モンタペルティ現象1-1



「モンタペルティ現象」試論


米 山 喜 晟




まえがき


 もしもフィレンツェが運良くモンタペルティの敗戦をまぬがれていたら、と想像することがある。いずれにしても、プリーモ・ポポロ体制はその内限界に達し、何らかの形で崩壊して、激しい派閥争いの後、イタリア中世の都市が辿るいくつかの運命を経てそこそこの有力都市の一つ、たとえばボローニャのような都市に収斂して行ったのではないだろうか。

 ボローニャも本当に素晴らしい都市である。現在の住民の満足度は、恐らくフィレンツェよりはるかに上ではないだろうか。しかし少なくともこれまでに世界全体に及ぼした影響という点では、フィレンツェに一歩どころか、ボローニャ大学の功績を含めても十歩以上差を付けられていることを、誰も否定できないのではないだろうか。

 ボローニャの魅力がいぶし銀だとすれば、フィレンツェのそれはピカピカの金である。何がフィレンツェをそれほど突出させているのか。結局は、ダンテ以来、続々と登場した世界史的人材達がフィレンツェを輝かせているのである。

 たまたま落ちなくても良い歴史の落とし穴にころげ落ちて、しなくても良かったはずの苦労をしたことが、その後いくつかの分野に世界史的人材を輩出させ続けたという過去が、フィレンツェをイタリア中世都市の抜群の地位にかつぎ上げた。そのお蔭で、ボローニャその他、平均的イタリア都市に恵まれているいぶし銀の魅力を失わねばならなかった。市民にとって、それは良かったのか、悪かったのか。

 恐らく多くの人にとって初耳である、「モンタペルティ現象」という出来事について、しばらく時間を拝借できれば幸いである。


            令和元年七月二十二日

                    米山 喜晟



* 以下の本論は、桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第39号』(2009年3月10日発行)より転載したものです。(編集部・記)





第一章 「モンタペルティ現象」とは何か



 わたしはイタリアの他の都市国家と比較して異常に高いフィレンツェの知的生産性の起源と原因を探求していた際に、そうした旺盛な知的生産活動は13世紀後半にまでさかのぼり、フィレンツェの旺盛な経済活動が開始された時期とほぼ一致していることに気付いた。しかしそれは本来史的唯物論に基づいているが、すでに自明のこととして広く受け入れられていて、たとえばルネサンス期の芸術活動をパトロニジという側面から説明する方法などにもその影響が認められる、文化的活動を経済的土台の上に立つ構造と見なす立場からは到底説明できない現象であることをも、わたしは指摘しておいた。

 米山喜晟『敗戦が中世フィレンツェを変えた』東京2005、参照。



 なぜなら13世紀後半のフィレンツェの旺盛な文化的活動は、その後に発生するフィレンツェ経済の飛躍的な発展以前から始まっていて、むしろ時にはそうした動きに先行しながらも、おおむねは経済活動の拡大と同時進行的に発展したらしいと、推定されるからである。そうした事例の一つとして、まだフィレンツェ経済が発展途上にあったと思われる時期に、早くもフィレンツェ市内の俗人修道団体の数が飛躍的に増大しているという事実が見られる。すなわち、まだ土台となるはずの富の集積が実現されていない内に、すでに市民の文化活動は拡大していたわけである。だから少なくともこの時期に関しては、文化は経済の土台の上に立つものというよりも、その土台を立ちあげた牽引車の一つであったと見た方が真相に近いものと思われる。

 前注の著書の171ページ。近年この分野の研究がすすんでいるので、統計資料等に修正が加えられているはすだが、基本的な解釈を変更する必要はないものと思われる。



 このようにフィレンツェの経済的発展に先駆けた文化的活動の端的な一例として、ダンテの師とされるブルネット・ラティーニが記した、百科事典『トレゾール』がある。ラティーニがこの作品をフランス語で作成したのは、フィレンツェのプリーモ・ポポロ政権がモンタペルティ戦争に敗れたために、その政権を代表する使節としてスペインのアルフォンソ十世の許に赴いたまま帰国できなくなり、パリに亡命していた時期のことである。彼はその時期に他に『修辞学』と未完の『テゾレット』をも執筆したとされていて、旺盛な知的生産を行っていた。それはまだシャルル・ダンジューがナポリ王国を占領する以前の出来事だから、フィレンツェ商人が親グェルフィ党化した南イタリアに大挙して乗り込む時期よりも早く、したがって明らかにフィレンツェが経済ブームを享受する時代よりも先行している。ブルネット・ラティーニは、祖国に復帰できるか否かも定かではない時期に、当時ヨーロッパの学問の中心であったパリで、当時の先端的知識を収集して膨大な著書を書き上げ、たまたま1266年のベネヴェント戦争によってイタリアの状況が一変したおかげで、意外に早くその著書を祖国に持ち帰ることができたのである。なおその著書には(彼のもう一つの著書『修辞学』の場合も同様だが)、当時の最新の知識だったキケロの作品の紹介という形で、市民社会を営むための不可欠な技術である雄弁術のための修辞学の知識が収録されていたことは周知の事実である。このことからラティーニがこの著書を著した動機の一つは、モンタペルティで手痛い敗北を味わった祖国の同胞のために、理性と言論に基づいて共同生活を営むために必要不可欠な知識を伝えるためだったことが推察し得る。

ブルネット・ラティー ニに関する記述は、 DIZIONARIO CRITICO della LETTERATURA ITALIANA, VOL. Ⅱ,  Torino 1974、 pp. 361ー364の記述に基づく。翻訳者をボーノ・ジャンボーニとする説は同書363ページ。


 

 またそれがフランス語で書かれたことも意外ではない。ラティーニ自身か他の何者(ボーノ・ジャンポーニ?)かによって、『トレゾール』はその後イタリア語に翻訳されるが、それはあくまで暫定的な試みと見なされて、フランス語の原著の方が普及していたらしい。その理由はイタリア語の散文の確立が遅かったためで、この作品が書かれた時期から約40年後の14世紀の初頭、ダンテが『饗宴』を著した際にさえ、彼はラテン語ではなくイタリアの俗語でその作品を記す理由を、延々と弁明しなければならなかったほどである。この事実は、『トレゾール』以来約40年を経た14世紀初頭のイタリアにおいてでさえ、一人の知識人がイタリア語の散文で執筆する場合にどんなにに大きな心理的障壁に直面せねばならなかったかを示す証拠となっている。もちろん『トレゾール』の翻訳者や、『ノヴェッリーノ』の作者、そしてダンテらの試みは決して無駄ではなかった。その後に現れて「イタリア語散文の父」と呼ばれるボッカッチョに代表される散文家たちは、ダンテが切り開いた隘路を経て沃野に広がり、説話集、年代記、ノヴェッラなどの偉大な収穫を収めたからである。それらの作品は、ダンテ自身の『神曲』やペトラルカの『カンツォニエーレ』などの韻文による古典的作品と共に、イタリア文学をヨーロッパ随一の地位にまで押し上げて、クルティウスのいう「ヨーロッパ文学の首位権」 を握らせるに至ったのである。したがってラティーニが亡命先のパリで『トレゾール』を執筆した際に、滞在先のフランス語を用いたのはきわめて自然な選択だったのである。この事実はそれと同時に、こうした試みがそれ以前のフィレンツェで行われたことは全く無かったことをも裏付けているのである。なお今文学(むしろ学問自体)という分野において起こるのを見たのと類似の現象が、まさに同じ時期のフィレンツェで、経済、文化、宗教、芸術などさまざまな分野で起きていたのである。こうしたいわばフィレンツェのビッグ・バンとも呼び得る現象が生じたのは、まさに13世紀後半のことであって、それ以前にさかのぼることは不可能なのである。

④ ダンテのConvivioは4論文から成るが、その第一論文の大半、 V-XIII章は何故カンツォーネの解説がラテン語ではなく、俗語(イタリア語)で書かれねばならないかを論じている。


⑤ E.R.クルティウス・南大路他訳『ヨーロッパ文学とラテン中世』 東京 1972、  41-2ページ。



 ついでにフィレンツェ文化について論じるならば、たとえば専制君主ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティへの抵抗がフィレンツェ人文主義とルネサンス芸術の起源だとするハンス・バロンの説 はあまりにも有名である。たしかにジャンガレアッツォがフィレンツェ市民にもたらした危機感は、中弛み状態に陥りかけていたフィレンツェ文化に対する貴重な刺激であったかも知れない。だが、いずれもフィレンツェ文化と深く結ばれていて、しかも人文主義ともルネサンスとも縁の深いいわゆる文学の三冠、ダンテ・ペトラルカ・ボッカッチョや、美術におけるチマブーエやジョットの存在を、その後に起こったジャンガレアッツォの脅威によって説明することは不可能である。もちろん後代の文化には前代の文化と対立する要素は必然的に存在していて、その非連続性を強調する立場は十分に有り得る。したがって15世紀初頭に一種の文化的断絶を認めてその理由を探求することはけっして無意味ではない。しかしたとえそうした断絶を認めても、それ以前の偉大な成果を無視して、 1400年前後のフィレンツェで、無から有が生じたなどと主張することは許されない。むしろこの時期に生じた断絶をも含めて、一つの大きな伝統を認めざるを得ないのではないだろうか。たとえば美術史の場合、ヴァザーリは、チマブーエやジョットも、マサッチョも同一の流れに属しているものとして記述しているのである。おそらくプロフェショナルだったヴァサーリは、現代の美術史の専門家などよりもずっと鋭く中世とルネサンス期の画家の差異を感じていたはずだが、後代の潮流を尊重する余りにジョットたち中世の画家の重要さを否定したりはしなかった。それどころか、彼らに対して最高の敬意を表しているのである。しかしそのような伝統尊重家のヴァサーリでも、その反面彼の『(芸術家)列伝集』をチマブーエやジョットの時代から始めていて、それ以上遠い過去にさかのぼる必要は認めていない。ヴァザーリも13世紀後半の人チマプーエやジョットを自分達が属する芸術の伝統の本格的な祖先だと見なしているが、それ以前にさかのぼる必要は感じていなかったのである

⑥  H. Baron,  The crisis of the Early Italian Rennaissance,  Princeton New Jersey 1966.


⑦ ヴァザーリはその『(芸術家)列伝集』の第一巻をチマブーエから書き始め、7番目に取り上げたジョットにこの時代としては最も長い紙数を当てている。



 たとえば近年『フローレンス史』を公刊したナジェミーもこの事実に注目していて、その著書の中で、「フローレンスの文化的優位は、この〔13〕世紀の後半に突然、むしろ劇的に確立されたものである」として、「劇的に」という言葉を用いてその急激な変化を明記している。彼はさらに続けて、「ブルネット・ラティーニは古典的修辞学を復活させ、学識ある百科事典を書いた。まだフローレンスには大学はなかったけれども、サンタ・クローチェ【修道院】とサンタ・マリーア・ノヴェッラ【修道院】は、イタリアでもっとも重要なフランチェスコ派とドミニコ派の知的影響の中心となった。グイド・カヴァルカンティとそれに続くダンテの詩によって、フローレンス(すなわちトスカーナ)語は、イタリアにおける指導的な文学用語に成り上がる。14世紀の初頭に、ジョヴァンニ・ヴィッラーニとディーノ・コンパーニは、歴史の記述を新しい教養にまで磨き上げ、ジョットとアルノルフォ・ディ・カンビオはフローレンス美術と建築の革新の主要な中心地にした」 と記している。実はナジェミーはフィレンツェの経済発展についても、さらに簡潔な要約を行っている。それによるとフィレンツェは12世紀に将来の産業の基礎は築かれたものの、13世紀の初頭までは、国際貿易に関してはヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサに、銀行業に関してはシエナ、ルッカに、織物関係のマニュファクテュアに関してはフランドルやイタリアのいくつかの都市に遅れを取っていたのだが、「経済の飛躍は、フローレンス人が日常品の国際的な交易業者、商人、銀行家、 織物製造業者としてめきめきと突出していった13世紀後半に、比較的早急に生じた。1300年までには、彼らはこうしたすべての分野でヨーロッパのリーダーだった」⑨ とされている。さらに従来行われて来た個々の家や会社に関するサポーリやフィウーミらの研究も、フィレンツェ商人のイタリアの内外への進出の時期がやはり同じ13世紀後半に集中していたことを証言しているので、文化活動のみならず、経済活動に関しても、フィレンツェでは13世紀後半に、未曾有の発展が見られたものと推測することができる。

⑧  J. M. Najemy,  A History of Florence, 1200-1575, 2006 Malden etc., p.28.


⑨  J. M. Najemy, op.cit., p.96. 

なお13世紀後半のフィレンツェ商人の国外進出ぶりは、A Sapori, Studi di Storia Economica, Vol.Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ, Firenze 1982 etc. 所収の諸論文、 Storia interna della compagnia Peruzzi (V0l. Ⅱ)や、 E. Fiumi, Fioritura e decadenza dell' economia fiorentina,  parte I,  in “Archivio Storico Italiano”,  Anno CXV,  Firenze 1957 (Disp. I)などでも論じられていて、もちろん例外はあるが、最初に活動を始めた時期はかなりこの時代に集中している。



 なお経済活動に関しては、この繁栄はこのまま長続きしたわけではなく、たとえば14世紀前半には大銀行の倒産が相次ぎ、また1348年のペスト大流行で人口が半減するなど、フィレンツェもヨーロッパ全体を襲った14世紀の危機をまともに体験した都市の一つだったらしい。だからルネサンス期のフィレンツェの経済は、 1300年前後のピークをかなり下回っていたもののようである。かつて素朴に信じられていたように、イタリアの商人が膨大な富をかき集めたために、ルネサンス芸術が開花したというわけではなかった。ロベルト・ロペスによると、13世紀末から14世紀前半のフィレンツェは、15世紀の最盛期にフィレンツェで唯一抜群のトップの地位にあったメディチ銀行とほぼ同数の支店を有し、したがって当然実際の規模においてもメディチ銀行に匹敵するものと推定される銀行を、バルディ、ペルッツィ、アッチャイオーリと三つも有していたと見なされていて、それ以外にもいくつかの有力な銀行を有していたから、彼の見解に従えば、14世紀の危機の途中でフィレンツェの金融業は大幅に縮小したことになる。それでは今日の私たちの目にも驚異であるルネサンス芸術は、なぜ経済が縮小したはずの15世紀以降に創造されたのか。ロペスはこの疑問に答えて、ヨーロッパ経済が中世末期にピークに達した後に崩壊して長期にわたる低迷期に入り、かつては最も有利な投資先だった遠距離貿易や金融業のリスクが余りにも大きくなったために、それほど有利ではないが収益が確実な不動産や土地(農業)への投資(商人の土地貴族化)が進み、やはり比較的リスクが小さい(芸術作品や子弟の教育などの)文化への投資が行われた結果だと説明する

⑩  AA.VV., Renaissance, New York etc. 1962, に収録された論文、  R. S. Lopez,  Hard times and investment in culture.


         

 もしこのロペスの見解が正しいとすると、フィレンツェ経済は13世紀後半から一気にピークに上り詰めて、その後14世紀に没落した後、ルネサンス期を通じて元の水準に戻ることができなかったことになり、一層13世紀後半の持つ意味が重要になる。そうした経済面をも含めて、以上に記したさまざまな事例をまとめると、フィレンツェがイタリアの指導的地位につき始めたもっとも早い時期は、 13世紀後半のことだと推定することができる。もちろんそれ以前でもフィレンツェはイタリアの中央部のトスカーナの要地にあって、しかも早い時期にフィエーゾレの司教区を合併していたために、人口も面積もトスカーナの他のコムーネよりも抜群に大きかったと見なされているので、相応の発展を遂げて実力を蓄えていた事実までは否定する必要はない。しかし叙任権闘争時代ごろまでのトスカーナの首府はルッカであったし、また港湾都市ピサが早くから発展したために、フィレンツェは図体は大きくとも、久しくそれらの都市の後塵を拝していたという事実は否定できない。また南方の都市シエナも早くから金融業の都市として繁栄していた。ところがフィレンツェは、併合したフィエーゾレの境界線をめぐって、その富裕なシエナ相手に戦い続けなければならず、モンタペルティで大敗を喫した相手もそのシエナであった。第一フィレンツェは、北部の諸都市やピサなどと比べて、コムーネとしての独自性を主張することも遅かったようである。後にはグェルフィ党の都市の代表のように振る舞うが、フェデリーコ二世の権力が弱体化するまでは、おおむねその権威に柔順に従っていたのである。フェデリーコが健在な時期に皇帝権と正面から対決して勇名を残したのは、ミラノを中心とするロンバルディーア同盟の諸都市や、パルマ、ボローニャ等であって、決してフィレンツェではなかったのである。

⑪  F. Renouard,   Storia di Firenze,  tr. D. Beccato,  Firenze 1967, p.21.



 ところが1250年のフェデリーコ二世の死によって、トスカーナが皇帝権の重圧から解放されるのとほぼ同時に、フィレンツェにはプリーモ・ポポロ政権とよばれる市民の政権が誕生する。この政権は発足以降周辺都市との絶え間なく戦争を続けており、その10年間は周辺のコムーネにする連戦連勝に彩られている。こうしてフィレンツェは、ほとんどトスカーナにおける覇権を唱えるに至るが、それはあくまで軍事活動によってであり、後世の得意分野となる経済や文化の活動によってではなかった。そして政権発足以来10年目の1260年9月4日、グェルフィ党の同盟軍を率いてシエナ領内に乗り込んだフィレンツェ軍は、シエナ軍とナポリ王国のマンフレーディ王の配下のドイツ騎士団800騎と戦い、シエナの東方8キロのモンタペルティの丘陵地帯で、おそらく巧妙な待ち伏せにあったためだ思われるが、潰滅的敗北を喫した。その結果プリーモ・ポポロ政権を担った市民たちとグェルフィ党の騎士たちは市外に亡命し、その後少なくとも丸6年間フィレンツェはギベッリーニ党の支配下に服していた。1266年の早春にシャルル・ダンジューがイタリアに侵入した時も、市外に亡命していたグェルフィ党騎士団とプリーモ・ポポロの有力市民を除くフィレンツェ本体の住民は、ギベッリーニ党の支配に服していたのであり、さらにモンタペルティ戦争以前からフィレンツェはローマ教皇庁から破門されていたために シャルル・ダンジューのイタリア侵入のためにグェルフィ同盟に加わって協力したのは国外の亡命者たちとその仲間のみであり、フィレンツェの当時の支配者はギベッリーニ党員とそのシンパのポポロなので、市内で日常生活を営んでいたフィレンツェの住民の大半はその戦いと無関係であった。

⑫ この戦争に関しては、フィレンツェ側とシエナ側の資料が大きく食い違っており、近代イタリアの歴史学は双方の資料を比較検証してその経過を推測している。近年に提起された新しい成果をも含めて、私は注① の著書の第一章第四節でその要旨を紹介した。


⑬ ヴィッラーニの『年代記』の第6巻第65章に記されたこの事実は、なぜかしばしば無視されており、ナジェミーも触れていないようだが、高位聖職者を処刑したためにモンタペルティ戦争当時、フィレンツェのプリーモ・ポポロ政権とローマ教皇庁との関係は断絶しており、敗戦を天罰だと見なす説も出るほどであった。だから当時のフィレンツェを単純に教皇庁に忠実なグェルフィ党の都市だと見なしてはならない。またこの事実がその後のフィレンツェのローマ教皇庁との関係に重大な影響を齎し続けたことも確実である。



 要するに、 13世紀前半までのフィレンツェは、後世のような文化国家でもなければ、経済大国でもなかった。その証拠の一つとして後代にはあれほど多数の有名人を輩出させたにもかかわらず、この時期以前のフィレンツェから、世界史的な知名人はただ一人も出ていないという事実がある。ちなみに他のコムーネよりも大きな領域を有していて、地理的にもローマから遠くないにもかかわらず、このころまでローマ教皇をただ一人も出していない。フィレンツェから現れた最初の世界的知名人は、何といっても1265年生まれのダンテであろう。彼が著した『神曲』のおかげで、私達はまさに芋蔓式に、同時代とそれ以前のフィレンツェ人の名前を知ることができる。しかしそこで主役をつとめるダンテ自身と、(架空の人物だとする説もあるが)その恋人のべアトリーチェ、および登場人物がその名前を挙げている、1266年ごろフィレンツェ近郊で生まれたジョットをのぞくと、世界史的という名に値するフィレンツェ関連の知名人は皆無である。たとえばダンテの祖父の祖父にあたるカッチャグイダが列挙している、いにしえのフィレンツェの偉人たちのだれ一人をも、世界の一般の人々は知らない。先に記したブルネット・ラティーニやグイド・カヴァルカンティも、『神曲』に関連している重要人物ではあるが、公平に言って世界史的知名人とは到底認め難いはずである。ところがそれ以後の時代となると、フィレンツェ出身の公証人の息子で1304年生まれのペトラルカや1313年生まれのボッカッチョを始め、かなり芸術家や文学者にかたよってはいるものの、実業家や思想家や政治家から教皇などにいたるまで、フィレンツェに関連した世界史的知名人は続々と登場する。このことからも、13世紀後半のフィレンツェで重大な変化が生じていたことが推測できる。

 そこで13世紀後半に、フィレンツェでこうした変化が生じた原因は何であったか、という疑問が当然生じるはずである。ところが意外にも、私が『モンタペルティ・ベネヴェント仮説』を刊行するまでは、そうした疑問をまともに提出した人も、それに対して一応の解答を行った人も存在していなかったのである。まず第一にフィレンツェの歴史において13世紀後半の持つ重要性をはっきりと指摘した記述すら乏しかった。それまでに私が記して来たこととかなり内容的に重複しているにもかかわらず、私がわざわざナジェミーの一文を引用したのも、彼が大胆にも「劇的に」という言葉まで添えて、その事実をきっちりと指摘していることを評価しておきたかったからに他ならない。従来はその点が曖昧だったために、この事実に対する問いも生じず、当然それに対する一応の答えすら出て来るはずがなかったのである。といってもたとえばイタリア文学の出現と急激な発展に関しては、専門家の優れた研究の蓄積は存在していた。そうした研究の一つは、1260年から1280年にかけて、フィレンツェを中心としたトスカーナ地方では、詩人・文学者の数がその前の30年間(1230年から60年)に比して、何と7人から87人へと12.4倍もの急激な変化を示したという事実を指摘しているのである。ちなみにこの同じ20年間に、1266年のベネヴェント戦争の影響でシチリア地方などは12人から0人へと潰滅していて、トスカーナを除いたイタリア全土の総数が、52人から37人に減少しているにもかかわらず、(ただしボローニャ大学が存在し、グイド・グイニツェッリを中心にボローニャ派を生んだエミリア・ロマーニャ地方では3人から11人と約4倍増加しているのだが)トスカーナ地方だけが先に見たとおり12.4倍という、狂い咲きのような伸びを示していたのである。それに較べるとエミリア・ロマーニャ地方の伸びなどは、絶対数を比較しただけでも、取るにたらない出来事だと見なすことができる。私は今記したような中世とルネサンスのイタリア文学史の統計的研究の成果や、アメリカの『イタリア文学事典』に基づいて自分で作成した、イタリア国内における都市別の変化を比較することが可能な資料によって、フィレンツェ文学が離陸した時期を把握し、同時にフィレンツェ人たちが様々な分野で活動し始めたのも、おそらく同じ時期だったはすだと推測したのである。そしてこの時点に生じた重大な出来事といえば、1260年にフィレンツェ市民が大敗を喫したモンタペルティ戦争以外には考えられないという結論に達した。そこで私は文化的にも、経済的にもモンタペルティの敗戦がフィレンツェのその後の発展に決定的な影響を与えたという仮説を唱え始めたのである。

⑭  R. Antonelli e S. Bianchini Dal Clericus al Poeta,  in  “La letteratura italiana Vol.Ⅱ, Produzione e consume,  Torino 1983,  p.212の表参照。


⑮  P.Bondanella & J.C.Bondanella,  Dictionary of Italian Literature, Connecticut 1979.



 それ以後私は、この問題に関して、さらに視野を軍事、文化一般、経済、社会などへと拡大して、いくつかの論文を書き、それらをまとめて『モンタペルティ・ベネヴェント仮説』という表題をつけ、大阪外国語大学学術研究双書として刊行した。その後その内の一部を改訂して、『敗戦が中世フィレンツェを変えた―モンタペルティ・ベネヴェント仮説―』を再度刊行した。このように二度も世に問うたにもかかわらず、この仮説に対しては、私信の形ではいくつかの感想を受け取ったけれども、一度も公的な批評を受けた記憶はなく、完全に黙殺されたまま今日に至っている。もちろん黙殺されていることはやむを得ないとしても、単なる啓蒙書ではなく一応研究書として発表しているにもかかわらず、当然記載されているはずの中世とルネサンス期のイタリア史やフィレンツェ史に関連した文献目録からもほとんど常に無視され続けていて、これらの書物の存在すら認められていないというのが現状である。

⑯ 『モンタペルティ・ベネヴェント仮説―中世フィレンツェの驚異的発展の謎に挑む―』、大阪 1993、および本章注①)参照。



 ところで私が受け取った私信の一つで、私の仮説はハンス・バロンの説をさらに時代をさかのぼらせたものではないか、というご指摘を受けたことがあるが、フィレンツェ史の流れを均質なものと見ずにターニング・ポイントの存在を認めてその原因を探っていることや、戦争をそうした変化の契機と見なしていることなどで、二つの説の間にはそう見られても仕方がない類似点があるのかも知れない。しかし実情はダンテ研究から出発した私にとって、イタリア・ルネサンスの起源や人文主義の発展などという問題は比較的関心の薄い事柄であり、バロンの説を一応知識としては知っていても、個人的にその説から強い感銘を受けた記憶はない。私の仮説は、あくまでフィレンツェという異常に知的生産性の高い都市の特異性の起源を探求した結果であって、同じ発想に基づいて年代をさかのぼらせただけのものではない。もしもバロンの説が先にナジェミーが記した変化や、サポーリらの指摘している事実を説明するのに十分なものであれば、私はそれ以上付け加える必要を認めないが、残念ながら14世紀末の戦争で13世紀後半の現象を説明することは不可能なのである。

 それに二つの仮説の間には相違も大きい。第一バロンの説には、専制君主ジャンガレアッツォとの闘争という、ナチス・ドイツからの亡命者らしい、読者の正義感にアピールする要素があった。あの仮説があれほど反響を呼んだ理由の一つは、反ファシズムのレジスタンスを体験したり、共鳴したりした世界の知識人にアピールしたためではないかと思われてならない。それに対して私の説は、敵地に侵人して天罰のような敗北(奇しくもフィレンツェ市民は当時破門されていた)を喫した人々が、命からがら逃げ帰った後に繰り広げた必死の反応とその後の影響とを追及しているのであり、そこにはバロンの説のように読者にアピールする要素は皆無である。

 さらにもうーつ、より重要な違いが存在する。それはフィレンツェのジャンガレアッツォ・ヴィスコンティとの戦争が、モンタペルティ戦争のような敗戦ではなかった、という厳然たる事実である。といっても、フィレンツェが自力でジャンガレアッツォを倒したわけではなく、実情は敗戦寸前にジャンガレアッツォが勝手に死んでくれたおかげで辛うじてしのぎきったに過ぎない。それでも結果的にフィレンツェ市民は勝利者となることができ、数年後に敵の領土だったピサまで占領している。さらにハンス・バロンは、その勝利がフィレンツェ市民に自信を与えた結果、新しい芸術や人文主義を発展させたと主張していたのではなかっただろうか。戦争自体にしても迂闊に攻めこんで惨敗を喫するのと、粘り強く守り抜いて勝利するのとでは、まさに雲泥の差があることを認めざるを得ない。また勝利の結果、自信や発展が生じたとするバロンの判断は、誰の目にも論理的で妥当なものである。第二次世界大戦の勝利者アメリカとソ連が、その後の数十年間誇り高く世界を支配したことは、まだ記憶に新しい事実である。だからモンタペルティ戦争に惨敗して政権そのものが崩壊するという未曾有の悲惨な体験を味わったフィレンツェが、その結果繁栄したとする仮説には疑義が生じて当然である。

 実は私がこの仮説を唱え始めたころ、やはり同じような疑問を聞いた覚えがある。私はそうした疑問は当然だと受け入れる一方で、しかし敗戦が繁栄や発展につながる可能性は否定できないのではないかと考えていた。第一に私がこの説を唱え始めた当時の1980年代前半には、石油危機に代表される数々の危機を克服した日本経済が、本格的に軌道に乗り始めていて、戦前とは比較にならぬ発展を遂げていたからである。またそれよりもずっと早い1960年代後半のイタリアで、「イタリア経済の奇跡」 という経済ブームが起こったことを聞いており、おまけにその状況を描いた「甘い生活」という映画さえ見ていたからでもある。それに劣らず強い印象を受けたのは、小学生のころ着の身着のまま故郷の村の周辺の小屋に住みついたのを見た引き揚げ者たちの村落の平均所得が、寒冷地農法と集団出荷とをうまく組み合わせて従来の農家の平均所得を超えたという噂を大学院生時代に耳にしたことだったような気がする。空襲を受ける事さえなかった農村の子供にとって、村の周辺の小屋に住みついた満州からの引き揚げ者と空襲の罹災者たちこそ、まさに敗戦の象徴のような存在に見えたのだが、その代表的な敗戦の犠牲者たちが従来の農家以上に成功しているという噂は、万年学生の生活を続ける自分に得体の知れない衝撃を与えたような気がする。私はどうやらすでにそのころから、フィレンツェ史とは関係なく、勝利のみならず、敗戦にも繁栄や発展を引き起こす可能性があるのではないか、という疑問を無自覚に抱いていたようである。そして小沢征爾、五木寛之、赤塚不二夫・・・・・などと、ちょっと考えただけでも次々と思い出せる、引き揚げ体験を持つ極めて個性豊かな人々の活躍によって、敗戦という苛酷な体験がいかに人を鍛えるかを実例によって知り、おそらく同じことが歴史上にも発生しているに違いないと類推したためである。

⑰  たとえば、 G.プロカッチ著、豊下楢彦訳『イタリア人民の歴史』Ⅱ、東京1984、318ページ以下には「経済の奇蹟とイタリア共産党」という一節がある。イタリアから刊行された他の戦後史にも、常に il miracolo economico という章が設けられている。



 こんな風に書き進めると、当然13世紀と現代とでは余りにも異なり過ぎるではないか、という反論が生じるはずである。こうした考察は到底学問の名に値しないという人もいるであろう。しかし13世紀後半のフィレンツェの変化は、モンタペルティの敗戦を抜きにしては考えられず、20世紀後半の日・独・伊三国の繁栄も、1943年から45年にかけての三国の敗戦を抜きにしては考えられないのではないか。そこで敗戦が繁栄をもたらした場合それを一般的に「モンタペルティ現象」と名付けて、まとめて考察してみてはどうであろうか。モンタペルティという言葉はイタリア語で「開かれた山」を意味していて、敗戦が一国の行き詰まりを切り開くという意味で、まさにこの現象を象徴している名前だと言えるであろう。

 本論の場合、まとめて考察すると言っても、あまり多数の例を扱うことは困難なので、13世紀のフィレンツェと20世紀の日本の実例をモデルとして取り上げて考察しておきたい。まず次の第二章では両者を比較対照して両者の共通点をまとめ、この現象を発生させる条件の主なものを明らかにする。第三章では、この現象の発生を妨げたり見えなくさせている原因や、その後代への影響について主にフィレンツェ史を基にして考察し、またそれによって生じる恐れのある弊害をも指摘しておきたい。



「第二章 二つのモデルから見た「モンタペルティ現象」発生の条件」


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