Avant 2-4-3-14



「ハイレッド・センター」


Part 4



 ならば、谷川の狐拳三角形権力構造にてらしてこれをみれば見れば、どうなるだろうか。

 その要(かなめ)は、谷川も注目しているように、芸術家と大衆の関係にあるだろう。三角形構造では、「芸術家」から「大衆」への権力行使は、〈感動させる、見たい気、聴きたい気、読みたい気にさせる〉で、行使されるとされるものである。それにたいする「大衆」の拒否権行使は、〈無視する〉、あるいは、メディアの芸術家への権力行使に加担して、〈金額で評価する〉で行使されることになるだろう。

 ところで、この「芸術家と大衆」関係の権力権と拒否権の行使は、現況ではもっぱら、大衆側からの拒否権だけ行使され、芸術家の権力行使は、芸術家、ことにアヴァンギャルディストでは、おざなりであり、あいまいである。すでに’60年代日本の「読売アンデパンダン展」に見たように、メディアたる新聞社主催の東京都美術館で、「展覧会」がひらかれれば、してやったりと、大衆動員の権力行使のチャンス到来と、欣喜雀躍する始末であった。その顛末はすでにみたとおりである。かれらは、「メディア」と「大衆」の区分がついていなかったのだ。

 じぶんたち芸術アヴァンギャルディスト(前衛)と「大衆」との関係を、無邪気にも付随的な問題としているのだ。その問題を谷川は、狐拳「権力・拒否権」三角関係でとらえ、本質的課題として、アヴァンギャルディストと「大衆」関係構築の実験を、「自立学校」の名のもとでおこなおうとしたのだ。(注.谷川では、アヴァンギャルディストの位置にあるのは、「サークル村」経営の詩人、小説家であり、革新的知識人である講師団としてさしつかえなかろう.) その実験自体は、実験実行が意味をもつので、重要なのは、「自立学校」でおこなったということである。谷川じしんが、「学校は二年つづけばたくさん」と要綱に書いていたように、成果の期待ではなく、過程に行動目的があったのであろう。

 三角構造の三つのパート、芸術アヴァンギャルディスト仲介者(メディア)と「大衆」の相互関係で、もっとも不確かなパートは「大衆」へ働きかけるべきアヴァンギャルディストである。そこに、’60年代アヴァンギャルドを問題にしているわれわれに、注目すべきものがあるのはとうぜんだ。なんといっても、かれの問題提起は、詩人であり社会改革者であり、知識人であるじぶんたちの陥っている苦境から出てきたものであるのだから。

 かれは、自立学校の由来を、そこで提案された狐拳三角権力構造発想の経緯と関連させて、「権力止揚の回廊 ━ 自立学校をめぐって」(『試行』1962年10月掲載[『谷川雁の仕事 Ⅰ』])の冒頭でつぎのようにのべている。


 発端ほど奇怪なものはない。たとえそれがうなぎのように籠の底でとぐろをまくにいたってやっと人々に捕らえられるにせよ。

 去年の春だった。とつぜん分厚い手紙が私の愛する「陥落小屋」のたたきに落ちた。毎朝いたちが鼻柱をしめつけるような匂いを残しているそこらは、そのころまでその毛皮用動物の領分ではなくもっぱらどぶねずみの遊歩場であったのだが、おおらかな達筆で記されている表書きで私はふといたちくさいものを嗅いだのだった。たぶんそれからだ。わが家に一匹のいたちがほんとうに住みつくようになったのは。山口健二と署名された手紙には、東京で過激思想学校というものを計画したことがある、と完了形でのべられていた。《ああ、だからいたちの匂いがしたんだな》 私は理性をとびこえて得心したものだったのに、実はほんもののいたちが訪問していたのだ。だが、そういう私の幻覚がなかったら、自立学校なんてものがおっぱじまったかどうか、あやしげなものだ。

 私は生きた毛皮の匂いに飢えていたともいえる。状況は藻と水棲動物の関係のように、滑稽にもそつなくゆらめいていた。そして過激思想学校! 《そうとう優しい心臓からしみでたイデエだ。これは》 家を建てたいから、金を集めてくれませんか、と書き送った。そんな風にふと人間同志(ママ)に訪れてくる、気のぬけた魔界のあけがたとでもいったものが私は好きだ。手をにぎる家がこうしてうまれた。一枚の毛皮、いたちの臭気、成立不能の矛盾概念を発端におくとき、ありうべからざるものを追うイメエジの運動がはじまる。この運動自体(傍点)は対象化することが可能(傍点)である。いわば行動的イマジズムというべきいたちの道は、大正行動隊から後方の会を経て、山口健二宅の老いぼれた巨大な駄犬を、ある朝私が「自立」と命名するにいたる。いたちの次に犬だって? 話を合わせているのではない。この犬はアメリカの軍曹かなんかが帰国にあたって家畜病院に棄てていった廃犬だった。そのまやかしの図体とみすぼらしさの奇妙な調和にほれてもらい受けた飼主は、ひさしい間、名前もつけずに寵愛していたのだった。飼主のペルソナがそこにある。その犬がひどいびっこ、二キロも歩くと抱きあげて帰らねばならないことを発見した私はいった。

 《これ、名前をつけようか》

 自立─びっこの概念。命名された犬はすぐ死んでしまった。そして私はいつのまにか過激思想を自立学校と読みかえていて、《あれをやろうか。ほら、れいの自立学校をさ》と山口健二にいうようになった。彼はいつものとおりたてまえのよしあしには寛容である。手をにぎる家の戸口調査に来た警官が《何の手をにぎるのかね、この家では》といや味をいった話を聞いたりすると、うれしくてたまらないたちだから。ともあれ、発端の怪奇という思想を再び適用すれば、脚のわるい老いぼれ犬と散歩しなかったならば、私が自立学校の開校式で行った提案─狐拳(きつねけん)式の学校運営法─などありえなかったとおもわれる


 (いたちから犬を経て狐だ。これが私の悪癖だといわれればおとなしく頭を下げる気だが、そろそろ喧嘩仕度になってきたと思ってもらいたい。思想の自立などありえないと、X氏がいった。いっちょうおれたちは他立学校作ろうや、とY氏がいった。学校、学校とはねと、Z氏がいった。すべて伝聞である。しかし私にとって、さしあたってX氏、Y氏 Z氏が問題なのではない。むろん、かれらにしても右のような判定が、発端にあくまで整合性をすえて見ようとする常識家の意見でしかないことをあえて否定しないであろう。はじめから科目不明の銭があるかぎり、どこまでいってもバランスシートが作れないのは当然である。だがそもそもことの起点となっている観念について、重大なくいちがいがあるとすればどうだろう。)


 びっこの老いぼれ犬に私が「自立」という名をつけたのは、洒落や自嘲とは関係のないことだ。絵に描いたようなブルドッグに吠えかかられたりしながら、けやきの木立のしたを、まるでそこから切っておとされた枝のごとく憮然として必死に歩いているそやつの姿に触発されて、私はその言葉を「とるものもとりあえぬ片面性」という意味に使ったのである(指示外の下線は筆者.)


 引用の(       )箇所は、省略すべきところだが、谷川がこれを’60年代の革新的知識人の問題、すなわち、アヴァンギャルディストの問題としていることの証(あかし)となろうから、あえて掲載した。

 また、この一文は、「自立学校」の設立の経緯と、山口健二と谷川がおかれている状況との関係がよくわかるみごとな文学的書出である。

 だから筆者も、「理性をとびこえた」文学的な読み方をしてみよう。

 「自立学校」とは、「過激思想学校」の読み替えだという。そして、谷川、山口にとって、「自立」とはびっこの犬の名前である。つまり、自立はびっこの概念であり、過激思想もまた、そこから出発しなければならない。「とるものもとりあえぬ片面性」からだ。それが’60年代日本のかれらが直面する現実である。

 だが、それにいたるまでに、もうひとつの前提となる読み替えをしておかなければならない。それは、「(一枚の毛皮、いたちの臭気、)成立不能の矛盾概念を発端におくとき、ありうべからざるものを追うイメエジの運動がはじまる。この運動自体(傍点)は対象化することが可能(傍点)である。いわば行動的イマジズムというべきいたちの道は、・・・・・・を経て、山口健二宅の老いぼれた巨大な駄犬を、ある朝私が『自立』と命名するにいたる」についてだ。

 沸騰するかれの感情が噴出させたことばは、“いたちの道”であろう。いたちの躊躇しない一途の道である。自己投影されたイタチは、〈イタチの最後っ屁〉とか〈イタチの無き間のネズミ〉の連想を呼びこむ獣(けもの)である。また、良質の毛皮をまとう生きものである。

 そうしたところからこれらをよむと、「一枚の毛皮、いたちの臭気、成立不能の矛盾概念を発端におくとき、ありうべからざるものを追うイメエジの運動がはじまる」は、1962年の「藻と水生動物の関係のように、滑稽にもそつなくゆらめいている」自分たち知識人の状況のなかで、重い確信の意思がひびくことばにきこえる。1962年6月の「安保反対」の国会デモを頂点として下降する状況のなかで、「陥落小屋」に巣くう革新知識人の発言である。


 過激思想学校は、「成立不能の矛盾概念」である。それを発端におくとき、ありうべからざる「過激思想」なるものを追う「学校」の設立計画の真相がみえてくる。「学校」はイメエジであり、「設立」は具体性ある行動だから。行動的イマジズムである。

 このように要約できるのも、文頭から、いたちがあらわれ、ここでも「一枚の毛皮、いたちの臭気」ではじめられるからだ。この形容句は、「成立不能の矛盾概念」を修飾するのか、「発端におく」ことがそうなのか、「ありうべからざるものを追うイメエジの運動」にかかるのか、それともいっそう、全文をあらわしているのか、理屈ではわからない。それらをどうじに形容するとすべきかもしれない。

 だが、このようにいってしまえば、およそ現実とは無関係な夢のはなしともきこえるが、けっしてそうではない。現実のアヴァンギャルディストの行為に読み替え可能な思想だ。

 デュシャンがひとりで、1915年に「大ガラス」の制作をはじめたとき、1944年に、「落ちる水・・・・」に手をつけたとき、かれは芸術作品として、「成立不能の矛盾概念」を発端にして、「ありうべからざるものを追うイメエジの運動」をはじめたのではなかったろうか。かれは、いかなる芸術家も素材としない媒体をもちい、芸術家表現では異次元の形態を、芸術作品として制作した。作業場(アトリエ)を設置し、素材、計画書の具体的設定をする長期の努力は、それが「制作」であることをしめすものである。できあがるまで、知らせも見せもしなかったのは、芸術作品としていたからである。

 谷川では、そうしたことを、《そうとう優しい心臓からしみでたイデエ》として、「家を建てたいから、金を集めてくれませんか、と書き送った。そんな風にふと人間同志に訪れてくる、気のぬけた魔界のあけがた」といっているようにここでも読み替えることができる。とうぜん、「過激思想」をアヴァンギャルドに、「人間同志」をアヴァンギャルディストに読み替えているのだが。

 そのようにみれば、「成立不能の矛盾概念」はアヴァンギャルド芸術に、「イメージの運動」は芸術行為にも読める。すでに、ひろくはヌーヴォー・レアリストたちや、’60年代のアヴァンギャルディストたちがやっていたパフォーマンスなどにもみられたところである。「アヴァンギャルド芸術」が「成立不能の矛盾概念」であることは、’60年代当時の正統派の美術評論家たちが指摘していたことだった。谷川の言は、「アヴァンギャルド芸術を発端におくとき、ありうべからざるものを追うアヴァンギャルド芸術行為がはじまる」とすることができよう。

 ‘60年代アヴァンギャルド芸術は、まさに’60年代の過激思想である。谷川たちは、その過激思想の「学校」を、自立「学校」とする。過激思想を「自立性」から、かれらはみなければならないとするのである。

 かれの自立思想の発現は、山口健二が飼っていた一匹の犬にはじまったという。

 山口が、「そのまやかしの図体とみすぼらしさの奇妙な調和にほれてもらい受けた」犬である。「この犬はアメリカの軍曹かなんかが帰国にあたって家畜病院に棄てていった廃犬だった」。

 この「自立学校」発現の契機は、奇妙なまでに、深沢七郎の『風流夢譚』の冒頭を思い出させる。『夢譚』は、日頃は止まる偽物の金時計が、たまたま動いた時間に見た夢物語である。「この時計は友人から3千円で買ったのだった。その友人は帰国するアメリカ婦人から捨値で5千円で買ったのだそうである」。その時見た夢のなかで、例の問題となった、「皇太子殿下や美智子妃殿下の首がスッテンコロコロカラカラカラと金属製の音がして転がっていった」光景が描かれたのだった。

 『風流夢譚』は、『中央公論』(1960年12月号)に発表されたが、その構想は、1960年6月の「安保反対」国会デモの直後からはじまったという。山口、谷川、それに吉本隆明らの「自立学校」構想も、「安保反対」闘争の挫折感を端緒としたのはすでにのべたところである。

 深沢がそれを、吉本らのような深い失意の挫折とうけとったかはわからない。しかし、深沢独自の関心をもって、この闘争のなりゆきを見つめていたのはたしかである。そしてそこで、反対闘争の実体を文学的直感でとらえたのが『風流夢譚』であろう。現に冒頭の、偽金時計をゆずって「帰国したアメリカ婦人」も、この時代なら、「日米安全保障条約」(安保条約)によって駐留した米軍関係者と読むのがふつうである。

 そこでは、東京に革命がおこるのだが、革命軍はキューバ音楽の〝キサス・キサス〟を演奏する軍楽隊を先頭に、行進するような革命である。犠牲者は皇太子殿下美智子妃殿下だけでなく、天皇、皇后もどうようである。その情景はこのように描かれている。  


 「あっちの方へ行けば天皇、皇后両陛下が殺られている」

 と教えてくれたのだ。そうして私はのそのそと老紳士の指差した方へ人ゴミをわけて歩いて行ったのだった。そこでは交通整理のお巡りさんが立っていて、天皇、皇后の首なし胴体のまわりを順に眺めながら、人ゴミは秩序よく一方交通で動いているのだった。皇太子はタキシードを着ていたが、天皇の首なし胴体は背広で、皇后はブラウスとスカートで、スカートのハジには英国製と商標マークがついているが、私は変だとも思わないで眺めていた。


 いわばディズニーランドなどテーマパークの「革命」アトラクションである。オモチャの時計が見せてくれるオモチャの革命であり、オモチャの天皇制である。ブリキの革命軍とブリキの天皇、皇后、皇太子、皇太子妃がいる。皇后が着ているのはそれなりの上等の輸入品で、「英国製」とある。

 これはたんなる天皇制パロディー、革命パロディーだけでなく、深沢の一貫したアンドロイド・文化作品系譜につながるひとつと読めるものだが、いまここで注目するのは、深沢が1960年の日本の状況をこのように感得していたことである。

 文学は作者が意識的に伝えていないものを、発信しているものだ。かれは、1951年9月に締結された「サンフランシスコ講和条約」後の’50年代にはじまる日本の状況、戦前体制復活とそれへの反対運動の状況、ことにその反対運動をこのように直感把握していることである。

 所詮は「帰国したアメリカ婦人」が遺していった偽時計が刻む時間内の出来事である。すでに本論ではいくどものべたように、庶民階級との皇太子の結婚そのものが、人間平等をいう「民主主義」の偽の金時計が刻む時のなかでおこなわれたものだった。

 しかし、深沢がみるのは、そのような事実ではなく、反対運動の実体である。それは「金メッキ時計」を金時計とするあやうさである。ならば、どうすれば良いかを、谷川たちのように、深沢は語っているのではない。問題の在り処、敗戦後はじまった「理想」の付け焼き刃を、6月の「国会デモ」で思い知ったということであり、その感情がこの小説を書かせたとおもわれる。

 しかし、その感情は、谷川や山口、吉本らの身にしみた感情とおなじものであろう。吉本はそれを幻想論などに整理し、また「状況への発言」を’60年代に継続しておこなうことになった。そして、ここでの谷川は、それを「自立性」にみたのであった。

 山口と谷川は、アメリカ軍の軍曹かなんかが帰国にあたって棄てていった犬の「まやかしの図体とみすぼらしさの奇妙な調和にほれて」飼うことにしたのだが、’60年代のわかい芸術家たちは、戦後の納得できぬ芸術環境のなかで、「まやかしの図体とみすぼらしさの奇妙な調和」にほれて、アヴァンギャルドに蠱惑されたのだ。

 「反芸術」のアヴァンギャルドは、アメリカ占領軍のおかげで、禁断だった輝かしい芸術理論を捨て値で買った金時計だったり、棄てられた廃犬のまやかしの図体だったといえなくもない。たとえば、20世紀初頭の未来派、ダダ 、シュルレアリスムのイミテーション・ゴールドであり、白壁に映った巨大な影である。

 ところが、このアヴァンギャルド芸術の現実は、ひどいびっこで、二キロも歩けば抱きあげて帰らねばならない。’60年代の日本の芸術環境、作家、メディア、大衆の三角点構造の芸術界で、自立して長時間歩きつづけことができるものではなかった。むしろ、「絵に描いたようなブルドッグ ─ 既成芸術家、画廊・美術館 ─ に吠えかかられたりしながら、必死で歩いていかねばならない、『とるものもとりあえぬ片面性』」の芸術である。

 とるものもとりあえぬ片面性は、アヴァンギャルディストのある者、革新的知識人にちかい立場にあるものたちの行動である。ハイレッド・センターの設立者たちもまた、意識せずして、そうだったとおもわれる。

 そして、谷川では、その「とるものもとりあえぬ片面性」の行動のひとつが、大衆と講師団と運営委員の三角関係構築であり、ことに大衆との関係構築のこころみである。それは、零細企業の職人等、すなわち、都市下層労働者を中心に、「大道香具師、オワイ舟の船頭、芸人、呑屋の女給、屑屋」らを、臨時先生に迎えいれ、かれらの講義を谷川や吉本、運営委員の山口や松田らが生徒たちとともに聴く形式の授業カリキュラムがそのひとつであり、この授業は実現したとおもわれる。

 このこころみには、ハイレッド・センターをふくめる、とうじ活動中のアヴァンギャルディストたちが共鳴している。

 たとえば、高松、赤瀬川、中西らと同世代のアヴァンギャルド映画の足立正生は、そのころすでにVAN映画科学研究所をたちあげ、「フィルム・アンデパンダン」結成をはかっていたのだが、かれはつぎのような証言をしている。これは、’60年代初頭のかれら若いアヴァンギャルディストたちの動向を回顧するものである。

(注.足立正生 聞き手平沢剛『映画/革命』2003年[河出書房新社])  


 ─ 安保後の運動的なつながりは?

 松田政男さんたちが黒田寛一を担ぎ出して国会議員選挙に立候補させる「反議会戦線」とか。そういうことの方が作協や映画より面白かった。私は、「来ないか」と言われて訳の分からない会議に顔を出した。革命政党とかに関係なく、理念として地下活動組織というのを、初めて日本で実験的にやっていた。いや、もっと直接行動派を作ろうとしていた。それが後に、「東京行動戦線」になって行くけど、安保も負けた後で、みんなそういう方向を切実に求める思いがあったと思う。アナーキズムではない直接行動を本気で積み重ねて行こうとしていた。そういう意味で言えば、「反議会戦線」も「自立学校」をやろうとしたことも、同じ流れでした。黒田、松田、山口健二などの古強者がうようよ蠢いていた。それが少しずつ重なり合いながら、また各々ずれて行った。ある日「東京行動戦線」に行ったら、山口、松田、佐々木祥氏が一緒に並んでいたりした。でも、佐々木さんは「自立学校」に関係しなかったのではないかと思う。とにかく、私は安保で負けたことに拘っていたけれど、あの人たちには、一つに負けたとか勝ったとかで深刻になる発想がなく、負けたら次にどう勝つかとすぐに発想する人々で、世界観とか歴史観がそこまで違うと思って、相当ショックを受けた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 六〇年後をどうするかという時に、もう一回みんなで勉強し直すことからやり直そうということが、全体の基本認識で、それと並行して記録映画作協が、同時代的認識としての作家の主体性論を問うというように、それらは何処に行っても同じようなテーマでやっていた。その一方で、学生もへったくれもなくて、ラーメン屋の親父を呼んで、ラーメンの作り方から、どう商売をやってきたのか、どう生きてきたのを聞こうじゃないかというのが「自立学校」の始まりで、当時としてはとてもユニークで、一回目はラーメン屋、二回目は汚わい屋で、東京都の清掃局員から生き方の話を汚わい屋の船に乗って聞く会にする、という現場勉強会をやっていた。そういうのを本気でやるんですよ。そういう時は面白いから、私たちも付いて行く。

  ─ 最初の参加者はどういう人たちだったんですか?

 全部いましたよ。忘れもしないけど、渋澤龍彦、石井恭二、谷川雁、松田さん、山口さんとかもいたと思う。

 「どういう勉強をするんだ」と政治主義的な疑問を投げる奴がいると、吉本が「あんた、勉強すると言ったって、何についても一から勉強することははっきりしているでしょう。例えば、職人から勉強しましょう、職能で生きている人からもう一回どうなのかを勉強して、自分でどう革命をやるのか考え直しましょう」と回答したりした。カリキュラムをどう作るかとか、そういうこと自体が面白く、開始した。 

 ─ 開始前から参加されてたんですね。

 「六月行動委員会」注 が解散して、安保敗北の事実の前で、すべてがゼロになったわけではないから、今後何をどうするか、それぞれ考えましょう、というのが「自立学校」の基調でした。みんなはそれぞれ忙しいのに、時間を作って大勢が集まった。私は、呼びかけに応じて参加した。イニシエイターたちは「自由学校」(ママ)をどういうものにするかも公開討論にしていた。そういうやりかたが一番面白かった。

(注.六月行動委員会:1960年の安保闘争時、全学連に呼応してつくられた知識人と労働者の闘争組織)


 足立の面白いのは、吉本の言としている「何についても一から勉強することははっきりしているでしょう。例えば、職人から勉強しましょう、職能で生きている人からもう一回どうなのかを勉強して、自分でどう革命をやるのか考え直しましょう」、にあるのだろう。半世紀後の回想だから、吉本意見とされているが、「職能で生きている人たち」などの強調からみても、足立のものである。

 これは、谷川の設立趣意書「あなたのなかに建設すべき自立学校を探究しよう」でのべられた

 「個人は割れており、割れている個人のなかに集団があり、その集団を外におしのけるにしたがって、深刻な集団が個人のなかで息をしている。あなたのなかの追いつめられたひとしずくの集団と闘うべし。そうすれば、あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく」に裏表の関係で重なるものである。谷川では、知識人と大衆の関係認識論の白紙還元であるが、アヴァンギャルディストにおいても、問題はおなじである。そこには「あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく」の展望がある。おさらばすべき「あの気だるい進歩的良心」とは、谷川では、すでにのべた「サークル村」をめぐる理論信仰と実質信仰の不毛の乖離などだろうが、それ以外にも、芸術アヴァンギャルドは、結果的に、芸術の気だるい進歩主義思想の顛末といえなくもない過去を背負っている。芸術の進歩主義だった、19世紀のアヴァンギャルディスト、印象派のマネーやキュビスムの先達、セザンヌは、やがてメディアに、ひいては大衆に歓呼して迎えいれられた。それは、ある種のメディア(画商)に気にいられ、その協力からだったのは現代芸術史のかたるところである。そして、その前衛主義は旧来の芸術界内の分布をかえただけで、なんら芸術界そのものを変革させることはなかった。かえって、メディア芸術界を刷新、活気づけたのである。

 そうしたアヴァンギャルド芸術史のおとす翳が、戦後アヴァンギャルディストたちの「良心」を曇(くも)らせていたとみえなくもない。あの〈若い冒険派〉の荒川修作が「ぼくは偉大な芸術を出しますね」と言い放ち、吉村益信らとこの頃渡米したのは、やはりとうじのアヴァンギャルドへの「良心」的殉教行為だったのだろう。

(生涯、アヴァンギャルディストであった荒川は、2010年の死をまえにしたときでも、きっと殉教の覚悟だったと言ったにちがいない。かれは、1997年、グッゲンハイム・ミュージアムで日本人初の個展を開き、フランスの文芸シュヴァリエ勲章、日本の紺綬褒章、紫綬褒章を受賞している.ついでながら、「具体」の島本昭三は、紺綬褒章、「もの派」の小清水漸は紫綬褒章を受賞している.政治家なら転向とかいわれかねないものだ.)

 「気だるい進歩的良心」は、印象派以後のアヴァンギャルド芸術、マリネッティ、ブルトンの初期もふくめて、どこかにつきまとっているのだが、ことに戦後アヴァンギャルドでは放置できなかったのは、半世紀後の今となってはよくわかる。

 そうした気だるい進歩的良心とおさらばしながら、「集団そのものになっていく」とは、芸術家と大衆の関係、芸術家とメディアの関係の本質的相異がみえてくることである。ことに芸術の本来的位置関係である。芸術(アート)は大衆からうまれ、技(わざ)、方法と形式によって大衆の感情を活性化する、感動させるものである。大衆との関係が比較的直接関係にある「映画」芸術の足立がいちはやく、「すべてがゼロになったわけではないから、今後何をどうするか、それぞれ考えましょう、というのが『自立学校』の基調でした」と自分なりの自立学校の意味に気づくのはとぜんだったろう。

 しかし、行動者であるアヴァンギャルディストが本来の関係を見るということは、具体的には自分たちがやっていることを、そうした視点から検証することである。

 ハイレッド・センター創設のかれらは、期せずして、自分たちのやったこと、やろうとしたことを、そこから検証しようとするものたちだった。そのあらわれが第6次ミキサー計画のあの声明であり、案内状だったようにおもえる。

 かれらが、このときまで個別にやったこと、それを契機にあつまった芸術行為の軌跡は、必然とおもわれるほど、「自立学校」発想の経緯と交差するものである。

 すでに記した、第3次ミキサー計画とされる、早稲田大学演劇ショウでの、舞台美術担当の中西がおこなった便所の、便器を赤ペンキで塗る行為などは、アヴァンギャルディストの「とるものもとりあえぬ片面性」の芸術行為だろう。すくなくとも中西にとってはそうだったにちがいない。

 中西のおこなったのは、演劇上演中であり、赤ペンキ塗りの便器は、上演後の観客がまず使用する位置の便所にある。観客へのデペイズマン(dépaysement)を発揮するものである。そのデペイズマン効果については、赤瀬川が「早稲田の赤い便器」(『東京ミキサー計画』)で記しているとおりである。この「違和感、不快感」効果は、舞台上で演じられたセックス・シーンよりも、大衆観客へあたえる実効性は強力だったかもしれない。

 だが、ここでいうのはその効果ではない。赤瀬川のいう、中西の舞台美術担当の既成演劇界を逸脱した行為である。中西が、芸術メディアの立場からみた芸術行為ではなく、大衆観客にちかい芸術家だったからである。芸術家、メディア、大衆(観客)の谷川式狐拳権力構造でいえば、ペギー・グッゲンハイムの場合は、大衆の権力下にあるメディア界で、芸術家にちかいメディアであり、メディアの権力下にある芸術家界で、アヴァンギャルディスト中西は、大衆に直接対象を定めたのである。演劇メディアへの屈服ともいえる、(演劇は舞台でおこなわれて成立する)演劇常識を無視し、大衆を感動させる(感情をゆさぶる)芸術行為をおこなったのである。ただし、ここで心をふるわせた大衆には、大衆・中西がまずいたのかもしれない。中西じしんのなかの芸術家・中西を既成芸術の枠から逸脱させる違和感、不快感のデペイズマン効果を、まず芸術家以前の大衆・中西のなかでひきおこしていたのかもしれない。ここでは、芸術家 ─ 芸術メディア ─ 大衆 の狐拳権力構造は、中西のなかにもあり、かれの個々の行動を統御するとしている。谷川が「個人は割れており、割れている個人のなかに集団があり・・・・」と、『あなたのなかに建設すべき自立学校を探究しよう!』でいうところである。大衆感覚によりそう、芸術家の大衆への権力行使は、そうしたことをふくむであろう。「気だるい進歩的良心とおさらばしながら、集団そのものになっていく」は、このように解すべきである。

 このように、既成芸術メディアを無視し、じぶんもふくめる大衆を視野対象にいれる行為は、第6次ミキサー計画の写真撮影、ことに、新橋駅前広場の三者三様のパフォーマンスなどはそうであった。奇態なパフォーマンスによって、まず攪拌されたのは、じぶんたちのなかにいる既成芸術家だったろう。

 さらにまた、第4次ミキサー計画である「第15回読売アンデパンダン」展出品の中西の、観客による洗濯バサミの館外流通の仕掛け、高松作品のカーテンの内から伸び出ていた黒い紐オブジェは、芸術家高松によって観客のなかを曳き回され、館外にでて通行人の足にからまりながら上野駅まで伸びていくものだった(「第2章 4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2) ─  ③  『読売アンデパンダン』展から『ハイレッド・センター』へ」[『百万遍』6号]を参照)

 

 見るにせよ、触れるにせよ、これらの「作品」の作品構成要素である展示方法(パフォーマンス)は、既成芸術メディアの範疇にない形態だった。三角形権力構造でいえば、芸術家の大衆への権力行使による芸術メディアへの芸術家の拒否権行使である。

 これらふたりの、パフォーマンスがらみではなく、作品そのものが大衆感覚から発想されたのが、赤瀬川の拡大千円札模写である。これは、メディア感覚ではなく「大衆」感覚が発想する作品である。千円札にこころを動かされる「大衆」感覚である。千圓札を、拡大し、ずらりと並べるのは大衆感覚であり、大衆感情を活性化するものである。

 これは、大衆の立場から「芸術」に接近した芸術史の先例にも合致するものである。アルタミラの洞窟画は、食べ物として衣服として「大衆」のこころをうごかす対象だったからこそ、ひと知れず野牛や馬、イノシシが描かれたのだろう。もちろんこの時の「大衆」とは描く者のなかの「大衆」である。さきにのべた、大衆と芸術家が、本来的位置にある芸術である。

 赤瀬川が、拡大千円札と一連の複製千円札作品を制作したのは、それまでのかれのオブジェ制作よりさらに「大衆」の立場にちかく立ったからとおもわれる。これまで紹介したかれの『ヴァギナーのシーツ』にせよ、『患者の予言』にせよ、うたがいもなく既成メディア・芸術に離反するのものであったが、それでもとうじのアヴァンギャルド・メディアの規範内にあり、理論信仰と実質信仰の乖離をもたらす権力行使に服すとみえなくもないものである。「気だるい進歩的良心」なきにしもあらずの制作である。

 じじつ、そのことは、第13回読売アンデパンダン展と第14回展に出品された両作品は、読売新聞紙上でアヴァンギャルド芸術評論家たちの好意的批評をうけたが、第15回展のこの「千円札」を批評した評論家はひとりもいなかった。アヴァンギャルド・メディアの範疇外にあることをしめしているだろう。

 だが、読売新聞紙上では、美術欄ではなく社会面の「展覧会開会」の一般記事では、古い自転車とならぶ、ふたつの「奇妙(?)[ママ]な作品」のひとつとしてとりあげられ、高校生が「目を見はっていた」と書かれている。「大衆」に注目されたということである。赤瀬川じしんの言であって、客観性はないが、千円札事件後にかかれた千圓札作品制作をテーマにした小説中では、

 

 ぼくは会場をひと巡りして、また千円札のパネルの部屋に舞い戻る。子供連れの観客が立ち止まって、じっとパネルをのぞき込んでいる。

 「うわァ、お母ちゃん、これ描いたの?」

 子供が甲高い声を上げている。

 「これは・・・・、しかし・・・・」

 連れの親は、次の絵に去ろうとしながらまだのぞきこんでいる・・・。(「レンズの下の聖徳太子」『海』[1978年4月号] )


と、ある。「拡大千円札」作品の大衆反応については、これだけでなく『東京ミキサー計画』にも、ふたりのご婦人観客の感想がオモシロ、オカシク語られている。

 この作品に反応したのは、高校生やこども、買い物カゴをさげたご婦人たち、芸術メディアが仲介する芸術作品には無縁の大衆である。あるいは、言い換えれば、赤瀬川がそのように記しているということでもある。メディア感覚ではなく、大衆感覚の作品と位置づけているのだ。そのことは、さきに紹介した中西の赤ペンキ塗りの便器にしても、デペイズマン効果をおもわせるとしたのも、じつは、赤瀬川の『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター 直接行動の記録』の報告からで、赤瀬川の解釈である。この「赤ペンキ塗り事件」は、ちがう者の報告、今泉の回想によると、たんに耳目をひくためのショッキング事件として処理されている。

 ならば、どちらが当のハイレッド・センターの意図にちかい解釈かと言えば、かれらの「第6次ミキサー計画」の声明文に、あったようなかたちで自立学校が掲げられ、また、中西自身も自立学校開校式オリエンテーションで、パフォーマンスを演じているのだから、すくなくとも、いままで記してきた本論の筋道に、赤瀬川の「千円札」を位置づけてなんらさしつかえなかろう。

 ハイレッド・センターは、芸術界メディアと芸術家の関係より、「芸術家」と「大衆」の関係に、ひときわ注目し、そこからかれらの芸術を見なおそうとした芸術集団だったとおもわれる。

 そして、そうした彼らのなかでよりつよく、足立のように、「芸術の気だるい進歩的良心とおさらばしながら、集団そのものなっていく」思想に注目し、そこに救済と解放をもとめようとしたのは、ネオダダイズム・オルガナイザーいらい、中西や高松のような「パフォーマンス」を演じたことのない、赤瀬川だったかとおもわれる。

 足立は、自立学校の臨時先生について、「ラーメン屋の親父を呼んで、ラーメンの作り方からどう商売をやってきたのか、どう生きてきたのかを聞こうじゃないかというのが『自立学校』の始まりで、当時としてはとてもユニークで、・・・・・・・ そういうのを本気でやるんですよ。そういう時は面白いから、私たちも付いて行く」と特別な関心をみせて語っている。

 足立が関心をよせているのは、職能で生きている都市労働者の、「ラーメンの作り方から、どう商売をやってきたのか、どう生きてきたのか」である。「ラーメンの作り方」は、自動車の製法より、芸術家の制作に近い。直接「大衆」を相手とする商売のやり方は、ほとんど、メディア兼務の芸術家の場合といえなくもない。そうしたかれらの生き方は、谷川も指摘するように、狐拳権力構造の仮説でまず検証すべき芸術家(知識人)の生き方である。

 そうしたメディア、大衆を視野にいれた大衆・生活者の立場からアヴァンギャルド芸術家であろうとしたのがハイレッド・センターであったかと、その創設展の声明と案内状からおもわれる。そのことは、のちの軌跡をみると、かれらのなかでもことに赤瀬川原平の芸術的生き方につよく現れている。赤瀬川の自立学校と谷川へのこだわりは、根深かったとおもわれるから、その一端をすこしのべておこう。

 かれは10年後の1973年、『美術手帖』3月号からイラストレーション・社会芸術パロディー『櫻幼稚園付属大学通信教育、資本主義リアリズム講座』の連載をはじめた。その開校日の4時限目と5時限目の授業は、特別講師 谷川雁担当の出前講義 「お葬式について」 であった。挿絵をのぞき、その4時限授業はつぎのようなものだった。


諸君。私は本校の穴埋め講義を担当しておる「教授太郎」というものです。今日の穴埋め授業には谷川雁先生をお願いしていたのですが、一身上の都合によりどうしてもおいでいただけず、それならというので校長の方からテック重役室におもむいて、雁先生のお話しをテープに収めてまいりました。では皆さん聞いてみましょう。ガチャン。


谷川雁 ─ 詩人として有名でもあるが、1964年に九州で大正炭鉱をつぶした男として有名であり、また1968年に株式会社テックをつぶそうとした平岡正明をクビにした男としても有名である。(注.谷川雁を説明する囲み記事である.)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

校長  オウノー。私、社会人。これインタビューです。

雁   ン?  インタビュー?  どーせ野次馬だろう。

校長  オーイエス。バット・・・・・

雁  バットもクソもないよ。なーにがインタビューだ。どうせお前さんらは犯罪小僧のオシャベリでも真に受けて、オレ様がラーメンのシルを全部のみこむところを見にきたんだろう

校長  オウイエス。いやまァ、じつはそのラーメンのお葬式を見たいということもありまして、もうこちらに来る途中でラーメンの出前を一丁注文してきたんですが。

雁  「出前一丁?」 何だ、即席か。

校長  これはラーメンの、じょーしきです。

雁   何?

校長   いえ、まちがいました。もとい! これはインスタント・ラーメンの銘柄のことではなくて、言葉通り出前を一つということで。

雁    一つ?

校長  ええ、谷川先生にラーメンの最後のシルを飲んでいただくために私がラーメンのメンの方を食べますから、そのメンが食べ上がるのを待っている間にひとつ谷川先生にインタビューをと、こう思いまして。

雁    アンタだれ? 

校長  は。私、櫻幼稚園附属大学の校長をしているものでございますが・・・・・・以前に千円札のことでお会いしたことがあるはずなんですけれど

雁    あ、隼彦君の弟か、なに、大学の校長だって?

校長   はあ、いちおう。

雁    オレは会社の専務だよ。

校長   私は会社の社長もしております。櫻画報社の。

雁    ・・・・・・・・

校長  他にも銀行をひとつもっていて頭取もしていますが、零円札の。

雁    やっとるね

校長  いえまぁちょっと。あ、ラーメンがきました。じゃ私はお先にメンの方を。

雁    うー早くしてくれ。オレは忙しいんだ。

校長  は。(ズルズル)じつは今度私どものところで通信教育をはじめまして(ズルズル)その受講案内ができましたのでいちおう目をとおしていただけるとありがたいのですが(ズルズル)その上でいろいろお葬式の話でも(ズルズル)

雁   どれどれ、なになに? 資本主義リアリズム講座? フン、前にもこんなこと書いてとったねェ。フムフム、柿か。フム、しかしこれは、いまはやりの終末論とかの毛がはえたようなものじゃないか?

校長  あ、それでも毛ははえておりますか。いや、そういわれただけでも光栄です

雁    なーにをやってやってるのかねェ。君たち若いもんはこんな小さなことでヒマツブシをしてるのかね? おいシルをこぼすなよ。

校長   はいはい(ズルズル)どーぞお話を。

雁    だいたい終末論なんてのは出前一丁みたいなものだ。

校長  「出前一丁」? 即席だというのですか? あッ、そうか。じょうしきだというのですか?

雁   ウッフッフッ。これは銘柄のことでなくて出前を一つということだよ。

校長    あ、なるほど(ズルズル)ン? 出前一丁→ラーメン一丁→アーメン一丁?(ズルズル)


(4時限目の授業はこれでおわり、次頁は南伸坊が描く給食光景が見開き2頁にマンガ的に描かれている。そのなかの鳥の雁の顔をした男が、旨そうなラーメンを、クチバシでは食べづらくヨダレを垂らしている.)


 赤瀬川の書くものはいつも、帯電していた感覚思考のヒラメキからはじまる。かれのなかには、まず谷川雁だけがあったのだろう。開設した「櫻幼稚園付属大学通信教育」とむすびつき放電した「自立学校」の谷川である。

 穴埋め授業担当の谷川雁先生と、そのまた穴埋め講義をする校長の「赤瀬川」が、一杯のラーメンを分け合って食べる話である。校長が中身の麺をたべ、自立学校の谷川が残り汁をのむ「教育」だ。ラーメンは、11年前の自立学校の臨時先生を思いださせる組み合わせである。谷川の自立学校「受講案内」の臨時先生のリストにはラーメン屋はいなかったが、足立によると、現実の自立学校では、第1回目が「ラーメン屋」で2回目が「汚わい屋」の現地授業があったそうだから、赤瀬川は体験したかの聞いたか、それを知ったうえでの出前ラーメンかとおもわれる。そして、この方針、大衆の立場からの、一からはじめる行為に感銘をうけたにちがいない。その芸術行為のシンボルが「櫻幼稚園付属大学通信教育」の資本主義リアリズム講座ということであって、それを谷川の「自立学校」で相対化して、パロディ的にみせようというのだろう。ただし、それが、1973年の『美術手帖』の読者にどこまで通用したのかはわからない。足立が’60年代のひとつのメルクマールとしているように、とうじの芸術アヴァンギャルを愛好する読者には、「自立学校」はそれほど関心をもたせるものだったのか。それとも、執筆者としての赤瀬川の’60年代の行動が、何らかの保証をこのパロディーに付加しているのだろうか。

 そうした疑問はのこるとはいえ、ここにはその一言や行間に読み取っておくべきものがひそんでいる。あるいは、谷川とのあいだに思想的対話が成立しているかとおもわれる。

 冒頭の2行、校長の「オウノー。私、社会人。これインタビューです」と、雁の「ン? インタビュー? どーせ野次馬だろう」は、陳腐な漫才的口上にも聞こえるが、みごとな序言となっている。あやしげなカタカナ英語の乱発は、とうじの谷川が、TEC(東京教育センター)で英語の「ラボ・教育センター」をたちあげ、アヴァンギャルディストの音楽家や、赤瀬川、中西、高松をふくむ画家を積極的に採用する社会「教育」活動をおこなっている暗示であり、社会人は、理論上の議論ではなく、現実社会の実践活動問題であることをしめしている。「サークル村」などの実践文学(芸術)活動家としての雁への校長のインタビユーは、おそらく、赤瀬川の谷川への共感になりたつ対話であろう。対話の核心課題は、「どーせ 野次馬」にある。

 この核心にふれるまえに、それまで赤瀬川のやってきた実践活動の経歴・概略をのべておかねばならない。これもまた、本文中では、「千円札のこと」とか、「櫻画報社」とか、「零円札」とか「通信教育」とかの一言づつで巧みに要約されているが、今ではすこし説明を要する経歴である。

 ハイレッド・センターにはじまる赤瀬川の芸術的社会実践活動は、ハイレッド・センター全期につきまとった「千円札」事件からである。

 1963年1月に開催され赤瀬川の「ハイレッド・センター」活動を予告する個展「あいまいな海」の案内状用に印刷屋に印刷させた複製千円札は、「千円札」テーマのひとつとして、第5次、6次「ミキサー計画」でも、パネル・オブジェや包装オブジェの主要素材としてつかわれ、また、機会あるごとに使用されていた。この「千円札」が一年後になって、ニセ千円札事件捜査中の警察の目にとまり、翌年1964年1月に刑事来訪のうえ任意取調をうけ、書類送検された。ところが、同月開催された、ハイレッド・センターのはじめてのパフォーマンス・イベント、「帝国ホテル・シェルター計画」の翌朝、「朝日新聞」の朝刊に、これが大見出しつきの記事で報道された。見出は「画家が旧千円札を模造─三業者に作らす 一色刷で精巧─「チ-37号」との関連を追及」とあり、写真つき5段抜きの扇情的記事だった。そして、緑単色の一面刷りの「千円札」芸術素材は一気に社会的事件となった。ハイレッド・センターのメンバーはこの記事をホテルの部屋で読んだのだった。

 この事件は、翌年起訴され、さらにその二年後の1967年6月に「通貨及証券模造取締法違反」の罪で東京地裁で懲役三ヶ月、執行猶予一年の判決をうけた。これにたいして、赤瀬川はただちに上訴したが、控訴した東京高裁で棄却され(1968年11月)、さらに上告した最高裁でも棄却され、1970年4月に有罪が確定した。作品制作から七年間におよぶ事件である。

 ハイレッド・センターはすでに、かれらの芸術運動を紹介する『美術手帖』(1963年10月増刊号)に掲載した「あなたへの通牒」と称する宣言文で、「もしあなたが、不可解な出来事や奇怪な事件に出会ったら、あなたにとってハイレッド・センターは無関係ではありません ・・・・・ われわれの業界の中で、連絡のないまま最近強い浸透性を示しているものに『ニセ千円札』『草加次郎の爆発オブジェ』『ホーム突き落とし事件』などがあげられます」と表明していたから、朝日新聞の誤報にひとしい記事掲載いらい、とうぜん活発な活動を開始した。起訴されるまでは、扇情的な報道をおこなった朝日新聞に記事訂正を直接もうしいれ、無視する朝日新聞を標的にしてハイレッド・センターのイベントを開催した。また、ハイ・レッド通信でも「目薬特報!」を刊行し、かれらの芸術的抗議をおこなった。

 そして、起訴されると、裁判支援のため組織された「千円札懇談会」で中心的役割をはたし、1966年8月から開廷された裁判公判では、ハイレッド・センターの「ミキサー計画」のひとつと見紛うばかりのハプニングを、法廷でおこなった。これらについてはのちに述べるが、赤瀬川の『東京ミキサー計画』でも、最終章「霞ヶ関の千円札」に位置づけられている。

 その間、赤瀬川じしんはとうぜん積極的メンバーであったが、独自の芸術的反対運動を亢進させていく。

 ことに1967年の一審判決後では、高裁、最高裁への控訴は手つづきのみで、法廷が開かれたわけではなかったから、単独行動にならざるをえない。

 このころから、原稿依頼もあり、多数の論考を発表しはじめる。それは、雁のことばにもあった「資本主義リアリズム論」のように、反論のみならず、芸術原論に遡る論文であった。「資本主義リアリズム論」は、送検直後に『日本読書新聞』(1964年2月24日)に掲載された、赤瀬川はじめての新聞に載った長文の論考であり、文章化された赤瀬川芸術論の原点となるものである。そのほかも、「千円札裁判第一審の記」として、『デザイン批評』(4)誌に書いた「暗黒を探知する自由」(1967年9月)や、都立大学『大学新聞』に掲載した「スターリン以後のオブジェ」(1967年10月)など、アヴァンギャルド芸術論としても豊かな数々の論考である。なお、このときの原稿依頼の学生編集者が松田哲夫であり、これを契機にかれは、南伸坊とならぶ赤瀬川芸術グループの第一世代メンバーとなった。松田のその後のアヴァンギャルディスト出版人の活動は周知のとおりである。

 この時期に書かれた全論考は、最高裁棄却後の1970年5月、一冊の単行本『オブジェを持った無産者』にまとめられ現代思潮社から出版された。なかには、一審の第一回公判でみずからのべた「意見陳述書」や判決直前の「最終意見陳述書」の全文が併録されている。

 このような法廷提出文もふくめた、実践社会芸術論とも読める裁判論考集は、おそらく空前であり、澁澤龍彦も「サド裁判」について統括していないものである。

 校長のいう「以前に千円札のことでお会いしたことが・・・・」とは、そのような意味をふくむものだが、雁の「あ、隼彦くんの弟か・・・」は、一審裁判支援組織の「千円札懇談会」の会計を担当していた実兄、赤瀬川と、原平の本名、克を合成したものだろう。ここに隼の名前が出てくるのは、おそらく、谷川がこの裁判に関心をもち「懇談会」へ寄付をするとか何らかの参与をしたのだろう。それにまた、赤瀬川隼は、九州の地方銀行に勤務していたのだが、実弟がニセ札事件の関係者だとあのように報道されると、退職せざるをえず、上京してTEC関連の教育出版社に就職していた。なお、赤瀬川隼は後年、直木賞作家になっている。

 また、さりげなくいわれる「校長 他にも銀行をひとつもっていて頭取もしていますが、零円札の ─ 雁 やっとるね」の、「零円札」は、一審判決後のひとつの主張となる芸術活動である。

 高裁、最高裁への一審判決にたいする異議申し立てに匹敵する、並行しておこなわれる異議申し立ての、確信的な社会人としての芸術行為だった。

 かれは、1967年12月に精巧な「零円札」を制作し、一枚300円で販売した。(図版8)(注.のちに500円に値上げしている.) とうじ、東京の喫茶店のコーヒーの値段が120円であり、駅弁が200円、『週刊朝日』の価格が60円であったから、オモチャではない芸術作品のてきとうな価格だろう。


図版8-1:「零円札」




図版8-2:「零円札」



 紙幣はオブジェであり、そこに貨幣価値を付加するのは虚構である。ならば、白紙の小切手帳が無限の数字を書きこむ可能性をもつように、この世の紙幣すべてが「零円札」となれば、いっさいの所有権が無効となるということらしい。そしてこれは、さきにもすこし本論でのべたような、 個展「あいまいな海」の案内状に記されていた「肉体と、肉体に附随した意識を含む私有財産制度の破壊」目的にそうものであり、案内状にもちいた「複製千円札」の芸術表現の説明にも〈貨幣制度破壊に関する当 CO.,  の方法と技術の精巧さは衆知のとおりです。偽人間の方は非常に難しく、技術的にもまだ不可能であり、現在発行中の人間を偽人間に似せて偽造することが当面の方法であります〉とあったところである。(注.「第2章 『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』 4) ‘60年代日本の『反芸術』(その2) ─  ③ー1. 『読売アンデパンダン』展」[『百万遍』6号]掲載)

 そこから一貫した主張のうえにある、「零円札」着想だろう。だが、こうした筋道は理論的にのべられているのではなく、そのごの『朝日ジャーナル』掲載の連載イラスト・マンガ『櫻画報』(1970年12月13日号)では、「零円札之ポスター」が描かれ、「沿革」としてつぎのように説明されているのもその一例である。


沿革

濡れた葡萄を抜き取って

偶天鐘区(グーテンベルク)の敷いた道

海を抜かれた貝殻は

鉄を通って紙となる

お札のトンネル(旧漢字ヲ使用)横に見て

武闘を秘めた民間の

霞ヶ関を越えて行く

零に託した

順法絵画

お手許の百円札三枚又は百円玉三個を、零円札一枚とお取替えいたしております。巷のお金は三百円ずつ順ぐりに零円となっております。

 

 「虚構」のなかで、国家発行紙幣を「零円札」と交換し、無の表象を実現しようというのだろう。

 かれじしんがこの「零円札」制作行為について、論考しているものもある。最高裁上告棄却後で、執行猶予期間があけたのちに『中央公論』(1971年5月号)に掲載した「表現は犯罪を包んでいる」の文末である。この論考は、芸術活動を再開するなかで、それまでの行動と関連する見地から。自分の芸術活動を総括する見地からのべられたものであった。


 その後私は、その現行法への報復として「零円札」を印刷した。あるいはそれを起点として、私には政治行為というものがまた別の意味をもって表現行為にくっついてくるような気もするのだが、これについてはまた時間を要するだろう。

 表現行為の内に「世界」に向けての最短距離を見ようとする「私」は、そこに横たわる「関係」をいつ突破するというのだろうか。これは永久革命というニュアンスを借りながら永久犯罪というしかないことである。私なりに結論すれば、実の犯罪とは、私と世界との同化作用におけるラディカリズムのことであり、これは政治行為ではなく表現行為の中に包まれている。(この表現、政治とは、その様相においてではなく、その構造においていうのである下線部は筆者)したがって犯罪とは、表現行為を打破って出てくるのだ。しかしなんとウツロなことばだろうか。私はその表現に固着されて生きているのだ。(注.『追放された野次馬』にも収録されているが、そこでは、(    )部分が削除されている)


 ここでの主題はかれの芸術的社会参加論であって、「零円札」そのものの説明ではないが、「零円札」制作が、「複製千円札」判決への必然的異議申し立ての芸術行為であることはしめされている。削除(  )されている、「これは政治行為ではなく表現行為の中に包まれている」の政治の意味、「様相ではなく構造」というのは、イデオロギーや思想ではなく、政治活動、政治実践参加を指すのだろう。かれは、『櫻画報』連載中におこった三島事件に衝撃をうけている。おそらくその衝撃の、谷川式にいえば「止揚」が、「なんとウツロなことば」と云いながらも、ここにあるとおもわれる。これが、これからかたるかれの「野次馬」にかかわり、また、『櫻画報』と、その最終回を説明するとになるのだろう。

 かれのいうのは、芸術表現の行動であり、谷川の狐拳権力・拒否構造でいえば、芸術家の立場からメディアや「大衆」を受容するのだ。芸術家三島由紀夫の行動は、「政党・政治団体」の立場からということになる。

 赤瀬川でいえば、千円札事件で起訴されたとき書かれた、「資本主義リアリズム論」も、第一審判決直後に依頼された「スターリン以後のオブジェ」も、依頼者であるメディアの『日本読書新聞』や「大学新聞」の当初の期待、たとえば表現の自由とか「複製千円札」裁判への直接反論とかの「読者」を忖度した「メディア」的関心とは、まるでことなる次元で書かれている。いずれも現代アヴァンギャルド芸術を模索する芸術論である。それは、この「零円札」制作がより一層そうであった。かれは、「零円札」に、じぶんの不当一審判決への異議申し立ての付加価値をたえずつけ加えながら、出版メディアをつうじて芸術メディア基準の価格で販売し、社会人芸術家なみの成功をえた。 芸術家としてメディアを選び「大衆」へ仲介させたのだ。

(注.総額どのていどの収入があったかは、わからない.だが、1980年代になっても『写真時代』連載の「トマソン」では、読者景品に用いているから、それなりの芸術品価値をもちつづけている.また、2010年代では、古書店価格では一枚、6万円で販売カタログに掲載されていたから、メディア芸術品だったのはたしかだろう.)


 雁の「やっとるね」は、「櫻幼稚園附属大学」の校長であり、「櫻画報社」の社長であり、「零円札」発行銀行の頭取であることだが、たんなる校長、社長、頭取パロディーいじょうに、このような多層性をもつ「やっとるね」である。

 この多層性には、そのほかにも、校長、社長、頭取の階級的意味を支点とするパロディーをこえるものもある。これらはすべて、現実の赤瀬川が、どこかで、フィクションとはいえ、名のっている肩書きである。これからのべる『朝日ジャーナル』掲載の「櫻画報社発行の櫻画報」は、1973年の時点でも、どこかの雑誌でなお健在で刊行されているし、「零円札」も流通している。ひとりの社会人が校長であり、社長であり、頭取に同時にありうるのは、現実社会では実効性のない、ありえないばあいである。飛躍して言えば、谷川のいう「あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく」が、机上で実現したようだ。ここで谷川も、「大衆そのものになっていく」と、いっていないのは示唆的である。むろん、谷川の論理でも、この集合は「大衆」なのだが、かれがそれを、集合と表現したことに留意しておかねばならない。じじつ谷川の「自立学校」の狐拳構造の講師団─生徒団─運営委員団は交換可能の前提だった。谷川じしんそこでは、授業担当の講師であり、企画運営の運営委員であり、臨時先生の授業では生徒だった。かれは、「大衆」はそうでなければならないという、古典的民主主義思想を、顕在化する実験を「自立学校」でおこなったのだろう。赤瀬川が意識してか無意識か、理性論理ではなく感覚的にここで感得し、表現しているのはそのような「大衆」論であるかとおもわれる。

 しかし、これはたんなるフィクション上、それとも、筆者の牽強付会な解釈といわれそうだが、そのごの赤瀬川の芸術家の軌跡にてらすと、そのような意図をひめたものにおもわれるのだ。

 このときのかれは、すでに画家であり、マンガ家であり、イラストレーターであり、原稿収入があることでは芸術・社会評論家だった。無産者であったかれは、各々の収入多寡は別として、ひとしくこれらによって生活の糧をえていたのである。そうしたかれは、これらすべてを、軽重はあるが、並行して発展的につづけながら、’70年代末には小説をかきはじめ、中央公論新人賞をえ、1981年には芥川賞作家となっている。にもかかわらず、かれは、それにとどまることなく、写真、建築にも関心をひろげそれぞれの領域の現役アーティストと提携して写真活動、「建築」活動をおこなっている。

 複数の収入源で生活するのは、現代でもアルバイト生活があるが、その多くは当人がのぞまない状態だ。が、かれのばあいはいささかちがう。あきらかに意図的選択である。通常の文学・芸術作家なら芥川賞など得ようものなら、文芸誌などの執筆依頼を積極的にうけいれ、小説執筆に専念するものである。そして、読者の期待、メディアの期待にそえなくて断念するのは、ここでは別問題だが、かれはまったく異質の道をあるいた。かれは、けっして小説家になろうとはしなかった。芥川賞作家への読者メディアの期待にそうことなく、芥川賞作家の資格は利用しながら、自分の期待するテーマと文体の「作品」しかけっして出版メディアに掲載しなかったし、また、それが可能になった。小説執筆とおなじ熱意をもってイラスト・マンガ作品を制作し、掲載している。また、好き勝手なアヴァンギャルドディストをあつめた座談会を掲載している。

 言い換えれば、メディアの(これを書けという)権力行使を拒否し、読者への(これを読めという)芸術家の権力行使をおこない、読者の拒否権を無効にしたのである。

 そして、それでもかれは、芸術家としか云いようのない生涯をおくっている。それも、画家かイラストレーターか、漫画家か小説家か評論家か既成ジャンルに分類できない芸術家の集合体である。しかも、その集合体には芸術メディアの手がおよびかねるものもある。かれが現実的に実現した芸術的グループの一部を、年代順に列挙すればつぎのようなものがある。(注.正確には芸術的とはいえないものもあるが、おこなっていたのは「芸術」的としかいえぬ活動だった.)


 「革命的燐寸主義者同盟」(革燐同)、「革命的珍本主義者同盟」(1968年)、「娑婆留闘社」(「獄送激画通信」発行)[編集長 松田哲夫](1969年)、「ロイヤル天文同好会」[会長 田中ちひろ](1975年)、「トマソン観測センター」(1983年)(会長  鈴木剛、光学記録班長 飯村昭彦)、「路上観察学会」(1986年)(会長 藤森照信)、「脳内リゾート開発事業団(ステレオオタク学会)」(1991年)、「ライカ同盟」(会長 高梨豊)(1994年)

(注. *マークを付した活動は、わかりにくい名称だが、現実的、具体的活動であり、説明を要するが、ここでは省略する.) 


 これら全実践活動は、赤瀬川が企画し、中心になって運営したものだった。だが、注目すべきは、活動内容にもあるが、なによりもかれじしんが会長に就任していないことである。フィクション組織の「櫻幼稚園付属大学」、「櫻画報社」、「零円札発行銀行」の 校長、社長、頭取をのぞきのつくものには一度もなっていない。集合体の一要素であり、集合体そのものである。

 谷川雁のいう「集合体そのものになっていく」の大衆論をかれなりの見地から具現するものであろう。

 だが、谷川の「大衆」像に、暗暗裏とはいえ、いっそう重なってくるのは「とうぜん野次馬だろう」の野次馬である。野次馬は、おなじ文脈にある犯罪小僧にもかかわってくる。赤瀬川は、最高裁棄却による刑確定の一年前、1969年7月から月刊誌『現代の眼』にマンガ時評を連載しはじめた。『現代の眼』は’60年代「デモ・ゲバ」風俗の後期、「学園紛争」期の代表的反体制雑誌であり、このマンガ時評は、「現代 ~ 考」シリーズだった。

 「現代ヘルメット考」(1969年11月号)、「現代別件考」(1970年3月)、「現代テレビ考」(1970年6月)、「現代公害考」(1970年11月)というものだったが、3回目の1969年9月号に登場した「現代野次馬考」が、統一テーマとなっている。このシリーズは、1972年5月号の「現代××考」の掲載のマンガ、盾をならべる機動隊群像に〈正義の味方 警察バンザイ! 私達は言いなりになります!〉(ヒソヒソ市民、ツゲグチ同好会、銀行貯金自慢会、暴力反対無力愛好会、話せばわかる会)と書かれた絵ページでマンガ・シリーズはおわった。しかし、その翌月、「追放された野次馬」と題して、今となっても’60年代「デモ・ゲバ」風俗を抉出する、メディア批判の長文の論考を同誌6月号に掲載している。

 野次馬テーマは、1970年8月2日から週刊誌『朝日ジャーナル』に連載をはじめたパロディー・マンガも、当初3回は「野次馬画報」だったのだが、4回目から「櫻画報」に改題している。ここでは、途中から、馬オジサン泰平小僧の両キャラクターの対話が軸となりシリーズが展開するが、『現代の眼』の野次馬思想の発展的継承であったのはあきらかである。1972年8月に両誌連載を組み合わせて刊行した単行本のタイトルは、「追放された野次馬」であった。

 野次馬が初登場する『現代の眼』シリーズ3回目の「現代野次馬考」(1969年9月)の先頭ページには、細密画の大口をあけていななく馬の口から発せられた吹きだしに、野次馬の定義ともいうべき英語と日本語が併記されていた。


Heckler:詰問者(やじる人)、Rooter:応援者(熱狂的支持者)、Sympathizer:同情者(賛同者)、

 Crowd:烏合の衆(群衆)、Rabble:ワイワイ連(暴徒)、 Mob:下民(暴徒)、 Hobo:浮浪人(ルンペン)、Rioter:暴動者(暴民)

である。 (注. 赤瀬川の日本語は恣意的であるから、(   )に英和辞典的な意味をいれておく。)


 一般通念として、野次馬は〈大衆・庶民〉の蔑称である。そのいささか軽んじられている庶民・大衆はかくなるものだと、まず文頭でしめしているのだ。パッシブな大衆ではなく、攻撃的で、けんか好きで、自己主張する、アグレッシブな大衆像である。’60年代の政治デモでは、その片鱗が見られ、21世紀現在の合衆国やフランス大都市の反体制政治デモにあらわれる大衆像である。そうした大衆の立場からながめた、ながめようとした、マンガ時評だった。

 そして、その第2頁、3頁目は、街頭で機動隊と対峙するデモ隊と舗道石をはがし投石する学生らの写真であり、最終頁は痩せた馬のイラスト・マンガだった。それら各視覚映像の下半分に記されていたのが、つぎのようにはじまる戯文論考だった。


 東京に野次馬が出る ─ 蒼ざめた野次馬である。ふるい東京のすべての実権派は、この野次馬を退治しようとして神聖同盟を結んでいる。警視庁と新聞社、検察庁と裁判所、体制内反対派と体制内賛成派。

 群衆にして警察隊から野次馬だと罵られなかったものがどこにあるか、群衆にして自分より獰猛な群衆に対して、また反動的な報道者に対して、野次馬の烙印をおしつけて悪口をなげかえさなかったものがどこにあるか

 この事実からふたつのことが考えられる。

 野次馬はすでに、すべての東京の実権派からひとつの力と認められていること。野次馬がその貧欲さ(ママ)、その獰猛さ、その痩せ飢えた姿を全世界の前に公表し、実権派による野次馬物語に野次馬自身の蒼ざめた野次を対立させるのにいまがちょうどよい時期であるということ

 この目的のためにあらゆる街の野次馬が東京に集まり、次の野次を起草した。これは英語、仏語、独語、伊語、西語、中語、露語、および馬語で発表される。

 

 以下、1~4章と、(省略)とつづき、さいごを「万国の野次馬、蒼ざめよ!(傍点)」と強調してしめくくっている。

 文頭から、なにやらマルクスの「共産党宣言」(「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という幽霊である」)や、革命労働歌(「聞け、万国の労働者・・・・」)のもじりがつづき、読者用パロディーの雰囲気がかもされている。「蒼ざめた野次馬」にしても、’60年代のファション用語「蒼ざめた馬」と連動するものである。「蒼ざめた馬を見よ」は、五木寛之の1967年直木賞の受賞作品であり、その頃のベストセラーであった。あるいは、それよりもむしろ、ロシア革命前期の20世紀初頭、ロシアのテロリスト、ボリス・サビンコフが書いた「蒼ざめた馬」をおもわせるものがある。サビンコフは2月革命後も反ボルシェヴィッキーの立場をつらぬいた革命政治家だった。かれが筆名、ロプーシンで書いた同書は、戦前の日本でも翻訳されていたが、’60年代日本では現代思潮社をはじめ数社が改訳出版し超ベストセラーになっていた。原典・ヨハネの黙示録がらみゆえか、世界的流行となり、アガサ・クリスティーが同名の推理小説を書いているし、五木もこれに便乗したのだろう。’60年代「デモ・ゲバ」風俗のひとつのあらわれである。

 だが、そうしたパロディーではあっても、赤瀬川ではいささかようすがちがう。「蒼ざめた」ではなく「蒼ざめた野次馬」であることに、テロリスト、サビンコフ、「テロリスト群像」を書いたサビンコフのパロディー化、サビンコフ・テロリストの反対像表出がある。乗り手と共生できる馬ではなく、馬自体がいななき、あばれる野次馬である。(注.同書翻訳も現代思潮社から出版されていた.) 谷川の狐拳構造でいえば、「知識人」ではなく「大衆」である。

 しかも、その「大衆」は、紋切り型の「大衆」ではないらしい。「群衆にして警察隊から野次馬だと罵られなかったものがどこにあるか」は、まず、定義にてらしも理解可能な 野次馬像だが、「群衆にして自分より獰猛な群衆に対して、また反動的な報道者に対して、野次馬の烙印をおしつけて悪口をなげかえさなかったものがどこにあるか?」にいたっては、赤瀬川独自の「野次馬」観がある。

 それを解くカギは、この事実から考えられるという、つづく「実権派による野次馬物語に野次馬自身の蒼ざめた野次を対立させるのに、いまがちょうどよい時期であるということ」にあるようにおもえる。いまがちょうどよい時期という判断の当否と、かれの本気度の在り処はさておき、かれが「実権派」なるものをどう理解していたか、から考えてみなければならない。実権派は、文化大革命中の中国で、毛沢東が使用した、中国共産党内体制者を批判するファッション用語である。

 赤瀬川は、「実権派」を、警視庁と新聞社、検察庁と裁判所、体制内反対派と体制内賛成派としている。通常、抑圧者とされる、資本家・大企業、政府・政党、警官、自衛隊を掲げていない。警視庁や、一歩ゆずって、検察庁、裁判所までは、抑圧機構としてさほど違和感がないとしても、警視庁と同列に新聞社があって、体制内反対派と体制内賛成派に焦点がむけられているのは、含蓄ある指摘である。警視庁と新聞社が同列にいるのは、この前後のかれの主張から、かれなりの具体性をもつメージでもあろうが、「体制内反対派と体制内賛成派」が、実権派3セットのひとつであるのは、看過できない。

 表面的には、警視庁と新聞社、検察庁と裁判所、体制内反対派と体制内賛成派の実権派三点セットは、順序からいって、千円札事件の赤瀬川を退治しようとして、実力行使した実権派組織である。警視庁の捜査と朝日新聞の煽情的誇大報道によって事件化され、検察庁と裁判所によって、野次馬、すなわち、思想的変質者として有罪判決が下されたのである。

(注. 赤瀬川によると、1965年11月の検察庁長官の談話中の発言が初出とあるが、かれは『オブジェを持った無産者』所収の論考をはじめ、しばしばこれをキーワードとしている. 『追放された野次馬』のサブタイトルも思想的変質者の十字路とある.)


 ただ、この野次馬を退治しようと神聖同盟を結んでいる最終セットに、体制内反対派と体制内賛成派があるのには、注目しなければならない。とりあえず彼らは、新聞・雑誌に登場する評論家や芸術家であり、知識人であろう。だが、彼らが、千円札事件を野次馬化して退治するのに、警視庁と新聞社、検察庁と裁判所に匹敵する強権を発動したとは考えがたい。そこにはいうまでもなく、世論形成におよぼした影響があるのはたしかである。さらにまた、たしかに、アヴァンンギャルド芸術家においてさえ、「千円札」裁判闘争にたいして、時局に便乗した過剰行為とか、「ペロリと舌をだして謝っておけばすむ」注 という関係者もあった。(注.菊畑茂久馬の言.のちに扱うことになる.吉村益信もまた、「模型千圓札」を認めず、法廷行為を白眼視していた.) ましてや、アヴァンギャルド芸術そのものと関連させた非難、中傷があったのはいうまでもないことである。

 「体制内反対派と体制内賛成派」は、赤瀬川の意識では、一義的にはうたがいものなくそうした勢力だろうが、二義的には赤瀬川じしんのなかにいる体制内反対者と賛成者ではなかったろうか。かれじしんは芸術家であり、アヴァンギャルディスト芸術家としてこれを描いている。かれの感覚では、かくれたベストセラー月刊誌『現代の眼』にこれを描いているかれじしんを折込ずみの発言だったかとも、おもわれる。実権派たる裁判所によって懲役三ヶ月の有罪判決をうけた、「大衆」たるかれのうちにも実権派はいるのである。大衆自体のなかにも実権派はいるのである。具体的には、懲役三ヶ月、執行猶予一年の一審判決後、高裁、最高裁へただひとりで上告するさいに、察知した実権派の在処かもしれない。

 そして、それは、谷川が「あなたのなかに建設すべき自立学校を探究しよう!」で、「あなたはそういうふうに考えたことがありますか? 個人は割れており、割れている個人のなかに集団があり、その集団を外におしのけるにしたがって、深刻な集団が個人のなかで息をしている。あなたのなかの追いつめられたひとしずくの集団と闘うべし。そうすれば、あの気だるい進歩的良心とおさらばしながら、あなたは集団そのものとなっていく」と、理論的にのべたところを、芸術家の立場、芸術実践者の立場で表現しているようにおもわれる。

 それが、結論が「立て万国の蒼ざめた馬よ!」でなく、「万国の野次馬よ蒼ざめよ!」とされ、また、「実権派による野次馬物語に野次馬自身の蒼ざめた野次を対立させるのに、いまがちょうどよい時期である」と書かれている理由であろう。

 とはいえ、「体制内反対者と体制内賛成者」の実権派などといっても、やはり言葉理論であるのはちがいない。芸術家赤瀬川でも、まだそれは、このていどの芸術表現しかできなかったのだろう。ならば、芸術表現者、赤瀬川じしんが、「実権派による野次馬物語に野次馬自身の蒼ざめた野次を対立させる」のを追求したのが、かれの『櫻画報』だったかとおもわれる。

 執行猶予期間があけたかれは、1970年8月から週刊誌『朝日ジャーナル』に、時局諷刺マンガの連載をはじめた。’60年代「デモ・ゲバ」風俗の脱落をつげる「大阪万博」は開幕したが、ゆくえはまださだまらぬ時期である。この連載は、マッド・アマノのパロディー・フォト・モンタージュ「mad IMAGE」が7月で終了し、バトンタッチされたシリーズ企画で、翌年3月までの連載であった。なぜかれが選抜されたか、その理由はさだかではない(注. 赤瀬川自身をふくめ、『ガロ』誌の長井勝一など証言はあるが、ジャーナル側の事情はわからない.) 1964年の、朝日新聞がけっして誤報とは認めなかった誇大報道「千圓札事件」と何らかの関連があったかどうか。『朝日ジャーナル』編集部は、赤瀬川のその後の活動、ことに前年からはじまっていた『現代の眼』のマンガ時評は、類似作品でもあるから承知していたはずである。それなりに過激な反体制的内容である。とうじの『朝日ジャーナル』読者を忖度したメディア的選択とするのが妥当かもしれない。あるいはまた、朝日新聞社内の体制派「新聞」編集への週刊誌側の対抗企画だったかもしれない。だが、朝日新聞社そのものにとっては、芸術メディアの「美術館」や「画廊」が、体制芸術が忌み嫌うアヴァンギャルド芸術なるものを、メディアそのものの存立をはかるために、必要条件としてうけいれたようなものだったのだろう。それが露呈した、この『櫻画報』だったとおもわれ、それは’60年代をあらわすひとつである。

 赤瀬川じしんが、引き受けるにあたり、なにを考えていたのかわからない。意識するものがあったのはたしかだが、むしろ、かれの芸術行為の延長上で、結果的に到達し、あらためて芸術的対応をした現実だろう。

 とうじの『朝日ジャーナル』の公称出版部数は30万部であった。かれがそれまでかかわった芸術メディアとはまったく異なる規模、すなわち、芸術家への異質の権力を行使するメディアである。1964年の「千円札報道」の外なる権力行使より、芸術家にとってははるかに巨大な重力をもつ、内なる権力行使を発揮するものである。かれがさきに指摘した、野次馬を退治しようとむすんだ実権派の神聖同盟である「警視庁と新聞社、検察庁と裁判所、体制内反対派と体制内賛成派」は、このような予言的にも読むことができる。それは、やがて「追放された野次馬」でかれじんが主張することである。

 こうした意味をもつ『櫻画報』であったが、1970年8月2日初掲載から3回目までのタイトルは『野次馬画報』だった。見出しとならんで、「発行所 野次馬画報社 赤瀬川原平」とあり、「週刊三頁 70円」と記されていた。70円は『朝日ジャーナル』誌の価格である。欄外上端の余白には「第1号(昭和45年8月2日 第三種郵便物乗取)」とある。この創刊号は、野次馬ピンナップⅠ、Ⅱ、Ⅲであり、馬の脚、ふつうの馬の顔と、いななく顔の三点が描かれている3頁だった。2頁と3頁目のキャプションには「祝発刊 野次馬画報」とあり、祝い主が列挙されている。2頁目は「野次馬旅団、予想屋全共闘、四灘カントリークラブ、谷川鉄砲器店吉本思圧院、現代の鼻、中年マガジン、年増フレンド、軒並み反戦、老年ジャンプ、夕刊エベレスト、チリガミ反戦」とあり、3頁目は「馬肉商反戦、屠殺業反戦、馬平連、旭新聞、野次雑言著作権協会、群馬県、ダラリマン、森静一中平託馬、赤色無踏派、婦人口論、プレイボーヤ、安保撃滅勤労奉仕団、蒼軍派」であった。パロディーはこの祝い主にあるのだろう。実在人物にかかわる4名に谷川、吉本がいるが、併記されているから、自立学校の谷川雁と吉本隆明としても支障あるまい。赤瀬川の意識か無意識にあるこだわりがあらわれている。

 ところが、こうして発足した「野次馬画報」は、8月30日刊のNo.4 から「櫻画報」へ改題される。その理由は不明である。ジャーナル側の要請からかはっきりしない。あとでふれるが、赤瀬川の言やその後の『桜画報』から、そうともおもえるが、明言していないところから、かれじしんもかかわりある改題とすべきだろう。「野次馬画報」タイトルにつけられたキャプションは、(万国の野次馬よ蒼ざめよ)としるされていた。あきらかに、「現代野次馬考」を継承するものである。『現代の眼』の連載はなお継続していたから、そのあたりが関係しているのかもしれない。

 だが、とうじの赤瀬川としては、『現代の眼』は「現代~考」であり、ジャーナルは「野次馬画報」だったから、発展的、かつ、「朝日ジャーナル」版に焦点をあわせた新規の枠付が準備されていた。それは「画報」である。これは、改題されてもなんら修正しなかった。画報というものは、出版社が刊行する雑誌名につくものである。だから、「野次馬画報」にも「櫻画報」にも、巻頭見出しに、「発行所 野次馬画報社 赤瀬川原平」、「発行所 櫻画報社 作・画 赤瀬川原平」と記入されている。この ~画報社発行が意味を発酵させるのは、そのさらに上部欄外にちいさく記された、あらゆる雑誌、新聞出版物表紙に表記すべき慣用句、~年~月~日の発行年月日と「第3種郵便物~」である。かれはそこに、発行年月日および「第三種郵便物乗取」と記している。「野次馬画報」と「櫻画報」は、「昭和三十四年三月二十日第三種郵便物認可」の『朝日ジャーナル』を乗取った刊行誌ということになる。だから、タイトル頁にあった「週刊3頁 70円」も、それなりのパロディー主張となる。だから、さきの「通信教育 資本主義リアリズム講座」での、谷川雁への校長の「私は会社の社長もしております。櫻画報社の」という返事がでてくる。

 このメディア乗取りは、そときの真意はあいまいだが、その後の経過を勘案すると、赤瀬川の無意識的意思ともいうべき想像力が作用し、また、それは、谷川が「権力止揚の回廊 ━ 自立学校をめぐって」でのべた、芸術家へのメディア権力に対抗する芸術家の拒否権行使に通底するものがあるようにおもえる。

 だが、とはいえそれは、まだここでは言葉のフィクションであり、現実性あるものに赤瀬川じしんにもなっていない。そして、現実化するのが、その後の『櫻画報』である。

 だが、『朝日ジャーナル』版の「画報」の選択は、それだけが理由ではなかったろう。むしろ赤瀬川の意識するところでは、「現代 ~考」をあらためるにさいし、近代日本のパロディー・ジャーナリストの元祖、宮武外骨とかれの出版した『震災画報』が直接的動機にあったのではなかろうか。

  宮武外骨(1867-1955)は、明治、大正期に「滑稽新聞」などで時代風刺活動をしたジャーナリストである。かれは、とうじの政治家、行政機構、マスコミの権力批判の過激なパロディーで多数の読者をえたが、不敬罪などで通算4年以上の獄中生活をおくった。1923年の関東大震災では『震災画報』を発行し、これを無法の楽園、貧者も富者も平等におそう大地震の摂理と説いた。戦後の焼跡を楽園として、そこから「反芸術」が芽生えたといった東野芳明注 や赤瀬川じしんもそのひとりだった’60年代アヴァンギャルディストたちとの共通体験である。(注.「第2章『デモ・ゲバ』風俗のなかの『反芸術』 4) ‘60年代日本の「反芸術」(その2)①  芸術評論家の「反芸術」 ─ 東野芳明の「反芸術」とそれをめぐって)」[『百万遍』第5号])


 赤瀬川がのちに出版する『櫻画報永久保存版』の巻頭には「宮武外骨先生に捧ぐ」とあり、『櫻画報永久保存版』全編の「櫻ギャラリー」に、馬を呑みこむ男など、宮武が出版した『滑稽新聞』などの挿絵引用がふんだんにちりばめられている。赤瀬川は戦後の宮武再評価の先達者のひとりだった。かれが組織した芸術グループのひとつ、「革命的珍本主義者同盟」(1968年)は、宮武外骨刊行物蒐集と外骨思想検討を契機に、そうした珍本を対象に組織したものである。これに参加し、影響をうけた無名の新人は多い。赤瀬川じしんも『学術小説 外骨という人がいた!』(1985年)注 を書き、また、外骨からうけた影響をその後の芸術論で語っている。(注.白水社刊.現在では「ちくま文庫」に収録されている.) 赤瀬川にとっての外骨は、ブルトンのジャック・バシェのような位置にあるのだろう。

 そして、「野次馬画報」改題の「櫻画報」第一回目の標題には、「桜は花の王にして国花也/桜は肉の卑にして野次馬也/桜は見物人にして回者也」とキャプションがあり、これは、ジャーナル掲載後も継続されたすべての『櫻画報』に、変わることなくあるキャプションである。

 第一回「櫻画報」の第一頁は、花弁をふらす満開の桜の樹と、その下で馬をなかにしてならびバンザイする少年、少女、三人の後ろ姿が描かれ、「サイタ サイタ サクラガ  サイタ」と大書されていた。そして、頁枠の余白には、「祝 改題”櫻画報” 児島高穂、ジョージ・ワシントン、梶井基次郎、池田亀太郎」としるされている。

 「サイタ サイタ サクラガ  サイタ」は、戦前の尋常小学校一年生の国語教科書の第一頁の文言である。馬はその後の馬オジサンであり、少年は泰平小僧の前身ともみえるが、まだ鉢巻をつけてないからそうではない。泰平小僧の登場は第22号(1971年1月1日、8日合併号)からである。少女は、赤瀬川の娘、桜子をおもわせるが、まだ生まれていないからこれもそうではない。しかし、三年後に生まれたわが娘をそう命名したのだから、「櫻画報」への赤瀬川のおもいは結果的におおきかったとしなければなるまい。

 余白に記されている児島高穂、ジョージ・ワシントン、梶井基次郎の3名については、いずれも桜にまつわるエピソードの持ち主である。あらためて、いうべきことはないようだが、さいごの人物は、やや奇とせざるをえないところに、仕掛けがある。

 池田亀太郎は、明治時代の人で、いわゆる覗き見の痴漢、変質者の「出歯亀」の当人であり、かれは植木屋だったそうだから、桜にゆかりある来歴があるのかもしれない。だが、『朝日ジャーナル』の読者といえども、まえの3名ほど桜にまつわる人物とはみないだろう。

 出歯亀の池田亀太郎は、見てはいけないものを見ていたことによって、別件逮捕され、無期懲役刑を受けた男である。他方、宮武外骨の幼名は四郎であった。外骨の名前は、亀の異名が外骨内肉であることからきた、筆名ではなく改名したかれの本名であった。

 このような亀太郎が、「櫻画報」改題を祝したということは、なにやら一筋縄ではいかないものがある。前三者が祝したのは “櫻”だったとしても、亀太郎さんがよろこんだのは “画報”かもしれない。

 だが、赤瀬川がたくしたのは、こうした駄洒落ではあるまい。亀さんが外骨ということなど、赤瀬川じしんと周辺のものたち、たとえば、「革命的珍本主義者同盟」の同志たちにしか通用しない冗談である。おそらく、これは、芸術家赤瀬川原平が、みずからにむけた決意表明であろう。かれの芸術観、1963年1月の個展「あいまいな海」の原点にかえって、「出歯亀」のようにしつこく、宮武外骨のように果敢にやらねばならぬということだろう。

 赤瀬川がいつも観察する者であったのは、ハイレッド・センターのだれしもが指摘するところだが、かれには、芸術家は観察者だという主張がある。(注.座談会(高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之)「寂しげで冷ややかな透視力」[『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター 直接行動の記録』所収]) 


 隠されているもの、見てはいけないもの、知ってはいけないもの、禁じられているものを、あばくのが芸術家の使命というのである。かれは、複製千円札を案内状にして配った個展「あいまいな海」について書いた、かれのはじめての芸術論のタイトルを「スパイ規約」注 としている。(注.『形象』8号(1963年6月))掲載[「あいまいな海」に改題し『オブジェを持った無産者』に収録])


 その書き出しは、「スパイが新しいピストルを手に入れた/爆弾でいえば、いわば戦時中にあった『人馬殺傷弾』のごときものである」とある。新しいピストルとは、新しい芸術であり、その手がかりを得たよろこびであろう。とにかく、芸術家たるじぶんは、危険なピストルをおびたスパイということだ。スパイとは含意あることばである。

 20世紀のスパイは、愛国心にせよ、イデオロギー的使命感をもって、異なるイデオロギー政権の国へ潜行し、隠されたもの、隠そうとしている弱みをみつけ、あばくものである。また、近代スパイのもうひとつの任務は、敵地において同調者をみつけ、かれらを仲間にひきこむことである。ジョン・ル=カレが小説で描くような、スパイである。ル=カレが、誠実な知識人がいつならぬともかぎらぬ、そのようなスパイ像を、現代風俗として描きはじめたのは1961年からだった。戦後の世界二極構造が変質していくなかの、’60年代風俗のこれもまたひとつのあらわれである(注.戦後世界二極構造については、本論、序章 1) 風俗画のアレゴリーとしてみる芸術・文学 2) ‘60年代日本社会の位置 ① 世界の状況[『百万遍』No2]を参照) 

 そして、こうしたスパイが、隠されたものをあばく役割より後者の任務を重視すれば、谷川の工作者になるだろうし、また、スパイ工作者は表裏関係になるだろう。

 赤瀬川が外骨の諷刺にみたのも、こうした隠されたものをみつけ、あばくことだったのではなかったろうか。

 だから、児島高穂、ジョージ・ワシントン、梶井基次郎の締め括りに、のぞき屋(ピーピング・トム)の亀太郎がくるのである。亀太郎は婦女暴行殺人の冤罪で懲役刑をうけた人物である。おそらく、この亀太郎は、『櫻画報』の主筆赤瀬川原平に擬されていたのだろう。

 だが、こう考えてみても、ここまででは、「現代野次馬考」をおおきくこえるとはおもえない。

 それを解く手がかりは、第一頁目に描かれた桜にかさねて記された、キャプション三句の桜の定義にあろう。第1頁には第一句「桜は花の王にして国花也」」の定義があり、2頁目に第二句「桜は肉の卑にして野次馬也」の定義、3頁目に第三句「桜は見物人にして回者也」の定義が、画像にかさねて記されている。

 満開の桜の樹の下でバンザイする少女、馬、少年のうしろ姿と欄外余白の「祝 改題”櫻画報”」の三人と連動して、第一句の定義「櫻1」は、ゴチック体でつぎのようにかかれていた。


[植]いばら科の落葉きょう木。多く山中に生じ、春、白色またはうす紅色の花を開く。古来、花王と称せられ、「花」といえば桜を指した。種類多く、わが国の国花とされている。


 おそらく、どこかの辞典からの引用だろう。だれが読んでも文句のつけようのない定義である。ところが、満開の桜にむかってバンザイする少年、少女、馬たちをへて、余白の「祝 改題”櫻画報”」と連繫をもつと、瞬時にこれらのことばは、辞書とはちがう怪しい光をはなちはじめる。ことに、「種類多く、わが国の国花とされている」である。

 そうなのか、わが国の国花は、児島高穂やジョージ・ワシントンの桜なのかということになる。高穂の桜は後鳥羽上皇救出作戦の合図だった。ジョージ・ワシントンの桜は、ワシントンが独立戦争に勝って初代大統領になったからこそ、出現した桜である。いずれも死屍累々のはてに開花した桜である。そうだからこそ、なるほど三人目に梶井基次郎がいる理由がよくわかる。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」のである。わが国、日本は、そのように多種にわたる屍体が埋まっているうえに咲く桜なのだ。そうして、そうした櫻の恥部を、亀さんこと主筆が、これから窃視し、あばきたてるのが『櫻画報』ということになる。

 しかしながら、このように解析しても、たんなるフィクション、大人のワイダンのように聞こえるだけかもしれない。しかし、そうではない。これは、現実の日本がそうあったことだ。戦前の日本、戦争中の日本の国中で、国歌「君が代」いじょうに唱われたのは、つぎのような第二国歌だった。


海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば  草生
(くさむ)す屍
大君
(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

 特攻隊の若者たちは、「君が代」は畏れおおいから、この第二国歌を唱って、飛び立っていった。それを謳って出征した、陸軍兵士の遺骨は、80年後のいまでも、インパールや沖縄の山谷で草生している。沖縄では、1945年の初夏数ヶ月で、20万人の兵士と一般人が死んでいる。「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍」の文字通りの実現だった。みごと成就した大日本帝国第二国歌だった。

 大君とは昭和天皇であり、かえりみはせじとは、じぶんのことや、家族、愛する人を振返らないことだった。敗戦までの尋常小学校や国民小学校の生徒たちは、そう教えられて、ことあるごとに唱ったものである。サイタ サイタ サクラガ サイタと習いバンザイする少年、少女、馬たちもきっと式典ごとに唱ったはずだ。とうじ二年生か三年生だった赤瀬川原平も唱ったはずである。そのさい、忠臣、児島高穂の「天勾践を空しうすること莫れ(テン コウセンヲムナシウスルナカレ)・・・」を、意味もわからず暗唱したはずである。これはとうじの『朝日ジャーナル』の、32、3歳以上の読者の共通体験だったろう。

 『櫻画報』を祝賀する4名の先頭が、児島であるのに注意しなければならない。赤瀬川の想像力のなかで、児島から梶井にいたる、さきのようなイメージが、この第二国歌のリズムで沸きたったとしてもなんら不思議はない。それが、さきにのべたような、この「櫻1」の定義が怪しい光をおびる由来だろう。

 ただし、この怪しい光のもうひとつの理由は、赤瀬川の秘められた情念の沸騰はたしかにあるのだが、なおそれが、1970年の(いま)とどのように関係するのか、生身の人間の体臭が感じられないところにある。たとえば、うえの3名のなかにいるジョージ・ワシントンである。これによってさきのイメージが、いささか「知識人」の漂白されたキレイごととなる。情念の毒性を教条的にする、緩和剤になりかねない。あるいは、さっきも、大人の無責任なワイダンにたとえたが、戦後25年のときでは、悲痛で、あってはならない思い出、だが、センチメンタル・ジャーニーになりかねない映画芝居小屋の気配なきにしもあらずになる。

 それを確かめるために、2頁、3頁に記された「櫻2」、「櫻3」の定義をみておこう。 キャプションの「桜は肉の卑にして野次馬也」と「桜は見物人にして回者也」の定義だ。


「櫻2」= 馬肉の異称。桜肉。暗褐色で肥肪分(ママ)が少ない。(転じて野次馬の異称。好奇心旺盛で責任感が少ない。多く街頭に生じ、熟成期には蒼ざめた馬となる。種類多く、わが国の国肉とされている。)

  そして、

「櫻3」= ただで見る意。芝居で無料の見物人。転じて露天商などで、業者と通報し、客を装って商品をひやかし、買うふりをして他の購買心をそそる者。又、まわし者の意にも用いる。(すなわち革命で無料の見物人。転じて、街頭などでデモ隊と通報し、見物人を装って機動隊をひやかし、つっこむふりをして他の暴動心をそそる者。─ 野次馬。蒼ざめた野次馬。)

 

とある。

 一読するとそれなりの笑いをまねく意外性もあるが、「現代野次馬考」を複雑にいいかえたにすぎない。それとも、じぶんもそのひとりである、庶民、大衆の現実を幻想なく透視したのかもしれない。

 ここにあるのは、さきの「櫻1」をふくめて、『櫻画報』をはじめるにあたっての決意表明であろう。しかしながら、『現代の眼』の「現代野次馬考」にあった、「実権派による野次馬物語に野次馬自身の蒼ざめた野次を対立させるのに、いまがちょうどよい時期」という確信はない。それを、かれのなかにある「体制内反対派」実権派の権力行使ととるべきかどうかは、わからない。

 しかし、あったにせよなかったにせよ、『櫻画報』は、そうした見地からみること、赤瀬川じしんの相剋と、克己とみると、ハイレッド・センターにはじまる、’60年代アヴァンギャルド芸術にかかわるひとつの手がかりがあるようにおもわれる。直接行動と試行錯誤のなかで、誠実に立ちむかう姿勢である。いか経緯を要点だけみておこう。

 連載5回目からはじまった『櫻画報』は、9月、10月、そして、11月前半までは、それなりのパロディー性はあるとはいえ、ややプロトタイプの政治マンガだった。高度経済成長と「米軍基地」とポルノまがいのエロティスムをからめた、「ハナサカヂヂイ」、「ハナサカババア」(図版9)やウマ(馬)とシカ(鹿)のコトバ&イメージ・パロディである。線描画、デザイン画、マンガ合成ジャンルとしては、それなりに精緻なものだった。Warui Ojiisan と変形書体で説明されたトロツキーや Yoi Ojiisan である(千圓札モデルの)伊藤博文の似顔絵や、犬マークのついた機動隊員ヘルメットをかぶったむく犬の首がきられて飛んでいく光景が、線描写の細密画技法で描きこまれていた。

 


図版9:「良いオバアサンと・・・・・・」



 だが、それは、尋常小学校教科書に合わせるためか、旧仮名づかいのカタカナ表記のことばと接触して、強烈な意味の化学反応をおこす、ひごろの赤瀬川のパロディー効果を発揮するものではなかった。赤瀬川がそれを、どう自己評価したのかわからない。 掲載されたジャーナル誌の記事にふさわしい、しかし、『現代の眼』と比較すると、掲載誌を意識しすぎているようにもおもわれる。

(注. 作品紹介を映像ですべきであるが、筆者にはその余裕がない. 現在入手できるものには『櫻画報大全』[ちくま文庫]があり、その一端は見ることができる.)


 その懸念は、赤瀬川じしんにもあったのではなかろうか。『櫻画報』No.15(1970年11月15日刊)に、とつぜん、場ちがいで奇妙な「社告」が、「ウマ・シカ パロディー」とともに掲載される。「11月1日付本紙第十三号『想い出のハナサカヂヂイ、ハナサカババア』の中で、当局の手違いによりお見苦しい点があったことを、深くお詫び致します。1970年11月15日 櫻画報社/追告 ご家庭の櫻画報十三号(フルシンブン)間違いページご不要の方がございましたら本社にてチリガミと交換致します。送り先は 東京都杉並区成田東四ノ五ノ十四 櫻画報社チリガミ交換係 なお本号1ページ目にあるチリガミ交換券でも結構です」とデザイン化した文字配列の社告と、間違って印刷された画像掲載がある。その余白にはさらに、「印刷を間違えた当局へ君も抗議の手紙を送ろう。宛先は本紙の包紙に書いてある」とされていた。かなり執拗な勧誘である。

 間違いの実体は、画像の反転印刷による、たんなる左右入換である。ほとんど意味のない誤植で、まるでイイガカリである。だが、たんなる冗談ではなく、読者参加をもとめる赤瀬川のやや強引な意図のあらわれであった。

 というのは、二週間後のNo.17では、「ウマ・シカ パロディー」を、「馬鹿と鋏は使いよう」とか、「鹿を追う者は山を見ず  馬鹿を追うものは馬鹿を見る・・・もう サイナラ」の政治パロディーをはなれた添え書きをもち、鹿を蹴飛ばす馬のマンガを掲載し、その余白には「サテ巷ではモミジも散って、本紙ではふたたび桜の狂い咲きとなる。それにしても馬鹿なヒマをつぶしたもンだ」と書かれ、「ウマ・シカ パロディー」は修了する。そして、翌週 No.18(12月6日刊)のパロディー画は「錯乱棒(サクランボウ)─ サクランの棒」というタイトルの、時局政治にはかかわりない、切り倒された桜の古木が芽吹く絵である。だが、その3頁分の全余白には、「オイ野次馬はどこへ消えた? 今日び、あの蒼ざめた顔にはトンと出くわさない」とか、「それもそう、野次馬画報が櫻画報になってになってしまうヒンの良いご時世だ」とか、「『野次馬の屍体は桜の樹の下に埋まっているものと思料する─梶井基次郎』 ナルホド、屍体の休みに桜(ハナ)が咲くのか」と記されていた。

 そして、三頁中ほぼ一頁をつかって、「今号にかぎり特別に編集後記」として三週前のチリガミ交換の結果と目的が記されている。桜軍団、桜義勇軍なるものの結成目的のパロディーもあるが、注目すべきは付記どうぜんのつぎの5行だろう。

 「なお今回の申込みの中で、本紙と本紙の包紙とを混同するものが多々あった。本紙は五十枚以上の包紙で、厳重に包んであるのだ。これは本紙が選定した優秀な包み紙であるが、その包み紙の模様と本紙の紙面とを混同されては困るのだ」、


とある。

 とりあえずは、現実の「チリガミ交換」の要請が「朝日ジャーナル」編集部に何通かあったことへの回答であるが、このパロディーの真意は、『桜画報』の自立性である。メディアを包み紙(媒体)としている。メディアを包み紙とするのは、芸術作品はメディアのためでなく、芸術作品が拠ってたつ対象は大衆、すなわち、読者でなければならないという、今更ながらの名言である。この芸術家の本来の位置をあらためて主張することに、このいささか、「牛刀をもって鶏を割く」の懸念があるパロディーの、特異性がある。つまり、たんに矛先を「メディア」にむけるのではなく、読者との関係構築を、パロディーとはいえ謀っていることである。谷川の狐拳の関係を、理屈ではなく、芸術行為でそれなりに実現しようとしていることである。

 そのことが、あきらかにこのときの赤瀬川の意図だったのは、次号 No.19(12月13日刊)で、確認できるだろう。

 19号誌は「桜紙図絵(チリガミズエ)」シリーズとなり、「ご町内の皆様、毎度おさがわせして申訳ございません。おなじみのチリガミ交換がまいりました。ご家庭のフルシンブン、フルザッシ、ボロなど何でも結構です。ご不要の品物がございましたら、量の多少にかかわらず、当方にてチリガミと交換しております」と、空中を飛ぶ米軍爆撃機とおぼしき編隊飛行機からアナウンスされる画像だった。

 そして、ここで交換されるチリガミとは、すでに本稿であつかったことのある、複製千円札事件に対抗してかれが発行した「零円札」である。 前回の交換チリガミは誤植を修正した一頁分だったが、今回は「零円札」である。『朝日ジャーナル』連載マンガとしては筋の整合性を欠くすり替えだが、かれはまったく気にしてないようにみえる。「大衆」へ通じる絶好の道を、見つけたということだろう。さきに述べたような芸術的意図から、1968年に制作した「零円札」を、「朝日ジャーナル」30万人読者にむかって売りこむはじめてのチャンス、パロディー芸術伝達のチャンスである。さきに引用したモジリまじり戯文つきの「お手許の百円札三枚又は百円玉三個を、零圓札一枚とお取替えいたしております。巷のお金は三百円ずつ順繰りに零円となっていっております」は、この19号「櫻画報」最終頁の絵図、「零円札之ポスター」中の記述だった。ここでは、送り先として、「東京都杉並区成田東四ノ五ノ十四 大日本零円札発行者.赤瀬川原平」と記されている。さらに余白には、「さあ君も、身の廻りにあるお金はいっさいかき集めて零円札発行所に送り、零円化してしまおう。善は急げ! 悪も急げ!」と追記されている。たぶん、さきのチリガミ交換のさいにおこった、「朝日ジャーナル」への迷惑をかえりみない、むしろ挑発ともいえる読者への直接呼びかけである。

 このパロディーでは、No.14、15号までの一般性がうすれ、赤瀬川に直接かかわる現実的なものとなる。プロトタイプの「反体制」の視線ではなく、赤瀬川じしんの生身の目をとおしたパロディーである。芸術家の芸術パロディーの傾向を強化したといえよう。だが、いっぽうではそれは、独善的アマチュア傾向ともいえるものにもなる。たとえば、それは、メディアたる「朝日ジャーナル」にはなんら影響しないことにあらわれているようなものである。

 だが、このとき、『櫻画報』にも『朝日ジャーナル』にも関係ないようで、また、深くかかわ事件が、現実界でおこっていた。


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