ノヴェッラ1


イタリア・ノヴェッラの森への案内 

ノヴェッラの起源と『ノヴェッリーノ』


米山  喜晟 


ジョヴァンニ・ボッカッチョ  & 『デカメロン(1492年版)』 



イタリア・ノヴェッラの森への案内



 本稿は、1993年3月に刊行された『イタリア・ノヴェッラの森』の序文として発表された、イタリア・ノヴェッラの小史です。同書は鳥居正雄氏と米山との共著で、平成4年度文部省科研費によって刊行されました。




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 まずイタリア・ノヴェッラはどのように発展して来たかを簡単に眺めることによって、本書に収録された多くの資料の原典の前後関係を位置付けるとともに、それら相互の間の関連についても基本的な事実を示しておくことにしよう。しかしまだノヴェッラという言葉自体も日本ではそれほど耳に熟しているとは考え難いので、そのより学問的な定義や考察は後の『ノヴェッリーノ』の紹介の部分で試みることにして、やや曖昧で決して論理的とは言えないが、イタリアの古いノヴェッラの現実に即した、ある英語のイタリア文学辞典の定義、というよりはむしろ一種の説明を示して我が国の読者の理解の参考に供したい。


 その出典が伝統的文学(寓話、騎士道長編詩、滑稽物語)、民間伝承(民話、おとぎ話)、または聖書、聖者伝、教訓実話をふくめた宗教関係の文献にまで及んでいる、豊富で多様な文献に遡及される散文形式。その物語は広範囲から集められ、短く、時間と行為の統一という概念に準拠した記述形式に書き改められて、単一のプロットと直接的な語りのスタイルを持っている。その公認された意図は、読者を楽しませることと、啓発し教化することである。その登場人物は主に商人階級または支配階級であるが、人生のあらゆる分野の出身者である多種多様な登場人物が、日常生活のドラマを舞台にして表現されている。(D. Dutschke, Dictionary of Italian Literature, Connecticut 1979, P.360)


 実はイタリアのノヴェッラの作品集は当初ごくまばらに現れるだけで、到底森等と呼べるほどの密度をもっていなかった。この後『ノヴェッリーノ』紹介の折りにもう一度触れることになるが、イタリア語で散文が書かれるようになったのも、他のヨーロッパ諸国に比して決して早い訳ではなく、ノヴェッラに関しても同様で、イタリア語で書かれた最初のオリジナルなノヴェッラ集はかって『古譚百種』という凝った名前で杉浦明平氏によって翻訳された『ノヴェッリーノ』という作品であるが、それが書かれたとされているのは、ようやく13世紀も末ごろのことに他ならない。しかしそれ以前に他のあらゆる文学シャンルの場合と同様に、他のヨーロッパ諸国(特にフランス)や東方の作品の紹介や摸倣から始まった。たとえば13世紀のすぐれたユダヤ人の学者でアルフォンソ王の侍医でもあり、王から自分の名前を与えられたペトルス・アルフォンソ(スペイン名ペドロ・アルフォンソ)の手でなったとされる『賢者の教え(伊藤正義氏が『静岡大学教育学部研究報告』に連載しておられる翻訳の題名。原題の直訳は『聖職者の訓練』)』や中世ヨーロッパに広く流布していた『七賢人の書』『チェスの遊戯』『いにしえの騎士の物語』等々がそうした作品である。それらの見本としてこの後に鳥居氏による『七賢人の書』の翻訳を収録している。

 こうしたヨーロッパ中世文学、特にランチャロット(ランスロー)を中心とする円卓の騎士の伝説等の遺産を吸収し、とりわけ「エクセンプルム」と呼ばれる、聖職者が説教の際に信者を教化するためのたとえ話を特に頻繁に素材として用いながら、すでにそうした教化的目的から独立して文学的自律性を獲得し始めたイタリア最古のオリジナルなノヴェッラ集が誕生し、それがすでに記した『ノヴェッリーノ』である。この作品はかなり短いが『デカメロン』同様、100個のノヴェッラから成り立っている。10のテーマから成り立っているという説もあり、そうだとすれば一層『デカメロン』との類似が強まる。この作品集については、本書で一応の紹介と作品の要約を行っているので、それを読んで頂きたい。作者はフィレンツェ人だとされているが、皇帝フェデリーコ(二世の可能性が高いが、一部一世もまじっている。どちらとも判定し難いのが実情だが、それらの中には第21話のような異色の傑作も含まれる。是非要約を読んで下さい)が度々登場し、北イタリアの封建領主の宮廷もよく出て来るので親ギベッリーニ党(皇帝党)的知識人の手によって書かれたと想像し得るが、確証はない。

 13世紀の作者不明の作品で、聖フランチェスコの逸話を集めた『小さき花々』の出現に続いて、13世紀の末から14世紀にかけてイタリア半島特にフィレンツェでのグェルフィ覚(法王党)の優勢化や俗人修道団体の増加等に伴い、キリスト教信仰と関係の深い作品集、ドメニコ・カヴァルカの『教父たちの生涯』やヤコポ・パッサヴァンティの『真実の改悛のための鏡』等の作品が現れ、それらの中にはノヴェッラと呼ぶことも可能な作品が含まれている。しかし厳密な意味でそれらの作品をノヴェッラと呼ぶことには、抵抗が感じられよう。純粋な意味でのノヴェッラ集は14世紀半ばの『デカメロン』まで待たねばなるまい。 




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 日本人でも知識人なら誰でも知っているジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313~1375年)の『デカメロン』の出現は、まさにイタリアのノヴェッラの歴史および散文の歴史に一時代を画した。ボッカッチョに対するイタリア語散文の父という呼び方は、誇張ではなくて真理なのである。

 ノヴェッラの舞台は皇帝や封建領主の宮廷、修道士達がこもる岩山等から、商人たちが活躍する都市(特にフィレンツェやナポリ、あるいは異国のものも含めた数々の港町)、外国の王達の都や宮廷等へと拡大し、人物像も多彩かつ多様となる。それらのノヴェッラを束ねている枠組も「額縁」とでも呼ぶべき精巧な出来栄えを示している。すなわち1348年にフィレンツェを襲ったペストから逃れるため7人の婦人と3人の紳士が緑の美しい郊外の別荘で、日毎に交代する女王または王の要求する主題に基づいて物語を語るというその額縁は、ペストの大流行という惨事を背景にしているために、かえって一種のユートピア的空間を築き上げている。

 こうしたことはすでに我が国でも十分読まれまた知られているのですべて省略し得るであろう。かつてこの作品は19世紀にはデ・サンクティス等によって風刺文学として読まれていたのだが、20世紀に中世イタリア都市の理解が深まるとともに、ヴィットーレ・ブランカ教授等によって「中世商人の叙事詩」としてその活力のあふれた肯定的で積極的な側面が高く評価されるようになった。1574年後にピサ大司教にまで出世するF.ボンチャーニがフィレンツェのアッカデミーアで『ノヴェッラの創作に関する講義』を行い、同じタイトルのその草稿を今日でも読むことが出来るが、ボンチャーニはアリストテレスが『詩学』でホメーロスに与えたのと同じ地位をノヴェッラに関してボッカッチョに与えており、ほとんど全面的に『デカメロン』を模範として論じている。この一事によっても、ノヴェッラの歴史におけるボッカッチョの重要さは分かるはずで、結局以後数百年のイタリア・ノヴェッラの歴史を通して、ボッカッチョに匹敵し得るようなノヴェッラ作家はついに現れなかったのである。

 ボッカッチョの『デカメロン』に続いて、フィレンツェ市民セル・ジョヴァンニ・フィオレンティーノ(年代不明)の『イルペコローネ』やフランコ・サッケッティ(1333前後~1400年)の『三百話』の出現によってフィレンツェはこの分野でも輝かしい伝統を持つことになった。セル・ジョヴァンニについてはその作品が多分1378年以後、1385年の後しばらくまでの間に書かれたらしいということと、名前によって公証人と推定され、おそらく政治的理由でフォルリに近いドヴァードラに亡命して退屈しのぎにノヴェッラ集を書いたものと想像されている。フォルリの尼僧院長の美貌の噂を慕って自分も修道士となった青年が、尼僧院長の告解師となって夜毎に二人きりで忍び会い、互いにノヴェッラを語るという額縁は『デカメロン』以上にいかがわしく好色な内容が予想されるが、そこで語られるノヴェッラは一部を除くと意外に騎士道的に真面目であり、しかも全50話の内で32話までがヴィッラーニの『年代記』を下敷にした歴史のエピソードなので、ノヴェッラ集としては腰砕けの感じがする。しかしシェイクスピアの『ヴェニスの商人』の原典(IV-1)を含む等、無視し得ない特長を有しており、オリジナル(といっても中世のファブリオーから題材を取っているのだが)なノヴェッラの中には、ファルスとして優れたものも含んでいる。純粋なノヴェッラの中には中世騎士道の理想が盛り込まれていて、ヴィッラーニを下敷にしていない部分には、優雅な中世フランス文学の影響が感じられるようである。

 他方サッケッティの作品は、短い序文の後にやはり短いノヴェッラが『デカメロン』風の額縁抜きで配列されている。『デカメロン』の影響が圧倒的だったこの時代には、こうした素朴な構成はかえって新鮮な印象を与えたはずであり、その内容も明らかにボッカッチョの影響から独立していると言える。つまりこの作品には、『デカメロン』に見られたような幻想も華やかさもなく、その舞台も大半がフィレンツェの内外に集中していて、もっぱらフィレンツェ市民の日常生活から生まれる笑いに的が絞られているのである。傭兵隊長、ミラノの暴君のベルナボ・ヴィスコンティ、外国からの旅行者を主人公にする場合でも、それらの言動はあくまで醒めた散文的な大人の目で描写されている。幸いかって杉浦明平氏によってその大半が訳されて刊行され、また全体の約三分の一が現在岩波文庫の『ルネッサンス巷談集』として刊行されているので、プロの作家の読み易い日本語で読むことができる。我が国のドキュメンタリー文学の草分けとも言える杉浦明平氏に対する中世イタリァ文学の影響を知る上でも重要なノヴェッラ集である。『デカメロン』と『三百話』については、できれば本書の続編でくわしく触れることにしたい。

 選ばれた舞台は時期的にかなり早く(だから自然に考えると書かれた時期もかなり早いものと推定される)プラート出身の公証人上がりの作者ジョヴァンニ・ゲラルディ・ダ・プラート(1367年ごろプラート、1342~1346年フィレンツェ)によって書かれた『パラディーゾ・デッリ・アルベルティ』という作品があるが、第一部はクレタ島やキプロス島への空想の旅を描き、第二部以降で、1389年5月に作者を含む一行が巡礼に出かけ、ポッピのカルロ・ディ・バッティフォッレ伯の歓迎を受けた後、フィレンツェのアントニオ・ディ・ニッコロー・アルベルティの「天国」と呼ばれる館に招かれた模様を描いたものである。そこへ実名で登場する名士達は哲学談義とともに、タカに変身したメリッサの話や馴れ合いの決闘をして互いに傷付かぬようにした(サッケッティでお馴染みの)道化師ドルチベーネの話を語っており、一種の額縁の存在からもやはり『デカメロン』の影響の下で生まれた広義のノヴェッラ集と見なすことができるであろう。しかし完全なノヴェッラ集と呼ぶには余りにも他の要素が多く構成も不統一である。

 書かれた時期の前後関係はともかく、前述の『パラディーゾ』には当時のヨーロッパ最先端の都市フィレンツェと関係が深かった作者の精神を反映して、早くもルネサンス的雰囲気が溢れているのに対して、ボッカッチョの影響に色濃く染まりながらも、恐らくボッカッチョの作品よりもはるかに古いトスカーナの中世都市の伝統を盛り込んでいるノヴェッラ集が、ルッカの薬屋に生まれたジョヴァンニ・セルカンビ(1348~1424)の『イル・ノヴェッリエーレ』という作品である。この作品とその作者については何故評判が悪いかという問題も含めて、すでに筆者は何度も論じておいたし、そのノヴェッラ集に関する部分は本書に収録されているので、是非それらをお読みいただきたい。なお155篇に及ぶノヴェッラの中には鳥居氏が深く追及しておられる、イタリアの民話的な作品もいくつか含まれていて、そうした分野の先駆的な資料でもある。いずれにしてもクリスチャン・ベックによって「暗い世界」だと評されたセルカンビの作品世界は、イタリア中世市民の心の暗い側面に関する貴重な証言であって、一見今日の知識人にとって如何にその作者が好ましくなかろうとも、そのノヴェッラの一つ一つが貴重な文化財であることを忘れてはなるまい。

 無造作に『ノヴェッレ』と呼ばれている、短い友人への手紙を序文とした以外には枠組も額縁もないノヴェッラとカンツォーネの作品集を書き残したシエナのジェンティーレ・セルミーニという作者は、セルカンビに劣らぬ曲者であり、その作品が卑猥で不道徳だという理由でセルカンビに劣らず評判が悪い。しかしイタリア中世市民のメンタリティの率直な証言者として、セルカンビの場合と同様貴重な存在である。その40篇の作品の要約がこの後本書に収録されているが、作者については1424年にペストを逃れて大変な田舎へ行ったということと、先に上げた『パラディーゾ・デッリ・アルベルティ』の作者ゲラルディの友人だったらしい(だからこの作者も公証人だった司能性がある)ということ位しか分かっていない。なおこの作品の最初のノヴェッラは、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の遠い源泉かも知れないという点でも、意外と英国やアメリカでも知られている。




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 概して15世紀はイタリア語散文の創作活動が低調になった時代とされているので、前章で挙げた15世紀初頭の前世紀とのつながりが強い作品を除くとノヴェッラ創作も低調で、まだまだ森と呼ぶに価する密度に達していないようである。ただし15世紀に入ると、イタリアではそれまで以上に古典熱が高まり、ラテン語による著述が増えるとともに、イタリア語による作品の場合でも、古典文学的な優雅さや主題が期待されるようになった。すでにそうした作品の先駆的な現れを、私達は『パラディーゾ・デッリ・アルベルティ』に見て来た。

 15世紀のラテン語熱を反映して、ラテン語で書かれたノヴェッラとして、ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380~1459)の『ファチェーツィエ(冗談集)』や後に法王ピウス二世となったシエナ生まれのエネーア・シルヴィオ・ピッコローミニ(1405~1464)の『二入の恋人の物語』があるが、前者はノヴェッラと呼ぶことすらためらわれるような短い作品が大半で、しかもその大部分が愉快な問答、巧みな皮肉、からかわれた人がからかった相手に対して答えた巧みな切り返しのことば等、実際にあった可能性が高い会話を基にして書かれている。一例を上げておこう。


 あるフィレンツェの若者が、羊毛を洗うのに用いている網をアルノ川へ運んでいた。すると一人の賢い男の子が擦れ違いざま「そんな網をもって何を捕りにいくの」とたずねたので、若者は「女郎屋の戸口に網を張って、お前のお母ちゃんを捕りにいくのさ」と答える。たちまち相手の子供は「ねえ兄さん」と叫んだ。「あんたのお母ちゃんも捕ってしまわないよう、よく気を付けてね」 どっちの返事もとても鋭い。(第265話〕


 以上の引用で全文が尽くされている。大抵はこの程度の長さだから、この本が如何に短い話で成り立っているかが分かるだろう。一部珍談や奇談の類いも含んではいるが、大半はこうした問答なので当時のイタリア人、とりわけフィレンツェ人がどんなにこうした軽妙なやり取りを好んだか、想像が付くはずである。

 他方ピウス二世の作品はその標題通りの約50ぺージに及ぶ長い恋愛物語である。話は皇帝シギスモンドがシエナに滞在した時、出迎えた4人の貴夫人中最も美しいルクレティアとドイツのフランケン地方の美男子の騎士エウリアルスがお互いに一目惚れした結果、拒む振りをするルクレティアにエウリアルスは恋文を送り続け、友人ソシアの計らいでルクレティアの窓に面した宿屋から言葉を交わし会い、騎士はやがて小麦粉の袋や飼葉用の枯草に紛れて夫人の屋敷に忍び込み、ルクレティアの夫メネラウスが不意に妻の部屋へ書類探しに来る等の危機に襲われながらも、何度か忍びあって愛を交わす。ハンガリーの騎士パコールムがルクレティアに恋して強引に近付こうとして夫に知られるといったエピソードが加わり、また夫が猜疑心に駆られて妻の窓を壁でふさいだので、二人は会うことが困難になるが、夫の従兄弟であるにもかかわらず心の広い医師パンダルスの理解等に助けられて、恋愛は何とか無事に続く。しかし皇帝がローマに向かうと、皇帝に息子のように可愛がられているエウリアルスはルクレティアにそのままシエナに止まって名誉を全うするよう勧告して出発した。しかし彼自身も憔悴のあまり熱病にかかって死にそうになる。皇帝がローマから再び北上した際、エウリアルスはシエナで夫人と再会したが、ルクレティアは皇帝の一行と共にエウリアルスが出発するのを見送った後倒れ、そのまま喪服姿で暮らし、間もなく衰弱して死んでしまう。エウリアルスはルクレティアの死を聞いて長く憔悴し、美しく賢明な公爵令嬢と結婚するまで回復しなかったという。何となく結末は男性本位のご都合主義的な印象が否定出来ないが、かなりの長さにもかかわらず一気に書かれたような情熱的な作品である。ルネサンス期の法王の一面を知るための資料としても興味深い。

 こうしてルネサンスの到来とともにノヴェッラは長さの点で二極分解を示した点が注目に値する。さらに長くなると、近代小説に転換する司能性がなかったわけではないが、結局そうした転換はイタリアでは起こり得ず、ドン・キホーテに代表されるスペイン文学の登場を待たなければならなかった。しかしそうした試みの片鱗と呼べるような作品はない訳ではない。

 たとえばやはり同じころのフィレンツェで、有名な建築家フィリッポ・ブルネッレスキが大工グラッソを相手に行った悪戯の数々を、市民達が書き継いで最終的にアントーニオ・マネッティ(1423~1497)がまとめたものとされているのが、『大工グラッソのノヴェッラ』である。『デカメロン』のカランドリーノのような愚か者ではない、一人前の腕の良い職人グラッソが、ブルネッレスキの巧妙で執拗な悪戯のお陰で自分のアイデンティティーを見失って自分を他人だと信じてしまうまでの過程の描写には、見方によっては個人とは何かを探求し、その不確かさを実証している現代のテーマ小説のような凄みや無気味さが認められ、従来のノヴェッラの限界を超えた作品だと言えなくもない。

 他方フィレンッェで生まれたアルロット・マイナルディという名物司祭の言行を書き留めたのが『教区司祭アルロットの名言と冗談』である。この司祭はフィエーゾレの荒れ果てた教会を任されて立派な管理によってそれを再建したり、フィレンツェ商船隊の従軍司祭となってヨーロッパ各地を航海するなど豊富な経験に恵まれた市民の敬愛の的であったが、友人の公証人がその言行を記録し始め、何人かの手で転写され補足されて出来上がったのが、今日の作品だとされている。題名からも分かる通り言葉による冗談が中心だが、ある程度プラクティカル・ジョークも含まれている。頓知の才に恵まれた聖職者の伝記的作品だということで日本の一休禅師(1394~1481)の生涯を基にした一連の一休咄と似ていなくもなく、二人の生きた時代もアルロットが1396年から1484年と偶然二人の90才近い生涯が85年もの間重なっている。この作品が生まれたのはアルロットの死の直後、1485年から1488年の間とされているので、長期間かけて生まれたとされ戦国時代以後の咄本に数えられている『一休咄』『一休諸国咄』『一休関東咄』等よりはずっと早く書かれたと考えることが出来る。以上二つの作品はもう少しでピカレスク小説に発展し兼ねないところまで、ノヴェッラが発達していたことを証言しているが、やはりその一歩手前に止まっていて、その一歩の差が決定的だという印象が否めない。勿論これらの作品は、それ自体固有の価値を持っていることはいうまでもないのであるが。(百万遍・創刊号所収の拙稿『一休とアルロット』を参照)

 以上15世紀に書かれた異色の作品をまず紹介したが、やや時代順が前後しているものの、『ノヴェッリーノ』以来の伝統に忠実なノヴェッラ集にも今日の評価に耐える優れた作品が残されている。その中でも最もよくまとまり内容的にも興味深い作品は、通称マズッチョ・サレルニターノの作品として世に知られているトンマーソ・グァルダーティ(1410年頃~1475年)の『イル・ノヴェッリーノ』である。この作品については簡単な粗筋や構成について後に紹介しているので、それを読んで戴きたい。この作品にはボッカッチョ流の額縁はないが、皇太子妃にあてたプロローグの後、それぞれ短い献辞を最初に付した50個のノヴェッラが並んでいて、最後に作品全体に話し掛ける体裁のエピローグが付されている。各作品の献辞の相手は、ナポリ王以下、貴族、高位の聖職者、貴夫人等で、それらの人々をまとめると一種の疑似宮廷が現れる。作者がサレルノ領主の秘書を勤めた小貴族で、アラゴン王家の宮廷に出入りしたという事実が、こうした枠組に歴然と反映している。後に示している通り、筆者はこのように『デカメロン』流の額縁ではなくて、このような枠組が利用されているという事実も重要な意味を持っているものと考えるものである。また作者は庶民よりも貴族を大事に考えていて、貴族が無知な庶民を騙すという、封建貴族が強力で、市民階級の発達が遅れた南イタリアでは当然と言えば当然な筋書きがしばしば現われる。さらに注目すべきことはマズッチョの作品がその死の直後(1476年)に刊行されているという事実で、いよいよノヴェッラが印刷術によって流布される時代が到来したことを示している。要するに初期のジャーナリズムが誕生し、書き手を要求し始めている訳である。こうした需要が生じた場合に、一種のパターンや型の存在は極めて便利であり、ボッカッチョ流の額縁はまさにそうした役割を演じた可能性が十分に考えられる筈である。これ以後の時代にこうした額縁や枠組を持つ作品が一挙に増えて、ようやく「ノヴェッラの森」と呼ぶことができる状況が生まれるが、恐らくこの時代の要請が影響しているものと思われる。

 まさに今述べた状況を反映しているのが、1478年にボローニャの市民サバディーノ・デッリ・アリエンティ(15世紀中頃~1510)が書き上げ早くも1483年に刊行された『ポッレターネ』という作品である。この作品は、ボローニャの領主となったベンティヴォーリ家の傍流の貴族であるアンドレーア・ベンティヴォーリ伯と共に、ボローニャ郊外のポッレッタの温泉にやって来た人々が、近くのアペニン山中の牧場で四日間にわたって互いに物語をして楽しむという『デカメロン』の影響の顕著な枠組を持ち、61篇のノヴェッラから成り立っている。ここでも領主ベンティヴォーリ家の賛美を通して、イタリァ文化全体の貴族主義化、再封建化の影響が顕著に感じられる。しかし後で紹介する通り実際の作品自体は、理髪師をめぐる話、裁判を妨害する若者の話等、市民生活の一こまを描いた作品が多く、事実時たま現れるメロドラマ風の大袈裟なロマンスよりも、肘鉄をくらわす娘の短い返事等、実際の生活から生まれた軽妙なエピソードの方が生彩に富んでいる。作者が如何に宮廷人を気取っていても、庶民の出であることを感じさせる。




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 すでに見た通り15世紀の最後の四半期に入った頃から、イタリアでも印刷術によるノヴェッラ集の刊行が普及して、いよいよ「ノヴェッラの森」と呼んでもおかしくない状況が生じ始める。特に16世紀に入ると、一挙に作品は増加して、まさに大小様々のノヴェッラ集または単発のノヴェッラが繁茂し始める。

 16世紀のノヴェッラは通常ナポリのラテン語によるノヴェッラ作家ジローラモ・モルリーニによって始まったとされている。この作家のことは彼自身が序文で行った、自分は貧しい法学者だとする簡単な自己紹介以外のことは何一つ分かっていない。その作品は序文の後に81篇のノヴェッラと20篇の民話と1篇の喜劇を掲載していて、額縁を有しておらず、1520年に印刷されている。彼のラテン語は余り上手ではないそうだが、フビーニによって、彼は16世紀にラテン語でノヴェッラを書いた唯一の作家だとされている。唯一かどうかはともかく、すでにこの時期にはイタリア語の散文が立派に確立されていて、ラテン語でノヴェッラを書く必要がなくなりつつあり、その点ではナポリ在住のモルリーニはイタリア全体の傾向から遅れていたようである。しかし民話を多数含み、また民話やそうした傾向のノヴェッラによってストラパローラの作品の先駆となっている点では、時代を先取りしていたことも否定できないであろう。表現手段では時代の潮流に遅れつつも、内容的には時代に先駆けているという点で、辺境的作品の典型とも言え、十分今後の検討に値する作家だと思われる。

 フランチェスコ・マリーア・モルツァ(1489~1544)はモデナ生まれの人文主義者で詩人でもあり、ベンボ等著名な人文学者とも交際して、妻子をモデナに残したまま主にローマで過ごし、100篇ものノヴェッラを書いたと伝えられるが実際には未完のものも含め6~7篇のノヴェッラを草稿のまま残して死んだ。それらのノヴェッラは彼の死後間もなくボローニャやルッカで印刷されたとされている。英国の王女が父から結婚を迫られ、逃亡して仏王子と結婚したが、義母から殺されかかりローマヘ逃れ、夫と再会して幸福になる話が最も有名である。

 モルツァ同様16世紀の初頭のローマと縁が深かった作者の一人にローディ生まれ(生年不明)のマルコ・カデモストがいるが、彼は聖職者でローマで長く暮らし、法王レオーネ十世と極めて親しかったとされているが、不運にも1527年のドイツ人傭兵によるローマの大略奪「サッコ・ディ・ローマ・(コーマ荒掠)」の際に居合わせたため、書き上げていたノヴェッラ27篇の内6篇しか救うことが出来なかったと書いている。1544年に刊行した『ソネットとその他の詩作』にそれらのノヴェッラも収録したので、今日まで残っている。それらの作品は凡庸で、はるかに下手な文章で『デカメロン』流の悪戯や偶然の出来事を短いノヴェッラに仕上げている。

 もう一人上記の二人と共にレオーネ十世の宮廷に出人りしていたのは、ヴェネツィアで1485~90年に生まれたブレヴィオで、1514年からローマに住み、1524年以後チェネダ(今のヴィットーリオ・ヴェーネト県)の教会参事会員やアルクァー(パドヴァ県)の筆頭司祭に就任して「ローマ荒掠」の惨事を免れた。1542年に法王庁の高位聖職者としてローマに戻り、1545年『リーメ(韻文)と俗語の散文』を刊行したが、その中には哲学的論文等と共に6篇のノヴェッラが収録されていた。バンデッロが後にまた採り入れるマズッチョの作品に似た母子相姦の話やマキァヴェッリの「悪魔王ベルファゴール」を剽窃したらしい作品を含み、この作者もオリジナリティが乏しいようである。

 モルツァ等と同様人文主義者でノヴェッラを書き残した人々は少なくない。たとえばあの有名な近代政治学の父でもあり、ルネサンス期最大の歴史家の一人でもあったニッコロ・マキァヴェッリ(1469~1527)が、大悪魔が、男はみんな女が原因で地獄に落ちて行くという事情を確かめに来るという大変愉快なノヴェッラ『悪魔王ベルファゴール』を書き残しているのをはじめ、多くの大物の人文主義者達が筆のすさびとして1~2篇のノヴェッラを書き残していることが、注目される。

 以下でまずそうしたノヴェッラで少し遊んだ文人や人文学者の例を挙げておくことにしょう。ただしそうした文人の中でも、ノヴェッラ的な題材を自作の長編詩の中に採り入れたアリオストや『廷臣論』の中で対話者に結構良く出来たノヴェッラを語らせているカスティリオーネのように、他のジャンルが関係しているケースは、話が複雑になり過ぎるので一応ここでは省略して、純粋なノヴェッラの形式を取っているもののみを扱う。

 メディチ家のフィレンツェ領主化に抵抗してフランス王フランソワ一世の宮廷に亡命し、時にはその外交官となったり、フィリッポ・デステの秘書を勤めたりした後フランスで客死したフィレンツェ出身の人文主義者ルイジ・アラマンニ(1495~1556)はまさにそうした作者の典型で、多くの詩作の余技としてフィレンツェ人らしい歯切れの良いイタリア語でかなり長いノヴェッラを唯一篇だけ書き残している。それは家同士の和解のため結婚する予定のトローサ伯の姫が、夫となる筈のバルチェッローナ伯の息子が手から落ちそうになったザクロの実の一粒を受け止めて口に投げ込むのを見て、相手が貪欲だと思い込んで結婚を拒否したため、バルチェッローナ伯の息子は宝石商に化けて彼女に近付き、ダイヤの指輪を贈って相手の心を捕えて駆落ちし、彼女に様々な試練を課して復讐した後、自分の正体を明らかにして幸福な日々を送ったという、『デカメロン』(X-10)のグリセルダの試練に少し類似したノヴェッラである。爽快な散文や奇抜な発端は、作者の豊かな才能を示している。

 ルッカで生まれてファルネーゼ家出身の法王パオロ三世の腹心として、あまり長くない生涯でフォッソンブローネの司教を始め、ローマやマルカの知事という要職を歴任したジョヴァンニ・グイディッチーニ(1500~1541)もまさにノヴェッラで楽しんだ作者の一人で、多くの詩作品と共に唯一篇のノヴェッラを書き残している。それはブレッシャの学生がパドヴァで恋人を得たが、帰国している間に友人に恋人を奪われたので友人を殺すと、かつての恋人を取り戻すどころかかえって訴えられ、故郷に逃げ戻って間もなく死ぬという、一種の心理ドラマである。

 1526年シエナのゴンファロニェーレ職を勤めたか、さもなければメディチ家のコーシモ一世の元でピオンビーノの知事だったかも知れないとされ、実際にはシエナ市民ということ以外ほとんど何も分かっていないジュスティツィアーノ・ネッリも、二篇の「愛のノヴェッラ」を書き残しているが、その一つはセルミーニ流のある若者が人妻への恋のためにその夫を騙す話である。

 こうした唯一篇の作者の中で格段に重要な存在は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の原作者の一人として余りにも名高いルイージ・ダ・ポルト(1485~1529)である。かつて筆者はこの作者について、唯一篇のノヴェッラによって不朽の名を残した幸運な作者と記したが、そうした見方はあまりにも一面的で大きな誤解の産物だったことをここで白状しておかねばならない。少なくともダ・ポルト自身は自分が幸運だなどとは毛頭思っておらず、また客観的に考えても彼こそむしろストイックに自分の運命を受け入れた悲劇の主人公そのものであったことを認めざるを得ないようである。まさにカスティリオーネの『廷臣論』から抜け出たような紳士だと評され、当時ウーディネのある婦人と恋愛関係にあったとされているヴィチェンツァ出身の理想的な騎士の身にその悲劇が生じたのは、彼が26才の時カンブレー同盟をめぐる戦いでフリウーリ地方に従軍して皇帝軍と戦っていた際、その場を撤退してヴェローナに向かおうとしていた直前にほんの小さな小競り合いに巻き込まれたためだったとされている。彼はこの時偶然首にうなじに達する重傷を負い、回復することのない負傷者としてその後の生涯を生きなければならなかったとされている。したがってフビーニによると、ロメーオとジュリエッタの悲劇は、恋愛事件よりも人間の運命の不確かさを主題としているものだとされている。そうだとすればダ・ポルトはその痛ましい生涯によって彼のノヴェッラの主題を得たわけで、たとえ後世に名を留めたとはいえ、幸運どころではなかったということになる。セルミーニ → マズッチョ → ダ・ポルト → バンデッロ → シェイクスピアと続く系譜の中で、ダ・ポルト以後突如悲劇性が深化している所以の一つはこうした作者と主題との深い関わりによっているのかも知れない。また内容の展開においてもこの系譜はダ・ポルトでほとんど完成の域に達していることを後の二人は認めなければならないだろう。なおこの作者はノヴェッラ以外にも自分の戦争体験について何通もの書簡を書き残していて、少なくとも質的には16世紀の代表的な散文家の一人に数えることが出来る。




5


 フビーニはすでにダ・ポルト等について筆者がこれまでも何度も引用して来たウテット版の『16世紀のノヴェッラ』の序文(当然簡単な16世紀ノヴェッラ史となっている)において、16世紀を代表する4人のノヴェッラ作家として、(筆者が便宜上生年順に並べると)マッテオ・バンデッロ(1485~1561)、アーニョロ・フィレンツォーラ(1493~1543)、アントン・フランチェスコ・グラッツィーニ(通称ラスカ1503~84)、ジャンバッティスタ・ジラルディ・チンツィオ(1504~73)の名前を列挙している。幸いフィレンツォーラを除く3人のノヴェッラ集については、筆者がいずれも研究ノートと粗筋を発表し、それらを本書に収録する予定であるので、ここでは簡単に触れるだけに止めておきたい。

 フビーニが挙げた4人の作者の中で最も年長者であるバンデッロについては、わが国においても一部杉浦明平氏等の翻訳が行われ、また『ロミオとジュリエット』の原作者としてノヴェッラ集全体の英語訳も行われている、いわば英語圏では古くから別格に知名度の高い作者である。勿論彼に関する研究ノートや作品の要約は本書に収録されているので、それらを通じて基本的な事実を知っていただきたい。ただしこうしたバンデッロの国際的知名度は、イタリア人の文学者達のへそまがりな心理を意外と逆撫でするものがあるようで、その芸術的評価に関しては文学史等で様々な意見を読むことが出来る。特に彼がトスカーナ生まれではなく、今日でも語学的には辺境扱いされ易いビエモンテ(当時はロンバルディーアの一部とされていたが)の出身で、そのため用いられているイタリア語にも言葉にうるさい批評家達には不満を感じさせるものがあったことは確実である。その点生涯フィレンツェで過ごして、際立ってシャープなトスカーナ語を駆使出来たグラッツィーニと対照的である。しかしバンデッロには翻訳によって目減りしない凄みのある内容があり、そうした点でセルカンビと共通した豊かさがある。事実芸術的に批判する人々の中には彼の作品の年代記的側面だけしか認めようとしない人もいるようである。なおバンデッロはマズッチョの献辞による枠組をさらに発展させて、各ノヴェッラの前でそれが語られた状況に関するくわしい説明を行っていて、それらの集合体が一種のユニークな枠組を形成している。これはイタリア戦争当時の北部イタリアに出現していた多元的世界の表現とも考えることが出来るだろう。これ以上のことは研究ノートにまかしたい。

 筆者はその文学史的重要性を十分認識して指摘していたフィレンツォーラに関しては、残念ながらまだ筆者自身のノートも作品の要約も作製していないが、本書の続篇には是非加えたいと考えている。フビーニは恐らく作品の成立時期やさらにそれ以上に重要なポイントであるノヴェッラ集としての特性等を考慮して、フィレンツォーラを4人の筆頭に挙げ、フィレンツォーラ、ラスカ、バンデッロ、ジラルディの順に論じている。事実フィレンツォーラには筆頭に挙げられるべきさまざまな特性があった。

 その内でも特に重要だと患われる2点を示すと、まずピエトロ・ベンボによって代表される14世紀のフィレンツェ語を将来のイタリアの文章語の中心に据えようとする動きに対する協力者という役割で、ベンボがペトラルカ再評価に果したのと似た役割を、彼がボッカッチョに関して果していると見なされているという事実である。ただし彼はベンボのように優れた理論家ではなかった代わりに、フィレンツェ生まれの優れた文章家であったので、その役割の演じ方も大いに異なっていて、フィレンツォーラはもっぱら実践を通して、ボッカッチョ的創作の可能性を追及して手本を示したと考えることが可能である。そこでノヴェッラ創作という活動に際して、彼の作品集の特性の第二点としてボッカッチョ流の額縁を復活させ、しかもその有効性を実証することによって、その後16世紀を通じてその種の額縁の大流行を生み出したことを指摘し得る。

 以上の二つの特性は切り離せない関係にあるが、必ずしも重なり合っている訳ではないことは、たとえば悪戯や聖職者を巡る表現に関してボッカッチョ的気風が消失した反動宗教改革期のノヴェッラ作者パラボスコやジラルディでさえも類似の額縁を利用しているという事実によっても明らかである。これらの作者はそうした額縁がボッカッチョにさかのぼることをあまり意識することなく、むしろノヴェッラ作家にとって自由に採用できる既製の習俗もしくは制度のようなものとして、それどころかノヴェッラ作家の無視し得ない義務のようなものとして額縁を利用していたわけである。なお印刷術の普及によって生じた新しいノヴェッラヘの需要が、既製のノヴェッラの構成要素のコンビネーションの変換によっていとも簡単に捻り出すことが出来た、この時代のノヴェッラの集合体に一応新しい包装を施す手段としてのこうした額縁の流行を支えたことは、容易に推測し得るのではないかと思われる。

 さて問題のフィレンツォーラは1493年フィレンツェで生まれ、シエナやペルージャで学生生活を送った後、ヴァッロンブローサ修道院の修道士として確実な聖職禄を求めて1518年にローマ入りしたが、クレメンス七世時代(1523~34)にようやくベンボ、デッラ・カーサ、ベルニ、モルッァ等の文学者との交際が生じ、1525年以後偽名でコスタンツア・アマレッタと呼ばれている貴婦人の勧めで、ノヴェッラ集『愛についての談義(Ragionamenti d'Amore)』およびローマ時代の文学者アプレイウスの『黄金のろば』の翻訳に着手した。しかしその翌年コスタンツァが死去して貴重な後援者を失った。そのためか、6人の語り手が6日間話すという『デカメロン』式の額縁を設定したにもかかわらず、1日と2人すなわち8話で中断している。内容的には自分が聖職者だったにもかかわらず、女に贈り物をするという約束を破った神父への復讐とか、未亡人に教会への寄付を強要する修道士に恥を掻かせる話等反教会的気分の強いノヴェッラを含んでいて、その点でもボッカッチョの伝統に忠実である。さらに『黄金のろば』の優れた翻訳で名声を傳た上に、プラートに引退した後も『パンチャタントラ』のラテン語訳からの翻訳『動物達の談義の一枚目の皮(La prima veste dei discorsi degli animali)』という動物達を主入公とする寓話集を著して人気を博した。しかしその晩年は孤立して淋しいものであったとされている。前記の二書はいずれも動物およびその擬人化と深く関わっていて、動物寓話の復活に貢献するとともに、『七賢人の書』や『パンチャタントラ』に見られたような額縁自体それに包まれた内部のノヴェッラ展開と連動して発展する物語を構成している、完全な入れ子式のノヴェッラ集を復活させていると言えるだろう。

 しかしフィレンツォーラの未完で終わったオリジナルなノヴェッラ集『愛についての談義』の額縁は、やはり入れ子式だと見なすことは司能であっても、額縁自体は単なる人々の集まりであるに過ぎず、それ自体で読者の興味を誘うような動きのある物語を構成している訳ではない。だからそれはいわば不完全な入れ子式と呼ぶことが司能で、その点においてボッカッチョ以来のイタリア・ノヴェッラ集の伝統に忠実である。

 ハンス=イェルグ・ノイシェファーという学者はボッカッチョの創案した、筋の発展のない額縁を「より近代的」と評価しているが、ボッカッチョ以来ルネサンス期のノヴェッラ集はほぼ一貫してこうした「より近代的」で不完全な入れ子式額縁であり、実は翻訳によって完全な入れ子式額縁の実例をも示しておきながら、16世紀イタリアにおけるボッカッチョ流の不完全入れ子式額縁の大流行を引き起こしたのもこのフィレンツォーラその人であった。以下でその流行が如何に猛威を振るったかを紹介すると共に、そうした額縁を採用した16世紀の一連のノヴェッラ集とその作者達を簡単に紹介しておこう。

 まずこうした方式の額縁を採用した作者達の名前を手当り次第に挙げておくと、パラボスコ、フォルティーニ、フォルテグェッリ、ジラルディ・チンツィオ、エリッツォ、グラヌッチ、バルガッリ、コスト、マレスピーニ、グラッツィーニ(ラスカ)、ストラパローラ等がそれに当たる。それに発頭人とも言えるフィレンッォーラを加えると、すでに12人に達している。探せばまだ見つかるはずで、まさしくこの世紀に不完全入れ子式額縁が大流行したと記しても差し支えあるまい。

 ここでまず先に挙げたボッカッチョ流の額縁を利用したノヴェッラ作家の内から、特にフィレンツォーラに関係の深いトスカーナ生まれのノヴェッラ作家を紹介しておこう。たとえばシエナ生まれのピエトロ・フォルティーニ(1500頃~1562)は『人門者のノヴェッレの日々』、および『入門者の楽しい愛の夜』という前篇49話、後篇32話、合計81話の2冊のノヴェッラ集を書き残しており、それらは2人の若者と5人の婦人がある庭園で互いに愉快な物語を語るという額縁の中で語られる。

 入門者とは恋愛の秘密の入門者という意味で、作品のほとんどはシエナを舞台にした地方の市民生活に題材を得たものである。一例を挙げると、あるシエナの婦人が夫がフランドル女の愛人から習って来たフランドル語を意味も分からずに巡礼に三度も呼びかけたため、誘われたと勘違いした巡礼に突然挑みかかられて辛うじて逃れたという、外国語教育の重要さを示すのにはぴったりだが、本学の受験生勧誘のパンフレットに掲載するのにはあまりふさわしくない、実際に起こりそうな? 愉快なエピソードが含まれている。何となく息切れを感じさせる当時のトスカーナの作家の中にあって、量的には立派だがそのためかえって全貌が良く知られておらず、まだ十分には論じ尽くされていない楽しみな作家である。

 ジョヴァンニ・フォルテグェッリ(1508~82)はピストイア貴族の生まれで、コーシモ・デイ・メディチの書記官を勤める傍ら、1556年から1562年にかけて、5人の若者と5人の少女が夏の一日別荘で過ごして語り合うという額縁に11篇のノヴェッラを収め、コーシモの相続人フランチェスコ・デイ・メディチにに献じたとされている。一応その意図は「真のキリスト教徒らしく社交的な生き方」を示し、いくつかの諺の起源を解説することという殊勝なものだが、実際は極めて卑猥で下品な内容である。

 1521年ルッカに生まれ1603年に死んだニッコロー・グラヌッチは、1557年刃傷沙汰で罰金が払えずに自発的に亡命してピサやフィレンツェを放浪した後、帰国して4か月投獄され、そうした体験を基にして『隠遁者。牢獄・気晴らし』を著したが、その末尾に、5月の末に貴族達(7人の男と7人の女)がグラヌッチの獄中生活を慰めるため行った田舎の温泉場での別荘暮らしを描き、彼等の口から14のノヴェッラを語らせている。他に11篇のノヴェッラを含む『愉快な夜と幸せな昼』もある。後者にはこの当時のルッカ市民の精神状況を象徴するノヴェッラとしてポルチェッリによって高く評価された、尼僧になった恋人に会うため金庫に入って尼僧院に忍び込んだ若者が、不運にも金庫が放置されたため閉じ込められたまま死んでしまうというノヴェッラが収められている。

 1540年シエナの貴族の家に生まれ1612年に死んだシピオーネ・バルガッリもこのグループの一員と言える。彼はシエナのアカデミーとして名高いアッカデミーア・デッリ・イントロナーティ等の会員として知られた人文主義者兼法学者でアッカデミーアを賛美する演説等の業績も多く、後にはヴェネツィアのアッカデミーアの会員にも選ばれ、晩年にはカピターノ・デル・ポポロやカヴァリエーレにも選ばれて、本人は申し分のない栄誉に恵まれた生涯を送ったが、長い伝統を誇る祖国シエナ共和国がトスカーナ公国(1569以後大公国)に併合されて消滅するのを目の当りにせねばならなかった。彼のノヴェッラ集『トラッテニメンティ』は、1554年シエナが包囲されていた時期のカーニヴァルの最後の三日間に、5人の青年と4人の少女が気晴らしのために6篇の恋愛の様々な場合を決疑法的に扱ったノヴェッラを語り合うという額縁を有していて、シエナ共和国包囲の具体的な描写を行いその状況と緊迫した雰囲気をくわしく伝えている。

 しかしこのグループの中で最も文学的に高い評価を獲得していて、未完で終わっているにもかかわらず、一部の批評家からは16世紀のノヴェッラの最高の成果とさえ見なされているのは、フィレンツェの薬屋の主人でウミディ(水にぬれた、の意味)という学会でラスカ(魚のウグイの意)と名乗ったため、通称ラスカとよばれるアントンフランチェスコ・グラッツィーニの『晩餐』である。この作品とその文学性の高い額縁については後に研究ノートと粗筋を掲載しているので、そちらに解説を譲ることにしたい。いずれにせよ、フィレンツォーラが再度その有効性を示した『デカメロン』式の額縁は、トスカーナではグラッツィーニという頂点に至るまで発展を止めることはなかったのである。




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 おそらくイタリア・ノヴェッラ研究史上最大の事業の一つと見なし得る、ローマのサレルノ書店から刊行されている校訂版のイタリア・ノヴェッラ全集の総監修者としてあまりにも名高いヴィテルボ大学のエンリコ・マラート教授は、「ノヴェッラの誕生」という論文の中で「およそ16世紀の半ばから17世紀の半ば過ぎまでの問、G.F.ストラパローラ、S.エリッツォ、G.B.ジラルディ・チンツィオ、チェリオ・マレスピーニ、フランチェスコ・ポーナ、ロレダーノとブルゾーニ、サグレード・アッカデーミチ・インコンニーティ(これは個人ではなくて複数のアカデミー会員のこと)、マイオリーノ・ビザッチョーニその他多数によって、イタリア・ノヴェッラ文学界の全貌の中でとりわけ中心的な地位を占めているのは、ヴェーネトなのである」という重要な指摘を行っている。

 勿論すでに見たとおりトスカーナのノヴェッラも結構多彩な成果を挙げている上に、マラートが先に記した作家の中にはヴェーネト州の作家と限定することに抵抗が感じられる作家が何人かいることも事実であるが、マラートの指摘通りヴェーネト州とりわけその中心であるヴェネツィアが、多くの印刷所を擁して多数のノヴェッラ作家を育てたという現実は否定し難いものと思われる。だから美術史の場合と同様ノヴェッラの歴史においても、中心は徐々にフィレンッェからヴェネツィアに移動したと記しても、それほど大きな誤解を生むことはあるまい。

 こうしたヴェネッィアにおけるノヴェッラ・ブームの先鞭を切ったのは、前節でボッカッチョ流の不完全な入れ子式額縁のノヴェッラ集の作者の筆頭に挙げたジローラモ・パラボスコ(ガルザンティの『16世紀イタリア・ノヴェッラ』では1524とあるが、ガルザンティ百科事典では1514頃ピアチェンツァ~1557ヴェネツィア)だと見なすことが可能である。このヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ首席オルガン奏者等音楽家や作曲家を本業としながら多作だが凡庸な作家兼詩人でもあった作者については、本書にノートと作品の粗筋が収録されており、彼が用いた額縁やそこで行われている女性非難を巡る論議についてはそちらの記述を読んでいただくことにする。とにかくこの作者の凝った額縁を有しているノヴェッラ集が、1550年にヴェネツィアで刊行されて版を重ねたことが、ヴェネツィアのノヴェッラ・ブームの一つの契機となったと考える事が出来るであろう。あるいはその凡庸ささえもが、多くの作者の挑戦を招くという、好ましい効果を生んだ可能性がある。なおこの作者に関してしばしば指摘されるもう一つ重要な点は、そのノヴェッラの中に聖職者を扱ったものが少ないことと、またイタリア中世都市のノヴェッラの伝統的テーマとされた聖職者相手の悪戯も比較的温和な性格に変わっていることで、恐らくトレント宗教改革以後の影響ではないかと考えられている。

 フビーニは16世紀の4人の内に入れなかったが、おそらくそれに劣らず重要で興味深いノヴェッラ作家の一人がジャン=フランチェスコ・ストラパローラ(1480~1500頃ベルガモ県のカラヴァッジョ~1557)である。この作家については本書に鳥居正雄氏による紹介と作品の要約が掲載されているので、是非その部分をお読みいただきたい。なおついでにここであらかじめまとめてお断りしておくが、ストラパローラに限らずこれ以下の記述は、三原幸久先生編『ラテン世界の民間説話』(1989京都、世界思想社)所載の鳥居正雄氏による「イタリアの口承説話」によるところが多い。

 若い頃からヴェネツィアで詩人としての名声を得ていたらしいストラパローラの作品『レ・ピアチェーヴォレ・ノッティ(愉快な夜)』はパラボスコの作品とほぽ同じ頃に、やはり同じヴェネツィアでまず第一巻が出版され、大好評を博してヴェネツィアのノヴェッラ・ブームの中心的存在となった。彼もこの世紀の大多数のノヴェッラ集と同様、ヴェネツィアの貴族達がカーニヴァルを楽しむためにムラーノ島の別荘で、13夜にわたって5人ずつが語り合うという額縁を用いている。この作品の重要性の一つは、そこに収録された序話+74話中の約半数が当時の民話であり、したがって半ばヨーロッパ文学史上最古の民話集という性格を有しているという事実で、グリム兄弟よりも二世紀半も早い時期に当時の民話を記録することによって、ヨーロッパ民話研究のための貴重な資料を残している訳である。

 フビーニが挙げた4人の内の最後の一人は、ジャンバッティスタ・ジラルディ(通称チンツィオ)というフェルラーラのエステ家宮廷と関係が深い大学教授で、ヴェネツィアとの関係はそこから最も普及した第二版(初版はピエモンテのモンドヴィーから1565年に刊行)を刊行したというだけのようである。こうした点からも先に引用したマラートの説は事態を単純化し過ぎていることと、だが確実にヴェネツィアの印刷事業がイタリアの文学活動に深い影響を及ぼしていることで、したがってメディア論を抜きにしては文学史も成立し得ないことを推測させる筈である。ジラルディに関しても、本書には研究ノートとともに『エカトンミーティ(百物語)』と呼ばれながら実は113話以上におよぶノヴェッラ類の要約を収録しているので、何とかその全体像を把握していただける筈である。この作者はシェイクスピアの『オセロ』や『以尺報尺』の原作者としても名高い。ここでもボッカッチョ流の不完全な入れ子式の額縁が採用されているが、それは1527年のローマ荒掠を逃れた男性10人と女性10人とが船でマルセーユに逃れる途中に、船旅の退屈を逃れるためにお互いに一定の主題について語り合うというもので、16世紀イタリアの悲惨な状況を反映している。ノヴェッラの内容も離散した家族の再会等家族愛を強調しているものが多く、とりわけ夫婦の愛が賛美されていて、反動宗教改革後のカトリック教会の意向と合致したものが多くなっている。聖職者に対する非難攻撃はますます稀になり、内容的にはすでにパラボスコに感じられたボッカッチョ的ノヴェッラの伝統からの乖離がますます顕著になっている。

 ストラパローラ、ジラルディ等の大物がこんな風に純枠のヴェネツィア人と呼び難いとすれば、一体そういう作家がいるのかと反論されそうだが、セバスティアーノ・エリッツォ(1525~85)こそまさに正真正銘のヴェネツィア生まれでヴェネツィア育ちの貴族で、それも一族からドージェが出たような大貴族である上に、本人もセナトーレや、ドージェも干渉し得なかったとされるかの泣く子も黙る十人委員会の委員であったとされている。彼は6人の若者達が道徳的動機に基づいて互いにノヴェッラを語り合うという額縁を持つ『六日間』というノヴェッラを書き残したが、そこにはこの時代には珍しい共和制ローマ時代的な公共心が脈打っている。しかしそうした倫理観は容易に文学的才能とは両立し難いようで、この作品の場合もお説教の口調が強すぎる。しかもその多くがローマの歴史家ワレリウス・マクシムスからの翻案だと指摘されると、教育的意図は認めるとしても、やはりあまり高く評価し難いと言わざるを得ない。要するに私達はここでそうそうたる実務的経歴と知的成果の貧弱さというあの謎に充ちた矛盾に出くわす訳である。

 もう一人生粋のヴェネツィア人を挙げるならば、チェリオ・マレスピーニ(1531~1609以後)にぶつかるが、これはエリッツォと対照的ないかがわしい冒険家でスペイン軍のフランドル戦争に加わるなど、波乱に充ちた生涯を送り、詐欺師になったり、興業師になったり、政府の秘密顧問になったりしたあげく、1580年にはタッソの『解放されたエルサレム』の一部をヴェネツィアで出版して、作者を怒らせた悪人である。ペストを逃れてトレヴィジャーノの別荘にこもった人々がノヴェッラを語り合うという、まさに『デカメロン』そっくりの額縁を持ち、202話を含む『二百話』を書き残すが、その半数以上は当然予想されるように、『サン・ヌヴェル・ヌーヴェル』やドーニらの作品の剽窃で残りの99篇が当時の歴史事件等を題材としたオリジナル作品だとされている。悪人にも弱点はあるようで、せっかくの興味深い題材が十分料理されていないという批判を受けている。ただし剽窃の仕方等に関してはまだ研究の余地が残されているようである。そういえばシェークスピアでさえ見方によっては剽窃者である以上、この作者にもまだまだ考察の余地は残されている。

 ボッカッチョ的額縁が大流行した16世紀にも、バンデッロのように額縁を用いず、枠組を拡大させてそれに代えたり、いろいろと新形式を試みた人も少なくはなかったが、その中でも抜群にユニークな存在はアントン=フランチェスコ・ドーニ(1513フィレンツェ~1574パドヴァ県モンセーリチェ)であった。彼もフィレンツェ生まれでありながら、各地を転々としたあげくヴェネツィアの領地であるパドヴァのモンセーリチェの見捨てられた塔に住み着いて、夜な夜な裸で出没して「ドーニかしてくれ」と言われたとか言われなかったとか伝えられる、この時代特有の一種の怪人で、よく言われるアレティーノ以上にジャーナリストの先駆者の名にふさわしい人物であったとされている。多才で多作な彼の作品中最も評価の高い作品は『大理石(マルミ1553)』と題された作品で、人間の言葉が分かる小鳥がフィレンツェの大聖堂サンタ・マリーア・デル・フィオーレ教会の大理石の階段上から盗み聞きした会話を伝えるという、極めてユニークな額縁を有していて、その内の一篇ではコペルニクスの地動説が弁護されているそうである。文章は洗練されたフィレンツェの言葉で記されていて、極めて明晰に記されている。先の作品以外にも、『カボチャ(愚か者の意)』等ユニークな興味深い作品を書き残している。

 奇妙な才人と言えば、医師でありながら文学者としてフランスでフランソワ一世の宮廷に出人りしたり、ドイツを経てトレント宗教会議の開会に立ち会うなどした後、イタリアでも各地を遍歴して、時にはルクレツィア・ゴンザーガ公妃の秘書なども勤めながら、ラテン語やイタリア語で様々な著述を行ったオルテンシオ・ランド(1512頃ミラノ~1554ヴェネツィア)もその一人で、『キケロー批判とキケロー弁護』『さまざまな動物の死に際して著者達の弔辞』『女性美に関する対話』等の興味深い作品が多く、また1544年から1548年の間にトーマス・モアの『ユートピア』を刊行したことでも名高い。『さまざまの作品(Varii Componimenti 1552)』という著書の中に枠組抜きで14篇のノヴェッラが収録されている。なお彼の作品は1554年恐らく彼の没年に禁書目録に加えられた。彼は『デカメロン』の否定者としても有名で、ここでも生得の批判精神を発揮している。

 『セレンディッポ王の三人の若い王子の遍歴』なる書物をペルシャ語から翻訳したと称する、クリストーフォロ・アルメーノなる人物も正体不明の人物で、1577年にヴェネツィアからその書物を刊行したトラメッジーノなる人物の動きが何となく怪しく感じられる。この作品は『七賢人の書』等東方の説話が復活したものとも言えるもので、この書が版を重ねたという事実は、イタリアでこの種の東方の空想的な物語が求められていたことを示している。

 ベストセラーと言えば、その一つにナポリの人トンマーソ・コスト(1545~1613頃)の『イル・フッジローツィオ(暇潰し)』なる書もその一種で、8人の男と2人の女に8日間にわたってごく短い小話や笑い話の類いを語らせているこの作品は、当初(1596)ナポリから刊行されたが、再版はヴェネツィアで行われ、立て続けに16版を重ねたという。きりがないのでこのあたりで16世紀を切り上げることにしよう。




7


 ルネサンスはまだ北ヨーロッパではまさに最盛期を迎えつつあったが、そろそろイタリアでは過ぎ去ろうとしていた時期に入ったので、筆者が文部省科学研究費補助金一般研究(C)で担当した「中世・ルネサンスのノヴェッラ」という範囲から大幅にはみ出してしまわぬよう、以後の記述は(あまり大きな声では言えないが、ほとんど前記の鳥居氏の解説の受け売りでもあるので)必要最小限度に止めることをお許し戴きたい。

 すでにイタリア・ノヴェッラに民話が採用されつつあった事情に関しては、セルカンビの作品にいくつかそうした傾向の作品が認められることや、ストラパローラの作品『愉快な夜』の半数以上が民話であったという事実を見たが、17世紀に入るとますますその傾向が強まり、画期的な成果を生むに至っている。17世紀当初を代表する作品にジューリオ・チェーザレ・クローチェ(1550~1609)による『ベルトルドとベルトルディーノ』(1606)である。この作者はボローニャに近いサン・ジョヴァンニ・イン・ペルシチェートに鍛治屋の子に生まれ、早く孤児となりやはり鍛冶屋である叔父に育てられたが、ボローニャの名門ファントゥッツィ家の愛顧を得て、ヴァイオリン(の前身?)あるいは竪琴の演奏に秀でていたため歌物語の歌手に転向して各地の宮廷等で人気を博したものの、二度の結婚で14人もの子供が生まれ(7人は父に先立っ)たため、家族を貧窮の状態で残して死んだという。『ディァロゴス・サロモニス・エット・マルコルピ』という12世紀のラテン語の作品を下敷にしたとされる彼の作品は、ロンゴバルド族の初代のイタリア王アルポイーノの宮廷にやって来た大頭の醜い農民ベルトルドと王や王妃や貴婦人達とのやりとり(たとえばベルトルドが王は男達に7人の妻を娶らせるとデマを飛ばして、婦人達が騒ぐ話等)を描いた短いエピソード、ベルトルドの死後その遺言で妻子を探し、息子ベルトルディーノがこっけいな愚行で王達を楽しませる話へと続いている。原作と同様対話体の形式を取っている。

 何と言ってもナポリの詩人ジャン・バッティスタ・バジーレ(1575?~1632)のノヴェッラ集『ロ・クント・デリ・クンティ』(1634~36)こそ、ルネサンスの熱が冷めて低調に向かおうとしていたこの世紀のイタリア散文の中のほとんど唯一の光明と呼ぶにふさわしい傑作だったようである。この作品についてはとりあえず本書に収録されている鳥居氏の要約を通じてその概略を掴んで戴きたい。また同氏の研究がすでに何篇か発表されているので、くわしいことはそれらを読むことが可能である。彼は青年期をイタリア各地の放浪生活で過ごして、ヴェネツィア共和国兵士としてクレタ島で任務についたりした後、1608年ナポリに帰国し、一時期マントヴァ公に仕えた以外は当時はスペインの総督領となっていたナポリ王国総督の宮廷詩人および行政官として活動を続け、多くの経験を積んでその代表作を書き上げたが、生前には刊行されなかったようである。

 『ロ・クント・デリ・クンティ』の文学的価値は別として、この作品がこれまで見て来たように翻訳を除いてはほぼ一貫してボッカッチョ流の(額縁自体は、その内部のノヴェッラの事件には影響されず、ただ語り手にその物語を語る機会だけを提供しているという)いわば不完全な入れ子式の額縁を採用して来たイタリア・ノヴェッラの伝統を越えて、額縁自体が一篇の物語であるだけでなく、その物語が内部の物語に影響されて展開するという、『アラビアンナイト』や『七賢人の書』に類したいわば完全な入れ子式の額縁を持っている点で、イタリア・ノヴェッラの歴史において画期的な作品なのである。

 しかしこの作品の持つ最も重要な点は、全50話の内で45話までが純粋なフィアーバ(おとぎ話、魔法昔話)で、残りの5話も民話に基づく物語である、という事実である。鳥居氏はこのように早い時期に民話をほとんどオリジナルな形で50篇もまとめて収録している事の重要性を強調するとともに、そこに盛り込まれた歌、踊り、遊戯や習俗の記録としての風俗史的価値をも指摘しているが、確かにそうした点でも当時のヨーロッパに類を見ない、前近代の地中海文化を探るための最も重要な文献の一つである。

 1595年にヴェローナの貴族の家に生まれ(1655年没)パドヴァからボローニャで学んで医師となり、その傍ら文学者として創作に励んだフランチェスコ・ポーナの『ラ・ルチェルナ』もアンコーナ生まれの産婆の娘ルチェルナの体験等をエウレータという女との対話で語ったもので、本人の若返りの体験を始め、貴族の暴力や嫉妬や復讐をめぐる事件、魔術等この世紀らしい不気味な物語を詰め込んだ作品である。この世紀には前節のマラートの証言でみた通り、10人委員会のメンバーだったジョヴァン・フランチェスコ・ロレダーノ(1607~1661)や同じく名門出身でフランスやクロムウェル時代の英国への大使等高官として活躍(報告書も残している)したジョヴァンニ・サグレード(1617~1682)等ヴェネツィアの貴族を中心とするヴェーネトの人々の活動が目立つが、すでにルネサンスから遠い世界に入ったという印象が強いので、このあたりで切り上げることにしょう。

 しかしどうしてもこの世紀のノヴェッラ集として無視し得ない作品に、ポンペオ・サルネッリ(1649~1724)の『ポジリケアータ』がある。プーリア出身の神父でバーリ県ビシェッリエの司教でもあったが、むしろ幅広い知的関心を備えた教養人で、バジーレを尊敬し刊行が途絶えて忘れられかけていたこの作品を『ペンタメローネ』の標題で刊行(1674)し、その作者がバジーレであることを明らかにしたという。また自らもそのスタイルを借用して、序話と5話のフィアーバからなる作品集『ポジリケアータ』をマシッロ・レッポーネというペンネームで刊行して好評を博した。序話では作者がナポリ郊外のポジリポで食事を楽しんだ後、気晴らしに5人の女から話を聞くという構成になっているという。

 思えばだらだらと要領を得ない案内で、最後には筆者自身迷路に迷いこんでしまったようである。いや実は最初から迷路を迷っていただけに過ぎなかったのかも知れない。最後にこんなことを記すと今更何をと笑われそうだが、こうした過去のフィアーバの伝統を紹介されると、私達がかつて親しんだ『ピノッキオの冒険』や『クオレ』等19世紀の児童文学も、実は長い長い伝統の一端であったことを梧るのである。正直に言ってルネサンス期のノヴェッラから17世紀のフィアーバヘの転換の経過は、少なくとも筆者にとっては、それほど明解なものようには思えない。この辺りには文科系の研究者の知的好奇心を刺激するような深い謎が潜んでいるように思えてならない。そうでなくともナポリ文化は私達にとって一筋縄ではいかない、厄介な代物であった。鳥居さんのこの度の紹介を契機として、わが国におけるナポリ文化への関心と興味が一層深まることを期待してこのささやかな案内の結びに代えたい。


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