Avant 2-4-3-12


「ハイレッド・センター」


Part 2


 このように見てくると、この「自立学校」は、網の目のようにはりめぐらされた’60年代日本の反体制の人間関係のなかで成立した「学校」であった。というよりむしろ、体制批判運動のひとつということができよう。

 そして、そのようなかなり直接的な政治・社会運動に、ハイレッド・センターがどのようなかかわり方をしたかが、ここでの問題になる。それはすでに、黒ダライ児の年譜記載でも、自立学校開校時のプレゼンテーションで、「司会役の山口が臨時講師を募ると、中西(夏之) ・・・・・ 卵形のオブジェをぶら下げ発煙筒をたいて会場をめぐり歩く」に瞥見できるものであるが、’60年代アヴァンギャルド芸術家であるかれらが、この「自立学校」にどのような角度から関心をもったかを見とどけておかねばならない。

 それは、この「自立学校」の組織と授業形態にかかわるものである。

 まず、「第6次ミキサー計画」の声明元自立学校運営委員と名指しされていた今泉省彦の証言からみてみよう。

 年譜記載の今泉の運営関与の実体はよくわからない。かれは、「声明」でも運営委員とされているように、自立学校開校の一ヶ月後には離脱している。

 また、山口や松田、あるいは、谷川雁、吉本隆明らの履歴資料の自立学校に関連するどの記述でも、今泉の名はあげられていない。たとえば、吉本隆明を解説するウイキペディア記載では、「1962年に、松田政男、山口健二、川仁宏ら『自立学校』を企画し、谷川雁、埴谷雄高、黒田寛一らとともに講師をつとめた」とある。自立学校の企画者が「松田政男、山口健二、川仁宏」であるのは、谷川雁、山口健二、松田政男、どの経歴記載でもおなじで、今泉への言及はいずれにもない。それに、今泉じしんの行動歴においても、1962年までは、自立学校企画に参加した他のメンバーに比肩するものはない。それは、黒ダライ児年譜にある、犯罪者同盟の平岡、宮原でもいえることだが、こここでは今泉だけを検討しておこう(注.川仁については、石井や谷川との関係から説明できるものである.)

 今泉省彦(1931-2010)は、日大芸術学部美術科在学中、学生運動に関心をもってはいたが、活動は学内にとどまるもので、もっぱら学友の中村宏らと「現代絵画」の諸問題に専念していた。その間、川仁宏、岡田睦らが主宰する文芸同人誌『作品・批評』に参加し(1955)、また、1958年には、佐藤和男、遠藤昭にさそわれて『形象』の編集同人となっている。’60年代「デモ・ゲバ」風俗のなかの現代美術、文学評論をこころざす若い知識人というのが、この時代のかれの実像であろう。

 しかし、かれは、たしかに’60年代日本のアヴァンギャルド芸術史では、アヴァンギャルディストに関連して登場する評論家、出版人である。だが、かれじしんの思想や行為がおもてだって注目されたことのないキャラクターである。

 とはいうものの、かれの言説特有の断定表現や情念の奔出によって、見方によって、とうじのアヴァンギャルディストになんらかの影響をあたえたといえなくもない。かれは、’60年代のアヴァンギャルド芸術界の、脇役だが無視できない存在で、超自然的能力を発揮するトリックスター(trickster)(『ジーニアス英和大辞典』)だったといえるのかもしれない(注.近年、照井康夫はその編著『美術工作者の軌跡 今泉省彦遺稿集』(2017年)で、かれの演じた役割を美術工作者とかたっている.) ‘60年代アヴァンギャルドには、このような「手品師・ペテン師」であるトリックスターがおおくいたようにも、いまになってはおもえるところがある。

 このようなことを記すのは、黒ダライ児「年譜」で、運営委員の筆頭にあげられ、ハイレッド・センターの「声明」で元自立学校運営委員とされているかれの発言を、資料としてこれから検討するには、それらを加味してじゅうぶん注意しなければならないからである。

 まず、自立学校開校(1962年9月)をまえにして、長良棟名義で発表された「自立学校の企図に寄せる」(『形象』6号[1962年6月]の別刷挟みこみ色付きページ)をみてみよう。


 コンミューンの執行権力者が、学校をコンミューンにしてしまうとするならば、学校設立者は、コンミューンを学校にしてしまうのでなければならぬ。

 インタナショナリスト(ママ)もいれば、ナショナリストもおり、ファシストもいる、相互コミュニケーションの断絶と、その対極化という極点で、それぞれがそれぞれの思惑のベールをかなぐり捨てて、まったき全体像を示すそういう折りの、絶体行政権力の権力行使の政策は、一種混沌とした指令としてあらわれ、インタナショナル(ママ)な命令書と、ナショナルな命令書とが、あるいはファシズムのそれが、互いに打消し合う同時要求となって、戦線をかきみだしながら、それとして協同戦線を形成する。その激しい憎悪と、一方、風聞として定かならず、それ故に、途方もなく茫漠と広がった、どこにいて、どこに現れるかわからぬ、不安の一般表現としての、したがって神兵であり、相互の憎しみ合いからの救い主であるところの反革命軍への、隠微な親和感のささやきが、街角から街角へ、まなざしの一瞥のようにひらめく、そういう時に成立するコミニケーションは、ある政治権力の行政機構が、なにものにも立ちまさっている時期の、相互浸透のデリュージョンを一挙に打ち破るのであって、コミュニケーションとはどんな場合にも一方通行のそれでなければならず、それは例えば、理解の如何を問わずにいきなり胸をさしつらぬく匕首なのだと思い知るべきである。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[略]・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 こういう時期を学校として、そこに期することがあるとすれば、インタナショナリストが、その仮面をかなぐり捨てるかのように、ナショナリストとして立ち現れ、ナショナリストが、ファシストとしての裸身を示し、ファシストが、意外にもインタナショナルであったりすることであるように思われる。社会主義者がブルジョワ政権の閣僚となるのは驚くにあたらず、実に無政府主義者が政府閣僚となるという喜劇を、吾々はスペイン革命で覗見しているのである。そこで、学校でみるのも又、この種の、変貌の劇でなければならないのであって、断じて教えられることをこばみながら、変容せしめられていく場こそ、理想の学校というべきであろう。

 このソクラテスというよりプラトンの理想の学校を運営していくにあたって、運営者のとるべき態度は以下の通りであらねばならない。

  1、 あらゆる政治フラクションを排除しない。

  1、 教師・学年・学期・クラス制を承認しない。

  1、 多数決方式によらない。

  1、 啓蒙化傾向に機敏なアンテナを持ち、その萌芽を踏み

   つぶし、大勢が動かし難いときは、そのときをもって閉

   校する。

 この5項目(ママ)に従うを得ないときは、理想の学校は崩壊し、又は崩壊せしむべきであろう。(下線は筆者)


 だれにむかって、なんのために書かれたのかわからない奇妙な文章である。

 1962年6月という開校前のこの時期、雑誌『形象』に、黄色厚紙用紙二つ折り挟みこみ頁に書かれたこれは、緊急企画提案なのか、論争なのかわからない。論旨の焦点はゆれ動き対象がつかみ難い。

 だが、にもかかわらず、情念の沸騰を感じさせ、奇態な説得性をもつ、やはり「自立学校」のひとつの紹介文である。

 唐突にはじまる冒頭部2行、「コンミューンの執行権力者が、学校をコンミューンにしてしまうとするならば、学校設立者は、コンミューンを学校にしてしまうのでなければならぬ」にしても、なぜコンミューンがあらわれるのか、また、執行権力者がなにものを指すのか、皆目不明である。自立学校企画者たちの内部文書としては、通用するのかもしれない。それとも、今泉そのひとのための自立学校では、自明なのかもしれない。また、そうであるにしても、執行権力者すなわち学校設立者と、今泉の関係はやはり、あいまいである。運営委員たる今泉のあいまいさである。

 それにしても、1962年のこの時点、1960年6月の国会包囲デモ、史上はじめてデモ隊の構内侵入があり、死の犠牲者がでた異議申し立てにもかかわらず、「自然承認」のなかに消滅した新安保条約制定反対闘争後のこの時期、その失意の反省から企画された「自立学校」の問題提起としてはいかにも奇怪な言説である。たとえば、吉本にしても、かれは国会侵入の嫌疑で逮捕され、その直後の状況から提案したのが、自立の思想を標榜する雑誌『試行』の企画だったのだ。

 あたかも、そんな状況はひとごとのように、ナショナリストがどうの、ファシストがどうの、インターナショナリストがどうとかするとか、まるで左翼政党の一般状況を部外者が批判するような分析をやってみせるのは、いかなる思考回路から出てきたものか、いかにしても理解しがたい。

 しかし、段落後半をリードする「こういう時期を学校として、そこに期することがあるとすれば・・・・」をみると、唐突にかたられる「コンミューン」とは、現時点の情況であり、この情況を学校とすることであるらしい。1960年後の情況において学校をつくるのなら、この学校は「コミューン学校」であるべし、というのが通常論理におきかえたときのかれの言い分なのかもしれない。

 とはいうもののやはり、この時代情況をなぜ「コンミューン」といわねばならないかは、日常論理では、これだけでは納得できない。

 このコンミューンは、19世紀半ばすぎのフランスで暫時実現し、旧政府軍によって短期間で鎮圧された、社会主義政権下のパリ・コミューンなのだろうか。そのような歴史的視点に立てば、「実に無政府主義者が政府閣僚となるという喜劇を、吾々はスペイン革命で覗見しているのである」の喩え、かれのいう「スペイン革命」とやらも、1936年の総選挙で政権を獲得したスペインの人民戦線政府のことかとおもいあたる。「スペイン内乱」下の人民戦線共同体のことかもしれない。

 人民戦線政府は、国際共産主義者や社会主義者、アナキストらで構成され、反対勢力を容赦なく弾圧し、政教分離や農地改革を果敢に遂行したが、フランコのクーデターで1939年崩壊した、ヨーロッパの革新政党後退とファシズム成立確定の契機となる出来事である。アーネスト・ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェルをはじめ、シュルレアリストでもバンジャマン・ペレなど1930年代のアヴァンギャルドのおおくの文学者・芸術家らが、クーデターに対抗して結成された国際義勇軍に参加し、その体験からかれらの代表作品を創出したものだった。ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』(1940年)は戦後、ハリウッド映画化もされ、日本ではいちはやく有名になったスペイン内乱である。『誰がために鐘は鳴る』は、宝塚歌劇団が1978年にミュージカルとして上演し、フランス革命を題材とした『ヴェルサイユのばら』(1974年)とならんでドル箱演題となった。原作たる池田理恵子のマンガ『ヴェルサイユのばら』がベストセラーになったのは、「大阪万博」の翌年、1971年である。’60年代「デモ・ゲバ」風俗のひとつの様態が’70年代にこのような結実になってあらわれたのかもしれない。’60年代を13歳から23歳ですごした池田理恵子にとっては、’60年代の「反体制」運動の印象体験は、そのようなものだったということであろう。

 今泉の主張には、やはりこれらの「パリ・コミューン」の挫折や「スペイン内乱」の敗退へ通底するものがかれのなかにあったとすれば、その奇怪な描写もいくらかわかりやすくなるとするのは、わたしの独断だろうか。「・・・インタナショナルな命令書と、ナショナルな命令書とが、あるいはファシズムのそれが、互いに打消し合う同時要求となって、戦線をかきみだしながら、それとして協同戦線を形成する。その激しい憎悪と、一方、風聞として定かならず、それ故に、途方もなく茫漠と広がった、どこにいて、どこに現れるかわからぬ、不安の一般表現としての、したがって神兵であり、相互の憎しみ合いからの救い主であるところの反革命軍への、隠微な親和感のささやきが、街角から街角へ、まなざしの一瞥のようにひらめく・・・・」などに突如あらわれる、「神兵」とか「反革命軍」とかも、ヴェルサイユ軍に包囲されたパリや、制圧間近のカタロニアの「ロマンチックな情景と人心忖度」かとおもえば、今泉の心情のうごめきも理解しやすくなる。

 とはいえ、それだけではやはり全部はわからないものが、ここにはある。「そこで、学校でみるのも又、この種の、変貌の劇でなければならないのであって、断じて教えられることをこばみながら、変容せしめられていく場こそ、理想の学校というべきであろう」と、一挙に20世紀日本の現実論理にもどり、箇条書きされる基本方針である。ことに、「1、教師・学年・学期・クラス制を承認しない」や「1、啓蒙化傾向に機敏なアンテナを持ち、その萌芽を踏みつぶし、大勢が動かし難いときは、そのときをもって閉校する」などは、運営管理の根幹であって、開校前の意見表明としては、個人にとどまらない、かなり一般的な了解事項のはずだ。

 そのようにみると、この「コンミューン学校」なる主張には、歴史的「挫折革命」よりもっと直接的な対照支点があって、そこから語られたのかもれない。

 それは、「自立学校」が芽生えさえしていない時期、谷川雁が1960年に『思想の科学』に掲載した「サークル学校への招待」でかたっている思想である。ただし、わたしはこれを今泉が読んだうえで言っているというのではない。「自立学校」企画・設立にあたっては、おそらく、山口健二や吉本隆明や谷川、川仁、松田らを中心に、来るものは拒まずという集会がいくどもひらかれ、そこには共感した思想家、芸術家、さまざまな思索・実践のアヴァンギャルディストらが参集し、そこに今泉や早稲田大学学生であった平岡正明や宮原安春もいたのであろう。「自立学校」に集約されていくそこでの議論のなかで、谷川の発言を耳にしていたのかとおもわれる。なぜなら、この論文を読んだ者の主張とするなら、つまみ食いにもなっていない、記憶の残照にすぎないからである。

 のちにふたたび戻ってのべるが、『サークル学校への招待』の一節で谷川はつぎのようにかたっている。


 かねがね学校制度に深い呪いをもっている私は、このような装置として一種の〝サークル学校〟を構成したいと考えている。それは奇妙な病院であり、無形の工場であるといってもよいかもしれないが、いささかポーズたっぷりにいえば、そこでは憎悪、欺瞞、倒錯が道徳的標語であり、それぞれの教科なりクラスなりは、すべて知的エリートを自認してゆずらない労働者、農民の一団と、知的トラストの解体を強硬に主張するインテリ出身の一団との歯をむきだしたいがみあいという風に仕組まれ、進行させられねばならない。(下線は筆者)


 というのである。

 部分的感情表現でいえば、今泉にあった、あの「理解の如何を問わずにいきなり胸をさしつらぬく匕首なのだと思い知るべきである」とか、「その激しい憎悪」、「相互の憎しみ合い」など、あまりにも唐突な感情の落差に読むものがとまどう表現も、谷川のこの言とかさね合わせて読めば、わからぬこともない。そして、今泉のいう「コンミューン学校」も、ことばだけからいえば、谷川の「サークル学校」の換骨奪胎のつもりかとおもえば、すこしだけ納得できる。ただし、これもまた、今泉の「つもり」であって、換骨奪胎ともいえぬ、まるで異次元の主張である。

 谷川は、福岡県中間市で「サークル村」を経営していた。「サークル村」とは、北九州の大正鉱業合理化反対闘争支援のなかで、出版していた文芸雑誌のタイトルである。かれが、その創設にあたりかたっているのは、このようなことである。

 1958年9月にだされた「サークル村」創刊宣言の書き出しはつぎのようであった。


 一つの村を作るのだと私たちは宣言する。奇妙な村にはちがいない。薩南のかつお船から長州のまきやぐらに至る日本最大の村である。九州山口八県のサークル活動家がすでに住民登録帳に姿をあらわしている。もうひとつ忘れてならないのは私たちの「沖縄県」であるが、残念ながらそれはまだである。登録者の数はこれからであり、日々ふえている。その一人一人はそれぞれの単位で大切な動きをしている。村は近い将来はなはだにぎやかになるだろう。一年間に千人の人口。それが仮役場の仮書記が鼻眼鏡ではじいた推定数である。もとより、東京を九千万人の村だと考えている私たちにとって、上下水道と糞尿処理に計画性をもたない人口増加が危険なことは承知している。けれども、全九州の数十のサークルに所属するメンバーが一つの雑誌を軸にして集まるというような事実は、それだけでもかつてない現象である。それに加えて、村のなかに県があるという逆説を、私たちが村と発音するときのきびしくふるえる心もちと向きあわせるならば、故郷のサークル運動がやっとこのような広い場所をみつけだしたよろこびを率直にあらわしてもよいだろう。(下線は筆者)(「さらに深く集団の意味を」[『原点が存在する』に収録])

(注.創刊宣言にこの副題があったのかわからない。あったような資料もあるが、筆者は確認していない。)


 いわれているのは、各地に点在するサークル文芸雑誌が参集した文芸「サークル村」をつくるというのであって、文芸誌の主張としては奇異なものである。しかし、このサークルを労働組合や村や町の青年会とすれば、とうじ脚光をあびていた「総評(日本労働組合総評議会)や、戦前の大日本連合青年団、戦後の日本青年団協議会や青年会議所のおきかえのようにもみえる。

(注.「総評」は、とうじゼネストが問題となるたびに主役を演じていたのは、21世紀の現在、その後身である「連合」が、選挙のたびに新聞紙上に登場するのとおなじである.)


 だが、確信思想信奉者の大衆と「知的トラスト(企業連合)の解体」を信奉するインテリーが灼熱の核融合をするるつぼが、「サークル学校」であるとしたかれのさきの言い分からすれば、文芸誌の「総評」とは、まるで異なるものをめざしているらしい。それをかれが説明しているのが、「さらに深く集団の意味を」であろうが、それを聞いてみるまえに、いままでもふれた谷川の経歴を補強しておこう。

 谷川雁(1923-1995)は、終戦直前、東京帝国大学文学部社会学科を卒業し、戦後、西日本新聞社の記者となり、また、安西均、那珂太郎などとの交遊のなかで、同人誌『九州詩人』や『母音』に詩を発表した。

 1947年、日本共産党に入党し、労組書記長となり労働争議で解雇されて、その後、九州アカハタ支局長となっている。さらにまた、大西巨人、井上光晴らと行動をともにし、1958年には、『母音』で知りあった森崎和江とともに、中間市に移住した。そして、そこで炭鉱労働者のなかで活動する一方、上野英信、森崎和江、石牟礼道子らと『サークル村』を創刊した。創刊時は、共産党の党籍所持者だったというわけである。 

 安保闘争の1960年に、そこでのこれらの活動をめぐって、共産党を除名され、吉本隆明らと「六月行動委員会」を結成して全学連主流派を支援する一方、また、地元の大正炭鉱争議でも、「大正行動隊」を組織して活動をおこなった。「大正行動隊」については前述のとおりである。1961年には『サークル村』を休刊し、吉本隆明、村上一郎と思想・文学運動の雑誌『試行』を創刊したのもすでにのべたところである。そのご1963年には、大正鉱業退職者同盟を組織して退職金闘争を展開している。

 そして、1965年、この闘争の終息とともに執筆を含めた一切の活動を停止し、語学教育を展開する、榊原陽の「株式会社テック(TEC。東京イングリッシュセンター)」の役員就任を要請されて上京、テックが新事業としてはじめようとしていた、とうじでは先駆的な児童向けの語学教育をおこなう「ラボ教育センター」の創設に尽力した。

 というのが、本論、本項に関係する谷川の概略的経歴である。「ラボ教育センター」や谷川じしんについては、「ハイレッド・センター」のメンバー、高松次郎や中西夏之、赤瀬川原平はのちに関係するのだが、それはのちの問題になる。

 こうした経歴のなかに組みこまれている「サークル村」であるから、とうぜんそれは、たんなる文芸誌の『サークル村』ではない。〝サークル〟は文芸を軸とする文化サークルであるが、かれらの活動対象である、労働組合、青年、婦人サークル、協同組合と同列にある単位であり、それらの延長線上にある共同体を視野にいれたものである。

 かれは、そうした文芸誌「サークル村」の意図を、さきの冒頭部につづく説明で記している。


 平凡な発想ではあるが、この裏には中途でくじけたり、むだ花に終わったぼう大なエネルギーがかくれている。たとえば福岡県水巻町の日炭高松炭鉱では昭和21年から今日まで実に13種のちがった名前をもつ文化サークル機関誌が発行されてきた。この努力のなかには数えきれないほどの誤りとほぼ同じ量の血がふくまれている。今日のサークルが昨日の工作者の血を吸って育っていることは記憶されてよい。

 そして雑誌創刊の過程で、私たちの運動は北部九州のサークルを広く刺激し、内部闘争をまきおこし、多くの活動家を結びつけ、さらに北部九州と南部九州の交流の端緒をひらいた。このことの意味はやがて創造活動にあらわれて証明されるとは思うが、これまでのサークルにつきまとっていた自然成長性 ─ 自分だけの実感に頼りすぎるためにかえって自分を狭く浅くしばっていた欠陥を改める組織的保証の第一歩が得られた、と私たちは考えている。

 ただし誤解をさけるために次のことはハッキリしておかねばならない。私たちがやろうとしているのは一つの創造運動であって、九州のサークル運動の代表権をしめてしまおうとするものではない。(下線は筆者)


 一読では、かれの労働運動と混合された主張のように、きこえるかもしれない。しかし、この一文の表明する根幹は、これまでのサークルにつきまとっていた欠陥を改める組織的保証の第一歩が得られた、としているところにあるだろう。これは、現実行動としてのサークル論である。

 サークルがなんであるかについては、かれは他の個所でサークルは「共同体の下部にある民衆の連帯感とその組織である」と、いっている。文芸サークルがそうだということは、ここでつかわれている「民衆」を「大衆」とか「庶民」ということばにおきかえれば、’60年代アヴァンギャルドの言におきかえても、それなりに納得できる前提である

(注.本論、前号でのべたネオ・ダダイズム・オルガナイザーの銀座行進や、「ゼロ次元」の街頭パフォーマンスも、大衆の美術観をゆるがせるその「場」においてはそうであった。また、深沢七郎が詠嘆する基準が、「庶民だなぁ!」という庶民的連帯感にあったことをここで、思い出さねばならないだろう。)


 しかし、だが、その背景説明に、福岡県水巻町の日炭高松炭鉱の文化サークル機関誌の例があげられ、また、とうじの日本に施政権のない「沖縄県」への期待があり、「工作者の血」などいう言辞があると、「政党」がらみの、かれが担当する政治的地区限定の文化サールのはなし、という見方もでるかもしれない。

(注.沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還されたのは1972年である.1958年のとうじは、米軍の対ベトナム戦争の重要基地の役割が政治的に注目されていた.)


 けれどもここでは、その見方はあたらないとおもう。それは21世紀のいまの見方であって、日本共産党の「六全協」の矛盾がだれの目にもあきらかになる1960年の「反安保」国民闘争の以前、’60年代、そして’70年代高度経済成長期以前の1958年では、政治活動の一端とはできない。

 それを谷川の政治的位置からいえば、かれのとうじの共産党との距離は、批判しながらもたがいに理解しあえる夢をまだ捨てきれずといった「位置」だったようにみえる。シュルレアリストのブルトンの政治的位置で言えば、1926年ごろの『正当防衛』を書いた時期、「ラ・ゲール・シヴィル(内乱)」誌の創刊をクラルテ・グループとのあいだで模索していたころの位置である。

(注.関心のある方は、拙著『「シュルレアリスム運動体」系の成立と理論』を参照してください.)


 谷川の記述のあらわすものには、ここではむしろ、かれの直接行動の姿勢を見るべきだとおもう。

  

 まず、いままでやっているところからはじめるのである。行動は、いまここでするものだ。なにかを想定し、なにかを期す行動ではない。かれののべているのは、いまの行動のための理論開陳である。直接行動の理論である。たとえば、さきの今泉の言にあったナショナリストやファシストをあつめて突きあわす自立学校などの議論は、観念開陳のための議論であった。学校創設の直接行動からいえば、ほとんど無意味である。谷川の場合、それは、「創刊宣言」冒頭部の結語が、「故郷のサークル運動がやっとこのような広い場所をみつけだしたよろこび」とむすばれていたことにもあらわれている。

 そして、そうした谷川のここでの直接行動がなんの運動かといえば、「誤解をさけるためにハッキリさせておかねばならぬ」と、かれがいう運動、一つの「創造運動」である。

 それは、一つの創造運動とひとことでいうが、かれの関心は、「運動」にあるのであって、創造は文学創作とダブル・イメージをもつ、かれにとっては先験的な創造である。そのあいまいさが「一つの創造」に露呈しているようにもおもえる。

 その創造については、この「創刊宣言」に引用されている「サークル村」発刊のための「よびかけ」でのべられていた。そこでは、創造とサークルの関係、創造のためにサークルがどのようなものかの原則がのべられている。「サークル村」の原理である。


 いまや日本の文化創造はするどい転機を味わっている。この二三年うち続いた清算と解体への方向を転向させるには、究極的に文化を個人の創造物とみなす観点をうちやぶり、新しい集団的な荷い手を登場させるほかないことを示した。労働者と農民の、知識人と民衆の、古い世代と新しい世代の、中央と地方の、男と女の、一つの分野と他の分野の間に横たわるはげしい断層、亀裂は波瀾と飛躍をふくむ衝突、対立による統一、そのための大規模な交流によってのみ越えられるだろう。共通の場を堅く保ちながら、矛盾を恐れげもなく深めること、それ以外の道はありえない。

 新しい創造単位とは何か。それは創造の機軸に集団の刻印をつけたサークルである。にもかかわらず地方に土着して働く者、われわれのサークルはなおも内部闘争の必要性に立たない甘さ、危機感をもたぬ清らかさ、展望することを知らぬ狭さに覆われている。たとえば、文学は・・・・・[略]・・・・・とくに北部重工業地帯の巨大な職場で運動はすこぶる低調である。創造よりも鑑賞、鑑賞よりも娯楽へ流れる傾向は、音楽と映画の面でもいちじるしい。


 ここに記されていることを、柔軟な展望ができる思想として理解すれば、かれがあたりまえのように示している、冒頭二行半の状況「いまや日本の文化創造はするどい転機を味わっている。この二三年うち続いた清算と解体への方向を転向させるには、究極的に文化を個人の創造物とみなす観点をうちやぶり、新しい集団的な荷い手を登場させるほかないことを示した」を解釈しておかねばならない。

 いわれている文化は、21世紀の文化学が発達したのちにいわれている文化と、芸術・文学作品が表明する文化の二面性をもつ文化だろうが、「この二三年うち続いた清算と解体への方向」とは具体的になにをイメージしているのかわからない。

 しかし、かれの意図をこえて、そのときのかれが知るはずもなかったことからみれば、1955年あたりから、’60年代をつうじて継続する文化価値の「清算と解体の方向」が具体的にはじまっている。造形芸術では、「具体美術協会」が大阪で発足したのが1954年であり、文学では、それまで小説ひとつ文芸誌に掲載したことのない、42歳の深沢七郎が『楢山節考』をナマ原稿で応募し、中央公論新人賞をえたのが1956年である。学生作家石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を獲得しベストセラーになったのが1955年であった。

 造形芸術の「清算と解体の方向」は、本論で前回述べた「読売アンデパンダン」の動向でも示されていた。

 読売アンデパンダン展は、1955年の第7回展あたりから、出品者の顔ぶれがかわりはじめる。戦前からの既成作家の出品は激減し、「具体」の嶋本昭三や、のちのネオダダ・ジャパン(1960年結成)の吉村益信、篠原有司男、ほかにも久里洋二らの、確信的にあたらしい芸術をこころざすアヴァンギャルディストたちが参加しはじめた。嶋本や久里は、正統な美術教育をうけたことないアマチュアともいえないの素人(しろうと)であった。そして、この谷川の「創刊宣言」が書かれた1958年の第10回アンデパンダン展あたりから、絵具を跳ねとばしたり、ひっかいたりした、抽象画ともいえぬ作品が出展され、また、彫刻とはいえぬオブジェが陳列されるようになった。そうした動向について、瀧口修造は、翌年、第11回展(1959年)の展覧会批評で「破られる既成技法─ 若い意欲が“未知〟にいどむ」と評し、期待と危惧をしめしたのは、本論の前号で検討したところである。

 こうしたことをあわせ考えると、谷川のいう芸術・文学の状況把握はかれが意識しているものをこえて予言的であって、状況分析後半部の「新しい集団的な荷い手を登場させるほかないことを示した」はつぎのように解釈することができよう。すなわち、「~を示した」は結果ではなく、「新しい集団的な荷い手」でなければ転向できないことを、しめしたのである。アヴァンギャルド芸術における、「創造の機軸に集団の刻印をつけた」グループへのこのような期待は、ふるくは印象派から、また、ダダイストにせよシュルレアリストにせよ、固執したものであって、いまわれわれが問題としているハイレッド・センターもまたそうである。

 状況分析につづけて谷川がいうのは、個人ではなく集団を必要とする理由であり、その集団のありかたである。かれは、「労働者と農民の、知識人と民衆の、古い世代と新しい世代の、中央と地方の、男と女の、一つの分野と他の分野の間に横たわるはげしい断層、亀裂は波瀾と飛躍をふくむ衝突、対立による統一、そのための大規模な交流によってのみ越えられるだろう」という。

 かれは、文化社会のいっさいの危機の根元は、集合体間の「はげしい断層、亀裂」にあるとする。ここに列挙された労働者と農民知識人と民衆古い世代と新しい世代中央と地方男と女一つの分野と他の分野は、そのことごとくが、21世紀の現代においても日本社会のみならず世界で、いまあらためて問題となっている克服すべき断層・亀裂の課題である。労働者と農民については、かれのなかでは北九州地区の労働者と南九州の農民との文化「断層」を念頭にした発言なのだが、工場労働者と農民は、とうじのソ連邦の国旗がデザイン化された槌と鎌であったように無産者政党の象徴であった。しかし、ある意味では、ソ連邦の経済破綻の根元は、たとえば「五ヶ年計画」にあったように、この団結の象徴たる労働者と農民の亀裂を拡大させたことによるものである。そしてまた、それを、電気・工業産業と農・漁業産業の生産形態の断層とすれば、21世紀の今でも、東北大震災・原発事故によって日本でおこっている破綻、あるいは、地球環境問題にあらわれているように、集団断層の拡大は破滅的方向にすすんでいる。さらに、「知識人と民衆」の亀裂は、政治分野では、アメリカ合衆国をはじめ昨今の民主主義国家の選挙にみられる「ポピュリスム」といわれるかたちで深刻化している。いか、「古い世代と新しい世代」の亀裂、「中央と地方」「男と女」の断層についても、いまさら言うまでもないことである。

 それは、本論にもどれば、’60年代日本のアヴァンギャルド芸術が、20世紀アヴァンギャルドそのものもまた、遭遇し克服しょうとしていたのもこの集合体断層であったとすることができる。

 古い世代の芸術家と新しい世代の芸術家の亀裂、東京と地方、あるいは、ニューヨーク・パリと世界他都市の芸術家の関係、あるいは、「一つの分野と他の分野の断層」に、絵画と彫刻の断層やジャンル間の断層をふくめれば、それらことごとくは、’60年代日本の「反芸術」の芸術家らがのぞき見た深淵であった。

 また、芸術・文学における「知識人と民衆」の断層は、20世紀アヴァンギャルドでは、「万人のための芸術」や「芸術の生活化」という課題をことさらに提示しなければならぬように、存亡にかかわる難題だった

(注.「男と女」の断層は、20世紀初期のアヴァンギャルドや’60年代日本のアヴァンギャルドは、これを正視しなかったとおもわれる。ブルトンの『狂気の愛』などは、それを脱皮できなかった典型かとおもわれる。これをアヴァンギャルディストが問題視するのは’80年代あたりからであろうが、はたしてそれも定かではない.「男と女のアヴァンギャルド」は検討すべきテーマではなかろうか.)


 そして、谷川は、そうした労働者と農民、知識人と民衆、~~~ という共同体内の集合体間の断層を震源とする「文化創造の清算と解体の方向」の転向は、「文化を個人の創造物とみなす観点をうちやぶり、新しい集団的な荷い手を登場させる」いがいはできないという。この現状分析のうえで、かれは、そうした分断、分裂をかかえた文化創造集合体が、新しい文化創造をするためのあるべき様態を主張する。

 それは、そのなかでたがいが波瀾と飛躍をふくむ衝突、対立をし、そこから統一をみいだすことである。かれは「衝突、対立による統一」、「そのための大規模な交流」、「共通の場を堅く保ちながら、矛盾を恐れげもなく深めること」という。「それ以外の道はありえない」と、おもいいれのこもった断言をする。

 いわれているかれの言で注目すべきは、打倒ではなく統一といい、「大規模な交流」といい、波乱と飛躍をおさめるのではなくさらにひろげ、矛盾を鎮静化するのではなく、深めるといっていることである。存続をはかるのではなく、拡大をはかるのである。ここには自己満足のヒロイズムも自殺願望もまるでない。自己陶酔も自殺も、それは個人の所業である。かつての日本、敗戦間際の日本には、小は特攻隊から大は大日本帝国軍事政権にいたるまでの、集団的な自己陶酔と自殺願望があった。

 年齢的にそうしたことを知りつくしていたはずの谷川は、その危惧を想定していたのか、集団の分類をおこない、「新しい創造単位とは何か。それは創造の機軸に集団の刻印をつけたサークルである」と強調して定義している。この定義には言外にかれの政党批判がひそんでいるのだろうが、十分な説明がこの「宣言」にはほどこされている。

 要約すれはこのようなことである。

 古来、共同体の形態は、民族的特性としてつぎの3種にわかれている。ギリシャ・ラテン型である戦闘機能形態、ゲルマン型の会議機能形態、アジア型の生産機能形態である

(注.かれの本文では、この分類はマルクスの『資本制生産に先行する諸形態』によるとされ、解説されているが、煩瑣であるから省略する.)

 

 この3形態にあてはめれば、政党や労働組合は戦士共同体組織であり、青年・婦人組織は、会議共同体組織であり、文化サークルや協同組合は、生産共同体組織である。

 したがって、生産共同体組織である文化サークルは、戦闘的労働組合運動や政党運動ではなく、また、知のスキンシップたる意見交換の会議形態の青年・婦人会運動とは性格を異にするものである。ましてや、そうしたことが、さきの、波瀾をおさめるのではなくひろげ、矛盾を深めることをおそれないにあり、政党、労働組合組織や青年・婦人会の様態とはちがうことを、感情のこもった表現でかたられていたのであろう。

 そして、かくあるべき内部闘争を必要不可欠とすべき文化サークルの現況についてかれは指摘している。「とくに北部重工業地帯の巨大な職場で運動はすこぶる低調である。創造よりも鑑賞、鑑賞よりも娯楽へ流れる傾向は、音楽と映画の面でいちじるしい」と引用最終部でのべている。

 ここで、かれが直接指摘する対象は、1950、60年代日本で労働界のみならず、あるていどまで社会全域を風靡した「うたごえ運動」や「労音(勤労者音楽協議会)」、映画サークル協議会、美術サークルのことであるが、とうじでもすでに、これらは狭義の労働界にとどまることなく、「新音楽協会」や「コンサート協会」、シャンソン喫茶やアマチュア撮影会、日曜画家サークルがうまれつつあった。一般的視野をもてる指摘である。

(注.とうじの「シャンソン喫茶」は、シャンソンを聴くだけでなくお客が舞台でうたうことができた.いまのカラオケ喫茶の前身である.)


 そうしたものが文化創造サークルとしては「すこぶる低調である」として、その低調の容態を「創造よりも鑑賞、鑑賞よりも娯楽へ流れる傾向」と指摘する。

 これは、極値化された労働者集団や市民文化サークルにとどまることなく、’60年代アヴァンギャルド芸術・文学一般の動向にも適用できるものである。かれじしんのなかでも、もっぱら新しい文化創造の、新しい文学創造活動をする集団を前提にしている。

 ならば、「創造よりも鑑賞、鑑賞よりも娯楽へ流れる傾向」の指摘は、これもまた谷川じしんの意図を逸脱するが、この直後の時期から本格化する’60年代日本アヴァンギャルドがもたざるをえない、グループの属性を予告するものであった。

 芸術家において、創造よりも鑑賞へ流れる傾向とは、じぶんの頭脳と手と足と身体をうごかしてつくること、つまり創造より、鑑賞者、すなわち、他人の目によって制作することである。じぶんもふくめる仲間の目にどのように見えるかを基準にすえた作品制作である。この場合の仲間の目とは、かならずしもグループの仲間とはかぎらない。アヴァンギャルド評論家の目であり、また、極端にいえば、アヴァンギャルドの大先達たちに想定された視線である。その結果は、’60年代アヴァンギャルドの独創的と称せられた作品が、ひとつならず似たような方向をしめし、また、芸術家人生の視点からいえば、一貫性を欠き、発展性のないその場かぎりの作品例がひとつならずならずあることに、あらわれている。

 そして、さらに、谷川の指摘する「鑑賞より娯楽へ」は、とうぜん、「上野の森のドンチャン騒ぎ」を頂点とする楽しい集まりという解釈でとどめてもよいが、さらに深読みをすれば、つぎのような解釈もできるだろう。

 「鑑賞より娯楽へ」を「鑑賞より快楽へ」と、読み替えるのである。

 無形のものを有形化する「創造」のためでなく、アヴァンギャルド共同体の目にしたがって頭と手と足と身体をうごかすのでもなく、「快楽」をめざして制作するのである。

 快楽には精神的快楽と物質的快楽がある。ここでいうこのふたつの快楽は、金銭的価値によってはかられるのが物質的快楽であり、名誉欲をみたしステータスで計量するのが、精神的快楽というていどの意味合いをもつ区分である。

 たしかにこうした傾向は、すでにこれまでわれわれが見てきた、「反芸術」をめぐる’60年代日本の芸術アヴァンギャルド・グループの動向でも瞥見されたのはたしかである。また、それらは、アヴァンギャルド・グループが入りこんだ元のモクアミの袋小路への道程を予告するものであった。

 だが、他方では、こうした、そのひとつ、ひとつは、いかなるあたらしい芸術でも、その糧とせざるをえないものである。影響されるにせよ、批判するにせよ、「他者の鑑賞」の支点がなければ、芸術創造は構築できない。そしてまた、さきにのべた意味での物質的保証や精神的保証がなければ、芸術家である社会存在とその行為は、(現実としては)たんなる空論となる。

 そして、そうしたことが、とうじのアヴァンギャルドをゆるがせた混迷の底流にあった。すでに、われわれが話題とした範囲でいえば、荒川修作がネオダダ・ジャパンから追放されたのは、かれが、商業画廊で個人名を冠した展覧会を開催したことにあった。また、似たような作品を発表しているといって、伊藤隆康と工藤哲巳のあいだで議論が紛糾したのが、あの1961年におこなわれた「〈若い冒険派〉は語る」の座談会であった注1。 さらにまた、戦後日本の芸術アヴァンギャルドに無視できない影響をおよぼした「読売アンデパンダン」展の解体は、東京都美術館が制定したあの「陳列作品規格基準要綱」による鑑賞作品の内容規定であり、それにたいするアヴァンギャルディストたちの不明確な対応であった注2

(注1.「4)‘60年代日本の『反芸術』(その2)②芸術作家の『反芸術』 」[『百万遍』No5]/   注2.「③『読売アンデパンダン』から『ハイレッド・センター』へ」[『百万遍』No6]を参照)

 前号までで検討したそれらの経緯からもわかるように、こうした谷川のいう、創造活動における、「想像より鑑賞、鑑賞より快楽へ流れる」傾向、運動変質の宿痾は、これらを個別的に、すなわち、芸術鑑賞の問題から、あるいは、「芸術と精神・物質的快楽」の問題から解決をはかることは、アヴァンギャルド・グループとしても、現実的には賽の河原の石積みのような不可能神話に類いし、また、不毛な議論である。神話的アヴァンギャルド・グループであったシュルレアリストたちでも、ある見地からみれば、それらを問題視し離合集散をくりかえしたのだが、ブルトンじしんでさえ、完全無垢な回答者であったとはいえない課題であった。

 ならば、転機にある「文化創造」を実効的に実現する文化サークルのやるべきことはなにかについて、谷川はサークルの組織のあり方としてかたっている

 かれは、サークルの実情と問題点を、まず、つぎのようにいう。


 サークルは今のところ ・・・・・・・・ 理論信仰と実質信仰を同時にそなえた、すなわち内部分裂をかかえこんだ集団である。それを恐怖する必要はない。それこそようやくにして現代における組織人の思想的、芸術的出発点である。だから、自分の狭さをうちやぶることはただ巾広く交流すればよいというような、いぜんとして量的な視角にとどまるものではない。異質のものを自分のうちにくわえこみ、ひきずりこんで食べてしまうことでもない。そればかりでなく、相手にも自分を消化させるためにおしつけ、自分の異質の肉を食べさせねばならない。


 あきらかにサークル組織論であるが、この組織者は、そとからサークルを組織する者(創立者、勧誘者〈organizer〉)ではなく、内部の構成者〈composer〉である。そして、文化サークルにかぎらず、ほとんどすべての集団組織に適用できる指摘であるが、集合体である創造サークルとしてみればその意味は、燦然と光輝をはなつ。

 現代におけるサークル組織の最大の課題は、理論信仰実質信仰の軋轢をどう克服するかにあるようにみえるがそうではなく、その軋轢の活性化であるという。ここでいわれる理論信仰と実質信仰は、付加されている「信仰」は別として、いずれも、思想的芸術的創造行為をささえる不可欠の支柱である。

 だが、かれがいいたいのはそうしたことではないだろう。実質信仰は、宣言文の冒頭部にある引用した、組織的に改めるべき欠陥、「自分だけの実感に頼りすぎるためにかえって自分を狭く浅くしばっていた欠陥」にある実感主義にちかいものをいうのだろうが、むしろ、ターゲットはそこにあるのではないだろう。

 かれはつづけてのべている。


 サークルの実感は尊重さるべきである。それは政党や労組が最終的には多数決の原則による民主主義の量的な側面に依拠するのに対して、民主主義の質的な側面を充足する。しかし実感主義は否定さるべきである。それは実感そのものにも二種類の異質な系統があり内部に閉鎖されることで完成しようとするものと、外部へひろがり自己を越えることで矛盾を深めもう一つの大きな自己、大きな集団へとけこむものを区別できないからである。


 政党や労組がよってたつ「多数決の原則による量的」実質主義、しかも、それは自分(すなわち執行部)だけの実感を根拠とする集合体の実感とはちがうものだという。文化組織は政党や労組組織とは反対の方向をめざすというのであろう。「異質のものを自分のうちにくわえこみ、ひきずりこんで食べてしまう」のでなく、「内部に閉鎖されることで完成しようとする」ものでもなく、「相手にも自分を消化させるためにおしつけ、自分の異質の肉を食べさせ」、「外部へひろがり自己を越えることで矛盾を深めもう一つの大きな自己、大きな集団へとけこむ」組織でなければならない。

 これは、芸術創造や科学創造(発見)行為の基本である。理論によって現実把握がかわり、現実把握によって理論が修正される。科学における、理論と実験・観察の関係、あるいは、医者が患者診察をするときの病状把握における、理論と実感の関係とおなじであって、さほど思想的に斬新な考え方ではない。

 かれの指摘で重要なのは、こうした考え方、すなわち、理論ではなく、その行為の主張である。つまり、苛酷にかわることを推奨したことである。サークル内の内部抗争を必要不可欠にし、外への拡大のためのサークル解体を躊躇しないことである。サークルは内部抗争と分解によってのみ存在意義を発揮できるというのである。この指摘は、芸術運動、あるいは、文化組織運動では注目すべき視点であった。

 たとえば、文芸雑誌や芸術運動の機関誌は、長期間刊行されるのではなく、短期で終刊するものが多い。それが、どのように終刊するかにその雑誌の価値があらわれるという見方にもなる。ダダ でも『ダダⅠ』から『ダダⅣーⅤ』の4冊で終刊した。初期シュルレアリスムでも『シュルレアリスム革命』誌は9-10合併号で、『革命に奉仕するシュルレアリスム』は6号で終刊した。「ダダ」誌の解体後の一部は、『391』誌やシュルレアリスムの2誌に移行したともいえるし、『革命に奉仕するシュルレアリスム』は『シュルレアリスム革命』が解体展開したものであった。また、『サークル村』自体も、創刊3年後の1961年10月に第4巻第6号で休刊している。『サークル村』では、すでに刊行中から、構成者の女性中心の『無名通信』誌が刊行されているが、これは、「創刊宣言」の谷川らの主張が実践されたことによる「生産」ということができよう。

 また、まったく逆のケースでは、「中央公論」事件の場合がある。中央公論は、1960年11月の「風流夢譚」掲載によっておこった「出来事」のさい、「中央公論」誌を廃刊にし、嶋中鵬二は中央公論社を解散すべきであった。とうぜんそれにいたるまでに、右翼や「朝日新聞」などの論難に苛酷に対抗し、社会にむけて、フィクサー介入などがあったその現状を公開し、その結果としての発展的解散である。そして、必要があるのなら、中央公論新社などという自己満足のゴマカシでなく、解体の実績のうえに「出版社」を設立して、出版をおこなうべきであった。それが、谷川のいう「清算と解体への方向」を転換させる’60年代日本の文化創造組織のあるべき、そしてまだ’60年代初期では有効であった現実行動であり、社長の嶋中鵬二や、顧問たる評論家の鶴見俊輔らのすべき行為であった。「中央公論」がそのときやった延命のための「行為」が、その後のそして21世紀の今の、奇妙な「天皇制」文化形成の契機であったのがあきらかなだけに、そうおもうのである。しかしこれは、ここでの課題をはなれた第三章の問題となるが、’60年代の日本のアヴァンギャルドをかたるうえでは、1958年に書かれた「創刊宣言」と1961年におこった「中央公論事件」は状況的に密接な関係があり、注目すべき関連がある。


 ここで谷川が直接いうのは、こうした活力をもつ組織についてである。そうした組織で意味あるものについて、「創刊宣言」ではつづけてかたられている。最初に引用した一節につづくもので、「理論信仰」と「実質信仰」の同時性を出発点とすべきことの説明である。文化サークルにおける「理論信仰」と「実質信仰」の乖離は、それに気づくにせよ気づかぬにせよ、外部からみた位置づけの決定的要因となるものであった。ことに20世紀の芸術アヴァンギャルド芸術運動ではそうであった。イタリヤ未来派やシュルレアリストたちの運動にはじまり、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーたちやこのハイレッド・センター創設者たちの、本論でいくども例にあげた「作品」や芸術パフォーマンスを、「若者たちのひとりよがりのバカ騒ぎ」とみたものがいたのも、そこに遠因があったとおもわれる。

 (蛇足的説明になるが、芸術サークルの制作行為に即していえば、「理論」信仰は、仲間内が承認する「芸術」、たとえば、デュシャンのレディーメイドにはじまるオブジェ観や素材・色彩・形態観などであり、実質信仰とは、それらをアプリオリに選択し、制作にはげみ、これで「よし」として制作をとめる実感である。現実の制作では、この実感の熱意、純粋性だけが、当事者たちの目にうつるものである。そして、当事者外の目は、その「理論」からみようとする。ただし、これは一例であって逆の場合もあることをはむろんである。実質信仰にめざめ、理論信仰など若気のいたりと片付けるような場合である。)


 そうした、創造運動組織における「理論信仰」と「実質信仰」を、正面からとらえてその関係を問題視して、かれはこのようにいう。

  

 ここで工作という機能の位置づけが問題になる。単純に表現すれば、高くて軽い意識と低くて重い意識を衝突させ同一の次元に整合するという任務である。このことは当然に工作者をして孤立と逆説の世界へみちびく。彼は理論を実感化し、実感を理論化しなければならない。知識人に対して大衆であり、大衆に対しては知識人であるという「偽善」を強いられる。いずれにしても彼はさけがたく「はさまれる。」 この危機感、欠如感を土台にした活動家自身の交流が現在の急務である。


 構成する者のその関係への対峙のやりかたである。いうまでもなく「高くて軽い意識」は理論信仰にあたり、「低くて重い意識」は実質信仰に該当するものであろう。かれは、それらを衝突させて同一の次元に整合させるのが工作者の任務だという。

 ここでふたたび、1958年のかれがもちいる用語を、21世紀のわれわれは、検討し、解釈しておかねばならないだろう。

 活動家は、芸術文化サークルでは、芸術活動する芸術家と読みかえたらよいが、工作者については吟味しておかねばならない。(注.芸術活動とは、ここでは制作、演技だけでなく、目的、準備、発表すべてをふくむものとしている.) 谷川じしんのさきにのべたかれの「政治的位置」からみて、政党・労働組合組織者もまじる読者を想定したタクティクスもあろうが、かれのなかでは整合性ある表記である。工作者は、一般的には諜報活動など、隠密裏の活動をする人であり、工作は、ある目的を達するために、計画をめぐらせたり、下準備をすること、「陰にまわって工作する」とか、「和平工作」のように使用されることばである。だが、むしろここでは、社会学用語である、ホモ・サピエンス(homo sapiens)(知性人) にならぶもうひとつの人間の定義、ホモ・ファベール(homo faber)《工作する人:モノを作る道具を製作する人》を考えるべきであろう。

 文化創造サークル(芸術サークル)の組織者(構成員)はまさに、このホモ・ファベールにちかいものである。芸術サークルの組織者は、ヒトを集めれば任務終了というわけでなく、モノや行為の芸術(美術・文学・演劇・舞踏・・・・)化をはかる工作者である。

 ところが、かれのいう「文化サークル」は、「実質信仰」と「理論信仰」の同時性を出発点におかねばならない。

 そこで、この工作者は、孤立と逆説の立場に立たざるをえなくなる。なぜなら、理論信仰をするのは、ホモ・サピエンス(知のヒト)の人であり、おおむね芸術創造者は実質(作品制作)信奉者であるとかれがしていると考えれば、この孤立逆説の必然的立場が比較的わかりやすくなる。芸術工作者は、ホモ・サピエンスにたいしては、ホモ・ファベールになり、ホモ・ファベールにはホモ・サピエンスにならざるをえないのである。そして、むろんこの裏切りは、じぶんのなかのホモ・サピエンスとホモ・ファベールでも苛酷に果たされなければならない。

 そして、かれがそのつぎにのべる、知識人と大衆の関係は、知識人をホモ・サピエンス、大衆を実感主義のホモ・ファベールとすれば、いちおうの納得はできるが、ここで、さきの 「労働者と農民の、知識人と民衆の、古い世代と新しい世代の、中央と地方の、男と女の、一つの分野と他の分野の間に横たわるかずかずのはげしい断層 のなかで、ことさらに知識人と大衆の断層をもちだしているのは、アヴァンギャルド芸術運動にとってもきわめて重要な指摘である。

 芸術家と大衆の断層は、アヴァンギャルド芸術家にとって必須の問いであり、また、そうでありながら一貫性ある有効な回答を見いだし得ていない課題である

(注.ここでの議論で、大衆にたいする芸術家と知識人の関係を同一視するのは論理的に飛躍するのは承知のうえで、同列におくが、「サークル村」をかたる谷川ではさしつえないであろう。参考文献:「権力止揚の回廊─自立学校をめぐって」 および、「サークル学校への招待」)


 20世紀アヴァンギャルドの開始をつげたイタリア未来派のマリネッティーもダダのツァラ、シュルレアリスムのブルトンも、大衆の支持がえられないのに落胆した。その失意は、20世紀後半のアヴァンギャルディストたちに継承されたなかば合意事項だったが、それでもなんらかの期待を捨てきれなかったのも事実だったし、大衆の支持がかれらの存在にかかわることを暗黙裏に察知していた。たくさんの観客や聴衆の関心を、称賛でなくとも、かきたてることができれば、かれらは歓喜した。チューリッヒの「ダダ の夕べ」にあったような熱狂である。また、「映画」制作に極端なかたちであらわれるように、観客保証のない作品制作は成立しない。大衆は存立の十分条件であった。そしてかれらは、この課題にさまざまな対応をしている。それは、その個々のアヴァンギャルド性を決定するものとなる。

 ブルトンは、さきにもふれたような、マルクス・レーニン主義と現実のフランス共産党の狭間(はざま)のシュルレアリスムの位置をさだめるために書いた、「シュルレアリスム第2宣言」の核心部分で結論している。


・・・・・・・・・ 大衆が口を挟んでくるのを断固阻むべきである。さらにつけ加えれば、侮蔑と挑発の方針をもって、大衆を戸口の外でかってに憤慨させておけばよい

 わたしはシュルレアリスムの真っ当で深遠なoccultation(秘教化) を要求する。

 この点については、わたしは絶対的に厳格である権利を要求する。現世への譲歩も特赦もない。即時履行の契約である


 と。

 表面的には、大衆のシュルレアリスム支持を拒絶するものである。

 ここでいわれている、シュルレアリスムの「秘教化」〈occultation〉は、日蝕や月蝕のような「星食」であり、月が恒星を隠すような「隠蔽」をあらわすことばである。〈シュルレアリスムを隠す、シュルレアリスムは見えないところで輝いている〉であるが、占星術の〈見えないところにあるものが、すべてに「影響」(influence)[神秘的力]をあたえる〉に由来することばである。つまり、シュルレアリスムは隠されたところから、日蝕時の太陽のような神秘的影響力を社会にむけて発すべきものだということである。

 これは、現実の組織形態としてみると、『シュルレアリスム(第1)宣言』でしめした芸術家共同体を一歩ふみこえて、フリー・メイソン的秘密結社化することである。フリーメイソンは、〈Free mason〉(英)〈franc-maçon〉(仏)であるように、〈石工〉を名称にふくみ、具体的現実社会を前提においた、善意の秘密結社、秘密の社会改革友愛結社である

(注.17世紀成立の英語〈free mason〉を語源とするフリー・メイソンは、中世ヨーロッパの石工組合を発展的に継承した思想(イデオロギー)結社である.石工(mason, maçon)は、石積み職人であるが、古代ギリシャ・ローマ以来、「石積み」は、都市城壁や建築物(日本の建築物が柱を支柱にするのにたいして、ヨーロッパ家屋は、石積み、レンガ積みの壁面を支持体とする)、上下水道など、人間の社会生活の根幹を支える技術(アート)である。ピタゴラス、アリストテレスが築城の専門家でもあったことはひろくしられている.かれらにあっては、幾何学・代数や人間哲学と互換的思考対象であったにちがいない.〈石工〉はこのような意味を託されたことばであろう.)


 アヴァンギャルディストが、みずからを大衆から隠れたものに擬するのは、ブルトンにかぎることではない。20世紀後半の、芸術家と大衆の断層を芸術家の側から意識した、われわれもすでにあつかった、「ヌーヴォー・レアリスム」のイヴ・クラーンも、現存する薔薇十字団の秘儀加盟団員であった。また、アメリカのアヴァンギャルド詩人やミュージシャンでオカルト(occult)集団に加入していたものはおおい。

(注.第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」─ 2) ‘60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌヴォー・レアリスム』の場合)[『百万遍』4号掲載]


 20世紀アヴァンギャルディストの秘密結社へのかかわりは、現代におけるアヴァンギャルド芸術の本質にふれるものかもしれない。

 しかし、それは、ブルトンのいうように、神秘思想から芸術思想にアプローチするという神秘思想そのものへの関心からというより、アヴァンギャルド芸術と大衆の関係、つまり、「断層」の関係から派生した傾向としたほうが、発展的に考えることができるかもしれない。

 つまり、たとえばブルトンがしばしば引用するニコラ・フラメルの「錬金術」やアグリッパの「隠秘哲学」などの思想から、20世紀アヴァンギャルドたるシュルレアリスムの思想をみようとして、矛盾撞着の罠におちいるのは、この半世紀間のこの種の研究からもあきらかである。

(注.ブルトンは、引用文の注釈で occultation を説明している。「古い諸々の科学のなかでは、占星術、新しいものでは (とくに cryptesthésie[第6感、透視術、死界交信等]に関する)超心理学 (超常現象)といった、種々の点から見て、今日ではすっかり信用を失っている諸科学にたいして、われわれが真剣な再認識の目をむける ことが、きわめて有益であるとわたしは考えている。必要な最小限の警戒心をもってそれらの科学に近づけばよいわけであって、そのためには、いづれの場合にも、確率計算の正確な、実証的な考え方をもてばじゅうぶんである。 ・・・・・・・・・・・これらを通じてわれわれは思考の興味ある可能性を、その共同化 (sa mise en commun)の可能性ともいうべきののを浮かびあがらせたつもりである。いづれにせよこの方法によってきわめて顕著な関係がうちたてられ、注目にあたいする類似が明らかになり、ほとんどいつの場合にも説明のつかぬ絶対因子が介入することは、それこそはもっとも異常な出会いの場所のひとつであることはまちがいない。」  あきらかにシュルレアリスムの共同化(大衆化)を視野にいれたものである.)


 他方、谷川のように、現実における芸術家と大衆の断層の視点から、ブルトンの〈occultation〉をみれば、それは現実にあるその断層の直視を回避するものとみえなくもない。これらは、われわれのハイレッド・センターでもさまざまなあらわれ方をしている。その検討は、本稿ののちでおこなう。

 ところで、谷川の場合は、それは、芸術・文学に限定するのではないが、かれはこの断層問題の立場から、かれの「自立学校」を企画していたとおもわれる。

 かれの「自立学校」は、今泉の「自立学校」との相違においてもみなければならぬものがあり、あわせてみしておこう。

 谷川は、『白夜評論』(9月号[1962年8月25日発行])に「あなたのなかに建設すべき自立学校を探究しよう!」を発表している。『白夜評論』は石井恭二経営の出版社、現代思潮社が発行する文芸・評論小冊子であり、発表されたのが「自立学校」開校直前の時期であるから、「自立学校」の事実上の宣伝をかねたものであろう。

  

 なにものにもなりたくない! 名づけようのないものになりたい! ひっぱってもつまんでも変わらないおれと、猫の目のように変わるおれとの間の、そのすきまの、かっこうのつかないところに、ほんとうのおれがいる。「おれ」といってよいのか、「いる」といってよいのか。とにかくおれは、そこにきまってあぐらをかいているおれが気にくわぬ。

 おれはおれをもっとはさみつけ、おれはおれをしぼりだし、空っぽのチューブになりたいのだ。しぼりだされたものがどんなにあざやかな血の色をしていようとも、おれはそのために動くのではない。もはや残りすくなくみえるすきまが縮まれば縮まるほど、そこは広大な宇宙に近づいていくからだ。

 あなたはそういうふうに考えたことがありますか? 個人は割れており、割れている個人のなかに集団があり、その集団を外におしのけるにしたがって、深刻な集団が個人のなかで息をしている。あなたのなかの追いつめられたひとしずくの集団と闘うべし。そうすれば、あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく。

 とはいうものの、しょせん人間が自分の足で立つことを教えてやろうとか、教えてもらおうとかは、できっこない相談でしょう。不可能であるはずのものを可能であるような顔をして、高い月謝をとるのがいまの学校なんで、それならば、いっそ不可能を公言する学校というものはできませんか。

 自立学校は、永久に存在することのできない学校です。矛盾の粋、逆説の華。名づけようのない人間になるための、ありうべからざる学校です。もしそんな学校があるとしたら・・・ということを構想し、力いっぱいそれに接近しようとする悪戦苦闘だけがこの学校の教課なのです。

 だから、この学校の授業料はとびきり高くつきます。ひょっとすると、あなたの生涯のすべてをもらうことになるかもしれません。よし、くれてやろう、そのかわり、既成の価値をためこんで、精神の領域における独占と帝国主義を、何くわぬ顔で強化しようとするやつらを、まずこの学校で、あたるをさいわいノック・アウトしてやる。そうしなければ、労働者だのインテリだの、ちょろいレッテルがおれの顔にはりついて息ができない。

 そういう人はいませんか。それがつまり入学資格です。

 知性のロードワーク、思想のボディビル、そしてあなたの両手に絶対のパンチをつけることが教育方針です。

 看板にいつわりありと思ったら、学友をつれてどんどんやめること。やめてほんとの自立学校をつくりなさい。そっちがほんものだと思えば、こちらはいつでも解散しましょう。


要綱

一 システムと運営

 学校関係の若干名によって運営され、運営グループの内の若干名によって事務を処理する。

二 先生

  秋山清、栗田勇、佐野美津男、谷川雁、寺田透、中野秀人、中村宏、埴谷雄高、日高六郎、藤田省三、森秀人、吉本隆明。

 (以下交渉中)安部公房、荒畑寒村、石川淳、上原専録、内村剛介、針生一郎倉橋由美子瀧口修造、田村栄太郎、寺山修二(ママ)、中岡哲郎、益田勝美、森崎和江

三 臨時先生

 大道香具師、オワイ舟の船頭、芸人、呑屋の女給、屑屋、零細企業の職人等、すなわち、都市下層労働者を中心に。

四 時間割

   週二回、月一回全員シンポジューム

五 場

   早稲田 観音寺

六 開校日

   九月十五日

   茗荷谷 社会福祉会館

七 費用

   一人 一ヶ月 500円

八 仮事務所

   千代田区西神田二の十九

    石井恭二

九 参加手続  (略)

十 その他

   入学無資格者 おしゃべりだけが好きな人

   学校の解散  学校は二年つづけばたくさん。



 案内状をかねた募集要項である。10項目の要綱は、今泉の記述と、現実的にはほとんどかわるものではない。今泉が「~ない、~ない」づくしで、閉校とか崩壊とかをセンセーショナルにまきちらしたもののひとつ、「教師・学年・学期・クラス制を承認しない」も、ここの時間割、「週二回、月一回全員シンポジューム」と、その他項目の「入学無資格者 おしゃべりだけが好きな人」をみると、週二回おこなう先生を囲んだ座談会と、月一回開催の全員参加のフリー・トーキングの会で教科が構成されているのがわかる。

 生徒募集要項として、今泉がまったく言及せず、また、黒ダライ児の『肉体のアナーキズム』にもなかったのは、講師欄の臨時先生であった。現代の大学でも、募集案内の必要事項のひとつは授業担当者である。それによって、だいたいどのような学校かがわかるものである。そこに、臨時先生として、都市下層労働者を中心とする「大道香具師、オワイ舟の船頭、芸人、呑屋の女給、屑屋、零細企業の職人等」がならんでいた。常勤先生として記載された秋山清にはじまり吉本隆明におわるメンバーと比較すれば、まさに「知識人と労働者の断層」を表示する講師陣である。

(注.21世紀の現代ではややわかりにくい職業がある.オワイ船は、住民が排泄した糞便を運ぶ手漕ぎ舟であり、大道香具師は一般に、叩き売りをする露天商である.’60年代初期の日本ではまだみられた業種であった.)

 

 これは、いちぶ実現した「授業」だったようだが、正規先生については、やや谷川独自の選択と期待があらわれているとみえる。掲載の12名については、黒ダライ児も、今泉が他のところであげている資料とも一致する。ただ、両資料にはある、澁澤龍彦と森本和夫の二名が欠落している。欠落の理由は、いろいろ推測できようがよくわからない。ただ、渋澤はすでに「サド裁判」がはじまっていた時期であり、フランス文学者の森本は、石井恭二の親しい関係者であったことだけを指摘しておこう。

(注.「絵描き共の変てこりんなあれこれの前説4)[仁王立ち倶楽部@CHRIS005[1985年10月]」:これは20年後に書かれたものであり、とうじの今泉の「美学校」校長たる立場からのべられた、やや自分の存在意義を誇張するきらいがあるが、事実については後の調べにせよ、信頼性がある.本論では、それらを考慮して、一次資料には使用しない.)


 だがここでは、そうしたことよりむしろ、「以下交渉中」の先生に、谷川の思想がつよくあらわれているようにおもう。荒畑寒村、上原専録、内村剛介、中岡哲郎、あるいは、田村栄太郎らは、「自立学校」共同提案者の吉本隆明や山口健二らの同意がある選考だろうが、森崎和江と益田勝美の実績はともかく、かなり個人的な一方的選択かとおもわれる。だがそれより注目すべきは、石川淳は新人ではないが、安部公房、倉橋由美子、寺山修司らあたらしい小説家、実作家と、アヴァンギャルドの芸術評論家、瀧口修造と針生一郎をあげていることである。

 これは、文学作家の活動と造形芸術への、気配りのひろがりをしめす。針生一郎は「1960年安保」を契機に日本共産党の政策を批判し離党しているし、瀧口の戦前からの行為は広く知られていたから、政治的判断基準が加味されてないとはいえぬが、かれらはアヴァンギャルド芸術プロパーの芸術評論家である。かれらの一般人の目に映る活動は、『美術手帖』や『芸術新潮』、『みずえ』などの美術雑誌や、『日本読書新聞』、『日本図書新聞』という、とうじの体制批判の週刊新聞の美術欄にかぎられていたから、九州在住の谷川は、それらの領域に関心をひろげていたことになる。かれのいう文化創造活動は、どこまで現実のアヴァンギャルド造形芸術作品をみたうえでのことかは別にして、アヴァンギャルド芸術をふくめるとしたのはたしかだろう。そして、そうした関心が、かれの言説のはしばしに滲みでて、われわれが扱うとうじのアヴァンギャルディストたちの琴心にふれあうものがあったとおもわれる。たとえば、このハイレッド・センターの組織者、高松、赤瀬川、中西たちでも、中西は、現代音楽の小杉武久とともに、川仁、今泉経由とはいえ、自立学校開校時にあたり、さきにのべた芸術デモンストレーションをおこなっている。そして、赤瀬川はかれののちにおこなう芸術活動で、さまざまなかたちで谷川に言及し、かれを援用するのである。このことは、『芸術的抵抗と挫折』や『言語にとって美とは何か』のベストセラーを書き、マンガ論にいたるまで手をひろげている吉本隆明にたいしてでさえ、だれも、どこにも言及せず、また、交渉をもとめた形跡がないだけに、注目すべき関係である。

 そのことは、この案内書の本文たる募集要項の前文によくあらわれている。

 案内書の前文は、「自立学校」の教育目的である。それは、まず、自立の意味必要をのべるのが通常だが、そんなことはほとんどされていない。せいぜい云われているのは、「自立学校は、永久に存在することのできない学校です」と、そのわけの、「矛盾の粋、逆説の華。名づけようのない人間になるための、ありうべからざる学校です。もしそんな学校があるとしたら・・・・」だけである。そして、普通のどの学校でものべるような教育方針、「知性のロードワーク、思想のボディビル、そしてあなたの両手に絶対のパンチをつけること」がくる。これは、半世紀後の日本のごまんとある大学の、どこかの大学で建学の精神にあげそうであり、また、谷川がひめたコピーライターの才の面目躍如たる文言である。

 しかしながら、谷川ではきちんとした筋道がつけられているものである。この文の前に記された、「既成の価値をためこんで、精神の領域における独占と帝国主義を、何くわぬ顔で強化しようとするやつらを、まずこの学校で、あたるをさいわいノック・アウトしてやる。そうしなければ、労働者だのインテリだの、ちょろいレッテルがおれの顔にはりついて息ができない」である。これは、さきにみた先生群の配置と、全員参加の座談会形式の授業形態を説明するものである。無理を承知で言ってしまえば、労働者と知識人の断層をもつ「健全な大衆」にあるべき内部闘争ということであろう。(21世紀の今の読者のためにあえて付言するなら、活断層だらけの日本列島でなんとか暮らしていく算段を政府はすべき(たとえば原発廃止)というようなものである.)

 この前文を書く谷川は、自立学校の自立性についてここで説明するつもりはまったくないようである。かれの自立性についての結論は指摘したような「自立学校は、永久に存在することのできない学校です。矛盾の粋、逆説の華・・・・力いっぱいそれに接近しようとする悪戦苦闘だけがこの学校の教課なのです」だけである。ただし、それだからといって、かれが詩人として直感的飛躍をし、そのようにのべているのではない。かれは、すでにそれを、ほぼ同時期、『試行』(1962年10月号)に発表した論文「権力止揚の回廊 ━ 自立学校をめぐって」でしめしているのだ。したがって、この案内広告に記されているのは、思想的には、それとセットで読むべきものである。これは、たいへん重要な内容をもつが、本論は先を急がねばならず、また、やや横道にそれるから、これに踏み入ることはしない(注.いま読みたい者には、『谷川雁の仕事 Ⅰ』が収録している.)

 とはいうものの、この案内状に記されているところにも、すでに、アヴァンギャルド芸術家たちが興味をもちそうなこと、アバンギャルド芸術にも関連がありそうなことが示唆的に示されている。

 本論にかかわるから、いますこし検討しておこう。

 説明の便宜のため、案内文の冒頭部を再引用する。


 なにものにもなりたくない! 名づけようのないものになりたい! ひっぱってもつまんでも変わらないおれと、猫の目のように変わるおれとの間の、そのすきまの、かっこうのつかないところに、ほんとうのおれがいる。「おれ」といってよいのか、「いる」といってよいのか。とにかくおれは、そこにきまってあぐらをかいているおれが気にくわぬ。

 おれはおれをもっとはさみつけ、おれはおれをしぼりだし、空っぽのチューブになりたいのだ。しぼりだされたものがどんなにあざやかな血の色をしていようとも、おれはそのために動くのではない。もはや残りすくなくみえるすきまが縮まれば縮まるほど、そこは広大な宇宙に近づいていくからだ。(下線は筆者)


 これはむしろ、募集対象者だけでなく、じぶんもその一員である「自立学校」の運営者、先生たちをふくめた、すべての大衆への呼びかけである。

 「サークル村」創刊宣言で、社会文化ののり越えるべき構造を、「労働者と農民の、知識人と民衆の、古い世代と新しい世代の、中央と地方の、男と女の、一つの分野と他の分野の間に横たわるはげしい断層、亀裂」にみたような、大衆個人ののり越えるべき断層構造に波瀾と飛躍をふくむ衝突、対立をひきおこし、それによる統一をめざすとするものであろう。ここにいう断層は、ひとりひとりが現実生活でもっている、おびただしい種類と数の、錯綜しそれでいてそれが強力な権力を発揮する価値観の断層であろう。

 その断層のはばを「はさみつける」ことによって、かぎりなく「すきま」を縮めれば縮めるほど、「そこは広大な宇宙に近づいていく」という。ここで、広大な宇宙に到達できるといっていないのに注意しておかねばならない。ましてや、統一が達成するなどといっていない。そんなことはまるで念頭にないのだ。ただやってみることである。

 かれが問題にしているのは、じぶんをふくめる「大衆」のなかにある、価値観の断層の「すきま」である。なぜなら、現実の人間が生きているのは、それらの錯綜したいずれの価値観にも、ていどの差はあり、そのつど変わることがあっても、けっこう凭れかかり、また同時に、どの価値観にも身をゆだねてしまわない、いわば「すきま」暮らしだというのだ。とにかく、「かっこうのつかないところに、ほんとうのおれがいる。『おれ』といってよいのか、『いる』といってよいのか。とにかくおれは、そこにきまってあぐらをかいているおれが気にくわない」というのである。このおれは、募集要項の修辞的な「おれ」であろうが、谷川をふくむすべてについてであるのは、まちがいところである。

 そして、かれは、そこにあるおれの救済行動は、みずからが、その「すきま」であるおれをはさみつけ、かぎりなく縮めていくことである。そうすれば、無限に「ゼロ」にちかくなったおれは、ぎゃくに「広大な宇宙」にちかづくというのだ。

 谷川がいうのは、たんなる自己改造の提案ではなく、とにかくまず、矛盾し錯綜した現実の社会的人間を直視し、それをぶつけ合い、すりつぶす行動からはじめねばならないことである。現実的「白紙還元」の実践である。

 現実的直接行動の主張として、この様態への主張は、不思議としかいいようがないほど、ほぼ同時期にあのハイレッド・センターの中西夏之が、かれの、あるいは、かれらの座談会「直接行動論の兆 ─ ひとつの実験例』[1962年11月]」でかたっていた主張と一致するものがある。かれは「攪拌作用」についてこのように云っていた。 


 俺はこう考えるんだ、つまり俺達が棲息している器の構造の無理して作られた部分から湧いてくる吹出物といったものがあるだろう、俺がさっきから云っているのはこの事件のことなんだが、一般に事件に対する反応と云うと、この器の欠陥に戻ってきてその時代を解釈し、ひとつの立場をとろうとするよな。俺達のやろうとしたことは器の構造性に関連のない行為をしつこく繰返して、毎日湧出する事件にそれを重ねて、モノクロームにする速度を早めると、まあそんな意図があるんだ。


 このこと自体の発言は、厳密には谷川とはことなる、芸術の「世のなかへの対応」についてのべているものである。しかし、目的が「モノクロームにする速度を早める」ことにあること、油彩画家がモノクローム(無彩画)に救済のキーを求めようとしているのは、どこかおなじものを見ているにはかわりない。それに、かれらにとって、ここでかたる芸術行為は、谷川のいう、「この学校の授業料はとびきり高くつきます。ひょっとすると、あなたの生涯のすべてをもらうことになるかもしれません」に匹敵する行為であった。この一年前のあの座談会「〈若い冒険派〉は語る」(1961年8月)で、「ぼくは可能性のひとつとして、廃業することもおもっていますね」と答えた中西の発言だからである。

 このモノクロームのための攪拌行為は、すでに紹介したあの「山手線フェスティバル」(1962年10月)でやったことを説明したものである。先行したページですでに紹介したこのイベント「案内状」の末尾には 「・・・・都合のいい鋳型に流し込んで再生することも(どんな鋳型があるというのか!)無意味になってしまった現在、おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわってカクハンし空白にしてしまおうと云う欲求にかられる」とあった。

 この「空白への欲求」は、谷川の、「おれはおれをもっとはさみつけ、おれはおれをしぼりだし、空っぽのチューブになりたい」の欲求とそれほどちがわないものだろう。おなじものを、裏と表から見ている相違だけである。

 そのことは、「ひっぱってもつまんでも変わらないおれと、猫の目のように変わるおれとの間の、そのすきまの、かっこうのつかないところに、ほんとうのおれがいる。『おれ』といってよいのか、『いる』といってよいのか。とにかくおれは、そこにきまってあぐらをかいているおれが気にくわぬ」の谷川の慨歎は、芸術家である中西たちの心情としても理解できる。

 「ひっぱってもつまんでも変わらない芸術家と、猫の目のように変わる芸術家との間の、そのすきまの、かっこうのつかないところに、ほんとうのおれという芸術家がいる」と、これを読み替えれば、絵具をまぜあわせ薄塗りして風景画を描き、抽象画を描き、さらに、絵具を流したり、したたらせたかとおもえば、翌年はモノを画面に貼りつけ、ついでは、日常品を鉄枠にからませてみせる。しかもそのひとつひとつは、じぶんの感覚で形成したじぶんの作品である。それが、前節の「読売アンデパンダン展」で、アヴァンギャルディストを自認するかれらの作品であった。

 そしてまた、このようにみれば、「おれ」と「いる」へのかれのこだわりも、芸術家と「作品」の関係へのこだわりとすれば、いずれの現代芸術家もが、かかえている疑問となろう。

 それだけではない。前文のこれにつづく3行半は、うえにのべたことを別角度からいう結論の論拠であるが、それは、谷川の場合、外部権力が密接に関係してくる内部権力の断層の視点から扱っているのだが、20世紀アヴァンギャルディストたちをはじめ、20世紀の芸術・文学作家らがみた眺望にかさなる読みかたができるところである。かれは、「あなたはそういうふうに考えたことがありますか? 個人は割れており、割れている個人のなかに集団があり、その集団を外におしのけるにしたがって、深刻な集団が個人のなかで息をしている。あなたのなかの追いつめられたひとしずくの集団と闘うべし。そうすれば、あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく」と、その期待をのべている。

 かれのいう「個人」は、社会機構にくみこまれている個人についてであるが、人間のこころは意識と無意識に分裂しその断層に問題があることに、20世紀初期のアヴァンギャルディストたちは、哲学のニーチェや精神分析のフロイトをつうじてつよい関心をもった。人間の行為がこれら意識と無意識の断層に支配されていることである。ことに、シュルレアリスムのブルトンは初期のシュルレアリスム思想を、この課題を中心に組みたてたほどである

(注.シュルレアリスム創設時にブルトンがフロイトの論文から直接得た知識によったものかどうかはわからない.シュルレアリスムと精神分析については、本論「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』: 3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』 と アンドレ・ブルトンの『反芸術』」[『百万遍』4号]ですこしだけその詳細をのべている)


 シュルレアリスムでは、意識は、人間に不自由を強いている社会的緒規範に束縛されており、それを無意識によって解放すべきというのが当初のスタート点だったようだが、のちには、前意識、超自我の区分にも関心をもち、欲動にかかわる「エス」に注目していったとおもわれる。これは、すでにわれわれが扱った20世紀後半、戦後日本のアヴァンギャルドたるネオ・ダダイズム・オルガナイザーの篠原有司男が、かれらの創設展の光景を「ギャオー 狂人じみた石橋(別人)の悲鳴が会場に響く」と、その反芸術ぶりをかたり、また、「ゼロ次元」のデモンストレーションがセックスがらみの全裸行進であったのも、この「エス(欲情)」が人間本質だとする初期アヴァンギャルディストのこうした「理解」を、とおく間接的根拠とするものであったのかもしれない。

 しかし、こうした人間の心理分析は、その後はさらに発展してカール・ユングの「集合的無意識」論にいたる。これは、人間の無意識の深層に、個人経験をこえた先天的領域があり、人間集団や民族、人類のこころに普遍的に存在する元型とするものである。この考え方は、芸術、文学にかぎらず、20世紀の民俗学、人類学、「神話」学、ひろくは、構造論にいたるまでのあたらしい学問領域成立におよぶものだった。

 1962年の谷川が、「個人は割れており、割れている個人のなかに集団があり、その集団を外におしのけるにしたがって、深刻な集団が個人のなかで息をしている」というとき、かれがそれらをどこまで承知したうえで云っているのかはわからない。ただ、さきにも書いたように社会学科出身のかれは、とうじの日本とはいえ、なんらかの先端的知見に接したことはあったかとおもわれる。

 しかし、ここでわれわれが注目するのは、そのことではない。かれは、その元型を解明せよというのではない。かれは、「あなたのなかの追いつめられたひとしずくの集団と闘うべし」といっているのだ。そして、そうすれば、「あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく」と、かれとしてはめずらしいつよいことばで断言している。あの気だるい進歩的良心とおさらばするのは、ブルトンの願いでもあったし、また、戦後日本のアヴァンギャルディストのほとんどが同意し、かつ、渇望するところであったろう。ただし、この最終目標の、「あなたは集団そのものとなっていく」は、’60年代アヴァンギャルディストがすべてを同意するものではないだろう。たとえば、中西が、「ぼくは、廃業することをおもっていますね」と、あの座談会「〈若い冒険派〉は語る」でのべとき、「ぼくは芸術家だからね。ぼくは偉大な芸術を出しますね」と反論した、おなじアヴァンギャルディストであった荒川修作は、けっして肯定することはしないだろう。

 ならば、ハイレッド・センターではどうだろうか。

 かれらの場合、共感度は各自ちがうとはいえ、新鮮な関心をもって同意するのはたしかだろう。それはよく見とどけねばならないのだが、ことに、「すきまが縮まれば縮まるほど、そこは広大な宇宙に近づいていく」よりむしろ、この「集団そのものになっていく」にたいして、ハイレッド・センターの組織者であったかれらが、谷川の「自立学校」に注目したものかもしれない。

 すでに、紹介したようにかれらの創設イベントであった「第6次ミキサー計画」で、中西は苦痛に耐えて洗濯バサミを顔面から身体中にむらがらせ新橋駅広場やプラットフォームを徘徊するパフォーマンスをやってみせている。これはひと目をひく「攪拌行為」であるが、この「攪拌」は、見るものの「攪拌」よりむしろ、おこなうかれらじしんの「攪拌」であろう。「ゼロ次元」のような好奇のまじるひと目ではなく、むしろ嫌悪の目でみるひとびとのなかの自分たちを確認するためである。それは、発祥の契機となった「山手線フェスティバル」でも、山手線車両の乗客となったじぶんたちを演じるためであった。そのことは、通行人や乗客に見られるそれらの行為をつぶさに写真に撮っていることからもあきらかだろう。大衆のなかの位置確認である。じぶんたちがどのような集団であるかを確認し、そこから出発することを模索する行為であった。谷川のいうとおりの理由から気にくわぬ「おれ」からの、脱却をはかる行為である。

 しかし、かれらの居ごこちの悪さは、谷川のいうほど、社会構造的な確信にもとづくものではないだろう。だから、広大な宇宙に近づいていけるとか、「芸術のロードワーク、感性のボディビル」などとはけっして言うことはないだろう。

 だが、そうではあるけれど、大衆のなかの、居ごこちが良くはないじぶんたちの位置を定めることについては、意外にも谷川はかれらの共感をよぶような示唆的な位置関係をこの「自立学校」企画でしめしている。

 そのようにおもうのは、かれらの芸術行為がすでに、からみつく大衆とのかかわりに関係するものであったからである。たとえば、高松では、日常品をコブ状にくくりつけた黒染めの長い紐を宿縁の尻尾のようにひきづって歩いたあの「山手線フェスティバル」や、ハイレッド・センターの受胎告示だったあの最後の第15回読売アンデパンダン展出展光景を思い出せばじゅぶんだろう。とうじ新婚のかれは、デザイン会社に就職していたから、逆説的言い方になるが、人目をしのぶスーツ・ネクタイ姿で、山手線プラット・ホームや「都立美術館」、新橋駅広場でこれらをやってのけたのだった。また、敗戦によって大変動した社会断層のなかで没落した家庭出身の赤瀬川は、サンドイッチ・マンのアルバイト暮らしをしていたのだが、かれに執拗にからみつく「千圓札」は、かれの大衆のなかの位置をしめすものだった。

(注.その光景は、赤瀬川の『東京ミキサー計画 ─ ハイレッド・センター 直接行動の記録』や雑誌『写真時代』に写真掲載されている.)


 そうした、大衆のなかの権力関係について、谷川がまず「自立学校」でしめしているのは、募集要項の第一項目、「システムと運営: 学校関係の若干名によって運営され、運営グループの内の若干名によって事務を処理する」からはじまるものである。

 自立学校運営委員については、黒ダライ児も今泉省彦も、「運営委員は今泉省彦、川仁宏、栗田宇喜、平岡正明、山口健二、松田政男、宮原安春」と記している。にもかかわらず、ここでの谷川はかれらの名前をひとりもあげていない。その理由は、かれが学校組織において運営委員集団を軽視したのではなく、募集要項では学校運営や事務管理の説明を不要としたからであろう。かれは、募集要項と同時期に書いた「権力止揚の回廊 ━ 自立学校をめぐって」で、「自立学校」に期待する「運営部門─講師部門─生徒部門」の関係をしめしているからである。

 この論考でいわれた自立性については、さきにもいったように、ここであつかわないが、「自立学校」の三部門の権力関係はのべておこう。これは、今泉のあの「自立学校の企図に寄せる」で語られたあの、ナショナリストがインターナショナリストになり、インターナショナリストがファシストになるという、その場かぎりの奇妙な思いつきに反映しているとおもわれ、ひょっとしたらそれが、とうじのアヴァンギャルディストたちの関心にある共通項を示唆するかもしれない。

 谷川は、運営委員団、講師団、生徒団の3パート間の関係をつぎのような義務と権利から規定している。「指示義務の秩序からすれば運営委員団─講師団─生徒団とめぐって運営委員団に帰っていく回路があり、拒否の秩序からすれば 生徒団─講師団─運営委員団と逆流する回路がある」とする。

 そして、これが、かれが狐拳の原理とよぶ自立学校の組織構成である。この構成法が期待し可能とする組織の権力関係を、かれは a)~ e) の5方向からのべている。


(a) 権力を構成するそれぞれのパートが、いずれもある意味で全一的な力をもち、別な意味では完全に無力であること。

(b) それぞれのパートが全面的な緊張関係に置かれ、その経過が成員全部に公開されうるものであること。

(c) 権力の陽画的側面、つまりあるパートから他のパートへの指示機能は可能なかぎり第三のパートを通して媒介的に作用せしめること。

(d) 権力の陰画的側面に重点を置き、指示されるパートに、それへの直接的な指示伝達の機能をもつ隣接のパートにたいする拒否権を持たせ、拒絶という機能に主要なアクセントを付与すること。

(e) 総じて市民的権利を義務、市民的義務を権利とみなす意識体系を発展させること。


 狐拳の原理とは、ジャンケンの仕組みのことである。ジャンケンの石(ぐう)、鋏(ちょき)、紙(ぱぁ)の勝負(かちまけ)関係は、狐拳では、鉄砲庄屋となる。鉄砲(猟師)は狐を撃ち、狐は庄屋をたぶらかし、庄屋は猟師へ命令できるというわけである。ジャンケンは掌の指で演じるが、狐拳では、鉄砲は左腕を水平にのばし、は両手を耳のうえにかざし、庄屋は、両手を正座した膝において、全身で表現する座敷あそびである。

 いずれも、強者、弱者の関係は循環関係にある。しかも、この谷川の狐拳の原理は、逆流回路をもつ循環関係である。かれは、鉄砲庄屋(→鉄砲・・・・)の通常回路を指示義務とし、逆流回路を拒否する権利とし、その逆流を、(e)項「総じて市民的権利を義務、市民的義務を権利とみなす意識体系を発展させること」という重要項目とする。

 これは、、かれのいう「自立学校をめぐって」では、運営委員団は、現実社会の外的権力の役割、講師団は学校の役割、生徒団は自立すべき大衆の役割をになうべく設定された社会モデルなのだが、じじつ現実社会のさまざな権力関係に適用できる提案となるものであった。

 アヴァンギャルド芸術においても、すでに本論で検討した20世紀初頭のダダでも、こうした関係は初源的なかたちで問題とされていた。トリスタン・ツアラは『ダダ宣言 1918』で、芸術家と芸術作品と大衆との、権利と義務におきかえ可能な関係に執拗なこだわりをみせていた。その関係は、作品と芸術家と大衆を三点とする循環する三角形ではなく、作品を頂点とし、芸術家と大衆をコンパスの二脚とする関係で、コンパスの脚の先端である芸術家と大衆の関係は、コンパスの脚の開閉で距離間が変動するものだった(注. 〈「第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」/3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』 と アンドレ・ブルトンの「反芸術」〉[『百万遍』4号掲載]で述べたところである.

 また、本稿でもすでにのべたようにダダを継承するブルトンも、大衆とシュルレアリスムの関係をあのような「秘教(隠蔽化)」を第三点にすえた関係でみようとしていた。そして、20世紀後半のアヴァンギャルディストたちの主張や日本アヴァンギャルドの「反芸術」には、大衆との関係課題があきらかにある。

 この関係を、谷川のような権力関係ととらえ、権利と義務の視点からみるとどのようになるだろうか。

 「権力止揚の回廊 ━ 芸術家をめぐって」として、これをみると、大衆と芸術家、それにメディアの3パートの組織構造と考えられる。この場合、芸術家をたとえば、本論にそくして画家とすれば、メディアとは美術館であり画廊である(注.高松、赤瀬川、中西、荒川、吉村益信、篠原有司男・・・・らはすべて画家であった.) ここでいうメディア(media)とは、芸術家と大衆を媒介する媒体(medium)の複数形のMEDIAである。

 つまり、画廊、美術館、出版社、CD(レコード)会社、音楽会、映画会社、劇団・劇場、興行・プロダクション、そして、現代のSNS、あるいは、とうぜん新聞、雑誌、テレビというマスコミもふくめる、芸術家と大衆を媒介する、欠くべからざる、「全一的な力をもつ」権力部門である。メディアは、芸術家と大衆にとってあきらかな「外的権力」であり、芸術家と大衆間に本来ある断層の伸縮を、メディアの論理で支配するものである。

(注.medium(media)には、媒体、媒介、マスコミ機関のほかに、霊媒の意味があることを記しておこう.)


 ここでいう断層を、さきにのべた「サークル村」創刊宣言でのべられた断層と整合性をもたせておけば、つぎのようになろう。「サークル村」の労働者と知識人の断層では、芸術作家は労働者のなかにいるが、芸術においては、むしろ、芸術家と大衆のあいだに、知識人と労働者間のような断層がある。そして、そこには、たとえば、画家と美術館・画商の間の断層、美術館・画商と大衆(受容者/観客.購入者)間にある断層といった、「メディア」パートがはいった「狐拳」の権力関係が成立している。それが現実の社会状態であって、行動論は現実を問題にするから、谷川のいうこととは食い違いがでるが、そう考えてもここではさしつかえあるまい

(注.さしつかえない理由は、谷川自身がかたっているところによる. 「権力止揚の回廊 ━ 自立学校をめぐって」[『谷川雁の仕事Ⅰ』 PP.627]を参照)


 そして、「メディア→芸術家→大衆(→メディア)」へと循環する権力行使はつぎのようなものだろう。

 メディアから芸術家への権力行使は、‘公開(社会化)してやる、取次いでやる、購入を仲介してやる’ である。芸術家から大衆への力の行使は、はたしてそれが権力といえるかどうかわからないが、‘感動させる。観たい、聴きたい、読みたい気にさせる’ モノをつくり、演じる先生程度のものだろう。そして、大衆からメディアへの権力行使はあきらかで、‘買ってやる、見てやる、聴いてやる’ であり、‘観たいモノを見せろ、聴きたいモノを聞かせろ、買いたいモノを売れ’ である。〈そうしなければ、オマエタチは潰れるぞ!〉である。「中央公論」がこの権力に屈して、『風流夢譚を』を雑誌掲載し、また、この権力に屈服して不可解な行為におよんだおそるべき遠因である。


 そして、谷川の組織構造で主要なアクセントを付与するとした隣接パートへの拒否権はどのようになるだろうか。谷川が指摘し期待する権力関係の重要5項目のうち、アヴァンギャルドにおいてとくに注目すべきは、(c)(d)(e)項、ことに(d)(e)項の逆流する拒否権、すなわち、拒否義務である。

 とくにアヴァンギャルド芸術家においては、e)項を読みかえる、「総じて芸術的権利を義務、芸術的義務を権利とみなす意識体系を発展させること」が肝要かとおもうからである。

 そして、それならば、「芸術家 → メディア → 大衆 芸術家)」における拒否権はどのようになるのだろうか。それを考えることはアヴァンギャルド芸術だけでなく、’60年代アヴァンギャルドの実態がどのようになったかをみるための支点になるであろう。

 それには、本論の見地から、芸術家からメディアへの拒否権行使の解読が重要であって、大衆から芸術家への拒否権、メディアから大衆への拒否権行使のあり方は間接的であるから、ここではおおきくはあつかわない。ただ現実におこったのは、大衆から芸術家への拒否権の行使は、無視できるということであった。そしてこの芸術家の「感動」という指示義務にたいする、大衆の無関心という拒否権行使にたいして、芸術家は、「権利を義務、義務を権利とみなす意識体系」にしたがい、拒否権を再度行使しなければならなかったことになる。それは、芸術家にとって大衆は、不可分、不可欠の関係にあるからである。このことは、メディアから大衆にむけられる拒否権についても同様である。だがこれについては、それだけにとどめておこう。

 ここでは、芸術家からメディアへの拒否権行使はどのようなものになるかということである。

 ‘公開(社会化)してやる、取次いでやる、購入仲介してやる’ への拒否権は、そのこと自体への拒否ではなく、何を公開し、何を取り次ぎ、どのような購入の仲介をしてもらうかの “何を” や “どのような” が、アヴァンギャルド芸術家がもつ拒否権の有効性を開くカギとなるだろう。アヴァンギャルドを標榜するいずれの芸術家も、なんらかの既成芸術否定をスタートラインとするものたちだった。

 かれらの芸術ジャンルへのこだわりは、倒錯的である。現実には不可能なのだが、ジャンル無視を主張するものもあった。’60年代日本のアヴァンギャルディストたちのほとんどは、ジャンル越境と破壊をアヴァンギャルドたる存在理由とした。ところで、かれらの大半、ことに’50年代半ばからアヴァンギャルドの標榜をはじめたものは既成芸術ジャンルの出身者、あるいは、その志願者たちだった。

 そして、そこでみたされなかったものみたなれないものの充足をもとめて、ジャンルを離脱しようとしたのだった。技法(アート)そのものだったかもしれないし、作品自体や作品のあつかわれ方だったかもしれない。だから、離脱とはいっても、そのジャンルでは容認されない技法(アート)の場合もあれば、そのジャンルの作品にはなれない場合もある。しかし、いずれにせよ、いかなるアヴァンギャルドも、なんらかの既成芸術にかかわるものである。ただし、そのかかわり方が、近接する複数ジャンルの範囲にとどまるか、遠くのジャンルまでおよぶかはさまざまである。わかるやすくするため、やや見当はずれになるのは承知のうえで、いままでに言及したことのある作品から、例証すれば、ドロッピングをはじめたときのポロックの作品や、ヌーヴォーレアリスムのクラーンの「人体計測(Anthropométrie)」シリーズは、とうじの油彩画でも、あるいは、日本なら西洋画でも日本画でも容認されないが、色彩画であるにはかわりない。また、赤瀬川原平の「ヴァギナのシーツ」やデュシャン の「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」は、絵画でも彫刻でもない。しかし、一面からしか見られない平面作品であることによって「絵画」であり、モノが表現素材であることによって「彫刻(立体作品)」である。また、遠いジャンルにおよぶものでは、マンガ、ことに’60年代のアヴァンギャルド月刊雑誌『ガロ』掲載のつげ義春の「ねじ式」が一例となるだろう。これはいかにみても、絵画と文学におよぶものである。ヘタな絵と、ワケノワカラナイ物語がなければけっして成立しない作品である。おなじマンガであっても、「ミッキー・マウス」は、ミッキー・マウスだけでキャラクター絵画となりうるが、つげ義春やつげ忠男のマンガでは、いかなる分離もむずかしい。むずかしいようにつくられている。さらにまた、’60年代半ばには黒ダライ児の「肉体のアナーキズム」がテーマとなる演劇パフォーマンスも出現している。

 という見地からいえば、かれらアヴァンギャルディストたちの芸術(作品・行為)は、既成芸術におさまりきらぬものであり、はみ出ることを既定の前提とするものであった。

 ところで、さきにものべたように「媒介」組織であるメディア(media)は複数形である。ジャンル分類に対応するものである。芸術家の芸術作品や行為を大衆に “取り次ぐ” 媒介組織は、すべてを取り次ぐことはできない。あるいは、アヴァンギャルド芸術家ほど融通性がきかない。油彩画、日本画、せいぜいのところマンガ原画やデザインポスターの展示ぐらいまでは、入場料や寄付、交付金で経営する「美術館」と称するメディァム(medium)ならできるだろうが、「画廊」では事実上、不可能である。かつて、瀧口修造が第15回読売アンデパンダン展批評で「ついに美術館が音を発した」と展示作品への感慨を語ったが、東京都美術館は「陳列作品規格基準要綱」制定でこれを拒絶した(注.これらの詳細は 『百万遍』6号掲載の「第2章 4)ー③ー1. 『読売アンデパンダン』展 」 を参照)

 そうしたメディアにたいして、芸術家のできる拒否権の行使は、媒体(メディアム)の選択でおこなわれるメディアの分断である。それは、ちがった見方からいっても、近代芸術が確立したときから一部の芸術家たちがやってきたことである。かれらは画商を選び、とり替えることができた。ある出版社を悦ばせ、ある出版社を悲嘆にくれさせることができた。美術館にたいしても展示拒絶を申しわたした例を数々あげることができる。

 しかし、これは、才能と経済的にめぐまれた芸術家の例外事象であり、一般化できないといわれるかもしれない。だが、そうではない。ここにはたらいている拒否権行使のメカニスムには、アヴァンギャルドにも適用できるベクトルがある。

 既成ジャンル不信からうまれたアヴァンギャルド芸術が、既成ジャンルにもとずいて形成しているメディア権力にたいして発動する拒否権は、従来のメディアからの「選択」では果たされないだろう。それならばどうするか。メディアを変更させるのである。かれらアヴァンギャルディストそれぞれによって、望ましいメディァムをつくるのである。それがどのようになるかが、’60年代アヴァンギャルドの問題であった。

 そうしたあたらしいメディァムの動向はフランスや合衆国をはじめとする戦後アヴァンギャルド界で、すでに紹介したように、みられないことはなかった注1。 パリではドルーアン画廊がうまれ、ニューヨークではシドーニー・ジャニスやレオ・カステリーのギャラリーが出現した。日本でも’50年代から、戦後現代芸術を対象とする画廊があらわれている。瀧口修造が指導した「若い新人に無償で場所を提供する」タケミヤ画廊をはじめ、本論でも掲載した複数の貸し画廊、それに、本格的メディァム画廊としては、1950年創設の東京画廊や、1956年の南画廊などである注2

(注1.画商とアヴァンギャルディストについては、『戦後政治体制と現代芸術─第2次世界大戦後の芸術界の動向』[『百万遍』2号掲載]、および、ヌーヴォー・レアリスムと画廊については、「第2章 『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』─2) ‘60年代西欧の『新(反)芸術』(『ヌヴォー・レアリスム』の場合)」[『百万遍』4号]でのべた. 注2. 6号掲載の「読売アンデパン展」での、設立年度は誤記である.)


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