ノヴェッラ2



ノヴェッラの起源と『ノヴェッリーノ』




第一章 ノヴェッラとは何か


 イタリア・ノヴェッラの起源に触れる前に、ノヴェッラとは何かを考えておく。C. Segre が百科事典を例に挙げて示している① ようにこの言葉を定義することは専門家にとっても決して容易なことではなさそうだが、参考のために Battaglia の大辞典② を眺めると、過去から現代までのイタリア語におけるノヴェッラ(novella)という名詞の意味として、派生語を除き「新しい出来事」「ニュース」「情報」「噂」から「騒ぎ」「演説」「議論」「使節」「事件、問題、状況、条件」「詐欺、欺瞞」、はては「女性の性器」などを含めた「つまらない物、無価値な物」や「気取り、しな」「(複数形で)ローマ法の新勅法集」「予備の索具」「現実離れ、空しい期待」「トスカーナの諺」等を含む14の項目が立てられている。

①   C.Segre, La novella e i generi letterali, in "LA NOVELLA ITALIANA ---- Atti del Convegno di Caprarola 19-24 settembre 1988", Tomo I, Rona 1982、p,47.

② S. Battaglia GRANDE DIZIONARIO DELLA LINGUA ITALIANA, XI, Torino 1981, pp, 600-2.


 勿論ここで用いられているのは文学の一ジャンルとしてのノヴェッラなので「6. 物語、説話、(情報を与え、または楽しませたりする等の目的に基づく口承もしくは記述による)叙述、特に寓話、民話」およぴその項に追加された「滑稽で楽しい小話・挿話・逸話」「また鋭い台詞、殺し文句、冗談、一口噺」「事件の推移(劇作品とくに喜劇の)粗筋」「歴史叙述、歴史作品」「詩作品、韻文、詩」およびさらにそれを発展させ完成させた文学の一ジャンルとしての「7. 散文の叙述的作品。構造は比較的単純で幾分息が短く、概してリアリスティックで時折道徳的、教化的意図を伴って、想像上の、あるいは全面的または部分的に歴史上もしくは現実の事実を、一つの支配的な行為の筋書の中に挿入して表現する」という定義あたりが、一応それに該当するものと見なし得る。これは筆者が別の機会に紹介したアメリカの文学事典の定義とも共通した、いわば総花的に現在読むことが可能なイタリア・ノヴェッラを捉えようとした定義であるが、現代イタリアにおける代表的なノヴェッラ研究者 Segre の「最小限度の定義(una definizione minima)」③ は以上の定義とは明確な対照をなすものとして興味深く、ノヴェッラの本質を示すために紹介の価値を有していると思われる。

③  Segre, op. cit., P.48


 それによると、「ノヴェッラとは、(fabliau、lai、nove と違って)一般的に散文により、(イソップ寓話と違って)人間を登場人物とし、(fiabaと違って)実際にありそうだが、一般的に(逸話と違って)史実ではない内容をもち、(exemplumと違って)大半は道徳的目的や教化的結論を伴わない短い叙述」とされている。

 一見これは上述の定義と矛盾している印象すら与えかねたい定義のようだが、「一般的に」とか「大半は」とかの言葉で緩和されて、例外が十分に認められているので、実際には指している内容はほとんど重なり合っていると見なし得る。しかし Segre の定義はノヴェッラの持つ散文形式における先駆的な文学的自律性を取り込もうとしている点で評価すぺきものと思われる。

 ノヴェッラのアプローチには、こうした定義による方法とは別に、その特質を列挙する方法も考えられる。その中でも最も広く受け入れられている代表的な例は、Paul Zumthor ④ によるもので、簡単のため A. Varvaro ⑤ が整理して行った列挙によると 

a)語られた出来事すなわち原因と結果の複合体となり得るものの統一性。

b)行為の展開はそれ自体に戻る傾向がある.....こと。

c)..... 意味.....は、物語の水準で知覚し得る。

d)短さ。


 実は Varvaro はこれらの特質は初期のノヴェッラにも年代記類にも共通した特質と見て後のノヴェッラや年代記類と区別しているので、彼自身は必ずしもノヴェッラの普遍的特質とは考えていないようであるが、少なくとも草創期のノヴェッラの特質を捉えたものとして参考にし得るだろう。

④  P. Zumthor, Essai de poètique medièvale, Paris 1972, pp,399-400. 等が原典とされる。

⑤  A. Varvaro, Tra cronaca e novella, in "LA NOVELLA ITALIANA", p.166.


 それではこうしたイタリア・ノヴェッラが生れたのは一体何時頃のことであろうか。すでに見た通り、定義の仕方に若干の差が認められるのだが、先の Battaglia の辞典の 6. の用例にはすでに Brunetto Latini の作品の用例が掲載されていて、また『ノヴェッリーノ』にもXXXI、XL、LXXXIX 話等にノヴェッラやノヴェッラトーレという言葉が似た意味で用いられているので、『ノヴェッリーノ』成立当時にはすでに「はなし」という意味でそうした言葉が定着していたことが推測し得る。しかし後にも見るとおりそうした多くの「はなし」は、記録される事なく消えてしまい、我々の手元には残らなかった。こうしたこれまで一般に認められて来た広義のノヴェッラに対して、Segre はすでに見たとおりもう少し限定されたノヴェッラの概念を提起しているのだが、それではそうしたいわば狭義のイタリア・ノヴェッラが現われたのは何時のことであろうか。これは結局定義者の所説⑥ に従うのが最も賢明だと思われるが、それによるとすでに『ノヴェッリーノ』において、exemplum に代表される従来の単なる「はなし」から断絶した新しい文学ジャンルとしてのノヴェッラが確立されていると考えられている。

⑥  Segre, op. cit., pp.51ー2


 その証拠として挙げられているのは、かなり粗雑な要約になるが、

1)ほとんど全面的に道徳的訓戒が排除されていること、

2)特殊な細部へのこだわり、

3)精密な位置付けによって得られるリアリティーの効果、

4)殺し文句のたぐいの一語の効果、

がこの作品ですでに形成されているという事実である。このように考えるとノヴェッラの歴史は、従来よりもはるかにクリアーな形で把握されるようになったといえよう。しかしイタリア・ノヴェッラの歴史を概観するためには、筆者はあくまで従来のやや曖昧で寄せ集めの印象が強い広義の定義に従っておくことにしたい。たしかに雑多な寄せ集めの印象は否定できないが、むしろその方がイタリア・ノヴェッラの展開をたどるのに好都合だと信じるからである。




第二章 『ノヴェッリーノ』以前の状況


 すでに見た通り、ノヴェッラの定義一つ取っても研究者の間では差異が存在し、したがってノヴェッラの誕生についても当然多少は見解の違いが生じ得るのだが、『ノヴェッリーノ』をイタリア最古のオリジナルなノヴェッラ集と見なすことに関しては、ほぽ研究者間の一致が見られると考えても差し支えないさそうである。それでは『ノヴェッリーノ』が書かれたと推定されている十三世紀末以前のイタリアの状況はどうであったか。ここでノヴェッラに限らず、イタリア文学全体に関してこれまでに筆者が何度も指摘し強調して来た特異な現象を、ここでも繰り返し強調しておく必要があるように思われる。

 それは他のヨーロッパ諸国では早くも多様なジャンルが開花しつつあった十二世紀までの文学創造活動におけるラテン語の文学をもふくめたほぼ完全な空白と、十三世紀前半でさえも Federico II の宮廷とかフランチェスコ派修道士とかのごく限られた範囲を除くと文学活動は全く認められなかったという事実によって端的に示されている、イタリアの文学活動におけるかなり顕著な遅れ、およびヨーロッパ中世文学の一典型と見なし得るダンテの出現に象徴されるその後の急激な成長の二点⑦ である。こうした大きな変化がその後のイタリアの文学活動の中心となるフィレンツェの歴史と極めて緊密に結び付いていることは、すでに筆者が指摘しておいた通りであるが、イタリア・ノヴェッラに関しても当然同様の事情が関係しているのである。だがそうした問題の考察は別の機会に譲ることにして、本論では問題をノヴェッラの発展に絞って眺めねばなるまい。最初に『ノヴェッリーノ』が出現する以前の状況はどうであったのか、ノヴェッラは存在したのかどうかに関して、今日の定説を見ておく必要がある。

⑦ 拙稿、中世フィレンツェの知的生産性飛躍の時期と契機、『大阪外国語大学学報』69、1985。


 まずイタリア・ノヴェッラに関して、今日でもなお最も基本的な通史で、その地位が揺るがない Di Francia の『ノヴェッリスティカ』⑧ の記述を瞥見した後、いくつかの近年の代表的な叙述と比較して、今日一般的に受け入れられているノヴェッラの萌芽的状態について私なりのイメージをまとめておきたい。

⑧  L. Di Francia, Novellistica, Vol.1, Milano 1924, pp.1-97.


 Di Francia の『ノヴェッリスティカ』はノヴェッラ形成期のために「序 中世のノヴェッリスティカ(この言葉は辞典類ではノヴェッラというジャンル、その生産・技術等を表すとされているが、むしろノヴェッラ慨説とかノヴェッラ総論と言う意味の方がふさわしいように思われる)」および「第一章 ボッカッチョ以前のイタリア・ノヴェッラ」の二章を割いており、序章ではイタリア・ノヴェッラ誕生当時の中世ヨーロッパ全体の状況について簡潔に概観し、『バルラームとヨサファット』『カリーラとディムナ』『七賢人の書』あるいは仏教説話またはエジプトからへロドトスをとおして伝わった伝説等東洋系の説話や、Valerio Massimo の歴史上のエビソード、Apuleio の『黄金の驢馬』、あるいは Petronio の『サチュリコン』等西洋を源流とする物語群などの持つ多元性およぴ口承性を重視している。さらに特に東方起源の作品が十字軍を通してピザンチン、イタリア、スベイン経由で伝わったとし、本来口承で伝播したものと想定している。Romolo のイソップ由来の説話の普及とあわせて、Pietro Alfonso の『聖職者の訓練(伊藤正義氏⑨ は『賢者の教え』と訳しておられる)』、あるいは Jacopo da Vitry、Odo di Sheriton その他の説教師による、キリスト教の説教における exemplum (たとえ話、模範やみせしめのための実例)の利用、とくに exemplum 集としての『ゲスタ・ロマノールム』の存在等重要な事実に触れると共に重要作品を網羅的に列挙する。特にフィレンツェのガチョウの(『デカメロン』第四日の序文で語られている、父親が女性をガチョウと呼んだので、息子はそれまで見たことがなかったガチョウが最も気に入ったと言う)エピソードが『パルラームとヨサファット』を通してヨーロッパに侵入した後、聖者伝やフランスのヌヴェル、多数の exemplum、さらに後の La Fontaine に至るまで仏、英、西、伊等各国へ様々に形を変えて伝わった様子を示して、説話の伝播の一つの実例を示している。こうした説話は多くの論文や百科辞典の類にも取り入れられ、ファプリオーの原典としても役立ちフランス、ドイツ等で蓄積が進んだが、フランスで停滞した時期にイタリアで急上昇が生じたという事実を指摘した後、Di Francia は執筆に際して用いた原則や記述の限界をしるしてこの章を終わる。

⑨ 伊藤正義『賢者の教え』試訳(上)静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学篇)第41号


 続く第一章では冒頭に『ノヴェッリーノ』を取り上げて、およそ半分までこの作品の内容の紹介と出典の調査や作品の評価、写本による異勤等の解説に当てている。残りの部分で、序章で列挙した作品をも含めて当時知られていた主要作品を紹介する。『古き騎士の話』『哲学者の華』『美徳の華』『道徳化されたチェスの遊戯』『至高なるものの軽蔑』『エクセンプリの書』『十二の道徳物語』『婦人達の支配と習俗』、フランス語およびラテン語作品からの翻訳『七賢人の書』『バルラームとヨサファットの物語』、寓話集のなかのノヴェッラ等が紹介されている。

 以上がこの基本文献のイタリア・ノヴェッラ草創期に関する記述である。Di Francia の『ノヴェッリスティカ』刊行(1924~5)以来すでに約70年が経過して、個々の作品に関する研究は飛躍的に深化した反面で、ノヴェッラの草創期自体の全体的なイメージは今日の方がかなり単純化しているというのが、以上の要約を眺めた時の我々の率直な印象ではないだろうか。たとえばこの期間に『ノヴェッリーノ』に先行するオリジナルなノヴェッラ集の発見とか、すでに紹介されている『ノヴェッリーノ』以外の文献の劇的な再評価といった現象はほとんど見られない。むしろ文献批評が厳密になった結果アンソロジー等に現れるテキストは制限され、テキスト間の差別化が強まったことは確実である。特に顕著なのは『ノヴェッリーノ』の再評価と地位の確立で、筆者の誤解でなければ純粋なトスカーナ語のテキストとしてすでに Puoti の頃から認められいた重要性に比して、文学自体としての評価には、たとえば最も好意的であるべきはずの Di Francia においてでさえ、何か曖昧さを伴っているような印象が感じられたが、今日ではたとえば近年『イタリア学会誌』に村松真理子氏⑩ が論じられたとおり、時代に先駆けてオリジナリティーを実現した例外的た作品として、イタリア散文史の中で特権的な地位を占めていると見なし得るようである。

⑩ 村松真理子『ノヴェッリーノ』に見る Duecento の物語 -----『ノヴェッリーノ』第51話と『デカメロン』1-9、 『イタリア学会誌』第40号、東京1990。


 それを端的に示しているのが、C. Segre と M. Marti によるアンソロジー『13世紀の散文』⑪ で、その第三部の「オリジナルな散文」に収録されている作品は、この当時抜群に多く書かれた年代記類や科学論文を除くと Bono Giamboni の『徳と悪徳の書』『ノヴェッリーノ』『徳の華』の3編に過ぎず、その中で唯一のノヴェッラ集であると同時に興味深さにおいて他の二作品の追随をゆるさぬ比類のない地位を占めていることが分かる。A. Tartaro の「古典的説話散文論」⑫ においては、『十三世紀の敬文』でフランス語作品の翻訳とされていた Marco Polo の『百万』の扱い方などに多少ニュアンスの違いがあり、『ノヴェッリーノ』の評価もより冷静で相対化しようとしているものの、やはりこの時代の散文はこの作品をメインに据えるほかはないと見なされ、またこの時代の散文史が全体的に Di Francia の時代に比して単純化されたという印象は否み難い。こうした風潮を反映したガルザンティ版の『イタリア・ノヴェッラ』⑬ では『ノヴェッリーノ』が当然オリジナルな作品の筆頭として挙げられ、その前には『十三世紀の散文』の場合のタイトル「翻訳」と似た「翻訳および編纂物」というタイトルの下で、『聖職者の訓練(賢者の教え)』『七賢人の書』『哲学者とその他の賢人と皇帝達の精華と生涯』『道徳物語』『チェスの遊戯』の翻訳からの抜粋が並べられていて、これらをたとえオリジナルてはないとしても、『ノヴェッリーノ』に先立つイタリアの先駆的作品と見なすことが出来る。なかでも鳥居正雄氏によって邦訳された『七賢人の書』は、Sklovskij が指摘した⑭ 三種類の額縁(時間稼ぎ、旅行、おしゃべり)の内、時間稼ぎの典型的な額縁によって極めてよくまとまっている作品である。いずれにせよすでに指摘したイタリア文学全体の後進性はノヴェッラの分野にもはっきりと現れており、それ以後のキャッチ・アップの凄さはフィレンツェ人によって書かれた『ノッヴェリーノ』と『デカメロン』の二作品に見出せる。

⑪  A cura di C. Segre e M. Marti, LA PROSA DEL DUECENTO, Milano-Napoli 1959.

⑫  A. Tartaro, La prosa narrativa antica, in "LETTERATURA ITALIANA, LE FORME DEL TESTO, II. LA PROSA", Torino 1984, pp.623-713.

⑬  A cura di L. B. Ri㏄i, Novelle Italiane, Il Du㏄ento, Il Trecento, Milano 1982.

⑭ 伊藤正義、前掲論文で紹介された、谷口勇、中世スペイン語版 Sendebar -----『女の手練手管の物語』試訳ならびに研究(下)、『桃山学院大学人文科学研究』Vol.19, No2(1983)および M. Picone, Tre tipi di cornice novellistica: modelli orientali e tradizione narrativa medievale, in "Filologia e critica, Roma 1988.




第三章 『ノヴェッリーノ』の輪郭


 このように興味深い地点に位置している『ノヴェッリーノ』については、イタリアは勿論我が国でも優れた論文が発表されているので蛇足の感もあるが、本論では本章で Segre の校訂した版⑮ に基づいて具体的にその輪郭を紹介した後、次章でその成立についてフィレンツェの状況を考慮しながら考察しておきたい。Segre の版が一応序文的性格の強い1話を含めて全体100話としているので、論議の余地はあるようだがそうした形式に従う。個々の作品の内容については、付録の要約を瞥見していただくことで簡単に把握していただけるはずだが、巣たして全体としてはどういう作品が多く、いかなる傾向を持っているのであろうか。

⑮   LA FROSA DEL DUECENTO, op, cit., pp.793-881.


 後に見るとおりこの作品の作者に関して鋭い疑間を提起して、『ノヴェッリーノ』研究に一時期大きな波紋を投じた G. Favati ⑯ は、この作品のテーマを10個ずつまとめて次のように要約する。

⑯ A cura di G. Favati, IL NOVELLINO testo critico, introduzione e note, Genove 1970, Presentazione, P.29.


 1-10 正義を再確立することが可能な行為と言葉(名科白)

11-20 社会的美徳とそれを獲得させるのに適した教育。

21-30 からかい、嘲弄、冷かしの物語。

31-40 不適切な反応とその結果。

41-50 正しい理屈と欺瞞的な理屈。

51-60 不法な行為。

61-70 叡知。

71-80 失われた財産、裏切られた貪欲。

81-90 不当な死と正当た死。

91-100 恰好の悪さ、ぶざまざ、愚かさ。


 Favati によると一見感じられるよりはずっとよくあてはまるということだが、大抵の場合そう言われればそうとも取れるという程度の一致であり、しかも Favati 自身も認めるとおり枠にはまらない作品もいくつか見られる。しかしこうした分類が成り立つとすれば、日毎にテーマを変えて交互に10話を語った『デカメロン』と似た構成を取っていたことになる。

 ところで筆者は従来我が国では全く紹介されていなかったイタリア・ノヴェッラ集を紹介するに当たって、作品の中で語られている事件の舞台設定、つまりその場所と時と登場人物の出身階層を簡単な数値にまとめることによって、その作品の特徴を紹介して来た。必ずしも効果的だったとは断言し難いが、多少の参考にはなり得たように思われるので本作品に関しても、一応そうした数字を示しておきたい。ただし先ず断らなければならないことは、その後のノヴェッラ集一般とは異なり、『ノヴェッリーノ』の大抵の作品は記述が短か過ぎて、時代や階級を特定することが極めて困難であるという事実である。たとえば Segre も記している⑰ とおり、『ノヴェッリーノ』に度々登場する Federigo ですら「世界の奇跡」のフェデリーコ二世なのか、その祖父の赤髭フェデリーコ一世なのか全く記されていない。常識的には二世と取った方が無難な感じもするが、Segre や Favati は必ずしもそのように考えてはいないようである。甚だしきに至ってはC話の場合のように、Federico に関する二つのエピソードの内前半は二世、後半は一世と関連している可能性があるとされている⑱ ことすらある。だから厳密な証拠を良心的に求めて確実な事実のみを数えた場合、その結果は殆ど意味を持たない程少数になる可能性がある。そこで多少類推や解釈の余地を認めてほぼ妥当と判断し得る程度に止めてこの作品の全体像を把えてみることにした。

⑰  LA PROSA DEL DUECENTO, op, cit., p,817.

⑱  Id., p.881. ただし前半はエルサレム王 Enrico の事件とされる。


場所(総数100)

記入なし  20

イタリア  36  (国名のみ推察可能 5、

ロンパルディーア 4、 シチリア 2、 

ロマーニャ 2、  フィレンツェ 5、 

古代ローマ 5、 ジェノヴア 2、

ボローニャ 2、 ミラノ 1、 バーリ 1、

オルヴィエート 1、

2か所以上 フィレンツェ+マントヴァ 

サルデーニャ+ピサ、 マルカ+ボローニャ、

外国を含む ボローニャ+イギリス、 

イタリア+インド。  イタリア+中近束)


イタリア以外 44

フランス 10 (国名のみ推察可能 2、プロヴァンス 4、ボルドー 1、ブルゴーニュ 1、パリ 1、トゥールーズ 1)

ドイツ 1 

イギリス  8 (アーサー王伝説とヘンリー二世親子で国名のみ推察可能 7、コーンウェル 1)

ギリシャ 10 (国名のみ推察可能 8、トロイア 1、キプロス 1)

ギリシャとインド 1

エジプト 3 (国名のみ推察可能 1、アレキサンドリア 2)

古代イスラエル 6  (ガザの近く 1を含む)

中近東 5 (地域のみ推察可能 4、アクリ 1)


 今見た地名は『ノヴェリーノ』の舞台設定の中では比校的把握し易い部門である。注目すべき事実の一つは、イタリア以外を舞台にした作品の方が多いという事実である。たとえばイギリスが多いのはアーサー王伝説の舞台を一応イギリスと見なしたからである。ギリシャは古代ギリシャ人を題材にし、イスラエルは聖書を題材にしたものが大半である。こうした事実から考えても、この作品の持つ中世文学のアンソロジー的性格が見て取れるはずである。特にアーサー王の宮廷やプロヴァンスを舞台とした騎士道文学の占める比率が高く、イタリア中世都市の市民達に対するそうした感性の教科書であったことが推察できるだろう。

 時代に関してはすでに述べたようた曖昧さが最大限に達する。


古代      19

中世前期(伝説時代を含む) 8 

12世紀後半   7 (+2) ( Federigo の解釈による)

13世紀前半    17(-2) (同上)

13世紀後半    14

記入もなく推定の根拠もない   35


 記入のないものは、大体同時代もしくは何時の時代でも起こり得る普遍的た出来事といえる。この作品はエクセンプルムの痕跡が色濃く、そうした作品の比率が高くなるのである。中世前期以前、特に古代ギリシャやローマの文明、あるいは聖書を題材とした作品にもそうした性格が濃厚である。12世紀後半以降の作品は、全体の約三分の一を占めていて、この作品にユニークな色彩を与えているといえそうである。その中には Ezzelino da Romano を扱った作品のように、年代記的性格の特に顕著なものと、ファルス的でそうした性格の希薄な作品もある。両者の間には動詞の完了形と未完了形の関係に対応する関係が認められる。

 貴族をN、民衆をP、聖職者をRとして、登場人物の階層を示すと以下の通りである。


N(貴族)のみ      35

P(民衆)のみ      19

R(聖職者)のみ       1

N(貴族)+ P(民衆)           32

(貴族)+R(聖職者)      1

(聖職者)+P(民衆)      5

N(貴族)+P(民衆)+R(聖職者)   1

動物+人間  4 (内ヘラクレスのN以外はPが3)

動物のみ     1

なし           1


 聖職者はともかく、貴族と民衆の階層の判定も決して確定的なものではありえない。都市貴族や宮廷騎士に関しては、常に疑問の余地が残るようで、判定者によってかなりの誤差が生じるのはやむを得ない。しかし上記の数字はかなり鮮明にこの作品が持つ貴族憧憬的つまりスノブ的な性格を裏付けている。N(貴族)のみとN(貴族)+P(民衆)とを合わせると全体の三分の二を占めるという事実は、この作品が市民達にヨーロッパに普遍的な支配階級である貴族の価値観や在り方を教えるとともに、市民がいかに彼らと付き合うべきかを具体的に教えてくれるくれることを意味している。




第四章 結びに代えて:『ノヴェッリーノ』の作者像


 すでに見たとおり近年この作品に対する評価はますます高いのだが、今世紀後半この作品の成立、特に作者をめぐっていくつかのラディカルな問題提起が行われた。その一つは1954年に A. Monteverdi⑲ が提起した、この作品は複数の作者の手になったのではないかとする仮説であり、もう一つは Favati⑳ によるこの作品と Marca Trivignana との関係の深さに対する指摘で、最終的にはフィレンツェ人の作者の手になるとしても北部イタリア的要素が非常に強いので、ヴェネト地方を中心とする物語のコレクションが下敷になっている可能性を示唆して、一時期問題視されたものである。そこで私達は前章の数字を参考にしながら、いくつかの重要な点を指摘し、それに基づいて作者についての推察を行いたい。

⑲  Tartaro, op, cit., によると Monteverdi, Che cos' è il Novellino?, in "Studi e saggi sulla letteratura italiana dei primi secoli", Milano-Napoii, 1954.

⑳  Favati, op, cit, Presentazione.


1. この作品には宮廷人と呼ばれる職業的な物語の語り手に関するエピソードが多い。それもこの作品の中では異例な程心理的細部に立ち入ったり、内輪の話題として扱った記述が行われている。このことは一応作者自身一種の宮廷人か、その身近にいた存在だった事を推測させる。


2. この時代の政治状況から考えてやはりギベッリーニ党の中心人物だった皇帝 Federigo や Ezzelino da Romano に関するノヴェッラが見られるという事実は重要である。しかしだからと言って、そのことから単純に作者とギベッリーニ党とを結ぴ付けることは許されない。なぜなら Federigo は一世か二世かという区別が全くなされておらず、もしもホーエンシュタウフェン家に対して深い愛着や関心があれば、二人の Federigo をこのように無差別に記すとは考えられないからだ。むしろ作者の頭の中で二人がほとんど区別する必要のない状態で存在していたから、このような曖昧な記述が行われたのである。Ezzelino da Romano に関しては、すでに彼が敗北した後なので恐怖や嫌悪は多少薄れているが、やはり恐怖とともに描かれている。他方イタリア・グェルフィ党のリーダーでその再建者である Carlo d'Angiò 王についても、頻度は少ないとは言えかなり長文のノヴェッラが与えられていること、特にフィレンツェの騎士階級とこの王の宮廷との親密な関係が記されていることは注目に値する。また少なくとも当時のイタリア人にとってギベッリーニ党の重要な根拠地だったドイツについての記述がほとんどないという事実と、Carloの出身地フランスに関連した記述が多数認められることを考慮すると、作者が熱心なギベッリーニ党員だとは考え難い。ロマーニャを中心とする親ギベッリーニ的封建領主の宮廷が比較的しばしば題材に用いられているからと言って、必ずしもそれが作者の出自や政治的立場を表しているとは言えないのである。むしろ作者が執筆した素材を彼に提供した宮廷人の活動領域が、そうした領主達の小宮廷と大きく重なっていたためだと思われる。


3. さらに宮廷人自体と作者との間には一線を画す必要がある。何故なら宮廷に出入りして歌ったり語りを行うことと、読者のためにノヴェッラを記述することは、必要とされる能力も対象とされる享受者も異なり、やはり別個の活動だからである。結局多くの亡命者を生んだグェルフィ・ギベッリーニ闘争が一段落した後に成長した、やや親ギベッリーニ的な傾向の強いフィレンツェ知識人の手になった作品だと考えるのが妥当な所ではないか。 

(おわり)


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