語り手は(1-2)



語り手は信用できるか

岩田 強


第2章 一の真実、九のたわ言

  ―ホーソン「ブライズデイル・ロマンス』の場合―



          跨いでも跨いでも計量できないものを

                     激しく無視できる

            ふりをしているだけではないかしら

                  

                   清水哲男「五月の人」



 ホーソンは『ブライズデイル・ロマンス』(1852)において、それまでの長篇では用いなかった新しい手法―語り手の一人称による語り―を試みている。作中のすべての人物、すべての事件が語り手の視点から観察され叙述されている。

 二〇名ほどの男女がユートピア的な共産農場ブライズデイルの建設に乗り出す。その中には、本篇の語り手である二流詩人マイルズ・カヴァデイル、文学的な著作もあり、女権拡張論者でもある黒髪の美人ゼノビア、犯罪者の更生に意欲を燃やす人道主義者ホリングズワース、催眠術師ウェスタヴェルトの被術者として予言者「ヴェールの女」を演じてきたプリシラなどがいる。プリシラはウェスタヴェルトの許を逃げ出してブライズデイルに身を隠しているのだが、やがてホリングズワースを慕うようになる(プリシラが「ヴェールの女」であることは物語の終り近くまで明かされない)。一方ゼノビアもかつてウェスタヴェルトと関係があったらしいのだが、今ではホリングズワースを恋している。ブライズデイル計画の非実際性を逸早く洞察したカヴァデイルは上記三人の関係に興味を惹かれてゆく。物語の中頃でカヴァデイルは、プリシラの作る財布を売り捌いている片眼の老人ムーディから、ゼノビアとプリシラがムーディの娘(異母姉妹)であること、ゼノビアの財産が実はムーディの物であることを知らされるが、彼はこの情報を胸に秘めておく。物語の終りの方で、プリシラは後を追ってきたウェスタヴェルトによって再度「ヴェールの女」を演じさせられかけるが、ホリングズワースが催眠術を破って彼女を救いだす。財産がムーディの物であることを知ったゼノビアはプリシラを愛しているというホリングズワースの告白を聞き、河に身を投げて死ぬ。ホリングズワースはプリシラと結婚するが、ゼノビアの自殺に衝撃をうけ、数年たっても犯罪者更生の計画は実現しない。最終章の末尾でカヴァデイルは彼自身プリシラを愛していたことを読者に告白する。

 ゼノビアとウェスタヴェルトの過去の関係とはどんな性質のものだったのか。ホリングズワースがゼノビアに接近し、その後プリシラと結婚したのは財産目当ての行動だったのか。プリシラがゼノビアを姉と知りながらそれを隠しているのは何故か。ゼノビアの財産に関する事実をホリングズワースは知るに至るが、いつ、どうやってそれを知ったのか。

 これらをはじめとして他にも数多く数えあげられる疑問が最後まで明確には解明されずに残るのは、語り手カヴァデイルが物語を叙述する際にとる態度とかかわりがある。彼は事件の渦中にいた時の自分の位置から見えた事柄のみを語る方針をとっているのである。この叙述態度をルイ・オーキンクロスが明快に説明している。


 この本は一人の語り手によって物語られるが、読者は事件が起きた時に語り手と共に居合せたならば知ることのできるような事柄しか知り得ない。マイルズ・カヴァデイルが読者と共に見聞する事柄とは無関係な知識は、たとえそれが彼の心の中にあるにしても読者には一切与えられない。もっとも公然の出来事についての知識ならば、読者はそれをカヴァデイルと共有できるし、作中の二人の人物、ゼノビアとホリングズワース、は世人の視線を浴びている存在として描かれている。更に、言うまでもないことだが、読者がカヴァデイルについての事実を知ることができるのは、この二人の人物が最初にそれら事実を観察するときである。  [Luis Auchincloss, "The Blithedale Romance: A Study of Form and Point of View." Nathaniel Hawthorne, The Blithedale Romance: An Authoritative Text Backgrounds and Sources Criticism. Norton Critical Edition, ed. Seymour Gross and Rosalie Murphy (New York: W.W. Norton) 389-395]


 この指摘はたしかにカヴァデイルの語り口の一面を正確に捉えている。カヴァデイルは事件当時の自分からは見えなかった不明の部分を事後の知識で埋め、事件を表面と裏面の両方から説明するという全知の視点をとっていない。その結果、私たちはこの作品を読み進みながら、不充分、不正確な知識だけを頼りに恣意的かも知れない判断を下しつつ生きざるを得ない己の実生活上の経験と同質の経験を味わされることになり、この点がこの作品の魅力のひとつなのだ。

 だがオーキンクロスがカヴァデイルの語り口の一面だけを強調していることも見逃すべきでない。物語には別の流れが底流しており、それを如実に示しているのは所々に挿入されている現在時制で語られる部分である。それらの箇所はこの物語が事件後「十二年以上」(216)たった時点での手記であることを示している。「語られた内容」【イストワール】から「語ること」【レシ】までの間に十二年以上の年月が経過している事実を見落すならば、この作品を正当に理解することはできない。なるほどカヴァデイルは事件の渦中にいた時の自分の情報量や感情や思考を再現しようとはしている。だが記憶が本質的に現在からの過去の解釈である以上、過去の正確な再現はありえない。カヴァデイルの語る過去の事件は、たとえ正確な再現のみが彼の意図である場合でも、必然的に実際の事件とどこかでずれを生じざるを得ない。

①  テキストとしては、Nathaniel Hawthorne, The Blithedale Romance, ed. Seymour Gross and Rosalie Murphy, Norton Critical Edition (New York: W.W. Norton)を使用した。

テクストからの引用はページ数を(  )に入れて本文中に挿入する。


 ここで、カヴァデイルの「レシ」が「イストワール」に対して如何なる関係にあるか、一例を挙げて検討しておこう。第一章、カヴァデイルはブライズデイルへの出発を目前にして、未来に不安を覚えながら、室内の酒類に別れを告げている。二六、七歳で安穏な独身生活を送っていた彼が、海の物とも山の物とも分からぬ理想主義的な事業に乗り出すに当って、勇躍と不安を二つながら感じたとしても不思議ではない。


 よりよい生活! おそらくそれが今からそう見えることはまずあるまい。その時になってそう見えればそれで十分だ。英雄的に生きることへの最大の障害は、自分の馬鹿さ加減を証明する結果になりはしないかという疑惑なのだ。真正の英雄性とはその疑惑に抗することであり、深到の英知とはその疑惑にいつ抗し、いつ従うかを知ることなのだ。だが結局のところ、人は自分の白日夢をその自然な終局まで追求することの方が、より利口だとは言えなくとも、より賢明ではあると認めようではないか。たとえその夢想が抱懐に価する物ではあっても、確実に失敗に終ることが明らかであるにしても、だ。それに失敗が何だというのだ!その果敢ない断片は、たとえ実のない物であるにせよ、実際的計画の重苦しい現実にはない、あるひとつの価値を持っているものなのだ。それらは心の屑ではない。だから、私が何を後悔するにしても、かつて私が世界の運命―然り!―世界の運命について高潔な希望を育み、その実現のため全力を傾けるだけの信念と力を持っていたという事実を、私の罪や愚行のうちに数えさせはしない。たとえ私のしたことが、暖かい暖炉を離れ、点けたばかりの葉巻を捨て、横なぐりの吹雪の中を市中の時計の音が届かぬ所まで旅立つだけのことであったにしても。  (10-11)

             

 この部分は現在形で語られており、読者はカヴァデイルの現在の心境としてこれを読むことになる。ここからは、カヴァデイルが滑稽に見えることを恐れる自尊心の強い人間であること、ブライズデイルの計画が失敗に終るらしいこと、それにも関らず彼は今もなお理想に賭けることの美しさを認めていること、などが分かる。オーキンクロスの主張とはちがって、カヴァデイルが物語の進展を先回りして暗示することがあるという事実はこの一箇所を読むだけでも分かるであろう。この引用部は全体として前半部の明るい決意表明の調子が、後半部の翳った調子を抑えているように感じとれる。

 次に第十九章から引照する。この時カヴァデイルはホリングズワース、ゼノビア、プリシラの三角関係に対する過剰な関心に倦み疲れて一時ブライズデイルを去り、ボストンのホテルに投宿している。偶然(?)彼は、ホテルの自室から、隣家の一室でゼノビアとウェスタヴェルトが言い争っている場面を目撃するが、ウェスタヴェルトにその盗み見を発見され、ゼノビアにカーテンを閉められてしまう。その晩彼はゼノビアの家を訪問し、彼女から私事の穿鑿を厳しく難詰される。彼はゼノビアがホリングズワースを恋しているのではないかと疑っており、一方ホリングズワースの計画(ブライズデイルの土地を買い取って犯罪者の更生施設を建てる)に道義的疑問を感じている。多義的な含みに富む見事な会話の一部で、カヴァデイルはゼノビアの愛情の深さを探るため、故意にホリングズワースを攻撃する(カヴァデイルは攻撃の意図について明言していないが、前後の文脈から判断して今述べたように理解する他あるまい)。


「かわいそうな奴ですよ! 狭い教育の欠点で(ホリングズワースは元鍛治屋で高等教育をうけていない―筆者注)、ただ一つのあの観念にあれほど一身を捧げ尽したとは気の毒ですな。とりわけ、ほんの少しでも常識というものがあれば、それが全く実行不可能であることに気付くはずなのですからね。(中略)」

 ゼノビアの眼から稲妻が走り、頬が朱に染まった(中略)が、すぐに波立つ息を静めて、以前どおりの誇りと自制をとり戻したように見えた。彼女は静かに言った。

「むしろ私にはホリングズワースさんの正しい主張を貴方が理解できずにいるみたいな気がしますわ。盲目的な熱狂や一つの観念への没入が凡人の体面にとって致命的であることや、それをそうでなくさせるためには高貴で強い性格が必要であることは私も認めます。でも偉大な人というのは―貴方にはお分かりにならないでしょうけど―一つの偉大な観念に感応することによってしか、その本来の状態に到達できませんのよ。ホリングズワースさんの一友人として、また同時に一観察者として、申し上げておかない訳にはゆきませんが、私には彼がそういう人の一人に思えますの。でも貴方が彼を滑稽だと思うのは無理ないわね。たしかに彼はそう見えるんでしょ―貴方にとってはね!個々人の中にある高貴で英雄的なものを試すものとしては、その人が英雄的行為と愚行とを区別する能力をどの程度持っているかを見ること以上に確実なものはありませんものね」    (153-154)


 第一章からの引用の冒頭部がこのゼノビアの言葉の終りの部分を少々言葉をかえて言い直したものであることは、二つの引用を読み較べてみれば瞭然としている。第一章を読んでいる読者には気付きようもないが、カヴァデイルはそこで、かつて自分に加えられたゼノビアの批判を反芻していたものと考えられる。英雄的行為と愚行とを識別できなかったのはホリングズワースなのかゼノビアなのか自分なのか。その問題をその時彼はどう考えていたのだろうか。その点を考えるためには最終章まで読まなければならない。続いて最終章から引用する。

 この時物語のすべてが終わっており、ゼノビアは自殺し、ホリングズワースはプリシラに抱えられなければ立っていられないほど衰弱し、犯罪者更生計画も実っていない。カヴァデイルはブライズデイルを脱退し、かなりの評価をえていた詩作も放棄し、人生に空虚を感じている。


 ホリングズワースがいつか言ったように、私には目的が欠けている。なんと奇妙なことだろう! 彼はその同じ要素の過剰のために、道義的に破滅した。だが、私は時折思うのだが、私の方はそれが不足していたため自分の人生を空虚そのものにしてきたのではないだろうか。私は断じて死にたくはない。だが、この混沌たる人間の競争場裡に、正気の人間の死に価する、そして私の死が役に立つ大義があるとすれば、その時には―もっともその努力が法外な骨折りを必要としない場合にかぎるが―その時には私も勇敢に命を投げだすだろう。たとえばコッシュト(ハンガリー革命の指導者―筆者注)がハンガリア人の権利のための戦場を我が家から楽に騎けつけられる位置に定め、戦闘の刻限として穏やかな晴れた午前を選んでくれるならば、マイルズ・カヴァデイルは喜んで彼の部下となり、水平に構えられた銃剣に向かって勇敢に突撃するであろう。それ以上のことを誓うのは御免である。 (226-227)


 ここまで読み進んできた読者は、はじめて、カヴァデイルが第一章の引用部を語りながら考えていたことをほぼ推測できる位置に立つ。ホリングズワースもゼノビアも英雄的行為と愚行が識別できずに破滅したり自殺したりした。一方カヴァデイル自身は、理想に賭ける意欲を完全に失っているのだから、英雄的に生きる資格自体持っていない。すべては幻滅であり、挫折である。これが第一章の引用部を語る時のカヴァデイルの内奥の想いであろう。

 第一章の引用部では抑圧されていたこの想いが、第十九章で幾分明確な輪郭が与えられ、最終章にいたってその全貌をあらわすわけで、ここにはひとつの動きが感じられる。その動きは、カヴァデイルの「語る内容」【イストワール】内部の動きとは別の次元の動き、「語る行為」【レシ】を行なっている現在の彼の心中にある、告白衝動とそれを抑制しようとする衝動とのせめぎあいから生まれてくる動きであって、読者はこの作品を読みながら、この次元を異にする二つの動きに注意を払わねばならない。「語る内容」【イストワール】の一部としては平板で弛緩しているが、カヴァデイルの内部の二つの衝動の葛藤という観点からみると緊張した場面というものがありうる。注意しなければならないのは、今検討した第一章の例からも分かるように、カヴァデイルの言葉そのものが、それを語っている時の彼の内奥の想いを押し隠す場合があるということである。その典型的な例をもう一例見てみよう。

 第二一章、ここは先に触れた、ゼノビアに盗み見を難詰され家から迫い出されるという挿話に続く部分である。ゼノビアの客間で彼はプリシラとウェスタヴェルトにも出会うが、三人の関係は謎のままであるあ。そこで酒場に出かけて、プリシラの作る財布を売っているムーディから真相を聞き出そうと考える。全体で八頁半の章の前半四頁半は酒場の描写(神技のようなシェイク振りを見せるバーテンダー、本物そっくりの料理の絵、酔客たちの態度、人生にとっての酒の意義についての議論、禁酒論者批判、店内の金魚鉢に酒を流しこむ空想など)に費やされていて、おそらく読者はカヴァデイルも酒を飲みながらムーディの出現を待ち構えているかの如き錯覚を抱く。だが章末から十行余り前にかすかな暗示「ムーディの服装さえも―ことに私自身が一、二杯グラスを呷ったあとでは―最初彼が腰をおろした時ほどむさくるしく見えなくなった」【下線部筆者】(167)があって、それまで彼が酒を飲んでいなかったことが明らかになる。この一文は皮肉な効果を上げていないだろうか。

 酒に酔わせて相手の秘密を聞き出す行為がいささか後ろめたいものであることは誰の眼にも明らかだから、その点に関してはカヴァデイルも言わば開き直っている。ムーディに酒を飲ませるに当っての彼の弁解「この老人の血には霜がおり、心臓の周囲には明らかに氷が張りついていることが痛いほど感じられるのだから、たとえそれが一時間しか続かなくても、わずかなワインの夏の温もりで彼を融かしだしてやることは、記録天使が私の罪として書きとめるべき事柄ではなかろうと思った」(165)は読者にとっても、また彼自身の良心にとっても、ほとんど弁解の体をなしていない。だが、ムーディから話を聞きだすまで頭脳を明晰にしておこうとして、飲みたい気持を抑え、禁酒論者を罵倒することでやっと気を紛らわしている用意周到で計算だかく少々滑稽な自分の姿ならば、隠しておこうとすれば隠しておける。じじつ彼は章の終り近くまで隠しとおしたのだが、先述の一文を口から滑らしため、せっかくの努力も水泡に帰してしまう。読者が感じとるのは、拙い弁解を前面に押し出し、いっそう羞恥をそそる自分の素顔をその背後に隠すというカヴァデイルの二段構えの細心さである。

 この箇所で、カヴァデイルが酒を飲んでいなかったという事実を意識的に隠そうとしていたかどうかは問題ではない。問題なのは、意識的かどうかとは関係なく、結果的に彼の表現が読者の誤解を誘うような性格をもっており、彼自身そのことを半ば認めているということである。第十五章でカヴァデイルは「深到の英知といえども、それを十分の九のたわ言と混ぜ合わせなければならず、さもないとそれを吐きだす息の値打ちすらなくなる」(120)という意見を述べていて、この英知を真実と置き替えてみれば、この言葉は彼の表現法―一の真実を語るのに九のたわ言と混ぜあわせる―の自己解説となっており、今述べた第二一章全体がその格好の見本であると考えることができる。


 このように韜晦的な「記述行為」【レシ】によって語られる「語られる内容」【イストワール】が額面どおりに受けとれるかどうか、はなはだ疑わしい。たとえば、物語全体に漲っている予言とその的中という要素をこの韜晦的な表現法と関連づけて考えたならば、どのような結論が出てくるだろうか。

 第一章の冒頭、カヴァデイルはブライズデイル計画の将来を「ヴェールの女」に占ってもらいに出掛けた帰途にある。「ついでに言うと、その返事はまさしく巫女的な特徴を備えていて、一見無意味に見えながら、詳しく調べてみると、様々な解釈がほぐれてくるといったもので、たしかにその解釈のうちの一つは現在までの成行きに合致しているのである」(6)。結局読者にはこの「解釈」が何か明かされず仕舞いになるのだが、このような情報の部分的開示の方法について、W・H・ワゴナーは、「正体を隠したままのものを導入するこの技巧が有効にサスペンスを盛り上げる、とホーソンが感じていると受けとってよかろう」と判断している [Hyatt H. Waggoner, Hawthorne: A Critical Study (Cambridge, Massachusetts: Harvard UP) 192]。だが、この物語がカヴァデイルの一人称による手記であることを考えれば、この技巧を用いているのはホーソンではなくカヴァデイルであると解釈すべきではないだろうか。それを作者ホーソンに結びつけるためには、別にいくつかの階梯を踏む必要がある。カヴァデイルがホーソンの自画像という要素を含んでいるため、短絡したくなる誘惑を感ずるのだが、私たちは物語に現われるすべての要素をまずホーソンによるカヴァデイルの性格造形の一部と解釈すべきである。この冒頭の予言の部分はおそらくメルヴィル『白鯨』の予言者を想起させるだろうが、イシュメイルが予言者の不吉な言葉を明記しているのと比較すると、語り手としてのカヴァデイルの率直ならざる性格が浮き彫りになるであろう予言者をいかさま師と考えるイシュメイルとは異なり、カヴァデイルが「ヴェールの女」の答えについてあれこれ思い廻らしていることも彼の性格の一面を暗示している(6)。

②  『白鯨』は1851年、つまり『ブライズデイル・ロマンス』の刊行前年、ホーソンヘの献辞をそえて出版された。当時二人の間には親交があった。


  予言と的中の例を多数の中から二、三引照してみる。第五章でゼノビアは、吹雪の中をホリングズワースに伴われて農場についたプリシラを見ながら、「この影のような雪娘は真夜中の鐘が鳴った途端、私の足元で融けて氷のように冷たい水溜りとなり、私は濡れたスリッパを残して彼女のために死ぬことになるでしょう」という空想を口にするが、物語の最後で彼女はプリシラにホリングズワースを奪われ、ハイヒールを水際に残して水死する。第六章、風邪をひいて寝こんだカヴァデイルは熱にうかされて「ゼノビアは女魔法使いだ、『ヴェールの女』の姉妹だ」というのだが、やがて「ヴェールの女」がプリシラで、ゼノビアの異母妹であることが明らかになる。第二四章、ボストンに滞在していたカヴァデイルは、ホリングズワースがウェスタヴェルトからプリシラを救いだすという事件のあった二日後、ブライズデイルに戻って行く。仲間に顔を合わせづらい彼が、それとなく農場の様子を探るため近くの森を徘徊しているうち、とある川辺で、どこかの悩み苦しんでいた人間がその場所で身を投げ、今も川底にその骸骨が横たわっているという空想を抱くのだが、その晩ゼノビアが投身自殺するのはまさにその場所なのである。

 これらの予言とその的中を額面どおりに受けとるならば、ゼノビアやカヴァデイルには超自然的な予知能力が備わっていることになる。はたして彼等は、神話やゴシック・ロマンス中の超自然的な人物として描かれているのだろうか。だがヘンリー・ジェイムズが「ゼノビアは人物造形へのホーソンの唯一の明白な試み」と断じているように、ゼノビアには超自然性は微塵もない。カヴァデイルの「彼女は女魔法使いだ」という言葉に対して、ゼノビアは「私は何であれ魔法のせいにすることを軽蔑します」(42)と答える。彼女の言行の端々から感じられるのは、合理主義的で無神論的な十九世紀人以外の何者でもない。

③  Henry James, Hawthorne (1879; Ithaca, New York: Cornell UP, 1966) 63参照。ホーソンの人物造形の試みについて筆者がジェイムズと見解を異にすることは後に触れる。


 プリシラについて言えば、彼女がブライズデイルに来るまえ、近所の人々から予言力があるという噂をたてられていたとカヴァデイルは語っている。だがその箇所(第二二章)は、事実に自分の想像を混ぜて語るとカヴァデイルが断った上での叙述であり、また予言力云々の噂の真偽も確かめられていない。カヴァデイルは何故かプリシラに予言力があると思い込んでいるのだが、その点に関して興味ぶかい場面が第十六章に描かれている。ブライズデイルを一旦去ることにしたカヴァデイルが仲間たちに暇乞いをする場面だが、彼は何かの不幸が起こるという予感を感じて、「うら若き女予言者」(132)と彼が思い込んでいるプリシラに何か感じないかと問う。


「まあ、少しも」とプリシラは心配そうに私をみて言った。「かりに何かそんな不幸が近づいているにしても、その影はまだ私には届いていません。ああ、そんなことがありませんように! 何の変化もなく、来る夏来る夏がみんな今年の夏のようであって欲しいわ!」

「ある夏が戻ってきた試しはありませんし、二つの夏が同じだったこともありませんよ」と、我ながら驚くような秘教的明察を幾分覚えながら私は言った。                           (133)


 この引用で、「秘教的明察」を感じているのがプリシラではなくカヴァデイルであることは興味ぶかい。プリシラが超自然力を発揮する場面は、この場面にかぎらず作品中のどこにもないのである。 

 これらの事実から抽きだされる妥当な結論は、カヴァデイルの中に予言とその的中に深く執する傾向があり、それが他の人物たちの上にまで拡張されているということであろう。では彼自身の予知能力は本物だろうか。私たちはここで、彼が一連の事件を十二年後に語っているのであって、結末に合わせて好きなだけ「予言」や「予知」を書き加えられる位置にいるという事実を思い浮べるべきである。彼が一人称による語り手という特権的地位にいてそれを自白していない以上、予言的要素を事後の創作と断定する根拠は私たちには与えられていない。だが、そのような創作をしたくなってもおかしくない心理的動機を、彼の中から探りだすことはできる。

 彼が次第にブライズデイル計画よりゼノビアたちの三角関係や彼女とウェスタヴェルトとの関係に興味を吸いよせられてゆくことは既に述べたが、彼は彼等に対する自分の位置を古典劇のコーラスの役割になぞらえ、その任務を次のように定義している。


 もっとも巧みな舞台監督たる<運命>が自ら背景を整え、その劇を上演しようとする時には必ずといってよいほど、少なくとも一人の冷静な観察者の存在を確保しておくと言えるかもしれない。その観察者の任務は、相応しい時に拍手喝采を送り、また時には止めがたき涙を流すこと、どの事件がどの人物に最終的に適しているかを見抜き、よくよく熟慮してその公演の教訓のすべてを抽きだすことにある。         (90-91)


 彼が本当に「冷静な観察者」であったかどうかは検討すべき問題を含んでいるが、少なくとも彼が自らを擬そうとしているのが「冷静な観察者」であることはたしかである。彼は隣りのホテルからの盗み見をゼノビアに見咎められた直後にも、自分には「疲れを知らぬ人間的共感力」(150)があり、さまざまな心事が理解できるのだから、ホリングズワースやゼノビアを見守る観察者としては最適任であるとゼノビアに力説している。もちろん彼がここで自己の観察者としての適格性を主張するのは、その場の情況に含まれるバツの悪さを塗糊するためであるのは明らかで、冷静な時には彼も「思索的な興味を掻きたてて私に人々の情熱や衝動を覗き見させる、本能と知性の中間にあるあの冷たい傾向が、私の心を非人間化するのに甚大な影響を及ぼしてきたように思えた」(142)と反省している。十二年後カヴァデイルは手記を綴りながら、自分のその詮索的態度に何らかの道義的判断を下す必要を感じたはずだが、彼の強い自尊心と、後ほど論ずるある理由のために、自分の非を認めることができない。勢い彼は自己正当化に向かう。すなわち、自分は本当にすべてを見通していたのであり、自分が<運命>の如く他人の心中を覗き見たのは正当な行為だったのだ、と自他ともに納得させようとする。これが予言とその的中にカヴァデイルが拘泥する心理的動機だと私には思われる。

 ついでまでに言えば、未来を予言できると主張する催眠術を蛇蜴視していたホーソンがカヴァデイルの予言と的中に執する態度に肯定的な意味を付していたとは考えにくいし、ホーソンの合理精神が超自然的な力を許容したはずもない。前記オーキンクロスは「読者とカヴァデイルの二重の視覚を使用することでホーソンが達成しているのは、それによって語り手と徐々に融合するという体験を読者に与えうるということなのである。人々はこの本を読みながら、実際にカヴァデイルに変身するという印象を幾分か抱く」(テクスト393)と主張しているが、本当にホーソンが意図したものは読者をカヴァデイルに「変身」させることだったろうか。これまで見てきた例から考えても、カヴァデイルの叙述の表面には現われていない何かを読者に察知させる手懸りをさりげなく埋めこんでおくという工夫をホーソンは怠っていない。ホーソンの意図はむしろ、読者がカヴァデイルと「融合」するのを隠微に阻止することにあると思われる。

④ ホーソンは婚約者ソファイア・ピーボディが催眠術によって持病の頭痛を治そうとした時、厳しく咎める手紙を出している。「一つの魂を別の魂に混入すること」は「個人の神聖を侵す」もの、というのが彼の反対の理由である。ホーソンの態度は『マリオと魔術師』を書いた時のトーマス・マンの態度と似ていて、催眠状態を純粋に人為的物理的現象として捉え、そこに霊性を読むことに反対している。彼の態度は合理的である。テクスト242-244参照。


 予言と的中に拘泥するカヴァデイルの心理的動機を探るなかで私たちに見えてきたのは、彼が十二年前の自分の言行に何かの疚しさを感じているということだった。その疚しさの原因を知ろうとする場合、すでに見た彼の二段構えの韜晦法を考慮に入れるならば、彼が半ばその非を自認している詮索的態度の奥にまだ何かが隠されていると思うのは深読みとは言えないだろう。それはむしろ彼の表現法によって読者が強いられる読み方である。

 物語の前半部において注意を惹くのは、カヴァデイルがゼノビア、ホリングズワース、プリシラに興味を惹かれてゆくその惹かれ方である。三人への惹かれ方には同一のパターンがある。急激に熱していって、やや常軌を逸する程度に至るというのがそのパターンである。ゼノビアヘの熱中は彼女への言及や夢想の頻度自体が雄弁に物語っている。ホリングズワースヘの傾倒は、彼が風邪で寝こんでいる間にその徴候が現われる。彼はホリングズワースの手厚い看病に感動して、「熱の出盛りの頃には、他の者は誰も部屋に入れないでくれ、手を握るなり言葉をかけるなり、またもしそれが良いと思うなら、お祈りを唱えるなりして、いつも私のそばに居ることを感じさせてくれ、とホリングズワースに懇願した」(39)という具合になる。カヴァデイルはそれを「あきらかに病気と衰弱が私を病的に過敏にした」(41)所為だと説明するが、回復後プリシラに関心を抱きはじめる時にも同じパターンが現われている。プリシラが最初ブライズデイルに登場した時、彼はほとんど彼女に関心を示さないし、その晩から二、三週間続く病臥中にも彼女が念頭に浮んだ形跡がない。五月に入って病床を出てから、彼は急に彼女に注目しはじめる。「今やプリシラはすごく可愛らしい少女になっていた。(中略)私たちの許に来た時には、彼女はまったく未成熟で漠然としていて実体がなかったのだから、私たちは眼の前で<自然>が一人の女を作りだす現場を目撃しているような気がした」(67)。彼女は活気に満ちて友達と躁ぎまわっている。「誰もがプリシラに親切だった。誰もが彼女を愛しており、彼女を見て笑った。だが彼女の面前で笑うだけで、背後で笑う者はなかった」。ところがカヴァデイルが彼女に示す態度は、「馬鹿げたことかも知れなかったが、私は彼女に説き聞かせ、幸福の貯えをもっと惜しみゝゝ使わないと長続きしないことを考えてそんなに陽気になるのは止せ、と説得しようとした」(70)というものである。カヴァデイルは一言も白状していないが、ここでもホリングズワースの場合と同様、独占欲に衝き動かされているように見える。

 これらの例から見てカヴァデイルには自分の関心のある対象を全面的に自分の物、自分一人の物にしておきたがる傾向が感じられる。逆からいえばそれは、相手が自分を全面的に受け入れてくれることを欲するということと同じである。「かくして<自然>は、その掟を私が人間としてさまざまに破ってきたにもかかわらず、私にたいして厳しい、それでいて慈しみぶかい母親のように振舞った。母親は子供が生意気をすると鞭をくれるが、その後で自分の厳格さを和らげるために微笑や接吻や玩具をその腕白小僧に与えるものである」(57)。彼がここで憧憬している自己と自然との関係―悪戯をすれば叱るが、それにもかかわらず無限に抱擁してくれる母と子の関係―は、彼が他者との間に築きたいと願っている理想の人間関係を暗示していると考えることができる。言うまでもなく彼が願っているのは子の位置に立つことであるが、このような言わば幼児的な心性が現実世界で生きにくさを強いられることは見易いことであろう。彼は第十四章で男女問題を論じているが、要約してみるとそれは次のようになる。過去数千年にわたって男性が支配の座についてきたが、「同性に支配されることは、私の嫉妬心をかきたて自尊心を傷つけるから、厭でたまらない」、むしろ「政治の全権」を女性の手に渡して、女性の前に拝跪する方がましである。彼が描く未来の理想社会では、「魂の牧者」は女性でなければならない。何故なら、男性の宗教者はイエス・キリストを除いて、女性が授かっているような純粋な「宗教的情操」を持っていないからだ。「私はいつも、あの柔和で神聖な<聖母>を信仰している点でカトリック信者を羨ましく思ってきた。<聖母>は彼等と<神>との間に立って、<神>の畏るべき光輝をいくばくか遮り、だが神の愛の方は、女性としての優しさを通じて、人間がもっと楽に理解できるようなやり方で、崇拝者たちの上に流してくれるのだから」(111-115)。

⑤  カヴァデイルの幼児性を指摘した評言を読んだ記憶があるのだがその所在がつきとめられない。F・クルーズはカヴァデイルの理想の女性像が母親にあることを指摘している。Frederic Crews, The Sins of the Fathers (London: Oxford UP) 194-212.


 カヴァデイルは女権拡張論に賛同する立場からこの議論を開陳しているが、彼が女性に求めているものは女権拡張論者の求めているものとはまったく違う。後者の主張が男性の諸特権を女性にも開放せよというものであるのに対して、前者は女性には女性固有の長所があると主張しているのであり、カヴァデイルの考え方からすれば、女性が男性化するのはその長所を溝に投げ捨てることに他ならない。彼が女性に求めているのは、弱肉強食の競争原理が支配する実社会の中で傷つき敗れた男性を優しく抱擁してくれることなのである

⑥  テクスト 38-39参照。 「兄弟愛という以上のホリングズワースの看護は私に言いつくしがたい慰めを与えた。ほとんどの男性は―そして私自身必ずしもその例外だとは主張できないのだが―病気や弱点やなにかの不幸のために、私たちの利己的な生活の荒々しい押し合いの中で躓いたり気を失なったりした人間に、完全な故意とまでは言わないにせよ、自然ゞに冷淡になってゆくものである。(中略)だがホリングズワースの大柄なたくましい体格の中には女性的なものが幾分組みこまれていた。」 カヴァデイルが現実社会を弱肉強食の世界と見ていること、そして彼がホリングズワースに求めているのは父性ではなく母性であることが分かる。


 彼がホリングズワースやプリシラに示す独占欲の背景には、おそらくこれだけの事情が隠されている。ゼノビア、ホリングズワース、プリシラヘの関心が踵を接して連続的に生じていること、そして当面の対象から拒絶されたという印象を抱くのとほぼ同時に次の対象に関心が移っていることは興味ぶかい。ゼノビアは急進的な女権拡張論者らしくカヴァデイルの理想とする女性像(無限に抱擁してくれる聖母像)から程遠い存在で、彼は最初からゼノビアに拒絶されたと感じている。ホリングズワースは、彼の病臥中はその手厚い看病によって彼の独占欲を満たしてくれたが、犯罪者更生への激しい情熱と意志が明らかになるにつれて、むしろガヴァデイルの方が独占されかねない情況が明らかになる。そしてカヴァデイルがプリシラに興味を惹かれはじめるのは、ゼノビアとホリングズワースの強い結びつきを彼が感じとった直後である。これらの事実は、この時期のカヴァデイルに強い愛情飢餓があり、それが彼の幼児的な心性を露呈させたことを推測させる。ある対象があって愛情が生まれるというのではなく、初めに愛情の飢渇があり、その飢えを満してくれる相手を次々に物色したというのが事実であったとするならば、四〇歳をこしてこの手記を綴っているカヴァデイルにとって、過去の自分のその姿にはいささか差恥心をそそるものがあるであろう。


 だがカヴァデイルの愛情飢餓には幼児心性の発露以外の要素が考えられなくもない。それは性的な飢えである。もちろん彼は自分が性に飢えていたとは一語も語っていない。だがゼノビアにたいする彼の夢想が性的な色合いを濃く帯びていることは誰の眼にも明らかである上、次に引照する箇所を抑圧された性欲と切り離して考えることは不可能であろう。それは第十二章に出てくる森の中のカヴァデイルの「草庵」―葡萄の蔓がからみついたストロブ松の樹上の枝と葉に囲まれた空間―を叙した部分である。


 野性の葡萄蔓が(中略)その木に絡み巻きつき、ほとんど全ての枝に巻きひげをもつれつかせたあげく、三、四本の近くの木にもとりついて、その茂み全体と絡みあってほどきがたい複婚の絆で結びついているのだった。(中略)深々と奥まった空ろな寝室が腐った数本の松の枝の間に出来ており、その枝を蔓が愛しむように抱きしめ、木の葉でできた宙空の墳墓の中に埋めこみ、日の光を遮っているのだった。(中略)もし縁あって私が蜜月を過すことがあったならば、花嫁をここに招待することを私は真剣に考えたであろう。 (91-92)


 くどいほど繰り返される抱き合った肉体を暗示する表現、絶頂後の虚脱感を暗示する「宙空の墳墓」、そこから蜜月への唐突な飛躍。これらを単に擬人化と呼んで済ませることはできないだろう。抑圧され吐け口を求める性欲が触目の事物の上に性交を幻視していると理解すべきである。カヴァデイルはここでも、その「草庵」が詩作や随筆の想を練るのに適した場所で、「私の個性を象徴し、それが犯されないようにする上で役に立った」(93)と上品に説明しているが、彼がそこで肉体的快感に酔い痴れていることは、「森の心地よい匂い」や「樹々の香りの混りあった複雑な匂い」や「燦々と降りそそぐ真昼の陽差しの肉感的な影響力」のために、「英雄的行為のもつ道徳美への不信感」や「世界の為に尽そうという努力が愚劣であるという確信」を感じたと述べていることからも明らかである。一言でいうならば、カヴァデイルの「草庵」は、彼が主張する知的営為の場所というより、精液の匂いのする独身男性の部屋を思わせる。

 このことはゼノビアの前にいると自分たちの「英雄的な計画」が「幻影、仮面舞踊会、偽りのアルカディア」に見えてくるというカヴァデイルの抱く印象(20-21)を理解する手懸りを与えてくれる。そこでも彼は「私はこの印象を分析してみようとしたが、あまりうまく行かなかった」と言葉を濁している。だがゼノビアの官能的肉感的魅力の方が新社会建設という空想的理想よりカヴァデイルには実感として迫ってきたと考えるならば、この二つの例は瓜二つのように似ている。

  このように見てくると、ブライズデイル入所直後のカヴァデイルが性的に過敏な状態にあったという推定には相当の根拠がでてくるだろう。周知のようにブライズデイルはウェスト・ロクスベリー協会のブルック・ファームをモデルにしている。ブルック・ファームはホーソンの脱退後次第にフーリエ主義の色彩を強めたと言われているが、フーリエ主義が追求したものの一つは、人間の諸情念の解放であり、新しい男女関係の模索だった。ハンス・ヨアヒム・ラングは「『ブライズデイル・ロマンス』―その思想史的研究」(テクスト 324-337)で、豊富な資料を駆使しながら、ブルック・ファームの男女関係とそれにたいする周囲の社会の反応を考証しているが、彼によれば、「世評ではフーリエと<自由恋愛>は結びついていた」のであり、実際その見方を裏付けるような雰囲気がブルック・ファームにあったという。勿論ブライズデイルはブルック・ファームそのものではない。だがカヴァデイルの次の言葉「ブライズデイルでは<黄金時代>風な穏かな情愛【女性が存在しなかった黄金時代の、性愛を含まぬ情愛―筆者注】が好まれる一方で、適不適や思慮分別についての他所の判断にはお構いなく、男であれ女であれ、誰が誰を愛してもよいと思われていた。したがって私たちの間では、穏かなものから毒々しいものまでさまざまな程度の恋愛感情が渦巻いていた」(67)は、この面でブライズデイルがブルック・ファームと同様の雰囲気を持っていたことを推察させる。つまりそこは、二六、七歳の独身男性がその種の期待をいくばくか胸に秘めてやって来ても不自然ではない共同体だったのだ。

  だが実際の生活が始まると、激しい労働と固定してくる人間関係によって、浮遊する期待や性欲も次第に常態へと鎮静してゆく。この作品の第十三章以後、つまりブライズデイル生活の開始から三ケ月ほど経過した時期以後で、カヴァデイルの叙述から急速に性的色彩が薄れて行くのははなはだ暗示的である。たびたび操り返すように、カヴァデイルは自分の性欲について一言も語っていない。だが常識的に考えてみて、二六、七歳の独身男性がブライズデイルのような自由恋愛を許容する閉鎖的共同体に入ってゆく場合、その性欲面にいま述べたような変化が起こる可能性はたかい。一方にそうした常識論をおき、他方にその常識と符合する作品前半部の動きをおいてみるならば、カヴァデイルがそこで持ち前の韜晦的な表現法にかくれながら性欲の問題を扱っていると考えてもあながち牽強付会とはいえないだろう。ある時期の自分の言動がサカリのついた犬猫のそれだったと認めることは、誰にとっても気持のよいことではない。だがすべての人間が生涯に一度はそのような時期をくぐるものであり、性の問題を看過してはその時期を正当に理解することができないことも明らかである。中年に達したカヴァデイルが三〇歳前の自己の行動に性の力が影響していたことを認めるのは、むしろそうでなければおかしいほど当然のことである。


 物語の後半部にはいってから前面に出てくるのは三角関係の問題である。叙述の表面を辿るかぎり、ホリングズワース・ゼノビア・プリシラの三角関係をカヴァデイルが傍観者の位置から観察し物語る形で話が進められている。彼はたびたび他人事に深く執着する自分の心事を語っており、そこから彼を冷淡で非行動的な傍観者とみる多くの説が生まれてくる。しかしながら、カヴァデイルが前記の三角関係をただ傍観しているということが果して言えるだろうか。言えるという人々は次に引用する箇所をどのように読むのだろうか。それは、ブライズデイルの森の中を四人が散歩中、ゼノビアがホリングズワースの手をとって自分の胸にあて、その動作を感じとったプリシラが急に意気消沈するという場面(第十四章)である。地上に映るゼノビアの影からカヴァデイルが曖昧に感じとったところでは、ホリングズワースの手を離した直後、ゼノビアは苛立たしげに全身を震わせている(116)。読者に推測できるのは、ゼノビアの愛情表現にホリングズワースが積極的に応じなかったらしいということである。そしてプリシラが意気消沈するのは、彼女がゼノビアの動作の前半しか感じとらなかったことを意味しているだろう。これはカヴァデイルには有利に利用できる情況である。なぜなら、ホリングズワースとゼノビアが愛しあっているというプリシラの誤解に乗じて、彼女の心をホリングズワースから引き離すことができるかも知れないからだ。そこで彼は、ゼノビアは最初あなたに不親切だったが、今ではあなたを愛している、でも「今この瞬間にあなたはゼノビアを親友と感じますか」とプリシラに問う。プリシラはその意地の悪い質問に深く傷つけられるが、ゼノビアを愛していると答えざるをえない。カヴァデイルは並んで歩くホリングズワースとゼノビアを指さしながら、二人は仲がよい、ホリングズワースにゼノビアのような美しい友人ができたのはよいことだと追い打ちをかける。その後に現在時制による次のような説明が来る。


 私の言葉には一寸とした悪意が籠っていたかも知れない。寛大さは場合によれば、そしてそれなりの限界内にあるならば、素晴しいものである。だが、ある男がすべての女性の想いのたけを独り占めにし、凍えている友人を独りぼっちで外に置き去りにした上、運のよい方の人間が拒絶したもので自らを慰めるという替りの道すら残しておいてくれないことを眼にするのは、耐えがたいほどいやなものである。       (117)


 回りくどい言い方ではあるが、汲みとるべきことは汲みとれるように説明されている。ホリングズワースがゼノビアに愛されている動かぬ証拠を見せつけられて、せめてそのお余り(プリシラ)で我慢しようとしたのに、そのプリシラさえ言うことを聞いてくれず、ホリングズワースに惹かれている。自分の態度が悪意に満ちて醜悪なことは分かるが、こんな立場におかれたら寛大になどなれはしないのだ、とカヴァデイルは訴えている。明らかにこれは三角関係の当事者の言葉であって、局外者や傍観者のそれではない。カヴァデイルは求愛者として現実的な行動をとっていない、故に彼を含む三角関係は成立しないといった議論は恋愛心理を無視するものであろう。彼が一見したところ少しも行動せず、ひたすら傍観しているように見えるのは、プリシラのホリングズワースヘの思慕があまりに明らかなため、行動をおこす気勢をそがれているためのように思われる。彼がここで猪突しないことを理由に、彼を臆病とか非行動的と決めつけることができるだろうか。ある日本の思想家が、恋愛の中でもっとも難しいのは三角関係であり、その難しさは相手を殺すか自分が死ぬしかない三角関係の本質に由来すると喝破したことがあるが、カヴァデイルが置かれているのも本質的にはこれとまったく同じ情況である。私の考えでは、カヴァデイルは物語の後半部においてこの三角関係の本質に則して行動している。すなわち、そこでの彼の行動は、自分とプリシラのまえからホリングズワースをとり除くという動機によって統一されている。

 繰りかえしになるが、カヴァデイルはプリシラ・ホリングズワース・ゼノビアの三角関係にたいして自分は「冷静な観察者」の位置にあったとだけ主張していて、今述べた動機をはっきり肯定している箇所はない。その様子は、いわばすべての情況証拠が揃っているのに自白しようとしない被疑者のそれに似ているといってもよい。私の考えでは、カヴァデイルの個々の箇所での行動を繋ぎあわせていくと、傍観的な観察者という彼の言表とは相違して、三角関係の当事者としての彼の姿が明らかになるように思われる。この作業仮説がどれだけ信憑できるかは、個々の事実について検証してみればすぐ分かる。

 カヴァデイルは八月に一旦ブライズデイルを去ってボストンのホテルに投宿する。その理由として彼が公言しているのは、その直前にホリングズワースと決裂したこと(ホリングズワースから犯罪者更生計画への協力を要請されたが、カヴァデイルがそれを拒絶した)、ブライズデイルの同志たちの空想的な進歩主義に耐えられなくなったこと、である。それらの理由があったことは事実であろう。だがそれら表面上の理由の下に、より直接的な目的、すなわち、ゼノビアとウェスタヴェルトの関係の真相を突きとめるという目的が隠されていたのではないか。カヴァデイルの泊るボストンのホテルはゼノビアの借家に隣接しており、しかも彼の部屋は彼女の部屋を見渡せる位置にある。これは偶然の一致で片付けるには余りに暗合の度合がひどすぎるだろう。カヴァデイルは隣家にゼノビアとウェスタヴェルトとプリシラの姿を見かけたとき、「はっきりした驚きを感ずるどころか、ずっと前からその出来事を予想していたような気がした」(143)と語っている。さらに暗示的なことには、ゼノビアがボストンに借家を持っており、プリシラをそこへ連れて行ったことがあるのを知っていたと語っていることである(145)。もしこれを偶然の一致ととるならば、盲亀浮木の一例にすぎなくなるが、カヴァデイルがゼノビアとウェスタヴェルトを探る目的で予め知っていたゼノビアの家の隣のホテルに投宿したとすれば、一切が不自然なく説明できる。

 彼にはゼノビアたちを張込んでその動静をさぐるだけの理由もある。ゼノビアとホリングズワースが親しくなることは、プリシラの愛情を自分に向かせる可能性が増すという意味でカヴァデイルには好都合である。その際問題となるのは、ゼノビアとウェスタヴェルトの関係である。二人が結婚しているならば、ゼノビアとホリングズワースの関係の進展に支障が生ずるかも知れない。カヴァデイルとしては彼らの関係の真相はぜひ見極めたいところであろう。

  さらにもう一例、作業仮説に支持すると思われる事実がある。カヴァデイルはホテルの一室からゼノビアとウェスタヴェルトが言い諍う姿を望見するが、内容を聞きとることができない。疑惑は深まるが、真相は依然として謎につつまれたままである。ゼノビアから締め出された直後、カヴァデイルは酒場にでかけ、そこでプリシラと繋がりがあるらしいムーディという老人に話しかけ、酒をおごる。彼がムーディから聞きだした事実は、(1)ゼノビアとプリシラがムーディの娘(異母姉妹)であること、(2)ゼノビアが若い頃結婚したという噂があること、(3)ゼノビアの財産が法的にはムーディの物であること、そして(4)ゼノビアがプリシラを妹として扱うという条件で、財産をゼノビアに与えてもよいとムーディが考えていることなどである。つまり、カヴァデイルがムーディから聞き出したことはいずれもゼノビアとプリシラに関する事柄である。カヴァデイルはムーディ―に会いに酒場に出かける理由を明言していないが、聞き出した内容から判断して、ゼノビア・ウェスタヴェルト・プリシラについての情報をムーディから聞き出すためだったと考えるほかないだろう。

 このムーディの打明け話をあつかう第二二章は、ロマンチックな想像を混えて叙するとカヴァデイルが明言している部分であり、事実と想像を弁別することは難しい。だがこの章の終りにあるゼノビアのムーディ訪問の件を、酒場でムーディに会った晩にカヴァデイルが聞きだしえた筈がないことは、次の理由から推定できる。彼はこの章の終りで、「これら奇妙な出来事の日付をいま私が繰り合わせてみるかぎりでは、まさにその晩プリシラ―哀れな青白い花!―はゼノビアの手からもぎとられたか、あるいは故意に投げすてられたか、したのである!」(178)と語っているからだ。この作品ではさりげなく挿し挾まれた日付が意味深長なのだが、計算してみると、カヴァデイルがムーディに酒場で会ったのは彼がボストンに到着した三日目の晩であり、彼はその後「数週間」(180)ボストンに滞在し、「ヴェールの女」の再公演を観た後「二晩たって」(188)ブライズデイルに戻っている。そしてその日ゼノビアが語っているところによれば、彼女は「三日前」(200)に自分の財産が実はムーディの物であることを知ったことになっている。つまり、ゼノビアがムーディを訪ねたのは「ヴェールの女」の再公演のあった当日の午後であり、カヴァデイルがムーディに酒場であったのはそれより数週間前に当っていることになるのだが、迂潤に読むと、「まさにその晩」がムーディと酒場で会った晩を指しているように受けとれる暖昧な言い回しが使われている。言いかえれば、ボストン滞在の「数週間」をぼかすような表現になっている。その「数週間」を曖昧にしなければならない理由が果してカヴァデイルにあるだろうか。

 プリシラの愛情を自分に向けさせるためには、ムーディから聞きだした事実はどれをとっても彼に不都合なものばかりである。ゼノビアがウェスタヴェルトと結婚しているとすれば、それはホリングズワーズをプリシラヘより接近させるように作用するかも知れない。またプリシラが妹であることを知ったならば、ゼノビアは財産を相続するためにホリングズワースをプリシラに譲るかも知れない。だとすればカヴァデイルには、ムーディから聞きだした情報は三人に伝えないでおく方が自分に有利だと思えたにちがいない。じっさい彼はその情報を「数週間」隠していた。これがおそらくその「数週間」を暖昧にしておきたがる理由である。

 やがて「ヴェールの女」の再公演によって、ゼノビアがプリシラをウェスタヴェルトの手に引き渡したことが明らかになる。それが「故意」であったにせよなかったにせよ、彼女がプリシラを守ってやれなかったことには変わりがないうえ、その公演の公告は「町中の到るところに撒かれていた」(181)のだから、それがムーディの眼に留った公算は大きい。ムーディがゼノビアへの財産移譲について何らかの処置を講ずることはあり得ないことではなくなった。しかもプリシラを催眠術から救いだしたことで、ホリングズワースヘの彼女の信頼や愛情が強まった可能性もたかい。再公演から「二晩たって」ブライズデイルヘ向かう途中、カヴァデイルが「ひどく暗い気分」(188)に襲われ、「移ろってゆく空想が向きを変えるたびに、なにか良くないことが私たちの上に起こった、あるいは起ころうとしているという考えが、私の顔をひたと見据えるのだった」(191)のは当然であろう。彼には「なにか良くないこと」の発生をかなりの蓋然性で予測できるだけの情報があったのだ。

 結果的にみて、彼がその情報を数週間隠していたことがゼノビアの自殺のひとつの原因になったと言えなくもない。彼女がプリシラを妹と知っていたならば、自発的にホリングズワースを諦めたかも知れず、そうすれば彼女を自殺に追い込んだ残酷な事態は回避できたかも知れない。もちろん結果がどうなっていたかは誰にも分らない。だがカヴァデイルの頭に、情報を秘匿しておいたことで自分がゼノビアの自殺に一役買ったのではないかという疑念が一度も萌さなかったとは考えがたい。彼はその疑惑を一切口にしていない。だがこれまで検討してきた数々の例は、彼が何事かを口にしていないという事実から、したがって彼の頭にはそれがなかったという結論を抽きだしえないことを教えている。問題が人間の一命にかかわる以上、自分の責任を軽々に認めることはできない。むしろ、はっきりした証拠がなければ、責任を他人に転嫁したくなるのが人情であろう。ゼノビアの死後彼がウェスタヴェルトを責め、また数年後わざわざブライズデイルまで出かけてホリングズワースを責めている(第二八章)のは、カヴァデイルの中にそのようにも根深い危惧があったからだと解するならば、いくぶん常軌を逸したその拘わりも無理なく説明できる。カヴァデイルは、ホリングズワースが自分を「ひとりの殺人者」(224)と認めたとき、涙を流してホリングズワースを許したと語っている。ここでカヴァデイルが、「私は貴方に殺された、とホリングズワースに伝えて欲しい」(208)というゼノビアの言葉のいわば遺言執行人としてホリングズワースを裁き許していることは明らかだが、私たちはホリングズワースがゼノビア自殺の責任を認めたことで、カヴァデイルが自分の責任を肩からおろし、ほっとしているのではないかという疑いをその涙の中に感受せざるをえない。さらにまた、ホリングズワースが自分の責任を認めたからといって、カヴァデイルの責任が完全に消えるものでないことは彼自身が身に滲みて感じているのではなかろうか。彼が物語の最後で今更のようにプリシラヘの愛情を告白するのは何故だろうか。彼のプリシラヘの愛情を暗示する叙述はすでに十分にあった。その上でのこの告白がプリシラヘの愛情の再確認にすぎないことがあるだろうか。むしろそれは、物語後半部における彼のすべての行動が、プリシラをホリングズワースから奪うための行動であり、その結果不知不識のうちにゼノビアを自殺に追い込む片棒をかついでしまったことの自認なのではあるまいか。最後の告白の直前にある次の言葉「さらに、その告白は短いものになるであろうが、これまでの出来事を通じての私の行動に一条の光を投げかけるであろうし、じっさい私の物語を十分理解する上で不可欠のものであると感じられる」(227)は何を意味するのか。この一節はホーソンが校正の段階で書き加えた部分である。校正を読み終ったホーソンが、最後の告白が単なる愛情再確認と受けとられる危険に気づき、その告白から逆照明してカヴァデイルの全行動を理解すべきであることを読者に強調するためこの一節を書き加えたことは疑いえない。

⑦  テクスト 228脚注参照。


  私はこの作品を様々な意味で恥ずべきところのあった過去の自己の行動を十二年後に告白するカヴァデイルの手記として読む。彼は幼児じみた愛情乞食だった。彼は性に飢えていた。彼はプリシラを手に入れるため可能なかぎりの隠密行動をとった。その結果ゼノビアの自殺に加担した。だが体面を気にせざるを得ない仮面紳士として、彼は自己の恥や責任を率直に告白することができない。自責の念が自らを傍観的な局外者に遠ざけようとする。体面への顧慮が韜晦的な表現法を招きよせる。悔悟を妨げる自尊心が明敏な<予見>の中に慰安を見出す。

⑧  伊藤整の用語。彼によれば、日本と西欧の文学者はいずれも共通してエゴの確立を目指しているが、社会組織に組み込まれている度合いによって、前者は「逃亡奴隷」となり、後者は「仮面紳士」になる。『ブライズデイル・ロマンス』は後者の一典型といってよい。この作品に仮面やヴェールが頻出するのは、本質的にはカヴァデイルの―延いてはホーソン自身の―対社会的態度に起因すると私は考える。


 この読み方に拠るならば、作中人物や作品の意味にたいする多くの評価に疑問が生じてくる。私が言うのは、この作品の「物語の内容」【イストワール】を語る者がカヴァデイルなのかホーソンなのかを曖昧にする体の評価のことである。ホーソンが自己の様々な資質や性格をカヴァデイルに分与していることが問題を複雑にする。だがたとえホーソンとカヴァデイルにどれほど共通点があるにせよ、ホーソン自身が全知の視点からゼノビア、ホリングズワース、プリシラを描写する場合と、複雑な利害関係でその三人と結ばれているカヴァデイルに彼等を描写させる場合とでは、微妙に、だが本質的に異った読み方を読者は要求される。前者の場合作中人物に下される判断は原則的にはホーソンの思想の反映ととることができるが、後者の場合語り手カヴァデイルの下す判断と作者ホーソンの下す判断とは必ずしも一致しない。図式的にいえば、前者では「語られる内容」【イストワール】を包む視線は作者ホーソンのそれだけであるのにたいして、後者では「語られる内容」【イストワール】を見守るカヴァデイルの視線と、その外側にあってカヴァデイルの「説話行為」【レシ】をも包みこむホーソンの視線とが重層している。この相違を軽視するならば、作品自体の意味を曲解する危険が出てくるだろう。

 「ヘスター・プリンと同様暗い美しさをもち、おそらく情熱的な性格の女性ゼノビアは、女権拡張論と超絶主義的ユートピア思想のはらむ感情面の危険を探求したものである」とリチャード・チェイスは主張する[Richard Chase, The American Novel and Its Tradition. Anchor Book (New York: Doubleday, 1957) 84]。ゼノビアの感情や思考が極端から極端へ飛躍してある意味で「危険」であるのは否定できない。だが彼女の言行を伝えるカヴァデイルは彼女にたいして如何なる感情を抱いただろうか。盗み見を発見され難詰された後の彼の心の中に、彼女にたいする悪感情が芽生えていることは、ホリングズワースがプリシラに示す優しさを強調してゼノビアを苦しめている彼の態度からも窺える(第十九章)。そのような彼がゼノビアの硬直した屍体を前にして抱く感想―こんな醜悪な姿を人前に晒すことが予測できたのならば、見栄えのしない服の時には人前に出ようとしなかった彼女のことだから、自殺などしなかったであろう。彼女は優美に溺れ死ぬ村娘の絵を見すぎたのだ―を読者はどのように解釈すべきだろうか。抗弁したくともすでに口のない屍体にたいするこの酷評が果して真実を穿っているのか、それともカヴァデイルの復讐心の歪んだ表われなのか、結局のところ読者には判断できない。それはホーソンがカヴァデイルに語り手という特権的地位を与え、しかも彼に率直でない告白者という属性を与えたことの直接の結果であり、ここでの読者の執るべき態度は判断保留のそれである。チェイスが「女権拡張論や超絶主義的ユートピア思想の孕む感情面の危険」というとき、ゼノビアの死を虚飾の死と見るカヴァデイルの判断を前提としていると受け取る他はないが、そうすることによってチェイスはカヴァデイルとホーソンの同一視へ一歩踏み込んでいるように思われる。

 「最悪なことは、この善の潜在力を過大評価するうちに、ホリングズワースが自己の動機の不純さ、すなわち、自己の動機は同胞愛であるというポーズをとっているという理由でイーサン・ブランドのそれより更に許しがたい利己主義、を見落してしまったということである」とするハリー・レヴィンの見解にも同じ批判を加えることができる [Harry Levin, The Power of Blackness (New York: Alfred A. Knopf, 1970) 87] 。ホリングズワースを利己的と断定できそうな箇所は二つある。前者は彼がブライズデイルの住人に基礎固めをさせた上でその土地を買いとり、犯罪者更生施設に転用しようとしていること、後者は土地買いとりの資金としてゼノビアの財産に眼をつけ、その下心があってゼノビアに接近したのかも知れないと思われること、である。前者についていえば、計画の全貌を同志たちに明かし賛否を問うべきだというカヴァデイルの忠告を拒絶しているところからみて、ホリングズワースのやり方に不明朗なものがあることは否定できない。だが彼が計画的意識的に同志たちを利用したのかどうかについては若干の疑問がある。この部分のカヴァデイルの語り口は他の多くの場合と同様微妙である。


  彼が自分の資力を過大評価していないとすれば、の話だが、彼は私たちが<共同体>を建てたまさにその土地を自由に自分のものにすることができる、なぜならその土地は売買契約によって決定的に我々の物になっているのではないのだから、と思っているらしかったし、じっさいそうしたがっていたのだ。彼が望んでいたのは基礎固めだけだった。私たちが着手したものが彼の大目的に易々と応用されることになる。基礎が完成した段階で、それらが静々と彼の組織に繰り込まれるというわけだ。                      (122)


  It appeared, unless he over-estimated his own means, that Hollingsworth held it at his choice (and did he so choose) to obtain possession of the very ground on which we had planted our Community, and which had not yet been made irrevocably ours, by purchase.  It was just the foundation that he desired.  Our beginnings might readily be adapted to his great end.  The arrangements, already completed, would work quietly into his system.


 私はこの箇所を読むたび、二つ目以降の文がホリングズワース自身が口にした言葉なのか、カヴァデイルの推測なのか、判断できずに当惑する。

 同じような曖昧さが後者の場合にもつきまとっている。既に触れたように、ホリングズワースは少なくとも一度はゼノビアの愛情表現(彼の手を取って自分の胸に当てる)を拒絶したように思われるし、二人の間で結婚をふくめ何らかの話が交わされたことがないのはゼノビア自身が認めている(第二五章)。残るのは暗黙のうちにホリングズワースがゼノビアの愛情を利用した場合だが、これもまた截然とは断定しがたい。数年後ブライズデイルを訪ねて、あれから一体何人の犯罪者を更生させたかと問うカヴァデイルにたいして、ホリングズワースは「一人も! 私たちが別れて以来私はひとりの殺人者にかかりきりだった」と答える。この言葉を聞いてカヴァデイルは「彼が言っているのが如何なる殺人者か私には分かったし、プリシラのいない側につきまとう復讐の影が誰のものかも分かった」と考える(224)。だがつまるところこれはカヴァデイルの推測にすぎず、ホリングズワースが「ひとりの殺人者」に何を意味させていたのかを読者は正確には知りえない。しかもカヴァデイルは、既に述べた如く、ホリングズワースに有罪を認めさせたい個人的動機を十分に持つ人間であり、また彼にとってホリングズワースはプリシラを奪った恋敵でもある。彼は他の箇所(第九章)で、友人を微細に分析し、その特徴を拡大し、その上で総合して得た人物像は、「結局のところ―さまざまな歪みの特徴が実在の人物に指摘できるにせよ―主として分析者自身が作りあげたと言ってよい怪物」(64)であると認めている。実際のところ、ホリングズワースは以上の二点について有罪であったのかも知れない。だがカヴァデイルが作りあげたホリングズワース像がそのままホリングズワースの実像であると受けとることは読者には許されていない。ここでも読者はきわどい一線で判断を保留せざるをえないのである。

 ヘンリー・ジェイムズはカヴァデイルについて、「一言でいえば、情熱は貧弱、想像は活発、幸福が行動より知覚の中にある男―半ば詩人にして半ば批評家、そして全身これ傍観者の肖像画」と述べている(ジェイムズ105)。また前記チェイスは、「語り手カヴァデイルは臆病で冷淡すぎるため、知性では気付いている感情生活を生きることができない。(中略)彼はいくぶん利己的で、気難しく、超然としている。彼はまた温和な皮肉屋で、人々や物事を気軽に詮索したがる。だが彼には何か後ろ暗いところがある。彼は人生をこっそり覗き見るし、少々観淫症者でもある」(チェイス84-86)という。両家の見解は他の多くの意見の最大公約数といった観があり、非行動性、傍観者的性向、覗き屋的性向をカヴァデイルの性質と見る点で一致している。たしかにカヴァデイルは三角関係の敵対者を殺すか自分が死ぬかといった突きつめた行動はとらなかった。その意味で彼が非行動的であり、情熱が貧弱だという評は当っているかも知れない。だが行動的ということにそのような厳しい基準を当てはめるならば、大部分の人間は非行動的である。さらに彼が三角関係の中で初めから非常に不利な立場にいたこともこの際思い合わせるべきである。このような事情を斟酌した上で彼を非行動的と断定する人々の行動力に私は敬意を表する。カヴァデイルは、ジェイムズやチェイスが主張し、また彼自身が力説するように、一連の事件を覗き見るだけの傍観者だったろうか。私たちが見てきたのは、ホリングズワースとプリシラを張り合う三角関係の当事者としての彼であり、ゼノビア自殺という破局の一方の作動者としての彼だった。彼は病的な観淫者であるだろうか。たしかに彼はゼノビアの私生活を覗こうとするが、その行動に相応の動機が考えられることは既に見た。そして、動機さえあれば正常人でも他人の私生活を覗き見ることがあることを考えるならば、カヴァデイルを病的な観淫症者と断ずることはできない。要するにカヴァデイルの非行動、傍観、覗き見には一つ一つ動機や理由が考えられるのであって、それらを彼の個人的資質に結びつけることを躊躇させる文脈が作品全体に陰に陽に流れている。

 このようにカヴァデイルが自他について作りあげるイメーヂや判断には、最後の一線で読者に賛同をためらわせる暖昧さがつきまとっている。その暖昧さはホーソンがカヴァデイルと一体化せず、彼を対象化しているところから生まれてくる。そして、カヴァデイルの「イストワール」と「レシ」の全体を対象化しつつ見守るホーソンの視線が作品に付与しているのは、同じ対象が視点をずらすことによって別様の相貌をあらわすという物事の相対性なのだ。

 この相対性は、それをホーソンの文学的生涯の中に置いてみるとき、私たちに一種の感慨を催させる。従来のホーソンが描きあげた人物像は、少数の、場合によっては単一の固定した性格によって組み立てられていた。もしある人物の性格が流動したり、互いに矛盾しあう複雑な要素をはらんでいれば、単一の理念や現象でその人物を象徴することはできない。彼が愛用するアレゴリーや象徴という手法もこの性格の固定化に支えられていた。このような人物造形を比喩してみれば、面の切断角が作者によって固定されている面取り石膏像に似ていると言えなくもない。作者は二〇度の角度で切って見せているが、三〇度で切れば異なる面が現われるかも知れないと読者に思わせるような奥行がホーソンの人物像には不足していた。

 『ブライズデイル・ロマンス』の人物たちはこれら固定した人物像とは違っている。彼等はカヴァデイルが切ったのとは違う角度で切って見たい欲求を読者に起こさせる。中でももっともラウンドな人物像、ヘンリー・ジェイムズの言葉を借り「人物造形へのホーソンの明白な試み」と私が考えるのは、語り手のカヴァデイルである。カヴァデイルは情況と動機によって人間が様々な側面を露呈しうることを示している。彼はある時は行動的であり(彼がユートピア的農場の参加者だったことを忘れるべきではない)、ある時は非行動的であり、ある時は当事者であり、ある時は傍観者であり、ある時は覗き屋であり、ある時は性的欲求不満者であり、ある時はサディストである。情況によって人物がさまざまに変容するというこの人間観は「ロマンス」的というより「ノヴェル」的である。ホーソンは序文の中でこの作品をロマンスと呼んでいるが、その揚言にもかかわらず、彼がこの作品で示している歩みは確実に「ロマンス」から「ノヴェル」の方向を向いているように思われる。

 この作品には、それを意図していたにせよいなかったにせよ、生え抜きのロマンス作家が自己の文学形式(ロマンス)の限界を試しているといった観がある。ホーソンは従来の自分の思考法であるアレゴリー的象徴的思考法をカヴァデイルに与えた。カヴァデイルはゼノビアを彼女が髪に挿している一輪の花によって象徴しようとし、プリシラを雪女やくすんだニューイングランドの春に喩える。彼はまたホリングズワースを人道主義のはらむ危険の具現と見傲し、自らを古典劇のコーラスに擬える。ここでカヴァデイルは従来のホーソンの方法をいわば実演しているといっていい。だがその一方でホーソンは、カヴァデイルが繰りだす象徴や比喩の一つ一つを他の作中人物の反論や事件の進展自体によって覆がえしたり変形したりしていき、ついには読者を、カヴァテイルがくだす結論について最終的な判断を保留せざるをえない状態に連れこむ。

 このことはいったい何を意味しているのだろうか。カヴァデイルの判断や理念を相対化することによって、ホーソンはカヴァデイルに実在感に溢れた複雑な性格を与えることに成功しているが、これは双刃の剣だったと言えなくもない。カヴァデイルの視点の絶対性を否定することは、ホーソンがカヴァデイルに仮託した従来の自己の文学的方法の破産を宣言したのと同じ結果になるからである。ホーソンはこの作品以降、さまざまな事情があるにせよ、紀行文を除けば一作の長篇しか完成していない。             

(了)

(1979年執筆)

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