Avant 2-4-3-13


「ハイレッド・センター」


Part 3



 南画廊は、戦後アヴァンギャルドであるアンフォルメルのジャン・フォトリエをはじめ、日本の今井俊満や工藤哲巳らの特別展を、はやくも’50年代から開催している。その後においても、ジャン・ティンゲリーやジャスパー・ジョーンズを招待してその制作ぶりを公開し、また、メルツのクルト・シュヴィッタースの日本初の作品展をひらき、サム・フランシスや菊畑茂久馬、荒川修作、中西夏之、三木富雄らの個展を開催した。1962年には刀根康尚の〈作曲家の個展〉をひらいている。そこで展示された作品がどのようなものであったかはわからないし、また、それらが「大衆」とのメディァム(媒介)の役割を、どこまで果たしえたかもわからない。(どれだけの観客があり、どれだけ売れたかである。) しかも、ここでいえるのは、それらが、旧来型「画廊」の許容範囲で施行されたということがあろう。平面作品と立体作品ジャンル境界をあいまいにするていどまでであろう。とうじの日本では、これらだけでも、画期的に世界のアヴァンギャルドによりそうものだったが、それいじょうのアヴァンギャルド対応の指向性があったかは疑問である。

 南画廊や東京画廊の設営場所が、既成美術画商のメッカ、商店単位に土地区劃された日本橋通りや銀座であったことや、南画廊経営者、志水楠男が、日本洋画商協同組合理事に就任していることなどが暗暗裏にしめしているのは、既成芸術否定と既成メディア改変・解体というアヴァンギャルド芸術家の拒否権行使への、なしくずしの無効化をはかる方向だったとも、結果的にはおもえるものがある。南画廊は1979年、経営者の自死によって閉店するのだが、このような経営矛盾がそのようにあらわれたとみえなくもない。

 じじつその後の日本では、画廊レベルの芸術メディァム(媒体)では、’60年代から’70年代はじめの南画廊や東京画廊をこえる「アヴァンギャルド」メディアが出現することはなかった。ギャラリー画廊についてなら、パリやニューヨークでも、ほとんどおなじである。

 むしろ、ミュージアムといわれるメディァム(媒体)で、それら対応にみえなくもない変化があらわれた。

 日本の「美術館」では、すでにのべた「読売アンデパンダン展」を誕生させ圧殺した都立美術館を、おおきくこえる進展はみられなかった。せいぜい十数年経ったのちに、’60年代アヴァンギャルド回顧展を国公立美術館で、線香花火のようにやっただけだが、第14回、15回読売アンデパンダン展ほどのアヴァンギャルド性などまったくなく、東京都美術館が1962年に制定した「美術館陳列作品規格基準要綱」遵守そのものだった。そこでは、各室に厳しく監視する係員が配置され、観客が作品に手をふれることはおろか、持参のボールペンでメモをとることさえ禁止するしまつだった。アヴァンギャルド芸術を大衆に仲介するメディアを、みずから否認するものである。そうしたことでは、日本のメディアでは、いまだ平然と「国立国際美術館」を名のり、その改装特別記念に「マルセル・デュシャン」展をひらき、かの「泉(男性用便器)」を展示しそのアヴァンギャルド性を説明してみせるのだから、その館名称もふくめて、このメディアの性格はあきらかである。〈国立〉と〈国際〉の重箱(じゅうばこ)読み的用語使用のほか、〈美術館〉自体にもそれはある。フランス、合衆国では、おおむね、〈Musée d’art〉や〈Art Museum〉であって〈Musée des Beaux-arts〉とか〈Fine Arts Museum〉の使用は19世紀の残存か、例外的である

(注.イタリア、ドイツ、スペイン・・・については、調べていないだけだ.)


 しかし、アヴァンギャルド・メディアという視点からいえば、この日本の現況とははなれて、パリに設立されたポンピドゥー・センターやニューヨークのMoMA(近代芸術ミュージアム)(Meuseum of Modern Art, NewYork)、 あるいはグッゲンハイム・ミュージアムについて検討しておくべきである。

 ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センターは、1969年にとうじの大統領、ジョルジュ・ポンピドゥーによって企画され、1977年に竣工式がおこなわれたあたらしい組織である。これは、造形芸術、音楽、映画、デザインの関連施設部門に、資料館をふくむ近・現代芸術の拠点となるべき企画だった。そこは、国立近代芸術ミュージアム、 公共情報図書館、産業創造センター、国立音楽研究所、映画館、多目的ホール、会議室をようする複合施設であった。それはまさに、既成芸術ジャンルを否定し、芸術概念を拡大した戦後アヴァンギャルド芸術に対応できるような、既成メディアとは異質の組織だった。多目的ホールでは、ファッション・ショーや大がかりなインスタレーション展がおこなわれた。

(注.一般に「近代」は、産業革命の後、明治維新の後の時代をさすから、この場合の〈moderne〉や〈modern〉は、作品内容からみて「現代」としたいのだが、「現代」は〈contemporain(ne)〉や〈contemporary〉があてられるから「近代」とした.)


 だが、はたしてそれが、現代芸術見本市の域をでるものであり、戦後アヴァンギャルド芸術におよぶことができたかは、やはりうたがわしい。

 その後のポンピドゥー・センターの活動の歴史によると、現役アヴァンギャルドのメディアというよりむしろ、そこは、その芸術が「前衛(avant-garde)」の役をおえ本隊に復帰したリトマス試験紙であったかのようにおもえるからである。

 ひとつのエピソードがある。2006年に「ポンピドゥー近代芸術ミュージアム」は、ダダ特別展を開催した。そこをおとずれたパフォーマンス・アーティストのピエール・ピノチェリーが、観衆の眼前で、デュシャン の『泉(男性用便器)』にたいして持参のハンマーをふるい、一部分を破損させた。これは、ミラノの画商、アルトゥロー・シュヴァルツが、1964年に、デュシャンの承認のもとで8個作製した複製品のひとつである。

 それは物品破損事件となり、裁判法廷でポンピドゥー側はこの作品に280万ユーロ(約4億円)の評価額を提出し、かれは、それにそうとうする物品被害をあたえたとして罰金刑の判決をうけた

(注. 事件については、塚原史『ダダの世界から世界のダダへ』[『水声通信』7/2006年5月号]を参照した.)


 ピノチェリーの行為は、一般的な感情・衝動ではなく、かれの一貫した芸術パフォーマンスのひとつであった。1960年代のかれは、サン・テチエンヌ在住の新進画家としてコパックやデュビュッフェ風の死を主題とする人物具象画を制作している。このころのかれは、ミッシェル・ラゴンが『新しい芸術の誕生』(1963年刊)のなかで、アヴァンギャルド画家とし紹介している芸術家であった。(注.高階秀爾による邦訳がある.) このテーマをもってアヴァンギャルディストでありつづけたかれは、パフォーマンスに転じ、2002年には、コロンビアの現代ミュージアム・ボゴタで開催されたアート・フェスティヴァルでみずからの小指を斧で切断するパフォーマンスを演じている。デュシャンの『泉』関連では、1993年に他のミュージアムで開催されていたデュシャン展の会場で、「便器」に放尿するパフォーマンスを演じ、逮捕され有罪判決をうけた。であるから、かれがポンピドゥーでおこなった行為は、死と破滅、「破壊」に救済をみようとするような、なにかそのようなテーマのアヴァンギャルド表現とおもえぬこともない。すくなくとも、ピエール・ピノチェリーは、アヴァンギャルド芸術行為と信じていたはずである。

 これはやや極端なケースであるが、この事件は示唆的とおもわれる。

 第一にみるべきはポンピドゥー・センターが提示した280万ユーロの評価額である。この評価があらわすものは、この「作品」が、アヴァンギャルドとは無関係な、国際オークション・ハウス、たとえば、サザビーズやクリスティーズがあつかう作品となっていることであろう。国際オークション・ハウスとは、17世紀末から18世紀にかけてヨーロッパに出現した競売組織である。対象商品は、美術品、家具、食器、書籍、原稿(マニュスクリ)、さらには、邸宅、城、鉄道にいたる大規模不動産におよんだ。この時代にフランスで造語された「美術(beaux arts, Fine Arts)」なることばは、これら絵画、彫刻、版画、および、陶磁器、装丁書籍、挿絵本などを総称するために使われはじめたものである。オークション・ハウスがあつかうものは美術品ということになる。

 しかし、この評価価格の多寡によって、オークション作品だというのではない。この作品「泉」が、1917年のニューヨークのアヴァンギャルド展にリチャード・マット名で出品されたときのアヴァンギャルド作品とは、まるで異質のあつかいをうけたということである。そのときの「泉」は、紛失し今やどこにもない。そのときの「泉」に、値段をつけようとした者などひとりもいなかったろう。デュシャン は、かれのコレクターであったアレンズ・バーグにまだ出会っていないはずであり、また、そうしたファンや信奉者を懸念して、わざわざリチャード・マット名で出品したのだった。

 ところがそれが、47年後の1964年に一画商によって8個の複製がつくられ販売された。これは、死の4年前である77歳のデュシャンの記憶と写真によるものであろう。デュシャンの承認と協力があったというが、どこまでかれが製作にかかわったかはわからない。R.マットのサインはあるが、はたしてかれじしんが個別にほどこしたものだったろうか。また、参照された写真といっても、スティーグリッツ撮影のものが一枚あるのはたしかだが、はたして何種類かはわからない。さらにまた、それら複製制作の対価としてデュシャンがどれだけ受領し、また、シュヴァルツによって、それら8個がどこに、いくらで販売されたについては、デュシャン研究家として自認し、また浩瀚なカタログ・レゾネを出版しているシュヴァルツじしんも、その他の研究者も書いていない(とおもう)

 だが、このポンピドゥー事件の対象となった「泉」は、それらどれかのひとつである。それらが美術品として流通するなかのどこかで、ポンピドゥー近代芸術ミュージアムが入手したものだろう。1964年のシュヴァルツからの直接購入は、時期的にセンター企画いぜんであるから考え難い。あるいは、フランスのほかの国立ミュージアムの収蔵品だったともいえるが、これにもうたがわしいわけがある。

 戦前はむろん戦後フランスでは、アヴァンギャルド芸術家らを例外として、芸術メディアは、台頭するアメリカ合衆国メディアに対抗するためか、デュシャンには冷淡でありつづけた。たとえば、デュシャンの個人展がフランスの国立ミュージアムで開催されたのは、かれの死の直前になってからだった。これについて、かれの証言によると、いくどか企画はあったのだが、そのことごとくがミュージアムの運営委員や有力顧問であった知識人や画商によって妨げられ、実現しなかったという。(注.『デュシャンは語る(マルセル・デュシャン 聞き手ピエール・カバンヌ )』[訳.岩佐鉄男、小林康夫]) ここにおいて、われわれも『泉』コピーの製作者がイタリア・ミラノの画商であったことや、ポンピドゥーセンターの由来が、現代アート愛好家であった(故)ポンピドゥー大統領の遺志をつぐ命名であったことを思いださねばなるまい。

 そればかりでない、かれの代表作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(俗称大ガラス)は、フィラデルフィア・アート・ミュージアムにデュシャンから寄贈されているのだが、このアヴァンギャルド性は、ことに戦後は世界で喧伝され、複製制作の提案が複数の国のミュージアムからあった。その結果、1961年にストックホルム、1966年にロンドンで、一点づつの複製「大ガラス」が完成した。日本でも、東京大学と多摩美術大学の資金負担で、瀧口修造と東野芳明の尽力により、生前のデュシャンと交渉がおこなわれ、1980年に東京バージョンが完成した。現在も東京大学資料館に収蔵されている。

 したがって、オリジナル「大ガラス」にあるヒビ割れなど欠くべからざる特徴の不在や不自然さなど、若干の改変があるとはいえ、オリジナルをふめて4~5点の「大ガラス」が世界で見られるのだが、デュシャン出生の国であり芸術の国フランスには存在しない。そればかりではなく、デュシャン作品の最大資料館は、長期にわたりデュシャンのコレクターであったアレンズ・バーグの収集作品が寄贈されたフィラデルフィア・アート・ミュージアム(Philadelphia Museum of Art)である。同館はこれを母体に、かれの最後の大作『落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ』もデュシャンから遺贈され、所蔵している。ところが、フランス・メディアでは、制作時にはアヴァンギャルドであったが、既成絵画の範疇にはいる『階段を降りる裸体No2』以下の油彩画の問題作品さえ、所蔵してしていないしまつである。

 フランスのメディアはデュシャンを芸術家としては評価していなかったことになる。ただ、2006年には、この作品を280万ユーロの価値ある美術品としているのである。この評価額は画商評価の時価であろう。アヴァンギャルディスト・デュシャンの作品ではなく、画商評価の美術作品としてである。オークション(競売)型の美術品である。

 ポンピドゥー近代芸術ミュージアムが、ここでいかなるアヴァンギャルドの視点にもたっていないことは、この評価だけではない。たとえば、「泉」制作のデュシャン、ということは、ニューヨーク・アヴァンギャルド展に1917年出展時のデュシャンということだが、そのときのかれなら、この破損行為を制作参加行為とし歓迎したとおもわせるものが、かれの芸術行為にはあった。

 それは、1915年から1923年にかけて制作され、フィラデルフィア・アート・ミュージアムで最終バージョンとなった現存の「大ガラス」の場合である。この正面から見る「大ガラス」オリジナルの裏面には、カンバス絵画の裏に記入されるように三行にわけて、「未完」「破壊 1931」「補修 1936」と、デュシャンが記入している。これは、かれの制作コンセプトと読むことができるだろう。

 かれがニューヨークで、ひそかに制作をはじめたのは1915年であった。ごく少数の者にしか知られていないアトリエでの造形行為は1923年に休止された。デュシャンは、つづける必要がなくなったからだと、この放棄を説明するが、そうとばかりは言えない。かれは、この制作と平行して、観光ガイド・ブックのような、これを見る者の視覚体験を解説するノートを作成し、10年後の1934年になって、『大ガラス』の模型とセットとして、グリーン・ボックスに収納し、注文販売をおこなっている。このメモを照合すると、中断された『大ガラス』の実物では、どう考えても不可能としか思えない仕掛けがほどこされている。とすると、制作の仕事は、デュシャンのなかでは継続されていたことになる。その間、1926年にブルックリン・ミュージアムで1923年休止した作品を展示したさい、移動中におこった事故で作品表面をおおうガラスにヒビ割れがおこったが、かれは作品に必要だとそのままのこし、現存の「大ガラス」ではその効果が発揮されている。

 こうした経緯をすべて考えあわせると、かれの作品「大ガラス」とははたしてどれなのか、あるいは、なんなのかと問わざるをえない。既成芸術の常識からいえば、1923年につづける必要がなくなったといい、制作を休止した作品、ブルックリン・ミュージアムで展示しようとした破損以前の作品をオリジナルとすべきであろう。

 だが、かならずしもそうとはいえないのは、フィラデルフィア・アート・ミュージアムに収蔵依頼したさい書かれたとおもわれる、裏面三行の文言である。これは「未完」「破壊 1931」「補修 1936」の順番で記入されている。破壊補修には年号があるから、通念からいえば、なんらかの破壊がおこり、それを補修したと解せぬこともないが、「未完」とは不可解である。補修未完であるとするには、書かれた語順に無理がある。常識的にも、やはりこの「未完」は、作品の未完としか理解できない。未完作品を完成品どうようのモノとして、鑑賞に提供する例は少なからずあるが、かれの場合はそれとは違うだろう。まず、かれはその正当性を主張するように、公然と「未完」としている。そして、すでに言ったように、1923年以前から、ノート記述とはいえ、23年版にはない仕掛ある作品制作を並行しておこない、コンセプチュアル・アートのようにして、23年後までもつづけ、さらにそれらの模型つきのセットをグリーン・ボックスとして、10年後に注文販売しているのである。こうなると、俗称「大ガラス」はあくまで俗称であり、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」は、いったいなんであり、どこにいるのだろうか。

 というのは、ことばからいえば、1912年頃から描かれている油彩画や木炭画による「独身者たちによって裸にされた花嫁」をはじめ、「処女から花嫁への移行」、「花嫁」、「処女」No1、No2・・・と題された一連のシリーズがある。そればかりでなく、1923年バージョンに組みこまれているものが、1915年以前からすでに制作され、さまざまな機会に公開されている。たとえば、「大ガラス」下段にある、「水車小屋」(1913年)、「9つの雄の鋳型」(1913年)、「チョコレート粉砕機」(1914年)などなどである。しかも、その微妙にちがう作品は複数年にあり、タイトルさえ「9つの雄の鋳型」とか「制服の墓場」注 にあるようにかならずしもひとつではない。

(注.「Cimetière des Uniforemes et Librées」:〈uniforme〉は警官や軍人の制服であり、〈librée〉は召使やカフエのボーイの職業用服装であり、おなじような形の9つの鋳型は、騎兵憲兵召使デパートの配達人カフエのボーイ僧侶墓掘り人夫駅長警官と説明されている.)

 また、それらのひとつ、「3つの基準停止原器」(1913& 1918年)と名づけられているのは、完成度のたかい成品だが、作品のパーツではなく、「9つの雄の鋳型」をつなぐ配線曲線作成のための用具である。(図版2 「三つの基準停止原器」)


 図版2:「三つの基準停止原器」


 これらひとつひとつの作品を見ると、「大ガラス」はグリーン・ボックスのような役割をはたしているのかもしれない。それら作品のダイジェスト版である。あるいは、というよりむしろ、芸術行為の軌跡表現としかいいようのないものである。そのひとつひとつは、たとえば、9個の「鋳型」を、ちがったところで「9つの雄」といってみたり、ほかのところで、の職業説明をしたりする。それによって、表現された造形物とことばの詩のような相乗作用がおこり、やはり芸術としか呼びようのない効果を喚起する(注. 「大ガラス」の様々な表現内容については多くの解説書がある。一例は、拙著『現代芸術は難しくない』でも述べている.) デュシャンのおこなうこれらひとつひとつは、やはり芸術行為である。そのようにおもうと、「大ガラス」にサインされていた「未完」のちがった意味がみえてくる。

 「未完」とは、完成しないことである。かれは、なにかをつくるために制作しているのではない。それは、芸術は作品ではなく行為ということになろう。ここにある「破壊」も「補修」もその行為となろう。補足しておけば、デュシャンはどんなときでも、じぶんは芸術家(アーティスト)だと語っていた。かれの生涯には、作品を発表せず芸術家をやめたとおもわれた時期があるが、おそらくかれは一度も、芸術家をやめたことはことはなかったろう。だから、この「破壊」も「補修」も芸術行為ということになろう。

 この場合の「破壊」は、自然崩壊もふくむものである。なぜなら、かれの制作するものことごとくは、といっても「大ガラス」や「落ちる水・・・・」ぐらいを基準におかねばならないのだが、じつに壊れやすいものになっている。というよりむしろ、恒久性をまったく考慮せず、むしろその逆を期待しているようにみえる。フィラデルフィアの「大ガラス」は、85年後の現在では移動不可、補強不能という。早晩、崩壊するといわれている。「落ちる水・・・・」もおなじである。この構造は、デシャンが詳細に説明しているのだが、まるで、「破壊」がかれの芸術行為に不可欠であるかのようにみえる。そして、そのようにおもうと、第三項の「補修」もちがった意味をもってくる。つまり、「補修」は、ちがう言い方をすれば再生である。「廃墟」の再生、そして、さらなる破壊である。再生のための破壊破壊のための再生である。20世紀アヴァンギャルドのダダが言いはじめ、’60年代アヴァンギャルドのヌーヴォー・レアリスムのレスタニーや日本のアヴァンギャルド建築家、磯崎新も主張した「白紙還元」や「廃墟」の思想である。これは、現代芸術史で、デュシャンが「ダダ」に分類されているのに合致するだろう。

(注.磯崎については、かれの「ふたたび廃墟となったヒロシマ」を参照.またそれらについては、『第2章、2節 ‘60年代西欧の「新(反)芸術」(『ヌーヴォー・レアリスム』の場合)』[『百万遍』4号掲載)を参照.)


 しかし、デュシャンのこの「補修」は、いまひとつ異なるコンセプトがこめられているようにおもえる。かれは、この「補修」はかならずしもじぶんがおこなう補修を意味しないのであろう。つまり、芸術行為なら、だれがやろうとおなじということである。かれじしん、レオナルド・ダヴィンチの「モナ・リザ」に口髭をつけた「L.H.O.O.Q.」を制作した。これは、かれのレディメードの作品であり、かれのパロディーと解されているが、「未完」のモナ・リザの、20世紀の「破壊」であり、「補修」と考えれられなくもない。「髭を剃られたモナ・リザ」も一貫して破壊であり補修である。それに、このことは、さきの「大ガラス」の芸術行為にもあるものである。

 1915~23年間の秘密のアトリエで制作中の「大ガラス」で、長期間放置されたためその表面に大量のホコリが堆積した。その制作中の下段部分をおおったホコリを、たまたま見たマン・レイが撮影した。マン・レイはそれをなんの説明もなくじぶんの作品「ホコリの培養」として、1920年に発表した。(図版3)


図版3:「ホコリの培養」


 とうじデャシャンがそのような作品の制作中とは、ほとんどだれも知らなかったのだから、むしろ、とうぜんである。マン・レイのアヴァンギャルド写真となったものである。じじつ、シュルレアリストたちは、発足前のかれらの同人機関誌『文学』誌に、マン・レイの作品として掲載している。しかし、ホコリにおおわれていてもそれは下段の「大ガラス」であることは、のちに公表された作品に関連させれば歴然としている。制作中に公開された「水車」や「チョコレート粉砕器」などのひつとなるものである。デュシャンにとっては、そのように、だれがどのようにかれの作品をあつかおうとも、それが芸術であるかぎりにおいては、なんのさしつかえもないようにみえる。もっともそれは、かれの気にいるかどうかの微妙な境界線があり、そこに問題があり、「万人のための芸術」のひとつの課題なのだが、いずれにせよここには、芸術作家の具体的な「万人のための芸術」の実践例があるのはたしかだろう。

 このような視野にたてば、ポンピドゥー・近代芸術ミュージアムの複製「泉」についても、ピエール・ピノチェリーであろうがだれであろうと、だれがどのように破壊補修しようと、原則的に芸術行為であるかぎりはなんの問題もないことになる。いずれにしても、1917年のデュシャンはもちろん、1936年のデュシャンなら、あるいは、死の前日のデュシャンでさえ、ピノチェリーのこの行為に、やや騒々しく、また、2006年という時代を勘案すると新味にも欠けるし、意にそわぬとはいえ、芸術行為をみて、シュヴァルツの「泉」にこのような「破壊」と「修正」がほどこされたとするのが、ありえたことである。すなくとも、訴訟対象になるなど論外であったろう。

(注.とうじすでにデュシャンの威光への挑戦はアヴァンギャルドの常識であった. Gilles Aillaude, Edouardo Arroyo, Antonio Recalcatiのコレクティヴ・アート「Vivre et laisser mourir ou la fin de Marcel Dichamp[1965]」など、多数ある.)


 しかし、芸術メディアであるポンピドゥー・センターは、ほかならぬ「ダダ」特別展でおこったこの事件を、単なる仮定としてでもこのようなアヴァンギャルド思想の図式でとらえることができなかった。この行為が、「泉」のアヴァンギャルド性を強調するとする思考の圏外にあったことである。

 アヴァンギャルド・メディアからみれば、ポンピドゥー・近代芸術ミュージアムは、いまさら言うまでもないことながら、コロンビア・現代ミュージアム・ボゴタで演じたようなパフォーマー、ピノチェリーのエキシビションなど、企画レベルから、けっして許容できないだろう。言いかえれば、ポンピドゥー・センターは戦後アヴァンンギャルドに対応できる施設をそろえながら、アヴァンギャルドとは相容れない組織ということになる。そのことは、MoMAも然りであり、グッゲンハイム・ミュージアムもまたそうである。その現状を、さきの谷川の「芸術家ーメディアー大衆」の狐拳構造の三角形と照合しながらみていくために、これらふたつのメディァムをおおざっぱに俯瞰しておこう。そこには、20世紀アヴァンギャルド・メディアの本質的問題があるだろう。それは、20世紀メディアすべてにかかわってくるものとなるだろう。

  ニューヨーク近代芸術ミュージアム(MoMA)は、1929年に設立された現代芸術ミュージアムであるが、創設時から、とうじのヨーロッパの「美術界」ではまだアヴァンギャルドの範疇にとどまっている、ゴッホ、ゴーギャンなどの作品収集と展示をおこない、アヴァンギャルドに焦点をあわせたミュージアムにみえるものだった。その傾向は、その後もつづき、絵画、彫刻のみならず、建築、デザイン、ポスター、写真、映画へと収蔵作品のジャンルをひろげ、グラフィック・デザインの世界センターになるにいたった。そして、1952年にはインターナショナル・プログラムを発足させ、世界のミュージアム(美術館)との交流提携を推進し、合同企画展をひとつの主要課題とした。この組織展開や収蔵作品リストをみると、アヴァンギャルド・メディアの役割を果たすために誕生し、発展してきた組織のようにみえる。

 だが、その創設からの発展の歴史経過をみると、そのアヴァンギャルドは、アヴァンギャルド芸術自体よりもむしろ、アメリカ合衆国の政治的世界位置に関係したメディァムであったようにみえる。

 ミュージアムが創設された1929年は、第一次世界大戦(1914-1918)が、連合国側の勝利でおわり、世界大恐慌がはじまる時期である。19世紀建国のアメリカ合衆国は、19世紀半ばの南北戦争をへて20世紀初頭では、ヨーロッパの諸文化・文明大国にくらべるとまだ新興国であったのだが、第一次世界大戦の趨勢を左右できたほどの国力があることを証明していたのだった。

 そこで、ヨーロッパの歴史的文化大国に比肩できる文化国家になることが、政治的にもひとつの課題となる。そうした背景が、MoMAの創設時からの莫大な資金投入と、継続しておこなわれた改革にあらわれているとおもわれる。ヨーロッパ芸術文化の既成の枠内にとどまっているかぎりは、展示・収蔵作品の質と量では、既成のヨーロッパ・ミュージアムにはとてもおよべないからである。

 その必要は、20世紀の第二次世界大戦後の世界情勢下では、いっそう顕著となる。戦後世界体制の二極構造のなかでは、アメリカ合衆国は「資本主義・『自由』主義」体制側の盟主となる(注. 本論の第1章[『百万遍』No.2掲載]でのべた.) 

 対極の「共産主義・『政治』主義」体制の文化政策である、「ロシア・アヴァンギャルド」のDNAをもつ社会主義リアリズムの芸術文化に対抗できる芸術文化を構築せねばならず、また、いっぽうでは、「資本主義・『自由』主義」圏諸国の文化中心にならねばならないのである。

 それらのことが、既成芸術の分類枠をこえる、建築、デザイン、写真、映画・・・・などのあたらしい分野を積極的に芸術にとりこむという、とうじのアヴァンギャルドが向かったとおなじ方向をさすこととなった。というより、そのような意図のもとで、アヴァンギャルドと連携したといってもよいだろう。その盟主たらんとする意図が明確にあらわれているのが、グラフィック・デザインの世界センターであり、各国ミュージアムとの交流促進と合同企画展の開催である。これは、その国のミュージアムでは実現できないような規模をもつ、その国に特化した建築展をMoMA提供で開催するようなかたちでなされた。

 したがって、MoMA自体は、アヴァンギャルド芸術家にとって、アヴァンギャルド・メディァムのようにみえるものだったが、アヴァンギャルド芸術家が選びとったアヴァンギャルド・メディアでは、結果的にけっしてそうはならなかった。

 そのことは、MoMAから、20世紀後半の真のアヴァンギャルド、つまり、真の前衛があらわれていないことに示されているだろう。創成期のアンディー・ウォーホルのポップ・アートにも、プレスリーのロカビリーにも、MoMAが直接かかわった形跡はない。また、合衆国は、アメリカン・フットボールやプロ野球の競技場熱狂の発祥地であったにもかかわらず、MoMAとは無縁のところで誕生し成長している。今となっては、これらスポーツ観戦やロックン・ロールにはじまるアイドル・グループ公演は、サポーターやファンと称する観客、あるいは、参加者のいる、ある意味ではスーパー・芸術アヴァンギャルドといえぬこともないからである。そこにある感覚刺激は、視覚、聴覚、それに身体感覚、触覚も合体したアート的刺激といってさしつかえないものである。にもかかわらず、それをアート化する指向性は、これらMoMAやポンピドゥー・センターにはまったくみられなかった。

 これらミュージアムのしめしているアヴァンギャルド・メディア的なるものは、ほぼアヴァンギャルドの見本市や昆虫標本ケースであり、文字通りのアヴァンギャルド博物館である。

 そして、そうしたアヴァンギャルド芸術家と芸術メディアの20世紀における関係は、意外にもグッゲンハイム・ミュージアムがもっともよくその特徴をあらわしているであろう。

 芸術メディァムとしてのグッゲンハイム・ミュージアムにたいしては、まえの二者とはいささか異なるあつかい方をしなけばならない。グッゲンハイムのメディア活動は複合しておこなわれたものだった。

 

 グッゲンハイム・メディアは、1937年のソロモン・R.・グッゲンハイム財団の設立と、1939年の、ニューヨーク、マンハッタンにおけるミュージアム(Solomon R. Guggenheim Museum)開館にはじまる。これは、鉱山経営者、ソロモン・ロバート・グッゲンハイム(1861-1949)が、1919年に引退後はじめた現代芸術コレクションを母体とするものだが、どうじに、現代アート支援を目的としていた。

 だが、そこには、いまひとりのアーティスト・コレクター、ヒラ・フォン・リベイ(1890-1967)の参画があった。彼女は、普仏戦争いらいドイツ領であったアルザス=ロレーヌ地方の中心都市、ストラスブールで、プロイセン貴族の娘として生まれ、はやくから抽象絵画で才能を発揮した。そのころ、アーキペンコ、ブランクーシ、シャガール、ロベール・ドローネ、アルベール・グレーズ、ジャン・アルプ、カンディンスキー、クレーらのまだ無名の、ほぼ同年齢の画家たちとおなじ展覧会で、作品が展示されたこともあるという。しかし、彼女の芸術的関心は実作から鑑賞へ移行することになる。ここには、そのひとの環境によってさだまる二つの道がある。鑑定と収集、評論家かコレクターの道である。彼女には後者になるにじゅうぶんな家庭環境があった。第一次大戦後、この地方はフランス領となり、1927年、彼女はフランス国籍の貴族として、合衆国へ移住する。そこには、さきにMoMA設立でのべた合衆国の芸術事情と、彼女の抽象絵画嗜好・性向が関係していたのかはわからない。

 リベイはそこで、現代芸術コレクターとしてソロモン・R.・ グッゲンハイムと出会い親交をふかめ、アドバイザーになったとされるが、フランス・アヴァンギャルド・アーティストと貴族のオーラを発散する彼女が、もっぱらかれに影響力を発揮し、その後のかれの行動指針に決定的役割をはたしたのではないかとおもわれる。ソロモン・R.・グッゲンハイム・ミュージアム設立についても、内容的には共同創設者といってもよいかもしれない。彼女はミュージアムの初代館長に就任し、ソロモン・グッゲンハイムの死後、1952年まで在職したばかりか、初期グッゲンハイム・ミュージアム所蔵で、めぼしい作品とされているものはつぎのようなものであるからである。

 ピカソ、マティスはとうじとしてはいうまでもないが、カンディンスキー、モンドリアン、シャガール、キリコ、メッツァンジェ、グレーズ、アーキペンコらである。これらは非具象を中心にした抽象画、キュビスム系の活動中の最先端画家の作品である。1930年代後期には、それらは、芸術家レベルではそうとはいえぬが、ミュージアム基準ではじゅうぶん冒険的で、アヴァンギャルド的選択である。それら作品は、いずれものちに評価が高まった作家たちの作品である。ということは、その後の芸術に影響をあたえたこと、つまり、アヴァンギャルド(前衛)であったことになる。

 そこには、作品評価、収集力、資金力とその投入効率という芸術メディァムの設立第1条件がみたされていたといえるだろう。

 そして、これはもっぱら、ヒラ・フォン・リベイの参加した成果であろう。芸術家鑑定の選択眼が十全に発揮されている。その鑑定には、すぐれたアヴァンギャルディストの見識をみとめざるをえない。

 というのは、おなじような方向を見いだしながら、それなりの効果しかえられなかった例が、この20年前のフランスにすでにあったから、いっそうそのようにおもわれる。

 オート・クチュール経営のファッション・デザイナーとして成功し、すでに、芸術・文学コレクターでありメセナでもあったジャック・ドウーセ(1853-1929)は、20年代になったその晩年、のちのシュルレアリスト、ブルトンとアラゴンを顧問にしその助言によって、かれのコレクションを後年の評価基準からみて豊かなものにした。そして、そのコレクションが母体となり現存する貴重な資料館となっているのがおもいだされる

注.〈「第2章「デモ・ゲバ」風俗のなかの「反芸術」/3) トリスタン・ツァラの『ダダ宣言 1918』とアンドレ・ブルトンの「反芸術」〉[『百万遍』4号掲載]) 

 

 ここでは、ドウーセがソロモン・グッゲンハイムであり、ブルトン、アラゴンがリベイであったのだが、リベイはかれらよりはるかに強力な権限をもっていたことになる。もし、そのときのブルトンがリベイの位置にあったのなら、ドウーセ・コレクションにはピカソの『アヴィニヨンの娘』があったろうし、ピカビアの中期の大作「泉のダンス」や「マリー・ローランサンの肖像」、「世にも稀なるタブロー」、さらには、デュシャン転換期の油彩画、「階段を降りる裸婦(ヌード)」や「チェス・プレーヤ」、「夜汽車の悲しい青年」のなかの、各芸術家ごとの一、二点ぐらいは収蔵されていたはずである。ブルトンはかれらをドゥーセに引きあわせ、デシャンについては、かれの着色回転盤制作の援助をしているぐらいなのである。にもかかわらず、とうのドゥーセは、ブルトン推奨のマチスの「金魚鉢」は入手しているのだが、かれらについてはわずかな小品しか購入していない。それらのことは、ブルトンがリベイの立場であり、かれの助言にしたがっていたら、すくなくともキュビスム後期、転換期のアヴァンギャルド作品では、資料価値とはいえ、作品の質と量においては、グッゲンハイム・ミュージアムをはるかにしのぐギャラリーが構成され、40年後のポンピドゥー・ミュージアムの母体となり、ミュージアム自体の性質もいくぶん異なるものになっていたかもしれない。

 そのような意味では、グッゲンハイム・ミュージアムの共同創設者、ヒラ・フォン・リベイのアヴァンギャルド性向効果はこればかりではない。むしろ、つぎの貢献が、20世紀型アヴァンギャルド=メディアとしてのグッゲンハイム・ミュージアムの位置定着におおきな結果をもたらしている。

 ソロモン・R.・ グッゲンハイム財団は、1943年に、アヴァンギャルド建築家、フランク・ロイド・ライトに新ミュージアム館の設計を依頼した。完成した設計案はアヴァンギャルド建築にふさわしいものだった。螺旋状に構成された展示館構造では、観客の閲覧がエレベーターで運ばれた最上階からおこなわれることになる。そして螺旋形状に下降する回廊に陳列された作品を鑑賞しつつおりてくる構造は、まさにアヴァンギャルド(前衛)そのもの展示会館設計だった。とうぜんそれは簡単に受けいれられるものではなかった。やっと承認されたのは、ソロモン・グッゲンハイムの死の年、1949年である。

 しかし、当初からライトを推奨し推薦したのはリベイであり、彼女は、終始この建築を支持し説得につとめたといわれている。また、そこには、ニューヨーク建築基準法抵触の難点もあったのだが、これをクリアしたのは、既成概念を凌駕することであり、まさにアヴァンギャルの身分証明となるものだった。

 この新ミュージアムが完成し、竣工式がおこなわれたのは、10年後の1959年であり、建築家自身の死後だったが、世界遺産に登録され、20世紀建築作品群のすぐれた業績となっている。

 この建築アイデアが、もしグッゲンハイム・ミュージアムで実現していなかったら、20世紀にのこされているかずかずのアンビルト建築のひとつにとどまっていただろう。20世紀のアヴァンギャルド建築には、ロシア・アヴァンギャルドのウラディミール・タトリンが、レーニンの依頼で設計したといわれる「第三インターナショナルのための記念碑」(1913-32)をはじめ、ル・コルビュジェの「ソヴィエト・パレス」(1931-32)、ミース・ファン・デル・ローエの 「曲線形の裁判所」(1930s)など、アヴァンギャルディスト建築家の卓上作品がおおくある。

 そうした視点からいえば、ソロモン・R.・グッゲンハイム・ミュージアムは、ヒラ・フォン・リベイというアヴァンギャルド芸術家の介入によって、アヴァンギャルド・メディァムの役割のひとつを果たしたことになる。

 もっとも、さきのポンピドゥー・センターについても、1949年のグッゲンハイムほどセンセーショナルではないが、とうじのアヴァンギャルド建築家、レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャーズなどの共同設計で建設されたとき、その効率重視の外観と内部構造は、既成建築とはかなり逸脱したものであり。批判をあびた。

 ただし、これは、着工遅延のライトほどの物議をかもしたとはいえないし、また、パリのそうした先達には、1889年のパリ・万国博覧会時に建造されたあの、橋梁設計技師によって建設されたエッフエル・タワーがあるのだから、とりたてていうべきでもない。プティット・アヴァンギャルドというところだろうか。しかし、1970年の日本の万国博覧会にもあったように、19世紀末にはじまり20世紀では、アヴァンギャルド的建造といわれるものが輩出しているのは事実であり、そのことは、アヴァンギャルド芸術家とメディアの関係を考えるさい、芸術家ーメディアー大衆の三角形のなかで留意しておかねばならないだろう。

 しかしながら、グッゲンハイム・ミュージアムにおいては、20世紀アヴァンギャルド・メディアの特性はこればかりではない。

 それは、ソロモン・グッゲンハイムの姪、ペギー・グッゲンハイムが伯父の活動とは無関係に独自におこなった蒐集活動にある。彼女のコレクションは後年、ソロモン・R.・グッゲンハイム財団の管理下にうつされているから、グッゲンハイム・メディアとして、なんらさしつかえないだろう。

 ペギー・グッゲンハイム(1898-1979)の父ベンジャミンは、豪華客船タイタニック号の遭難(1912年)で死去していたが、富裕家族のきままな文学、芸術好きの娘として、彼女は成長した。20歳になるまで、いちおうは、マンハッタンのアヴァンギャルド系の書店につとめながら、もっぱら反社会体制(ボヘミアン)的なアーティストのなかにいる、’60年代日本アヴァンギャルドなら小野洋子的存在だったかとおもわれる。そして、21歳で250万ドル(2019年の相場では3690万ドル[Wikipedia])の相続遺産をうると、翌年1920年、パリに転居し、モンパルナスの芸術家たちと濃密な交流をもつことになる。アヴァンギャルドの拠点が、ピカソ、マチス、ユトリロ、アルフレッド・ジャリ、エリック・サティらのモンマルトルからモンパルナスへ移っていた時代である。この時代のこの街のアヴァンギャルドの騒乱と活況については、Jean-Marie Drotの『Les heures chaudes de Monparnasse』にくわしい。彼女の芸術的基礎知識はこのとき培われたものといわれている。彼女自身の回想録『世紀の外で─芸術中毒者の告白』(邦訳『20世紀の芸術と生きる』)によると、ここでマルセル・デュシャンと出会い、かれから親切な指導をうけるまでは、「抽象」と「キュビスム」と「シュルレアリスム」の区別もできていなかったとあるから、ここでの生活が、その後の彼女の藝術観に決定的な影響をあたえたのだろう。

 この街に十八年間滞在したのち、1938年、40歳になった彼女は、有力な共同経営者もなくロンドンで、ギャラリー「グッゲンハイム・ジューヌ(若いグッゲンハイム)[Guggenheim Jeune]」を開店する。創設展はジャン・コクトーの新作絵画やデッサンが中心だった。

 このドーバー海峡をわたっての開店については、さまざまな理由が考えられる。彼女の関心と資金力からいって、アヴァンギャルドのメディアを指向したのだろうが、パリではなくロンドンを選んだのは、第一には英語圏もあろうが、2年前の1936年、はじめてにひとしい「国際シュルレアリスム展」がロンドンで、開かれ成功していたことがあったのではなかろうか。

 シュルレアリスム展では、それまでには、パリで開催された小規模のシュルレアリスムを紹介する個人展にちかいのは別にして、国際シュルレアリスム展といえるものは、1935年のブリュッセル展とこのロンドン展だけであった。これは、国際シュルレアリスム展覧会(Internationnal Surrealist Exhibition)と名乗った大展覧会とはいうものの、フランス側のシュルレアリストは、ブルトン、エリュアール、マン・レイらが来訪し講演したただけで、企画者はハーバート・リードであり、組織委員はローランド・ペンローズやデヴィット・ガスコインらであった。出展者数は14ヶ国、60人にあまる芸術家だったが、なかには、シュルレアリスト以外にも、ブランクーシ、クレー、ヘンリー・ムアーらの作品、あるいは、原始オブジェなど多数のオブジェが展示されていた。現代アヴァンギャルド作品展といってよいものだろう。同種のものが、ニューヨークのMoMAでも同年12月、アルフレッド・バーの企画で、「奇妙な芸術、ダダとシュルりアリズム(The Exposition Fantastic Art, Dada and Surrealism)」展が開催されている。ロンドンではこれにかぎらず、翌年の1937年と1939年に、ベルギーのシュルレアリスト、エドゥアール・メザンスの「シュルレアリスム」展がひらかれている。

 こうした事情を、急速に交流をふかめていたデュシャンや、そのほかのアヴァンギャルディストたちから、かなり詳細な情報をえており、あるしゅの意図と展望をもった行動だったかとおもわれる。それはギャラリーの名称にもひそんでいる。「グッゲンハイム・ジューヌ」は、パリの名門ギャラリー「ベルネーム・ジューヌ(Bernheim Jeune)」の踏襲といわれているが、そのころのニューヨークでは、伯父のソロモンが「ソロモン・R.・グッゲンハイム財団」を創設し、「ソロモン・R.・グッゲンハイム・ミュージアム」設立の直前の時期であった。

  一族における位置からみても、彼女はこの企画の外にいたのだろうが、それでもなお、動向はくわしく承知していたとおもわれる。

 それは彼女の無関心な領域ではなく、また、素人ながら、それなりに自負ある分野である。それに、グッゲンハイム一族への、錯綜し屈折した対抗心もあったかと想像できる。それになによりも、当人は、40歳になろうという、気ままの同義語でもある独立心のつよい女性である。

 おそらく彼女は、アヴァンギャルド・メディアになろうと覚悟したのではなかろうか。 そして、その覚悟には、20年間滞在したパリのモンパルナス、そのころはまだ色褪せていなかったアヴァンギャルド芸術のメッカで培った、デュシャンをはじめとするマン・レイやブランクーシらとの、多種多様のつきあいかたから獲得した人脈への裏付けが、冷静な観察力と経営感覚によって、織りこまれていたにちがいない。(注.現代芸術志向はその後のイギリスではじまるというものもいる.)

 というのは、彼女の行動にはつぎのような展開がみられるからである。

 「グッゲンハイム・ジューヌ」は、モンパルナスにゆかりあるアヴァンギャルディスト文学スター、ジャン・コクトーの、やや意表をつく絵画・デッサン展につづけて、抽象のカンディンスキー、シュルレアリスムのイヴ・タンギーやヴォルフガング・パーランという、とうじのロンドンではほとんど無名画家の特別展を開催し、収益はともかく、それなりの成果をおさめていた。ことにカンディンスキーについては、イギリスでの最初の個展であった。

 しかし、それでも彼女は、このギャラリーを翌年閉店し、ハーバート・リードと連携してミュージアム設立計画に着手する。イギリスにおける新鋭の現代芸術評論の実力者と、一年足らずでここまでの関係をきずくには、よほどの執念と行動力がなくてはできないことだ。

 そして、それまでの企画展ごとに購入した作品にくわえる作品収集のため、旧知があつまるパリへ再度おもむくことになった。ミュージアム企画と計画はリードが主導したのだが、購入資金は、彼女の単独負担であった。

 ときは1939年、第二次世界大戦が勃発し、不安と焦燥の「奇妙な戦争」にはいるパリであった。彼女はそのとき、一日に一枚づつ作品を買いあつめたという。購入した作品を列挙するとつぎのようになる。ピカソ、ブラック、レジェ、クレー、カンディンスキー、グリス、ピカビア、グレーズ、モンドリアン、ミロ、エルンスト、タンギー、ダリ、キリコ、マグリット、パーラン、マン・レイ、ファン・ドゥースブルグ、ブローネル、セヴェリーニ、バッラらの画家であり、彫刻家もブランクーシ、リプシッツ、ジャコメッティー、アルプ、ムーア、ベヴェスナーらがはいる、現在からみても百花繚乱の、とうじのアヴァンギャルディストの名前がならぶ。

 しかも、それらのほとんどは、作家本人との個人間取引であり、かれらはまだ画商対象の作家は少数であり、また、不気味な戦時でもあって、芸術作品購入者など希少だった。彼女の支払った上記全作品の対価は、4万ドルの予算をこえるものであったという(注.カルヴィン・トムキンズ[木下哲夫訳]『マルセル・デュシャン』による.) 金額の真偽と作品の質と量はわからない。ちがった購入作品分布と価格評価もあるが、いずれにしても、とうじとはいえ、格安で入手したのはまちがいないだろう。

 だが、戦争の均衡がやぶれ、ドイツ軍のフランス、イギリス侵攻がはじまると、ミュージアム計画など瓦解し、パリもドイツ軍侵入の危機にさらされる。(注.この間、ミュージアム計画は、彼女単独のパリに変更されている.)

 彼女は、まだ参戦していない合衆国の国籍所持と、長年培った人脈を活用して、これら購入した全作品をもって南フランスへ撤退する。

 とうじのマルセイユは、国外脱出をはかるひとびとが殺到していた。NGO組織「緊急救助委員会」の拠点もあって、アウトサーダーの芸術家たちもあつまっていた。ブルトン一家をはじめ、シュルレアリストたちもそこで、「マルセーユのカード」や「優美な死骸」などの集団デッサンに興じていた。ヴィクトール・ブローネル、アンドレ・マッソン、ジャック・エロルド、ヴフレッド・ラム、オスカール・ドマンゲスら、さまざまな国籍のものたちが蝟集していた。そのなかには、反体制のドイツ人という微秒な身分で困窮したマックス・エルンストもまじっていた。

 旧知もいるかれらと出会ったペギーは、おそらく人脈拡張と作品収集の活動をつづけるとともに、さまざまな援助をおしまなかった。たとえば、妻ジャックリーヌ・ランバと娘オーブをつれたブルトン一家の合衆国への渡航費は全額を彼女が負担したという。また、そこでエルンストと急速に親密になり、1941年の帰国後、結婚している。

 そして、帰国した彼女は、第二次世界大戦のさなかの翌年、1942年のニューヨークで、ギャラリー「今世紀の芸術(The Art of This Century)」を開店する。(注.1941年12月の日本の真珠湾攻撃により合衆国は連合国側で参戦し、全米は戦時体制にはいっていた.)  

 創設展の大冊カタログに掲載された三論文のひとつは、ブルトンがそのために書き下ろした「シュルリアリズムの起源と展望(Genesis and Perspective of Surrealism)」だった。英訳者は、のちにふれるが、モンパルナスで出会い、結婚し、離婚した前夫、ローランス・ヴァイユであった。(注.ブルトンの後日刊行の『シュルレアリスムと絵画』に「シュルレアリスムの芸術的起源と展望」として収録されている.)

 展示されたのは、エルンスト、マッソン、シャガール、レジェ、リプシッツ、タンギー、クルト・セリグマン、ピート・モンドリアンであり、シュルレアリスム、抽象、キュビスム系の、とうじはまだアヴァンギャルドの作家たちである。そして、アヴァンギャルド建築家のフレデリック・キースラーが構成した展覧会会場は、壁面が湾曲し、奇抜な照明と音響効果で異彩をはなち、一ヶ月前におなじニューヨークで開催されたデュシャン主導の「シュルレアリスム帰化申請第一書類」展や、パリの「国際シュルレアリスム」展(1938年)に対抗できるものだった。(図版4参照.「シュルレアリスム帰化申請第一書類」展や1938年の「国際シュルレアリスム」展(メーグ画廊)の会場光景については、拙著『現代芸術は難しくない』にある.)



図版4:「シュルレアリスム帰化申請第1書類」展(1)


図版4:「シュルレアリスム帰化申請第1書類」展(2)

 


 1942年のアヴァンギャルド・メディァムの役割をそれなりに充すオープニングといえよう。「今世紀の芸術」のアヴァンギャルド画廊の活動はこれにとどまるものではなかった。第2回展は、合衆国のシュルレアリスム系のアサンブラージュ作家、ジョゼフ・コーネルの特別展であった。先験的なミュージアム企画である。おなじような先駆性は、開店2年目からはじまるジャクソン・ポロックの個展にもある。まだ、アクション・ペインティンティング開始以前であったが、「雌狼」や「秘密の守護者たち」「月女が円を切る」など、制作されたばかりの、かれの初期作品の傑作が陳列された個展だった。ポロックについては、ギャラリー閉店の1947年までほぼ毎年、個展がひらかれている。モンドリアンの個展が集中的に開催されたのもこのギャリーであった。新進の合衆国作家については、コーネル、ポロックだけでなく、ロバート・マザーウェル、マーク・ロスコ、クリフォード・ステラという、ニューヨーク抽象表現主義第一世代の作家ほとんどの個展がひらかれている。

 このこころみは個人展ばかりではない。「三十一人の女性」展と名づけた以下のような女性芸術家展が設置されたのも、「今世紀の芸術」ギャラリーであった。レオノール・フィニー、ヴァレンタイン・ユーゴー、メレット・オッペンハイム、レオノーラ・カリントン、イレーヌ・ライス・ペレイラ、ヘッダ・スターン、ゾフィー・トイベル=アルプ、ルイーズ・ネーヴェルソン、フリーダ・カロー、ドロシア・タニングらである。とうじの芸術界における女性芸術家の待遇からみると、画期的に異例であり、また、シュルレアリスム、抽象画、オブジェ作家を網羅した、20世紀の代表的女性作家の、はじめてにちかい紹介であった。

 こうしたペギーのおこなったアヴァンギャルド芸術のメディア活動は、その展示作家への先験性と作品蒐集効率が驚異的だっただけでなく、おそらくは意図せずになされた、作家養成は、20世紀芸術史に貴重な影響をのこしたとおもわれる。これらは、20世紀のポンピドゥー近代芸術ミュージアムもMoMAも、結果的におよべなかったことである。

 その理由を、谷川の「芸術家─メディア─大衆」の狐拳三角形構図の「芸術家─メディア」関係からみれば、つぎのようになろう。

 まず、ペギーは、メディアでありながら、ヒラ・フォン・リベイとはちがった意味の芸術家の立場にあった。彼女はその生涯いちども、作家であったことはなく、また、評論家であったこともない。それでいて、心情的に、芸術家感性に共鳴する女性だったのだろう。

 これがどのようなものであったかは、これまであげてきたアヴァンギャルディストたちの作品との関係のもちかたにあらわれている。彼女はこれらのだれひとりとして、独自の見識による「作品」鑑定から発見したものはいない。ジョゼフ・コーネルは、デュシャンの目をとおして知ったのである。31人の女性展の企画とメンバーを認知したのもデュシャン経由だった。じぶんの展覧会会場で、ポロック絵画を前にして首をかしげる彼女に、その先駆性を告知したのはモンドリアンだったという。それを識った彼女はおくれてきた他のアヴァンギャルディストに、この作品を強調して見せたという(注.カルヴィン・トムキンズによる.) そのような例、身辺アヴァンギャルド芸術家のウケ売りはペギーの特技という証言はすくなくない。

 しかし、これはたんなるウケ売り、作家の場合なら、剽窃といってすむものではない。彼女は発言者の指摘に感応することができたのである。そして、その感応を、さらにべつの芸術家によって増幅し、費用と時間を必要とするミュージアムでの具現化をしたのではなかろうか。なにしろ、デュシャンにせよ、戦時ヨーロッパから逃れてきたモンドリアンにせよ、そのたもろもろの発信者を身辺にあつめたのは彼女自身の感性だったのだ。彼女はかれらを身辺におくためには、たえず精力的な気配りをしている。ブルトン一家の渡航費提供などもその一端だろう。とうじのかれらはすべて、異端芸術の外では、身元保証のない芸術家だった。思春期いらいそうした芸術家のなかで活きてきた彼女は、彼らの感性を身につけ、その才能を感得する力があったとおもわれる。言い換えれば、彼女自身の一部分が芸術家だったということだろう。

 さらにいえば、彼女がした二度の結婚は、最初はダダ的なオールラウンドの芸術家であり、二度目はエルンストである。その間、それ以前も以後も、おびただしいラブ・アフェアーがあったという伝説があるが、そこにあげられる名前ことごとくは、アヴァンギャルド系の芸術家たちである。なかば公称されたところでは、イヴ・タンギー、E.T.M.メザンスというシュルレアリストがあり、ロンドンの「国際シュルレアリスム」展の組織委員であった現代芸術評論家、のちに写真家、リー・ミラーの夫となる、ローランド・ペンローズであり、また、短期とはいえ情熱的な関係をむすんだといわれる、サミエル・べケットがいる。デュシャンとさえ、なにやらあったと本人がかたっているのだ。こうした関係は恋多き女というのではない。関係の質においても、注目すべきものがある。

 彼女はモンパルナスで出会った、ボヘミアン的芸術家、ヴァイユと、1922年に最初の結婚した。かれとの関係はひとつの典型パターンとおもわれるから、すこしくわしくみておこう。

 ローランス・ヴァイユ(Laurence Vail)(1891-1968)は、父が風景画家であり、少年時代からブルターニュ地方やイタリアのヴェニスを連れまわされたあげく、中等教育をフランスでおえ、渡英してオックスフォード大学で文学を専攻した。フランスへもどると、戯曲、エッセイ、詩を書き、英ー仏語翻訳をおこない、また絵画、彫刻、オブジェ制作もするという、アヴァンギャルド予備軍の芸術家となった。’60年代の東京でもみられたようなキャラクターである。

 かれは、20年代には、モンパルナスのボヘミアンたちの首領格となり、「ボヘミアの王」を名のったというが、モンパルナスにあつまるデュシャンやマン・レイなどのアヴァンギャルディストとも交流があった。ペギーと彼らとの接点はかれだった。

 ヴァイユは彼女と結婚すると南仏に移住し、のちに出版された小説をかきはじめ、また、アヴァンギャルド的絵画にも専念する。その間、かれらのあいだに二子が誕生している。しかし、1929年、かれのケイ・ボイルとの情事が原因で、ペギーと離婚する。

 ボイルは、ソロモン・R.・グッゲンハイム財団の特別奨学金をえた、文学志向のアメリカ女性であり、のちにO・ヘンリー賞を受賞する小説家となり、教育者となり、政治運動家としても活躍する女性である。ローランス・ヴァイユはペギーとの離婚後、彼女と結婚するが、こんどは彼女の情事ですぐ離婚している。

 しかし、ペギーはといえば、これでローランスの関係が断絶したわけではない。1938年にロンドンの「グッゲンハイム・ジューヌ」を開店すると、同年のコラージュ展ではかれの作品を展示している。そればかりか、ドイツ侵攻によってヴァイユも渡米するのだが、「今世紀の芸術」ギャラリーでは、コーネルやデュシャンとならんで、かれのオブジェ作品展が、戦後かれが帰仏するまで、しばしばひらかれている。また、創設展カタログ掲載のブルトンの『シュルレアリズムの起源と展望』の翻訳者がヴァイユであったことはすでにのべたところである。

 その後のかれについては、パリで個展をひらいたり、1955年にはイタリアのヴェニスの「仔馬のギャラリー(Galleria del Cavallino)」、1966年のMoMAのアサンブラージュ特別展の出品者のひとりとなったりしている。かれの作品はイタリアをふくめた各国のミュージアムに収蔵されたという(注.ローランス・ヴァイユ、ケイ・ボイルについては、おもにWikipediaによる.)

 ペギーのヴァイユとの関係のもちかたは、情念とはいえ芸術的な情念によるものである。恋の情念も芸術的情念の彩色、あるいは、芸術情念の手段のようにみえる。

 彼女は芸術家でなかった芸術家ということではあるまいか。このばあいの芸術家とはアヴァンギャルディストである。ヴァイユの略歴にみたように、かれは先鋭なアヴァンギャルディストではなかったが、コラージュにむかいアサンブラージュに関心をむける芸術家だった。そして、そうであるかぎりにおいて、離婚しようがなにをしようが、遠近こそちがえペギーの身辺にいたのである。

 そしておそらく、アヴァンギャルドということにも意味がある。現実のアヴァンギャルディストとは、だれしも芸術そのものにたいする得体の知れない、ひときわつよい感性にとりつかれている者なのだ。作品における芸術家ではなく、感性における芸術家もありうるものだろう。

 しかも、彼女のばあいそれは、並外れた顕在化の実行力をともなうものであった。その実行力によってその感性が現実化したのが、ふたつのミュージアム、ことに「今世紀の芸術」ギャラリーの活動だったかとおもわれる。

 そうしたことの顛末は、このごの成行きがあらわしているであろう。

  1945年8月、第二次世界大戦は終結した。ニューヨークにあつまっていた20世紀の第一次アヴァンギャルドの芸術家の離散がはじまった。ピエト・モンドリアンは終戦の前年、死亡している。1945年11月には、はやくもブローネル、マッソン、レジェら身辺にいた作家たちがパリへ帰っていった。ブルトンも、ハイチやアンチール諸島へ招待旅行にでかけ、翌年5月には帰仏し、戦後シュルレアリスムの活動を開始した。エルンストはドロシア・タニング、タンギーはケイ・サージというシュルレアリスム系芸術家の妻とともにニューヨークを離れ、アリゾナ州やコネチカット州へ移住する。

 そしてニューヨークも、いっきに戦時色をあらため、あらたな大がかりな音楽会がひらかれ、新規模のオペラやバレー、演劇が開催され、ニュールックなどのファッションが登場する。

 それは、いっぽうでは、戦時中に活力を発揮していた「今世紀の芸術」ギャラリーが色あせることであり、第一次アヴァンギャルドの抽象キュビスムシュルレアリスムが、アヴァンギャルド性を衰退させることだった。

 ペギーは、1947年、「今世紀の芸術」ギャラリーを閉館し、翌年、全コレクションをたずさえてイタリアのヴェニスへ移住する。そして、1949年にはヴェニス伝統の一等地の大運河ぞいにある、18世紀建築の名邸宅、「獅子の宮殿(Palazzo Venier dei Leoni)」を購入し、居住するとともに、グッゲンハイム・コレクションの新拠点をさだめることになる。

 これはおそらく、アヴァンギャルド・メディァムから、アヴァンギャルド芸術家が剥落したことになるのだろう。

 ペギーがギャラリーを閉館した1947年は、くしくもクリスチャン・ディオールがニュー・ルックとよばれ、ニューヨークを中心に戦後世界で流行した細いウェストと広がるスカートのニュー・シルエットを発表し、女性ファッションを一新した年だった。そして、芸術界では、コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムというパリ、ニューヨークでない都市を頭上にふりかざしたCoBrAグループが名乗りをあげたのが、1948年である。それはいまからみると、抽象キュビスムシュルレアリスムを無視するグループではあったが、20世紀の第二次アヴァンギャルドというより、第一次アヴァンギャルド後期とすべきかとおもうが、ともかくも、戦後アヴァンギャルドの胎動だったのはたしかである。ペギーが閉館した年が、アヴァンギャルド芸術の戦前と戦後の区切りの年だったのは、ペギーの察知する芸術感覚のたしかさを示すものであろう。20世紀のメディア経営者としてのペギーである。

 これはまた、ペギーが選んだヨーロッパの都市が、彼女が知悉し、旧知がのこり、あるいは帰っているパリや、のちに産業芸術の花、ファッションの聖地となり、イタリア未来派をかつて誕生させ、ヌーヴォー・レアリスムを12年後にうみだすあのミラノではなく、ヴェニスということにもあらわれている。

 このときはまだ、ヴァレリオ・アダミーやエロー、ジャック・モナリーの「フィギュラション・ナラティヴ(物語する具象)」やエンリコ・バイといった第一次アヴァンギャルド後期というべきアヴァンギャルディストはいうまでもなく、ロンドンのポップ・アートさえあらわれていないときである。20世紀の第二次アヴァンギャルドというべき「ミニマル・アート」や「アルテ・ポーヴェラ(貧困芸術)」やさらにはコンセプチュアル・アートもアース・アート(環境芸術)も想像さえできない年代である。彼らが表面にでてくるのは、’60年代以降になってからである。

 だが、デュシャンはひそかに、終戦の前年から、「落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ(Etant donnés: 1o La chute d’eau 2o Le gaz d’éclairage)」(1944-1966) の制作を開始していた。そして、帰国したブルトンは、戦後のシュルレアリストをあつめ、パリのメーグ画廊で、新旧合同の「1947年のシュルレアリスム」展を開催していたし、合衆国でもタニングやレオノーラ・カリントン、ケイ・サージらの女性作家らが制作をつづけていた。

 第一次アヴァンギャルドのかれらはけっしてアヴァンギャルディストであることをやめたのではない。デュシャンの「落ちる水・・・・・・」は、「大ガラス」にたいしては明らかに対抗的な作品である。表現形態においても、抽象形でなくフィギュラティフ(具象)的である。動くキュビスムであった「階段を降りる裸体(ヌード)」から派生した「裸にされた花嫁」ではなく、「物語する裸体(ヌード)」だった。(図版5、6) 絵画的平面構成であった前者にたいして、「覗き見る異次元」ということでは、平面、立体を超越した構造だった(注.「落ちる水・・・・」は、扉の穴から覗き見るしかけとなっている.) デュシャンがこれを制作しはじめた時期を考慮すれば、’50年代末のリチャード・ハミルトンにはじまるポップ・アートの先駆とも、また、「フィギュラシィョン・ナラティヴ(Fuguration narrative)」 だけでなく、造形と文学の合体ジャンル、「マンガ」注 の先駆的アヴァンギャルドといえなくもない。

(注.ここでいうマンガとは、つげ義晴的な’60年代のマンガを念頭においている.なお、ヌーヴォー・レアリスムとウォーホルのポップ・アートについては、「『ヌーヴォー・レアリスム』の場合」[『百万遍』4号掲載」で述べたところである.)



図版5:「落ちる水と照明用ガス灯があるとせよ」



図版6:のぞき穴がついた扉



 戦後社会を見すえる対応では、ブルトンの「1947年のシュルレアリスム」でもどうようである。

 パリでひらかれた第1回展といえる1938年の「国際シュルレアリスム」展、ニューヨークでひらかれた、「シュルレアリスム帰化申請第一書類」展につづき、デュシャンの協力で開催された「1947年のシュルレアリスム」展は、会場もともかく、カタログが特徴的であった。その限定特別版の表紙は、デュシャン制作のフォームラバー製の乳房で、「触ってください」としるされていた。そして、カタログそのものは作品図版と解説だけでなく、論文、宣言、詩篇で構成された大冊だった。たんなる造形芸術展でないシュルレアリスム展をしめすものである。なお、この表紙は、現在のデュシャン回顧芸術展でかならず展示されるものだ。(図版7)


図版7:「触ってください」



 この会場に作品を陳列したのは、アメリカ在住のエルンストやタンギーをはじめ、ブローネル、ミロ、マッタら、80か国90名の芸術家だった。会場設定は、デュシャンとマッタが参画し、キースラーの担当で、特異な展示場を演出していた。旋回照明が照射する作品室、不気味な光にてらされた沈黙の部屋にならぶトーテム、上階への階段は、タロットの秘法21に倣って21段階に設定され、各階段には、秘法にふさわしい言葉が記されていた。各部屋は「雨と迷宮のホール」とか「迷信のホール」と名づけられ、12名の芸術家が制作した、秘教を礼賛する12の祭壇がもうけられていた。

 これは、たんに奇を衒うものではない。ブルトンをはじめ文学者が参加していることからもわかるように、「人間存在に根をおろす魔法の建造」をテーマとした、シュルレアリスム思想の表現の場であった。

 ブルトン帰仏後のパリでは、旧来のシュルレアリストや近接点にあったものたち、たとえば、エリュアールやツァラ、その他のものたちのブルトン批判や、シュルレアリスムそのものへの批判がおこると同時に、あたらしいメンバーがかれの周囲にあつまりはじめていた。小説家のジュリアン・グラックやマンディアルグであり、サラーヌ・アレキサンドリアンやアラン・ジュフロワ、ジャン=ルイ・ベドゥアン、ジェラール・ルグラン、ジャン・シュステールなどの20歳前後の文学青年が、この年、1947年にはすでにかれの身辺にあらわれていた。

 この「1947年のシュルレアリスム」展は、とうぜん彼らも参加するものであった。ここで表現されているのは、たんなる造形芸術ではなく、文学と芸術が区別されない広義の「芸術」、しかも、その頃からその後、ブルトンが強調する思想的シュルレアリスム展であった(注.『秘法17』の執筆と出版は1944年である.)

 このことは、その後の活動でも鮮明にあらわれる。ブルトンのもと、新メンバーが中心になって、翌年には、タブロイド版にちかい新機関誌『ネオン』(1948-1949)が刊行され、1952年には、『メディオム(Médium)』誌が発行されるとともにシュルレアリスムの画廊「封印された星」が開店する。これらの機関紙では戦後の文化論、芸術論とならんで、あたらしい芸術家の作品批評が、ブルトンなど多くのメンバーによって執筆され、議論の対象となり、シュルレアリスムの画廊で紹介されることになる。

 このような活動は、シュルレアリスムの思想を中心に展開されるいじょう、狭義のアヴァンギャルドとはいえぬものだが、シュルレアリスムがかつての運動を終焉させたことではない。20世紀アヴァンギャルドの見地からいえば、生前のブルトンは、ポップ・アートもネオ・ダダもヌーヴォー・レアリスムもけっして認めることがなく、また、ある意味では旧来の作品主義芸術いがいの芸術を、とりあげることはなかったが、オカルトへの傾斜など、20世紀の芸術家でありつづけたのはたしかだろう

(注.芸術におけるアヴァンギャルドとは、技法、形式、表現媒体の先駆者であって、その見地からいえば、シュルレアリスムのアヴァンギャルド性は、一聯のオートマティスムだけかもしれない。ブルトンは、はやくから「映画」には関心をもっているが、それをシュルレアリスムのカテゴリーでとらえたことはない.)


 つまり、ブルトンをふくめて、かれらはけっしてアヴァンギャルドを放棄したわけではなかった。それが、芸術史的にそうであったかは別の課題として、旧来の芸術に背をむけ、それを復活させる芸術を批判し、対抗する芸術行動を指向したのはまちがいなかろう。

 しかし、ペギーについてはそうでなかった。たとえば、デュシャンの1966年に完成する「落ちる水・・・・」が、フィラデルフィア・ミュージアムではなくペギーにゆだねられても、18世紀の名建築「獅子宮」には設置する場所がなかったろう(注. コンピューター  You-tubeでは、Palazzo Venier dei Leoni の内部構造をみることができる.) 「1947年のシュルレアリスム」展だけでなくそれ以後の国際シュルレアリスム展の開催など、造形「作品」限定のグッゲンハイム・コレクションでは不可能である。

 とうじ50歳になったペギーは、アヴァンギャルディストたる自分たちの時代がおわったと、作家でも思想家でもない彼女の芸術家は実感したのだろう。そして、芸術における立ち位置をかえたのである。

 芸術には、芸術家と「作品」の二端がありその中間をしめるのが「制作」である。あるいはふたつの中心点のある楕円球としてもよい。ペギーは「芸術家」から芸術を握っていたのだが、「作品」の側に握りなおしたのだ。芸術家からコレクターに軸足を移したのである。なお付言しておけば、このときデュシャンは62歳であり、ブルトンは53歳である。デュシャンは「獅子宮」以後のペギー・コレクションに助言した形跡はないが、死の直前の自作品委託先のミュージアム選定では、小品ながら数十点をグッゲンハイム・コレクションに配当している。ペギー・メディァムのそれなりの役割を認めていたのだろう。ブルトンについては、彼女とのその後の関係はどの資料にもないし、かれのルネッサンス芸術拒絶観からみてもありえないことである。しかし、いっぽうではブルトンも、かれなりの「画廊」経営をおこない、また、画商であったのだから、彼女とまったく接点がなかったとはおもえない。

 ところで、1947年、コレクションをもってイタリアに移動した、そうしたペギーは、国際現代美術展覧会である、ヴェニス・ビエンナーレの招待におうじ、展示会場一会館の全棟使用の展示を担当している。それは、台頭するアメリカ現代芸術作品をふくむ、戦後ヨーロッパでは有数の現代芸術の大規模コレクションの展示であった。世界戦後体制の二極構造における合衆国の役割増大に呼応し、ヨーロッパ芸術界でも注目される時宜をえたメディア企画である。

 芸術メディアは、経営と芸術の二要素によって構成されるものである。芸術にはいままでのべたように、芸術家と作品の二面性がある。ペギーは経営と芸術作品から芸術メディアを担おうとしたのだ。

 彼女のこの方針は一貫して遂行された。以後のコレクションでも、作品主義に撤した、キレイな100~200号「作品」となり、「フィギュラション・ナラティヴ」のアダミーやバイユ、あるいは、「アルテ・ポーヴェラ」などのイタリア・アヴァンギャルディストが活躍しはじめる’60年代になると、コレクション活動さえ停止し、もっぱら、手持ち作品の整理・集約と、ヨーロッパの全美術館への貸し出しに専念する。そして、死(1976年)の数年前に、全所蔵作品をソロモン・R.・グッゲンハイム財団へ生前贈与として寄託する。その条件は、ただ全作品の所在地をヴェニスの「獅子宮」におくことだけだったという。これが、現在、ソロモン・R.・グッゲンハイム・ミュージアムのヴェニス別館の「グッゲンハイム・コレクション」といわれ、大衆鑑賞家をあつめているものである。

 このようななりゆきを知ると、ペギーが「今世紀の芸術」ギャラリーを閉鎖し、ヴェニスへの移住を決めたとき、この路線は確定していたのではないかとおもわれる。「獅子宮」を購入した1949年は、ソロモン・R.・グッゲンハイム・ミュージアムが1943年にライトに依頼した、あのアヴァンギャルド建築の設計が承認され、着工した年である。ニューヨークのライト建築の新ミュージアムと、ヴェニスの18世紀の名邸宅のコントラストは、コンテンポラリー・アヴァンギャルドに背をむけるものであっても、絶妙なアヴァンギャルド芸術メディアの構成である。15世紀後半のイタリア・ルネッサンス・ヴェネチア派の拠点ヴェニスと20世紀後半芸術の拠点ニューヨークの芸術史上のセットは、20世紀の芸術メディアの一標準典型をしめしているとおもわれる。成果と限界の典型である。

 谷川の狐拳三角形構造から、ペギーが芸術における立ち位置を芸術家から「作品」へかえたことをみれば、ペギーが芸術家から鑑賞者である大衆の立場に近くなったということだろう。

  狐拳構造では、すでに述べたように、メディア →→→ 芸術家(→→→)大衆 →→→ (メディア)へと働らく権力構造がある。これにたいして、逆流すべき、それぞれの権力行使に対抗する拒否権がある。メディア ←←← 芸術家(←←←)大衆←←←(メディア)である。

 このメディア→→→ 芸術家、メディア←←← 芸術家という、メディアと芸術家の関係において、ペギーが芸術家に近い立ち位置にあったということは、メディアの「発表してやる」「買ってやる」という権力行使と、芸術家の「メディアを選択できる」「メディアを拒絶できる」という拒否権行使がかぎりなく均等に発効され、ほとんど問題にならなくなる。一方的な被搾取者と搾取者の関係が消滅することである。芸術家がメディアになり、メディアが芸術家になるといってしまえば、机上の空論、空虚な理想論となるが、これに近いものがここでは実現していたのだ。だが、念のため言っておけば、それは非現実的ではなく、ブルトンは画商であり、デュシャンもまた、アメリカ滞在中、必要あるときには、購入し所持していたブランクーシやアヴァンギャルディストの作品を知人の芸術愛好家に売って暮らしていたという。ただ、かれらの場合は、ほとんど常に芸術家の立場にあるメディアであって、メディアが伏する「大衆」権力の「怖(こわ)さ」がない。かれらにとっての「大衆」は、芸術仲間にかぎられ、「芸術家」即「メディア」即「大衆」であり、三角構造ではなくほとんど一体構造であり、芸術共和国内の関係構造である。

 そうした芸術家に近い立場にあったペギーが、芸術を芸術家からでなく「作品」からとらえることにして、「大衆」の立場に立ち位置を移したのである。つまり、「見てやる、買ってやる」という、大衆のメディアへの権力行使と、メディアの大衆への拒否権行使を無用にできる立場である。ヴェニスの「グッゲンハイム・コレクション」は、現代の観光ガイドブックに記載され、観客がつめかける、成功した20世紀アヴァンギャルド・ミュージアムのひとつである。

 だが、ここで言いたいのは、新しい(鑑賞)大衆出現を察知したという、その成功のことではなく、ペギーのミュージアムは、芸術家から「作品」主義に転じ、「大衆」の立場にうつることによって実現したアヴァンギャルド・メディアだったということである。それに、20世紀アヴァンギャルドとはいえ、そこには70年代以降の、作品主義を脱した20世紀アヴァンギャルドはふくまれていない。

 すでに見たポンピドゥー・センターにせよ、MoMAにせよ、そのどちらも、「作品」主義の大衆の立場にないアヴァンギャルド・ミュージアムではない。そこにあるのは、アヴァンギャルド芸術家の立場ではなく、「大衆」の立場にちかい作品主義のメディアだけである。というのは、すでにポンピドゥー・ミュージアムの「ダダ特別展」でおこった、2006年のあのピノチェリー事件でみたように、アヴァンギャルド芸術行為を排斥するモダーン・アート・ミュージアムであった。

 それは、これらアヴァンギャルド・ミュージアムが、アヴァンギャルド芸術家の立場ではなく、鑑賞者、受益者である大衆の立場にあるからだ。直截にいえば、これらミュージアムの運営・企画委員会のメンバーが、大衆の目を基準とした、見せることができる、原則的にいえば、売ることができる、を前提とする企画と運営をおこない、ミュージアムがそれによって運行されているからである。具体的にいえば、運営委員会は、ミュージアムの経営を担当しているのだから、経営に欠くべからざる「交付金」、寄付者、資金提供者の意向を考慮しなければならないのは、どのミュージアムでもおなじである。

 そのことは、おそらく、ペギー運営のヴェニスのグッゲンハイム・コレクションでも、同様の事件がおこると、作品鑑賞者、購入者である大衆の立場にある彼女は、所有権を主張し、ポンピドゥー・ミュージアムとちがわない対応をしたにちがいない。アヴァンギャルディストの排斥である。

 あれほどまでに芸術家にちかい立場にあり、また、それによってコレクションを完成させたペギーにして、それ以外の処置をとったとはおもえないのだ。それが、アヴァンギャルディストとアヴァンギャルド・メディアの、20世紀の関係実態である。


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