中世ピーサ年代記1


中世ピーサ年代記1

古代ローマからメローリアの海戦(1284)まで                                               高田 秀樹



図I-1 ピーサ遠望 G. B. Probst(18世紀前半)




図I-2 ピーサ鳥瞰 Matthaeus Merian, c.1640 



0  まえがき


 この研究ノートの動機は二つあった。一つは、マルコ・ポーロ旅行記の筆記者ルスティケッロについて何か手がかりが得られないかと思ったのと、もう一つは、『神曲』での名高いウゴリーノ伯の悲劇やこの隣国の扱いについていま一つよく分からなかったからである(2)。

(2) もう一つ個人的には、かつて同地のスクォーラ・ノルマーレ・ス-ペリォーレに2年間学んだという親しみ があった


 ルスティケッロについては、ピーサの人であること、アーサー王騎士物語の作家であることなど、ごく僅かのしかも漠然としたこと以外ほとんど何も知られていない。とりわけ、おそらくマルコらと同じ頃ジェノヴァの獄から解放されたとされる以後のことは何も分からない。しかし、かの旅行記におけるこの筆録者の役割は大きく、その成功の一半を彼に負うているにもかかわらず、後世での両者の扱いの差は余りにも大きい。

 ウゴリーノ伯については、祖国に対する裏切りの罪で地獄界でも最下層の第九圏に落とされているのだが(3)、この老伯がなぜ裏切り者なのか、何故にそれほど重い罰を受けているのか、判然としかねる。その程度の裏切りや罪なら、昔も当時もいくらでもあったのではないかと思われるし、それに一読するかぎりでは、詩人はこの老伯にむしろ同情しているかの印象を受ける。またピーサは、それにまつわって「新たなテーベ novella Tebe 」と呼ばれ、麗しき国イタリアの恥ゆえこの世から抹殺してしまえとまで罵られているのだが(4)、これまたどうしてで あろうか。確かにピーサはフィレンツェの敵ではあったが、その行いや野心の点でフィレンツェや他の都市がピーサと比べてより清廉であったとはとても思えない。

(3) Inf.XXXIII.1-90. 

(4) Inf.XXXIII.79-84,89.


 文中その箇所で多少は触れるが、結果的にはこの二つの問題に対する新たな情報を得ることはほとんど何もできなかったが、その歴史をたどっているうちに新たな興味をそそられたのはむしろ、今は斜めになった塔くらいでしか知られぬ一地方都市、かつても今も輝かしく名高いフィレンツェやジェノヴァ、ヴェネーツィアやミラーノの陰に隠れて目立たないこの小コムーネ(中世自治都市)が、当時最も早く発展し最先端にあった都市国家の一つであり、中世後期のイタリアのみならずヨーロッパ史 において、国際交易や十字軍運動、とりわけ当時の主たる対立軸であった神聖ローマ帝国とローマ教会との闘いの中で、イタリア随一の「帝国都市」として大きな役割を果たしている事実であった。かの書も、マルコ・ポーロのヴェネツィア、ルスティケッロのピーサ、そしてジェノヴァの牢での二人の出会いと、当時のこれら三つの主役都市を舞台に して初めて生まれえたのだとも言えよう。

 このノートはしたがって、前述二つのテーマについて述べるものでも、何らかの史実の真偽あるいはその背景や解釈をめぐって論ずるものでもなく、ピーサの歴史を、自治都市となった11世紀末頃から、フィレンツェに征服されて共和国たることを終える15世紀初め(1406年)までの主な出来事を、他都市国家や諸外国との関係を中心に年代順にたどって記するものである。そうした意味で、中世ピーサのほんの年代記風素描である。歴史はえてして勝者の側から書かれるものであるが、今はあまり注目されることのない一自治都市コムーネが、いかに誕生し、成長・発展し、やがて衰退・没落していったか、その粗筋を紹介するとともに、当時の多くの史上名高い出来事をまた別の角度、敗者の側から眺めるという点で、いささかの意味はあるのではないかと思う。(5)

(5) ボルヒャルトはその独特の史観に基づいて、「フィレンツェ中心の史実の歪曲に心酔し、逸脱している研究の観点」から脱すべきことを説いている(p.47)。



図I-3 ピーサ周辺地図、トスカーナ地方(Touring Club Italianoより) 




1 前史: ローマ時代から10世紀まで


 かの町を訪れて誰しも気づくことの一つが、小じんまりとしたその地方都市に不釣り合いに立派な大聖堂と例の斜塔の存在であろう。それは、同市の急速 な発展と永続し得なかった繁栄、それと同じほどに急激な衰退と没落を物語っている。そして少しでもその歴史を紐解けば、その主たる一因が何よりもその 位置、地理にあったことを知らされる。後に少し詳しくみるが、イタリア地方都市の中でも最も早く発展したのは、アルノ河口近くに位置して海と港を持つと同時に、いくぶん内陸よりにあって豊かな後背地と旧ローマ街道とを持つというふうに海・陸両用の都市の性格を持っていたからであったとすれば、その急激な没落も、まず最初、より良好な港は持つが後背地を持たずして海に賭けるしかなかった海洋都市ジェノヴァによって、次に、はるかに広大な後背地を持つが海への出口を欠いた内陸都市フィレンツェによって陵駕されたことにみられるごとく、かつて有利であったその両用の性格が中途半端なものとなり、マイナスに働いたから であった。

 その性格は事実、古代ローマの時からすでに後のライヴァル都市たち、一漁村にすぎなかったジェノヴァ、フィエーゾレの麓の寒村フィレンツェ、人棲まぬ潟であったヴェネーツィアと比べて、ピーサをして重要な地方都市の一つたらしめていた。

 市の起源についてはつまびらかでないが、イタリア建国神話やペロポンネソス半島にある同名の町ピーサにちなんでギリシャに結び付け、その原住民ペラスゴイあるいはピーサ人が移り住んだとするのはもちろん伝説である(6)。エトルスキ起源説についても、最初敵対していたことや、町の発展が北のモンテ・ピサーノの方から始まっていることからして疑問視され、北西のリグーリァ人の可能性の方が高いと考えられている。

(6) 最も流布したのは、ギリシァの町ピーサの君主ペロプスに結び付けるもので、小アジアのプリュギア王タンタロスの息子ペロプスはペロポンネソス半島のピーサの王オイノマーオスの娘ヒッポダメイアに恋をし、王との戦車競走に勝って娘を手に入れ、その王国も征服した(ペロポンネソスとはペロプスの島の意)。その後故地トロィアの王ダルダノスに戦いを挑むが敗れ、ピーサに戻って領土を息子たちに譲り、あるいは追放されて(ここから、Pisa の語源を 'pinto di casa sua' に求める説もある)、イタリアはトスカーナにやってきて町を建設し、ピーサと名付けたというもの。ギリシァ語 pisos は「湿地」という意味で、ギリシァのピーサ(アルペイオス川とクラーデオス川)と同じように、トスカーナのピーサもアルノ川 とセルキオ川の間に建設された。伝説では前1600年頃のこととされる。

 ウェルギリウスも同じ説で、「この勇士ら[アエネーアスに付き従うエトルリア出身の兵士]は、エーリス[ギリシァのピーサがある地方]の、アルペーウス[同地を流れる川]に起源もち、移ってその後イタリアの、エトルスキーの国にある、都市ピーサエがこの人に、送って服従させたもの」(泉井久之助訳『アエネーイス』岩波文庫 (下) pp.166-7)。

 別の説では、ペロポンネソス半島からネストールとともにトロィア戦争に行ったピーサ人が、帰路嵐に遭ってトスカーナ沿岸に漂着し、ピーサの町を建設したという (ストラボン)。


  前6~5世紀にはそのエトルスキの勢力下に入り、前4~3世紀にはヴォルテッラの北の塞となるが、その頃興隆してきたローマにエトルスキが敗れて解放される。しかし今度は北からのリグーリァ人の脅威に対抗するためイタリカ同盟に加わり、ローマのソキア(同盟市)となる。ローマの発展につれてその影響を強く受けるとともに、ティッレーニァ海ローマ以西における最大の港としてその戦闘基地、またリヴィエラからプロヴァンス沿岸ならびにコルシカやサルデーニァとの交易拠点として重きをなすにいたる。前114~109年には、それまでピーサまでで止まっていたアウレリア街道が、時のコンスル、エミリウス・スカウロスによって北・ 西へと延ばされ(旧エミーリァ街道)、近郊農業は流通ルートを得て市は海のみならず陸の要衝ともなった。前1世紀シッラの時にはローマ市民権を得てソキアからコローニァ(植民市)となり、ルッカとともに貨幣鋳造を含む自治権を獲得するまでになっていた。

 帝国ローマ時代には、ローマ人の入植も増え、またその港ゆえに変わらぬ地位を保ち続けた。紀元1世紀には今に残るフォールム(広場)が建設されジュリァ家に献じられているし、57年にはネロ帝がやってきて、ピーサをポネンテ(西方属州)の貢納と税の集積地と定め、そこで計量してローマに送るよう命じたという(7)。

(7) ヴィッラーニは、ピーサは最初ギリシァの故地の川にちなんで Alfea と呼ばれていたのが、ローマ帝国の港となり、そこで貢納と税を「計る pesare」ことになったため Pisa と呼ばれるようになったと言う(Villani I.48.p.69)。


 またキリスト教伝説によると、福音史家マルコらを伴った使徒ピェートロは、アンティオキァか らローマに向かう途中嵐にあってアルノ河口に漂着し、そこに祭壇を築いてミサを行い、住民を改宗させたという(44年) (8)。今もバジリカのあるサン・ピェーロ・ア・グラードの名はそれに由来する。キリスト教の普及とともに4世紀そこに教会が建てられ、中世をとおして巡礼地の一つとなった。 

(8)  この時そのままピーサに残ったキリスト教徒 Torpete は、その後間もなく始まったネロのキリスト教徒迫害に抵抗して殉死し、その遺体は船に乗せて流されてプロヴァンス海岸に漂着し、今のフランスの町 San Torpe の名の由来となった、という。


 5世紀ゲルマン人の侵入後は記録に乏しいが、西海岸に位置し、北イタリアやラヴェンナから遠く離れていたこともあって、比較的平穏だったもようである。テオドリックの東ゴートやユスティニアヌスのビザンチンの時ピーサで何が起こったのか、どのような関係に あったのか明らかでないのに対して、6世紀後半から侵入してきたロンゴバルド族には直接占領され、支配されたことが確認されている。法的には、全トゥスキァに及 んだルッカ公領の下に置かれ、ガスタルド(王国役人)によって治められた。移住してきたゲルマン人との融合も進み、ヨーロッパの南北を結ぶ旧アウレリア街道と港のおかげで8世紀リュートプラント(在位712~44)らのもとで発展、商業も盛んとなった。次いで同世紀後半シャルル・マーニュが勝利して以後も、支配者がロンゴバルドからフランク に代わっただけでピーサには大きな変化はなかったもようで、ドゥークス(公)からコメス(伯)に代わったルッカの下に置かれていたものと見られる(9) 。

(9)この頃(770年代)シャルル・マーニュの宮廷に招かれた人に、ピーサの文法教師ペトルスがいる。


 一方この頃から始まるのが、地中海を舞台とするイスラム教徒との闘いである。その中でピーサは、ティッレーニア海随一の海洋都市としてキリスト教勢の主力を構成し、大きな役割を果たして地歩を固め、その後の発展を準備してゆく。ピーサが係わった最も早いものとしては、828年北アフリカ沿岸解放のため、プロヴァンス、リグーリァの町々とともに船団を派遣した記録がある。その前年にはイスラム教徒によるシチーリァ征服が始まっていた(827~902年)。彼らはそのうちイタリア沿岸を略奪するだけでなく内陸部にまで侵入するようになり、874年にはそうしてラツィォ海岸に上陸したサラセン人を ピーサ艦隊が駆けつけて追い払った。

 その後のカロリング王朝の終焉に続く混乱と分裂の時代にも、ピーサは相変わらずルッカを首都とするトスカーナ伯領の下にあり、その代官ヴィスコンテ(副爵)もなお駐在し ていた。しかし全く従属していたわけではなく、実質的には「トスカーナ地方の首都」(リュートプラント)であった。各都市は互いに比較的独立し、自治を保っていたが、一方ではそれ故に、後に深刻なものとなる都市同士の争いが始まることになる。



2 成長期: 1000-1171年


 1004年、北アフリカとスペインから出撃したムスリムはこの年もラツィォ海岸に押し寄せた。イタリア半島の政治は不安定で、中央権力は遠くドイツにあり、無いに等しかった。時の教皇ヨハンネス18世はそのためピーサに救援を要請、その艦隊はテーヴェレ川で彼らを破った。これは、この頃すでにピーサがティッレーニァ海最大の海上勢力として教会側に 頼りにされていたことを示す。ところがその留守を狙ってルッカが、近郊ヴァル・ディ・セルキォ(セルキォ川流域)に侵入して荒らすという事件があった(10) 。モンテ・ピサーノを隔てて向かい合う、わずか15キロほどしか隔たっていぬこの二つの都市は、以前から領土の境界や商売の縄張りをめぐって敵対する間柄となっていた。翌1005年には再び教皇の要請を受けて、レッジォ・カラーブリァをムスリムから解放している(11) 。

(10) ムラトーリによれば、これはイタリア自治都市同士の最初の武力衝突とのこと。


(11) 伝説によると、この間のある日の深夜ムセットがピーサの町を襲って南岸の地区を荒らし、アラビア語で 'kinsica, kinsica!'(燃やせ、燃やせ)と叫びながら放火し始めた。それを耳にした一人の娘が夜着のまま対岸に急を告げ、彼らは撃退された。この言葉から、あるいはその娘 Kinsica dei Sismondi の名から同地区は Kinsica (または Chinzica)と呼ばれるようになり、その女性を讃えて大理石像が建てられたという(Roncioni pp.61-3)。ハーリーによると、K insica はアラビア語だが、'cinta murata'(壁囲い)の意とのこと(Herlihy p.63)。また事実ムスリムは、夜陰に乗じて上陸し、町に忍び寄って夜明け前の2、3時間に略奪して去るのを常としたとい う。


 当時地中海を舞台に活動していたバレアル諸島のサラセン君主ムセットことムガヒド・イブン・アブド・アッラーが1015年サルデーニァを占拠したので、ピーサはジェノヴァとともに1017年5月トッレスに遠征して勝利した。が、その後の同島の支配をめぐって両市の対立が顕わとなり、ピーサがジェノヴァを追い出す結果となった。これは、当時急速に力をつけてきた同じ海洋都市ジェノヴァとの対立が避け難いものであることを物語り、ピーサの困難な行く末を予告するものであった。しかしこの頃はまだピーサの力の方がはるかに上であり、ティッレーニァ海から不信の輩を一掃せよとのベネディクトゥス8世の要請に応えて、翌年再びサルデーニァに遠征隊を繰り出したのもピーサであった。これら一連の遠征はティッレーニァ海におけるピーサの覇権を確立するとともに、その後ムセットとの間の何度かの攻防を経て1050年頃最終的に征服したサルデーニァは、その豊かな農産物と資源(塩・皮革・鉱物)、それに西地中海における戦略的位置によってそれから3世紀にわたってピーサの富と力の源泉となる。途中嵐を避けてたまたま立ち寄ったコルシカを占領したのもその時のことである(12) 。

(12) 古い時代のコルシカの歴史は詳らかでないが、ローマ帝国後やはり5世紀にヴァンダルに、543年ビザンチンに、725年にはロンゴバルディに征服された。9世紀頃からサラセン人の侵略を受け、829年頃には島の家族4千がローマに避難するほどだったという。そして1015年から1050年頃にかけてのこのピーサの遠征によってようやく解放された。1077年には教皇グレゴリウス7世の宗主権下に入り、1092年にはピーサ大司教に属した。かくて宗教・文化・商業・産業・言語と、あらゆる点でピーサの影響下に置かれた。


 南部イタリアと同じように、相次いでローマ帝国、ヴァンダル族(455~)、ビザンチン(534~) の支配下に置かれてきたサルデーニァは、8世紀に入るとやはりイスラム教徒の侵略を受け、アラブ人に貢納金を払っていた模様である。いくつかの要塞を占領されただけで全域的に支配されていたわけではなかったが、度重なるその襲撃を避けて住民は内陸部に移住し、少なくとも11世紀始めには、トッレス(北西)・ガッルーラ(北 東)・カリァリ(南東)・アルボレーア(南西)の四つのジュディカート(自治国)が形成され、それぞれ一人のジュディチェ(司法官・国主)がたてられていた。その国主たちの訴えによりかくてようやくアラブ人の危険を取り除いたピーサは、そこに積極 的に商業進出をはかり、各国で免税特権を獲得し、その影響力を強めてゆく。‘コンソレ’(自治行政官)の語が初めて登場するのもそのサルデーニァ統治に関する1081~85年の「カルタ・サルダ」で、イタリアでは最も早いものとされるが、実質的には上の諸事にも明らかなごとく、ずっと早くから自治を行っていたものとみられる。とりわけ海洋活動において際立ち、10世紀すでに「ピーサは陸においては従属していたが、海においては自由である」と評されるほどであった。市政の中心には司教と封建的土地貴族、それに造船・海運業者たちがあり、司教はローマに直属していた。その造船・海運業と陸の流通ルートたる旧ローマ街道、それにムスリム海賊 による破壊やその危険性のために打ち棄てられらた海岸沿いのアウレリア街道に代 わって内陸寄りに敷かれたフランチージェナ街道(フランス街道、現カッシァ)のおかげで商業が飛躍的に発展し、交易先は沿岸諸市はもちろんエルバ・サルデーニァ・コルシカからシチーリァ・ 北アフリカ・スペイン・レヴァンテ諸国へと広がっていった。それにともなって人口も増え、ローマ時代のフォールムのあったところを中心とするアルノ北岸の最初の市街区は狭くなり、その周辺や南岸にも住むようになった。こうして新しく商業貴族が形成され始める。

 南方にノルマン人が押し寄せてきたのもこの頃のことである。彼らは南イタリアから ビザンティンを追い出し(1045~80年)、シチーリァ征服に取り掛かっていた(1061~91年)。サラセン人からのキリスト教徒の解放という意味からも、また通商上の利害の一致という点からも、1063年にはピーサのガレー船がパレルモ港に突入して、ロベール・ジスカールを支援した。しかしすぐノルマン人と利害衝突し、彼らの船を襲い、近辺を荒らして引き揚げるに終わった。この時の戦利品で、翌年カテドラル(大聖堂)の建設が始まった という。

 サルデーニァ遠征のおりに占領したコルシカにおけるピーサの政治的・商業的支配を不当とするジェノヴァは、1066年ピーサ海岸に攻撃をかけてきた。かくて両市の表面上の平和は破れて対立は決定的となり、ピーサもジェノヴァ周辺の港に攻撃を加えた。長く続くこの対立がムスリムを利すのをみて、教皇ウィクトル3世は1087年両市のあいだを調停した。

 休戦がなるとさっそく対イスラム共同遠征が計画され、ピーサの副爵ウゴーネ・ヴィスコンティ指揮の下に200隻のガレー船がマグレブのアル・ムハジャに向かい、そこの君主チミーノと戦って大勝利をおさめた。さらにはスペインのサラセン人に対しても遠征し、アルメリアの王アレマイモウネと戦い、捕らえられていた多数のキリスト教徒を解放した。

 これら遠征とその成功は聖地征服を考えていた聖庁を満足させ、ピーサの司教座は大司教座に格上げされ、さらに1091年と1092年のウルバヌス2世の教書によって、コルシカは教皇庁の知行地としてピーサの大聖堂に寄進されることになった。翌1093年同教皇はピーサの大司教ダイベルト・ランフランキにサルデーニァでも諸特権を承認し、かくて ピーサ大司教座はコルシカとサルデーニァの首座となり、市は両島の政治的・商業的権益を ほぼ独占する形となった。

 帝国側でも、当時ピーサに住んでいたトスカーナ女伯ベアトリーチェが生前多くの寄進を行い、1076年に没してドゥォーモに埋葬された。後継したマティルデも、母にならうことになる。皇帝ハインリヒ4世もすでに1081年市に司法権を認め、サン・ロッソーレの森(1084年)やヴァル・ディ・セルキォの地(1089年)を建設中のカテドラルに寄進していた。

 1094年の文書にははっきりとコンソレの語が現れ、初代は副爵ピェトロ・ヴィスコンティ。かくてコムーネが正式に誕生する。コンソレは、最初は特定の期間だけで数も一定しなかったのが、後には毎年12人に定着する。古くからの土地貴族や新興商業貴族たちの中から選ばれた彼らは、大司教と協力して市政を担い、支配階級を形成してゆく。

 1095年クレルモン宗教会議でウルバヌス2世は聖地への十字軍を勧説し、同会議にはピーサ大司教ダイベルトも出席していた。陸路をとった最初の遠征では十字軍士を輸送することはなかったが、1098年のアンティオキア占領には50隻をもって活躍した。翌1099年には大司教の下に120隻の艦隊を派遣し、シリアそしてエルサレム攻撃に貢献した(13)。ダイベルトは、ノルマンのアルノルドに代わって聖地の総大司教に任命され(1100年)、そのまま同地にとどまった(1107年没)。これらの結果ピーサは、アークレやアンティオキアをはじめとするシリア沿岸都市で商業植民地や免税特権を獲得し、それにコンスタンチノープルでも皇帝アレクシオス・コムネノスから同様な権利を承認されて、ヴェネツィア・ジェノヴァとなら んで東方交易でも一大勢力としての地位を築くことになる。一方では、ビザンチン側やヴェネツィア艦隊との衝突や妨害も始まっていた。1098年にはコルフ島を占領したが、翌99年にはヴェネツィア隊によって追放された。

(13) ゴッフレード・ド・ブィヨンらに対してエルサレム城壁一番乗りを争ったというピーサの旗手クッコ・リクッ キとコシェット・ダル・コッレのエピソードが伝えられている (Roncioni p.142)。


 その後叙任権をめぐる聖権と帝権の綱引きの中で、教皇パスクァリス2世は1112年、多くのキリスト教徒が奴隷となっているバレアル諸島遠征を訴えた。その海軍力からしても地理的・通商的利害からしても、中心となったのは今度もピーサだった。大司教ピェートロ・モリコーニを総指揮官とし、12人のコンソリともども300隻のガレー船を提供した。またこの遠征にはルッカ・フィレンツェ・シェーナ・ピストィア・ヴォルテッラのトスカナ諸市のほかローマやロンバルディーアからも参加があり、総勢500隻3000人にのぼる大規模なものとなった。1113年春に出発し、翌年から1116年にかけてまずイヴィザついでマジョルカを攻撃してキリスト教徒を解放した。しかしこの時も各市の利害が対立し、ジェノヴァは初めから参加を拒否したし、ルッカ兵は途中で去っていった。

 この遠征成功の功績により1118年、皇帝と対立してピーサに逃れ来ていた次の教皇ゲラシウス2世はカテドラルを聖別し、バレアル諸島をそこに寄進した。教皇はピーサの船でマルセイユまで送られ、フランスに渡ったがそこで没する。少し前1115年には女伯マ ティルデが後継者のないまま没し、トスカーナはすでに全てコムーネとなっており、伯領はかくて名実共に消滅した。

 このようにトスカーナとロンバルディーア諸都市からなる遠征軍を率いることによって、ピーサは西地中海における海上勢力の覇者たることを示したが、その成功と教皇 からの報償はルッカとジェノヴァの嫉妬を呼び起こさずにはおかなかった。

 遠征に参加しなかったジェノヴァは、その間にリグーリァ沿岸を支配下に置き、ポルトヴェーネレを征服していた。両市のちょうど中間にある良港、今のラ・スペーツィアにあたるこの地はその後絶えざる係争点となってゆく。爾来ジェノヴァとは、1133年新教皇インノケンティウス2世の調停によって5年間の休戦が結ばれるまで、ティッレーニァ海全域で衝突が繰り返された。その調停とは、ジェノヴァ司教を大司教に昇格させ、その上コルシカの六つの司教座を両市で等分し、南半分のアレーリァ・ジアッツァ・サグレトの三つをピーサのものとし、北半分をジェノヴァに与えるというものだった。こうして失った三つの司教座の代わりに、ピーサはサルデーニァでの特権をさらに獲得したが、むしろこれはジェノヴァの力がそれほどまでに強大なものとなり、もはやなんらピーサに劣るものではないことを意味していた。上述の決定は宗教上のものであり、商業的にはコルシカにおけるピーサの優位はまだ揺るがなかったが、それでもこれ以後徐々にジェノヴァの進出が強まってゆく。

 ルッカも再びヴァル・ディ・セルキォに侵入した。この近すぎる二つのライヴァル都市の間には、北イタリアやフランスとローマを結ぶ内陸街道フランチージェナの支配、境界にあるコンタードの所有権とその封建領主たちへの権威、さらにはマティルデの遺産や貨幣鋳造権と、争いの種は尽きなかった。

 ちょうどこの頃インノケンティウス2世は、シチーリァ王国のルッジェーロ2世のたてた対立教皇ア ナクレトゥス3世を避けて海路ピーサに逃れ来ていた。そして大陸に渡り、フランスのルイ、イギリスのヘンリー、ドイツのロタールに支援を要請して再びピーサに帰ってきた。先の調停はこの時のものであった。そこへロタール率いる帝国軍が合流し、1133年ピーサ軍の護衛の下にヴィテルボ、そしてローマに入城して対立教皇を追放した。ロタール3世(在位1133~37)もこの時ローマで戴冠した。南イタリアのノルマンという共通の敵のまえに、教会と帝国が良好な関係にあった時期である。 

 さらには、ルッジェーロ2世に攻撃されたナポリのカプア公ロベルト2世がピーサにやってきて支援を要請したので1135年ナポリに向かったが、ルッジェーロ2世の艦隊に阻まれ、この時はアマルフィを急襲するだけに終わった(14)。しかし翌年には教皇の要請により再びイタリアにやってきたロタール2世の軍隊と、ピーサから出発した教皇と共に、ピーサ艦隊もナポリ救出を海から支援した。さらに翌1137年にかけて南イタリア沿岸を攻略し、サレルノを略奪した。こうしてピーサは、先行していた海洋都市国家アマルフィを没落させることとなったが、150年後には自らも同じ運命を忍ばなければならぬこととなる。

(14) この時の戦利品に、現在フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館に蔵されているユスティニアヌス法典パンデッタがある。

 

 1137年ロタールを継いだコンラッド3世も、南イタリアの領土を取り戻すために支援を要請し、これに応えてピーサは艦隊を出撃させた。これら一連の皇帝の遠征軍への参加と支援は、その後帝権と教権の確執が激化してゆく中で、前者との結びつきを強め、ピーサに親帝国寄り政策を取らせるきっかけとなったものとして後の歴史に大きな意味をもつ。

 1145年に選出された新教皇エウゲニウス3世はピーサ(モンテマーニォ)出身の人だったが、その師にあたる聖ベルナルドの呼びかけによって組織された第2回十字軍(1147-9年)には、ピーサはルッカとの争いに手を取られて参加する余裕はなかった。

 1149年エウゲニウス3世はフランスからの帰途ピーサに立ち寄り、再燃したルッカとの境界争いを調停し、翌年にはジェノヴァとの間で29年間の休戦を結ばせた。両市の力はもはや互角であり、沿岸地帯やサルデーニァ・コルシカだけではなく、オリエントからスペインにいたるあらゆる地域で利害の衝突を見るにいたっていた。両市は各地にコンソレを置いてそれぞれの権益保護を図った。

 ピーサが法的にほぼ完全な独立を達成したのもこの頃で、もはや帝国や伯領を代表していないとはいえ、形式的に土地管理人として存在していたヴィスコンテを1153年に廃し、その手に残っていた財務権限を取り上げた。こうして体制を整えたコムーネ政府は、商業と手工業の発展にともなって流入し増大する都市人口に対処するため、コンタード征服に向かった。そのため各地の封建領主や修道院と対立しなければならなかったが、教会側も自らの大司教区の拡大を意味したからこれに協力した。

 帝国でも大きな変化が起こっていた。1152年コンラッド3世(在位1137~52)が死亡し、甥のフリードリヒ1世(在位1152~90)が後を継いだ。彼はイタリアに神聖ローマ帝国の権威を再興する確固たる意志を抱いており、2年後の1154年イタリアに親征、ロンカーリァ で帝国議会を開き、翌年パヴィーアでイタリア王位、ローマでハドリアヌス4世から皇帝位に就いた。南のみならずイタリア全土の統一を押し進めようとするこの強力な皇帝の出現に、教皇庁はノルマン以上に警戒感を強め、両権の対立はさらに激化する。その中で、ロタール2世のときにすでに帝国寄りに傾いていたピーサは、自らの商業的発展 のためにも、はっきりと親帝国政策を取り始める。フリードリヒ1世もこれに応えて、コムーネの反封建地主闘争を助け、ルッカ・ジェノヴァとの争いでは常にピーサの肩をもった。南イタリアを占領するノルマンとの敵対という点でも、皇帝はイタリア統一という観点から、 ピーサは商業的進出から利害が一致した。が、それは他方では、教皇庁との関係 の悪化を引き起こさずには済まなかった。

 ルッカとは、1155年にフリードリヒの仲裁で全トスカナ都市が加わる形で和平交渉が成立し、30年の休戦が結ばれた。最大の係争点は、ピーサとフィレンツェを繋ぐ道の支配にあった。アルノ川沿いのその道は、フィレンツェ商品の海への出口に当たるピーサ港への唯一の輸送路であったが、その一部ヴァル・デーラの地点にルッカ領があり、それが争いの種となっていた。この道は後に、フィレンツェが力をつけてくるにつけフィレンツェとの 間の最大の問題となり、最後にはピーサの敗北の原因となるものである。またこの時、それまでルッカにしか認められていなかった貨幣鋳造権がピーサにも許され、もう一つの摩擦の種となった。 

 一千百年代半ば頃ピーサはその発展の最初の頂点を迎える。1162年に始まったサンタ・マリーアの8月の大市にはヨーロッパ中から商人が集まり、またコンタードからは職人が大量に流入したため、旧市街では収容しきれなくなり、市街区を広げることとなった。北岸は旧城壁内のボルギ(あるいはディ・メッヅォ)区を中心に、西にポンテ区、東にフォーリポルタ区を増やし、南岸はキンシカ区とした(15) 。かくて市面積は旧城壁内の30ヘクタールから一挙に114ヘクタールとなり、人口は1万~1万5千に上ったと見られる。1155年からは9年かけて北岸の新市街にも城壁が巡らされ(16)、当時としてはイタリア最強のものといわれ、事実これが破られることはついになかった。コンタードもそれに対応する四つの行政区、ヴェルシーリァ(西北)・ルッケージァ(北)・ヴァルダルノ(東)・マレンマ(南)に分けられた。洗礼堂の建設も1152年に始まり、1256年頃完成を見ている。橋もポンテ・ヴェッキォ一つしかなかったため、1182年新橋ポンテ・ヌォーヴォが架けられた。

(15).ボッカッチォも『デカメロン』の中でピーサの裁判官に Riccardo Chinzica なる名を付けている(第2日第10話)。またその中でピーサの女性のことを、「ウジ虫のようなトカゲに似ぬ女は少ない」とけなしている(II.10.6)。フィレンツェではピーサの女性は醜いという悪口が定着していたとのこと(Giovanni Boccaccio, Decameron, a cura di Vittore Branca, Torino Einaudi 1987, p. 304 n.6).


(16) 1172年時フィレンツェは80ヘクタールで、ピーサはトスカーナ最大の都市だった。南岸キンシカ区の市壁が完成したのはずっと後1300年頃のことで、それを含めるて185ヘクタールとなった。その頃フィレンツェはすでに630ヘクタール人口9万人で、同市の発展がいかに急激だったかが分かる。その後ピーサの 市街領域は、19世紀末鉄道開通にともない駅舎の部分が拡張された以外、今に至るまで変わっていない。


 コムーネは、コンソリとセナートル、市の各区から6人ずつ選ばれた24人からなる評議会、それに大司教によって動かされていた。大司教はほとんどヴィスコンティ、ゲラルデスカ、ウペッズィンギら大封建領主の旧貴族、あるいはグァランディ、ランフランキ、シズモンディら新興貴族らの中から選ばれた。評議員は最初はコンソレの補佐にあたっていたが、後に独自の権限を有するようになった。市民の声を聞く必要のあるときは大聖堂で パルラメントゥム(市民議会)が開かれた。

 この頃のピーサ人のエネルギーは、文化面でも建築や芸術のみのとどまらなかった。1110年ピーサに生まれ、コンスタンチノープルで勉強し、同地からパンデッタのテキストをもたらし、また膨大なギリシャ古典文献を翻訳して、当時最大の法律家とされ たブルグンディォ(1110~93)が活躍したのはこの頃で、ピーサは当時慣習法から実定法へと革新されつつあった新法学の旗手となった。

 フリードリヒ1世は2回目のイタリア遠征を行い、1158年ロンカーリァで帝国議会を開催し、レガリア憲章を定めたが、北イタリアのコムーネは反乱した。ピーサは、フィレンツェ・ルッカ・シェーナらト スカーナのコムーネとともに皇帝側に付き、領土と商業上の特権を得ようとしてミラーノ攻囲には兵を提供した。

 1160年、トスカーナでのマティルデの諸権利を継承したバヴィエラ侯グェルフォがサン・ジェネーシォで会議を開き、各市に忠誠の誓いを求めたがピーサはこれを拒否し、ルッカ・フィレンツェと対立した。その後彼はピーサにやってき、大司教ヴィッラーノに旧諸特権を確認する特許状を与え、またジェノヴァとルッカを親教会勢力に引き込んだ。かくて孤立したピーサは、もはや皇帝をあてにして親帝国政策を押し進めるほかなかった。

 その皇帝バルバロッサは、ハドリアヌス4世の死後(1159・12・1)アレクサンデル3世にたいしてローマ貴族オッタヴィァーノを対立教皇ウィクトル4世としてたてた。これにより、それまで聖俗の一致協力を誇っていたピーサでも、ついにコムーネ側と教会側が対立する。コンソリは聖庁側の教皇を否定し対立教皇を認めることを誓ったため、大司教ヴィッラーノはゴルゴーナ島に亡命を余儀なくされ、コムーネは代わってベニンカーサをその地位に就けた。かくて市ははっきりとローマ教会に反旗を翻す形となった。

 1161~62年のミラーノ攻略への兵の提供に感謝してフリードリヒ1世は1162年4月6日特許状をピーサに送り、自領から他都市商人を排除すること、そのコンタードを内陸はエンポリまで、沿岸ははるか南のエルコレまで拡大することを認めた。これの調印にピーサは大代表団を派遣し、帝国のイタリア代表部パヴィーアで署名された。かくてピーサは広大なコンタードを共和国領土として所有することになり、海上のみならず陸上でも大勢力となった。ウペッズィンギ・ゲラルデスカ・ゲラルド・イルデブランドらの大封建領主たちも抵抗することなくこれを承認した。

 一方、かくて親帝国の旗色を鮮明にし、また他のコムーネには認められていない大きな特権を得たピーサと、他都市との争いは避けられないものとなった。まずビザンチンのマヌエルが、ピーサが中立を捨てたことを理由に自領内のピーサ商人千人を追放し、商品は押収、特権を無効にすると脅かした。シチーリアのグリェルモも、この同盟関係を脅威と感じてノルマン領内のピーサ商人を投獄、商品を没収した。コンスタンチノープルでは、ジェノヴァ人との間で流血騒ぎとなった。ジェノヴァとは、皇帝特使ライナルドの仲裁で和解したが、1163年フリードリヒ1世が再びピーサに新たな特許状を与え、「全トスカナ諸市の上に立つ」としたため再燃、またもやティッレーニア海各域で衝突した。

 1164年にはバルバロッサは、シチーリァ遠征のため艦隊の提供を求めてきた。2年前の特許状で、南イタリアが征服されたあかつきには、ナーポリ・サレルノ・メッシーナ・パレルモの半分、ガエータ・マッツァーラ・トラパニの全部を封土として授かり、帝国領土内での通商の自由を約束されていたピーサは、これを期待して皇帝に完全な忠誠を誓った。

 フリードリヒ1世は、教皇軍を破ってまずアンコーナに向かい、それからローマに侵攻し、対立教皇パスクァリスのもとでサン・ピエトロのミサに臨んだ。ピーサも8隻の船を派遣してこれを海から支援した。ところが1167年ローマ郊外に駐屯していた皇帝軍がマラリアにやられたため、バルバロッサは退却を決定、シチーリァ遠征を実行することなく、ピー サ・ルッカを経て北に去ってしまった。

 バレアル諸島遠征後ピーサの覇権が確立されていたサルデーニァでも、12世紀に入ってその地位が脅かされ始めていた。四国のうちアルボレーア国主コミータはジェノヴァと条約を結び、その支援の下に全島を支配しようとし、ピーサに支持された他の三国と対立した。この争いはピーサ大司教ヴィッラーノの介入で1146年にいったん収まっていたが、コミータの子バリゾーネは再び全島支配をもくろみ、1163年ピーサ軍に支援されたトッレス国と対立した。そこで彼はジェノヴァをつうじてフリードリヒ1世に訴え、シチーリァ遠 征のためジェノヴァの協力を必要としていた皇帝は、1164年(8・10)パヴィーアで銀4千マルクの支払いを条件にバリゾーネをサルデーニァ王に叙任した。しかしこの金をジェノヴァから借りていたバリゾーネは、それを返すことができず、ジェノヴァに連れ戻され、 それを知った皇帝は彼の叙任を撤回した。これをきっかけにサルデーニァに攻勢を強めるジェノヴァと同島を守ろうとするピーサの攻防は激しさを増し、結局フリードリヒ1世は、コルシカと同じように、ガッルーラを中心とするピーサの勢力圏と、カリァリとログドー ロを中心とするジェノヴァの勢力圏に分けて調停を計った。


 ローマ遠征中はその仲介によって休戦状態となっていたジェノヴァと、バルバロッサが去るやすぐ衝突が始まり、ルッカがそれを利用して侵略してきた。両陣営とも周辺のコムーネや領主を味方につけ、総力戦の様相を帯びた。1171年秋、戦線は三方面 にわたり、一つはティッレーニァ海、もう一つはセルキオ川流域、そしてアルノとエーラ川流域だ った。最も重要なのは、ジェノヴァとルッカの接点であり、ルッカにとっては海への出口となるモトローネだった。11月29日そこで戦闘があり、ピーサが勝利した。その勝利は、 この頃はまだピーサの軍事力が勝っていたことを意味する。しかしその前の7月4日、背後の憂いを断つべくフィレンツェとの間で40年の攻守同盟を結んでおり、それはピーサ港とフィレンツェの間の商品の輸送権を認める代わりに、フィレンツェはルッカとの同盟を破棄し、戦の時は援助するというものであった。これは後に両市にとって決定的な意味を持つものとなってゆく。この時はフィレンツェにとって譲歩であったものが、後にフィレンツェ産業の発展につれて、ピーサにとって大きく不利なものとなってくる。これはまた、もはやピーサが独力でライヴァル都市にあたる力のないことを示していた。




3 発展期: 1171-1284年


 それで決着がついたわけではもちろんなかった。ティッレーニァ海でもトスカーナでもいたるところ、ピーサ・フィレンツェ対ジェノヴァ・ルッカという大枠の中で、大小の戦いは相変わらず絶えることがなかった。と同時にそれぞれ外に向かって同盟関係と商業圏の拡大を求めてゆく。ピーサはヴェネーツィアと5年の友好条約、シチーリァのグリエルモ2世との無期限平和条約(1169年)、ビザンチンのエマヌエル1世コムネノスとの関係修復と同盟 を結んだ。一方ジェノヴァはプロヴァンスやスペインへと西に積極的に進出した。

 この頃1173年鐘楼の建設が開始されている。ボナンノ・ピサーノの手になる円形のデザインは斬新なものであったが、知ってのとおり、着工後間もなく傾きはじめて中断され、再開されたのは百年後の1275年のことであった。彼らのもとでこの市に彫刻の工房が栄えていた。

 1175年5回目の遠征にやってきたフリードリヒ1世は、特使クリスティァーノを派遣してサン・ジェネーシォにトスカーナ諸市の使者を集めてそれぞれの言い分に耳を傾け、両市からの訴えでサルデーニァをもう一度ピーサとジェノヴァの間で分割したほか、捕虜の交換や、ルッカ貨幣鋳造禁止などを取り決めて一応の和平にこぎつけた。それによってジェノヴァとルッカが離反したのはピーサにとって有利であったが、一方フィレンツェとの関係は冷却化した。とりわけ翌年のレニァーノの戦い(1176・5・29)での北イタリア・コムーネ連合の勝利とバルバロッサの敗北は、トスカーナでも帝国の権威に影を落とし、諸コムーネは反帝国・ 反封建で同盟し、それに主導的な役割を果たしたのは、急速に力をつけてきたフィレンツェであった。ルッカはそれに積極的に加わったが、すでにバルバロッサから封建領土に対する諸特権を認められていたピーサは加わらなかった。ルッカとは1182年に一応の和平を結んだが、これ以後陸上ではフィレンツェが主たる敵となってくる。

 1183年6月25日コンスタンツで和を結んで武力による帝国復活の望みを諦めたフリードリヒ1世は、外交によってこれを果たそうとし、1185年最後に南下してきたさいノルマンと和解し、息子のハインリヒとシチーリァとプーリァの王位継承者コスタンツァとの婚約を整えた。これによってイオニア海やエーゲ海にドイツ王家の勢力が及ぶことを見越してピーサは、商業圏拡大のため親帝国政策を変えなかった。もう一つにはフィレンツェが反帝国の旗印のもとにトスカーナの主導権を握りつつあったからであった。

 1187年10月にはサラディンによってエルサレムが陥落し(17) 、新十字軍を呼び掛けたグレゴリウス3世は、ピーサとジェノヴァの艦隊を必要としたため、両市を和解さすべくピーサにやってきたがそのまま死亡し、大聖堂に埋葬された。翌年すぐピーサで行われたコンクラーヴェで選ばれたクレメンス3世はパレストリーナ大司教で、かつてピーサのサント・パオロ・ア・リーパ・ダルノのベネディクト派の修道士だった。前任者と同じ意図から新教皇はまずピーサに旧特権を全て追認し、サルデーニァのアルボレーアの領地をめぐって争っていた両市 を調停して翌年ようやく和平にこぎつけた。その教皇の勧説になる第3回十字軍には、ピーサは大司教ウバルド・ランフランキ指揮のもと、50隻のガレー船をもってアークレ市攻 撃等に加わった。ところが1190年、十字軍に遠征していたフリードリヒ1世がシリアのサレフ川で溺死するという思いがけない、ピーサにとっても手痛い事故が起こった。

(17) この時ティル防衛に活躍したヴェルミーリとかウーミリと呼ばれるのはピーサの商人兼軍人のこと。


 その間南イタリアでは、1189年グリェルモ2世が嫡子のないまま逝き、後継にルッジェーロ2世の孫でグリェルモの従兄弟レッチェ伯タンクレーディが擁立され、南の王国が帝国の手に渡ることを避けたかったクレメンス3世はそれを承認した。そこへ、父フリードリヒ1世の婚姻政策によってルッジェーロ2世の長女でグリェルモ2世の伯母コスタンツァと結婚していたハインリヒ6世が王位継承権を主張し、次の新教皇ケレスティヌス3世も圧力に屈してこれを認め た。ハインリヒはすぐシチーリァ遠征を計画し、ピーサの支援を求めて1191年3月には自らやってき、30年前に父バルバロッサがしたと同じような多くの特権を約束した。今や決定的に親帝国政策をとっていたピーサは、これも帝国寄りだったジェノヴァの優位に立とうとしてこれを歓迎した。ハインリヒも4月サン・ピェートロで戴冠後3カ月にわたってナーポリを攻囲したが、またしてもマラリアにやられ、シチーリァに向かうことなく退却してしまった。

 1194年には残っていたタンクレーディが死亡したため、ハインリヒは再びイタリアにやってきたが、今度はジェノヴァに支援を要請し、それまでピーサにだけ約束していた特権を保証し、両市を競わせようとした。陸路をゆく皇帝の進軍につれてピーサとジェノヴァの艦隊も海路同行した。ガエータ・メッシーナと攻撃してパレルモに入り、ハインリヒは同年末ようやくシチーリァ王位につき、ノルマン王朝もついに幕を閉じた。かくて、ピーサの期待はとりあえず実現された。しかし、道中すでに両市の衝突が始まっており、メッシーナでは大規模な争いとなり、ハインリヒはこの市をピーサに与えた。また征服後は、シチーリァにおける諸特権をピーサにのみ認め、ジェノヴァを排斥した。この処遇は当然ながらジェノヴァの怒りに火をつけ、和平は破れてティッレーニァ海特にサルデーニァとコルシカでの海賊行為となって燃え上がった。

 この状況を憂えかつまた利用して、ケレスティヌス3世が介入に乗り出し、枢機卿パンドルフォ・マスカを派遣して1197年春、コンタードを封建制の絆から解放するとの名目のもとにトスカナ諸市を反帝国でまとめた。秋(11・11)にはフィレンツェ主導のもとルッカ・シェーナ・サンミニァート・ヴォルテッラ・アレッツォはサン・ジェネーシォ同盟を結んだ。これはトスカーナ最初のグェルフィ同盟といわれる。加わらなかったのは、ピーサ以外ではピストイアだけだった。ピーサはすでにコンタードに対する領土権を皇帝から承認されており、また何よりもフィレンツェの主導権を嫌った。

 そこでピーサは教会と帝国に対して中立を表明し、二度目にイタリアにやってきたハインリヒのメッシーナでの死(1197・11・27)に伴う後継問題でも、ブルンズウィヒのオットー(ウェルフェン家)にもシュヴァーヴェンのフィリップ(ホーエンシュタウフェン家)のどちらにも荷担しなかった。教会はピーサを説得しようとしたが、これを拒否したため市を聖務停止にした。が、新教皇インノケンティウス3世は、トスカーナ同盟が強くなりすぎるのを警戒してこれを撤 回した。フィレンツェはフィレンツェで教皇の介入を望まず、また本心ではピーサの加盟を望んでいなかった。かくて両市の対立は決定的に明るみに出、ピーサは、1171年の条約でフィレンツェに力をつけさせたことを悔やまねばならなかった。一方ジェノヴァも、コスタンツァの死後子のフリードリヒ2世(1194年生れ)の後見役を教皇が引き受けるのを見て、インノケンティウス3世に接近した。両者は1200年パレルモ条約を結び、ジェノヴァにシチーリァにおける特権を認め、ピーサを排除した。かくてピーサはほぼ完全に孤立した。

 ドイツでの後継者争いは、教皇がフィリップを破門しオットーを正式の王として承認したため武力衝突にまで至り、その対立はイタリアでは教皇派グェルフィ対皇帝派ギベッリーニの争いとして広まった。ピーサはもはや新皇帝に期待するほかなく、ギベリニズモを明確にした。

 帝位の空白は内政にも対立と混乱をもたらした。市の発展とコンタードからの急速な人口流入にともない、封建土地貴族と商業貴族それに大商人・企業家らマニャーティと、力をつけてきた中小商人・企業家それに手工業職人らポーポロの間で利害が対立した。そのため中立的な立場にたてる市外人に市政を委ねる必要が感じられ、かくてピーサでも1190年頃最初のポデスタ(市外人行政長官)が誕生している。もっとも最初は名目的で外国人ではなく、ゲラルデスカ系のテディーチォ・ディ・カスタニェート伯だった。同時に8人のコンソリの名もみえ、この時期両者が共存していたことになる。またこの頃から目立ってくるのが大貴族間の争いで、とりわけ最も 古い家柄を誇る元副爵ヴィスコンティ家と南部マレンマの肥沃な穀倉地ドノラティコを拠点とする大豪族ゲラルデスカ家の対立である。ポデスタにも1204年までこれら家系に属する者が交互に就いた。

 1202年の第4回十字軍には、ヴェネーツィア主導だったこともあり、またその余裕もなく参加することはなかった。そのため東方ではヴェネツィアの優位の前に屈してゆくことになる。トスカーナでもピーサの孤立は相変わらず続いており、それを打開するため、1206年ポデスタに就いたゲラルド・コルテヴェッキァ・ディ・グァランディは、そのヴェネーツィアと結んでジェノヴァに当たるという策を取った。共通の敵ジェノヴァということで、ヴェネーツィアとは比較的良好な関係にあったし、これからも事あるごとに支援を請うことになる。同年ヴェネーツィアのドージェ、ピェートロ・ジァーニとの間でレヴァンテでの共同行動とシチーリァ遠征が約束されたが、ヴェネーツィアはクレータ問題で忙しく、ピーサは単独で パレルモを攻撃したが、教皇の介入もあって失敗した。しかし、1208年初めには何とかジェノヴァとの休戦にこぎつけた。

 ドイツ王位をめぐるオットー4世とフィリップ4世の争いは、1208年(6・21)フィリップが暗殺されて終わる。オットーは早速イタリアに下って来、ミラーノ・フィレンツェ・ローマと入り、とりあえず南イタリアの領土権を主張しないとの条件の下に教皇の手で戴冠した(1209・10)が、しかし彼はもとよりそれを守る気はなく、ナーポリへと侵攻して行った。

 久しぶりの皇帝出現に力を得てピーサは使者を派遣し、シチーリァ遠征支援を約束した。そのためジェノヴァとの休戦は破れ、教皇からも再び聖務停止令を受けた。それでも1211年艦隊を派遣してナーポリで皇帝軍と合流したが、ドイツ君侯らの反乱により、途中で解散した。一方、約束違反に怒ったインノケンティウス3世はオットーを破門して皇帝位を剥奪したため、次のドイツ王として1212年ハインリヒ6世の子フリードリヒが選ばれた。

 十字軍を計画し、それへの協力を求めてピーサそしてジェノヴァとめぐった教皇は、ペルージャで死亡する(1216・7・16)。後任のホノリウス3世はその意志を継ぎ、1217年両 市に和平を結ばせて、第5回十字軍が派遣された。ピーサも40隻のガレー船をもって参加し、ダミエッタ占領には貢献したが、結果的には惨めな敗北に終わった。 

 オットーの死(1218年)によりドイツ情勢が安定したため、フェデリーコ(フリードリヒ)2世は1220年に南下してきた。イタリア育ちの彼は帝国再建と半島統一にピーサの海軍力を必要とすることをよくわきまえており、トスカーナに入るとピーサに直行した(18)。そしてそのガレー船でオスティァに着き、ローマに入城してホノリウス3世から戴冠した。その2日後の11月24日の特許状でピーサの旧特権をすべて追認し、翌年にはシチーリァ貿易の特許を与えた。

(18) フェデリーコ2世がサン・ミニアート滞在中、西欧中世最大の数学者といわれるピーサの人レオナルド・フィボナッチ(ca.1165~ca.1240)が『算盤の書』を献呈している。彼は、実業家で税関吏だった父のもとで北アフリカのBugiaに育ち、インドから伝わりアラブ人によって用いられていたアバコ(算盤)の計算法を学ぶ。父の商売についてエジプト・シリア・シチーリァ・プロヴァンスを回り、数学の研究を深め る。ヨーロッパに初めてアラビア数字をもたらし、二次・三次方程式の解法を伝えた。ルスティケッロも こうした流れを汲む階層の一人であろう。


 こうして再びピーサが優位に立ったため、フィレンツェ、ルッカとの関係が悪化した。政治的にはトスカーナの主導権をめぐるグェルフィとギベッリーニの対立であるが、その背景には、フィレンツェのコンタードが海への出口を求めて南西のマレンマへと伸びてきたことと、手工業の発展にともなう商品、羊毛と皮革の争いがあった。皇帝の権威を背景にピーサも今度は同盟者を求め、ピストイア・ヴォルテッラ・サンミニァート・シェーナ・ポッジボンシとギベッリーニ都市同盟結び、かくてピーサはようやく孤立を脱した。しかし 1221~22年、1227~33年にわたった戦争では、同盟軍はフィレンツェ・ルッカ連合軍に敗れ、フィレンツェには金を払って休戦し、ルッカとはそのまま敵対状態が続いた(19) 。 

(19) ヴィッラーニによれば、フェデリーコ2世戴冠式の折、ローマの枢機卿の子犬をめぐってピーサとフィレンツェの使節の間で争いがあり、それが戦争にまで発展したという(Villani, VI.2, pp.7-9)。


 敗戦の原因はむしろ内部にあった。かつて団結を誇り統一が保たれ、とりわけ対外的には社会各層、それにコムーネと教会が一致結束していたのが、ここでもグェルフィとギベッリーニの党派に分裂していったからだった。 

 ヴィスコンティ家は、婚姻政策を武器にサルデーニァに積極的に進出し、ジェノヴァを圧して全島で覇権を確立してゆく。まず、前述バリゾーネの死(1184年)による後継問題 にピーサが介入してカリァリを占領し、本土からオベルト・ディ・マッサを国主として送り込んで主導権を握った。ガッルーラでも、国主の死後未亡人エレナとランベルト・ヴィスコンティが結婚し、その支配を掌中にした。ヴィスコンティ家はさらに、1216年当時ポデスタの地位にあったウバルドが、カリァリ国主グリェルモ・ディ・マッサの死を機会に遠征隊を派遣してこれを占領し、後継者ベネデッタと結婚した。1218年にはその子ウバルドがトッレスの後継者アデラーシァと結婚してログドーロ国主となった。かくてサルデーニァはほぼ全域がピーサ、とりわけヴィスコンティ家の支配下に入った。

 一方ゲラルデスカ家は、本土市内に勢力を張ってこれに対抗した。それがさらにグェルフィとギベッリーニの対立に結びついてゆく。サルデーニァに拠点を移したヴィスコンティは、同島の宗主である教皇とも良好な関係を結ぶ必要のあるところからグェルフィ寄りとなり、一貫してギベッリーニで市政を握っていたゲラルデスカに対して、サルデーニァでの勢力を背景にことごとく対立した。それが対フィレンツェの敗戦の責任争いから内乱にまで至り、最初ゲラルデスカが優勢だったのが、ヴィスコンティの勝利に終わり、1226年ポデスタの仲裁で一応収束した。

 皇帝位に就いたフェデリーコ2世が各都市に直属のポデスタを配置し、直接支配を行おうとした頃、ピーサでもそれに合わせて新体制が敷かれ、ボナッコルソ・カーネがポデスタの地位にあったとき(1219-21年)以来コンソレは市政府からすっかり姿を消し、ポデスタがその全権限を継承した。ポデスタは選挙で選ばれるようになり、任期は1 年だが再選は可能だった。

 1226年クレモーナでの帝国議会の後サン・ゼノーネで第2ロンバルディーア同盟が結ばれ、今度はいくつかの市がフェデリーコの側に付いた。しかし、聖地遠征に出かけようとしないこの皇帝をホノリウス3世は破門に処した。第6回十字軍(1229年)にはフェデリーコも加わったが、戦うことなくスルタンと取り引きをして和平を結び、次のグレゴリウス9世と聖界側をさらに刺激した。今回はピーサも52隻をもって参加した。

 本土では相変わらずルッカとの領地争いの一方、サルデーニァ支配をめぐって有力貴族の争いが果てしなく続いていた。そこに今度は教皇と皇帝とジェノヴァが介入する。1238年前述ログドーロ国主ウバルド・ヴィスコンティが死亡したが、生前その夫妻が教会に臣従の誓いをしていたため、教皇グレゴリォ9世は未亡人アデラーシァを自らの後見下にあるグエルフォ・ポルカリと結婚させようとし、破門をもって脅かした。そこへ、サルデーニァ北部に勢力を有していたジェノヴァのドーリァ家が、フェデリーコ2世にその庶子エンツォとアデラーシァとの結婚を勧めた。介入の機会をうかがっていたフェデリーコ2世はこれにのって二人を結婚させたうえ、エンツォをサルデーニァ王とした。怒った教皇は彼ら二 人を破門し、ピーサも聖務停止に処した。

 1239年12月にはフェデリーコは自らピーサにやってきたが、その目的は、当時大貴族の下で少しグェルフィ寄りになっていた政治をギベッリーニに向けることと、庶子エンツォの王位就任によりこじれたサルデーニァ問題を解決して、同島を帝国の中に組み込むことにあった。彼は、市政に携わるものはギベッリーニに限ることを定め、またサルデーニァ問題では、多くの政略結婚でヴィスコンティ家を満足させるとともにピーサの領主権を承認した。

 精力的に動くフェデリーコ2世のもとで聖俗両権の確執はさらに激しさを増したが、その対立の中でピーサは大きな役割を演ずることになる。1240年春ピーサを発ったフェデリーコが教皇領のラヴェンナにまで侵攻したため、グレゴリウス9世は彼を廃位させようと公会議を呼び掛けた。これを阻止せんとするフェデリーコの指図で途中のギベッリーニ都市が街道を閉ざしたため、教皇はグェルフィ都市だったジェノヴァに公会議への参加者を船でローマに運ぶよう要請した。これに応えてジェノヴァは、ニースに船を送ってフランス人僧侶を輸送しようとした。そこでフェデリーコはシチーリァから帝国艦隊を出動さ せてこれを阻み、一方息子エンツォをピーサに派遣して協力を要請した。当時のポデスタ、ウゴーネ・ロッシはジェノヴァを説得しようとしたが拒否されたため、1241年ピーサの40隻と帝国軍27隻がメローリァ沖で待ち伏せ、5月13日に衝突し、皇帝側の大勝利に終わった。ジェノヴァ船3隻が沈没、22隻が捕捉されて、3人の特使と貴顕高位ほぼ全員が捕らえられ、ピーサに連行された。エンツォは彼らをメルフィのフェデリーコのもとに送っ た。彼は自分の破門が解かれないかぎり、彼らの解放を拒否した。かくて公議は流れ、グレゴリウスは憤死した(8・22)。教皇はしかし死の前にピーサとその大司 教を破門に付し、特権を全て取り消すことを忘れなかった。これが、ピーサが国際舞台で活躍した最後となる。大敗北を喫したうえ屈辱的な恥をかかされたジェノヴァは、その怨みをはらす機会を狙うところとなり、44年後に同じ舞台メローリァでそれを果たすことになる。

 この情勢を見て1244年リヴィエラ海岸のサヴォーナがジェノヴァに反乱し、最初ロンバルディーアにいたエンツォに救援を求めたが得られずしてピーサに求めてきたため、共和国は80隻を派遣し、ポルトヴェーネレの60隻と合流して、このギベッリーニ都市に駆けつけ、その解放に成功し、同市での免税特権を獲得した。帰路ピーサ艦隊はジェノヴァ港に 近づき、矢を射かけて挑発した。

 聖庁側も反撃に移る。間にケレスティヌス4世のわずか18日間と、先のメローリァでの高僧の補囚に起因する2年近い空位期間をおいて選ばれた(1243・7・25)インノケンティウス4世は、反皇帝に凝り固まったジェノヴァ人シニバルド・フィェスキだった。先例に懲りて新教皇は1244年12月イタリア国内ではなくリヨンで公会議を開催し(20) 、フェデリーコを廃位してドイツ王にはテューリンゲン伯アンリヒを座らせ、シチーリァとエルサレムは王の空位を宣言した。こ の強行策はフェデリーコへの不信を生み出し、ギベッリーニ勢力に動揺を来たした。1248年パルマで皇帝軍が大敗したのに続き、翌49年にはボローニァでエンツォ王が市民軍に敗れて捕虜となり、そしてついにフェデリーコがプーリァで突然没した(1250・12・23)。爾来、イタリア随一の「帝国都市」ピーサもまた、帝国と共に衰退の道を歩むことになる。

(20) インノケンティウス4世が、自分の聴罪司祭であったカルピニの東方派遣を決定したのはこの時のこと。


 フェデリーコ2世の死はトスカーナの政治体制をすっかり覆した。各市は次々とグェルフィに転換し、フィレンツェではプリーモ・ポーポロ政権が誕生、各地でグェルフィによるギベッリーニ の迫害・追放が行われた。ピーサも例外ではなく、貴族体制が崩壊し、1254年にはポーポロが政権を奪い、カピターノ・デル・ポーポロ(ポーポロの長官)とコンシーリォ・デリ・アンツィアーニ(ポーポロの評議会)が市政を握った。しかしその政権も、反フィレンツェとしてギベッリーニの伝統を守り、グェルフィには移行しなかった。ギベッリーニの望みは、フェデリーコとイザベラの子コンラッドが南下して帝国の権利を要求することにあった。その期待に応えてコンラッドは1252年遠征を決定、南イタリアにあった庶子のマンフレーディとペスカーラで合流し、帝国に反乱してグェルフィを表明したナーポ リ攻囲から始め、ピーサも艦隊を送って海から支援した。が、1254年(5・21)コンラッド も26歳の若さで突然の死を遂げた(21) 。

(21) マンフレーディによる暗殺説(Roncioni, Tronci, Villani)は、今では否定されている。



 フィレンツェはルッカと同盟して、ピーサの息の根を止めんものと狙い始めた。フィレンツェを盟主とするグェルフィ同盟は1252年モンタルチーノの戦いでシェーナを破ったのを始めとして(22)、ポッジボンシ、ヴォルテッラと屈服させ、全トスカナを支配、ついにピーサ領内に侵攻してきた。ピーサは交渉で危機を回避しようとしたが、フィレンツェが、ピーサの港を自由港とし全ての商品の自由通過を認めよという厳しい条件を出したためこれを拒否、再びフィレンツェ・ルッカ・ジェノヴァと戦闘を開始したが、結局その軍が市の城壁の下まで迫ってきたため、最初にフィレンツェが提示した条件で和平を結ばざるをえ なかった(1256・9・26)。ルッカにはいくつかのコンタードを譲渡したが、ジェノヴァに対してはサルデーニァの放棄を拒否して戦争を継続した。

(22) ヴィッラーニは、この勝利を記念してフィオリーノ金貨が鋳造され始めたという。それにまつわって次のようなエピソードを紹介している。その金貨を手にしたチュニジア王がイタリア商人たちに、フィレンツェとはどんな町かと聞いたところ、ピーサ人は「我々の陸のアラブ、つまり山人」と 答えた。不審に思った王がフィレンツェ人に尋ねると、彼は「ピーサは力でも人口でもフィレンツェの半分にも及ばないし、金貨も持っていない」と答えたので、ピーサ人は恥入り、それ以来王はフ ィレンツェ人にもピーサ人と同じ待遇を与えた(Villani, VI.53, pp.77-8)。西地中海沿岸ではトスカーナ商人は一般にピーサ人と呼ばれたことも関係していようが、国際性という点では、その地の利からして当時はピーサの方がずっと先端を行っていたであろうことがここからも窺える。


 サルデーニァはそれまで、前述のごとき一連の結婚政策によってほぼ全土がピーサの支配下にあった。ガッルーラにはジォヴァンニ・ヴィスコンティ、アルボレーアはグリェルモ・ディ・カプ ラィア、カリァリもピーサ人入植者の手にあり、ログドーロにだけドーリァ・スピーノラ・マラスピーナらジェノヴァ人の勢力が残っていた。ところがカリァリのキァーノ・ディ・マッサは1256年国主に 選ばれるやすぐピーサに反旗を翻し、ジェノヴァと同盟した。ピーサは、直ちに長老ゲラルド・ゲラルデスカの指揮のもとに軍を派遣して翌年これを征伐した。そしてカリァリ国を三つに分割し、東を前述のジォヴァンニ・ヴィスコンティ、中央を同グリェルモ・カプラィア、西を二人のゲラルデスカ、すなわちそのゲラルドと後に頭角を現してくるウゴリーノに与えた。サルデーニァはピーサにとってそれほど重要であり、全貿易量の3分の2を占め、これを失うことは何としても避けなければならなかった。

 ジェノヴァとの間にはアレクサンデル4世が介入した。この新教皇は前任のインノケンティウス4世と違ってピーサに敵意をもっていず、ピーサと和解しようとし、金貨3千フロリンの支払とサン・ピェーロ・ア・グラードに巡礼のための教会を建てることを条件に、グレゴリウス9世によって出されていた聖務停止令を解き、新大司教フェデリーゴ・ヴィスコンティを就任させた(23)。ピーサもいくぶん教会に接近し、かくて市民は束の間の平和と統一を得た。 

(23) ハーリーによれば、この大司教 Federigo Visconti(在位1257~77)の説教の一つは「ピーサの教会へのタルタル人使節に答えて」と題されており、その中で「聖地がタルタル人の手から解放されるよう」求めている(ただしこのタルタル人とは、当時聖地を占領していたトルコ系イスラム教徒のこと)。また別のところで、インノケンティウス4世によってタルタル人のもとに派遣された使節すなわちカルピニの報告書に言及している(Herlihy, pp.59~60)。当時のピーサ人、また後のルスティケッロにとっても、東方やタルタル人は決して全く無縁な存在ではなかったことであろう。


 長引く帝位空白を心配して、ピーサ人はイタリアの特権としてそれを自ら選ぶこととし、選挙してカスティリァ王アルフォンソ・イル・サッジォを選んだ。彼はそれを受け(1256・3・18)、諸国も認めたが、レーノ伯ルドヴィーコらはイギリス王ヘンリー3世の弟リチャードを推し、教皇も態度を明確にしなかった。

 ヴェネーツィアはジェノヴァとレヴァンテで争っており、ドージェ、ラニェーリ・ゼーノは1257年ピーサを説得して密かにモーデナで10年間の攻守同盟を結んだ。この同盟はシリアですぐ効果をもった。ジェノヴァが支配していたアークレを両市が攻撃し(1258・6・24)、大勝利を上げ、再びピーサの海軍力を証明した。ジェノヴァとは教皇が介入して仲裁した。

 この間ターラント君主となったマンフレーディは、コンラッド4世の子コンラッド5世(コッラディン)の名代として教皇軍と戦い、南イタリアを回復していた。彼は教皇と和解して、1258年(8・10)にはシチーリァ王となり、パレルモで戴冠した。これはギベッリーニを勇気づけた。

 トスカーナではフィレンツェが、多数のギベッリーニ亡命者が逃れきていたシェーナを攻撃したため、シェーナはギベッリーニ都市に救援を求め、ピーサは3千の歩兵を送り、マンフレーディの1千人のドイツ騎士と合わせて総計1万5千のギベッリーニ軍は、ルッカ・ピストイア・アレッツォ・サンミニアートなどからなる4万のフィレンツェ軍をモンタペルティで破った(1260・9・4)。これでフィレン ツェのプリーモ・ポーポロ政権は倒れる。

 グェルフィの敗北でタリァ・ディ・トゥスカ(ギベッリーニ同盟)が誕生し、各地でギベッリーニが政府に戻った。フィレンツェでも、グィード・ノヴェッロ伯がマンフレーディの代官として、ファリナータ・ デッリ・ウベルティら亡命者とジォルダーノ伯下のドイツ騎士団を率いて帰還し、そのポデスタ体制がプリーモ・ポーポロに取って代わった。ピーサでもマンフレーディの支援の下に再び貴族が政権に復帰した。トスカーナでは変わらなかったのはルッカだけだった。ギベッリーニはタリァ(同盟軍)を構成してグェルフィ亡命者を追跡した。ピーサは、最も多くの亡命者の逃げ込んだルッカを攻め、ヴァル・ディ・セルキオをめぐって戦い勝利した。

 ところが、これに危機感を抱いた教皇庁では、1261年に代わった次のフランス人教皇ウルバヌス4世が、その手から南イタリアの領土を取り上げるためマンフレーディを王権の纂奪者と決めつけ、彼に対する十字軍を宣告した。そしてフランス王ルイ9世の下に特

使を派遣し、マンフレーディの手から教会を開放するため、弟のアンジュー伯シャルルをイタリアに派遣するよう請うた。シャルルにはシチーリァとナーポリの王にすること、貢納の支払いを条件に征服した土地を全て教会からの封土として与えることを約束した。アンジュー伯はもちろん承諾した。かくてこれ以後近代に至るまで、イタリアの運命はフランスというもう一方の勢力の手に握られることになる。

 シャルルは1265年5月やはりフランス人の次の教皇クレメンス4世からの催促でマルセイユから20隻で出発、これを知ったマンフレーディは艦隊を派遣してこれを阻止しようとし、ピーサもシェーナ・ヴォルテッラ・プラートらのギベッリーニ都市と軍を組織して船団を送ったが、嵐に合い、その間にシャルルはローマに入った。  

 教皇クレメンス4世は翌年すぐシャルルをサン・ピェートロでシチーリァとプーリャの王に任じたが、イタリアとドイツの王と皇帝には戴冠させなかった。それでもシャルルはナポリに進軍してゆき、マンフレーディはカープアで軍を集めようとしたが、彼に対する十字軍を宣言した教会側を恐れて従うもの少なく、ベネヴェントの戦いでマンフレーディが敗北し、殺された(1266・2・26)(24) 。

(24) マンフレーディ(ca.1232~1266)に対しては、ダンテは煉獄編第3歌に登場させて同情を寄せていることが知られる。またその中でマンフレーディはもっぱら、アラゴン王ペドロ3世の妃となった(1262年)娘コスタンツァ(1302没)に訴えかけており、実際1282年アンジューのシャルルにペドロが勝利することによって、シチーリァはコスタンツァのものとなり、マンフレーディの雪辱は遂げられることになる (Purg.III. 112-45)。


 アンジューの勝利はグェルフィの勝利とみなされ、ギベッリーニ政権は弱体化し、トスカーナ各地で再び政府が転換した。が、ピーサではギベッリーニのリーダーゲラルデスカ家のゲラルドがその地位と権威をすっかり固めており、ギベリニズモは揺るがなかった。

 シャルルは教皇からトスカーナの皇帝代理に任命され、そこに手を伸ばし始める。翌年春さっそくフィレンツェに来、ポッジボンシを平定、ピーサに向かったが、防備の固いのを見て手を付けず、近郊のリヴォルノとピーサ港を荒らして去った。ルッカは当然シャルルの支配下に入った。 

 ギベッリーニの唯一の希望はコンラッド4世のコッラディンで、南下するようピーサから使者が発った。当時まだ16才だったが彼はそれを受け、1267年ヴェローナ・パヴィーア・サヴォーナと下り、そこにはゲラルドの送った10隻のガレー船が待ち受け、1268年4月7日ピーサに着いて本陣を設け、市にシチーリァにおける特権を認めた。オーストリアの皇子フリードリヒに率いられたドイツ軍もピーサに到着した。6月半ば頃準備が整い、コッラディンにはゲラルドが同行して陸路ポッジボンシ・シェーナ・アレッツォを征圧し、ローマに入って歓迎を受けた。ピーサのを含めて40隻の艦隊も南イタリア諸港を荒らし、イスキア・ソレント・パエストゥムなどを征し、シチーリァに向かった。ところが皇帝軍は、ナーポリに軍を集結させたシャルルによってタリァコッツォで敗北した(1268・8・23)。初戦では皇帝軍が勝利したが、兵士たちがシャルルの陣営を略奪している間の混乱で襲われたという。コッラディンは小数の従者とローマに逃げたが救助を拒否され、アストゥーラの港で船を借りてピーサかジェノヴァに渡ろうとしたところをそこの領主に捕らえられ、シャルルの下に送られた(25)。そして10月24日ナーポリの広場でオーストリアの皇子とともに処刑され、かくてホーエンシュタ ウヘン家は終焉した。ピーサの老伯ゲラルドもその時処刑され、ピーサ艦隊はメッシーナから 逃げ帰るしかなかった。

(25) 別の説では、コッラディンらは農夫の姿に変装してアストゥーラに着いたともシャルルの追手が探し出したともいう(Roncioni p.565)。『神曲』では、タリァコッツォの戦いについては Inf.XXVIII.17 で、コッラディンについては Purg.XX.68 でわずかにその名が挙げられるのみ。


 グェルフィ政府となったフィレンツェはシェーナを破り(1269・6・17)、シャルルはトスカーナ代理にピーサ攻撃を命じた。フィレンツェ軍は城壁の下まで攻め寄せたがこれを破ることはできず、その下で貨幣を鋳造し、パリォ(騎馬競走)を催して侮辱するに終わった。この敗戦により、ピーサでも再びポーポロが政権を握ることになる。

 トスカーナではグェルフィとギベッリーニの戦いの行われない所とてなかった。しかしルイ9世とシャルルは、エジプトのマムルークを直接たたくためアフリカ遠征十字軍を考えており、それにはピーサの船団が必要だった。そこで彼らは1270年末市に使者を派遣し、南イタリアでの自由通行権を認めることと引換に、ピーサ領土にアンジューの覇権を承認し、金1万2千オンスの賠償金を3年間支払うことで、翌年5月12日和平を結んだ。ところが、アフリカに渡った聖王ルイはトゥニジアで病没し、先ほどの条約により同行していたピーサ艦隊も引き揚げた。

 市では先の敗戦の責任とゲラルドの後継をめぐって、市民の争いが内乱にまで進みつつあった。しかしそれは、グェルフィ対ギベッリーニの争いというよりも、貴族対ポーポロ、および貴族有力門閥間の争いという形を取る。

 まず、1271年一人のギベッリーニ貴族が暗殺され、それがヴィスコンティ家の教会の前で起こったことから、当時のグェルフィの首領でありガッルーラ国主の地位にあったジォヴァンニ・ヴィスコンティの指令であることが疑われた。その下手人の逮捕をめぐってコ ムーネと貴族たちが対立し、ポデスタはジォヴァンニを追放に処した。サルデーニァに逃げたジォヴァンニはそこからナーポリのシャルルの下に向かい、迎え入れられて、1275年シャルルの軍とトスカーナのグェルフィ軍を率いてピーサ領のモントーポリに攻めきたり、そこを征圧した。

 もう一つの対立はさらに深刻で、ピーサの貴族ほぼ全てを巻き込むことになる。ゲラルド亡き後ゲラルデスカ家のリーダーとなったドノラティコ伯ウゴリーノは穏健なギベッリーノではあったが、教会側とも良好な関係にあり、新教皇グレゴリウス10世との和解を 推進した。教皇はかつて長くエルサレムに住んでおり(26)、党派争いとは余り関係がなく、フィレンツェ滞在中も両派を和解させようと努力した。ウゴリーノは一方では、前述の三分割して分与されたカリァリの領地の税金を市に対して支払うことを無視していた。そこでコムーネは彼を逮捕投獄し、税の支払いを約束さすことでいったんは出獄を許したが、結局やはり税金を納めていなかったアルボレーア国主アンセルモ・カプラィァ伯に対してとともに、その領地を没収し、共和国の敵であることを宣言して追放した。ヴィスコンティ・ランフランキ・ウペッズィンギ・グァランディ・ジズモンディ・オルランディら 主たる貴族も同時に亡命を余儀なくされ、グェルフィ都市ルッカに移住した。

(26) 1271年アークレでマルコ・ポーロ一行が世話になったのはその時のこと。


 トスカーナはもはやほぼ全てグェルフィであり、アンジューの支援を後ろだてに、大貴族の復帰とグェルフィへの転換を画策する。この事態をみてフィレンツェは彼ら亡命者を招き入れ、ルッカ・ピストイア・シェーナらのグェルフィ軍をまとめ、それを先頭にピーサ領内に侵入してきた。貴族勢を失って数と力で圧倒的に劣るピーサ軍は、1276年6月9日リノリコで敗退した。前述ウゴリーノとアンセルモはサン・サヴィーノに陣を敷いてコムーネと交渉し、新教皇インノケンティウス5世の調停もあって1276年、本土とサルデーニァでの領地の納税を条件として帰国を許された。かくしてピーサでは再び貴族が復帰し、とりあえず決定的内乱は避けられた。1277年には長く大司教の座にあったフェデリーゴ・ヴィスコンティが没し、後にウゴリーノと対立することになる武人肌のルッジェーロ・ルッジェーリ・デリ・ウバルディーニが 就位した。

 こうした混乱の中でも、1277年カンポ・サント(墓園)の建設が再開されている。その頃のピーサは、ニコーラ・ピサーノ(1248-50)とその子ジォヴァンニ(1248頃ピーサ生まれ)を擁し、イタリアにおける彫刻の中心をなし、ルネサンスの先駆けとなっていた。

 13世紀後半ピーサはもはやティッレーニァ海随一の海上勢力ではなく、ジェノヴァに遅れを取るようになっていたが、それでも沿岸はレリチからチヴィタヴェッキァ、サルデーニァ、コルシカの一部、それにエルバ島を含むトスカーナ諸島を領有し、その商業圏はスペイン・プロ ヴァンスからシチーリァ・シリアさらには黒海にまで及んでいた。ピーサ港の通関税とサルデーニァとエルバの鉱山からの収入が大きく、コンタードには農業と牧畜業、市内には昔からの造船業と羊毛工業が発展し、その繁栄はまだまだジェノヴァにもフィレンツェにもさ ほど大きく劣るものではなかった。

 そのジェノヴァとの関係も、海賊行為や大小の衝突は頻繁だったが戦争状態には 至っていなかった。しかしイタリア半島への外国勢力の進出は、両市をも巻き込まずにはおかなかった。まず1280年にはアラゴンのペドロ3世が、マンフレーディの娘コスタンツァを妻とするところから南イタリアの領土権を主張して新たに登場してくる。そして1282年シチーリァの晩鐘の乱をきっかけとするそのアラゴンとアンジューの戦いでは、ピーサは先に結んだ和平条約に縛られてシャルルに援軍を送らざるをえず、メッシーナを攻めたが敗れて5隻を失った。かくてシチーリァはアラゴンのものとなり、イタリアの運命は以後近代に至るまで、さらにもう一つの勢力スペインの手にも握られることとなった。

 コルシカでは1282年ジネルカ国で反乱者がジェノヴァの支援を求めたため、ピーサも4隻のガレー船を派遣して国主シノコッロを支援した。コルシカは両市にとって常に係争の地であったが、今度は全面対決にまで至った。両海軍は同年から翌1283年にかけてコルシカ・サルデーニァの各地、ピォンビーノ・レリチ・ポルトヴェーネレで衝突し、一進一退を繰り返した。しかし海軍力はすでにジェノヴァの方が勝っていた。サルデーニァでもあくる1284年反乱が起き、ジェノヴァに救援を求めた領主を罰するためピーサが派遣した35隻がジェノヴァ軍に捕まり、その救援に向かった船隊もジェノヴァに敗れた。

 そこでピーサは決戦を決意した。まず、ヴェネツィアの支援を期待してポデスタにその貴族アルベルト・モロシーニを招き、本来カピターノ・デル・ポーポロに属する軍事権も与えた。彼は非常事態を宣言し、グェルフィとギベッリーニを和解させ、貴族たちも協力を誓い、ウゴリーノ伯がもう一人の貴族サラチーノ・ガルデーラとともにカピターノ・ジェネラーレとなって指揮を取ることとなった。1284年始めの数カ月を戦争準備に費やし、計80隻のガレオン船・ガレー船その他を準備した。しかしジェノヴァは100隻以上を擁していた。 

 7月にはいると、モロシーニの提案で力の誇示のためプロヴァンス遠征に繰り出すこととなり、一部がピオンビーノ港に残った。指揮は前述二人のカピターノ。ジェノヴァ軍はサルデーニァにあり、カピターノ・デル・ポーポロ、オベルト・ドーリァと提督ベネデット・ザッカーリァが指揮 を取っていた(27)。ピーサ軍はジェノヴァ港に姿を現してこれを挑発した。これを侮辱ととったジェノヴァは、サルデーニァにあった艦隊をピーサに向かわせ、ピーサの二隊を分断する作戦を取った。8月始めドーリァの艦隊がピーサ沖に姿を現したが、ザッカーリァの隊はメローリァ岩礁(リヴォルノ沖7キロ、ピーサ港から24キロ)の影に隠れていた。5日夕方、モロシーニの指揮下に攻撃をかけることが決定され、翌6日サン・シストの日、出発に際しては大司教ルッジェーリが祝福した。午前モロシーニの40隻がまずドーリァ隊に向かった。ジェノヴァ軍はピーサを陸から遠ざけるため退却し、発煙筒でそれを隠した。そこへ岩礁に隠れていたザッカーリァ隊が背後から襲った。敵が退却したと思って河口を離れて戦場に向かったサラチーニ隊も戦況が飲み込めぬまま巻き込まれて混乱し、港の守備に残っていたウゴリーノ伯隊も、いったんは出撃したが港を空にすることを恐れて引き返した(28) 。

(27)このベネデット・ザッカーリァ(1248~1308)は、当時活躍したジェノヴァの個人主義を代表する人物としてルヌァールに紹介されている(Renouard, pp.298~9)。

(28) ピーサの年代記では、ウゴリーノ伯の裏切りが強調される。伯は主戦論で、海戦当日も自ら出撃命令を下したにもかかわらず、モロシーニの艦が拿捕されると救助もせずに市に逃げ帰った (Roncioni pp.607~15)。それは、祖国を弱体化させ、独裁者となって自らの権力下に置くためだった(Tronci p.518)。一方、ヴィッラーニはこうした説を採っていず、ピーサの敗因には特に触れずに神の摂理に帰している(Villani, VII.XCII, pp.283-85)。


 夕方戦いが終わったときには、4分の3が失われ、ピーサに帰り着いたのは20隻、17隻が沈没し、33隻が拿捕されていた。モロシーニは頭に重傷を負ったが、二人のカピターノは無事だった。多数の死者のうえに捕虜は9千人に上ったという(29)。ジェノヴァ軍も損害が大きく、市内にまで攻め上る余力はなかった。

(29) この中におそらく、後のマルコの筆録者ルスティケッロもいたであろうと一般には考えられている。もちろん、それ以前あるいは以後にも数多くあった衝突で捕虜となった可能性は否定できない。マルコとの出会いや筆記の自由が認められたこと、またそれからマルコが捕虜となっ た海戦まで12~14年もの間があることからして、悲惨な境遇に置かれたメローリァの捕虜よりも、その後の海戦の蓋然性の方が高いとする説もある:Cfr. A.A. Michieli, ‘Chi fu e che cosa fece Rusticiano da Pisa’, 《Atti del Reale Istituto Veneto di Scienze, Lettere ed Arti》 To mo LXXXIV 1924-25, pp.325-6. またその獄にしても、少なくともマルコの方は、いわゆる牢獄ではなく身代金や捕虜交換目当てにどこかの館に軟禁されていた可能性が高い。


 ピーサの敗戦は、作戦の誤りや船隻数以上にその性能の差にあったといわれる。ジェノヴァの船が軽快速の最新型であったのに対してピーサのそれは、ドロモーニと呼ばれる重装甲板を備えた旧式の大型帆船で操船の自由度において大きく劣っていた。両市の富と力、商業力と軍事力はそれほどまでに差がついてしまっていたのである。かくてその海軍力はまさに壊滅的打撃を受け、海洋勢力としてのピーサは姿を消す。また陸上でも、この人的損害の大きさからして、フィレンツェに対抗することの困難が予想された(30) 。

(30) ハーリーの計算によれば、1293年時ピーサの全人口38,000、成人男性12,500 (Herlihy, p.68)。これからして9千余という捕虜の数が、コンタードからの者を含むにしても、いかに大きいものだったかが分かろう。ここから、「ピーサを見たければジェノヴァに行け」の句が生まれた。



図I-5 Terme di Traiano (古代ローマ遺跡)





図I-6 トスカナ諸島 (1メローリァ岩礁)




図I-7 カンポサント・礼拝堂・大聖堂・斜塔 




  

図I-8 マヨルカ島に上陸するピーサ艦隊(1115年) 

Bruxelles, Bibliotèque Royale, ms. 9029
(Les anciennes chroniques de Pise),
sec. XV, Loyset Liédet
(Lamenti Storici Piasaniより)



  

図I-9 シチーリア遠征(年代不明) (同上)




  

図I-10 ピーサに迎えられる皇帝カール4世

Lucca, Archivio di Stato, Ms.107 (Sercambi, Croniche) (Lamenti Storici Piasaniより)



   

図I-11 皇帝の代官に忠誠を誓うピーサの アンツィアーニとポポロ (同上)




下記の諸書を参照した(末尾 [ ] 内略称):

(1) Ranieri Sardo, Cronaca di Pisa, a cura di Ottavio Banti, Roma, Istituto Storico Italiano per il Medio Evo, 1963 [Sardo]. 

 二つの部分からなり、前半(pp.1-98)は無名氏の手にな る世界の創造とピーサの神話的起源から1354年までの歴史で、単に出来事の構概を年代順にならべたもの。18世紀の編者によって誤って R. Sardo に帰された。後半(pp.99-299)が、1354年から1399年までのサルドの詳細な手記。R. Sardo(1399年没)は、1320/24年頃キンシカ区の裕福な商人の家に生まれ、成人して財務官・使節・評議員・プリォーレ等多くの公職に就いた。かく市政内部にあってその情報を伝えていることから、14世紀後半のピーサの貴重な史料とな っている。


(2) Raffaello Roncioni, Istorie Pisane, per cura di Francesco Bonaini, Firenze G.P.Vieus seux 1844-45 [Roncioni]. 

 ルッカとの境界にある Ripafratta の由緒ある貴族の家に生まれ(1557年以降、没は1618年頃)、司教座聖堂参事会員を務めた、ピーサ史に関する膨大な蔵書の所有者としても知られるRoncioniの年代記。起源から1406年フィレンツェに征服されるまでの都市国家ピーサの歴史。執筆1592~1606年、トスカーナ大公 Ferdinando I de' Medici (1587-1609) に献じられている。4巻からなり、前2巻 Tomo I が当年代記、後2巻 Tomo II は Cronache Varie Pisane として、ピーサの最も古い年代記 Bernardi Marangonis, Vetus Cronicon Pisanum, 前述 Sardo のもの(ただし962年以降)、Chronica Antiqua Conventus Sanctae Catharinae, その他

の古史料が収められている。


(3) Paolo Tronci, Annali Pisani, Bologna Arnaldo Forni 1975 [Tronci]. 初版本には、An nali Pisani di Paolo Tronci, rifusi, arricchiti di molti fatti e seguitati fino all'anno 1839 da E. Valtancoli Montazio ed altri. Seconda edizione accresciuta delle Memorie storiche di Pisa dal 1839 al 1862, scritte da Giovanni Sforza, Pisa presso Angelo Valenti 1868, と あるごとく、15世紀のピーサ大司教 Paolo Tronci の1441年までの年代記を、Enrico Valtanco li da Montazio, Giuseppe Tabani, Ferdinando Tortoli らによって追加・訂正・校訂したものに、ルッカの G.Sforza の Memorie storiche di Pisa を付け加えて1868-71に出版されたもの。


(4) Giovanni Villani, Cronica, Roma Multigrafica 1980 (Firenze 1823) [Villani]. フィレンツェ の著名な年代記。著者がペストで死亡した1348年以降は、弟Matteo(1346~60)と息子Filippo(1360~64)の手になる。


(5) David Herlihy, Pisa nel Duecento, Pisa Nistri-Lischi 1990 (Pisa in the Early Renaissance, a Study of Urban Growth, Yale Univ. Press 1958) [Herlihy].


(6) Gino Benvenuti, Storia della Repubblica di Pisa, Pisa Giardini 1982 [Benvenuti].


(7) Emilio Cristiani, Nobiltà e Popolo nel Comune di Pisa, Napoli Istituto Italiano per gli Studi Storici 1962 [Cristiani].


(8) Yves Renouard, Le città italiane dal X al XIV secolo, Milano Rizzoli 1975 [Renoua rd].


(9) Emilio Tolaini, Forma Pisarum, Pisa Nistri-Lischi 1992 [Tolaini].


(10) La Sardegna, a cura di Manlio Brigaglia, Della Torre [Brigaglia].


(11) D. ウェーリー(森田鉄郎訳)『イタリアの都市国家』平凡社 1971 [ウェーリー]。


(12) N. オットカール(清水・佐藤訳)『中世の都市コムーネ』創文社 1971 [オットカール]。


(13) ボルヒャルト(小竹澄栄訳)『ピサ - ある帝国都市の孤独』みすず書房 1992 [ボルヒャルト]。 


(14) 清水廣一郎『イタリア都市国家研究』岩波書店 1987 (1975) [シミズ]。


(15) 米山喜晟『モンタペルティ・ベネヴェント仮説』大阪外国語大学 1993 [ヨネヤマ]。


(16) Lamenti Storici Pisani, a cura di Giorgio Varanini, Pisa Nistri-Lischi 1968[Varanini].


(17) Emilio Tolaini, Pisa, Bari Laterza 1992[Tolaini1].


(18) Giorgio del Guerra, Rustichello da Pisa, Pisa Nistri-Lischi 1955[Guerra].


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