モンタペルティ現象2-1


モンタペルティ現象は

  イタリア・ルネサンスに

     どのように寄与したか


米 山 喜 晟


ダンテ『神曲』に描かれたモンタペルティの戦い



はじめに


 本論はタイトルで記したとおり、モンタペルティ現象がイタリア・ルネサンスの形成にどのように寄与したのかを検討する。だが、その前に今日かなり曖昧になっているルネサンスということばの意味を明らかにしておく必要があるだろう。筆者は現在、イタリア・ルネサンスという言葉にはかなり重複しつつもやや異なった二種類の意味があると考えているので、まず、13世紀後半以降にモンタペルティ現象が発生していたフィレンツェが、それら二種類のルネサンス像の中でどのような役割を演じていたかを大まかに把握しておかねばならない。一見迂遠なようだが、そうした予備的作業なしで本来の主題に着手することは不可能である。したがって以下の第一章ではまず二つのイタリア・ルネサンス像を明らかにし、第二章でそれらにおいてフィレンツェが果たした役割を概観する。続く第三章で第一型のイタリア・ルネサンスにおいてモンタペルティ現象が与えたと思われる影響を論証し、第四章で第二型のイタリア・ルネサンスにおいてモンタペルティ現象が与えたと思われる影響を論証する。続く終章ではそれらの影響を再確認し、あわせてそれらの影響がもたらした結果の問題点を指摘しておきたい。


* 以下の本論は、桃山学院大学総合研究所『国際文化論集・第40号』(2009年6月10日発行)より転載したものです。(編集部・記)



 第一章 イタリア・ルネサンス像の二つの型


 ルネサンス、かつては大体ルネッサンスと記されたはずだが、現在はたいていルネサンスと記され「再生」を意味するこのことばは、医療や衣食住関連からイベントまでさまざまな分野で用いられ、現代日本における大人気のことばと言えそうである。本来このことばが広く使われるようになったのは、19世紀にスイス人歴史家ヤーコプ・ブルクハルトが、フランス人の歴史家ミシュレーが用いた用語をそのままタイトルに取り入れて書いた『イタリア・ルネサンスの文化』が一世を風靡したものとされている。原著がドイツ語で書かれたにもかかわらずこのことばがドイツ語特有の堅い音の単語ではないのも、フランス人が用いた用語をそのまま採用したためである。これは私の単なる憶測だが、イタリアで起きたこの現象を表現するためには、フランス人が「アーンス」と鼻にかけて発音する音を含むこの言葉こそぴったりだとブルクハルトが感じたからこそこの用語を採用したのであり、その予感が的中したおかげで一世紀半が過ぎた今日世界の各国で読まれている名著が誕生したように思われてならない。たとえ同じスペルではあっても、かつて日本で使われていた英語読みのルネッサンスでは、ブルクハルトには堅すぎると感じられたのではあるまいか。もちろん学術書がすべてそうであるように、この作品も後世の研究者たちのきびしい批判にさらされ続けてきた。

① 本論では訳文などは、ヤーコプ・ブルクハルト著、柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化 一試論、I、Ⅱ』東京 2002を用い、必要に応じてJacob Burckhardt Gesamtausgabe, Fünfter Band, Die Kultur der Renaissance in Italien Ein Versuch, Herausgegeben von Werner Kaegi、printed in stuttgart 1930 を参照 した。


 先に見たとおりルネサンスということばは使い古されて本来の新鮮さを失ったのであるが、歴史用語としても同様の変化を蒙らざるを得なかった。

 まず古代文明の復活という本来の意味に関しては、「カロリング朝のルネサンス」や「十二世紀のルネサンス」などと、それ以前に現れた類似の現象を表現するのに用いられることになった。おそらくブルクハルト自身もむしろそうした普遍性を意識して、当初からイタリア・ルネサンスという限定的なタイトルをつけたのであろう。しかしこのように複数のルネサンスが並立するとイタリア・ルネサンスは相対化されてしまい、ブルクハルトが提起した当時の清新な印象が薄らいだことは否めない。だがそれ以上に彼の作品に打撃を与えたのは、この時代のイタリア人が優れた古代の復活を目指した結果、停滞的なヨーロッパ中世の世界に近代への突破口を切り開いたという、彼が提示した図式を支えていた前提条件が、その後の歴史学研究によって大きな修正を余儀なくされたことである。

 まず上記の二つのルネサンスの発見をふくむヨーロッパ中世に関する研究が、従来の「暗黒の」中世とさえ呼ばれていたヨーロッパ中世像を一新させ、概して否定的に受け止められていた封建社会が、実は今日のヨーロッパ社会の基礎であることが改めて認識されて再評価されるに至ったために、中世社会への批判を暗黙の前提にしていたブルクハルトのルネサンス像は大きく揺らがざるを得なかったという事情がある。

 たとえば12世紀の学僧アベラール の存在は、ブルクハルトがイタリア・ルネサンスの成果として評価した「個人の発見」に登場するどの個人にも劣らず個性的であったし、ホイジンガの『中世の秋』 は、ブルクハルトが扱ったルネサンスとほぼ同時代に開花し、視覚的文化の優越性などといった特性においてイタリア・ルネサンスの文化とかなり共通点を持つ14~15世紀のブルゴーニュ公国の文化を、タイトルにあるとおり中世後期の産物として描き出すことで、ヨーロッパ中世の文明の高さを証明することに成功した。ルネサンスの本場であるイタリアにおいても、恐らく20世紀イタリアにおける文学研究の最大の成果の一つだと思われるヴィットーレ・ブランカ博士のボッカッチョ研究のタイトルが『中世のボッカッチョ』 であり、ブルクハルトによってルネサンス的作家の代表選手の一人のように見られてきたボッカッチョを、中世文化という背景から捕え直すことで、従来よりもはるかに透徹したボッカッチョ理解に達し得たことも、従来の中世観とルネサンス観に修正を加えることになった。

② エロイーズとの往復書簡を残した哲学者、神学者、修道院長 (1079-1142)

③ たとえば、ヨーハン・ホイジンガ著、堀越孝一訳『中世の秋』東京 1967などの翻訳がある。

V.Branca,  BOCCACCIO MEDIEVALE Firenze 1975.


 もう一つ重要なことは、ルネサンス時代のイタリア文化そのものの研究がさらに進化した結果、宗教的熱狂や迷信や魔術の流行などといったルネサンスの暗い側面が発掘されるにつれて、ブルクハルトが近代の先駆けとして評価したイタリア・ルネサンスが、必ずしもそれほど直接には近代とはつながらないことが明らかにされたことであろう。また植民地主義や帝国主義の実態が明らかになるにつれて、ブルクハルトが謳歌した「世界と人間の発見」にはまさに地獄図のごとき裏面があることが明らかになり、二十世紀のヨーロッパを主な舞台として起きた二度の世界大戦と人文主義以来啓蒙主義を経て形成されたヨーロッパ近代思想の一つの到達点、あるいは鬼っ子であるマルクス・レーニン主義革命の実験などによって、ヨーロッパの近代文明そのものの評価が大きく揺らいだことの影響も大きい。

 こうしたさまざまな立場からの批判にさらされた結果、歴史学の用語としてのイタリア・ルネサンスという言葉の意味やその評価にも当然様々な修正が加えられることになった。実はルネサンスの本拠地に当たるイタリアでは、この書物が刊行された当時から、ルネサンスの時代が、ブルクハルトのように肯定的に評価されていたわけでは決してない。それどころか当時のイタリア人の知識人からは、イタリアではその当時リソルジメント(復興)と言う用語で呼ばれていたルネサンスの時代こそ、文化そのものは高かったものの、イタリアがフランスやスペインの侵略を受け、スペインとカトリック教会の支配下に組み込まれてしまった屈辱的な時代として、むしろ否定的に見られていたと言えそうである。なにしろこの書物が刊行された1860年とは、前年に起きたオーストリア相手の第二次独立戦争の勝利に続いて、ガリバルディが両シチリア王国をも征服してイタリア統一の彼岸を達成しつつあったまさにその年だったのだから、イタリア語圏の政治的統一にこれほどの流血と辛苦を味あわねばならない原因となった時代を高く評価することなど、当時のイタリアの知識人には到底に認め難い事柄だったのである。たとえばこの書とほぼ同じ時期に執筆されたデ・サンクティスの『イタリア文学史』では、ダンテその他の中世以降の文学者とその作品が紹介されているが、その背景として描かれている同時代のイタリアの状況は、無気力で堕落した惨憺たるものであり、決して誇るべき時代とは見なされていない。

F. De Sanctis, Storia della letteratura italiana, Firenze 1965、その他いろいろな版があるが、特に第15章のマキアヴェッリ論等でイタリア人の堕落が語られる。


 とはいっても、その後のイタリアの歴史家たちがブルクハルト流のルネサンス評価を受け入れていったことは、イタリア人がそれまでのリソルジメントと呼んでいた中世イタリアの文芸復興を、ブルクハルトの著書のタイトルに近いリナシメントということばで呼ぶことにし、リソルジメントということば、19世紀イタリアの国家統一運動およびその時代を指す歴史学の用語に転用されたという事実によっても明らかである。ある語源辞典によると、初めて国家の統一と独立という意味でリソルジメントという言葉が使われたのは1888年のことで、それ以前には今日のルネサンスに近い意味で用いられていたとされている。そうした意味でこのことばが初めて用いられたのはベッティネッリ(1718~1808)によって、1775年に刊行された『1000年以後の‥‥イタリアのリソルジメント』というタイトルとしてであったようである。イタリア歴史学の父と呼ばれるL.A.ムラトーリは、17世紀末のまだ若いころの手紙で過去のイタリアの優れた文化を称賛した文章を書いていて、18世紀前半に500年から1500年までの膨大な歴史資料(それがなかったらおそらくブルクハルトの名著は生まれなかった)を編集して刊行したことでも分かるとおり、あるいはまた17世紀以来グランド・ツアーと称するイタリア旅行がヨーロッパ諸国の貴族の青年たちの通過儀礼ごときものとなっていたという事実でも明らかなとおり、ルネサンス期のイタリアの文化とその遺産の質の高さは、ブルクハルトの著書に教えられなくともイタリアのみならずヨーロッパ諸国で古来とっくに認められていたのであるが、どうやらベッティネッリの言葉が定着したあたりから、その現象をまとめて表現する必要が感じ始められたらしい。残念ながら同じ語源辞典にはリナシメントの最初の用例の年代は出ていないが、リナシェンツァは年代なしに出ていて、フランス語のルネサンスの訳語でリナシメントを意味するとされているので、おそらくイタリアではルネサンスが当初は原語に近いリナシェンツァと翻訳され、やがてイタリア語らしいリナシメントに落ち着いたものと思われる。

DIZIONARIO ETIMOLOGICO ITALIANO, Firenze 1975(G.Barbèra), Vol.V, p.3263 所収の risorgimento の項目による。

M.Càmpori,Epistolario di L.A.Muratori, vol.I, Modena 1901, p.10   なお世紀の大事業である Rerum ltalicarum Scriptores が、Argelati という野心的な出版業者の協力で進められた経緯とその財政的な基盤となったパラティーナ協会については、大阪外国語大学論集第2号(大阪 1990)所収の私の研究ノート、L.A.ムラトーリとパラティーナ協会--- R.I.S.刊行の財政・文化的基盤---を参照していただきたい。

⑧   注⑥の p.3256。 奇妙なことに全5巻から成るこの語源辞典に rinascimentoの項目がない。


 このようにイタリア人には、ルネサンス時代をブルクハルトのように手放しで評価し難い事情があったことを無視してはなるまい。国家統一後に確立されたアカデミズムやその後のもろもろの学派においても、デ・サンクティスが示した過去へのきびしい眼差しは一貫して続いており、イタリア人の過去の栄光を称えたファシズム時代ですら、イタリア民族の誇りとされたのはもっぱら古代ローマ文明だったようである。どこまで本気だったか眉つばものだが、軍事大国古代ローマの栄光の復活を目指したファシズム体制にとって、ルネサンス期のイタリアなどはむしろ反面教師だったと言えるかも知れない。

 さらに第二次世界大戦後のイタリアにおいても、あるアメリカ人の概観において、イタリア人の歴史学の主要な関心はルネサンス時代よりも近現代史に向けられていることが指摘されている。私の留学を受け入れてくださったボローニャ大学のヴィート・フマガッリ教授は、イタリアでは476年の西ローマ帝国の滅亡とともに古代が終わったとされ、ロレンツォ・デ・メディチが死去してコロンブスがアメリカを発見した1492年が中世(medio evo)と近代(età moderna)との境界線とされているが、現代(etá contemporanea)を国家統一以後とするか、20世紀以後とするかは、人によって異なるようだと述べておられたが、イタリアのアカデミズムにおいてルネサンスは一つの歴史時代とは見なされてはおらず、中世末期から近代初期にまたがって発生した、人によって意味も評価も異なる現象または精神運動程度として把握されていると見なすことができそうである。

⑨  G.Brucker, Tales of Two Cities: Florence and Venice in the Renaissance, in “American Historical Review”,  Vol.88(1983).


 こうしたルネサンスに対する温度差を端的に示しているのは、ルネサンスをテーマにしたいくつかのアンソロジーの類で、そこに執筆しているのは大抵イタリア人以外の権威である。勿論自国の事柄なので個々の分野には優れた権威が存在しているけれども、美術や文学などの特定の分野を除くと、概してイタリア人は外国人のようにルネサンス研究という視点に立つことを好んでいないように思えてならない。ブルクハルトの著書が欧米諸国でひろく受け入れられた国家統一後のイタリアでは、ローマの周辺を含めた南部一帯にヨーロッパでも特に貧しい地域が広がっていたために、過去の遺産への称賛がそのまま現代イタリアに対する批判を含んでいるような印象を受けた可能性が高く、イタリア人にとって、リナシメントということばは、そうした印象と結び付きやすかったのかもしれない。

 このような本国におけるイタリア・ルネサンスの時代に対する冷厳な眼差しにもかかわらず、また数々の立場からの批判にもかかわらず、ブルクハルトによって掘り起こされたイタリア・ルネサンスに対する関心は、米、英、仏その他の欧米諸国において一向に冷める気配はなく、研究書が刊行され続けており、現代の日本においても同様である。その中で、1955年にハンス・バロンが著した『初期イタリア・ルネサンスの危機』⑩ は、イタリア・ルネサンスの精神的契機をミラノの専制君主ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティに対して行われたフィレンツェ共和国と人文主義者たちとの共同戦線に求めることによって、すでに見た通り強い批判にさらされて疑問視されかけていたルネサンスの近代的意義に強力なてこ入れを行い、激しい賛否両論を巻き起こして、一挙にルネサンス研究を活性化させる結果となった。バロンの説がイタリア・ルネサンスの最大の遺産であるルネサンス様式の誕生に新しい示唆を与えていることもその反響の一因だが、バロン自身がナチス・ドイツからアメリカに逃れて来た亡命者であったことが、彼の視点に独特の先鋭さを与えて、欧米諸国のルネサンス研究に強力な刺激をもたらしたことは否定できないはずである。

⑩ 私が利用したのは以下の版である。H.Baron, The Crisis of the Early Italian Renaissance Civic Humanism and Republican Liberty in an Age of Classicism and Tyranny, Princeton, New Jersey 1966.


 この反響の大きさの一因には暗黙裡のファシズム批判があったことは当然だが、すでに1953年以来スターリン批判が行われていて、さらにこの著書が刊行された翌年にハンガリー事件が勃発していることを考慮すると、当時南欧の一部などに残っていただけのファシズムの脅威以上に、ファシズムと戦って勝利したという実績によって東欧諸国から中国をも席巻していた、ロシアを起源とする共産主義体制の脅威が影響していた可能性を否定できないのではないだろうか。当時人民民主主義の美名の下に、近代ヨーロッパ文明が営々と築き上げた人権意識や三権分立の原則を無視して、近代が克服したはずの前近代の体制以上に過酷な専制政治が、国民の一時的熱狂と共に確立され、サルトルに代表される一部の知識人の強力な支持を得て、アジアではなおも拡大する様相を示していた。こうした脅威が迫っていたために、本人の自覚の有無とは無関係に、知識人の内心で改めて近代ヨーロッパ文明の成果が再確認され、その信頼が強まっていた可能性が大きい。たとえ植民地主義や度重なる戦争などの罪を差し引いても、暴力革命によって誕生し、秘密警察と強制収容所によって維持されている共産主義的専制と較べた場合、ヨーロッパ文明が生み出した近代的国家体制の方がはるかに信頼し得るし、また当面それ以外の選択はあり得ないという実感と、明日にも専制政治が民衆の歓声と共に現れかねないという恐怖が知識人の心中に潜在していたことが、この説への賛否はともかく、人文主義者の専制政治の告発を発掘し直したバロンの成果に対する関心を著しく高めたのではないだろうか。実際バロンが論じた事柄は、少なくとも私の印象では、すでに知られていた事柄を再構成して、大胆かつ明確に図式化したという印象が強く、それに対する反響の異様な高さは、本人が意識していたか否かはともかくとして、読者の側にそれ相応の理由があったためだと思われてならないのである。

 フィレンツェ共和国が専制君主ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティに対して行った抵抗にルネサンスの精神的契機を求めたことで、バロンはブルクハルトが主張したルネサンスの先駆的近代性という理念を見事に蘇生させたが、同時にブルクハルトが描いたルネサンス像を大きく修正しなければならなかった。ブルクハルトはその序論を13世紀前半に統治したフリードリッヒ二世の専制国家から書き始め、主に14世紀から16世紀までのイタリアを舞台にしてイタリア・ルネサンスを描いており、14世紀のダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョもその世界の重要な登場人物となって活躍している。それに対してバロンは、1390年から1402年まで続き彼がフィレンツェの独立戦争と名付けた戦いを契機として、人文主義者たちによるルネサンス思想、すなわち「市民的人文主義」が確立された過程を解明していて、一応過去にさかのぼってはいるものの、それはあくまで新しい思想を明らかにするための対照事項としてであり、初期ルネサンスというタイトルからも明らかな通り、14世紀後半をその準備段階と見なし、本格的なルネサンスは15世紀以降に展開されると見なしている。彼のこうしたルネサンス像は、13世紀前半のフリードリッヒ二世を先駆者として取り上げ、14世紀の人々をも主たる登場人物の内に取り上げたブルクハルトのそれよりも遅く、両者の間には1~2世紀のずれがある。

 こうしたルネサンス像のずれが端的に認められるのは経済史を専門としているロベルト・ロペス の場合で、彼はヨーロッパ全域に戦争や反乱、飢餓や疫病が相次いだ14世紀の危機を重視して、ルネサンスはその結果であると説明する。彼はルネサンスの美術、建築、彫刻などといった豪華な遺産を、たとえばかつてのマルクス主義的唯物論が主張したような、経済的繁栄という土台の上にたつ構造だとは認めない。彼によるとフィレンツェの経済力は、金融業がそのピークにあった1300年ごろに比較した時、ルネサンス文化が栄華をきわめた15世紀には、14世紀の危機を経たためにはるかに衰退していたとされている。そして経済のピークと文化のピークとの間には、約2世紀ものタイム・ラグがあるとされているのである。ではどうしてこの時代に、豪華なルネサンスの遺産が形成されたのか。ロペスは14世紀の危機の後も経済は停滞し続け、安全な投資先が見当たらず、その結果利潤率は低いが比較的安全な投資先として、土地や農業と共に建築や美術や彫刻や子弟の教育などが、すなわち文化への投資が選ばれたのだとし、この時期にそうした文化への投資が集中した結果、あの豪華な文化遺産が残されたとするのである。

⑪  R.S.Lopez, Hard times and investment in culture, in The Renaissance Basic Interpretations, edited by K.H.Dannenfeldt, Lexington etc. 1974.


 私たち日本人にとって最も興味深い分野である芸術に関しても、15世紀の到来とともに明らかに様式の転換が認められる。建築におけるブルネッレスキ、彫刻におけるドナテッロ、そして美術におけるマザッチョの役割と、その結果生じたルネサンス様式の誕生は、美術史においてあまりにも有名である。そのことは早くも16世紀のヴァザーリがその『(芸術家)列伝』のマザッチョ伝の中ではっきりと認めていて、ブルネッレスキ、ドナテッロ、ギベルティ、ウィチェッロ、マザッチョらが時期を同じくして輩出し、「当時まで続いていた幼稚な技法を一掃したばかりではない。自身の美しい作品によって後世の人々を励まし力づけ、創作活動を現在に見られる完成した偉大な水準に到達せしめた」 と明記しており、これはおそらくヴァザーリだけの見解ではなく、当時の芸術家たちの間の常識でもあったのであろう。

⑫ ジョルジョ・ヴァザーリ著、平川、小谷、田中訳『ルネサンス画人伝』東京 1982、61ページ (小谷年司訳)。


 バロンは14世紀の文学作品と15世紀のそれとの間に現れた変化と14世紀の芸術と15世紀のそれとの間に現れた変化には、「密接な平行(close parallel)」 が認められることを指摘し、この時期に一つの分野だけで変化が起こっているのではなく、様々な分野で平行した変化が認められるとしている。このように各々の時代は文化の様々な分野において平行的にその時代特有の様式を持ち、時代が変わるとともにそれらは平行して変化するということは、早くも18世紀前半にヴィーコが『新しい学』の中で行った重要な指摘であるが、1400年ごろを境にまさにそうした変化が生じたとバロンは考えているのである。こうした様々な分野の見解を集約し、また恐らくブランカ博士のボッカッチョ研究に代表されるイタリア中世の文化に関する研究の成果を受け入れることによって、現代のアカデミズムにおいては、ルネサンスとは概して14世紀後半から過渡期に入り、15世紀以降にはっきりと現れた現象だと見なされているようである。こうして14世紀までの部分を中世として切り取られたルネサンス像は、厳密に言えばブルクハルトが描いたルネサンスとは別のものかも知れないが、また15世紀以後ではかなり重複していて、ともかく同じ名前で呼ばれていることも事実である。

⑬ 注⑩ の pp.202~3。

⑭ シャンバッティスタ・ヴィーコ著、清水、米山訳『新しい学』東京1975参照。ヴィーコによると各民族は神、英雄、人間と三種類の時代を経過するが、それぞれの 時代特有の法や言語や裁判等を有するとしている。


 上述のように現在のアカデミズムの主流からは外れているけれども、聖フランチェスコが活動しフリードリッヒ二世が支配する13世紀から始まり、14世紀を丸ごとルネサンス時代に含めるブルクハルト的なルネサンス像にも捨て難い魅力があることは確かである。ブルクハルトが感じていたように、現在のアカデミズムの世界では普通中世そのものと見なされている13~4世紀のイタリア文化には、他のヨーロッパ諸国の中世には見られない活力があることが否定できないように感じられてならない。こうしたブルクハルトに由来するルネサンス像は、たとえばポール・ジョンソン、塩野七生、モンタネッリ などといった啓蒙書の多くにおいて、現在も根強く支持されているのである。またたとえばパソコンの百科事典ウィキペディアでもブルクハルト的な意味が採用されている。


⑮ ポール・ジョンソン著、富永佐知子訳『ルネサンスを生きた人々』東京2006。 塩野七生『ルネサンスとは何であったのか』東京 2008。 I. モンタネッリ、R. ジェルヴァーゾ著、藤沢道郎訳 『ルネサンスの歴史 上・下』東京 1981・2。

 最後の著書の原題にはルネサンスと言うことばがなく、「黄金世紀のイタリア」と「反宗教改革のイタリア」を併せたものの翻訳だが、その黄金世紀がフリードリッヒ二世あたりか ら始まっていて、しかも冒頭の章で「ルネサンスとヒューマニズム」を論じているので、ブルクハルトがルネサンスと呼んだのとほぼ同じ現象を、モンタネッリはルネサンス(再生)ということばでは不十分だと考えて、「黄金世紀」と呼んでいることが分かる。


 だが同時に、私は1400年ごろに様々な分野でルネサンス様式が確立された事実を重視している、欧米のアカデミズムで現在支配的であり、中世末期にあたる15世紀以降をその本体と見なすルネサンス像も無視できないものだと信じているので、結局本論において二つのルネサンス像を両論併記的に採用せざるを得ないのである。そこでルネサンスが早くも13世紀あたりから始まったとして、14世紀以降を本格的なルネサンス時代と見なすブルクハルト的なルネサンス像を第一型ルネサンスとし、14世紀後半を中世と重複する過渡期と見なし、15世紀以降を本格的なルネサンス時代と見なすバロンやロペスのルネサンス像を第二型ルネサンスと呼んで両者を区別することにする。私自身どちらの型のルネサンスも存在していると考えているので、これら二つのルネサンス像を併記しているのである。厳密に言えば、二つの内のいずれかは別の用語で呼ばれるべきかもしれないが、残念ながらそのための適当なことばが見当たらないことも事実なのである。こうした困難さを示す一つの実例が、イタリアの歴史文献の権威ドニス・ヘイの概説書『イタリア・ルネサンスへの招待』 に見られる。そこでヘイは、一度は「1350年ごろから1700年ごろのあいだの一時期に『ルネサンス』というものがあった(3ページ)」として、ほぼ後者に近い立場を取りながら、そのすぐ後の1310年におけるハインリッヒ七世のイタリア到来の記事に関連して、「年代に関するかぎり、皇帝ハインリッヒの侵入というこの事件からイタリア史のルネサンス期がはじまる(10ページ)」と、一挙に40年も年代をさかのぼらせている。ヘイは疑い無く優れた学者だが、こうした権威の著書にさえこのような矛盾が認められること自体、このことばの定義の困難さを示している。ヘイの場合、一度は現代のアカデミズムで広く認められている第二型を受け入れておきながら、第一型も捨て難いために、結局折衷型のルネサンス像を採用しているのだろう。

⑯ デニス・ヘイ著、鳥越・木村訳『イタリア・ルネサンスへの招待― その歴史的背景―』 東京 1989参照。


「第二章  二つのイタリア・ルネサンスにおけるフィレンツェの役割」


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