Avant 2-4-3-2

’60年代日本の芸術アヴァンギャルド   (第2章ー4ー③ー1) 

「読売アンデパンダン」展 

        田淵 晉也


Part 2



 こうした、いまとなってはあったかなかったかわからない行為いがい、事件のおこった会期中には、これにたいする記録にのこる異議申し立ての発言や対抗行動が、出展芸術家や芸術評論家、そして、主催者たる新聞社からおこされた形跡はない。

 それら三者には、これにたいして、それぞれ三様の、正面から早急にかたるべき意見があったはずである。しかし、この第14回展開催中では、まるでそんなことはなかったかのように、じぶんたちの行為を遂行しつづけていただけのようにみえる。 

 ことに、第12回展(1960年)の東野の「ガラクタの反芸術」からのちに、アヴァンギャルドをかかげて大挙して参加してきたグループの作家たちや、あえて得意げに反(既成)芸術的作品をならべてみせていた作家たちは、個別にでもじぶんの意見を、行動として発言すべきであったろう。グループとして意見表明がなされても、なんらふしぎではなかったろう。あれほどじぶんたちの芸術に饒舌であった「時間派」のめんめんも、自分たちの作品が撤去されたたにもかかわらず、なんら声をあげることはなかった。

 これは、’60年代日本アヴァンギャルドのかなり特徴的な傾向である。

 たとえば、1917年のニューヨークのアンデパンダン展で、デュシャンが男性用便器を『泉』と題し、リチャード・マット名義で出品し、出展を拒絶、撤去されたさい、かれはじぶんたちの同人誌「ブラインド・マン(Blind man)」で、痛烈な批判を公然としている。参考のため引用する。

        

 6ドル払えば誰でも出品できるとのことでした

 リチャード・マット氏は泉を応募しました。なんの相談もなく、この作品は姿を消し、一度も展示されませんでした。

 マット氏の泉を拒む理由は何なのか。

 1.ふしだらで、卑しいと主張したひとたちがいます。

 2.剽窃、ただの排水設備、とするひとも。

 さて、マット氏の泉はふしだらではありません、そんなのは馬鹿げている、風呂桶がふしだらでないのと同じこと。排水業者のショー・ウインドで毎日目にする備品にすぎません。

 マット氏がみずからの手で泉を作ったか否かはどうでもよいこと。かれはそれを選んだのです。毎日の暮らしで使う平凡な道具をとりあげ、新しい題名と見方を示し、役にたつものという意味あいが消えるようにしむけて、このオブジェについての新しい考えかたを創りあげたのです。排水設備だからいけないというのも、馬鹿げたはなし話し。アメリカが世にあたえた芸術作品といったら、もともと排水設備と橋しかないではありませんか


 いかに芸術先進国のこととはいえ、1917年(大正4年)のアメリカにおいて、これだけの文章で抗議したのである。「アメリカが世にあたえた芸術作品といったら、もともと排水設備と橋しかないではありませんか」とは、母国フランスで無視された作品を絶賛し、喰うや喰わずのかれを先達として手厚くもてなしてくれている、展覧会主催者のアメリカのアヴァンギャルド・グループへの発言である。これより半世紀後のことなのだから、あの程度の作品の撤去にたいして、そうした一言、二言が東京都美術館にむかって公開のかたちで発言されても、被害者の芸術家なら、とうぜんかとおもわれる。そうした行為をのこす史料がまったくみあたらぬのは、’60年代アヴァンギャルドの特性として、やはり注目しておかねばならない。

 それいがいにも、欧米のアヴァンギャルドなら稀有、もしくはありえないのは、ひとつの展覧会において、芸術グループがたがいの芸術表現(主張)に無関心に、仲よく共存することである。アヴァンギャルディストたちがアヴァンギャルド見本市に出展するなどありえないことである。ところが、第14回展では、そのようなことがおこっていたというべきあろう。一般的にいって、いかなるアヴァンギャルド・グループもたがいに競いあい、相容れないものである。前衛(アヴァンギャルド)はたがいに監視しあい、妥協せぬ孤軍である。にもかかわらず、この第14回読売アンデパンダン展の見本市に、アヴァンギャルドの彩をつけていたのは、唯一の接着剤として、東野のあの「反芸術」ということばが、作家と観客にもあったからだとおもわれる。これは、また、東野の「反芸術」のひとつの帰結であった。つまり、東野がみつけた「反芸術」ということばは、「デモ・ゲバ」風俗の時代では、アリバイ証明となる発見であった。そして、この撤去事件においても、「ボクたちの芸術は『反芸術』なのだから、ダレにナニがおこってもとうぜんだ。これぞ『反芸術』というものだ」という、無意識の独白があったのかもしれない。

 もっとも、こうした『反芸術』の効用は、これからのちの’60年代「アヴァンギャルド」ではもっと鮮明にあらわれるのであって、この14回展(1962年)でおこった出来事では、その予兆がみえはじめたにすぎなかったのであろう。

 いずれにせよ、ここでは、芸術家たちが「反芸術」的芸術行為を、大新聞社主催で、既成大美術館で開催される「アンデパンダン」展でおこなうこと自体にある問題点と、その自覚の欠如が露呈したということである。

 そして、それについて、いささかとはいえ、かろうじて最後に意見をのべた評論家がただひとりだけいた。それは、14回展の最終日の読売新聞に、長文の論考を発表した瀧口修造であった。

 それは、3月16日発行の読売新聞夕刊、第7面に掲載された、7段組のポートレートつきの「美術批評」で、タイトルは「『作品』の危機と責任 読売アンデパンダン展から」(下線は筆者)であった。それには、小見出し4項目、「異様に乱れてきたジャンル」、「技法とともに材料も変わる」、「廃材利用も鼻についてきた」、「目をひく工藤哲巳、吉村益信」、「撤回の問題と出品者委員会」がつけられていた。 (注.『コレクション瀧口修造7』では、表題が「『作品』の危機 第十三回(ママ)読売アンデパンダン展」であり、「責任」が欠落している.また、小見出しもない.小見出しは、担当記者によるものかもしれないが、瀧口の暗黙にせよ同意あるものとみなす. )

 ここでの瀧口は、アヴァンギャルド芸術の見地から語っているのではなく、「読売アンデパンダン展」の問題として、第14回展出品芸術について、ことに作家の態度についてのべている。しかも、小見出の五項目ちゅう三項目が、「異様に乱れてきたジャンル」、「廃材利用も鼻についてきた」、「撤回の問題と出品者委員会」であることからもわかるように、出品芸術家への批判的危惧である。その指摘は核心にふれるものであり、その危惧には、こののちにおこった「東京都美術館陳列作品規格規程」の設定と、この二年後の読売アンデパンダン展の廃止をあわせ考えると、言外にふくまれたものが多かったようにおもわれる。

 まず、小見出しつきでほぼ全文をかかげる。 

 

(異様に乱れてきたジャンル)

  こんどの読売アンデパンダン展を一巡してまず感じたことは、もう絵画とか彫刻とかといった既成美術のジャンル別が異様に攪乱され、動揺しつつあることだ。もっともこの動きはいまに始まったことではなく、数年前にいわゆるネオ・ダダなどの若い作家たちが擡頭したころにすでに始まっていたのだが、こんどの会場ではそれがひとつの限界点に達したように思われたのである。むろんこうしたジャンルの混乱にはそれだけの理由があって、肯定とか批判とかを越えた芸術上の問題であることは確かなのだが、またそれだけにこのアンデパンダン展としては慎重に考えるべき問題を含んでいると思われる。

 第一にこの都の美術館というワクのなかで、このような現象がもっとも顕著に起こっていることがいかにも象徴的なのだ。というのは日本の画壇が長いあいだ、ここをほとんど唯一の場所にして一種特有の会場芸術をつくりあげてきたのだが、アンデパンダン展はこうした画壇の既成の機構に対して、自由出品の建前をとり「個」の独自性を確保してきた。こうして、幾人かの新人群を送りだしてきた今日、アンデパンダンにはさらに新しい波が押しよせている。それをひとくちにいえば、反絵画、反彫刻の動き、いやアンチ・アート(反芸術)といわれる国際的な波ということができよう。しかもかつての「ネオ・ダダ」とその周辺の作家たちや「九州派」「新超現実派」「エコール・ド・トーキョー」さらに、今年から「時間派」といったように、グループや一傾向が集団的に出品することがめだってくると同時に、この反絵画、反彫刻の動きが一種の流行をつくりだしていることもあらそわれない。むろん集団出品が問題なのではなく、モードと追随をつくりだすような風潮を私は警戒するだけである。このことはアンデパンダンの問題よりも、日本の画壇全体の問題なのだが、私はアンデパンダンの若い作家たちが新しい立場をとりながら、ふたたび美術館の習性に染まってその歴史をくりかえさないことを望むだけなのである。

 反絵画、反彫刻といっても、現代芸術における根は深く、またひろい現象なのだが、それは形の上では、絵画的な、二次元的なものから、立体的な、三次元的なものへ移行し、またその逆に移行する場合もある。さらに時間的な動きの要素が加わろうとしている。ここでは「時間派」の数人の作家が最近着手しはじめたところである。そうしたものが長いあいだ絵画とか彫刻という安定した芸術形式だけを目標にしてきた美術館に展示される。いろんな摩擦が起こるのも無理はないが、あとでふれよう。


(技法とともに材料も変わる)

 絵画はアクションペインティングやアンフォルメル以後、絵画の技法が変わると同時に、その材料もいちじるしく変わりつつある。カンヴァスがベニヤになり、絵具が盛り上がってレリーフになり、その上にイスがはりつけられるのはまだしもタブローの範疇にはいるが、床いっぱいに広げられた大きなビニールであったりする。それはもはや完全に空間にひろがる物体である。また松沢宥の作品のように、最初はマンダラのような記号的なシリーズ絵画だったものが、箱に変わり、こんどは箱が分化し、そのなかに不条理な雑物が投げこまれ、さらにこの物質から奇妙な形の本が派生する。一方、彫刻もまた半世紀のあいだに材質がいちじるしく変化したが、最近は「ジャンク・アート」と呼ばれるような、金属やタイヤの廃品を使うことがひとつの流行になってきた。スクラップから拾いだされたもので、これも完全に材料化してしまったオブジェの道が示しているように、それがたんなる材料としてならば粘土にブリキや鉄クズやゴムがとって代っただけのことである。こうした廃材への感情移入の新しさだけではさきが見えている

 木下新氏の作品のように、あきカンなどのなどのスクラップをプレス機にかけて、いわば虚の物質を瞬間にかたまりにしたような作品には衝撃のエネルギーが凝縮されたように感じられるだろう。私もああしたブリキのかたまりの山がトラックで運搬されるのを見て驚いたことがある。作者はたぶんあらゆる種類の廃物がめまいのするような力で圧縮されるのを見て動機をつかんだのではなかろうか。この「成型」の技術は機械によるものだが、そこには材料の選択と発見があるはずであり、この作者は独特の「言語」を発展させねばならないであろう


(廃材利用も鼻についてきた)

 こうした「廃品芸術」は自動車の部品やタイヤなどをしきりに使うのだが、これもいささか鼻についてきた。というのは、すべてこの種のジャンク・アートは「物」そのもののショッキングな効果、従ってかつてダダやシュルレアリスムが利用したような「レディーメード・オブジェ」(既製品をとりあげること)の効果に多かれ少なかれ依存していると思われるのだが、それを合成してひとつの象徴的イメージないし「状態」をつくることになる。その場合、まったく別の実在に変質することが要求されるのだが、実際はそうした材料をとりあげるとき、すでに一種の情緒が伴っているのがつねだ。それがともすれば似たような組み合わせをもたらす。チューブいりの絵具も同じく材料であることにかわりはないとしても、廃品はあまりにも最初の形と意味がありすぎる。それを逆用して変質させるものは強烈な詩的把握力か、ある種の形而上的な直感力かであろう


(目をひく工藤哲巳、吉村益信)

 この会場で異様な展示をおこなっているのは工藤哲巳氏である。これは廃品芸術で、黒い呪物のようなものとコッペパンが四壁にも天井からもぶらさがっている。会場の一室全体を予定した構成作品(?)である。・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 平岡弘子さんの「昇化計」は絵の前に立つと、絵の同心円の中心の針が動いて、音響を発する。また刀根康尚氏の作品は、床の上に無造作にまるめられた白い布の中から絶え間なく音が出ている。ほかにも故障で音の出ていない作品があったようだ。ついに美術館が音を発したのである。


(撤回の問題と出品者委員会)

 「時間派」の中沢潮の作品は観覧者が床の上のインクを浸した布の上を歩くことによって反応を見るというものであったらしいが、館の要望で急に撤回されたという。その理由はよくわからないが、ほかにわいせつその他の理由で事前に撤回された作品が二、三あったという。この問題は出品者委員会が適切に処理することになると思うが、わいせつか芸術かの問題と同時に、あるいはそれ以上に芸術形式の上で「作品」とは何かという解決を迫られているいや、解決よりも芸術はいつもさきに動いているのだ。ただこの場合、自由出品を生命とするアンデパンダン展は作品の質によって出品の可否を決することができないだけに、立場は微妙であろうこの展覧会をのばすのも窒息させるのも出品者の責任に負うところが大きいので、民主的で責任のある委員会の運用が望ましい


 第一項の小見出し「異様に乱れてきたジャンル」は、3年前の第11回展の批評「破られる既成技法─ 若い意欲が“未知”にいどむ」の延長上で聞くべきである。第11回展では、篠原有司男の「こうなったら、やけくそだ!」と題した、廃棄物を積み重ねたような出品を非としながらも「アンデパンダンはこれをさけて通ることができない」と、好意的に見まもるものであった。それは、アンデパンダン展発足直後、第5回展で、期待した、志ある作家は「もっと自由にふるまってほしい」にそうようにみえたからである。

 ところが、ここにあるのは、かれが、「破られる既成技法」をとおして、見まもってきた、激しい情念へのありかへの懸念である。その変質の懸念である。限界点に達し、展望のないものへと化すおそれである。

 ここでかれが指摘する、その限界は、このアンデパンダン展に出展する「アヴァンギャルディスト」の矛盾を抉出するものであった。直接かたられている作品批評の背後を察知すべきであろう。

 まず、都立美術館にあえてこのような作品を嬉々として出品してくることについて、確信的ななにかを考えたうえでの行為なのかということである。このような作品の出展とは、「反絵画」「反彫刻」、あるいは、「アンチ・アート」といわれるような作品を、グループとして、出品してくることである。(注.(反芸術)と説明はあるが、東野の「反芸術」の用語は定着しているのだから、あえて「アンチ・アート」としていることに注目しておかねばならない.)

 それについては、「反絵画」「反彫刻」、あるいは、「アンチ・アート」は、かれらにとっては、たんなるアヴァンギャルドの流行にすぎないのではないか、ということである。そして、「私はアンデパンダンの若い作家たちが新しい立場をとりながら、ふたたび美術館の習性に染まってその歴史をくりかえさないことを望むだけなのである」における、瀧口の懸念する、くりかえされる歴史が、具体的になにをさすのかはわからない。戦前流行した国威高揚の戦争絵画でもさすのだろうか。それとも、「社会主義リアリズム」まで、その射程内にいれているのだろうか。しかし、いずにれにせよ、瀧口にはかれらの過激な「アンチ・アート」が、会場芸術のひとつのファション現象のあだ花におわる危惧であろう。

 そして、いか三項目でかたられているのは、そこにあるかれらの作品が、たんなるフアッションいじょうでないことの、核心にふれる指摘である。


 絵画や彫刻の技法が変化すると、素材も変化してきた。そして、技法の変化と素材の変化は一体化して、技法と素材の区別がなくなっている。素材をみつけることが芸術技法となり、これまでにないあたらしい素材が、これまでにないあたらしい作品になる。そして現今では、あたらしい素材は、廃物である。そして、廃品を芸術素材とすること、廃品を芸術とすることができるのは、都立美術館に陳列することによって、都立美術館の芸術作品となり、それがショックという芸術効果をあたえるからである。そして、あれもこれもがこれであっては、「こうした廃材への感情移入の新しさだけではさきが見えている」は、かれらのその後の作品を知っているわれわれにとっては、ひとつの先見の明というべき見方だったとおもわれる。

 また、そうした廃品素材の作家のなかには、木下新のようなプレス機にかける技法と素材を意識して制作されている作品もあった。しかしこれとて、プレス機にかける技法がどのような表現を展開するかについて、どこまで作者の意識がおよんでいるかが問題であるという。そこには、「材料の選択と発見があったはずであり、(こういう作品の)作者は独特の『言語』を発展させねばならない」と、瀧口はいう。瀧口のいう「言語」とは、技法は言語であり、ことなる技法は、ことなる言語でなければならないという前提がある。これから本論でもあつかう「芸術は思想伝達の具たりうるか」は、とうじの日本の前衛思想家ではおおきな課題であった。

 ところで、このプレス機のたとえは、木下ではその後、プレス機作品をなんら発展させなかったが、フランスでも、木下にやや先行した同時期に、プレス制作作家があらわれている。ヌーヴォー・レアリスムのメンバーでもあったセザール・バルダシーニである(注.「第2章 『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』  2) ‘60年代西欧の『新(反)芸術』(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合)」[『百万遍』4号掲載])

 セザールの場合は、60~70年代にかけて、素材を車、バイク、金属管、針金、金網、プレキシグラス・・・ととりかえながら、プレス機・技法による圧縮作品の制作をつづけた。形態も完全圧縮から半圧縮、立方体から不定形、着色素材から透明素材、なかには、透明プラスティックに靴やタイプライターを密封した圧縮梱包作品もあった。この技法は、その後、ポリウレタン加工技法にかわるが、それにいたるまでの作品は多種多様、おびただしい数におよぶものである。

 それが、瀧口のいう「独特の『言語』」化にかなうかどうかはわからない。しかし、セザールは現在にいたるまで圧縮作家として現代芸術史に存在しているのだが、木下新は、’60年代アヴァンギャルドの九州派やネオダダ・ジャパンの構成者としてあらわれるだけである。風俗芸術の枠にとどまっているだけである。瀧口の危惧、その場かぎりの廃物作品は的中したといえるだろう。

 次項目の小見出し「廃材利用も鼻についてきた」は、廃品芸術の模倣性の指摘である。廃品芸術の典拠は、ヌーヴォー・レアリスムのレスタニーは公然とその第二宣言で認めていたが、さきにもすこしふれたマルセル・デュシャンのレディーメイドにある。典拠とは、身元保証であり、インスピレーションの源泉である。

 瀧口がどこまでとうじのデュシャンの言動を承知していたのかわからないが、はやくも戦前からデュシャン論を書き、この後の、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』などへのかれの執着ぶりから類推しても、戦後17年であるそのころには、そうとうの知識と意見をもっていたとおもわれる。(注.この俗称「大ガラス」の複製を、デュシャンの承認のもとに日本で複製制作するにあたり、瀧口は中心的役割をはたしている.)

 瀧口は、廃棄された既製品である廃品を素材とするときには、その選択において「すでに一種の情緒が伴っているのがつねだ。それがともすれば似たような組み合わせをもたらす」と、その自己満足的マンネリ化を指摘している。ここでいわれる「情緒」とは、きれいとかきたないとか、すきとかきらいとかの感情的思いこみであろう。廃品がかつて日常生活にあったときの残照が作家の選択に反映し「似たような組合せをもたらす」ことであろう。

 ところで、その頃、デュシャンじしんは、みずからの「レディーメイド」について、講演をおこなっている。1961年10月にニューヨークの近代美術館(MoMa)でなされた長時間の講演である。語られた内容は、それまでに書かれたり、話されたりしたことの反復であり、とりたて新しいものはないが、かれの晩年であるこの時点で、どのように「レディーメイド」を考えていたのかの「まとめ」となる。他の現代芸術家にあたえた影響をふくめて、どう評価していたかである。

 かれは、この講演で、「このようなかたちの表現を手当りしだいにやることの危険性が、私にはすぐ分かり、レディーメイドの制作を一年間に少数に制限することに決めた。私はそのとき、芸術家にとってより、見る者にとって、芸術は麻薬中毒のように習慣となることに気づき、私の『レディーメイド』をそうした害からまもりたいと思った」と語っている。デュシャンがいっているのは、厳密には瀧口の指摘とはことなるが、レディーメイドのおよぼす芸術的心理弊害についてである。デュシャンはここでは、見る者への弊害に焦点をあわせているが、じじつかれ自身もまた、1910~20年代に、集中的にさまざまなレディーメイド制作をこころみたのだが、マンネリをさけるため、また、過去の評判にまどわされたり、意識が介入するのをおそれて、「たえず行うものではない」と自戒して、制作を停止したというのは、欧米のアヴァンギャルディストの間ではひろく知られていたことであった。

 さらにまた、瀧口のこれにつづく記述、「チューブいりの絵具も同じく材料であることにかわりはないとしても、廃品はあまりにも最初の形と意味がありすぎる」にも、すこし注目しておかねばならない。まず、ここに唐突にでてくる「チューブいりの絵具」についてである。

 この用語もまた、さきのデュシャンの講演のさいごにつかわれている「この自分勝手な話しの最後の締めくくりとしていわせていただくなら、芸術家が使用する絵具は工業製品であり、レディーメイドの製品であるのだから、世界中のあらゆる絵画は、『手が加えられたレディーメイド』であり、アサンブラージュの作品でもあるのだと、結論させていただきましょう」とかさねあわせることができる。もっとも瀧口では、「絵具」にはことなる意味がたくされているのだが。

 前年のこの講演を、瀧口がニューヨークで聞いていたのか、あるいは、内容を仄聞したかはわからない。しかし、瀧口が、廃品オブジェに「レディーメイド」の安易な模倣を察知し、これを批判しているのはたしかであろう。さらにまた、デュシャンの言のこの理解ぶりは、「レディーメイド」そのものへの瀧口の評価をあらわすものであろう。瀧口の考える芸術では、「レディーメイド(既製品オブジェ)」は限界点のある「芸術」とおもっていることである。

 それについて、すなわち、この限界点をこえられるかどうか、こえることできるのかどうかかについて、瀧口は興味ふかい結論をしめしている。それは、「廃品はあまりにも最初の形と意味がありすぎる。それを逆用して変質させるものは強烈な詩的把握力か、ある種の形而上的な直感力かであろう」でいわれているところである。

 ただし、これについても、また、デュシャンはさきの講演で、近接したことをのべている。デュシャンがいうのは、レディーメイドの 「ひとつの大切な特徴は、『レディーメイド』に、私が時々書きこむ短い文章である。/その文は、タイトルのように、オブジェを説明するのではなく、見る人のこころを、もっとひろいことばの領域に導いていくような意味をもつ」 である。

 デュシャンがいわんとするのは、かれのレディーメイド作品のほとんどにはタイトルのようなことばがあるのだが、初期レディーメイドで物議をかもし、さきほど問題としたあの白い陶器製男性用便器についていたタイトル『泉(Fontaine)』などを指すであろう。

 この便器は、展覧会では、通常配置とは転倒位置で配置されている。(図版1「泉」) そして、タイトルは『泉』である。フランス語〈fontaine〉は、「泉」だけでなく、「噴水」や「(飲用の)噴水栓」へと、意味を拡大できることばである。


図版1「泉」



 このレディーメイドが発表された1917年のニューヨークのでは、陶器製の便器は、ニューヨーク5番街のショーウインドーに飾られるような最新製品であった。

 そしてこの作品は、誰が見ても先ず分かるのは「男性用便器」であり、次に『泉(fontaine)』というタイトルによって誘導されるイメージは、「水飲み器」である。つまり、『泉』はこの角度で配置されることによって、排泄用器の機能は停止される。芸術的素材に採用されることによって、便器が便器でなくなり、鑑賞者は素直にモノとしての『泉』をみることができる。素直にとは、自由に想像力をはたらかせてである。つまり、芸術的にみることができることである。

 しかし、これは、造形作品鑑賞というよりむしろ詩の効用である。詩がその魔力を発揮するのは、読後の記憶においてである。この『泉』もまた、これを見た男性が、自宅で、あるいは、街なかのトイレで便器のまえにたつとき、みずからの下半身から放出される放物線は、水飲み器の噴水放物線は逆向きに口元にむかうのではあるが、おなじ放物線をえがくことにおもいいたり、奇妙な一致に感動する。感動とは、思いもしなかったことを感得したおどろきである。デュシャンのレディーメイドには、ほかの「作品」にも、また、このような「感動」をもたらすものがおおくある。ダ・ヴィンチの『モナリザ』に髭を描きくわえた『L.H.O.O.Q (Elle a chaud au cul)』もそうであったし、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも (La mariée mis à nu par ses célibataires, même)』も、またそうである(注.『L.H.O.O.Q』 については、すでに述べている.) あるいは、もっと廃品素材の的確な例としては、1950~51年に各2点のみ制作された「雌イチジクの葉」と「オブジェ=ダール(objet・dard)」をあげるべきであろう。(図版2「雌イチジクの葉」. 図版3「オブジェ・ダール」)



図版2「雌イチジクの葉」



図版3「オブジェ・ダール」



 これは、文字通り廃物オブジェである。もっとも廃棄物とはいえ、自分の作品制作中に廃棄されたゴミなのであるが、それが、作家の行為とタイトルによって、まったくことなる作品に変貌しているのである。しかも、これはどのように考えても、文学的変質である。その変貌については、すでに筆者は他のところで説明しているから、該当箇所を本稿の巻末に参考のため掲載しておく。

 つまり、こうした例のように、かれの作品がもちいている「言語」は、文学作品のように翻訳を要する性質をもつ。

 瀧口がデュシャンのレディーメイドのそうした文学性、あるいは、絵画・彫刻・詩の融合形態をどう判断していたのかはわからない。しかし、「(廃品の過去性)を逆用して変質させるものは強烈な詩的把握力か、ある種の形而上的な直感力かであろう」と、「廃物利用も鼻についてきた」の結論としてのべているいじょうは、文学的なみかたをしているのはまちがいない。

 とはいえ、瀧口は、日本のアヴァンギャルディストらの廃品作品に、そうした「文学性」の欠如を咎めるているのでもなさそうである。なぜなら、瀧口は、アンデパンダン展作品批評において、タイトルにからめて論じたことは一度もない。さきの木下のプレス機作品でも、そのタイトル「裸婦像」は無視している。「目をひく工藤哲巳、吉村益信」で、好意的にかたられた工藤作品においても、タイトル「インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生」 は、タイトル記載さえされていない。これらは、デュシャンのタイトルにとうてい及ぶものではないが、それなりの文学的意味を付加されたものである。

 ここでの瀧口については、ふたつのことが推測できる。

 第一は、瀧口は造形芸術と文学が融合した芸術形態は、デュシャンのようには考えられなかったことである。そのことが、「変質させるのは強烈な詩的把握力か、ある種の形而上的な直感力」と、デュシャンのレディーメイドの特殊性と特権性を強調させるのであろう。あるいは、デュシャンのように笑えなかったのかもしれない。この笑いには二重の意味がある。ひとつは、瀧口は〈諧謔〉に不感症であったことであり、もうひとつは、芸術と文学を同一視にするには、あまりにまじめであったということである。それが、芸術作家と詩人・評論家の立場のちがいかもしれない。

 たとえば、現代のマンガにおいても、マンガ作家はマンガを物語であり絵画であるとみなすのにたいして、文学評論家や絵画評論家は、文学でも絵画でもないとし、マンガ評論家はマンガはマンガだと主張するであろう。そして、それはすでに、現代マンガの祖である『ガロ』誌に掲載された、つげ義晴のマンガ「ねじ式」や「李さん一家」についておこったことである。

 つぎに瀧口の言において推測できるのは、もっともありそうなことであるが、この都立美術館で開催される「読売アンデパンダン」展では、ふさわしくない作品ということである。この美術館とこのアンデパンダン展は、そうしたもののためにあるのではない。「芸術は、それらより先に動いている」 のは、よく承知しているのだが、いま、現実の社会に受けいれられない現実の芸術家にとって、この展覧会と美術館の使い方は、ほかにあるという経験的信念である。1903年生まれの瀧口は、思春期に大正デモクラシーを、青年期から壮年期には「エログロ・ナンセンス」風俗と検閲制度、国家主義圧政体制の成立と、破綻の過程のことごくを体験していた。そうしたなかで、生活すべてを、「体制」に背をむけ、みとめられぬ文学と芸術、ことにシュルレアリスムの文学の立場で、不遇な文学・芸術生活をせざるをえなかった者の現実把握の実感確信と、何をすべきかの確信であろう。

 まず、第14回展における、アンデパンダン展の位置する状況は、第5回展の、「志のある作家は、誰にはばかることなく作品を発表することができ」、主催者側も、「もっと自由にふるまってほしい」と願っているところにはない、という確信的予感である。

 読売新聞は、恒例のシリーズ連載、第14回展の作品批評、「冒険と自由」掲載を3月7日には中断し、「読売国際オープン・ゴルフ選手権大会」開幕の記事を掲載している。戦後の民主的風潮に対応して設立された「アンデパンダン展」という文化・事業路線の、高度経済成長社会に傾斜する路線への微妙な軌道修正である。また、2年後にせまった「東京オリンピック」の順調にすすむ準備状況も日々はなやかに報道されている。皇太子と民間女性の結婚パレードにはじまった’60年代日本の「パレード」風俗形成の流れが、東京オリンピックのパレードにむかって、よりたしかな太い流れとして顕在化しようとする状況である。

 美術画壇においても、旧来の団体美術展は完全復活し、また、具象画の新人画家発掘のため1957年に創設された安井賞展は、いまや西洋画の芥川賞となり、画廊の寵児を輩出している。画商の美術界における地位はたしかなものとなりつつあり、画廊のあつかう画家たちは、数年前からほとんど読売アンデパンダン展には出品しなくなっている。

 そうしたとき、かれの目からみると、第14回展に提出されてきた「作品」は、この芸術展覧会成立と存続条件の極限的状況にむかうものであったにちがいない。

 かれは、その現実的立場から、この危機的状況において、社会的に抹殺されようとしている芸術家たちにむかって、最後の詰問をする。

 それは、芸術家よ発言せよ! 真の、実効性ある行動をせよ! である。さらにいえば、みずからすすんで都立美術館に出品する意味と、じぶんたちにとっての「芸術」の現実的意味を直視し、真剣に検討し、立場表明をしてもらいたいということである。

 具体的問いとしては、「出品者委員会」はなにをしているのかになるであろう。

 読売アンデパンダン展の「出品者委員会」とは、赤瀬川の『反芸術アンパン』の記述によるとつぎのようなものであった。

 出品者側の委員は、出品者の投票によって選ばれた。したがって、グループ出品者が選出されるのが容易で、赤瀬川もその任にあったのはさきにもふれたところである。主催者の読売新聞によって、年に一度、銀座のステーキハウス「スエヒロ」の食堂ホールで、その委員会が開催された。かれらアヴァンギャルディストたちのあいだでは、これをビフテキ委員会と称し、まわりもちで委員に就任したという。会議には、出品者委員たちと読売新聞の文化部と事業部から関係者が出席していたと、赤瀬川は書いているが、その総員数は示していない。記述からは、三、四十人であったかとおもわれる。

 協議内容は、会場設営の作品の陳列順などであって、「民主的」を金科玉条とするだけに、アイウエオ順とか受付順とかが、最大の議論沸騰の議題であったとある。

 赤瀬川の書くところからは、もちろん瀧口はでていないが、文化部次長の海藤は毎回出席していたにちがいない。そして、そこでは、読売新聞社側から出品者たちへの要望もとうぜんあったはずだが、それについても、赤瀬川はいっさいかたっていない。

 瀧口は、このような委員会の実態を熟知していたはずである。にもかかわらず、「撤回の問題」について、「その理由はよくわからないが」と微妙なまえおきをし、「この問題は出品者委員会が適切に処理することになると思うが」とことわったうえで、「この展覧会をのばすのも窒息させるのも出品者の責任に負うところが大きいので、民主的で責任のある委員会の運用が望ましい」と最後に結論している。

 これだけを読むと、読売新聞側にあって、アンデパンダン展の安定した継続をねがい、過激な出品者たちをたしなめる、あたりさわりのない遁辞のようにきこえなくもないが、けっしてそうではあるまい。

 ここにあるのは、出品者委員会への真摯な期待である。

 まず、都立美術館のおこなった撤回問題を、出品者委員会が処理すべきという期待である。処理とは、真の原因究明であり、それにどう対応するかを委員会、すなわち、出品者の合意によって決定することであり、その究明決定は、行動によって行使されることである。

 そして、関連しておこなうことは、民主的で責任ある委員会として、この展覧会の存続の可否を協議すべきという期待である。民主的とは、(展覧会)主催者や(展覧会場)経営者や権威ある者に依存することなく、とうの出品者の権利責任においてということであろう。それは、権利義務に置き換えてもよい。民主的で責任のある委員会とは、権利義務のある委員会である。そのことが、おそらくこの結論、「民主的で責任のある委員会の運用が望ましい」が表明するものであろう。

 こうした瀧口の発言には、戦前の圧制体制が形成された現場で翻弄された者の、確かな現実感覚から把握された「民主主義」と、その責任の実感がある。

 民主的とは集団の合議であり、実効性ある行動である。そしてまた、民主的とは、権利と、責任という義務の両輪の行使によって、はじめて機能するという実感である。そのことがこの論考結論の最終項目の10行あまりの文章に「責任」ということばが、2度にわたり出てくるゆえんであろう。

 このことばは、滝口の使用語彙としては稀有であり、この論考タイトルでも、初出の新聞紙上ではもちいられたが、そのご削除されたことばである。しかし、この「撤回の問題」は、このような当事者である出品者の権利と責任の問題とすべきというのが、瀧口のおもわずもらしてしまった大声の発言であったかとおもわれる。

 瀧口は、おそらく詩人としてその信条から、小声でかたる評論家であった。かれは、じぶんが批評家や指導者であるとおもったことは一度もなかったであろう。そしてそのことが、ここでも、つとめてこの事件の詳細にたちいらぬようにさせているのであろう。

 というのは、事件について知るところを語り、それにたいしてなんらかの意見をのべ、また提案することは、いかに善意からなされたものでも、それは指導者の立場であり、権力者の立場である。とうじの瀧口は、かれらにとって、こころならずも影響力をもつ現代芸術評論家であり、また、社会的にも、かれらにとっては有力者の立場にあった。かれの、指導者でも権力者でもない発言では、このようにならざるをえなかったのだ。瀧口のあいまいな表現は、そう理解すべきである。また、このことは、瀧口修造の発言において一般的にいえるかれの基本的態度であろう。

 このように解すると、さきにも引用した、最後の1行、「この展覧会をのばすのも窒息させるのも出品者の責任に負うところが大きいので、民主的で責任のある委員会の運用が望ましい」は、この基本信条からいささか踏み出した一句である。それは、危機的状況をあらわす感情的告知であり、論考のタイトル「『作品』の危機と責任」の真意を露呈するものであろう。存続か否かの問いである。防衛か破壊かに換言できる問いである。もっとも、防衛といっても、既成芸術から排除される芸術を展示できる「場」の困難な確保であるから、防衛にせよ、破壊にせよ、瀧口が忌み嫌う用語をあえてつかえば、瀧口の「反芸術」の立場ということができよう。

 第14回展最終日にあえて表明されたこの危機感に、出品者はどのような行動で応えるのであろうか。その応えがあらわれるまえに、この「撤回の問題」は、美術館側の行動によってさらに明確な事態となった。8ヶ月後の同年12月に、成文化した「東京都美術館陳列作品規格基準要綱」が制定され、公布された。第15回展開催の三ヶ月前である。

 内容はつぎのようなものであった。 

 「不快音または高音を発する仕掛のある作品、悪臭を発しまたは腐敗のおそれのある素材を使用した作品、刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品、観覧者にいちじるしく不快感を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品、砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品、天井より直接つり下げる作品」を、排除するというものである。

 20世紀後半期の美術館の陳列作品規格基準としては、正確さを欠き、意味不明な条項であるが、戦後の日本型権力施行の傲岸さがはやくも露呈した文言である。

 いかにも、第14回読売アンデパンダン展でとった処置を追認し、正当化するための要綱であったかのようにみえる。そこには、撤去作品いがいにも、さきに紹介した天井からオブジェを一室いっぱいに吊りさげた工藤作品なども、撤去に該当する項目がある。赤瀬川の床面を赤錆で汚染した作品も抵触したかもしれない。他方、いかに憶測しても、糸井や吉岡の作品拒否理由とはならない「観覧者にいちじるしく不快感を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品」なる不可解な文言もある。

 これらは、あたらしい芸術にまだ理解があることをしめしたり、また、美術史上、「猥褻」を理由にする先例には、たとえば黒田清輝の『朝妝』をはじめ、19世紀西欧でも数々の権力側の失態があるだけに、このようなものになったのかもしれない。この苦肉の策の文言は、戦前ではポルノ展に代用された、「性病予防展覧会」の被患性器写真とでも連結させるつもりであろうか、まさに噴飯ものいがいのなにものでもない規格基準要綱である。にもかかわらず、解釈によっては、戦後あらわれた形式のほとんどすべての造形作品に「撤去」の権力がおよぶ条項である。たとえば、1960年にニューヨークの近代美術館(MoMa)で展示されたティンゲリーの『ニューヨーク讃歌』などは、東京都美術館では鑑賞できないであろう。

 しかし、本論が問題にするのは、東京都美術館の「要綱」内容にあるのではない。みきわめるべきは、このようにいかがわしい「要綱」にもとずく作品撤去をつきつけられた、’60年代日本のアヴァンギャルド芸術家たちのみせた対応にある。

 いわばスキだらけの、このような基準要綱であったにもかかわらず、とうの芸術家たちからそれを対象とする強烈な反論や明確な抗議のされた痕跡が、とうじの雑誌、新聞などの一次資料や、回想記や信憑性ある研究書をふくめた二次資料にみあたらない。さきのデュシャンが当事者であったなら、どのように批判したかがよういに想像できるような基準要綱である。ところが、ひとつとして、かれら自身の確固たるアヴァンギャルド芸術の視点からの、明確な反論をみつけることができなかった。(注.3ヶ月後の第15回展をまえにした「出品者委員会」の討議内容さえどこにもみあたらなかった.)

 しかし、デュシャンが私的な同人雑誌に書いたように、かれらのうちのだれかが、どこかに、そのアヴァンギャルドの立場から核心的反論を表明していたのだが、それが歴史のなかに埋没したとも、一方ではいえるのかもしれない。だが、さらに他方では、その埋没もかれらのあり方のあらわれともみることができる。それは、かれらのそのごの芸術行動にふかくかかわるものである。

 その後のかれらが、たとえば「時間派」の中沢潮らが表明したような理論的主張のアヴァンギャルド芸術を、そこを出発点として、それぞれがどんなかたちででも、さらに発展させていたら、つまり、デュシャンが、あれら初期作品でレディーメイドをおわらせることなく展開していったように、こうした初源的としかいいようのない芸術行為から、なんらかの結実をもたらしていたのなら、歴史は、かれらの私的な「つぶやき」をけっして埋没させることはできなかったはずである。

 芸術家の発言は、「作品」とはいわぬまでも、芸術行為が、もっとも真摯な意見表明になるものである。

 そうした見方をするなら、こうした「美術館陳列作品規格基準要綱」をつきつけられた「読売アンデパンダン」展出品の「反芸術」の作家たちが、どのような対応をしたかをみなおさなければなるまい。

 それは、結果的に最後となった第15回展にあらわれるものである。

 1963年3月2日、第15回読売アンデパンダン展は通常どおり東京都美術館で開催され、かわらぬ数の出品者があった。アヴァンギャルドの登録参加者はつぎのような芸術家である。

 九州派からは、上野正行、桜井孝身、オチオサム、菊畑茂久馬、大黒愛子、大山右一、片江政俊、谷口利夫、田部光子、長頼子、米倉徳が出品した。ネオダダ・ジャパンでは、篠原有司男をはじめ、木下新、赤瀬川原平、風倉匠、田中慎太郎、田辺三太郎、豊島壮六、吉野辰海らが出品した。そして、ゼロ次元グループからは、 第14回展につづき、岩田信市と加藤好弘が出展している。

 ほかの注目すべき出品者をあげれば、糸井貫二をはじめ、松澤宥、三木富雄、立石紘一、高松次郎、中西夏之、石崎浩一郎、加賀見正之、小島信明、千葉英輔、松江カク、皆島万作、吉岡康弘や刀根康弘、小杉武久らがそれぞれ独自の「作品」を提出した(注. 出品者については、『肉体のアナーキズム』の年表を参考にした.) 今回、事前に排除された作品があったという記録はない。

 いっぽう、時間派の中沢潮、長野祥三や、「そろそろ出かけようか」の広川晴史は出品していない。ほかの不在者については、工藤哲巳は前年5月にパリに活動拠点を移し、ネオダダ・ジャパンの吉村益信も前年8月、荒川修作も2年前に渡米していたから、かれらには、読売アンデパンダン展において、直接「陳列作品規格基準要綱」がかかわってくることはなかったわけである。

 前年撤去された糸井貫二は二作品を出展したが、そのうちの一点、『ダダカンの鞄」』と題した作品は、トランクのなかに文章を書いた紙片やコラージュ、オブジェを詰めこんでいて、「お持ち帰り自由」と記入した作品である。まぎれもないアヴァンギャルド作品ではあるが、前年出品の株券と春画をならべた世相挑発の攻撃性は変質し、視点が180度転換したものであり、「陳列作品規格規程」になんら抵触するものではなかった。「43才になったなった一匹狼」も、「ダダカン(ダダ貫[二])の鞄」とおなじく、タイトルだけは勇ましく、「アンデパンダン(孤独な独立者)」そのものであったが、中味はほぼどうようの「無害な」ものだったのだろう。吉岡康弘の作品については、詳細はわからない。だが、「基準要綱」が適用されなかったのだから、糸井作品と類似したものであり、さりとて、前年の処置に反発し、抗議するものでもなかったとおもわれる。

 これらから類推できるのは、ここに出品したアヴァンギャルデイストたち一般についても、「陳列作品規格基準要綱」に直接抵触するのを注意深くさけた作品ばかりだったのではなかろうか。

 他方、主催者たる読売新聞の、この第15回展にたいする対応はどうだったのだろうか。紙上報道については、初日の3月2日の夕刊紙では、「読売アンデパンダン展開く」の見出し入り記事と会場写真で報じられていたが、前年までにくらべると、あきらかにあつかいは冷淡になっていた。前年、14回展初日の報道では、「力作800点ずらり 読売アンデパンダン展開く」と開会報道が会場光景写真とともに掲載されていたが、第15回展では、リードなしのたんなる開幕報道である。その傾向は、恒例の会期中連載される「作品批評」ではさらに露骨となる。それまでの連載批評では、「新しい美の発見」(第13回展)とか「冒険と自由」(第14回展)の、シリーズ名がついた「読売アンデパンダン展から」であったのだが、今回は、シリーズ名のない単なる「アンデパンダン展から」となり、〈読売〉の文字さえ消えている。

 こうした紙上にあらわれた変化は、「自由出品」の主催者公約を侵害する東京都美術館の「陳列作品規格基準」への、ある意味では主催新聞社の立場表明となるであろう。黙許であり賛同である。といういうよりもむしろ、「といた2枚を小屋のように組みあわせ、その奥にはムシロを垂らし、ヌード写真をはりつけた」作品を「自由奔放な意欲作」と絶賛した、第12回展(1960年)の反芸術路線からの路線変更である。日本の1960年から1962年のあいだはこのような時期であったことは銘記しておかねばならない。そして、「東京都美術館陳列作品規格基準要綱」の制定は、芸術界のみならず日本社会の路線変更の指標とみるべきであろう。

 そうした、状況下にあった第15回読売アンデパンダン展に、はじめて参加したアヴァンギャルディストもいる。すでに出品者であった高松次郎や赤瀬川原平と芸術的親密度をたかめていた中西夏之や、「グループ音楽」の小杉武久である。

 のちにインターメディアともいわれた「グループ・音楽」の刀根康弘は前回、14回展から参加していたが、小杉は初出展であった。初参加のかれらが出展した作品は、いずれもそれなりに熟慮した試行錯誤中のものであり、また、ある種の覚悟ある出品作品であった。しかし、第15回展の喧騒のアヴァンギャルドのひとつであったことにはかわりはなかったが・・・・・

 その情景を赤瀬川の回想記(『反芸術アンパン』)などで再現すればつぎのようになる。小杉作品をふくむ描写である。


 音楽家小杉武久は楽器を出品していた。美術作品として、二メートルほどの布袋である。それが壁面に絵と並んで掛けてある。これはあるときは美術作品であっても、あるときは楽器である。その楽器を小杉は会期中に来て演奏する。袋には大小さまざまなファスナーが、アトランダムな位置に付いている。小杉はそのおおきなファスナーを開けて自分がその袋の中に入る。そのファスナーを閉じるとつづいて小さな別のファスナーが開いて、手がニューと出て、脱いだシャツやズボンを出したり、また入れたり、金魚鉢が入ったり、メガネが出たり、そうやって演奏しながら、不定形な布袋のかたまりが蠢きながら移動していく。風倉の下半身裸の舞踏がそれに加わる。風倉の出品名は「事物」となっている。風倉が受付に出した物、出品物とは何なのか、ひよっとして作品としての物は何もなくモノゴトだけを出品したのかどうか、もはや作品というものは静止する位置も時間も不確かになり、その静止質量というものがつかめなくなる


 ここにあるのは、前年から芥川賞作家にもなっていた、赤瀬川原平が書いた、20年後の文学的回想である。しかも、同書には、うごめき移動する小杉の袋のよこで、恥部を露出して倒立する風倉の、記憶のなかの風景が素描画で挿入されている。「もはや作品というものは静止する位置も時間も不確かになり、その静止質量というものがつかめなくなる」などを読むと、赤瀬川原平の文学作品、「反芸術アンパン」と読むべきであろう。

 とはいえ、ここでは、あじけない所業ではあるが、非文学的に読解してみよう。出品された小杉作品は、サイズの異なるいくつかのジッパーのついた白い布製の布袋であって、小杉はこれを壁面に展示していた。そして、かれは会期中ときどき来館しては、それを壁面からはずして、インドの小太鼓をもってなかにはいり、これを鳴らしながら、書かれたようなパフォーマンスをおこなったということである。とうじ小杉は、身体リズム表現をテーマに、さまざまな実験をくりかえしていた。それについては、本論でもこれからふれるところである。

 というわけで、造形の音楽(リズム)パフォーマンスのインターメディアに、この頃のかれは、現代でも分類されるわけである。その後、かれはジョン・ケージや、ニューヨークのフルクサスと交流し、また、日本万国博覧会のお祭り広場の音楽制作を担当している。15回展のこの作品でも、小太鼓と移動リズムは関連性があったはずだが、赤瀬川はそこには注目していない。

 引用後半にある風倉匠の「下半身裸の舞踏」は、小杉作品とはなんら連携性はなく、風倉独自の「出品作品」であった。タイトルは「事物は何処から来てどこへ行く」という、ゴーギャンもどきであったという(注.『肉体のアナーキズム』) 出品タイトルにみあうモノ、たとえば椅子などがあったのかわからないが、会場に来た風倉がとつぜん脱衣して、下半身だけ露出するパフォーマンスをやったということらしい。これについてはいろいろな証言や写真もある(証言については今泉省彦の「直接行動論の兆 Ⅰ」[初出『形象』8号]をはじめ多数あり、写真は『肉体のアナーキズム』に掲載されている.) 

 とつぜん演じられたハプニングともいうべき芸術行為は、ペニスをみせることに焦点があるとおもわれるから、さきの禁止条項、ことに「公衆衛生法規にふれるおそれがある作品」を意識した、なんらかの抗議、反抗のようにみえなくもないが、よくわからぬ行為である。さきの瀧口の「『作品』の危機と責任」の視点からいえば、それにどのように応えるものであったかがわからない。瀧口の、展覧会の活用窒息かの、かの「反芸術(既成芸術批判)」の問いにたいする、「窒息」の立場表明としてはあまりにもおそまつである。このていどのパフォーマンスなら、似たようなものが「具体」展や「二科」展では、すでに演じられている。また、風倉自身も参加したはずの、日比谷画廊でおこなわれた第3回ネオ・ダダ展(1960年9月)では、連日、作品への放尿が演じられというではないか。もっともそうしたことで、「第3回ネオダダ」展は会期途中で中止させられ、東京都から借地していた日比谷画廊の存続があやぶまれることになったといわれる。

 ならば、「窒息」の立場からの確信的芸術行為なら、すでに実証ずみのハプニングにより、「床面を毀損汚染するような作品」の禁止条項に正面からたちむかうこともせず、「規格基準要綱」すれすれの行為によって、「不服従」の抵抗でもやったつもりなのだろうか。「不服従」の反抗が輝きをますのは、「権力」の力が絶対化している場合であって、だれしもが正面から太刀打ちできぬときである。

 東京都美術館の「権力」の実体は、そのおずおずとした「撤去」、そして、確信のない辻褄合わせの禁止文言からみても、また、1962年の社会情勢からみても、なんら圧倒的な権力をもつものでもなかった。じじつ、かれの抵触するような、しないような行為は、ひとまず別室によばれて、読売新聞の係員とのあいだで、さまざまな議論がかわされたようだが、けっきょくうやむやにおわったとおもわれる(注.今泉省彦の「直接行動論の兆 Ⅰ」 には、その間のやりとりが記されているが、今泉の記述意図からはなれると、事実はそのようであったようである.)

 ようするに、この展覧会を「窒息」させる明確な意図からでた「反芸術」でもなかったらしい。

 それならば、「要綱」批判のハプニングではなく、「アヴァンギャルド」としてのハプニングとしてこれをみたらどうなるだろうか。このハプニングは、「男根」露出にポイントをおいているが、奇しくも、いますこし明確な「男根」テーマのハプニングが1ヶ月まえのパリで、工藤哲巳によって演じられている。

 工藤としては、第14回読売アンデパンダン展に出品した、男根まがいのオブジェを吊りさげた「インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生」いらいのテーマの発展である。かれは、前年5月にパリに移住後、はやくも同年12月には、ジャン=ジャック・ルベールが中心となったハプニング芸術活動、「滅亡悪霊の悪魔払いのために(Pour conjurer l'esprit de catastrophe)」へ参加し、その第一回展には、第14回展と同種のインスタレーション・オブジェを出展していた。そして、1963年2月にブローニュの映画スタジオで開催された、第2回展にもふたたび参加している。同展の参加者は、ジャン=ジャック・ルベールをはじめ、ダニエル・ポムルィユ (Daniel Pommreuille)、 フィリップ・イキリィ(Philippe Hiquilly)、フランソワ・デュフレエヌ(François Dufrène)、エロ(Erró)、ウォルテェル・マックレン(Walter McLean)らフランスのアヴァンギャルディストであり、それに工藤哲巳、工藤弘子がくわわったものである。 (注.参加の芸術家らについては、本論「’60年代西欧の『新(反)芸術』(『ヌヴォー・レアリスム』の場合)」[『百万遍』4号]を参照. 同展については、 Jean–Jacques Lebel, Androula Michaël: Happening de Jean–Jacques Lebel [Hazan])  

 そこで工藤は、「男根」テーマをハプニングに発展させ、巨大な張りぼての「男根」を股間に装着し会場を徘徊している。すでに『若い冒険派は語る』の座談会(1961年)でわれわれも知っているように、そのころの工藤の「エネルギー」指向とルベールのテーマが合致したハップニング表現とすることができる一方、工藤は、たえずネオダダ・ジャパンの周辺にあったことから、ネオダダ・ファションの素材(男根)借用ともみることができよう。それがこの風倉と工藤の奇しき一致の、もっともありうる説明かもしれない。

 低レベルのこのような客観的偶然から風倉パフォーマンスをみると、工藤の一貫性に比して、この素材使用はいかにも素朴である。ナマの廃物、あるいは、河原の石ころをそのまま展示して、これぞオブジェと叫んでいる、ワビ、サビの日本人好みの芸術家のようなものである。風倉のばあいはそれではないだろう。’60年代アヴァンギャルドの好奇心、瀧口なら流行への関心から、アンフォルメルからオブジェへ、そしてさらにパフォーマンスへむかっているだけかもしれない。風倉は欧米のアヴァンギャルドの動向に敏感な芸術家であった。

 そうした兆候は、この15回展にはその「騒乱」とあいまって、いたるところにあらわれている。たとえば、さきの赤瀬川の『反芸術アンパン』のつづく描写にはこのような記述がある。


 また別の日にはゼロ次元のメンバー十数人が布団と枕を持ち込み、美術館の床に敷き詰めて寝転んだ。全員が何時間も棒のようになったまま仰向けになり、天井には小さな春画が貼ってある。身中を白く塗ったアンビートの中島由紀夫(ママ)が、その白い裸で作品を引きずって美術館中を這い回っている・・・・・・・(下線は筆者) 


 ‘60年代アヴァンギャルドの代表的パフォーマンス芸術集団であった「ゼロ次元」は、1960年、加藤好弘と岩田信市が、芸術をゼロ次元に還元するという、ヌヴォー・レアリスムの「ゼロ度のダダ」に似た主張をかかげて芸術グループを創設したときは、もっぱら平面作品を発表していたのだが、1962年後半から急速に「集団儀式」グループへ移行していた。1962年8月、加藤の自宅で全裸の茶会を開催したのがはじまりである。そして、1963年1月のグループ展「狂気的ナンセンス展」(愛知文化会館美術館)にさいして、名古屋の街頭をはいつくばって行進するデモストレーションをおこなったのがさいしょの公開パフォーマンスであった。

 そして、この第15回展には、加藤と岩田が登録出品している。岩田の作品は平面作品だったようだが、『反芸術アンパン』に記述されているのは、おなじ加藤の展示作品のまえの床上で、メンバー10名ほどが、日常服装のままねころがったパフォーマンスをさすのが実体であったらしい(注.この光景は『肉体のアナーキズム』に写真がある.)

 赤瀬川の「反芸術アンパン」では、かなり衝撃的パフォーマンスがくりひろげられたよう書かれているが、かならずしもそうではない。この後(のち)の時期から、「ゼロ次元」が好んでおこなった裸の集団儀式でもなく、すでに名古屋で上演ずみのように、展示作品のまえで、はいつくばってのたうちまわったわけでもなかったようである。ただ静かに横臥して作品鑑賞をしていたとおもわれる。赤瀬川は、天井に「小さな春画」が貼られていたというが、その真偽もわからない。裏付け資料はどこにもなかったし、糸井作品で違反の先例がある春画を、展示室の天井に梯子をつかっ貼付することが、はたして可能であったかどうかである。赤瀬川は、「小さな春画」とさりげなくことわっているが、これぞ文字的レトリック、文学フィクションではなかろうか。「小さな春画があるとせよ!(Etant donné・・・・)」である。

 というのは、この情景写真をみるかぎりにおいては、一風変わった鑑賞方法にすぎず、また、美術館側の刺激回避に注意をはらった行為のようにみえる。ようするに、東京都美術館で人目につく集団行為をおこなうこと、芸術パフォーマンスを演じることが目的だったのではなかろうか。

 第15回展では、このようなパフォーマンスはこれにかぎらない。赤瀬川のさきの記述でも、「身中を白く塗ったアンビートの中島由紀夫(ママ)が、その白い裸で作品を引きずって美術館中を這い回っている・・・・・」とあるが、じっさいにあったのはつぎのような経緯のなかでおこったことである。

 15回展では、美術館「陳列作品規格基準要綱」が適用される館内ではなく、それのおよばぬ館外、正面玄関前の広場で、複数の芸術家たちがあつまり、美術館側のとった処置を挑発するようにみえるパフォーマンスを、前年の撤去犠牲者であった浜口富治などがおこなった。

 その次第は、ヨシダ・ヨシエが1971年に書いた回想記にも描かれている。

 つぎのようなものである。


 初日の都美術館の玄関前では、食堂からひいた電気コードで「刃の動くオブジェ」を公開しながら、昨年の撤去問題を抗議し、あわせて、アンパンの死滅を宣言した演説をやらかしていたのは、土佐から文字どおり〝オットリ刀〟で駆けつけてきた浜口富治であった ・・・・・  その演説を菊畑茂久馬や幸寿やわたしが見守り、そこへ前衛舞踏の竹村某が踊りでからまった。たちまち黒山の人だかりの所へ、二名の警官が来て、無届け集会だから解散しろといってくる。そのまま続けろ、などと、わたしも挑発的に怒鳴っていると、「アンビート」の中島由夫が、糸井貫二にシャツを引き裂かれ、猿股ひとつになってオブジェをひきずりながらとび込んでくる。都美術館の階段では、この連中の狂舞がつづいていたのである。パトカーがサイレンを鳴らして駆けつけ、糸井や中島たちを連行していく。(ヨシダ・ヨシエ「読売アンパン轟沈す」[『戦後前衛所縁の荒事18番』(『美術手帖』1971年7月号)]/単行本『解体劇の幕降りて ─ 60年代前衛美術史』に収録)


 このヨシダ・ヨシエの回想がされたのも、約10年後の1971年のことである。ということは、’60年代末期の「大学紛争」も終焉し、’60年代の締めくくりとなった、1970年の「日本万国博覧会」が大評判のうちに終幕した翌年である。もちろん、アンデパンダン展自体が、第16回展を直前にして、読売新聞によって廃止されたという前提のもとで書かれている。そうした「反芸術」解体の時代に反発し、ことに、’60年代アヴァンギャルディストの多くが参加した「万博芸術」を批判する立場から、対照的に強調された、初期アヴァンギャルディスト礼賛からの記述である。

 この記述によると、「昨年の撤去問題を抗議し、あわせて、アンパンの死滅の宣言」を浜口富治がはなばなしく演説したとある。

 しかし、ここには、どのような抗議と死滅を主張をしたのかひとことも書かれていない。また、撤去問題の抗議としても、館外で拡声器もつかわずひとりでした演説の有効性ははなはだ疑わしいものである。

 というのは、そのごの経過を知っているわれわれは、一年後の「読売アンデパンダン展」廃止にあたっての、芸術家たちの失意や対抗措置を承知しているのだが、この演説が説得性のある、賛同者獲得のものとはおもえない。はたして、聴衆にかたりかける演説だったのかさえも疑わしい。むしろ、「抗議と解体」のパフォーマンスだったのではなかったかとさえ、おもえる。

 それに、「撤去問題」の抗議として、真に有効性のある本気の抗議なら、つぎのような行動が考えられるからである。

 浜口のあたらしく制作した「刃の動くオブジェ」は、再度、正面から正規に出展され、拒絶されるべきであった。それにたいしては、いかなる芸術であるかの理由をのべ、排除の不当性をひろく開陳すべきであった。そして、公的美術館たるものが、刃物が一部素材にふくまれるという理由から、作品展示を拒絶することの時代おくれの違法性を、裁判所に告訴することである。真剣な抗議であったのなら、そのための理論構築と作品制作の準備は、この1年間のあいだに、じゅうぶんにできたはずである。それに、訴訟対象は、あれほどのいいかげんな「規格基準要綱」であったのだから。

 また、1962~63年のとうじなら、支援体制の整備も容易だったにちがいない。それは敗訴したかもしれない。しかし、美術館への抗議としては、また社会的な問題提起としても、そのような「演説」より、はるかに有効であったとおもわれる。また、’60年代アヴァンギャルドで、そうした抗議をおこなったのが赤瀬川原平であり、ハイレッド・センターであったのだが、それがおこるのはこの数年後のことである。

 とはいえ、実際は、この第15回展でおこなわれた館外スペクタクルの真の主体は、「アンビート」集団のパフォーマンスだったのではなかろうか。かれらは、ビート・ジェネレーション(beat generation)に由来するグループ名をもち、もっぱら都市部の野外空間でハプニングを演じるグループで、はやくも数年前から活発な活動を展開していた。かれらの演じるのは、ダムアクト(dam-act)と称する、行為(act)でない行為、無意味でおおげさな行為を、路上や広場、河川敷でおこない、人目をあつめるものであり、はじめられた時期としては、日本では、ハプニングとかパフォーマンスの先駆的な実践集団であった。そのかれらが、当日、美術館の正面玄関で、ヨシダが狂舞という、かれらのダムアクトを演じたということである。参加者は、中島由夫をはじめとしたメンバー、加賀見政之や田代稔、藤村忠義、山口勝美、それに、かれらに近いところにあった糸井貫二もくわわっていたようである(注.これらアンビートについては、おもに、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』による.)

 かれらの参加は、ことさらに東京都美術館のとった処置に抗議するためでもなく、観客があつまりやすい、すなわち、かれらの「反芸術」芸術による交流が、とりやすい環境をえらんだ、「第15回読売アンデパンダン」自体とは無関係の、かれらのパフォーマンスであったかとおもわれる。赤瀬川のかたる館内を「這いまわっている」中島由夫にしても、写真を見るかぎりにおいては、頭から白い絵具をかぶった平常服のかれが、いささか狂人めいた挙動で室内を歩いているだけである。「狂舞」集団がなだれこんだという意図的演出ではなく、屋外集団からはなれて屋内にはいりこんだものであろう。というわけであるから、「身中を白く塗ったアンビートの中島由紀夫(ママ)が、その白い裸で作品を引きずって美術館中を這い回っている」は、文学的脚色と解釈がある表現であろう。    

 しかし、いっぽう、この館外「ダムアクト」は、それじたいで衝撃的表現であったとおもわれる。美術館側の通報によるものか、出動してきた警官に、参加したアンビート全員と糸井は、「無届け集会」の嫌疑で警察に連行されている。政治デモ・集会規制のため制定された公安条例の適用である。業務妨害罪でないところに美術館側の責任回避が感じられるが、その逡巡がとうじの時代趨勢をしめすものであろう。しかし、国家体制の方針により直結する警察にとっては、こうした芸術行為が、「デモ・ゲバ」風俗の反体制にみえたことも、またこの時代の趨勢である。

 しかし、この15回展(1963年)を契機にあらわれた、これらパフォーマンスは、現在からみるといずれも反芸術パレードだったようにみえる。というのは、’60年代のこれ以降、いっそう本格化していくパフォーマンスには、「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」のように見えながら、じつは「パレード」風俗に染色された「反芸術」がおおく混じっているというべきだからである。あるいは、「反芸術」自体がその当初から、「デモ・ゲバ」風俗と「パレード」風俗の両風俗がうみだした芸術だったのかもしれない。ただ、この「反芸術」、ことにその制作あるいは行為には、そのどちらの傾向がよりつよいかの相異がある。ただ、いっぱんてきに’60年代の代表的パフォーマーといわれ、万博会場を全裸で駆け抜けた糸井貫二や、全裸行列の集団儀式で喧伝された「ゼロ次元」などは、典型的な’60年代パレード風俗「反芸術」であったとおもわれる。

 というのは、第14回展につづくものとしての第15回読売アンデパンダン展そのものにもどると、つぎのようにいえからである。 

 そとからみた「第15回読売アンデパンダン」展そのものは、芸術家たちが、なんら有効で実体性ある抗議や反抗をあらたにしめすものではなかった。実効的な「反芸術」はほとんどなかったということである。外部からみられた会場風景は、赤瀬川やヨシダの記述とは正反対のものである。


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