Avant 2-4-3-11

’60年代日本の芸術アヴァンギャルド (第2章ー4ー③ー2)

 

 「ハイレッド・センター」                         田淵 晉也


これまでの目次


序章

  1) 風俗画のアレゴリーとしてみる芸術・文学

  2) ‘60年代日本社会の位置

       ① 世界の状況

       ② 世界状況のなかの日本

第1章   ‘60年代日本の風俗画

  1) ‘60年代三枚の風俗画

  2) 「デモ・ゲバ」風俗のなかの’60年代日本

(以上 『百万遍』2号掲載)


第2章 「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」

  1) ‘60年代日本の「反芸術」(その1)

  2) ‘60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌヴォー・レアリス

ム』の場合)

  3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』 と

 アンドレ・ブルトンの「反芸術」

(以上 『百万遍』4号掲載)


  4) ‘60年代日本の「反芸術」(その2) 

    ①  芸術評論家の「反芸術」 ─ 東野芳明の「反

芸術」とそれをめぐって

    ② 芸術作家の「反芸術」 

  (以上 『百万遍』5号掲載) 

                              

    ③  「読売アンデパンダン」展から「ハイレッド・セ

ンター」へ

    ③ ━ 1. 「読売アンデパンダン」展      

 (以上 『百万遍』6号掲載)



③ ━ 2「ハイレッド・センター」


Part 1


 ‘60年代日本の「反芸術」をかたるうえでは、〈芸術評論家の「反芸術」〉からだけでなく、芸術作家の「反芸術」行為が具体的にあらわれた「読売アンデパンダン」展からハイレッド・センター活動への展開をみておかねばならない。前項③-1「読売アンデパンダン」展 につづけて「ハイレッド・センター」についてのべる理由である。

 ハイレッド・センターは、’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかで、「反芸術」という新しい芸術をふりかざしたアヴァンギャルド・グループではなく、’60年代の時代風俗がうみだした、あらゆる「芸術」をじぶんのものにしようという芸術運動だった。

 いいかえれば、「デモ・ゲバ」風俗のなかでおこった芸術的なあらゆることに関心をもち、それを実践的に吟味し、検証し、じぶんたちの芸術行為に反映させようとしたのである。

 したがって、かれらがなににどのように関心をもち、それをどのように吟味し、検証した結果、かれらひとりひとりが、どのような芸術行為にいたったかをみることは、’60年代日本アヴァンギャルドの「反芸術」がはたした積極的役割をあきらかにするとおもわれる。

 今回は、その実践的行動を以後みていくためのパースペクティブをしめすつもりである。とうぜんそこには、’60年代の思想的、文学的事柄や事件がふかくかかわって来るはずである。

 

 とはいえ、当初あらわれたときの外見上のハイレッド・センターは、ふつうの三人のわかい芸術家があつまって、むしろ冗談のように結成したアヴァンギャルド・グループだった。 

 中西夏之と高松次郎、赤瀬川原平による、「ハイレッド・センター」へむかう合意は、座談会「直接行動論の兆」(1962年11月)にみえていたが、事実上の形成は、読売アンデパンダン展の第15回展(1963年3月)の会場であった。その作品行動については、前項でのべたところである(『百万遍』No.6参照)。 ハイレッド・センターを名乗ったはじめてのイベントは、1963年5月に新宿第一画廊で開催した「(第5次)ミキサー計画」(5月7~12日)と、2週間後の新橋・宮田内科医院跡室注 でおこなった「第6次ミキサー計画」(5月28日)である。

(注.閉院した宮田内科診療室を利用したもの.その後「内科画廊」として、’60年代前半のアヴァンギャルド展がしばしばひらかれた.)

 ハイレッド・センターのもつ、とうじの他のアヴァンギャルド芸術集団とはまったく異なる性格が、このふたつのイベントのなかに、すでにしめされていた。

 「(第5次)ミキサー計画」では、現代芸術評論家中原佑介の紹介文をそえたオープニング案内状とパーティ招待状が出された。案内状は、用紙三隅の左上が高松次郎、右上が赤瀬川原平、左下が中西夏之と、三隅(すみ)にむかい斜めにちいさく名前が印刷され、右がわにこれまた活字を斜めに組んだ中原の紹介文が印刷されていた。中央には、赤いゴム印で、ハイレッド・センターのシンボルとなる「!」マークがおおきく押印されていた。全紙デザイン化した案内状である。

  中原の紹介文は以下のものだった。


 この連中は不快な 陰謀家共であって、ぼくが何を書いても、その裏をかくと高言する。期待などすれば、はぐらかして失望させることをたくらむという。作品の提示は何もないことの裏をかくことであり、それをできるだけ限定するのは、世に作品のありすぎることをはぐらかすことであるらしい。芸術に対するしいられた感動と、蔓延しつつある無関心の両者にわなをかけようとしているのである。もっとも、そういえば、連中は、それは強制された無関心と、蔓延しつつある感動だと、またその裏をかくこと必定であるということである。

(注.中原の原稿では「愉快な」となっていたという。[『東京ミキサー計画』])


  同封された別刷の招待状にはつぎのように書かれていた。


 謹啓  益々御清祥の事とお喜び申しあげます。この度私共は中原佑介氏のご配慮により「ミキサー計画」をお目にかける事になりました。つきましては、ささやかながら御披露かたがた粗餐(「提供サントリービール」)を差上げたいと存じますので御多忙中とは存じますが是非御出席くださいますよう下記の通り御案内申しあげます。   敬具

                                      Hi-Red Center

                        高松次郎

            赤瀬川原平

            中西夏之


 そのほかにも、トレード・マーク〈!〉がはいった 「ハイレッド・センター Hi-red Center  高松次郎 赤瀬川原平 中西夏之」の名刺がくばられ、「HI-RED CENTER ミキサー計画」のポスターも、完成はしなかったけれど準備された。

(注. 以上の案内状やポスター、名刺は、赤瀬川原平『東京ミキサー計画 ─ ハイレッド・センター 直接行動の記録』に掲載されている.)


 ハイレッド・センター がはじめて使用されたのはこの名刺と別刷り招待状である。そして、ミキサー計画がはじめて掲げられたのが、この展覧会である。

 一読するとなんのへんてつもない案内状である。グループ名のハイレッド・センターにしても、いまとなってはそれが、案内状や名刺にさりげなく列挙されている松次郎、瀬川原平、西夏之の先頭文字、(hight)、(red)、(center)から組みあわせたものであるのは、誰もがわかる、たいした「はぐらかし」ではない。

 しかし、そうしたナゾ解きとは無関係にみれば、とうじのハイ レッド センターとは、なんとなく不穏な時代のコトバであった。1950~60年代の「レッド」は、敗戦後の世界情勢のなかで、朝鮮戦争勃発にさいし、アメリカ・連合国占領軍と日本政府の命令によって、共産主義に同調する公務員や報道人が解雇されたレッド・パージや、合衆国でおこった共産主義者排斥運動、マッカーシー旋風の「アカ狩り」を、なまなましく連想させるコトバである。あの「風流夢譚─中央公論事件」でも、右翼団体が中央公論恫喝の旗印にかかげたのは、赤色革命から国民を守るためということだった。あきらかにそうした時代風潮を念頭におくネーミングである。

 しかもここにあるのは、ふつうの「アカ」ではない。高度のアカセンター極端なアカ中央機関である。ネオダダ・オルガナイザーとか「ゼロ次元」、「時間派」というようなみずから命名した芸術グループ名としては、意味ありげな英字名である。また、「ミキサー」は、そのころ流行最先端の料理器具であるとともに、攪拌攪乱惑乱を意味するコトバである。「計画」についても、社会主義国が好んで掲げた「・・・5カ年計画」にはじまり、西ドイツ(当時)の「第一次経済・社会発展計画」や、日本でも、「国民所得倍増計画」(1960年12月17日)のようにつかわれた経済・政治用語であった。アートの展覧会には、なじまない表現である。

 招待状が案内した会場では、高松の多種類の紐作品、赤瀬川の拡大千円札と印刷千円札、梱包作品が多数、そして、中西の複数の洗濯バサミ作品とコンパクト・オブジェがならび、中西作品には、洗濯バサミ製作機械が併置されていた。そこでは、鑑賞者はみずから洗濯バサミを製造するよう奨励されていた。そして、クリップを一個製作すると、生卵が作品コンパクトオブジェのうえに落下して割れる仕掛になっていた。鑑賞者は自分で製作したクリップをもって梯子を登り、キャンバスに装着せよというものである。さらにまた、招待状に記されていた、サントリービール提供の粗餐も、ジョッキは壁面に短い鎖でつながれ、まんぞくに飲める代物ではなかった。(図版1)


図版1: 「第5次ミキサー計画」中西、赤瀬川出品作品



 会場光景については、20年後に赤瀬川原平が書いた、ハイレッド・センターの回想記『東京ミキサー計画 ━ ハイレッド・センター 直接行動の記録』につぎのように描かれている。


・・・・・・で夕方になるとお客さんがぞくぞく集まって来ます。時間までは中に入れないので、みんな早く芸術の恩恵に服したいと思ってワクワクと待機しています。で私たち主催者三人は、そのお客さんたちを悠然と見渡しているのです。やはりテープを切るのは有名な人で、しかも偉人でないといけません。そう思って見渡していると、いたのです。偉人がいました。岡本太郎氏。そこにいた人々の中では、やはりこの方が一番ふさわしい。なんといったって顔がピカピカ輝いています。もう爆発寸前です。で金のハサミをお渡しして、テープをチョキン。正しいオープニングの一瞬です。

 写真⑧を見ましょう。まんまと「第五次ミキサー計画」のオープニングをした詐欺師たちです。左から中西、高松、赤瀬川。あ、中西がネクタイをさぼっておりますが、しかしみんな胸には立派な菊の花のリボンを付けて、どうにも不快な陰謀家どもであります。

 さあ写真⑨はいよいよオープニングのふるまい酒です。芸術に寄与されたサントリービール。しかしこれにもじつは問題があるのです。オープニングで酒を飲むことはいいのですが、どうもこのいまどきの展覧会のオープニングというのは、すぐ作品の前で酒を飲んで、釣りの話とか、ゴルフの話とかはじめてしまう。そういうことは作品に対して失礼である。酒は酒、作品は作品としてケジメをつけてほしい。男のケジメ。いや女も。

 そういうわけで、主催者としては会場の一隅に酒を飲むコーナーを特別に設けまして、そこにビールのジョッキを三十個ばかり、鎖につないで、その鎖を全部ガッチリと壁に留めました。酒を飲みながら作品の前でダラダラと釣りの話などしないように、酒は酒として、壁に向かって純粋に酒だけ飲むように、そういう主催者としての態度をキゼンとして示したのです。写真は右から栗田勇氏、吉仲太造氏、一人おいて東野芳明氏(目だけ)、飯島耕一氏(後姿)、二人ぐらいおいて岡本太郎氏、同秘書嬢、田辺三太郎氏(額と頬だけ)、吉野辰海氏。


 赤瀬川のこの回想録は、’60年代日本のアヴァンギャルドや「ハイレッド・センター」をかたるうえで重要であり、だれもが引用する資料であるが、ここで問題点を指摘しておかねばならない。資料についてだけでなく、そのごの’80年代日本の、実践的アヴァンギャルドだったサブカルチャー文化に密接するからである。

 初出は、雑誌『写真時代』(白夜書房)の創刊号(1981年9月)から1982年9月号まで、連載写真記事「発掘写真」として掲載したものである。それを『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録』と整理して、1984年にPARCO出版から刊行している。それが、現在でも入手可能な「ちくま文庫」に1992年に収録されているものである。

 したがって、当事者たる赤瀬川の報告ではあるが、20年後の回想であり、しかも、執筆直前の1981年1月に、かれは小説『父が消えた』によって芥川賞作家となっている。だから、思い違いも多々あるし、また、正確なルポルタージュというより、ひとつの意図をもったかれの芸術作品の性格がつよい作品である。

 初出誌『写真時代』(1981.9~1988.4)は、そののち発禁警告をいく度もうけたような、当初は隔月刊行のサブカルチャー写真雑誌であった。編集長は末井昭で、編集者には、美学校で赤瀬川の授業に出席していた渡邊和博などがいた。かれらは、赤瀬川の記事にスエ、ナベゾとしてよく登場する人物である。

 しかし、その創刊号から、荒木経惟の「激写 少女フレンド 初潮少女」や「景色」、森山大道の「光と影」のシリーズや、「失われた時を求めて・インタビュー長谷川明」が連載されているように、写真誌ではあったが、それにとどまることなく、漫画雑誌『ガロ』の「目安箱」を担当した社会時評評論家の上野昂志なども連載執筆している’80年代の意欲的雑誌であった。

 そして、創刊号の部数は14万部であったが、1983年1月には20万弱となり、1984年7月に30万部弱で月刊に移行している。だが、その過激な内容(とうじの過激とは、政治的ではなくワイセツとよばれる領域に移行していた.)と、時代の管理体制強化によって追いつめられ、1988年11月に雑誌名を『写真世界』に変更したが、翌年8月についに廃刊となっている。

 赤瀬川は『写真時代』創刊から『写真世界』終刊まで、継続してなんらかの掲載をしている。出版・編集方針への賛意であり、意図的執筆だったのだろう。

 というのは、『美術手帖』などの美術雑誌、『現代詩手帖』、『海』などの文芸誌、『中央公論』、『現代の眼』などの思想雑誌ではなく、ポルノ系の発禁雑誌に発表誌を移行したのは、インテリ読者から庶民読者に対象をうつしたということである。そして、アヴァンギャルド芸術、それはかれの考える芸術と言いかえてもよいが、そうした新しい芸術が庶民のなかに浸透することを願ったのではなかろうか。

 創刊号から、荒木経惟や森山大道の作品と併録されて連載された「発掘写真」シリーズは、第1回「発掘写真①」のサブタイトルが、「それでも芸術はある!」であり、「山手線フェスティバル」や「第15回読売アンデパンダン展」の各種写真掲載とその説明文が掲載されていた。そして、その前半部が、『東京ミキサー計画』の第1章「山手線の卵[通称山手線事件]」となっている。だから、写真説明の性格上、本論のさきの引用文でも、○数字がおおく使用されることになるのだ。さらに、「発掘写真②」 は、ハイレッド・センターの「銀座のゾウキン(首都圏清掃整理促進計画)」であり、「発掘写真③」は「新橋の洗濯バサミ(ミキサー計画)」となっている。しかし、「発掘写真⑧」(1982.11)の「阿佐ケ谷のホロコースト」は、第14回読売アンデパンダン展出品作品、「患者の予言」の解体写真であり、「発掘写真⑨」(1983.1)の「町の超芸術を探せ」や「発掘写真⑩」の「超芸術の巻━その二」(1983.3)は、「トマソン芸術」に関連するものである。ようするに、赤瀬川の視点からされているかれの反芸術的芸術論、「それでも芸術はある!」であり、また、表現媒体としても、写真と文章を一体化させ、既存の写真と文章表現を一歩踏みこえた新規の形態をこころみている。

 赤瀬川の意図を確認するために、『写真時代』3号誌に掲載された「発掘写真③」の冒頭を引用してみよう。「第6次ミキサー計画」に関するものの導入部である。

 

 じつをいうと、セルフ出版というか、いやこの、白夜書房というんですか、そこのスウェイというような名前の人からこういう写真雑誌が出るといわれたときに、あ、それはいいな、と思いました。すぐ潰れそうな気がしたからです

 で、そこに何か写真を載せろといわれて、あ、これは芸術だな、と思いました。そういうすぐ潰れるような雑誌に載せるのは芸術の写真がいいな、と思ったのです。芸術の写真というものはいつもそういう潰れそうな雑誌に載るものだからです。いや違うかな? 芸術の写真を載せたりするから雑誌が潰れるのかな?/

 まあくわしいことはわかりませんが、それで創刊号には芸術のような写真を出したのです。私はむかしハイレッド・センターをしていたのですが、その写真というのはそれよりも前のものです。本当は中西夏之さんや高松次郎さんの写真なのです。私はその写真を解説しながら芸術を追求しました。(注.「発掘写真①」は、赤瀬川が参加していない「山手線フェスティバル」をあつかうものであった)

 で、潰れたなと思っていたら、今度はスウェイという人の部下の目黒君という人が来ました。第二号にまた写真を、というのです。あれ? と思いました。

 「まだ出るの?」

 とはいわなかったけど、私がそういう表情をしたせいか、目黒君はなんとなく恥ずかしそうな顔をしています。

 でも考えてみたら創刊号というのはどんなのだって売れるのが常識だそうです。常識というのはなかなか崩れないものです。じゃあそうするとつぎの二号で終りなんだな、と思いました。で二号ではハイレッド・センターの最後の写真を出しました。終りだから。

 ハイレッド・センターというのは1960年代のはじめですか、東京の町でいろんなこをやりました。芸術じゃない、芸術じゃないと嘘をつきながら芸術をしました。そうしないとすぐ芸術だということがバレるからです。画廊を釘で閉じてしまったり、アメリカの通信衛星を盗んだり、ビルの上から物を落っことしたり、で最後は掃除をして終わったのです。二号のことで目黒君が来たときには、その掃除の写真を渡しました。終りだから。

 で潰れたな、と思っていたら、また目黒君が来たのです。今度は三号なのでよろしくなんていう。まだ潰れていないのです。最近の世の中はいったいどうなっているのでしょうか。芸術ぐらいでは雑誌は潰れなくなっているのでしょうか。芸術も落ちたものだ。

 いえ、これは冗談です。とにかく今度は三号でつぎは四号でつぎは五号だというわけで、それじゃハイレッド・センターの最初のところからまた写真を発掘していこう、ということにしたわけです。それも、芸術じゃない、芸術じゃないといって嘘のつける写真、一般の視線にも耐えられる写真が中心です。(「新橋の洗濯バサミ━発掘写真③」[『写真時代』1982年1月号])


 一読すると、オモシロオカシク書いた前置のようにきこえるが、注目すべきかれの思想がちりばめて、のべられている。ただし、どこまでそれを意識してかれが書いたのか、わからない。自動筆記を読むように、それとも、とりとめない会話から判断するように、解釈してみよう。

  冒頭の二行半、


 じつをいうと、セルフ出版というか、いやこの、白夜書房というんですか、そこのスウェイというような名前の人からこういう写真雑誌が出るといわれたときに、あ、それはいいな、と思いました。すぐ潰れそうな気がしたからです


 からはすでに、つぎのようなことがつたわってくる。「それはいいな」とおもったのは、論理的には、「すぐ潰れそうな気がしたから」であるが、その理由はつぎへの誘いであって、まず出版形態への賛意がある。「セルフ出版」とは、わかりにくいことばだが、「セルフ・サービス」や「セルフ・ケアー」のような使い方があるから、小規模出版社であるとともに、じぶんもかかわりがある自主出版的企画ということであろう。(すくなくとも、なみの新進芥川賞作家なら、掲載しないような雑誌である.)

 そして、また、「それはいいな」のもうひとつのいわれは、写真雑誌という媒体形態への同意がある。不特定多数の受容者との交流媒体の雑誌と、写真という表現媒体への賛意である。

 芸術の表現媒体としての写真と雑誌である。ここまでくると、これはまさにかれの芸術主張となる。なぜなら、この主張の対蹠点におかれているのは、キャンバス絵画や美術彫刻の表現媒体と美術館という交流媒体があるからである。キャンパス絵画や彫刻の写真は二次的芸術表現である。ましてや、雑誌掲載の写真など芸術の埒外である。そのような「芸術の写真を載せる雑誌は潰れる」、つまり、なんの芸術的魅力もなく、買ってもらえないのである。言い換えれば、大衆と遊離した芸術である。

 それにたいして、芸術のあたらしい表現媒体としての「写真雑誌」、「あ、それはいいな」ということになる。それが、「/」をいれるまでの前書きの言おうとすることであろう。

 そして、それにもとずいて、「私は(芸術のような)写真を解説しながら、芸術を追求しました」となる。「芸術の写真」ではなく、「芸術のような写真」に注意しておかねばならない。つまり、写真と雑誌を表現媒体とする「芸術」を、「発掘写真①&②」で示してきたというのである。

 そして、ここであらためて、ハイレッド・センターの活動を素材として芸術を語ろうというのである。ハイレッド・センターは、それにふさわしい芸術であり素材だったからである。

 いか赤瀬川がのべる、ハイレッド・センターの活動の歴史的要約は、じつに的確だった。

 

(ハイレッド・センターというのは1960年代のはじめですか、東京の町でいろんなこをやりました。芸術じゃない、芸術じゃないと嘘をつきながら芸術をしました。そうしないとすぐ芸術だということがバレるからです。画廊を釘で閉じてしまったり、アメリカの通信衛星を盗んだり、ビルの上から物を落っことしたり、で最後は掃除をして終わったのです。)


 ハイレッド・センターの歴史的内容は、1960年代はじめの東京の町の芸術だった。’60年代はじめの東京の町によってつくられた芸術であり、’60年代東京の町を対象とした、’60年代東京の町にむけられた芸術だった。

 そして、語られているやったことは、ムチャクチャなようにみえるが、すべてハイレッド・センターの名のもとでおこなわれた芸術行為であって、「宇宙の缶詰(大パノラマ展)」であり、「特報!通信衛星は何者に使われているか!」であり、「ドロッピング・イベント」や「首都圏清掃整理促進運動」である。ここに書かれているのはすべて、のちの『東京ミキサー計画 ─ ハイレッド・センター直接行動の記録』のタイトル説明となり、その目次を書きかえたようなものである。それは、「芸術じゃない、芸術じゃないと嘘をつきながらする芸術」、すなわち、「反芸術」芸術だったことになる。

 そして、ハイレッド・センターの要約「芸術じゃない、芸術じゃないと嘘をつきながらした芸術」を、これから、「芸術じゃない、芸術じゃないといって嘘のつける写真、一般の視線に耐えられる写真」 解説によって「芸術を追求」するというのがかれの主張である。さきの理屈からいえば、写真は「反芸術」芸術媒体であって、万人の視線に耐えられる芸術の媒体たりうるという主張にもなる。

 このことは、かれの思いつきのレトリックではない。この芸術表現媒体への関心は、のちに「超芸術トマソン」で開花する赤瀬川芸術だったのだが、その「トマソン芸術」のはじまりは、ハイレッド・センターにつづいて、1983年3月から同誌掲載の「発掘写真⑨」「町の超芸術を探せ」であり、それは、「発掘写真⑩」の「超芸術の巻━その二」以下、雑誌『写真時代』の読者をまきこんで展開されることになった。「トマソン写真」投稿の読者参加への呼びかけである。

 写真をたんなる写真芸術ではなく、(写真とコトバを不可分の媒体とする)インターメディア芸術に組みこみ、そこに、大衆雑誌という、万人の芸術(インターラクティブ・アート)のひとつの現実的手がかりをえようとしたのは、ことに写真に注目する原型は、のちにのべるようにハイレッド・センターにあるのだが、それをこのように意図的に主張したのは赤瀬川であった。

(注.ここでいうインターメディアとは、「視覚詩」をさらに拡大して、文学と造形芸術のジャンルの境界を取り払った、造形芸術であり、文学でもあるという意味で使っている.「インターラクティブ」も従来の意味を拡大した英語の原義にちかい意味である.)

 というようなことからも、かれの『東京ミキサー計画 ─ ハイレッド・センター直接行動の記録』は、赤瀬川の「ハイレッド・センター」という「作品」であって、ハイレッド・センター自体の一次資料として扱うには、周到な注意をはらわねばならない。

 とはいえ、引用した本文にある写真説明として記されている光景は、映像によって保証された事実であり、出席者の顔ぶれは貴重な資料である。岡本太郎をはじめとうじのアヴァンギャルディストといえる、詩人の飯島耕一や作家・評論家の栗田勇たちも、この招待状にさそわれて出席していたのである。それにまた、さきの「発掘写真③」の「画廊を釘で閉じた」イベントである大パノラマ展には、来日していたジャスパー・ジョーンズやサム・フランシスが、オープニングの日の閉鎖セレモニーに立ち会っていたのが、同書に掲載された写真からわかる。

 これらは、’60年代日本のアヴァンギャルドのひとつの情景であるとともに、ハイレッド・センターの「反芸術」芸術と世界アヴァンギャルドの関連を考えるうえで、貴重な映像を提供するだろう。


 このようなハイレッド・センターの創設イベントや案内状である 「(第5次)ミキサー計画」の会場光景をかたるところで、すこし話が横道にそれたが、赤瀬川の「ハイレッド・センター」から、本来のハイレッド・センターの創設行動の筋道にもどろう。

 こうしたハイレッド・センター創設イベントや案内状は、戦後日本のアヴァンギャルであった「具体美術」や「九州派」、そして、あの「ネオダダイズム・オルガナイザー」で公示された創設宣言や展覧会とは様相がことなるものであった。

 比較するために、それらの創設宣言をあげてみよう。

 年代順にならべればつぎのようになる。

 まず、『具体』創刊号(1955.1)に掲載された、吉原治郎が書いた「具体美術宣言」はこのような美術論的宣言であった。


・・・具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるのだ。具体美術は物質を偽らない。/具体美術に於いては人間精神と物質が対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質そのままでその特性を露呈したとき物語をはじめ、絶叫さえする。(「/」は改行)


 ここでいう「物質」とは絵具であろう。「色彩絵具色彩絵具そのままでその特性を露呈したとき物語をはじめ、絶叫さえする」とは、原色ペイントをそのままぶつけるアクション・ペインティング的「具体」絵画のことだろう。アンフォルメルの理論家、タピエの来日はまだ翌年のことだから、先駆的美術論であり、また、新しい芸術創造を確信的にかたっているのが特徴である。

 また、’60年代のその後に、活発な芸術活動を全国的に展開した九州派アンデパンダンの趣意書は、「九州派アンデパンダン展」パンフレット(1958.8)につぎのように記されていた。


 私たちは昨年福岡において九州派を結成、前衛グループとして活躍してきましたが、私たちが前衛として起ちあがってまず何よりも身に感じたことは、九州に全く前衛美術の伝統がないということでした。 ・・・・・・ その実験から前衛的仕事に関しては、地方が東京に遅れをとるものではない。地方作家が大きな展覧会を中心にして集まり、協力して東京に当たれば必ず東京を圧倒できるという自信を深めました。・・・・・(下線は筆者)


 「アヴァンギャルド」芸術の趣意書としては、いささか奇異なものだが、それなりにすなおに本心をのべたものだろう。ここでいわれる「前衛」は「伝統をもつ前衛」だから、抜本的に新しい芸術ということであって、打倒すべき相手は、既成芸術に焦点があわされているのではなく、東京のアヴァンギャルドであるように読める。「東京」という文化権力への挑戦であるが、さりとて、東京のアヴァンギャルドが「前衛」の資格を欠くというのでもないらしい。むしろ、地方が、東京の新しい芸術を追いこす芸術をつくってみせるという宣言である。

 そして、さらにまた、このハイレッド・センター「ミキサー計画」の当事者のひとりである、赤瀬川も参加し、かれじしんが「ネオダダイズム・オルガナイザー」第1回展で朗読したあのマニフェストはどうだったろうか

(注.その詳細は「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』4節’60年代日本の『反芸術』その2 ①東野芳明の『反芸術』とそれをめぐって」[『百万遍』6号]を参照)


 マニフェストは、東野の「ガラクタの反芸術」が日本のアヴァンギャルド界に波風をたてた直後の、1960年4月に書かれたもので、さきのふたつの先達の宣言とは、様相を異にするものである。


 1960年の生殖をいかに夢想しようとも一発のアトムが気軽に解決してくれるように、ピカソの闘牛もすでにひき殺された野良猫の血しぶきほども我々の心を動かせない。真摯な芸術作品をふみつぶしていく20.6世紀の真赤にのぼせあがった地球に登場して、我々が虐殺を免れる唯一の手段は虐殺者に廻ることだ。(下線は筆者)


 マニフェストするかれらが、どこまでその意味を意識していたのかわからない、ことばの羅列である。「1960年の生殖をいかに夢想しようとも一発のアトムが気軽に解決してくれるように、ピカソの闘牛もすでにひき殺された野良猫の血しぶきほども我々の心を動かせない」断定も、わかったようでわからない、わからないようでわかる表現である。しいて宣言としてうけとれば、かれらの意識の奥底にねむるセックス用語がまきちらされているが、「生殖」は「懐胎」であり、射精をイメージさせる「一発のアトム」は、アメリカが投じて広島を壊滅しそれまでの戦闘行為を無意味にさせた一発の原子爆弾のように、ニューヨークをはじめとする戦後芸術は、戦前アヴァンギャルドのピカソ、マチスを一挙に色あせたものにした。しからば、1960年のわれわれはいかにすべきか・・・・・と、こじつければ聞こえなくもない。

 しかし、むしろここでは、そのような意味より、このようにことばをほとばしらせる情念の激情をマニフェストしているようにみえる。「20.6世紀の真赤にのぼせあがった地球に登場して」とか、「虐殺を免れる唯一の手段は虐殺者に廻ること」とか、じぶんたちのこの情熱をみてくれといわんばかりである。これほどの激情によって自分たちはことにあたっているのだという、その熱意の表現である。このマニフェストとほぼ同時期にミラノでだされたレスタニーのあの「宣言」にあった、「ダダより40度も熱いヌーヴォー・レアリスム」をおもいださねばなるまい。レスタニー風にいえば、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーのわれわれは、「ダダより60度も熱い風呂に入っているのだ」になるのかもしれない。

(注.「第2章、2節 ‘60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合))[『百万遍』4号掲載)


 だが、この過剰へむかう激情は、レスタニーのように理論ではなく芸術行為の「場」、このマニフェスト朗読もその一部であった創設展のを説明する篠原有司男の情景描写にあらわれていたものである。再引用すれば、つぎのようなものであった

(注.その説明は『百万遍』6号掲載の「第2章4節 ①東野芳明の『反芸術』とそれをめぐって」を参照)


 アンパンの余勢をかって、一ヶ月とたたない四月四日、銀座画廊に開花した毒茸、グループ「ネオダダイズム・オルガナイザー」第一回展は、各自アンパンに金をつかいはたしたのが、かえって幸いし、反芸術にふさわしく、まともに作品の形をしたのは一点もなかった。

 「ギャオー」

 狂人じみた石橋(別人)の悲鳴が会場に響く。[・・・略・・・] 水を張ったバケツに顔を突込んでボコボコやっていた風倉(匠)が急に、

 「戦争だ戦争だ、第三次世界大戦だ!」

 とわめきだした。それにつれて打楽器がいっせいにはげしく鳴る。その中で赤瀬川(原平)が冷静にマニフェストの一部を読み上げる

 ビールびんが割られ、椅子がけ倒される。吉村(益信)が唐手で、もぎ取られた椅子の脚を一発でたたき折る。

 「バキ!」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「くせえ、おかしいぞ。」「しまったもう腐りやがる。」

 上田純が昨夜仕込んだ、とうふの上にもやしをのせプラスチックの箱に入れた作品がたまらない臭気を発しはじめた。ビニールに水を入れた荒川(修作)、三十個の割ったコップが壁から突出している赤瀬川の作品、三百個のゴム風船で構成した「ごきげんな四次元」と題するぼく(篠原)、朝の甲州街道で八分間、ケント紙を車にひかせたタイヤの跡だけの石橋、ちょうどそこへ日本衛生学校出身の三木富雄がバリカンを持って現れ、騒いでいる石橋のボサボサの汚い頭をきれいに坊主にしてしまった。(下線は筆者)(篠原有司男『前衛の道』[1968年])

  

 篠原のえがく創設展の情景は、あきらかにマニフェストの、内容より激情の表現である。マニフェストは、この激情の場のひとつの色彩(いろどり)にすぎない。このマニフェストはこの創設展のために、みんなで仕上げたものであって、この会場風景がもっともふさわしいものであった。篠原のいう「反芸術」は、激情の表現であるかのようにみえる。

 そして、そのことは、ネオダダイズム・オルガナイザーだけでなく、戦後アヴァンギャルド芸術・文学の特性であった。はやい時期では、’40年代後半のポロックのアクション・ペインティングがそうともいえるし、文学では、J.オズボーンの戯曲『怒りをこめてふり返れ』が大当たりし、それをきっかけに「怒れる若者たち」とよばれる一群の作家が出現したのも1956年である。過激なロックンロールを売りものにするプレスリーや、20.6世紀のこのときギターをかかえて登場し、絶叫したビートルズが前代未聞の人気となったのも、音楽における戦前にはなかったこのスタイルによるものであった。

 そうした戦後のアヴァンギャルの画家たちがみせる激情とその由来について、戦後のシュルレアリスム系の芸術評論家アラン・ジュフロワは、はやくも1956年につぎのように指摘している。


 ・・・・・・・・ ちょうどロマン主義の時代に、メランコリーがひとつの価値であったように、彼らにあっては激情(rage)がひとつの価値となる。激情を表明すること、それは自分が生きていると感じることであり、われわれと絶対とを分っている壁を打破ることである。また事物の生々しい核心のなかに入ることであり、真実をあばくことである。そうした激情の象徴は、痰、へど、腐敗物、引き裂いたもの、血まみれになったもの、恐ろしいものなどだ。怒りがあらわになればなるほど、絵はよりよいものになる。というのも、問題になるのは雄々しさ(viril)であり、雄々しくあること(d’être viril)をみせることだからだ。(「パリの若い絵画の状況」(1956年).[西永良成訳]『視覚の革命』に収録)

(注.マチュー (Georges Mathieu)やベルティニー (Gianni Bertini)、ヴィズー (Claude Viseux)、クロード・ジョルジュ (Claude Georges)などとうじのアヴァンギャルドの画家を指している. 原語を示したのは、読者の検索の便のためである.)


  これはまさに、ネオダダイズム・オルガナイザーの創設展や、『百万遍』6号で紹介した鎌倉材木海岸のビーチ・ショーや銀座ガス・ホールのビザールの会で吉村や篠原が演じた狂乱のパフォーマンスを理論的に説明しているようだ。

 しかし、ネオダダイズム・オルガナイザーのこのマニフェストがあらわすものが、はたして、それだけだったかは別問題である。「一発のアトム」が気軽に解決してくれるとか、「血しぶき」とか「虐殺者」であるとか、「激情」の単語はたしかにあふれている。だが、「血しぶき」は、おのれの血潮ではなく野良猫の血であり、しかも、「・・・・・血しぶきほども我々の心を動かせない」のいささか興醒めの形容語である。そしてなによりも「虐殺者」となるのは、極限の怒りをあらわにする激情の象徴ではなく、「我々が虐殺を免れる唯一の手段」という、やむをえない役割交代である。「激情を表明すること、それは自分が生きていると感じる」こととは、縁遠い激情である。

 篠原の会場情景でも、期せずしてマニフェストは 「赤瀬川が冷静に読みあげた」ことになっている。血気さかんに叫んだのではない。「雄々しさをみせる」とは正反対の朗読である。「冷静」とは、熱血の反対語である。用語的にいって〈viril(雄々しい)〉は「男性的」であり、「男性が(正常な)性欲をもつ」ことである。「冷静」の熱さの対極にあるし、激情の対立概念である。フランス語では、〈sang froid〉とか「女性的(efféminé)[é+femina[femme]」で説明されることばである。

 ネオダダイズム・オルガナイザーはかならずしも、「絵は怒りがあらわになればなるほど、雄々しさをみせればみせるほど」よいとしているだけではなさそうだ。

 「1960年の生殖をいかに夢想しようとも」といい、「真摯な芸術作品をふみつぶしていく20.6世紀の ・・・・ 地球に登場して」というのは、意外にもおなじ悲嘆、その時、今のかれらの苦境の現状認識が混入しているのではなかろうか。1960年のわれわれはいかにすべきかの、焦燥の怒りにくるまれた、「真摯な芸術作品」を幻の対極にすえた苦境である。真摯な芸術作品への憧憬がある。

 その憧憬は、篠原については、第11回読売アンデパンダン展(1959年)に出品した作品のタイトルが、「こうなったらやけくそだ」に逆説的にあらわれていた。そして、第12回展の東野の「ガラクタの反芸術」では、その一例として、「何百本というぼろ竹を威勢よく折り曲げてその間に便器やサンダルや罐(かん)や風船がぶちこんである『カミナリ彫刻』」があげられ、いかなるときも詩人であり芸術家であった瀧口修造から、「お世辞にも芸術的とはいえない代物」だが、「アンデパンダンはこれを避けて通ることはできない」と共感された注 のだった。アンデパンダンの苦悶する作品である。 

(注.第2章4節 芸術評論家の『反芸術』[『百万遍』第5号]) 


 そのような見方からすると、「ネオダダイズム・オルガナイザー」のマニフェストを書いたのは、「具体美術宣言」を記した吉原治郎や、九州派の桜井孝身やオチ・オサム、菊畑茂久馬のような既成の正統芸術に本来的に反感をもつアマチア芸術家ではなく、吉原益信や篠原有司男、荒川修作、赤瀬川原平のように、いちどは歴(れっき)とした芸術大学をこころざし、首尾よく入学し、卒業や中退したものたちだった。不本意で不当な処遇とはいえ、プロの候補生であった者たちである。したがって、ここに記されている、「真摯な芸術作品」とか、「我々が虐殺を免れる」とかの表現は、正統芸術をいちどは視野にいれた者の、きわめて現実性ある切実な視点からのべられたものである。

 そして、「生殖をいかに夢想しようとも一発のアトムが気軽に解決してくれる」とは、自分の芸術作品を「懐胎」しようといかに「夢想」しようとしても、あこがれのピカソは、アメリカからふってくる「芸術」で、すでになんの芸術的ショックをあたえないものとなっている。どんなに真剣に考えた芸術作品もすぐ色あせるこの’60年代では、我々が芸術家として生きていくためには、アメリカのアトムであろうとなんであろうと、他の芸術を否定していくいがい方法はない、というようにも読める。注目すべきは、「我々が虐殺を免れる」ことである。「芸術家」として生きていくことである。

 じじつ、この数年後のかれらは、こうした激情の爆発を亢進させることなく、あるいは、まるでそんなことはなかったように、吉村、荒川、三木、そして、篠原当人もふくめたものたちは、それぞれ独自の自分なりのなんらかの造形「作品」を制作しつづけ、「芸術家」として生きたのである。

 このようにみると、ネオダダイズム・オルガナイザーの「マニフェスト」は、芸術論ではなく、ある種の芸術宣言である。そして、自分たちが生きていることをみせる激情の表明ではなく、作品主義ということでは、やはり芸術論になる。

 新芸術という作品主義の芸術論を正面から掲げたのは、「具体美術宣言」がまずそうであり、「九州派」もまた、創設展の趣意書から見るかぎりにおいては、やはり「作品」の方向から芸術を問題にしているにはかわりない。新しい芸術作品創造の自負と読みかえ可能な宣言であり趣意書であった。

 そうしたところから言うなら、このような「読売アンデパンダン」展から出発したのではあったが、ハイレッド・センターは、その「創設展」のあらわれかた、すくなくともその案内状の形式やパーティー招待状からみられるところでは、いささか異種のアンデパンダンであたようにみえる。真っこうからアヴァンギャルドを主張するのを忌避し、また、激情の沸騰などその気配さえない。

 作品主義については、新宿第一画廊で開催した「ミキサー計画」展では、展示方法は異なるとはいえ、基本的には、「第15回読売アンデパンダン」作品展に出品した『洗濯バサミは攪拌行動を主張する』、梱包オブジェと「千円札」、紐オブジェの作品群がその主体であった。

 しかし、ハイレッド・センター創設のデモンストレーションはそれだけではなかった。かれらは、2週間後の新橋で、宮田内科廃院跡室を拠点に二日間の「第6次ミキサー計画」をひらいている。

 これら、「(第5次)ミキサー計画」(5月7~12日)と「第6次ミキサー計画」(5月28~29日)は、無作為の作為ある創設デビューとして、セットで考えるべきものであろう。

 第6次ミキサー計画 は二部にわかれ、第一部が1963年5月28日、第二部の「物品贈呈式」が翌日29日におこなわれた。 

 第一部は、紐、タイヤ、洗濯バサミ、コンパクトオブジェ、梱包、ゴム風船をもちいたパフォーマンスであった。新橋駅に近いビルにある宮田内科廃院の会場では、ゴム風船をとばし、高松は紐を全身にまきつけ、中西は洗濯バサミを頭部をはじめ全身に装着し、赤瀬川は梱包を積みあげ、さまざまな写真撮影をおこなった。そのなかには、そろって安眠マスクで目隠しをした三人が、高松、赤瀬川、中西の順番で壁面を背に整列したポートレート写真もあった。この写真は、ハイレッド・センター合法部員公式ポートレートと名づけられ、1963年10月刊行の『美術手帖』で公開した「あなた(美術手帖臨時増刊号この頁の読者である)への通牒」に掲載された。だが、このパフォーマンスも撮影も観客不在のなかでおこなわれた。写真撮影のための行為ともいえるが、その大半の写真は、赤瀬川が20年後に「発掘写真」や『東京ミキサー計画』で発表するまで未公開である。じぶんたちのためだけの撮影といえる、通念からいえばきみょうな行為であった。ついで、写真撮影をおえたかれら三人は、部屋の窓や通用口から、作品を屋外に排出し、自分たちも路上に進出した。ことに洗濯バサミを、頭髪から顔面、上半身に群がらせた中西は、ひとりではまんぞくに歩行できず赤瀬川に手をひかれて歩く始末であった。高松は介助しながらも、みずからは安眠マスクをつけて車のタイヤを転がしながら路上を徘徊した。彼らは、やがては、新橋駅構内にはいり、プラットフォームへのぼった。それらの観客は、新橋駅広場、路上、駅改札、プラットホームにあつまった人々や通行人である。界隈地回りのヤクザが介入するハプニングもあった。これら行為はすべて写真撮影をしながらである。

(注.撮影はたがいにおこなったのか、外部の撮影者がいたのかわからない.かれらの行為については、『東京ミキサー計画』と「発掘写真」の写真と記述によるものである.)


 そして、二日目の第二部は「物品贈呈式」と称するのもので、紐と梱包と洗濯バサミを、今泉省彦と川仁宏に贈呈するという式典であったが、当日はだれもあらわれなかった。

 したがって、それまでの芸術行動の範疇からいえば、新橋駅前広場で演じたパフォーマンスということである。これら一般生活圏への進出は、中西、高松、川仁らが、前年10月におこなった「山手線フェスティバル」とか「山手線事件」とよばれるハプニングの修正版のようにみえる。あるいは、赤瀬川が参加したネオダダイズム・オルガナイザーズ第1回展の銀座街頭宣伝行進(1960年)や、「犯罪者同盟」主催で高松、中西もオブザーバー参加した、早稲田大学大隅講堂演劇ショー(1962年)などと重複する行動パフォーマンスのようにみえる。

 だが、けっしてそうではない。ハイレッド・センターのかれらは、じぶんたちひとりひとりが、何をやったのか、なんのためにやったのか、たえず考え、意見を述べ、たがいに変化し、つぎの目標を定め、計画し行動した。

 だから、彼らの展覧会にせよ、ハプニングやイベントは、いずれもたいせつな意味をもつ案内状がだされる。(第5次)ミキサー計画の案内状につづいて、第6次ミキサー計画では、「ハイ・レッド通信 No. 3」(ママ)が発行された。つぎのようなものである。


声明

 我々は今ここに第6次ミキサー計画を公開することに決定いたしました。

第5次ミキサー計画の際(新宿 第一画廊に於ける資料展)その次に続く運動に最も過激な期待をよせられた自立学校運営委員今泉省彦、同川仁宏の二氏にもこたえ、下記の場所に於いて、次のような要領でおこなわれます。

それは、センターの研究によりそれ自体で、強い展開を内蔵していると確認された「紐」・「梱包」・「洗濯バサミ」を二氏に貸与することであります。貸与されたそれら3種の物体は最早我々から離れた以上、彼等が如何に扱おうとも関知しないのであって、又その物品はセンターが今迄のミキサー計画に於いて使用した方法と関係を持つか否かは、全く彼等にかかっているのであります。

                                                                                    場所  新橋駅前ステージ横

堤第2ビル3階 宮田内科

日時  5月29日(水)午後6時

ハイ・レッドセンター       


今泉省彦様

川仁  宏 様

 作品として扱われようが、証券として扱われようが、作家から離れてしまったからにはそのものの運命にまかせるべきだという意見をもとにして、我々の作品(行動を含むか?)を要望されたあなた方に、

          三・五kmの紐

          四五〇〇〇mlの梱包

          一五〇〇〇ヶの洗濯バサミ

            ただし完成品五〇ヶ、残りはお貸しする機械とアルミ材で製造して頂く。

   をお貸しいたします。

 あなた方が何の為に我々に期待し、何にそれら三種の物品を使用されるのかは最早我々には関係のない事なのでありますが、一本の万年筆には、製作者による使用法が内包されているにかかわらず、ある状況に於いては、鍵をこじあける事に使用されてもいたし方ありませんし、又一枚の銅版画を、ある状況に於いてトイレットペーパーとしても、そのものにとってはよろこばしいことかも知れません。

 しかし梱包作品を燃やして、躯を暖める為には五月の気温はあまりに高すぎます。

 勿論あなた方はそんな無理をしてまで、我々が提示した空間からそれ等の物品をひきずり出そうとはしますまい。我々はセンターがかつて使用し、ある状況を提出した「紐」「梱包」「洗濯バサミ」が、今度あなた方の作った状況の中でどんな風に泳いでいくか、遥か離れた処でみまもっておりましょう。(下線はすべて筆者)

   (『ハイレッド・センター 直接行動の軌跡』展図録 & 『東京ミキサー計画』からの引用)


 一般的な案内状として、まったく意味をもたぬ、また、矛盾した、独善的にきこえる声明である。そればかりか、「激情の時代」の過激なアヴァンギャルドのイベントとしても、力点が不明で、迫力を欠くものである。

 「元自立学校運営委員今泉省彦、同川仁宏の二氏」の名前が、まるで企画目標であるかのように、れいれいしく掲げられている。 記された文面にしても、「紐」「梱包」「洗濯バサミ」はあるていどの了解事項であるにしても、万年筆や銅版画がどうこうするというのは、冗長そのもの、おざなりともいえる表現である。3.5キロメートルの紐や4万5千ミリリットルの梱包、1万5千個の洗濯バサミの贈呈式とあわせ、これらすべては、ハイレッド・センターそのものが、かつてシュルレアリストらを「若様連のばか騒ぎ」と評した批評家(イリヤ・エレンブルグ)がいたが、それいじょうの意味不明の、だが、印刷物まで発行した「行為」であった。異常なまでの、「ひとりよがりの、ばか騒ぎ」の案内状であった。

 だが、この案内状に記されているのは、執筆者のかれらの直接的意図をこえて、’60年代日本の芸術アヴァンギャルドの問題点の核心手掛かりをしめすものであった。ハイレッド・センターの目的と展望のすべてが、この案内状にふくまれていたとしてもよい。すくなくとも、本論のハイレッド・センター論の目次となっている。

 彼らにとっても、これらはけっしてそのようなひとりよがりのばか騒ぎではなかった。「第5次ミキサー計画」は資料展(傍点)と明記され、ここではじめてさきの展覧会が第5次であったとつげられた「ミキサー計画」、そしてその6次にもそれなりの主張がある宣言である。

 それを整理しておこう。

 まず、声明や案内状を素直に読むと、日付などからいえば、「第6次ミキサー計画」といわれるものは、「今迄のミキサー計画に於いて使用した」素材の「物品贈呈式」であるらしい。

 声明によると、「我々は今ここに第6次ミキサー計画を公開することに決定いたしました」とあり、そして、それは、「下記の場所に於いて、(次のような要領でおこなわれます)」として、「場所  新橋駅前ステージ横/堤第2ビル3階 宮田内科/日時 5月29日(水)午後6時」(/は改行)とある。

 とすると、前日5月28日に宮田内科でおこなった写真撮影や新橋駅前広場のハプニングは、いったいなんだったのだろうか。

 また、その二週間前に新宿画廊でテープカットした展覧会が「第5次ミキサー計画」だったという。すでに紹介したように、その時だされたその案内状や招待状では、「『ミキサー計画』をお目にかける」とは記しているが、それが「第5次」とはどこにもしめされていない。

 そうした矛盾と混乱を読み解くキーは、「ハイ・レッド通信 No.3」に掲載された声明そのもにあるだろう。

 声明の書きだしは「我々は今ここに第6次ミキサー計画を公開することに決定いたしました」とあり、「第5次ミキサー計画の際(新宿 第一画廊に於ける資料展)その次に続く運動に最も過激な期待をよせられた元自立学校運営委員今泉省彦、同川仁宏の二氏にもこたえ、下記の場所に於いて、次のような要領でおこなわれます」とあった。

 この文面の背後にあるのは、かれらは、新宿第一画廊でおこなった「ミキサー計画」を継続のなかの芸術行為のひとつと決定したことにある。そして、継続のなかの芸術行為とすれば、それは過去に遡ることができ、今回公開する「ミキサー計画」は第6次になるのであろう。つまり、新宿第一画廊の「ミキサー計画」は、当初はハイレッド・センターの「ミキサー計画」であったのであって、「第5次ミキサー計画」になったのは、「第6次ミキサー計画」にあたってさかのぼったからである。それなら、ここにいたるまでの「ミキサー計画」はどこにあるのだろうか。

 どこにも語られてはいないが、かれらのなかでは、じぶんたちのだれかがおこなったイベントを、「ミキサー計画」であったと再確認する「第4次ミキサー計画」があり、さらにまた、第3、第2、第1と遡及できる、先行「ミキサー計画」を想定し決定したのであろう。

 赤瀬川原平は『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター 直接行動の記録』のなかで、そのことについて、「第一回目なのになぜ第五回目なのかというと、その理由は大変複雑なので省きますが、大体の意味としては、/(第一回目だから第一次なんて、そんなメメしいことやっていられないぜ)/というようなことだったと思います」(/は改行)と書いている。正直なところだろうが、これはあくまで20年後の赤瀬川の「ハイレッド・センター」の解釈であり、1984年のかれは、そこに意味をみいだしていなかったかとおもわれる。

 とうじのかれらが、それを「第16次」とも、「第18次」とも、「第130次」ともせず、「第6次」としたのは、それなりの意図があり、また大筋の合意があったとするのが、「ハイレッド・センター」の発言としてはふさわしい。

 それならば、第1次、第2次・・・第4次はどこにあるとしているのだろうか。

 いままでものべてきた「ハイレッド・センター」成立の経緯や、さきにもふれた、ふたつの座談会「直接行動論の兆」で語り合われたところや、すでにその内容を紹介した「第5次ミキサー計画」を「資料展」とすることからみると、時系列的にいって、「第1次ミキサー計画」を「敗戦記念晩餐会」(1962.8)とし、「第2次」を「山手線フェスティバル」(1962.10)とするのは、まず妥当であろう。そして、「第5次」の直前におかれる「第4次ミキサー計画」を、三人が各自デモンストレーションつきの作品を出展し、また、「ミニュチュア・レストラン」を経営した「第15回読売アンデパンダン」展であったとしても説明できるだろう。

 とすると、「第3次ミキサー計画」をどこにおいたかは問題である。それによって、発足時のかれらが、ハイレッド・センターに何をたくしていたかがわかるからである。考えられるのは、『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター 直接行動の記録』の巻頭にある「ハイレッド・センター 1962-1964」の活動歴リストで、「1962年11月22日 犯罪者同盟主催の演劇ショー 早大・大隅講堂 高松出演、中西舞台美術を担当」とあるものである。

 これについては、同書第3章に独立した章があてられ、「早稲田の赤い便器(於・犯罪者同盟大隅講堂演劇ショー)」とタイトルがついている。その冒頭に「もう一つプレ・ハイレッド・センター。/私ではありません。中西夏之です。」(/は改行)と書かれたものである。

 それならば、「犯罪者同盟主催の演劇ショー(早稲田大学・大隅講堂)」で、なにがあったのか。これについては、わからないところがあるから、よく見きわめねばならない。

 犯罪者同盟とは、1961年11月に、早稲田大学学生であった平岡正明や宮原安春、諸富洋治らが結成したグループである。かれらは、’50年代後半から’60年代初頭の政治的反体制運動激化頂点とターニングポイントの社会情勢なかで、政治、文学、演劇、音楽、あらゆる領域で反体制をとなえる集団であった。’60年代の「新左翼学生」運動の先駆的一団である。

 かれらの主張は、のちの平岡が『あらゆる犯罪は革命的である』という書名の著書を刊行している(1972年)から、だいたいの見当はつくが、いまとなっては注目すべきものではない。

 しかしかれらは、とうじの革新的文化人や芸術家のグループと積極的に交渉をもち、「第6次ミキサー計画」の「声明」でも名前があげられた、山口健二、谷川雁、吉本隆明らが創設した「自立学校」の事務活動にも参加していた。

 そして、その講師と事務が一体化した創立期の「自立学校」のなかで、かれらとは一世代年長の今泉省彦や川仁宏らと交流することになった。

 その今泉は、のちに発表した「絵描き共の変てこりんなあれこれの前説4」[仁王立ち倶楽部@CHRIS005(1985年10月発売)]のなかで、かれらは犯罪者同盟とか大江戸揮沌党(ママ)とかいっていたが、それは、「彼等は難しいことばかり言うからわけが分からなくなるのだが、単純に言えば、維新前夜の薩摩藩が、江戸市中で火付強盗を働いて、人心を騒然とさせたように、犯罪を摘発させて、革命的情勢を作り出そうと言うのがねらいであった」と、書いている。

 だから、この「犯罪者同盟主催の演劇ショー」も、そういった人心を騒然とさせ、犯罪を摘発(ママ)させるような演劇ショーだったのだろう。

 そこでおこったことについては、『東京ミキサー計画』をはじめ、この『絵描き共の変てこりんなあれこれの前説』などさまざまな証言があるが、その真偽と詳細はよくわからない。

 そうしたなかで、近年刊行された『肉体のアナーキズム』(黒ダライ児著)に記載されたところがもっとも信頼できるとおもわれる。

 同書掲載の年譜によれば、「1962年11月22日 犯罪者同盟公演『黒くふちどられた薔薇の濡れたくしゃみ』早稲田大学大隈講堂(早稲田大学祭参加興業)」とあり、「宮原安春作、小杉武久が音楽担当。井山武司(建築家)によるビニール製の子宮をかたどった舞台装置があり、精子と卵子を表す男女が対話、発煙筒がたかれ、乱交シーン。舞台中央から高松次郎の紐オブジェが客席に伸びる。小畠広志が『埋葬彫刻』(観客席に作品を落とす)。ほか中西夏之が講堂の便器を赤ペンキで塗装」としるされている。

 この要約を、黒ダの本文中の記載やその他の証言などを勘案しながらおぎなえば、つぎのようなことがおこったのだろう。

 まず、これは、早稲田大学、大学祭参加「演劇」であった。主催団体の中心人物は平岡正明であって、宮原安春原作の創作劇が上演された。平岡が主役をつとめたようである。内容のクライマックスは、舞台上のビニールシートのなかでの「乱交シーン」上演にあったらしい。(注.それがどこまでの乱交であったのかは、わからない.今泉の記述では、じっさいの性行為が計画されていたとある.) また、小杉武久の音楽担当とあるが、これは舞台の袖からテープ音楽をながしたもので、赤瀬川が『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター 直接行動の記録』で記したような、観客のあいだに張りめぐらせた細紐を身体で巻きとる、そのころの小杉が好んで演じていた身体音楽ではなかったとおもわれる。紐作品の参加は高松がおこなったもので、「山手線フェスティバル」からはじめ、「第15回読売アンデパンダン展」でもひきずって歩きまわった、長い紐オブジェを、上演中の舞台から客席へもちこみ、演劇進行を、常識的見地からは妨げる行為だったようである。なお、今泉は、客席から舞台への逆方向の移動としている。また、高松については、赤瀬川は、「高松出演」とするにもかかわらず、その本文中ではひとことの記述もない。

 ところで、問題になるものには、黒ダの記載する「小畠広志が『埋葬彫刻』」と「中西夏之が講堂の便器を赤ペンキで塗装」がある。

 小畠広志の「埋葬彫刻」とは、舞台上でクライマックス・シーンが演じられているとき、観客席後方の二階から、小畠広志の白セメントを素材として制作した作品を、観客席に落下させ、破損した作品を、さらに、階下で待ちかまえた制作者の小畠が、手斧をふるって粉砕するパフォーマンスであったようだ。これは投げ落とすにあたって、直前に二階から水を撒き、下の観客を遠ざけておくという周到な工夫をこらしたものであった。これを「埋葬彫刻」とするのは、今泉によれば、彫刻家である小畠は、はやくから黒枠つきの案内状を、芸術家仲間や芸術評論家、ジャーナリズムに郵送しており、招待者らの前でこれまで専念していた一連の自作品を破壊してみせる計画的行為だったという(「絵描き共の変てこりんなあれこれの前説5」[仁王立ち倶楽部@CHRIS006(1985年11月発売)])

 小畠広志は、早大学生の平岡や宮原とはちがい、中西、高松と同世代の東京芸大卒のれっきとした芸術作家の候補生であった。かれのその後の美術家歴を参照してみると、1963年を契機に白セメント素材彫刻から木彫に転換しているから、この「犯罪者同盟主催の演劇ショー」は、かれの「白セメント彫刻」引退式であり脱皮儀式として利用されたとおもわれる。「犯罪者同盟」の同盟員の思想にどこまで同調した芸術行為だったかわからない。その両者の計画に親身な相談にのっていたという今泉の言によれば、主催者たる犯罪者同盟の側では、小畠のこの企画をまったく知らなかったという。

 ただ、この行為において、本論の見地から確かめておきたいのは、小畠のこの企画は、木彫を開始した後か前かである。すでに、木彫へ新天地を見いだした後のことなら、それは残務整理の興行にすぎない。前のことなら、過去の清算、本論でいままでのべてきた「白紙還元」の反芸術である。おこなわれた時期(1963年11月22日)と転換後の「木彫」ジャンルから推測すると、宣伝を兼ねた前者の「引退興行」であったかとおもわれる。今泉の記述は、とうじのかれの激昂ぶりを強調し、これが後者であったようにみせているが、それは20年後の今泉がそのようにおもいたかっただけかもしれない。今泉と小畠のその後の関係は、かれの経営した「美学校」を経由し良好なものであり、1985年の執筆時の今泉は、なおつながりをもつかれを、今泉の芸術観から評価していたと考えられるからである。

 だが、小畠がおこなった「埋葬彫刻」は、1963年とうじの「デモ・ゲバ」風俗のなかのひとつの典型となる「反芸術」だったのはたしかである。もっとも、赤瀬川が1984年に書いた、プレ・ハイレッド・センターとしての「早稲田の赤い便器(於・犯罪者同盟大隅講堂演劇ショー)」では、「埋葬彫刻」についても、小畠広志にもいっさい言及がない。(注.『写真時代』(1982.9~83.9)の「発掘写真」では、この項はないから、書き下ろしであろう.) これに参加していなかった赤瀬川の、情報源であった中西や高松の記憶になにもなかったのだろうか。それについて、1963年にプレ・ハイレッド・センターとしたさい、かれらは、赤瀬川になにも語らなかったのだろうか。中西、高松は、世代環境からみて、小畠と知己関係になかったとは考えにくく、不可解なものがのこる。その後、ハイレッド・センターや犯罪者同盟の軌跡のなかで、そのどこにも小畠は姿をみせていない。

 他方、もうひとつの、黒ダに「講堂の便器を赤ペンキで塗装」と記され、赤瀬川でも「舞台美術を担当」と書かれ、「私ではありません。中西夏之です」と指名された当の中西は、なにをしたのだろうか。

 かれは、早稲田大学大隅講堂の演劇会場出入口よこにある便所の便器を、ショー公演中に、たったひとりで、そのことごくを赤ペンキで塗りあげたのである。その写真は一枚だけ、『東京ミキサー計画』の該当する章に掲載されている。画家の武田敦史撮影のもので、今泉から提供されたというものである。

 参加しなかった赤瀬川は実物を見ていないのだが、つぎのように記している。

 「黒くふちどられた薔薇の濡れたくしゃみ」公演終了時の描写である。


 で舞台には幕が降りました。小杉はまあいちおう舞台音楽をやったものの、美術の中西はとうとうすっぽかしたな、と首謀者がおもったかどうかはわかりませんが、中西はとうとうあらわれませんでした。絵筆一本あらわれません。

 で、うーん、何、あれ、しかしね、がやがや、ちょっとやっぱり、ざわざわ、そうだな、でも、いや、ぞろぞろ、といった雰囲気で、観客は講堂を後にします。で、二、三時間というものじっと座っていたわけで、体内には水分が下の方に溜まっております。ぞろぞろと講堂を出ると、まずはそれを体外に排出したくなる。で講堂脇の便所というものに入って行くわけですが、観客はそこに一歩踏み込んで、

 「あ・・・・・・・・」

 と驚きました。そこにズラリと並ぶ男性用便器が、刷毛後もナマナマしく、真っ赤に塗り込められているのです。

 便器はスプーンの先みたいな卵型ではなく、ストーンと下まで並行に降りる大型の凹んだ白タイルのお墓みたいな、立派なやつです。それがズラリと真っ赤に。

 私、見ていないのが残念ですが、これは凄い光景でしょう。便器の、とくにあの内部の尿の接する面積というもの、あれは触りたくはないものです。指先ではもちろん触れない。足の裏でも触れない。靴の裏でも触れない。もしもよろけて頬でも触ろうものなら、もうその接触面は腐り落ちてしまいます。仮に頬の接触を何とか避けて、しかしそのとたんにまぶたが閉じられなくて目玉の粘膜が接しようものなら、目玉はたちまちブツブツのヨーグルトみたいになって、ドロドロと便器中央の小さな穴の中へ流れ落ちてしまいます。

 と思うほどの、不可触禁断の面積であります。男性便器の内側は。

 そこを中西の右手に持った赤いペンキの刷毛先が、ズルリとなでてしまったのでありました。

 新鮮な画家の手にする冒険的な筆先の感触というものを、これほどまでに直接宅急便のようにして観客の手許へ届けた事件、表現は、いまだかってなかったのではないでしょうか。

 その塗りたての便器に向かって観客の放尿があったのかどうかについては、私は聞いていません。しかしこの催しの首謀者は、大学の守衛さんにさんざん怒られてしまいました。便器の状態を元通りにせよと、きつく言い渡されてしまいました。(『東京ミキサー計画』)


 この上演企画と中西の行為の関係がわからない。平岡、宮原の主催者たちは、これをどこまで企画におさめていたかである。予想外であったのか、それとも、あるていど想定内の出来事であったのかである。

 平岡、宮原は、自立学校に熱心にかかわっていたし、また、中西も、その設立説明会に参加し、のちにのべるような物議をかもしたパフォーマンスを演じていたから、世代と活動領域はちがうとはいえ、ある種の知り合いだったのは想定できる。また、とうじの中西はすでに今泉や川仁と芸術的交流があったから、それらから、赤瀬川が示唆しているように、舞台美術への協力要請があったとしてもおかしくない。

 しかし、かれらの関係、あるいは、平岡らの企画方針、たとえば、参加芸術家のいっさいの自主性にまかせるなどの方針によって、具体的に知らなかっただけかもしれない。

 とはいえ、他方では、今泉の「早稲田大学大隅講堂演劇事件」へののちの回想(「絵描き共の変てこりんなあれこれの前説5」)では、今泉は中西の行為をまったく知らなかったような記述であり、また、平岡・宮原企画と中西行為は無関係であって、それを赤瀬川が「中西舞台美術担当」と『東京ミキサー計画』に記しているのを、間違いだと非難している。

 このことは、プレ・ハイレッド・センターの「第3次ミキサー計画」を、中西の単独行為とするか、犯罪者同盟の演劇ショーのひとつとするかに関係するから、たいせつな意味をもつ。のちにのべることに関することだが、それは、「ハイレッド・センター」は犯罪者同盟を内にふくむ性格をもつか、異質とするかの相違をうむ。平岡や宮原は、のちに発足したハイレッド・センターの、三人いがいの多数の関係者が参加した活動企画、「(帝国ホテル)シェルター計画」や「首都圏清掃整理促進運動」、あるいは、「千円札裁判」などのどのひとつにも参加してない。しかし、またかれらは、この「千円札事件」には、ふかく関係する役割をはたしている。

 思わせぶりになるのも、いかがかとおもうから、すこしだけふれておく。

 宮原が1963年8月に刊行した、犯罪者同盟の機関誌にかわる私家版『赤い風船、あるいは、牝狼の夜』が、偶然から警察の目にとまり、これが約7年間におよぶ「千円札事件」の発端となった。同書には、第14回読売アンデパンダン展で、猥褻理由で撤去された吉岡康弘の写真作品や、高松次郎、小杉武久の作品とともに赤瀬川の「千円札」も掲載されていたのである。(注.犯罪者同盟員の諸富洋治が渋澤龍彦訳によるサドの『悪徳の栄え』を万引きし、逮捕されたさい、所持品に同書があった.)

 千円札裁判が最高裁上告棄却により終結し(1970年)、そうしたこと一切を承知していた1985年の赤瀬川の「早稲田の赤い便器」における、かれらにかんする記述は微妙である。かれらを、プレ・ハイレッド・センター内外のいずれとしていたのかわからない。中西にしても、高松にしても、犯罪者同盟をどう考えていたのかわからない。一般的には、これから記すつもりの、ハイレッド・センターがどのようなものであるかを、この年、『美術手帖』(1963年10月増刊号)誌上で最終的に説明した、「あなたへの通牒」では、「草加次郎の爆弾事件」や「ホーム突き落とし事件」を、じぶんたちは無関係としながらも、「同業」のしわざと断定しているのだから、とうぜん公式面では犯罪者同盟の主張は同調すべきであるが、かれらがおこした直接行動は「万引き」ていどである。芸術行為において、犯罪者同盟には空白の部分がある。こうしたことについては、これいじょう深いりしないでおこう。ただ、ハイレッド・センターには、直接行動とそれを支える理念にこうした伸縮する隙間があることを指摘するだけにしておこう。

 しかし、そうではあるけれど、中西のとった芸術行動は、プレ・ハイレッド・センターの行為として、きわめて筋の通ったものであったのは、まちがいないところである。

 演劇や映画鑑賞は、入場券購入からはじまり、上演・上映館から外の街に出ていくまでつづくものである。演劇や歌舞伎では、出演者が終演後の舞台に勢ぞろいして挨拶をする。かつては出口にならび送りだしたという。映画についても、これはアルベール・カミューの『異邦人(エトランジェ)』に書かれていたことだが、上映館からでてきた観客の歩き方だけで、どんな映画を見たのかがわかるとあった。西部劇を観てきたものは、肩をいからせ勇しく人ごみに分け入っていくという。

 演劇や映画は、ちいさな体験を大衆に提供する。そうだとすれば、中西が刷毛とペンキをつかってやったことは、観客にたいして、赤瀬川が的確に書いているように、この演劇の「舞台美術」とできるものである。しかも、デュシャンのレディーメイド、「男性便器(泉)」という、りっぱな公認技法にもとづくものである。

 ならば、どのような効果を発揮する「舞台美術」だったのだろうか。暗い、硬い座席のうえでえた、「で、うーん、何、あれ、しかしね、がやがや、ちょっとやっぱり、ざわざわ、そうだな、でも、いや、ぞろぞろ」といった感情をかかえて出てきた観客は、排泄にあたり、赤い便器をつきつけられる。見るべきはずでないものを見たかもしれないという、かれらのすでに揺らいでいた常識感覚はここで完全に攪拌される。セックスといい、ご不浄といい、これらはどれも日常タブーを侵犯するだけあって、奥深く浸透していく体験だろう。違和感をもって出てくる観客の、違和感の仕上げだろう。

 芸術は、デペイズマン(dépaysement)感情をおこさせねばならないと、20世紀アヴァンギャルドの草分け、シュルレアリストたちはいった。この唾棄すべき出来事で充満した社会生活でマヒしてしまった感性を再生させるのは、まず違和感を蘇生させることである。

 デペイズマンとは、「[異なった環境•習慣のなかに身を置いたものの]居心地のわるさ、異和感、とまどい/途方にくれさせること、追放すること」(『ロワイヤル仏和中辞典』)である。シュルレアリストたちはそれを、ロートレアモンの散文詩からとった一行、「手術台のうえでミシンとコウモリ傘が偶然出会ったように美しい」であらわし、ひとつの命題とした。それをもっぱら採用してフロッタージュを完成したのはマックス・エルンストであった。デュシャンのレディーメイド「泉」も、ある意味では、デペイスマンの「美しさ」である。男性用便器を、それがあるべきはずでないところ(美術展)に、もつべきはずでない(美術品の)役割をあたえて、もちこんだことである。

 中西夏之はといえば、そのころこんなことを語っていた。

 「俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早めると、まあそんな意図があるんだ。それも攪拌作用のひとつなんだが、エキプメント・プランと関連のありそうな発想をとりながら状況が全く違う」座談会『直接行動論の兆 ─ ひとつの実験例』[1962年11月]と。

 かれが、第15回読売アンデパンダン展(1963年3月)に出品した作品、「洗濯バサミは攪拌行動を主張する」の「攪拌」は、事件や事物をモノクローム化するためのものだといっているのだ。ここでかれのいうモノクロームは、おなじくそのころかれらがおこなった、「第2次ミキサー計画」と目されるあの「山手線フェスティバル」(1962年10月)の案内状に書かれていた、かれらの芸術行動目的とおなじであろう。

  まずかれらはつぎのようにいっていた。


 解釈と定義のつまった整理戸棚、群衆の表情、無差別に作られた実用物、笑いのタイプ、実用人間、皇太子、毀れた玩具、歯車、ゼンマイ、卵殻、骨、毛髪、うんざりするような女の様々なび態、食器、書物、全く人為的な内部と外部、文字・・・・(書き続けたら世界中のペーパーを必要とする)が融解し、流動物となってただよいはじめている。そこから元の型をすくい出して『・・・・・の為に』供することも、都合のいい鋳型に流し込んで再生することも(どんな鋳型があるというのか!)無意味になってしまった現在、おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる。 

(注.これらの引用は、すでに『百万遍』5号誌掲載の「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』/4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2) ─ /③  『読売アンデパンダン』展から『ハイレッド・センター』へ」でおこない、その子細をのべている.)


 そしてかれらは、「この空白から純粋な対話を生み出す作業が執拗に試みられねばならない」というのであった。

 これは、原則的にはダダイストの「白紙還元」であり、シュルレリストのデペイズマン(違和感、追放)のさし示すものを外側から指摘しているのであろう。

 じじつ、中西の「攪拌行動を主張する」のは「洗濯バサミ」であり、この洗濯バサミは物干竿に洗濯モノを留める洗濯バサミではなく、「第15回読売アンデパンダン展」では、見物人の着衣の袖、襟口に付着し、「第6次ミキサー計画」では、中西の頭髪やくちびる、頬をはさみつけ、内部触覚を攪拌するものであった。1961年の中西はすでに、ホーク、ナイフ、尖った生活器具が蝟集するオブジェ「内部触覚ナタル」を『現代美術の実験展』に出品し、〈若い冒険派〉の芸術家として芸術界の一部では知られていたのである。とうじのかれは、すでにこのようにその目的をのべていた。


 ─ 僕は内部触覚経験というようなことを考えるわけです。内部触覚というものを表現するのではなく、色々の感覚を内部触覚的にとらえてゆこう。そのとらえたものを一つ一つ、いまのような計画表にあてはめていく。現代は政治でも、人間関係でも高度に抽象化されているわけですね。この抽象化というものも一つの科学的武器ですが、僕はもっと生活体というもの、わりあいドメスチックなものですね。そういうところでのショックが多いし、そういうところでの痛みが大きい。つまり、抽象化と逆に触覚的なものですね。(「座談会「〈若い冒険派〉は語る」 [美術手帖 1961年8月号].この座談会については、本論、「第2章4節 芸術作家の『反芸術』」[『百万遍』5号掲載])ですでに述べたところである.)


 ここにはすでに、1962年末に中西がのべていることの原型があり、そうした思想を発展させていたのがよくわかる発言である。いわれている中西のいうモノクロームや「攪拌作用」には、表面的にいわれているいじょうに、デペイズマンにつうじる「違和感、不快感」がひそんでいる。

 そしてそれが、「犯罪者同盟主催の演劇ショー」の、あの赤いペンキの刷毛塗りにあらわれている。かれは、そのペンキ塗りを、ダニエル・ビュランが後年やったような(大隅講堂の)階段や回廊や壁面ではなく、便所にたちならぶ便器の不可触禁断の場所におこなったのである。観者と制作者、どちらの体験者をもデペイズマン(dépaysement)化する行為である。それは、また、「攪拌作用」のかれの主張が、20世紀初頭のアヴァンギャルディストが着目した芸術観と、共通基盤をもっていたことにもなる。

 そうしたことは、第6次「ミキサー計画」をさかのぼったところに、「早稲田の赤い便器」があるのを確認させるだろう。あるいは、むしろそれより、「ミキサー計画」自体がこの流れのなかからあらわれたのかもしれない。すくなくとも、「第6次ミキサー計画」の行為の内容は別にしても、名称「ミキサー」は、「攪拌」の読み替えであり、「計画」についても、中西がすでにこだわっていたものである。「計画」は、「第5次、第6次ミキサー計画」や「(帝国ホテル)シェルター計画」、さらには、赤瀬川の「ハイレッド・センター 直接行動の記録」のタイトル「東京ミキサー計画」でも示されているように、「ハイレッド・センター」の活動目的自体にかかわることばである。

 ということでもあるから、中西がさきの座談会でいっている「計画表」がどのようなものかをみておこう。

 かれのいう「いまのような計画表」とは、座談会のつぎのようなコンテキストでもちいられていたものをさす。


 ━ 僕は、比較的心的状態のシステマチックな作品を描いていますからね。たとえばどういうのかな。たとえば銀行襲撃というのがありますね。まずプランをたてるわけです。その計画というのはよく調べて、何時に銀行に躍り込むかという道筋を細かに書いていくわけです。しかしその襲撃が成功するかどうかということはわからない。ですから、結果というものは、鑑賞者というか、外界というか、それに与えるものがどういうものかは自分では解らないわけです。ただ道筋ですね。そのなかに自分の思想を打ちこんでいくわけです。(「座談会「〈若い冒険派〉は語る」) 


 ここでかれがいわんとするのは、かれの「芸術」は、「良い作品」という結果のためにあるのではなく、この発言の場の次元では、制作という行為だという。それは、まだ、「自分の思想打ちこんでいく」といい、思想に拘泥しているようにもきこえるが、「僕は、比較的心的状態のシステマチックな作品を描いていますからね」と、思想性(idéeではなくpenséeである)は話しの中心ではない。内部触覚(心的状態)の攪拌の手順(system)とその実行に関心があるのである。打ちこんでいくとか、躍り込むという行為に、発言の焦点が合わされているのであろう。「直接行動」につうじる言い分である。

 これについては、用語的に「計画(プラン)」は、今泉省彦が書いた小説エッセー「エキプメント・プラン」(『形象』5号[1962年]掲載)と関連がありそうだが、むしろそれに対抗的に、異をたてるものである。その相異は、座談会「直接行動論の兆」で争点となっているから、のちに詳細に検討するつもりである。

 創成期の「ハイレッド・センター」が、活動方針として掲げた「計画」は、時期的にいっても、『〈若い冒険派〉は語る』(1961年6月)でのべられた中西の考え方がその基本にあったとおもわれる。とうじの他のアヴァンギャルド・グループがおこなった、激情行動の対称点にある体系的行動であることをしめす「計画」である。中西は、これを、「行動に向かって自己を賭けていく論理」という言い方で、『直接行動論の兆』では説明している。

 しかしこれは、行為からみた「計画」である。「ハイレッド・センター」のいう計画は、そればかりではないだろう。理念からの「計画」、高松のいう「計画」もふくまれていたことだろう。

 そのころ高松は、「不在性」にこだわっていた(注.「『読売アンデパンダン』展」[『百万遍』6号]を参照) かれは、かれの一種の芸術論として、『世界拡大計画 不在性についての試論』を書いている。(『機關』[『形象』改題]9号掲載[1964年9月])

 かれは、その論考の「未完」の結論をつぎのようにおえている。


 すべての事物が腐食し、崩壊していくこの巨大なガラクタ置場のなかで、我々をとらえ、惹きつけ、かり立て、その膨大な倦怠から救ってくれるのはけっして事物それ自身ではない。それは常に薄明のなか、未来のなか、可能性、あるいは蓋然性、未決定性、欠如、その他あらゆる不在の中にしかない

 充全性の事物(原文、傍点)は存在しないし、存在しえないだろう。もし存在したら、それは反物質のように地上では一瞬のうちに大爆発を起こすだろう。実在する充全的な時間の方はといえば、それはいつも実在の中をすり抜けていくのである。我々は、そこで暗躍しているサギ師を追求し、その手口を知ることが次の問題となる(傍点指示いがいの下線は筆者)

 

 結論理解のために、念のために補足しておけば、文頭は、「充足性はいつも上昇(徹底)を目指す。この一文は『極致に向かう充足性』のための方法論であり、計画書である」とあり、そこからはじまっている。

 そして、追伸には、「この一文の論旨からすれば、『未完』と書いたまでで、実際は打ち切って、読者を裏切ることも一つの方法として正当化される。しかし、更に大きな裏切りのためには、以下のプログラムを書いておく方が賢明なのである」とされて、しめされた7項目のタイトルのなかに、芸術とは「定着された不在性」であり、計画とは「事物拡大に関する不在性」とある。

 引用した結論部後段の、「充全性の事物は存在しない」は、中西発言にかさねれば、「芸術作品」に読み換え可能だろう。たとえば、「完成した芸術作品は存在しないし、存在しえないだろう。もし存在したら、それは反物質のように地上では一瞬のうちに大爆発を起こすだろう」と、バルザックの『知られざる傑作』を引き合いにだすまでもなく、読むことができる。そして、実在する充全的な時間は、「(制作)行為」 となるだろう。

 さらに、また、高松が主張する「不在性」は、かれの「不在性」の説明によれば、中西の「攪拌行動」のモノクローム化でもある。

 中西によれば、攪拌作用は、事物や出来事のモノクローム化であったのだが、そのモノクロームとは、色名表をターンテーブルで回転させるときあらわれるモノクローム、「これは何もないんじゃなくモノクロームなんだ」と云っていたすべてをモノクローム化し、「モノクロームの認識」から出発しなければならないというのが、中西の主張だった。(注.すでにのべた、『直接行動論の兆』での発言. 中西の主張の詳細については次項目であつかう.)

 そして、それは、すでに中西だけでなく、あの「山手線フェスティバル」の案内状に書かれた、「J高松・N中西・ウロボンK・K村田」、かれらすべての「この流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまうおうという欲求」にかられた、芸術行為であった。高松の「不在性への試論」の引用結論部、前段の「我々をとらえ、惹きつけ、かり立て、その膨大な倦怠から救ってくれるのは ・・・・・ あらゆる不在の中にしかないの不在性探究であり、渇望である。

 だから、高松のいう「計画は、事物拡大に関する不在性である」という定義は、中西の「計画」を理念的にのべたことであり、また、この発言が、1964年9月という、ハイレッド・センター発足の後ということを合わせ考えると、この「計画」は、「第5、第6ミキサー計画」や「(帝国ホテル)シェルター計画」の、ハイレッド・センターの「計画」だったとしても、なんらさしつかえないだろう。つまり、ハイレッド・センターの「ミキサー計画」は、「事物拡大のための攪拌行動」とすることができる。そうしたことが、ハイレッド・センター創設の「ミキサー計画」の、タイトルの背後にあるものだろう。

 このように考えると、発足したハイレッド・センターの看板思想の核にあるのは「中西」思想であり、そこに高松思想がむすびつき、赤瀬川が思想的に賛同して、ハイレッド・センター思想が形成されているようにみえる。だが、誤解せぬよういっておけば、ハイレッド・センターは芸術思想集団ではなく、芸術行為のグループである。思想は行為の核であるが、それは、凧の糸のようなものである。糸は凧のうごきによって、上方にのびることもあれば、地面を這ってただの縺(もつ)れとなることもある。この凧は、’60年代日本という風をはらんで舞いあがる。そしてまた、凧は風にもまれて糸がきれ、とおくに飛び去り、飛行機や飛矢、紙つぶてになるかもしれない。

 ただし、このばあいのこの糸は、より合わされた撚糸であり、また、適宜つぎたしてのばしていくことができる糸であった。

 だから、発足時の「ミキサー計画」の思想がこのようなものであったのはたしかだが、中西思想、あるいは、高松思想だけで、ハイレッド・センターを説明することはできない。

 じっさい、創設イベントのあの「声明」において、その一行目と二行目にあらわれた「第6次ミキサー計画」と「第5次ミキサー計画」の説明は、うえの解釈でいちおうできるが、以下つづく、「元自立学校運営委員今泉省彦、同川仁宏の二氏にもこたえ」にはじまる「声明」の大半には、なんらおよぶものではない。

 しかもそれは、イベントの一部として 元自立学校運営委員今泉省彦、川仁宏二氏への「贈呈式」があり、創設イベントにまったくそぐわぬ内容の私信が、「ハイレッド通信」として公開されていたのである。

 また、声明においても、書簡においても、その結語が、「全く彼等にかかっているのであります」とあり、「我々はセンターがかつて使用し、ある状況を提出した『紐』『梱包』『洗濯バサミ』が、今度あなた方の作った状況の中でどんな風に泳いでいくか、遥か離れた処でみまもっておりましょう」とあって、それが、「第6次ミキサー計画」をおこなうハイレッド・センターにとって、いかに重要な関連をもつかを強調しているのである。

 その文面で注目すべきは、今泉、川仁両氏とともに、わざわざかれらの肩書きとして記されている「元自立学校運営委員」である。なんらかのパロディー表現とすることもできるが、それではあまりにも場違いな記載である。この場違いは、かれらの思想のなかの場違いで、それだけにかれらの意識以前で、重要な内容をふくむものである。わけもなく気にかかるのは、つねに重要な意味を帯びている。

 すでにわずかにふれることがあった、今泉と川仁二氏については、かれらとハイレッド・センターの関係、かれらと中西、高松、赤瀬川らの関係、さらにここに記述されている物品貸与の具体的意味については、次項でまとめて扱うから、誕生したハイレッド・センターの性格にかかわる「自立学校」についてのべておかねばならない。

 自立学校そのものとハイレッド・センターとの関係は、事実上は希薄であるが、「自立学校」自体は、ハイレッド・センターの、’60年代日本のアヴァンギャルドにおける位置を間接的に、だが、おそらく的確に、説明するものである。


 『肉体のアナーキズム─1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』の年譜欄には、自立学校開校式の記載がある


 1962.9.15  自立学校開校式  運営委員は今泉省彦、川仁宏、栗田宇喜、平岡正明、山口健二、松田政男、宮原安春。 講師は秋山清、栗田勇、佐野美津男、渋澤龍彦、谷川雁、寺田透、中野秀人、中村宏、埴谷雄高、日高六郎、藤田省三、森秀人、森本和夫、吉本隆明ら。事務局は石井恭二方。10月に授業開始。司会役の山口が臨時講師を募ると、中西、小杉がその場だけの講師として立候補、卵形のオブジェをぶら下げ発煙筒をたいて会場をめぐり歩く。

 

 ここに列挙された「自立学校」構成メンバーは、本論ですでに登場した、今泉、川仁、それに犯罪者同盟の平岡、宮原らはいるが、「60年代・日本美術」関係者といえるのは、「タブローは自己批判しない」注  の中村宏をのぞき、なじまない人々である。(注. 「4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2) ② 芸術作家の『反芸術』」[『百万遍』5号]を参照) 60年代の先鋭な政治・社会・文学批評や活動において、体制批判の立場をとった知識人たちである。

 アイウエオ順に名前が掲げられているから、参加者関与の濃淡はわからない。しかし、これから援用するものをふくめた、概略資料にしたがうと、学校構成の中核となる「講師」たちは、とうじ、「自立の思想」をかかげて雑誌『試行』を創設していた、吉本隆明、谷川雁ら注 が中心メンバーであったのだろう。(注.もう一人の創刊メンバーは村上一郎であるが、参加していない. なお、『試行』は、そのご吉本の単独編集となった.)

 また、組織・企画では、山口健二や松田政男、川仁宏らが積極的役割をはたしたといわれている。かれらについて、ウイキペディア的にその略歴をしめしておこう。

 山口健二や松田政男はその履歴と活動歴から、’60年代日本の代表的左翼知識人活動家であったといえる。山口健二(1923-1999)は、戦前の東京美術学校、第一高等学校、旅順高等学校いずれもの中退者である。ということは、戦前から反体制意識のつよい稀有な学生だったことをしめしている。そして、戦後となると、日本共産と日本社会党に二重入党し、三井三池炭鉱争議支援活動を経て、谷川雁の大正行動隊(大正鉱業の炭鉱争議支援)に参加している。その間、日本社会党、日本共産党いずれからも除名されている。

 そしていま、われわれが問題としている1962年の後では、1965年に松田政男らと東京行動戦線を結成し、’60年代後期の「学生紛争」期の1968年には、新左翼の共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派に加盟して、この時代のピーク、東京大学安田講堂占拠攻防戦を指導した。以後、かれはこの方向で一貫した生涯をおくっているが、そこは本論と別の問題である。

 松田政男(1933-2020)は、高校在学中から日本共産党に入党し(1950年)、六全協以前の武装革命路線にしたがって山村工作隊に参加、活動し、卒業後は職業革命家となった。

 1955年の六全協後の日本共産党の動向のなかで、トロツキズムからさらにアナキズム思想へ親近感をもつようになった。いっぽう、1960年の安保後は、出版社の「未来社」や「現代思潮社」に編集者としてつとめつつ、チェ・ゲバラやフランツ・ファノンの第三世界革命論を加味しながら、直接行動の原理を模索した。そして、前述のように、1965年に山口健二と東京行動戦線を結成した。また、そのごでも、この後身のベトナム反戦直接行動委員会に参加して活動している。’60年代後半の学園紛争期には、明治大学紛争に加担し、また、日本赤軍、東アジア反日武装闘争の救援活動をおこなった。映画の若松孝二や足立正生らと連合赤軍の重信房子との仲介役をつとめたのは、かれである。そのごもふくめてかれは、映画評論家として活躍している。

 さらに、すでに本論に登場している川仁宏(1933-2003)は、山口、松田両者とくらべると、政治活動をおこないながらも、慶應大学仏文科卒の学歴がしめすように、’60年代の芸術・文学分野に関与する行動者であった。かれは、編集者であったが、のちにはパフォーマンス・アーティストでもあった。’60年代が輩出した、注目すべき実践芸術活動家である。

 政治・社会活動家としてのかれは、1960年に谷川雁が組織した大正行動隊に参加し、1965年には、山口、松田が結成した東京行動戦線に参加している。

 また。1969年から現代思潮社の企画部次長、編集長を務め、現代思潮社社長、石井恭二が創設した「美学校」の企画実現を主導し、時代にそくした美術教育を実現するなど、卓越したプロデュース力を発揮した。

 そして、現代思潮社を退社後(1974年)は、芸術や舞踏関連の著作をつづけながら、ことばによる即興のライブやトーキングをおこない、小杉武久などの音楽家、美術家、舞踏家とのライブ・パフォーマンスを実践している。

 かれら三人は、いずれも「自立学校」の企画具体化の実務実践者とおもわれるが、ここにいまひとりの無視できない者がいる。それは、黒ダライ児の年表該当部の片すみにいる、「事務局は石井恭二方」の石井恭二である。すでにのべたように、松田も川仁も、石井経営の「現代思潮社」の編集部員であった。それに、学校設立運営には、事務運用だけでなく、場所の設営、宣伝広告、多種多様の印刷物作成配布など、はんさな労働、および、それらをまかなう資金を必要とするものである。そして、この領域でおおきく貢献をしたのが石井恭二だったかとおもわれる。かれの略歴を加筆しておこう。ここにもまた、’60年代日本の文化様相の一面をみることができるだろう。

 石井恭二(1928-2011)は、中学(現高等学校)を卒業後、家業をついでいたが、出版に関心をもち、1957年、「現代思潮社」を創設し、埴谷雄高、吉本隆明、澁澤龍彦、マルキ・ド・サド、ジョルジュ・バタイユ、モーリス・ブランショ、ジャック・デリダなどの著作を先駆的に刊行した(注.Wikipedia) ‘60年代日本の代表的アヴァンギャルド出版社である。その間、日本共産党に入党しているがすぐ離党している。

 同社の編集方針は、かれの中学同窓であった森本和夫の影響がおおきかったといわれ、また、すでにのべた川仁や松田らを採用し、かれらの意見を出版に反映させたとおもわれる。

 また、同社刊行の渋澤翻訳によるマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』がわいせつ物頒布等の罪で摘発されておこった「サド裁判」(1959-1969年)の被告のひとりでもある。かれは、東京行動戦線の後援やこの自立学校への協力的参与など、’60年代の反体制運動とアヴァンギャルドを活性化する出版や教育部門へ積極的参画をしている。1969年には、一面ではこの自立学校の性格をうけつぐ、芸術に特化した「美学校」を設立した。この運用には、川仁を介して今泉が採用され、今泉はのちに校長となっている。また、中西や赤瀬川、中村宏らも一時は講師として参加し、ことに赤瀬川はこの授業を媒体として、南伸坊をはじめ次世代のアヴァンギャルド芸術家を育てている。赤瀬川のここでの教育形態は、あきらかに「自立学校」の無形の継承であろう。

 石井じしんは、20世紀がおわる1997年、現代思潮社が倒産したさい出版経営から離脱し、道元や親鸞などに関する著書を刊行した。いずれにせよ、かれは、’60年代の、おそらくは中央公論社長の嶋中鵬二がうらやむような、出版人であった。

 さらにまた、補足しておけば、これらの参加者経歴のなかで、キーワードのようにでてくる「大正行動隊」とか「東京行動戦線」とは、つぎのようなものであった。

 大正行動隊とは、1959年から翌年にかけて、三井鉱山三池鉱業所の大量人員整理に反対しておこった三池闘争の敗退後、福岡県中間市の大正鉱業でも合理化がはじまり、それに反対する争議のなかで、谷川雁、沖田活美ら日本共産党を除名された共産主義同志会に指導されて、1960年暮れに結成された、労働運動組織である。大正行動隊は、1962年の闘争終結までの2年間、谷川雁をイニシェターに、隊長杉原茂雄のもと、日共ー民青との論争や、独自活動をめぐる大正労組との対立をはらみながら、活動を展開した。そして、福岡銀行、県庁攻撃、職場占拠闘争をおこない、「越境された労働運動」を外部にむかって同時に遂行し、旧来の労働運動の構図を打ち破りながら、Sect No.6等の学生たちの支援を受けて闘い抜いた、と資料にはしるされている(注.松原新一『幻影のコミューン』( pp.157)による. 『戦後革命運動事典』からとある.)

 そして、東京行動戦線というのは、石井恭二の後援で、山口健二や笹本雅敬、また、とうじ現代思潮社の編集者だった松田政男や川仁宏などが、1965年に結成し、同名の機関紙発行をしていたアナキストたちの組織である。東京行動戦線自体は、ベトナム義勇軍としてベトナム渡航を企てるなどしたが、1965年の日韓基本条約反対デモでアンモニア瓶を投げつけようとしたかどで松田、山口らが逮捕され、消滅した。しかし、そののち笹本や松田らは、「ベトナム反戦行動委員会」や出版社「レボルト」を結成し、’60年代後期の世界的な反体制政治運動にかかわっていく。


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