ダンテの「家」1



ダンテの作品における「家」の意味

「どこの家にも骸骨がある」 サッカレーの言葉


米山  喜晟




1.  はじめに



 「イタリア人の修道士サリンベーネが、13世紀にフランスを訪れた時、彼が注目した主な事柄は、夏の夜が短いことに加えて、貴族が田舎に住んでいるという事実であった

①  J.K. Hyde;  Soceity and Politics in Medieval Italy. 1973, London, P.6-7.


 これは、J・K・ハイドの「中世イタリアの社会と政治』中の一文であるが、私には当時のフランスとイタリアとの違いを見事に浮彫りしていることばのように思われる。すなわち、サリンベーネがフランスでこうした事実に目を見はったということ自体、彼の故郷イタリアでは、「サリンベーネの時代までに、少くとも一年の一部分をすごすための町の住居を持たない貴族はほとんどいなかった」ことを意味しているからである。

②  ibid, p.7


 農奴出身の商人たちを主体として、封建的領地の中で孤立した存在を強いられた北ヨーロッパの諸都市と異なり、封建的出自を誇る貴族たちが商人と雑居し、時には自らも商業活動に従事していた、イタリアにおける中世都市の特性に関しては、近年わが国でもイタリア史の専門家たちの手で次々とすぐれた研究や紹介が行われており、そのおかげで、我々の文学史的研究のためにも貴重な示唆が与えられつつあるように思われる。これらの成果は、ダンテおよびその同時代人の文学を考える上で当然貴重であるが、それは単にダンテたちが生れかつ生きた環境についてより正確な知識を与えてくれるためだけではなく、ヨーロッパの他の諸国、特にフランスとの差異を明らかにしてくれるためでもある。ところで、なぜ私が殊更こんなことを強調するかというと、ダンテの時代あたりが、ヨーロッパ文学史の上で一つの曲り角をなしていると私は考えるからである。

 たとえば、E・R・クルティウスは、その大著『ヨーロッパ文学とラテン中世』の中で、「1100年から1275年-----『ロランの歌』から『バラ物語』まで-----フランスの文学と知的教養は、他の諸国民に対して模範とされた」と記した後、「1300年以後すでに文学の首位権はイタリアに移っていた」と述べている。

③ E・R・クルティウス(南大路他訳)『ヨーロッパとラテン中世』東京、1972、P.41-42。

④ ibid.


 勿論こうした評価に関しては異論の余地もあるだろうが、ダンテ以後のイタリア文学の充実ぶりは、何人も否定しえない事実であろう。クルティウスの言うように、それ以後2世紀内外にわたって首位権なるものを保持したか否かはとも角、それ以後の堂々たる独自の地位は、それ以前のイタリアにおける俗語文学の遅れや、意欲の乏しさと考え合わせる時、一種の驚異を感じさせずにはおかないであろう。1220年代までは俗語の文学が、ほとんど空白であったこと、それ以後でもマルコ・ポーロの口述による『東方見聞録』をはじめ若干の著作 が、イタリア人によってフランス語で記されていること、また13世紀の文学的業績の中で、フランス文学やラテン文学からの翻訳や紹介が少なからぬ部分を占めていること等 から考えて、13世紀半ばごろまでのイタリアは、明らかに文学における未開の後進地であったと見なすことが可能である。だから、13世紀の後半から14世紀の初頭にかけての時期-----ほぼダンテの生涯にわたる期間-----こそ、まさにこの未開の地で、初めて本格的な文学活動が行なわれるようになった時代だと考えても差支えないものと思われる。ところが、先にサリンベーネも観察したように、それ以前の文学活動の中心であったアルプスの彼方と、新しく文学が根付いたイタリアとでは、かなり異った環境が存在していたのであった。

⑤ B. Migliorini; Breve storia della lingua italiana, Firenze, 1966, P.47 には、単にイタリア俗語の分野で詩人があらわれなかったというだけではなくて、「ラテン語の分野でも、(イタリア人の)詩人は極めて少なかった」と記されている。

⑥  たとえば、マルコ・ポーロ『東方見聞録』、ブルネツト・ラティーニ『トレゾール』、Filippo da Novara (Philippe de Novare), Memoir (1260年ごろの作品)、名称不明のイタリア人の作品、Les quattre temps d'homme 等々。

⑦  たとえぱ、チェーザレ・セーグレおよびマーリオ・マルティの監修による、リッチアルディ版『1200年代の散文』には、およそ550ぺージにわたって、「ラテン語およびフランス話からの翻訳および模倣」が収録されている。


 つまり言葉を変えると、ほぼダンテが生きていた時代に、ヨーロッパ文学は、フランスを中心とする、概して田園的な環境から-----この場合、たとえばギョーム・ド・ロリスが『バラ物語』で描いた果樹園や小川のせせらぎを想像していただきたい -----すでに大いに都市が発達していたイタリアに移植され、イタリア中世都市という、同じ都市の名で呼ばれていても、北ヨーロッパの都市とは著るしく性格を異にした環境に、初めてしっかりと根付いたと考えることができるのではあるまいか。

⑧  Le roman de la Rose, Paris, 1974 所収の les jardin qui florissoient (102) および une riviere (104)


 その際、詩人たちは当然大いにとまどいを感じ、たとえば旅先や旅の途中で恋人を歌うなどという形で、北方と似た条件を設定して詩作を試みた例もみとめられる。しかし、実はこのイタリアの中世都市という環境が、それ以前の封建制下の田園と城砦などという環境に比して、さらに肥沃な文学の土壌であるという事実を悟るのに、才能に恵まれた詩人たちは大して時間を要しなかった。そしてダンテこそ、この新しい文学の環境に潜んでいた可能性を、最も豊かに開拓した詩人の一人だったといえるのではあるまいか。囚みにダンテは、地獄を「火の都市 (la città del fuoco)」 「赤熱の都市(la città roggia)」「ディーナの都(la città di Dite)」 などと呼び、地獄の門の銘文の一行目にも、「我を過ぎて、憂いの市中(nellà citta dolente)に至る」 と記したのであった。この都市という環境、特にイタリア中世都市という環境の持つ交学的素材としての豊饒さの内にこそ、イタリア文学の飛躍的発展の秘密があったといえるのではないだろうか。そしてこの可能性を切り開いたいう事実にもとづいて、私はダンテの時代をヨーロッパ文学史における一つの曲り角と考えたいのである。

⑨ たとえば、カヴァルカンティは、リッチァルディ版『1200年代の詩人』第2巻 (Poeti del duecento, Milano・Napoli, a cura di Gianfranco Contini, Tomo II) 所収の作品29で、トゥールーズにおいて恋人に似た婦人を見た時の感慨を歌い、作品30では逆に、トゥールーズの婦人を偲び、また、その作品35は、亡命先で作られたものだと伝えられている。ダンテの場合、『新生』第9章の第5ソネットなどがその代表的なものといえるであろう。また『神曲』そのものが、旅先で作られているという性格を常に有していることは注目に価するであろう。

⑩  la città del fuoco (Inf. X, 22)

   la città roggia (Inf. XI, 73)

     la città di Dite (= la città c'ha nome Dite) (Inf.  

        VIII, 68)

⑪  Inf. III, 1. 以下「神曲」その他からの引用は、特に必要な場合を除き大体の意訳と原文の出典を明記することにとどめたい。厳密な本文を必要とする論文とは異なり、本論の引用は大意を伝えるだけで充分と考えられるからである。


 ところで、ダンテがイタリア中世都市という環境で見出した、最も稔り豊かな素材の一つとして、「家」あるいは「家族」に関連のあるもろもろの事象があったと考えることは、至極妥当な事柄のように私には思われる。何故なら、農奴出身の商人や職人を主体とした北方の都市とは異なり、封建領主たちが所領との関係を維持したまま居住し、あるいは富裕な農民ほど先に移住したとか、領主に反抗した農奴には移住を許さなかった などという事例がみとめられるイタリア中世都市の場合、たとえ市民とは一口に言つても、一族や出身地との結びつき-----それは北方ではむしろそこから逃れようとされ勝ちだった-----が、きわめて強固に保たれていたと考えられるからである。こうした予測にもとづき、私は本論において、ダンテの作品、とりわけ『神曲』において、「家」あるいは「家族」に関係のある様々の事象がどのように扱われ、どのような意味を持っているかを検討し、分析を加えてみたいと考える。

⑫ 「富裕な者が都市に移り、貧しい者が村落に残るという傾向があるのは明らかである」清水広一郎『イタリア中世都市国家研究』1975 東京114ぺージ。主人に反抗した者は市民として居住させないという例も同書、78ぺージの記述にもとづいている。


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