ダンテの「家」3


ダンテの作品における「家」の意味


3.『神曲』における「家」と個人



 前章で見たとおり、ダンテは、家柄や門閥から独立した個人の徳性こそ、その人の価値を決定するという説を、一貫して主張しているわけであるが、現実のイタリア、あるいはフィレンツェにおいて、家柄、門閥等、「家」の持つ意味は極めて重大であった。そして、理想家ダンテの確固たる信念にもかかわらず、認識者ダンテは、そうした現実をはっきりと把握していた。そのことは、彼が自らに関して記した箇所を見ただけでも明らかである。

 先ずその例として、『地獄編』第19歌における、ジェーリ・デル・ベッロをめぐるやりとりがある。その箇所でダンテは、中傷分裂を策した罪人たちが罰せられている光景を余りにも長い間見つめていたため、ヴィルジリオの注意をうける。それに対して彼は、「私が今じっと眺めていた / あの谷の底で / 当然あそこへ落されるに価する罪のために / 私の血縁の一人が泣いているにちがいありません」ということばで弁解する。するとヴィルジリオは、「今後そいつのことで / くよくよと心を悩ましてはいけない / 他のことを考えて、そいつはあそこへほおっておけ / 何故なら私は橋のたもとでそいつを見たんだから / 彼は指でお前をはげしく脅かす様子を示していた / ----- 」といってダンテを慰める。それに対してダンテは、「ああ先生、それは一族の恥でありながら / 彼の痛ましい死を / まだ誰も復讐してやっておりません / そのことは彼を怒らせており、だから私の思うには / 私に声もかけずに去ったのです / それ故いっそう私には彼が哀れでなりません」と述べている。

①  Inf. XXIX, 18-21.

②  ibid. 22-26.

③  ibid. 31-36.


 おそらくこの場合、「今後そいつのことで / くよくよと心を悩ましてはいけない」というヴィルジリオのことばは、そのままダンテ自身の理性の声であったと取ることができるであろう。しかしいくらふり払おうとしても、「指で ----- はげしく脅かす様子」をした彼の姿はダンテにつきまとい、声をかけられなかったが故に、いっそう哀れをそそられたのであった。ここで注目すべきものは、「目を酔わせ / 立止って泣きたい思いにさせた」というこの罪人を取り巻いている地獄の湿っぽい暗さであるように思われる。こうした感じは、たとえばウリッセやカパネーオなどの周辺には全く感じられないもので、単に刑罰の重さにもとづくものではなく、復讐を当然のこととみとめ、それを期待している、中世市民のはげしく重苦しい精神を表象しているものといえるのではあるまいか。それは、門閥や家柄を否定する、トマスやグィニツェッリ等の明るい啓蒙的な精神とは対照的な暗さであるともいえよう。物一つ言わずに立去った親族を、それ故にいっそう痛ましく感じるという機微に通じた表現を行ったダンテは、その理念とする啓蒙的な主張にもかかわらず、こうした中世の市民の暗い心情を共有していたという事実をみとめざるを得ないであろう。その心情を共有するかぎり、彼はジェーリに対してうしろめたさを感じざるを得ないのであり、その霊魂を想像する際には、周辺には湿っぼい暗さが取り巻かざるを得なかったのだ。

④  ibid. 22-23.

⑤  ibid. 26.

⑥  ibid. 2-3.


 しかし、ダンテがもっと率直に自分の家に関する意識を表現した箇所が他にある。それは『天国篇』におけるカッチァグイダとの対話で、彼はそこでこの名誉ある先祖と対面した時、家柄や血統を誇ることが愚かだという年米の主張を、いとも簡単に自分が裏切ってしまう様子を描いている。

 「ああ、血統にもとづくつまらぬ高貴さよ / もし、我々の感情が誘惑に陥りやすいこの地上で / 人々が汝のことを誇ったとしても / 私は決してそれを不思議だとは思わないだろう / なぜなら欲望が脇道にそれるはずのないあそこ / つまりあの天上において私はそれを誇りとしたのだから

⑦  Par. XVI, 1-6.


 その後彼は、voi という敬語でこの先祖に話しかけたために、べアトリーチェに笑われている始末である。勿論これらは多少戯画的な表現であって、その点は配慮せざるを得ないのであるが、やはりダンテがこのような想像を行っているという事実は当然考慮すぺきものであると思われる。つまり認識者としてのダンテは、血統を誇る人々の存在を、無理からぬものと考えていたわけである。

⑧  ibid. 10-15.


 ところで、ダンテが天国で出会った相手が、祖父の祖父という、極めて遠い(勿論一面識もない)先祖であったということも、私には興味深く感じられてならない。勿論ダンテがこの場景を設定した際、その念頭には必らずやヴィルジリオ(ウェルギリウス)作『アエネーイス』中のエネーア(アエネーアース)が父アンキーゼ(アンキーセス)に出会う場面があったに違いない。ところが、エネーアは父に会っているのに対して、ダンテは祖父の祖父に会ったため、カッチァグイダが果たした役割はアンキーゼのそれに近いにもかかわらず、二つの出会いの性格は極めて異なり、カッチァグイダのことばは、中世年代記風の性格を色濃くおびることになった。それは歴史上全く無名であり、しかもダンテと一面識もない遠い先祖の一人であるカッチャグイダという人物に、アンキーゼの役割を果たさせるためには、多くの具体的事実による説明が必要だつたからに他ならないのだが、その説明そのものが、実はダンテの歌いたかった素材を含んでいたのであった。それと同時に、このように遠い関係を支えることができたということ、またこうした試みが無理なく受け入れられたらしいということ自体、ダンテ自身も共有していた、この時代の市民の強烈な同族意識を証明しているといえるのではないだろうか。

⑨  ウェルギリウス『アエネーイス』第6巻の記述と比較していただきたい。


 そういえば、『神曲』の中にも、エネーアとアンキーゼのような父と子の関係が描かれていないわけではない。それは『地獄篇』第10歌に描かれた、グイド・カヴァルカンティの父親の姿である。「彼は私の周囲を見まわした / まるで私といっしょに誰かがいないかを見ようとでもするように」「もし君が / その才能の高さのおかげで、この盲目の牢獄を行くのならぱ / 私の息子はどこにいるのだ

⑩  Inf. X, 55-56.

⑪  ibid. 58-60.


 一見この姿や質問はいかにも唐突に思われるかも知れないが、その背後に、エネーアとアンキーゼとの対面を重ねあわせると、全く自然なものであることがわかる。哀れなこの父は、自分の息子の生死さえも見失っているくせに、滑稽にもアンキーゼの役割を演じようとしていたのであった。第一の友の父親を使ったこの本歌取りは、余りにも悲痛で残酷であるが、やはり我々にダンテが生きていた時代の社会について若干の示唆を与えていてくれるといえなくもないだろう。つまりそれは、少くともフィレンツェでは、アンキーゼとエネーアのような恰好良い親子は存在しえなかったということであり、そんな真似をする人間は辛らつな嘲弄の対照とならざるを得なかった、ということではないだろうか。逆にいえば、互いに相手の一族のあらを探し合って生きているフィレンツェのような都市において、アンキーゼの役割を果してくれ、しかも他人の嘲笑をこうむらないで済む先祖を探すためには、祖父どころか、祖父の祖父までさかのぽらねぱならなかったということになるであろう(山口秀樹氏によって紹介された、ダンテとフォレーゼとの間で交された一連のテンツォーネなどによっても、そのことは推察できる)。そういえば前章で、先祖の忘却が「高貴さ」の原因になりうるかという、一見馬鹿馬鹿しいと思われる問題にダンテが検討を加えているのを見ておいた筈である。要するに、いかに理想家としてのダンテが個人の徳性を重視していたとはいえ、認識者としてのダンテは、自分が一族の一員であるという現実をどうしても無視しえなかったわけである。

⑫  山口秀樹「ダンテとフォレーゼの喧嘩詩」イタリア学会誌第21号、1972、京都。


 それを端的にあらわしていると思われるのは、ファリナータがダンテを見るなり、「まるで馬鹿にしたように」たずねたという、「お前の先祖(li maggior tui)は誰だったか」という質問である。その後も、ダンテ個人のことなどは二の次で、もっぱら仇敵の一派の子孫の一人としてダンテと話しており(勿論その過程で、ダンテの追放の予言が行われるのだが)、一方ダンテの方でも心得えたもので、「あなたの御子孫(vostra semenza)が安息を見出されますように」とあいさつしている。これは主にダンテの個人としての才能について弁じるブルネット・ラティーニのことばと好対照をなしている。C・T・ディヴィスは、その著『ダンテとローマの理想』の中で、ブルネット・ラティーニとの出会いが、丁度『天国篇』におけるカッチァグイダとの出会いと同様、『地獄篇』の中心であるというパローディの説を、同感の意をこめて紹介している。その点には何の異論もないが、私はすでにファリナータがラティーニ同様ダンテの運命を予告していて、両者のことばが相互補完的な関係にあることに注目したいのである。つまりファリナータは、一族の一員としてのダンテを相手に、歯に衣を着せずその苛酷な運命を予告し、他方ラティーニは個人としてのダンテのすぐれた才能の理解者として。好意的に将来の指針を与えている。そしてカッチァグイダは一族の長老らしく、両者を綜合した形でダンテを指導していると見なしたいのである。

⑬  Inf. X, 41.

⑭  ibid. 42.

⑮  ibid. 94.

⑯  C.T. Davis; Dante and the Idea of Rome, Oxford, 1957, p.88.  彼はこの説を illuminatingly ということばと共に紹介する。出典は、E.G.Parodi; Poesia e storia  nella 'Divina Commedia' 1920, pp.270, 303-5 だという。


 ここでダンテには特殊な才能があったことを考慮して考えると、普通の人間の場合、家族の一員、一族の一人としての要素は更に大きかったと当然考えるべきであろう。たとえば「法律が、貴族を単なる一個人としてよりもむしろ、一家族集団の一員と目したことが観察されるであろう」ということばがあるが、『神曲』に描かれている人物を見る場合にも、単なる個人としてよりは、むしろ彼らの属する一族の一員と見なすべきなのではないだろうか。

⑰ D・ウェーリー・森田鉄郎訳『イタリアの都市国家』1971、東京、209ぺージ。


 そうした観点に立つ場合、先ず注目すべき例は、当然『地獄篇』第5歌におけるフランチェスカ・ダ・リーミニとの対話であると思われる。ここで忘れてはならないことは、この対話こそ、ヴィルジリオとの対話を除くと、ダンテと霊たちとの間で交された、始めての対話らしい対話だということである。そして案内者のヴィルジリオとの対話の持つプロローグ的な意味を考慮すると、結局この対話こそ、霊たちとの対話の真の開幕だと考えることができる筈である。その意味で、ここで交されたことばは、読者(あるいは朗読の聞き手)に対して、この作品の性格を知らせるという、重要な役割を担つていたわけである。さて、そこでダンテが、相手たちの正体を知つた時、フランチェスカに対して行つた質問とは、「しかし言つて下さい、廿い吐息をもらしていた時 / 愛は何にもとづき、どのようにして / 相手のはっきりしない気持をそれと悟ることを許してくれたのですか」という極めて率直なものであった。

⑱  Inf. V, 118-120.


 先程述べた観点に立つ場合、ここで特に重要な事柄は、ダンテがたずねフランチェスカが答えたのは、単に恋人たち間だけの秘密にとどまらず、一応過去の話であるとしても、やはりかってのマラテスタ一族の醜聞であり秘事であったという事実である。つまりダンテは、結果的には恋人たちに極めて同情的で好意的な表現を行ったものの、『神曲』における、霊たちに対する最初の質問で、いわばマラテスタ家の堅固な城壁や、物具などに包まれている、一族の秘密をあばいて見せたのであった。

 英語には「戸棚の中の骸骨(skeleton in the cupboard = 外聞をはばかる家庭内の秘密)」という、まさにこの場合にうってつけの表現があるのだが、どうやら実は冒頭に示したサッカレーのことばあたりから用いられたものらしく、残念ながらそれに対応する適当なイタリア語が見出せないのであるが、ダンテがやつてのけたことは、まさしくマラテスタ家の戸棚の中の骸骨を持ち出し、白昼、衆人環視の中にさらすような振舞いであったともいえるであろう。そしてまたこの「戸棚の中の骸骨」に対する好奇心こそ、「人々の混合(la confusione delle persone)」が盛んで、高祖父の生れた時代に比して人口が五倍にも増加したと記されているように、他のヨーロッパ諸国では類を見なかった都市化現象を体験したイタリア中世都市の市民たちが、最も強い関心抱いた対象であったと考えても、大きな見当違いとはならないであろう。この点で注目すべきことは、ダンテが18才のころ、多分事件の2年前に、パオロがフィレンツェのカピターノ・デル・ポーポロを5ヶ月つとめているという事実である。したがって、この醜聞は、フィレンツェ市民の間で、今私が述べているように身近な、同市民の事件のように取沙汰されたと考えることが可能である。したがって関心の持ち方はあくまで具体的なものであった。

⑲  The Macmilan Book of Proverbs, Maxims, Famous Phrases, 1965, New York によると、このことわざの出典は、W.M. Thackeray, Punch in the East (1845) 中の "There is a skeleton in every house,"  および同じ作者の The Newcomes Ch. 55. (1855) "They have a skeleton or two in their closets, as well as their neighbours,” あるいは Collins, The Queen of Hearts, p.62 (1859) 中の、”Our family had a skeleton in the cupboard.” だとされている。ただし O.E.D. によると、同様の表現は、同時代人の口語的表現としてすでに用いられていたらしいということである。

⑳  Purves によると、segreta onta di famiglia と意訳されているにすぎない。また他の英伊辞典にも大同小異の説明がついているだけである。おそらくイタリアでは、家庭の秘密は骸骨になるまでは持たなかったものと思われる。

㉑ 「人々の混合」は Par. XVI, 67. それは「市の不幸の源」(principio fu del mal della cittade )であった。また人口の5倍増は、ibid., 48.

㉒  Singleton; Companion to The Divine Commedy, 1975, Harvard U.P. p.40~41.


 おそらく、フランチェスカの告白が『神曲』という作品の成功のために果した役割には、量り知れぬものがあったことをみとめねばなるまい。もつとも、ダンテは今日のジャーナリストのように、この秘密をさぐるために、その関係者に取材しているわけではないであろう。むしろ世間に流布している噂の内、もっとも真実に近いと思われるもの、あるいは詩の題材に適したものを取捨して書き上げたわけで、秘密の告白という形式で、一種のフィクションが作られたことをみとめねばなるまい(もっとも、これ書くために、特別な関心で様々な噂を収集したことは当然考えられるのだが)。そしてこの秘密というフィクションを構成させているのは、告白という形式であり、とりわけ、「二人きりでした(soli eravamo)」ということばである。注目すべきことは、まさにこうした種類の、秘密の打明け話であること強調することばが、『神曲』の中に何度も用いられているということである。

㉓   Inf. V, 129.


 たとえば、『地獄篇』第12歌(110~112行)の「あの金髪のもう一人の男は / 実は、現世にいたころ / 極道息子に絞め殺されたオピッツオ・ダ・エスティだよ。」における「実は(per vero)」、あるいは『地獄篇』第18歌(57行)で、ヴェネディーコ・カッチアネミーコが述べた「この淫らな話が、現世では何と語られているか知らないが」ということば(N・サべーニョは、「妹に関して、ヴェネデーコがこんなこと〔つまり侯爵の意に従わせるために連れこんだこと〕に同意したとはとても信じ難いので」というフィレンツェの無名氏の註釈を紹介している)、『煉獄篇』第5歌(135~6行)「私の死の模様は、先に私に指輪を与えて、私を娶った男が知っています(つまりは彼だけが真相を知っている)」などということばは、そうした意味の表現の代表的なものといえるであろう。つまりこれらの表現は、エスティ家の父親殺し、カッチァネミーコ一族の妹の人身御供、パンノッキエスキ家の妻殺し等が、全て一族の秘密というとばりに包まれている「戸棚の中の骸骨」だということを証言しているわけである。また、今例にあげた引用の内、ヴェネディーコ、ピーア、あるいはフランチェスカの場合、いずれも性に関係があるということは、こうした性質の秘密こそ、特に厳重に監視されねばならなかったことを暗示しているのではないだろうか。それに較べると、意外にも泥棒たちの獄に落とされていて、そのためにダンテがめざとく、『地獄篇』第24歌(128行)で「いかなる罪がこんな下まで彼を突き落としたかをたずね給え」と述べている、ヴァンニ・フッチの聖具泥棒などは、まだしも秘密の程度の低い罪だったといえるかも知れないほどである。

㉔  N. Sapegno の監修による『神曲』Firenze. 1958, Inf. p.208 の註釈による。


 要するに、個人の存在が、一族の一員という要素と強固に結びついているという当時の状況は、個人の告白がそのまま一族の秘密の暴露でもあった。しかも、「アルプス以北の都市と違って、半封建的世界 mondo semifeudale であり、外観においても、防備を施した家や塔においても、さらに住民の好戦的風習においても、都市を都市外の農村の貴族的、封建的生活に結びつけているきずなを想起させるような環境」であったイタリアの都市では、こうした詮索の目は、自分たち市民の間のあらさがしだけにはとどまらなかった。その視線はマラテスタ家のような権力者の屋内にも容赦なく向けられたし、同様にして、国外の更に高位の王侯貴族や大領主の邸内にも注がれたのであった。その典型的な例が、『煉獄篇』第20歌の40行から123行におよぶ、フランス王家の先祖、ユーグ・カぺーのことばだと言えるであろう。

㉕ オットカール 清水・佐藤訳『中世の都市コムーネ』1972, 東京 32ページ。


 彼は(史実に反しているそうだが)、「私はパリの肉屋の息子であつた」などと、子孫が聞いたら目をむいて怒りそうな告白をした上、子孫たちの悪業をあばき立てて憤慨している。こうした状況の設定および、そのすぐれて具体的な表現の背後には、ダンテが生まれかつ育ったイタリア中世都市における、個人を一族から切りはなして考えることができない当時の習慣と、貴族が封建的特権をにぎったまま市内に住んでいて市民の好奇の目にさらされていたという状態が、それらの基盤として大きな意味を持っていたに違いないと私は考えたい、さらにはダンテがコムーネから領主制へと移行しつつあったイタリアの大勢の中で、独自の動きを示していたフィレンツェ市民であり、しかも人一倍自尊心の強い詩人であったという条件が効果的に作用していることはいうまでもないであろう。つまりこうした状況や条件の幸運な積重ねがあったからこそ、『神曲』は「芸術によって実現された中世の全体的な世界」となりえたのではないだろうか。

㉖  Purg. XX. 52.

㉗ デ・サンクティス 池田・米山訳『イタリア文学史・中世篇』257べージ。


(以下の部分において、『神曲』にあらわれた「家」の習俗(復讐、供養その他)を具体的に取り上げて考察すると共に、「家」が『神曲』という作品の構成において果している重要な役判を明らかにする。そして一見矛盾しているかに見えるダンテの個人重視と、一族意識との落差が、実はイタリア中世都市の市民の地位の特殊性のあらわれであること確認すると共に、文学がイタリア中世都市という新しい環境で獲得した成果について考える。)


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