語り手は(2)


語り手は信用できるか―ホーソンの射程― 2





第3章 谷間から湿地へ

  ―アプダイク『日曜日だけの一ヶ月』の場合―


         岩田 強



 1975年、ジョン・アプダイクはプリン女史、ジェイン・チリングワースという名前の人物を登場させる小説『日曜日だけの一ヶ月』(以下『日曜日』と略記)① を出版した。これらの人名はナサニエル・ホーソンの『緋文字』② に由来していて、この作品が『緋文字』を下敷きにしていることを示しているが、後に触れるように『日曜日』には『緋文字』以外のホーソンの作品の影響も看取される。あるインタヴユーのなかでアプダイクが語っているところによれば、かれがホーソンを意識的に読みはじめたのは70年代に入ってからのことだという(「アプダイク、ホーソンを語る」『ナサニエル・ホーソン・レヴュー』13巻1号  1987.2)。75年出版の『日曜日』はホーソンにたいするアプダイクの意識的な関心がはじめて結実した作品であって、作家が作品の形で書いたホーソン論と見ることができる側面を備えている。アプダイクは同じ『緋文字』を下敷きにして『ロジャーの話』(1986)と『S』(1988)も書いていて、評家のなかにはこれらをアプダイクの『緋文字』三部作と呼ぶ人もあるが、『日曜日』から『ロジャーの話』までの十年以上の間隔を考えると、『日曜日』を書く段階でアプダイクが第二作、第三作まで構想していたとは考えにくい。むしろこの時点では、アプダイクは新たに興味の対象となったこの先輩作家にたいするさまざまな理解と反応を『日曜日』一作に総体的に注ぎこもうとしたようにおもえる。


  ① テクストには、John Updike, A Month of Sundays (New York: Fawcett Crest, 1974)を使用した。本書からの引用はページ数を(   )にいれて本文中に挿入する。


 ② テクストには、Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter  The Centenary Edition of the Works of Nathaniel Hawthorne vol. 1 (Columbus, Ohio: Ohio UP, 1962)を使用した。本書からの引用はページ数を(   )にいれて本文中に挿入する。


 ③ "Updike on Hawthorne" The Nathaniel Hawthorne Review  XIII-1

  (Brunswick, Maine: The Nathaniel Hawthorne Society, 1987)を参照のこと。 


 本論の目標は『日曜日』の分析を通じてアプダイクのホーソン観を考察することであるが、『緋文字』との比較の便宜上、『日曜日』の主要人物の性格設定とプロットを要約しておこう。


1)トマス・マーシュフィールド、41歳。米国聖公会【エピスコパリアン】らしき宗派の牧師。20歳代半ばでジェイン・チリングワースと結婚、2人の息子(現在16歳と14歳)をもうける。40歳ごろからアリシア・クリック、フランシス・ハーロウその他の女性信者たちと肉体関係をむすび、それが露見して聖職者むけの矯正施設に一ヶ月間収監される。施設での日課は、午前中は内省のための手記の執筆、午後はゴルフなどの運動、夜はカード遊びというもので、31日間に書いた手記がすなわちこの作品という体裁になっている。マーシュフィールドはこの手記のなかで女性たちとの性関係を赤裸々に描写する一方、その手記を媒介にして施設の所長プリン女史を誘惑しようとし、31日目の手記で、退所直前に彼女と肉体関係をむすんだと記す。


2)ジェイン・マーシュフィールド、41歳。ジェインの父親はウェズリー・オーガスタス・チリングワースといい、マーシュフィールドの神学校時代の倫理学教授。ジェインは心のひろい、おとなしい性格で、<倫理の象徴>とみなされている。


3)アリシア・クリック、30歳。離婚して現在独身だが、二人の子供を育てている。マーシュフィールドの教会のオルガン奏者。マーシュフィールドと肉体関係をもち、かれに快楽としての性を認識させる。アリシアはマーシュフィールドにジェインと離婚する意志がないことを知り、マーシュフィールドの副牧師ネッド・ボークと性関係をもち、マーシュフィールドを嫉妬で逆上させる。マーシュフィールドはアリシアを<性の象徴>とみなす。


4)フランシス(フランキー)・ハーロウ。マーシュフィールドの教会の信徒総代ジェラルド・ハーロウの妻。マーシュフィールドはアリシアと副牧師の関係に気づいた後、フランキーと関係をもとうとするが、勃起不能におちいり、性交を完遂できない。マーシュフィールドは突然おそってきた性的不能の原因がフランキーの信仰心にあると考え、瀆神によって勃起を得ようとし、かろうじてフランキーを満足させるが、射精には到達できない。フランキーはそうしたマーシュフィールドを慰めて、「これも神聖なことだと考えなくちゃ」と言う。マーシュフィールドにとってフランキーは<信仰の象徴>である。


5)プリン女史。大柄で黒髪ゆたかな中年女性。マーシュフィールドが収監されている矯正施設の所長。マーシュフィールドはじぶんの手記をプリン女史がひそかに閲読していると考えている。31日目の記載によれば、彼女は退所直前にマーシュフィールドの部屋に来て、おおらかな、ゆったりとした性交をかれともつ。



ストラクチュアヘの影響

 まず最初に検討すべきことは、『日曜日』のストラクチュアにたいする『緋文字』の影響である。すでに述べたように『日曜日』の「プリン」と「チリングワース」という名前は『緋文字』から採られているが、それらの名前をもつ人物の性格づけや人物配置は『緋文字』のそれとはまったく違っている。『緋文字』のヘスター・プリンは年若い人妻だが、『日曜日』のプリン女史は中年の職業婦人で独身らしく描かれている。またそれぞれのプリンと関係をもつ相手も、共通点はいずれも牧師であるということだけで、『緋文字』のアーサー・ディムズデイルが独身の青年であるのにたいし、『日曜日』のマーシュフィールドは中年の既婚者である。いっぽう『緋文字』のロジャー・チリングワースという名前は、妻のへスターを寝取られたプリン氏が復讐をおこなうために詐称する偽名だが、『日曜日』ではそのチリングワースという名前がマーシュフィールドの妻ジェインの旧姓ということになっている。

 このような異同からはアプダイクのどのような意図が読みとれるだろうか。いま男女の婚外関係を姦通(既婚者の婚外姦)と私通(婚姻によらない男女関係)に区別するならば、『緋文字』の設定では、姦通をおかしたのはプリン夫人のヘスターだけで、ディムズデイルがおかしたものは私通だということになる。これにたいして『日曜日』では、姦通をおかしたのは既婚者のマーシュフィールド牧師のほうで、プリン女史がおかしたものは、彼女が独身だとすれば、私通だということになる。つまり『日曜日』では姦通者と私通者の位置が『緋文字』のそれとは逆になっているのである。

 さて、姦通をおかすのがプリン夫人からマーシュフィールド牧師に代わったため、寝取られる者という役どころも当然べつの人物に割り振られることになる。すなわち『緋文字』のプリン氏(ロジャー・チリングワース)の役どころが、『日曜日』ではマーシュフィールドの妻のジェインに回ってくることになる。ジェインの旧姓がチリングワースとされているのはこのためであろう。つまりアプダイクはチリングワースという名前を<配偶者の姦通によって被害を受ける者>の符丁として用いているようにおもわれるのである。ついでに言えば、ジェイン・チリングワースが旧姓であって現姓ではないという設定も、ロジャー・チリングワースが偽名であって実名ではないという設定を踏まえているかのようだ。このような人物配置上の工夫によって、<姦通する牧師>というテーマが、『緋文字』以上に、より鮮明になったといえるだろう。

 この<姦通する牧師>の強調は『日曜日』のプロットの組み立て方にも見てとれる。『緋文字』では、ディムズデイルとヘスター・プリンの姦通は物語のはじまる直前に終わったことになっていて、間接的な言及をのぞけば物語では扱われていない。このようなプロット構成は、必然的に、作品の力点を姦通行為そのものではなく、姦通が関係者のその後の人生におよぼす影響に移すはたらきをする。いっぽう『日曜日』では、マーシュフィールドとプリン女史の姦通は物語の末尾におかれており、物語の大半はマーシュフィールドがそれ以前に経験した結婚と倦怠期と浮気の記述でしめられている。アプダイクが姦通の余波ではなく姦通自体を主題にすえ、<姦通する牧師>を浮き彫りにしようとしていることは明らかであろう。

 おそらくアプダイクは<姦通する牧師>という人物造形の胚種を『緋文字』の第20章から得ている。「迷路のなかの牧師」と名付けられたこの章は、ディムズデイル牧師が森のなかでヘスターとパールに出会い、チリングワースの正体を聞かされ、ボストンから逃げ出す約束をしたあと、町に帰るまでの道すがら、宗教的、道徳的、性的なさまざまな悪心に衝きうごかされる姿を描いている。ディムズデイルは宗教的で精神的な青年に見えているが、じつはその奥に「強烈な動物的性質」を秘めていて、それがかれを姦通にまで駆りたてたわけだが、ホーソンはそうしたディムズデイルの「動物的性質」を、この第20章を唯一の例外として、ほとんど描いていない。アプダイクがやろうとしていることは、ホーソンが忌避したこのディムズデイルの動物性に焦点をあてて拡大することであるようにおもえる。つまり、マーシュフィールドを動物的ディムズデイルの末裔として設定し、そのようなマーシュフィールドに結婚や姦通の「迷路」を彷徨させ、<姦通する牧師>を真正面から描こうとしているようにおもえるのである。

 このように、アプダイクは人物配置、プロット、主人公の性格設定のいずれにおいても、あたかも『緋文字』にたいする反措定【アンチテーゼ】として『日曜日』を構築しているように見えるのであって、このことはマーシュフィールドという名前の選び方にもっとも端的に窺うことができる。つまりDimmes-dale(暗い谷間)に水源をもつ性の水脈が、結婚生活という平坦地に流れくだり、15年余の蛇行のなかで停滞し淀んでできた<湿地>がMarsh-fieldだという風に解釈できるからだ。いかにも青年らしく思いつめ、絶望の表情をあらわにするディムズデイルにたいして、マーシュフィールドは絶望することにさえ絶望した、したたかな中年である。もしディムズデイルの退廃を暗い退廃とよぶとすれば、マーシュフィールドのそれは陽をあびた湿地の腐れ水のような明るい退廃といえる。このようにマーシュフィールドという名前はディムズデイルという名前にたいする絶妙の反措定【アンチテーゼ】となっているのである。

 さらに言えば、17世紀を舞台にした『緋文字』にたいし、『日曜日』が現代を扱っていることにもアプダイクの対置の意識がはたらいていると考えてよいだろう。アプダイクは先に言及したインタヴユーのなかで、「アメリカは、300年間、『まず行動し、それから考えよ』というヘスターの福音を採用してきた。『日曜日だけの一ヶ月』はホーソンの谺(こだま)が間欠的に聞こえる作品だが、この作品の背後の主要な目的は、姦通する牧師に関するアメリカ人の態度がどんなに根底から変わってしまったかを示すことだった」(3)と述べている。牧師の姦通は、『緋文字』の背景である17世紀マサチューセッツでは、死をもって贖うべき重罪であった。またホーソンの生きていた19世紀のアメリカにおいても、姦通行為を作品からしめだす『緋文字』のプロットが暗示するように、言挙げしないほうが安全な<戸棚のなかの骸骨>だった。だが『日曜日』の舞台である20世紀後半のアメリカでは事情は一変している。こうした過去300年間の性生活上の大変動を浮き彫りにするためには、19世紀人が描いた17世紀ピューリタンの物語『緋文字』が格好の対照基準【コントロール】になるとアプダイクは判断したのであろう。



アプダイクのホーソン評価

 さてこれまで検討してきたことは、アプダイクがどのように『緋文字』を利用して『日曜日』のストラクチュアを構築したかということだった。つぎにやるべきことは、その利用のしかたからアプダイクのホーソンにたいする評価の質をさぐることであるが、そのためには『日曜日』のなかの、『緋文字』に典拠をもつ場面を検討するのが簡明であろう。もっとも明瞭な例を引証しよう。

 『日曜日』の2章に、マーシュフィールドが愛人のアリシアと副牧師のネッドが会っている部屋を覗き見する場面がある。ネッドの住んでいる部屋は牧師館の車庫を改造したもので、マーシュフィールドの寝室の眼下にある。マーシュフィールドは寝室の窓からアリシアの車がネッドの部屋の前に駐まっているのを見て嫉妬に狂い、自慰をして気を静めようとするがうまくいかない。そこでパジャマの上着だけを着け、下半身丸出しのままという恰好で、ネッドの部屋を覗きに行くことにする。さて裸の尻をさらして四つん這いになり、「汝、腹這いて進むべし」(フォーセット・クレスト版 20)などと瀆神的な自嘲をもらしながら窓からなかを覗くと、裸の愛人の膝か肘らしい三角形のものが光って見える。やがてすぐ目の前の室内でだれかの髪の毛が揺れ、マーシュフィールドははっと驚くあまり窓枠から転げ落ちる。ほうほうの体で牧師館まで逃げかえり、寝室にもどると、寝ていると思っていた妻が起きていて、どこに行っていたのだと詰問される。マーシュフィールドは「新聞に彗星が見られるって出ていたよ、いや、何かそういった不吉な前兆になる星だ」(22)などと誤魔化そうとするが、妻に「嘘、ネッドの部屋を覗いていたのよ。それは病気よ」と喝破されてしまう。

 『緋文字』の読者には明らかなように、この場面は『緋文字』の12章「牧師の徹夜の祈り」のパロディである。『緋文字』では牧師の「徹夜の祈り」【ヴィジル】であったものが、『日曜日』では愛人の浮気を見張る「寝ずの番」【ヴィジル】に捻じまげられている。ディムズデイルは深夜人目のない晒し台で徹夜の祈りをしようと思いついたときにも、「まるで公の礼拝のためと同じくらい注意深く、まったく同じように身なりをととのえて」(『緋文字』オハイオ州立大版 146) 家を出るのだが、マーシュフィールドは性器をさらけだした半裸体である。また『緋文字』では、彗星の描いたAの字が客観的事実とも心理的な錯覚とも解しうるような暖昧な書き方がされているが、『日曜日』では、彗星はマーシュフィールドの捏っちあげで、妻はかれを窃視症の病人とみていることがあからさまに言明されている。

 このパロディの毒々しさは、直接的には、ディムズデイルにたいするアプダイクの反感に由来するだろう。ディムズデイルはじぶんの姦通を告白できず、それを罪深いと感じて苦悩するが、結局牧師という地位を守るために7年間沈黙を守りつづけるのであって、深夜でも正装しなければ外出しないという例が物語っているように、かれは抜け目なく保身に気をくばる偽善者である。下半身裸体のマーシュフィールドはこのようなディムズデイルとは対照的であって、そうした設定からは、アプダイクの揶揄――「ディムズデイルよ、おまえはそんな風にカソックに身を包んで純真さを装っているが、おまえだって性器をふりたててヘスターに迫ったのではないか、この偽善者め」――が聞こえてくるようだ。

 けれどもこのアプダイクの揶揄はディムズデイルばかりでなく、作者ホーソンにも向けられていると考えるべきであろう。ホーソンはある箇所でディムズデイルを「ずる賢いが、良心の呵責を感ずる偽善者」(144)と呼んでいて、ディムズデイルの偽善性を見逃しているわけではない。だがその偽善性はホーソン独特の韜晦的な文体でじわじわと描かれていて、一気に暴露するような書き方はされていない。もし作家の文体を偽善的なものと露悪的なものに大別するとすれば、ホーソンのそれが前者に分類されるのは間違いない。

 いっぽう『日曜日』の文体は徹底して露悪的である。すでに述べたように『日曜日』は全編がマーシュフィールドの手記で構成されており、したがって『日曜日』の文体はすなわちマーシュフィールドの文体ということになるが、たとえばマーシュフィールドはじぶんがいつも下半身裸で寝ている理由についてつぎのような語り方をする。(付言すると、この引用の劈頭の「かれ」はマーシュフィールドを指している。かれはここでじぶんを三人称で呼んで自己客観視をこころみているわけだが、その努力は引用の後半でたちまち頓挫している。このような刹那性がマーシュフィールドの文体の特色の一つである。)


 かれがパジャマのズボンをつけずに床につくには、少なくとも三つ組【トリニティ】の理由がある。つまり、手淫のための自己接近を容易ならしめるため、ゴムひもやボタンによる腹縛りをさけるため、そして、わたしの内なるミニスカートの女性に励ましの合図をおくるためだが、この女性は、わたしを孕ませた父のオルガスムスの瞬間に、毒のリンゴを齧ったため、わたしの中に宙吊りになっているのである。      


  He 【Marshfield】 goes to bed without the pajama bottoms for at least a trinity of reasons : to facilitate masturbatory self-access, to avoid belly-bind due to drawstrings or buttons, to send an encouraging signal to the mini-skirted female who, having bitten a poisoned apple at the moment of my 【Marshfield's】 father's progenitive orgasm, lies suspended within me. (16) 


 もう一例引証しよう。マーシュフィールドがネッドとアリシアの密会を覗き見しようとして窓枠から転落することについては先に触れたが、その場面の語り口はつぎのようだ。


それから、わたしの目の前の、二重ガラスのすぐ向こう側で、かれのだか彼女だか分からなかったが、髪の毛がはげしく動いた。その瞬間わたしは怯み、あっと言うまもなく転落し、友達甲斐のある藪かげに横ざまに転がりこんだが、その葉のつるつるする棘からすると、その藪はヒイラギだったにちがいない。わたしはその場で、アルマジロみたいに鈍重かつ狡滑に根覆いの木っ端にもぐって横たわっていたが、やがて、この静けさならば無事踊りながら退散できるだろう――黒板になぐり書きするチョークみたいに両足を動かしながら――月光をあびたボークの芝生を横切り、扇窓のついた我が家の玄関の、ぎーぎーと軋む、黴くさい赦しのなかまで辿りつけるだろう、と考えた。

 サイレンが闇のなかからわたしを追ってはこなかった。

 天使が階段のうえに現われはしなかった。


Then, before my face, at just the other side of the double installment of glass, there was a commotion of hair, his or hers I couldn't tell, so instantaneous was my flinching, and my subsequent rolling downwards and sideways into the lee of a comradely bush that from the well-oiled prickle of its leaves must have been a holly.  Cretinous and cunning as an armadillo, I lay there bathed in mulch chips until I deemed the stillness safe for a dancing retreat ----- my legs scribbling like chalk on a blackboard ----- across Bork's moon-hard lawn into the creaky, rusty forgiveness of my fanlighted foyer. 

 No sirens had arisen in the night to pursue me. 

 No angels materialized on the staircase.                             

(21)


 べつの箇所でマーシュフィールドはじぶんの表現が「挑戦的なまでにひねくれた文体」(239)で、「神経症的に他人を嘲ろうとする激烈さ」(253)に満ちていると認めているが、上に引いた例を読むと、マーシュフィールドの露悪癖が他人のアラ探しのためばかりでなく、じぶんの醜悪な姿、滑稽な姿をあえて直視しようとする努力からも生まれてきていることに気づかされる。愛人の浮気の痛手をまぎらそうと妻の傍らで自慰をしているじぶん、父親からうけついだ同性愛的傾向、見咎められるのを恐れて根覆いの木っ端にもぐりこんだアルマジロのような姿、チョークのように白い素足を懸命に交差させて我が家へ逃げこもうと必死になっている半裸男、露出狂の変態のようなじぶんをパトロールカーがサイレンを鳴らして追ってきはしないかという不安、ガウンをはおった妻が天使みたいな恰好で階段に現れ、じぶんをとっちめはしないかという怯え、それらはどの一つをとっても滑稽でみじめな醜態である。もちろんじぶんの滑稽さ、醜さは正視しにくいものだから、かれの表現はしばしば韜晦、歪曲、誇張、戯画化、悪巫山戯(わるふざけ)にはしらざるをえない。また牧師であるかれは神をつねに意識せざるをえず、そのためかえって「三つ組」【トリニティ】、「赦し」、「天使」といった言葉を瀆神的に連発せずにいられない。だが、そうした猥雑な自己表現の根底に、マーシュフィールドの誠実な自己凝視があることは疑いようがない。

 言うまでもなくマーシュフィールドは作中人物兼語り手であって、アプダイク自身ではない。だがマーシュフィールドには<姦通する牧師>という側面のほかに、<見えない読者に向かって語りかける作家>という側面も付与されており、マーシュフィールドの年齢(41歳)もこの作品を描いたときのアプダイクの年齢にあわせてある。またこの作品の執筆時期はアプダイクが最初の妻と離婚し、べつの女性と再婚していく時期と重なっている。夫婦の危機と離婚をあつかったこの時期の自伝的作品『メイプル夫妻の物語』(1979)と比較すると、アプダイクが『日曜日』でじぶんの性生活を率直に表現しようと努めていることが受感されるのだ。

 以上のことを念頭におき、またすでに検討した『緋文字』への反措定【アンチテーゼ】的態度を考えあわせると、マーシュフィールドの表現の露悪的誠実さにはホーソンにたいするアプダイクの批判――「ホーソンは姦通する牧師を描きながら、姦通の行為を完全に作品から捨象した。時代の制約があるにせよ、ホーソンは姦通小説の書き手として偽善的すぎはしないか。怯懦すぎはしないか」――がこめられているように感じられてくる。『日曜日』の19章に、マーシュフィールドがフランキーに瀆神の言葉を強要することでなんとか勃起をえようとする場面がある。そこでフランキーはその不満足におわった交渉について、「これも神聖なことだと思わなくちゃ」とマーシュフィールドを慰めるのだが、この言葉からすぐに連想されるのは、『緋文字』のヘスター・プリンが森のなかでディムズデイルに言う「わたしたちのしたことにはそれなりの神聖さがありました」(195)という言葉である。苦難の七年間にもかかわらずディムズデイルとのあいだの恋愛感情と肉体関係をいまなお肯定しようとするこの言葉は、作中でもっとも印象的な台詞であり、メロドラマティスト・ホーソンの自信がにじむ一句である。その言葉をアプダイクは、勃起不能の男にその愛人がささやく慰めの言葉に変えてしまった。ホーソンにたいするアプダイクの感情には冷ややかな皮肉がまざっていると感じざるをえない。再々引用しているインタヴユーのなかで、質問者が「あなたはメルヴィルとジェイムズを愛読しておられるが、その二人はホーソンを尊敬していた。70年代はじめまであなたはホーソンがメルヴィルやジェイムズに十分匹敵するとは感じていなかったのですか」と問うたのにたいし、アプダイクは「ホーソンがその二人に十分匹敵するとは、いまでもわたしは感じていませんよ、十分にはね」(2)と答えている。アプダイクのホーソン評価はさほど高くないのである。



奥なるホーソン評価

 さて以上の検討で、『緋文字』との関わりからみたとき、アプダイクのホーソン評価がかなり消極的であることが分かった。だが本論のはしがきでも触れたように『日曜日』には『緋文字』以外のホーソンの作品やべつの作家の作品の影響も感得されるのであって、そうした先行テクストとの係わりから『日曜日』を再検討すると、いま述べた評価の奥に、いま一つべつの評価がひそんでいるように感じられる。わたしたちがつぎに行なうべきことはその奥なる評価を明らかにすることだが、その導入として、手記の表面からうかがえるマーシュフィールドの精神的変貌をたどっておく必要がある。

 マーシュフィールドの精神的変転をもっとも端的に示しているのは、会衆にむかって語る説教という体裁をとった日曜日ごとの記述である。

 入所後6日目、第1回目の日曜日の説教では、マーシュフィールドはじぶんの姦通を正当化しようと必死に努めている。かれは姦通女を赦したヨハネ伝のイエスや、情欲をいだいて女を見る者は姦淫をおかしたのと同じであるというマタイ伝の言葉を引き合いにだして、「姦通はわれわれが継承してきた条件である」(56)と主張する。この時点のマーシュフィールドは全く悔悟しておらず、信仰をはばむ第一の大罪、自負心に満ち満ちている。

 第2回目の日曜日の説教でも悔悟の色はすこしも見えない。マーシュフィールドは、イエスが奇蹟によって救えたのはほんの一握りの人々にすぎなかったことに文句をつけ、そんな不公平で不完全なイエスは崖の上から突き落とし、ほんとうに奇蹟が起こせるかどうか、「自然法則の冷酷さ」(125)を味わわせてやりたいと毒づく。いかにも20世紀人の牧師らしく、マーシュフィールドは神の全能もキリストの神性も信じていない。かれは姦通や自負を断罪する本質的根拠を見失い、エゴの殻の中に閉じこもっている。

 ところが入所後20日目、第3回の日曜日の説教で、かれのエゴ閉塞に一種の変化が起こる。この日かれは、施設のプールでなにげなく使っていた水が実は地下水脈から無理矢理吸い上げられたもので、「気づかぬうちに砂漠をよその土地にまで広げている」(192)ということに思い至り、干涸びた砂漠のなかで生きのびている動植物の姿を喜びの気持をいだいて見つめる。プールの水が砂漠化の一因となっているという自覚は、マーシュフィールドが自己の存在の無意識的な加害性に気づいたということ、言いかえれば自己の罪性を容認したということを意味しているだろう。それがかれのエゴの殻に亀裂をつくり、その隙間から他者の存在が見えはじめたため、砂漠の動植物に親愛の感情をいだくようになったと考えることができる。

 この20日目は、マーシュフィールドがそれまでの19日間で過去の女性関係の告白を済ませたその翌日にあたっており、この日を境にしてプリン女史にたいする関心が彼のなかで強まっていく。

 そして26日目の土曜日にかれはある種の啓示をうける(もっともこの啓示については28日目の記載まで語られない)。その日マーシュフィールドは仲間の牧師たちとプリン女史に引率されてアメリカ先住民の土産物屋へ行き、酔っ払いの先住民に絡まれる。その件をマーシュフィールドはつぎのように語る。


そして、じっと見守っているうちに、わたしはあなたのかすかな期待の明滅をあなたとともに感じとったのだ。入所者がバスに乗れるよう、かれをわきに退かせたいというあなたの希望、このインディアン―あなたの同郷の西部人―の面目をつぶさないでやりたいという願い。ああ、わたしはあなたのなかを動いてこれらのことやもっと多くのことを理解した。そして、愛は出ていく動き【イ・モーション】、独断的に差し出すものではなく、横断する動き【トランス・モーション】、相手に応じて貫く動きなのだという考えがわたしの頭にうかんできた。

 

And I, watching closely, felt with you your flicker of anticipation, your wish to move him aside so your charges could board the bus, your desire to leave this Indian--your fellow-Westerner --some dignity.  Oh, I moved through you, understanding all this and more, and it came to me that love is not an e-motion, an assertive putting out, but a trans-motion, a compliant moving through.                       

 (257)


 ここでマーシュフィールドが語っていることは、プリン女史に自己を同化させることによってそれまでは理解できなかった彼女の思惟や感情を共有できたと感じたということだ。つまりエゴの壁を崩して他者と合一する可能性、言いかえれば愛の可能性を実感したのである。「愛は出ていく動き【イ・モーション】、独断的に差し出すものではなく、横断する動き【トランス・モーション】、相手に応じて貫く動きなのだという考えがわたしの頭に浮かんできた」というマーシュフィールドの言葉からは、6日目、13日目のような自負が消え、他者をうけいれる謙虚さが現れているのが感じられるであろう。

 したがってこの一節は物語の末尾のつぎの一節と直接呼応していると考えられる。退所前に会いに来てくれというマーシュフィールドの懇願も空しく、29日目の夜にも、また自棄になって毒づいた30日目の夜にも、プリン女史は現れない。ところが31日目の朝、意外にも彼女が出立前のかれの部屋に入ってきて、おだやかな、おおらかな性交渉をマーシュフィールドともつ。そして物語はつぎの一節で結ばれている。


この人間の接触、わたしたちが放心した顔で互いに交わすこの行為はいったい何なんだろう。わたしがあなたのなかに入り、大きくなり、あなたがもう濡れていたとき、あなたがじぶんを見ようとしても見えず、あなたの眼がひたすら他者にむけられ、名状しがたい表情でわたしの眼に見入っていたとき、挿入におどろき、会釈する瞬間があった。わたしは願う、わたしの知らないわたし自身の顔がそのとき会釈を返していたことを。


What is it, this human contact, this blank-browed thing we do for one another?  There was a moment, when I entered you, and was big, and you were already wet, when you could not have seen yourself, when your eyes were all for another, looking up into mine, with an expression without a name, of entry and alarm, and of salutation. I pray my own face, a stranger to me, saluted in return.     (271) 


 <じぶんの眼がじぶん自身を見ず、他者に向って全面開放されている瞬間>というのは、第一義的には性的な忘我状態をさしているが、形而上的には個人の自己意識が減却された状態ということだろうし、「わたしの知らないわたし自身の顔」も同じ状態をさしていよう。人間はそのような没我状態で初めて個我の殻をこえて他者とつながることができる、マーシュフィールドが言いたいことはそういうことだろう。性愛を通じての瞬間的な自他の融合、おそらくこのあたりが現代作家アプダイクとして照れずに語れる愛の射程なのかもしれない。

 それはとにかく、以上のように31日間の手記を額面どおりにとるならば、マーシュフィールドはじぶんの罪を認めない不信と自負と利己の状態から、告白と悔い改めを経て、愛他へ、そしてプリン女史との相愛へと導かれていったようにみえるのである。

 ところが、『日曜日』に伏在している先行テクストとの係わりからみていくと、このマーシュフィールドの変貌はべつの相貌をおびてくるようにおもわれる。『日曜日』は、一読すれば明らかなように、多読家のアプダイクがその該博な知識をかたむけて書いた衒学的な作品であって、名前が挙げられている書物や作家だけでも、聖書、フロイト、カール・バルト、ティリッヒ、ヤスパース、ブルトマン、シュライエルマハー、ベルグソン、パスカル、エックハルト師、ギンズバーグ、メルヴィル、ドストエフスキー、ロブ・グリエ等々十指を下らない。

 そのうえ、たとえばマーシュフィールドとジェインが彼女の部屋でペッディングをする場面を読むと、作品名も作家名も挙げられていないにもかかわらず、フロベールの『ボヴァリー夫人』の影響を感じざるをえない。というのは、階下から聞こえてくるジェインの父親の咳払いや、その父親(倫理学教授)から習っている哲学者の思想に織りまぜてペッディングの度合いの進展を伝える書き方は、エンマ・ボヴァリーがロドルフに誘惑される家畜品評会の場面の書き方を否応なく彷彿させるからである。こうした潜在的なものまで含めれば、『日曜日』には無数の先行テクストがつまっていて、文字どおり<引用のモザイク>の観を呈している。そして論者の考えでは、そのような先行テクストの一つとして、アプダイクは谷崎潤一郎の『鍵』(1956)を用いているようにおもわれるのである。

 『鍵』は1960年にハワード・ヒベットによって英訳されている。アプダイクが『鍵』を読んでいることは彼の書評「情報公開【グラスノスト】、本音【ホンネ】、征服者【コンキスタドーレス】」(『ニューヨーカー』1991年4月29日号)からみて明らかである。かれはその中で谷崎の『猫と庄造と二人のおんな』、「蘿洞先生」、「小さな王国」を書評しながら『鍵』に言及しているからだ。また『陸地にそって』(1983)や『はんぱ仕事』(1991)に収められている他の書評を読むと、アプダイクが『武州公秘話』、『痴人の愛』、『細雪』などを読み、谷崎に持続的な関心をいだいてきたことが分かる。アプダイクが『日曜日』を書いた1973~4年までに『鍵』を読んでいた傍証的可能性は十分あるのである。

  そのうえ内容についてみれば両者の似寄りは見紛いようがないであろう。たとえば『鍵』の夫婦は日記を盗み読みされているかどうかを知るために爪楊枝を特定のページに挟んでおくが、『日曜日』のマーシュフィールドもぺーパークリップを「89頁と90頁のあいだに北東方向に」(134)挟んでおく。また『鍵』の夫は妻と若い同僚を接近させるため、妻にクルボアジエ【コニャック】を飲ませるが、『日曜日』のマーシュフィールドは妻に副牧師(つまりマーシュフィールドの若い同僚)と浮気させようとして、二人にコニャックを飲ませる。

  さらに、こうした細部もさることながら、日記を告白の手段としてだけでなく、おそらく盗み読みしているらしい相手への手紙としても用い、しかも相手が読んでいると疑っていることを日記に書いてさらに相手の操作に利用するというアイディア全体がどうしても『鍵』を想起させるのである。

 『鍵』の妻は夫の死を早めるため結核が再発したという虚偽を日記に書いたり、愛人との肉体関係をごまかしたりする。したがって、もし『日曜日』が『鍵』を踏まえているとすれば、マーシュフィールドの日記にも同じような虚偽が含まれているかもしれず、日記全体が作為的なものに見えてくる。つまり、先ほどたどってみたマーシュフィールドの変貌――プリン女史への愛によって不信から信仰へとよみがえる――もじつはプリン女史を誘惑するための芝居だったのではないかという風に見えてくるのである。じぶんの受け持っている破戒僧がしだいに信仰をとりもどすことほど監督者を喜ばせるものはない。それを十分承知しているマーシュフィールドが、罪―悔悟―告白―贖罪―赦罪という告解の秘蹟の階梯にあわせて日記の記載を按配したということはないだろうか。

 そういう疑問をいだかせる要素がマーシュフィールドの日記には多々あるのである。すでに触れたように、マーシュフィールドの変貌は日曜日ごとに規則正しく起きる。またマーシュフィールドの関心の対象は19日目までが過去の女性関係、20日目以降がプリン女史と截然とわかれている。このような規則性は整然としすぎていてウソくさく感じられはしないだろうか。

 このような疑惑の眼でみると、マーシュフィールドの言葉には表面とは異なる意味にとれるものが数多くあることに思いあたる。たとえば26日目にかれが感じた啓示――「愛はおし出す動き【イ・モーション】、独断的に差し出すものではなく、横断する動き【トランス・モーション】、相手に応じて貫く動きなのだ」――はその典型的な例であろう。すでに論じたように、この言葉は表面的には愛する相手への精神的合一を語っているようにみえる。だがすこし視点をかえれば、それが性交動作の要諦を述べているようにも読めなくはない。つまりマーシュフィールドはここで、相互テクスト論の用語めいたものでプリン女史の知性をくすぐりながら、あたかも精神的な愛を論じているように見せかけつつ、じつは性的な扇情をこころみているようにも見えるのだ。きわめて精神的宗教的な話題と思い切って卑猥な話題を交互させて揺さぶりをかけるのがマーシュフィールドの誘惑法だということは20章以降を読めば了解されるはずである。

 複義的な表現をもう一例引証しよう。性交の恍惚感のなかで個我の垣根がとり払われるという考えが物語の結語となっていることはすでに触れたが、この言葉は、末尾というその位置のために、マーシュフィールドが到達した最後の結論のように見えていた。だが振り返ってみれば、マーシュフィールドはすでに5日目に、「ベッドのなかのアリシアは啓示だった(中略)。彼女の裸の悦びを見ていると、わたしの胸の内から笑いがこみ上げてきて止まらなかった。そんな笑いはわたしには前例のないものだった」(43-4)と書いているのであって、このときすでに性愛による自他の合一という考えは述べられていたのである。つまりマーシュフィールドは5日目から31日目までのあいだに本質的にはすこしも変化していないのである。マーシュフィールドが、過去の姦通を反省するために入所した矯正施設から、新しい姦通をおかして退所するような人間であることは見逃すべきではない。この作品の原題は「長いあいだ・・・しない」という意味の慣用句をふまえているが、その原題の含意どおり、マーシュフィールドは31日間すこしも悔悟していないのである。

 さらにはマーシュフィールドの言葉をもっと根底から疑う解釈も可能である。つまりプリン女史がかれの手記を閲読していることや、かれと肉体関係をもったこと自体を疑うことも可能なのだ。マーシュフィールドは21日目の記載の冒頭で、プリン女史が手記を閲読している<痕跡>について書いているが、その<痕跡>(いったん書いた字を消したような跡)はいかにも不確かで、それがほんとうに痕跡であるのかどうか、マーシュフィールド自身半信半疑である。だが、27日目、第四回の日曜日に、マーシュフィールドが神の存在を確信し、神を賛美する説教を書いたあとに、


【鉛筆による、別人の傾いた筆跡で】

よろしい――やっと説いて語れる説教になりました。           

(251)


という2行が加えられているため、プリン女史がほんとうにマーシュフィールドの手記を閲読していたのだと、わたしたち読者はつい思いこまされる。

  けれどもよく考えれば、かりにこの引用の最後の一行はプリン女史のものであるとしても、その当人が【鉛筆による、別人の傾いた筆跡で】と自注することはありえないことだ。わたしたちはマーシュフィールドの直筆の原稿を読んでいるわけではないから、筆跡から判定することはできないけれども、少なくとも最後から2行目がプリン女史のものでないことは理の当然だろう。

 ではこの一行はだれが書いたのだろうか。すでに言及したように、この作品はすべてマーシュフィールドの手記で構成されているのだから、この一行にだけ語り手が登場すると考えるのは、作品の基本的な枠組みに抵触する。また28日目以降にマーシュフィールドがこの一行を書き加えたという可能性も考えられるが、その場合誰にむかって何のために書き加えたのかが分からなくなる。むしろ、プリン女史がなかなか査読の証拠を見せないので、痺れをきらせたマーシュフィールドが、相手の反応を挑発するために、プリン女史のコメントを捏造してみた、つまりこの2行ともがマーシュフィールドの手記の一部だと解釈するほうがしぜんなのではないだろうか。

 物語の末尾の、いかにも唐突なマーシュフィールドとプリン女史との肉体関係にも同じような疑わしさがからみついている。マーシュフィールドは一人称による語り手という特権的な位置にいるので、マーシュフィールドがプリン女史と肉体関係をもったと書げば、わたしたち読者にはそれを否定する確実な証拠をあげることはむずかしい。だが、かれが嘘をついてもおかしくない心理的動機はたしかにあるのである。かりにマーシュフィールドが必死になって口説いたのに、プリン女史はなびかなかったとしてみよう。そのためマーシュフィールドが自尊心を傷つけられ、復讐してやろうという気持ちを起こし、ありもしない肉体関係を手記の最後に書いたということはありえないだろうか。というのは、28日の手記のなかでマーシュフィールドはプリン女史を誘惑しようとして秘密保持を誓い、「この手記がひそかにコピーされ、あなたとわたしの上司に転送されることがあれば、わたしはあなたの疑いをはらすべく、お決まりの『そんなことはありません』をくりかえすつもりです」(255)と書いているからである。つまりマーシュフィールドは自分の手記が上部機関におくられる可能性を考慮にいれているのだ。施設の管理者であるプリン女史にとって、じぶんとの濃厚な性描写のある手記が上部機関におくられたならば、迷惑千万であることは言うまでもない。なびいてくれないプリン女史への腹いせに、報復されにくい退所直前の記載として、虚偽の性関係を書いておくのはマーシュフィールドにとって手頃なシッペ返しではないだろうか。

 『日曜日』にはホーソンの『ブライズデイル・ロマンス』と共通する点がかなりある。どちらの作品もなにがしか作者の自己像が投影された一人称の語り手によって語られ、またどちらの語り手にも覗き見の癖がある。そして語り手が信頼できない語り手であることにおいても両作品は共通している。したがって、ゼノビアの自殺にたいするカヴァデイルの責任が結局はっきりしないのと同じように、マーシュフィールドの信仰復活が本物かどうか、またプリン女史との関係が事実かどうか、究極のところ謎のままである。

 けれども、じつをいえば、そこが一人称体の小説のおもしろさだとも言える。わたしたちは一人称体の小説を読みながら、日常生活での経験(不確かな対象について、不確かな証拠にもとづき、不確かな判断をくださざるをえないという経験)に近似したものを味わされるのである。アプダイクは「ホーソンの信条」のなかで、「『ブライステイル・ロマンス』は長い間かれの円熟期の四つのロマンスのなかでもっとも看過されてきたが、その一人称体の語りや、異様に熱っぽく、意固地に拒否されているヒロインのために、もっとも現実味があり、不安なまでに生々しい作品となっている」【Hugging the Shore. (New York: Random House, 1983)77】 と書いている。ここでアプダイクが感じとっているものは<信頼できない語り手>の暖昧さのおもしろさであるようにおもわれるし、またそこにホーソンの独創性を読んでいるようにおもわれる。見方によればアプダイクは、『緋文字』を下敷きにしているように見せかけながら実は『ブライズデイル・ロマンス』そっくりの作品を書くことによって、ホーソンの韜晦的な叙述態度を踏襲しているようにも見えるのであって、アプダイクのそうした創作実践そのもののなかに、作家の血肉と化したより深いホーソン評価を読みとることができるかもしれない。


(1996年執筆)


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