messager)やサラ・ズー(Sarah Sze)に、先駆的のみならず、直接影響をあたえた作品かとおもわれる。ただ、この作品が、彼女たちのように、なんら発展をみせることなく、その場かぎりであったのは工藤じしんの問題であるとともに、’60年代日本のアヴァンギャルドの問題のなかで考慮すべきであろう。

 このように第14回展に出品された作品を個別にみてみると、じつに多様であり、「反芸術」だけでなく現代芸術をかんがえるうえでフシギな作品が多々ある。

 長野祥三がこころみたものなどもそうである。かれは多彩に着色したゴムボールを床面に大量におき、観客がけってあるくと、ボールが転がり散乱し、色彩が変化するものなどである。

 こどもが蹴ってあそぶような、じっさいヨシダ・ヨシエのふたりの子がよろこんでやったという回想もあるが、保育園の玩具のようなものである。 (注.ヨシダ・ヨシエ 「〈読売アンパン〉轟沈す」[『戦後前衛所縁の荒事十八番』『美術手帖』1971年7月号]/『解体劇の幕降りて─ 60年代前衛美術史』所収

 しかし、これらは、ひとつの芸術主張の具現化した作品とすべきである。出品者長野祥三は、中沢潮や田中不二、土井樹男とともに、1962年初頭に結成した、きわめて自覚的な主張をかかげた「時間派」のメンバーであった。

(注.中原佑介 「新人登場 『グループ時間派』」[『美術手帖』1963年6月号]によると、かれらが「時間派宣言」をだすのは同年5月26日であるが、第14回読売アンデパンダン展以前に、「時間派」という理念的に統括されたグループを形成しており、それにもとづいた出品であったとされている.)


 かれらの「時間派」たる主張をそれなりに要約すればつぎのようになるだろう。

 作品は静止した絶対時間にあるのではなく、作家にとっても観る者(受容者)にとっても相対的時間のなかにある。作品は変化する。したがって、たとえば観る者は作品を一個の完成品として受動的に「みる」のではなく、なんらかの「参加」によってはじめて作品を受容したことになる。作品が「作品」として成立したことになる。インターラクティヴ・アートの先駆的考え方である。     

 長野の「彩色ボール」についていえば、観客はボールを蹴とばすにせよ、つまづくにせよ、転がし散乱させることによって、変化する色彩(ボール)の視覚的な感覚体験をすることである。さらにいえば、この感覚体験とは観客の行為によってえるものである。そこでは、観客はかぎりなく作家にちかくなる。また作家は、そのような作品・感覚体験にたいして、観客と同等の立場にあるという。さきにものべた、インターラクティヴの立場である。

 これは、おなじ「時間派」メンバーの中沢潮でも、おなじような芸術「行動」を、この14回展でみせている。

 かれの作品は、床におおきな白布を敷きつめ、そのうえにインクを入れたビニール袋をならべておいた。観客がふんで歩くと袋が破れてインクが染み出て、布がアンフォルメル絵画のように着色されていく、というものであった。

 これらはいちじるしく自覚的、意図的作品である。これを芸術の発展とみるか、撹乱と破壊を標榜する「デモ・ゲバ」風俗の表出とみるかは、この作品と制作者、あるいは、全体展望として、慎重に検討しなければならない。

 かれら自身が、このときこれを、あたらしい芸術、それならばどのような芸術としていたのか。それともそれを「反芸術」、それなら、どのような反芸術としていたのかである。

 これらは、20世紀の「現代芸術」をかんがえるうえでは、以下の理由からフシギな作品であった。時代的に先駆的でありながら、その場かぎりであって、ほとんど結実をみなかったことである。端的にいえば、とうじの世界のアヴァンギャルディストたちのうちのだれも、東京に来ることはなかった。そしてもし、また来たときには、目的とする「芸術」はどこにもなかったであろう(注.タピエがみた「具体」作品についても、同様のことがいえる.)  また、これほどりっぱな「反芸術」でありながら、実像がみえにくいことである。このことについては、推論をかさねるにあたり、つねに忘れないようにしなければならない。

 一方、そのことに、間接的、かつ、直接的にかかわってくる出来事が、ここで、戦後日本のアンデパンダン展史上ではじめておこることになる。東京都立美術館が独自の判断と立場から、いったん展示されたこの中沢の作品を撤去したことである。東京都立美術館がそのために存在している「芸術(美術)」ではないとみなしたということである。すなわち、極端にいえば、これを、都立美術館にとっての「反芸術」とみなし、不可解な実力行動を行使したのである。

 第14回展で撤去、あるいは、出品拒否をされた作品はこれだけではない。それらの行為は、いかなる通告も理由開示もなく、また、一括処置ではなく、個別に、また、撤去方法も別室移動とか、完全撤去とか、出品拒否とか、統一性のないものであった。むしろ、暗黙裏におこなわれた行為であったかとおもわれる。なぜなら、いかなる報道もされることなく、また、会期中発表された、連載批評「冒険と自由」シリーズの六人の執筆批評家、中原佑介や江原順、針生一郎、あるいは、東野芳明や瀬木慎一らは、だれも、紙上でふれていないからである。かれらが、これに言及するのは、その後、ことに翌年になって、都立美術館が明確な方針を公示してからである。(なお、現在においても、第14回展の作品撤去、作品拒否の事実と内容は、日本の国公立美術館の戦後体制形成の事実上の発端をしるうえで重要であるにもかかわらず、その詳細はわからない。)

 しかし、いかにそのようであっても、美術館が、出品者や展覧会主催者と協議・承諾なく出展作品の撤去をおこなうのは、公共企業体としての「方針」にもとずくいがいにはありえない。

 まず、どのような方針かを知るためにも、このようにして撤去されたほかの作品をみてみよう。ひとつの方針は、オブジェ素材に刃物がつかわれているものにむけられている。

 注目すべき例は、広川晴史がはじめて出品した、「そろそろでかけようか」というタイトルをもつ奇妙な作品である。これは、夏祭りのお化け屋敷にあるような人形セットである。手拭いで盗人被りをした人形の男が、風呂桶からほんものの出刃包丁をにぎって出てくる情景である。凶悪強盗は、あらかじめお屋敷にしのびこみ空の風呂桶にしのんでいて、夜半寝静まった家人をおそうというとうじの風説に便乗した場面である。タイトル「そろそろでかけようか」は、「デモ・ゲバ」風俗では、セリフとして、たれしもが理解できニヤリと笑うような表現である。このタイトルは、赤瀬川をはじめ針生や秋山祐徳太子など、アンデパンダン展の回顧記で引用する者はおおい。印象的なタイトルだったのだろう。作品はもちろん現存しないが、赤瀬川の20年後の記憶による素描画が、回想記に掲載されている(注.『反芸術アンパン』[ちくま文庫]所収[pp.179])

 そして、赤瀬川は併記して、「私は困った。この作品がずば抜けているからだ。ずば抜けて良い、というものでもない。ずば抜けて、何だろう、ずば抜けて俗悪である。いや、俗悪であることの恐れのなさにおいてずば抜けている。そのことに思わず身じろぎしてしまう。これはもはや芸術を通り越している。私だって芸術を超えようとして芸術の正面を両手でかき分けながら通り越してきた。キャンバスの正面からはみ出して廃品類のオブジェにたどりつき、それをなおも通り過ぎようとしている、そんなところに広川はいきなり横から入ってきた」と書いている。あきらかに赤瀬川の「反芸術」論である。

 この素描画を、筆者はみたとき、制作に投資した時間と覚悟において、比較すべきでもないが、マルセル・デュシャンのあの謎の大作「落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ」に通底する芸術表現をおもいだした。「風俗画のアレゴリー」である。そして、この造形は、「デモ・ゲバ風俗画のアレゴリー」として記憶すべき作品ではないかとおもった。20世紀現代芸術としても、1962年におけるこのキッチュ表現は、ポップ・アートの先行集団にあり、また、20世紀末に喧伝されたジェフ・クーンズの原形ともいうべき作品である。

 ところが、この作品は、おそらく出刃包丁が作品の一部にあるという理由から、展示場から除去されたのであった。さらに、もうひとつ撤去されたのは、浜口富治の複数の刃物のコラージュ作品といわれている。これは出展が拒否され、目撃者がいなかったのか、作品の詳細はよくわからない。しかし、浜口は第1回展から出品している画家である。かれはこの年、作風を一転して、刃物オブジェによる個展をすでに複数の画廊で開催しており、その同系列の作品を出展したのだった。とうじ41歳、戦前から一貫して芸術家であったかれの制作だったのだから、かれにとっては、それなりの意味をもつ芸術思想によって、意図的に素材選択をしたオブジェ作品であったのだろう。

 だが、美術館としては、広川出品作もふくめてそうしたいっさいの芸術観点からではなく、刃物が作品にふくまれるという建前からの撤去、拒絶であったのだろう。刃物は凶器たりうるという理由である。しかしこれは、いわば「いいがかり」をつける理屈である。不特定多数が入店する刃物屋の刃物は凶器ではないのだから。ということは、やはり、撤去の「基準」は、「芸術ではない」ということにある。さらにいえば、都立美術館に陳列されるべき芸術を、挑発的に否定する「反芸術」ということである。

 このことは、いかつづく撤去作品、拒絶作品でもあきらかにみられるところである。

 第3回展(1951年)からほぼ毎年出展していた糸井貫二は、「自家発電」、「トランク」、「ももひき」の三点を出展したが、全作品が出品を拒否された。「自家発電」は、覗き箱のなかに五千円の株券20枚と、中央に版画一枚をならべて配置したものだった。版画はオナニーにふけるお姫さまを描く浮世絵である(注.黒ダライ児『肉体のアナーキズム』に吉岡康弘撮影の写真がある.)

 「トランク」はトランクのふたをあけると、ポルノ写真が貼られていたという。これら作品の撤去は、性器は芸術表現の対象とはなりえないということである。それが、どのように表現されているかではなく、性器であるかどうかだけである。この理由は、吉岡康弘の写真作品の撤去に端的にあらわれるものであった。

 吉岡の作品は、対象が極端に拡大されたモノクロ写真で、前後のヌード写真がなければそれがなんであるかわからない、見るものの想像力に依存する写真である。筆者も、翌年刊行された私家版書籍『赤い風船 あるいは 牝狼の夜』(1963年8月15日発行)に掲載された同作品をみたが、コラージュされた「対象」を識別することは、先入観をもってみても困難であった。じじつ、第14回展会場でも、その撤去は開会、三、四日後に、館員観閲中にその秘密を発見したときおこなわれたという。 (注.発見者は館長という説もある.[『反芸術アンパン』])

 芸術は作品と鑑賞者の関係にあるという、従来からの観点にてらしても、根拠の成立しない「撤去」である。さらに、付言しておけば、これを掲載した『赤い風船 あるいは 牝狼の夜』は、猥褻図書頒布の容疑で一応の取り調べをうけたが、起訴猶予処分となった書籍である。公共風俗監視の警察いじょうの処置を美術館がとったことになる。なお、この書籍はのちの「千円札事件」の事実上のほったんとなり、’60年代日本の芸術アヴァンギャルド・反芸術に広義には関連するものであった。

 こうした美術館の行為は、それなりにひそかに履行されたとはいえ、会期前の作品受付期間中、あるいは、会期中の出来事であり、すくなくとも、とうの出品者たちは承知の処置である。かれらは、「いかなる作品も審査なく出品できる」展覧会公約を侵害する、美術館側のこの処置を、あたうかぎりひろく、その周辺に告げたにちがいない。ところが、これにたいする抗議行動について、明確にかたる資料はのこっていない。

 わずかに、ヨシダ・ヨシエが10年後に書いた回想記注1のなかで、吉岡康弘が、第14回展の出品者委員会の委員であった工藤哲巳と赤瀬川原平を同伴して美術館側に抗議し、撤回を申入れ、また、糸井貫二は単独で抗議したと書いているが、その真偽はわからない。とうの赤瀬川は、自己体験と関係者インタビューや資料渉猟にもとずくアンデパンダン展回想録『反芸術アンパン』注2で、これらの作品撤去については記述しているが、みずからの関与についてはふれていない。

(注1.ヨシダ・ヨシエ「読売アンパン轟沈す[『戦後前衛所縁の荒事18番』(『美術手帖』1971年7月号)/のち単行本『解体劇の幕降りて─ 60年代前衛美術史』に所収]. 注2.初出は、『TBS調査情報』誌(1982年3~6月)掲載で、のち、単行本『いまやアクションあるのみ!』(1985年)をへて、『反芸術アンパン』(ちくま文庫)となる. ) 


 赤瀬川の記述はしばしば独断的思いちがいがあるが、こうした体験について失念、あるいは、隠蔽は考えにくい。ヨシダの誇張した思いちがいの可能性が拭い難くある。赤瀬川の回想記では、かれの出席した出品者委員会には荒川修作もいたと記されているが、荒川は第14回展の前年、1961年12月に渡米している。ということは、赤瀬川が14回展の委員であったかどうかの疑問がある。この事件についての赤瀬川の記述では、広川晴史が、別室に隠された作品をみつけだし、みずから再展示し、さらに再撤去・・・のくりかえしが美術館側とされたことが記されているのみであり、かれじしんがこの処置に特別積極的な関心をよせて、問題視したとはおもえない内容である。

(注.『戦後前衛所縁の荒事18番』の挿絵を担当している1971年の赤瀬川は、「千圓札」事件でみせた確固たる反抗者であったからである.)


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