9号休載の辨


9号誌休載の辯

           田淵  晉也


 予定していた、連載中の『’60年代日本の芸術アヴァンギャルド』の9号誌掲載を、見合わせることにした。理由は、年齢相応の身体や身辺の不都合である。しかしそれは、書けなかった直接の理由で、真の理由は他所にあるようにおもう。老化による知力、気力のまぎれもない衰退と、最近の出来事に起因する狼疾のせいだろう。

 8号誌以来、いつものように書いていたが、いかにしても収拾できなかった。『徒然草』を気取るわけではないが、外界が介入し書いているものが制御できなかったのだ。

 ウクライナをめぐる米欧とロシア、そして日本政府と世論の動向、関係があるようなないような安倍事件と国葬騒ぎ。これは、「いつか来た道」、戦後五年目の’50~’60年代世界のデジャ・ヴューだ。「この道は・・・・・」と詠嘆し、デジャ・ヴュー(既視感)としたり顔で言うのは、老人の悪癖、臨床心理学では「呆け」症状とするのは知っているが、それでもなお、こだわらずにはいられない。

 いま目のあたりにし、不可解とも滑稽ともおもういっぽう、いらだたしい無力感においやられるこれら出来事は、見極めようとしている’50~’60年の出来事と照らしあわせると、そこにもあった不可解さといらだたしが、にわかにべつな意味をおびてくる。

 こう言っただけでは、ボケ老人の独りよがりに聞こえるから、わたしのこだわる、いまおこっていることと五、六十年代にあったことを、みくらべておこう。これもまた下手な言いわけにすぎないが・・・・・

 モリカケサクラの汚物の匂いだけでなく、日本を見かけと実体がまったく異なる得体の知れない国にした張本人が、国葬になろうとしている。そして、そのような彼を、民主主義の盟主アメリカ合衆国の上院は、超党派議員の提案で、「一流の政治家、民主主義の不断の擁護者」だったと功績をたたえる決議案を可決した。報道による理由は、「日本の政治、経済、社会に加え世界の繁栄と安全のために消し去ることできない功績をのこした」のだそうだ。この決議には、あの犬猿のなかの共和党と民主党の両党議員が一致して賛成したのである。不可解で悪夢のような出来事である。

 だが、この不可解は’50年代にも見たことがある光景であり、それらを表裏として照合すると、不思議でも奇妙でもなくなり、ただ暗澹となるばかりである。

(’50~’60年代の詳細については、『‘60年代日本社会の位置 ① 世界の状況 ② 世界状況のなかの日本』[『百万遍』2号]に掲載した.)


 第二次大戦終了五年目の1950年6月、朝鮮戦争がはじまった。これは朝鮮民主主義共和国軍が38度線をこえて侵攻したのだ。分断国家として成立していた大韓民国の軍隊は、それなりに準備していたのだが、ウクライナ軍とはちがい、あっさり敗退し三日後には首都ソウルが占領された。日本統治中の国連軍(米軍)は即刻出兵した。7月には釜山(プサン)、9月には、ソウル北方の仁川(インチョン)に上陸して、ソウル奪回、平壌(ピョンヤン)占領を果たし、劣勢回復をし、チャンスとばかりさらに北進する勢いをしめした。

 そこで、中国人民義勇軍が鴨緑江を渡って参戦してくる。二ヶ月後には38度線はふたたび侵されソウルは占拠される。以降戦況は、取ったり取られたり一進一退となり、両軍は甚大な死傷者、損害を累積しつつ膠着状態におちいった。

 翌年6月には、ソ連の国連代表が休戦会談を提唱し、開城(ケソン)や板門店(パンムンジョム)で会談がこころみられたが、結論がでるようなものでなかった。なんとか休戦協定が調印されたのは3年後の1953年であり、両国の現在の悲劇的関係はこの奇妙な休戦協定による。

 この(年表)要約は、現在のいま、新聞、テレビで日々報道されるウクライナ戦争の当事者国とその役割に若干の異動があるとはいえ、ほとんどおなじ様相を告げ、三年後を予見しているようにおもえる。

 ただし、この’50年代世界の水晶球が映す光景は、現実界のすべてを映していない。この消耗戦の実像を映していない。まずデータからみてみよう。

 朝鮮戦争がもたらした人的被害にはつぎの数値がある。関係国の兵士と民間人の死者数である。

(インターネット検索による「戦争による国別犠牲者数 ─ 人間自然科学研究所: この数値の定説はない. この資料も原典二冊の孫引きである.)


韓国  約240万人(兵士  98万7000人、民間人 143万人)

朝鮮  約292万人(兵士  92万6000人、民間人 200万人)

国連軍   約15万人(内、14万人が米国)

中国  約90万人 (兵士  18万3000人、民間人  72万人)

(中国の民間人の死者の多さは、国家参戦でなく個人意思による参加、義勇軍であるから区別が難しかったのであるまいか.


 ここで注目するのは国連軍の名のもとで参戦したアメリカ合衆国軍である。前掲資料の参戦国とその兵力一覧によると、国連軍は、大韓民国軍98万人以外に、アメリカ合衆国軍25万3300人を筆頭に、22カ国の兵員で構成されている。それら二国をのぞく主な国は、イギリス(兵力1万5700人)、フランス共和国(7400人)、カナダ(5400人)、オランダ王国(7200人)、ベルギー王国(5600人)、トルコ共和国(4600人)である。その他の国は、千数百名以下の兵士派遣で、ギリシャ共和国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ王国、フィリッピン共和国、コロンビア共和国、南アフリカ共和国、エチオピア、そして、最小員数400名のルクセンブルク大公国までの9カ国である。大韓民国をくわえた国連軍の総数は127万7600名である

(注.韓国兵士の死者数と国連軍構成の韓国兵の数が同じであるが、その理由はわからない.)


 対立する朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国(抗美援朝義勇軍)の兵員は135万人と100万人前後とされている。ソビエト連邦は、少数のパイロットをのぞき戦闘には参加しなかったという。

 多様な国が参加し、膨大な死者が出た戦争だった。その参加兵士の死亡率には驚かざるをえない。中華人民共和国の義勇軍参加兵100万人ちゅう90万人が死んでいるのである。この数値は不確かとしても、米軍25万3300人ちゅう約14万人の死者は実数にちかいものだろう。かれらは何のために何をおもって死んでいったのだろうか。それは大韓民国兵士と朝鮮民主主義人民共和国の兵士たちにとってもほとんど同様だったのではるまいか。かれらは共に、五年前までは、大日本帝国の植民地の同胞だった。それが、二年前の1948年に、戦後二極化体制、「資本主義・『自由』主義」体制と「共産主義・『政治』主義」体制によって分断され二国化された国の市民であり兵士だった。新体制設立者たちにとっては、じゅうぶん戦う理由があったのだろうが、殺し殺される兵士や市民にその自覚があったとはおもえない。

 このレベルでは、殺し、殺されるの惨劇があり、そして、データ数値の死者数もたしかだろう。しかし、そこでの戦いは、大韓民国とか民主主義人民共和国とかの区別のない惨状だったにちがいない。この殺戮、破壊の混乱後では、2年前に分割された朝鮮半島の人民区分は、おそらく、相当数入れかわっていたのではなかろうか。

 しかし、兵士たちの自覚においては、朝鮮半島二国の兵士ほどではないにしても、25万人ちゅう14万人が死んだ米軍兵士にしても、ましてや遠隔のギリシャ(1000人)やエチオピア(1200人)、南アフリカ(800人)から来た兵士たち、かれらは数値では、4万4300人ちゅう約1万人が死んだのだが、何のために殺し殺されるのかを納得していたものが、ひとりでもいたとはおもえない。こうしたことは、のちのベトナム戦争でもあったにちがいない。あるいはいまのウクライナ戦争でも、朝鮮戦争のときほどではないが、ウクライナは、中世紀以来、おなじギリシャ正教をほうじる小ロシアのロシア帝国の一部であり、20世紀になったからもソヴィエト連邦の有力一部だった。いま戦っているウクライナ兵士もロシア兵士も、ほんの十数年前までは同胞同然だったのだ。目のまえで家を焼かれ職場をうばわれ家族が殺されているウクライナ兵士の目的意識はいざしらず、ウクライナ国籍の近親者がいるかもしれないロシア兵たちに、ウクライナ兵と殺しあいをしなければならない理由はわからないはずだ。

 こうした問題は、ウクライナ戦争にもかかわるいらだたしさだが、一般的には、朝鮮民族にとって朝鮮戦争はなんだったのかというような、朝鮮戦争にこの角度から焦点をあわせた論考はないとはいえ、国家、宗教、信条のイデオロギーと人間の問題として類似した視点からの指摘は、多々あることだし、ここではこれいじょう問題にしない。

 ここで問題にするのは、こうした背景をもつ朝鮮戦争と’50年代以降の日本の状況である。朝鮮戦争によって日本の戦後はおわった。朝鮮戦争の「特需景気」から、その後の日本の高度経済成長がはじまったのは、すでに連載でも、『百万遍』2号誌、4号誌掲載の項目で、いくどもふれたところである。

 しかし、それだけではなく、朝鮮戦争によって、戦後のアメリカ合衆国との関係が一変し、ある意味ではいまにつづく関係がはじまった。たがいに殺しあいをし、ほとんどの都市がウクライナの東部、南部の都市のように焼き払われ、原爆によって広島、長崎のふたつの中都市が一瞬に消滅させられたことなどがなかったような、太平洋戦争などなかったような友好関係がつくられたのである。(来日した国連事務総長が天皇を表敬訪問したとき、天皇徳仁は、原爆投下記念日に合わせて事務総長が広島を訪れたことを、まるで天災跡地の慰問・視察のように、感謝するという奇妙な対応をしても、だれも不思議ともおもわない国だ.)

 そうした独立国回復、合衆国と特殊な関係をもつ新生国日本になった直接の契機は、この朝鮮戦争にあった。

 1945年8月以来、軍隊解散、戦争犯罪者処刑、徴(集)兵いがいの軍人の追放、旧支配層の公職追放、財閥解体・・・・と、連合国の名のもとでアメリカ合衆国によって、敗戦処理国としてあつかわれてきた日本の境遇は、とつじょその待遇がかわった。  

 北朝鮮軍侵攻の10日のちには、連合国司令官マッカーサーは日本国首相吉田茂に、「(自衛隊の前身)警察予備隊(7万5000人)の創設、海上保安庁の拡充(8000人増員)を指令する」。旧日本陸海軍の抜本的解体方針の変更である。もっとも、それまで米軍の管理下にあった治安維持の移行とも考えられるが、同年12月には、アメリカ主導で組織されNATO(北大西洋条約機構)が、NATO軍60個師団の創設と西独軍の創設とNATOへの編入を正式決定しているから、警察権の問題ではなく、合衆国政府自体の同根政策の一環と考えられる。

 というのも、朝鮮戦争勃発の三ヶ月後の1950年9月には、アメリカ大統領トルーマンは、「9.14 対日講和・日米安全保障条約締結予備交渉の開始を国務省に許可」し、国務省顧問のダレスが、「9.15 ワシントンで日本再軍備に制限を加えないと演説(した)」と年表に記されているからだ。第二次世界大戦敗北で武装解除された(西)ドイツと日本の再軍備である。

 ジョン・フォースター・ダレスとは、アイゼンハワー次期アメリカ大統領政権で国務長官になった政治家で、50年代のアメリカ政治の方針決定で中心的役割をはたした政治家である。

 ここで、ほぼ同時におこなわれたダレスとトルーマンの発言は、関連性あるとすべきだろう。「対日講和・日米安全保障条約締結」の促進と「無制限の再軍備」の承認である。この承認は、むしろ奨励だが、敗戦後、急遽作成され、1946年11月に公布された日本国憲法第9条に違反し、無視するものである。朝鮮戦争までの日本はあきらかにこの憲法条文によって、軍隊の存在しない国家機構で運営されていた。

 敗戦直後制定されたこの憲法は、とうぜんアメリカ合衆国の意向を反映したものだが、その意向がここでは180°転換されたと解すべきだろう。その変換の総論が、大統領指示であり、各論がダレス発言と解せられる。

 大統領指示が、対日講和と日米安全保障条約のセットであることに注目しなければならない。「対日講和条約」は、アメリカ合衆国を中心にした連合国諸国と日本との間で結ばれる条約であって、これによって第2次大戦の戦争状態が終結し、日本の主権が承認される条約である。つまり、占領国から独立国になることである。そして別個に、合衆国と日本のあいだでむすばれる「安全保障条約」は、安全保障のためにアメリカ軍を日本国内に駐留させることなどを定めた条約だが、事実上は、極東における西側諸国の軍事上の安全保障であり、ソ連邦、中国、朝鮮民主主義人民共和国へ対峙するためだった。それは、これら条約のアメリカ合衆国政府内での所管が、講和条約は国務省であり、安全保障条約は国防省であることが、条約の性質をよくあらわしている。

 そして、結果的に、締結されたこの「対日講和条約」が承認した独立国日本の位置は、署名49カ国のなかに、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの3国がはいらず、日中戦争、太平洋戦争をつうじて日本と交戦した、中華民国がいないことによくあらわれている。不署名の三国は、講和会議には参加したが、1949年に成立した中華人民共和国が参加を認められなかったのを理由に、会議の無効性を主張したのだった。なお、中華民国(現台湾政権)もおなじ理由から参加できなかった。日本がこの条約で承認されたのは、戦後世界二極化体制のなかで、「資本主義・『自由』主義」体制の側で承認されたのである。そして、むしろこの承認は、日本じたいの願いというより、「資本主義・『自由』主義」体制の盟主、アメリカ合衆国の期待が大きかったからとおもわれる。

 なぜなら、このふたつの国際条約締結会議開催は、一年後の翌年、1951年9月にははやくも実現し、サンフランシスコで、両条約は、関係国によって調印され、半年後の1952年4月には、発効されているからである。このような迅速な国際条約の成立は、きわめて異例であり、当時の大国、アメリカ合衆国の熱意をぬきにしては考えられない。

 そして、また、この両条約締結提案時の合衆国の期待は、たんに日本が、「共産主義・『政治』主義」体制側でなく「資本主義・『自由』主義」体制」側にある国家だけではなかったのではないか。つまり、地政学的に反対体制圏に隣接し、攻守に最適な国土を提供する国にとどまるだけでなく、積極的な役割をもつ同盟国の期待ではなかろうか。

 その期待の在処は、長期展望をもつが、具体的には、朝鮮戦争から触発された眼前の必要から生じた期待からはじまったのではなかろうか。  

 というのは、在日米軍がプサンに上陸したはやくも3日後、「7.4: 閣議、朝鮮における米軍の軍事行動に行政措置の範囲内で協力する方針を了承(日本商船による韓国向け輸送、国内通信網、特定労働者の超過勤務対策など)」とある。この閣議了承は、GHQの要請による閣議決定だろう。文言の協力項目にある「特定労働者の超過勤務対策」の指すものは年表の一ヶ月半後の記載 「8.25: GHQ、横浜に在日兵站司令部を設置と発表」にも関係するかもしれない。兵站とは、戦場の後方にあって、食糧・弾薬などの軍事物資を補給する組織である。

 戦争では、直接使用する兵器、弾薬のみならず、恒常的補給を要する衣食住の保証をしなければならないし、戦場インフラ構築のセメントなど機材の膨大な量の物資が必要とされ、消費される。おそらく、兵器、弾薬をのぞいた付随的物資の生産と運搬だったのだろう。これを証明するように、翌年、1951年「1.1: 北朝鮮・中国軍、38度線をこえて南下、1.4 国連軍、ソウルを撤退、3.7 北朝鮮・中国軍、ソウルを奪回」の年表記述に混在して、「2.9:ダレス特使、日本政府との会談終了(日米経済協力体制の原則的了解の成立)」、「2.19: GHQ経済科学局長マーカット、米国の軍需拡大に呼応する日本側の生産計画の資料提出を要求   3.6: 経済安定本部、日米経済協力のための総合経済政策大綱をGHQに提出」が記載されている。朝鮮戦争における日本にたいする戦時物資生産の期待がいかに喫緊の課題であったかは、1952年の年表には「3.8 GHQ, 兵器製造許可を政府に指令(武器製造禁止指令の緩和) 4.9 関係省令各改正公布」と記されていることからもわかる。くどく説明するまでもなく、いかに朝鮮戦争がアメリカ合衆国にとって危機的状況であり、日本への期待がおおきかったかがわかる。

 そして、じっさいにこうした依頼にもとづいて生産され米軍に提供された莫大な物資にたいして支払われた対価の累積が「特需景気」だったことはひろく知られている。

 さらにまた、この経済協力が可能なのは、当時の東アジアの情況からみると、工業力、生産力、知識力から日本に比肩できる国はなかったから、GHQのみならずアメリカ合衆国にとって、戦後的役割をもつ国になったのだろう。

 こうした、日米協力の期待が、独立国日本にたいしてむけられたのはたしかだろう。

 しかし、ここで急がれたふたつの条約には、経済協力をこえる期待をおもわせるものが、すでにこの朝鮮戦争関係年表にしめされているようにおもえる。

 時系列でそれをみておこう。

 アメリカ大統領トルーマンが、「対日講和・日米安全保障条約締結予備交渉の開始」を指示した翌日、「9.15、国連軍仁川に上陸、反撃開始」し、ソウル奪回し、10.3 には38度線を再度越えて北進し、ピョンヤン(平壌)に入城している。そうしたとき、「10.13:日本政府、GHQの承認を得て、解除訴願中の1万90人の追放解除を発表」している。

 これらはおそらく、GHQはつぎにおこる事態を織込んだ「承認」かとおもわれる。

 列挙すれば戦況はつぎのよう発展した。


10.20: 国連軍、ピョンヤン(平壌)に入場.

10.25: 中国人民義勇軍、鴨緑江をこえて朝鮮戦線に出動.

11.10: 日本政府、旧軍人3250人に初の追放解除を発表. 

‘51.3.1    警察予備隊、旧軍人に対する特別募集開始.

11.30:  トルーマン、朝鮮戦争で〈原爆使用ありうる〉と宣言(記者会見).

12.5:   北朝鮮・中国軍、ピョンヤン(平壌)を奪回.

12.16: トルーマン、国家非常事態宣言を発令.


 中国軍参戦によって連合国側は圧倒的に不利な状況にたち至ったのである。ウクライナ戦争でプーチン大統領がほのめかしたような、「原爆使用ありうる」である。とうじ原爆所有国は、アメリカ合衆国と、前年1949年から所持するソヴィエト・ロシアという戦後二極体制の二中心国だけであり、第三次世界大戦を予測させるものであった。しかし、これは、一貫性のない発令だった。なぜなら、翌年3月、連合軍総司令官マッカーサーが「中国本土攻撃を辞せず」と公的声明をすると、トルーマンは、即時かれを解任しているからである。だが、トルーマンのもつ緊迫的危機感は現実的だったのだろう。12月には、かれは「国家非常事態」を宣言している。

 この「国家非常事態」宣言でどのような処置が合衆国内でとられたのかはわからない。

 「北朝鮮・中国軍がピョンヤン(平壌)を奪回」し、元の境界区分にもどったことが、どのようにアメリカ合衆国の国民と国家の安全を脅かすことになるのか、そこにはいささか論理の飛躍があるようでわかりずらい。しかし、第三次世界大戦の想定にせよ、なんらかの予測をこえる現実に直面したときの緊急対応の必要があらわれているようにおもう。

 二年前に分割成立した朝鮮民主主義人民共和国にせよ、おなじ年に建国宣言をした中華人民共和国にせよ、イデオロギー的には意気さかんな国とはいえ、近代兵器はおろか生活物資さえ事欠く国家である。かれらの後盾ソヴィエト連邦にしても、第二次大戦ちゅうはナチス・ドイツに勝利し、敗戦まぎわの日本軍を打ちやぶったとはいえ、戦うことができたのは、アメリカ合衆国の兵器支援があったからだ。

 そうしたかれらの軍隊に、充実した近代装備をそなえた、実戦経験豊富な米軍が、戦場において防衛どころか、想定外の死傷者をだし、敗退の危機にあるのだ。ことに死者数は重大な意味をもつ。

 戦後世界体制構想を抜本的に直視する実質的対策が迫られたことだろう。ここにいたっては、武力対決の充実である。それが、1950年12月16日の「国家非常事態宣言」の発令であり、二日後の12月18日から2日間にわたって開催されたNATO(北大西洋条約機構)の理事会・国防委員会の討議であり決定であった。そこでなされたのは、前年の1949年4月に創設されたばかりのNATO軍事機構の最高司令官のアイゼンハワーの就任、NATO軍60個師団の創設、そして、さきもふれた、西ドイツ軍の創設とNATOへの編入が正式に決定された。ひとえに、「共産主義・『政治』主義」体制側にたいする、体制的に具体的かつ実質的な軍事対応である。

 年表は、日本への期待もそうした領域におよぶことをおもわせるものがある。唐突なまでに矢継ぎばやにおこなわれた追放解除である。「対日講和条約・日米安全保障条約」締結を表面化させ、ダレスが日本の再軍備を公式発言しだしたあたりから、追放解除の文字が年表にひんぱんにあらわれるようになる。


(1950年)

10.13: 政府、GHQの承認を得て、解除訴願中の1万90人の追放解除を発表.

11.10: 政府、旧軍人3250人に初の追放解除を発表.

(1951年)

6.11: 旧陸士58期、海兵74期、同相当者245人、幹部候補生として警察予備隊へ入隊

6.20: 政府、第1次追放解除を発表 (石橋湛山、三木武吉ら財界人2958人)

7.2 : 政府、地方指定分6万6000人の追放解除につきGHQの承認を得る. 

6.20付で知事に通達

8.16: 政府、旧陸・海軍正規将校1万1185人の追放解除を発表

 

 この短期間におこなわれた追放解除は、やはり異例といわねばならない。なぜなら、敗戦直後からほんの四年前までおこなわれた、軍人はむろん、公職にあった一般人にいたるまでの徹底的な追放の実体をわれわれは見ているからである。


1946.1.4: GHQ、国家主義者の公職追放および超国家主義団体27の解散を指令.

11.8:政府、追放の基準の要項を地方公務員に拡大. 

1947.1.4 公職追放令改正(追放範囲を3親等・言論界・地方公職などに拡大)・公職適否審査委員会官制改正・市町村長立候補禁止令・町内会部落会長選挙令各公布.


 旧軍人や政界人にかぎらず、言論界、地方公務員、そしてその親族にいたるまで徹底しておこなわれた追放方針の放棄にひとしい、まったくの変換である。

 この変換方針が、大局的だったのは、トルーマンが「原爆使用ありうる」と宣言した1950年11月の年表記載には、「11.8:GHQ、A級戦犯 重光葵の11.21 巣鴨刑務所仮出所を発表.」があることからも推測できる。おなじA級戦犯で死刑を宣告された東条英機ら7名の絞首刑が、2年前の12月に厳正に執行されていたのだから、刑の軽重はあるとはいえ、その落差は大きい。

 1950年10月に追放解除された1万90人は「戦犯覚書該当者は除く」と注記されているから、戦前なんらかの地位にあった一般人だろうが、1951年6月の「第1次追放解除」は、あきらに組織的である。2次、3次があることを想定させるものである。しかも、対象者は「石橋湛山、三木武吉ら財界人2958人」とある。記された石橋、三木はこののち首相や政界の実力者として活躍した、戦前からのベテラン政治家である。こうした戦前からの政治家、財界人の組織的大量解除は、排除基準の変更としかおもえない。

 当初おこなわれた追放基準は、戦犯摘発と同基準であり、対米戦争参画者だったが、ここでおこなわれているのは、現在の世界2極体制で「資本主義・『自由』主義」体制を支持するか、否かである。支持する可能性のある者である。戦時下体制内でいかに活躍した政治家であっても、社会主義者と対立した経歴者は歓迎されたとすべきだろう。むしろ、かれらには、戦後台頭した日本の左翼政治勢力にたいして、果敢に対抗することが期待されたとすべきだろう。その後の日本政治の成り行きを知っているわれわれには、戦後活躍した政治家たちの履歴からもそうとしかおもえない。戦後、脚光をあびた保守系政治家のほとんどは追放解除者であり、旧A級戦犯が、「改訂版日米安保条約」を強力に推進したのはよく知られている。

 だが、朝鮮戦争を契機におこったこれら追放解除者のなかに、これほどまでの多数の軍人が対象者となっているのには、さらに留意しなければならない。旧軍人の追放解除がはじまったのは、1950年11月からだが、1951年8月には「旧陸・海軍正規将校1万1185人」の解除がなされている。実戦指揮能力のある職業軍人である。同年3月には「3.1:警察予備隊、旧軍人に対する特別募集開始」をしているから、その要員ともおもえるが、旧海軍の正規将校をふくんでいるから、1950年7月以来、マッカーサーから充実がもとめられている海上保安庁要員かもしれない。しかし、日本近海の高々数千トンから1万トンまでの巡視船を指揮するのに、太平洋の荒波のなかで軍艦と大砲をあやつった海軍正規将校の必要がどこにあったのだろうか。

 軍隊を所持しない日本にとっては、当時の警察予備隊と海上保安庁は、陸軍と海軍である。太平洋戦争中、シンガポール、フィリッピンで充分にその実力を知った、実戦にたけた陸、海軍再建の期待が、今回の朝鮮戦争のなかでその力関係の実体をおもい知った世界二極構造の、将来展望のなかにうまれたのではあるまいか。

 そうした期待が、1951年締結し、1960年改定し現在にいたる「日米安全保障条約」のなかに刻印されているようにおもう。

 これらはいずれも、日本とアメリカ合衆国、二国間の安全保障条約だが、1951年9月に署名された条約は、「日本における安全保障の為にアメリカ軍を日本国内に駐留させること(在日アメリカ軍)などを定めた二国間条約」だった。しかし、1960年1月に署名され、1960年6月23日に発効した条約は、新日米安保条約といわれる「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及安全保障条約(Treaty of mutual cooperation and security between Japan and  the United States of America)」だった。

 この2条約は、一貫性があり、解釈をすれば本質的にはかわりないようにみえるが、文言的には「相互協力及安全保障」と明記されたことで、内容が鮮明になったといえる。語学的議論をはぶくと、常識的には相互協力保障と相互安全保障の約束である。

 朝鮮戦争を契機にはじまった、アメリカ合衆国の日本への期待はここに集約されているようにみえる。アメリカ合衆国は日本の安全が脅かされたとき、その危機を取りのぞくのに協力しなければならない。日本もまた合衆国の安全が危機にさらされたとき、排除に協力しなければならない。その協力は、1951年の日本の実力、1960年の国家的実力は、後者でも高度経済成長がはじまっていたとはいえ経済力で合衆国がなにかを期待できるレベルにはなく、期待できるのは戦闘能力だけである。そうした期待が、世界2極体制構造の結果おこった1950年の朝鮮戦争、そして、’60年代半から本格化するベトナム戦争を直前とする時期に締結された新旧「安全保障条約」の意味だったのではあるまいか。

 いささか飛躍してみれば、そうした見方からすれば、ウクライナ戦争で露呈した二極構造の2022年の世界のなかで、連動しておこりうるのは、当事者をふくめだれしもが口にする「台湾問題」である。このようなとき、憲法改正、ことに第9条の自衛隊を正規軍にすることを生涯の政治目的にし、「台湾有事は日本有事」などと公言していた安倍晋三の死は、「資本主義・『自由』主義」体制諸国や、ことにアメリカ合衆国の指導者たちには、惜しまれるものであり、かれを、「一流の政治家、民主主義の不断の擁護者」と評価し、「日本の政治、経済、社会に加え世界の繁栄と安全のために消し去ることできない功績をのこした」と持ちあげてみせるのもわからぬことはない。大戦直後、二極体制が成立するかしないとき、安全のためいち早く形成したNATOのような、QUAD形成の提唱者の役割をすすんでひき受け、オバマ、トランプという一見正反対ともみえる大統領の意に逆らうことなく両国関係を、世界的にも、日本国内でも強化したのはたしかに「一流の政治家、民主主義の不断の擁護者」である。

 しかし、この評価を大統領声明レベルですますのでなく、議会上院の採決までするのはいささか過剰である。そこには、かくれた思惑がみえかくれするとおもうのは、呆け老人のたんなる妄想ではないかもしれない。

 かれが声高に主張していた「憲法改正」や〈台湾有事は日本の有事〉を結実させることである。日本ではかれの「国葬」問題がおこっている。この企画に、かならずしもすべての日本人が賛成してはいないらしい。かれの世界評価の保証をしてやらねばならない。モリカケサクラの臭気をおさえる香水を、ふりかけてやらねばならない。「国葬」の正式式次第は、この『百万遍』9号誌が刊行されるころにははっきりするだろうが、アメリカ合衆国上院決議の効能はそれなりに利いたようだ。「国葬」提唱者の高市早苗や萩生田光一らは、いずれもこのアメリカ合衆国上院の超党派議員による顕彰決議を、安倍功績の根拠とし、国葬にふさわしい政治家だと煽り立てた。「国葬」に懐疑的だった政治評論家たちも小声になったようにおもう。

 そしてまた、今日のニュースは、合衆国副大統領の国葬出席が正式にきまりそうだと伝えた。さぞかし、それにつられて、というより、彼女と接触するために、各国要人がやってきて、日本のマスコミはさわぎたてるだろう。高校までの日本の学校は、弔旗をかかげ、黙祷だってするかもしれない。大学が、あの吉田茂の、戦後はじめての国葬のときと比較して、どうするかは見ものである。

 だが、いずれにしても、この「国葬」効果は、安倍の政治的神格化を保証し、日本人の大好きな、「神君の遺志」にかこつけて、「憲法改正」の熟柿が、期待どおりの籠のなかに落ちる可能性はたかまるだろう。そして、このドミノ倒しの最後のピースは、昔懐かしい黒い鏡のジョーカーである。そこに写っているのは、近い将来(3年先か、5年先か、10年先かわからぬが)かならずおこる、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン紛争、ウクライナ戦争のような、台湾戦争における、日本軍の戦死者の数値である。

 これは、呆け老人のみた真夏の悪夢を、予定していた原稿が書けなかった言いわけに書いたのだが、悪夢が悪夢たる所以について、誤解がおこると残念だから、ひとことだけ付け加えておかねばなるまい。

 わたしがいうのは、こう書いたからといって、憲法第9条はまもらねばならない、憲法改正はしてはならぬと、’60年代の日本にもいた良心的知識人の発言や、社民党党首の選挙演説のようにくりかえして、すませているのではない。

 福島瑞穂にしても、ならばどうするかを、政治家として今の日本をいうのなら、政党党首なら説明しなければならない。9条を改定せず、正規軍をもたぬのなら、「日米安保条約」をどうするかについてはなにも考えていないようにみえる。破棄せよというのでもなさそうだ。世界政治二極体制のどちらの側に今あるのか、あるべきかについても、一度も考えたことがなさそうにみえる。

 とはいえ、そんなことを今考えなくても、いままでもなんとかやってきたではないか。いまこの時やるのは、とにかく憲法改正阻止という反論があるかもしれない。それは彼らがみた、われわれがみせられた幻影であり、いままでの政権担当者たちが、知ったうえでか知らずにやったのかわからない、巧妙にみせかけていた虚像である。

 日本が立派な独立国となっていた、ベトナム戦争以後の両体制の衝突や、湾岸戦争、アフガニスタン紛争、そして、ウクライナ戦争という「資本主義・『自由』主義」体制、あるいは、アメリカ合衆国の危機のときでも相互協力・安全保障条約はあったのだが、なんとかやってきたという虚構の「現実」である。1964年から本格化したベトナム戦争では、同じ体制下にある隣国韓国は、30万人以上の軍隊を派遣し、戦死者4968人、負傷者8004人をこうむったのだが、日本は憲法第9条を掲げて参戦しなかった。そのかわり、莫大な経済負担をして、アメリカ合衆国への「相互協力・安全保障」の約束を果たしていたのだ。とうじの日本のGNPはアメリカにつぐ世界第二位であり、日本の負担した経済協力は十分な効果を発揮するものだった。

 だが、2022年の日本は、年間国家予算の10倍以上にあたる、1220兆円の国債などの負債をかかえ、GDPとて、合衆国の五分の一、中国の四分の一の経済力である。とうてい効果ある経済協力などできそうにない。それは、ウクライナ戦争においても、合衆国、イギリス、フランス、ドイツの膨大な価格の武器援助に比して、憲法9条を隠蓑にして、自国災害用に貯蔵していた毛布や絆創膏、薬品の経済援助で責をはたしたことにしている。せいぜいやったことは、特別認可の亡命ウクライナ人を受けいれ、接待はボランティアまかせ、テレビ出演をさせて、思いのたけを語らせただけである。それでは、アメリカ合衆国への「相互協力・安全保障」や、対立を深める世界政治二極体制の一方の側にある実質的役割を果たしたことにはとうていなるまい。つまり、「日米安全保障」条約履行はいままでのようにはとてもいかないということである。

 それならば、そんな条約などなくてもよい、核の傘とか緊急事態発生時の必要などといわれるが、いままでだって、中国ともロシアとも適当にウイン・ウインでやってきたではないか。それに、スイスのような国もあるではないかという現実論と理想論がある。

 そうではない、いままでやってきたのは、奇妙な妥協であり、また、「日米安全保障」の背後霊が後ろに立っていたからだ。

 なにも考えていないように見えるのは、保守党党首もおなじことだ。拉致問題などがそうである。小泉純一郎なども、「拉致問題」解決の糸口をつけ、それなりの成果をあげたと、いまでは功績のひとつにされているが、そうではなかろう。

 拉致問題とは、法治国家に不法侵入した他国の政府要員がその国の国民を拉致した国際事件である。たとえ国交のない国であろうとも、あきらかな不法行為であり、国連に提訴するか、奪回行為をおこすべき事件である。事件発生時は、取り沙汰はされてはいたが、実体は明確ではなかった。だが、小泉日本国首相が朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記とした会談で事実上、実態はあきらかになった。奇妙な感謝をのべて数名だけを連れ帰って、日本の安全を脅かす重大な国家行動を、黙認ともおもえるうやむやにするのでなく、戦後日本が遵守する国際法にもとづき処置すべきあった。実体は、日本国家が不法侵入され、国民が他国の国家的目的のため拉致されたのだから、国交がないのなら、「日本とアメリカ合衆国との間の相互協力及安全保障条約」の対象にするか、とりあえずは国連に提訴するかを、国民保護の責任をもつ政府としては、とうぜん決定をすべきでだった。

 見方によっては、他国の特殊部隊が日本にいくたびも侵入し、日本国民を国家目的をもって拉致するのは、国際的不法行為としては、合衆国の9.11事件に匹敵する行為である。

 合衆国大統領なら、小泉首相やそれを受け継いだ安倍首相のようないかがわしい交渉ですまそうとは、けっしてしないだろう。合衆国国民もジャーナリズムもそれを許さないだろう。(いかがわしいとは、経済援助とかその他の交換条件をほのめかすことである. 念のため!) 憲法9条によって単独の奪還行動が不可能なら、国境侵犯、国民拉致は、すくなくとも、「日米安全保障条約」の適用事項である。

 日本では、政権担当者も、マスコミもそれに言及しようとはしなかったが、合衆国側では、若干これに気づいている気配がある。というのは、小泉が北朝鮮を訪問し、金正日総書記が拉致を事実上認めた2002年以降の合衆国大統領はすべて、「拉致問題」にとくべつな関心をもち、拉致家族との会見などの配慮をみせている。2001~2009年に大統領だったジョージ・ブッシュは、訪米した拉致被害者、横田めぐみの家族と脱北者少女とのセットで会見している。次期オバマ大統領は来日したさい、拉致家族たちと公式に会った。トランプ大統領にいたっては、会見したばかりか、その後の金正恩総書記とのシンガポールでの対面会談では、議題にすると約束した。5月に来日したバイデン現大統領もどうようで、面会した拉致家族全員とことばをかわし、横田めぐみの老齢の母とはハグしたと報道された。

 ただし、これら面会はすべて、報道によると、被害者側からの大統領への協力依頼であって、大統領の人道主義的な特別行為と報じられた。トランプ大統領のはからいにいたっては、安倍首相との信頼関係のあらわれのように見せられている。

 だが、これらの面会は、日米双方ともそうおもわせたくないようだが、「日米安全保障条約」と無関係とはけっしていえぬ大統領行為だろう。たとえば、ブッシュ大統領の前任者クリントン大統領も来日しているが、そのようなことはしていない。

 これがいかに異例かは、これいじょうは省略するが、その異例な国家間行為が実現したのは、「日米安全保障条約」の媒介をぬきにしては考えられない。日米両国は、この会談について、対外的に条約との関係を認めていないが、それなりの効果はあったはずだ。こうしたいずれの会見も北朝鮮へは伝わったはずである。また、この会見設定自体も、日本政府の関与なくしてはありえない。横田夫妻の訪米時のブッシュ大統領との会見などは、日本政府の積極的関与なしには考えられない。間接的指示さえ疑える面会である。

 いずれにせよ、この「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及安全保障条約」は、さまざまたところで、さまざまな関係の仕方をしているはずだ。韓国にたいしてもまた、「竹島問題」や「徴用工問題」がゆきつくところまでいけば、抵触する事態になる。だから、そうはならないという見方もできるのだが・・・・・・・。

 「拉致問題」は、日本独自の行動で解決し、また解決しつつあるというのが、小泉、安倍両首相の言分であり、担当相まで任命したのが安倍首相である。

 かれは、2016年来日したプーチン・ロシア大統領に、「拉致問題」の北朝鮮への仲介を依頼し、プーチンもまた人道主義の立場から、北朝鮮側に働きかけると約束したという。そんなことが実現し、効果あるとはだれひとりおもわないだろう。だが、その約束(?)が報道されたのは、おそらく安倍首相が希望したからである。国民のための愛国の政治家、すなわち民主主義の政治家であることを、ここでも実証したつもりだったのかもしれない。

 しかし、この数回おこなわれた話し合いの場で、両国の間によこたわる、国家としての日本国民の大問題について、かれは一言もふれることはしなかった。第二次大戦直後におこった日本人のシベリヤ抑留の問題である。半世紀をこえるいまだに、その詳細はわからない、というのはロシア側が資料提供をしない出来事だからなのだが、安倍─プーチン会談は、そんなことは存在しないような、友好的な交渉だった。

 第二次大戦末期におこり、朝鮮半島分割二国家形成の根拠となったソ連軍の侵攻、「日ソ中立条約」破棄による、満洲国、および、日本統治下にある朝鮮半島北部への侵攻、そして、関東軍降伏後の日本兵や在留日本人がシベリヤへ拉致され、強制労働をさせられた出来事である。50万人をこえる日本人が抑留され、10年間をこえる期間、過酷な条件のもとでの重労働に従事させられ、約5万人以上が死んだとされている。移送者の数は65万とも70万人ともいわれ、死者数とともに今も正確な数値はあきらかでない。また、死者についても、姓名が判明しているのは4万人あまりで、なお1万人をこえる不明者がいる。

 これについては、プーチン大統領の前任者、エリツィン大統領が2002年に来日したときは言及され、その後いかなる処置もとられなかったのだが、とにかく細川護煕日本首相にたいして、謝罪されている。

 ところが2016年の安倍首相はこの真相究明にふれることさえせず、日ソ両国はこの来訪によって、信頼感をふかめる成果があったとした。

 しかし、日頃のかれの政治信条からいえば、あきらかに奇妙な行為である。かれや小泉両首相が首相としての参詣にこだわった靖国神社が、もしかれらがいうように、ワシントンDCにある「朝鮮戦争戦没米兵記念碑」や「ベトナム戦争戦没者記念碑」のような役割をはたしているというのなら、シベリアで死んでいったものたちもまた、靖国神社に祀られるべきである。その名前がわからないのなら、機会あるごとにあらゆる手段をつくして求め、死者名簿に書きくわえていくべきだ。かれはそのような責務をはたさなかった。会談のさい、国民にとっても、国家にとっても重大な懸案事項が両国のあいだにあることを、かれが思いだしたかどうかさえ疑わしい。

 それは、首相として靖国神社参詣を、自民党総裁選挙の公約とした小泉純一郎首相や、いまでは徒党を組んで参詣するのを習わしとする国会議員団にせよ、こうして死んでいったシベリア抑留の日本人を靖国神社に祀ることを考えたことなど、一度もなかったようにおもう。

 ・・・・・ これは、8月15日の日本の動きを知らせる報道のなかで、二重写しにみた悪夢である

(注.今年は、高市早苗経済保安大臣や小泉純一郎の息子、小泉進次郎衆議院議員は参詣したが、議員団のコロナのため取りやめたそうだ.)


 これらの悪夢は、ドミノ倒しのように、「ウクライナ戦争」から「国葬」「拉致問題」「靖国神社」 ・・・・・「統一教会」と勝共連合と維新行動隊と60年安保国会デモ、そして、「電通専務」と東京オリンピックと中央公論事件の顛末・・・・ へと、他のピースに連鎖反応して倒していく。このドミの倒しは、いたるところに連鎖し、二筋にも四筋にも五筋にもなり、部屋一面に死屍累々のピースが転がる。

 これを悪夢というのは、’60年代日本の思い出に重なるからである。にもかかわらず、どう解釈すべきかわからないからである。

 その心にうつりゆくよしなごとを、書きつけていたら、あやしうこそ、物狂ほしくなり、「狼疾」のあまり、「休載」せざるをえなくなったというのが、本号の休載の辯である。この休載の弁とて、支離滅裂の乱文である。なお重ねてお詫びする。

   2022年8月19日


目次へ



©  百万遍 2019