語り手は(1-1)


語り手は信用できるか

岩田 強






目 次


第1章 韜晦としての技法

   ―ホーソン「ロジャー・マルヴィンの埋葬」の場合―

第2章 一の真実、九のたわ言

   ―ホーソン『ブライズデイル・ロマンス』の場合―

第3章 谷間から湿地へ

   ―ジョン・アプダイク『日曜日だけの一ヶ月』の場合―

第4章 飢えの始まるところ

   ―ジョイス・C・オーツ『大陸の果て』の場合―

第5章 森のなかのリンチ

   ―フォレスト・カーターの場合―

    



第1章 韜晦としての技法

―ホーソン「ロジャー・マルヴィンの埋葬」の場合―



                                      すべてさびしさとかなしさとを焚いて                  ひとは透明な軌道をすすむ                                                                          宮沢賢治



 ホーソンの短篇「ロジャー・マルヴィンの埋葬」(雑誌初出1832年、執筆はその前々年ごろ)にはどこか不可解なところがあると、わたしは長いあいだ思ってきた。あるひとつの立場に立って読めば、それなりの説明はつくが、どこか釈然としない感じが残る。また別の立場をとってみても、事情は同じである。そういうふうに、不可解さの源がつきとめられなかった。

 不可解さが端的に現われるのは物語の末尾の部分である。(1)「ラヴェルの戦い」で重傷を負ったルーベン・ボーンとロジャー・マルヴィンが居住地に向って森のなかを逃げてくる。ロジャーの娘ドーカスとルーベンは婚約中の間柄である。やがて死期が近づいたことを悟ったロジャーは、ルーベンひとりを落ちのびさせようとする。ルーベンは生きたいという願望と、戦友であり未来の義父となるかもしれないロジャーを置き去りにすべきではないという当為との板ばさみになって逡巡するが、結局ロジャーの説得をうけいれてひとりで出発する決心をする。出発まえルーベンは、ロジャーの頭上に聳える大岩に攀じて一本の若木にハンカチを結びつける。たとえロジャーを生きて救出できなくとも、遺体の埋葬のためにかならず戻ってくることをルーベンはそのハンカチにかけて心に誓う。(2)昏睡状態で救助されたルーベンの意識が正常に戻ったときにはすでに数日が経過していてロジャーの死は確実である。しかしルーベンは、父親の安否を気遣うドーカスに真相を打ちあけることができず、死んだ父親の埋葬をすませて来てくれたのだろうというドーカスの早合点を訂正することもできない。最後まで僚友に忠実だった男という評判が広がり、やがてドーカスと結婚するが、その根拠のない賞讃はルーベンの良心を疼かせる。埋葬の誓いを忘れたことはなかったが、件の評判ができあがっている以上いまさら埋葬隊を募ることはできず、かといって死者にたいする迷信的な恐怖から独りで出掛けることもできない。その懊悩のうちルーベンは暗鬱な人間に変る。十八年が過ぎる間に、ルーベンは社会的な適応力をなくし、家産を失い、裁判沙汰を繰りかえし、ついに破産、十六歳に成長した独り息子のサイラスと妻ドーカスとともに、開拓地のさらに西方の大森林のなかに新天地を求める他なくなる。胸に秘めた秘密と孤立した感情によって利己的な人間に変ったルーベンは、開花しなかった己の美質をサイラスのなかに投影し、妻にたいする以上の愛情を感じている。(3)三人は前秋あらかじめ定めておいた予定地に向かって森にわけ入るが、ルーベンは正体不明の力に引き寄せられて予定の進路をはずれ、五日目の夕刻、気づかぬうちに十八年まえロジャーと別れた場所に来ている。時節もちょうどあの事件のあった頃である。サイラスに続いて獲物を撃ちに藪にはいったルーベンは、深い物想いのなかで、その正体不明の力は贖罪の機会を与えようとする神慮だと確信する。そのとき藪蔭で物音がし、ルーベンは本能的に銃を発射する。倒れたのは獲物ではなくサイラスである。ルーベンはその場所に、十八年まえの大岩と、かつての若木が成長した樫の大木を認めるが、ハンカチを結んだ梢の枝だけは枯死している。(4)駆けよってきたドーカスに、この岩がロジャーの墓だと告げたとき、その枯れ枝が砕け散る。「するとルーベンの心は搏たれ、涙が、岩から涌く水のようにほとばしった。負傷した若者が重傷の男にたてた誓いは果された。彼の罪は贖われ、呪いは彼から去り、彼が自分の血よりも尊い血を流したこのときに、この年月ではじめて祈りの言葉がルーベン・ボーンの唇から天へ昇っていった」(67)。

①  テクストは、Hyatt H. Waggoner, ed., Nathaniel Hawthorne: Selected Tales and Sketches, 3rd Edition (New York: Holt, Rinehart and Winston, 1970)を使用した。

 テクストからの引用は、頁数に(  )をつけて本文中に挿入する。


 ロジャーにたてた埋葬の誓いとその履行、そしてその履行の遅延から生じた罪責感とそれからの解放、これらはすべてルーベン個人の問題だが、無関係な息子サイラスの射殺を契機に贖罪の実感に導かれるように描かれている。サイラスの死は偶然事なのか、それともなにかの意味が含ませられているのか。もし偶然であるとすれば、ただ射殺されて父親の贖罪の犠牲になるためにだけ登場し、それ以外の自己主張を一切しないサイラスのような機能本位の人物を駆使する作家の文学観はいかなるものか。もしなにかの意味がサイラスの死にこめられているとすれば、それはどのような意味か。

 ひとつの解釈は、このルーベンとサイラスの関係に宗教的な寓喩を読みとろうとするものである。罪を犯した者がその償いのために犠牲をはらう。聖書やギリシャ・ローマ神話からこれに類似する説話を引きだしてくることは、それらの伝統のなかにいる人間にとってはむしろ抑えがたい誘惑であるかもしれない。その伝統外にいるわたしたちにしても、神の試しにあって我が子イサクを燔祭として供ようとしたアブラハムの物語、人間の原罪を贖うため無原罪の十字架死を択んだイエスの物語、あるいは、知らぬ間に父親殺しと母子相姦を犯し、その穢れが民に及ぶのを恐れておのれの眼をくりぬいたオイディプスの物語などを思い浮かべることができる。イサクにしろ、イエスにしろ、オイディプスの両眼にしろ、無関係でしかも貴重なものが犠牲にされ、それによって神との和解がなりたつという点で、ルーベンとサイラスの関係を連想させないでもない。

 こうした宗教的解釈をとる評家のひとりW・R・タムスンは、作者がサイラスをイザヤ書のクロスに、ルーベンをクロスによって救われるイスラエルの民になぞらえていると主張する[W.R. Thompson, "The Biblical Sources of Hawthorne's 'Roger Malvin's Burial'," PMLA 77 (1962): 92-96]。タムスンはその根拠として、サイラス=クロス(Cyrus)という名前の一致をあげるとともに、クロスがイスラエルの民を導いて砂漠をぬけるイザヤ書四八章の一節「主は彼らのために岩から水を流れださせ、また岩を裂かれると水がほとばしり出た」と、物語の末尾「するとルーベンの心は搏たれ、涙が岩から涌く水のようにほとばしった」との類似を指摘している。タムスンはまた、「インディアン戦争の再発を予想するすべての人々は、サイラス・ボーンをその地方の未来の指導者と噂していた」(59)というサイラスの性格設定が、イスラエルの民の抱いていたクロス観(神の受膏者)に似ているとも述べている。

 一方、ルーベンについては、創世紀に出てくるヤコブの長子ルベンを連想させるという。たしかに、ヤコブの子供たちが末弟ヨセフの謀殺を図ったときにとったルベンの態度には、ロジャーやドーカスにたいするルーベンの態度と似通った性格がある。タムスンのあげていない類似の例をひとつ挙げれば、ヤコブがヨセフの未来を予言した言葉「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝はかきねを越えるであろう。射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました」(創世紀四九章)には、サイラスの運命に通ずるものがある。

 だが、こうした類似点を挙げてゆけばゆくほど、ひとつの疑問が生まれてくる。作中人物はただ断片的に聖書中の人物と似ているだけで、作中人物を丸ごと聖書中のだれかに同定することはできないのではないのか。タムスンの見解がもっとも明瞭に象徴しているところの、聖書や神話からこの作品を説明しようとするすべての解釈は、共通してこの弱点を孕んでいる。作者は聖書や神話からあるヒントは得たかもしれないが、そのヒントを核にして新しい人間像を築きあげた、そのヒントの出所を指摘することは有益だが、それだけでは作中人物の全体を把握できない。わたしたちがこれら宗教的な解釈から汲みとるべきことは、(1)ルーベンとサイラスの関係、作品のメインプロットには、聖書やギリシャ・ローマ神話を連想させる要素があること、(2)だが作者はこの作品で、宗教説話の翻案を目指しているわけではないこと、(3)したがって、聖書や神話の援用によってこの作品全体を説明することはできない、ということだけである。クロスやルベンの説話が伝承されている風土では、そのクロスやルベンの名前を作中に持ちこむことは、作品の暗示する幅をそれら確立された伝承全体の幅に広げる力をもっている。ギリシャ・ローマ神話やキリスト教という共通の基盤のうえでは、それは有効な文学上の技法であろう。わたしたちは各自の知識と好みにしたがって、連想された説話の含意や教訓をこの作品にまといつかせることができる。だが、そのまといつかされたもののすべてを作品が受けいれるかどうかは別問題である。連想のひろがりの幅と作品自体の幅はあくまで違うからだ。

 物語の末尾の解釈のいまひとつの流れは、ルーベンの心理に則して読むやり方である。埋葬の誓いを果していないという良心の呵責、ドーカスや世間に嘘をついているという罪責感によってルーベンの内面は蝕まれ、最後には自分の煩悶と関りのあることにしか興味のもてない<異常者>になってしまう。そのためサイラスを射殺しても、息子を殺した父親としての自然な感情が涌いてこず、そのような大きな犠牲を払ったことによって、埋葬の誓いを遅延してきた自分の罪は許されたはずだ、というふうに自己と神との和解にしか眼が向かなくなっている、という読み方である。この見方にたてば、サイラスの死はたんなる偶発的事故ということになり、作者はサイラスに救済者としての意味合いを負わせていない、そう思いこんでいるのはルーベンであって、作者はそれを客観的に皮肉な眼で見ている、ということになる。

 もっとも、こうした心理的な解釈にたちながらもフレデリック・クルーズは、サイラスの射殺は偶然ではないという[Frederic Crews, The Sins of the Fathers (New York: Oxford UP) 80-95]。クルーズによれば、森の中にロジャーを置き去りにするときのルーベンの「多くの他の動機」(テクスト51)には父親(権威の象徴)を殺したいという秘かな願望が混ざっていなかったとはいえず、その願望にたいする罪責感から、ルーベンのなかに自己処罰の欲求が芽生えてくる。ところがルーベンは父親殺しの願望もその結果たる自己処罰の欲求もはっきり自覚できないため、「自己を象徴するに至った息子」(クルーズ88)を殺害するという歪んだ自己処罰法しかとれない。「サイラスを殺すことでルーベンは自分自身の<罪ある>側面を破壊し、かくしてぎょっとするほど原始的な方法によってロジャー・マルヴィンの死に報いている」(クルーズ88)とクルーズは解釈している。

 この明らかにフロイトの『トーテムとタブー』を踏まえた解釈は喚起的である。四歳のとき父親を喪い、女系的な家庭で成長したホーソン、現存する最初期の作品「アリス・ドーンの訴え」で父殺しの幻想に悩む青年を描いたホーソン、そのホーソンと父性(の欠落)との関係は、ホーソンの作家論では見逃しがたい視点だろう。だが「ロジャー」(以下、作品名は「ロジャー」と略記)に関するかぎり、クルーズも暗に認めているとおり、ドーカスをめぐるロジャーとルーベンに性的敵対者を見たり、ロジャーにたいするルーベンの心理に父親殺しの動機を含めるのが作者の意図だったことを示す証拠はない。

 この点をのぞくと、クルーズの指摘はおおむね首肯できるものである。たとえば、ロジャーを置き去りにしたことで自己を責めるべき倫理的な根拠はなにもないのに、なぜルーベンが自責の念にとらわれるかについて、クルーズはその原因として、(1)ロジャーの「愛他主義」にくらべて「自分の自己本位な動機」が疎ましく感ぜられたこと、(2)そのためその自己本位な動機から眼をそむけようとして「半ば意識的な自己欺瞞」をおこなったこと、をあげ、「ひとたび(自己本位な動機の)抑圧が意識的な精神統御をだしぬくようになると、ルーベンは、思念を抑えこむこともまた意識のなかに引きだすこともできなくなったためその思念の犠牲者となる人間の古典的な典型になる」(クルーズ86)としている。ルーベンがロジャーを置き去りにしたことに関して責められる謂れもないのに罪を感じ、さらにドーカスヘの嘘が重なって暗鬱な人間に変ってゆく心理のメカニズムについてはクルーズの分析どおりであろう。

 クルーズの見解に疑問があるとすれば、ルーベンの心理面だけに焦点をあわせすぎている点である。クルーズは物語の末尾について、「無垢な息子を射殺することによってキリスト教の神と和解できるといった宗教的観念を、はたして真面目に受けとれるだろうか」(クルーズ88)とのべ、ここに宗教的寓喩を読む解釈を一蹴している。だが、イサクを燔祭として要求するキリスト教の神には、そのような苛酷な宗教的観念に通ずる側面がないだろうか。またもしこの宗教的観念が異端だとしても、いかなる異端思想を描くことも作家の自由であり、作家にその思想を表現する意志があるのであれば、それがいかに正統的でなくとも真面目にうけとめる他ない。問題はホーソンがなにを表現しているかであって、それが正統か異端かではない。わたしは、ホーソンが如上の〈異端的〉な思想をこの作品で表現しているとは思わないという点でクルーズに同意するが、この作品が誓いとその成就、罪と贖いといった宗教的意匠をまとわされていることも事実であって、クルーズの解釈が作品のその側面を軽視していることは否みえない。


 ここまでこの作品の宗教的解釈と心理的解釈をながながと検討してきたのは、それぞれが作品の一面を正しく衝いていると思ったからである。タムスンとクルーズはこの二方向を徹底して押しすすめて見せてくれた。わたしたちは彼らの指摘を部分的に正しいと認めなければならない。ただ彼らの説はどちらも、なぜこの相反する解釈が同じ作品から紡ぎだされ、しかもある程度までどちらも正当であるのか、という理由についてはなにも語っていない。わたしの考えでは、この相反する両解釈を使嗾し許容する二重的な作品構造のなかに作品全体の意味がかくされているのである。したがってわたしたちの関心は作品構造の二重性とその意味に向けられなければならない。

 わたしが宗教的解釈と呼んできたものは倫理的解釈と呼びかえてもよく、多かれ少なかれこの作品から寓意を読みとろうとする解釈をさす。ルーベンはロジャーにたてた誓いを果さず、さらにドーカスを欺くことによって悪を犯し、その悪の毒によって心身を蝕まれ、ついには息子の射殺という悲劇を招く。ここから神の罰を読みとることも、罪の贖いのための犠牲を読みとることも、また単に、悪は人間を破滅させるという道話を読みとることも可能だろう。いずれにしても、「たてた誓いは果さねばならぬ」とか「人間は嘘をついてはいけない」といった言葉に要約されるような寓意に一篇の主旨があるとする読み方である。

 このような読み方がでてくる理由は、ルーベンが誓いをたてる場面とそれを履行する場面とが作品全体のなかで大きな比重をしめているからだと思われる。物語はプロローグを除けば四つの部分から成りたっている(念のためいえば、この区分はわたしの個人的解釈によるのではなく、作者自身によって中断線ではっきり四分されている。梗概に付した数字はその中断線の位置を表わす)。扱われている実時間は、ルーベンが誓いをたてる第一の部分がせいぜい一,二時間、ルーベンの変貌を扱った第二部分が十八年、そしてルーベン一家が新天地を求めて大森林に分けいってからサイラスの射殺までを扱った第三と第四の部分が併せて五日間である。ところが分量的には、第一の部分と第三第四を併せた部分がほぼ同量で八・五頁と八頁、それにたいして十八年間を描いた第二の部分は五頁で、その三分の二弱にすぎない。このような構成はおのずから、誓いとその成就の両場面をくっきり対照的に浮びあがらせる。その他、冒頭と末尾の部分を、パーシー・ラボックのいわゆる「場面的」手法で描き、中間の十八年間を「パノラマ的」手法で描いた作者の視点のとりかた、冒頭においてルーベンがハンカチを結んだ若木が末尾では大木に成長しハンカチを結んだ枝だけが枯死しているという象徴的小道具の配しかた、また冒頭と末尾の事件の舞台を同一の場所とした設定の仕方、これらすべても誓いとその成就を強調する構成になっている。

 人物の大雑把な性格づけ、人物間の関係、事件の内容、事件の起こる場所、象徴的小道具、おおよその視点のとりかたなどは、作家が書きはじめるまえに、腹案の段階で、意識的に選択し計画し予定できる要素である。そしてそれらは、実際に書くという行為の過程で、修正され変形され削除され付加されるにしても、程度の差はあれ完成の時点まで保存されて作品の骨格(作品形態)【ストラクチャー】を決定する。もちろんわたしたち読者には、腹案の要求する素材をひとつひとつ文章化してゆく作者の文体(叙述法)【テクスチャー】とつきあうことしかできず、つまり、叙述法【テクスチャー】を通して作品形態【ストラクチャー】を把握するほかないのだが、にもかかわらずこの両者は本質的には別個のものである。作品形態【ストラクチャー】がより意識的な色彩の強いものであるのにたいして、叙述法【テクスチャー】は作家の意識ばかりでなく無意識をも色濃く反映している。作家が表現素材を扱う手捌き(叙述法【テクスチャー】)は、作家が実生活のなかで環界ととりむすぶ関係全体の反映であり、作家はその意識も無意識もひっくるめた形で環界とかかわっているからである

②  作品形態(ストラクチャー)と叙述法(テクスチャー)という用語は Hyatt H. Waggoner, Hawthorne Rev. ed. (Cambridge, Massachusetts: Harvard UP) 90-98から借用した。その中で ワゴナーは「ストラクチャーと私がいうのは、筋書とその各部分間の関係のことであり、文体(スタイル)すなわち筋書を提示する際の様式(マナー)と対照させている。後者を私はテクスチャ―と呼ぶ」と規定したうえ、この作品の意味はストラクチャーに多く担われ、テクスチャ―はあまり豊かでないと述べている。わたしの論考全体がこのワゴナーの見解への反論になっているはずである


 いま叙述法【テクスチャー】によって変形される以前の作者の腹案を発生期の作品形態【ストラクチャー】と呼ぶとして、この「ロジャー」のように象徴、視点、構成といった要素のすべてが整合性を示している場合、その発生期の作品形態【ストラクチャー】―作者の腹案―を推定することは比較的容易である。誓いとその成就をくっきり対照させるようにその場面を冒頭と末尾におき、その両者の対照を曇らせないように中間部を展開させる、というのがそれである。いってみればこの作品では発生期の作品形態【ストラクチャー】が無傷のまま保存されているように見える。そしてこの作品形態【ストラクチャー】があまりにも明瞭に眼につくという事実のなかに、読者を宗教的倫理的解釈に誘いこむ罠があるように思われる。すでに述べたように、作品形態【ストラクチャー】はかなりな程度まで作家が意識的に計画し予定することのできるものだが、寓意や理念もまた作家が意識的に選択できるものだ。いま誓いとその成就とを対照させる作者の意図が明白で、誓いの履行を遅らせ、妻を騙しとおす主人公に最愛の息子を射殺させるのが作品形態【ストラクチャー】の骨格であるとすれば、当然そこに、たとえば「隠された罪の報いは死である」といった作者の寓意が盛りこまれている、作者は主人公に否定的な倫理的判断を下していると読者は思いこんでしまう。このように、宗教的倫理的解釈は主として作品形態【ストラクチャー】に眼を向け、それに既成の寓意をまといつかせるところから生まれてくる。だがはたして作者はほんとうにルーベンに否定的な評価を下しているのだろうか。

 ルーベンという人物を扱う作者の文体【テクスチャー】は微妙をきわめている。たとえば冒頭の場面をみると、ここではルーベンとロジャーの会話を骨組みとし、それに両者の内面の心理描写を肉付けするという叙述法がとられている。会話を通じては、死期を悟ったロジャーが自分を置いてたち去るようにルーベンを説得するが、ルーベンがそれにあらがったこと、そこでロジャーは、自分の死を看とれば共倒れになる危険が大きいこと、ルーベンにはドーカスを幸福にする義務があること、もし早く救援隊を連れてくれば自分も救われること、などを理由にルーベンをさらに説得し、けっきょくルーベンも納得するまでの推移が「劇的」手法で提示される。いっぽう、心理描写によっては、主としてルーベンの心中に育ってゆく生への願望が伝えられる。つまり、作者は人物の行動と心理の両面が描ける全知の視点をとっている。したがって、もし作者にその意思があるのならば、語り手を通して、ルーベンにたいする倫理的判断を挿入することは可能だったはずである。だがじっさいにはそうなっていない。作者はルーベンの心の奥底にひそむ生への欲求を仔細にほじくりだしながら、それにたいする倫理的判断については否定的とも肯定的ともとれる微妙な態度を一貫させている。このことは、この秘められた欲求に冠せられる「利己的」という形容詞の使い方に端的に現われる。最初の例は、生きのびてドーカスを幸福にしてくれとロジャーが説いたあとのルーベンの心理描写のなかに出てくる。


 そのうえ、利己的な感情がルーベンの心のなかにまったく入りこもうとしていなかったとも断言できない。もっとも、それを意識したため、彼はいっそう熱心に仲間の嘆願に抵抗したのではあったが。  (49)                     


ここでは「利己的」という価値判断を含んだ言葉が、二重の壁によってその効果を弱められている。まず第一に、生への願望が利己的であるにしても、それを真に断罪できる人間はひとりもいないという常識によって、そして第二には、引用文の後半からみて「利己的」という判断があるいはルーベンのものであって作者のものではないかもしれないと思わせる表現によって、である。この表現では、その倫理的判断が作中人物と作者のどちらに帰属するか明瞭でない。そう考えてテクストを読みなおしてみると、作者が語り手として直接その価値判断を示しているようにみえるその他の二個所でも同じような相殺手段が講じられていることが分かる。

 ひとつは、早く救援隊を連れてきてくれれば自分の命も助かるかもしれないとロジャーがルーベンを説得したあとの叙述に出てくる。


 そうした根拠のない希望をほのめかしたとき、この瀕死の男の表情には思わず侘しげな微笑がうかんでいた。だが、その希望はルーベンに影響を与えなかったわけではなかった。たんに利己的な動機や、ドーカスのわびしい境遇でさえ、それだけでは彼もこんな瞬間に仲間をおき去りにする気になれなかったであろう。だが、マルヴィンの命を救えるかもしれないという考えに彼の願望がとびつき、救援を得られるかもしれないというそのかすかな可能性が、彼の楽観的な性格によって、ほとんど確信にまで高められた。

 A mournful smile strayed across the features of the dying man, as he insinuated that unfounded hope; which, however, was not without its effect on Reuben.  No merely selfish motive, nor even the desolate condition of Dorcas, could have induced him to desert his companion, at such a moment.  But his wishes seized upon the thought that Malvin's life might be preserved, and his sanguine nature heightened, almost to certainty, the remote possibility of procuring human aid.

 (50 下線・イタリックは筆者)


 この引用部では、「ルーベンに影響を与えなかったわけではなかった」が読者の視点をルーベンの心理にとび移らせる導入の役割をはたしている。したがって、下線・イタリックの部分はルーベンの内心に則したもの、描出話法に近いものとみることができる。そのため、その中に出てくる「利己的な」という判断も、語り手というよりルーベン自身の自己裁断を反映していると解しうる余地が残されている。

 もう一個所、冒頭の場面の最後でいよいよ立ち去ろうとするときのルーベンの心理を叙した箇所はどうだろうか。


「だがルーベン自身の運命も、次の日没まで手間どっていれば、同じこと【=ロジャーと同じく斃死する】になったに違いない。たとえ彼がそのように無益な犠牲を避けたからといって、だれがいったい彼を責めるだろうか。

But such must have been Reuben's own fate, had he tarried another sunset; and who shall impute blame to him, if he shrank from so useless a sacrifice?  (54)


 この引用の後半、セミコロンから後の部分では、急に未来時制が出現して、この部分もまた語り手がルーベンに扮役した描出語法と読める可能性を示唆している。もしそうだとすると、ここでは前二例とは逆方向の相殺が働いていることになる。すなわち、作者は一見ルーベンの行為を正当化しているように見えながら、じつはそれがたんにルーベンの自己弁護や自己正当化にすぎないかもしれないと思わせる、というように。

 この点に関連して問題になるのは物語の第二部分の次の個所である。


 ロジャー・マルヴィンを置き去りにしたことで非難を浴びる謂れはない、と彼は感じた。彼がそばにいて、自分の命を意味もなく犠牲にしたとしても、それはあの瀕死の男の最期の瞬間に、いまひとつの不必要な苦しみを加えるだけのことだったろう。だが隠しているということが、正当な行為に秘めた罪の効果を濃く負わせてしまった。そしてルーベンは、理性では自分は正しいことをやったと分かっていながら、発覚しない犯罪を犯した者を懲しめるあの精神的な恐怖を少なからず経験したのだった。    (57 下線筆者)


 下線の部分をルーベンに扮した描出話法とみることはできないから、ここでは作者がはっきりとルーベンの行動の正当性を認めているようにみえる。

 だが次のように考えてみることはできる。救助された後ルーベンを悩ませたことのうちには、もし自分が踏みとどまってロジャーを援けながら逃避行を続けていたならば、あるいは二人とも救われたのではないか、という疑いが含まれていたはずである。その可能性を見落したのは生きのびたい一心で利己的になっていたからではなかったのか、ルーベンはかならずやそう考えたに違いない。これはわたしの勝手の空想ではない。もしルーベンがそういう疑いに苦しめられなかったとすれば、この引用のすぐあとに記されている「観念のある種の組み合せによって、ルーベンは自分を殺人者と思いこみそうになるときもあった」(57)という状態になるはずはない。彼が苦しむのは、埋葬の誓いを果していないことばかりでなく、ロジャーの死を早めることに手を貸したのではないかという疑いのためなのだ。そうだとすると先の引用の下線部も別の意味をもってくる。ルーベンがロジャーのそばに残ることは、かならずしも二人の死を意味したのではなく、もしかしたら二人の生還を結果したかもしれない。その可能性(それはわずかな可能性だが、否定することはできない)を作者が見落していたはずはない。したがって、引用の下線部は描出話法そのものではないにしても、語り手の視点はかなりルーベンの立場に近づいており、視野が狭まっている。そしてその視野の狭まりの分だけ、ルーベンの正当性を語る語り手の客観性が弱められているのではないだろうか。

 このように見てくると、前記クルーズの「(ロジャー)遺棄の場面は、ルーベンの側に十分な正当性があるように描かれている」(クルーズ83)という意見や、「ホーソンは、ルーベンの外面的な行為の道徳的な<罪深さ>や<潔白>とは関りなく、ルーベンの良心が生みだす主観的な罪だけに関心を抱いている」(クルーズ82)といった意見はいささか修正する必要がでてくる。ホーソンがルーベンの主観的な意識のほうにより大きな比重をかけていることは間違いないが、同時にまた道徳というものが届きうる最深部に深い関心を寄せていることもたしかなのだ。ホーソンはその道徳と非道徳(不道徳ではない)の境界線で判断を保留ないしは韜晦しているようにみえる。だがこの問題は先でふたたび取りげる機会があるはずである。ここでは予想されるひとつの反論を検討しておこう。

 その反論とは、たとえ作者が語り手の直接的な判断という形ではルーベンを裁いてはいないにしても、ルーベンの言動や心理の描写自体、またロジャーとの対比のさせ方などによって暗黙の批判を行なっているのではないか、ということである。たしかにロジャーは自分の死にたいしてほぼ完全な諦念と達観に達しているように描かれている。「なにはともあれ、荒野のなかで息絶えるべくとり残されることは恐しい運命だった」(51-52)にもかかわらず、ロジャーが「人間の弱さ」(52)をむきだしにするのは、救助され回復したのち遺骨を埋葬しにきてくれと頼むときだけで、あとはため息や表情の陰りにほのかに現われるだけである。それにたいしてルーベンは、自分がひとりで立ち去るという仮定のうえに立つ「こんな淋しい場所で死が近づくのを待つなんて、なんて恐しいことでしょう!」 (49)とか「それにあなたの娘さん!―どうしてぼくはあの人の眼を見返せるだろう!」(49)といった言葉によって、思わずその秘めた生への願望をさらけだしてしまう。このルーベンの態度がいくぶん毅然としたところに欠けることは事実である。このような言動を記録しえたこと自体に、作者の暗黙の批判がこめられているという読み方もなりたちうるかもしれない。だがもう少し別の角度から見ることも可能である。

 冒頭の場面を虚心に読んで浮んでくるものは、愛他的な人格とエゴイスチックな人格との対比ではなく、中年男のしぶとさと青年のひ弱さの対照である。ロジャーが死を達観できるのは、その性格が愛他的であるよりは、年齢の然らしむるところととるほうが妥当だろう。なぜなら作者は、ロジャーを偏平的人物として提示する以上のことはしておらず、したがって彼の人格、性格については臆測の域を出ないからだ。それに対して、死の重さが年齢によって異なることは、「君は若い、君には命は貴い。君の最期の瞬間はわたしのそれよりはるかに大きな慰めを必要とするだろう」(49)とはっきり言及されている。ロジャーはルーベンに較べて人間洞察でも雅量でもはるかに立ち勝っているが、この場面にいたる彼の為人が不明な以上、その差が人格に帰着するとは断定できない。わたしたちが受けとるのは、中年と青年の一般化された貫禄の差といったものである。ロジャーは、ルーベンを説き伏せることをひとつの勝負とみる余裕すらもっている。説伏に成功したとき、「ロジャー・マルヴィンは勝利がほぼ勝ちとられたと感じた」(51)。この余裕綽々ぶりはむしろ反感をそそるとさえいえないだろうか。絶対的優位にたつ人間が相手の弱味を利用して自分の思いどおりに相手を動かすことを、ホーソンは非常な悪であると考えていた。たとえば『緋文字』のチリングワースは、「人間の聖域を侵し」「病める罪ぶかい心臓をニヤニヤ笑いながら眺めている」として、姦通を犯した牧師ディムズデイル以上の断罪を受けている

③  The Centenary Edition of the Works of Nathaniel Hawthorne, vol. 1 (Columbus,  Ohio: Ohio State UP) 194-195.


 もちろんロジャーに恫喝の意思がないことは明らかだが、彼の言葉が結果として恫喝になっていることは否めない。たとえば、若いルーベンを道連れにすることは自分の良心が許さないというときのロジャーの言葉「といっても、君の寛大な性質に利己的な動機を押しつけるのではないぞ。わたし自身のために立ち去ってくれ。君の安全を祈りおえてから、この世の悲しみに煩わされることなく我が身の始末をつける時がもてるように」(49)が、「利己的」な動機を自覚しているルーベンの心にどのように響くかは明らかだろう。あるいはまたルーベンが立ち去る決心を固めたあとの次の言葉はどうだろうか。「ドーカスにわたしの祝福を伝えてくれ。そして、わたしの最後の祈りはあの子と君のために捧げると言ってくれ。わたしを残したことで君に悪感情をもたないように言ってくれ」―ルーベンの良心は痛みを覚えた―「なぜといって、君が命を犠牲にしてわたしの役に立ってくれたとしても、それでは君が自分の命を軽んじたことになるのだからな」(52)。自分の命を犠牲にして相手を救おうとしている男の口から出たこの言葉は、ルーベンには表面の意味とは正反対の意味しか伝えまい。このときルーベンの心に、正直に実情を話せばドーカスから「悪感情」を抱かれるにちがいないという確信が植えこまれたことはたしかであり、それが救出後ドーカスに嘘をつく大きな原因になっていることもたしかである。このような心理の因果が明確にとらえられているため、ルーベンがそのとき自らにくだす「精神的な弱さ」(56)という評価が相対化される。ルーベンの隠しだてはなるほど「精神的な弱さ」に相違ないが、みすみす不利になることが分かっている事柄を告白できなかったといって、それを責めることのできる人間がいるだろうか、いるとすればそれは聖者か偽善者だけである、というふうに。

 ロジャーとルーベンのあいだにできあがっている関係をひと言でいうならば、見透し見透されることを軸とした暗黙の了解の関係だといえる。ルーベンは生への願望をロジャーに見透かされまいと努めながらも、それが成功しているかどうか不安に思っている。ところがロジャーは「君の寛大な性質に利己的な動機を押しつけるのではない」とか「ドーカスに悪感情をもつなと伝えろ」といった言葉を投げつけてよこす。ルーベンはすべてを見透されたと感じたはずである。しかもロジャーの言葉は、他人からみて自分がどのように見えるかについてルーベンが秘かに直覚していた予想を、見事に裏書きするものである。ルーベンは、自己にくだした利己的で卑小な人間という評価がそのままロジャーの背後にいる開拓地の住民全体のものであると短絡させたに違いない。ロジャーとの会話のなかですでに一種の予審をうけていたことが、生還後のルーベンの言動に大きな影響をあたえたはずである。ルーベンがすべてを見透されたと感じたことで、ロジャーは絶対的優位の位置にたつ。


「そして、ルーベン」と、ついに人間の弱さを表にあらわして、彼【ロジャー】はつけくわえた、「傷が癒えて疲れから回復したら戻ってきてくれ―この荒々しい岩のところに戻ってきて、わたしの骨を墓に葬り、祈ってくれ。」 開拓地の住民たちは、おそらく生者ばかりでなく死者とも戦うインディアンの習慣に由来したのであろう、ほとんど迷信的な敬意を埋葬の儀式にはらっていた。そして、「荒野の剣」に斃れた者を葬ろうとして命を犠牲にした例は数多いのである。だからルーベンは、帰ってきてロジャー・マルヴィンの葬式を営もうというその厳粛な誓約の重さを、身にしみて感じた。ロジャーが、別れの言葉で想いのたけを語りながら、もはや、いちはやく救助されれば自分の命を保つのに役立つかもしれないなどと若者を説得しなかったのは注目すべきこと(remarkable)だった。ルーベンは心のなかで、もはやロジャーの生きた顔を見ることはあるまいと確信していた。(中略)「それで十分だ」とロジャー・マルヴィンは、ルーベンの約束を聞きとってからいった、「行きなさい、君の成功を祈るぞ!」

              (52-53)


 これが暗黙の了解の完成された様相である。二度と会えまいというルーベンの確信を見透しているからこそ、ロジャーはあらためて説得の労をとらなかったのだろう。この時点で説得を蒸しかえせば、ルーベンに無用の反省を強いることになるのを知って自制した、remarkable(見事だ)はそういうロジャーへの作者の賛辞ともとれるが、むしろロジャーとルーベンのあいだに完全な暗黙の了解が成立していることへの作者の示唆ととるほうがあたっていよう。そうでないとその直後の「ルーベンは心のなか・・・」が生きてこない。主導権がまったくロジャーの手ににぎられているのは、ロジャーが見透かす側でルーベンが見透される側だからである。ルーベンとしては、自分の「利己」心を見透かしながらそれでも咎めないのはロジャーの寛大さだと思わざるをえない。その寛大さに甘える以上、その代償をはらわねばならないとも感じたはずである。ルーベンが埋葬の誓いの重大さを痛感するのは、迷信的な畏怖からばかりでなく、それがロジャーの寛大さに甘える代償という性格を帯びているからだ。

 だがロジャーが埋葬を要求するのはなぜ「人間の弱さ」なのだろうか。自分が死を確信していることをルーベンに悟らせたのが弱さなのだろうか。おそらくそれだけではない。ロジャーは、自分が命を犠牲にしてルーベンを立ち去らせることで、彼にたいして絶対的に優位な位置についたことを直覚している。さらに、その位置にいる自分からの要求をどうしても受けいれなければならない心境にルーベンが追いこまれていることも直覚している。したがって彼の埋葬の要求はその絶対的優位を利用したことになる。「人間的な弱さ」は、誰もが陥りがちなこうした微妙な心理の駆引きの悍ましさを指しているように思われる。

 冒頭の場面のロジャーとルーベンの関係は、本来孤立した個である人間がもたれあって類をなしている人間社会の縮図ないしはその最小単位といった観がある。個でありかつ類であることはすでに矛盾を孕んでいる。いいかえれば個としての利害と類としての利害はたがいに食いちがう要素を本来的に秘めている。いま、もたれあいを円滑ならしめるための規範を<道徳>と呼ぶとすれば、<道徳>は、ふだんはそう見えなくとも、必ず個の利害と抵触する面をもつ。そしてその矛盾があらわに露呈してくるのは、各自がおのれの個を守らねばならなくなる情況においてである。たとえば、相手が死ぬか自分が死ぬかという情況のなかでは、かりに一方が他方を殺したとしても、そこでは<殺すなかれ>という<道徳>は意味を失う、すくなくとも、意味が変る。ロジャーとルーベンの置かれた情況はいくぶんこの例に似ている。ここでは<人間はたがいに助けあわねばならぬ>という<道徳>はロジャーとルーベンの両者を同時に支配することはできない。なぜなら、ロジャーにとって<助けあい>は自分を放置させることによってしかできず、その場合ルーベンは<助けあい>をしなかったことにならざるをえない。逆の場合を考えてみても事情は同じである。<道徳>は、その類の規範としての本質上、それに関る個すべてに公平に通用しなければならないのだから、論理的にいえばここでは<道徳>はすでに破産し効力を失っていると考えなくてはならない。さきに触れた<非道徳>とはこのような状態をさしている。このような情況に陥ったときのいちばんさっぱりした態度は、人間は本来個であることを認めあって<道徳>を投げすててしまうことである。相手が死に自分が生きのこるのは、個として造物された人間存在の宿命と割りきれればよい。ルーベンが瀕死のロジャーをまえにして感じた後めたさの感情は、本来的には、病死する人間を看取る者がしばしば体験するある感情、自分が生きているという事実それ自体が、死んで存在しなくなってゆく者にたいする冒瀆であるとでもいったようなあの感情に近いものだ。だからルーベンの後めたさには本来倫理的な意味あい(利己的といった類の)はまったくなく、あえていえば存在論的意味しかない。

 だが、わたしたちがふつうやるのは逆のことである。さっぱりと自分を個の次元に引きもどすことはわたしたちにはできにくい。孤立した個として生まれ死んでゆくことは耐えがたく苦しいことだからだ。だからわたしたちは死んでゆくときにも類とのつながりを残そうとする。<道徳>の破産を確認しあうかわりに、なんらかの手段を講じて<道徳>を延命させようとするのはそのひとつの表われであり、ロジャーとルーベンがやっているのもそれなのだ。彼らがとる手段は時間の差を導入することである。つまり、ロジャーがルーベンを出発させることで現在助けあいの<道徳>を守るかわりに、ルーベンは埋葬を行なうことで将来その<道徳>を守ることになる。見透し見透されるという関係のなかで二人が暗黙に了解しあったのはこの<道徳>の延命である。すでに述べたように、この確認はロジャーの主導権のもとでとり決められたある意味では不公平な確認であり、また二人のおかれていた情況が<非道徳>のそれであることをルーベンの理性は承知している。だが生還したルーベンは、開拓民という類のなかで生活している以上、類の規範である<道徳>に束縛されざるをえない。周囲の人間に森のなかの<非道徳>の情況が伝えがたいからばかりでなく、ロジャーと交わした<道徳>延命の確認がルーベンの<倫理>(類にたいする個の関係の規範)のなかに内在化されてしまっているからである。

 このような一連の経緯のなかに作者はなにを読みとっているのだろうか。多くの評家はルーベンだけに焦点をあわせる。たとえば、クルーズは「半ば意識的な自己欺瞞」をいう。だが作者はここでルーベン個人の欠陥を語ろうとしているのだろうか。そのようには思えない。作者がロジャーの老獪さと無意識の恫喝を見逃していなかったことを忘れるべきではない。わたしの考えでは、作者はロジャーとルーベンの関係のなかに、善意悪意にかかわりなく侵し侵されあう人間関係の本質を、そしてルーベンのなかに人間が不可避的に孕まざるをえない「精神の弱さ」(56)を見ている。それを人間の「暗い必然」とみる眼を想定しなければ、すでにみてきたような形でルーベンに対する評価をあいまいにぼやかしてきた作者の態度が理解できない。作者もまた人間の一員として<ルーベン>を共有しており、したがってルーベンヘの評価づけは、人間性一般の、そして自分自身の評価づけという意味を帯びてくる。作者が二者択一的な態度がとれないのはこのことと関っている。作者にとってルーベンは(ということは、人間一般は、といっても、自己自身は、といっても同じだが)共感と嫌悪とのアンビヴァレンスをかきたてる対象なのだ。作者は「暗い必然」がひきおこす陰惨な様相をみすえながら、同時にその必然に翻弄される人間に価値判断をこえて同情と共感を感じているようにみえる。

④  ibid. 174. 『緋文字』のチリングワースがへスターに語る言葉。

「最初に間違った一歩を踏み出すことで、お前は悪の芽を植えつけたのだ。だが、その瞬間から、すべてが暗い必然となったのだ。わたしを傷つけたおまえに罪はない。ただ典型的な幻想にとらえられたということを除けばな。わたしだって悪魔みたいな人間ではない。悪魔の手からその役割を奪いとるようなことをしてきたとしても、だ。それがわれわれの宿命なのだ。」

 この「暗い必然」についてワゴナーは、「ルーベンの罪は、原罪と同じように、一連の誤った選択の結果であると同時に―矛盾した話だが―<宿命的な必然>の帰結でもあるのだ」と述べており、この点ではわたしの意見と一致する  (ワゴナー94)。


 率直にいって、わたしはこの「暗い必然」というホーソンの理念に強い関心はいだけない。結果からみてこの理念がホーソンの文学を狭いものにしたことは否定できない。必然をつよく意識しすぎるため、必然に抗う人間の一面には弱い表現しかあたえられないのである。たとえば、この作品でも、ルーベンはいったん罪責感を背負いこむと、それを払いのけるための努力はなにひとつしないまま悲劇的な結末まで突きすすむ。もちろんそれは作者がそうした努力に関心をはらっていない結果である。このことは短篇という制約のために起ったとは考えられない。ルーベンの同族であるディムズデイルを長篇という十分なスペースのなかで扱った『緋文字』においても、この点は変りがないからだ。必然(宿命)と人間との関係は、文学の世界に移して考えれば、作家と作中人物の関係である。人間は必然の奴隷だというホーソンの理念は、作中人物は作家の奴隷だという文学観に彼をひきよせる。人間の必然への抵抗に関心が薄いように、作中人物が作家の制約を破って活動することをホーソンは許さない。このような文学観がホーソンを必然的にロマンスという理念性の濃い文学へ赴かしめたのである。文学史のなかにホーソンを位置づければ、ロマンス文学からリアリズム、自然主義への移行の過程で挫折した作家といえようが、彼の文学観にはリアリズムや自然主義とは根本的に異質な要素がある。

 「ロジャー」に則してやや図式的にいえば、人間を「暗い必然」という次元でとらえる作者の理念が、作品形態【ストラクチャー】に反映されて悲劇的な結末をもつ寓話的なプロットを生み、人間の行動や心理の実態を価値判断をはなれて冷徹に直視する作者の眼が筆致【テクスチャー】を動かしてルーベンの言動のリアリスチックな定着に向かわせる。このことはまた、ルーベンにたいする嫌悪が作品形態【ストラクチャー】に流れこみ、共感のほうが筆致【テクスチャー】に作用してルーベンの弁護ないしは救抜をなさしめる、という面もあわせもっている。作者の内部の、本質的にあい矛盾するところのある理念家と観察者の衝突を止揚するためにとられたのが、作品形態【ストラクチャー】と叙述様式【テクスチャー】におのおの別の目的を担わせるこの二重構造の技法だったのではないだろうか。

  ここで予想される反論は、はたして作者は作品形態【ストラクチャー】と叙述様式【テクスチャー】を意識的に分離しているのか、それはたんなる結果にすぎないのではないか、ということであろう。たしかに、ある人間のなかの理念家的傾向と観察者的傾向は分かちがたいという意味では、この反論に同意してもよい。だがホーソンがこの点に関してかなりはっきりした方法意識をもっていたことを次の引用は教えてくれる。


 多くの作家は、ある明確な道徳的意図をことさら強調し、そこに自作の目的があると公言する。この点で遺漏のないように、筆者もひとつの教訓を用意した。すなわち、ある世代の犯した悪業はその後の各世代にまで及び、かりそめに得た利得もすべて失われて、ついには手に負えない本物の災厄になりはてるという真理である。そして不正な手段で手に入れた金や不動産は、不運な子孫たちの頭上になだれ落ち、それによって子孫たちは不具になるか押しつぶされ、ついにはその蓄財の山も四散して、もとの原子にかえってしまうことの愚かしさを、もしこのロマンスが人類に―いや、そのうちの一人にでも―信じさせることができれば、筆者は格別の満足をおぼえるだろう。だが正直なところ、こうした希望をほのかにでも抱いて得意がるほど、筆者は空想力にめぐまれていない。もしロマンスがほんとうに何かを教えたり、あるいは何か有効な作用をうむとしたら、ふつうそれは、いまのべた表面的な方法によるよりも、もっとずっと微妙な方法によってもたらされるものである。したがって筆者は、鉄串で突きさすように、いやむしろ、蝶をピンで刺しとめるように、この物語を情容赦なくその教訓で刺しとおし、かくして生命を奪うと同時に、見苦しくも不自然な姿に硬直させることは甲斐なき業と考えた。崇高な真理は、正しく美しく巧みに練りあげられれば、たしかに一歩ごとに輝きを増し、虚構の作品の最後の展開に有終の美をそえ、芸術的栄光を与えてくれるかもしれない。だがその真理が最後のページにきて、最初のページにおいてよりも、すこしでも真実性をますことはけっしてなく、より明白になることすらほとんどない。


 これはホーソンが『七破風の家』(1851)に付した序文の一節である。「ロジャー」からおよそ二十年を経たこの序文が、そのまま「ロジャー」の創作法の解説になりうるのは驚くにあたいする。作者自身による自作の解説はあてにならないという意味からいえば、たしかに『七破風の家』はこの序文の語調とは相違して「崇高な真理」の尻尾を引きずってはいる。けれども、ホーソンがここで「表面的な方法」と「もっとずっと微妙な方法」という言葉でいっているものが、わたしたちが作品形態【ストラクチャー】と叙述様式【テクスチャー】と呼んでいたものに対応することは間違いない。そして、「表面的な方法」によって組みこまれる「嵩高な真理」よりも、「もっとずっと微妙な方法」で実現される成果を重視していることも「ロジャー」を考える際暗示的である。ホーソンはその成果を、この引用のすこしまえで、「作家がおおいに恣意的に選択し、あるいは創造した環境のもとでの(人間の心の)真実を描くこと」だと述べている。作品形態【ストラクチャー】と叙述様式【テクスチャー】が別方向を目指すこの二重性が、宗教的倫理的解釈と心理的解釈を使嗾し許容する根本的な理由であることはもはや言うまでもないが、この『七破風の家』の序文は、作者が作品の寓意よりも「もっとずっと微妙な方法」で捉えた「心の真実」のほうを重視していることを明らかにしている点で注目すべきである。

 だが『七破風の家』序文が示唆するものはこれだけにとどまらない。不必要な教訓を他の作家の歩調にあわせて自分も用意したと述べる作者の態度は、暖昧で率直さに欠けるとさえ言えるのではないだろうか。そういう眼でみると、「ロジャー」のプロローグが意味ありげにみえてくる。

 一パラグラフだけの短いプロローグが告げているのは、これから語る物語が1725年の「ラヴェルの戦い」という史実に基づいているということだ。こうした性格のプロローグを置くことはホーソンが好んで用いたテクニックだが、それにはどのような意味があるのだろうか。このことはふつう、1830年当時のアメリカに虚構の作品を忌む風潮があり、作家たちは歴史を導入することで作品の現実性を保証しようとした、ホーソンのプロローグもその傾向の反映である、と説明されている。作品を史実でくるまねばならない文学的雰囲気とはどのようなものかという根本的な疑問をのぞけば、この説明で一応の納得はえられるのだが、この作品のプロローグにかぎれば、それでは尽くされない要素も感じとれる。

 プロローグの一節には次のように書かれている。「想像力の眼には、ある種の情況を合法的に(judicially)影のなかに投げ込むことによって、敵地の真只中で自軍に倍する軍勢と闘かった一小隊の英雄的行為のなかに、おおくの賞讃すべきものが見えてくるかもしれない。双方の示した隠れもない勇敢さは、武勇に関する文明人の観念に一致するものだったし、一、二の個人の勲【いさおし】(deeds)を記録したとしても騎士道そのものも顔を赤らめることはあるまい」(46)。だが、物語を読みおわった読者は「一、二の個人」のひとりであるルーベン・ボーンの言動のなかに「勲」と呼ぶにあたいするものは、なにひとつ見出せないだろうし、「騎士道」を赤面させるものを読みとる読者さえあるかもしれない。さらに先住インディアンと後から侵入してきた白人開拓民との、さまざまな意味で複雑陰惨なはずの争闘のなかから、白人小隊の「英雄的行為」だけを描きだして賞讃するのは、なにごとによらず価値判断を微妙に平衡させるホーソンには似つかわしくないことではないだろうか。結論を先にいえば、わたしはこのプロローグにホーソンの一種の韜晦を読みとるべきだと考える。あたかも作者自身の判断のようにみえて、じつはその判断の基準は当時の社会一般のそれに近いものなのではないだろうか。白人小隊の行動を「英雄的行為」とみなしているのは、作者というより当時の世間の眼なのではあるまいか。プロローグ全体の性格が先の説明のごときものであったとすれば、たんなる文学上のテクニックの次元をこえて、その内容まで時代の嗜好にあわされたとしても不思議ではない。

 では作者自身の判断や思想はどこに姿を現わしているのか。もちろん物語全体がもっとも雄弁にそれを示している。作者の眼は「英雄的行為」や「勲」とは正反対のものに注がれている。だがプロローグ自体にもその陰微なあらわれが見てとれないでもない。「ある種の情況を合法的に影のなかに投げ込む」の「合法的に(judicially)」という言葉にはおそらくだれでも奇異な感じをもつはずだ。あるいは「賢明にも(judiciously)」の意味をふくませているのかもしれないが、それだけではあるまい。対インディアン戦争の陰惨な「ある種の情況」を無視することにたいして作者は逡巡しており、そのため無視してよいという判断は自分のものではなく社会の意志=法だと転嫁するために「合法的に」なる言葉が用いられたのではあるまいか。そのように見るならば、文脈上「勲」としか読めないdeedsにも、主人公の無惨な「所業」の意味が隠されているのかもしれない。

⑤ ダブルディは「ある種の情況」が先住民と白人の戦争のある種の情況をさすと指摘しているが、作者の韜晦につながる要素を含んでいることには言及していない。Neal Frank Doubleday, Hawthorne's Early Tales, A Critical Study (Durham, North Carolina: Duke UP) 192 fn.


 作者の韜晦を示す傍証がもう一つある。デイヴィド・ラヴジョイの発掘した資料によれば、ラヴェル隊に所属していたファーウェル中尉とエリエイザー・デイヴィスが、物語の冒頭の場面のロジャーとルーベンと瓜ふたつの体験を現実にしたことが分かる。敗走してきたファーウェルが死期を悟ってデイヴィスを落ちのびさせたこと、デイヴィスがハンカチの目印を残したこと、ファーウェルがいったん去りかけたデイヴィスを呼びもどして身体の向きをかえさせたこと、それらすべてが資料に語られている。しかもホーソンはその資料が収録された本を「ロジャー」執筆の前後にセイラム図書館から借りだしているという。ホーソンは冒頭の場面を史実に忠実に再現したとみてよいだろう。

⑥  ibid. 192-194.


 さて、ここで気をつけるべきなのは、1830年前後の社会一般の「ラヴェルの戦い」の受けとめかたである。1825年にはその百年祭が催され、ボードン大学でホーソンと同学年だった詩人ロングフェローがその席上で献詩を朗読している。また同じころボードン大学教授アパム作詩の「ラヴェルの戦い」と題したバラッドが流行した形跡もある。次に掲げるのはその一節の素訳である。

⑦  G. Charles Orions, "The Source of Hawthorne's 'Roger Malvin's Burial.'" American Literature 10 (1938) 317.


 こちらへ来てくれ、ファーウェル、と若いフライは言った、

    な、僕は死にかけている。

  そこで、君にたいする愛にかけて頼む、

   死んで冷たくなったら、僕の骨を葬ってくれ。

 

 行って、僕の両親に会ってくれ、

   彼らに言ってくれ、君がそばにいてくれたと。

 彼らが泣いたら、慰めてくれ、鳴呼!

   そして落ちる涙をふいてやってくれ。

 

 ファーウェル中尉は彼の手をとり、

   首をかき抱いて、言った、

 勇敢な従軍牧師よ、僕が君のかわりに

   死ぬことを、天が許してくれるものなら。

 

 従軍牧師はファーウェルの胸のうえに

   血まみれて倒れ伏し、

 あとはなにも言わなかった、この言葉をのぞいては、

   「君を愛してる、戦友よ、達者でな」


 鳴呼!妻たちは髪をかきむしるだろう、

   子供たちは泣くだろう、「僕、悲しい!」

 ラヴェルの貴い犠牲で賄われた勝利の知らせを

   伝令が携えてゆくときには。


 ラヴジョイの資料のファーウェルがここではフライに、デイヴィスがファーウェルに変っているが、それには大した意味はあるまい。伝承の途中ですりかわったか、アパムが故意に変えたかであろう。問題はこの詩のセンチメンタルな調子である。この詩を受けいれた当時の社会の雰囲気が、ラヴェル隊を英雄視し、その戦友愛を美化するものだったことは想像できるし、それは「ロジャー」のプロローグの表面的な調子とも符合する。だとすれば、その雰囲気のなかで、史実を克明に再現しながら、僚友を置き去りにして生きのびた人間を主人公にした作品を書くことは、社会にたいする一種の挑戦になるだろう。この推測があたっているとすれば、プロローグがあたかも世間の動向に迎合するかのような体裁をもっていることも納得される。この作品の教訓的なプロットは、反社会的な主題をあつかうための隠れ蓑だったのではないか。

 韜晦的という観点からみると、ルーベン一家が新天地を目指して大森林に分けいってから、サイラスを射殺し、それをきっかけにルーベンが贖罪の実感をうるまでを扱った第三、第四の部分の描き方はことさらに興味ぶかい。この部分で作者がもっとも意を用いているのは、ルーベンの「心の真実」を描きだすことだが、作者はその目的に直線的に近づくことはしていない。まず開拓地を去るルーベン、ドーカス、サイラスの三人三様の別れの様子を簡単に説明したあと、一転して作者は、未開の原野をさまよいながら、やがてそこに築かれるべき強大な国家の始祖たらんという白日夢を語る「夢想家」に扮役する(59-60)。この夢想はルーベン一家の、ことに若いサイラスの、未来への期待の暗喩の役割をはたしているが、おそらく読者はここで多少なりとも石に躓くような感じをうけるはずだ。そのひとつの理由は、第一の部分で設定され、第二の部分でも押しすすめられてきたルーベンという主題がここで急に中断するからだ。

 いまひとつの理由は、第二部と第三部の冒頭のパラグラフまでの「パノラマ的」な叙法がここで変化しているからである。この白日夢に続いて、作者は、それまで点景人物にすぎなかったドーカスとサイラスの視点にのりうつる。「空腹にせかれると、彼らは立ちどまり、どこか清らかな森の小川の土堤で食事の支度をした。小川は、彼らが膝をついて乾いた唇で飲もうとすると、まるで恋人のはじめてのキスをうける乙女のように、甘くいやいやとささやくのだった」(60)。この叙述は、一見語り手の地の文のようにみえるけれども、その空想の質は明らかにドーカスのそれであろう。この部分にいたるまで、このような質の空想は皆無だったからだ。そして、サイラスの視点からは、彼の忠告にもかかわらずくりかえし予定の進路をそれるルーベンの様子が伝えられる。

 なぜ作者はここで視点や叙法を転換させたのだろうか。それまで副次的人物にすぎなかったサイラスとドーカスに新たな肉付けをほどこそうとしているのだろうか。だがサイラスは、いま指摘したように、ルーベンに側面から照明をあてただけで舞台から姿を消してしまう。またドーカスも、サイラスに較べればやや多くの筆がついやされているとはいえ、ほとんど大同小異の偏平的人物のままで終っている。あきらかに作者はドーカスとサイラスを、彼らに活躍の場を与えるという目的以外の意図で、作中に引きだしている。では、その意図とはなんだろうか。

 白日夢、ドーカス、サイラスの三つのパラグラフは、たとえば、サイラスはかくかくの白日夢を夢みた、ドーカスは若やいで乙女のような空想をたのしんだ、ルーベンはサイラスの忠告もきかず進路をそれた、といったように「パノラマ的」な視点にたって叙述しても、事実の伝達に支障はない。だから作者がここで狙っているのは、視点の転換自体がもたらす効果ではないかと考えてみることができる。いいかえれば、第二の部分でとられていた「パノラマ的」な視点が、これから先の叙述には不向きだと作者は判断したのではないか。「パノラマ的」な視点は、視野がひろく長時間の経過を見渡すことができる反面、作者の存在が読者の眼に明瞭に印象づけられるという側面をもっている。だが、先で採りあげるように、ルーベンが贖罪の実感をうる末尾の場面では、作者は表面に姿をあらわさないほうが得策なのである。夢想者、ドーカス、サイラスと三度にわたって視点をずらせば、それぞれの視点が相殺しあい、最後にルーベンの視点にとびうつったとき、その視点が相対化されるであろう。その相対化こそ、物語の末尾をあつかうのに適すると作者が判断した叙法だったのではないだろうか。

 夢想者、ドーカス、サイラスヘの視点の転換によって、読者はすでに、「パノラマ的」な俯瞰の高さから作中人物の眼の高さへの視点の移動にならされている。そのため、一行が五日目の夕刻に野営地をさだめ、サイラスが獲物を求めて森のなかに消えたあと、ルーベンがドーカスからその日が五月十二日(ロジャーの命日とおぼしき日)だと告げられ、その言葉に追われるように、まるで「狩人というより夢遊病者のように」(62)、物想いにとりつかれながら森に入っていくとき、読者はしぜんにルーベンの内面に身をおくことになる。ルーベンはその夢遊状態のなかで物音のした薮へ銃弾をうちこむ。藪蔭からは低いうめき声が聞こえるが、ルーベンはそのとき心に浮かんできたひとつの思い出に心を奪われて、うめき声には気も留めない。作者はここでパラグラフをあらためて、その場所が十八年まえロジャーと別れた場所であることをルーベンに確認させる。そのパラグラフの後半は次のようになっている。


 彼(ルーベン)が自分の血に染まった誓いの象徴を結びつけた若木が、大きく逞しい樫の木に成長し、成熟には間があるにしても、蔭なす枝をすでに見事にひろげていた。この木には、ひとつ、ルーベンを震えあがらせる風変りな点が見受けられた。中程と下の方の枝は生き生きと茂り、ありあまる枝葉がほとんど地面につくほど幹を縁どっていたのに、樫の木の上の部分は明らかに胴枯れ病におかされ、いちばん上の枝はしぼみ、ひからびて完全に死んでいた。ルーベンは、いちばん上の枝が十八年前まだ瑞々しく緑だったころ、あの小さな旗じるしがその枝にはためいていたのを思いだした。だれの罪がそれを枯らしてしまったのか? (64)


 ここでこのパラグラフは閉じられており、同時にこれが物語の第三部分の終りにもなっている。そのあとに置かれた中断線をふくむ空白はどのような効果をあたえるだろうか。

 すでに述べたように、空白後のパラグラフで作者はドーカスの視点にうつり、野営地にのこって食事の準備をしているドーカスを描写している。「彼女の森のテーブルは、大きな倒木の苔むした幹だった。彼女はそのいちばん幅の広い部分に純白のクロースをひろげ、開拓地での彼女の自慢の種だったピカピカ光る白目[しろめ]の食器を並べた」(64)、「若いときに習いおぼえた歌を口ずさむ彼女(ドーカス)の声は、そのリズムに合わせてうす暗い森のなかに踊るように響きわたった」(64-5)などが端的に示しているように、ドーカスは「家族の愛、家庭の幸福」(65)の象徴として描かれているが、やがて彼女は銃声を聞きつけ、その場におもむき、息子の死を目撃して、卒倒する。このドーカスの挿話がこの個所に置かれていることの効果は、ドーカスの明るさ、軽快さ、空想性によってルーベンの暗さを対照づけることだろうし、直後に起きる悲劇―夫による息子の射殺―をより劇的に強調する嵐の前の静けさとしての効果だろう。

 だが、私見によれば、この挿話がこの個所に置かれていることには裏の役割がある。かりにこの挿話をとりのぞき、ドーカスは食事の支度をしていたが、銃声を聞いてその場に駈けつけた、といった簡単な説明句で射殺の現場までドーカスを連れていったらどうなるのか。そうすると「だれの罪がそれを枯らしてしまったのだろうか」と、ドーカスがサイラスの死体のうえに泣きくずれる描写とがほとんど無媒介に直結することになる。この結びつき方はあまりに唐突すぎるから、どうしても作者はルーベンの心理の描写を挿入しなければならなくなる。だが、ドーカスの挿話をその中間に挿入すれば、その挿話を読む間わたしたちの注意はルーベンから外れ、その挿話が終ってルーベンが急に以下の告白をはじめても、さほど唐突には感じない。作者は内面的描写を行なうことなくわたしたちにルーベンの心の推移を納得させたわけである。これは多くの作家が用いるテクニックではあるが、いささか詐術めいたところがなくもない。わたしたちにはルーベンの心中になにかが起こったことは理解できるが、なにがどのように起ったかは知らされないからだ。

 これだけ念を入れて作者の位置をくらましたうえで扱われる大詰めの場面に裏がないとは考えがたい。本論冒頭の梗概と一部重複するが、物語の結末部分を引証してみる。


「この幅ひろい岩はおまえの近親の墓なのだよ、ドーカス」と夫はいった。「おまえの涙は、おまえの父親にも息子にもふり注ぐだろう」

 彼女には彼の言葉は聞こえなかった。受難者の魂の奥底から押しだされるような気違いじみた叫びを一声発すると、彼女は死んだ少年の傍に気を失って倒れた。その瞬間樫の梢の枯れ枝が、風のない空中にはずれおち、柔らかな軽い破片となって、落葉のうえに、岩のうえに、ルーベンのうえに、妻と子のうえに、そしてロジャー・マルヴィンの骨の上に舞いおちた。

 するとルーベンの心は搏たれ、涙が岩から涌く水のようにほとばしった。負傷した若者が重傷の男にたてた誓いは果された。彼の罪は贖われ、呪いは彼から去り、彼が自分の血よりも尊い血を流したこのときに、この年月ではじめて祈りの言葉がルーベン・ボーンの唇から天へ昇っていった。(67)


 罪を告白し贖いのための犠牲をはらうことによって許しの実感に到達するという告解の手順がすべて描かれてはいるが、もちろん作者がここで神の導きによるルーベンの救抜を表現しようとしているのでないことは、もはや贅言を要すまい。ルーベンが許しを実感したとしても、息子の射殺よりも積年の埋葬の誓いがはたされたことのほうに眼を向けるルーベンの異常さを作者ははっきり表現している。

 だが、まだその奥に、もうひとつの要素が隠されているのではないだろうか。それはルーベンの告白の暖昧さということだ。注意して読むと、ルーベンはなにひとつ告白していない。岩が父親の墓だと言っただけでは、生きているロジャーを置き去りにしたことはドーカスには伝わらない。しかもその告白が、息子の死にドーカスが茫然自失しているあいだになされたことを考え併せれば、その告白の不徹底さは明白だろう。告白というより新しい嘘をつけくわえたというほうが当っている。

 このように欺瞞的な告白をおこないながら、枯れ枝の落下という一自然現象に天啓を感じとり贖罪を実感するルーベンを作者はどのような感慨をいだいて見ているのだろうか。すでに指摘したように作者は表面から姿を消しているため確かなことはなにも分からない。だがここまで分析をすすめてきたわたしたちには、ロジャーを置き去りにした事実をあくまで隠しとおすルーベンの態度と、正体を隠して尻尾をつかませない作者の態度とに濃い類縁性を感じとらずにはいられない。ルーベンの告白は完結していない。だが、それをあたかも完結したかのごとく読者のまえに投げだし、見掛けとは裏腹なオープン・エンディングで物語を閉じたとき、作者の韜晦は完全に完成する。そしてこの韜晦の技法にかくれて作者は、自己の分身といえなくもないルーベンヘの愛憎なかばする感情を、おずおずとそしてのびのびと吐きだしているようにみえる。                    

(了)

(1977年執筆)


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