モンタペルティ現象3-1


潮流に乗って

~第二次世界大戦後のモンタペルティ現象~


米 山 喜 晟

 



はじめに


 で、それまで私どもの船は非常にうまくうねり波に乗ってきたのですが、やがて恐ろしく大きな波がちょうど船尾張出部の下のところにぶつかって、船をぐうっと持ち上げました、----高く----高く----天にもとどかんばかりに。波というものがあんなに高く上がるものだということは、それまでは信じようとしたって信じられなかったでしょう。それから今度は下の方へ傾き、すべり、ずっと落ちるので、ちょうど夢のなかで高い山の頂上から落ちるときのように気持が悪く眩暈がしました。しかし船が高く上がったときに、わたしはあたりをちらりと一目見渡しました。----その一目だけで十分でした。わたしは一瞬間で自分たちの正確な位置を見てとりました。モスケー・ストロム渦巻は真正面の四分の一マイルばかりのところにあるのです。

  エドガー・ポー著(佐々木直次郎訳)「メールストロムの旋渦」より


 一度読んだら忘れられない文章というものがあるが、おそらくポーのこの文章などはまさにそうしたものの一つではないだろうか。もちろんさまざまな細部はとっくに忘れていても、その骨格の部分だけは、数学の基本的な公理のように頭にはまりこんでしまっている。もしも無理やり思い出さされるようなことがあれば、どうしてもこのような内容にならざるを得ない。そうしたきわめて合理的な文章でありながら、同時にあらゆる人々が、あるいは本人でなくとも彼らの先祖のだれかが、程度の差はあれ、どこかの海か川で体験したことのある恐怖を克明に表現している。気がついたら渦潮あるいは急流に巻きこまれているということは相当怖い体験であり、ナイアガラの滝に落ちて奇跡的に助かった人の話のたぐいがニュースとして世界中に報道されるのも、その恐怖の普遍性によるものだろう。ポーのこの作晶は、そうした人類に普遍的な恐怖を表現している点で、最高の短編小説ではないだろうか。

 しかし現実においては、この作品の主入公のように渦潮に巻き込まれつつある自分の状況を自覚することすらできない場合も、少なくないようである。必ずしも大きな事故につながらなくとも、たとえば夜間に大河を航行中の小舟が突然急流に巻き込まれたり、飛行機が乱気流に巻き込まれたりすることは、世界中至るところで起こっているはずである。1990年代の日本や、近年のアメリカで発生した金融バブルの崩壊もどうやらそれに近い出来事のようである。たとえば前者について書かれた『検証バブル・犯意なき過ち』 などを読むと、タイトル自身が表している通り、当事者の大部分は自分がバブルに巻き込まれていることに全く気付いておらず、暴落の危機に直面して初めて、自分達が由々しき事態に巻き込まれていることを悟っているというのが実情のようである。もちろんそれ以前に自分の資産が異常に増え続けていたのだから、何かの異変を気付いていても決して意外ではなく、当然破綻以前にバブルの発生を察知していた少数の例外的存在がいなかったわけではない ようだが、やはりある人が語った、「目の前で起きていることが素晴らしいことではなく、幻想だと指摘できる人はほとんどいなかったのではないか」 ということばが現実を表しているようである。たとえば堀井憲一郎は『週刊文春]』の「ずんずん調査」 において、バブルが進行中で株価が急激に上昇していた日本では、バブルという言葉さえ存在していなかったという事実を指摘している程で、一般人の目にふれるところにバブルという言葉が出てきたのは、株価がどんどん下がりはじめた1990年のことだった。

① 日本経済新聞社編『検証バブル・犯意なき過ち』東京(日本経済新聞社)2000。

② 同、233ページによると、「現東大教授の野口悠起雄が土地バブルの存在を指摘したのは87年秋のことだった」とある。

③ 同、53ページ。

④ 『週刊文春』2009.8.13~20(夏の特大号)146~7ページ。ただしバブルという言葉については、①の書物その他でも検討されている。


 慣性の法則によってそうした運動の存在の認識を妨げられている地球の自転や公転の場合、すでに古代のギリシャ人によってその可能性は指摘されていたにもかかわらず、科学者たちの苦心の後に、ようやく近代において証明され、常識化したことは周知の通りである。それに対して日毎に自分たちの資産が驚異的に拡大しつつあるという異常事態においてさえ、ごく少数の例外を除くと、それがもたらす危険の可能性が察知できなかったことを考慮すると、ポーが描いた短編の主人公のように、自分がおかれている位置を正確に察知し得ているのはむしろ例外的な存在であって、通常人間は自分がどのような潮流に流されているのかを察知することは極めて困難な動物だと考えるべきではないだろうか。また人間とはそういう存在である以上、ポーの渦潮やバブルの場合のように、最後に危機的状況に襲われて、否応無しにその存在を認識せざるを得なくなるわけではなく、大河などでいたるところに生じていると思われる一時的な急流などのように、最後に深刻な破局を伴わない場合には、その現象はほとんど自覚されることなく見過ごされてしまうのではないだろうか。本論において私が取り上げようとしているのも、まさにそのような破局を伴わなかったために認識されなかった可能性が高い潮流である。それは敗戦を体験した国家が、何らかの幸運に恵まれた結果、ただ生き延びるためにのみ苦闘していたはずだのに、経済的にも文化的にも飛躍的に発展するという現象であり、中世フィレンツェでモンタペルティの敗戦を契機として発生したため に、私がモンタペルティ現象と名付けたものである。

⑤ 私が中世フィレンツェ史におけるモンタペルティの敗戦の重要性を最初に指摘した論文は、『大阪外国語大学学報』第69号(1985.3.31発行)に掲載された論文「中世フィレンツェの知的生産性飛躍の時期と契機」であった。その後経済的側面をも調べてその仮説を著書にまとめたのが、大阪外国語大学研究双書7として刊行した、『モンタペルティ・ベネヴェント仮説~中世フィレンツェの驚異的発展の謎に挑む~』(1993)であり、その残部がほとんどなくなったので、改訂して近代文芸杜から自費出版で刊行したのが、米山喜晟著『敗戦が中世フィレンツェを変えた~モンタペルティ・ヘネヴェント仮説~』東京2005、である。


  当時の年代記類にはその経過がかなりはっきりと記述されていて、ダンテの『神曲』においてすらその現象の影響が言及されており、古典教育に熱心だった時代に成長したイタリアの知識人であればおそらく一度はその数行を目にしているにもかかわらず、モンタペルティの敗戦後に生じたフィレンツェの驚異的な経済的・文化的発展に関しては、私の指摘以前には一度も敗戦との関連で考察されたことがなく、また私のそうした指摘に対しても、なんらの反響も生じていないのが現状である。そこで私は、資料が限られている中世フィレンツェからしばらく目を転じて、世界史上に現れた類似の現象について考察してみることにする。

Dante Alighieri, Purgatorio, XI, 109-114.


 すでに私が何度も記したとおり、この現象は敗戦によって必ず発生しているわけではなく、たまたまいくつかの好条件が重なった時にのみ発生している。まずそのために絶対不可欠な最低条件として、敗戦国が敗戦によって滅亡しない、という条件が挙げるべきであろう。しかし古代や中世の敗戦においては、おそらくこの条件をクリアーすることがまず困難であった。しかし中世フィレンツェの場合のように、さまざまな幸運が重なって滅亡を免れたばかりか、敗戦を糧として飛躍した例も稀ではないのである。しかもそうした顕著な実例が認められる場合には、同様の好条件に恵まれて、それほど顕著ではなくとも類似の現象が発生している可能性が高く、いわばモンタペルティ現象の鉱脈とも言える地域と時代が存在している可能性が高いのである。おそらく世界史にはモンタペルティ現象の鉱脈が幾筋も流れていて、発掘されるのを待っていると言っても過言ではない。

 その一例だけを挙げると、モンタペルティ戦争に大勝したものの、それから10年も経たない内に、フランスの武将ジャン・ブリトーのひきいるグェルフィ党軍にコッレ・ディ・ヴァル・デルサ の戦いに敗れたシエナの場合である。そこにも、フィレンツェのケースを一回り小さくしたモンタペルティ現象が発生していて、グェルフィ党に転向した9人委員会支配下のシエナ では、空前絶後の経済的、文化的繁栄を体験しているのである。似たような条件を抱えたイタリアのコムーネの場合には、このように大小さまざまなモンタペルティ現象が発生している可能性が大きく、そうした見地からイタリア・コムーネの歴史を再検討することも無駄ではなく、さらに重大な事例が発掘し得る可能性がある。

⑦ 米山の前掲書『敗戦が中世フィレンツェを変えた』のpp.145-7に、この戦争の経緯が記されている。

⑧ この時代のシエナについては、W.M.Bowsky, Un comune italiano nel Medioevo Siena sotto il regime del Nove 1287-1355, Bologna (IL MULINO)1986.  がくわしい。


 だがそうした、世界史の中に隠されたモンタペルティ現象の鉱脈を探る試みは別の機会に論じることにして、本論では自分の生きた時代に見聞することができた、第二次世界大戦後の世界に発生したモンタペルティ現象について論じることにしたい。大戦後日本で発生したモンタペルティ現象については、すでに一度、中世フィレンツェとの比較と両者の共通点というテーマで論じたが、本論では同じ大戦において、日本とともに敗北したドイツおよびイタリアとの比較という形で論じることにする。

 第二次世界大戦に敗れた日、独、伊の三国では、敗戦直後には苦難の日々が訪れたが、その後例外なく「経済の奇跡」が発生した。「奇跡」も三度も起こればもはや「奇跡」ではすまないはずである。むしろ同様の状況から生まれた類似の現象と見なすべきではないだろうか。すでに何度も記したとおり、モンタペルティ現象とは、「ある国が何らかの幸運に恵まれて、敗戦を契機として経済的、文化的に異常な繁栄を示す」 現象のことなので、要するに三つの国で発生した奇跡こそ、まさにモンタペルティ現象の典型的な実例であると見なすことができるはずである。そこで本論では、続く第一章でまず三つの奇跡が敗戦とどのように関連して発生しているかを明らかにしたい。ついで第二章では、三つの国に見られる共通点を把握することによって、奇跡を発生させた基本的な条件はなんであったか、をも明らかにしておきたい。その際には、ドイツの東側にあってソ連の衛星国となったために、コメコン中の優等生といわれながら、ついに「経済の奇跡」とは縁がなかったドイツ民主共和国(東ドイツ)との比較が貴重なヒントを与えてくれるはずである。

⑨ 私はこの現象の定義をあまり厳密に規定する必要を感じていない。むしろその存在がひろく認められて、色々な立場から吟味されることを期待したい。


 さらに中世のフィレンツェ共和国の場合、この現象は経済面での発展のみならず、驚異的な知的生産性の発展をもたらしたが、敗戦後の三国の場合はどうであったのか。あるいはすでに私が指摘したとおり、戦後の日本では引き揚げ者が文化面において驚くべき存在感を示しているが、ドイツやイタリアでは類似の事例は認められるのであろうか等々、現代のモンタペルティ現象に関しても、興味深い問題がいろいろと目につくことは確かである。しかし紙数が限られているので、本論では安全保障の問題に的を絞って考察しておきたい。なぜなら中世フィレンツェの場合、モンタペルティ現象による国民の軍事離れの影響で従来の防衛体制が徐々に変化し、結局半世紀余り後からは、対外戦争はもっぱら外国人の傭兵に依存することになり、国防と財政の両面でサッケッティやマキアヴェッリなど後世の市民を嘆かせるような事態が発生しているからである。敗戦の結果として同様の軍事離れが予想される三国に関して、これはどうしても見ておかねばならない問題なのである。

⑩ 拙稿[『「モンタペルティ現象」試論』国際文化研究39号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2009、175~7ぺ一ジ。(「百万遍第3号」所収、59~62ページ)

⑪ 拙稿『モンタペルティ現象はイタリア・ルネサンスにどのように寄与したか』国際文化論集第40号、大阪(桃山学院大学総合研究所)2009、47~55ぺ一ジ。(「百万遍第4号」所収、75~89ページ)


 あらためて断るまでもないが、私は現代史に関しては全くの素人であり、利用することができる資料はほとんど一般書であり、何とか理解して利用することができる専門書はごくわずかなものに限られている。このような不用意な形で現代史を論じることは許されないと感じる方々がおられても当然であるが、これまで設定されたことのない独自な視点から行われた考察は、これまで指摘されたことがないユニークな示唆を与える可能性がないとは言えない。すでに中世フィレンツェ史に関しても、従来学問的には謎とされていたいくつかの問題を、この現象の存在を認めることによって一応の説明を与えることができたものと私は信じているのであるが、現代史に関連して、たとえばホブズボームの『極端な時代20世紀の歴史』が提出している謎 に関してはどうであろうか。

⑫ エリック・ホブズボーム著、河合秀和訳『極端な時代・20世紀の歴史』東京(三省堂)1996、p.14以下参照。本論はこの謎を最終章で取り上げて検討する。


 もう一つここで忘れてはならないことは、「明日のことは闇である」という厳然たる真理である。いかに博識で洞察力に富んだ入間といえども、この真理は否定できないはずである。しかし同じような体験をした国家の先例が、闇の中で一筋のヒントを与えてくれないとは言いきれない。規模といい状況といい、中世フィレンツェと現代の日本、ドイツ、イタリアとでは余りにも違いすぎる、という見解もたしかにもっともであるが、類似した現象を体験したという先例に、何らかのヒントを求めることぐらいは許されるのではないだろうか。そうでなければ、歴史研究は好事家的な過去の探求に止まらざるを得ないのではないか。勿論過大な期待は禁物ではあるが、そのヒントが、漆黒の闇に一筋の光りを与えてくれることを期待することは、虫が良すぎることではないと私は信じている。



第一章 モンタペルティ現象として見た

日独伊三国の「経済の奇跡」


 周知のごとく、それぞれ異なった事情から第二次世界大戦を引き起こした日、独、伊の3カ国は、やはりそれぞれ大いに異なった仕方で戦い、それぞれ異なった経過の後に、別々の時期に降伏した。最も複雑怪奇な形で敗戦を迎えたのはイタリアで、一部支配層と軍部の協力で早くも1943年7月末にムッソリーニを解任して連合国との交渉を始め、同年9月には休戦協定を公表したにもかかわらず、国土の大半がドイツ軍に占領されていたために内戦状態が発生し、ドイツ軍の力で支えられてきた傀儡国家サロー共和国が崩壊して、その首長だったムッソリーニがパルチザンの手で殺害されたのは、ようやく1945年4月28日のことであった。第二次世界大戦の元凶ヒトラーが、ソ連軍のベルリン侵入を知って自殺したのが4月30日なので、その差はわずか2日に過ぎない。

 しかし両国の状況は大いに異なっていた。イタリアでは、駐留しているドイツ軍とそれを駆逐しつつ北上した連合軍はいずれも主力ではなく、いわば二軍同士の戦いだったためにかえって戦闘は長引き、連合軍によるローマ解放はようやく44年6月のことで、ドイツ軍がフィレンツェとボローニャの間に引いたゴート・ラインを突破したのは、さらに1年近く遅れて45年4月を待たねばならなかった。だがサロー共和国が連合軍の北上とイタリア人自らのレジスタンスによって崩壊すると、一応その時点で国家の分裂状態は収まった。それに対してドイツでは、東方からはドイツの侵略に対する復讐の鬼と化したソ連軍が侵入し、西方からは米英仏その他の連合軍が侵入したために、その国土は外国の軍隊によって躁躍され、自殺したヒトラーの後継者が正式に降伏した後でも、ソ連軍が占領した地域では略奪と暴行の日々が続き、その他の地域も米、英、仏などの軍隊に占領されて、ドイツ自体四分五裂したまま、将来いかなる形でおさまるか予想もつかない有り様だった。

 1945年5月以降、日本はただ一国取り残されて、世界相手に単独で戦い続けた。今日の目には、沖縄戦から原爆投下に至るその後の3ケ月半は、無益な人的・物的資源の蕩尽の日々としか考えられない。それまでに流し続けた虚偽の情報が醸成した幻と現実との落差が大きすぎるために、当時実質的に日本を支配していた陸・海両軍の首脳部自体、ドイツが降伏した後で、ただ一国世界と戦っているという事態の意味が分からなくなっていた可能性が高い。それはほとんど敗戦の直前まで持ち続けた、ソ連に仲介役を期待するという、今日では信じ難いほど愚かな構想からも推察し得ることである。もしも陸・海両軍の首脳部がわずかでも誠実に日本の将来を考えていたのであれば、戦い続けても日毎に戦災の犠牲が増えるばかりで挽回の可能性が皆無である以上、逸速く時の内閣に対して降伏を進言したはずである。幸い昭和天皇らの英断によって、1945年8月15日にポツダム宣言受諾が告知されたが、もしもあの機会を逃していたら、日本列島はアメリカ軍のみならず、ソ連軍その他の連合軍によって蹂躙され、日本もドイツ同様四分五裂していたかもしれない。しかもそうした分裂状態は、南北朝鮮の現状から想像されるとおり、決して癒えることなく今日も続いていたはずである。

 こうして生じた世界の戦後体制の中で、日本と較べると丸二年以上も早く連合国と休戦条約を結んだだけあって、やはりイタリアの復興は他の二つの敗戦国よりも一歩先んじていた。ドイツ軍との戦いやサロー共和国支配下の地域に対する連合軍の爆撃などは意外に大きな損害を及ぼしたのだが、それでもドイツや日本が受けた損害と較べると、イタリアの損害は軽かった。とりわけ産業界はそうであって、たとえばポール・ジンスボーグが紹介した資料によると、戦前の1938年の統計で全労働人口の14パーセントを占めてイタリアを代表する産業の一つだった繊維業は、同業界のライバルである日本やドイツが重大な打撃を受けて立ち遅れているのに対して、ごくわずかな損害しか受けておらず、敗戦直後からそれらの工場を稼働することができたので、有利な地位を占めたのだという。世界有数の着倒れ国イタリアのことだから、ファシズム戦時体制下の統制から解放された繊維・服飾産業の関係者たちは、戦後の何年かにわたって、まず余裕が生じた始めた国内で発生し、その後引き続いて国外でも発生した膨大な需要に応えるために、戦災の結果生じたエネルギー不足や交通機関と市場の混乱などに妨げられながらも、かつての好況時の日本の繊維業界と同様、ガチャと機械を動かして万儲け、コラと言われて千差し出す、「ガチャ万、コラ千」の時代を長年にわたって謳歌していたことは想像に難くない。

Paul Ginsborg, Storia d’Italia dal dopoguerra a oggi Societa e politica 1943-1988, Torino(Einaudi)1989, p.96, (nota 6).


 同盟国だったはずのドイツ軍といきなり激しく戦い始めたイタリア人の変わり身の早さには、連合軍も幻惑されてしまったらしく、敗戦後に連合国による占領や指導や援助は行われはしたものの、ニュルンベルクや東京で行われた戦争犯罪の裁判に類したことは、イタリアでは行われていない。この一事を見ても、第二次大戦の戦勝国による戦争犯罪裁判の無原則性は明らかであるが、それに代わるものとしてイタリアで行われたのは、パルチザンと群衆によるファシストとドイツ軍協力者の粛清であった。ムッソリーニ自身も愛人とともに粛清され、その遺体がミラノの広場に逆さ吊りされたことや、かなり状況は異なるが、ファシスト政権の公共教育大臣を務め、今日でも評価が高い「百科事典』を編纂した哲学者ジェンティーレがフィレンツェで暗殺されたことは有名である。『マレーナ』という映画にも、ドイツ兵相手の娼婦だった戦争未亡人が、女たちからリンチを受ける場面が描かれている。ケンブリッジ版の『イタリアの歴史』の著者ダガンは、「1945年の春から夏を通じて、粛清と粛清に対する報復が手当りしだい繰り返された。四月から六月の間だけでも、おそらく一万五千人くらいの死者が出たと思われる」と記している。

② クリストファー・ダガン著・河野肇訳『(ケンブリッジ版世界各国史)イタリアの歴史』東京(創土社)2005、343~4ぺ一ジ。


 こうした粛清は、ファシズム時代の弾圧に対する報復や、イタリアで虐殺を繰り返したドイツ軍への協力に対する制裁として、その動機は理解できるけれども、その後の経過と比較すると極めて不公平なものだったと言わざるを得ない。なぜなら粛清の嵐が吹き荒れた後、いざ冷静にファシズムを裁こうとした途端、その裁判は腰くだけになってしまったからである。ダガンの説明によると、戦前のファシズム体制下では、公務員はもとより、労働者、経営者や知識人にも何百万人ものファシスト党員がいて裁く相手が多すぎた上に、裁く側の判事や陪審員も元ファシスト党員だったために、多くの裁判所が審理を拒否したのだという。こうして元ファシスト党員の多くは、粛清されるどころか、辞任することもなく元の地位にとどまることができたらしい

③ 同、344ぺ一ジ。


 いずれにせよ、こうした内戦や混乱が続いていたにもかかわらず、イタリアのかなりの部分では、早くから平時に近い経済活動が蘇っていた。ダンテの『神曲』の中で、モンタペルティ敗戦によってフィレンツェ市民は好戦熱を意味する「傲慢の狂気」から、金儲けに熱中する「貪欲の狂気」への転向を成し遂げたと語られているが、第二次世界大戦後の日本やドイツにおいては、国民の間で同様の転向が認められたことは確かである。それに対して1922年以来久しく続いていた独裁体制の下で、ヒトラーの連戦連勝に引きずられて1940年6月から世界大戦に加わったイタリア人の多くは、軍備が整わないため一度は非交戦国宣言を行ったという事実からも分かるとおり、表面では軍国主義に熱狂している振りをしていても、それほど「傲慢の狂気」に取り憑かれていたとは思われない。一方「貪欲」の方は中世以来定着していたので、日独両国のように大規模な国民の転向は必要なかったはずである。

④ 本論の「はじめに」の注⑥ 参照。


 その反面イタリアは、およそ3世紀余りにおよぶスペインとオーストリアの支配の下で、ドイツ(や英仏など)に較べると、経済全般、とりわけ産業の発達においてはるかに遅れていたことや、エネルギー資源の不足や戦後のインフレによる混乱などのために、早い時期のスタートという有利な条件を十分には生かし切れなかったきらいがある。先に記した繊維・服飾関係など一部の業界だけではなく、イタリア経済全体が奇跡と呼ばれるほど好調な状態に入り、そのことが統計的に確認されるためには、1947年のエイナウディによる引き締め政策や、世界の共産化を避けたいアメリカによって行われた1948年から50年にかけてのマーシャル・プランによる巨額の経済復興援助などが行われた後の1950年代前半まで待たねばならなかった。

 かつて、日本の予算にも関係したことのある大蔵省の高級官僚が、イタリア大使館に出向して一等書記官を務める傍ら、戦後イタリアの経済に関する著書を刊行した。それが藤川鉄馬著『イタリア経済の奇蹟と危機』 である。(同書では「奇蹟」と記されているが、本論では「奇跡」の文字で統一する。)

⑤ 藤川鉄馬著『イタリア経済の奇蹟と危機』東京(産業能率大学出版部)1980。


  多忙な公務の中で、わずか3年という短い期間に多数のイタリア語の専門書を読破して、敗戦から1970年代の末ごろまでのイタリア経済の変動を把握し、500ページ近い大著にまとめ上げたその力量には、私のような怠惰なイタリア研究者は唯々脱帽、感嘆したことを白状しておかなければならない。藤川一等書記官がイタリアに在任していたのは1975年から78年のことなので、すでに「イタリア経済の奇跡」はとっくに終わっていて、イタリア人が石油ショックや数々のテロを経験しながら「鉛の年」と呼ばれる歳月を送っていた時期のことであり、当然著者の関心は奇跡よりも危機に向けられていて、その著書も大半は「危機」の原因究明のために割かれている。しかし「鉛の年」を理解するためにはその前に経過した「経済の奇跡」を無視するわけにはいかず、簡潔にではあるが、その現象が紹介されている。他方イタリアでひろく読まれている、ジンスボーグの『戦後以来今日までのイタリア史』にも、「経済の奇跡、田舎からの逃走、社会的変貌、1958~63年」 という章がある。以下では主に両書の記述に基づいて、「イタリア経済の奇跡」を概観してみよう。

Ginsborg, op.cit., pp, 283-343.


 藤川の著書の16ページの表を見ると、著者が敗戦以後70年代末までのイタリア経済を4つの時期に分けていることが分かる。すなわちそれは、表では扱われていない「経済の奇跡」以前の時期と、「奇跡の経済成長」と彼が名付けたⅠ期(1953年~63年)、「しのびよる危機の中での経済成長」と名付けたⅡ期(1964年~73年)、そして「危機の中の経済」と名付けたⅢ期(出版時期の関係で1974~79年とされているが、勿論危機はまだ終わっておらず、80年代の前半にも続いていた)である。それに対してジンスボーグは、「経済の奇跡」の時期をわずか6年間に限定している。

⑦ 藤川の前掲書、16~8ページ。


 私のような経済の門外漢が勝手な印象を語ることを許されるならば、藤川が成長率に基づいて行った時代区分はイタリアの状況からいくらかずれていて、とりわけⅡ期につけられた「しのびよる危機」というタイトルは、イタリア社会全体の動きから見ると穏やかすぎるように思われてならない。なぜなら社会的公平を求める大学紛争が激化した68年ごろから明らかにイタリアでは危機が迫っており、その影響が労働運動に飛火し、「経済の奇跡」の成果の公平な分配を求めて労働協約の改訂を要求して、過激なスト、工場占拠、デモなどが相次いだ「熱い秋」の69年以降ははっきりと危機の時代に入っていたという印象が否めないからである。 その一方で、本論にとって最も重要な意味を持つ「経済の奇跡」の時期に関しては、ジンスボーグよりもそれを5年早く認めている藤川の方に軍配を上げたいと思う。ジンスボーグが挙げたわずか足掛け6年だけの奇跡では、イタリア経済を一変させた第一次産業から、第二次、およぴ第三次産業への大規模な転換や、南部から北部への大量の移住などといったイタリア史上未曾有の変化は到底起こり得なかったはずだからである。そうした大きな変化をくわしく記したジンスボーグ自身の記述が、さらに彼が奇跡以前と以後の比較を、1951年と64年の数字で比較しているという事実 自体が、そのことを裏付けているのではないだろうか。藤川が示した期間でさえも、変化の結果が明らかになった時期であって、それ以前に準備期間があったはずである。

⑧ ジンスボーグによると、1960年代の制度改革で急増したものの、卒業しても就職できない大学生が67年以後にまず激しい抗議の声を上げ、68年にはその運動がさらに盛り上がり、労働運動に飛火して69年の「熱い秋」につながったとされている。また学生運動が労働運動にこれほど影響した例は珍しいとも記されている。

Ginsborg, op. cit., p.296.


 大体イタリアという国は、19世紀半ば過ぎまで四分五裂していて、犬猿の仲であったと言われるカヴールとガリバルディが、それぞれイタリア独立戦争と千人隊のナポリ王国解放という大博打に勝ったことから、まさに奇跡のごとく統一された国であり、経済全般、とりわけ産業の発展において、先に記した外国支配に、頑迷なカトリック教会による近代化への抑圧が加わって、(特に南部では)周辺の近代国家から大きく差をつけられていた。国家の統一そのものはドイツの方が遅れたが、外国支配を免れていて、カトリック教会の抑圧にも束縛されておらず、近代化が進んでいた点が、イタリアとは大きく事情を異にしていた。イタリア統一の核となったサルデーニャ王国の宰相カヴールが、独立戦争を自国の軍隊だけでは戦えず、狡猾な外交でフランスを巻き込まねばならなかったのに対して、プロシャはオーストリアとも、フランスともほとんど自力で戦ってドイツの独立を達成し、たちまち当時の超大国大英帝国のライバルとなっている。このように遅れていて貧しいイタリアが、周辺の近代国家との差を一挙に縮めて、大英帝国の末裔連合王国やフランスなどとGNP等の数字でほとんど肩を並べる に至るまで成長するためには、並々ならぬ努力と幸運が必要だった。たしかに戦後、英・仏両国が植民地の大半を失って落ちぶれたという事情はあったが、ともかく戦後のイタリアは、先進国の仲間入りを済ませて、G8にも加わっているのである。このような成長の原因は、ファシズム時代あるいはそれ以前からの蓄積と、第二次大戦後に起こった「経済の奇跡」の成果以外には考えられないが、戦争による損害や戦後に起きた産業構成の転換などから考えると、やはりその成長要因の内で、「経済の奇跡」の占める比率が圧倒的に高かったことと思われる。

⑩ ダガンの前掲書『(ケンブリッジ版世界各国史)イタリアの歴史』391ぺージ所収の「国民1人当たり国内総生産の比較(1870~1988年)によると、1870年にはアメリカを100として、イギリス120、ドイツ63、日本27であるのに対し、イタリアは61、1950年には第二次大戦の影響で、アメリカ100、イギリス61、ドイツ38、日本はわずか15、イタリアは28という大きな格差が生じたが、1973年にはアメリカ100、イギリス66、ドイツ69、日本60、イタリア55となり、さらに1988年にはアメリカ100、イギリス68、ドイツ73、日本73、イタリア68となり、イタリアはほぼイギリスとほぼ同水準の生産性に到達している。以上の数字によっても、日・独・伊三国の戦後の復興の目覚ましさが理解できるはずである。


 藤川は、1950年から60年代の20年間に、西欧諸国の中で(西)ドイツを除くとイタリアが最も高い経済成長を遂げ、とくに1953年から63年にかけて「奇跡の経済成長」を達成したと記した後、「奇跡の経済成長の実現は、戦後において、イタリア国民が、日本の場合と同様に、犠牲を甘受し、資源を生産に振り向けることに努力したことの成果である」 として、平均6.4%という高い成長率を実現したこと、そうした高度成長の推進力は、①輸出の伸びと、②民間の投資活動、だったと説明している。輸出は年平均実質14%の伸びを示し、投資は年平均8%の高水準を維持したとする。さらにこの奇跡の経済成長をもたらした要因として、①労働コストの上昇が控え目に推移して、生産性の向上が労働コストの上昇を上回ったことと、②当時は原材料が安く、交易条件がイタリアにとって都合が良かったこと、などを挙げている。 また戦災が軽微だったとするジンスボーグの指摘とは矛盾するが、イタリアでは戦災で多くの生産設備が破壊されたために、かえって新しい設備を導入したことが、イギリスなどに対する優位をもたらした、と記している なお今指摘した矛盾は、藤川が示した戦災による生産設備の損害が産業部門全体で8%、金属機械部門では25%という偏った数字 から、繊維部門では損害が軽微だったと考えると納得できるであろう。また産業部門全体の戦災による損害が8%だったという数字は、全体的に見て生産設備の9割以上が無事だったことを意味し、決して大きいとは言えないだろう。

⑪ 藤川の前掲書、19ページ。

⑫ 同、19~22ページ。

⑬ 同、23ぺ一ジ。

⑭ 同、472ぺ一ジ、注*2・8による。


 それに対して、「経済の奇跡」をはるかに遅くかつ短く設定したジンスボーグは、50年代半ばまで多くの面でイタリアが低開発国であり、1951年の国勢調査でも全人口の42.2%が、南部では56.9%が、「農業・狩猟・漁業」に従事していたとし、さらに南部の48%が不完全雇用だったとする。「経済の奇跡」は、これらの人々を第二次および第三次産業への転業させた。すなわち農業従事者のみに限ると、51年から64年までの間に、北・西部では25%から15%へ、中部では、44.3%から23.3%へ、そして南部では56.7%から37.1%へと減少させた。南部における農業の比率だけが依然として高いのは、他の産業の発達が停滞しているためであり、南部の貧しい人々はそのため北・西・中部イタリアやヨーロッパ北部へ移住しなければならなかった。ジンスボーグは「奇跡は本質的に北部の現象(fenomeno essenzialmente settentrionale)であり、南部の最も活動的な人々はあまりそれに気付かなかった」 と記しているほどである。なおジンスボーグの文中に用いられた「北部の(settentrionale)」と言うことばは、南北問題における「北部」、すなわち「南部」以外の地域を意味していて、先に挙げた地域名の「北部(nord)」とは単語も意味も異なっている。このように南部からの人口の大量流出によって生じた豊富な労働力(に基づく低賃金)を武器にして、イタリアの産業界は当時創出されたばかりのヨーロッパ共同市場に大いに進出した。さらにエンリコ・マッテイが1953年に設立したENI(炭化水素公社)によるポー川流域の大メタン田の発見など様々な幸運にも恵まれて、奇跡は一段と盛り上がった。こうして生活水準が向上した結果、ついには一般家庭にまで洗濯機、テレビ、冷蔵庫などの電化製品や自家用車が普及するというイタリア経済全般の発展ぶりをたどりながら、同時にジンスボーグはその裏面に生じた大きなひずみ、特に大量の移住がもたらした南部からの移住者たちの苦痛などの数々の問題点を明らかにすることによって、奇跡以後の危機をも予感させている。

Ginsborg, op.cit., p.283.

Ibid., P.296.

Ibid., p.292.


 これに対して戦後のドイツでは、ヒトラーの自殺以後イタリアに比してはるかに苛酷な状況が出現し、ベルリンを含む東側の地域はソ連軍の支配下に入り、その傀儡国家がモスクワ帰りのウルブリヒトの下で建設されると、1989年にベルリンの壁が崩壊するまで統一されることはなかった。アメリカ、イギリス、フランスなどによって分割統治された西側の地域はほぼ同時に連邦共和国を形成したが、いくつもの大きな課題を抱えていた。その主なものを数え挙げただけでも、気が遠くなりそうな難題が山積していたという印象を受ける。まず先に見たとおり、国土は空襲と地上戦によって焦土と化していたこと、そのために国民全体が深刻な食糧難と住宅難に悩まされていた上に、ソ連軍に追われて東欧諸国や旧ドイツ領から着のみ着のまま逃走してきた難民が、本来の人口が5000万人足らずの地域に、アーベルスハウザーによると当初におよそ710万人、その後に250万人、併せて約1000万人が流入し、またその内の3分の1が援助を必要としていたこと、 連合国特にソ連やフランスからのきびしい賠償の追及が予想されたこと、さらにヒトラーが行わせた途方もないユダヤ人殺害の実態が明らかになるにつれて、罪の意識が国民に重苦しくのしかかっていったこと、等々。

⑱ ヴェルナー・アーベルスハウザー著、酒井昌美訳『現在ドイツ経済論一九四五~八○年代にいたる経済史的構造分析』東京(朝日出版社)1994、126ページ。木村靖二編『ドイツ史』東京(山川出版社)2001、「第九章 分断国家の成立・安定・変容(分担執筆者は平島健司)」の338~9ページには、「被追放民」の総数は1000万人以上におよび、「多くの戦死者にもかかわらず、48年10月までには英米占領区の人口が、36年の水準よりも四分の一程も増加した、といわれている」とある。


 しかし戦後のドイツは、イタリアの場合とは異なった意味で、私たち外部の観察者を幻惑させる。イタリア語の教師として、イタリア語を専攻している学生たちにとって必須の知識である近現代史の概説を長年くり返してきたイタリアとは異なり、私はドイツに関してまさしくすべての点で門外漢であるが、幸いドイツ研究はイタリア研究よりもはるかに層が厚くて日本語の研究書が多く、ドイツ語を用いなくともかなりくわしいことを知ることができる。「経済の奇跡」に関しても、いくつかのドイツ史の概説書などの他に、現代ドイツの経済史として古内博行著『現代ドイツ経済の歴史』 や敗戦後の35年間だけを扱った研究書としてヴェルナー・アーベルスハウザー著『現代ドイツ経済論一九四五~八○年代にいたる経済史的構造分析』など、親切な研究書が何冊も存在していて、門外漢を助けてくれる。特に後者は、「である」止めの文章が連続して現れることなど、翻訳にいくらか難があるが、「ドイツ連邦共和国の歴史は、とりわけ、その経済史である。西ドイツ国家ほどその経済発展によって強く特徴ず(ママ)けられているものはない。他のいかなる分野においても、その業績がここよりも明白であるものはない」 と大胆に言い切っている冒頭の言葉(この訳文にも異論の余地があるかも知れないが)から、この著者はただものではない、という印象を受けるはずである。実際その期待は裏切られることなく、ドイツの「経済の奇跡」に関して目から鱗が落ちるような指摘が次々と行われていて、専門的知識のない私ごときが理解できたとは到底言えないが、何度も読み返した結果、わずか本文230ぺージという小著であり、主にドイツの内側から行われた考察には、古内が指摘したようないくつかの死角が認められるにもかかわらず、やはりドイツの「経済の奇跡」の重要な側面を伝えている優れた著書であることを認めざるを得ない。

⑲ 古内博行著『現代ドイツ経済の歴史』東京(東京大学出版会)2007。

⑳ アーベルスハウザーの前掲書、3ぺ一ジ。


 アーベルスハウザーが行った重要な指摘の一つは、ドイツの戦災の被害に関するものである。すでに見たとおり、ドイツは激しい空襲を受けた後に、東西両面において地上戦にも見舞われた。だからたとえば私の場合、敗戦直後のドイツの都市のイメージはというと、映画『戦場のピアニスト』などで見た、戦災で廃虚と化した都市である。ところがアーベルスハウザーは、私などの想像を完全に覆す数字を突き付ける。1945年の敗戦の時点でドイツに残されていた総設備資産は、戦前の1936年を100とすると、戦災によって減少するどころか増加していて、120だったとしているのだ。すなわち世界恐慌後から連合軍の爆撃開始までの10年間は、未曾有の投資活動の時代だったので、+75.3の総設備投資が行われたため、減価償却-37.2と戦災-17.4を差し引いても+20が残されたのである。-17.4という数字は、イタリアの産業全体が受けた損害-8%にほぼ対応するものと思われるので、やはりドイツではイタリアの2倍を上回る損害を受けたようであるが、それでもドイツには、戦前を上回る設備が残されていたわけである。さすがに1946~48年の2年間には設備投資も+8.7に圧縮され、減価償却-11.5の他に、復旧-11.5、(賠償のための)工場撤去-4.4を差し引くとマイナスになり、48年の111.1という数字が、連邦共和国が戦後経済的にスタートした時点での総資産だとされている。すなわち戦後のドイツは、瓦礫の町と化しているという私達の臆測を完全に裏切り、戦前よりも約1割充実した設備で出発したということになる。

㉑ 同、21ぺージの表参照。

㉒ 同、同上。


 これは私たちが想像していた事態と大いに異なっているが、実は敗戦直後一時的に産業が麻痺していたドイツを目の前にした財政の専門家たちも、私のような門外漢同様の錯覚に陥っていたらしい。アーベルスハウザーは、「他方、終戦直後に空爆による損失規模は非常に過大視されたのである。これについて特徴的なのは、イギリス占領地域の州・地方(ラント・プロヴィンツ)の蔵相たちの印象である。-----彼らは1945年末《ほとんどドイツ工業化初期にまで後退してしまった》生産機構の前にいると信じていたのである。だが実際には、空爆は工業に-----軍需工業にすら-----ほとんど効果らしきものを残さなかったのである。空爆の重点は、住宅地への絨毯爆撃とならんで、輸送システムの諸目標にむけられたのである。民間人と運輸施設に、爆弾の投下量は、軍需産業へのそれよりも、ときには7倍も多かったのである。それゆえに、1944年半ばから始まった工業生産後退は工業設備資産の破壊のせいではなくて、輸送システムの麻痺のせいだったのである。とりわけルール地方を起点とする石炭輸送の遮断は、ドイツ戦時経済の破壊にとり最も重要な個別原因の一つなのである」 と記している。

㉓ 同、22~23ページ。


 設備資産はほぼ健全だったが、交通機関が破壊されていたために、当時最も重要なエネルギー源だった石炭の供給が遮断されて全国の産業が麻痺状態に陥っていたという事実は、アーベルスハウザーにとって極めて重要で、彼は1946年から47年にかけて交通麻痺のためドイツ産業は深刻な危機に陥るが、1947年の10月に「2万9千7百台の破損車輛の修理プログラム」 を完了したことによってその隘路を打開して以来順調に回復し、ほぼ自力で回復を遂げたと見なしているのである。「1947年に始まり、ほぼ20年以上に及んだ持続性のある高い生産増大率への躍進は、だいたいは外部からの援助なしに成功したものである。(中略)他方生産上昇開始は輸出増大以上に外国貿易の活性化を可能にしたのである」 とか、「(さすがの彼も後の部分でこの援助にさまざまな効果があったことを認めてはいるが)マーシャルプランは、西ドイツ経済再建に最初は何ら大きな役割を果さなかったのである。1947年秋に始まった景気上昇は要するに外部援助なしに成功したものである」㉖ などの文章に、彼の考えが端的に表されている。 

㉔ 同、53ぺージ。

㉕ 同、56ぺージ。

㉖ 同、69ページ。


 どうやら当初は解決困難な難題に見えたもののいくつかが、実際には連邦共和国にとって有利な条件だったことが明らかになっていったようである。まず戦後ドイツ最大の難題として国民を悩ませることが予想された賠償の場合、もっとも強硬にその権利を主張したソ連が、早々と自らの占領地域を囲い込み、もっぱらその地域から工場をロシアに移転することなどを通して莫大な賠償を取り立てる一方で、条件次第では統一を認めないわけではないというポーズを取りながらも、逸速く土地改革 などを行って民主共和国という名の独裁的傀儡国家を独立させたが、そうした強引なやり方は、残りの部分が集まって形成した連邦共和国に様々な恩恵を齎すことになった。当初フランスは、ソ連と並ぶ対独強硬派であり、一時期自分の占領地の工場を移転させたり、石炭の豊富なザールラントの併合を企てたりしていたようだが、第一次世界大戦後のドイツヘのきびしい制裁がナチを育てて、結果的に自国の占領という形で我が身に降りかかって来たという体験や、米英両国による誘導、とりわけ1948年以降にアメリカから31億400万ドルのマーシャル・プランの援助を受けたこと㉙ などが相俟って、ドイツの産業を戦後ヨーロッパ再建の主柱として育成する米英の方針に協調することになった。

㉗ 木村編『ドイツ史』340ぺージなど。

㉘ たとえばアーベルスハウザーの前掲書、19~20ぺージに、フランスが拒否権を行使して行った強硬な主張が記されている。24ぺージには、西側占領地区の内でフランス地区のみで、人口が減少したとされている。あるいは古内の前掲書、71ページ。

㉙ アーベルスハウザーの前掲書、81ぺ一ジ。


 実はこの米英の方針なるものも、大戦中から一貫していたものではなく、ルーズベルト大統領の下でモーゲンソー財務長官などによって構想されていたのは、将来アメリカの競争相手となることが予想されるドイツの産業の復興を抑圧してドイツを農業国に変える方針だったらしい。しかしソ連との対立が激化して冷戦状態が発生したことに加えて、もう一つドイツに対する方針転換をもたらした重要な要素があったことを古内の前掲書が指摘している。

㉚ しかしそのプランは、結局古内の前掲書、51ページなどにも見られる通り、戦後の世界では、現実化し得ない空論と見なされた。


 古内によると、ヒトラーの占領の結果西ヨーロッパの広域が統一されたが、その占領と戦っていたレジスタンス勢力自身の中からヨーロッパ統一を推進する動きが生じ、また早い時期にドイツによって占領されたベネルックス三国が、自らの被占領体験からドイツ産業抑圧の方針を受け入れなかったばかりか、逆にドイツの産業を大戦後のヨーロッパ再建の主柱とする方針を推進したのだという。結局米英両国もこの方針を受け入れ、フランスもこうした方針に同調せざるを得なくなり、ドイツ産業抑圧の方針を180度転換して、1951年4月にベネルックス三国にドイツ・イタリアを加えてヨーロッパ石炭鉄鋼共同体を結成し、その後はこの組織をECCからEUへと育て上げるために協力して、今日のEUの主柱的存在となっている

㉛ 古内の前掲書、67ぺ一ジ。なおレジスタンスからヨーロッパ統合の機運が生じた経緯については、古内の前掲書の「第一章 ヨーロッパ問題とドイツ問題」で明らかにされている。

㉜ 周知のごとく、1950年フランス政府がジャン・モネの起草になるシューマン・プランを発表し、その構想に基づいてベネルックス三国とフランス、ドイツ、イタリアの6カ国がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ECSCを結成したことが、後のEEC、そして今日のEUの基になっている。当時、 フランス以外にこうした役割を果たせる国はなかった。


 さらにその総数をまとめると1000万人近いとも言われる東欧諸国やソ連軍占領下のドイツから逃亡してきた人々は、多くはまだ若く、かつ医師や技術者などといった何らかの分野の専門家やその卵である場合が多かったために、新生連邦共和国にとって貴重な活力となった。しかもこれらの人々の大半は、ただ生き延びるために入国した難民や出稼ぎ労働者とは異なり、自らの意志と足とで祖国にたどりついた人々なので、無自覚に祖国に生まれ育った人々以上に、ドイツに対する愛着と忠誠心を持っていた。これこそまさに戦後日本の引き揚げ者に対応する人々であるが、戦後の日本でドイツの数分の一に過ぎない日本の引き揚げ者たちの中から、どれほど多くの個性的な大物が現れたかは、かつて私が桃山学院大学『国際文化論集』39号所収の論文『「モンタペルティ現象」試論』(「百万遍第3号所収)で指摘しておいた通りである。ドイツでは「経済の奇跡」が「被追放者の奇跡」 と呼ばれることがあるそうだが、これだけ多数の引き揚げ者がいれば、奇跡が発生しても少しも不思議ではないという感じがしてくるであろう。逆にこうした貴重な人材を多数流失させた東ドイツや東欧諸国では、その後慢性的な人材不足に悩むことになる。特に東ドイツでは、ベルリンの壁を建設して厳しく監視したにもかかわらず、その後も慢性的な人材流出に悩まされ続けたことは周知の事実である。

㉝ 古内の前掲書、85ぺージ。


 すでに見たとおり、アーベルスハウザーはその著書の中で、ドイツが自力で奇跡を引き起こしたことを強調しているのだが、古内は彼が2006年に日本で行った基調報告において、「西ドイツ経済の負担で西ヨーロッパの復興を促すことをやめ」、「ドイツ経済の潜在力を西ヨーロッパの再建に利用する」 というアメリカの決定に関して、「この決定そのものの方が、その援助プログラムそのものよりも、比較にならないほど重要であった」 と認めていることから、「彼は資本ストックの健在や運輸網の回復を西ドイツ経済の復興要因とするかつての自説を事実上修正している」 としている。

㉞ 古内の前掲書、82ぺージの注46)。

㉟ 同上。

㊱ 同上。


 だがアーベルスハウザーは元々マーシャル・プランによる援助そのものをあまり評価していなかったし、またここで自らが挙げた復興要因そのものについて言及しているわけではないのだから、むしろここではそれらの復興要因の前提条件となっているアメリカの決定の重要さを追加的に認めたと見なすべきではないだろうか。たしかにアーベルスハウザーは、「外部の援助なしに」という点を強調し過ぎていたことについて、マーシャル・プランがフランスの賠償政策の転換に効果があったことを認めた箇所などで、若干の譲歩らしきものを行ってはいるものの、彼が主張している(鉄道の復旧などという努力を通じての)自力による回復という所説そのものを否定している訳ではないからである。古内は、「社会的市場経済」という原則を唱えたエアハルトの通貨改革を重視して、鉄道が回復した1947年以上に48年の持つ意味を強調する とともに、アーベルスハウザーがほとんど無視しているドイツ経済発展の外的要因、とりわけレジスタンス運動からヨーロッパ統一市場への期待が生まれてそれが実現したこと や、占領政策のドル条項という制約がかえってヨーロッパ諸国のドイツとの交易を渇望させ、アメリカの方針を転換させたこと、そして50年代のドイツ経済の奇跡の主体となっているのはそれら近隣のヨーロッパ諸国との交易であることを、図や表によって明らかにしている。もっぱらドイツの内部からその経済を追及しているアーベルスハウザーの視野に入っていなかった、ドイツ経済を取り巻く環境を明らかにすることによって、古内はアーベルスハウザーの所説の不備を補っている、と見なすことができるだろう。

㊲ 古内の前掲書、83~4ページ、注83)。

㊳ 古内の前掲書、第一章(既掲)。

㊴ 古内の前掲書「第二章 ドル条項とドイツ経済の復興」。

㊵ 古内の前掲書「第三章 経済の奇跡とEEC加盟への道」。


 こうして内的に準備が整い、外的にも条件が整備されつつあったものの、貨幣改革によってインフレ的ブームが抑えこまれたドイツは、200万をこえる失業者を抱え、危機的状況すら生じていたが、そうした状況を一変させて直接「経済の奇跡」の引き金を引いたのは、1950年6月の朝鮮戦争の勃発だった。先に引用した自力による回復という主張とはいくらか矛盾しているようだが、アーベルスハウザーは、「戦争は、国外では、ドイツの投資財・原材料需要を、国内では消費財需要を増加させ」、「全経済政策的計算を一夜にして反古にして」、「始めて西ドイツ経済は、外国貿易に対する成長力を感じた」 とまで記している。もちろんこうした変化は混乱を巻き起こし、輸入と輸出のギャップによる国際収支の悪化が51~2年に「ドイツ自由化危機」 を引き起こしたことも否めないが、連邦共和国は直ちに立ち直り、67~8年に不況を迎えるまでの間、奇跡の経済成長にひた走ることになった。

㊶ 木村編『ドイツ史』の巻末年表、646ページ、の1950年の項目の末尾に、「西独、朝鮮戦争勃発により急速な復興、“経済の奇蹟”始まる」と記されている。

㊷ アーペルスハウザーの前掲書、88~9ページ。

㊸ 同、89~90ページ。

㊹ この不況については、古内の前掲書の第四章「1966~67年不況と高成長の翳り」にくわしい。


 藤川やジンスボーグのイタリア経済に関する記述では、朝鮮戦争の影響は全く触れられておらず、ジンスボーグがこの戦争について主に言及しているのは、教皇庁が反共の圧力を強めた原因としてである ことから考えると、この戦争から受けた影響の度合には、独・伊両国の間でいくらか差があったのかも知れない。連邦共和国の主な取引先はヨーロッパ諸国だったのだから、アメリカがこの戦争のためにヨーロッパから手を引いた分を、ドイツが肩代わりしたということになるであろう。産業構成の比率から考えてその際ドイツが肩代わりした分が、イタリアのそれよりも大きかったことは十分考えられる。ともかくイタリアよりも戦災の損害も大きく、戦後の状況も厳しかったはずのドイツ連邦共和国は、そうした不利を相殺して余りある戦前からの蓄積を活用して、朝鮮戦争の影響の下、イタリアよりもむしろ早く高度成長のスタートを切ったと見なすことができるであろう。そしてイタリアで学生運動が全国に波及し、やがて紛争が労働者に飛火して「熱い秋」と呼ばれる長期にわたる激しい労働争議に直面した68~9年の直前の66~7年に、ドイツでも不況が発生して「経済の奇跡」に終止符を打っているので、二つの奇跡はほぼ同じ時期に重なり合って発生していたと言えるだろう。

Ginsborg, op. cit., p.189. なおジンスボーグはもう1ヵ所、245ページでもこの戦争に言及しているが、それはこの戦争がヴェトナム戦争のような抗議を引き起こすことなく、アメリカ文化がイタリアの若い人々に浸透したという記述においてである。ただし例えば、猪木武徳著『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』東京(中央公論新社)2009、のイタリアに関する142ページには「朝鮮戦争による特需もあって」と記されていることからも、影響が全くなかったとは考えられない。


 本論においては、第二次世界大戦の敗戦国であるイタリアとドイツに限定して論じているが、この時期のヨーロッパに発生したモンタペルティ現象を徹底して考察するためには、実は一時期ドイツに征服されたフランスとベネルックス三国を無視するわけにはいかない。中世フィレンツェの場合、モンタペルティ戦争では敗れたが、シャルル・ダンジュー一世がベネヴェント戦争に勝利したお陰で、結局同じグェルフィ党として、6年後には勝ち組の仲間に加わることができたのだから、むしろ一度は敗北して占領されていながら、最後に第二次世界大戦の勝ち組に加わったフランスやベネルックス三国の方が、中世フィレンツェにより類似した立場にあるとも言えるからである。事実、戦後に見られた経済的・文化的繁栄を考慮すると、これらの国々にも十分モンタペルティ現象が認められるように思われる。 しかし本論ではそれらの国々まで論じる余裕がないので、こうした事実を指摘するだけに止めたい。あわせて、似たような状況の下では、モンタペルティ現象が複数個、平行して起こり易いということをも改めて確認しておきたい。

㊻ 早々とナチスドイツに降伏し、数年にわたって占領されていたフランスこそ、第二次大戦の敗戦国の代表とも言える存在であり、明らかにモンタペルティ現象と見なし得る出来事がいくつも生じている。たとえばフランスでの流行を契機として、世界的に大流行した実存主義こそ、まさに世界の敗戦国の思想を代表するものであったと言えるのではないだろうか。


 同時代の日本に生きていながら、私は日本の「経済の奇跡」に関しても完全な門外漢である。それどころか、なまじ同時代の日本で生きていたために、かえってイタリアやドイツの場合以上にその印象が漠然としていることを認めなければならない。私は、個人的には日本経済の奇跡のために何の貢献もしておらず、そのくせ何とかイタリア語教師の口にありついたことで、奇跡の恩恵にはたっぷりあずかっていたのである。もしもこの時代の日本経済の奇跡がなければ、日本にこれほど多くの大学は存在せず、したがってイタリア語の講座なども開かれず、語学の天才ででもない限り、イタリア語の教師にはなれなかったはずだからである。しかしこの有り難い奇跡が起こっていた時期の大半は、私が学部生と大学院生だった9年間(56~65年)と重なっていて、そんな一大事が起こっているとは露知らず、なんだか近ごろは郊外の開発がやたらと進んでいて、暑い日に一日中窓を開けっ放しにしていたら、ダンプカーが舞いあげて行く砂ぼこりが、机や畳の上に真っ白に積もるようになったな、という程度の印象しかなかったのだ。

 どうやら日本という国は、3ヶ月半もの間たった一国で連合国相手に戦い続けたりしたために、独伊両国よりもはるかに深刻な戦災を味わったらしい。きっちりと対応している数字なのかどうか、私のような門外漢にはわからないが、産業の総設備資産の戦災による損害について、ドイツで-17.4%、イタリアで-8%という数字を見たが、日本ではそれはどの程度の数字になるのだろうか。中村隆英編『日本経済史7「計画化」と「民主化」』 には戦災の損害とし、「船舶の80%、建築物の25%、家具家財の21%、工場用機械器具の34%、生産物の24%等、再生産可能な国富の約四分の一が失われたのであった」 とあるが、その内の「工場用機械器具の34%」あたりが前述の数字に対応するものであろうか。ただしそのすべてが空襲による直接被害ではなく、2割強は工場を疎開させたり、軍事用に繊維業界の機械が屑鉄化されたことなどによる間接被害だったという。勿論とても正確に対応しているとは言えないようだが、一応それに近い数字として比較した場合、あの廃墟と化していたはずのドイツのおよそ2倍、イタリアの4倍強というけた外れの損害を被っていたことになる。その結果、伊藤修著『日本の経済----歴史・現状・論点』 に記された「最低になった1946年の生産水準(産業総合生産指数)は1934~36年平均の31%、戦時中の最高であった1944年の20%にまで落ち込んだ。(出典略)日本人の多くは飢え死にの危機と闘うことになった」 という事態が生じていたのである。

㊼ 中村隆英編『「計画化」と「民主化」』(日本経済史7)東京(岩波書店)

㊽ 同、35ぺージ。

㊾ 伊藤修著『日本の経済 歴史・現状・論点』(中公新書)東京(中央公論新社)2007。

㊿ 同、54ぺージ。


 しかし同書の先に引用した箇所の続きで、アーベルスハウザーがドイツに関して記したのと類似した事実が指摘されている。すなわち戦災の被害は重工業では比較的軽く、また戦前・戦時の最高値にくらべての生産能力は、「水力発電103%、銑鉄99%、普通鋼鋼材101%、電気銅82%、工作機械63%、硫酸86%、セメント55%」51) などと、基礎設備は意外に残っていたらしい。だが軍需から民需への転換は決して容易ではなく、しかも悪性インフレが発生して物価は2~300倍も高騰して、戦前の貯蓄は一挙に価値を失った52)。アメリカの指導(ドッジライン・1949年)によるきびしい金融引き締めめ結果、何とかインフレを鎮静させることはできたものの、今度はデフレ状況に見舞われて、日本経済の立ち直りは決して早くはなかったらしい。

51)同上。

52)同、55ぺージ。


 このように「経済の奇跡」どころか、青息吐息状態にあった日本経済を一挙に好転させたのは、ドイツの場合同様、というよりも距離が近いだけにそれに輪をかけて、1950年6月に勃発した朝鮮戦争であった53)。ドッジデフレによる在庫は一掃され、今日の世界一流企業の基礎が固められたらしい。しかし専門家にとっては、この景気の好転がそのまま「経済の奇跡」につながるものではなかったらしい。たとえば前掲の『日本の経済----歴史・現状・論点』は、日本における高度成長期を1955年から73年までとしていて、朝鮮戦争以後それまでの高い成長率は、「戦前型の生活スタイル・消費内容の回復であって、メカニズムが違っていた」54) と記している。すなわち、50年の時点で、日本が直ちに巨大な経済先進国アメリカヘのキャッチアップを本格的に開始したというわけではなく、それまでにまだ5年の歳月が必要だったとされているのである。その指摘は、60年安保で岸信介が退陣した後に、池田内閣が提案した所得倍増計画の印象が根強く残っている、私たちの実感とも合致しているようである。

53)中村編の前掲書、158~9ページ(分担執筆・三和良和)。

54)伊藤の前掲書、66ぺージ。



 しかしモンタペルティ現象という視点に立つならば、両者は一連の動きと見なさざるを得ないし、また敗戦からの回復という最初の段階があったからこそ、次の高度成長が実現したことを忘れてはならない。1962年という極めて早い段階で、篠原三代平『日本経済の成長と循環』55) は、「第1章 高度成長とその諸要因」、「第2章 戦後復興過程の国際比較」において、日本、西ドイツ、イタリア、あるいはドイツに巻添えを食わされたオーストリア、フランスなどといった敗戦国または准敗戦国ともよぶべき国々が、戦後の西側世界において抜群の工業成長率を示している事実をはっきりと指摘し56)、さらにまだ進行中だった「高度成長の起動力」の筆頭に、「戦後の回復要因」を挙げているのである57)。さらにドイツの場合でも、アーベルスハウザーは、高度成長を説明するために提起された長期波動仮説に疑問を呈した後、「このアプローチにとって典型的なのは、戦時、戦後が考察からはずされていることである」58)とし、「しかし二十世紀におけるドイツの全経済的発展の解釈にとって、戦時期・戦後期の関連を考慮にいれることは絶対必要なことである」59)として、高度成長を単に長期波動仮説の立場から説明する試みをきびしく批判するとともに、「戦争終了で、再建の例の〈変則的な〉諸力が主役を演じた、景気上昇のため、転轍器(ポイント)が切り換えられたのである。この諸力が、西ドイツ経済の出発条件に、その特有のダイナミズムを与えた」60)として、敗戦の影響こそ成長の起動力だったことを認めている。

55)篠原三代平著『日本経済の成長と循環』東京(創文社)1962。なおこの著書の多くの論文は、私には全く歯が立たないものだったことを認めておかねばならない。

56)同、13ぺージの第4表など。

57)同、14ぺージ。

58)アーベルスハウザーの前掲書、120ぺージ。

59)同、120~121ページ。

60)同、121ぺージ。


 それでもすでに敗戦から70年近く過ぎた今日、敗戦の記憶など遠く薄らいでいるため、モンタペルティ現象のダイナミズムを想像することは多くの日本人にとって困難になっているようである。そこで私は、国民の多くを巻き込んだ現象として今日も生々しく記憶に残っている20世紀末に生じたバブルと対比して想像することを提案したい。戦後の経済活動とバブルとではあまりにも違いすぎるという反論はもっともだが、生存と投機という動機こそ大きく異なっていても、国民の大半を巻き込んだ心理的要素の高い大衆的な経済現象である点では共通しているので、多少とも理解の参考になるはずである。そこで戦災による莫大な損害とその結果生じた衣・食・住を始めあらゆる産業部門に生じた膨大な需要と、世界の金の半ばを占有してほとんど戦災を受ける事なく豊かな経済活動を維持しながらブレトンウッヅ体制で世界の金融を支えているアメリカという大国の存在を前提条件として、バブル同様に熱狂的な経済活動が進められた状況と、20世紀末の日本で発生したバブルとを敢えて対比すればどうなるであろうか。勿論経済の門外漢の私には自力でバブルを説明することは不可能なので、再び『日本の経済----歴史・現状・論点』の簡潔な要約を利用させていただくことにして、そこでバブルの害悪とされている3カ条、

 ①不要な部門に供給される資源配分の歪み

 ②金融部門のマクロ的不安定・停滞・不況

 ③持てる者と持たざる者との格差拡大 61)

に対応する現象を想像することにする。

61)伊藤の前掲書、137~8ページに収録された「バブルは何が問題なのか」の要約。


 まず①に対しては、先に記した膨大な需要に呼応した供給(それは傾斜配分などの手段で優先順位が調整されていた)が対応し、何の弊害も起きないどころか、欠乏していた衣食住と産業の必要を充足させた。

 ②に対しては、イタリアではエイナウディ、ドイツではエアハルト、日本ではドッジという固有名詞付きの金融引き締めの後に行われた、合理的で正当な経済活動から生まれた利益は堅実に蓄積され、その貯蓄が再投資へと回された結果、生産活動はさらに活発化し、経済の規模が順調に拡大した。

 ③に対しては、こうした経済活動自体が格差是正に貢献したとは言えないが、少なくとも人々の生存を支えることには貢献し、たとえば日本の場合には、さらに敗戦抜きでは実行困難だったと思われる大規模な農地解放や財閥解体、そして税制改革等も同時進行した結果、やがて「一億総中流」と呼ばれるほど格差の小さい国家を確立することに成功したのである。

 このように共に社会全体を巻き込む潮流のような現象でありながら、バブルは人々を奈落の底に転落させたのに対して、戦後のモンタペルティ現象は「奇跡」と呼ばれるほどの高度成長をもたらしたのであった。本来は生存という動機に動かされて国民の多くが必死に推進した経済活動ではあったが、多少の時差はあってもその目的を達成して、戦前の水準を取り戻した時点でも十分にその勢いを保っていたために、いずれの国においても、前に聳えるアメリカという経済大国へのキャッチアップに向かうのは必然の経緯であった。そういう意味で、回復から成長への動きは一体であって切り離すことはできないものであり、まさにそれこそが敗戦を体験した三カ国で共通して起きていたモンタペルティ現象だったのである。

 こうしたいわば逆バブルのような事態が発生した結果、1948年から53年までの工業生産年成長率は、日本22.7%、西ドイツ20.7%、オーストリア13.1%、フランス5.7%、イタリア10.0%、それに対して、戦勝国のイギリス3.8%、アメリカ5.7%、またそれに続く1953年から58年までのそれが日本10.9%、西ドイツ8.5%、オーストリア8.5%、フランス7.9%、イタリア7.3%、戦勝国のイギリス2.7%、アメリカ0.0%という大きな差となって現れているのである62)

62)篠原の前掲書、13ぺ一ジの第4表による。


 ここで感じられることは、少なくとも現代のように一応国際的な法規が整い、基本的人権という概念が普及している近代国家間の戦争では、戦勝国よりも敗戦国の方が有利な状況が発生する可能性があるということである。戦勝国といえども国際法規を無視して恣意的に報復を行ったり、賠償の取り立てを行うことは出来ないので、勝利によって得られる成果はそれほど大きくないのに対して、勝利のために協力した国民の期待ははるかに大きく、そのために指導者の多くは国民の期待を裏切らざるを得ないのである。こうして戦勝国の内部ではしばしば政変が発生する。第二次大戦後に関しても、ルーズベルト大統領が途中で死去したことで指導者が交代し、さらに勝利の結果として経済的にも軍事的にも、世界で唯一の超大国となったことで気分を良くしているアメリカや、やはり勝利の結果勢力圏が飛躍的に拡大した上に、スターリンの強力な独裁の下で日常的に粛清の恐怖にさらされていたソ連を例外として、イギリスではチャーチルが率いる保守党がアトリーの労働党に総選挙で敗北したし、中国では48年に日本との戦いを指導した蒋介石の国民党が、毛沢東率いる共産党に追われて台湾に逃げ込むことになった。それに対して敗戦国では、平時にはとても不可能な改革が(占領軍の力などによって)実行され、しかも生存のために、国民の多くは当然のごとく苛酷な経済活動に専念した。こうした状態がおよそ20年も続くと、その結果生じた余りにも大きな差が、「経済の奇跡」と呼ばれることになったのである。



第二章 戦後世界のモンタペルティ現象を支えた

基本的条件


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