百万遍 Hyaku-man-ben 第15号
2025年09月02日
This Side of the Lethe 6 : Inspired by Ango Sakaguchi
(岩田 強)
【執筆者による内容紹介】
今回はフォレスト・カーター論の続きを載せる心算だったが、論旨が紆余曲折して、期限までにまとまらなかった。
間に合わなければ出稿をとり止めればいいだけの話だが、第2号から続けて書いてきたので一度でも休載するのは口惜しい。一度中断したら、ずるずると書かなくなってしまいそうな気もする。そういう下心もあって、「此岸の光景」の一篇として、日ごろ愛読している坂口安吾のエッセイ「もう軍備はいらない」「天皇陛下にささぐる言葉」「高麗神社の祭の笛」から気に入った章句を引用して、コメントを添えてみることにした。大部分が安吾の文章で、ボクのコメントは刺身のツマほどしかなく、引用というより抄録と呼んだほうがいいものもあるが、安吾の文章は現在につながる重要な問題をあつかっているのに、現在では読む人が少なくなっているから、抄録や大量の引用を載せるのも無意味ではなかろう。
【執筆者略歴】
岩田 強(いわた つとむ): 1944年東京生まれ。京都大学でアメリカ文学 (主として19世紀小説)を学び、和歌山大学、山梨医科大学、京都光華女子大学で教鞭をとる。著書『文豪ホーソンと近親相姦』(愛育社)、訳書 カイ・エリクソン『あぶれピューリタン』(現代人文社)(村上直之氏との共訳)
○Roma connection nei diari femminili dal Giappone a fine Ottocento
(和訳あり)
【執筆者紹介】
Teresa Ciapparoni La Rocca テレサ・チャッパローニ・ラ・ロッカ: 元ローマ大学・文哲学部・日本学科専任講師。近世日伊関係史を中心に研究。2013年旭日小綬章。
○ 石仏あれこれ(4)
Visiting Some Stone Buddhist Images 4
○ 「講義ノートの周辺」(5)
My Lecture Notes and Others 5
「Part Ⅲ 数と計算」
○ 「正史を訪れる」(4)
On-site Inquiries into the Authorized Histories 4
Part Ⅲ 高句麗・百済・新羅の王統
○ 写真アルバムから(3)
From My Photo Albums 3
‘シリーズ A 寺社華風月 (ディジタル)’
(森 隆一)
【執筆者による内容紹介】
「石仏あれこれ」シリーズB 石仏を考える では
B4 カニシカ王 (仏像の出現)
を用意した。石仏の観点からは、次は中国以東と東南アジアとなるが、こちらは殆ど手を付けていないので、投稿はかなりさきになるだろう。
「講義ノートの周辺」Part I 高等学校数学Ⅰ幾何 では
4. 軌跡と作図
を用意した。この後は、5. 立体図形、6. 三角関数 と続く。立体図形は大学受験で数学の出題範囲から外されていたので、全く勉強していなかった。暇なときに勉強しようと思い、幾何の教科書は残していたのだが、ずっと残すことになってしまった。三角関数は少し内容が異なる。1つの学問体系を示すということは出来たと思われるので、Part 1はここで終了することにし、新たに、Part III 数と計算 を始めることにした。今回は
はじめに と 1. 自然数
を準備した。なお、図の表示が出来なくなった。機能の修復は難しく、応急処置として、図の位置は空白のままで簡単な説明を書き加えた。
「正史を訪れる」に関しては、「正史を彷徨う」Part 3 を改良して Part Ⅲ 高句麗・百済・新羅の王統 とするつもりであったが、改良は出来ず、フォーマットの変更で終わってしまった。章立ては、
九章 韓条の国々、十章 高句麗の王統、十一章 百済の王統、
十二章 新羅の王統 とした。
Part 3のために三国史記はある程度読んでいた。この内に今後引用したいものもあると思っている。これらをPart Ⅳ 三国史記 とし、フォーマットの変更程度で投稿することにした。章立ては、
十三章 高句麗本記、十四章 百済本記、十五章 新羅本記、
十六章 三国史記・日本書紀の対応記事、十七章 東夷の内政と風俗
である。最後の2章は項目をひろって並べた段階である。三国史記の挹婁・肅慎・勿吉・靺鞨に関する記事からは何かが得られるのではないかと期待している。
「写真アルバムから」については、シリーズC 寺社華風月 (白黒フィルム) C12 當麻寺1975 までを投稿した。
シリーズA 寺社華風月 (ディジタル)
A0 はじめに、A1 散見 2001以前
を準備した。なお、シリーズB 寺社華風月 (フィルム・カラー)も予定しているが、シリーズCと同じで、パソコンの環境が整ってから始めるつもりである。
【執筆者自己紹介】
森 隆一 (もり たかかず) : 1945年愛知県にて生まれる。1968年京都大学理学部数学科卒業。1970年同大学院理学研究科数学専攻終了。京都産業大学に勤務し、2015年定年退職(免職)。数学では、初めは確率論を、後半は計算可能性解析を研究してきた。
私が取得した教員免許が「英語」であるのは、まったく偶然のことと云ってよい。所属していた文学部で高校の教員免許が取れる教科は、当時「英語」「国語」「社会」の3つであったが、私はイタリア文学科という辺境な学科に在籍していたので、そのどれとも近しい関係はなかった…
The Genesis of my Digital Life (Internet Version)
「創刊号」に掲載後、書籍化しましたが、その本が絶版となりましたので、いくらか書き加えて「ネット版」を作成、再度、アップロードしました。
(福島 勝彦)
【執筆者自己紹介】
福島 勝彦(ふくしま かつひこ):1945年8月生まれ。大阪市出身。ちょうど戦争が終わったときに生まれ、以後80年間、「戦後」の時代とともに生きてきた。京都大学文学部卒業。そのあと、中高一貫の私立男子校に39年間勤務した。現在、作品ホームページ「二十世紀作品集」を開設中。http://happi-land.com/こちらもご覧ください。
Le Devisement dou Monde of Marco Polo
〜 The Collated Translation of the Seven Editions 2
IV カタイとマンジ
(1) 内陸部
フラ・マウロ図は、ヴェネツィア・カマルドリ修道会 Fra Mauro によって 1450年頃(1459年との説もある)に制作された。南を上とする正円図(直径 2m、ヴェネツィア・サンマルコ図書館蔵)で、アジア・ヨーロッパ・アフリカの輪郭と大きさが比較的釣り合って描かれていること、東方は海陸とも詳細なこと、ジパングが初めて姿を現すこと、等で知られている。
この稿の目的は、その華麗さから図が鑑賞されることはあっても読まれることはまずないそのテキストを転記・和訳して紹介することにあり、その内容の正誤、典拠、成立の歴史、他図との比較等の研究は行なわない。主たる情報源の一つであったマルコ・ポーロ の関連する章を注に挙げるにとどめる。
(高田 英樹)
【執筆者自己紹介】
高田 英樹(たかた ひでき): 1941年兵庫県丹波生まれ。京都・ピーサでイタリア語を学ぶ。ローマ・京都・松山・大阪で留学生に日本語を教える。今宝塚・丹波で再びイタリア語を勉強している。
同人誌『百万遍』第15号・編集後記
私事となるが、この8月8日に満80歳となった。毎年、この時期になると、新聞やテレビで、「○○回目の原爆の日」とか「○○回目の終戦記念日」とか喧伝されて、否応なしの自分の年齢を思い知らされるのだが、今年は、区切りよく「戦後80年」という言葉も飛び交っている。そしてまた「昭和100年」という言葉も一時は目にしたが、まもなく消えてしまった。当然だろう。いくら100年が区切りよくても、はじめの20年とその後の80年では、まったく、ちがった世界となってしまったのだから。
明治維新以来、懐に隠し持った「海外侵略」という体質が、いよいよ牙をむいて、本格的に中国大陸に向かいはじめたのが昭和の初めだった。その後、中国と本格的な戦争状態に入り、その泥沼から、欧米諸国とも対立を深めて、最後は米英に宣戦布告。当初は「連戦連勝」を誇っていたが、やがて、圧倒的な国力差を見せつけられて、敗退。最後は、日本本土のほぼ隅々まで徹底的な空爆を受けて、それこそ、「国が滅び、民族が滅亡する」寸前にまで追いつめられたのである。その間、軍人・軍属230万人、民間人80万の計310万人が戦没したと言われている。それがその後の80年では0人となった。
このような国は、もはや、ごく稀な存在となっている。1945年に「世界大戦」が終結して以後も、世界各地で戦争が勃発し、地域紛争、独立戦争、内戦、国外派兵など、ほとんどの国の軍隊が戦争に加わっていった。そんな中で、日本人は曲がりなりにも、「日本国憲法・第9条」のおかげで、いっさい戦場で戦うことなく、今日に至っている。
身近な話をすれば、80年前に「徴兵制度」がなくなった。
成人すると「徴兵検査」を受け、「召集令状(赤紙)」が来たら、軍隊に入隊しなければならない。すると、そこには「しごき」と「いじめ」が充満する世界が待っていて、場合によっては「戦場」に送り込まれる。2017年と2025年に出版された、吉田裕の『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』(中公新書)を読めば、それがどのような生活だったのかがよく分かる。
その本によると、軍人・軍属の戦没者230万人のうち、201万人が、1944年以降に亡くなったという。そして、230万人の60%以上が「戦死」ではなくて「戦病死」だった。つまり、敗色濃厚となったにもかかわらず、「和平」や「降伏」の道をさぐることなく、ひたすら「国体(自分たちの支配体制)の護持」にのみ汲々としていた軍部と当時の政府。そして、補給体制や装備の不備のため、戦闘よりも、マラリアなどの伝染病や飢餓によって生命を失う兵士の方が多かったという、おぞましい現実が述べられていた。
今後、日本がどのような道をたどるのかは不明だが、少なくとも、私たちがそのような目に遭わなかったのは、「幸運」だったと言うべきか、それを守り抜いた「努力」の賜物だったというべきか。とにもかくにも、今の姿がこれからも、できるだけ長く続いてほしいと願うばかりである。
(2025.09 福島記)